今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

シルバーラブの日

2004-11-30 | 記念日
今日(11月30日)は、「シルバーラブの日」
1948(昭和23)年、歌人の川田順氏が弟子の大学教授夫人とともに家出した。
当時、川田順は68歳で、3年前から続いた同氏の歌弟子前某大教授夫人俊子さん(40歳)との恋の行く末を悲観して、死を覚悟しての行動だったが、養嗣子に連れ戻された。川田が詠んだ「死なむと念ひ生きむと願ふ苦しみの百日つづきて夏去りにけり」とともに「墓場に近き老いらくの恋は怖るる何もなし」があり、「老いらくの恋」が流行語になった。俊子さんの歌は「はしたなき世の人言をくやしともかなしとも思へしかも悔なき」。
川田順(かわだ・じゅん)氏は、1882(明治15)年、宮中顧問官で漢学者川田剛の3男として生まれる。1907(明40)年、東大法科を卒業し、1936(昭11)年に常務理事として退社するまで実業界で活躍する。1898(明治31)年『心の華』に同人として参加。1918(大正7)年刊の『伎芸天』は浪漫的なものであったが、1922(大正11)年刊の『山海経』あたりから人生味を加える。戦時中は愛国歌人として活動し、1942(昭和17)年歌集『鷲』及び歌文集『国初聖蹟歌』で第1回芸術院賞を受賞するなど16歳から始めた和歌は13歌集を残し、他に研究書『西行の伝と歌』(1944年)など源実朝や西行の古典研究でも名を残し、1946年東宮作歌指導役も努めるが、1949(昭和24)年弟子の元大学教授夫人鈴鹿俊子との恋愛事件で一切の役職を辞任、“老いらくの恋”として話題になった。既に妻を亡くした寂しさと元来の浪漫的気質などがそうさせたのであろうが、問題は相手が大学教授夫人で28歳も年下であったことであり、混乱した氏は死を決意するが未遂に終わる。このことはかえって二人を強くし、離婚成立後、二人は40年以上住み慣れた京都を離れ、関東に居を移す。そして、この間の和歌が、1952(昭和27)年刊『東帰(とうき)』(東に帰る)という歌集に纏められた。
『東帰』には、「相触れて帰りきたりし日のまひる天の怒りの春雷ふるふ」「吾が髪の白きに恥づるいとまなし溺るるばかり愛しきものを」など、収められている歌群は氏の66歳から70歳までのもので、人妻鈴鹿俊子との恋愛から結婚にいたる煩悶の心を詠んだものである。
『虹の岬』辻井 喬(つじい たかし=堤清二氏のペンネーム)著、中央公論社刊6巻(平成6年度谷崎潤一郎賞受賞 )はこの歌人川田順氏の実話に基づいて著されたものである。又、この「虹の岬」は、奥村正彦監督により「虹の岬」(同名)としても映画化【1999(平成11)年東宝】されている。
歌人の川田順(三國連太郎)が弟子の人妻(原田美枝子)と恋に落ち、世間の非難を浴びながらも愛を貫いていく。今ならとりたてて珍しくもない話だが、50年前には一大スキャンダルとして報じられた“老いらくの恋”の物語である。
川田順ではないが、68歳になってなお、40歳の人と恋のできる人がいる。このような話は、今ではよく聞かれる。それに比べ、私たち(夫婦)はどうなのか。最近、気力が萎え、活力が失せ、とりわけ、ことさらのことに関しては急速に衰えを感じ、つくづくと年は取りたくないものだ・・・などと考えることもあるのだが・・・。皆さんは、どうですか・・・?。(川田順氏の略歴『朝日人物辞典』参照。画像は映画 虹の岬(1999年東宝)ポスター。)

議会開設記念日

2004-11-29 | 記念日
今日(11月29日)は、「議会開設記念日」。
日本の帝国議会は、前年の大日本帝国憲法(旧憲法)発布を受けて第1回帝国議会が召集され1892(明治23)年11月29日に天皇臨席のもと開院式が行われ、立憲政治の第1歩を踏み出した。議事堂は、1888年6月に起工し、国会開設目前の1890年11月に完成。洋風木造2階建てであったが、完成から2ケ月ほどの、翌1891年1月に焼失、止む得ず、現在の帝国ホテルの隣にあった鹿鳴館を貴族院、虎ノ門の工部(科)大学(現在の東大工学部の前身)を衆議院にしてその場をしのいだという。(その後再建)
この旧憲法による帝国議会は1947(昭和22)年の日本国憲法が制定されるまで続けられた。旧帝国議会は衆議院と貴族院の二院制で,貴族院は,貴族院は、公選制ではなく、皇族・華族・勅選議員・多額納税者などの特権階層の議員で構成された。衆議院は国民の中から公選された議員で組織されてはいたものの、当初は、男子制限選挙制であり、国会開設前に行われた7月の総選挙では、選挙権が直接国税15円以上を納める25才以上の男子に限られていたため、選挙資格をもつものは総人口の1.14%に限られ、その多くが地主だったという。又、被選挙権も、30歳以上の男子で選挙権と同じ納税要件を必要とするなど、選挙権・被選挙権に、きわめて厳しい制限があった。
その後、納税要件は次第に緩和され、被選挙権については1900(明治33)年に制限が廃止され、選挙権については1925(大正14)年の普通選挙法によって、完全に撤廃されることになったが、これも男子の選挙権・被選挙権のことであり、女子が初めて選挙に参加出きるようになったのは実に1946(昭和21)年の総選挙のときからである。このときになって年齢制限も引き下げられ、選挙権については20歳以上、被選挙権については25歳以上となり、やっと、成年男女による公平な普通選挙が実現したのである。
1946(昭和21)年4月の衆議院議員の総選挙後の5月に召集された第90回議会において、日本国憲法(新憲法)が成立し、貴族院が廃止され、公選議員で組織する参議院が誕生した。そして、帝国会議は、翌1947(昭和22)年3月に解散された第92回議会をもって終了し、同年5月3日、新日本国憲法が施行された。
因みに、同じ憲法でも、旧憲法では、「天皇は、帝国議会の協賛をもって立法権を行う」となっていて、旧議会が、自ら立法権を行使出来ず、天皇の立法に協力する役目だけを持つており、従って、法律案は、両議院を通過しただけでは成立せず、天皇の裁可(認める)よってはじめて法律となったのである。そして、大臣や貴族院、衆議院の議長や副議長についても天皇が任命するなど任命権もち、天皇の権限が絶対的なものであった。
だから、この新憲法の施行により、このときから、新しい国会が出発することになったのである。しかし、この日本国憲法(新憲法)が、日本人自らの意思で作成されたものではなく、連合国最高司令官示唆のもと、国内外の様々な政治的、社会的、その他もろもろの力が複雑に絡み合うなかから、作り出されたものであるため、今、自衛隊や自国の防衛問題などにおいていろいろ歪みが出てきていることは皆さんご承知の通りである。
現在の国会議事堂は、1920(大正9年)1月に着工、17年の歳月をかけ1936(昭和11)年12月に完成、現在に至っている。正面から見て左側が衆議院、右側が参議院である。
(画像は11月29日第1回帝国会議の開院式【明治神宮外苑聖徳記念絵画館壁画】絵葉書より。)
参考:
国会図書館日本国憲法の誕生
http://www.ndl.go.jp/constitution/index.html
普通選挙==⇒婦選運動(女性の公民権)
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/fusenn.htm
明治時代
http://www.coara.or.jp/~sanken/beppudic/meiji.html
メッセージ
八.明治憲法の欠陥 ... 旧帝国憲法が、司馬氏の言われるようなはっきりとした、「三権分立」のものであるか否か
http://www.seiken-s.jp/message/page08.html

税関記念日

2004-11-28 | 記念日
今日(11月28日)は、「税関記念日」。大蔵省(現在の財務省)が1952(昭和27)年に制定。1872(明治5)年、運上所の呼称を「税関」に統一することが決定された。
鎖国政策を続けた江戸時代には、長崎の出島が、日本と外国を結ぶ唯一の港であったが、幕末1854(安政元)年に結ばれた日米和親条約を皮切りに、我が国は諸外国に対し、次々に港を開いた。1859(安政6)年、長崎、神奈川及び箱館(函館)の港に「運上所」が設けられ、今日の税関業務と同様の輸出入貨物の監督や税金の徴収といった運上業務や、外交事務を取り扱うことになった。これが税関の前身である。
神戸三宮のフラワーロードを南へ下り、国道2号を渡ると、石造りの重厚な建物がある。横から見ると巨大な客船の形に見えるこの建物は1868(慶応3)年の神戸開港と同時に「神戸運上所」として開設以来、港の門番役となっている神戸税関である。「兵庫運上所」は、 先にも述べた、明治5年(1872年)に全国の運上所が税関として名称を統一されることとなったのを機に、翌明治6年1月4日「兵庫運上所」は「神戸税関」と改称された。 初代庁舎は、明治5年2月に着工し、明治6年12月に完成した石造の2階建で、海に面する正面には菊の紋章がさん然と輝く立派な建物であった。二代目庁舎は大正12年4月に着工し、昭和2年3月に完成。「帝国の大玄関番たる税関として決して恥ずかしからぬ近代式大庁舎」として新築され、外装は花崗岩とタイル張りの重厚な造りで神戸港の要としてその威容を誇った。 しかし、神戸港の歴史を見続けてきた税関も阪神淡路大震災(平成7年1月発生)により被害を受け、その修復のため、平成8年4月に着工し、平成10年11月に落成したのが三代目庁舎である。建て替えにあたっては、市民からの熱い要望があり、外観や時計塔、大正建築の吹き抜けのホールなど、二代目庁舎の姿をそのまま引継ぎ、分館跡に建設された新館の高層部は、船のブリッジをイメージし、旧館と連結して、船をイメージした神戸港の新しいシンボルとして生まれ変わっている。又、旧館1階にて「見て、触って、学んで」をコンセプトにした展示を無料で一般開放しているそうである。
王政復古の日を迎えてまだ間もない神戸三宮(さんのみや)に突発した「神戸事件」(三宮事件)をご存知でしょう。慶應4年1月11日に神戸居留地付近で西宮警備の岡山藩兵とフランス水兵とが発砲衝突した事件である。この事件については三宮神社に碑文がある。神戸事件発生の翌日、明治新政府は、1月12日に東久世通禧に「外国御用掛兵庫表各国公使談判応接之義」を命じた。15日、王政復古を告げる会談が、神戸運上所で行われ、この会談で東久世は、勅使として、天皇が将軍に変わって政権を執り、以前の条約では大君の称号を用いたところは、天皇の称号に変える旨の勅書を伝達した。また、今後、外国への暴行が為されないことを保証し、神戸事件に対する外国の要求を京都へ伝達することを約した。この布告によって、明治新政府は諸外国に承認された。この布告により、対内的には新政府がこれまでの攘夷政策から、開国和親政策に転換したことをも示すこととなり、このことはすでに、大政奉還の後からすでに岩倉具視や大久保利通などによって企図されていたが、実質的には、この事件をきっかけに実現したといえるそうだ。その後、神戸事件の決着のために東久世が各国公使と神戸運上所にて会談を行った。この事件前後の様子などは、島崎藤村 「夜明け前」に詳しく書かれており、以下参考の「島崎藤村 夜明け前 第二部上」を見ると良くわかり、面白いよ。
(画像は、北東より望んだ三代目神戸税関・・神戸税関HPより借用)
参考:
[ 神戸税関の歴史 ]
http://www.kobe-customs.go.jp/00zeikan/03rekishi.htm
島崎藤村 夜明け前 第二部上
ここに神戸運上所開設前後の状況が詳しく書かれている第二章を参照してみてください。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000158/files/1506_14587.html
税関ホームページ - 新着情報ほか、出入国時、輸出入時の税関手続きについて
http://www.customs.go.jp/index.htm
税関記念日関連行事予定
http://www.customs.go.jp/news/kinenbi.htm

mapion地図(神戸税関付近)

ノーベル賞制定記念日

2004-11-27 | 記念日
今日は、「ノーベル賞制定記念日」
1901(明治35)年11月27日、ノーベル賞の第1回授賞式が行われた。
ノーベル賞は、スウェーデンの化学者アルフレッド・ノーベル (Alfred Bernhard Nobel = 1833-1896) が遺言で、自らの発明したダイナマイトで得た富を人類に貢献した人に与えたいと書いたことから創設された。スウェーデン王立科学アカデミーに寄付されたノーベルの遺産を元にした基金168万ポンドで、1901年に民間の 「ノーベル財団」 が創設され、毎年その利子が、物理学・化学・生理学医学・文学・平和事業の5分野に貢献した人に贈られている。その後、1969(昭和44)年にノーベル財団とは別に、スウェーデン国立銀行の基金によって新たに経済学賞が追加され、現在6つの部門がある。
毎年ノーベルの命日の12月10日に、平和賞はオスロで、その他の賞はストックホルムで授賞式が行われる。
ノーベル賞といえば、戦後、敗戦で自信を失っていた日本人に大きな希望を与えた、湯川秀樹博士のノーベル物理学賞の受賞が先ず思い出される。
戦後間もない昭和24年、当時の日本はまだアメリカの占領下にあり、アメリカには全く頭が上がらない時代であった。そのような状況の中で8月、古橋広之進選手がロサンゼルスで開催された全米水上選手権大会で見事優勝を果たした。この報道は当時の我々日本人に自信をもたらせてくれた。その興奮がさめやらん11月のことだ、今度は、湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞が発表され日本中が沸いた。原子核を構成する陽子と中性子を結びつける核力を媒介する中間子理論の功績により、日本人で初めてのノーベル賞を受賞したのだ(大阪帝国大学在籍中の業績)。
戦後の日本が、学問やスポーツという世界で自信を取り戻せたのは、まさに、この2つの事件からである。当時の新聞には「ノーベル賞とはなにか」といった解説まで出ており、子供たちは急に理科好きになったと言われている。12月10日ストックホルムで開かれた授賞式。「この日、湯川博士の宿舎グランドホテルの屋上には日章旗がへんぽんとひるがえった。日本はいま博士のノーベル賞受賞によって、新しい日本が世界文化のために輝かしい一歩を踏み出したことを世界に示した・・・・」と朝日新聞12月12日付けストックホルム電では伝えている。日本人の「世界文化意識」の芽生えはこんなところから始まったのである。
その後は、1965(昭和40)年 朝永 振一郎氏が 物理学賞 を受賞して以来、1968(昭和43)年 川端 康成氏 (文学賞)、1973(昭和48)年 江崎 玲於奈 氏(物理学賞)、1974(昭和49)年 佐藤 栄作氏(平和賞)、1981(昭和56)年 福井 謙一氏( 化学賞 )、1987(昭和62)年 利根川 進氏( 医学・生理学賞)、1994(平成6)年 大江 健三郎氏( 文学賞)、2000(平成12)年 白川 英樹氏( 化学賞)、2001(平成13)年 野依 良治氏( 化学賞)と続き、2002(平成14)年には、小柴 昌俊 氏(物理学賞)、田中 耕一 氏(化学賞)と、 1年で日本人のノーベル賞受賞者が2人も出て、またまた日本中が沸いた。このときの受賞者田中耕一さんにいたっては、そのキャラクターからワイドショーの常連に、までなってしまった。このように次々と受賞者を出し、今日の日本の発展の基礎を築くことが出来たのは、敗戦下で自信を失っていた国民に大きな力を与えてくれた先人達の功績大でしょうね~。
湯川 秀樹氏は 反核運動・平和運動に積極的に携わっている。当時の多くの科学者たちの共通感情として、自分たちの研究が広島・長崎の原爆投下という悲劇を生んでしまったことを深く悲しみ、アメリカに渡った時にはアインシュタイン(1921年ノーベル物理学賞受賞)と会い、以後協力して平和活動を行った。(ラッセル=アインシュタイン宣言にマックス・ボルンらと共に共同宣言者として名前を連ねている。)
広島平和記念公園には、「まがつびよ ふたたびここに くるなかれ 平和をいのる 人のみぞここは」という湯川秀樹の歌を刻んだ碑(ひ)、平和の像「若葉」湯川秀樹歌碑がある。(※「まがつび」とは、災害・凶事(きょうじ)を起こす神のこと。)
「一日生きることは 一歩進むことでありたい」・・・湯川秀樹の有名な言葉であるが、本当に、そうあるように努力したいですね~。
(画像は、20世紀デザイン切手「湯川博士・ノーベル物理学賞」図案 は、受賞当時の肖像と中間子理論のイメージと数式部分)
参考資料
京都市名誉市民 湯川秀樹氏
http://www.city.kyoto.jp/sogo/hisyo/honor_02.html
湯川秀樹(1907-1981)
http://www.ffortune.net/social/people/nihon-today/yukawa-hideki.htm

第43代横綱: 吉葉山 潤之輔の忌日

2004-11-26 | 人物
今日(11月26日)は、第43代横綱: 吉葉山 潤之輔の忌日。
1929(大正9)年4月3日、北海道厚田郡厚田村安瀬村の漁村に生まれる 。本名は池田 潤之輔 。1938(昭和13)年に上京、高嶋部屋に弟子入り。その年盲腸で入院、吉葉庄作博士に助けられ、吉葉山と名乗る。
1942(昭和17)年5月場所、幕下筆頭で優勝、十両入りを決めたが、この年、召集され北支に転戦。1947(昭和22)年5月に復帰するまで5年間ものブランクができ、一時は戦死も伝えられた。彼にとって、22歳から26歳までの最も力のつく時期に兵隊にとられたのは本当に痛かっただろう。
1954(昭和29)初(1月)場所、初日から順当に勝ち進み、千秋楽、横綱鏡里を堂々の寄り切りに破り、15戦全勝で初優勝を遂げた。朝から続く大雪の中行われた優勝パレードは語り草となっている。そして、この年3月横綱に昇進 した。
しかし、悲運の男が、横綱昇進をした時は既に33歳9ヶ月の晩成であった。新横綱昇進の1954(昭和29)年3月場所を腎臓病と糖尿病で全休したのを始め、その後、怪我や病気に悩まされ、横綱昇進から6場所で皆勤したのは1場所だけ。1955(昭和30)年9月場所以後の4年間は綱を張りながらも、さほど目立った活躍もなく1958(昭和33)年1月場所中に引退した。
大関時代、実力第一人者として、一時は栃錦と「吉・栃」と並び称される時代もあり、その地力はかなりのものであったようだが、実績の上では優勝は1回に過ぎない。今、星取表だけ見ると、とてもそんなに高い評価を受けた力士には思えないのだが、この時代、美男横綱で地力もあり、その悲劇性ある土俵歴から人気は非常に高かった。
在位17場所中皆勤9場所で優勝もなかったが、伸び盛りの時期に召集されたのと脱臼や捻挫といった足の負傷が、悲運の横綱となった原因といえ、もし、兵役がなければ、横綱としても偉大な成績を残していたかも知れない。兎に角、凄い美男子で私も大ファンであった。
参考:
吉葉山 潤之輔(よしばやま じゅんのすけ)
http://www.fsinet.or.jp/~sumo/profile/1/19471102.htm