今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

御嶽山が初噴火した日

2014-10-28 | 歴史
御嶽山が初噴火したのは1979(昭和54)年の今日・10月28日のことだった。
(冒頭の画像は、1979年噴火の状況である。画像は国土地理院-「火山の地図」の報告書>御嶽山(PDF)[5.5MB]に、掲載のものを借用)。

木曽のナァー なかのりさん
木曽のおんたけ ナンチャラホーイ
夏でも寒い ヨイヨイヨイ

長野県木曽地域の民謡「木曽節」の1節である(全歌詞、木曽節の由来は※1参照。)。

私は、この歌を聞くと、昔見た日活映画「白夜の妖女」(1957年。※2参照)を思い出す。泉鏡花原作の『高野聖』(※3参照)を脚色して、月丘夢路葉山良二のコンビに、滝沢修大矢市次郎などのベテランが脇を固める名画である。
弘法大師の開山以来千年の間、仏教の聖地として女人禁制であった高野山が、明治5年、この禁がとかれることになった。全山の僧侶達は反対したが、ただ一人高野の聖と仰がれている宗朝老師は「自分には女人禁制などと口にする資格がない…」と、僧侶一同の前で若き頃の懺悔ばなしをはじめたところから映画は始まる。
そして、そのなかで、24歳の若い宗朝(葉山良二)は飛騨高山から善光寺に向う山中で道に迷い、やっと見出した家には、妖しいまでに美しい女(月丘夢路)と白痴の小人夫婦が住んでいた。
宗朝が一夜の宿を乞うと、女は天然の岩風呂に案内した。しかも、その美女は自分も全裸になって入浴するのだった。その夜、初めてみた女体の美に修業の身の自信を失った宗朝は、・・・・。
女性の魅力に負け一夜を共にしそうになった宗朝も我を取り戻し、女も魔性を棄てた。そして、そこから逃れる宗朝。宗朝とともに逃げようと、女は白痴の手を引いて、宗朝を待たせた崖に戻ったが間に合わず諦めると白痴をつれ、沼の真中に舟を漕ぎ出した。突然、「木曽のオ、御嶽さんはア……」と白痴がこの世のものと思えぬ不思議な美しい声で無邪気に切々と歌い出したが・・・。この映画の女を演じる月丘夢路は本当にきれいだったな~・・・。なんてそんなことはこの際どうでもよい。
山中に響く、「木曽節」。それまで私が聞いたことのある木曽節とは異なり、とても不思議な魅力があった。その時、あ〜、民謡なんて、本当はこうなんだろうな〜と、つくづく思ったものだ(正調木曽節を※1で聞くことができる)。
この「木曽節」は、木曽地域に近世から伝わる民謡であり、木曽の材木を河川に流して運ぶ「川流し」をモチーフに、木曽川や周囲の山々と人情を歌い上げており、歌詞中の「中乗り(なかのり)さん」は諸説あるが、材木をに組んで木曽川を下り運搬する人たちで、先頭を「舳乗り(へのり)」、後ろを「艫乗り(とものり)」、真ん中を「中乗り」といったというのが一般的な解釈のようである。歌詞中には「木曽五木」(江戸時代に尾張藩から伐採が禁止された木曽谷の五木、ヒノキ・アスナロ・コウヤマキ・ネズコ(クロベ)・サワラの五種類の常緑針葉樹林)が歌いこまれている。
この歌の「木曽の御岳さん」とは、長野岐阜県境、東日本火山帯の西端(旧区分による乗鞍火山帯の最南部)に位置する複式火山御嶽山のことである。
標高3,000mを超える山としては、日本国内で最も西に位置し、また、日本の山の標高順で14位の山であり、火山としては富士山に次いで2番目に標高が高い山である。
その最高峰は中央火口丘(カルデラまたは大きな火口の内部に生じた、新しい小さな火山体。)の剣ヶ峰であり、標高は、 3067m。ほかに外輪山の摩利支天山 (2959m) ,継母岳 (2868m) 、側火山(寄生火山)の継子岳 (2859m) などがある(※4参照)。山頂には、南北に一ノ池から五ノ池までの噴火口跡が一列に並び、長い裾野を形成している。
もともとは,富士山に匹敵する高さの成層火山であったと推測されており、大爆発によって崩壊した土砂は土石流となって川を流れ下った岐阜県各務原市付近の各務原台地には御嶽山の土砂が堆積しており、水流によってできた火山灰堆積物が地層となっている。この大爆発によって剣ヶ峰、摩利支天山、継母岳の峰々が形成された複成火山であり、その山容はアフリカのキリマンジャロ山に似ているといわれているそうだ。

御嶽山は、木曽御嶽山、御嶽、王嶽、王御嶽とも称されているが、山名の由来は、遠く三重県からも望め「王御嶽」(おんみたけ)とも呼ばれていた。古くは坐す神を王嶽蔵王権現とされ、修験者がこの山に対する尊称として「王の御嶽」(おうのみたけ)と称して、「王嶽」(おうたけ)となった。その後「御嶽」に変わったとされている(※5参照)。
修験者の総本山の金峯山は「金の御嶽」(かねのみたけ)と尊称され、その流れをくむ甲斐の御嶽武蔵の御嶽などの「みたけ」と称される山と異なり「おんたけ」と称されている。日本には多くの山と嶽が存在するが、近世から近代にかけて「山は富士、嶽は御嶽」と呼ぶようになり、富士山を「山」の代表として、木曽の御嶽を「嶽」の代表としてきた。
ところで、「山」と「嶽」では意味はどのように異なるのだろうか。明確な区分はないが、「山」は、単一の頂上を持つ、すっきりした山容をもつもの、反面、多くのピーク(※6参照)から構成された、連峰のごつごつした山塊を「嶽」と呼んでいるようだ(※7参照)。
木曽の御嶽山と同名の山(御嶽山・御岳山)が日本には多数あり、その最高峰である。
美しい曲線を描きながら天に向かって聳える富士の高嶺と、溶岩質のごつごつとした峰が王冠のように連なる木曽御嶽、全く異なった山容を持つ両山であるが、大きな共通点は、この二つの山が、ともに古来から山岳宗教の霊山とされてきたことであり、富士山山頂には富士山本宮浅間大社(全国の浅間大社の総本社)の奥宮があるように、御嶽山の山頂には御嶽神社(※5参照)奥社がある。
中世までの日本の山岳宗教は、修験者(山伏)とよばれる人々によって担われてきた。彼らは何十日も、ときには数年間も山々に参籠し、激しい修行(※8の精進潔斎参照)に身を挺すことで山に座す神仏との合一を目指したものであった。山は、厳しい戒律と行に耐えることのできる、限られた人々のみ入る事を許された聖地であった。
しかし、平安・鎌倉・室町の中世時代から、民間信仰が結びつき、そうした修行を積む修験者だけではなく、都市や農村に住む庶民が結成した「」とよばれる信仰集団による登山が盛んにおこなわれるようになった。こうした講中登山が最も活発であったのが、富士山と木曽御嶽であった。富士山に登る富士講と御嶽を目指す御嶽講は、修験者などだけに許されていた聖なる山を大衆化した代表的な存在といえる。但し、これらの講中は、決してレジャーのために登山をしていたわけではない。彼らも登山を通じて心身の清浄化(軽精進潔斎)を目指し、頂きに立つことにより山に座す神仏と一体化を図ろうとしていた。講中にとって山嶽の自然は、山の神仏が現前したものとされていたのであった。
こうした集団登拝は江戸時代末まで続き、1784(天明4)年、尾張の行者・覚明(かくめい)によって三岳村の黒沢口が開かれ、1794(寛政6)年には武蔵國の行者・普寛(ふかん)によって王滝口が一般民衆に開放され、これを期に木曽周辺にとどまっていた御嶽信仰(※8の御嶽信仰とは参照)が全国的な信仰へと拡大されていき、信者による集団登拝が盛んに行われ、現在も白装束の登拝者が見られる山である。
1868(明治元)年には、黒沢口8合目の「女人堂」が御嶽山で最初に山小屋としての営業を開始。1872(明治5)年に女人禁制が解かれるまでは、避難小屋などとして登拝者に利用されていてた女人堂から上部への女性の立入りは禁じられていたが、明治初期に外国人の登頂により近代登山が始まり、1894(明治27)年にウォルター・ウェストンが登頂して以降、一般の登山者にも登られるようなった。
其の後、百名山ブーム(日本百名山新日本百名山花の百名山ぎふ百山などに選定)もあって、大勢の登山者が来るようになり、山頂につながる登山道が王滝口、黒沢口、以外にも開田(かいだ)口、日和田(ひわだ)口、小坂(おさか)口の3つが開設されている。
このうち、王滝口は標高2180メートルまで車道が通じており、駐車場に車を止めて登山できる。最高峰の剣ケ峰までは約3時間の行程。ロープウエーで標高2150メートルまで登ることができる黒沢口からも、約3時間半で登頂可能。いずれも朝から登れば昼ごろに頂上に到達し、夕方に下山できることから人気があり、多くの登山者が訪れる。

御嶽山の詳細図 → 御嶽山頂より見える名山(Adobe PDF)

そんな登山者に人気の御嶽山が、今年・2014(平成26)年9月27日に噴火し、1991(平成3)年の雲仙普賢岳火砕流による犠牲者数を上回る事態となった。

上掲の画像は、動画投稿サイト「ユーチューブ」に投稿された噴火の映像。2014・09・28朝日新聞朝刊に掲載のものを使用した。

そもそも我が国は 110(気象庁、2011年)の活火山をかかえる世界でも有数の火山国であり、これまで多くの火山災害が記録されている。
以前は、死火山休火山であるとみられていたが、御嶽山の最後のマグマ噴火は、2006(平成18)年に行われた岐阜県の調査および2008(平成20)年に行われた国土交通省多治見砂防国道事務所や産業技術総合研究所の調査によれば、約5200年前の火砕流を伴う噴火を含め、2万年間に4回(約1万年前以降、約1万年前、約9000年前、約5200年前、約5000年前)のマグマ噴火を起こしているようであり、また、水蒸気噴火は数百年に1回の割合で、堆積物として残る規模のものが発生しているという。
その御嶽山が,突如噴火したのは、1979(昭和54)年の今日・10月28日のことであった(冒頭の画像参照)。
御嶽山の火山活動で、記録に明らかに示されている初めての噴火がこの時の水蒸気爆発による噴火であるが、それまでに、1976年~1978年にかけて王滝村付近で群発地震が観測されていたそうだ。
1979年の時の噴火は、10月28日に剣ヶ峰南西の地獄谷の頭部付近で噴煙活動が始まった。噴火は北西-南東方向の雁行状の火口列を生じ、約20数万トンの火山灰を噴出したという。しかし、活動は28日夕方に弱まり、翌29日早朝には著しく衰えたという。
その後地震地殻変動火山性微動 ,小規模な水蒸気噴噴火(水蒸気爆発)を繰り返していたが、今回の噴火は2007(平成19)年の水蒸気噴火から、7年ぶりのものであり、又、噴火の規模は、1979(昭和54)年の初噴火以来最大規模のものである(1979年の噴火に関してはここを参照)。

今年・2014(平成26)年9月27日の噴火での新たな火口は、1979年噴火の火口列の南西250 - 300m付近の位置に平行に複数個が形成され、最初の噴火では火砕流も発生し火口南西側の地獄谷を約3km程度、火口北西側の尺ナンゾ谷(御岳・継母岳)にも流れ下った事が観測されているという。
とはいえ、今回の噴火では、御嶽山が有史以来初めて噴火した1979(昭和54)年の水蒸気爆発の時より長い日数噴火してはいたものの、その噴火規模は、1979(昭和54)年の時と同程度とみられるが、1979年当時の噴火での死者の記録はないらしいが、今回は、なぜ、ここまで被害が拡大したのか・・・。その被害者の多くは山頂部で発見されたといわれている(死亡57人。安否不明6人)。

御嶽山噴火で死亡した人の数(2014・10.27朝日新聞朝刊より)
「火砕流も発生したが、その多くが、観光客のいない南側の谷に流れ落ちていたにもかかわらず多数の人的被害を出した要因は、噴火した日が「紅葉シーズンの土曜日、午前11時52分という噴火のタイミングと場所だった」
御嶽山は、高山植物や希少動物が生息するなど豊かな自然が魅力の一つで、特に9月下旬〜10月中旬は、8合目周辺でナナカマドなどが色づき、1年間で最も登山者が多くなる時だ。多くの登山客は絶景を眺めながら昼食をとろうと山頂付近に集結しており、噴火はそのそばで起きた。そこへ、噴石が次々に降り注いできたという(※11、※12参照)。
又、今回の噴火は1979(昭和54)年の時同様、水蒸気爆発型噴火であったが、9月10日には52回、翌11日には85回の火山性地震が観測されており、12日には気象庁は「火山灰等の噴出の可能性」を発表(ここ参照)し、各自治体にも通知したが、山の表面の膨張や火山性微動といったマグマの上昇を示すデータは観測されなかったため、警戒レベルは平常時と同じ1のままで、レベル2(火口周辺規制)には変更せず、その後地震の回数が減ったことから、自治体も注視するに留めていた。結果として登山者への喚起は特に行われず、ほとんどの登山者は噴火に対する備えや予備知識が無く、無警戒のままだった。噴火警戒レベルが3に引き上げられたのは、2014(平成26)年9月27日に噴火、南側斜面を火砕流が流れ下ってからであった(噴火警戒レベルについては※10:「気象庁・火山」の噴火警戒レベルの説明参照)。気象庁の火山課長は、「地震の回数だけで噴火の前兆と判断するのは難しい」との認識を示している(※13参照)という。
噴石・火山灰の危険については、火口から約1km圏内では、直径数cmから50 - 60cmの大きさの噴石が、最大時速350 - 720kmで雨のように降り注いだと見られているが、頂上付近は森林限界のため身を隠すような樹木はなく、避難場所となる小屋や御嶽神社の社務所などに逃げ込む前に多くの人が死傷したという。
それに、救助活動において、負傷者・行方不明者の人数が錯綜した要因として、各施設に設置されている登山計画書(登山届)提出箱への投函や警察機関への提出が任意であったことなどがあったとされている。
今回の被害拡大の要因にはこのような複数の原因が重なったことが挙げられており、今後二度と同じような被害を起こさないためには、今回の反省点についての対策が望まれる。兎に角、亡くなった方のご冥福を祈るばかりである。また、捜索が難航してまだ行方不明者の救助されていない人がいるが、積雪の影響で、すでに今季の捜索は打ち切られた由。さぞや、ご親族の方はつらいことでしょう。 ご同情申し上げます。

このような火山の噴火は御嶽山だけの問題ではない。なにしろ、日本は活火山が110もある火山国である。
2011(平成23)年3月11日に発生した東日本大震災の直後から活動が活発になった火山がある。つまり、地下で地震が増えた火山ということで、ざっと20近い火山の地下で地震が起き始めたと、地球科学者の鎌田 浩毅 氏(京都大学大学院 人間・環境学研究科教授)はいう。中でも富士山が気になるというのだが・・・・(※14参照)。
今、気象庁は、噴火災害軽減のため、全国110の活火山を対象として、観測・監視・評価の結果に基づき噴火警報・予報を発表している。
その噴火警戒レベルは、「火山防災のために監視・観測体制の充実等が必要な火山」として火山噴火予知連絡会によって選定された47火山に観測施設を整備し、関係機関の協力も得て、そのうち、御嶽山や富士山、草津白根山など、30火山(平成25年7月現在)を「常時観測火山」として24時間体制で火山活動を監視しているようだ(※10:「気象庁HP:火山」の噴火警報・予報の説明の中の噴火警戒レベルが運用されている火山参照)。
又、2014(平成26)年10月8日、気象庁地震火山部が全国の活火山の活動状況や警戒事項を取りまとめた月間火山概況「火山の状況に関する解説情報 第12号」を発表しているが、それによると、御嶽山・桜島・西之島・草津白根山・阿蘇山・霧島山(新燃岳・硫黄山)・諏訪之瀬島などに注意また警戒を呼びかけているが、ここには、富士山はない。
その優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られている「富士山」.。昨・2013(平成25)年6月22日には、関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録され、今では世界中から観光客が押し寄せている。そんな富士山がもし噴火したら・・・・・。
ただ、御嶽山では、24時間体制の観測が行われ、噴火の約2週間前から、地震活動が活発化していた。 それでも噴火が起こるまで、気象庁が設定した警戒レベルは、5段階中もっとも低い、平常の1のままだった。専門家は、予知の限界を指摘する。火山噴火の恐れがあるところは人気観光地ばかりだ。温泉が火山活動の産物だから当然かもしれないが、押し寄せる観光客が減ることを承知で、本当に登山者や地域住民の人達の安全を最優先した警戒態勢を敷くことが出来るのか・・・・。次は何時何処で何が起きるのか・・・。
10月末、富士山の噴火を想定した静岡、山梨、神奈川の3県合同防災訓練も実施もされたが、何かこうなると、火山の近くに住んでいる人は不安だろうね。
余り真剣に考えていると恐ろしくてなってしまうよ・・・。

参考:
※1:木曽節 - 木曽町観光協会
http://www.kankou-kiso.com/event/kisobushi.html
※2:作家別作品リスト:泉 鏡花
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person50.html
※3:白夜の妖女 (1957)| Movie Walker
http://movie.walkerplus.com/mv25200/
※4:木曽御嶽山(王滝口)登山道の紹介 - 王滝村
http://www.vill.otaki.nagano.jp/ontake_tozan/tozan04.html
※5:御嶽神社
http://www.ontakejinja.jp/index2.html
※6:山の用語集 [tozan.net]
http://tozan.org/yougo/
※7:地理用語
http://chiri-zemi.nsf.jp/0-09-jiten.html
※8:御嶽神社
http://www.ontakejinja.jp/index3.html
※9:国土地理院
http://www.gsi.go.jp/index.html
※10:気象庁・火山
http://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/kaisetsu/vol_know.html
※11;なぜこれほど被害が拡大したのか? 小規模ながら場所とタイミング悪く…。「軽トラック大の噴石も」ー産経新聞
http://www.sankei.com/affairs/news/140929/afr1409290065-n1.html
※12:御嶽山噴火:紅葉シーズンの週末…被害拡大ー毎日新聞
http://mainichi.jp/select/news/20140929k0000m040044000c.html
※13:御嶽山噴火、27人けが 重傷・意識不明者も-日本経済新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG27H0T_X20C14A9MM8000/
※14:演題:「地震と噴火の活動期に入った日本列島 ―「西日本 ... - 京都大学(Adobe PDF)
http://www.gaia.h.kyoto-u.ac.jp/~kamata/2012.8.9.Zaimusho.Lecture.pdf#search='%E5%9C%B0%E9%9C%87%E6%B4%BB%E5%8B%95%E6%9C%9F+%E7%81%AB%E5%B1%B1'
草津、上高地、富士山、伊豆諸島…噴火秒読み7火山 (日刊ゲンダイ) ...
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140930-00000014-nkgendai-life
木曽・御嶽から消えた滝神不動明王と蔵王権現 - 千時千一夜
http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/15478729.html
御嶽山 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%B6%BD%E5%B1%B1

白蓮事件

2014-10-20 | 歴史

白蓮事件」とは、大正時代に福岡の炭鉱王・伊藤伝右衛門の妻で、歌人として知られる柳原白蓮(本名伊藤子[あきこ])が、滞在先の東京で出奔し、愛人の帝国大学(現東大)を卒業したばかりの弁護士宮崎龍介と駆け落ちした事件である。

「虚偽を去り真実に就く時が参りました。依って此の手紙により私は全力をあげて女性の人格的尊厳を無視するあなたに永久の決別を告げることにいたします」

1921(大正10)年の10月20日付「大阪朝日新聞」夕刊に掲げられた「絶縁状」の一部である(『朝日クロニクル 週刊20世紀』女性の100年より)。
新聞紙上で伝右衛門の妻白蓮から夫への絶縁状が公開されたことに対して、夫・伝右衛門からも反論文が掲載されるなど、マスコミのスクープ合戦となり、センセーショナルに報じられ、「女性解放」を叫ぶ大正デモクラシーを背景に、当時賛否両論の大論争を巻き起こした。

白蓮事件と言っても分からなかった人でも、先月までNHKの朝ドラ『花子とアン』の中で、主人公のはな(村岡花子)の修和女学校時代からの「腹心の友」である蓮子が仕事のために上京する夫の伝助に同行し、隙を見て宿から抜け出し、宮本と駆け落ちをし、翌日、伝助に宛てて「絶縁状」を書き宮本に郵送を頼むが、その絶縁状は彼女の意に反して新聞に公開される・・・といった内容があったのは覚えているだろう。
この部分は、実際にあった「白蓮事件」を題材にしたものであり、テレビで、仲間由紀恵演じる葉山蓮子は柳原 白蓮を、吉田 鋼太郎演じる九州の炭鉱王・嘉納伝助は、伊藤伝右衛門を、大和田健介演じる蓮子の愛人・宮本純平は宮崎龍介をモデルにしたものである。
NHKのドラマ『花子とアン』は、『赤毛のアン』に代表されるモンゴメリなどの英米児童文学の日本語訳版を著し、明治から昭和の混乱期に翻訳家として活躍した実在の村岡花子(主演:吉高由里子)の半生をもとにしたテレビドラマであるが、もう一つの物語の軸として仲間演じる葉山蓮子の人生がクローズアップされ、第5週、第6週では蓮子がヒロインとなる扱いを受けている。
これにより、彼女のモデルとなる柳原白蓮の生涯を小説にした『白蓮れんれん』(林真理子著※1参照)が注目を浴び品切れ店が続出し、柳原白蓮が2度目の夫・伊藤伝右衛門と10年間暮らした旧伊藤伝右衛門邸(※2、※3参照)へ多くの観光客が詰めかけるなどの現象が生じているという。
私も、同ドラマを毎朝楽しみにして見ていたが、同ドラマの主役である村岡花子の生涯よりも、むしろ、花子とともに激動の時代を生き抜いた「白蓮事件」の当事者である柳原白蓮や伊藤伝右衛門、宮崎龍介などの人物の生き方の方が、その時代を象徴しており、興味があったことから、ここでは、「白蓮事件」をテーマにこのブログを書いた次第である。

柳原白蓮(本名:宮崎子、旧姓:柳原)は、大正から昭和時代にかけての歌人で、大正三美人の一人に数えられた美貌の持ち主である。(冒頭の画像は柳原白蓮)。
Wikipediaをベースに、伊藤伝右衛門との結婚に至るまでの柳原白蓮(本名:子)の生い立ちを見てみよう。
子の父は藤原北家の流れを汲む公家で、後に伯爵家となった柳原前光大正天皇の生母・柳原愛子の兄).である。したがって、子は大正天皇の従妹(いとこ)にあたる。
ただ、子は、父・前光が華やかな鹿鳴館で誕生の知らせを聞いたことから「子」と名付けられ、前光の正妻・初子の次女として入籍されているが、生母は初子ではなく前光の妾のひとりで、柳橋芸妓となっていた奥津りょうであった。
しかし、りょうは柳橋の芸妓とはいえ、その父は幕末の外国奉行でもあった新見正興という没落士族幕臣)であり、それ相当の家柄の出身である。
江戸幕府崩壊後、武士の権力も失われた時代、生活も困窮し、生きてゆく為に母親のりょうは、その美貌を売り物に芸妓になるしか方法はなかったのだろう。りょうは18歳で子を出生後、7日目には子を柳原家の正妻・初子に預けた後、病気がちになり、子の顔を見る事もかなわないまま子3歳の時に病死しているという。
その後、初子のもとで華族の娘としてしつけられ、9歳で遠縁にあたる子爵・北小路隨光(きたこうじ よりみつ)の養女となる。
北小路家は夫婦の間の子がいずれも早世したため、父・前光の弟が養子となっていたが、隨光が女中に男子(資武)を生ませた事から養子関係が解消となり、その代わりに資武の妻にする条件での養子縁組であったという。
北小路家は経済的には苦しかったようだが、養父の隨光により和歌の手ほどきも受け、13歳で華族女学校(現・学習院女子中等科)に入学。
しかし、思春期の盛りで子が他の男と同席するだけで嫉妬して暴力をふるう事もあったという7歳年上で知的障害があったともいわる資武が、結婚相手である事などそれまで知らなかった子は結婚を急がせる養父母に泣いて嫌だと抗議するが聞き入れられず、結局、華族令とそれを元に定められた柳原家範という法の管理下にあった子に選択の余地はなく、結婚を承諾させられ、間もなく妊娠した子は女学校を退学。
1900(明治33)年、北小路邸で質素な結婚式が挙げられ、翌1901(明治34)年、15歳で男子(功光)を出産している。

●上掲の画像は北小路家時代、16歳の子。
出産後、北小路家縁の京都へ一家で引っ越すが、友人も居ない京都で、子の養育は久子に取り上げられ、幼い同級生と子供のように遊びながら家で女中に手を付ける夫とは夫婦の愛情も無く、子は孤独を深めるばかりであった。
結婚から5年後、子の訴えにより事情を知った柳原家と話合いが持たれ、1905(明治38)年、子供は残す条件で離婚が成立し、20歳で実家に戻った。
しかし、子は「出戻り」として柳原家本邸へ入れてもらえず、母・初子の隠居所で監督下に置かれ、門の外に一歩も出る事のない幽閉同然の生活となる。挨拶以外にほとんど誰とも口をきかない生活の中、義理の姉・信子の計らいで古典や小説を差し入れてもらい、ひたすら読書に明け暮れる日々が4年間続いた。
その間、再び子の意向と関わりなく縁談が進められ、結納の日取りまで決められるが、子は家を飛び出し、乳母の家に走ったが、乳母は子の幽閉中に死去していた。そんな子を信子が庇い、柳原家の家督を継いでいた兄・義光夫妻の元に預けられる。
1908(明治41)年、兄嫁・花子の家庭教師が卒業生であった縁から、東洋英和女学校(現・東洋英和女学院高等部)に23歳で編入学し、寄宿舎生活をおくる事となる。
この頃、信子の紹介で佐佐木信綱主宰である短歌の竹柏会に入門。このころから本格的に短歌の創作に打ち込むようになったようだ。
最初の結婚で華族女学校の中退を余儀なくされた子には、再び学ぶことができる幸せな学園生活であったようだ。女学校ではずっと年下の生徒達とも打ち解け、中でも後に翻訳者となる村岡花子とは親交を深め、「腹心の友」となり、信綱を花子に紹介しているという。
NHK朝ドラ『花子とアン』で「修和女学校」となっているのが、「東洋英和女学校」のことであるが、ドラマでは、修和女学校時代の暗い子を花子がかばうような感じで描かれていたが、何か真実とは逆の様である。また、子はここで、慈善事業に関心を持つなど見聞を広めた。

子は1910(明治43)年3月、東洋英和女学校を卒業。11月、上野精養軒で子と九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門との見合いが行われた。
仲介者は西郷従道の義弟の得能通要(西郷従道の妻・清子は、通要の父得能良介の長女で通要の姉。※4参照)と三菱鉱業門司支店長で、柳原家とも関わりがある高田正久で、子は当日、それを見合いだとは知らされていなかったようだ。
見合い当時の伝右衛門は50歳、炭鉱労働者からの叩き上げであり、学問はなく、妻を亡くした直後であった。
話は当事者を抜きに仲介の人々によって早々にまとめられたという。
親子ほどの年齢差・身分・教養ともあまりに不釣り合いであり、日の出の勢いの事業家で富豪とはいえ、労働者上がりで地方の一介の炭鉱主が「皇室の藩塀(ばんぺい。国家・王室を守る壁・者)」たる伯爵家から妻を娶るのは前代未聞の事で、「華族の令嬢が売物に出た」と話題になったという。
異例の結婚に新聞では、柳原家への多額の結納金や媒介者への謝儀、宮内省への運動資金など莫大な金が動いた事が書き立てられたが、その背景には貴族院議員である兄義光の選挙資金目的と、一代で成り上がり、代議士や賞勲など様々な肩書きを得た伝右衛門が、後妻に名門華族の家柄を求めた事があったから・・・と見られているようだ。
25歳で肩身の狭い出戻りの身の子は、年齢差の大きい夫は妻を大切にしてくれる、伝右衛門が女学校を経営しており、その財力で女子教育や社会奉仕ができるという兄嫁の説得を受け入れた。最初の不幸な結婚から離れて、今度こそ平和な家庭を得て本当の愛を受けたい、という思いがあったという。
翌1911年(明治44年)2月22日、日比谷大神宮で結婚式が行われ、帝国ホテルでは盛大な披露宴が行われた。
東京日日新聞では結婚式までの3日間に亘り、2人の細かい経歴等を書いた「子と伝ねむ」というタイトルの記事が連載され、“黄金結婚”と大いに祝福された。
NHK連続テレビ小説『花子とアン』で,、子は、窮乏する伯爵家を救うために嫁に行ったという設定になっていたが、子の父柳原前光の妻初子は、裕福な伊予(愛媛県)宇和島藩主伊達宗城の次女であり、実際には娘を身売りしなければならないほど金に困っていたとは思われない。結婚式を前にした新聞取材に対し、伝右衛門は柳原家や仲介者に多額の金銭を送った記事について否定しているというし、子の兄・義光は不釣り合いな結婚については「出戻りですからな」と答えているそうだから、子が美女であったこと、出戻りとはいえ元公卿の家柄であり、見合いの話を持ってきたのが伝右衛門の仕事に関係する三井鉱山の実力者であったことなどが結婚の本当の理由ではないだろうか。

「金襴鍛子の帯締めながら、花嫁御寮は何故泣くのだろう」

1923(大正12)年、に発表された日本の抒情歌『花嫁人形』(作詞:蕗谷 虹児、作曲:杉山長谷夫、誌は※6参照)。この歌詞は、柳原白蓮がモデルになっているという説もあるようだが、実際にはどうなのだろうか?私には少々疑問があるのだが・・・。

●上掲の画像は、1911(明治44)年3月、伊藤伝右衛門と柳原子・結婚写真。
明治、大正、昭和にかけて福岡県中部の筑豊地域は当時石炭エネルギー供給地日本一の場所であった。 当時「筑豊御三家」と呼ばれた家は麻生、貝島、安川であった。
麻生の麻生太吉(第92代内閣総理大臣、現:、副総理兼財務大臣、金融担当大臣の麻生太郎の曽祖父)は庄屋・安川の安川敬一郎は下級武士・貝島の貝島太助は貧農から炭鉱夫を経て実業界に身を投じた。
出身の違いはあれど、三者とも埋蔵されていた明治初年の筑豊炭田採掘から身を起こし、それで蓄えた財産を元手に政界への進出や他の産業への経営・投資を行ったことで共通している。
安川は主家の黒田家を背景とし、敬一郎は、元帥海軍大将子爵井上良馨の娘の秀子を妻としている(※5参照)。
貝島は政治家井上馨を顧問格として迎えた上で、鮎川義介日産コンツェルン創始者)と縁戚関係(太助の四男貝島太市が義介の妹フジと結婚。)にあった。
また鈴木幸夫著『閨閥 結婚で固められる日本の支配者集団』(1965年)58頁によると、「もともと麻生家は、福岡の土豪である。麻生太賀吉の祖父・太吉の代に、祖父伝来の土地から、石炭を発見、貝島炭鉱の貝島太助から事業上の手ほどきを受けた。 また貝島の紹介で、井上馨候に接近、採掘権などの法的手続きを有利にし、ついに九州三大石炭財閥の一つにのしあがった。」という。
そして麻生太賀吉は吉田茂の娘婿となった。その長男が太郎であり、寛仁親王妃信子は太郎の実妹であるから、仁親王は、麻生太郎の義弟にあたる。
この筑豊御三家に続いたのが、蓮子を後妻にした福岡の炭鉱王、伊藤伝右衛門である。

日本には古来皇室を中心にした政略結婚が広く行われ、天皇の外戚になることによって権力を行使する摂関政治といった政治形態が成立していた。
また、武家政権が成立してからも、武家同士、あるいは武家と公家との間の政略結婚は広く行われた。前者の場合、勢力の保持、増大が目的であり、後者では勢力の補完に主眼がおかれているといえる。江戸時代には武家と公家との間の婚姻が将軍家と有力大名家、天皇家と宮家、摂家などの有力公家との間に盛んに行われ、それぞれの影響力の補完が行われた。
明治時代に入ると、華族制度が成立した。華族には公家華族、大名華族、勲功華族などあり、それぞれが格式や実力などに強み弱みがあったため、それぞれを補完するための通婚が行われた。また華族は皇室の藩屏なので当然、天皇家、宮家を巻き込んだものとなった。
富国強兵殖産興業の結果現れた資本家や高級官僚も格式や政治力を得るために華族との通婚を望み、経済的、政策的な支援が期待できることから華族も資本家や高級官僚との婚姻による関係強化を望んだ。そのような閨閥づくりは今の時代でも形を変えて粛々とおこなわれている。
第二次世界大戦後、華族制度は廃止されたため、政・財・官の分野で有力な一族の間での通婚が盛んに行われ、各々の影響力を保持、強化に努めるようになった(※5参照)。
身分が低く、幼少時から苦労に苦労を重ねて成功し、筑豊御三家に続く福岡の炭鉱王とも呼ばれるようになった伊藤伝右衛門が、蓮子のような美しく、そして身分の高い女性を妻に出来るのならしたいと考えたとしても、至極当然なことであっただろう。

伝右衛門は子を迎え入れる為、福岡県嘉穂郡大谷村大字幸袋(現飯塚市)の旧伊藤邸(本邸)は贅を尽くした大改築が行われた。そして、敷地面積約2300坪という敷地に、部屋数25という広大な家屋を設けた。しかも、その内部は京都からわざわざ宮大工を呼んで技を尽くさせたという。
特に二階の子の居室には、竹の節だけを残した欄間(らんま)や銀箔を張った襖など驚くような技法を使い、子好みに仕上げており、また、天井に結界を設け、平民はこれを境に立ち入り禁止にするなど、伝右衛門は子に精一杯気を遣っていたようだ(※2参照)。
この縁談で子の興味を惹いたのは伝右衛門が建てたという女学校であった。
子供の時に北小路家に引き取られ、若い結婚と悲惨な失敗、離婚の傷心と出戻りという立場。鬱屈した彼女の慰めは詩作であり、東洋英和女学校での勉学であった。
だから子は、伝右衛門が女学校を持っていると聞き、女学校時代の束の間の青春を思い出し、女学校運営を再婚生活の希望にしたいと考えていた。
赤貧から一代で身を起こせたのも、己一人の力ではないと、得た利益を地域社会に還元するのは当然だと、貧乏な郡の財政に代わって女学校を建ててやっていたが、伝右衛門自身女子教育に関心があったわけではなかった。そのため、女学校設立の費用全額を寄付し、女学校の運営を、伊藤家は一切放棄していたため、夢見ていた女学校の経営は叶えられず、子はがっかりしたことだろう。
そのうえ、子は、伊藤家の複雑な家族構成を知らされる。前妻との間に子供がいないと聞かされていた伝右衛門には、妾との間に小学6年の実娘・静子がいた。養嗣子として妹の子供で大学生の金次、その弟で小学1年の八郎がおり、父の伝六が妾に生ませた異母妹にあたる女学生の初枝や母方の従弟などもそこで暮らしていた。伝右衛門は若い頃の放蕩が過ぎて子供ができない身体であり、子は実子を持つ事が出来ない不安定な立場で、大勢の使用人・女中・下男も暮らす複雑な大家族の女主人となった。
それまで派手な女遍歴があった伝右衛門だが、子との結婚にあたり、長年に亘る妾のつねと別れるなど身辺整理はしていたが、女中頭のサキは家中を切り回すために必要として家に置いており、妾の立場で家を取り仕切るサキと、子は激しく対立する。
このような正妻と妾を同居させるというようなことは、いくら男尊女卑の時代とはいえ、少々非常識と言わざるをえないが、それは、伝右衛門の粗野や無神経のためというより、幼少時の一家離散のトラウマのためであったかもしれない。しかし、これでは、伝右衛門は幸せでも、子はたまったものではなかっただろう。
それでも、子はまず家風の改革に取り組み、伝右衛門も、又、食事や言葉遣いといった家風改革や子供の縁組みなど子の希望を出来る限り受け入れた。子の世話で1915(大正4)年には娘の静子の婿養子に堀井秀三郎(赤穂浪士・片岡源五右衛門の子孫)を迎え、1918(大正7)年には異母妹である初枝の婿養子に山沢静吾男爵の子息・鉄五郎を迎えた。そして、大正鉱業の二代目を継いだ養子の八郎は、妻を子の縁者にあたる冷泉家から迎えている。

●上掲の画像1914年(大正3年)頃、子と11歳の八郎
そんな歪んだ結婚生活の懊悩・孤独を子はひたすら短歌に託し、竹柏会の機関誌『心の花』に発表し続けた。師である佐佐木信綱は、私生活を赤裸々に歌い上げる内容に驚き、本名ではなく雅号の使用を勧め、信仰していた日蓮にちなんで「白蓮」と名乗ることになったという。そして、1911(明治44)年、『心の花』6月号で「白蓮」の号を初めて使用する。
和歌など無縁なものであった伝右衛門だが、伊藤家の農園で子が中秋名月の歌会を開いた時には、その席に出て客の接待に当たった事もあったという。また福岡市天神町と別府市山の手に、後には「あかがね(赤銅御殿)御殿」(屋根に赤銅が葺 かれていた)と称された豪奢な別邸を造営して歌人として自由に活動させ、歌集の出版資金を出したりもしている。子も又、病に倒れた伝右衛門の看病もしたといわれているし、また、筑豊疑獄事件(※8参照)に伝右衛門がかかわると、子は贈賄側の証人として出廷し伝右衛門を弁護する優しい面もあったようだ。
公の場に表れた事で話題となり、大阪朝日新聞が「筑紫の女王子」というタイトルで連載記事を載せたことがきっかけとなり、白蓮が子である事、「筑紫の女王」という呼び方が全国的に知られるようになる。

●1918年4月11日大阪朝日新聞。
話は戻るが『心の花』に作品を発表し始めた白蓮は、1915(大正4)年に第一歌集『踏繪』を自費出版し歌の世界で頭角を現した。

われは此処に神はいづくにましますや星のまたたき寂しき夜なり
われといふ小さきものを天地(あめつち)の中に生みける不可思議おもふ
踏絵もてためさるる日の来(き)しごとも歌反故(ほぐ)いだき立てる火の前

『踏絵』は哀愁と情熱とロマンに満ち人々を魅了。白蓮の才色兼備を讃える声は高まるが、『踏絵』という作品を通して、人々は、筑紫(つくし)の果(はて)の父親の様な年上で、無学な鉱夫あがりの成金のもとに、まるで人身御供ように嫁いでいった藤原氏の血を引く娘・・・・、その子は踏絵よりも厳しい刑を受けているような哀れな存在として受け止められるようになったようである。
同じ佐佐木信綱の竹柏園に通って古典を学んだ長谷川時雨が『美人伝』の中で、「柳原子(白蓮)」について書いたものがある。以下参考の※7:「青空文庫」のここ参照)
孤立を深めた子は、伊藤家の外に世界を求めたが、福岡天神の別邸は、実際には、利用していなかったようだが、1916(大正5)年に建築された大分・別府の別邸では白蓮を中心にサロンが形成され、竹久夢二高浜虚子など著名な文学者らがたびたびこの地を訪れた。
『踏絵』に続き、1919(大正8)年3月、詩集『几帳のかげ』・歌集『幻の華』刊行。
別府の別荘を訪れた菊池寛が、1920年(大正9年)に出版した『真珠夫人』(※7:「青空文庫」参照)は子がモデルと言われ、ベストセラーになっている。
白蓮が同年戯曲『指鬘外道(しまんげどう)』を雑誌『解放』に発表。これが評判となって本にする事になり、打ち合わせのために1920(大正9)年1月31日、『解放』の主筆で編集を行っていた宮崎龍介は、たまたま九州出身であった事から、同誌の執筆者である白蓮との打ち合わせのため、別府の伊藤家別荘を訪れた。
龍介は子より7歳年下の27歳。日本で孫文(孫逸仙)(、辛亥革命を起こし、「中国革命の父」、中華人民共和国と中華民国では国父と呼ばれる>宮崎滔天の長男で東京帝大学法科の3年に在籍しながら新人会(東大を中心とする学生運動団体)を結成して労働運動に打ち込んでいた。
新人会の後ろ楯となったのが吉野作造ら学者による黎明会であり、『解放』はその機関誌であった。
勉学に勤しむ暇もなく炭坑一筋で続けてきた無学の伝右衛門と比べ、東大出のインテリで、両親共に筋金入りの社会運動家の血を引き、時代の先端を走る社会変革の夢を語る龍介は、子がこれまで出会った事のない新鮮な思想の持ち主であり、心惹かれるようになり、事務的な手紙の中に日常の報告と恋文が混じる文通が始まり、次第に龍介との逢瀬を持つようになる。
やがて龍介の周囲で子との関係の噂が広まり、華族出身のブルジョワ夫人との恋愛遊戯など思想の敵として、1921(大正10)年1月に龍介は『解放』の編集から解任され、4月には新人会を除名された。この事は子の心を一層龍介に傾かせたようだ。
そして、1921(大正10年)年8月、京都での逢瀬で子は龍介の子を(みごも)ったことを知る。早急に竜介は新人会時代の仲間である朝日新聞記者の早川次郎」や赤松克麿らに相談して、子出奔の計画がねられ、子は、10年間生活をした伊藤家を出奔し竜介と駆け落ちをする。そして、10月22日、大阪朝日新聞は子の家出を報じ、同夕刊に『子の絶縁状』を掲載した。

●上掲の画像は、1921年(大正10年)10月、事件当時の柳原白蓮と宮崎龍介。
そこには、10年もの間の愛のない結婚、伊藤家の複雑な家庭事情、伝右衛門と女中との不穏な関係など、子が結婚以来受けていた苦痛を暴露する内容がが連綿と綴られていた。
伯爵家生まれの白蓮の2度目の結婚は金の為という噂があったが、みずからその結婚を否定して「愛する人」と生きることを宣言したのだから、当の妻から絶縁状をでかでかと掲載された男の驚きは想像を絶するが、世間の人々もあっとのけぞたことだろう。
その3日後、同年10月25日から28日までの4日間、「大阪毎日新聞」に掲載されたのが、「絶縁状を読みて子に与ふ」という伊藤伝右衛門の反論文である。この『子の絶縁状』と、伝右衛門の反論文は全文が以下参考※9:「絶縁状と白蓮事件」に書かれている。
その伝右衛門の反論文『絶縁状を読みて子に与ふ』には、
「子!お前が俺(わし)に送った絶縁状というものはまだ手にしていないが、もし新聞に出た通りのものであったら、随分思い切って侮辱したものだ。見る人によったら、安田は刀で殺されたが、伊藤は女に筆で殺されたというだろう。妻から良人(おっと)へ離縁状を叩きつけたということも初めてなら、それが本人の手に渡らない先に、堂々と新聞紙に現れたというのも不思議なことだ。」
・・と書かれているように、白蓮の絶縁状は伝右衛門に届いておらず、新聞沙汰になるなど知らなかった。
妻には離婚権がなく、姦通罪のあった男尊女卑の時代、華族の身であってみれば縛りはより厳しく、このような道ならぬ恋は命がけであった。
したがって、世間に自由と人権を訴えるために宮崎龍介と友人である赤松克麿と、朝日新聞の早坂記者が一緒になって白蓮が書いた原稿を修飾し、この過激な計画を考え、又、朝日の早坂がスクープ狙いで記事を独占し発表したようだ。
その幾重もの縛りを振りほどいて愛人のもとへ走ったこの事件はマスコミでスキャンダラスに報道された。
当時世間の指弾は男をコケにした女に集中したようだが、「日本のノラ(イプセンの戯曲『人形の家』の主人公)」と評価する声もあったようだ。
又、伝右衛門の反論文『絶縁状を読みて子に与ふ』も、伝右衛門自らが書いた文章ではなく、彼が汽車の中で口頭で話した事の経緯を、大阪毎日新聞の記者が興味本位で面白おかしく仕立て上げた文章だったという。伝右衛門の意に沿わぬ形で掲載されていき、当初は全10回の掲載が予定されていたものを、伝右衛門が4回で打ち切ったものだという。この反論文によって伝右衛門は周囲から責められ、伝右衛門自身も苦悩したとのことだが、伝右衛門は親族会議の場で、事件については「末代まで一言の弁明も無用」と固く言い渡したそうだ。
白蓮にしても、伝右衛門にしてもマスコミに踊らされた被害者だと言っていいのではないか。生まれも育ちも、そして親子ほどの年齢差もある全く対照的な二人、御互いに相手を理解しようと努力はしたようだが、上手くゆかなかったということだろう。今の若い世代など性格の不一致だけで離婚なのだから・・・。
いずれにしても、白蓮は、大正時代を生きる人々にとっては、情熱とロマンの象徴でもあったのだろう。なよなよとした風情だが芯は強い。
この事件により、白蓮(子)の兄・柳原義光(異母兄)は貴族院議員を引責辞職するなど柳原家に致命的な痛手をもたらす結果となった。二人も結ばれることなく、子は再び柳原家の監禁の身となり、そこで駆け落ち騒動の最中にできた竜介の子・香織を出産している。
その後、紆余曲折を経て、1923(大正12)年9月の関東大震災をきっかけに、香織と共に宮崎家の人となった子は、それまで経験した事のない経済的困窮に直面することになる。
弁護士となっていた龍介は結核が再発して病床に伏し、宮崎家には父滔天が残した莫大な借金があったという。
復帰後の龍介は、1926(大正15)年に吉野作造・安部磯雄とともに独立労働協会を結成、続いて社会民衆党中央委員となり、1928(昭和3)年11月の第16回衆議院議員総選挙(男子25歳以上の者で実施された最初の男子普通選挙.)に出馬するが、演説会場で昏倒し喀血して絶対安静の身となる。子は龍介に代わって選挙運動の演壇に立ち、色紙を売るなど選挙資金を作って夫を支えたが落選している。

●上掲の画像は1928年、社会民主党から出馬した夫・宮崎龍介の選挙を手伝う子(画像は『朝日クロニクル週刊20世紀』女性の100年より)。 
龍介と結婚後の子は華族を除籍されるが、貧しさの中で母として妻として人間として充実した日々を自分の手で獲得し、二人の子をなしながら文筆業で夫の社会運動を支え、81歳で龍介竜にみとられ没するまで、幸福に暮らしたという。竜介はその4年後の1971(昭和46)年この世を去った(享年78歳)。

冒頭の画像は、柳原 白蓮。
参考:
※1:白蓮れんれん/林真理子のあらすじと読書感想文
http://www5b.biglobe.ne.jp/~michimar/an/0012.html
※2:旧伊藤伝右衛門邸
http://www.kankou-iizuka.jp/denemon/index.htm
※3:炭鉱王・伊藤伝右衛門と筑紫の女王・白蓮が過ごした豪華絢爛な旧邸
http://fff.bi-ki.jp/town/12094/
※4:安川敬一郎 ー旧財閥安川男爵家ー|近代名士家系大観
http://ameblo.jp/derbaumkuchen/entry-11814806329.html
※5:『企業の進むべき道』⑤~閨閥の歴史に迫る その1:政界を牛耳る歴代宰相・政治家~高級官僚閨閥~
http://bbs.kyoudoutai.net/blog/2012/05/1293.html
※6:花嫁人形 歌詞の解説・試聴 - 世界の民謡・童謡
http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/hanayome-ningyo.htm
※7:青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/
※8:九州の大疑獄事件 - 神戸大学 電子図書館システム
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10065077&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
※9:絶縁状と白蓮事件-九州あちこち歴史散歩
http://www.kyushu-sanpo.jp/kanko/fukuoka/byakuren-c/byakuren-c.html
柳原白蓮と白蓮事件
http://yanagiwara-byakuren.hatenablog.jp/
『花子とアン』モデル白蓮 美智子妃ご婚約に猛反対していた
http://ameblo.jp/miminokikoenai/entry-11896649402.html
短歌(1)情熱の歌人 柳原白蓮 生けるかこの身死せるかこの身
http://blog.livedoor.jp/hujikawa516/archives/1541260.html
『花子とアン』も描く白蓮の駆け落ちは朝日新聞の仕込みだった!?
http://lite-ra.com/2014/07/post-247.html
白蓮事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%93%AE%E4%BA%8B%E4%BB%B6

漫画『アンパンマン』の生みの親やなせたかし(漫画家)の忌日

2014-10-13 | 人物
世代を超えて愛されているアニメ『アンパンマン』の生みの親として知られる、やなせ たかしが一年前の2013(平成25)年8月に体調を崩して東京都内の病院へ入院していたが、10月13日に心不全で亡くなられて今日ではや1年になる(享年94歳)。
社団法人日本漫画家協会代表理事理事長(2000年5月 - 2012年6月)、同代表理事会長(2012年6月 - 2013年10月)を歴任していた。1990(平成2)年に勲四等瑞宝章を受賞、1995(平成7)年には日本漫画家協会文部大臣賞を受賞している(※1参照)。

やなせたかし(本名:柳瀬 嵩)は1919(大正8)年に東京で生まれるが父親が亡くなって後は、父母の郷里である高知県に移住し、高知で旧制中学を卒業後、中学生の頃から絵に関心を抱いて、官立旧制東京高等工芸学校図案科(現・千葉大学工学部デザイン学科)に進学。
卒業後、田辺製薬(現:田辺三菱製薬)宣伝部に就職するが、1941(昭和16)年に出兵。やなせ自身は、従軍中は戦闘のない地域にいたため、一度も敵に向かって銃を撃つこともなかったというが、弟は、特攻兵器回天の特別攻撃隊要員となり、台湾とフィリピンの間のバシー海峡で撃沈され戦死したそうだ。
終戦後、高知新聞社に入社し、『月刊高知』編集部で編集の傍ら文章、漫画、表紙絵などを手掛けていたが同僚の小松暢(こまつ のぶ)が転職し上京するのを知り、1947(昭和22)年に自らも退職、上京し小松と結婚。
この時期、やなせは漫画家を志していたが、東京での生活がまだ確立されていなかったために、兼業漫画家という道を選び、同年三越に入社し宣伝部でグラフィックデザイナーとして活躍(三越の包装紙「華ひらく」のmitsukoshi文字はやなせの作だという※2参照)、そして1953(昭和28)年三越を退社しに専業漫画家となる。この時が34歳。
やなせは絵本作家・詩人としての活動が本格化する前までは頼まれた仕事はなんでもこなしたといい、編集者、舞台美術家、演出家、司会者、コピーライター、作詞家、シナリオライターなど様々な活動を行っていたようだ。当時の漫画の代表作にはニッポンビール(のちのサッポロビール)のキャラクターとなった四コマ漫画「ビールの王さま」がある(※2参照)。
そんな中、1960(昭和35)年に、永六輔作演出のミュージカル「見上げてごらん夜の星を」(テーマソング「見上げてごらん夜の星を」が坂本九の歌でヒットしたことでも知られる)の舞台美術を手掛けた際に、作曲家のいずみたくと知り合い、翌1961(昭和36 )年に『手のひらを太陽に』を作詞(作曲:いずみたく)。

ぼくらはみんな 生きている
生きているから 歌うんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから かなしいんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮(ちしお)
ミミズだって オケラだって
アメンボだって
みんな みんな生きているんだ
友だちなんだ

『手のひらを太陽に』。より1番を抜粋(3番まであり)。
この歌にも、やなせの哲学が滲んでいる。同曲は教科書に載るほどのスタンダードな曲ともなっているが、多くの作詞を手がけたやなせ最大の代表作ともなっている。

手のひらを太陽に tiebao - YouTube

その後、いずみたくとコンビを組み「0歳から99歳までの童謡」シリーズ(ここ)を続け、代表作を詩集『こどもごころの歌』として自費出版している。以下でその試聴が出来る。

やなせたかし・いずみたくからの歌のおくりもの 「0歳から99歳までの童謡」

又、1969(昭和44)年、虫プロダクションの劇場アニメ『千夜一夜物語』(大人のためのアニメーション。「アニメラマ-3部作」の一。「アニメラマ-3部作」については、※3を参照)制作の際に、エロチック路線を求めていた手塚治虫は、やなせの漫画を気に入り美術監督として招き入れたという。
同作がヒットしたお礼として、手塚は、やなせが1967(昭和42)年に手掛けたラジオドラマ「やさしいライオン」をアニメ映画化し、毎日映画コンクール大藤信郎賞を受賞。同作はやなせの代表作のひとつとなっており、後にフレーベル館より絵本にもなっている(※4のここ参照)。以下では、アニメ映画の一部が見られる。

やさしいライオン - YouTube

このようなメルヘン童話の作り手であったことでも知られているやなせは、この頃、まだ、大人漫画を描く漫画家が中心の団体「漫画集団」に所属していた。
そんな時、NHK総合テレビで放送されていた児童向け番組 『まんが学校』が、1964(昭和39)年4月から1967(昭和42)年3月まで3年間放映された。
今の日本のマンガブームの時代では、子供も)大人も普通にマンガを読んでいるが、60年代はまだ少年マンガというのは一種の「ブーム」であり、親や家によっては読むのを禁じられたりもしていた。
そうしたブームを踏まえての番組だったが、当時のお堅いNHKがまず民放より先に、こういう番組を作ったのが面白い。
司会は、落語家の故立川談志)で、やなせは「漫画指導」という講師役の立場で毎回出演していたが、この出演をきっかけに、大人漫画から子供漫画の方へ変わっていったようだ。
1973(昭和48)年には、雑誌『詩とメルヘン』(ここ参照)を立ち上げ長く編集長を務めたが、このメルヘン童話にはとりわけ思い入れがあったようで、自分が作ったメルヘン作品の中でも「『やさしいライオン』がなければ、アンパンマンは生まれなかったと思う」と述べていたことが、やなせスタジオのHPの中で紹介されている(※4のここ参照)。
又、『詩とメルヘン』の編集長を務める一方で、「漫画家の絵本の会」という同人サークルを立ち上げるなど、詩人・絵本作家としての活動を本格化させた。

アンパンマン誕生のきっかけは、1973(昭和48)年にフレーベル館より刊行された幼稚園・保育園向けの月刊絵本『キンダーおはなし絵本』(※5参照)であり、「あんぱんまん」というタイトル

上掲がその時の『あんぱんまん』である。
しかし、もともとのアンパンマンの原型作品は、『PHP』という雑誌に連載されていた(大人向けの)短編童話『こどもの絵本』(単行本のタイトルは『十二の真珠』)の中の一つ(第10回連載「アンパンマン」10月号)であった。
この時の主人公のアンパンマンは顔がパンとは違い普通の人間であるなど現在と大きく異なる設定が幾つか見られるが、空腹の人のところにパンを届けるという骨子は同一だった。
しかし、主人公アンパンマンの、小太りで不格好な姿には当時、流行し始めていた仮面ライダーウルトラマンなどの正義のヒーローへの疑問と反発が込められていたとする専門家もいるようだが、京都国際マンガミュージアム 学芸室員 倉持佳代子さんは、以下のように言っている。
「(一般的なヒーローは)マント一つ汚さずに飛び去っていく。壊した町も、どうなったのか分からない。そういうヒーローって、本当の正義なんだろうか。
本当におなかがすいて困って、一人ぼっちで寂しくてって言う人のところには、そういうヒーローは、なぜか現れない。誰をいったい助けているんだろう、そういう疑問があって、それでアンパンマンを思いつかれたんだろうと思います。」・・・と(※7参照)。
そして、このアンパンマンを発展させたキャラクターとして、『キンダーおはなし絵本』には、茶こげたマントに身を包み、あんパンでできた頭部を持つ「あんぱんまん」が登場することになった。
この絵本の『あんぱんまん』は、ひらがなで表記されていたが、それは幼児向け作品であり、カタカナ書きでは違和感があったからだというが、1975(昭和50年)には、キャラクター名を片仮名に変更した続編の絵本『それいけ!アンパンマン』が出版されている。
ここでも主人公のアンパンマンは格好のわるい正義のヒーローだ。得意技のアンパンチ(※8参照)で、バイキンマンをやっつけるが、相手が倒れるほど徹底的には痛めつけない。そして、お腹がすいた子供に自分の顔をちぎって食べさせヨレヨレになる。
「声高に語る正義は嘘くさい」「正義も悪もない。唯一ある正義はひもじい者に食わせることだ」。
飢えた人を助ける新ヒーロー誕生の裏には、飢餓に直面した自身の戦争体験があったようだ。先にも書いたように、やなせは、1941年に入隊し中国大陸で戦争を迎えた。代表作の『手の平に太陽を』の「ミミズだって オケラだって アメンボだって みんな みんな生きているんだ 友だちなんだ」の歌詞は、、戦争で得た死生観に裏打ちされたものだと言われている。
24歳で中国に出征したやなせは、飢えに苦しみながらも、戦争の正義を信じて戦ったことだろう。ところが、敗戦を境に、自分たちの信じた正義は一変し、悪魔の軍隊と呼ばれるようにもなった。
今放送中のNHK連続テレビ小説「花子とアン」でも、敗戦後に、親友であった蓮子から「息子の純平を戦地に送り戦死させたのは戦時中に子供向のラジオ放送で、子供たちを戦争に駆りたてたからだとヒロインの花子が責められ、又、親友の朝市も戦時中に学校で子供を戦争に駆り立てる教育をした。そして、花子の兄吉太郎も憲兵などしていた自分に生きる資格はないとそれぞれが悩んでいた。
やなせも軍人として戦争を経験し、死にはしなかったものの食べるものがなく飢えには苦しんだようだ。地域によっては飢えた兵隊が死んだ人の肉だって食べたという話を聞いたことがある。
先の戦争では内地に残っていた銃後の国民の方がつらい目にあった人の数は圧倒的に多い。戦火に合わなくてもは飢えに苦しんだ。
戦争に正義の為の戦いなどない。正義は或る日突然逆転する。A国にとっての正義がB国にも正義だとは限らない。正義は信じがたいものなのだ。「声高に語る正義は嘘くさい」「正義も悪もない。唯一ある正義はひもじい者に食わせることだ」・・。これが飢餓に直面した戦争から体験したやなせの哲学となったのだろう。

そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
たとえ胸の傷が痛んでも

何の為に生まれて 何をして生きるのか
答えられないなんて そんなのは嫌だ!
今を生きることで 熱いこころ燃える
だから君は行くんだ微笑んで。

そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
たとえ胸の傷が痛んでも。

嗚呼アンパンマン優しい君は
行け!皆の夢守る為

上掲は「アンパンマンのマーチ 」(1番抜粋)。歌は以下で聞ける。

アンパンマンマーチ -YouTube

「アンパンマンのマーチ」は、テレビアニメ『それいけ!アンパンマン』のオープニングテーマ曲として放送開始以来変わらず使用され続けており、『それいけ!アンパンマン』関連のほぼ全てのアルバムにも収録されている。また、最近の童謡として親しまれている。
しかし、この歌、小さな子供には少々難しすぎる気もするのだが・・・。
これに対して、やなせは「子供に容赦する必要はないというのがぼくの持論。だから、『あんぱんまん』のテーマー曲に『何の為に生まれて 何をして生きるのか』という哲学的な歌詞を入れた」・・と言っているそうだ。この歌の問いかけこそがやなせの人生のテーマーでもあり、以下の様にも言っているとも・・・。
「生きていることが大切なんです。今日まで生きてこられたなら、少しくらいつらくても明日もまた生きられる。そうやっているうちに次が開けてくるのです。」・・と。

東日本大震災が発生した時には、その直後から、被災地支援を続けた。ラジオで繰り返し、「アンパンマンのマーチ」が流れ、被災地の子供達からアンパンマン宛ての手紙が届いたという。
やなせ自身は、アンパンマンのヒットの時期から既に体調は必ずしも良好ではなく、60歳代末期には腎臓結石、70歳代には白内障、心臓病、80歳代には膵臓炎、ヘルニア、緑内障、腸閉塞、腎臓癌、膀胱癌、90歳代には腸閉塞(再発)、肺炎、心臓病(再発)と病歴を重ねていたようで、震災のあった2011年春には、視界もぼやけてきたことを理由に周囲には、漫画家引退の考えを告げていたようだが、「引退はやめた。死ぬまで現役だ」と宣言。
「ああアンパンマンやさしい君はいけ、みんなの夢まもるため」と書いたポスターを配ったという。
岩手県陸前高田市の奇跡の「一本松」には特に暑い思いを抱いていたようであり。枯死した一本松保存の為に1千万を寄付。自ら作詞・作曲した歌「陸前高田の松の木」には、こんな歌詞がある。
「ぼくらは生きる。負けずに生きる。生きていくんだ オー オー オー」・・・。

そういえば、NHK総合テレビ『爆笑問題のニッポンの教養』に出演したやなせが、ぬいぐるみで埋め尽くされたアンパンマン部屋で爆笑問題(太田光・田中裕二)を相手に、この歌を大きな声で熱唱していたのを思い出した。以下でそのシーンが見れる。

「陸前高田の松ノ木」やなせたかしSings~IMG

震災の翌・2012(平成24)年6月の日本漫画家協会賞の贈賞式を最後に、高齢と体調不良を理由に後任の理事長はちばてつやに譲り、自身は会長に就任した。

、アニメ映画の製作はその後も続き被災地の支援に尽力したやなせは、”復興三部作”と名付けた映画シリーズの制作に着手していたが、その第1作震災からの「復興」がテーマの『それいけ!アンパンマン よみがえれ バナナ島』(第24作)は、2012(平成24)年7月に公開された。
第2作目の「希望」をテーマとした、『それいけ!アンパンマン とばせ! 希望のハンカチ』(第25作)は、2013(平成25)年7月に公開された。
この舞台挨拶では、「なんとか今のところは死なないでいるんだけど、まもなくだね。病院からはあと2~3週間しか生きられないって言われてる」「死ぬ時は死ぬんだよ。笑いながら死ぬんだよ。そうすれば映画の宣伝になる。死ぬまで一生懸命やるんだよ」と笑いながら語っていたという。

しかし、2013(平成25)年8月に体調を崩して入院し、同年10月13日、心不全のため94歳で死去してしまったが、その6日後の10月19日にやなせの遺作の詩を掲載した季刊誌『誌とファンタジー 24号』が発売された。
やなせは、入院して闘病中だった9月、遺言のようにも読める誌3編を編集者に託していたという。
「一世紀近く生きてきましたから、もう、おしまいです。・・・・ぼくは、未熟の生まれ 死ぬ時も 未熟のままで かえって かえって よかったような気もします」
同誌巻頭の「編集前誌」は、宙を舞う天子のイラストが添えられていた。

上掲の画像は、季刊誌『誌とファンタジー 24号』の「編集前誌」(鎌倉春秋社)。画像は2013年10月17日付朝日新聞社海面より。

「天命」と題した詩は「もはや 無駄な抵抗はせぬ ゼロの世界へ 消えて行くでござる」とつづり、骸骨に向き合って悠々とした表情の老侍が描かれており、もう一遍の「チャーリー」では「ぼくの人生喜劇 シリーズ ついに全巻の終わり」と喜劇王チャップリンを思わせるイラストが微笑んでいるという。
同誌は、やなせの責任編集で2007年創刊。「今の殺伐とした世の中で必要なのは、抒情の復活だ」と話していたそうだ(※9参照)。

やなせが生前に公開できなかった「復興三部作」のラストを飾る「それいけ!アンパンマン りんごぼうやとみんなの願い』 が公開されたのは、今年・2014(平成26)年7月5日のことであった。

上掲の画像は『りんごぼうやとみんなの願い』 の映画のチラシ。

同映画は、やなせによる最後の絵本『アンパンマンとりんごぼうや』が原作。キャッチコピーは「みんなの“ふるさと”は、ぼくが守るよ!」。
この映画には、やなせが最も伝えたかったことが込められている。映画チラシには2種類あるがその説明には以下のように書かれている。
格好いいヒーローに憧(あこがれ)るりんごぼうやの”ふるさと”アップルランド。ある日突然、アップルランドのりんごが何者かに毒りんごにされてしまう。大切な”ふるさと”を守るため”魔法の種”を探すアンパンマンとりんごぼうや、途中、困難にぶつかりながらも諦めないアンパンマンの勇気ある姿を見て、りんごぼうやは、真のヒーローとは何かに気が付く。
途中、アンパンマンと一緒にリンゴちゃんの心を込めたリンゴ作りを手伝ったり、困った人を助けて「ありがとう」と云われると、心の中がぽかぽかすることを知る。
困難にぶつかりながらも決して諦めずにみんなのために頑張るアンパンマンの勇気ある姿を見て、りんごぼうやは、恰好良いだけでない真のヒーローとは何かに気付くのである。大切な”ふるさと”を守るため、アンパンマンとばいきんまん達も力を合わせて戦う。みんなの願いはとどくのだろうか・・・。映画は、「望郷と故郷の再建」をテーマとした内容になっている。

昨2013(平成25)年4月には我が地元神戸市ハーバーランドに「神戸アンパンマン子供ミュージアム&モール」がオープンした.。
阪神・淡路大震災以降、客が減りつ続けていたハーバーランドへの来場者が増えたと聞く。増えた理由はは、このアンパンマン子供ミュージアムの影響大と聞く。うれしいことだ。

神戸アンパンマンこどもミュージアム&モール(神戸市中央区)- YouTube
神戸アンパンマンこどもミュージアム&モール - YouTube

やなせたかしは 、漫画家として国民的ヒーロー・アンパンマンをこの世に送り出したが、年齢的hなものもあるが、私にはそれ以上に偉大な詩人であり、芸術家であったな・・・という印象が強い。

冒頭の画像は、在りし日のやなせ たかし氏。2011年2月朝日新聞インタビュー時のもの。2013年10月16日朝日新聞朝刊より。。
参考:
※1:(社)日本漫画家協会HP
http://www.nihonmangakakyokai.or.jp/
※2:会社員から出発した、やなせたかし94年の人生と作品集-NAVWRまとめ
http://matome.naver.jp/odai/2138209381931941901
※3:アニメラマ三部作
http://columbia.jp/dvd/mushipro/animerama/
※4:アンパンマンショップ(やなせスタジオのHP)
http://www.anpanmanshop.co.jp/
※5:フレーベル館:キンダーブック
http://www.kinder.ne.jp/#header
※6:それゆけアンパンマン
http://anpanman.jp/index.html
※7:アンパンマンに託した夢~人間・やなせたかし - NHKオンライン
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3423_all.html
※8:アンパンマンとは【ピクシブ百科事典】
http://dic.pixiv.net/a/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%B3
※9:やなせさんの“遺言”を季刊誌が掲載―nikkansports.com芸能
http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20131016-1204891.html
※10:「それいけ!アンパンマン りんごぼうやとみんなの願い」7月5日公開 やなせたかし先生最後のメッセージ | アニメ!アニメ!
http://animeanime.jp/article/2014/02/06/17362.html
ヒョロ松さん・・・今日のことあれこれと・・・
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/s/%A5%A2%A5%F3%A5%D1%A5%F3%A5%DE%A5%F3
Template:アンパンマン映画作品 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Template:%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%B3%E6%98%A0%E7%94%BB%E4%BD%9C%E5%93%81
やなせたかし記念館
http://anpanman-museum.net/html/prof.html
やなせたかし - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%84%E3%81%AA%E3%81%9B%E3%81%9F%E3%81%8B%E3%81%97
2014年映画「それいけ!アンパンマン りんごぼうやとみんなの願い」公式 ...
http://anpan-movie.com/2014/pc/

皆既月食

2014-10-09 | 行事
月食(英: lunar eclipse)は地球が太陽と月の間に入り、地球の影が月にかかることによって月が欠けて見える現象のこと。望(満月)の時に起こる。
日食と違い、月が見える場所であれば地球上のどこからでも同時に観測・観察できる。
満月が完全に地球の影に隠れ、暗い赤銅色に見える皆既月食が昨日・2014年10月8日にあった。
幸い、昨夜は天気も良く、2011 年12 月以来約3年ぶりの皆既月食が欠け始めから終わりまで観測することが出来た。日本で次に見られる皆既月食は、2015年4月4日のことだそうだ。
掲載の画像.19時ごろのもの。どうしたわけか、望遠レンズが見当たらず普通にカメラのズームアップで撮った。
あまり綺麗に撮れていないが、私としてはそれなりに撮れていたのでアップした。