今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

日本国有鉄道山手線に冷房車両登場

2009-07-31 | 歴史
1970(昭和45)年 07月31日、日本国有鉄道山手線に冷房車両が登場した。
1988(昭和63)年まで使用されていた山手線103系電車(冒頭画像参照)は、元は、当時上野駅止まりだった日本鉄道(日本初の私鉄)東北線と新橋駅止まりだった官設鉄道の東海道線を連絡する貨物主体の路線で山の手に線路を敷設したもの(当時品川線と呼ばれていた)が、東京市街地の拡大に伴い、市街を巡る大都市の基幹交通路線に性格を変えていった。この電車が運行を開始したのは1909(明治42)年、現在のように環状運転が実施されるようになったのは1925(大正15)年のことである。
103系電車は、国鉄(旧日本国有鉄道の略。現JR.)が設計・製造した直流通勤形電車であり、国鉄の通勤形電車としては前作に当たる101系を基に、当時の国鉄の財政・設備・保守などの各事情を考慮の上で、経済性を最重視して再設計され、1963(昭和38)年3月から1984(昭和59)年1月までの21年間に3,447両が製造されたという。
第二次世界大戦後の高度経済成長と都市部の過密化により、東京近郊路線(以下参考の※:1「東京近郊路線図」参照)の通勤時間帯における混雑は「通勤地獄」と称されるほど深刻なものになっていた。定員に対する乗車人員数で表される乗車率の最大値は、1960年(昭和35年)度には総武本線で312%、東北本線で307%、山手線で299%、中央線快速で279%、常磐線で247%に達していたという(通勤五方面作戦-Wikipedia)。いずれも車内は空調設備がなければ健康に悪影響を及ぼすほどの密集状態で、ドア開閉に支障をきたす事もしばしばであった。
私も、東京オリンピック開催前の1963(昭和38)年から5年ほど、東京の会社に勤めていたが、事業所が日本橋と新宿にあったので、東京駅や新宿駅へ普通でもラッシュ時の電車に乗るのが大変なのに、真夏に冷房の付いていないこのような混雑した電車に乗るのが以下に大変なことかは経験してきる。最初の頃、特に高円寺又、国分寺の寮にいたので、中央線の快速に乗ると、目的地である新宿では下りられず、四谷まで連れてゆかれ、そこから引き返したことなど何度もあった。まさに、電車に乗るのも押しやと呼ばれていた人に強引に尻や背中を押してぎゅうぎゅう詰めの電車の中へ強引に突っ込まれ、降りるのも電車の中の方に居ると出られないので喧嘩腰、夏の暑い時は、誰れもが気が立っているので、電車の乗りのも命がけといった感じであった。そてに比べ、今ではどこの電車に乗っても、夏などは冷房が効き過ぎて特に女性などには寒いくらいのときもあり、電車によっては弱冷房車も設置されているくらいだから、サラリーマンの通勤も私たちの若い頃に比べると非常に楽になったろう。
因みに、日本最初の冷房電車は、1936(昭和11)年の南海鉄道(現・南海電気鉄道2001形で、この型の電車は、南海鉄道が大阪-和歌山間で並行して走る阪和電気鉄道(現・西日本旅客鉄道【JR西日本】阪和線)への競合対策用として1929(昭和4)年より製造を開始した大型鋼製電車で、当時日本最大級の20m級車体に、主電動機として150kW級モーター4基を搭載し、特急・急行用として長く愛用していたものを、1936(昭和11)年に冷房電車としたものであるが、これは冷房使用が2年間のみで、最多運用時でも8両(1年目は1両)という試験的な存在(日中戦争の激化により使用中止)であったようだ。又、この同年(1936【昭和11】年)8月には、国有鉄道の特急列車「」でも冷房装置初搭載の新製食堂車を連結している。
しかし、継続使用を前提とした量産車は1959(昭和34)年の名鉄5500系電車が最初と言えるようで、この名鉄5500系電車を皮切りに、私鉄において冷房を取付けた通勤型電車が登場したのに呼応し、国鉄も私鉄とのサービス格差を改善する目的で試作冷房装置を搭載して、山手線に10両編成1本が試験投入された。
鉄道車両の冷房装置としては、小型の冷房装置を6~8台搭載する方法(分散式)と、大型の冷房装置を1台だけ搭載する方法(集中式)があった。
名鉄の 名鉄の5500系電車の初期型などは分散式であったようだが、国鉄の103系電車の初期型は後者の集中式であったようだ。
冷房方式の比較・検討のため、異なるメーカーが製作した3種の試作冷房装置が取付けられ、冷房電源用の電動発電機(MG)は別途、編成両端のクハ103形(103系の制御車。画像ここ参照)に210kVA(以下参考の※2:「中部電力|・知ってる?電気のしくみ - ボルト・アンペア・ワット」参照)のものが各1台ずつ取付けられ、それぞれ5両給電としたようだ。 1963年(昭和38年)3月25日先行試作車1編成(低運転台の103型)が落成し、9か月にわたる試運転を繰り返した後、12月28日より営業運転に入り、1968(昭和43)年10月1日10両編成運転を開始 。そして、1970(昭和45)年の今日・7月31日に国電山手線で初の103系冷房車運行が開始されたという訳である。
国鉄の列車冷房は1960年代前半まで、特急列車や優等車両に限って装備されていたが、1966(昭和41)年頃からは急行列車の二等車(普通車)にも搭載対象が広げられたが、山手線は103系通勤電車が最初に投入された路線である。1974(昭和49)年以降に製造された先頭車からは踏切事故対策を踏まえて高運転台となった上に1981年からは自動列車制御装置(ATC)を装備するようになった。
ただ、首都圏における国鉄の通勤路線(国電)における輸送量増強を目指し、1964年(昭和39年)に国鉄の通常常務会で壮大なプロジェクト通勤五方面作戦が策定されたが、この年から国鉄は赤字になるがその原因に、この通勤五方面作戦や新幹線の建設に伴う支出、自動車の普及によるモータリゼーション、都市への人口集中による地方ローカル線の営業不振などがあげられるのが皮肉な問題でもある。
(画像は、1988年まで使用されていた103系有楽町駅にて、Wikipediaより)
参考:
山手線 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%89%8B%E7%B7%9A
鉄道の歴史 (日本) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E9%81%93%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
しらこばと車輌工場 > READYMADE > 国鉄山手線・103系
http://newtown.cool.ne.jp/models/ready/jnr103_shina-17/
※:1東京近郊路線図
http://japan-city.com/tokyo/map.html
※2:中部電力 |・知ってる?電気のしくみ - ボルト・アンペア・ワット
http://www.chuden.co.jp/manabu/shikumi/bort/index.html

参議院選挙で自民党が歴史的敗北を喫した日

2009-07-29 | 記念日
阿倍政権が問われた第21回参議院議員通常選挙は、2007(平成19)年7月29日投票開票された。
自民党は、獲得議席数を改選の64 議席から37議席に減らし、1989(平成元)年に宇野宗佑首相が退陣した過去最低の36議席(第15回参院選)に匹敵する歴史的大敗となった。公明党も選挙区で擁立した5人のうち3人が落選する惨敗で、非改選を含む与党の議席は過半数を割り込んだ。しかし、このような厳しい自民党敗北の結果にもかかわらず安倍晋三首相は、同日夜のテレビ番組で、「私の国造りはまだスタートしたばかりで、総理としての責任を果たしていかなければならない」と延べ、続投する意向を表明した。公明党の太田昭宏代表も首相続投を支持したが、自民党の中川秀直幹事長は選挙結果を受けて「幹事長の責任であるのは間違いない」として、首相に辞表を提出。青木幹雄参院議員会長も責任の重さを痛感している」として、辞意を表明した。一方の民主党は改選議席の32議席から60議席に躍進し、自民党が1955(昭和30)年に結党して以来参院で保ってきた第1党の座が初めて入れ替わった。このため民主党幹部は同日夜、阿倍首相の退陣と衆院の早期解散を要求した。
安倍内閣は「美しい国づくり」と「戦後レジーム(【regime】体制。政治体制。政権)からの脱却」をスローガンに、歴代自民党政権が成し遂げられなかった、教育基本法の改正や防衛庁の省昇格国民投票法などを掲げ、教育については、教育再生会議を立ち上げ、
第166回国会には教育再生関連3法案(第166回国会参照)を成立させた。就任早々には、小泉政権下で首脳の往来が途絶えていた中国や韓国を訪問した。組閣当初は70%近くの支持率があったものの、2005(平成17)年の郵政国会において郵政民営化法案に造反し党を除名された議員を復党させた以降、支持率が急落。さらに、年金記録問題が持ち上がった同年5月下旬以降さらに支持率が急落した。
さらに追い討ちをかけるように、本間正明(大阪大大学院教授)税調会長の愛人の公務員宿舎入居問題による辞任、佐田玄一郎行革担当大臣の架空事務所費問題による辞任、松岡利勝農林水産大臣の事務所費問題によると思われる自殺、疑いが晴れない赤城徳彦農林水産大臣他の事務所費問題などの政治とカネの問題のほかに、柳澤伯夫厚生労働大臣の「女性は産む機械」発言、久間章生防衛大臣による「原爆投下はしょうがない」といった不用意な発言など、相次ぐ閣僚の不祥事・失言が重った。
それに、2006年の改定教育基本法採決のほか、この2007(平成19)年の第166回国会(安倍内閣)では、とりわけ強行採決が多かった。与党が5月30日の厚生労働委員会での年金時効特例法案、社会保険庁解体・民営化法案など、年金記録問題を中心に、短時間の審議のものも多く、本会議や委員会を含め17回も強行採決を連発した。このような度重なる強行採決に反感を覚えるマスコミ・国民が多く、第21回参議院議員通常選挙での与党大敗の一因となった。
与党が5月30日の厚生労働委員会での年金時効特例法案、社会保険庁解体・民営化法案など、年金記録問題を中心に、短時間の審議のものも多く、本会議や委員会を含め17回も強行採決を連発した。このような度重なる強行採決に反感を覚えたマスコミ・国民が多く、それがこの選挙での与党大敗の一因となったようだ。
自民党が厚い支持層を誇ってきた地方の1人区で6勝23敗と大きく負け越したほか、都市部でも票が伸び悩んだ。公明党も過去最低と同数の8議席にとどまった。公認候補を擁立した5選挙区では、2勝3敗と負け越した。選挙区選で公認候補が落選したのは、1989(平成元)年の参院選以来となった。
朝日新聞社の集計によると、この選挙の投票率は、58,64%で,前回・2004(平成16)年の56,57 %を2%以上上回り、12年に1度の統一地方選と重なって投票率が落ち込む「亥年現象」の年だったが初めてこの現象が起きなかった。又、同社が全国で実施した投票者への出入り口調査でも全体の56%が阿倍首相に「代わってほしい」と答えていたという(2007年7月30日朝日新聞朝刊)。
選挙前からすでに自民党大敗を予測していろいろなことが言われていが、その中に、安倍首相は国民が政治に求めていることをわかっていないという意見があった。そして、永田町界隈で「安倍はKY」という陰口がささやかれていたのだ。「KY」・・つまり、当時から女子高生らの間で流行っていた隠語で「場の空気(K)が読めない(Y)」人のこと(KY語参照)。
民主党の当選者の多くが、勝因について「小泉・安倍構造改革によって、格差が生じ、地方の疲弊を招いた」といった趣旨の発言をしていた。これが、妥当な見方かどうかは分らないが、もし、そうだとすると、2005(平成17)年9月の郵政解散・総選挙での「自民大勝」は何だったのか?
参院選大敗後の8月27日、安倍改造内閣を発足。同時に自民党役員も一新した。そして、9月10日、安倍首相は第168回臨時国会の所信表明演説(以下参考の「第165回国会における安倍内閣総理大臣所信表明演説」参照)を行なったが、代表質問が始まる予定の9月12日、緊急記者会見を開いて首相の職を辞することを表明した。表向きの理由とは別に本当は過度のストレスによる機能性胃腸障害(以下参考の※:「機能性胃腸症とは」参照)の悪化によるものらしいが、海外メディアを含めて「敵前逃亡」「政権放りだし」「偽りの所信表明」などと散々な酷評を被る事態となった。
阿倍首相は辞職表明と同時に総裁選で早急に後継総裁を選ぶよう指示。これを受け、9月23日に自民党総裁選が行われ、党内8派閥の領袖から雪崩現象的に支持された福田康夫候補が麻生太郎候補を133票差(福田330票、麻生197票)で破って総裁に選ばれた。しかし、その後の内閣総理大臣指名選挙(首班指名選挙)において与党が過半数を占める衆議院では圧倒的多数で指名されるが、逆に野党が過半数を占める参議院では、民主党の小沢一郎が指名されるという“ねじれ国会”(逆転国会)の象徴的現象が起きた。
両院協議会が開催されるが議論はまとまらず、法規に則り衆議院の議決が国会の議決となり、福田が内閣総理大臣に指名された。福田首相は記者会見で、この内閣を「背水の陣内閣」とネーミングした。
しかし、その福田首相も、ねじれ国会の中で、民主党小沢代表との間での大連立構想が模索されたりしたが頓挫し、その後、与野党は対決姿勢を強めることになり、翌・2008(平成20)年1月第169回国会では、参議院で問責決議が可決されたが、翌日には内閣信任決議が衆議院で可決され、首相に留まることができた。その後、同年8月2日、内閣改造により福田改造内閣を発足させ、麻生太郎を幹事長に指名するなど、自民党執行部の人事も刷新したが、その1月後の9月1日、午後9時30分より、突然緊急記者会見を開催し、その席上、「内閣総理大臣・自民党総裁を辞職する」ことを表明。記者との「安倍晋三前首相も唐突に辞められ、あなたもこのような形で辞められることに対して、国民の間から政治不信が起こるのではないか?」との質疑応答の中で最後に、「私は自分自身を客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんです」の有名な言葉を残し、9月24日、内閣総辞職。尚、国政選挙の結果を経ずに成立し、かつ、在任中に国政選挙が無い内閣としては、羽田内閣以来の内閣となる。
9月24日、第170回国会において首班指名が行われたが、前任の福田就任時と同じくねじれ国会のあおりを受け、前回同様に衆参で首班指名が異なり、衆議院は自民党・麻生を指名し、参議院は民主党の小沢を指名。そして、両院協議会でも成案を得るに至らず、衆議院の優越により衆議院で指名された麻生太郎を国会の指名として衆議院議長が奏上した。
解散ができなかった福田にかわり、自民党内の圧倒的人気を得た麻生は「選挙の顔」として「解散・総選挙を行うことを前提に」首相になったとも言われており、野党も速やかな衆議院解散・総選挙の実施を要求してきたが、結局、景気対策などを理由に「国民に信を問う」こともなく、ずるずると、今日まで、政権の座に居座り続けた。
首相になって以来、マンガ好きの首相は、漢字が読めないことでも有名になり、空気の読めないKY度は阿倍首相の比ではない。もう、海外でも有名なKYの代名詞にさえなっている。よくもこれほどと言えるほどに失言も多く、国民の支持率は下がる一方で、同じ身内の自民党内からも反麻生を叫ぶ人が次々出る始末。解散するにも解散できない糞詰まり状況の中、とうとう、どうせするならもっと早くすればよいのに、何故こんな時期に・・・?と思われる今頃になって解散を決意??
2009(平成21)年7月21日午後、衆院解散が決議された。
郵政民営化の是非を問うと小泉首相(当時)が2005(平成17)年8月に行って以来4年ぶり。その後、衆議院において自民党圧倒的多数の中、1年ごとに安倍、福田、麻生と政権のたらい回しした後、麻生内閣の任期満了(9月10日)目前の解散・総選挙となった。総選挙は8月18日公示、同30日投票となった。
今度の選挙では、官僚主導からの脱却と「しがらみのない政治」実現のため、政権交代を唱える民主党か?それとも、1955(昭和30)年の結党以来続いてきた自民党か?この2大政党のどちらにこれからの日本の将来を委ねるのか・・・。国民一人一人の良識が最も問われる大切な選挙となるだろう。よくよく判断し、全員が投票する・・・ぐらいのつもりで臨んで欲しいと思う。
(画像は、7月29日午後11時2分、自民党本部で質問の答える阿倍首相【中央】、左は、丹羽雄哉総務会長、右は、中川秀直幹事長。2007年7月30日朝日新聞朝刊より)
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参議院選挙で自民党が歴史的敗北を喫した日:参考

2009-07-29 | 記念日
参考:
第21回参議院議員通常選挙- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC21%E5%9B%9E%E5%8F%82%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E9%80%9A%E5%B8%B8%E9%81%B8%E6%8C%99
参院選2007 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/election/sangiin2007/
第42回<戦後レジームからの脱却>(法学館憲法研究所)
http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/42.html
asahi.com:自民の地方幹部が苦言 首相続投は7割が支持
http://www2.asahi.com/senkyo2007/news/TKY200708010480.html
場の空気 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%B4%E3%81%AE%E7%A9%BA%E6%B0%97
第44回衆議院議員総選挙 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC44%E5%9B%9E%E8%A1%86%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E7%B7%8F%E9%81%B8%E6%8C%99
機能性胃腸症とは
http://www.ne.jp/asahi/clinic/hirano/SYOKAKI/FD.htm
時事ドットコム:特集 衆院解散、総選挙へ
http://www.jiji.com/jc/v2?id=20090712_asou.ministry&rel=j&g=phl
特集 衆院解散、総選挙へ【1】21日午後、衆院解散
http://www.jiji.com/jc/v2?id=20090712_asou.ministry_01
第165回国会における安倍内閣総理大臣所信表明演説
http://www.kantei.go.jp/jp/abespeech/2006/09/29syosin.html


岩崎恭子が五輪競泳史上最年少金メダルリストとなった日

2009-07-27 | 歴史
1992(平成4)年7月25日、スペインのバルセルナで第25回夏季オリンピック大会が開幕。開幕から3日目の7月27日、中学2年生(14歳)の岩崎恭子が女子競泳200m平泳ぎであっと驚かせる金メダルを獲得。しかも、2分26秒65の五輪新。外国選手も観衆も報道陣も「イワサキって誰」と驚いた。この種目では日本選手の優勝は1936(昭和11)年のベルリン大会での前畑秀子依頼56年ぶり。金メダルを獲得したレース直後のインタビューで「いままで生きてきた中で一番幸せ」の名文句は評判になった。その他、メドレーリレーでは7位入賞、100m平泳ぎでは13位であった。
この大会では、8月1日女子マラソンで有森裕子が日本女子陸上では1928(昭和3)年のアムステルダムオリンピックの人見絹枝以来64年ぶりの五輪メダルとなる銀2、同9日の男子マラソンで森下広一銀など日本は金3、銀8、同11のメダルを獲得。又、バルセロナ市内のオリンピック体育館をポストモダンの代表的な建築家・磯崎新が設計したほか、開会式では坂本龍一マスゲームの音楽を作曲、会場でオーケストラを指揮するなど、日本人が競技以外でも活躍した大会となった。
この1992(平成4)年は、冬季オリンピックアルベールビル(フランス)で、女子スピードスケートの橋本聖子が冬季五輪日本女子初のメダルとなる銅。女子フィギュアスケートの伊藤みどりが女子選手では始めて五輪で三回転半ジャンプを決め銀メダル。そして、14歳の岩崎恭子が200m平泳ぎで五輪競泳史上最年少、日本五輪史上最年少の金メダルを獲得と、男子もおおいに頑張った・・・が、この年に行われた2つのオリンピックでは、女子選手たちが見せた記録や活躍に日本中が沸いた(補足、尚、この大会から、日本のお家芸であり柔道女子が正式種目となり、当時高校生であった田村亮子などが出場し、7階級で銀3個、銅2個を獲得したが、金メダルを獲得できなかった)。
現在、オリンピックなどで「水泳」という場合は、競泳・飛び込み・水球・シンクロナイズドスイミングの4競技を指しているが、その中の競泳は定められた距離を泳ぎきるのにかかる時間を競うもので、自由形(通常はクロール、略称Fr)、背泳ぎ(略称BaまたはBc)、平泳ぎ(略称Br)、バタフライ(略称BuまたはFly)の4つの泳ぎ方(泳法)があるが、この4泳法の最古の泳法は平泳ぎである。平泳ぎは泳ぎの巧緻(こうち)性と耐久性が優れていることから、生活用からみても軍事用としても水泳の価値を高め、やがて長い距離を泳ぎ続けること(遠泳)や、一定の距離を速く泳ぐこと(競泳)の泳法に用いられた。近代になって、第1回のオリンピック大会(1896年・アテネ)での水泳の種目は、水夫(ふなのり。かこ。)のための100m自由形1種目のみであり、競泳の泳法は平泳ぎが用いられた。
日本には古くから伝えられた独特の日本泳法(古式泳法)があり、そのなかには流派がいくつもある。現代のスピードを競う競泳は、明治末期から大正初期にヨーロッパから西欧近代泳法が伝えられ、1914(大正3)年、第1回全国水泳大会以降、国内及び国際水泳大会はすべて「日本オリンピック委員会」である「日本体育協会」の組織の中で行われてきた。
近代オリンピックの基礎がほぼ出来上がったのは、1912年第5回ストックホルム(スウェーデン)大会からで、あり、オリンピックへの女性が参加するようになったのもこの大会が最初で、100m自由形、400mチーム、ダイビングがあった。なお、日本もこの時からオリンピックへ陸上競技で初参加している。
水泳で、日本がオリンピックで、初めてメダルを獲得したのは、1928(昭和3)年の第9回アムステルダム大会であり、競泳男子200m平泳ぎで鶴田義行選手が2分48秒8で金メダル、競泳男子4×200mリレーで銀メダル、競泳男子100m自由形で高石勝男が銅メダルを獲得した。その後、第10回(1932年)ロサンゼルス(アメリカ)で、水泳・男子は清川正二らが金メダルを5個獲得、男子200m平泳ぎでは日本人選手(鶴田)が2連覇を果たしている。又、この大会で、女子競泳200m平泳ぎに出場した前畑秀子選手が銀メダルを獲得。その後も、第11回(1936年)ベルリン(ドイツ)では、ヒトラーが大会組織委員会総裁に就任 、初めて聖火リレーが行われるが、当大会で、水泳・男子で、日本人選手が金メダル3個を獲得、水泳・男子200m平泳ぎは日本人選手による3連覇(葉室鉄夫)を達成。又、水泳・女子200m平泳ぎで前畑秀子が日本人女子初の金メダルを獲得するなど大活躍している。 その後、第12回(1940年) 日本での東京大会及び第13回(1944年)ロンドン(イギリス)大会は第二次世界大戦のため中止された。
戦後初となる第14回(1948年)ロンドン(イギリス)での大会には、日本とドイツは招待されず。このとき、日本ではオリンピックの水泳競技の決勝と同日に日本選手権が開催され、古橋廣之進は400m自由形で4分33秒4、1500m自由形で18分37秒0を出し、ロンドン五輪金メダリストのタイムはおろか当時の世界記録をも上回った。又、同年9月の学生選手権の400m自由形では自己記録を更新する4分33秒0、800m自由形では9分41秒0を出し、これも世界記録を越えた。これらの記録は日本が国際水泳連盟から除名されていたため、世界記録としては公認されなかったものの、「フジヤマのトビウオ」古橋の名は日本だけでなく世界のスイマーから注目を集めた。(オリンピックでの水泳に関する記録は以下参考の「福岡大学図書館オリンピック関係図書コレクション」の夏季オリンピック、また、「財団法人日本水泳連盟 公式ホームページ」のデーターベース等参考にされると良い)。
このように、昭和初期から終戦直後まで、周りを海に囲まれた国の日本人スイマーは、競泳で大活躍、「水泳ニッポン」とまでいわれた時代を作ってきた。競泳の中でも、特に平泳ぎを得意としていた。
この当時強かったスポーツは軍隊式の猛特訓の成果であった。それは、水泳という競技においても同様であった。激しい猛特訓のなかから、体力に恵まれた少数の選手がずば抜けた力を発揮していたのであった。然し、スポーツ界でのこのような猛特訓的なやり方は、身体を壊す選手も出ることから戦後、否定されるようになるが、水泳など水中での重力を受けない競技においては、少々猛特訓をしても、身体を壊すことなく優秀な選手を数多く輩出していたのであるが、戦後、日本経済が復興し始めた昭和30年代頃から、日本の水泳界は低迷を始める。
そして、1964 (昭和38)年、念願であった第18回東京(日本)大会では、柔道とバレーボールが正式種目に加わり、これらの選手が活躍し、日本は金16個、銀5個、銅8個計29個のメダルを獲得と言う快挙を遂げるが、そのうち水泳では、男子800mリレーで辛くも銅メダル1個を獲得しただけである。これは、陸上競技においても同様で、男子マラソンで、円谷幸吉が銅1個を獲得しただけで、日本が取ったメダルは格闘技である柔道やレスリング・それに、体操などが殆どである。
本来のオリンピックの走る・投げる・飛ぶ・泳ぐ・といった人の基礎的体力を要する競技においては全く外国人選手に歯が立たなくなったが、その傾向は以来ずっと続いている。何か、余り競争の無い豊かな一部の国でしかやっていないような隙間にある競技でメダルを稼いでいるって感じがする。
ただ、1992(平成4)年、岩崎恭子ら女子がオリンピックで活躍するようになって、女性の強くなった日本では、オリンピックのあらゆる競技で女性が活躍するようになり、ここに来て、第28回(2004年)アテネ(ギリシャ)大会で北島康介選手が伝統の平泳ぎで100mと200mで金2個を獲得、次の第29回(2008)北京(中国)でも同2種を2連覇するなど、男子競泳でも活躍する選手が出てきたことはうれしいことだ。
私など、海と山に囲まれた神戸に生まれ、海洋国日本の男児が泳げないなどというのは恥といった雰囲気の中で育ち、しかも、家から海まで子供の足で歩いて30分もあれば行けると言う環境から、夏休みなど近所や学校仲間と毎日のように朝から晩まで海で過ごし、真っ黒になっていた。
私だけではなく、当時は仲間は殆ど誰でもが、1キロや2キロの距離は泳げたし、私など一度海に入ると1時間ぐらいは陸に上ってこなかった。オリンピック競技の中でも、水泳などは、外国人との体力差は技術と訓練で克服し勝つこともできる競技だと思うので、これからも「水泳ニッポン」の復活に頑張って欲しいものと思う。
バルセルナの大会で、若干14歳で世界の頂点に立ってしまった岩崎の戸惑いの笑顔には、無心の恐さが見られたが、本人には、その後の活躍において、金メダルへの負担を余りにも強く感じさせたようだ。彼女は4年後の第26回(1996年)アトランタ(アメリカ)大会への出場権は「自分でもがきとって出場」したが、残念ながら大会では予選落ちとなったものの、「連れて行って貰ったバルセロナ」からのその後の岩崎の軌跡には彼女の成長を感じた。楽しんで泳いでいるようだった。
1998(平成10)年、20歳で競技選手を引退。米国・ミッションビエホ(カリフォルニア州)に海外指導者研究生として留学。その後、テレビなどで競泳のコメンテーターとして活動している。『フリー百科事典Wikipedia』には、日本水泳連盟の基礎水泳指導員の資格も取得した・・・とあるので、今は水泳の指導や普及にも努めているのだろうね~。
(画像は、バルセロナオリンピック女子200m平泳ぎ決勝でゴール直前、先行するノール選手を必死に追う岩崎恭子選手。アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)。
岩崎恭子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%B4%8E%E6%81%AD%E5%AD%90
古橋廣之進 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E6%A9%8B%E5%BA%83%E4%B9%8B%E9%80%B2
財団法人日本水泳連盟 公式ホームページ
http://www.swim.or.jp/
福岡大学図書館オリンピック関係図書コレクション
http://www.lib.fukuoka-u.ac.jp/e-library/tenji/Olympic2004/top.html
水泳 - Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%B0%B4%E6%B3%B3/
JOC - 水泳
http://www.joc.or.jp/sports/aquatics.html
古橋廣之進 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E6%A9%8B%E5%BA%83%E4%B9%8B%E9%80%B2

うま味調味料の日(味の素の日)

2009-07-25 | 記念日
何時も参考にしている「今日は何の日~毎日が記念日~」には今日・7月25日の記念日に「味の素の日」がある。これは、日本記念日協会の記念日にある「うま味調味料の日」と同じこと。
100年ほど前、東京帝国大学(現:東京大学)の池田菊苗博士が昆布だしのおいしさの素がグルタミン酸あることを突き止め、この味を「うま味」と名付けた。これを家庭でも手軽に使えるようにしたのが「うま味調味料」で、記念日を制定したのは日本うま味調味料協会。目的は“うま味についての正しい理解とその調味料の普及を目的”としているのだそうだ。日付は博士が「グルタミン酸塩を主成分とする調味料製造法」で特許を取得した908(明治41)年7月25日に因んだもの。・・ということである。
日清・日露の量戦争のなかで進んできた軍事偏重の日本的産業革命(以下参考の※1:「産業革命【日本】」、※2:「日本産業革命 - Yahoo!百科事典等」参照)は、1908・1909(明治41・42)年ごろには確立され、不況のなかで資本の集中が進みつつあった。しかし、日本の科学の状況はまだ、西欧の模倣が主であったが創造的な研究を求めた科学者が躍動を始めていた。
このころ恐るべき伝染病の予防法・治療法も次々開発され、そんな開発者であるドイツのコッホエールリッヒパスツール等のもとへ北里柴三郎志賀潔秦佐八郎ら日本の青年医学者らが留学し多くの成果をあげ、又、軍部で特に問題となっていた脚気の原因についてドイツでタンパク質科学を学んで帰ってきた鈴木梅太郎が1910(明治43)年、米ぬかより脚気に効く成分(ビタミンB1)を抽出した(オリザニンと命名)。
がんについても、ドイツで学んで帰ってきた山極勝三郎が、イエウサギ(【家兎】、ヨーロッパ原産のアナウサギを家畜化し改良したもの)の耳の内側に毎日コールタールを塗布し、1915(大正4)年、がんの実験的発生に世界で成功するなど、優れた人材が育ちつつあったが、まだ、日本国内でそのような研究開発が行なえる社会基盤は弱かった。そのような中で、池田菊苗の「うま味調味料」(味の素)は、一味違った発明であった。東京大学の助教授になってから1899(明治32)年よりドイツのライプチヒ大学に1年半留学し、オストワルドのもとで純正化学を学び、1901(明治34)年帰国後、東京帝国大学教授になった池田が1907(明治40)年の時、昆布から「うま味」の素であるグルタミン酸塩を取り出す仕事を始め、鈴木三郎助と組んで1909(明治42)年に工業化に成功した。ここで見落とせないのは、この成功の基礎には物理学があったことと、池田が取得した特許は「うま味」の素材以外にも多数あったことだという(アサヒクロニクル「週刊20世紀」)。尚、池田の他の特許などについては、以下参考に記載の※3:「田中舘愛橘記念科学館」の化 学の池田菊苗主要な業績の説明を、又、「うま味調味料」(味の素)発明の動機などは、※4「【青空文庫】池田 菊苗著「味の素」発明の動機」に詳しく書かれているのでそこを読まれると良い。
知己を通じて開発中から池田博士と面識のあった鈴木が池田の特許の実施契約を得て、鈴木製薬所(現在の味の素株式会社)にて工業化し、1909(明治42)年5月、新調味料には「味の素」と名附けられ販売された。冒頭掲載の画像:左は、1809(明治42)年5月26日付け、東京朝日新聞に掲載の味の素の広告とその下「具留多味酸」(グルタミンサン)の写真である。広告には、“理学博士池田菊苗先生発明の理想的調味料のタイトルで「美食に飽きたる家庭に味の素をすヽむ 経済と極便とを欲せざる主婦には味の素の必要なし」・・”と書かれているが、昔の広告は大層な文言のものが多いね~。製造発売元は鈴木商店。東京丸の内・・とある。因みに、掲載左写真の下にある「具留多味酸」とあるものは、グルタミン酸塩製造第1号のもので、実際に発売はされなかったものだそうである。
池田が発明する前に「グルタミン酸」というアミノ酸はすでに知られていたようであり、それをなめて「不快」などと言う研究者がいた中、池田は昆布ダシが「グルタミン酸塩」を含むことと、「グルタミン酸塩」こそがうま味の正体であることを確かめたのであり、このグルタミン酸塩を、小麦や大豆などの植物性蛋白質から抽出し、新調味料の製造方法を発明、特許を取得した訳であるが、片山正夫の追想文「池田菊苗先生の思出」によると、後年理化学研究所の同僚となる鈴木梅太郎は「池田さんの仕事は自分の方でやるべき性質のものであるが、洒落では無いがうまくやられた。グルタミン酸はなめた事はあるが、塩はなめなかつた」と話していたらしい。
池田が特許取得後、さっそく鈴木三郎助が「味の素」という名で販売を開始したものの、当初、売れ行きもはかばかしくなかったようだ。味の素の製法は、小麦や大豆などを塩酸で分解するというもので塩酸の臭気や、廃棄される多量のデンプンに対する周囲の苦情も多くなり、1913(大正2)年には神奈川・川崎に工場を設立して本格的に大量生産に着手し、芸者に割烹着を着せた美人画広告で商品の浸透を図っていく。しかし、新工場では臭気の強い塩酸から硫酸に切り替えるが、この硫酸法では純度の低いものしか得られず、1915(大正4)年には再び創業時の濃塩酸分解法に切り替えるが、この当時はまだまだ不純物も多く、色や匂いも良いとは言えなかったようだ。
このころから、鈴木商店を悩ませていたことに「味の素の原料は蛇」と言う風評が大衆の間に広がったていたことがある。全く根拠の無いデマであるが、大阪や浅草界隈の香具師(ヤシ)の口上として面白おかしく語られるが、これを最初に言い出したのは当時の反骨的なジャーナリスト宮武外骨(雑誌『スコブル』に初めて掲載)だそうである。彼は、1921(大正10)年に出した雑誌『一癖随筆』の中でも再度持論を展開しているという(以下参考の※5:「国立科学博物館産業技術の歴史」参照)。これにより味の素の売り上げは一時激減したという。これを打ち消すために朝日新聞に出した広告にはこんな文言・・・「味と言うものは昔から酸い甘い鹹(しおから)い苦いの四つと決まっていたものですが、まだ外に一色味の外の味があるにちがいないと池田博士が長年の研究の結果(中略)小麦、大豆から製することにしたのが今流行の味の素という調味料です」・・・があったという(アサヒクロニクル「週刊20世紀」)。その後、関東大震災の折、工場周辺の住民に、食用にと原材料だった大量の小麦を放出したことでようやくこの噂は沈静化したようだ。
その後、第1次大戦による好況を経て、ようやく売れ行きが伸び、同社は、新聞半ページ大の広告を出すようになり、店頭の看板なども配布する。冒頭画像:右(伊東深水の原画によるポスター。)は、そんな時につくられた美人画簿ポスターだそうだ(アサヒクロニクル「週刊20世紀」)。
当時の「味の素の原料は蛇」と言う風評被害に対しては、新聞各紙に広告を載せて対抗したことで、逆にこの騒動が味の素の知名度を上げることにもなったようだ。近年某大手電機メーカーが欠陥商品に対して新聞、テレビを通して大々的にお詫び広告を掲載、これを、継続的に行なったことで、そのメーカーの信用力が高まったのとちょっと似ている。ただ、どこかの湯沸かし器のメーカーが同じ様に欠陥商品に対して、某電機メーカーの真似事でお詫び広告をしていたが、事故に対する最初の対応が悪かったし、遅ればせながらの真似事なので、これはかえって、物笑いの対象になっている。
(画像は、左:1809年5月26日付け、東京朝日新聞にのった味の素の広告。その下は具留多味酸。画像右:伊東深水の原画による味の素のポスター。いずれも、「アサヒクロニクル・週刊20世紀」より)
参考:
池田菊苗
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E8%8F%8A%E8%8B%97
味の素ホームページ
http://www.ajinomoto.co.jp/
日本うま味調味料協会
http://www.umamikyo.gr.jp/index.html
医学と医療の年表 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%BB%E5%AD%A6%E3%81%A8%E5%8C%BB%E7%99%82%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8
山極勝三郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%A5%B5%E5%8B%9D%E4%B8%89%E9%83%8E
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
片山正夫 - Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%89%87%E5%B1%B1%E6%AD%A3%E5%A4%AB/
理化学研究所 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/IPCR
伊東深水 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E6%B7%B1%E6%B0%B4
※1:産業革命【日本】
http://www.tabiken.com/history/doc/H/H140L100.HTM
※2:日本産業革命 - Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%94%A3%E6%A5%AD%E9%9D%A9%E5%91%BD/
※3:田中舘愛橘記念科学館/化 学
http://www.civic.ninohe.iwate.jp/100W/03/select.html
※4:【青空文庫】池田 菊苗著「味の素」発明の動機」
http://www.aozora.gr.jp/cards/001160/card43623.html
※5:国立科学博物館産業技術の歴史
http://sts.kahaku.go.jp/sts/detail.php?id=1060&key=106010681012&APage=2