今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

大佛次郎 (小説家『鞍馬天狗』) の 忌日

2008-04-30 | 人物
今日(4月30日)は、大佛次郎 (小説家『鞍馬天狗』) の1973(昭48)年 の 忌日。<75歳>
大佛次郎 は、1897 (明治30)年 10月9日、横浜市生まれ。本名野尻清彦。1921(大正10)年、、東京帝国大学卒業(24歳)。その後、鎌倉高等女学校(現・鎌倉女学院高等学校)教師となった。翌年外務省条約局勤務(嘱託)となり、この時代に小説を書き始め、退職して小説家の道に進む。
1924(大正13)年 (27歳)の時、 初めて大佛次郎の筆名で『隼の源次』を発表、続いて、鞍馬天狗の第一作「鬼面の老女」 をいづれも『ポケット』(博文館)より発表. 以後この名前で著述活動をおこなった。この筆名の由来は、執筆当時、鎌倉大仏の裏手に住んでいたことからだという。鎌倉をこよなく愛した大佛次郎は、1964(昭和39)年以降。古都鎌倉の聖域である鶴岡八幡宮裏山・通称御谷まで自然と歴史的環境が開発と都市化の波に次々に破壊される現実を目の当たりにしたことから、地元住民と一緒に、古都としての景観と自然を守ろう運動を起こした。そして、英国のナショナル・トラストの活動に解決の糸口を見いだし、朝日新聞に「破壊される自然」を連載し、鎌倉風致保存会の結成を推進。初めて我が国にナショナル・トラスト運動を起こしたことがきっかけになり1966(昭和41)年には、超党派の議員立法によって「古都保存法」が制定された。そのようなことから、鎌倉風致保存会は日本のナショナル・トラスト第1号といわれるようになった。
ナショナルトラスト運動は自然環境等を経済的な理由での無理な開発による環境破壊から守るため、市民活動等によって買い上げる・自治体に買い取りと保全を求める活動である。現在、知床半島(北海道斜里町)、釧路湿原(北海道釧路市)、トトロの森:狭山丘陵(埼玉県所沢市)、柿田川(静岡県清水町)、天神崎(和歌山県田辺市)など全国各地に56の団体が活動をしているようだ(以下参考に記載の「社団法人日本ナショナルトラスト協会」の全国ナショナル・トラスト団体を参照)。
余談だが、その中に、私の地元、兵庫県には、「アメニティ2000協会 」(兵庫県・西宮市 )がある。団体ホームページ →ここ
同協会では、今1934(昭和 9)年にヴォーリズ建築事務所の設計により六甲山に個人の別荘として建てられた「ヴォーリズの六甲山荘 」をナショナルトラストの第1号として購入し、保存と再生に取り組もうとしているようだ。
大佛次郎 は、1964(昭和39)年文化勲章 受賞。1968(昭43)年71歳 の時、国立ガンセンター入院。その後入退院を繰り返しながら 執筆活動を続けていたが、1973(昭48)年の今日(4月30日)、同センターにて永眠する。75歳であった。
今年・2008(平成20)年7月、G8サミットが北海道洞爺湖で開催される。主要課題としては、・世界経済の持続的成長に中で、投資、貿易、知的財産権保護、新興国の台頭、資源問題などが重要な課題。 ・大量破壊兵器などの不拡散。・テロ問題。と共に、・地球環境問題が重要なテーマーとして論じられるであろう(北海道洞爺湖テーマー参照)。
今や環境問題はそれまでの国家問題から地球温暖化の問題など地球規模の問題となっている(地球温暖化対策参照)。
1997(平成 9)年、京都にて「気候変動枠組条約第3回締結国会議」が開催され、ここで取り決められた京都議定書をもう一歩進めた段階で論じられるべきだが、福田さんに強力なリーダーシップが発揮できるだろうかね~。いや、今の福田氏の言うことなどみなさんまともに聞いてもらえるのでしょうかね~。
少々、脱線してしまったが、大佛次郎 と言えば、単に数々の小説家としてだけでなく、自然保護のリーダーとして、立派な業績を残している。
だけど、私にとっては、大佛次郎 と言えば、何と言っても、「鞍馬天狗」だよ。
先日歌手「おふくろさん」の歌詞変更問題で森進一に対し自作曲の歌唱禁止を通告し話題となっていた川内康範が亡くなったが、彼の原作「月光仮面」が1958(昭和33)年にテレビドラマ化され、子供たちのヒーローの元祖となったが、白い覆面にサングラス姿で白いオートバイに乗って颯爽と現れ、悪を懲らしめては去っていく神出鬼没のヒーロー「月光仮面」は、「鞍馬天狗」をベースにした活劇を企画化したものだといわれている。
この大佛次郎が幕末を舞台に創作した「鞍馬天狗」は、戦前から戦後にかけての子供たちのスーパーヒーローである。黒い頭巾を被り、白馬に乗って颯爽と現れる鞍馬天狗の映画・・・といえば、アラカンこと嵐寛十郎のお家芸と思うのだが、実は、アラカンは3代目で、映画版の初代鞍馬天狗は実川延笑(1924年『女人地獄』帝国キネマ)で、2 代目が尾上松之助(1925年『鞍馬天狗』 前篇(第一篇)~第五篇。日活映画)、3代目が嵐寛寿郎であり、1925年牧野省三のマキノ・プロダクション入り、牧野から与えられた嵐長三郎の芸名(初名嵐徳太郎)でシリーズ第1作「鞍馬天狗異聞・角兵衛獅子」」(1927年)で映画デビュー。1927(昭和 2)年マキノからの独立に際して長三郎の名を返上、自分の属していた歌舞伎界・葉村屋((はむらや。以下参考に記載の「歌舞伎役者の屋号一覧」参照)の最高位の名跡である璃寛からとった嵐寛壽郎を名乗り、以来生涯この名で通すようになったそうである。
白馬にまたがり、黒の、宗十郎頭巾着流しスタイルの鞍馬天狗は国民的な人気を集め、その後、嵐のはまり役として寛プロ・東亜キネマ・新興・日活・東宝・東映とまたに駆けて40本以上もの鞍馬天狗映画に出演。しかし、1954(昭和29)年、原作者である大佛は”著作権無視、原作を書き換えて題名だけ盗んでいる、映画の鞍馬天狗は人を斬りすぎて原作者の意向を無視している等との理由を挙げて非難し、嵐が演ずる鞍馬天狗の中止を要求したという。そして大佛は自ら「天狗プロダクション」を設立してプロデューサーとなり、同年より小堀明男の主演による『新鞍馬天狗』シリーズの製作を開始。この作品にはアラカンの鞍馬天狗なら5本は撮れると言われた程の資金が毎回投入されたが、鞍馬天狗はアラカンのイメージが完全に大衆に植え付けられており、原作者自ら手がけたこの小堀版鞍馬天狗も大衆が好む時代劇の骨法や様式から完全に外れた、ある意味で大佛の自己満足に近い代物でとなり、興行面では完全に失敗。結局、又アラカンの鞍馬天狗の復活となる、経緯がゆえにもはやアラカン自身も乗り気ではなく、僅か2作品で打ち止めとなったという経緯があるようだ。なんかこの話、森進一と川内康範のもめごとみたいなところがあるね。その後、 東千代之介市川雷蔵 などにも演じられ、1959(昭和34)年までに、60本以上の映画が制作され、代表格の嵐寛寿郎をはじめ11人もの役者が鞍馬天狗を演じた。
わたしなどチャンバラが大好きな者は子供時代黒い頭巾を被って鞍馬天狗の真似をして遊んだが、皆が鞍馬天狗をやりたがり、何人も居たことがあるよ。(^0^)
それは、そうと、鞍馬天狗もの中でも「角兵衛獅子」ものは多く製作されているが、確か、今はベテラン俳優の風間杜夫が、子役時代に角兵衛獅子の杉作を演じていたものを見たよな~。彼は、子役の時代から演技が上手かったよ。あの美空ひばりも杉作を演じていたな~。時代劇は、余りこむづかしいことを言わずに昔のような単純なチャンバラ物が私は好きだ。冒頭の画像は、大阪・十三のテイキネゆかりの映画館・サンポード・アップルシアターで、戦前のチャンバラ大集合として「嗚呼!!花の大活動写真鑑賞会」があったときの記念テレカであり、このテレか欲しさに神戸からわざわざ大阪の映画館まで行って手に入れたものである。
(画像は、大阪・十三のテイキネゆかりの映画館・サンポード・アップルシアター発行の「嗚呼!!花の大活動写真鑑賞記念」テレカ)
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大佛次郎 (小説家『鞍馬天狗』) の 忌日:参考

2008-04-30 | 記念日
参考:
鞍馬天狗 (小説) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9E%8D%E9%A6%AC%E5%A4%A9%E7%8B%97_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)
鞍馬天狗 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9E%8D%E9%A6%AC%E5%A4%A9%E7%8B%97
大佛次郎研究会
http://www.osaragi-jiro.com/
各国別条約集・条約目録 | 国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/horei_jp/Countries/Internationl/Conventions2.htm
古都保存法 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E9%83%BD%E4%BF%9D%E5%AD%98%E6%B3%95
古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法(最終改正:平成一一年一二月二二日法律第一六〇号)
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S41/S41HO001.html
鎌倉風致保存会
http://www.fsinet.or.jp/~fuhchi/
ナショナル・トラスト
http://www.tabiken.com/history/doc/N/N222L100.HTM
社団法人日本ナショナルトラスト協会
http://www.ntrust.or.jp/
G8 SUMMIT 北海道洞爺湖サミット道民会議|ホーム
http://www.do-summit.jp/
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%AC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%BA
主要国首脳会議 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E8%A6%81%E5%9B%BD%E9%A6%96%E8%84%B3%E4%BC%9A%E8%AD%B0鞍馬天狗見参~嵐寛寿郎と「鞍馬天狗」~
http://www5f.biglobe.ne.jp/~st_octopus/MOVIE/SILENT/25ARAKAN.htm
アラカンの鞍馬天狗
http://www.asahi-net.or.jp/~uy7k-ymst/star4/arakan41.htm
川内康範 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%86%85%E5%BA%B7%E7%AF%84
日本推理作家協会/映像の鞍馬天狗
http://www.mystery.or.jp/kaiho/0412/salon.html
歌舞伎役者の屋号一覧
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E8%88%9E%E4%BC%8E%E5%BD%B9%E8%80%85%E3%81%AE%E5%B1%8B%E5%8F%B7%E4%B8%80%E8%A6%A7
嵐 徳江 arashi tokue(現・中村まつ葉)
http://www.geocities.jp/kabuki_matsuba/
風間杜夫 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E9%96%93%E6%9D%9C%E5%A4%AB

畳の日

2008-04-29 | 記念日
今日(4月29日)は、「畳の日」
全国畳産業振興会が制定。
イ草の美しい緑色から長年「みどりの日」として親しまれていた4月29日と、環境衛生週間の始まりの日であり「清掃の日」である9 月24を「畳の日」とした。畳の持つ住宅材としての素晴らしさや、敷物としての優れた点をアピールしていく日。だからこの記念日は年に2回あるわけだ。
畳(たたみ)は、現在日本で利用されている伝統的な材である。 乾燥させた稲藁を強く圧縮して縫い止め、厚さ5cm程度(標準的には5.5cm)の芯材になる板状の藁床(わらとこ。畳床とも)の表面をイ草または七島イ(しちとうい)の茎を乾燥させて織ったござ(畳表,たたみおもて)でくるんで作る。縁には畳表を止める為と装飾を兼ねて、畳縁(たたみべり)と呼ばれる帯状の布を縫い付けるが、一部には縁の無い畳もある。
日本の文化は中国や朝鮮から影響を受けたものが多いが、この畳は、中国などから入ってきたものではなく、日本で発展してきた敷物で、縄文時代の竪穴式住居の中では、土の上に草を敷き、その上にさらに動物の皮などを敷いて寝ていた。それが、弥生時代になると、(わら)を編んで薦(こも)や筵(むしろ)にし、より使いやすくした。
松尾芭蕉の句に「薦を着て誰人ゐます花の春」があるが、薦とは粗く織った筵である(句の意味は芭蕉db 芭 蕉 句 集ここ参照)。
昔、乞食と言われる人などが薦を着ていたが、藁(わら)の(むしろ)は吸湿性・放湿性、保温性にも優れ、クッション性もあり、日本の床材には非常に適したものであった。
原始的な毛皮や筵(むしろ)などの敷物に縁をかがるなど成形技術などが加わり、発展して成立したものと考えられているそうだ。
古墳時代から飛鳥時代になると、それまでの土間に寝所として板敷きの床が作られるようになる。その床の上に敷くものとして「畳」が誕生する。
文献では奈良時代の古事記中巻(神武天皇から応神天皇の段)に、
葦原の しけしき小屋に 菅畳 いや清敷きて 我が二人寝し(神武天皇)
海に入りたまはむとする時に 菅畳八重 皮畳八重絹畳八重を波の上に敷きてその上に下りましき(景行天皇)
と「菅畳(すがたたみ)」「皮畳(かはたたみ)」「絹畳(きぬたたみ)」等の記述が初めて登場している。
ところでこの「畳」と言う字であるが、「当用漢字表に採用された文字の中で唯一全く新に作られた字体の漢字だそうである。畳」の字源は、「疊」の省略形「疂」を元に当用漢字制定時に作られたものだという(詳しくは、以下参考に記載の「日本語を読むための「漢字辞典 当用漢字・常用漢字新字体・簡化字ルーツ辞典」」参照)。
しかし当時の「畳」は今のように「藁(ワラ)床」のあるものではなく、高貴な人の寝床や座る場所に敷く、敷物の総称であったようだ。これらは、使わない時は折り畳んでいた、つまり、「畳」とは「たたむ」ことを意味し、折り返して重ねる意味でもあっったようだ(「畳」の語源)。
現在存在する最も古い畳は、奈良東大寺正倉院には聖武天皇と皇后が使用した畳が残されているそうだが、これは、「御床畳」(ごしょうのたたみ)という木でできた台の上に、真薦(マコモ)を編んだござのようなものを5、6枚重ねて畳床とし、イグサの菰(コモ)で覆って錦の縁がつけられていたといい、これを2台並べてベッドのように使用していたようだ(以下参考に記載の「御床 (ごしょう) 」参照)。
真薦(ま‐こも、真菰とも書く)はイネ科の大形多年草であるが、万葉集にも登場し、
真薦(まこも)刈る大野川原の水隠(みごも)りに恋ひ来し妹が紐解く吾(あれ)は(巻十一 2703)
と歌われ、秋、茎頂に約50センチメ-トルの穂を出し、上部に雌花、下部に雄花をつけ、葉はむしろとし、果実と若芽は食用としていたようだ。
このような厚みのある畳が使われるようになったのは、貴族の邸宅が寝殿造りの建築様式になった平安時代からで、板敷きの間には、座具や寝具として畳が部分的に置かれるようになった。
冒頭に貼付の画像は、「源氏物語絵巻」などを参考に12世紀ごろの寝殿造の内部空間と装束・調度の状況などを推定復元されたものだそうでるが(週刊朝日百貨「日本の歴史}62源氏物語の世界より)、これは、後宮の中、藤壺飛香舎=ひぎょうしゃ)の壷庭に咲く藤を眺めて中宮と女房達が語り歌う、ある初夏の昼下がりのひとこま(※その右部藤木や分中宮と女房達がいる部分はカットしている)。寝殿造りの母屋に置かれ天皇や中宮の寝台として使われる御帳台(みちょうだい)の几帳(きちょうの間から見えているの寝台には木でできた台の上に畳が敷かれているのが見える。又、その脇に敷かれた高麗縁の厚畳に座っているのが藤壺だろう。飛香舎は、清涼殿の北西に隣り合った位置であることなどから平安中期以降中宮や有力な女御の局になった。この寝台の前には、このブログ「4月3日シーサーの日」で書いた、魔除け、お守りとしての狛犬と唐獅子が置かれているのが面白い。
鎌倉から室町時代にかけて、武家屋敷の主流は書院造となり、部屋全体に畳が敷き詰められるようになった。書院造りは、玄関・床の間・違い棚・付書院をもち、ふすま・障子・畳を使った、現在の日本家屋の元となった様式。畳はこの頃から、建物の床材のひとつとなった。
部屋内に何枚の畳(たたみ)が敷き詰められているかで部屋の大きさ(床面積)を表す単位は畳(じょう)と呼ぶ。ただし、畳の大きさには複数の種類があるので、どのサイズの畳に基づくかによって面積は変わる。畳は先にも書いたように寝具から発展してきたので人の大きさに合わせていたものであり、又、日本家屋そのものが3尺×6尺(半間×1間、910mm×1820mm)という寸法が全ての基本となっているため、畳もこの寸法が基本となるが、2:1の縦横比が崩れないように長さを調整されている。
畳のサイズに違いが出たのは、もともと一(いっけん)という、税金の概念が出始めた時代の影響だそうである。豊臣秀吉の時代に柱の外から外までを一間と定め(これが最も大きい寸法である京間)、関西地方ではこの畳の広さを基準に家を建てたが、江戸時代には柱の内から内までを一間として、事実上の増税を行ったのだという。このようなことから東西で同じ1間でもサイズに大きな差が出来たようである。 今、一般的な規格としては、京間(本間)、中京間(三六間)、江戸間(関東間、五八間)、団地間(公団サイズ、五六間)の四種類が有名であるが、この他にも地域ごとに様々な規格が存在するようである。
私の妹が結婚したとき、お袋がまだ結婚後の居住先が決まりもしていないのに、早々と家具類などを揃えてやったが、妹夫婦が結婚して最初に住んだアパートは団地間サイズであったので、家具が収納できずに困ったのを思い出す。当時のお袋にとっては、関西ではまだ本間が当たり前と思っているから、そんな小さなサイズの間取りがあるなんて考えもしなかったのだ。私なども、子供の頃からボロ家ではあっても本間のサイズの広い家に住んでいたので、初めて、団地サイズの4畳半の部屋にはいった時など、余りにも狭くって息苦しくさえ感じたことがある。昔は、日本家屋の畳の部屋が当たり前であったが、日本家屋の良さは、襖などで仕切っているだけなので、襖を開ければ続き部屋となり広くしたり、狭くしたり融通が利くのが特色である。畳の部屋は、洋間と違って、ごろ寝が出来るし、フローリングと違って冬暖かく、夏は涼しい。良いところが多くあるのだが、今は、洋風の家が多く、床もフローリングが多い。私の家はリビングときっちん以外は洋間と和室を半々にしてあるので、両方の良さを楽しんでいる。ただ、去年、私達夫婦の年齢からして、もう最後の大改装を行ったが、工事に約2ヶ月近くを要した。そして、和室などは、来客のときぐらいしか使わないので新しい畳に入れ替えた時、もう、部屋のガラリの雨戸を閉めたままにしておいたのに、工事が完了し、部屋においていた小さな家具を移動させて驚いた。冬なのにたった2ヶ月で、家具の置いてあった場所以外のところの畳の色があせているのである。畳の色がこんなに早く色あせるとは思わなかったな~。ま、あせていないところに家具を置けば、それ以外の場所全体が焼けているので気にしなければ見た目にはどうもないのだが・・・。「女房と畳は新しい方がよい」 と言うが、新しい畳は本当にいい臭いがして良いのだけれど、日当たりの良い部屋には向かないよね。
(画像は、「源氏物語絵巻」などを参考に12世紀ごろの寝殿造の内部空間と装束・調度の状況を推定復元されたものの部分。(週刊朝日百貨「日本の歴史}62源氏物語の世界より)
参考:
畳 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B3
環境衛生週間 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%92%B0%E5%A2%83%E8%A1%9B%E7%94%9F%E9%80%B1%E9%96%93
全国畳産業振興会
http://www.xpress.ne.jp/~tatami/
全日本畳事業協同組合
http://www.stannet.ne.jp/zentatami/
畳店の全国ネットワーク・タタミショップネット
http://www.tatami-shop.net/modules/pukiwiki/?%BE%F6%A4%CE%C6%FC
畳ワールド
http://www.tatami-world.com/
風俗博物館
http://www.iz2.or.jp/
芭蕉db 芭 蕉 句 集
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/Default.htm
日本史時代区分表- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E6%99%82%E4%BB%A3%E5%8C%BA%E5%88%86%E8%A1%A8
日本神話の御殿
http://nihonsinwa.at.infoseek.co.jp/index.htm
松本畳店ホームページ「畳 の 歴 史」
http://www2.odn.ne.jp/matsumoto-tatami/rekisi.htm
日本語を読むための「漢字辞典 当用漢字・常用漢字新字体・簡化字ルーツ辞典」
http://209.85.175.104/search?q=cache:LI2yqnxviT4J:ksbookshelf.com/nozomu-oohara/Roots.htm+%E7%95%B3+%E5%AD%97%E6%BA%90&hl=ja&ct=clnk&cd=6&gl=jp
御床 (ごしょう)
http://www7a.biglobe.ne.jp/~asakitatamiten/gosou.htm
訓読万葉集
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/manyok/manyo_k.html
4月3日シーサーの日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/5cbd96381c52e9de26431a17d5cbccb4
源氏物語絵巻 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E%E7%B5%B5%E5%B7%BB
武家屋敷 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E5%B1%8B%E6%95%B7
豊臣秀吉 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89

豊臣秀吉の妹・朝日姫が徳川家康に嫁ぐ。

2008-04-28 | 歴史
天正14年 4月28( (1586年6月15日)豊臣秀吉の妹・朝日姫が徳川家康に嫁いだ日だそうだ。
朝日姫(あさひひめ)は、豊臣秀吉の異父妹であり、徳川家康の二番目の正室とされている。ただ、小和田哲男著『豊臣秀吉』(中公新書)によると同父妹としているそうだが、はっきりとしない。名前は旭姫、駿河御前、南明院殿、末津とも。
父は織田信秀同朋衆を務めた水野昌盛(竹阿弥)で前妻との死別後、愛知郡の御器所村の在地武士であり刀匠であった関兼員(弥五郎)の次女なか(後の大政所)と再婚した。
朝日姫は、この竹阿弥となかの間に天文12年(1543年)に生まれ、実の兄に、小一郎(のちの豊臣秀長)がいる。又、なかの前夫である織田信秀足軽組頭であった木下弥右衛門との子である藤吉郎(幼名は日吉丸のちの豊臣秀吉)は、異父兄になる。(親子関係には諸説あるようだ)
1551(天文20)年、竹阿弥と馬が合わなかった藤吉郎(当時15歳)は家を飛び出し、侍になるために放浪の末に今川氏の陪臣となったといわれている。私達は、歴史で秀吉は貧農の子から織田信長に見出されて以降次第に頭角を表し天下人にまで至った「戦国一の出世頭」と教えられてきたが、実際には、そのような貧農の出ではなかったようだ(秀吉の母方、父方の出自などは、以下参考に記載の「古代及び中世氏族の系譜関係/2 青木紀伊守一矩と秀吉の母方一族」が詳しい。)
朝日姫は、尾張国の農夫のもとに嫁ぐが、秀吉の出世と共に夫が武士(佐治日向守と名乗る)に取り立てられた。
元亀元年(1570年)、越前国朝倉義景討伐に従軍。金ヶ崎付近を進軍中に突然盟友であった北近江の浅井長政が裏切り織田軍を背後から急襲。浅井と朝倉の挟み撃ちという絶体絶命の危機であったが、池田勝正明智光秀と共に秀吉はしんがりを務め功績をあげた(金ヶ崎の戦い参照)。その後も浅井・朝倉との戦いに功績をあげる。天正元年(1573年)9月1日、浅井氏が滅亡すると、その旧領北近江三郡に封ぜられて、天正2年(1573年)春、今浜の地を「長浜」と改め、長浜城の城主となる。
この秀吉の長浜城主時代に朝日姫は、夫である佐治日向守と死別したため、秀吉与力の副田吉成(通称は甚兵衛)と再婚したという。  
天正10年6月2日(1582年6月21日)、信長が本能寺の変で明智光秀によって討たれると、中国大返しにより京へと戻り、山崎の戦いで光秀を破り、信長旧臣中で大きな力を持つに至った。同年6月27日(7月16日)、当主と嫡男を失った織田氏の後継者を決定する会議が清洲城で開かれ(清洲会議)、信長の三男・織田信孝を推す柴田勝家と信長の嫡男織田信忠の子である三法師(のちの織田秀信)を推す秀吉との間で激しく対立。そして、「賤ヶ岳合戦」で柴田勝家を破った、秀吉は、織田家中で信長の後継者として台頭してくる。しかし、天正12年(1584年)、信長の後継を自任する信長の次男・織田信雄は、秀吉に年賀の礼に来るように命令されたことを契機に反発し、秀吉と対立するようになる。こうして秀吉と織田信雄との間で火蓋を切った「小牧長久手合戦」は、実質的には秀吉と東海の雄・家康との直接対決となった。この戦いでは家康の戦術の巧みさの前に局地戦で敗北を重ねたが、なんとか得意の外交手段で信雄と和睦し講和にこぎ着けた。家康勢のしたたかな戦略に翻弄(ほんろう)され続けたことから、これ以上戦って傷を広げるよりも、和睦を結ぼうと考えた秀吉は、しきりに家康に上洛を促したが、家康がなかなかこれに応じてこない。そこで、秀吉は家康の正室築山殿(清池院)が不慮の死を遂げて以来ずっと正室の座が不在であることに目をつけ、家康の継室に自らの血縁者を送り込み、義兄弟となれば、当然挨拶に来るだろうと考えた。そして、その相手にと突如担ぎ出されたのが朝日姫であった。
しかし、朝日姫はすでに秀吉の臣下の1人に嫁ぎ、すでに40歳をとうに過ぎていただろうから、人生50年の当時としては、姥桜とも言える彼女は、本当に驚いただろうが、戦国の世の武将の女の運命、朝日姫も「天下のため」と迫る異夫兄の命には従わざるを得なかったのだろう。又、家康にとってもこれ以上秀吉の執拗な申し入れを断ることも出来ずしぶしぶ婚姻を受諾するしかなかったのだろう。
朝日姫は前夫と強制的に離縁させられ、天正14年に家康のもとへ輿入をした。(輿入した日を4月28日としているが5月14日とする説などいろいろあるようだ)。
だが、家康が朝日姫を正室に迎えても、なお上洛の気配を見せないことから、秀吉はとうとう次なる手として、「嫁いだ娘の病気見舞い」という名目で、実母である大政所を送り込んだ。
天正13年(1585年)に、日本で初の武家関白ともなっていた秀吉の実母を人質に差し出すという捨て身の作戦に、ついに家康は上洛し秀吉に臣下の礼をとるしかなった。これにより、大政所も約1ヶ月で大坂に戻ることができた。
その後、家康とともに駿府城に移り住み駿府御前と呼ばれるようになった朝日姫だが、2年後の天正16年(1588年)に母・大政所の病気の見舞いを理由に上洛し、そのまま京都の聚楽第で没している。墓所は京都の秋の紅葉で有名な東福寺にあり、同寺南明院(なんみょういん)の前に「徳川家康公正室旭姫墓在院」と書いた道標がたっている。秀吉は薄幸の妹を東福寺に手厚く葬り、家康もまた駿河国の瑞竜寺(以下参考に記載の「※瑞龍寺」参照)に朝日姫を弔っている。
なお、前夫の副田吉成は秀吉の加増を拒否し、隠退したという。この家康と結婚のために無理やり離縁させられたという朝日姫の前夫については、司馬 遼太郎の「功名が辻」(2006年、NHK大河ドラマ)では、佐治日向守から再婚したという副田吉成説を採っているが、山岡荘八の「徳川家康」(1983年NHK大河ドラマ) では佐治日向守であったとの説を採っているようだ。
今年・2003(平成20)年3月、テレビ朝日でドラマ「徳川家康と三人の女」が放送された。このドラマでは、”政略結婚で家康の正室となった朝日には、その時、副田甚兵衛(甚兵衛は吉成の通称)がいた”・・となっている。私などには、どちらが本当かなど判らないが、戦国の女性たちは政略結婚で「お家のために」無理やり好きでもない男に嫁がされ、不運な運命をたどっているよね~。しかし、このような、男たちの天下統一の野心のために、利用された不幸な女性の歴史が無ければ、今のような天下泰平は出来なかったのかもしれない。
よく思うのだが、今の時代、世界遺産だなどといわれて、世界の人々が観光をし、楽しんでいる重要な遺跡や文化財などと言うようなものは、それらが建造された当時にはそれらを造るためにどの位多くの人達が為政者によって泣かされてきたのだろうね~。普通の人には出来ないものが出来た時、必ず、その影には悲劇があるのだろうと思うよ。
(画像は、紅葉で有名な京都・東福寺南明院前の道標「徳川家康公正室旭姫墓在院」とある。)
朝日姫-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5%E5%A7%AB
テレビ朝日|徳川家康と三人の女
http://www.tv-asahi.co.jp/ieyasu/
垂簾・戦国の女たち
http://homepage2.nifty.com/hpsuiren/sengoku/sengoku.htm
古代及び中世氏族の系譜関係/2 青木紀伊守一矩と秀吉の母方一族
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/aoki/aokiitizoku2.htm
豊臣秀吉・フォトストーリー
http://sakuraoffice.com/hideyoshi1589.html
土木資料館/歴史日報
http://www.sakai11.jp/r_rekisinippou.htm
第03回 徳川家康の歴史:3
http://tomhana091.exblog.jp/8370965/
司馬遼太郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E
K'sBookshelf 資料 本能寺の変 人物 あ行
http://ksbookshelf.com/HJ/Who/WhoA.htm
南明院
http://www.geocities.jp/onriedo_gongujodo/nanmeiin.html
瑞龍寺
http://www.asahi-net.or.jp/~KW2Y-UESG/zuiryuji.htm
よろパラ ~文学歴史の10~日本史人物列伝/南明院
http://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/retuden/retu00167.htm
静岡見て歩き/正妻 旭姫
http://www.asahi-net.or.jp/~kw2y-uesg/asahihime.htm
南明院解説画像
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/rinsen/page7t/km_03_03_031t_04.html

ロープデー

2008-04-27 | 記念日
このブログを書く上でいつも参考にしているによれは今日(4月27日)は、「ロープデー」だそうだ。
「よい(4)つ(2)な(7)」(良い綱)の語呂合せとか。しかし、どこが、このような記念日を設定したのか。何のためかはわからない。単なる語呂合わせの遊びか・・・?
ロープ(rope)とは、つな。なわのことであり、織布綱(紐〔ひも〕)と鋼索(こうさく。鋼線(鋼鉄の針金を何本もより合わせて作った綱)とがある。
広辞苑を見ると、つな(綱)は、つた(蔦)と同源とある。
ツタ(蔦、Parthenocissus tricuspidata、英 ivy)は、ブドウ科ツタ属のつる性の落葉性木本。別名、アマヅラ、ナツヅタ、モミジヅタ。
「み吉野の・・・ あしひきの 山の木末(こぬれ)にはふ蔦(つた)の別れのあまた 惜しくもあるかも」」(以下参考に記載の「訓読万葉集」巻13ー3291参照)
万葉集にも詠まれている様に、「つた」の名称は他の植物や岩に「つたって」伸びる性質から名づけられたものという。建物の外壁を覆わせ、装飾として利用されている。余談であるが、以下参考に記載の「鳥 隹 酉(とり)干支(えと) 漢字家族」によれば、”鳥(トリ)の姿を描いた象形文字は、尾のたれさがったとりであり、この字が表すチョウというコトバは、長々と垂れさがるという意味で、その証拠に、あの甲子園球場を(長々と垂れさがって)すっぽりと覆うツタを蔦(チョウ)という”そうで、”長々と垂れる植物だから、草かんむりをつけて「草+鳥」という字形で表した”のだという。
そのような蔦から、網も、○植物繊維または針金などを太く長く縒(よ)り合わせたもの。物を結びつなぐのに用いられたり、○源氏物語東屋には、「 思ほし放つまじき綱もはべるをなむ、とらへ所に頼みきこえさする」(以下参考に記載の「※源氏物語」50 東屋〔大島本〕参照)とあるように、すがって頼りとするもの意味に使われる。又、相撲で横綱の力士が締める注連縄(しめなわ。注連網縄とも書くらしい)を単に綱とも呼ぶ。
日本では古くから道具として縄が使われていたが、縄を結うという行為は、材料の藁、すなわち自然界の産物を治めて道具に変えるという神聖なものとして、自然界を治める行為 の象徴とされた。日本では人間の力の及ばない「(八百万の神)」を治め、そ の力を治める象徴として縄が用いられた。古くは、「古事記」「日本書紀」に、天照大神天岩戸から引き出された際、二度と天岩戸に入れないよう太玉命(フトダマ)が注連縄(「尻久米縄((しりくめなわ)」)で戸を塞いだのが起源とされる(以下参考に記載の「注連縄の豆知識」参照)。相撲の世界で横綱が誕生したときに部屋の者全員で横綱の綱を結うのは「神」とされる横綱の力を治めるためである。日本の神社で神として祭られているものに縄が巻かれていたりするのはそのためであり、また、縄で囲って所有権を主張するのを縄張りといい、現在では縄張り行動として動物生態学用語にも使われているという( Wikipedia)が、それが何かこのようなことに専門外の私には分からないが、漢字の「網」は「こう、(英語:class、ラテン語:classis)」と読み、これは、生物の分類における階級の1つを表しているそうなので、このことを言っているのであろうか。その階級に含まれるそれぞれのタクソンも綱と呼び、の間に位置し、綱の下に亜綱(あこう、英:subclass、羅:subclassis)をおく場合もあるそうだ(Wikipedia)がもうこういったことは難しくて判らない(ここを参照)。
大辞林(三省堂)によると、”動物などをつなぎとめておく綱。「和名抄」を きずな(絆〔紲とも書く〕)”といい、ここから、”家族・友人などの結びつきを、離れがたくつなぎとめているもの。ほだし(絆し)。”を言うようになったようである。この絆について以下参考に記載の「0歳教育 /折々の記/2007 ④」では「絆」という言葉にこだわり色々書いてあるが、その中にちょっと面白いことが書いてあったのでちょっと紹介しょう。
【絆という言葉の意味の深さ】について、漢字では【絆】と書くが、もともと‘き’と‘つな’が合わさってできた言葉ではないか。その ‘き’というのは【生】と言う漢字に当てはまりそうだと・・。広辞苑では【生】は、まじりけのないこと。人工を加えていないこと。純粋なこととある。そして、この人は、「私は‘絆’というのを‘へそのを’臍帯をイメージしている。 「生の綱」→「生きている綱」それは正に「へそのを」であり「きづな」であり「きずな=絆」となっていると思う」。「しかも絆という字が振るっている。糸を半分ずつしっかり握っている、臍のをという紐を親と子がしっかり握っていると理解できる。「生きていて混じりけのない紐」それは「へそのを」しかない。母と子はこの「へそのを(を=緒)」で命の根源から繋がっていた。 それがなければ生きてはいなかった。「へそのを」は、何よりも大切な「きずな」であった。・・・・きずなの原点は親子にあるのだと言えるだろう。」・・・と。これは、面白い解釈だよね。
へそは出生前の胎児時代に母胎から栄養素や酸素を得るための接続点の痕跡であるが、母胎と繋がっている状態での血管などを含むひも状の器官を生物学、医学では臍帯(さいたい)、日常語では臍の緒(へそのお)と呼ぶ。日本では、新生児から自然脱落した臍帯を記念に保存しておく風習があり、私の家でも私のものも、家人のものもちゃんと保存しているよ。又、命綱や外部からの動力などの供給ケーブル(針金などをより合わせた、丈夫な綱)類を「アンビリカルケーブル」と呼称する事があるが、これはへその緒(臍帯)からつくられた語だそうである。
綱はへその緒と最も深い関係があるようだね。
ところで、「ヘそ」のことは「臍(ほぞ)」と言うが、この臍に関する慣用句としてよく使われるものに、「臍を噛む(ほぞをかむ)」と言うのがある。
NHK総合テレビでことばおじさんの「気になることば」が放送されているがその中で、「臍を噛む(ほぞをかむ)」が説明されている(以下参考に記載の「ことばおじさんの気になることば/ほぞをかむ」)参照。
実際に自分のへそを噛むことなど出来ないので、この言葉は、”後悔する。及ばないことを悔やむ。返らないことを後悔する。”といったことを言っており、そのもとは、噬臍(ぜいせい)という熟語で、晋と楚の勢力争いを書いた『春秋左氏傅』(左伝)の故事が出典である(以下参考に記載の「※春秋左氏傳」の荘公六年を参照)。
「ほぞ」に関して言えば、木組みをする時に、片方に穴を開け、もう片方に凸部分を作って合わせる方法があり、この出っ張り部分を「ほぞ」、開けた穴の方を「ほぞ穴」と言うそうだ。昔の古い建築物は釘を使わず、がっちりと組まれていて、丈夫にできているよね~。本当にきずなが固いよ・・(^0^)。
なんか、綱から「へそ」の話になってしまったが、最後に蛇足だが、人間の体の中心は臍といわれており、”レオナルド・ダ・ヴィンチは実際に死体を掘り起こして、骨格を正確に計測したこともあるそうで、人体を形作るさまざまな部分の関係が常に黄金比を示すことを、はじめて実証した人間なんだ”そうである(以下参考に記載の「レオナルド・ダ・ヴィンチが遺した宝物(数学)参照」。
私の地元兵庫県の西脇市 は、日本の領土の中心にあたる北緯35度、東経135度に位置し
日本へそ公園駅があるよ。
(画像は、つたに覆われた甲子園球場外壁)
参考:
ロープ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%97
ツタ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%82%BF
訓読万葉集
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/manyok/manyo_k.html
鳥 隹 酉(とり)干支(えと) 漢字家族
http://ww81.tiki.ne.jp/~nothing/kanji/tori.html
万葉集 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86
源氏物語 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E
※源氏物語
http://www.genji-monogatari.net/
日本神話 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A5%9E%E8%A9%B1
注連縄の豆知識
http://simenawa.org/
天の岩戸神話の真相
http://www2s.biglobe.ne.jp/~t-sato/index18.html
綱 (分類学) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%B1_(%E5%88%86%E9%A1%9E%E5%AD%A6)
和名類聚抄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E5%90%8D%E6%8A%84
きずな きづな 0 【絆/紲】 - goo 辞書
http://dictionary.goo.ne.jp/search/0450860-0000/jn/5/
0歳教育 /折々の記/2007 ④
http://park19.wakwak.com/~yoshimo/moto.445.html
■ ハリネズミの天敵たち ■- 悪いキツネをやっつけろ!;
http://72.14.235.104/search?q=cache:PAG_RKrjLGYJ:www.path.ne.jp/inukawa/hedgehog/info/00_05.html+%E5%8B%95%E7%89%A9%E7%94%9F%E6%85%8B%E5%AD%A6%E7%94%A8%E8%AA%9E%E3%80%80%E7%B6%B1%E3%80%80%E3%81%93%E3%81%86&hl=ja&ct=clnk&cd=10&gl=jp
歴史回廊(遷都):ウバイド・シュメル:帝柱=磤馭慮嶋=淤能碁呂嶋
http://bloghistorygallary.blog10.fc2.com/blog-entry-42.html
へそ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B8%E3%81%9D
ことばおじさんの気になることば/ほぞをかむ
http://www.nhk.or.jp/a-room/kininaru/2007/07/0709.html
春秋左氏伝 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E5%B7%A6%E6%B0%8F%E4%BC%9D
※春秋左氏傳
http://mokusai.web.infoseek.co.jp/shushigakukihonsho/shunjuu/shunjuu_main.html
ほぞ - [住宅用語集]All About
http://allabout.co.jp/glossary/g_house/w002577.htm
レオナルド・ダ・ヴィンチが遺した宝物(数学)
http://www.davinci-davinci.com/sugaku.html
引用したダヴィンチコードの抜粋[黄金比]。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~pep/haniwa/syoko/newpage4.htm