今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

体内時計の日

2016-03-31 | 記念日
日本記念日協会(※1)に登録されている今日・3月31日の記念日に「体内時計の日 」があった。
「からだと社会をつなぐ。」を企業ビジョンとするドコモ・ヘルスケア株式会社(※2)が制定したもの。同社の健康的な体づくりを支援する サービス「からだの時計 WM」により、体内時計を整え、健やかな24時間の使い方と、体が持つ本来の力を引き出してもらうのが目的だそうだ。
日付は入社や入学などの新生活の変わり目に、 生活リズムを省みる日として、新年度が始まる前日の3月31日にしたとのことである。

寒くなったり暖かくなったりを繰り返しながら春めいて来ることを、我々は「三寒四温」と言ったりしているのだが、実は、俳句歳時記(※3参照)などでは冬の季語となっている。
三寒四温は、もともとは、中国北東部や朝鮮半島におけることわざであって、シベリア高気圧の勢力がほぼ7日の周期で強まったり弱まったりするからと考えられているが、実際には、日本付近の天候はシベリア高気圧だけでなく、太平洋高気圧の影響も受けるので、三寒四温が日本でははっきりと現れることはなく、一冬に一度あるかないかという程度なのだそうである。
そのため近年では本来の意味から外れて、春先に低気圧高気圧が交互にやってきたときの気温の周期的な変化、という意味合いで使用されることが多くなっており、私などもそのつもりで使っている。
このような季節になると、桜前線も南の方から順に北上してきて、桜(主にソメイヨシノ)も開花する。わが地元神戸の平均的な開花は3月28 日、満開は4月6日ごろとなる。今年は、もう少し早めに花見が出来そうだ。
桜の中でもソメイヨシノのような人工 的に作られた品種の桜は弱くて病気になりやすいので、全国の樹木医達が枯れないように、そして、健やかに花を咲かせるように、地道な努力を重ねておられるようだが、人の体も季節時間の移り変わりには体調を崩しやすいものだ。
それは、花や樹木と同様に、人の体も季節や時間の移り変わりに従って「生物時計」という時のリズムを刻んでいるが、そのリズムが変調をきたしやすいからである。

地球上の生物は全て地球の自転による24時間周期の昼夜変化に同調して、ほぼ1日の周期で体内環境を積極的に変化させる機能を持っており、この約24時間周期のリズム「概日リズム」を形成するための24時間周期のリズム信号を発振する機構(時間測定機構)を生物時計と呼んでいるが、一般的には「体内時計」と呼ばれており、(※4:「e-ヘルスネット 」の休養・こころの健康 > 体内時計参照)。ここではこれ以降、基本的に「体内時計」の語を使うことにする。
なお、概日リズムとは、約24時間周期で変動する生理現象で、動物、植物、菌類、藻類などほとんどの生物に存在している。英名である「circadian rhythm」は、ラテン語の「約、おおむね」を意味する「circa」と、「日」を意味する「dies」から名付けられた。つまり「おおむね1日」の意味である。
簡単に言えば、「体内時計」は、生物が生まれつきそなえていると思われる、時間を測定するしくみのことであるが、通常、人の意識に上ることはない。しかし、睡眠の周期や行動などに大きな影響を及ぼしており、夜行性・昼行性の動物の行動も「体内時計」(生物時計)で制御されている。
以前こ、のブログ「現在の暦「グレゴリオ暦」を編纂したグレゴリウス13世 (ローマ教皇)の忌日」でも書いたことがあるが、人間は、なぜ、どのようにして自然を測るようになったのだろうか?
時間と空間を測り、それによって日常生活を調整しているのはなにもわれわれ人間だけではない。地球上に住むほとんどすべての生物は様々な形で周期性を示す。
その周期性は、地球が自転公転することなどの惑星運動(ケプラーの法則)によって生み出されたものだとされている。
生物の体内は24時間に近い周期に従って短期的な活動を繰り返す仕組みになっている。
生物が生活をしている地球上では、24時間の周期で昼夜が交代し、明るさや温度が変化する。太陽の出没によって生ずるこの周期は、自然環境そのものの時間の節目であり、区切りである。
太陽はいうまでもなく、地球上のあらゆる生物のエネルギー源であり、その出没は生物の一日の生活に基本的な枠組みを与える。かりに体内時計の周期と太陽出没の周期(※5)とがはじめから一致しているとしたら、そこには、時間を測るなどという問題は生じない。同じ時間のリズムで動いてゆくだけのことである。
ところが、両者の周期は異なる。ちなみに、それが故に現代人の概日リズム睡眠障害などは概日リズム機能の低下と結びつけて考えられてもいるのである。
生物はいつも遅れるか進む時計を持っている。生物が太陽エネルギーをもっとも効果的に利用しようとするならば、体内時計は、一日の周期に合わせて動くよ うに自己調整(同調)しなければならない。つまり、周期の差を測り、時間のずれをなくす。生物はこの自己調整能力のお蔭で、環境にある程度の変化が生じ ても適応してゆけるのである。
例えば、毎年移動を繰り返す渡り鳥は、体内時計に照合して太陽の位置を見定め、一方向に飛んでゆくことが知られている。つまり、太陽コンパスを使って、角度を測っているのだそうである。しかし、人類は進化とともに、言語を獲得して後、生物として単に体内時計に依存する生態から脱出し自然に関する知識をつかって、時間測定を計量化し、天文観測(天文学)に基づくを作成するまでになるが・・・。 .
ヒトの生体機能や疾患においても様々な周期性が見出され、そのメカニズムの解明が進められているが、現在、生体内の固有の時計がリズムを形成しているものとして認知されているのは、地球の自転によりもたらされる約1 日(概日)のリズム、月の公転と地球の自転との関係がもたらす潮の満ち干き(概潮汐;24.8 時間)のリズム)、月の満ち欠けによってもたらされる約1ヶ月(概月)のリズム、地球が太陽の周りを公転することによる約1 年(概年)のリズムなどがあり、また、上記以外にも、体や生命現象を現すリズムとして、様々な周期のリズムが存在するようである(※6参照)が、なかでも、最も研究が進んでいるのが日内変動、すなわち、約24 時間周期の概日リズム(体内時計)に関する研究のようである(※5:「生物時計研究グループ」の生物時計研究の年表など参照)。

それでは、体内時計はどのようにして周期の差、すなわち時間を測るのだろうか。
人間においても体温 や、ホルモン分泌などからだ(体)の基本的な機能は約24時間のリズムを示すことがわかっており、その体内時計の本体は、の中心部下面にある視床下部の視交叉上核に存在することが分かっているそうだ。

※上掲の画像は、体内時計。体内時計と不眠の総合情報サイト 武田薬品株式会社より借用したもの。

この、体内時計をつかさどる時計遺伝子は中枢だけでなく肝臓、腎臓、心臓などの末梢臓器にも存在が見られ、ローカル時計として機能しており、生物は体内時計の階層構造をうまく利用し、その内部環境を一定の状態に保ちつづけようと恒常性(英:Homeostasis。ホメオスタシス)機能を維持している。
なぜなら、体内時計の発信周期は、必ずしも正確な24時間周期ではなく、ヒトの体内時計の周期は24時間よりも若干長い(約25時間とも言われているが、24時間より短い人も少数ながらいるなどまちまち)ため、体内時計のタイミングを外界の24時間周期の明暗周期に一致させるため、日常生活において、受けるさまざまな刺激(、また、食事や運動、仕事や学校などの社会的な因子=同調因子)、その中でも最も強力な同調因子は光であり、この同調因子によって地球の公転による日長時間の季節変化や、時差地域への急速な移動にともなう明暗周期の変化に体内時計を一致させることができる。
ヒトを含む哺乳類では網膜から体内時計への直接の神経繊維連絡があり、これにより目から入った明暗環境の情報が体内時計に伝達されるが、人の場合は、朝の強い光は体内時計を早める方向に、夜の光はこれを遅らせる方向に働くそうだ。
要するに、人間はこの1日周期でリズムを刻む「体内時計」の支配の中で、生命の営みを続けており、意識していなくても、日中はカラダも心も活動状態に、夜間は休息状態に切り替わり、体内時計の働きで夜になると自然な眠りに導びかれる。そして、体内時計は毎朝光を浴びることでリセットされ、一定のリズムを刻んでいるということなのだ。
体内時計が同調するのは第一に明るさ、そして、第二は温度(※8参照)に対してだといわれている。
ヒトは毎日、太陽が昇ると起床し、食事(栄養)を摂り、暗くなれば睡眠をとるが、現代生活はシフトワークや長時間通勤・受験勉強・インターネットやゲームをしての夜型生活など、睡眠不足や睡眠障害の危険で一杯である。
不規則な食事や睡眠といった生活習慣により、「時計遺伝子」は狂ってしまい、肥満高血圧糖尿病などの生活習慣病から、ガンなどの原因になったり、進行の早い老化うつ病などにも繋がってしまう。
健やかな睡眠があってこそ十分な休養をとることができる。
睡眠が不足すると、生命にとって大切ないわゆる「免疫力」「自然治癒力」などに悪影響があり、成長ホルモンの分泌にも悪影響があり乳幼児・幼児・青少年では身体の成長にも悪影響があり(身長が伸びにくくなる)、睡眠不足では胃や腸の調子が悪くなる人も多い。
そして、精神的には気分に悪影響があり鬱状態になりがちで人間関係も悪くなり、また脳の知的面での基本機能である記憶力、集中力などに悪影響があり勉学仕事にも悪影響を及ぼす。したがって、不健康にならないためには寝不足にならないように気を付けなければいけないのだが・・・・。

厚労省が、世帯面から基礎的な情報を得ることを目的として平成12年に“心身の健康” をテーマとして行った「平成12年・保健福祉動向調査」(※9参照)の睡眠についての調査によると、
「朝起きても熟睡感がない」人が 24.2%で最も多く、以下、「朝早く目が覚めてしまう」(22.0%)「夜中に何度も目が覚める」(19.5%)と、日本人の約5人に1人は睡眠に問題を抱えているという。そして、
1日あたりの“睡眠時間の状況”をみると、「7~8時間未満」「6~7時間未満」の者が多く、年齢階級別にみると、25歳から54歳までは「6~7時間未満」が最も多く、「55~64歳」では「7~8時間未満」が最も多くなっている。
それでも、睡眠時間別にみた休養充足度の状況をみると、「十分にとれた 」人は、9時間以上睡眠を絶った人で45.6%、8~9時間未満では33.7%、7~8時間未満では、19.0%となっており、多くの人が睡眠に満足を得られていないようである。
また、睡眠による休養の充足度が「やや不足」「まったく不足」としている者について、“睡眠不足の理由”をみると、男性は「仕事・勉強・通勤・通学などで睡眠時間がとれないから」が 40.2%と最も多く、特に44歳以下では 50%前後の割合を占めている。一方、女性は「なやみやストレスなどから」が 30.4%で最も多いが、24歳以下では「仕事・勉強・通勤・通学などで睡眠時間がとれないから」「自分の趣味などで夜ふかししたから」の割合が多くなっている。
このような状況に対して、“十分な睡眠をとるために実行した事柄”をみると、「入浴した」が 43.1%で最も多く、以下「規則正しい生活を心がけた」「本を読んだり音楽をきいたりした」となっているが、これを、睡眠による休養の充足度別にみると、“休養が「十分とれた」としている者”では、「規則正しい生活を心がけた」43.2%、「入浴した」41.8%となっており、一方、「全く不足」としている者では、「入浴した」 41.6%、「アルコール飲料(酒)をのんだ」35.4%となっている。
厚生労働省のe-ヘルスネット -(※4)の“休養・こころの健康”の、“快眠と生活習慣”を見ると、快眠のための生活習慣には、2つあり「運動」や「入浴」のように習慣そのものが直接的に快眠をもたらす場合と、もうひとつは、間接的な役割で、良い習慣で体内時計を24時間にきっちりと調節すれば、規則正しい睡眠習慣が身に付いて快眠が得られる。そのための習慣として「光浴」があるが、これらの習慣はそれを行うタイミングが重要だという。
つまり、「光」の効果は体内時計を24時間に調節することにあるが、ヒトの体内時計の周期は24時間より長めにできているため、長めの体内時計を毎日早めないと、ずるずると生活が後ろにずれてしまう。
朝の光には後ろにずれる時計を早める作用があり、起床直後の光が最も効果的なので、朝起きたらまずカーテンを開けて自然の光を部屋の中に取り込むことが必要。そして、“禁物なのが夜の光”だそうで、朝の光と反対に、夜の光は体内時計を遅らせる力があり、夜が更けるほどその力は強くなるため、家庭の照明でも(照度100~200ルクス)、長時間浴びると体内時計が遅れる。また日本でよく用いられている白っぽい昼白色の蛍光灯は体内時計を遅らせる作用があるため、赤っぽい暖色系の蛍光灯(あかりの色の選び方参照)が理想なのだそうだ。その他、朝の食事なども簡単でもよいが脳のエネルギー源として糖分を補給し、体内時計を整えるためにも規則正しい食事が望まれるという。詳しくは※:4 e-ヘルスネットんの快眠と生活習慣参照されるとよい。

睡眠といえば、昔から、8時間睡眠がよいといわれ、私たちは人生の3分の1を眠って過ごしてきたのだが・・・。
本当は、どれくらいの睡眠時間をとればよいのだろうか・・・?
この睡眠時間は人それぞれらしく、日本人の生活習慣とがん(癌)との関連を明らかにすることを目的として、文部科学省の助成を受けて設置され、大規模コホート研究をしているJACC Studyの2004(平成16)年に報告された日本人の「睡眠時間と死亡」の危険率を調べた調査結果(※10参照)では、睡眠時間が7時間(6.5-7.4時間)の人がもっとも危険率が低く、睡眠時間が長い人でも短い人でも7時間の人に比べると死亡しやすいことがわかり、その程度は、4時間未満(4.4時間まで)の睡眠時間では、男性で死亡率は、1.62倍、女性で1.60倍、また10時間以上(9.5時間以上)の場合には男性で1.73倍、女性で1.92倍になっていたという。
また、これに心理要因などを加味すると男性では短い睡眠時間は死亡のリスクを上げないことがわかったが、女性では、4時間未満(4.4時間まで)の睡眠時間の人は7時間の人と比べ2.0倍のリスクとなっており、また、7時間より長い睡眠時間は、男性でも女性でもやはり死亡リスクを上げているという。
ここで、男性では短い睡眠時間が死亡のリスクを上げないのに、女性の死亡リスクが高くなるのは、その背景にある病気や不健康の結果として睡眠時間が短くなっているだけではなく、男性では女性に比べて仕事をしている人が多いことから、何か仕事に関係する要因が睡眠時間を短くしている可能性もあるようだというが、残念ながら、今回の研究だけで結論を出すまでにはまだ至っていないそうだ。
睡眠といえば、昔から、8時間睡眠がよいといわれ、私たちは人生の3分の1を眠って過ごしてきたのだが・・・。
本当に4時間くらいの睡眠で、疲労は回復できるのだろうか?
ヒトは通常、昼間に活動し夜間に睡眠をとるが、ヒトが眠くなるのには、2つの理由があるという。
ひとつは、日中動いて疲れたから、もう一つは、先にも書いた体の中にある「体内時計」が、約24時間で「眠くなる/目が覚める」のリズムを刻んでいるから・・・・。
考えてみれば、ヒトの働き方も昔とはずいぶん変わってきた。ヒトが働く時の「働」の漢字は人偏に動くと書く。昔は、田を耕したり、猟(漁)をしたり、重労働で肉体を酷使したが、時代とともにその働き方も昔とは様変わり、現代のサラリーマンの働き方や、女性の家事労働にしても電化製品の進化等により非常に楽になっているし、また、昔に比べて、休みも多くなり、一日の労働時間も減ってきた。労働の質も量も減ってきたので、日中の労働によるからだの疲労は半減しているのではないか。だから、肉体疲労回復のための睡眠時間も少なくなって当然といえば当然な気がする。
それに比べて、現代社会では肉体疲労よりも 脳の疲労が大きくなっている。
厚生労働省は「健康づくりのための運動指針2006-生活習慣病予防のために-(エクササイズガイド2006)」 (平成18年7月)で、メタボリックシンドロームをはじめ生活習慣病発症を予防するための身体活動量・運動量・体力の基準値を示しており、これにあたって、今までは肥満等にBMIでの測定が普通であったが、新たな指標として、「METs(メッツ)」を使用している(※11の過去の運動基準・指針よりここ参照)。
METs(メッツ)は、身体活動の強度を表す単位であり、運動によるエネルギー消費量が安静時の何倍にあたるかを示しており、1METs(メッツ)は、座って安静にしている状態であり、通常歩行をしている状態は、3METs(メッツ)に相当する(生活活動では 歩行:20分で3METs)。
もう少し具体的に書けば以下のようになる。
1.0メッツ:、静かに座って(あるいは寝転がって)テレビ・音楽鑑賞、リクライニング、車に乗る
1.2メッツ:静かに立つ
1.3メッツ:本や新聞等を読む(座位)
1.5メッツ:座位での会話、電話、読書、食事、運転、軽いオフィスワーク、編み物・手芸、タイプ、動物の世話(座位、軽度)、入浴(座位)
1.8メッツ:立位での会話、電話、読書、手芸
2.0メッツ:料理や食材の準備(立位、座位)、洗濯物を洗う、しまう、荷作り(立位)、ギター:クラシックやフォーク(座位)、着替え、会話をしながら食事をする、または食事のみ(立位)、身の回り(歯磨き、手洗い、髭剃りなど)、シャワーを浴びる、タオルで拭く(立位)、ゆっくりした歩行(平地、散歩または家の中、非常に遅い=54m/分未満)

これを見ると我々の普段の生活は1,5~2メッツといったところだが、、本や新聞等を座って読むだけで1.3メッツと単に座ってテレビ・音楽鑑賞などをしている状態の30%ものエネルギーを使うのだから、ビジネスマンなどが頭や神経を使ってやっている仕事は体を使っている仕事よりも非常に疲労しているということになるだろう。したがって、現代では脳疲労の恢復のための睡眠が重要なのだといわれている。
この脳疲労を回復する即効性のある運動としては、 ストレッチ、体操などの軽い運動、散歩などが適しており、これらの運動習慣は脳疲労回復効果以外に、脳そのものを強化し、疲れにくくする働きがあるとも聞いている。また栄養や食事によって、脳疲労を回復することができる。
とにかく朝起きて、寝るまで、自分では意識をしていなくても脳は、いつも働いて(覚醒おり)、睡眠時でも、浅い睡眠時には覚醒している。
睡眠の状態は、脳波を調べることでわかる。
睡眠時の脳波は、レム睡眠とノンレム睡眠(レム睡眠参照)の2つのタイプに分かれていることは誰もが知っていることだろう。レム睡眠はまぶたの下の眼球運動をともなう睡眠で夢をみている状態であり、脳が活動して覚醒状態にある。
ノンレム睡眠は、レム睡眠でない眠りという意味であり、本当に脳を休ませる眠りで、さらにS1~S4の4段階に分かれる。なかでもとくにS3とS4は、脳波の振幅が高くて周期の小さい波(徐波)が現れる状態で徐波睡眠とよばれるが、いわゆる、ぐっすり寝ている状態で、多少の物音がしたり、軽くゆさぶられても目が覚めることのない深い眠り(熟睡)である。
レム睡眠とノンレム睡眠は、一晩のうちに約90分周期で交互にくり返し現れ、一晩の平均的な 6 - 8 時間の睡眠では 4 - 5 回のレム睡眠が現れる。脳を休めるためには、しっかりと、このノンレム睡眠をとることが重要なのである。
また、体内時計は、睡眠だけでなく「体温」のリズムも作っており、体温の高低のリズムと、睡眠のリズムは連動しているそうだ。
起きている間の体温は高く、夜は体温が低くなる。体温が下がるタイミングにあわせて、眠気が始まる。このときの特徴は、眠いとき、赤ちゃんの手が暖かくなるのと同じで特定の皮膚部位(ここでは手足の甲)から熱を外界に逃がすことで体全体の代謝を下げ、これに引き続いて脳の温度も下がって眠りに入るのだという。
人間の脳はほかの動物とくらべて、高い機能をもっており、昼間は脳をフルに使って生活している。そこで疲れた脳が オーバーヒートしないように、脳の温度を下げて休ませ、脳の疲労を回復させるのが睡眠(※12参照)であり、その対策として、一番簡単で効果的な方法が眠る1時間位前に38〜40度の「ぬるめ」の風呂に20分位入ることのようだ。
体温が下がれば、眠気が出てくる。深く寝入ったら、成長ホルモンがたっぷり出る。そして光を浴びると、眠りは去ってパッチリ目覚める。

体内時計に基づくリズム(周期)は、実は一つだけではなくもうひとつある。眠りの基本は約24時間の周期で動くリズムだが、このほかに約12時間周期のリズムもあるといわれており、これが「昼間に眠くなる」作用を起こすそうだ。昼食の後眠くなるのは満腹のためではなく、このリズムが原因であり、だいたい午後2時~4時ころにかけて起こる自然な生理現象なのだそうで、南ヨーロッパや南米の「シエスタ」という昼寝の習慣があるのもそのためのようだ。20~30分程度の昼寝は脳と体をリフレッシュし、生産性を向上させることがわかっているという。
私なども、昼食後よくうつらうつらしているが、これは年のせいかと思っていたのだがそうではなかったのだ。午後の眠気対策に短時間の仮眠(昼寝)はいいことのようだ、ただ、長く居眠りすると夜寝れなくなるので気を付けなければいけないが・・(※13のここ参照)。

年齢とともに体力が落ち、老眼になり、白髪が増えるのと同じように睡眠にも以下のような変化が生じる。
その第一は、若い頃にくらべて早寝早起きになる。これは体内時計の加齢変化によるもので、睡眠だけではなく、血圧・体温・ホルモン分泌など睡眠を支える多くの生体機能リズムが前倒しになるのだそうだ。したがって高齢者の早朝覚醒それ自体は病気ではなく、眠気が出たら床につき、朝方に目が覚めて二度寝ができないようであれば床から出て朝の時間を有意義に使った方が良いのだそうだ。
第二の変化は、私などもそうだが、睡眠が浅くなること。睡眠脳波を調べてみると、深いノンレム睡眠が減って浅いノンレム睡眠が増えるようになっているからだそうで、そのため尿意やちょっとした物音などでも何度も目が覚めてしまうことになる。
昔から、「早起きは三文の徳」という諺があり、私たちもそれを良しとしてきた。しかし、この諺、元々は「早起きしても三文ほどの得しかない」という意味で使われていたともいわれている。
眠気もないのに「やることがないから・・・」と言って、寝床に入ると、寝つきは悪くなるし、中途覚醒が増えてしまう。若い人のように、労働でエネルギーを消費することもなくなっているのだから、眠れる時間が短くなるのは当然なのだろう。そのくせ、高齢者ほど睡眠時間が短くなるのに寝床にいる時間が長くなっている…(※4:「e-ヘルスネット」の高齢者の睡眠参照)。結果として夜も眠れぬままに寝床でうつらうつらしている時間が増えて睡眠の満足度も低下しているわけだ。反省しなければいけない。
現代社会では、仕事の関係などもあるのだろう、「宵っ張りの朝寝坊」も多くなったようだ。睡眠時間やリズムは、人それぞれ。少なくとも、睡眠に関する限り、 朝型か夜型か、どちらの型であっても昼夜リズムが社会の時計と同調し、生活が規則的に繰り返されている限り問題はないようだ。したがって、睡眠のメカニズムや、自分の睡眠特性を知って、「良いねむりと良い目覚め」を目指したいものである。


参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:ドコモ・ヘルスケアHP
http://www.d-healthcare.co.jp/
※3:俳句歳時記 季語
https://sites.google.com/site/haikukigo/
※4:e-ヘルスネット - 厚生労働省
http://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/
※5:出没にまつわるはなし|天文・暦情報|海上保安庁海洋情報部
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KOHO/faq/astro/sunrise.html
※6:生体リズムと時間薬理学 - 早稲田大学(Adobe PDF)
https://www.waseda.jp/wias/eng/achievement/bulletin/data/y_edagawa_2010.pdf#search='%E6%BD%AE%E3%81%AE%E6%BA%80%E3%81%A1%E5%B9%B2%E3%81%8D+24.8+%E6%99%82%E9%96%93+%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0'
※7:生物時計研究グループ 花井修次HP
https://staff.aist.go.jp/s-hanai/index.html
※8:体内時計をつかさどる「時間の定規」を発見 | 理化学研究所
http://www.riken.jp/pr/press/2009/20090901/
※9:平成12年 保健福祉動向調査の概況(心身の健康) - 厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/hftyosa/hftyosa00/index.html
※10:睡眠時間と死亡との関係-JACC Study
http://publichealth.med.hokudai.ac.jp/jacc/reports/tamaa1/index.html
※11:運動施策の推進 |厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kenkou/undou/index.html
※12:睡眠と体温|体温と生活リズム|テルモ体温研究所
http://www.terumo-taion.jp/health/sleep/01.html
※13:ねむりラボ-オムロン
http://nemuri-lab.jp/
Webナショジオ睡眠学
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20121127/332007/
元MRが語る・医療と生物の信じられない実態2
http://www.unlimit517.co.jp/repomedi2.pdf#search='体内時計 太陽の出没'
睡眠学の1 短時間睡眠の方が長寿?!武田邦彦 (中部大学)
http://takedanet.com/archives/1053522401.html
日本睡眠学会
http://jssr.jp/data/kiso.html
日本時間生物学会
http://chronobiology.jp/
「早起き」すると寿命が縮む!オックスフォード大学の研究で判明現代ビジネス
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/45782



ホスピタリティ・デー

2016-03-24 | 記念日
今日・3月24日は「ホスピタリティ・デー 」
思いやり、もてなしといった意味のホスピタリティの精神を広めるためにNPO法人日本ホスピタリティ推進協会(旧称・日本ホスピタリティ協会※1:参照)が1994(平成 6) 年3 月24 日に制定したそうだ。
この日を日常生活の中で他人に対して思いやる心をほんの少しでもあらわす実践の日として位置づけ、その普及することが目的だそうで、日付は「3」は新しいものを創り出すエネルギー、自己表現を表し、「2」は思いやり、協力、を意味し、「4」は全体を作りあげる基礎の数字とされることから、その組み合わせである3月24日としたのだという。

さて、「ホスピタリティ」の話の前に、数字の話だが、数字には、「数字、一つ一つに固有の意味がある」のだといった話は聞いたことがあるが、私はそのようなこと良く知らないのでネットで調べてみると、以下参考の※2:「THREEの由来と数秘術」には、 “数秘術”では「3」という数字に「果てしない創造性、表現力、バランス」といった意味があるらしく、他の1~9までの個々の数字にも、上記に書かれていたような数字の意味が書かれていた。
この数秘術というのは、西洋占星術易学等と並ぶ占術の一つで、生年月日(西暦)や姓名などから、固有の計算式に基づいて運勢傾向や先天的な宿命を占う方法としても利用されているらしいが、
、数秘術の創始者は一般的にピタゴラスの定理で有名な古代ギリシャの数学者・哲学者のピタゴラスだと言われているそうだから、それなりに意味はあるのかもしれないね~。
ま、余談はこれくらいにして、本題へ入ろう。

日本記念日協会(※3)には、10月30日の記念日に「マナーの日」が登録されていたので以前にこのブログで「マナー」について書いたたことがある(ここ参照)。
ビジネスマナー、一般マナーなど、あらゆる場面において必要不可欠な「マナー」について見直し、生活に役立ててもらうことを目的にNPO法人・日本サービスマナー協会が制定(※4 参照)したものであった。
“企業が成り立つ重要な要素として、「ヒト」「モノ」「カネ」「情報」があると言われる中で、この不況を乗り切るために一番重要とされているのが人材教育だと言われている。 特に最近は「人は財産」という考え方から「人財」とする企業も多くなってきた。
現代の社会では今まで以上に顧客に対する現場の対応力が問われるようになり、相手先の企業やお客様とどのように接することが出来るかということが顧客満足度(CS)を高める重要な要素となってきているからだ。
「お客様は神様です」は三波春夫の有名なフレーズであるが、確かに、サービス業 (サービスを取り扱う産業)のビジネスマンにとって、相手先の企業担当者やお客様に満足度を高めなければ、成果は得られないし、そのために必要なビジネスマナーは当然身に着けておく必要があるだろう。
マナー (英語:manners) は、一般的に礼儀、行儀・作法を指すが、このマナーは、日常生活をしていく中で自然と身につけていく作法であり、戦前生まれの道徳躾(しつけ)教育にはそれなりに厳しかった環境の中で育てられてきた私などの世代の者から見ると、業務上必要とされるビジネスマナーなどは企業で教育もされておりこれは別として、今の時代の人の普段の行動には、そのマナーの悪さが気にかかる人も多いのではないだろうか・・・。私だけがそんなことを思っているのかと、ネットで検索してみると以下のようなアンケート結果もあるようだ。

礼儀正しいなんてウソ!? 日本人のマナーを日本在住の外国人に聞いてみた!

私は、海外旅行は仕事柄アメリカ中西部、ハワイなどへの研修や視察を兼ねて、1週間単位で3度ほどは行ったが、世界の国々と比較して日本人のマナーが実際にどの程度良いか悪いかなど比較出来るほどの見識もない。
ただ、良し悪しは別にして、日本人には、誰にでも昔から、やたらぺこぺこと頭を下げて低姿勢で応対をする習性が今でも残っているようであり、そういった面では、初めて会った外国人などから見て好感は持たれるかも知れないし、平均的な外国人に比較して見れば、まじめで親切な面もあるのだろう。
私が若い頃仕事をしていた商都大阪の商人などは、客を相手にいつもにこにこ笑顔で揉み手をしながらお愛想を言っていたが、サービス業に携る者は、誰しもたとえそれが演技であれ.他人に喜ばれるような立ち居振る舞いやリップサービスを行うのが常であるが、日常の人間関係においても、この精神作用は自覚に関わりなく、多かれ少なかれ常に働いているものと考えられている。
仮に相手に喜ばれようとする気持ちが全くなく相手に接した場合は、エゴイズム(利己主義)の衝突となり、良好な人間関係は成立しないからである。また、他者に喜ばれることが当事者の喜びになる心理作用や、人に嫌われたくないという気持ちが働くため、この精神作用はごくありふれて見られる。このため、通常よりこの精神作用が強い場合を指して、「サービス精神」が旺盛などと呼んだりする。歴史的に「和をもって尊しと為す」を信条してきた日本人には、このサービス精神は外国人よりは多いかもしれない。
20世紀の工業を中心とした経済社会における企業の役割は、優れた価値のある製品・サービスを提供することであった。モノが不足している時代であったから、良いモノを安く大量に作れば、売上も利益も向上したが、21世紀の知識・情報・サービスが重要な役割を果たす経済社会は、モノあまりの時代でもあり、単に、良いモノが安いからと言っただけでは買ってもらえない時代になった。それだけモノ余り時代の競争は激しいのである。
そんな時代にどうしたら、消費者にモノを買ってもらえるのか・・・?そこで求められるのが、「サービス」から「ホスピタリティ」への移行だという。

毎日いただくおは香りとにがみを頂くのである。おうす(薄茶の丁寧語※4のコラム参照)にしろお濃い茶(※4のコラム参照)にしろ、あの甘いにほひとにがみがなかつたら、茶道なんてものはないのだらう。ほうじ茶やばん茶、これは香ばしいだけでにがみがない、ずゐぶん間がぬけてゐるやうでも、それはそれで、温かい香ばしい飲物である。コーヒーのやうな強烈な香りの飲物を毎日いただく余裕のない時や胃の弱いときに、コーヒーの身がはりにほうじ茶を濃く熱く煮出して飲むと、ほんの少しだけ咽のどこかの感じがたのしくされる。たいそうほうじ茶とばん茶の悪口をいふやうだけれど、出からしのおせん茶のなまぬるいのを飲むよりどんなにおいしいか分らない。これはやはり贅沢な関東人の智慧が考へ出したものに違ひない。地方の質素な古風な家庭で育つた人なぞはお客さんの咽の感じなぞを考へることは教へられてゐないで、その生ぬるい薄いおせん茶を何度でも何度でも注いで出す。お茶を出すといふことが昔から日本人のホスピタリティであつて、奥さんみづからが立派な古めいたきうすに銀びんのお湯を注いで替へてくれるお茶は大へんなホスピタリティにちがひない。

上掲の文は、大人気だったNHKの朝ドラ『花子とアン』の主人公のモデルとなった村岡花子や同ドラマに登場し脚光をあびた柳原白蓮と同じ東洋英和女学院を卒業し、歌人・随筆家・翻訳家として明治・大正・昭和の三時代を生きた片山 廣子(※5参照)の随筆『アケビ』(※6参照)からの抜粋である。
彼女は、芥川龍之介などから、人の陰口などは一切言わないことから「くちなし夫人」と呼ばれたという。片山の身のこなしの優雅さ清楚な外見をクチナシの花になぞらえてのことだろう。

「思い遣る心」を【形】として表わすことが「マナー」であれば、「ホスピタリティ」(hospitality)とは、「思いやり」「心からのおもてなし」という意味である。
2013年9月アルゼンチン・ブエノスアイレスで開かれたIOCの夏季東京五輪誘致の最終プレゼンテーションでは、滝川クリステルが日本の「お・も・て・な・し」の心を印象的にフランス語と日本語でアピール。東京への招致に一役買い、この言葉が2013年の「新語・流行語大賞」の年間大賞を受賞した。




石田三成の性格を表す有名な逸話に「三献の茶」の話がある。
長浜城主となった羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、ある日、鷹狩りから帰る途中のお寺でお茶を所望したら、寺の小姓が、まず最初に大ぶりの茶碗にぬるめのお茶をたっぷり入れて出した。喉の乾いていた秀吉は、それを一気に飲み干し、さらにもう一杯頼むと、今度はやや小さめの碗に、やや熱めにしたお茶を出した。秀吉は試みにもう一杯所望したところ、今度は小ぶりの碗に熱く点てたお茶が出てきた。
相手の様子を見て、その欲するものを出す。秀吉は茶の入れ方ひとつにも気を配る小姓に感動し、城へ連れ帰った。それが後の石田三成であるという逸話である。
ただこの逸話の信憑性は乏しいが、滋賀県のJR長浜駅前には、この三献茶に因んだ三成と秀吉の像が設置されている。以下参照。
秀吉公と石田三成公 出逢いの像

片山の随筆やこのエピソードには「おもてなし」の心「ホスピタリティ」が色濃く息づいている。以下参考の※7 :「「接客マナーは心の礎」 おもてなしの「礎」語源」に詳しく解説されているが、「おもてなし」は、「もてなし」に丁寧語「お」を付けた言葉で、「もてなし」の語源は「モノを持って成し遂げる」という意味であり、別に、お客様に応対する扱い、待遇とも言われている。また、「おもてなし」のもう一つの語源は「表裏なし」、つまり、表裏のない「心」でお客様をお迎えすることで、 接客業、サービス業に限らず、人の生活する場、すべての家、人に必要なもの。そして、この「おもてなし」には目に見える「もの」と、目に見えない「こと」があるという。
この「もの」「こと」を、お茶の世界(茶道)で例えると主客一体の心の元、お見え頂いた「お客人」をもてなす際に、季節感のある生花、お迎えするお客様に合わせた掛け軸、絵、茶器、匂い(御香)など具体的に身体に感じ、目に見えるリアルなものが「もの」であり、もてなす人の瞬時に消えてしまう言葉、表情、仕草など、目に見えないバーチャルな心を「こと」と言いあらわしているそうだ。
日本の懐石(茶懐石)料理での「もの」には上記した意外に、飲み物、料理やお菓子(デザート)が加えられ、接客時にもお客様の五感を取り巻く、全ての「もの」の知識(グラス、器、料理、素材、デザート等々) と共にお客様の状態を素早く察知し、 目配り、気配り、手配り、身配り、気働きなどの動作で応える気遣い、お料理を楽しんで頂く会話や日本文化の心わびさびの余韻を与えるなど、「三味一体」(この場合人・料理・場)でお客様の五感と心に満足、感動と余韻を与えることが「おもてなし」だと言っている(詳しくは同HP=※7参照)。やはり「おもてなし」の心は日本の伝統ともいわれる茶道の世界に一番色濃く見られるようだ。
形や行動などで示す「マナー」は相手に不快感を与えないための最低限のルールであるが、そこに「心」が加わると、「ホスピタリティ」になる。
深い心地良さが加わることで、信頼、安心感そして感動が生まれるわけである。
NPO法人日本ホスピタリティ推進協会のHP(※1)にも、
ホスピタリティとは接客・接遇の場面だけで発揮されるものではなく、人と人、人ともの、人と社会、人と自然などの関わりにおいて具現化されるものである。
狭義の定義では、人が人に対して行なういわゆる「もてなし」の行動や考え方について触れていて、これは接客・接遇の場面でも使われるホスピタリティのことである。 主人と客人の間でホスピタリティが行き交うが、それは一方通行のものではなく、主人が客人のために行なう行動に対して、それを受ける客人も感謝の気持ちを持ち、客人が喜びを感じていることが主人に伝わることで、共に喜びを共有するという関係が成立することが必要だ。すなわち、ホスピタリティは両者の間に「相互満足」があってこそ成立する。つまり、主客の両方がお互いに満足し、それによって信頼関係を強め、共に価値を高めていく「共創」がホスピタリティにおける重要なキーワードなのである。
広義の定義では、ホスピタリティが主人と客人の二者間の話にとどまらないことを言っている。社会全体に対して、その構成員である人々が、ホスピタリティの精神を発揮することで、相互に満足感を得たり、助け合ったり、共に何かを創りあげることができ、それによって社会が豊かになっていくという大きな意味でもホスピタリティは重要である。
ホスピタリティは一般的にはサービスを提供する企業と、それを受け取る顧客との領域で論じられることが多いが、決してそれだけにとどまるものではない。例えば企業活動においては、顧客以外のステークホルダーである従業員や、地域社会に対してもホスピタリティを発揮することが大切で、それによって社員の働きがいを高め、社員同士がチームとして創造性を高めたり、地域社会との関係性を高めたりすることで好ましい経営環境をつくりあげることができる。・・・と。

重要なことは、狭義の定義で、“ホスピタリティは両者の間に「相互満足」があってこそ成立する”ということである。「相互満足」は、顧客満足と従業員満足を区別して考えるのではなく、一体として考える立場から生まれたものである。そして、さらに経営者の満足も取り入れた概念と解すべきだろう。
1995(平成7)年の阪神・淡路大震災では全国から大勢の善意のボランティアが被災地に駆けつけたことから、「ボランティア元年」とも呼ばれるようになったが、一方で、例え善意のボランティアであっても、現地で必要とする技能がなく、そのため、現地が望んでいる必要とする事はできず、逆にその日の食事が満足に食べられない地域において、残り少ない食品や飲料水をコンビニで消費していったためますます現地の人の食糧不足に拍車をかけた・・といった不満から「ボランティア迷惑論」が出て問題となったこともあった。ここには、例え善意の行為であっても、それが必ずしも相手の望むことではない時の典型的な問題が見られるだろう。これは、「ホスピタリティ」の場合も同様である。
又、もっと重要なことは、広義の定義で書かれているように、お客様が満足し、お客様に喜んでいただくためには、お客様の要望を超えるサービスを提供し続ける事が重要であるが、同時に、そのような仕事をする、社員も満足し、さらに、その企業が存在する地域社会の皆様にも満足していただける、そのようなホスピタリティでなければいけないということだろう。これは非常に難しい。
牛丼チェーンのすきやは労働生産性を追求するあまり、労働問題(詳細は「ゼンショー#諸問題」を参照)からアルバイトやパートタイマーの不満が噴出し、経営が揺らぎかけたこともあったように、先ず、従業員がイヤイヤ働いて、お客様に心からのサービスが提供できるわけがない。これはもう最低の条件がそろっていない。
これに反し、「夢と魔法の王国」と呼ばれているディズニランドのホスピタリティには定評がある。楽しいから客がディズニーに集まるのである。それはディズニーのリピート客の多さでわかるだろう。
私も現役時代、東京ディズニーランドが開業して間なしの頃、すでにディズニランドのホスピタリティは話題になっていたので、アメリカ西部を研修で視察に行った時、本場アメリカのディズニーランドも視察を兼ねて遊びに行ったが実に楽しかった。平日ではあったが日本のディズニーランドなどと違って年配者が多かった。
兎に角ディズニーでは、あらゆることが、ただただお客様が楽しめるよう企画・演出され、キャストと呼ばれる従業員は社員もアルバイトもお客様を楽しませるために日々働いており、会社(ディズニー)自体も、自らの仕事に誇りをもってサービスをお客様に提供してもらえるようすべてのキャストへのホスピタリティ教育や動機づけを行っているからこそ顧客満足を産み、長きにわたり、多くのお客様を世界中から惹きつけているのだろう。(参考の※8 、※9 参照)。

「思いやり」「心からのおもてなし」という意味の「ホスピタリティ」。この言葉は、サービス業のみならず、最近では医療現場などでも頻繁に使われるようになっている。
医師山崎章郎の『病院で死ぬということ』が日本エッセイストクラブ賞を受けたのは、1991(平成3)年だった。1993(平成5)年にはこの作品を市川準監督がドキュメンタリータッチで描いた同名映画を製作されている。
この本が人々の心をとらえたのには、一般病院における終末期医療の現場の悲惨ともいえる状況が生々しく正確に描かれていたからであった。
「苦痛と絶望、不信と怒りの連続の中で、告知もされず、痛みに顔を歪め「物いわぬ物体」となって、病院のベッドで死んでゆく患者の姿は、読者にとって明日の自分の姿であり、肉親でもあった。多くの人の中にある医療不信がこの悲憤の書をベストセラーにした。
山崎は本の中で「僕はホスピスを目指す」と宣言し、1991(平成3)年10月聖ヨハネ会桜町病院(※10参照)のホスピス科部長となった。、それ以降、日本のホスピスが充実を見せ始めたのは自分の全存在を注ぎ込む山崎や現場を支えるたくさんの人々の志の集積が貢献している。山崎氏は、2005(平成17)年に、在宅診療専門診療所ケアタウン小平クリニック院長(※11参照)を務め現在に至っている。

「ホスピス」(英: hospice)とは、ターミナルケア(終末期ケア)を行う施設のこと。または在宅で行うターミナルケアのことをいう。
英語の、「ホスピス」(hospice)は、ラテン語のホスペス(hospes:主、客の両者を意味する)を語源とし、ラテン語のホスピティウム(Hospitium:客を厚遇すること)に由来するホスピスは、「客を暖かくもてなす」ことを表し、元来、中世の初めヨーロッパ西部で巡礼や旅行者、病人たちを休ませた宿泊施設を意味している。これが今日のホテル(Hotel)や病院(Hospital)の原型となっている。

日本ホスピス緩和ケア協会編(NHK厚生文化事業団発行) の小冊子『 ホスピスってなあに?-困っているあなたのために』(※12参照)の1ページの冒頭に以下のように書かれている。

治すことを目標にひた走っている医師と患者。その同じ病室で、同じ目標をめざせなくなっている私のからだ。 途方に暮れるたびに、私のなかの病院砂漠がひろがっていき、いつしか私は疲れきった旅人になってしまった。 そんなある日、 「ホスピスはあなたのオアシス」、砂漠の向こうから吹く風が、そう私におしえてくれた。 ・・・と。

そして、この小冊子にはさらにホスピス誕生の理由を次のように解説している。

これまでの医療は、治癒させることに専念するあまり、治癒できない場合の対応がほとんど考えられていませんでした。治癒できなければ延命策を講ずるという図式が連綿と続けられていました。「検査・診断・治療・延命」という4つの働きが近代病院の目的と考えられてきたからです。 
 しかし、たとえば、症状の進行した患者さんの何割かが直面する激しい痛みや息苦しさ、変化する症状への不安に対しては、この4つの流れの中で対応するには限界があります。 このような状況におかれた患者さんの痛みと不安を、何とかやわらげてあげたい・・・。 それがホスピスを誕生させたときの願いでした。
 この考え方を本格的に実践してみせてくれたのが1967年、シシリー・ソンダース医師が率いるイギリスのセント・クリストファー・ホスピス(聖クリストファー病院。※13参照)です。 ・・・と。  
シシリー・ソンダース医師によって全世界に広まった「近代ホスピス」は、「病気の治癒を目指した治療がもはや有効でなくなった患者の苦痛を緩和し、最期までその人らしく生き抜いてもらえるるよう、命の質とか、生活の質(Quality of Life)を高く生きられるよう、チームで援助していこうというプログラムのことをいい、そして、「ホスピス」に入院せずに、自宅で同じような「ホスピスケア」を受けて家族と過ごすことを「在宅ホスピス」と言っている。
日本の「入院ホスピス」の場合は「進行癌(がん)とエイズ(AIDS)」だけが治療対象のようだが、「在宅ホスピス」の場合はどんな病気の人でも対象となるようだ。
ホスピスは、人間がどれだけ「 人間らしさ」を保って生きられるか、つまりは、尊厳死の問題にもかかわってくることなので、これにはいろいろ意見もあるようだ(※14参照)。

私達夫婦ももう80歳に近くなった。今は元気であるが、平均寿命まではそう長くはない。
それ以上の余命はできるだけ元気で長生きてはしたいものの、もし、癌その他重い病で寝たきりになった場合、ただ息をしているだけの状態で、何時までも苦しみながら生きようなどとは思わない。
だから、常日頃から、夫婦でそのような状態での延命治療だけは絶対にしないようにと、確認し合っている。もしそのような状況になったら、私は、ホスピスなのお世話になりたいのだが・・・。、

参考:
※1:NPO法人日本ホスピタリティ推進協会
http://hospitality-jhma.org/
※2:「THREEの由来と数秘術」|THREE TREE JOURNAL
http://tree.threecosmetics.com/2015/11/features023-1/
※3:一般社団法人 日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※4:はじめての茶道ガイド
http://sadou.info/
※5:片山廣子が芥川龍之介に抱いた“文学への恋” | NHKテキストビュー
http://textview.jp/post/culture/14057
※6:作家別作品リスト:片山 広子
<ahref=http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1346.html> > http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1346.html
※6:接客マナーは心の礎」 おもてなしの「礎」語源
http://projectishizue.blog60.fc2.com/blog-entry-154.html
※7:ホスピタリティの極意
http://www.hospitality-gokui.com/index.html
※8:知ってるだけで100倍楽しい!「ディズニーランド」の豆知識 - M3Q
http://m3q.jp/t/120
※10:社会福祉法人 聖ヨハネ会
http://www.seiyohanekai.or.jp/
※11:ケアタウン小平クリニック 山崎章郎 ホスピス
http://caretownkodaira.net/clinic/
※12:ホスピスガイドブック※配布終了 | NHK厚生文化事業団
http://www.npwo.or.jp/library/hospice/
※13:シシリー・ソンダースとホスピス | 在宅ホスピス医 内藤いづみ
http://www.naito-izumi.net/archives/60.html
※14:QOL の問題点
http://www.saiton.net/ethics/kc06.htm














































1881年、東京て『東洋自由新聞』が創刊された日

2016-03-18 | 歴史
1881年(明治14年)3月18日、東京で『東洋自由新聞』が創刊された。山城屋の稲田政吉を社主とする東洋自由新聞社発行によるものである。
山城屋の稲田政吉については、Wikipediaで調べても分からなかったが、明治期の評論家・翻訳家、・小説家でもある内田 魯庵(*1参照)」の『銀座繁昌記』(*2)の中見出し「銀座の本屋 ―稲田政吉と兎屋と鳳文館」の中に、当時の銀座の新らしい文化を代表する出版社博聞社や報告社大野堯運(おおのぎょううん)の他に、「江戸時代からの古い暖簾では山城屋政吉というのがあった。これも西側の銀座二丁目の、タシカ今の三枝小売部の所に『江戸名所図会』にあるような古い行燈看板を出していた。銀座の新市街を第一に讃美した『東京新繁昌記』(服部誠一著、*3 参照)の出版人であるし、本屋としても毛色の変った男であったから、やはり銀座人物伝の中に加えねばならない一人である。
「山城屋稲田政吉はその頃の商人としては四角な難かしい字(※漢字のことだろう)も読み、のちに府会議員となって府政にあずかった程の口利きで・・・」などと紹介されている。

明治六年政変後、下野した板垣退助は1875年(明治8年)に、福沢諭吉明六社系の啓蒙家によって,ヨーロッパから紹介された自由・民権思想に基づいて, 藩閥政治に反対して国民の自由と権利を要求した政治運動・ 自由民権運動を全国的に展開する為、愛国社を結成したが、政府の参議に復帰するなどしたために愛国社はすぐに自然消滅した。
3年後の1878年(明治11年)9月に愛国社は再興されて大会が開かれた。翌年11月に開かれた第3回愛国社大会では国会開設請願の署名を集める事と全国で遊説(ゆうぜい)を展開する事が決まった。
こうして、国会開設を目標とする全国運動は、同時にそれまで旧士族中心だった運動が、新たに豪農豪商を出身とする者らも加わった運動に転換していった。これに伴い愛国社についても、板垣など高知県の立志社中心の運営に対する批判が高まり、1880年(明治13年)3月15日に第4回愛国社大会が大阪の喜多福亭で開かれたが、2府22県から愛国社系以外の政治結社代表を含む114人が参加し、国会開設請願を求める約8万7000人の署名が集まったことから、17日には会場を太融寺に移し、愛国社とは別個に国会期成同盟の大会が開会される事態に陥り、結果的に、当大会を以って、愛国社大会は国会期成同盟大会に衣替えすることになった。大阪市北区の太融寺大師堂横に国会期成同盟発祥之地碑がある*4参照。


規約の内容としては、各地の政治結社との連絡の為に常備委員を設置する事、国会開設請願書を天皇に提出する事、国会開設の請願が天皇に聞き届けられなかった場合には、同年11月に大会を開く事、国会開設が実現するまでは国会期成同盟を解散しない事、などが決まった。
国会期成同盟は河野広中片岡健吉を請願の代表として選んで東京に出向き、国会開設請願書である『国会ヲ開設スル允可ヲ上願スルノ書』(*5参照)を太政官および元老院に提出しようとしたが、政府は請願権を認めず却下した。また、政府は4月5日に太政官布告として集会・結社の自由を規制する法令である集会条例 (明治13年太政官布告第12号)を制定して自由民権運動を圧迫、弾圧した。
こうした政府の動きに対して自由民権運動を展開する勢力は反発し、個別に建白書や請願書を政府に提出するなどして自由民権運動は盛り上がりを迎えていった。
そして、1880年(明治13年)国会期成同盟第2回大会において、河野広中・植木枝盛松田正久らから政党結成の提案が出され、これに基づいて同年12月15日に、嚶鳴社沼間守一草間時福、河野広中、植木枝盛、松田正久らは会議を開いて、沼間守一を座長とした自由党 (準備会)を結成したが、ここで政党準備は可決されたものの、機関紙発行は否決されたため、のちに自由党に参加するグループが企画したのが1881年(明治14年)の今日3月 18日に創刊された『東洋自由新聞』であった。

1871年(明治3年)12月、華族西園寺公望は、官費でフランスに遊学のために出国し、以後10年近くにわたってフランスやヨーロッパの知識や思想、文化を吸収していったが、その間、後にフランスの首相となる8歳年上で急進党の政治家クレマンソーレオン・ガンベタ、留学生仲間の中江篤介(号:兆民)・松田正久・光妙寺三郎らと親交を結び、こうした人脈は帰国後も続いた。
そして、1880年(明治13年)10月21日には遊学を終え、10年ぶりに帰国したが、西園寺は特に職に就くこともなく、ぶらぶら遊んでいると、留学生仲間だった松田正久が、新聞を出すから社長になってくれと誘ってきたという。この新聞が、自由党結党に向けて準備され、自由民権運動の中心的言論機関たらんとして創刊された『東洋自由新聞』であった。
西園寺は社長に、松田が幹事となり、同じくパリで知合った中江兆民を主筆に据え、光妙寺三郎に編集委員を任せた。
おりからの自由民権運動の高揚のなかでフランス的な自由民権論を展開し、とくに、中江兆民の執筆になる社説は,当時の自由民権思想のなかでも卓越していた。
そのほか国内政治状況、外国事情などの報道記事も充実していたようだが、政府と対立する自由民権運動の高揚期に、清華家筆頭である西園寺が新聞を主宰するということの社会的影響を恐れた三条実美岩倉具視らは、西園寺に新聞社社長からの退社を画策したが、西園寺はこれを拒絶するも、4月8日、明治天皇の極秘の内勅によって強引に身を引かされた。
さらにこのいきさつを檄文(を書いた文章)にして全国各地の民権家に暴露した東洋自由新聞社社員の松沢求策らが逮捕されるなど、言論弾圧の影響を受け、資金提供者である社主(山城屋稲田政吉)が手を引くと、資金も欠乏し、経営的に行きづまり、結局、同紙は、同年4月30日の34号で休刊に陥り、事実上の廃刊となっている。


明治時代に、国民に最も大きな影響を与えた思想家と云えば、福沢諭吉と中江兆民の二人ではないだろうか。
福沢は「文明開化」を、兆民は「自由民権」をリードした。福沢の『学問ノススメ』(*6参照)は明治期最大のベストセラーであったし、兆民の『民約論』(ルソーの『社会契約論』の訳書)は民権派青年たちのバイブルであった。
兆民は福沢よりちょうどひとまわり下で、福沢は九州の中津藩、兆民は四国の土佐藩と、ともに軽格武士の生まれであるが、どちらも長崎に留学し、外国語を修めた。
その後、福沢は、大阪の蘭学者・緒方洪庵に学び、22歳で適塾の塾長にあげられ、3年後に勝海舟咸臨丸で渡米している。
兆民は幕府の語学所学頭平井義十郎からフランス語を学ぶなど外国語習得に努めたのち江戸に入り、福地桜痴(源一郎)の日新社の塾頭となりフランス語を教えたといわれる。これも23歳だというからいずれも俊才と云うほかはない。
福沢は1867年(慶応3年)までに三度も外遊し、欧米社会の仕組みを詳しく実地研究している。帰国後自分に謹慎を命じた幕府にあいそをつかし、独立自尊の自由人として生きることを決意、1868年(慶応4年、明治元年)に開校したのが慶応義塾である。
当時、江戸は維新の戦乱の渦中にあったが、官軍と彰義隊の合戦が起こる中でもF・ウェイランドの『経済学原論』(The Elements of Political Economy , 1866)の講義を続けたといわれている。
そのことは「上野の戦争」として『福翁自伝』に書かれており、その一文に、「世の中に如何なる騒動があっても変乱があっても未だかつて洋学の命脈を断やしたことはないぞよ、慶応義塾は一日も休業したことはない。この塾のあらん限り大日本は世界の文明国である。世間に頓着するな」と申して、大勢の少年を励ましたことがあります。」(「福翁自伝」岩波文庫P202 〜203 )・・と、自負している。
『学問ノススメ』の「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズト云ヘリ」は、福沢の意図を超えて独り歩きをしてゆく。彼の塾生の中から植木枝盛のような人物が産まれてくるのもそのためだった。
ただ福沢の文明論や自由主義は「一身独立して国家独立す」(「独立自尊」*7参照)の言葉にあるように、あくまで国家の独立を目的にしたものであり、国家を超える平等主義をめざすものではなかった。だから欧米帝国主義のアジア侵略が激しくなると、その欧米に対立するのではなく、日本もアジアの悪友と手を切り文明国として大陸に進出せよと主張するに至った。『脱亜論』(1885年)いわゆる脱亜入欧のすすめである。その限り、現実主義者福沢と明治政府の間に対立はない。
それに対して中江兆民の道は異なる。彼は岩倉使節団の随行留学生の一人としてフランスに滞在(1871年~1874年)し、民権思想を身に着けて帰ってきた。そして、仏蘭西学舎(後の仏学塾)を開いて後進を育成、自由民権時代には板垣退助率いる自由党を支援し、『東洋自由新聞』の主筆や、同新聞が廃刊となると、翌1882年(明治15年)には自由党の旗揚げに関わり、党発行の新聞である『自由新聞』の社説係を務めた。
福沢が大隈重信らの立憲改進党を支持し、『時事新報』を発行したのに対抗している。
自由民権派の主流が国権論や大陸進出肯定(徳富蘇峰なども賛同)に傾いていったとき、兆民は名著『三酔人経綸問答』(1887年)を書き、東洋豪傑君流の現実主義帝国主義を批判している。

●上掲は、『三酔人経綸問答』

洋学紳士君の徹底した民主、平等、平和を求める理想主義がこの本に登場するのも兆民らしい。
『三酔人』は、西欧列強の強圧の下で、後進国で弱小国の日本はどのような外交方針を立てればよいか、という基本テーマをめぐって三人三様の意見が提示される。紳士君のような理想主義と豪傑君のような「現実主義」との両極文化を乗り越えて、理想を持ちながらも現実を直視していた南海先生が示唆しているような「ほんとうの現実主義」を身につける必要があるのだろう。「明治思想文学の最高傑作の一つ」とも称されるこの書、参考*8:「中江兆民の『三酔人経綸問答』」で読めるので興味ある方は是非読まれるとよい。
晩年の福沢が順風満帆だったが、兆民は挫折に次ぐ挫折と波乱盤上だった。中江兆民は、強靭な人権意識の上に立つ理想主義者であったが、純な愛国者でもあった。
フランスでルソーの自由・平等(民主主義)の思想にひかれ、自由民権思想の精密化に力を注いだ兆民であるが、その精神の基層(ある事物の根底に存在して、その基礎をなしているもの、基盤)には幕末の藩校教育でうけた儒教の精神が色濃く流れていた。
思想家であり、教育者であったという点で福沢諭吉に共通するが、儒教にたいする態度は対蹠的であった。
帰国後は自宅にフランス語による歴史、法律、哲学を教える仏学塾を開設したが、そこでは漢学も重視しており、1875年(明治8年)には東京外国語学校大学南校の後身である開成学校の予科)の校長にもなるが、就任すると「徳育の根本」に「孔孟の教え」(孔子孟子の説いた仁義の教え。儒教。儒学。 )を加えるべきと主張して、「西洋化」による実学主義(実用と実践を重んじ、日常生活に即した具体的・実際的な学習を中心とする立場.。福沢諭吉の思想にその典型がみられる)を推進する文部省と衝突して、結局、校長を辞任している。兆民の儒教の尊重は兆民の政治思想の基礎にもみとめられる。
彼の思想の特徴が最も明瞭に表われているのはその自由観であり、『東洋自由新聞』第一号(*9:*10参照)の有名な社説には、自由の主旨を「リべルラー・モラル(心神の自由)」と「リベルラー・ポリチック(行為[政治]の自由)」に分類し,前者について次のように説明している。
「第一のリベルラー・モラルとは、わが精神や思想が、けっして他のものの束縛をうけず、完全に発達しきって、あますところがないのをいうのである。古人がいったように、道義(人としてふみ行うべき道。道徳道理)に合致した、いわゆる「浩然の一気」(『孟子』)がこれである。内をかえりみてもやましくなく、反省してもはずかしくないのがこれである。.
いいかえれば、天地に俯仰してはじることがないことであり、外にたいしては、政府や教門によって妨害されず、活発自在で、走りうるところは、どこまでも走り、自由に突進し、ますます進んですこしも撓(たわ)まないものである。だから、「心思(思い。考え)の自由」は、われわれが本来もっている基盤であり、第二項目の「行為の自由」からはじまって、その他すべて自由のたぐいは、みなここに基礎をもつのである。およそ、人生の行為、福祉、学芸は、みなここから出発している。つまり、われわれが今もっとも留意し、養いそだてるべきもの、これより尊いものはない。」・・・と。
兆民はここで道徳的主体としての個の確立こそが自由の基礎だということを強調しており、」西洋における自由意思の問題について、日本的な考え方を交えて論じている。
兆民はまた、『東洋自由新聞』第三号社説(、明治14年3月24日)の「君民共治の説」では、「君民共治」(君主と、人民の代表者である議会とが、共同で国の政務に当たること。君民同治ともいう) を主張。形は天皇を認めるが、イギリスに似た政治形態(国王はいるが、宰相を選ぶのも、法律を作るのも人民である)を考えていた。実を主として考えれば共和制を君民共和といいかえればよいと主張しているのである。
福沢が『帝室論』(*11、*12 参照)で述べた天皇を人身収攬の符にしようとした見解とは雲泥の差があった。
しかし、そこで兆民は現実に天皇の権威を思い知らされるのである。
先にも書いた通り、社長の西園寺は明治天皇の「内勅」によって、辞任に追い込まれ、4月30日に34号をもって廃刊となった。この時、社長の西園寺の退社について、社説で「西園寺公望君東洋自由新聞社ヲ去ル」を書き、同日の雑誌記事で、「嗚呼天自由を我に与へて又、天之を奪ふ」と述べて、退社は天皇の意向であることを暗示し、それを翌日の新聞社説「天の説」でも暗喩的な解説をしているそうだ。
福沢が反儒教の立場で、実用の教育と資本主義化をめざしたのにたいして、中江は儒教の精神から民主主義の実現を追求していた。そのような観点から教育も考えていた。だからであろう、兆民の仏学塾は慶応義塾のように繁盛はせず、政府の私塾つぶしの政策によって1888年(明治21年)には廃塾においこまれてしまうのである(*13:「儒教教育の日本的展開」参照)。
(冒頭画像は東洋自由新聞. 1号)
参考:
*1:作家別作品リスト:内田 魯庵―青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person165.html
*2:銀座繁昌記
http://e-freetext.net/ginza_hanjyouki.txt

*3:東京新繁昌記 - 古典籍総合データベース - 早稲田大学
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%93%8C%8B%9E%90V%94%C9%8F%B9%8BL
*4:発祥の地コレクション/国会期成同盟発祥之地
http://hamadayori.com/hass-col/culture/KokkaiKiseidoumei.htm
*5:画像 「国会ヲ開設スル允可ヲ上願スルノ書」 - 国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/site_nippon/kensei/shiryou/limage/Gazou_30_1.html
*0000・作家別作品リスト:福沢 諭吉
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person296.html
*0001: 「一身独立し一国独立す」独立自尊の真髄とは
http://www2s.biglobe.ne.jp/~yukiya-s/home-2/fukuzawa.htm
*0002:中江兆民の『三酔人経綸問答』
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/nakaechoumin.html
*0003:国立国会図書館デジタルコレクション - 東洋自由新聞. 1号
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8664049
*0004:『東洋自由新聞』論説
http://blogs.yahoo.co.jp/rkfjj865/folder/1501606.html
*0005 :デジタルで読む福澤諭吉 > 帝室論 - 五 頁
http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_text.php?ID=99&PAGE=5
* 0006::1/14 福沢諭吉「帝室論」現代語訳
http://kakaue.web.fc2.com/doc/teisituron.pdf#search='%E5%B8%9D%E5%AE%A4%E8%AB%96'
*0007:儒教教育の日本的展開(PDF)
https://ir.lib.shizuoka.ac.jp/bitstream/10297/477/1/KJ00004293322.pdf#search='%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E6%9C%9B%E5%90%9B%E6%9D%B1%E6%B4%8B%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%96%B0%E8%81%9E%E7%A4%BE%E3%83%B2%E5%8E%BB%E3%83%AB'
『日本式 自由論』
http://nihonshiki.sakura.ne.jp/ziyu/ziyu0.html
松本清張「火の虚舟」を読む11~20
http://sarushibai.hatenablog.com/entry/2016/02/27/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E6%B8%85%E5%BC%B5%E3%80%8C%E7%81%AB%E3%81%AE%E8%99%9A%E8%88%9F%E3%80%8D%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80%EF%BC%91%EF%BC%91%EF%BD%9E%EF%BC%92%EF%BC%90
独り歩きする「脱亜論」 - 朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/international/history/chapter02/memory/01.html
日本思想史入門講座
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/2663/nihonshisoushi/mokuji.htm


いのちの日

2016-03-11 | 記念日
日本記念日協会に、今日3月11のる記念日として登録されているものの中に「いのちの日」があった。
2011(平成23)年3月11日に発生した東日本大震災では多くのが失われた。の尊さを思い、命の大切さを考え、震災で学んだことを風化させることなく災害に備えようと「災害時医療を考える会(Team Esteem)」(※1)が制定したもの。
設定の趣旨は、災害時医療の改善を図るとともに、9 月1 日に防災訓練が行われるように、3月11日には健康、医療、災害時の体制などを考える機会を設けたいとの思いから。…だという。

いのち短し 恋せよ少女(おとめ)
朱(あか)き唇 褪(あ)せぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものを
この歌は、1915(大正4)年に発表された中山晋平の歌謡曲『,ゴンドラの唄』(作詞:吉井勇)の歌詞(一番)である。
芸術座第5回公演『その前夜』の劇中歌として生まれ、松井須磨子らが歌唱、大正時代の日本で大流行したものだ。随分古い歌と思われるかもしれないが、私がまだ子供の頃でもよく唄われていた。
作曲の中山によれば、母のの直後、悲しみに暮れる帰りの汽車の中で「『ゴンドラの唄』の歌詞が語りかけて」きて、「汽車の揺れとともに、自然と旋律がわいてきた」 のだという。
この『ゴンドラの唄』は森鴎外が翻訳した『即興詩人』(アンデルセン著)の一節を基にして吉井が作詞したそうだ(*2参照)。
黒沢 明監督の映画 『生きる』 のなかで、主演の志村 喬扮する一市役所の市民課長・渡辺勘治が、この歌を口ずさみながらブランコをこぐシーンが思い出される。
30年間何もしないまま、勤め上げようとしていた彼は、ある日、自分が胃ガンであることを知らされる。早くに死に別れた妻との間にできた息子にも冷たくされ、絶望と孤独に陥った彼は、街へさまよい出て、飲みなれない酒を飲む。
ああ、自分の人生はいったい何だったのか?・・・。 余命の短さの苦悩の中から、彼は生きることの意味を考えはじめる。そして、人生の最後の時間に、ほんの少しでも市民の役に立つことをしようと考え、小さな公園の建設に奔走、彼の努力により児童公園が完成した。 小雪の舞う夜、完成したばかりの公園のブランコに揺られながら、この『ゴンドラの唄』を楽しげに歌う・・・・。
死に直面した人間の心を通して、生きることの意味を優しい眼差しで表現したこの映画は、1953年度、ベルリン国際映画祭シルバーベアー賞を受賞している。
上掲の画像は、マイコレクションの絵葉書、那覇中央郵便局発行黒澤明監督全30作品絵入り絵葉書(ここ)の中の『 生きる』:ブランコに乗りゴンドラの唄を歌っている主演の志村喬)。『ゴンドラの唄』の試聴は以下で出来る。


今の時代、人間楽して、楽しく生きる事が理想のように考えている人が多くなったかもしれないが、そんな人は、一度この映画をDVDででも見てみると良い。『生きる』の主人公に限らず、誰だって享楽的な生活を送りたくなるだろうが、この映画の主人公は、それでは、何も満たされることがなかった。「生きる」とは、そういうものではないと思ったのだ。
仕事や人間関係に疲れたとき人は、自分の存在が否定されたように感じ、「私はなぜ生きているんだろう」という疑問を感じ、悶々としているうちに「生きている意味なんてない」と自分の人生に否定的になってしまうこともあるようだがそのような時、歴史上の哲学者や文学者が考えた「生きる意味」や「人生の意味」が私達を励ましてくれるかもしれない(※3参照)。
「生きる」とは、この世でいちばん稀(まれ)なことだ。たいていの人は、ただ「存在」しているだけである」(オスカー・ワイルド 
ただ存在するためには、息をして死なないでいるだけで十分であるが、生きるためには自分の意志で積極的な活動をしていかなければいけないのかもしれない。自分が「生きている」のか、「存在している」だけなのか、時には、自分に問いかけてみることも必要ではないだろうか(以下参考の*3参照)、
「敷かれた道を進むより、道なきところに自ら道を築いて進め」
「絶えずあなたを何者かに変えようとする世界の中で、自分らしくあり続けること。それがもっとも素晴らしい偉業である」
「人生は短い。だが親切を行う時間はいつだって十分にある」
いずれも私の好きなアメリカの思想家、哲学者であり作家・エマーソンの言葉である。何をしようかなど考えることはない。自分がしたいことを思いっきりしたらよいのである。少なくとも、人に親切をことをするぐらいはしようと思えばいつでもできるのだから・・・。そうすれば人生は変わるだろう。
思えば、私など、特別に何も考えずに今まで生きては来たが、振り返ってみると、自分としては、すばらしい青春時代をすごしてきたことを今、しみじみと幸せに感じている。生来が馬鹿な私は難しいことなど何も考えずに、ただただ、自分のしたいと思うことだけを夢中になって思う存分にやってきた。
もし、他の人よりほんの少し劣ったり遅れをとっただけで悩んだりしている人は、以下参考の青空文庫の北条 民雄「いのちの初夜」(※4)など読んでみるとよい。
昭和初期では不治の病とされたハンセン病(癩病)、患者は一般社会から隔離されて専門の施設に隔離された。自身も癩病患者であった作者の体験的な作品『いのちの初夜』は、癩病院への入所という絶望の中から不死鳥のような命の叫びを感じさせてくれる。生命(いのち)ってなんなんだ。?・・・深く考えさせられる。

ある種の現象が人間社会に負の影響を与える時、その現象及び影響(現象の拡大,他の現象の誘発)を「災害」という。
いくら真面目に一生懸命頑張っていても人を不幸に陥れる災害に遭遇することがあるが、その現象には自然現象による災害「天災」と人為現象による災害「人災」がある。
災害対策基本法」にいう天災とは、自然現象としての災害」であり、 震災津波高潮火山の噴火、暴風,豪雨,豪雪,洪水,その他の異常な自然現象であり,人災とは「大規模な火事もしくは爆発」などの人為現象であるとしている。
災害は、忘れたころにやってくるとは、よく言われるが阪神・淡路大震災は、まさにそのことばをまざまざと思い出させてくれた自然災害である。
1995年(平成7年)1月17日に起こった「兵庫県南部地震」は「ナチュラル・ハザード」(自然現象)であるが、その結果引き起こされ、数年にわたり大規模な人的被害や経済的被害などが続いた「阪神・淡路大震災」は「ナチュラル・ディザスター」(「自然災害」)である。
なお「ナチュラル・ハザード」という言葉は将来起きる可能性のある脅威(たとえば発生が予想される地震や、大雨が降った場合の洪水)を指す場合に使われるが、「ナチュラル・ディザスター」(自然災害)は過去に起こった、あるいはいま起こっている社会的出来事に関連付けて使われるそうだ。
戦後最大(発生時点では)のこの地震災害(震災)は、1995年(平成7年)年1月17日未明に、地震とはまったく縁がないと思われていた阪神、淡路地区を襲った。
これまで我が国が経験したことのない大規模な都市型震災であり、兵庫県全体で、死者・行方不明者が6,437 人、被害総額が約10 兆円にのぼった。特に震源に近い我が地元神戸市六甲山南側の市街地を中心に広範囲かつ大規模に被災。人的被害では、死亡者4,571 人(2000.1.11)に達した。
その中で、高齢者(60 歳以上)が死亡者の約59%を占め、家屋倒壊による死者が多数(窒息・圧死が全体の約73%)を占めた。
また、物的被害では8 万戸を超える住宅が喪失し、さらには、神戸の街が営々と築き上げてきた神戸港、高速道路、橋梁、鉄道施設、ライフラインなどの都市基盤や、さらには産業基盤が甚大な被害を受けた。この物的被害の総額は約7 兆円弱と見込まれている。
その結果、道路であれば、利用できた数少ない幹線道路に自動車が集中して大渋滞が発生し、人命救出や消防の部隊の現場到着が大幅に遅れたり、その後の被災地への救援物資(水、食糧、日常用品等)の輸送に大きな影響を与えた(第二の災害とも呼ばれる)。また、水道管の破断等による断水は、消火用水不足による延焼拡大を引き起こし、その後の飲料水不足や水洗トイレの使用不能にもつながった(※5の阪神・淡路大震災の概要及び復興 - 神戸市参照)。

よく大きな被害が発生すると、「異常な自然現象」の為と云われるが、自然現象というものは,あくまで「自然の摂理」そのものであって決して「異常」ではない。「災害対策基本法」は,おもに災害が発生した場合の行政的措置(行政行為)を定めた法律であるが、その前提には,災害つまり自然現象に対する対応策(技術)のための予測がある。例えば,各種の建造物の設計基準を与えるものであり、過去の災害事例から,確率論的に災害規模を設定している。
その災害の規模は,それが人間社会に与えた負の影響の大きさ,つまり「被害」の大きさによって測定されるが、例えば、過去の地震事例を見ても分かるように、地震現象自体は同程度であっても,災害規模(被害の大きさ)は異なる。よく言われる、「異常」は其の予測値を超えた被害が出たときに使われているだけである。

震災は、津波の発生や、建物・施設等の倒壊、同時多発火災延焼、ライフライン等の途絶による被害の複合性・波及性、情報連絡、避難生活、災害後の復旧対策など、総合的な防災行政全般に関連しているだけに、日本ではとくに防災行政の中心的な目標におかれてきた。
そして、関東大震災をはじめ、その時々の地震によって顕在化した弱点を教訓にしながら対策を積み上げていくことで、今日ある防災行政が進んできたともいるが、とくに、この阪神・淡路大震災は、地震による人的被害の規模の大きさ、高層建築物都市施設の衝撃的な被害など、直下型地震の怖さを人々に焼き付けた。
震災地域の被害は、その震度などに単純に対応したわけではない。同じ震度地域であっても、倒壊した家屋もあれば倒壊しなかった家屋もある。震災に伴う火事は、木造・密集住宅地で、そうではない地域に比べ延焼が顕著であった。「被害」は、老朽住宅居住者・高齢者・一人暮らし・低所得者層など、いわゆる社会的弱者に、より深刻に現れた。震災被害は、そうした「階層性」を伴っていたが、震災後も被災者の生活再建の程度において、比較的に早く進んでいく者とそうではない者のふるい分けが、階層性を含みながら進行した(※6参照)。
災害時、社会的弱者はこのようにより厳しい状況に置かれやすい。防災行政の領域では、従来からこうした特別な配慮を必要とする人達を「災害弱者」として概念化してきたが、阪神・淡路大震災において、、災害時における弱者保護の必要性が改めて認識される事となった。
そして、この震災では、地震によって倒壊した建物から救出され生き延びることができた人の約8割が、家族や近所の住民等によって救出されており、消防、警察及び自衛隊によって救出された者は約2割であるという調査結果がある(※5参照)。
このような状況の中から災害ボランティアの活躍もあり、日本の市民運動史上では1995年のことを意味する「ボランティア元年」という言葉も誕生するなど、今までの災害現象では比較的注目されなかった、やや質の違う社会的課題を提起したといえる。

一年の世相を表す漢字一字を選ぶ「今年の漢字」(日本漢字能力検定協会主催)は、阪神・淡路大震災が起きた1995年から始まった。そして、この年の漢字は「」であった。1月に阪神・淡路大震災、3月にはオウム真理教による地下鉄サリン事件オウム真理教事件参照)が起きるなど、まさに世間を震撼させる出来事が起きたことによる。
先にも述べたように、阪神・淡路大震災には、今までの災害現象では比較的注目されなかった現代社会ならではの社会的課題が多く提起されており、今後の大型震災発生に対してその教訓を生かして、国、地方行政、そして、各個々人がそれなりの防災対策を講じていなければならないはずであったのだが、マスコミの報道は、阪神・淡路大震災のことについてはオウム真理教事件に埋没され、震災のことも、崩壊した高速道路や家屋、また火災で燃えている家など映像による悲惨な状況を、何か大きな事件といった感じで報道されていただけのような気がするのだが・・・。

阪神・淡路大震災では6千5百人の尊い生命が失われ、4万5千人が負傷し、最大時の避難者は32万人に達したが、被害の中心となった死傷者の多くは圧死や挫滅症候群(クラッシュ症候群)だった。
又、この大震災の後遺症が少しずつ癒えてきた2004年(平成16年)10月、新潟県中越地震が発生し、死者68人、負傷者は4千8百人を記録した。
地震発生後、余震も頻発し揺れも強く、山間部では多くの被災者が自家用車で暖を取りながら長期間の避難生活を余儀なくされたことで、深部静脈血栓症:: いわゆるエコノミークラス症候群が多発し、死者の少なくとも10人はこれがもとであったともいわれている。
そして、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震とそれに伴って発生した津波、およびその後の余震により引き起こされた大規模地震災害である東日本大震災の地震の規模はマグニチュード(Mj)は,9.0、最大震度は7を記録し2016年(平成28年)2月10日時点で、死者・行方不明者は18,456人、重軽傷者は6,152人、警察に届出があった行方不明者は2,562人であると発表されている。
被害は南北500キロに渡り、過去に経験しなかった巨大地震とともに大津波福島第一原発事故,に襲われたが、死傷者の大多数は津波による溺死・溺水だった。被害を大きくした原因は,、被災地に通じる交通網が土砂や瓦礫で遮断されてしまったことで、人的物的支援が空路でしかできなくなってしまったことである。同時に電話やインターネットなどの通信網が完全に崩壊し情報の往来が不可能になったことも被害を増大させてしまった。この2件は阪神大震災でも同様のことが見られたことであった。
歴史的には中規模地震は10年に1回、大規模地震は100年に1回の割合で発生すると言われており(地震の年表 -日本参照)、国では10年から100年単位での長期的な地震発生の可能性と、今後30年以内に震度6弱以上の揺れに見舞われる確率を公表している(*7参照)。
災害が発生した場合、最も重要なことは人命救助である。人命救助にあたって、被災地内の医療機関は、自らも被災者となるものの、被災現場において最も早く医療活動を実施できることから、その役割は重要なものである。
災害(地震、火災、津波、豪雨水害豪雪、火山噴火、または航空機事故などの大規模な事故、その他)により、対応する側の医療能力を上回るほど多数の医療対象者が発生した際に行われる、災害時の急性期・初期医療を指す「災害時医療」(災害医療)については、阪神・淡路大震災を契機として、災害拠点病院の整備、広域災害・救急医療情報システム(Emergency Medical Information System:EMIS.*8参照)の整備、災害派遣医療チーム( Disaster Medical Assistance Team の略語「DMAT」(ディーマット)と呼ばれる)の養成等を行ってきたが、東日本大震災での対応において、これまで整備してきた体制等につい今なお対応しなければならない課題が明らかになり、その課題について、厚生労働省が、被災地を含めた災害医療関係の有識者が検討する場として「災害医療等のあり方に関する検討会」を開催し、報告書が取りまとめられているのでそこを見られるとよい(※9の平成24年3月21日医政発0321第2号参照)
救急医療は、患者に対して十分な医療を供給できる環境下で行われる医療であり、例え突発的な発生であったとしても、いわば 「日常的に行われる医療」 の一部であるが、これに対して災害医療は、事前に予測困難な災害の発生時において、急激な傷病者の増加に対して医療の供給が全く追いつかない状況下で行われる医療であり、場合によっては 電気・水道などのインフラ施設も被災し停電・断水 といった状況の中、医療機関への医薬品や衛生材料の供給もストップするなど、想像以上に過酷な状況の中でも行わなければならない。
このような混乱する現場・殺到する傷病者に対して、手元の 「限られた医療資源」 を有効に活用することで、何とか1人でも多くの人命を救うことを求められる医療である。実際の災害発生時に 災害医療を主に担当するのは、平時に救急医療に携わっている医療関係者である。しかし 「災害医療」と「救急医療」は このように本質的に全く異なる医療であり、傷病者一人ひとりに対して、平時のような100%の医療は、現実的には提供できない。
災害医療では、一人の患者にかける医療の「質」よりも、いかに多数の患者に対して、限りある医療を効率的・効果的に提供できるか、という観点が 常に要求される、という点でも特殊である。 また、災害が長期化した場合には、必要とされる医療の内容が変化する、というのも大きな特徴のひとつである。 
大規模災害時の被災者は、見知らぬ人を含めた多数の人との避難生活という、通常とは異なる環境下に置かれる。これにより十分な休息ができなかったり、トイレに行くことをためらったり、避難生活への不安や不満を抱えたりする場合がある。また、家族の安否を気にしたり経済的な不安を抱えたりといった心理的負担も大きい。
こうした環境要因により、不安や悩みを抱え、それが胃腸症状やうつ傾向のような身体症状として現れる例が多く見られる。“災害時の要介護者(要介護認定された者)へのケア”をどうするかなどはそのガイドラインが内閣府より出ており(※10参照)、また、厚生労働省の補助を受け、日本赤十字社が実施している災害救助調査研究・研修事業の一環として作成されたガイドライン(※11参照)などがあるので参照されるとよいだろう。

東日本大震災が発生した2011年(平成23)の「今年の漢字」は「絆」(*12参照)が選ばれた。
日本国内では、東日本大震災や台風(2011年の台風)による大雨被害、海外では、ニュージーランド地震タイ洪水などが発生。大規模な災害の経験から家族や仲間など身近でかけがえのない人との「絆」をあらためて知らされたことによる(*13参照)。
人と人との小さなつながりは、地域や社会などのコミュニティだけでなく、国境を越えた地球規模の人間同士の「絆」へ。
SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)をはじめとするソーシャルメディアを通じて新たな人との「絆」が生まれ、旧知の人との「絆」が深まった(*14参照)。
この震災以降、人と人のつながりが増えたことは、不幸中の幸い、非常に喜ばしいことではあった。

(冒頭の画像は、 日本赤十字社の災害時要援護者対策 ガイドライン より。)
参考
*1:災害時医療を考える会
https://esteem311.wordpress.com/
*2:レファレンス共同データーベース:「ゴンドラの唄」は・・・
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000167707
*3:人生とは何か?を教えてくれる名言24個
http://estorypost.com/%e5%90%8d%e8%a8%80%e3%83%bb%e6%a0%bc%e8%a8%80/quotes-about-life/
*4:図書カード:「いのちの初夜」 著者名: 北条 民雄 
http://www.aozora.gr.jp/cards/000997/card398.html
*5」神戸市:阪神・淡路大震災 震災復興資料集(50音順)
http://www.city.kobe.lg.jp/safety/hanshinawaji/data/keyword/50/
6:大震災いまだ終わらず - 佛教大学
http://www.bukkyo-u.ac.jp/mmc01/naito/cyosa/sinsai/1999/20000517.html
*7:特集 地震を知って地震に備える! - 内閣府
http://www.bousai.go.jp/kohou/kouhoubousai/h21/05/special_03.html
*8:広域災害救急医療情報システム: Home
https://www.wds.emis.go.jp/
*9:災害医療|厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/iryou/saigai_iryou/index.html
*10:災害時要援護者の避難支援 ガイドライン - 内閣府(Adobe PDF)
http://www.bousai.go.jp/taisaku/youengo/060328/pdf/hinanguide.pdf#search='%E3%80%81%E3%80%8E%E7%81%BD%E5%AE%B3%E6%99%82%E3%81%AE%E8%A6%81%E4%BB%8B%E8%AD%B7%E8%80%85%E3%81%B8%E3%81%AE%E3%82%B1%E3%82%A2'
*11:災害時要援護者対策 ガイドライン - 日本赤十字社(Adobe PDF)
http://www.jrc.or.jp/activity/saigai/pdf/saigaikyugo-3_document.pdf#search='%E3%80%81%E3%80%8E%E7%81%BD%E5%AE%B3%E6%99%82%E3%81%AE%E8%A6%81%E4%BB%8B%E8%AD%B7%E8%80%85%E3%81%B8%E3%81%AE%E3%82%B1%E3%82%A2'
*12:漢字辞典-OK辞典 ー「絆」
http://okjiten.jp/kanji46.html
*13:公益財団法人 日本漢字能力検定協会:「今年の漢字」一覧
http://www.kanken.or.jp/project/edification/years_kanji/history.html
*14:ソーシャルメディアの効用と可能性 : 平成23年版 情報通信白書 - 総務省
http://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h23/html/nc232330.html













三姉妹の日

2016-03-04 | 記念日
日本記念日協会(*1)に登録の記念日に「三姉妹の日」があった。
制定したのは、女性ばかりの姉妹の中でもひときわ華やかで絆が強いとされる長女、次女、三女の三姉妹。その調査・研究を行っている三姉妹総合研究所(*2)だそうだ。記念日の日付は、「ひなまつり」「国際女性デー」など、女性の月ともいえる3月で、3と4で「三姉妹」と読む語呂合わせからだとか・・・。

三姉妹といえば、時代劇ファンの私などが、すぐに思い出すのは、永禄10年(1567年)頃、織田信長の命により近江(現在の滋賀県)の戦国大名・浅井長政と政略結婚させられた信長の妹お市(信長の姪との説もあるようだが・・)と長政との間に出来た「浅井三姉妹、茶々である。
それぞれ豊臣秀吉京極高次徳川秀忠の妻(正室・側室)となった。天下統一を進めた織田信長の妹(姪?)という血筋に生まれ、2度の戦国大名家の没落・落城や両親の死を経験し、その後天下をめぐる豊臣家(羽柴家)徳川家の天下の覇権争いに深く関わったことから、母・市と並んで戦国の女性の代名詞として語られることが多い。浅井三姉妹それぞれの数奇な運命については、ここで述べなくても、だれもが知っていることだろう(詳しく知りたければ「浅井三姉妹」や、参考*3参照)

上掲の画像は、左:茶々『伝 淀殿像』(奈良県立美術館所蔵)、中:初『常高院像』(常高寺蔵)、右:江『崇源院像』(養源院蔵)
また時代劇でなければ、近代日本文学を代表する文豪の一人谷崎潤一郎が昭和の初期、大阪・船場、そして、わが地元芦屋を舞台に描く長編小説の傑作『細雪』の姉妹を思い出す。いや、これは三人ではなく四人姉妹だったな~。大阪船場で古い暖簾を誇る蒔岡家の「鶴子」「幸子」「雪子」「妙子」の四人姉妹を主人公に、それぞれの生活と運命とを絵巻物風に描いたもの。次女幸子を中心に三女雪子の見合いが軸となり物語が展開する。

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上掲は、マイコレクションより、東京宝塚劇場公演の『細雪』(1987 (昭和63)年1月公演のものと思われる。
今は没落して商売を畳んでしまっている船場で指折りの旧家、蒔岡家。生家の没落にもめげず、移りゆく古都の四季の中、その美しさを競う四人の姉妹。長女の鶴子と次女の幸子は、それぞれ養子を迎えて一家を構え、夫と仲良く幸せに暮らしているが、三女の雪子はどこへ出しても恥ずかしくない深窓の令嬢であるにも関わらず、何故か縁談がまとまらない。母を早くに失い、家運が傾きかけた中で育った近代娘四女・妙子の方は、駆け落ち騒ぎを起こしたり、自立を志向するなど、万事に旧弊な本家との間の摩擦が絶えない。
映画に、舞台にと数多く公演されている『細雪』だが、この舞台では、銀行員の辰夫を婿養子に迎えて本家を継ぐ長女・鶴子を淡島千景が、次女・幸子を八千草薫が、三女・由紀子を多岐川裕美が、四女・妙子を熊谷直美が演じている。船場言葉(大阪弁。今吉元の芸人たちがしゃべっている品のない汚い言葉は河内弁である)を奏でる四人姉妹たち・・・。喜び、哀しみ、支え合うそれぞれの愛・・・人生の詩・・・。時を超えて日本人の心に生き続ける永遠の名作である。
この姉妹は、若々しく、よく似ているところもあるが、それぞれの立場のせいか性格個性豊か。特にこの二人、「時代おくれ、因循姑息」とみえるが「女らしさ、奥ゆかしさ(慎み深く上品であるさま)」という天然の美質をもつ雪子と、その妹で、独立心が強く性的にも奔放な末娘の妙子、性格も価値観も全く異なるこの二人の生き方を対比させて当時の女性像(*4参照)をうまく 表現している(参考*5など読めば4人の性格や気質がわかってくるかも・・・)。

また、洋物の三姉妹といえば、思い出すのは、ロシアの作家アントン・チェーホフの『三人姉妹』だろう。
この戯曲は、田舎町に赴任した軍人一家・プローゾロフ家の三姉妹を主人公に、ロシア革命を目前とした帝政ロシア末期の知識階級の閉塞感を描いた物語である。

上掲の画像は、『三人姉妹』初版時の表紙。三姉妹の顔と、白樺に囲まれた自邸の庭で子守りをするアンドレイ(三姉妹の兄弟)が描かれている。
独身で教師の長女オルガ(独身。教育熱心な父親の方針で、他の兄弟姉妹同様、仏・独・英語ができる。)、中学校教師の夫(クルイギン)に幻滅を感じ結婚生活に不満を抱える次女マーシャ(妻)、人生を歩み始めたばかりの三女イリーナ(独身。モスクワに帰ることと真に愛する人と巡り合い結ばれることを夢見ている)も現実の厳しさを知り、行く末を決めかねている。
高級軍人の一家として過ごした華やかな生活も、父親を亡くしてからはすっかり寂れてしまった。厳格な父親のもと身につけた教養も低俗な田舎町では無用の長物と化し、一家の期待の星であった長男アンドレイ(オリガの弟)も未来の大学教授という一家の期待にもかかわらず、姉妹が軽蔑する土地の娘ナターリヤ(夫の上司と不倫している)と結婚して尻に敷かれている。
姉妹の唯一の希望は、昔暮らしたモスクワへ帰ること。一家が最も輝いていたモスクワ時代を理想化し、夢想することだけが現実の不安を吹き払ってくれる支えになっていた。その町で姉妹が楽しく交流できるのは、父親と同じ軍人たちだけ。この町に駐屯する連隊の将校たちが毎日のように一家を訪れる。ここが、まるでサロン(社交場)のようになっている。
マーシャは夫ある身だが、モスクワから赴任してきた妻子ある身のベルシーニンと恋に落ちるが、この恋は実らず、ヴェルシーニンは軍隊と共に旅立っていった。真実の愛を夢見ていた末娘イリーナは、二人から求愛されていたが、モスクワへ行きたい一心から、現状打破の手段として愛のないトゥーゼンバッハ男爵との結婚を選択(婚約)するが、軍の移動が決まり、一家との別れの時を迎えたその日、彼はイリーナをひそかに愛する恋仇ソリョーヌイと決闘し、殺されてしまう。やがて連隊が町を去って行き、3人姉妹は愛も夢もすべて失うことになる。
この戯曲では、プローゾロフ家の三姉妹と、長男アンドレイの嫁のナターシャとの対比が鮮やか描かれている。子どものためにと、家庭内を仕切り夫を尻に敷くナターシャは卑俗に見えるが、これが現実世界だとしたら「賢母」と評されるタイプの人なのかもしれない。ただ不倫はいけないが・・。
世の中の人はほとんどがナターシャに近くて、何かしらの理想を持っていても、どこかで理想に見切りをつけて、社会に迎合しながら生きていくのだろうが、プローゾロフ家の姉妹たちは、たとえ夢も希望も平穏な生活すら失っても、いつまでも誇り高くしかいられない。ラスト、三人の姉妹は、希望をことごとく打ち砕かれながらも「生きていきましょう。働かなくては」とこれらかも生きていかなくてはならない覚悟を確認し合う。
オリガの言うとおり、今が苦しくても、苦しむ意味がわからなくても、そして自分が苦しんでいた事実さえ、時代の流れとともに忘れ去られていくとしても、やっぱり人は生きていくしかないのであるが、この三姉妹は裕福な生活を送っており、しっかりとした仕事も持っており、悩みを共有できる姉妹もいる。「モスクワに戻る」という夢も、たとえ、仮にモスクワに戻れたとしても、子供時代に戻れるわけもなく、あの時と同じ幸福感はそこにはないはず。彼女たちの願いはそもそもが「ないものねだり」でもあったのだ。
チェーホフは、三人の姉妹達の性格を巧みに描き分け、また、彼女たちが置かれた状況も会話の中で説得力を持って浮かび上がらせている。第三幕、長女のオリガは「結婚は愛でするものではなく、義務でするものだ」とイリーナを諭して男爵との結婚を勧めるが、これは、既に結婚しているマーシャに向けての言葉でもあった。オリガには一家の統治者との自覚が強く、保守的な面が見られる。

日本記念日協会に「姉の日」(12月6日)というのが登録されていたので前にこのブログで書いたことがある(ここ参照)。
漫画家の故畑田国男が提唱した日であり、女性や子供、旅人などを守る聖人、聖ニコラウスにまつわる三姉妹伝説がその日付の由来となっているそうだ(サンタクロースはこの伝承から発展したとする説がある)。
畑田は、「兄弟姉妹型」の研究についての書籍を多く発行し、かって「姉妹型の会」世話人も務めてたことがあるというが、その会がどのような活動をしていたのかは私は良く知らない。
畑田は「兄」(6月6日)「弟」(3月6日)「姉」(12月6日)「妹」(9月6日)にそれぞれ記念日を制定していた。
私は、出生の面で、一子、二子、三子と生まれると、先に生まれてきた子の方が、後から生まれてきた子よりも、DNA的には、頭の良い確立は高いとかいった話を聞いた気がする。本当かどうかは知らないが、遺伝というより、持って生まれた器のようなものはあると思う。ただ、先に生まれてきた子に比べ、後から生まれてきた子は、先に生まれてきた子のモデルがあるため、それをじっと見ていて、先に生まれた子には出来なかったことを学習することが出来るので、その分、上の子よりも、色々学ぶチャンスがあり、確りと育つのだろうと思っているのだが・・・。
私の場合、私は長男であるため、家の跡取り息子として、しつけは厳しかったがそれでも、総領の甚六というのか、要領が悪く、ホヤ!と育ち、親からは怒られてばかり。例えば、子供のころ食事をする時には、厳格な父が上座に一人座り、その前、2列に片側は父親に近い順に長男の私次に、次男、もう一列には母親そして、妹が順に並ぶなど席順も決まっていた(幼少時は畳の上で箱膳を使っていた)。そして、箸の握り方から、食事中のおしゃべりや汁物を吸うのにちょっと音を立てても、食べ方やマナーが悪いといっては、手をパシっとたたかれていたが、弟や妹はそんな私を観察しているので怒られことも少なかったし、また、同じ過ちをしていても私ほどには怒られることもなかった。
ただ、私は初めてできた男の子であるため、親、親戚だけでなく、父が商売をしていたので、多くの人が家に出入りしていたが、そのだれからも大事にし、かわいがられ、必ず私の好きそうなおやつを手土産にもって家へ来ていた(商売上子供の機嫌を取って父に気に入られようとするところもあったようだ)が、弟は私ほど相手にもされていなかった。こんなことも性格に影響してくるか・・・。
三人きょうだいになると、とかく弟のような第二子は浮き易く、独特の人生を歩むことが多いともいう。一方、第一子は子ども達のリーダーとして、良くも悪くも注目を浴びるし、末っ子になると“孫”的要素が入り、ちやほや甘やかされて育つことも多いのだろう(私の家のように、妹は男子2人に次いで三番目にやっと出来た女の子であるため余計だ)。
また、4人(以上)のきょうだいになると、年代差が開くので、第一子は親代わりとなり、3番目以下の存在感が薄くなるかもしれない。家人は、12人兄弟の一番年下のため、学校の父兄会なども母親じゃなく一番上の姉さんが母親代わりに出席していたという。

その人の性質を表す性格(コトバンクも参照)は、人間の特徴的な行動の仕方や考え方を生み出す元になるもので、行動にみられる多様な個体差を説明するために設定された概念であり、他人と違った自分だけの行動の仕方(行動パターン)をもっているという生まれつきの質(たち),品性,人柄のことであるが,現在では通常英語の“character”の訳語として用いられている。この言葉はギリシア語の“kharakter”、「刻み込まれたもの」「彫りつけられたもの」という意味をもっていて、内面的な特性を示すが、一般にキャラクター”とは言わず、パーソナリティー“personality”の訳として人格とともにほぼ同義に用いられているようだ。
言い換えれば、行動の個人差には単に環境的条件(家庭や子育て、親子関係など)の差だけでなく、その人がだれであるかという主体的条件によって決まってくる面がある(*8のパーソナリティ心理学Q&A第3回 育った環境で性格が変わるのか?参照)。
人の性格は十人十色といわれるように多様である。それを一定の理論に基づいた典型的なものによるタイプ(類型)に分類し、その構造を理解しようとする考え方がある。

三姉妹が含まれる女性の分類体系「姉妹型」というものを発案した漫画家の故・畑田国男は、都市と女性のフィールドワークを調査し続けて、数多くのルポルタージュを発表したが、そこから兄弟姉妹の立場が性格を決めるという新しい人間学を発見。
あらゆるジャンル職業と年代の兄弟、姉妹を調べ、その性格差や活躍度には明確な因果関係(*相関関係と因果関係参照)が見られることを膨大なデーターから導き出したという。
それは、どんなきょうだい(兄弟姉妹)構成で、何番目に生まれて育ってきたかを知ることで、その人の基本的な性格がわかるというもの。つまり、きょうだい関係という後天的な生育環境の要素に着目して、性格や行動原理を決めるのは幼児期の家庭環境にあるという理論の新しい人間学であり、きょうだい学であったそうだ(*2 :「三姉妹総合研究所」の姉妹型とは参照)。
そして、三姉妹総合研究所で実施した「三姉妹アンケート調査」では、姉妹自身による姉妹の性格差を客観的に評価する調査を行った結果、長女、次女、三女それぞれの性格は次のような項目が上位を占めたという。
◆長女 <厳しくしつけられた>・しっかり者、生真面目、穏やか、保守的、社交的
◆次女 <自由気ままに育てられた>・マイペース、気まぐれ、自由奔放、大らか、根気強い
◆三女 <誰からも甘やかされた>・甘えん坊、要領が良い、明朗、人付き合いが良い、のんき
これは、先に述べた私の家の関係にも似ている。ただ、私・長男(ここでは長女)がしっかり者とは言えぬかもしれないが。同じ三人のきょうだいでもそのきょうだい構成(男女の違いや組み合わせの違い、順序の違い)で違ってくるのだろう。

以下参考の*9:「スチュワーデス塾」の”はじめに”のところに書いているところによると、
1960年代以降、アメリカでは、離婚件数が急激に増え(*10参照)社会問題化していた。そこで、心理学教授のヴァルター・トーマンは、2万組以上の離婚カップルを調査し、離婚原因をあらゆる角度から分析。
その結果、同じ性格や気質のカップル同士で、離婚率が高いことが分かった。さらに、分析を進めていくと、末っ子同士のカップルに離婚率が非常に高く、長男と長女同士の結婚も、それに続いて離婚件数が多いとの結果がでた。これはどちらが悪いというのではなく、相性に問題があるとトーマン博士は言っているそうだ。
このスチュワーデス塾の≪相性心理学講座≫には以下のようなものがある。興味のある人は覗かれるとよい。
よい組み合わせ、悪い組み合わせ 
きょうだい関係と男女の関係
きょうだい関係と仕事 
9つの性格パターン
また以下も参照されるとよい。
生まれ順でわかる9つの性格 - NAVER まとめ

*10:「図録 主要国の離婚率推移」を見ると、日本の離婚率も、1990年代後半から上昇しており、国内的には問題視する場合が多いが、上昇程度、変化のスピードなどで、世界の動きの中では、まだ、マイルドな動きとなっているという。
世界では日本のような皆婚慣習を維持している国は珍しくなっており、男女のカップルの解消は必ずしも離婚率でたどれない状況になっている婚外子(婚姻届を出していない男女間に生まれた子。非嫡出子)割合が半数を超える国も増えている(図録1520参照)。欧米の離婚率の低下傾向(1980年代以降)はそもそも婚姻関係自体が少なくなってきているからという要因も無視できないというが・・・。
日本でも、普通離婚率は1883年(明治16年)には「3.38」であったが、大正・昭和期にかけて低下し、1935年には「0.70」となった。その後1950年前後(「約1」)および1984年(「1.51」)に二度の山を形成したが、1990年代から再び上昇し、2002年(平成14)には「2.30」を記録していたが、その後、少しづつ低下し2014年(平成24年)「1.77」(*11のここ参照)となっている。この数字は、人口1,000人当たりの離婚件数を表している。
しかし、一方で、人口1,000人当たりの婚姻件数を表した婚姻率も「5,1」と減少しており、5,1組が結婚し、そのうち1,77組が離婚している。つまり、離婚する夫婦が34,7%と、3組に1組もいる時代になっているのである。
我が国では、出生する子どもの約98%が婚姻関係にある男女の嫡出子であることから、結婚年齢や生涯未婚率の上昇が、出生数に一定の影響を与えていると考えられるが、厚生労働省が発表した『平成25年版 厚生労働白書』(*12)の「第2章第2節結婚に関する意識」に、見られるように、かつては皆婚規範が強く、特別な理由がない限り人生の中で結婚することが当たり前とする意識が一般的だったが、近年では高い年齢に至るまで未婚に留まる人々が増え、結婚を選択的行為として捉える見方が広まっている。
これは、内閣府の「男女共同参画に関する世論調査」(平成21年10月調査)を見ても、結婚について「どちらかといえば賛成」を含めると70.0%が「結婚は個人の自由である」と考えており、1992(平成4)年時点(62.7%)と比較すると、約7ポイント増加しているという(*13参照)。

また、内閣府の『国民生活白書』(平成13年版)の第1章 家族を巡る潮流変化の結婚することに対する意識の変化を見ると、以下のようにある。
近年の未婚化、晩婚化の第一の原因としては、相手が見つかるまでは結婚しなくてもいいという人が多いことがあげられる。なお、結婚相手の条件としてもっとも重視するものについて、当府「国民生活選好度調査」(97年。)では、性格が合うことをあげる人の割合(64.3%)が高くなっており、精神的なつながりが重視されているようである・・・と(第1-16図)。
このように「性格が合う」ことを結婚相手の条件としてあげる人が多いのであれば、今日のテーマ―である、前述したような「きょうだいの性格パターン」等を参考にして、自分に合いそうな相手を見つけ、もっと子供も産んでもらわないと日本は大変なことになる。
我が国では、年々出生数は減少し、2014年(平成24年)の合計(特殊)出生率(出産が可能な年齢の女性が生涯に産む子ども数)は1.42人となっており微増傾向ではあるものの、欧米諸国と比較するとなお低い水準にとどまっており、合計特殊出生率は、2023年には1.08人台まで低下し、その後わずかに上昇を示して2060年には1.12人へと推移するも、総人口は、2044年に1億人を割り、2060年には7,997万人になるものと推計されているそうだから・・・(*14:『少子化社会対策白書』(*14)平成25年版の第1節 近年の出生率の推移も参照)。


*1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
*2 :三姉妹総合研究所
http://www.sanshimai.jp/
*3:浅井3姉妹(茶々、初、江)はどのような性格だったのでしょう-Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1170968251
*4:男の本音…男性が望む理想の女性像10選 | 女性の美学
http://josei-bigaku.jp/love/risounojosei44405/
*5 :『細雪』の四姉妹 ( 小説 ) - Shadowlands
http://blogs.yahoo.co.jp/farida_firdaus07/19928848.html
*6:チェーホフ作「三人姉妹」について。その1 |
http://yuzo-goroku.jugem.jp/?eid=3363
*7:木村敦夫 チェーホフ劇におけるコミュニケーションの問題
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~slav/01dep_slav/thesis/kimura.html
*8:日本パーソナリティ心理学会
http://jspp.gr.jp/
*9:スチュワーデス塾
http://www.stwds.com/index.html
*10:図録 主要国の離婚率推移(1947年~)
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9120.html
*11:人口動態調査 結果の概要|厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/toukei/list/81-1a.html
*12:白書、年次報告書|厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/toukei_hakusho/hakusho/
*13:内閣府:世論調査:男女共同参画社会に関する世論調査
http://survey.gov-online.go.jp/h21/h21-danjo/index.html
*14:内閣府HP
http://www.cao.go.jp/
国立社会保障・人口問題研究所
http://www.ipss.go.jp/index.asp