今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

土用の丑の日”蒲焼きの日?”

2013-07-22 | 行事
7月22日の今日は土用の丑の日である。
土用の丑の日は、土用の間のうち十二支の日であるが、特に夏の土用の丑の日のことを言うことが多い。夏の土用には丑の日が年に1日か2日(平均1.57日)あり、2日ある場合はそれぞれ一の丑・二の丑という。
2013年の今年は、7月22日の今日が一の丑、8月3日が二の丑にあたる。

「丑の日に うなぎのぼりの 鰻食い」 よーさん

お粗末でした。江戸時代の川柳の句集『誹風柳多留』(※1参照)に、「うなぎ屋の隣茶漬けの鼻で喰ひ」が見られるが、鰻の蒲焼は江戸時代の庶民には高嶺(たかね)の花だったが、日本鰻の稚魚シラスウナギは、2010(平成22)年から不漁が続き、水産庁は今年も鰻の高騰は避けられないだろうといっていたが、そんな価格が鰻のぼりした鰻は、現代人の私たちでさえ高嶺の花になってしまった。それで、つい、お遊びでくだらぬ句を書いてしまった次第。
日本では土用の丑の日に、暑い時期を乗り切る栄養をつけるために古くから鰻を食べる習慣がある。しかし、今年のように価格が高騰しても、なお、土曜には食べなくてはいけないと無理して食べている人が多くいることだろう。
土曜のことは、以前にこのブログで「 土用 の入り。夏本番」として簡単に書いたので、今日はパート2的なものになり、一部ダブルところもあるが、今回、テーマーは鰻の蒲焼きのことを中心に書く。それでサブタイトルを”蒲焼きの日?”とした。

江戸時代の風俗を記した随筆『明和誌』(青山白峰著。文政5年)によれば、安永・天明の頃(1772年 - 1788年)から土用の丑の日にウナギを食べる風習になったということが書かれているそうだ。
鰻を食べる習慣についての由来には諸説あり、その中に、江戸時代の本草学者、戯作者平賀源内が、夏に暑くて売り上げ不振のうなぎ屋から相談を受け、丑の日に「う」のつく食べ物を食べると体によいという伝承を利用して「本日土用の丑の日」と書いて店先に貼紙をしたところ、大繁盛したことから、一般に定着したという説があるが、このことは『明和誌』には書かれていない(※2参照)ようなので、この通説の信ぴょう性については怪しいようだ。

「土用丑のろのろされぬ蒲焼屋」

江戸時代の川柳(※1参照)にも見られるように、普段は客の注文を受けてからおもむろに裂きにかかる鰻屋も.この日ばかりは殺到する客にウシのようにのろのろなどはしていられない。
だいたい、どんな魚もそうなのだが、鰻のも秋から冬にかけてであり、旬の味を貴ぶ江戸っ子は、当時、夏の鰻なんて見向きもしなかっただろうと思うのだが、新しい物好きでもある江戸っ子が平賀源内のキャッチコピーに飛びついたからかどうかは知らないが、このころから土用の丑の日にウナギを食べる習慣が広がったようだ。
ただ、なぜ丑の日にかぎって鰻なのかよくわからないが、丑の“う”と鰻の“う”とをかけた駄洒落コピーの先駆けとも言われるものが受けたのかもしれないが、これなど駄洒落好きの多い今の若者の気質とよく似ている感じだな~。
それをマスコミがあおって、我も我もと同じ方向に突っ走る・・・・。日露戦争への突入の時もそうであったが、今年6月に富士山世界文化遺産に登録されると、また、我も我もと押しかけて、これからの富士山の自然環境の保護問題が心配されている。このような日本人の習性。
それが怖くって、第二次世界大戦終了後、GHQは、憲法によって、日本には軍備を持たせず、また、当時世界でも有数であった農業国日本の農業力を衰えさすために、農地改革(農地解放)をし、これにより、戦前の封建制度が改善された面はあるものの、今のような力のない個人の小農の集団に変えられてしまったことが、日本の農業の国際競争力を低下させていくこととなったともいえる。もっとも品質面ですぐれているので、高いコメを食べれる人には良い面もあるのだが・・・。
日本人が鰻を食べるようになったのは古く、約5000年前の縄文遺跡(遺跡一覧)の貝塚からうなぎの骨が出土しており、文献としては奈良時代の『万葉集』の、大伴家持の歌に「武奈伎」(むなぎ)として見えるのが初出のようだ。
「石麻呂(いはまろ)に、我(わ)れもの申す、夏痩(や)せによしといふものぞ、武奈伎(むなぎ)を漁(と)り食(め)せ」(巻十六-3853)
通称、吉田老((よしだのおゆ=吉田石麻呂)という痩せた老有力者が夏バテしてなお痩せていたのをみた家持が、「夏痩せにはウナギがいいらしいから、漁ってきて食べ、栄養をつけなさいよ」と、からかい半分に詠んだものであるが、この歌に対しては、吉田老が次のように返している。
「痩す痩すも生けらばあらむをはたやはた鰻を漁ると川に流るな」(巻十六-3854)
つまり、「私は痩せていても生きているから、まだいいよ。あなたこそ、ウナギを漁(と)ろうとして、川で流されてしまわないようにしなさいよ」と・・・・。(以下参考の※3 :「萬葉集の部屋 」の巻十六-3853、3854等参照)
この歌を見ても、今から1200年も前の万葉集が詠まれた奈良時代から、ウナギが夏やせに効くとして、日本人が食べていたこと、またウナギ漁が「川に立ち込む」漁であることが知られていたことなどが興味深い。しかし、これ以降、ウナギの史料は江戸時代までほとんどない。
しかし、鰻の栄養価の高さは物知りの源内のみならず江戸の庶民だって生活の知恵として承知していただろうが、とくに暑い盛りの土用の丑の日を選んで鰻を食べるという習慣は江戸川柳に見られる頃まではなかったのである。
「武奈伎(ムナギ)」は万葉仮名で「ウナギ」を表わす古語であり、その後「ムナギ」から「ウナギ」へと転呼併称されたが、平安後期頃までは「ウナギ」のことを「ムナギ」と呼んでいたようだ。
貝原益軒の『日本釈名』(元禄12年刊行)には、「ム」と「ウ」とは音通ずるが故に「ウナギ」といい、その意味棟木(むなぎ)なり。その形丸くして 長く、家の棟木に似てるなり」とある。(※4 参照)
一方、このよび方は胸が黄色い「胸黄(むなぎ)」から とか諸説あるようだが、正確なことはわからないらしい。
明治時代に作成された百科事典、『古事類苑』の「動物部」の「鰻」(※4)の項目には前に挙げたの『万葉集』の歌のほかに『新撰字鏡』『和名抄』などの平安時代初頭の辞書類が挙げられているが、その後は江戸期の料理書などにとんでしまう。
江戸時代以前、鰻は料理方法も確立しておらず、油が強くしつこい下等魚で決して美味な魚ではなかったことから、薬か、栄養食として食べられていた。
室町期の『大草家料理書』に「宇治丸、かばやきの事、丸にあぶりて後に切也、醬油と酒と交て付る也、又、山椒味噌付て出しても吉也」という一条がある。
これがウナギの蒲焼の初見で、宇治丸というのは、はじめは宇治川産のウナギを指したが、やがてウナギの異名となり、ウナギ鮨をもこの名で呼んだ.。
この蒲焼は、「丸にあぶりて後に切也」とあるように、ウナギを裂かずに長いまま竹ぐしを通して焼いたもので、かまぼこ(蒲鉾)同様ガマ(蒲)の穂に形が似ていたための名であった(※4参照)。
越谷吾山(こしがや ござん)の江戸時代の方言辞書『物類称呼』 動物に「鰻(うなぎ):山城の国宇治にて”うじまろ”と云、この魚の小なるものを京にて”めゝぞうなぎ”と云、是は”みゝずうなぎ”の誤り也。江戸に”めそ”と云。上総にて”かよう”と云、また、”くわんよッこ”とも云、常陸にて”がよこ”と云、信濃にて”すべら”と云、土佐にて”はりうなぎ”と云、今按(あん=調べる)に京都にてうなぎを鮓となすは宇治川のうなぎをすぐれたりとす、よって、宇治麻呂と人の名を以てす、江戸にては、浅草川深川辺りの産を江戸前とよびて賞す、他所より出すを旅うなぎと云、また世俗に丑寅の年の生まれの人は、一代の守本尊虚空蔵菩薩にて生涯うなぎを食うことを禁ずと云。」・・とある(※4参照)。
ここでうじまろの名前の由来は、近江の宇治川のうなぎが美味で優れているところから宇治の麻呂と人の名をつけ尊称したとある。「宇治丸」と呼ばれた鰻ずしやごぼうを巻いた「八幡巻き」はこの地方の特産品であった。
なお、ここでいっている「この魚の小なるもの」とは、ウナギの子(稚魚= シラスウナギ)の少し成長したものをいうようだ。
また今では「すし」のことを江戸前と呼ばれるがもともと江戸の浅草川や、深川辺りで獲れたウナギをこうよんでいたこと、そして、江戸前以外の他の利根川水域等他から持ち込まれたウナギは旅ウナギと呼ばれ区別されていた。それだけ江戸前のウナギの質が良かったのだろう。
江戸川柳に、「丑の日に籠でのり込む旅うなぎ」(※1参照)と詠まれているが、夏の土用の丑の日には、江戸前だけでは、量が足らず、他の地域からの質の落ちるウナギも大量に焼かれていたということだろう。
しかし、面白いのは、丑寅年生まれ人は、生涯ウナギを食べられないと言われていたこと。今でも、お年寄りには鰻を食べないという人がいるようだが、お気の毒な話だ。その理由は、※5:「神使の館」の虚空蔵菩薩と牛・虎-2を見られるとよい。
正徳2年(1712年)発刊の『和漢三才図会』には次のように記してある。
「馥焼(かばやき):中ぐらいの鰻をさいて腸を取り去り、四切れか五切れにし、串に貫いて正油あるいは味噌をつけて、あぶり食べる。味は甘香(かんばし)くて美(よろ)し、あるいはナデ醋(す)にひたして食べることもあり。多く食べると、頬悶して死ぬることあり。之は酸を得て鰻肉が腹中で膨張する故なり」と。(※6参照。尚、原文は、※7の「和漢三才図会巻第五十・五十一」の鰻鱺の最後、鱧の前のここ参照。)☆「馥」は「よいにおい」という意味。
これを見ても元禄の1700年頃には現在の割いた形の「蒲焼」を売る露店や鰻売りが関西で売られ始めていたことがわかる。
江戸の文化は、ほとんどそうだが、蒲焼きも、もともと上方(関西)で発達し、これから十数年遅れて正徳年間(1711-1715年)に江戸に伝わったといわれており、本格的な「鰻料理屋」が登場するのは、明和から天明年間(1764年-1781年)の頃であり、蒲焼と飯を別々に出す「江戸前大かばやき、附めし」という形で売られていた。

●上掲の画は、享保年間(1716年-1735年)に出版されたといわれる『江戸名所百人一首』(近藤清春筆)近代デジタルライブラリー より借用(※8のコマ番号26番参照)。
深川八幡社の画で「めいぶつ大かばやき」と書かれた行灯のある、露店のような粗末な店が境内にあり、そこで蒲焼を焼いている人が描かれている。

●上掲の画は鍬形斎(北尾 政美)の『近世職人尽絵巻』・蒲焼屋.。東京国立博物館所蔵.。以下参考の※9:文化遺産オンラインより借用(五段目左から2枚目の左部分カット)。
文化3年(1806年)刊行のこの絵巻物は様々な職人の様子を描いたもの。まだまだ、うなぎの頭を落とすのも割くのも店先である。
関西では鰻を腹から開き、江戸では武家の町として腹切りを忌み、背割りにしたと言われている。焼き方とたれが蒲焼の味を大きく左右することから、その技術が競われた。
文化年間(1804年-1818年)頃になると、現在の「うな丼」の前身となる、どんぶりに熱い飯を盛って、飯の間に蒲焼を挟んだ「鰻めし」が、当時芝居で賑わった堺町(現在の東京人形町)の隣町、葺屋町にある鰻屋・大野屋が「元祖鰻めし」という看板で売り出したのが最初だと言う。
しかし、明治18年(1885年)の宮川政運『俗事百工起源』には、うなぎ好きな堺町の芝居金主、大久保今助がこの鰻丼を考え出したと書かれているそうだ(ここ参照)がどちらが、先かはよくわからない。
ただ、大野屋では、六十四文から売り始めたが、後には百文、二百文の高級品となったという(※10)。非常に9人気が良かったということだろう。この鰻飯が幕末の安政の頃から、熱い飯を丼に盛って蒲焼を上に載せる庶民向けの「うな丼」となり登場した。
兎に角、文化・文政から嘉永年間(1804〜1854年)には江戸で蒲焼きが全盛期を向かえた。これには、天明年間(1781〜1789年)に銚子で開発された濃口醤油(現ヒゲタ醤油など)が関係しているようだ。
嘉永5年(1852)に刊行された江戸の鰻屋の見立番付「江戸前大蒲焼番附」がある(※11参照)。この番付には約200軒の鰻屋が掲載されているが、「此外東西数多ニ御座候得共猶校合の上再板仕候」(この他にも数多くあるので調査の上、再版する)とあり、この他にも数多くの鰻屋があったことが推測されるという。
また、嘉永元年(1848年)に刊行された江戸の飲食店の紹介本である『江戸名物酒飯手引草』にも90軒の鰻屋が載っており、この番付に載っている店も複数、掲載されているという。

ところでうなぎの調理法は、東西によって異なる。
関東では、背開き。白焼きにした後蒸し、その後にタレをつけて焼 く。
関西では、腹開き。白焼きにし、蒸さないでタレをつけて蒲焼きにする。(別名地焼き)・・・と言う工程となる。
この調理方法の違い。特に大きな点は、白焼きにしたものを蒸してから焼くか蒸さずに焼くかについてだが、このことについて、野村信之氏(1991年.関西鰻蒲焼論)は以下のように言っているそうだ。
「関東では白焼きのあと蒸すが、これは=流れの少ない所に育つ鰻の泥臭さを蒸しによって抜いたもので、関西の鰻は=清流でとれるので臭いが少ない。 調理法のちがいは生息場所によるものである。」・・ と。そして、「これは天然鰻だけを食べていた時代のことと思われるが、養殖鰻が大半を占めるようになった今日でも関東と関西での調理法はもとのまま行われているのだ」・・・・と(※12のNo.7 鰻と日本人参照)。

近年、稚魚のシラスウナギが減り、供給量が激減し、鰻は激減、価格が高騰している。そこへ持ってきて、消費が増える夏を迎え価格が急騰している。
以下参考の※13:「日本養鰻漁業協同組合連合会:統 計 資 料」によると2012(平成)年 の鰻輸入量及び国内養殖生産量の総計37,207のうち, 輸入量19,661t(52,84%。うち、活鰻4,678t、加工鰻14,983t)、国内養殖生産量17,377t(46,70%)、国内天然漁獲量169t(0,45%)であり、国内天然漁獲量は、養殖を含めた国内生産量の0、95%と1%にも満たない漁獲量なのである(注:加工鰻は生鰻に換算した量、加工製品数量としては8,990t)。
国内養殖生産量と国内天然漁獲量の推移をみると以下のようになっている。
国内養殖生産量:2,003年、21,526t→2012年17,377t、2,003年対比80,72%に減少
国内天然漁獲量:2,003年、  589t→2012年  169t、2,003年対比28,69%と激減。(ここ参照)。
したがって、鰻養殖生産価格も、2,002年の926から2011年は2281(円/kg)と2,46倍に上がっている。これが原因で、鰻業経営体数は、1997(平成9)年、全国で651あったものが、2008(平成20)年には、444と68,2%に減少している。
だから、国内天然もののうなぎなど、地元の料理屋などで消費されてしまうため、通常の流通ルートに乗ることはほとんどなく、我々にとっては、高値の花どころか、口に入ることのない幻の食材となりかけており、養殖物の鰻でさえ、高値の花になりかけている。
後は、輸入物の主力である、台湾産、中国産の鰻で我慢しなければ仕方がないのだが、中国産など、その品質面が非常に気にかかる。
アベノミクスで、円安・株高。恩恵を受けている高所得者は、結構なのだが、その恩恵にあずかっていない中小企業者や、サラリーマン、そして、年金生活者の私達などは、円安による諸物価が高騰している中、給料やボーナスも上がる見込みがなく、年金額も減らされている状況の中で、夏土用の鰻の値上がりはつらい。
もともと、日常食ではなかった鰻が、江戸時代に、夏に鰻を食べるとよいとの土用の丑のキャッチコピーに乗せられて食べるようになり、それが、戦後の高度経済成長と共に大量消費社会になって、あたかも日常食として、スーパーなどで安売りをされるようになった。
それが、このような状況になったのは、日本鰻の稚魚シラスウナギの激変が根本的な問題である。
今や、輸入物なくしては、ウナギを国内の養殖(養鰻)では需要を賄いきれない。
養鰻の安定供給を目指して、養鰻の生産技術に関する開発研究が東京深川で試みられたのが1879(明治12)年のことだが、後に養鰻の中心地は浜名湖周辺へ移った。1891(明治24)年に、原田仙右エ門という人物が7ヘクタールの池を造り、日本で初めて人工池での養鰻を試みたのが、浜名湖の養殖ウナギのルーツである。
その後各地で養鰻を始める。しかし、太平洋戦争によって養鰻業が急速に衰退する。以下。※14:「鰻 養 殖 の 歴 史」に基づいて簡単に』その概略を記す。
ウナギの養殖はまず、天然のシラスウナギを捕ることから始まる。黒潮に乗って日本沿岸にたどり着いたウナギの稚魚、シラスウナギを大量に漁獲してこれを育てるのである。つまり、この段階では、他所で採ってきた稚魚(シラスウナギ)を池で大人のウナギに育てるだけのことである。
ウナギの稚魚不漁のため、台湾・韓国・中国よりシラスウナギを試験的に輸入したのが、1964(昭和39)年のことである。1969(昭和44)年、シラスウナギ不漁のため、日鰻連(日本養鰻漁業協同組合連合会)がフランスよりシラスウナギを大量に輸入し、わが国で初めて日本産ウナギ以外のものが養殖種苗とするために導入される。
ウナギの人工孵化は、1973(昭和48)年に世界で初めて、北海道大学において初めて成功した。
1976(昭和54)年、輸出貿易管理令(※15)が発令され 1匹13g以下のシラスウナギが輸出禁止となる。
2000(平成12)年、中国、台湾から13万t以上のウナギが輸入され、日本の生産量も合わせ16万tと過去最高の供給量となる。養鰻振興議員懇談会が国に対してセーフガード発動を国に申し入れたという。
2002(平成14)年には、 国内養鰻経営体500軒(農林統計481)を割っている。しかしながら、ウナギは極めて特殊な生活史を持つ魚類であることから、人為的に成熟させ、採卵、授精、孵(ふ)化、仔魚の飼育を経てシラスウナギ(養殖用種苗)とすることは容易ではなかったが、翌2003(平成15)年には、三重県の独立行政法人水産総合センター(現「増養殖研究所」)が世界で初めて人口孵化仔魚をシラスウナギに変態させる、シラスウナギの人工.生産に成功した。
現在ウナギ種苗の人工生産の実用化に向け、安定生産に不可欠な基盤研究がすすめられているという(※16参照)。しかし2005(平成17)年、国内生産量2万トン(農林統計19,495t)を割っている 。
そうした中での2010(平成22)年、水産総合研究センターが人工孵化したウナギを親ウナギに成長させ、さらに次の世代の稚魚を誕生させるという完全養殖に世界で初めて成功したと発表。
しかし人工孵化と孵化直後養殖技術はいまだ莫大な費用が掛かり、成功率も低いため研究中で、養殖種苗となるシラスウナギを海岸で捕獲し、成魚になるまで養殖する方法しか商業的には実現していない。
自然界における個体数の減少、稚魚の減少にも直接繋がっており、養殖産業自身も打撃を受けつつある。
この技術が完成すれば、養鰻業に寄与するだけでなく、天然シラスウナギに対する乱獲を緩和させ、天然資源の保全に繋がる。また健全な自然河川環境が取り戻せれば、天然ウナギは増えるに違いない。
減少した資源の回復と保全のために、人工シラスウナギの開発研究を急がねばならない。それまで、はとにかく、乱獲を防止しなくてはいけないだろう。
鰻の美味いのは秋、冬であり、それでなくとも高くなった鰻。土用丑のために高騰しているものを無理に食べなくてもいいのだが・・・。理屈は分かっていても、今まで、続けてきた行事のようなものを止めるのもさびしいが・・・。
三日前の・2013(平成25)年7月19日付、朝日新聞朝刊に、高値で食べたいけれど手の出ないという消費者のために、安い別品種のうなぎ、インドネシアなどでとれる「ピカーラウナギ」などが出回る他、ウナギに見立てたナスや鶏肉の蒲焼にも人気が集まっているという。
なにか、少々情けない気もするが、そこは、じっとこらえて、いつか安く自由に食べれる日を楽しみに待つことも大事なのでは・・・。
古く万葉の時代から滋養強壮の食べ物であると知られていたウナギ。浮世絵の題材にも多く取り上げられている。

●上掲の画象は、江戸時代後期の浮世絵師葛飾 北斎の代表作『北斎漫画』(スケッチ画集)の「鰻登り」。以下参考の※17:「近代デジタルライブラリー - 北斎漫画. 12編」コマ番号30より借用。
「鰻(うなぎ)登り」は、3尾の巨大な鰻が鰻屋のまな板から職人の手をすり抜けて、天に昇っていく様子を描いている。幕府の経済政策の失敗による物価の高騰を暗に批判している、との説もあるようだが、当時の蒲(かば)焼きはもともと高価なごちそうだった。
客の顔を見てから鰻を吟味し、割いて焼くから手間暇かかる。 客の方は酒を飲んだり、男性なら女性を口説いたりして、待ち時間を楽しんだという。
これは名の通った店なら今でも同じだ。「鰻屋のたくあん」ともいう。良いウナギ屋は、注文をしてから焼きあがるまで時間がかかるので、良い漬物が出てくる。客の方は、たくあんのお茶でも飲みながら、おしゃべりを楽しむ。
私が現役の頃、大阪・野田にいい鰻屋があったが、仕事の昼休みなどに食べに行くと、何時も食事の後に喫茶店などでくつろぐのだが、喫茶店に行く時間がない。だから、もうあきらめて、鰻屋へ行くときには、気の合うものとそこの店でゆっくりと時間を過ごすことにしていた。
この様に、今でもたまにはよい店で、江戸の人々のように、オツな時間を過ごしてみたいものだが、うなぎのぼりの蒲焼きはますます庶民の口に入りにくいものになっている。
また、落語や川柳にも数多く取り上げられ、古典落語の「鰻の幇間」は、八代目桂文楽の十八番であった。書けばきりがないが、最後に、私もファンだった故3代目古今亭志ん朝鰻の幇間を聞いて終ることにしよう。
鰻を題材にした噺は多いが、その代表格がこれ。いわゆる幇間(ほうかん)ものに分類されるもの。文楽の何か切羽詰ったような悲壮感に比べ、ここに登場する志ん生の一八は、どこかニヒルさが感じられ、ヨイショが嫌いだったという、いわば幇間に向かない印象にもかかわらず、別の意味で野幇間の無頼さをよく出している。
一八は、客を釣ろうとして、「鰻」をつかんでしまいぬらりぬらりと逃げられたわけだが、ウナギの勘定だけでなく履いてきたゲタまで履いて行かれる。
落語のあらましと解説は参考の※18を読めばよいが、落語は以下のYouTubeで聞ける。実際の寄席の実写版とレコードの再生のもの2つ用意しているのでお好きな方を聞かれるとよい。

志ん朝 鰻の幇間 - YouTube  実写版

鰻の幇間:古今亭志ん朝.wmv - YouTube レコード盤

蒲焼きという革命的な料理法を生み出したウナギは、今では、日本の代表的な食文化ともなっているのだが、その一方で、ウナギの生態はいまだに多くの謎に包まれているようだが、長くなるので、これで終えよう。気が向けば以下のリンクしているところなど覗かれるとよい。。
猛暑続きの夏、これからが夏本番。どうか、熱中症には気を付けて、元気にこの夏を乗り越えてください。
私も、今日から、8月末まで、夏休みに入り、その間このブログの投稿も休止します。9月に入ったら再開しますので、その際は、またよろしくお願いします。

参考:

※1:鰻・登亭:うなぎの世界
http://www.noboritei.co.jp/unagi/06.html
※2:そのことば江戸っ子だってね!?
http://www.web-nihongo.com/wn/edo/00.html/
※3:萬葉集の部屋
http://www.geocities.jp/yassakasyota/manyo/manyo.html
※4:国際日本文化研究センター:故事類苑検索システム>部門目録一覧>28.動物部>目録表示863鰻 
http://shinku.nichibun.ac.jp/kojiruien/html/dobu_1/dobu_1_1355.html
※5:神使の館
http://www9.plala.or.jp/sinsi/07sinsi/01sinsi.html#usi
※6:第41回 長崎料理ここに始まる。(十三) | 長崎の食文化
http://www.mirokuya.co.jp/syokubunka/bunka41.html
※7:和漢三才図会 巻第五十・五十一
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/wakan/wakan-jin/page.html?style=a&part=27&no=1
※8:近代デジタルライブラリー - 『神社仏閣江戸名所百人一首』
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/932168
※9:文化遺産オンライン:近世職人尽絵詞
http://bunka.nii.ac.jp/ResultImage.do?heritageId=13984&linkType=index&imageNum=7
※10:落語「鰻屋」の舞台を歩く
http://ginjo.fc2web.com/111unagiya/unagiya.htm
※11:6. 江戸前大蒲焼番附 - 東京都立図書館
http://www.library.metro.tokyo.jp/digital_library/collection/042/no6/tabid/3129/Default.aspx
※12:おさかな普及センター資料館
http://shimura.moo.jp/osakana.htm
※13:日本養鰻漁業協同組合連合会:統 計 資 料
http://www.wbs.ne.jp/bt/nichimanren/toukei.html
※14:鰻 養 殖 の 歴 史
http://www.wbs.ne.jp/bt/nichimanren/rekishi.htm
※15:輸出貿易管理令 - 法令データ提供システム
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S24/S24SE378.html
※16:ウナギ人工種苗の実用化を目指して - 農林水産技術会議 -農林水産省
http://www.s.affrc.go.jp/docs/report/report26/no26_p3.htm
※17:近代デジタルライブラリー - 北斎漫画. 12編
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851657?contentNo=9
※18:鰻の幇間(うなぎのたいこ) 落語: 落語あらすじ事典 千字寄席
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/62757/6/6065596
うなぎ雑学(うな繁)
http://www.unasige.com/indexzatugaku.html
環境省 報道発表資料
http://www.env.go.jp/press/index.php
日本釈名
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XYA8-04801
水産庁/ウナギをめぐる最近の状況と対策について - 水産庁 - 農林水産省
http://www.jfa.maff.go.jp/j/press/saibai/pdf/130530-01.pdf
ニホンウナギの資源状態について - 水産総合研究センター(Adobe PDF)
http://www.fra.affrc.go.jp/unagi/unagi_shigen.pdf#search='%E9%B0%BB%E3%81%AE%E6%BC%81%E7%8D%B2%E9%87%8F'
真名真魚字典
http://www.manabook.jp/manamana-uohenkanji.htm
近代デジタルライブラリー - 皇都午睡 : 三編
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
土用の丑の日 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E7%94%A8%E3%81%AE%E4%B8%91%E3%81%AE%E6%97%A5

虹の日

2013-07-16 | 記念日
日本記念日協会に登録されている今日・7月16日の記念日に「虹の日」がある。
由緒を見ると、“7と16で「ナナイロ=七色」と読む語呂合わせと、梅雨明けのこの時期には空に大きな虹が出ることが多いことから、この日を人と人、人と自然などが、七色の虹のように結びつく日にしようとデザイナーの山内康弘氏が制定。先輩世代が後輩世代をサポートする日にとの意味合いもあり、音楽を中心としたイベントなども展開する。”・・とある。
虹の日公式サイト(※1参照)を覗いてはみたのだが、何か音楽中心のイベントをしているようだが、私には一体何をしようとしているのかはよくわからなかった。カッコ良さが売り物のデザイナーとダサいわたしなどとの考え方や表現方法の違いからなのだろうが・・・。
私としては今日の記念日の趣旨はともかくとして、「虹の日」をテーマーにこのブログを書くことにする。

とは、赤から紫までのスペクトルが並んだ、円弧状の光であり、気象現象の中でも、大気光学現象に含まれる。
虹は太陽光が空気中の水滴がプリズムの役割をして、屈折(折れ曲がる)・反射(はね返る)して起きる現象であり、太陽光が反射して起こる現象であるから、虹は必ず太陽を背にした方向に現れる。
虹は鮮やかに見える場合とぼんやりしか見えない場合がある。それは、空気中の水滴の大きさに関係しており、水滴が大きいほど、色がくっきりみえる。
普通の虹は、光が分解されて、複数色の帯に見え、外側が赤、内側が紫と決まっている。虹の外から内側にかけて、赤、橙、黄、緑、青、紫となる。
日本では、虹の色の数は一般的に七色(赤、橙、黄、緑、青、藍、紫)と言われており、学校で、この色の順を覚えるのに、「あ〜かに だいだい きいろにみどり あ〜おに あ〜いに む〜らさき」なんて歌いながら覚えたのを思い出すが、現代の西洋人に虹を構成する色の数を問うと、たいてい六色以下で答えるそうで、アメリカやイギリスでは一般的に、赤、橙、黄、緑、青、紫の六色、ドイツでは赤、黄、緑、青、紫の五色と認識されているという。
また、日本でも『吾妻鏡』には健保6年6月11日「西方見二五色虹一、上一重黄、次五尺餘隔赤色、次青、次紅梅也、其中間又赤色」とあり、中世では虹は五色と見る観念があったようだ(※3の吾妻鏡のところを参照)が、日本で、虹を七色と認識するようになったのは、ニュートン(Isaac Newton 1643-1727)による太陽光線の分光実験に由来した学校教育によるものだそうである(※2参照)。

「にじ」(虹)の語源には諸説あるようだが、『万葉集』(巻14東歌相聞、3414。※3の万葉集のところ参照)には、伊香保の高い堰(せき)の上にくっきりと立つ虹は「努自」=「ノジ」と読み(「ヌジ」と読む説もあるようだが・・)、平安時代初期の『日本霊異記』(日本最古の仏教説話集)では「ニジ」とあり(※4参照)、極楽に行った大部屋栖野古が「五色の雲が虹のように北に伸びており」と極楽に延びる五色の雲が虹に喩えられている(※5)。
この「ノジ」「ニジ」の言葉には、蛇類を表す古語ナギ(ナジ)に通じるという説あもるようだ(天叢雲剣の「蛇の剣」のところを参照)。

漢字の「」は、「」+音符「」の会意形声文字である。「虫=毒蛇の象形文字)」は空に上ったを意味し(双頭の蛇の伝説による象形文字甲骨文字には見られるそうだ。下図参照)。

●上掲の文字は、双頭の蛇を象った甲骨文字である。
つまり、(みずち、雨を降らせる水 神とされている蛇、または龍)が空を貫いている(「工」はあるものに穴を開け貫くを意味する会意文字。)で、古代の中国 人が虹を「天を貫く蛇(または龍)」に見立てたことに由来しているそうだ。
字の意義としては、1:はっきりと見えるにじの他、2::橋、3:乱す。4:潰れるなどがある。

この「にじ」と云ふ読みで漢和大辞典を引くと【虹】【霓】【蜺】【蝃】【蝀】の漢字が挙がっている。【虹】とは雄、【霓】【蜺】とは雌の「にじ」であるという。
「にじ」に雄も雌もあるのかと思はれるかもしれないが、これは古代中國人が「にじ」を龍と捉えた事に拠るという。
「虹」を意味する漢語表現に、「虹霓」(コウゲイ)がある。「虹霓」のように雄雌を表す漢字を組合わせた言葉は他にも「麒麟(キリン)」 「鳳凰(ホウオウ)」など中国ではよく見られる表現だ。虹が雄で、霓が雌。雨によって天地が結ばれ、竜が水を飲みにくるときに虹ができるのだそうだ。
虹の多色性の例外として「白虹」と呼ばれる現象があり、これは、現在の気象学では「暈(かさ)」等と見られる現象であるが、中国では古代、このような白虹が太陽を貫くことは、戦乱が起こるなどの凶兆ともされた(白虹貫日参照)。
日本にも古代より白虹思想は流入しており、中世の『吾妻鏡』では度々白虹の発生が記録されている(※3:「故事類苑」参照)。
一方で、普通の虹については、以下参考の※6:南方熊楠の「十二支考 田原藤太竜宮入りの話」に、以下のようにある。
“史書に、〈太昊(たいこう.=伏羲)景竜の瑞あり、故に竜を以て官に紀す〉、また〈女カ(じょか)黒竜を殺し以て冀州、また〈黄帝は土徳(陰陽家の一つ)にして黄竜見(あらわ)る〉、また〈は木徳(土徳と同じ陰陽家の徳の一つ)にして、青竜郊に生ず〉など、吉凶とも竜の動静を国務上の大事件として特筆しており、天子の面を竜顔に比し、非凡の人を臥竜と称えたり。
漢高祖(劉邦)や文帝北魏宣武など、母が竜に感じて帝王を生んだ話も少なからず。”・・と。
この様に、、竜(虹)に感じて聖王(徳があり立派な政治を行う王・君主)を孕(はら)むといった吉兆(よいことが起こる前ぶれ。瑞祥。吉相)を示すこともあり、吉凶両方の言い伝えが残っている。

虹を英語では「レインボー(Rainbow)」と言う。“Rainbow”は、雨(rain)+弓(bow)。雨によってできる弓、つまり、「雨の弓」を意味しているが、虹の多くは雨がやんだ後に天空に現れるものを指す。しかし、雨上がりに限らず滝や噴水で見られる虹もあり、英語では、そんな虹は“sunbow”と言う。
また、フランス語では “arc-en-ciel”(アルカンシエル)といい、「空に掛かるアーチ」を意味するそうだ。語源を辿れば、みな同じようなことを意味している。

いずれにしても、空高く、あたかも天空にかかった美しいのように見える虹は、多くの子供たちにとってロマンティックな夢を誘う代表的なものだろう。
子供の頃、虹の立つところに黄金などの財宝が埋まっているという話を聞かされ、こころをときめかした経験を持つ人も少なくないのではないか。
アイルランドの民間伝承に出てくるレプラコーン(leprechaun)という小さな小さな妖精は、虹の麓(虹と地面が接している場所)に黄金を隠しているのだと言われている。
このレプラコーンは、靴職人とされ、グリム童話『小人の靴屋』(※7 )に登場する妖精とはこのレプラコーンのことと言われる。
レプラコーンは妖精の中でもとびきりの働き者で、長年かかって貯め込んだ財宝は厖大な量になると言われており、うまく捕まえることができると黄金のありかを教えてくれるが、彼らは隠れ上手なので大抵の場合、黄金を手に入れることはできないという。
そのようなことから決して見つからないレプラコーンの黄金入りの壷。「実現不可能な叶わぬ夢」のことをこの壷に喩えて、英語では、「a pot of gold at the end of the rainbow」と言うらしい(※8)。
ドイツの伝承によると、虹の根元には金のカップがあるとされているそうだ。
虹は水を飲みに天から現れるのだが、虹が水を飲んでいる間に虹の根元に辿り着ければ、そのカップを手に入れることができる。そして、一生、持ち主に幸運をもたらし、手放すとたちまち不幸に見舞われるというカップ。
中国の『異苑』では虹が釜の中の酒を飲みに来て、あとに金塊を吐いていくという(※9:「雑学考」の虹のカップの話参照)。
この虹の立つところに黄金・財宝・幸運ありとする信仰は、世界各地に広く存在したが、我が国でも、前に述べた平安初期の仏教説話集『日本霊異記』に、その類和が乗せられているのをはじめ、このような話は、近代にいたるまで全国各地に伝承され続けてきた。
そして、同じく、興味深いことに、中世の史書や貴族の日記には、虹の立つところにをたてなければならないという慣行が存在したことが記されている。
中世の貴族たちは、虹を奇瑞と考え、虹が現れると、公的に天文博士などにそれが、吉祥か災異かを卜定(ぼくじょう。吉凶を占い定めること)させたと『故事類苑』に記されている(※3「故事類苑」の冒頭p-310のところを参照)が、一方民間信仰のもとで、「世間の習、虹見ゆるところ市を立つ」(※3「故事類苑」のp316“虹見處立市”のところ参照)とあるように、そこがいかなる場であれ、数日間市をたて、売買を行うべきであるという観念に縛られており、朝廷の池などに虹が現れたときには、大いに困惑したようだ。

このように民間の俗信にもとづいて、平安時代から戦国時代にいたるまで、現実に各地に市が立てられたことが資料的に確認されるが、おそらくその源はもっと古く、また、民間の慣行としては、もっと後まで継承されたと思われる。
私の蔵書「週刊朝日百科日本の歴史」(51)を見ると、“マリノフスキーが紹介した、トロブリアンド諸島パプアニューギニア東部)のクラと呼ばれる部族間の原始的交換儀式の際、呪術師によって虹を呼び出す呪詩が唱えられるという事例からいって、虹はおそらく我が国の原初的な市、さらには、原初的な交換の観念と密接な関係をもっていたといえよう。”・・・とある。

そして、民俗学者の安間清は、我が国だけでなく、世界各地の虹についての俗信のひとつの大きな流れとして虹は天地をつなぐ橋、つまり、「虹の橋」という共通した観念の存在を紹介しており、「精霊は虹を通って往来する」「神は虹によって旅をする」「死者の霊魂の他界への通路」「虹は天女が入浴するとき、天降(あまくだ)ってくる橋」などの俗信が、世界各地に存在し、また多くの民族の神話のなかでも虹は天と地との間の橋であることを明らかにしているという。
また、我が国でも、「虹は天国から地上に向かって出る」「虹は天の橋」などの伝承が残り、それらから、『日本書紀』『古事記』の創世神話(国産み)にみられる「天の浮橋」を虹と解することも可能であり、我が国にも天神が虹を通って、下界へ降ってくるという信仰があったことを想定している。
このように虹は天界(他界)と俗界とを結ぶと考えられていたのであり、虹が立てばその橋を渡って神や精霊が降りてくると信じられ、地上の虹の立つところは、天界と俗界の境にある出入り口で、神々の示現する場であった。
そのため、虹の立つところでは、神迎えの行事をする必要があり、その祭りの行事そのものが、市を立て、交換を行うことであったのである。
我が国の市の起源は、主としてその語源を探ることによって、身を清めて神に奉仕する「斉(いつき)」という話と結びつけられている。
すなわち「斉(いつ)く地」が「イチ」と縮んだとされているが、以上みてきたような虹と市の関係を媒介とするならば、この語源説は妥当性をもつといえる。
中世の市が三斉市、六斉市、という斉日に立てられ、三斉市・六斉市といわれたのもこの日が天界から四天王が下界に降りてくる日されていたからである。
枕草子』には「おぶさの市」という市の名があげられている(※10「枕草子」の14:市は参照)。
おぶさは虹を指す語であるから、当時「虹の市」という名称が現実に存在していたことになる。
このように原始的な市は神々の示現する聖なる空間、神々が支配する場であることがその本質であったのであり、交換する場としての機能は、その非日常的で特殊な空間という特質と深く結びついていたようだ。
この市のことについては以前にこのブログ「六斎日(Ⅰ)(Ⅱ)」で詳しく書いたのでこれ以上は書かないのでそこで見てください。
「虹の橋」は天と地、現世と他界と言った異なるカテゴリーを結ぶという面を持っている。
人間の世界と神々の世界、あるいは生者の世界と死者の世界など、異なったカテゴリーに属する2つの世界の間には、その境界を明示するものとして何らかの自然の障壁がもうけられている場合が多い。
たとえば日本神話なら、葦原中国(地上界)と常世国(不老不死の理想郷)との間は広大な「海」によって、また黄泉国(死者の国)との間は巨岩でふさがれた「黄泉比良坂」(よもつひらさか)によって隔てられているとされている。また、仏教の世界においては、この世とあの世は「三途の川」によって分かたれている。

●上記の画像は、島根県松江市東出雲町の黄泉比良坂。Wikipediaより。
この三途の川のギリシア版がステュクス河だそうだ(※10:「Styx」参照)。
ギリシア神話に登場する虹の女神「Iris(イーリス)」は、輝く翼を持った女神が天空を翔ける姿だと言われるが、このイーリスも「黄金の水差しで冥界の河ステュクスの水を汲んだ」とされているそうだ(※10:「Styx」のイリスまた、※11参照)。この他神話における虹については神話の虹を参照。

ところで、このような虹の橋などの話から生まれたものと思うのだが、原作者不詳ながら、ペットを失った世界の動物愛好家の間で広く知られているという、有名な散文詩虹の橋』がある。
Wikipediaによれば、作品は1980年代に作られたものと考えらているそうだが、正確な時期は不明らしい。英語で書かれた原文はアメリカで流布していたが、やがて世界中に広がり、日本でもこの詩の原文やいくつかの翻訳が広く知られているという。
亡くなったペットがその主人を待つこのような場所について語っている宗教は存在していないが、北欧神話に語られる「ビフレスト橋」が、神の国と人間の世界を繋ぐ「虹の橋」について伝えている。
ペットが生前の主人を待っている場所という訳ではなが、この世を越えた世界へと魂を導く場所としては類似性があるという。
●上掲に画はイギリスの挿絵画家アーサー・ラッカムが描いたビフレスト。Wikipediaより。
詩は次のような内容となっている。
この世を去ったペットたちは、天国の手前の緑の草原に行く。食べ物も水も用意された暖かい場所で、老いや病気から回復した元気な体で仲間と楽しく遊び回る。しかしたった一つ気がかりなのが、残してきた大好きな飼い主のことである。 一匹のペットの目に、草原に向かってくる人影が映る。懐かしいその姿を認めるなり、そのペットは喜びにうち震え、仲間から離れて全力で駆けていきその人に飛びついて顔中にキスをする。 死んでしまった飼い主=あなたは、こうしてペットと再会し、一緒に虹の橋を渡っていく。

●上掲の画は、虹の橋 緑の野原と動物たち。Wikipediaより。
ペット付きの人達にはたまらない詩だよね。詩の内容などはWikipedia虹の橋(詩)の外部リンクを参照されるとよい。
ここでは、以下のYouTubeのものを紹介しよう。感動ものですよ。これを見ながら、人と人、人と愛する動物との絆のこと、そして、虹の日のことを考えてみるのもよいのでは・・・・。
虹の橋 - YouTube

(冒頭の虹の画像は、Wikipediaより借用)

参考:
※1:虹の日公式サイト
http://www.716nijinohi.com/
※2:虹は本当に七色か - 一橋大学附属図書館
http://www.lib.hit-u.ac.jp/service/tenji/owen/rainbow-color.html
※3:故事類苑-天部/虹〈氣 陽炎併入〉
http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/index.php?%E5%A4%A9%E9%83%A8%2F%E8%99%B9%E3%80%88%E6%B0%A3%E3%80%80%E9%99%BD%E7%82%8E%E4%BD%B5%E5%85%A5%E3%80%89
※4:虹と日本j文芸(十)続
http://ir.lib.sugiyama-u.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/205/1/H18OGINO.PDF
※5:日本人の思想とこころ(2)極楽往生の実践 ―その組織とケース・スタディ
http://www.araki-labo.jp/shiso53.htm
※6:南方熊楠 「十二支考 田原藤太竜宮入りの話」- 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000093/files/1916_29070.html
※7:小人とクツ屋 グリム童話 <福娘童話集 きょうの世界昔話>
http://hukumusume.com/douwa/pc/world/03/13.htm
※8:英英辞典で英単語あてQ 37 rainbow(虹) - 英語クイズストリート
http://park1.wakwak.com/~english/quiz/eequize_37.html
※9:雑学考
http://suwa3.web.fc2.com/enkan/zatu/index.html
※10:原文『枕草子』全巻
http://www.geocities.jp/rikwhi/nyumon/az/makuranosousi_zen.html
※10:Styx
http://www.h6.dion.ne.jp/~em-em/page150.html
※11:イーリス(#IriV)
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/iris.html
イシュタルの首飾り(1 )~(5)
http://blog.goo.ne.jp/zi-nn-u-ru/c/0dec4949056248ec5765c30c11b7c81d
虹の立つ市(1)~(4)
http://ot-blog.at.webry.info/theme/4a80dd0746.html
Title 虹と市 : 境界と交換のシンボリズム Author(s) 小野地, 健
http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10487/3609/1/kana-10-21-0003.pdf#search='%E5%AE%89%E9%96%93%E6%B8%85++%E8%99%B9%E3%81%AE%E6%A9%8B'
虹の色は、現代の日本では通常「七色」とされていますが、この起源はニュートンです
http://q.hatena.ne.jp/1240238161
清明号 - 日本伝統文化振興機構(JTCO)
http://jtco.or.jp/magazine-list/?act=detail&id=123
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
虹 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%B9

戦前戦後を通じて日本代表する女優・山田五十鈴の忌日2-1

2013-07-09 | 人物
粋で、奔放、妖艶・・・映画や舞台でさまざまな女を演じ、女優として初めて文化勲章を受けた(ただし、受章辞退者を含めれば杉村春子が初)山田五十鈴が多臓器不全のため東京都内の病院で死去(95歳)したのが1年前の今日・2012年7月9日であった。
山田五十鈴(やまだ・いすず、本名美津=みつ)は、大阪府大阪市中央区(旧大阪市南区千年町)出身。戦前戦後を通して活躍した日本を代表する女優である。
1917(大正6)年2月5日、大阪市南区で新派劇俳優の山田九州男(くすお)の娘として誕生。幼少時から常磐津清元舞踊などを習っていた。
品のあるうりざねの美貌を見込まれ、1930年(昭和5年)、13歳の時に日活に入社し、山田五十鈴の芸名で「剣を越えて」(※1)で大河内傳次郎の相手役としてデビューし、アイドル的人気を得た。

●上掲の画象:日活の人気女優達が夏の日の照りつける海岸で水着姿を披露。後年の大女優もまだピチピチのギャルだった。向かって左から夏川静江、佐久間妙子、山田五十鈴、滝花久子。1932年。(『朝日クロニクル週刊20世紀』1931-1932年号より)。
以降伊藤大輔監督の[素浪人忠弥]「興亡新撰組」、伊丹万作監督の諧謔(かいぎゃく)と風刺の精神をもつ明朗な「ナンセンス時代劇」で、その先駆的映画表現が評価され1932(昭和7)年度キネマ旬報ベストテン6位を獲得した「國士無双」(1932年1月公開)など多くの日活時代劇作品に出演し人気を高める。

●上掲の画象は映画「国士無双」の片岡千恵蔵、と山田五十鈴。Wikipediaより。
1934(昭和9)年、永田雅一が日活から独立して作った第一映画社へ移籍。1935年頃、二枚目俳優の月田一郎と親しくなり結婚。1936年3月に後に女優となる娘・瑳峨三智子を出産している。
1936(昭和11)年に溝口健二監督の「浪華悲歌」(1936年0月公開)、「祇園の姉妹」(1936年10月公開)への出演(主演)により、演技を開眼、第一線女優としての地位を確立する。

●上掲の画象は(1936年第一映画「祇園の姉妹」から。山田五十鈴(向かって右)と梅村 蓉子。 『朝日クロニクル週刊20世紀』 1936年号より。
この1936年1公開された溝口健二監督の「祇園の姉妹」は京都の色町に生きる人情肌の姉(梅吉=梅村蓉子)と打算的な妹(芸妓おもちゃ=山田五十鈴)の姉妹芸者を主人公に徹底したリアリズム描写によって現代風俗を痛烈に風刺して好評を得、キネマ旬報ベストワンに輝いた。
それまで浪漫の色濃い明治物を発表してきた溝口監督は、この年の5月に公開された『浪華悲歌(エレジー)』で現代女性の転落を突き放した批判的リアリズムで描いて新しい境地を切り開いた。
その作品もベストテン3位に入り、溝口監督は自他ともに認める巨匠としての地位を築いた。この2つの作品ともに脚本は依田義賢、主演は山田五十鈴、製作は永田雅一だった。
私はこの作品を見ていないが、溝口監督はもともと山田五十鈴の起用を前提として原作を書いたとされ、山田も監督の厳しい演出に耐え「自立する女性」村井アヤ子を見事に演じきり、これまでの邦画に無かった女性像を演じた山田五十鈴には、高貴なまでの美しさがあったという(この2作品の内容とについては※2を参照。
永田が2年前に興した第一映画社は、この年(1936年)に解散。短命だった第一映画社が唯一残したのが日本映画史上に輝くこの2つの傑作だった。                    
この後新興キネマへ入社し、1938(昭和13)年に東宝へ移籍してからは、川口松太郎の出世作『鶴八鶴次郎』(『オール読物』1934年10月号に発表した短編。翌年発表の小説『風流深川唄』などとあわせて第1回直木賞を受賞している)を、成瀬巳喜男が映画化した同名映画の「鶴八鶴次郎」(1938年公開)で長谷川一夫とコンビを組み好演。
この映画は新内芸人の悲恋物語である。
鶴八(山田)の亡き母親が新内の師匠だった関係から、鶴次郎(長谷川)は鶴八とは幼馴染だったが、芸の上では衝突を繰り返してきた。
結婚すると思われた二人が、小さな行き違いから、鶴八は人の良いパトロンに嫁いだ。芸を忘れられぬ彼女は鶴次郎との舞台に復帰し大ヒットする。しかし鶴次郎がコンビの継続を断る。それは鶴次郎の愛情表現であった。成瀬巳喜男の抑制の利いた演出、二人の好演、脇を固めた助演者、藤原鎌足(鶴次郎の番頭、佐平)など。それがこの人情劇を「崇高な愛情劇」に変えた(※3参照)。以下その1シーン、鶴次郎(長谷川)と鶴八(山田)。


この当時映画では、時代劇が非常に人気があったのだが、東宝の俳優人には、時代劇こそ、その本領を発揮できるという長谷川一夫や大河内傳次郎が控えているにもかかわらず、時代劇としては熊谷久虎監督の「阿部一族」(1938年)が唯一高い評価を得たくらいで、本格的な時代劇がうまく作れておらず、「鶴八鶴次郎」や渡辺はま子の歌支那の夜 (曲)(作詞:西條八十)のヒットを受けて作られた、日本・満州国合作の国策映画で長谷川一夫・李香蘭の主演による「大陸三部作」(白蘭の歌」(1939年)、支那の夜」(1940年)、「熱砂の誓ひ」(1940年)などであった。

そんな時、松竹から時代劇の名匠・衣笠貞之助が東宝入りしてきた。その第1回作品として企画されたのが、川口松太郎が1939(昭和14)年10月から毎日新聞に連載し、私の大好きな岩田専太郎の流麗な挿絵(※6参照)と共に大好評を博した波瀾と怪奇に富んだ時代絵巻『蛇姫様』の同名映画化(※4参照)であった。
この作品には長谷川一夫、山田五十鈴、入江たか子、大河内伝次郎など、かつての日活、松竹の時代劇大スターが総出演している。
悪家老の息子を斬って旅一座に逃げ込んだ千太郎(長谷川一夫)が、三味線弾きのお島(山田五十鈴)と恋に落ちる。前後編ものの超大作で、興行面でも記録的なヒットをしたそうだ。
この映画も私自身は見ていないが、今の人が見た場合映画の内容としては余り評判は良くないようだが、ただ、花の盛りの山田五十鈴の美しさを称賛する声は多い。以下参考※4に掲載されているスチール写真をみても確かに美しいことがわかる。
この写真を見ていると、山田が第一映画に移籍したばかりの18歳の時に月田との間に生んだ娘の女優瑳峨三智子 (1992年に死亡)を思い出す。彼女自身の出演した映画(1960年酒井辰雄監督)の題名から「こつまなんきん」とも愛称された彼女も、母親に負けない妖艶なそして、絶世の美女であった(※5参照)。
「蛇姫様」の映画はその後、大映や東映で、市川雷蔵(1959年大映「蛇姫様」)、東千代之助(1954年東映「蛇姫様」第1部~第3部)、美空ひばり(1965年東映「新蛇姫様 お島千太郎」などの主演で再映画化されているので、内容そのものはご記憶の方も多いだろう。
市川雷蔵主演(千太郎)による映画化(1959年「蛇姫様」)では、入江たか子(第1部では原節子が演じていたらしいが・・?)が演じていた琴姫を瑳峨三智子が演じていたのを思い出す。

その後山田五十鈴は、松崎啓次台湾人映画監督・劉吶鴎(りゅう・とつおう.、※7参照)らを中心として設立した日中合作の中華電影公司と、東宝が共同で制作した映画「上海の月」(1940年製作翌年公開)に、出演している。
この映画は、松崎の刊行した『上海人文記』を原作に成瀬巳喜男が監督し、1937年12月に上海に出来た日本のラジオ局、大上海放送局(※9参照)を舞台にした映画らしい。以下参考の※9:「映画「上海の月」 映画旬報より」には、この映画について、以下のように書いている。
“反軍閥、反共産党をコンセプトとした映画で、南京市の営業収入記録を立てた人気映画だったようだ。監督の成瀬によれば、「内容が宣伝の関係上、会合、演説、スローガンが多すぎる。演出、技術、演技に特に見るべきところは無い・・・」という感想だ。”・・と。
また、“山田五十鈴の「上海から帰って」というタイトルのついたキャプション(写真や挿絵に添えた説明文)を読むと、1941年2月14日から4月30日まで上海に滞在。2月18日には南京の主席に挨拶に行ったとある。また、自分の役を、「袁露糸という中国人のアナウンサーで、始め抗日派の間諜(スパイのこと)となり、後に新東亜建設(※10参照)の重大使命を自覚してついに昔の仲間の手に倒される役」と書いている。
ここに出てくる袁露糸(エン・ロシ)はテンピンルー(鄭蘋如)というラジオ局のアナウンサーとして活動した人がモデルらしい(※11参照)。
東アジアにおける電波戦争の中、日本人居留民向けのラジオ局ではあったが、上海語や英語、ロシア語のニュース放送もあり、日本政府の宣撫工作の目的も持っていたようだ。
いずれにしても、この時代には山田五十鈴など映画俳優もお国のために、このような国策映画への出演協力をしなければいけない状況にあったというわけだ。
ただ、この映画「上海の月」には西条八十作詞、服部良一作曲、という「蘇州夜曲」コンビで作った主題歌があり、その一つ「牡丹の曲」を
主演女優である山田五十鈴が歌っている。

あかい牡丹の  はなびら染めた  踊り衣裳が  なみだに濡れる
ないちゃいけない  しな人形  春は優しく  またかえる

ISUZU YAMADA 山田五十鈴 sings MUDAN SONG 牡丹の曲

晩年の嗄れ声の山田しか記憶にない人は驚くくらいきれいな声で歌っている。もう一曲も「明日の運命(あすのさだめ)」と言って、やはり、同コンビによるもので、歌は霧島登渡辺はま子のデュエットである(※12参照)。

1942年、長谷川一夫と共演した泉鏡花の同名小説を映画化した「婦系図」(監督:マキノ正博)が大ヒット、男と女のドラマを情感こめて描かせたらの右の出るものはないと言われるマキノの作品。
この「婦系図」は、スリ上がりのドイツ語学者、早瀬主税(長谷川一夫)と芸者、お蔦(山田五十鈴)との悲恋の物語で新派の代表的な当り狂言である、流行歌にもなり、戦後にも3度映画化されている。
ただ、戦争中のことなので主税がドイツ語学者でなく、火薬研究の学者に、恋仇の坂田(進藤英太郎)がその秘密を外国に売ろうとするスパイになってアクション映画としての要素もある変な「婦系図」だが、それでも二人の愛のドラマの魅力をそこなっていないのが名匠の冴えである。山田が実に美しい。

太平洋戦争へと突入後、社会は戦時一色に変貌。映画も国策映画に限られるようになり、コケティッシュな魅力が身上の山田の出番は少なくなり。山田は、1942(昭和17)年から長谷川と実演の演劇を行うために新演伎座を結成。同年3月1日 - 3月25日、東京宝塚劇場で、旗揚げ(第一回)公演を打った。
演目は、菊田一夫作・演出の『ハワイの晩鐘』、六世藤間勘十郎作・演出の『鷺娘』、川口松太郎作、金子洋文演出の『お嶋千太郎』であった(※13参照)。しかし、戦局が深まった1944(昭和19)年、最終公演を行い、戦後解散する。

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戦前戦後を通じて日本代表する女優・山田五十鈴の忌日2-2

2013-07-09 | 人物
戦後、1946(昭和21)年に活動を再開、同年9月9日 - 10月2日、東京・有楽座で、菊池寛作、衣笠貞之助演出の『藤十郎の恋』(※14)を公演する。
しかし、戦後の混乱と社会主義運動の高揚によって、東宝に東宝従業員組合(従組)が結成されたのは1946(昭和21)年2月のことである(東宝争議参照)。
同年3月から4月に第1次争議、同年12月に第2争議。組合は、この2つの争議で組合結成の承認、経済要求、映画の企画と経営に参加する権利を得た。
そんな中、大河内伝次郎(当時48歳)、長谷川和夫(38歳)、山田五十鈴(29歳)、原節子(24歳)らが、11月、スト反対声明を出し、組合を脱退、約450人が新東宝をつくる(東宝の経営は悪化し、1948年、4月8日1200人を解雇。第3次争議へと発展した。)
この間、新東宝の設立第1作で市川崑監督(当作品で中村福の名で構成、監督デビュー作となる)の映画「東宝千一夜」(1947年2月公開)に長谷川、山田は主演の藤田進らと共にそろって出演。長谷川とのコンビではこnの後も多くの映画に出演している。
また、松崎啓次製作、衣笠貞之助にとって3作目の映画作品、現代劇で、しかも新劇の誕生のころに存在した生々しい恋の物語「女優」(東宝)で松井須磨子役を演じ、映画女優として飛躍を遂げる。この映画では、新劇の演出家土方与志が映画俳優(島村抱月役)として はじめてカメラの前に立ち山田と共演している。
当時、山田は、妻子ある衣笠と同棲中であったが別れ、その後、1950(昭和25)年民芸の俳優、加藤嘉と結婚(3年後に離婚)。この頃から、映画出演の合間に舞台に立つようになる。
1952(昭和27)年、加藤と現代俳優協会を設立、独立プロ作品にも多数出演している。東宝争議以降の山田はこのころ、左翼的な思想に染まっていたようだ。
同年に中央官僚組織を舞台に戦後日本社会の暗部を描いた渋谷実監督の「現代人」、タカクラ・テルの歴史小説『ハコネ用水』(箱根用水=深良(ふから)用水ともいう)を原作に、戦前から映画製作会社と提携して時代劇映画を製作してきた劇団前進座の戦後第1作目の時代劇作品「箱根風雲録」(独立プロの松本酉三と宮川雅青が製作、監督には山本薩夫、楠田清、小坂哲人共同であたり、弱小資本の独立プロ作品を専門に扱う配給会社「北星映画配給」が配給)の演技が評価され、ブルーリボン賞主演女優賞、毎日映画コンクール女優主演賞を受賞。
1955(昭和30)年には樋口一葉の同名の短編小説を五所平之助監督が映画化した「たけくらべ」でブルーリボン賞助演女優賞を受賞。
翌1956(昭和31)年には第二回世界短篇コンクールで一等を獲得した久生十蘭の同名小説を映画化した文芸品で、戦争という運命に流されながらも滅びぬ母と子の美しい愛を描くヒューマンな物語「母子像」(佐伯清監督)などで2度目となるブルーリボン賞主演女優賞、毎日映画コンクール女優主演賞、自身の体験を踏まえ、華やかな花柳界と零落する置屋の内実を描ききった幸田文の同名小説を成瀬巳喜男監督によって映画化された「流れる」、谷崎潤一郎の兵庫芦屋附近の商家を舞台に猫好きの男庄造と愛猫リリーをめぐる二人の女(品子=山田と福子=香川京子)たちの葛藤を描いた同名長編小説をもとにした豊田四郎監督「猫と庄造と二人のをんな」、等でキネマ旬報女優賞を受賞している。

1957(昭和32)年には、自ら熱望して黒澤明監督がシェイクスピアの戯曲『マクベス』を日本の戦国時代に置き換えた作品「蜘蛛巣城」に出演、マクベス夫人にあたる浅茅役を鬼気迫る姿で演じた。
同じく黒澤明監督がマクシム・ゴーリキー同名戯曲を日本の江戸時代に置き換えた時代劇映画「どん底」では、長屋の大家(中村鴈次郎)の女房役で、物凄い悪女ぶりでまるで人間というよりも獣の如く、鬼のような表情で常に狂ってる女を演じている。
そして、林芙美子の同名小説(※15参照)を、笠原良三と吉田精弥が共同で脚色し、千葉泰樹が監督して、戦後の混乱した世相を背景に下層階級の男女(山田五十鈴と三船敏郎)のささやかな愛情を描いた作品「下町(ダウンタウン)」で2度目のキネマ旬報女優賞を受賞。これらの活躍から、名実ともに映画界を代表する大女優となった(山田五十鈴出演映画の詳細は、※16参照)。
このほか、同年には、小津安二郎監督による「東京暮色」(松竹配給)に出演し、娘を捨て、愛人に走った母親を好演している。この作品は、小津にとっては最後の白黒作品であり、戦後期の名女優、山田五十鈴が出演した唯一の小津作品でもある。

1959(昭和34)年には新劇合同公演「関漢卿」へ出演、滝沢修と共演したのをはじめ、同年6月歌舞伎座での中村歌右衛門(六代目)主宰の莟会による「落葉の宮」(※17 )で、雲居の雁役で、中村歌右衛門(落葉の宮)と共演。
また、1960年10月、同じく歌舞伎座での菊五郎劇団による「シラノ・ド・ベルジュラック」で尾上松緑(二代目)と共演するなど話題作に出演したことを機に、サイレント時代から日本映画の黄金期まで最前線を走り続けた彼女は、1963(昭和38)年東宝演劇部との専属契約を結び、これ以降、活動の中心を映画から舞台に移し、以降は東宝演劇部の中心女優として精力的に活躍。
同年、1月芸術座「香華」(原作:有吉佐和子)他「丼池」(原作:菊田一夫)、「明智光秀」(※17)における年間の舞台成果、でテアトロン賞(別名:東京演劇記者会)を受賞(※18)し、水谷八重子(初代)杉村春子と並んで“三大女優”と呼ばれるようになる。

1974(昭和49)年の藝術座での初演「たぬき」(榎本滋民作)では、明治から昭和初期にかけて活躍した女芸人で浮世節の名手・立花家橘之助を三味線や落語などを織り交ぜて演じ、芸術祭大賞や毎日芸術賞を受けた。
以下では、立花家橘之助の役を演じ、「たぬき」の三味線の音に首動かしている様子が窺える。この時、まだ57歳。まだまだ艶っぽくてきれいだね~。

噺の話 山田五十鈴の代表的な舞台、『たぬき』について。

また、有吉佐和子の同名小説をもとに有吉自らが、脚色・演出した「花岡青洲の妻」が1967(昭和42)年に芸術座で舞台化され、舞台でも大評判を呼んだ。

●上掲の画像は、舞台稽古の合間に出演者たちに囲まれた有吉佐和子と右、たばこを悠然とくゆらせているのが花岡青洲の母・於継役の山田五十鈴(画像は朝日クロニクル週刊20世紀1972年号より借用)。
この作品により、医学関係者の中で知られるだけであった華岡青洲の名前が一般に認知されることとなった。そして、その後何度もテレビドラマ化、舞台化画された。この時、華岡青洲役は田村高廣が、妻・加恵役は司葉子が演じている。

1977(昭和52)年に「愛染め高尾」で、芸術祭大賞を受賞。1983年には「太夫(こったい)さん」(北條 秀司作)で、三度目の芸術祭大賞を受賞。1984年、芸術選奨にも選ばれている。
1987(昭和62)年には、ファンのアンケートで「タヌキ」に、「香華」、「淀殿日記」、「女坂」「しぐれ茶屋おりく」などを加えた代表作が五十鈴十種とされている。


●上掲の画像はマイコレクションのチラシより。日本美女絵巻「愛染め高尾」。年代は違うが、1991年11月京都・南座公演のもの。
吉原随一の高尾太夫を演じ、権力や金力に反抗する堂々たる貫禄、いちずな紺屋職人にこころ打たれる恋の若々しい純情ぶりを、見事に造型化した。病気などの不幸を乗り越え、長い芸歴に裏打ちされた、円熟の芸境を示している。
病気などの不幸とは、大阪・近鉄劇場での1991(平成3)年5月公演の「流れる」で4月25日舞台で倒れ病院に運ばれその後休演していた。その時の舞台のチラシが、マイコレクションにある。
●それが以下だ。

大阪・近鉄劇場での1991(平成3)年5月公演の「流れる」。
1956(昭和31)年に幸田文の同名小説を成瀬巳喜男監督によって映画化し評判をとったものを平岩弓枝が脚本を書き成井一郎が演出したもの。映画のキャストが凄かったが、この舞台も下町の芸者屋「蔦の屋」を舞台に蔦の屋の女主人つた吉(山田)、彼女と共に蔦の屋を盛り立ててきた染香姐さん(杉村春子)、家政婦の(音羽信子)の豪華キャストで火花を散らした。しかし、主演の山田が4月25日、舞台で倒れ病院に運ばれた。5月4日に始まって29日が千秋楽だったのだが午後4時からの2回目の公演が終わりかけたときに舞台上で突然気分が悪くなりセリフが言えなくなるというアクシデントが起こったのだ。翌日は休演となったがその後はどうなったかしTらない。この時山田74歳。無理をしていたのだろう。
●また、以下は、同じく大阪・近鉄劇場での1989(平成元)年10月公演の「女坂」(円地文子原作、菊田一夫脚本)によるものである。五十鈴十種の一、夫のために妾を探す哀しいまでに気丈な愛を描いた円地文子の傑作である。

そして、この下が、新版「香華」1996(平成8)年5月大阪・劇場飛天(現:梅田芸術劇場)での公演のもの。

この下にあるのが、「しぐれ茶屋おりく」1993(平成5)年3月大阪・新歌舞伎座公演のものである。


一方では1963(昭和38)年東宝演劇部との専属契約を結んで以降、NHK大河ドラマ「赤穂浪士」(1964年)や、朝日放送「必殺からくり人」(1976年)といったテレビ時代劇にも出演した。
特に必殺シリーズには以後1985(昭和60)年の必殺仕事人Vまで約10年間断続的に出演、代表作となった。

必殺からくり人「許せぬ悪にとどめさす」 - YouTube

因みに、2013(平成25)年・今年の7月から、J:COMケーブルテレビの502時代劇専門チャンネルで必殺アワーとして、「必殺からくり人」も放映されている。時代劇ファンの私などは毎日欠かさずに見ている。

1980(昭和55)年ころ京都の自宅を引き払い、安全が保障されている上にお手伝いさんもいらないという理由で、東京・帝国ホテルの一室で生活を送っていたようだ。そして、80歳を越えても舞台を中心に盛んに活躍していた。

1993(平成5)年に文化功労者表彰、さらに2000(平成12)年に女優としては初めての文化勲章を受章した。
2001(平成13)年夏に84歳で主演した芸術座「夏しぐれ」(原案・演出:石井ふく子)まで、年齢を感じさせない姿で観客を魅了した。
最後の舞台は、朗読劇「桜の園」の上演で、ラネーフスカヤ夫人の扮装をしている山田五十鈴さん。役の気質を考え、髪が少し崩れたかつらを希望したという(冒頭の画像は、2001年11月撮影・2012年9月8日付朝日新聞より借用のもの)。
翌2002(平成14)年4月に体調不良で入院し、同年秋に出演を予定していた舞台を降板して療養に専念していたが、以降は表舞台に復帰することはなく、2012年7月9日、多臓器不全により95歳で死去した、死後従三位に任じられている(官報第5864号。平成24年8月15日)。
同年7月11日東京・青山葬儀所で通夜が行われた。祭壇には文化勲章が飾られ、天皇陛下からは、皇室からの供物料にあたる祭粢(さいし)料が贈られた。佐久間良子や沢口靖子ら600人が参列したという。
1990(平成2)年4月、初めて舞台に立った「女ぶり」(平岩弓枝原作・脚本・演出)で、いきなり大女優の山田さんと共演した沢口靖子は、当時を振り返り、
「大勢でお食事をするのが好きな方でした。その場では、私のような全くの新人にも声をかけてくださり、器の大きな方でしたね」としみじみ語ったという(※19)。
また、弔辞で俳優の西郷輝彦は帝国劇場で共演した舞台「徳川の夫人たち」(1997年)を振り返り、涙を誘ったという。
“山田さん演じる春日局の臨終場面で、徳川家光役だった西郷。「私は山田先生を抱き上げ「そなたは乳母ではない、そなたは母じゃ、わしの母じゃ」と号泣してどんちょうは下りました。その後、先生はおっしゃいました。「私の(亡くなった)ときも、そんなふうに優しくしてくださいね」と。いま、先生の美しい立ち姿を思い浮かべています”・・・と。

●丁度私のコレクションのチラシの中に、この舞台のものがある。上掲の画象が、中日劇場にて1992(平成4)年4月公演の「女ぶり」(原作・脚本・演出:平岩弓枝)のチラシである。
女ぶりとは「女としての容姿。女の器量」を言うが、若い時の沢口靖子はめちゃかわいかったよね。それに、山田の女ぶりどうですか。この時、もう73歳ですよ。まだまだ美しさと妖艶さが失われていない。最上段の女性は淡島千景

●上掲の画像が、1997(平成9)年9月帝国劇場で公演の「徳川の夫人たち」である。春日局役の山田の左隣は藤尾役の池内順子である。「女ぶり」の淡島は山田と同じ年・2012(平成24)年の2月に、池内はその2年前2010(平成22)年9月に亡くなってしまった。もう、本当の芝居ができる役者はいなくなってしまったね~。

私の記憶に残っている山田五十鈴の出演作品のチラシをもう少しここへおいてゆこう。

●上掲ものは、東京宝塚劇場での1996(平成 8)年10月公演の「花岡青洲の妻」(有吉佐和子作)である。
外科医花岡青洲(五代目坂東八十助)の偉業を陰で支えた女二人(青洲の母於継:山田と青洲の嫁加恵:小手川裕子)の対立を描いた有吉佐和子の最高傑作である。
また、池波正太郎原作の『鬼平犯科帳』でも中村吉衛門主役によるシリーズもので鬼平(長谷川 宣以)の相手役として良い味で出演しているものがある。
●「むかしの女」では、平蔵の昔の女、おろくを好演している。おろくは、平蔵が「本所の銕」の異名で放蕩放埓の限りを尽くしていた頃の相手で、七つ年上の玄人女である。平蔵が今は落ちぶれた昔の女おろくと再会する代表作。以下は、京都南座での1994(平成6)年6月公演「むかしの女」のチラシである。

●「血統」では、女盗賊鯉肝のお里を演じている。お里は艶っぽい大年増の女賊。鯉の肝は苦味が強く煮ても焼いても食えない代物。昼間から若い男を茶屋に連れ込み、夜は丁半に血道をあげる、飲む打つ買うが大好きな性悪女。なのに、腹をすかして行き倒れていた若い男に飯をおごってやる。下心からではなく、死んだ弟を思い出して、つい情けをかけたのだ。これがアダになり、火盗改めに目を付けられてしまう。そんな女を演じている。以下は、京都南座の1995(平成7)年6月公演の「血統」のチラシである。

●「炎の色」、この作品には盗賊の首領荒神のお夏として出演。先代の身内もすでに外道におちており先代と同じく三か条をまもり昔気質を通そうと考えるお夏は身内を再び集結させるために担がれているだけなのだと鬼平の密偵おまさは知る。貫録十分の山田。以下は、新橋演舞場での 1994(平成 6 )年 2月公演「炎の色」のチラシ。

山田五十鈴は特に時代劇には欠かせない人であった。今流の現代女性の美人とは系統は異なるが、昭和以前のどの時代にとっても似合う「日本的な」美しさを持つている代表的な人だったと思う。
恋多き女性としても知られ、月田一郎、加藤嘉、下元勉ら、四度の結婚・離婚歴があり、花柳章太郎、衣笠貞之助とも不倫関係にあったという。
山田五十鈴に魅了された数知れぬ男たちは、私らが、「鶴八鶴次郎」の山田五十鈴に惚れ込むように、「流れる」の山田五十鈴の立ち居振る舞いに魅了されるように、実生活の山田五十鈴に魅了されていったのだろう。
役者にとって、恋は「芸の肥やし」ともいうそうだが、「通り過ぎる男たちを芸の肥やしに」の常套句を当然のものとして、それも真剣に、恋も出会いもすべて吸収して芸の肥やしにしてきた女優だったと言えるかもしれない。
昨・2012(平成24)年9月8日付朝日新聞には以下のように書かれていた。
“三味線7丁、小鼓と(こと)二つずつ、胡弓が1丁、清本の見台(けんだい)、姿見、楽屋で使う鏡台、着物をしまった和箪笥3棹・・・、東京都内の貸倉庫に残されたのは、芸に結びつく物ばかりだったという。
家や家財を処分して、帝国ホテルに住み、病院に移った後も、「いつでも使えるように」と手放さなかった品々だ。
13歳でデビュー以来、大スターであり続けた。「だから他人と競う気持ちがない。でも自分には厳しかった」と演出家北村文典さんは振り返る。
晩年の病室でテレビから流れる古い出演映画に見入り、「これはまずい。よくOKが出た」とつぶやくのを聞いたという。
大名の奥方、裏長屋のおかみさん、芸人、吉原の太夫、労働者どんな役にも取り組んだ。台本の命ずるままに、が信条で、役に会うと思えば大道具係の汚れたズック靴をもらい受けて履いた。
「自分を飾ることに興味がなく、芝居に何が大事かだけを、まっすぐに考えていた」と北村さんは言う。
生活も同じ姿勢だった。かってインタビューに「ホテル住まいは劇場に近く、交通渋滞の心配がないから、廊下で安全にウオーキングができるし、自宅を構えるより、むしろ経済的」と語っていた。
時には、部屋で食事作りも。「私、ごはんを炊くのがうまいのよ。あらとんだ正岡ね」と「飯炊き」をする歌舞伎の登場人物の名(伊達騒動を題材とした人形浄瑠璃および歌舞伎の演目『伽羅先代萩』の「竹の間の場」に有名な乳母の正岡の“飯炊き(ままたき)”の場面が出てくる。)を挙げ、ころころ笑った。
「じゃぶじゃぶ洗えて、便利」と稽古や旅行には化学繊維の着物も愛用した。
一人娘の佐賀美智子さんがタイで死去した時、駆けつけなかったのも、目の前の観客が第一と判断したから。普段の二人を知る北村さんには決して冷たい母には見えなかった。”・・・と。
気さくで、大女優ぶらない人だったらしい。文化功労章といい、文化勲章といい、「過去の自分には興味がない」と辞退しようとして周囲を困らせたという。
すべての関心は、今の舞台とお客様。自分のあたり役「五十鈴十種」を選んだ時も観客の投票を参考にして選んだという。
そんな芸一筋が両親と娘の死を看取ることをできなくしたようだ。今ではそんな芸人いるのだろうか。
コレクションのチラシの整理をしていると、舞台で共演した俳優の多くがもういなくなっている。これでは、もうまともな時代劇は作れないな~。そう思うと、時代劇ファンの私は実に寂しくなってきた。

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戦前戦後を通じて日本代表する女優・山田五十鈴の忌日:参考へ

戦前戦後を通じて日本代表する女優・山田五十鈴の忌日:参考

2013-07-09 | 人物
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参考:
※1:今日の一枚、その39、大河内傳次郎、剣を越えて - 酒と映画と歌と、酒と
http://plaza.rakuten.co.jp/roberobe1963/diary/200708260000/comment/write/
※2:溝口健二作品紹介 (浪華悲歌、 祇園の姉妹)
http://www.fsinet.or.jp/~fight/mizoguchi/02.htm
※3:鶴八鶴次郎 - Ne
http://www.ne.jp/asahi/gensou/kan/eigahyou23/tsuruhachitsurujiro.html
※4:ニュース和歌山-わがスクリーン遍歴69「蛇姫様」
http://www.nwn.jp/screen/waga1/text1/69.html
※5:『こつまなんきん』 嵯峨三智子さんを観た!!
http://ameblo.jp/jahyon2002/entry-11180316524.html
※6:川口松太郎と岩田専太郎がはじめてコラボレーションする「蛇姫様」http://d.hatena.ne.jp/shinju-oonuki/20100804
※7:新刊紹介:『李香蘭の恋人 キネマと戦争』
http://www.taiwanembassy.org/fp.asp?xItem=46599&ctNode=3591&mp=202
※8:中国占領地域の放送とラジオ - 日本ラジオ博物館
http://www.japanradiomuseum.jp/chinanorth.html
※9: 映画「上海の月」 映画旬報より
http://uetoayarikoran.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-2037.html
※10:新東亜建設の意義と目標
http://binder.gozaru.jp/radio/19390106-sintoua.htm
※11:テンピンルーの勤務した日本のラジオ局
http://uetoayarikoran.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-8bda.html
※:12 :映画「上海の月」の主題歌: 1930年代上海-李香蘭をきっかけとして
http://uetoayarikoran.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-73fd.html
※13:1942年(昭和17年)1-6月: 江古田のヨッシー
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/410444/399868/15791550?page=2
※14 :菊池寛 藤十郎の恋 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/47857_32607.html
※15:林芙美子 下町 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000291/files/42159_23807.html
※16:山田五十鈴 (ヤマダイスズ,Isuzu Yamada) | Movie Walker
http://movie.walkerplus.com/person/84158/
※17:大阪・新歌舞伎座 1963年12月 (明智光秀)
http://www.kabuki.ne.jp/kouendb/perform/detail.html?kp=11902&TB_iframe=true&width=610&height=480
※18:テアトロン賞」とは?
http://www.geocities.jp/chiemi_eri/chiemi_sub6-02.htm
※19:沢口靖子、初舞台で共演「器大きな方」…山田五十鈴さん通夜:スポーツ報知
http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/obit/news/20120711-OHT1T00281.htm
※20:山田五十鈴さん告別式に450人「女優の神様」「五十鈴先生、日本一」スポーツ報知
http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20120712-OHT1T00341.htm
※21:演出家北村文典プロフィール - バーディ企画
http://www.birdy.co.jp/talentcenter/workshop/bunten.html
北條秀司脚本
http://homepage3.nifty.com/genji_db/hojyo.htm
映画「上海の月」 主題曲
http://uetoayarikoran.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-73fd.html
山田五十鈴 - 知誕Wiki
http://tisen.jp/pukiwiki/index.php?%BB%B3%C5%C4%B8%DE%BD%BD%CE%EB
最後の大女優 山田五十                               
http://www.geocities.jp/noa6171/recentwork/yamada/yamadaisuzu1.htm            山田五十鈴 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E4%BA%94%E5%8D%81%E9%88%B4


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