今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

大晦日、(大晦、おおみそか)

2006-12-31 | 行事
今日(12月31日)は「大晦日、大晦、おおみそか」
旧暦では毎月の最終日を晦日(みそか)といった。晦日のうち、年内で最後の晦日、つまり12月(または閏12月)の晦日を大晦日といった。
大晦日を「大つごもり」ともいった。「つごもり【晦(晦日)】」は、「つきごもり(月陰)」が変化したもので、月が隠れて見えなくなる頃の意。「月ごもり」が転じたものである。もともと“みそ”は“三十”であり、晦日(みそか)は、本来「三十日」と書き、30日の意味だった。転じて月の最終日を意味するようになったが、月の大小が年によって変動するので、実際には29日のこともあった。現在では、新暦の12月31日を指す。太陰暦では15日が満月とされ、月はその後欠けていき、最後には月が見えなくなることから、「三十日」に「晦日」の字が当てられたとされている。晦の字には 暗くて何も見えないの意があるそうだ。
大晦日には、様々な年越しの行事が行われる。大晦日と言われているものは、12月大晦日の宮中行事「年越の祓(としこしのはらえ)」と6月晦日(つごもり)に行われる「夏越の祓(なつこしのはらえ)」と呼ばれるものとともに穢れを祓う行事であり、もとは一対の大祓(おおはらえ)行事だった。このような、1年を2季に分けて同種の行事を繰り返すのは、古い暦法の名残りであり、その頃、1月から6月までを1年、7月から12月までは別の新しい年といった感覚でとらえていた。ちなみに旧暦30日は三十日払い(みそかばらい)といって代金の支払いを済ませる日でもあった。つい最近まで、我々の生活のなかで盆と正月前にそれ迄の決算をするという習慣はその名残りである。
この大晦日と言われている大祓行事については、以前にブログ「夏越祓」で書いたので興味のある人はそこで見てください。
夏越祓(なごしばらい)↓
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/f4d74c403291bf52583da00bdecb099d
年越しの夜のことを除夜(じょや)とも言う。かつては、除夜は年神を迎えるために一晩中起きている習わしがあり、この夜に早く寝ると白髪になるとか、皴が寄るとかいった俗信があった。
毎年12月31日、NHKの人気番組である『NHK紅白歌合戦』の放送が終了した直後の23時30分以降~1月1日未明にかけて全国中継されている「ゆく年くる年」というテレビ番組(ラジオ番組)が放送される。前の放送「紅白歌合戦」の喧騒が一瞬にして消去された瞬間、この番組では、除夜の鐘が鳴り響く各地の寺院の境内や本堂の様子、参拝客たちが深夜の初詣に訪れ新年の祈願をする模様などがリレー中継され、静寂と荘厳な雰囲気に包まれる。私の家の近くにもお寺が幾つかあるので、ほぼ同時にあちこちの寺から、金の音が聞こえてくる。子どもの頃には、除夜の音を聞き終わると、家族で新年の挨拶を交わし、近くの神社へ初詣にいった。近くと言っても結構距離があり、普通は電車でいく距離だが、電車は通っていないので、親戚の者が誘い合って、団体で歩いていった。そして、初詣の後、神社境内の出店を見物し遊んで返ってくるともう夜明け近くになっていた。
除夜の鐘は108回撞かれる。眼・耳・鼻・舌・身・意の六根のそれぞれに苦楽・不苦・不楽があって18類、この18類それぞれに浄・染があって36類、この36類を前世・今世・来世の三世に配当して108となり、これは人間の煩悩(ぼんのう)の数を表すとされている。また、月の数12、二十四節気の数24、七十二候の数72を足した数が108となり、1年間を表しているとの説もある。又、四苦八苦を取り払うということで、4×9+8×9=108をかけたとも言われている(四諦 参照)。
煩悩とは、仏教の教義の一つで、身心を乱し悩ませ、智慧をさまたげる心のはたらきを言う。
諸の一神教などでは、のように世界を捉え、物事を悪い方向へ導く「悪」は外在する存在(実体化して悪魔とされることも多い)であるが、仏教の「煩悩」とは自らの心の問題としてとらえており、これが、仏教が一神教などの教と大きく異なる部分である。
煩悩の根源には、貪欲(とんよく)瞋恚(しんに・しんい)愚痴(ぐち)のいわゆる「三毒」があり、とくにその中の「愚痴」、すなわち物事の正しい道理を知らないこと、十二因縁無明(むみよう)が、最も根本的なものであるとされている。
そして、その煩悩は、我執から生ずるとされている。
我執とは字のごとく自己中心の考え、それにもとづく事物への執着を言う。今年の1年を振り返ってみると、親殺し、子殺しを含む殺人事件やいじめ、悲しい自殺、詐欺、汚職、それに酔っ払い運転による事故死等々数え上げればきりがないほどに嫌な事件が多かった。これらの事件の根底には、この我執があるだろう。今の世の中、自己中心の考え方が蔓延し、周りの人の迷惑などかまわない人が増え、性欲、金銭欲、名誉欲といった欲に執着している。そんな人たちが、事件を引き起こしているのである。仏様もさぞ嘆かれていることであろう。
仏教では十二因縁の根源に無明をおいているが、すべての苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、智慧によって無明を破ることにより消滅すると説かれている。闇は始めから存在しないものである。闇は「光の欠如」ということであって、闇と呼ばれる「なにか」が存在するわけではない。闇に光が当たると、闇はたちまち消えうせる。実際には無いものを有ると考えるのが無明である。それには、智慧がいる。ここでいう智慧は、大学など学校で習う知識の事ではない。昔おばあさんが言ったという笑い話に、「あんた大学なんていくと馬鹿になるよ」といったものがある。これは、本当に真理をついたものである。教育を受け、知識を身につけても本当に必要な智慧は身に付かない。逆に、そんな学問で得た知識が、仏の説く智慧のつくのをさまたげる煩悩の働きをしている場合が多いのである。108つの鐘とともに煩悩を捨て、無心な心で、新しい年を迎えてください。皆様にとって、来年は良い年であることを心から祈っております。
(画像は、除夜の鐘を打つ参拝客。フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
除夜の鐘 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A4%E5%A4%9C%E3%81%AE%E9%90%98
四諦 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6
漢字質問箱その26 -- 漢字家族・re晦
http://ww81.tiki.ne.jp/~nothing/kanji/q/q_026.html
そばの日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/687117a0b807c2a635149e6ed4af62d4



地下鉄記念日

2006-12-30 | 記念日
今日(12月30日)は「地下鉄記念日」
1927(昭和2)年の今日(12月30日)、上野~浅草に日本初の地下鉄(現在の東京地下鉄銀座線)が開通した。
銀座線は、東京都台東区の浅草駅から渋谷区の渋谷駅間を結ぶ、東京地下鉄(東京メトロ)が運営する鉄道路線。正式名称は3号線銀座線である。名前の由来は繁華街の銀座から。
東京地下鉄道株式会社(後、帝都高速度交通営団→東京地下鉄)は、1920(大正9)年8月、「地下鉄の父」と呼ばれた、早川徳次によって設立された。早川は、山梨県一宮町(笛吹市)出身。1914(大正3)年鉄道と港の調査研究のためロンドンを訪れる。そして、網の目のように発達する地下鉄網を目の当たりにし、これからの東京の発展には地下鉄が不可欠だと考え、欧米各地の地下鉄を調査研究し、2年後に帰国。自ら銀座の交差点に立ち、交通量の調査等を進め、東京地下鉄道株式会社を設立。1925(大正14)年に浅草~上野の地下鉄工事を始め、そして、1927(昭和2)年の今日、浅草駅から上野駅まで開業させた。
銀座線のうち、浅草~新橋間は「東京地下鉄道」によって建設・運営されたが、本来は新橋から浅草まで一挙に開通させることを目指していたものの、関東大震災後による不況のため資金調達が困難になってしまい、当時は日本一の繁華街で高収益が見込める浅草から上野までの建設を先行させたものであった。当時のポスターでは「東洋唯一の地下鉄道」というキャッチコピーが使われ、極東では初めての地下鉄路線であった。開業当初は物珍しさもあって、乗車時間わずか5分の区間に乗るため2時間待ちの行列ができたという。その後の経営も順調で7年後の1934年(昭和9年)に全通した。
一方、渋谷~新橋間は目黒蒲田電鉄系(現:東京急行電鉄)の「東京高速鉄道」により建設・運営された。1939(昭和14)年に渋谷~新橋間が全通。その後、1939(昭和14)年9月16日 東京高速鉄道との相互乗り入れ運転が開始された。
しかし、東京地下鉄道線への直通運転を目論んでいた東京高速鉄道の五島慶太(現:東京急行電鉄系列の総帥)と東京地下鉄道の設立者早川徳次との激しい攻防戦があったようである。結局この競争で事実上敗北となった早川は1940年地下鉄事業から身を引くことになり、失意のまま死去する。
その様子はここ(東京高速鉄道の経緯)を見ると良くわかる。
その後東京地下鉄道と東京高速鉄道は、未成に終わったペーパー会社の京浜地下鉄道とともに、戦時中の交通事業再編・統制を行うための陸上交通事業調整法に基づき、1941年(昭和16年)7月に帝都高速度交通営団(通称・営団地下鉄)へ統合された。、2004(平成16)年4月1日、帝都高速度交通営団から、政府と東京都が出資する特殊会社である現在の東京地下鉄株式会社となる。一般的には愛称の「東京メトロ」(東京メトロ○○線)で呼ばれている。日本の地下鉄のことについてはここ→日本の地下鉄を参照のこと)。
早川が目にした、ロンドンの地下を初めて走行した車両地下鉄の歴史は19世紀のイギリスから始まった。ロンドンの市街地の地下を通る、世界で初めての地下鉄であるロンドン地下鉄のパディントン駅とファリンドン駅の間の約6kmの区間を結ぶメトロポリタン鉄道(現在のサークル線の一部)が開通したのは1863年1月10日のこと。当時は鉄道の建設が盛んであったが、ロンドン市内は建物が密集しており、地上を通る鉄道路線を都心部に建設することは不可能であったため、地下に建設されたのだという。この地下鉄を計画したのは、ロンドンの法務官であるチャールズ・ピアソンだそうで、1834年に開通したテムーズトンネルをヒントにしたとされているようだ。(テムズ川横断トンネル参照)
この地下鉄の車両は、開業当初から1905年に電化されるまでは蒸気機関車を使用しており、硫黄の煙が発生したそうだ。そのため駅構内は密閉された地下空間ではなく、天井を設けない換気性を確保した吹き抜け構造となっていたほか、路線の一部も掘割であったという。
英語で地下鉄を意味する「メトロ」という単語の語源は最初の地下鉄路線である「メトロポリタン鉄道」に由来しており、イギリスに続きヨーロッパ各地の首都(=メトロポリタン)に相次いで建設されていったことに因んでいる。(ロンドン・メトロポリタン鉄道参照)
続いて開業したのは、1896年にブダペストだそうで、当初から電化されており、これは地下鉄としては世界で最初の電化路線であったという。さらに、1898年にはボストン、そして1900年にはパリにて開通。ベルリンでも1880年頃には地下鉄を通す計画が存在したものの、反対勢力によって計画が遅れ、開通は1902年であったそうだ。
しかし、世界で初めてイギリス・ロンドンで開通した地下鉄が、1863年当時、既にロンドンでは、馬車の往来が激しいため、交通渋滞の問題が発生していて、その解決策として考えられたというのが面白いね。日本では、全国的に路面電車が発達していたが、モータリーゼーションの発達とともに、車優先の社会とり、次々と、公共機関としての路面電車やバスが廃止され、その代替として、地下鉄が建設された。しかし、地下鉄の工費は莫大になるため、車両は古い路線では地上の鉄道と同様の大型の車両を用いているのが一般的であったが、2000年代以降ではミニ地下鉄が用いられることが増えた。これらを、ミニ地下鉄と呼んでいる。
日本の公営地下鉄は、地方自治体経営における交通部門の施策の一つとして、鉄道単体の収支以外に地下鉄建設による環境負荷軽減効果、地価上昇効果、税の増収効果、住民の便益向上効果などを、総合的に判断して経営されているようだが、現状では、地下鉄事業によって波及して発生している経済効果を把握していく適切かつ統一した会計基準がないばかりか、地下鉄事業本体の会計に至っても適切かつ統一した会計基準がない状況だそうであり、ミニ地下鉄といえ、莫大な工費のかかる地下鉄単独の採算などは、曖昧なようである。夕張市の財政破綻が今話題になっているが、他の地方都市の財政状況も、良くないところが多いと聞く。なんでも総合的に判断などと言っていると、地下鉄事業の意義を見誤ることにもなりかねない。モータリーゼーションの発達といっても、これからは、少子高齢化が進み、車の数は、激減してゆくだろう。年寄りには、負担となる地下深くの地下鉄よりも、高齢者に優しい路面の公共機関の復活も検討すべきでないかと考える。
かつて、地下鉄は地震に強いとされていたが、前の阪神・淡路大震災で神戸市営地下鉄、神戸高速鉄道で多大な被害を出した。又、近い日に東海大地震も予測されている。地下鉄は、雪や雹(ヒョウ)などには強いものの、このような地震や水害、火災、テロリズムなどには弱く、地下鉄の構造上、これらの被害にあった場合大惨事になる可能性が極めて高い。そのため安全に関する取り組みは、十分にしておかなければならないだろう。(※地下鉄の安全性参照)
蛇足:都市伝説の一種に東京地下秘密路線説が有るという。興味のある方は見ると良い。
東京地下秘密路線説↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E7%A7%98%E5%AF%86%E8%B7%AF%E7%B7%9A%E8%AA%AC
(画像は、ロンドンの地下を初めて走行した車両。フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
東京地下鉄銀座線- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/東京地下鉄銀座線
東京地下鉄(東京メトロ)
http://www.tokyometro.jp/index.html
地下博物館・東京地下鉄と創設者早川徳次
http://www.chikahaku.jp/contents/tenji/rekishi/rekishi_03.html
建設博物誌・世界のトンネル
http://www.kajima.co.jp/gallery/const_museum/tunnel/index.html
地下鉄博物館/地下鉄の歴史
http://www.chikahaku.jp/contents/tenji/rekishi/rekishi_00.html


農地調整法」が改正・公布された日(第一次農地改革)

2006-12-29 | 歴史
1945(昭和20)年の今日(12月29日)、「農地調整法」が改正・公布された(第一次農地改革)。
不在地主の小作地譲渡や在地地主の保有面積を平均5町歩に限定するなどの措置を規定。
戦後の憲法改正は、明治憲法の改正と言う形をとりながらGHQ(連合国軍最高司令官総司令部 )草案を基礎にしてなされた。その新憲法が施行された1947(昭和22)年には、経済の面でも重要な改革がすでに進行しつつあった。「戦争放棄」や「健康で文化的な最低限度の生活」を含む新憲法が出現したのは、これらの改革に法的な基礎を与えたものと言える。同時に、経済制度の改革は、それから5年10年と言う期間をかけて、日本の社会に浸透してゆき、新憲法が機能するにふさわしい社会をつくりだすことに役にたった。
当時日本を統治していたGHQの最大の目標は、世界の脅威となる日本の軍事力を解体することであり、軍国主義を廃した民主的な国家を作ることにあった。マッカーサーはこれを『上からの革命』と称したが、彼は後に、当初は日本を工業国から農業小国に転換し、米国の市場とするつもりだったと述べているといわれており、当時導入された経済改革を考える上でも、これらの、目標達成が、根底にあったことを頭に入れておくべきであろう。
導入された、経済改革の3本柱の、第1は財閥解体であり、第2が農地改革、第3が、労働改革であった。GHQはこの3つの改革を、日本の不公正な国際競争力除去に不可欠と考えたていたようである。つまり、封建的な経営形態の財閥を解体し、労働組合運動を助長し、農地改革により農村からの低賃金労働供給源を絶てば、日本の労働者の賃金上昇、商品価格上昇をもたらし、不当な競争力は除去されると考えたのである。財閥解体は、三井、三菱、住友、安田の4大財閥を始め、11社の企業分割、三菱鉱業、日本通運など7社が工場・株式の処分を強いられた。(過度経済集中排除法参照)。
又、自由競争の確保、消費者保護などを目的として、独占禁止法が制定され、公正取引委員会がその運用を管掌することとなった。しかし、占領が終わると昭和27年には金融機関を中心に旧財閥は復活再編され戦前にもまして、國際競争力を強化した。農地改革は、寄生地主(単に地主ともいう)が日本の軍国主義に加担したということから行われた。そして、地主が保有する農地は、政府が強制的に安値で買い上げ(事実上の没収)、小作人に売り渡されたのである。
つまり、在村地主の小作地保有制限を、農地調整法改正、自作農創設特別措置法によって実施され、北海道では4ヘクタール、その他は1ヘクタールとし、小作地の約80%にあたる2百万町歩が解放され、戦前46%であった小作地は約10%に激減した。自作農化した農民は農業協同組合を設立し、農家経営の近代化を推進して自民党に対する強力な圧力団体となった。又、労働改革では、戦時労働体制の解体に始まり、労働基準法労働組合法労働関係調整法の「労働三法」の成立によって労働組合運動の助長、団体交渉制度の確保を目指す改革であった。この組合助長策は、単位産業別の組合の組織化、生産管理闘争(※以下参考の生産管理闘争参照)の盛り上がりと相まって、労働者を昭和22年の「二・一ゼネスト」へと高揚させたが、マッカーサーの禁止命令によって、ストは回避された。
今日のテーマーは、農地改革にあるので、以下農地改革について、もう少し詳しく考えてみよう。
戦後の日本は、深刻な食糧不足やインフレーションなど、空前の経済危機の中、これらの3つの経済政策は占領軍の命令によって勧められたがいろいろ日本側の抵抗もあった中で、日本側が自ら手をつけた唯一の例外が農地改革であった。
それが、幣原内閣の農林大臣松村謙三によって作成された「農地改革要綱」であり、それを骨子として、1945(昭和20)年12月4日、第八九帝国議会に「農地調整法改正法案」として提出されたものであり、「第一次農地」正法案と呼ばれているものである。しかし、国会の審議過程で地主勢力の猛烈な抵抗を受け、1945年末の国会で承認された第1次農地改革は、地主に平均5町歩の農地保有を認める不徹底な内容であったため、マッカーサーは、本国から、農業専門家を呼び寄せ、不在地主の保有地は1町歩とするより厳しい改革案を作り、1946(昭和21)年10月の国会で成立させた。そして、翌3月に始まった第2次農地改革は、1950(昭和25)年7月の完了までに全国の小作地の80%を開放する成果を上げ、軍国主義の温床となった日本の農村の貧しさを解消する土台となったとされている。占領軍の民主主義改革は1947(昭和22)年の二・一スト中止命令で終りを告げるが短期間で軍国日本を全面的に改造した実績は、絶対的権力に加え、共産党までもがアメリカ軍を解放軍と歓迎するほど日本国民の支持を得たからだといわれている。
しかし、戦後の農地改革には、山林については改革の対象とならず、山林地主が残存した。又、 自作農を大幅に増加させて生産意欲を高め,それを通じて農民の生活水準と農業生産力の向上をめざしたが、農地改革によって大地主から強制的に土地を買い上げて小作人に分配した。これは、大地主に経済的に隷属する状況から小作人を解放し、民主主義を根付かせることに寄与した半面、零細経営の自作農を多数創出する結果となり、大規模農業事業を難しくさせ、戦後の高度経済成長のなかで、第2次・第3次産業と農業など第1次産業との格差が拡大し、農業の国際競争力は戦前よりもさらに弱まったことなどが問題として残った。しかし、言い換えれば、農業改革の狙いが、日本を、工業国から農業小国に転換し、米国の市場とするつもりだったマッカーサーにとっては、当初からの狙い通りになったといっていいかも知れない。これらを見ていると、マッカーサーは単なる軍人の枠を超えた非凡な人物であったともいえる。
この問題を解消しようと、1961(昭和36)年に農業基本法が制定され、経営規模が大きく生産性の高い自立農家の育成がはかられたのであるが、必ずしも成功はしていない。
戦後、軍国主義から解放された日本人は、戦争で負けた国の米国が、日本人のために、平和憲法を導入し民主的な国にしてくれた親切な国と感謝しているのであるが、戦争で、散々相手国を困らせた敗戦国日本のためにそんなに親切心だけで、やってくれたのではないことぐらいは、知っておくほうが良いだろう。
(画像は、農地改革記念碑。碑の前に立つのは、和田博雄元の農相。昭和23年4月17日。アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
連合国軍最高司令官総司令部 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E5%90%88%E5%9B%BD%E8%BB%8D%E6%9C%80%E9%AB%98%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E5%AE%98%E7%B7%8F%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E9%83%A8
農地改革 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E5%90%88%E5%9B%BD%E8%BB%8D%E6%9C%80%E9%AB%98%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E5%AE%98%E7%B7%8F%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E9%83%A8
農地改革の真相-忘れられた戦後経済復興の最大の功労者、和田博雄 ...
http://www.rieti.go.jp/jp/columns/a01_0138.html
食料・農業・農村基本法
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H11/H11HO106.html
食料・農業・農村基本法のあらまし(農林水産省)
http://www.maff.go.jp/soshiki/kambou/kikaku/NewBLaw/panf.html
中野文庫 - 自作農創設特別措置法
http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/hs21-43.htm
日本農業の問題点と今後の展望: PDF/Adobe Acrobat - HTMLバージョン
http://72.14.235.104/search?q=cache:ysWbAa4yjj0J:www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~shin/bs/bsr97/tn1.pdf+%E8%BE%B2%E5%9C%B0%E6%94%B9%E9%9D%A9%E3%80%80%E5%95%8F%E9%A1%8C%E7%82%B9&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=7
農地制度見直し 問題点は何か 上
http://www.nca.or.jp/shinbun/20020809/rensai020621.html
■農協の誕生から現在まで、大まかな流れを四項目で集約し、検証。
http://www.local.co.jp/news-drift/ja-1.html
農地調整法等の一部を改正する法律案要綱
http://ndl.go.jp/horei_jp/kakugi/txt/txt00928.htm
農業基本法 (昭和36年[1961年] 法律第127号)
http://roppou.aichi-u.ac.jp/joubun/s36-127.htm
農業基本法 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E6%A5%AD%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E6%B3%95
財閥解体 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A1%E9%96%A5%E8%A7%A3%E4%BD%93
連合国軍最高司令官総司令部 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E5%90%88%E5%9B%BD%E8%BB%8D%E6%9C%80%E9%AB%98%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E5%AE%98%E7%B7%8F%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E9%83%A8
労働法 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%B4%E5%83%8D%E6%B3%95
生産管理闘争
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/d/pcs.htm
二・一ゼネスト - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%B8%80%E3%82%BC%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88
マッカーサーによる「上からの革命」
http://www2u.biglobe.ne.jp/~hakuzou/MacArthur.htm

『菊と刀』が日本で翻訳・出版された日

2006-12-28 | 歴史
1948(昭和23)年の今日(12月28日)、アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトの日本研究書『菊と刀』が長谷川松次によって日本で翻訳・出版された。
ルース・ベネディクトは、アメリカの女性文化人類学者である。
ベネディクトが、第二次世界大戦末期の1944(昭和19)年)に、アメリカ戦時情報局の委託で行われた日本文化の研究の成果をまとめた日本文化論が『菊と刀』である。日米戦争終結を目前にして、アメリカは、欧米人と全く異なった考え方を持つ日本人の行動パターンを予測することが、戦後の占領政策策定のために必要としたのであろう。
ベネディクトはまだ、現地調査が不可能な状況のもと、日本に一度も調査に来ることなく、在米日系人(敵国民として収容所に抑留された日系人)との面接、日本映画や文学の分析などを通じて日本社会の体質に鋭く迫り、「菊(美)」を愛でる一方で「刀(武)」を好む矛盾に満ちたその性質を、内面的な規範ではなく、外面的な強制力(他者からの評価)によって、行動を律する「恥の文化」として抽出。つまり、ベネディクトは、日本人の行動規範は、恥にあるとし、日本の「恥の文化」と自分達欧米人の「罪の文化」とを対比させ、罪を基調とする文化では、「道徳の絶対的標準を説き、良心の啓発を頼みとする社会」であり、人は「内面的な罪の自覚にもとづいて善行を行う」、また「自分の非行をだれ一人知る者がいなくても罪の意識に悩む」。これに対し、恥を基調とする文化は、「他人の批評、『世間』の評価に気を配る社会」であり、人は「外面的強制力にもとづいて善行を行う」、また「恥を感じるためには、実際にその場に他人が居合わせることが必要である」。罪の文化においては、恥は「道徳の基礎となる資格がない」と考えるが、恥の文化においては、恥は「すべての徳の基本」と考える・・・、「罪の重大さよりも恥の重大さに重きを置く」文化に分類し、分析を行っている。彼女研究の成果は、『菊と刀(副題:日本の文化の型)』と題されて、終戦後の1946(昭和21)年に刊行された。
戦後、アメリカが日本の占領政策を無事に成し遂げえたのには、ベネディクトの研究成果とその進言が大いに参考になったであろうと言われている。彼女はアメリカ軍がマリアナ諸島を占領した頃から戦時情報局で日本問題を担当し、皇居を爆撃してはいけないとか、天皇を辱めると困難な問題が生じるなどと、数々の重要な進言をしたといわれている。彼女の『菊と刀』は日本文化の価値体系の独自性を強調しているが、最近ではそれを懐疑する傾向も見られるようだ。すなわち日本文化が西洋文化とは対極の位置に置かれてているような書き方に対して、批判の目が向けられているのである。
しかし、この本が書かれたのは、今から、約50年以上も前のことであるが、私には、よく日本人像を掴んでいると思っており、外国人の目から見た「日本人論」がどんなものであったかは知っておいてよいだろう。
例えば、第二次世界大戦の末期、もう日本の敗戦が濃厚と言うより明白な1944(昭和19)年、最後の決戦での日本の大本営は太平洋戦争誌上初めて「玉砕」を発表した。戦争史上、人間の本能である「生への欲求」を断ち切る行為の背景には、それを受け入れうる何らかの精神的風土があったのだろう。
この玉砕を前にして、現地の指揮官達は、次のように述べている。
玉砕を前にして、「他に策無きにあらざるも、武人の最後を汚さんことを 虞(おそ)る」(アッツ島の山崎保代部隊長の訣別電)
「今や止まるも死進むも死・・・・勇躍全力を尽くして従容(しゅうよう)として悠久の大儀に生きるを悦びとすべし」(サイパン島の南雲忠一中部太平洋方面司令長官の守備兵への訓示」)
「最後の決戦に当り既に散華せる麾下数万の英霊と共に皇室の弥栄(いやさか)と皇国の必勝とを衷心より祈念しつつ全員或は護国の鬼と化して敵の我か本土来寇を破摧(はさい)し、或は神風となりて天翔(か)けり必勝戦に馳せ参するの所存なり」「矢弾尽き天地染めて散るとても 魂(たま)還(かえ)り魂還り皇国護らん」(沖縄の牛島満第三十二軍司令官訣別電)
これらに見られるのは、「尽忠殉国、万死報告」の天皇=国家中心主義、精神主義、武士道、集団主義などである。特に最後の点に関して言えば、アメリカ人の人類学者ルース・ベネディクトも『菊と刀』の中で、玉砕を「集団的自殺」と規定している。少なくとも以上の要素を精神的背景としてあげる事ができる。まさに、玉砕とは日本軍人にとって、「玉のように美しく砕けること。名誉や忠義を重んじて、いさぎよく死ぬこと」(広辞苑)であったのである。傷病者にまで自決を強制できる異常性の一つの理由もそこにあったといえる。
そして、この玉砕がサイパン戦や沖縄戦に見られるように、軍人にのみ見られた現象ではなく、一般国民をも含む「集団的自殺」をも招いているのである。(週刊朝日百科「日本の歴史」)。
ベネディクトのいう罪の文化の典型は、言うまでもなくキリスト教であり、キリスト教が日本文化より道徳的に優れているという文化的偏見が、彼女の見方の根底にあることは、否定できないだろう。
しかし、日本人が、戦後復興を遂げた経済成長期に、海外旅行ブームがあったが、そんな時、東南アジアでは生活に困窮した女性たちが春を売っているのを良い事に、旅行会社などがそれらの女性を目的にしたツアーを組み、団体で旅行に行くといった恥ずかしいことがブームになったことがある。そのようなツアーに参加しているのは、日本国内では、大真面目に仕事している男たちである。昔から、日本人には、「旅の恥は掻き捨て」といった風潮があった。自分の顔見知りが住んでいるところでは、極真面目そうな顔をして普通に行動をしているが、そんな地元を離れた知らない土地では、平気で、恥ずかしいことをする者が大勢いる。これは、多分今でも同じことであろうと言うよりも、むしろ非常に多くなっているだろう思う。恥ずかしい話であるが、ベネディクトが言っているように、日本には、確かに、「他人の批評、『世間』の評価に気を配る社会」であり、人は「外面的強制力にもとづいて善行を行う」、また「恥を感じるためには、実際にその場に他人が居合わせることが必要である」といった面が見られるのは悲しい事だ。
そして、戦後、道徳観念を喪失してしまった現代においては、政治家も官僚も県・市会議員のほか民間会社のトップなどでも人の見ていないところでは、贈収賄や談合が罷り通っており、これらを行っている人たちには、なんら罪の意識もなくなってしまったのが現状ではないだろうか。
先日、政府税制調査会の本間正明会長が、週刊誌に「家族ではない女性と官舎に同居している」と指摘された事から、辞任に追い込まれていたが、本人自身が公務員宿舎を含む国有財産の売却推進の報告まで出しておきながら、人から暴露されなかったら平気で、そんなところへ妻以外の女性を住まわせているなど言語同断であるが、もう、この人たちには、ベネディクトのいうところの「罪の文化」どころか、日本人として大切にしていた「恥の文化」すらをも持ち合わせていないようだ。
最近のテレビなどでは、よく、このような官僚や会社役員などが大然揃って、記者会見の席などで、禿げた頭を下げて許し請う姿を目にするが、本人達は、「恥」を偲んで頭を下げたのだから、「罪」が許されるなどと考えているのかも知らないが、頭を下げて許しを請えば罪が許されるものではないことを知っておくべきであろう。
日本人の本質を、日本人以外の外国人からずばりと指摘されていることに対して、外国人の「罪の文化」にもこんな面があるなどといった反論をするのもよいが、日本人が外国人から指摘されるまで気の付かなかった「恥の文化」について、今一度、考え直すために、この機会に「日本人論」を読み直してみるのも良いと思うがどうだろう。
(画像はThe Chrysanthemum and the Sword「菊と刀」ルース・ベネディクト著。週刊朝日百科「日本の歴史」より)
参考:
ルース・ベネディクト-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%8D%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%88
日本人論 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E8%AB%96
「菊と刀」と日本人
http://www.geocities.jp/sugiiteruo/index.htm
『菊と刀』を読みましたか?
http://www.sutv.zaq.ne.jp/ckapj600/kikutokatana2/top21.htm
北の狼投稿集:日本人の規範 編
http://www.interq.or.jp/sheep/clarex/kihan/
菊と刀・ルース・ベネデイクト(社会思想社   長谷川 松治 訳)
http://www.bekkoame.ne.jp/~agatha/MKIKUTOK.html
『菊と刀』の勉強(01)
http://www.sutv.zaq.ne.jp/ckapj600/benkyo/BEN01.htm

「国鉄再建法」が公布・施行された日

2006-12-27 | 歴史
1980(昭和55)年の今日(12月27日)は、「国鉄再建法」が公布・施行された日。
日本国有鉄道経営再建促進特別措置法」(略称:国鉄再建法)は、1980(昭和55)年に制定された日本国有鉄道の経営改善を促進するため執るべき特別措置を定めた法律であり、この法の制定により、1985(昭和60)年度までに、日本国有鉄道の経営基盤を確立することとし、「経営改善計画」の策定とその実施状況の報告を運輸大臣に対して行なうこととされた。
そして、1986(昭和61)年11月28日,第107回国会において,政府から提出されていたいわゆる国鉄改革関連8法(日本国有鉄道改革法,旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律,新幹線鉄道保有機構法,日本国有鉄道清算事業団法,日本国有鉄道退職希望職員及び日本国有鉄道清算事業団職員の再就職の促進に関する特別措置法,鉄道事業法,日本国有鉄道改革法等施行法並びに地方税法及び国有資産等所在市町村交付金及び納付金に関する法律の一部を改正する法律)が成立した。
これらの法律は,1985(昭和60)年7月に、国鉄再建監理委員会から内閣総理大臣に提出された「国鉄改革に関する意見」に基づき、国鉄の分割・民営化を基本とした内容となっており、その成立により国鉄改革の法体系が確立した。このことによって、1986(昭和61)年12月4日「国鉄再建法」は廃止された。
太平洋戦争後、最悪の事態を迎えていた日本国有鉄道(略称は国鉄)も1947(昭和22)年6月頃には次第に復旧し始めていたが、この頃、国有鉄道の財政は戦後のインフレーションに加え、復員兵・海外引揚者の雇用をさせられた関係などで極度に悪化しており、1948(昭和23)年7月22日にはGHQダグラス・マッカーサーから国の専売事業や国鉄などの政府事業を一般の国家公務員から除外し、事業運営を行うための公共企業体の設置を求める書簡が出され、それを受け、同年11月30日には「日本国有鉄道法」が国会を通過し、1949年(昭和24年)6月1日には公共企業体としての「日本国有鉄道」として新たな出発をしていた。
国鉄は発足後、1960年代までは国内の旅客・貨物輸送の主力を担ってきたが、国鉄が初めて赤字に転落したのは1964年(昭和39)年であるというが、それ以降は一度も黒字を計上することはなかった。
その国鉄が、国鉄改革関連8法に基づき、1987年4月1日、6つの地域別の旅客鉄道会社(JR東日本JR東海・JR西日本JR北海道JR四国JR九州)と1つの貨物鉄道会社(JR貨物)などに分割し民営化された。そして、経営の改善をはかるため、1987(昭和62)年4月1日に鉄道事業を株式会社(JRグループ)に引き継がせ(国鉄分割民営化)をした。
この国鉄分割民営化は、当時の中曽根康弘内閣が実施した政治改革であり、電電公社日本専売公社、のちの日本道路公団日本郵政公社民営化など、自由民主党による一連の民営化政策の目玉であった。なお、分割・民営化に現場で辣腕を振るったのは、当時の運輸大臣三塚博だった。
経営が破綻に瀕した国鉄という全国一元的な経営形態を解体・再編し、経営の効率化や長期債務の処理、労使関係の正常化、鉄道事業の再生を図る「世紀の大手術」であったが、この改革をめぐる評価はさまざまである。(分割民営化の目的経過結果参照)
国鉄の経営が破綻したのは、1970年代以降、政治家による地元の過疎地域への新線建設を強いられたことや自動車や航空機による輸送の増加、国内の鉱業の衰退などが響いて不採算路線が増加したことに加え、労使関係の悪化によるストライキなど労働争議の頻発化、そして1973年(昭和48年)のオイルショックやその後の不況が追い討ちをかけ、莫大な累積赤字を抱えたことが、国鉄の経営破綻の重大な要因であった。
国鉄の債務処理は日本国有鉄道清算事業団に移行したが、同事業団は、旧国鉄の土地や保有するJRの株式を売って借金返済にあてたが、返済の穴埋めのための借金を重ねた結果、債務は逆に1987年度当初よりも膨らみ、祚の返済のための財源の大半は公的資金、つまり、国民の負担となったのである。、又、輸送需要の少なさなど構造的に経営基盤が弱体なまま出発した、北海道、四国、九州やJR貨物など苦しい経営が続いており、国鉄の赤字ローカル線を地元自治体などによる第3セクターが引き継いだ転換鉄道も殆どが経営悪化に悩んでいるようである。そして、JR各社は、収益・効率を優先する余り、安全面の不安が指摘されていたが、特に、私営鉄道の発達している関西で、それらと主要路線で競合しているJR西日本などでは、私鉄とのスピード競争を余儀なくされそれらが、2005(平成17)年4月の尼崎駅~塚口駅(福知山線 )間での列車脱線事故につながったともいえるだろう。この事故では死亡者107名負傷者549名もが発生している。
今進められている、郵政民営化でも同じであろうが、親方日の丸的な仕事のやり方は困るが、単に、民営化しただけで、民営化した会社に経営能力がなく、銀行のように、もともと、民営であるはずの会社なのに、赤字になっても潰す事ができないなどといって、公的資金というわれわれの税金を赤字会社を救うために投入するのでは、何の民営化か分からない。民営化するなら、そのあと、民営化された会社が確りとやってゆけるような形で進めてもらいたいものである。
(画像は、私のコレクションより国鉄民営化前・昭和61年7月の国鉄のチラシ。「おらはとこの鉄道はどうなるかな」とある。民営化への不安を解消させるためのチラシ。裏面にいろいろ説明あり。)
参考:
日本国有鉄道経営再建促進特別措置法-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%9C%89%E9%89%84%E9%81%93%E7%B5%8C%E5%96%B6%E5%86%8D%E5%BB%BA%E4%BF%83%E9%80%B2%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%8E%AA%E7%BD%AE%E6%B3%95
運輸白書
http://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/index_.htm
国鉄再建法施行令[1980政25-1982政286]
http://9.pro.tok2.com/~yjinno/saikenrei.htm
国鉄改革について
http://www.mlit.go.jp/tetudo/kaikaku/01.htm
国鉄の分割民営化について
http://noz.hp.infoseek.co.jp/column/Kokutetsu2JR.html
西日本旅客鉄道福知山線における列車脱線事故について
http://www.mlit.go.jp/fukuchiyama/index.html
国鉄時代のチラシ
http://m-yousan.hp.infoseek.co.jp/room4-3.html