今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

有無(ありなし)の日

2015-05-25 | 記念日
陰暦5月25日を、「有無(ありなし)の日」というそうだ。
「有り無し」とは、
1)[名]あることとないこと。あるかないか。有無(うむ)。
2)[形動]①あるかないかわからないほどに、かすかなさま。②いるかいないかわからないほどに、軽視するさま。・・をいう。
この日は村上天皇の967年(康保4年)の忌日であるが、「村上天皇は、急な事件のほかは政治を行わなかったことから」・・・だと大辞林 第三版には書かれている。(ここ参照)

村上天皇は、平安時代中期の第62代天皇(在位:天慶9年4月28日[946年5月31日] - 康保4年5月25日[967年7月5日])であり、は成明(なりあきら)。
延長4年6月2日(926年7月14日)、醍醐天皇の第14皇子として生まれる。保明親王(醍醐天皇の第二皇子)、朱雀天皇(醍醐天皇の第11皇子)、の同母弟であり、母は太政大臣藤原基経の娘中宮穏子である。
保明親王は伯父の左大臣藤原時平(藤原基経の長男)の後ろ盾により、わずか2歳で立太子し、東宮となるが、延喜9年(909年)、親王の即位を見ることなく時平が没する(この時親王6歳)。その後、親王は即位することなく、父・醍醐天皇に先立ち薨御(享年21)。
保明親王薨去後、その第一王子・慶頼王(時平の外孫)が皇太子に立てられるが、2年後僅か5歳で薨御し、代わりに保明親王の同母弟、寛明親王(後の朱雀天皇)が皇太子となった。
保明親王・慶頼王ともに藤原時平と繋がりが深かったことから、両者の相次ぐ薨去は時平が追い落とした菅原道真祟りによるものとの風評が立った。これを受けて醍醐天皇は道真を右大臣に戻し正二位を追贈するを発し、道真追放の詔を破棄する。・・・が、なおも、台風・洪水・疫病と災厄は収まらず、延長8年(930年)6月には内裏清涼殿に落雷が発生し(→清涼殿落雷事件)、公卿を含む複数の死者が出た。醍醐天皇はこれを見て病に臥し、3ヵ月後寛明親王に譲位、7日後崩御した。
成明(後の村上天皇)の兄である朱雀帝は、醍醐天皇の崩御を受け8歳で即位したが、政治は、伯父忠平(基経の四男)が摂関として取り仕切っていた。
朱雀帝治世中の承平5年(935年)2月には、平将門が関東で反乱を起こし、次いで翌年には瀬戸内海で藤原純友が乱を起こした(承平天慶の乱)。懐柔策を試みたがうまくいかず、天慶3年(940年)、藤原忠文征東大将軍に任命して将門征伐軍を送り、藤原秀郷の手により将門は討たれた。翌年には橘遠保により藤原純友が討たれ、乱はようやく収束している。
又、朱雀帝の治世中にはこのほかにも富士山の噴火(※1参照)や地震・洪水などの災害・変異が多く、その心労からか、また、皇子女に恵まれなかったこともあってか、天慶9年(946年)早々と3歳年下の弟成明(村上天皇)に譲位し、仁和寺に入ってしまった。そのため、成明(村上天皇)が、21才で践祚した。
年齢からいっても、摂政や関白を置く必要がなかったが、村上天皇の時代になっても、先代に続いて、天皇の外舅藤原忠平関白を務めたが、忠平は穏和な性格で、よく村上天皇を補佐し良き治世を行ったとされており、3年後の天暦3年(949年)に忠平が死去すると、それ以後は摂関(摂政と関白)を置かず、天皇自ら政治を行い、文治面では、天暦5年(951年)には、梨壺(庭に梨の木が植えられていたところから。平安御所七殿五舎の一つである昭陽舎の異称)に撰和歌所を設け、『後撰集』(『後撰和歌集』)の編纂を下命したり、天徳4年(960年)3月に内裏歌合を催行し、歌人としても歌壇の庇護者としても後世に評価されている(村上天皇の歌は※2:「やまとうた」千人万首のここ参照、)。
また『清涼記』の著者と伝えられ、琴や琵琶などの楽器にも精通し、平安文化を開花させた天皇といえることから、父である醍醐天皇と同じく天皇親政が行われたとされている。この両治世は「天皇政治の理想」と言われ、その時の年号を取って「延喜・天暦の治」とも呼ばれている。
半世紀後に作成された『枕草子』も、村上朝に、理想的な親政国家の姿をみていることが窺がえる.。
『枕草子』は、梨壺の五人の一にして著名歌人であった清原元輔(908年 - 990年)の娘で、中宮定子に仕えていた女房清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学である。(『枕草子』原文全文は※3を参照、また、以下に書く各段の解説文は※4のここを参照されるとよい)。
『枕草子』180段「村上の前帝の御時に」に描かれた兵衛(兵衛府四等官以外の武官)の蔵人・181段に描かれる御形の宣旨のエピソードは村上朝に仕えた才気ある女房の話を打開的に記したもので女房にとっての理想像として登場する。
作者が実際に見たわけではない、このようなエピソードが枕草子に描かれる背景には、一条朝において、聖帝の御代として理想化された村上朝の位置がある。さらにそれは、宮廷サロン・後宮においては、模範とすべき「昔」として語り伝えられる時代でもあったようである。
107段「雨のうちはへ降るころ」に同じく村上朝の話として語られる犬抱き(皇后安子の下仕女)と藤原時柄(蔵人)のエピソードもそのような形で伝えられていたものだろう。「清涼殿の丑寅のすみ」の段(20段)に描かれる定子サロンはいわば宮廷説話として語り伝えられているエピソードを再現しようとする姿勢を示しているが、このことは理想的なあり方として賛美される過去を自己のサロンの中に取り込んでゆこうとする点で単に「昔」を語る以上に積極的な方向性を持っていると言えるだろう。
この段で定子が女房たちに古歌を一種づつ書かせたのが、円融朝において天皇から殿上人に与えられた課題の再現であったように、女房達に『古今集』(『古今和歌集』)のテストを行うのは村上帝と宣燿殿女御のエピソードを再現することでもあったようである。この段の末尾は、「昔はえせものも皆をかしうこそありけれ。このごろかやうなる事やは聞ゆる」など、御前に侍ふ人々、うへの女房のこなたゆるされたるなど參りて、口々いひ出でなどしたる程は、誠に思ふ事なくこそ覺ゆれ。という形で結ばれていて、ここでも過去と現在とが対比的にとらえられている。そして定子サロンの現在は、村上朝後宮の栄光と重ね合わせることによって、二重に「めでたき」ものとして位置づけられるのである。
ここで、作者の視点を考えるとき注目されるのは理想とするサロンのあり方が天皇主導型であるということである。
180段の場合も、村上先帝の御時に雪のいと高う降りたりけるを、楊器(様器。規定どおりに作られた儀式用の食器)にもらせ給ひて、梅の花をさして、月いと明きに、「これに歌よめ、いかがいふべき」と兵衞の藏人に賜びたりければ、雪月花の時と奏したりけるこそ、いみじうめでさせ給ひけれ。「歌などよまんには世の常なり、かく折にあひたる事なん、言ひ難き」とこそ仰せられけれ。・・・とある。
白氏文集をふまえた兵衛の蔵人(女蔵人)の秀句は、村上天皇によって演出され意図的に引き出されたものとして描かれており、宮廷サロンの華やかさ「めでたさ」も天皇の権威と指導力の下に実現されるという作者の視点を読み取ることができるという。
このような点から、村上朝を考える時、思いおこされるのは、清少納言の父・清原元輔のことである。元輔は、歌人としての名声とは対照的に、官吏としては不遇に終わった人であったが、彼の生涯の中で最も輝かしい時代をあげるならば、やはり、選和歌所の寄人に選任され、「梨壺の五人」の一人として、歌人的名声を高めた時期だろう。それが正に村上朝においてなのであった。
元輔の晩年の子として生まれ、「叙目に司(官)得ぬ人の家」(22段・すさまじきもの)に描かれるようなみじめな現実を見ていたであろう作者にとって、その時期は、父親にとっての最も華やかなりし時代として、思い描かれたことであろう。梨壺(昭陽舎)における元輔は天皇周辺の世界に身を置く者として六位蔵人とも響きあう存在であり、又、女房として中宮に仕える作者(清少納言)自身の存在とも対をなしている。作者にとって、村上朝とは、父・元輔の記憶と深く関わる過去であり、特殊な位相を持つ時代だったようだ(※5参照)。


村上天皇を支えたのは、関白太政大臣藤原忠平、左大臣に実頼(忠平の長男)、右大臣に師輔(忠平の次男)、権中納言に源高明(醍醐天皇の第10皇子。藤原師輔、その娘の中宮安子の後援を得て朝廷で重んじられていた)、参議に藤原師尹(忠平の五男)、小野好古などがいた。
これらを見ていてもわかるように、当時は摂関家が政治の上層を独占する摂関政治が展開し、中流・下流貴族は特定の官職を世襲してそれ以上の昇進が望めない、といった家職の固定化が進んでいた。そうした中で、中流貴族も上層へある程度昇進していた延喜・天暦期を理想の治世とする考えが中下流貴族の間に広まっていたようである。
しかしながら、天暦3年(949)に忠平が没した後も、天皇が摂関を置かず親政を行ったとされるが、それはおそらく形式上に過ぎず、政治の実権は実際には右大臣藤原師輔が握っていたのではないかという説もある。
実際、延喜・天暦期は律令国家体制から王朝国家体制へ移行する過渡期に当たっており、様々な改革が展開した時期であり、それらの改革は天皇親政というよりも、徐々に形成しつつあった摂関政治によって支えられていた。しかし、後世の人々によって、延喜・天暦期の聖代視は意識的に喧伝されていき、平安後期には理想の政治像として定着したようだ。従って、村上天皇の実態は、おそらくは、「有り無し」でも、②の「いるかいないかわからないほどに、軽視するさま。」・・・に相当する存在だったということだろう。
藤原師輔は、娘安子の産んだ第2子憲平親王を生後間もなく皇太子とし、康保4年(967年)5月25日、村上天皇は在位のまま42歳で崩御すると憲平親王が即位して冷泉天皇となるが、この帝は病弱で神経の病を得、やがて藤原兼通兼家の台頭を許して、政治の実権は藤原北家に移ることとなる。

ところで、我が地元である兵庫県神戸市須磨区に「村上帝社」という名の神社がある。JR須磨駅から国道2号線を渡って東に歩いていくと、道沿いに小さな赤鳥居が建っており、その奥に広がるこじんまりとした境内にある小さな社殿がそうだ(※6:「須磨観光協会」のここ参照)。

上掲の画像は、村上帝社。
祀られているのは、村上天皇であり、謡曲「絃上」ゆかりの地である。そのため村上帝社と呼ばれている。村上帝は、琵琶に造詣が深い人物であったといわれるが、ここの本当の主役は、村上天皇ではなく当時の執政である左大臣・藤原頼長の長男で、当代随一と呼ばれた琵琶の名手・藤原師長である。
雅楽の歴史においては、源博雅(醍醐天皇の孫)と並ぶ平安時代を代表する音楽家として名を残している。特にや琵琶の名手として知られ、更に神楽声明朗詠今様催馬楽など当時の音楽のあらゆる分野に精通していたと言われている。琵琶の流派を一つにまとめ、次世代に秘曲を伝授していく基礎を確立した。
この神社の創建については案内板には以下のように記されている。
琵琶の名手太政大臣・藤原師長は唐(中国)に渡りなおも奥義を極めたいと願い、都を出立して須磨の汐汲み(塩をつくるために海水を汲むこと。また,その人)の老夫婦の塩屋に宿る。夫婦の奏でる秘曲「越天楽」の「感涙もこぼれ嬰児も躍るばかり」の神技に感じ入った師長は渡唐を思い留まった。この老夫婦は、名器「絃上」の所持者村上天皇の梨壷の女御が渡唐を止めさせる為に師長の前に現れた精霊であった。やがて村上天皇が本体を現し、竜神を呼んで今ひとつの名器獅子丸の琵琶を持参せしめて師長に授け、喜びの舞をなし給うという国威宣揚を意図して描かれた曲である。村上帝社は摂関政治を抑え、文化の向上や倹約を旨とされて「天略の治」として名高い社である。師長の名器獅子丸を埋めた琵琶塚は、もと境内にあったが、今は線路で二分されている。(謡曲史跡保存会)

上掲画像村上帝社案内板。
つまり、ここは、謡曲『絃上』ゆかりの地であり、この伝承を題材として能の「絃上」(玄象)が作られたことに基づき、土地の人が村上天皇を祀ったのが当社であると伝えられるが、創建時期は不明である。
神社後方には山陽電車が走っており,線路の向こうに琵琶塚がある。そして、.近くには須磨の関があったとされる場所に史跡関守稲荷神社※6参照)と紫式部の作とされる『源氏物語』の主人公・光源氏がわび住まいしたところと伝えられている現光寺(「源氏寺とも呼ばれる」がある(※6 参照)。
現光寺の源氏寺碑の裏側には、『源氏物語』第12帖「須磨」の一部分が記されている。

おはすべき所は行平中納言の藻潮(もしほ)たれつつわびける家居(いえい)近きわたりなりけり 海面(うみづら)はやや入りてあはれにすごげなる山なかなり(※7:源氏物語の世界 再編集版の第十二帖第二章 第一段 須磨の住居2.1.1参照)。

歌の行平中納言とは、桓武天皇の第1皇子平城天皇の第一皇子阿保親王の次男(または三男)在原 行平のことである。やんごとなき皇統の血筋であったが、薬子の変によって平城天皇が剃髪出家し、阿保親王も太宰権帥に左遷されたため、親王の子息は、弟・業平らとともに在原朝臣姓を賜与され臣籍降下された。
小倉百人一首の歌「立ち別れ いなばの山の みねにおふる まつとし聞かば 今帰り来む」(第16番)で知られるが、『古今集』(『古今和歌集』)によれば、理由は明らかでないが文徳天皇のとき須磨に蟄居を余儀なくされたといい、須磨滞在時に寂しさを紛らわすために浜辺に流れ着いた木片から一弦琴「須磨琴」を製作したと伝えられている。なお、謡曲の『松風』は百人一首の行平の和歌や、須磨漂流などを題材としている。山陽電鉄須磨駅より1つ東の駅「須磨寺駅」から北へ歩いてすぐにある上野山福祥寺、通称須磨寺において須磨琴保存会が1965年に発足している。
「月々に月みる月は多 けれど、月みる月はこの月の月」
月は毎月見れるけれども、やっぱり中秋の名月が最高!ということだろうが、この歌の作者は、不明である。しかし、神戸では、私が子どもの頃から、在原行平の歌ではないかなどとと言われている。そして、須磨離宮公園の東の一角に「月見台」がある。千年以上も昔から、月を愛でる場所として親しまれてきた。平安の貴族であり歌人の在原行平がこの地で月見をし、後に「月見山」となる(山陽電鉄月見山駅より徒歩10分。須磨寺駅よりも同程度)。京の都を想い、遠く須磨までやってきた心を慰めたことだろう。
以前にこのブログ「『笈の小文』の旅に出た松尾芭蕉が、大坂から舟で神戸に着いた」(ここ)でも書いたのだが、『源氏物語』のおこりなどについてのいくつかの古注のなかでは、最高の水準にあるとされている四辻善成の『河海抄』には、村上天皇の第10皇女選子内親王から新しい物語を所望され石山寺(滋賀県大津市)にこもって構想を練っていた紫式部は、8月15日夜、琵琶湖の湖面に映った月を見て『源氏物語』の構想を思いつき、須磨の巻の「こよいは十五夜なりと思し出で」と書き綴ったのがきっかけだとしているそうだ(※7:「源氏物語の世界 再編集版」の第十二帖 須磨・第三章 光る源氏の物語 須磨の秋の物語の3.2.1また、※8参照)。・・・ただ否定説もあるようだが・・。
朧月夜との仲が発覚し、追いつめられた光源氏は後見する東宮(後の朱雀帝)に累が及ばないよう、自ら須磨へ退去した。 そして、須磨で行平が侘び住まいした付近に住み、都の人々と便りを交わしたり絵を描いたりしつつ、憂愁の日々を送る源氏を癒してくれたのが、須磨の月であった。『源氏物語』「須磨」は、行平が須磨に流されたあとの松風・村雨との恋物語なども当然、題材としたと思われる。

上掲の画像は、中納言行平朝臣、須磨の浦に左遷され村雨・松風二(ふたり)の蜑(あま)に逢ひ、戯れるの図」。月岡芳年画。
この在原行平の弟業平の歌も『古今和歌集』(卷第九 羈旅歌)の中に掲載されている。
『古今和歌集』は、醍醐天皇の勅命により『万葉集』に撰ばれなかった古い時代の歌から紀貫之等が選者となり編纂されたものがであるが、業平は、『日本三代実録』の卒伝(元慶4年5月28日条)に「体貌閑麗、放縦不拘」と記され、昔から美男の代名詞のようにいわれており、この後に「略無才学 善作倭歌」と続くそうだ。基礎的学力が乏しいが、和歌はすばらしい、という意味だろうと解されている。そして、『古今和歌集』の仮名序においては、平安時代初期の和歌の名手「六歌仙」の一人にあげられている。
『古今集』卷第九巻目の羇旅歌(きりょか)は、旅に関する思いを詠んだ歌だが・・・。遣唐使として派遣されながら帰国が叶わなかった安倍仲麻呂の歌、遣唐使副大使として選ばれながら事情により出立しなかった小野篁の歌、今では怨霊として恐れられている菅原道真が、行幸にて詠んだ歌などと共に、罪を受け、東国(あづまのくに)への旅の途中で詠んだ業平の歌二首が掲載されている。以下がそれである(※9参照)。

(9-410)唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ 

(9-411)名にし負はばいざ言(こと)問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと

この二首には詞書があるがそれをここでは省略しているが
9-410は、「東国へと友人数人を伴って行った時、途中、三河国の八橋(愛知県知立市)というところで、その川のほとりにカキツバタが美しく咲いているのを見て、木陰で馬を降りて、カキツバタいう五文字を句の頭に置いて旅の心を詠む」として詠んだ歌である。
【通釈】衣を長く着ていると褄(つま)が熟(な)れてしまうが・・・、そんなふうに馴れ親しんで来た妻が都にいるので、遥々とやって来たこの旅をしみじみと哀れに思うことである。
この歌では 『伊勢物語』と元を同じくする詞書の助けもあり、歌の中に散らされたカ・キ・ツ・ハ・タ(カ:からころも、キ:きつつなれにし、ツ:つましあれば、ハ:はるばるきぬる、タ:たびをしぞおもふ)は、内容を表す言葉の外にありながら、歌の背景によくなじんでいる。

9-411の詞書は長いが、これも詞書は『伊勢物語』の本文(第九段)とほとんど変わらない(※10の大九段東下り参照)。要は詞書の最後の 「これなむみやこ鳥」という言葉に反応して出た歌と考えられている。
この詞書にも9-410の「八橋」同様、「隅田川」という地名が出てくるが、それらの地名には反応せず、旅の途中で足を止める度に都への思いが湧き、ここではカキツバタではなく、都鳥をきっかけとして都への思いを歌ったものである。
「名にしおはば」(名にし負はば)は、そのような名前を持っているならばという意味であり、ここでの「ありやなしや」は、村上天皇のときの②いるかいないかわからないほどに、軽視するさま。と言った意味ではなく、「元気で生きているかいないか」といった意味に使っているのだろうから。
【通釈】「都」というその名を持つのに相応しければ、さあ尋ねよう、都鳥よ。私が恋しく思う人は無事でいるかどうかと。・・・といった意味になるのだろう。(この二首の歌の解説等は※10また、※5 :「やまとうた」千人万首のここ参照)

上掲の画像は、「風流錦絵伊勢物語」 勝川春章画。第9段の東下り隅田川の景を描く。
なにか、女々しい感じのする歌でもあるが、今とは違って、当時東北地方南部から新潟県の中越・下越地方及び九州南部は未だ完全に掌握できていない辺境の地である。何等かの罪に問われ東下りする業平たちから見れば、自身は、都の圏外にはじき出されたかつての都人、つまり失格者である。そこに 「京には見えぬ」名ばかりの「みやこ鳥」がからむことで、彼らの身の置き所のなさが増幅されている。
全125 段からなる『伊勢物語』は、在原業平の物語であると古くからみなされてきた。
日本の民俗学者、国文学、国語学者でもある折口信夫が日本の物語文学の特徴を分析するときに、しばしば「貴種流離譚」という概念に言及している。
「高貴に生まれた主人公が、力のない若い時に運命のいたずらで遠い地をさすらう苦難を経験する。その際、身分の賎しい人々に助けられるが、やがてその貴い血筋が認知され、最高の栄誉を受ける」というストーリーを原型にして、多くの物語がそこから派生しているという。例えば、『源氏物語』の須磨の帖では光源氏が都から遠ざけられ須磨に配流となる。また、『伊勢物語』東下りの段(第九段)では昔男(業平)が都を去り東国に下る。
そのような都から遠いところへ旅するのだから、旅も楽しいはずがない。都鳥は、当時ユリカモメを言っていたらしいが、そんな「都」の付く鳥を見ただけで、都に残してきた恋しい人が思い出されるのも仕方がないだろう。
ここで業平が都鳥に「私が恋しく思う人は無事でいるかどうか」と、問うている恋しく思う人は清和天皇の女御でのち皇太后となった二条后(藤原高子)であろう。彼は高子と駆け落ちをしている。
ちょっと回り道をしたようだが、今日は、村上天皇の「有無(ありなし)の日」なので、在原行平の「ありやなしや」の和歌で締めた。これ以上書くと長くなりすぎるので、『伊勢物語』については、以下参考の※10 、※11 を参考にされるとよい。

冒頭の画像は、村上天皇像(永平寺蔵)Wikipediaより。

参考:
※1:富士山の歴史噴火総覧 - 山梨県富士山科学研究所(Adobe PDF)
http://www.mfri.pref.yamanashi.jp/fujikazan/web/P119-136.pdf#search='%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80%E7%95%A5+%E5%A3%AB%E5%B1%B1+%E5%99%B4%E7%81%AB'
※2:やまとうた
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/index.html
hosi 3 :原文『枕草子』全文(「伝能因所持本」の段落に合わせている)
http://www.geocities.jp/rikwhi/nyumon/az/makuranosou ※3:教育の職人:授業の足跡
http://www.pat.hi-ho.ne.jp/nobu-nisi/koten.htm
※4 :教育の職人:授業の足跡
http://www.pat.hi-ho.ne.jp/nobu-nisi/koten.htm
※5 :枕草子における 「昔」 「今」 の意識(Adobe PDF)
https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/43021/1/KokubungakuKenkyu_75_Tabata.pdf#search='%E3%80%8E%E6%9E%95%E8%8D%89%E5%AD%90%E3%80%8F+%E6%9D%91%E4%B8%8A%E5%A4%A9%E7%9A%87+%E7%90%86%E6%83%B3%E7%9A%84%E3%81%AA%E8%A6%AA%E6%94%BF%E5%9B%BD%E5%AE%B6'
※6 :須磨観光協会須磨浦周辺
http://www.suma-kankokyokai.gr.jp/modules/gnavi/index.php?page=category&cid=2
※7 :源氏物語の世界 再編集版
http://www.genji-monogatari.net/
※8 :滋賀県石山観光協会 紫式部ゆかりの花の寺 石山寺
http://www.ishiyamadera.or.jp/ishiyamadera/genjistory.html
※9 :古今和歌集の部屋:巻別一覧
http://www.milord-club.com/Kokin/kan/kan01.htm
※10:伊勢物語現代語訳 - 楽古文
http://www.raku-kobun.com/isemonogatari.html
※11:伊勢物語を語る
http://homepage2.nifty.com/toka3aki/ise/isemono.html
『枕草子』章段対照表
http://www.sap.hokkyodai.ac.jp/nakajima/waka/data/makura1.html
村上天皇- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E5%A4%A9%E7%9A%87

ファイティング原田が、プロボクシング世界バンタム級チャンピオンになった日

2015-05-18 | 人物
今まで格闘技の中でも特に荒々しく、男臭いプロレスやプロボクシングなどの世界は男性のファンで支えられていたものだったが、そんな荒々しい格闘技に女性ファンが急増していると聞く。それも若いファンが多いという。その詳しい理由を私は良く知らないが、恐らく、若くて鍛えられた肉体美を誇る、しかもイケメンがこれらの世界へも進出してきたからではないだろうか。
昔は男らしい男性を女性は好んだものだが、戦後の平和な時代が続くと、近年、女性は男臭い男性よりも優男を好む傾向があり、そのような影響もあってだろう、最近は、女性か男性かわからない中世的な男性が増えてきた。TVの世界はそんな男性であふれかえっている。
最近、錦織圭がTVCMに顔を出すようになったが、いまだに松岡修造などがにTVCMを独占しているのも、格好良く逞しく明るい男性スポーツ選手などがなかなか現れないからであろう。今の女性は、男性同様厳しい社会の中で自立しており、ストレスが溜まった時などには、鍛えられた逞しい、しかもイケメンが活躍する格闘技を見て、ストレスを発散させたいと思う女性が増えているのではないだろうか。ただの優男より、逞しい男性が持てるようになったとすれば、これからの男性像も少しづつ変化してゆくだろう。
終戦の私が子供の頃は、太平洋戦争に負け、男どもは自身喪失していた。戦後日本はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により武道の禁止指令により柔道も禁止されていたが、そんな中、1951(昭和26)年に相撲界から力道山がデビューした。これが、日本におけるプロレス元年とされている。
プロレス興行が根付いたのは力道山が1953(昭和28)年に日本プロレスを旗揚げしてからのことである。戦後間もない頃で多くの日本人が反米感情を募らせていた背景から、力道山が外国人レスラーを空手チョップで痛快になぎ倒す姿は街頭テレビを見る群集の心を大いに掴み、プロ野球、大相撲と並び国民的な人気を獲得したものだ。
日本の本格的ボクシングは1921(大正10)年、アメリカ帰りの渡辺勇次郎が東京下目黒にオープンした日本検討クラブに始まる。渡辺が栃木県で凱旋興行したとき、母校の真岡中学で発掘したのが堀口恒男。ラッシュ(rush=突進すること。猛然と攻撃すること)戦法(彼の場合「ピストン戦法」と呼ばれた)の“ピストン堀口”である。
中学卒業と共に日倶に入門。早大専門部に通う堀口が一躍脚光を浴びたのは1933(昭和8)年、前世界チャンピオンのエミール・ブラドネル(仏)と引き分けたときである。1930年代後半のボクシング界はこの堀口を軸に展開した。渡辺勇次郎の夢見た「世界選手権を日本人に」を実現したのは、戦後のヒーロー白井義男だった。
1952(昭和27)年5月19日、東京・後楽園球場特設リンクで、フィリピン系ハワイ人の世界フライ級王者ダド・マリノ(米国)に挑戦し、15回判定勝ちで、日本人初の世界タイトル保持者となった。渡辺のジム開設から31年後のことであった。
白井は、以後4度の防衛を果たしたが、敗戦に打ちひしがれた日本人にとって、白井の王者獲得とその後の防衛での活躍は"希望の光"となった。因みに、この5月19日は、2010(平成22)年に、日本プロボクシング協会によって「ボクシングの日」に指定されており、毎年この日には「ファン感謝イベント」が開催されているようだ。

上掲の画像は、5月19日後楽園特設リンクでエミール・ブラドネルと戦う白井。『アサヒクロニクルス 週刊20世紀』スポーツの100年より。
その白井のあとを追うように、1950年代後半ファイティング原田(本名は原田 政彦)、海老原博幸青木勝利の“軽量級三羽烏時代”が現れ、ボクシング黄金期を迎えることになる。特に、原田はフライ級に続いて“黄金のバンタム” エデル・ジョフレ(ブラジル)を破って世界王座の2階級制覇を成し遂げた。多くの専門誌が「歴代最も偉大な日本人ボクサー」として原田の名前を挙げている。日本のボクシング世界王者のことについては、Wikipedia のここ 又、その戦績などは※1:「ボクシングのページ」の日本のジム所属の歴代世界チャンピオンを参照されるとよい。
冒頭の画像は1955年5月18日、バンタム級の不敗の王者、エデル・ジョフレに挑戦し、ラッシュ戦法が効を奏し2対1で判定勝ちし、慣習にこたえている原田。『アサヒクロニクル週刊20世紀』1965年号より。

今日はこの原田の栄光の時代と試合のことについて触れてみたい。なお、このブログを書くに当たり、原田の経歴試合内容等については、Wikipediaだけでは詳細な記録が見られないので、以下参考の※2:「究極の格闘技ボクシングの歴史」のボクシング黄金時代最強のトリオや、※3:「キングオブスポーツ ボクシング」の名ボクサー名鑑よりファイティング原田を参考にさせてもらった。

白井のあと、彗星のごとく現れた原田は終戦の2年前、1943(昭和18)年4月5日、東京の世田谷に生まれた。植木職人であった父親が、中学2年の時、仕事中の怪我により働けなくなったため、彼は高校進学をあきらめ、当時、白井義男の活躍によりボクシング人気が高まっていたこともあり、友人に誘われ、近所にあった精米店で働きながら猛練習で知られる笹崎ボクシングホール(現:笹崎ボクシングジム。目黒区)に入門した。この笹崎ジムの初代会長笹崎僙(たけし)も、渡辺の門下生で、戦後に元同門のピストン堀口のライバルとして活躍した昭和初期における日本を代表するボクサーの一人であり、その鋭いストレートから「槍の笹崎」の異名で呼ばれた人物である。
笹崎ジムに通っていた原田は、初めてのスパーリングで激しい連打を披露し、笹崎会長を驚かせたという。原田が将来の名選手になることを確信した笹崎会長は、徹底的に原田少年を鍛え抜いた。
そして、1960(昭和35)年、わずか16歳10ヶ月で彼はデビュー戦にのぞみ、見事4ラウンドKO勝ちをおさめた。これを機に、彼は、3ヵ月後には精米店を辞め、ジムの合宿生となり、ボクシングに専念するようになった。
そして、同年秋、彼は東日本新人王戦(全日本新人王決定戦参照)に出場し順当に勝ち進み、準決勝で彼が対戦することになったのは、同じジムの親友でもあった斉藤清作であったが、斉藤は、「負傷」と言うことで出場を辞退している。実力的には五分五分であったといわれていただけに、ジムの会長が両者の接戦を予測し、共倒れを恐れ斉藤に辞退させたのだろうと推測されている。後に、「タコ八郎」の名で、コメディアンとして人気者になった斎藤とは、その後も長く交友が続き、死の直前にも電話を受けたといわれている。
決勝に進んだ原田は、やはりKOパンチャーとして売出し中で、後にフライ級世界チャンピオンにもなった海老原博幸に判定勝ちしている。この試合は6回戦とは思えない名勝負となり、序盤は原田がラッシュし、途中二度のダウンを奪って大きくリードするが、終盤には、海老原が後に“カミソリ・パンチ”と言われた左を再三ヒットして反撃、原田は何とか耐え抜き判定に持ち込み、ダウンポイントが利き、原田がこの試合をものにした(この後、海老原が試合中にダウンを喫することは、引退まで二度となかった。そして日本人相手に敗れることも)。この対戦は、後の世界王者同士の対決として、新人王戦史上に残る名勝負と言われている。
1962(昭和37)年5月3日、ノンタイトル10回戦に判定勝ち。デビュー以来25連勝を達成し、海老原、青木とともに次代のホープとして「フライ級三羽烏」と称されるようになった。しかし、成長盛りの年代でもあり、次第にフライ級での体重維持が困難になり、バンタム級への転向を考え始めていた彼は、同年6月同級へのテストマッチとして臨んだ世界バンタム級7位のエドモンド・エスパルサ(メキシコ)戦で10R(ラウンド)判定で敗れてしまい、バンタム級転向を発表できずにいた。
童顔の風貌とは裏腹に、原田のボクシングスタイルは力強い連打で打って打って打ちまくるラッシュ戦法であった。後に「狂った風車」とも呼ばれた激しいファイトスタイルも、このバンタム級へのテストマッチ戦では、パンチ力を生かすことができずに敗戦を喫し、たとえ、階級をあげてもパンチ力だけでは勝てないことを知った。そして、この戦いの後、まもなく、世界フライ級王者ポーン・キングピッチ(タイ)に挑戦が内定していたのは、同級1位の矢尾板貞雄であったが矢尾板が突然引退したため、同じ日本人のホープ原田に突然挑戦のチャンスが回ってくるという運の強さも持っていた。
世界タイトルマッチを目前にしての突然の引退であり、日本での試合はすでに準備されており、チャンピオンのポーン・キングピッチは急遽対戦相手に原田を指名したのだが、この時、原田はまだ世界ランキングにも登場していない無名の存在であったが、彼は海老原に次ぐ日本ランキングの2位のボクサーであった。順当なら対戦相手には海老原が選ばれるべきであったが、海老原の強さの方が海外には知られており、原田がバンタム級7位の相手に敗れていることも知られていたことから、海老原より原田の方がポーンにとってはやりやすかったのだろう。そのようなことから、原田の挑戦についてはいろいろ議論もあったたようだが、結局、ポーンが勝てば防衛にはならない、原田が勝てば王座獲得という変則的な条件で、1962(昭和37)年10月10日に無事に世界タイトルマッチにこぎつけた(ただ、挑戦時には原田に世界10位のランクがつき、正式な世界タイトルマッチとなるが、これは、タイトル戦への権威づけなのであろう)。
蔵前国技館で行われた試合は、原田が左ジャブとフットワークでポーンをコントロールし、11R、相手コーナーに追い詰め、80数発もの左右連打を浴びせポーンはコーナーロープに腰を落としてカウントアウトされKO負けとなった。勝って当たり前のチャンピオン、あきらかに油断があったのだろう。一方、駄目でもともとの原田はラッシュ戦法で一方的に攻めまくり、見事世界の頂点を極めたのである。白井義男に次いで2人目、10年ぶりの世界王者誕生にファンは大熱狂。無数の祝福の座布団が会場に舞ったのは当然だろう。10代での世界王者誕生に日本中も大いに湧いた。
しかし、華々しく奪った世界タイトルだったが、成長盛りの彼にとって普段の体重の維持はもう限界になっていた。3ヵ月後の1963(昭和38)年1月、敵地でのリターンマッチ戦では、元チャンピオンも今度は十分な準備をして待ち受けていた。しかも、敵地での対戦はKOしなければ勝てないことは十分にわかってはいても、原田の方は、減量のためだけの練習になっていた。結局、体調不良が響き微妙な判定負けでタイトルを失った。

この試合後、彼はフライ級からバンタム級に転じ、バンタム級へ転向後は連勝を続け、半年で世界ランクの4位となり、同級3位のジョー・メデル(メキシコ)と、1963(昭和38)年9月26日、世界タイトルへの挑戦権を賭けて対戦することとなった。メデルは、クロス・カウンターを得意とするアウトボクサーで、「ロープ際の魔術師」の異名を持つ強豪であった。
仕合では、5Rまでは、原田のラッシュが勝り一方的な展開であったが、6R、原田の単調な動きを見切ったメデルに、得意のカウンターをヒットされ3度のダウンの末にKO負けしてしまった。この敗戦により原田は、今までの戦法では通じないことを悟り、単調なラッシュ戦法にフェイントを加え、さらに体力アップによるラッシュ時間を増やすことを目指し猛練習。すぐに再起し、翌・1964(昭和39)年10月29日、”メガトン・パンチ”と称された強打を誇る東洋王者・青木勝利に新戦法で闘い、3RKO勝ちし、バンタム級世界王座への挑戦権を掴んだ。
当時の世界チャンピオン、エデル・ジョフレ(ブラジル)は「ガロ・デ・オーロ(黄金のバンタム)」の異名通り、世界王座を獲得した試合、8度の防衛戦にいずれもKO勝ちしていた。その中には、青木や、原田にKO勝ちしたジョー・メデルも含まれていた。強打者であり、パンチを的確にヒットさせ、ディフェンスも堅い実力王者だった。原田の猛練習は、取材していた新聞記者が、疲労で床にへたり込む程の激しさだったと言う。しかし、試合前の予想は、ジョフレの一方的有利、原田が何ラウンドまで持つか、という悲観的な見方がほとんどだった。

その試合は、奇(く)しくも、今から、ちょうど50年前の今日・1965(昭和40)年5月18日に名古屋・愛知県体育館で行われたのであった。この時、ジョフレは29歳、原田はまだ22歳であった。
試合開始のゴングを聞いた原田は、当初今までのボクシングスタイルを捨て、アウトボクシングに出た。かなりの大博打を打ったと言えるが、果たして原田はこの博打に勝った。原田のラッシュを予想した作戦を組み立てていたであろうジョフレに、明らかに戸惑いが見られ、その端正なボクシングに狂いが出始めたのである。そして、4R、ジョフレはリング中央で原田との打ち合いに応じたが、パンチにいつもの的確性がなく、原田のパンチが勝っていた。そして遂に、ジョフレ唯一の弱点である細いアゴを、原田の右アッパーが打ち抜いた。これでロープまで吹っ飛ばされたジョフレに、原田はラッシュを仕掛ける。だが、ジョフレもよく追撃打をブロックでしのぎ、次の5Rには、強烈な右をヒットし、原田はコーナーを間違えるほどのダメージを負った。だが、練習量豊富な原田は、次の回から立ち直り、終盤は一進一退の展開を迎える。そして遂に15Rの終了ゴングが鳴った。ボクシング史に残る死闘となったこの試合、どちらが勝ってもおかしくない内容だったが、手数で上回った原田が僅差で制した。勝敗の判定は、日本の高田(ジャッジ)が72-70で原田、アメリカのエドソン(ジャッジ)が72-71でジョフレ、そして、アメリカ人バーニー・ロス(レフェリー)が71-69で原田、2-1の判定勝ちで原田は世界王座奪取した。
レフェリーのロスは、現役時代、原田同様のラッシャーであり、それが原田に有利に作用したのでは、という噂もあったようだが、いずれにしても、原田のファイトが圧倒的不利の予想を覆し2階級制覇に成功したのであった。人格者でもあったジョフレは、。上述の通りクロス・ゲーム原田にタイトルを奪われた試合後には笑顔で原田を担ぎ上げていた。
そして、1965(昭和40)年11月30日、初防衛戦では、リヴァプール出身のアラン・ラドキン(イギリス)を15回判定で破り、翌・1966(昭和41)年5月31日、2度目の防衛戦では、前王者ジョフレを15回判定で下し防衛に成功。
1967(昭和42)年1月3日、3度目の防衛戦。では、かつてKO負けしたジョー・メデルとの再戦となる。この試合、前回メデルのカウンター攻撃に倒された原田は、足を使って、メデルのカウンターの射程圏外に出て、攻勢時には、身体を密着させてラッシュし、カウンターを封じた。原田の一方的なポイントリードで迎えた最終15回、メデルの左フックのカウンターが遂に命中し、一瞬ふらりとしたが、クリンチで何とか逃げ切り王座を防衛した。
同年7月4日、4度目の防衛戦。ベルナルド・カラバロ(コロンビア)を15回判定で下し王座防衛。4度の防衛を果たしたが、1968(昭和43)年2月27日、5度目の防衛戦で、当時19歳の無名挑戦者ライオネル・ローズ(オーストラリア)に15回判定負けしタイトルを失った。

この頃バンタム級でも原田の減量苦は限界を超し始めていたため、以降フェザー級に転向した。この当時、世界のボクシング界はボクシング団体がWBCWBAに分裂し始めていた。日本のボクシング団体であるJBCは、まだWBAの存在しか認めていなかったため、原田はWBA認定のフェザー級チャンピオンとなっていたラウル・ロハス(米)に挑戦することしかできなかったが、当時、日本ではほとんど無名の存在であった、西城正三が、たまたま武者修行先のアメリカで、ロハスとの練習試合を行いまさかの勝利を収めたことから、タイトル戦への挑戦機会を得て、またまたロハスに勝利してチャンピオンになっていた。
このまさかの日本人世界チャンピオンの誕生で、日本のボクシング界で初めての日本人対決の可能性が浮上してきたため、西城への挑戦準備が進む中、原田は同級の格下相手と調整試合を行ったが、調整の遅れもあり、原田もまさかの敗戦を喫してしまった。この敗戦により、彼は世界ランキングを落としてしまい、タイトルへの挑戦権を失うという大誤算となった。WBAでのタイトル挑戦が厳しくなったことから、彼はしかたなくWBCタイトルへの挑戦を目指した。相手は、オーストラリア人のジェームス・ファメションであった。

1969(昭和44)年7月28日、WBCフェザー級王座に敵地シドニーで挑戦。敵地での試合ということで原田はKOでの勝利を目指して、果敢に攻め、ファメションをKOギリギリまで追い込み3度ダウンを奪ったにもかかわらずレフェリーがダウンしたファメションを助け起こすという事件が起きる。そのうえ、内容的に原田が圧倒していたにも関わらず、15回判定負け。判定はチャンピオンの勝利となってしまった。この試合の判定は英国式ルールにより、判定がレフェリー一人にまかされていたことも問題なようで、露骨なホームタウンディシジョンでの防衛であることは明らかで、リングサイドで観戦していたライオネル・ローズもそれを認めており、当時の地元スポーツ新聞にはリング上で失神している王者の写真がデカデカと掲載されていたというから、いかに地元オーストラリアにとっても不名誉な勝利であったかが伺える。だが、結果として、地元判定に泣いた「幻の三階級制覇」となってしまった。
当然、ここまで問題が大きくなったことでWBCは再戦を要求。翌1970(昭和45)年1月6日、ファメションは王者の意地と誇りを賭けて今度は原田の地元東京・東京体育館にて再戦(日本で行われた初のWBC世界タイトルマッチ)を行ったが、原田はいい所が無いまま14RでKO負けしてしまった。もともと太りやすい体質の原田。無理な減量による10年間の戦いに肉体は思っている以上に衰えていたのかもしれない。この敗戦から3週間後の、同年1月27日、彼は引退を発表した。
原田の時代までは世界タイトル統括団体は世界ボクシング協会(WBA)たったひとつ。階級も8クラスしかなかった。つまり、世界王者はたった8人しかいなかった。しかし、現在はメジャーな統括団体が4つ、階級は17クラス、しかもスーパーだの暫定だの休養だのが乱発されている。今と違って原田が戦った1960年代当時、2階級制覇した、いや、ローズ戦の不当な試合結果がなければ三階級制覇もなっていた・・・というのは凄いことなのである。
ファイティング原田の名前が示すように原田は連打で打って打って打ちまくるラッシュ戦法を得意としていた。もともと太りやすい体質の原田が成長期に減量苦に耐え、そして類まれな闘志、根性から生みだしたものである。そのスタイルから努力、根性といった当時の日本人が好む匂いに溢れた選手だった。世界での評価も高く、米国にある世界ボクシング殿堂入りを果たした唯一の日本人ボクサーである。
そして、バンタム級歴代最強論争にも必ず登場する原田。1950年代後半から1960年代初めにかけて最強の名をほしいままにしたジョフレの戦績は78戦72勝(50KO)2敗4分・・と、たった2敗しかしていない。しかし、この2敗はいずれもがファイティング原田に喫したものである。すなわち‘「黄金のバンタム」を破った男はファイティング原田しかいないのである。
とにかく、彼のタイトルマッチは、高視聴率をマークする試合が多かったが、この1戦がやはり、ボクシング放送での1番の高視聴率となった歴史的な試合であった。以下は、ビデオリサーチによる、全局高世帯視聴率番組50(※4参照)の順位である。この視聴率を見れば、彼がどれくらい当時の人から愛されていたかがわかるだろう。
タイトル戦テレビ視聴率
第1 位第14回NHK紅白歌合戦 1963年12月31日(火)NHK総合 81.4 %。
第2 東京オリンピック大会(女子バレー・日本×ソ連 ほか) 1964年10月23日(金) NHK総合 66.8%
第3位 2002FIFAワールドカップHグループリーグ・日本×ロシア 2002年6月9日(日) フジテレビ 66.1%
第4位 プロレス(WWA 世界選手権・デストロイヤー×力道山) 1963年5月24日(金) 日本テレビ 64.0 %
上記に続いて、以下の通り、歴代視聴率ベスト10に2試合、30位までに6試合もランクされているのである。
第5位、世界バンタム級タイトルマッチ(ファイティング原田×エデル・ジョフレ) 1966年5月31日(火)フジテレビ 63.7%
第8位、世界バンタム級タイトルマッチ(ファイティング原田×アラン・ラドキン) 1965年11月30日(火) フジテレビ 60.4 %
第13位、世界バンタム級タイトルマッチ(ファイティング原田×ベルナルド・カラバロ) 1967年7月4日(火)フジテレビ 57.0 %
第22位 世界バンタム級タイトルマッチ(ファイティング原田×エデル・ジョフレ) 1965年5月18日(火) フジテレビ 54.9%
第23位 世界バンタム級タイトルマッチ(ファイティング原田×ジョー・メデル) 1967年1月3日(火)フジテレビ 53.9 %
第25位 世界バンタム級タイトルマッチ(ファイティング原田×ローズ) 1968年2月27日(火) フジテレビ 53.4%
この視聴率を見れば、彼がどれくらい当時の人から愛されていたかがわかるだろう。
「幻の三階級制覇」の後、ローズ戦再選に負け、引退後は、解説者として活躍する一方、トーアファイティングジム(現・ファイティング原田ボクシングジム)にて後進の指導にあたっていた。現在は、同ジム会長。2010年3月、第10代日本プロボクシング協会(JPBA)会長退任後、同顧問。プロボクシング・世界チャンピオン会最高顧問に就いている。

今日はそんな原田の懐かしい試合を思い起こしながら後のブログを閉めよう。とりあえず見つかったものだけをいかに添付しておく。





上掲はファイティング原田 VS ポーン・キング(1962年)勝利し世界フライ級王者となったた時のもの。



原田 VS ポーン・キングピッチ(1963年) 14・15ラウンド。微妙な判定負けでタイトルを失った時のもの。





上掲は1964年10月29日、原田とライバル青木との世界挑戦権を賭けた戦い。




上掲は1965年5月18日愛知県体育館でのバンタム級チャンピオンエデル・ジョフレとの試合で圧倒的不利の予想を覆し2階級制覇に成功した時のもの。

参考:
※1:ボクシングのページ
http://www.geocities.jp/takawo2222/box.html
※2:究極の格闘技ボクシングの歴史
http://zip2000.server-shared.com/onboxing.htm
※3:キングオブスポーツ ボクシング
http://hands-of-stone.seesaa.net/
ファイティング原田|スポーツの名言
http://meigenatsumemashita.web.fc2.com/sports/fighting-harada.html
※4:全局高世帯視聴率番組50 | ビデオリサーチ
http://www.videor.co.jp/data/ratedata/all50.htm
百田尚樹 『「黄金のバンタム」を破った男』 PHP文芸文庫 -
http://blog.livedoor.jp/hattoridou/archives/51901514.html
■日本人の平均身長・平均体重の推移(1950年~)
http://dearbooks.cafe.coocan.jp/rekishi05.html
ファイティング原田 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E5%8E%9F%E7%94%B0

ご当地キャラの日

2015-05-11 | 記念日

冒頭の画像は「ご当地キャラ大集合inさんだ(第5回2014年)」ポスター(ここ参照。画像クリックで拡大する。
今日は「ご当地キャラの日」だそうだ。
記念日に制定したのは、滋賀県彦根市に本部を置く一般社団法人日本ご当地キャラクター協会(※1)で、地域の活性化を目指し、街を元気にするご当地キャラクター(キャラ)同士の連携を深め、それぞれのローカルキャラクターを全国に発信するのが目的だそうだ。日付は5と11で「ご(5)当(10)地(1)」と読む語呂合わせからだそうだ。

人間や動物のような生物や、生物を模したロボットに限らず、さまざまな道具、時には生物の器官、星や元素、さらには感情や自然、国家など、ありとあらゆる概念擬人化デフォルメを介することでキャラクター化されうる。略してキャラとも言われる。
「キャラクター」の語源である英語の「character」という語の本来の意味は、「特徴」「性質」だそうであり、元の語源はギリシャ語で「刻まれた印、記号」(※2)だそうだ。その意味での用例として、似た性質を持つ人物が社会集団に複数いる状態を『キャラがかぶる』と表現することがある。また、人物を意味する場合も本来は架空の登場人物とは限らず、日本語でも、CMキャラクターなどは実在の人物をさす用例も多い。


上掲の画像は、「元気ハツラツ!」のキャッチフレーズで知られる大塚製薬オロナミンCのCMタレント、こんちゃんこと大村 崑ホーロー看板)。以下の動画は、「ひと味ちがいます。」のキャッチフレーズで、1968(昭和43)年 以降一時中断はあったものの40年間も「タケヤみその顔」として親しまれていた日本のお母さんこと、女優森 光子のCMである。




日本語において、架空の登場人物を指す「キャラクター」という言葉は、1950年代にディズニーアニメーション映画の契約書にあった「fanciful character」を「空想的キャラクター」と訳した際に誕生したとされている(Wikipedia)。
日本では大正期にかけて外国から輸入されたアニメーション映画の人気を受けて、天活(天然色活動写真株式会社)で下川凹天が、小林商会幸内純一が、日活北山清太郎が独自にアニメーション制作を開始した。
1917(大正6)年1月、下川が手がけた短篇アニメーション映画『芋川椋三玄関番の巻』が公開され国産アニメーション映画の第1号となったが、現存するものは2007(平成19)年に玩具版が発見された幸内純一の同年6月30日公開『塙凹内名刀之巻』(『なまくら刀』とも。)のみであり、これが、現存する日本最古のアニメーション作品として知られている。
諸外国と同じく当初作られていたアニメは数分程度の短編映画が多かった。作り手も個人もしくは少人数の工房での家庭内手工業に準ずる製作体制で、生産本数も少なく、生産の効率化を可能とするセル画の導入も遅れていた。1930(昭和5)年前後にセル画が使われ始まるまでは、日本では、フランスなどと同様、切り絵によるアニメが主流であったという。
当映画で、劇中のキャラクターは、既に漫画調のデフォルメが為された頭身であり、試し切りをしようとした武士が蹴られて回転をしたり、星マークなどの漫符の活用が見受けられるなど、この時代にして、これくらいのアニメが作られていたとはすごいことである。以下でそのワンカットが見られる。

日本現存最古のアニメ「なまくら刀」発見 - YouTube

アニメ映画も太平洋戦争を迎えると、戦意高揚を目的とする作品が制作され瀬尾光世監督による日本初の長編アニメーション『桃太郎の海鷲』(1942年)が藝術映画社より製作され、1945(昭和20)年には松竹動画研究所より『桃太郎の海鷲』の姉妹編『桃太郎 海の神兵』も産み出された。
『桃太郎 海の神兵』は、南方戦線のインドネシア中部にあるセレベス島メナドへの日本海軍の奇襲作戦を題材に海軍陸戦隊落下傘部隊の活躍を描き、当時の日本政府の大義であった「八紘一宇」と「アジア解放」(※3)を主題にした大作(74分)である。当時の日本政府、海軍より270,000円という巨費と100名近い人員を投じて制作されたという(参考:当時の東京の物価:銀行員給与80円、米10キロ6円、総理府統計局、「週刊朝日」編値段の風俗史などから)。
落下傘部隊のシーンは、1週間の体験入隊を行うなどして実際の動きを細かく分析、マルチプレーン撮影や透過光[※4参照]などの特殊効果も用いた大掛かりな制作であった(特に透過光の使用は世界初であるとも言われている)。
そして、ミュージカル仕立ての場面があり、これは監督である瀬尾が、1940(昭和15)年にアメリカで公開されたディズニーの長編カラーアニメ『ファンタジア』(日本軍が戦地で没収したフィルムを、海軍省を通じて見る機会を得たそうで、日本での公開は戦後になってから)を参考としたとはいえ戦意高揚が目的であっても『ファンタジア』のように子供たちに夢や希望を与えるような作品にしようとしたことや、姉妹編である『桃太郎の海鷲』と同様に平和への願いを作品中に暗示させたことが作品に大きく影響している。
そして、松竹動画研究所の制作スタジオは東京・銀座の歌舞伎座隣のビルに設けられ、ひとつのキャラクターに一人のアニメーターが専従するという、今日では考えられないような贅沢な作画体制がとられたという。
戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、漫画の草分け的存在として活躍した手塚治虫は1961(昭和36)年に「手塚治虫プロダクション動画部」を設立しているが、その動機となったのがこの映画で、手塚は、封切り初日に大阪松竹座でこの作品を観て、当時、海軍の意図した戦意高揚の演出中に隠された希望や平和への願いを解し、甚く感動し涙を流したと後に語っているそうだ。そうしていつかアニメを自分の手で作りたいという決意を持ったとされている。瀬尾は、手塚も愛読したノラ(野良犬・孤児)の黒犬を主人公にした『のらくろ』を動画化(『のらくろ一等兵』『のらくろ二等兵』ともに1935年制作)するなど、当時、有名なアニメ作家であった。

以下では、その動画と解説、それに、ディズニーの長編カラーアニメ『ファンタジア』の動画の一部参考に掲載されている。その下は「のらくろ」の動画である。

桃太郎 海の神兵 - NAVER まとめ

のらくろ二等兵

一方、1953(昭和28)年にテレビ放送が始まると、単発で数分程度のアニメが番組内の1コーナーとして、また、CMにも用いられるようになるが、当時、アニメ制作には長い期間と制作費がかかるため、NHK、民放を問わず、本格的なアニメ番組を制作するテレビ局は現れず、『ポパイ』・『恐妻天国』(後に『原始家族』として再放映)・『宇宙家族』など海外アニメーションが盛んに放送されていたが、日本の本格的なアニメは1963(昭和38)年の『鉄腕アトム』を待たなければならなかった。

この後、日本のアニメは、世界に誇る産業へと成長するが、その原点にあるのは、日本のマンガ文化であろう。日本には、少年向け、少女向け、サラリーマン向け、OL向け、主婦向け・・・と、多種多様な、凄い数のジャンルのマンガがある。
この漫画が原作となり、アニメ化、映画化され、ゲーム化され、そして、キャラクター関連グッズなどが製品化される。この循環が相乗効果を発揮し、今日のようなマンガやアニメ、キャラクターブームを生み出す。その相乗効果は2倍にも3倍にもなるだろう、
このようなマンガやアニメ、キャラクターを生み出した背景には、一神教の西洋などとは違って八百万神(欧米の辞書にはShintoとして紹介されているそうだ)を崇拝する民族的、宗教的な伝統によって育まれた日本のアニミズム的な感性が日本独特のマンガ文化を生み出しているのだろうという説がある(※5参照)。
この説が正しいかどうかは知らないが、確かに、私たちの日常生活を見渡すと、ペットや魚など生き物の供養だけでなく、人形供養、針供養、箸供養、包丁供養など、無生物さえ供養する多くの風習が残っているのは、アニミズム的な自然信仰に根差すと思われる習俗や 風習が残っているからなのだろう。
それが、ビキニ環礁核実験に着想を得て製作された、水爆大怪獣映画『ゴジラ』(1954年)を生み出したり、鉄腕アトム(雑誌連載1956年、1963年よりTVアニメ化)やドラえもん(1969年より雑誌連載、1073年よりTVアニメ化)のようなロボットにも生命を与えたり、ゲゲゲの鬼太郎 (1954年の紙芝居から始まり1965年からマンガ本化、1968年からアニメ化)の妖怪さえも生み出してゆくことになる。

そんなマンガ文化が今のキャラクターブームを生み出したのだろう。
このようなマンガ、アニメーション、小説などに登場する実在また架空の人物や動物などをかたどったものが多いが、これら優れたキャラクターは、高い人気を持ち、ぬいぐるみやフィギュアなどの玩具や置物、キャラクターの印刷された衣類や日用品、文房具などの商品によって、キャラクターの出自である作品以上の売上がもたらされることも稀ではない。
1970年代以前は、キャラクターを使った商品展開の対象は主に子供たちであったが、東京ディズニーランドのオープン以降は大人達へも広がっていき、1980年代にはロボットアニメブームにより大人も対象とした商品展開が増え始めた。 近年ではアニメなどの流行により、その対象は広い世代に拡大している。
これらのキャラクターを商品に印刷したり、企業のイメージアップに、あるいは、テレビCMに使うなどすると、ライセンス料を払わねばならないためコストは上がるが、企業のイメージアップや販促に有効な手段であるため、最近はマスコットキャラクターの作成に力を入れている企業、団体も多い。

例えば、1956(昭和31)年には経済白書の「もはや戦後ではない」が流行語となり、日本経済は高度成長期への弾みをつけていた。
1950年代後半から、個人預金を獲得するために様々なサービスを展開し、新規顧客開拓に力を入れていた金融機関は、既存キャラクターを統一的に使用し、預金者に対しグッズをプレゼントしたりキャッシュカードや通帳に描くことでそのキャラクターのファンに顧客になってもらおうとする方法が広く取られている(例えば、三菱東京UFJ銀行におけるディズニーキャラクターなど)。
また、近年ではアニメファンなどを対象とした、キャラクターを用いた商品展開も挙げられる。(例えば萌え系美少女のイラスト[イラストレーター:西又葵]をパッケージに使った秋田県羽後町産「あきたこまち」など)。

よーさんの我楽多部屋Corection-Room1貯 金 箱

上記は私の本館「よーさんの我楽多部屋」のCorection Room:貯金箱のページである。又、この下の画像は、萌え系美少女のイラストが描かれたJAうごから発売されている「あきたこまち」である。


そのほか、公共交通機関を運営する会社に於いても、会社の所有する乗り物でキャラクターを作ったり、擬人化された動物等に会社の制服を着せる等して、それを、関係施設や切符などにプリントしたりして、イメージアップを進めていたりしている。

上掲の画像は、警視庁マスコットキャラクターピーポくん。名前の由来は、人々の「ピープル」と、警察の「ポリス」の頭文字からだそうだ。
通常アニメによる二次元のキャラクターは幼稚で大人には向かないとの印象が強く感じられるのだが、日本では今やその二次元キャラクターが企業の広告塔になりつつある。
Facebookページで人気を誇るキャラクターとしてしられる伊藤ハムのハム係長などもその一つである。

ハム係長 第1話 初めの一歩 - YouTube

そして、今どんな人気タレントよりも、テレビやイベントなどで引っぱりダコになっている「ゆるキャラ」と呼ばれているものもその一つ。例えば、今日の記念日を制定している一般社団法人日本ご当地キャラクター協会が本部を置く、滋賀県彦根市のマスコットキャラクターひこにゃんや熊本県のくまモン、千葉県船橋市のふなっしーなどがよく知られている。

上掲の画像向かって左から、ひこにゃん、くまモン、ふなっしー。画像クリックで拡大する。

ゆるキャラは「ひこにゃん」あたりからブームになったように記憶しているのだが・・・。「ひこにゃん」は、江戸時代に同地にあった彦根藩の2代目藩主・井伊直孝に縁(ゆかり)ある1匹の白猫をモデルとしているそうだが、デザインしたのは大阪府出身のイラストレーターであるもへろんだという。なにか、登場した当初から、非常に人気があり、原案者(もへろん)と彦根市の間で、キャラクターの著作権問題で、争っていたことだけは記憶に強く残っている。今では、千葉県船橋市の「ふなっしー」が超人気の様である。
私の地元兵庫県の「ゆるきゃら」には「はばタン」がいるが、このキャラクターは、のじぎく兵庫国体・のじぎく兵庫大会(2003年1月17日~ )の大会マスコットとしてつくられたものであり、「ゆるきゃら」ブームに便乗してか、大会終了後の,2007年4月より、兵庫県のマスコットとなったものである。
フェニックスをモチーフにしたキャラクターで、スポーツ万能な男の子という設定でつくられたようだ。現在は、「ひょうご観光大使」第1号として、又「ひょうご農(みのり)大使」など多様な分野で県政をアピールしているようだ(ここ参照)。

この「ゆるキャラ」とは、「ゆるいマスコットキャラクター」を略したものだそうで、イベント、各種キャンペーン、地域おこし、名産品の紹介などのような地域全般の情報PR、企業・団体のコーポレートアイデンティティなどに使用するマスコットキャラクターのことであるが、そういったかわいらしいイラスト全般を指す場合もある。
狭義では、対象が国や地方公共団体、その他の公共機関等のマスコットキャラクターで着ぐるみ化されているもの(後述の「ゆるキャラ三か条」も参照)に限られるが、広義では大企業のプロモーション(宣伝用)キャラクター等も含まれる。
「ゆるキャラ」という名称は「マイブーム」(1997年流行語大賞)で知られる漫画家、エッセイストであるみうらじゅんが考案したとされ、2004(平成16)年11月26日には「ゆるキャラ」という言葉が、扶桑社とみうらじゅんによって商標登録されている(第4821202号)。
「ゆるキャラ」の提唱者であるみうらじゅんは、あるキャラクターが「ゆるキャラ」として認められるための条件として、以下の三条件を挙げているようだ。
1.郷土愛に満ち溢れた強いメッセージ性があること。
2.立ち居振る舞いが不安定かつユニークであること。
3.愛すべき、ゆるさ、を持ち合わせていること。

みうらは「ひこにゃん」がブームになった2006(平成18)年を境とした「ひこにゃんビフォーアフター」(before after=使用前/使用後)でゆるキャラという言葉の使われ方が変化してきていると指摘している。「ひこにゃん」以前は自分たちのキャラクターを「ゆるキャラ」と呼ばれることにマイナスイメージを持っていた自治体側が、ひこにゃん以降は、自分たちから「ゆるキャラ」を名乗るようになり、広告会社等のプロが自治体からの依頼を受けデザインや運用を行う「素人ならではのゆるさ」というみうらの定義から外れた「ご当地キャラクター」も数多く登場するようになった。
つまり、本来は、かわいいキャラクターと区別するために「ゆるキャラ」とカテゴライズしたものが、いつの間にかちゃんとしたキャラクターに向かっていった。しかし、「ひこにゃん」以降でも『ゆるキャラグランプリ2012』(※6参照)で最下位グループを形成した「ポピアン」(※6のここ参照)、「浜寺ローズちゃん」(※6のここ参照)、「フルル」(※6のここと※7参照)のような「ゆるさ」を持つキャラクターは依然として存在しており、「ゆるキャラ」という呼称の定義が広がり、「ご当地キャラクター」全般を指すようになってきているという(※8参照)。
業界でも大手のイベントの一つだった『ゆるキャラまつりin彦根』は2013(平成25)年より「ゆるキャラ」という言葉を使用せず、「ゆるくない世界で地道に地元を一生懸命PRしている」キャラクターの祭典として『ご当地キャラ博in彦根』へと改名。昨・2014(平成26)年には同様の大手イベントだった『ゆるキャラサミットin羽生』も、「企業キャラクターやご当地ヒーロー等に間口を広げるため」という理由で『世界キャラクターさみっとin羽生』(※9参照)に改称しているという(Wikipedia)。
なにかよく判らないが、「ゆるキャラ」という名前が商標登録されていることに関係しているのではないだろうか。人気が出れば出るほど、それぞれの団体が自身の権利を保護したいものね~。

しかし、なぜ日本にはこんなにも「ゆるキャラ」が溢れたのだろうか。何がここまで人の心を掴むのだろうか。
青木貞茂著『キャラクター・パワー ゆるキャラから国家ブランディングまで』(NHK出版。※10)では、キャラクターに溢れた日本文化の分析を試みており、青木は、「ゆるキャラ」ブームがおきた要因として、東日本大震災と地方経済の苦境を挙げており、以下のように言っているという。
“東日本大震災発生後、人々が感情的・精神的な絆を欲するようになった一方で、地方自治体の経済は困窮した。このような時代情勢の中で、合理性や機能性を超えたエモーショナル([emotional]感情に動かされやすいさま。感情的、情緒的なさま。)な温かさを持つ戦略を考えた時、最も有効だったのが、「ゆるキャラ」という存在だった。地方の名産品の売り込みのためには、元長野県知事の田中康夫や宮崎県知事だった東国原英夫のように自治体に「顔」がないと知名度をあげることができないと気づいたのだ。
そして、(中簡略) 人間関係が稀薄な現代、人は人間でないものにまで感情的な潤いを求め、感情移入する。本来、友人や人間との関係において充足されるはずだった安らぎは稀薄化する人間関係によってなかなか満たされない。そのため友人や家族の代替物としてキャラクターが求められるようになったという。
強いストレス社会が人々がキャラクターを愛でる時代背景となった。「ゆるキャラ」についていえば、その魅力は名の通りの「ゆるさ」だろう。たとえば、人気の「ゆるキャラ」には、「きもかわいい」と表現されるキャラクターが多い。その代表例としては、仏様に鹿の角をつけたことで物議をかもした奈良の「せんとくん」のように。何か不完全で劣っている存在を見ることで、人は、特別な心地よさや心理的な親密さを感じるのだ。“・・と。
一部抜粋しただけなのでわかりにくい点は参考※10:「なぜ日本人は「ゆるキャラ」が好きなのか」を読まれるとよい。
確かに、最近の若い人達は私たちにはちょっと気持ちの悪いものを「きもかわいい」と感じるらしい。田中や東国原も私などには、少々気持ち悪い存在だが、結構人気はあったね~。
もともとマスコットという言葉は身近に置いたり身につけていれば幸運をもたらすと信じられているものを指すそうだ。そういった意味においては七福神ヱビス様を使ったヱビスビールや、幸福を招くとされる福助人形からヒントを得た福助足袋(現:福助)の福助マークなどは最も正統的なマスコット・キャラクターだったといえるだろう。
しかし、今のような時代に、このようなマスコットキャラクターなどは堅苦しく、古くさくって、親近感がわかないのだろう。
、「ゆるキャラ」の一覧は「官公庁のマスコットキャラクター一覧」や、※1:(社)日本ご当地キャラクター協会又、※6:ゆるキャラグランプリ オフィシャルウェブサイトをご覧になるとよい。


参考:
※1:(社)日本ご当地キャラクター協会
http://kigurumisummit.org/
※2:キャラクター - 語源由来辞典
http://gogen-allguide.com/ki/character.html
※3:戦争に負けてアジアから去った日本への賛美の声 - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2134615487596995101
※4:デジタル TB
http://msc-jp.biz/material_html/terms_T.html
※5:アニメとアニミズム:世界に広がるマンガ・アニメ02
http://blog.goo.ne.jp/cooljapan/e/6ef2f1ca95960606323033cc2cb4210b
※6:ゆるキャラグランプリ オフィシャルウェブサイト
http://www.yurugp.jp/
※7:【最下位】ゆるキャラグランプリ2012【ポピアン】とは!? - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2135400412723718401
※8:みうらじゅん氏 2006年の「ひこにゃんビフォーアフター」指摘 – SNN
http://snn.getnews.jp/archives/162294
※9:世界キャラクターさみっとin羽生
http://gotouchi-chara.jp/hanyu2014/index.html
※10:なぜ日本人は「ゆるキャラ」が好きなのか
http://news.ameba.jp/20140508-118/
日本を評価するアジアの指導者の証言
http://www1.ocn.ne.jp/~terakoya/ajia.html
第61回国民体育大会
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC61%E5%9B%9E%E5%9B%BD%E6%B0%91%E4%BD%93%E8%82%B2%E5%A4%A7%E4%BC%9A
企業とキャラクター
http://www.disaster-info.jp/seminar2008/kurahashi.pdf#search='%E6%9C%80%E3%82%82%E5%8F%A4%E3%81%84+%E4%BC%81%E6%A5%AD+%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A9++%E7%A6%8F%E5%8A%A9+%E8%B6%B3%E8%A2%8B'
ゆるキャラ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%86%E3%82%8B%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A9







憲法記念日2-1

2015-05-03 | 記念日
今日5月3日は、国民の祝日に関する法律(祝日法。昭和23年法律第178号)により指定された国民の祝日の一つ「憲法記念日」であり、祝日法では、「日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する。」・・・ことを趣旨としている。

憲法記念日は、敗戦後2年目の1947(昭和22)年5月3日に施行され、翌・1948(昭和23)年に公布・施行された祝日法によって制定された。しかし、憲法が実際に公布されたのは、施行日前年の1946昭和21)年11月3日であったが施行が半年後の1947(昭和22)年5月3日となったもの。
日本国憲法の公布日および施行日については、その日をいつにするか議論があったようだが、結局、様々な思惑から、日本国憲法が『平和と文化』を重視していることから、この日は「文化の日」として残された。当時法制局長官であった入江俊郎がこの間の経緯については、後に記している文面等があるがこれについては→ 新憲法の公布日をめぐる議論を参照。
祝日法では、この日は、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨としている。
実際に文化の日には「日本の文化の大きな発展に貢献した人」を選出して、皇居で文化勲章の親授式が行われている.のは、御存じの通りである。
いわば「文化の日」と「憲法記念日」は兄弟のような間柄である。
「文化の日」は、日本国憲法が公布された日に由来するもの。「憲法記念日」は、日本国憲法が施行されたに日に由来するもの…ということである。
公布と施行の違いであるが、法律の公布とは、すでに成立した新しい法令を広く一般人が知ることができる状態におく行為であり、日本国憲法は、それを、天皇国事行為としている (7条1号)。又、法律の施行は、法令が現実に効力を発し、実施される状態にすることである。
もともと、この11月3日「文化の日」は制定以前から祝祭日(休日)になっていたものである。
1873(明治6)年に公布された年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム(明治6年太政官布告第344号)以降1911(明治44)年までは天長節、1927(昭和2)年に改正された休日ニ関スル件(昭和2年3月4日勅令第25号)以降1947(昭和22)年までは明治節として、明治天皇の誕生日による祝祭日(休日)となっていた。名前は違うが、今で言う「昭和の日」(昭和天皇の誕生日)と同じことだ。
文化の日は上記の経緯と関係なく定められたということになっているが、当時の国会答弁や憲法制定スケジュールの変遷をみると、明治節に憲法公布の日をあわせたとも考えられる(※1参照)。
本当は日本としてはせっかくだから11月3日を「憲法記念日」にしたかったのだろうが、当時、戦後の日本を管轄していたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から11月3日を、憲法記念日という名にすることだけは絶対にだめだと言われて、「文化の日」という名前でそのまま祝日に改めて制定したものであったようだ。

しかし、この「新しい日本の出発」となる日本国憲法を実際に制定するに当たり、その基本概念となったもの、ならびにその制約となったものとしてまず、真っ先に挙げなければならないのが、ポツダム宣言である。
ポツダム宣言は、1945(昭和20)年7月26日にアメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席の名において大日本帝国(日本)に対して発せられた、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条から成る宣言である(13条の日本語条文は※2のここ参照)。
ポツダム宣言には国体護持の条項他がなかったため、当初はその受諾に際して政府内では議論が巻き起こったようだ。
しかし、その後のソ連側の日ソ中立条約の一方的破棄、広島・長崎の原爆投下によって「国体護持」一点を条件に降伏文書に調印する旨、連合国側に通告し、これに対する回答を待ったが、連合国側の回答は微妙なものであり、取りようによってはどちらとも取れる曖昧な内容であったようだが、同年8月14日、日本政府は御前会議により協議を続けた結果、ポツダム宣言の受諾を決定し連合国側に通告した。翌15日、昭和天皇が「玉音放送」によって、ポツダム宣言の受諾(=日本の降伏表明)を連合国側に通告したことを、帝国臣民に公表した。
つまり、日本は、ポツダム宣言を受諾することで第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)の降伏を認め、ならびに、そこに書かれた条文に従うことを約束したことで、事実上憲法改正の法的義務を負うことになったわけである。
ポツダム宣言では、日本を占領する組織はoccupying forces of the Allies(「聯合国ノ占領軍」、ポツダム宣言12条)と表現されている。続いて、同年9月2日に締結された降伏文書の中では、日本政府はSupreme Commander for the Allied Powers(「聯合国最高司令官総司令部」、 日本では、G HQ=General Headquarters)と呼称)の指示に従うこととされ、同時に出された降伏文書調印に関する詔書も、「聯合国最高司令官」の指示に従うべきことを表明している。

上掲の画像は、1945(昭和20)年9月2日、アメリカ戦艦ミズーリ前方甲板上においてリチャード・サザランド中将が見守る中、日本の降伏文書に署名する重光葵臣外務大臣である。
そこで連合国軍占領中に、G HQの監督の下で「憲法改正草案要綱」を作成(※2のここ参照)し、その後の紆余曲折を経て起草された新憲法案は、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に従い、1946(昭和21)年5月16日の第90回帝国議会の審議(※3のここ参照)を経て若干の修正を受けた後、11月3日に日本国憲法として公布され、その6か月後に施行されたというわけである。

日本を占領したGHQのダグラス・マッカーサーに対し、アメリカ政府が示した占領の主要目的は「日本の武装解除ならびに非軍国主義化」であり、非軍国主義化には、軍国主義体制の解体と民主主義制度(基本的人権の尊重)の確立の2つの側面があった。
このためマッカーサーは、「征服者」と「改革者」の2つの顔をもって占領下の日本に君臨した。1946(昭和21)年初めには、GHQの機構やスタッフも整備され、民生局(GS)を中心に、日本側の想定を上回る急進的改革が矢継ぎ早に打ち出された。
軍国主義の解体については前年秋からの、特高警察の廃止、戦犯容疑者の逮捕、神道指令による政教分離などが進んでいたが、1946(昭和21)年1月4日には広い範囲で戦争関係者の公職追放が司令された。更に財閥解体や中途半端な農地改革も実施された。
民主主義制度確立の面では、前年中に、女性に参政権が与えられ、労働組合法が制定されたあと、1946(昭和21)年11月3日に日本国憲法が公布されたのであるが・・・。

新憲法は「法的革命とも言うべき占領改革(※4参照)」の頂点であったとも言われるが、占領軍による、様々な改革は、民主主義を実現するために非民主主義的な手段で強制するという矛盾がなくはなかった。
特に新憲法の制定については不十分な日本政府の改正案に対して、GHQが力で原案(マッカーサー草案)を押し付けた実態があるにはあるが、アメリカ側は「日本国民の意思に支持されない政治形態を強要しない」という建前にはこだわっていたため、制定経過は極めて複雑でねじれたプロセスをたどった。
マッカーサーは1945(昭和20)年10月に幣原喜重郎首相と会見した時、憲法の自由化を口にしたが、具体的な改革要求は示さなかった。
日本側の自発的な取り組みに期待したのだが、日本政府は改正を急ぐ必要はないと受け止め、松本蒸治国務相の下に憲法問題調査委員会(松本委員会とも呼ばれる。※5のここ参照)を設けることでしのごうとした(日本政府および日本国民の憲法改正動向参照)。

そうした中で、1946(昭和21)年2月1日付の毎日新聞が「憲法問題調査委員会試案」をスクープした(※2のここ参照)。
その内容は天皇の統治権を認めるなど、明治憲法とろくに変わらぬ超保守的なものだった(松本試案参照)。
報告を受けたマッカーサーは、2月3日、ホイットニー民政局長に天皇制存続、戦争の放棄など3項目の原則を示して、早急にGHQ案を起草し日本側に提示するよう命じた。

当時、米英ソ3国外相会議で日本管理のため、新たに極東委員会を設置することが決まったことから、マッカーサーは天皇制存続について他の連合国の介入を招くことを恐れ、憲法の改定を急がざるを得なくなっていた。
極東委員会とは、GHQよりも上位に位置する組織である。日本を直接占領したのはアメリカ軍であったが、立場的には、アメリカ軍は連合国軍の一員として占領をしていたのである。このことは、特に憲法改正問題については、アメリカ政府は、極東委員会の合意なくしてGHQに対して指令を発することができなくなることを意味していた。
そのような中、日本の憲法改正に関しては、米国政府の指針を示す文書(SWNCC228)がある。この文書は、極東委員会のこともあり、あくまで、アメリカ政府がマッカーサーに対して、どのような日本を目指すべきかを、「指令」ではなく「情報」の形で示したものであり、文書には、マッカーサーが日本政府に対し、選挙民に責任を負う政府の樹立、基本的人権の保障、国民の自由意思が表明される方法による憲法の改正といった目的を達成すべく、統治体制の改革を示唆すべきである・・・と、したものであった(※2のここ及び 2013年3月4日時点のページ参照)。
毎日新聞に掲載された「松本委員会案」の内容が日本の民主化のために不十分であり、国内世論も代表していないと判断したマッカーサーは、もう、「日本政府と協議して草案を作っている暇はない」と判断したのだろう。
マッカーサーの指示により、GHQ案は極秘で進められ、たった9日間で作業を終わった。
ホイットニー等は2月13日、吉田茂外相と松本国務相に会いGHQ案の受け入れを迫った。その際GHQ側は、マッカーサーは天皇を戦犯として取り調べるべきだとの他国からの圧力を受けていると強調し、「新しい憲法の諸法規が受け入れられるならば、実際問題として天皇は安泰になる」と説得したという。
GHQの動きを全く知らなかった日本側は愕然として受け入れに抵抗したものの、字句が修正された程度で、3月6日に政府案要綱として発表せざるを得なかった(※2のここ参照)。もちろんGHQの動きは隠されたままだった。
日本側が先に改革に手をつけた唯一の例外が農地改革だった。しかし、1945(昭和20)年末の国会で承認された第1次農地改革は、地上に平均5町歩(山林・田畑の面積をを単位として数えるとき用いる語)の農地保有を認める不徹底な内容だったため、マッカーサーは本国から農業専門家を呼び寄せ、不在地主の所有地を全て開放し、在村地主の保有地は1町歩とする、より厳しい改革案をつくり、1946(昭和21)年10月の国会で成立させた。
翌年3月に始まった第2次農地改革は、1950(昭和20)年7月の完了までに全国の小作地(小作人が地主から借りて、耕作している農地)の約80%を開放する成果を上げ、軍国主義の温床となった日本の農村の貧しさを解消する土台となった。
占領軍の民主主義改革は1941(昭和21)年の2・1スト中止命令で終わりを告げるが、短期間で軍国日本を全面的に改造した実績は、絶対的権力に加え共産党まで、アメリカ軍を開放軍と歓迎するほど日本国民の支持があったのは、マッカーサーが単なる軍人ではなかったことの証明でもあるだろう。

憲法記念日2-2

憲法記念日(参考)

※冒頭の画像は、新憲法公布の日、皇居前広場で午後2時から10万人が集まって「日本国憲法公布記念祝賀都民大会」が開かれ天皇・皇后も臨席した。戦争放棄をうたう新憲法がスタートした(『朝日クロニクル週刊20世紀』1946年号より)。




憲法記念日2-2

2015-05-03 | 記念日
しかし、今、憲法改正問題が喧(かまびす)しい中で、最大の問題点となっているのが憲法第9条の問題でああろう。
当条は、憲法前文とともに三大原則の1つである平和主義を規定しており、この条文だけで憲法の第2章(章名「戦争の放棄」)を構成しており、第1項の内容である「戦争の放棄」、第2項前段の内容である「戦力の不保持」、第2項後段の内容である「交戦権の否認」の3つの規範的要素から構成されている。
1928(昭和3)年に締結された戦争放棄二関スル条約、いわゆるパリ不戦条約の第1条と、日本国憲法第9条第1項は文言が類似しているが、これをどのように捉えるかが本条の解釈において問題とされることが多い。

日本国憲法は、学問上は「立憲的意味の憲法」と呼ばれている(※6 参照)。
「立憲的意味の憲法」とは、「国家権力の濫用を防ぎ、国民の権利自由を守る」役割を担っている憲法のことを指している。つまり、日本国憲法は、国家が国民に何かを押し付けるものではなく、むしろ国民を国家権力の濫用から守ってくれているものと言ってよいだろう。
従って、平和であれば、憲法のことなどほとんど考えなくてもあまり問題もなく過ごせるだろうが、もし、他国から侵略を受けたとき、又、その危険性があるときに「戦争の放棄」を憲法で宣言しているからと言って、自衛のための戦いもせずにいられるのか?
国家である以上「個別的自衛権」は認められるはずなのだが・・・。このような条文を憲法に盛り込んだのはいったい誰の発案であったのだろうか?
マッカーサーは、憲法草案に盛り込むべき必須の要件として3項目を憲法草案起草の責任者ホイットニー民政局長に示したことは先にも書いた。いわゆるマッカーサー3原則である。その3原則のうちの一つが、第9条の淵源(えんげん)となった「戦争放棄」に関する原則であったが、「マッカーサーノート」には確かに「自己の安全を保持するための」手段としての戦争をも放棄することが明記されていたようだ(※2の3-10 マッカーサー3原則及び、再度マッカーサー草案を参照)。
そのことから、日本国憲法制定の際に戦争放棄条項が盛り込まれたのは、GHQに押しつけによるものと云う説があるが、この件に関していろいろ調べていると、「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について」という平野三郎の手記、いわゆる「平野文書」(国会図書館内にある憲法調査会資料)があるらしく、日本国憲法制定の際に戦争放棄条項が盛り込まれたのは、GHQに押しつけられたというより、当時の日本の総理大臣幣原喜重郎が、天皇制維持とセットでマッカーサー元帥に進言し、盛り込まれたものであるという事情を知った(内容の詳細は※7を参照)。
手記(「平野文書」)によると、マッカーサーメモが出される前の1月24日、幣原・マッカーサー会談が行われ、戦争放棄条項が幣原氏より提案されたとのことである。
ポツダム宣言では、降伏の条件として軍国主義の一掃、軍隊の武装解除・解体等はうたっているが、戦争放棄とまでは言っていない。9月2日の降伏文書も又しかり。マッカーサーも、どのように日本の軍国主義を押さえ込むかと思いあぐねていたには違いないが、先にも述べたように、日本軍国主義を上手く押さえ込まなければ、天皇の戦争責任が追及されるのは必至な情勢が迫っていた。しかし、敗戦から6ヶ月、日本の戦後を決める憲法はなかなか決まらない。マッカーサーと言えども軍人であり、敗戦国に対し、武力不保持・戦争放棄までなかなか要求しにくかったに違いない。そんな中で、これを言い出したのが、敗戦国の総理大臣なのだから、驚くと同時に、渡りに舟とばかりにこの提案に乗ったのであろう。
幣原は、『口外無用』として平野に語ったとされるが、平野は、「昨今の憲法制定の経緯に関する論議の状況に鑑みてあえて公にすることにした」として、この文書は、1964(昭和39)年2月に憲法調査会事務局によって印刷に付され調査会の参考資料として正式に採択されたものだという。
しかし、私は、この文書の真贋はよく判らないので更に調べてみると、以下参考の※3:「参議院憲法審査会」の平成16 年11 月10 日「第161回国会 参議院憲法調査会 第3号」(ここ.参照)での田英夫の発言の中でも,この文書を例に出して発言しているので、この文書が有ること自体は間違いないことなのだろう。
又、もう少し、調べてみると、マッカーサー・ノートにおいては、「自己の安全を保障するための手段としてさえも」戦争が放棄されるように条文化するむね指示されていたが、その後、総司令部案として作成されるに際して、その部分がケーディス大佐(GHQ草案作成の中心的役割を担っていた)によって削除されたようだ。ケーディス大佐の証言によれば,その削除に「非現実的」なものから「現実的」なものにするという十分な意味が込められていたということである。その結果,この時点で,全面的な戦争放棄から,限定的な戦争放棄になった。
衆議院帝国憲法改正小委員会の憲法改正草案の審議において委員長であった芦田 均日本自由党)の試案などが重要なたたき台となっての修正いわゆる「芦田修正」の意味について、芦田自身がいかに考えていたのか?その真意はいまでも明確でない部分があるようだが、当該修正によって,自衛のためならば,陸海空軍その他の戦力は保持し得るという解釈が可能になったようだ。
事実,極東委員会ではそのように解釈し、軍人の出現を想定したうえで、現役の武官を大臣職につけないようにするために、文民条項の導入が強く要求され,実現した(※2のここ参照。
それゆえ,芦田修正と文民条項は密接不可分の関係にあり,両者を切り離して解釈することは,すくなくとも憲法の成立経緯の観点からは、間違いである。
そして、政府は、自衛権については、概略、以下のように解釈している。
1)憲法は、自衛権を否定していない。
自衛権は、国が独立国である以上,その国が当然に保有する権利である。憲法はこれを否定していない。したがって,現行憲法のもとで,わが国が,自衛権をもっていることは,きわめて明白である。
2)憲法は、戦争を放棄したが、自衛のための抗争を放棄していない。
○戦争と武力の威嚇、武力の行使が放棄されるのは,国際紛争を解決する手段としてはということである。
○他国から武力攻撃があった場合に、武力攻撃そのものを阻止することは,自己防衛そのものであって,国際紛争を解決することとは本質が違う。したがって、自国に対して武力攻撃が加えられた場合に国土を防衛する手段として武力を行使することは,憲法に違反しない。・・・と。

これは、当然な解釈であろう。しかし、自国に対する侵害を排除するための行為を行う権利である国連憲章第51条)にいうところの「個別的自衛権」と自国を含む他国に対する侵害を排除するため共同で防衛を行う国際法上の権利である集団的自衛権とは、区別される。
集団的自衛権が攻撃を受けていない第三国の権利である以上、実際に集団的自衛権を行使するかどうかは各国の自由であり、通常第三国は武力攻撃を受けた国に対して援助をする義務を負うわけではない。そのため米州相互援助条約北大西洋条約日米安全保障条約などのように、締約国の間で集団的自衛を権利から義務に転換する条約が結ばれることもあるが、自衛権の概念については、様々な見解も存在するようだ。
日本の場合は、日米安全保障条約第5条に、より、
「両国の日本における、(日米)いずれか一方に対する攻撃が自国の平和及び安全を危うくするものであるという位置づけを確認し、憲法や手続きに従い共通の危険に対処するように行動する」ことを宣言している。
ただ、憲法第9条で「戦争の放棄」を掲げている日本などでは集団的自衛権の行使については極めて厳格な基準を設けており、集団的自衛権は憲法の定める自衛権の範囲を逸脱するため行使できない、・・・・というのが一般的な見解となっている。
現在の日米安全保障条約は米国のみが集団的自衛権を行使すると定めていた。2006(平成18)年に首相に就任した安倍氏はこれを「片務的」であるとして、対等な日米関係構築のために日本も集団的自衛権の行使を行えるようにすべきと提起。
そして第一次安倍内閣(2006年9月26日-2007年8月27日)は首相の私的諮問機関として「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」を設置し本格的に検討を開始。
2012(平成24)12月総選挙(第46回衆議院議員総選挙,)では、安倍政権の経済政策「アベノミクス」を最大の争点として掲げた自民党の勝利が確定し「1強多弱」の構図が続くことになった。
12月24日の衆議院本会議で首相に指名された安倍氏は、その後の記者会見で、なすべきことは明確だとし、デフレ脱却、社会保障改革、外交安全保障の立て直しと同時に、また、憲法改正は自民党結党(1955年)以来の大きな目標だとして、憲法改正に必要な国民投票で過半数の支持を得なければならない。として、そのための課題となる憲法改正の発議要件を定めた憲法96条の改正に取り組む意向をも表明していた(改正案※8参照)。 
安倍首相は2013年の首相就任以後、「積極的平和主義」(ここも参照)の語を度々用いて、その実現を推進している。
積極的平和主義とは、自国のみならず、地域および国際社会の平和の実現のために、能動的・積極的に行動を起こすことに価値を求める思想であり。2013(平成25)年12月に閣議決定された「国家安全保障戦略」において、日本の安全保障戦略(※9参照)の基本理念として掲げられた。
そして、2014(平成26)年1月の所信表明演説でも積極的平和主義に触れ、「わが国が背負うべき21世紀の看板」という表現を用いた。
安倍首相は、積極的平和主義の実現のためには、集団的自衛権と集団的安全保障に関する憲法解釈の変更が必要だとしている。また、武器輸出三原則非核三原則についても、安全保障環境の変化に合わせるための再検討が必要だとし、2014(平成26)年4月1日に、武器輸出三原則に代わる新たな政府方針として「防衛装備移転三原則」が閣議決定され名称も変わった。
積極的平和主義に対しては、憲法の三大原則(国民主権、基本的人権の尊重、平和主義)の一つである平和主義に反するものであるという意見があるほか、憲法で認められた自衛権の逸脱に向かうのではないかとする懸念もある。
そんな中、同年7月1日「集団的自衛権の行使を認める」という閣議決定がなされた.( 閣議決定全文※10参照)。
そして、次に、今年2015(平成27)年に入って4月13日には、新たな安全保障法制をめぐり、自衛隊に戦争している他国の軍隊を後方支援させることの恒久法(一般法)について、名称を「国際平和支援法」とする方針を固め、14日から再開した自民、公明両党の与党協議に提示された。


上掲は4月23日付東京新聞。画像クリックで拡大します。
「国際平和支援法」とは、これまで「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」(略称(PKO法)に基づき国連を中心とした国際平和のための努力(①「国連平和維持活動(PKO)」、②「人道的な国際救援活動」及び③「国際的な選挙監視活動」)に対する我が国の協力として、いわゆるPKO参加5原則に従って「国際平和協力業務」を実施するとともに「物資協力」を実施しようとするものである。
これについては、民・公明両党は、「例外なく、国会の事前承認が必要だ」と明記したうえで、首相が国会に承認を求めた場合、7日以内に議決するとの努力規定を設ける方向で調整。一方、自衛隊の海外派遣の期間を延長する場合は、事後承認を認める方向のようである。
こうした案は、21日に開かれた与党協議で、自民党の高村正彦副総裁が示し、日米防衛協力のための指針(ガイドライン)を再改定する27日までに実質合意を図り、GW明けの5月15日に関連法案を今国会に提出する方針のようだ。
政府が周辺事態法の地理的制約があると解釈される「周辺」という言葉を削除して重要影響事態法とするのは、自衛隊による活動の地理的制約を外したことを明確化する狙いがある(※11参照)。
新法によって「日本に重要な影響を与える事態」と日本政府が判断しさえすれば、 米軍など外国軍を支援するため自衛隊を世界のいかなる場所にも派遣できるようになる。
4月22日、放射性の物質を搭載した無人航空機ドローン(英:Drone)が首相官邸屋上に墜落していたニュース(※13参照)で、マスメディア、中でもテレビなど模型まで作って面白おかしくワ~ワ~騒いでいる間に、安倍首相は 昭恵夫人を伴って、4月26日から5月3日まで米国を公式訪問している。
米ホワイトハウス当局者は26日までに、TPP交渉に関する正式な合意発表などは期待出来ないとの認識を示した一方、米国家安全保障会議(NSC)のメデイロス・アジア上級部長は日米の防衛協力問題では「大きな進展に関する合意」が打ち出されるとの見通しを明らかにしていた。メデイロス氏は合意事項の詳細には触れなかったが、日本が米軍活動をより広い範囲で支援する「メカニズム」が盛り込まれることに言及していた。・・という(※12参照)。
先の選挙では大勝し、1党多弱、自民党に対抗する野党もない中で、安倍氏は念願である憲法改正が行われる前に、実質的な改正ともいえることを着々と進めている感じ・・・。その間この様なことに対して、マスコミがどれだけの情報を国民に正しく知らせ、そして、国民が承知しているのだろうか・・・。GWに遊び疲れて帰ってきたときには、もう・・・・。

マスメディアが電通に支配されているという話、政府寄りの偏った意見が報道されているなどということは、良く聞くところであり、又、実際に報道を聞いていてもそう感じることはよくある。以下参考の※14や※15の話が本当なら、受けて手側がよほど用心していないと完全に洗脳されてしまうことになるだろう。
その上に最近は、政府のマスコミへの介入まで見られるようになった。自民党が、4月17日に情報通信戦略調査会において行った、NHKとテレビ朝日の聴取が、波紋を読んでいる。意見聴取の対象となったのは、やらせ疑惑が浮上しているNHK「クローズアップ現代」と、コメンテーターの古賀茂明氏が生放送中にニュースから逸脱した発言を行ったテレビ朝日「報道ステーション」の2番組。
この件に関しては、ジャーナリストの池上彰氏が、4月24日付の朝日新聞朝刊に掲載された自身のコラム「新聞ななめ読み」で、「自民こそ放送法違反では」と疑問を呈していた(※16参照)。
この問題では、政治からメディアへの圧力や萎縮効果の有無、あるいは違法性に対する懸念が議論の中心となっているが、真の問題は、もっと別のところにあるように思われる。
政治からメディアへ、逆にメディアから政治への圧力など、政治とメディア両者間には、いつの時代にも一定の緊張関係があり、その力学は常時存在している。
今回の問題の出来事を批判的に捉えるひとつの論拠は、放送法上の問題であろう。放送法第3条には以下のように書かれている(放送法条文は※17参照)。
第3条「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。」(国内放送等の放送番組の編集等)
つまり、放送法が原則として定めているのは、「法律違反しない範囲であれば、自由に報道していい」ということである。しかし、「自由」には同時に「責任」も伴うのは当たり前のこと。その「責任」について定義しているのが第4条であり、そこには次の各号の定めがある。
(1) 公安及び善良な風俗を害しないこと。
(2) 政治的に公平であること。
(3) 報道は事実をまげないですること。
(4) 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
全て常識的で当たり前のことばかりであるが、この中で、特に難しいのは、4項目目だろう。メディアが「法律違反しない範囲であれば、自由に報道していい」とはいえ、色々対立している問題について、どれだけ多くの観点から論点を明らかにしているか・・・といったことについては、私なども日ごろから疑問に思うことは多くある。従って、そのようなことについて、政治家が意見を聞きたいと言ったからと言って、それ自体が問題とも言えないのではないだろうか。・・ただ、その「問題解決」の方法が適切か否かの問題はある。
今回のNHKとテレビ朝日の報道番組で「やらせ」や政治的圧力があったとされる問題に関連しては、番組の内容などの問題点を検証する放送事業者の自主規制機関であるBPO(放送倫理・番組向上機構。※17参照)への政府の関与が問題視されるべきことなのである(※18参照)。
自民党の事情聴取に抗議することもなく、ノコノコと、“ご説明”に出向くこと自体に、多くの識者が、テレビジャーナリズムの存亡の危機を覚えたことだが、この問題の本質は、放送局の「許認可権」を総務大臣が握っていることにある。
放送局は電波法に基づき、5年ごとに国から放送免許の更新を受ける必要がある。つまり免許不交付なら放送ができなくなる。さらにNHKは国会の予算承認も必要。そのため、日本の主要なテレビ局は政府の管理下に置かれている。
欧米などでは放送事業者の監督は、政府から独立した機関が行うのが主流の様であるが、日本は直接、総務省が監督しており、政府が気に入らないことがあれば、今回のように「放送法」を盾にして、暗に、更新拒否や免許取り消しをチラつかせることができてしまう。
従って、この制度を変えない限り、政府による放送局のコントロールはなくならないだろうといわれている。

1950(昭和25)年4月、放送法などの電波三法が成立した。三法の施行とともに、戦前の無線電信法は廃止され、新しく特殊法人日本放送協会電波監理委員会が生まれた。「放送法」が制定されて、NHKは新しい組織に改組されるとともに、技術研究がNHKの業務として明確に位置づけられることとなった。また、放送法によって民間放送の法的根拠も明らかとなり、1951年には初の民間放送局2局(愛知県の中部日本放送と大阪府の新日本放送=のちの毎日放送)が開局した。
放送法の趣旨は、放送の最大限の普及、放送による表現の自由の確保、放送が健全な民主主義の発達に資するという3大原則に従って、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とするというものである。
政府が直接、放送局を監督する制度は、戦後のGHQによる占領が終わった直後に作られた。
戦前はメディアが軍部にコントロールされていた。そのため、GHQは電波三法と呼ばれる電波法、放送法、電波監理委員会設置法を制定し、電波監理委員会設置法に基づくき、「電波監理委員会」を設置し、放送局の監督機関を政府から独立させ管理させていた。
この独立した電波監理委員会は米国のFCC(米国連邦通信委員会)に相当し、またGHQもそれを目指したようである。
ところが1952年4月、日本の主権が回復すると、当時の吉田内閣は3か月後の7月31日に待ってましたとばかりに、「郵政省設置法の一部改正に伴う関係法令の整理に関する法律(昭和27年法律第280号)」により電波監理委員会を廃止し、同委員会は郵政省に統合されて、再度国家管理される事になった。
政府のメディアコントロールへの、並々ならぬ執着が分かるというものだが、要するに「政府に弱い放送局」という力関係はいまだ戦前と変わらないということだろう。
放送法の本来の目的からみて、その大きな特徴は、法が「民主主義のためのもの」と定められていることである。つまり、いったんライセンスを受ければ、誰からも制約を受けず放送ができるように、つまり、国から介入されないで出来ることが重要なのである。
これは法が第二次世界大戦後、憲法で定められた「表現の自由」を電波の分野でも体現するため制定されたことと関係している。
免許を与えるのが国であり、放っておけば放送内容への介入が起きやすくなる。その防止を保障するための法と機関がなくなってしまった。これは、憲法上の「表現の自由」が保障されていないことになるのだが、放送局側も、免許自体が『既得権益』となっているので、その分、政治からの介入に甘んじているところがあるようで、そのことが一番の問題なのではないだろうか。
今回のことを契機に、制度改革に取り組まなければならないはずなのだが、どれだけ、メディア側にそうした問題意識、いや、改善意欲があるのだろうか?
第2次安倍政権以降、安倍首相は力の源泉でもある世論の支持に、大きな影響を与える報道に神経をとがらせせているようである。野党や識者は「政治圧力だ」と批判を強めるが、安全保障関連法案の審議や憲法改正議論もにらみ、さらに関与を強める可能性もあるのではないかな~・・・・。


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