今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「ベジタリアン」という言葉が作られた日

2010-09-30 | 記念日
ベジタリアン (Vegetarian) という言葉は1847年の今日・9月30日、英国ベジタリアン協会の設立の際にラテン語 “Vegetus”(完全な、健全な、元気なからの造語で「活気のある、生命力にあふれた」)をもとに英語の野菜 (Vegetable) の単語とかけて作られた言葉だという。
日本では、1993(平成5)年4月、日本ベジタリアン協会が設立され、2001(平13 )年2月に特定非営利活動法人(NPO法人) の認証を受けている。同協会は、「人と地球の健康を考える」をテーマに、菜食とそれに関連した健康、栄養、倫理、生命の尊厳、アニマルライツ(animal rights 、日本語では動物の権利)、地球環境保全、発展途上国の飢餓などの問題に関する啓発や奉仕を目的とし、菜食に関心のある人々に必要な知識や実践方法を広め、共有していくためのネットワークづくりを行っているようだ。関心のある人は、以下参考に記載の※1:「日本ベジタリアン協会公式ページ」を参照)。
世界中で、動物保護や健康増進そして環境保護などのエコロジー(ecology)また、道徳、宗教等の理由から動物性食品を排する主義・思想「ベジタリアニズム (vegetarianism) 」が注目を浴びている。これを実際に実践している人たちをベジタリアンと呼ぶが、幾つかの公式な団体(ベジタリアンの分類参照)では、菜食を中心とした食事を実践する人々の総称がベジタリアンと定義されているようだ。菜食だけ、菜食でも球根などの排除の有無や、卵と乳製品を摂ることの有無などに応じて様々な分類があるが、日本ではベジタリアンが正しく理解されず、明治時代に菜食主義と訳されたが、動物性食品でも一部については摂取の是非が問われないので、菜食主義という語訳は正確ではないが、その誤訳が訂正されることなく、今日まで広まってきた。英語で「まったく肉をたべないひと」は、ヴィーガン(Vegan)というそうだ。
いずれにしても、これらの思想の根底には、環境倫理生命倫理の平等思想に基づいた人道主義の観点といった哲学的な思想がある。
歴史上の有名なベジタリアンに、ピタゴラスがいる。紀元前のギリシャでは、オルペウス教ピタゴラス教団による日本の仏教にも見られるような輪廻転生思想によって、動物と人間は同等である為に菜食を実践していたという。当時、菜食主義者は古代ギリシャの哲学者で菜食主義者であったピュタゴラス(=ピタゴラス。古代ギリシア語の発音による)にちなんで、ピュタゴリアンと呼ばれていたが、野菜のベジタブルと語呂の良いベジタリアンがこれに取って代わることになったものだという。
日本で有名なのが詩人・童話作家で有名な宮沢賢治である。農業指導者として活躍のかたわら創作。自然と農民生活で育まれた独特の宇宙的感覚や宗教的心情にみちた詩と童話を残した。彼は、法華経の信者であったことでも知られている。そんな彼の作品で、あまり広く知られていない作品に、「ビヂテリアン大祭」がある(彼の詩や童話などの作品については、以下参考の※2:「青空文庫:作家別作品リスト:No.81宮沢 賢治」を参照)。
Wikipedia(宮沢 賢治)の記載によれば、彼が法華経信仰に入った後、1918(大正7)年5月19日付で、友人の保阪嘉内に宛てた手紙で「私は春から生物のからだを食うのをやめました」と書いており、その考え方がこの童話に窺えるという(保阪のことは、以下参考に記載の※3:「宮沢賢治の詩の世界」の歌曲の部屋の保阪嘉内の歌曲を参照)。
1918(大正7)年と言えば彼が盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)を卒業した年であり、したがって22歳の頃から菜食を始めたということになる。
この作品は童話といえるかどうか・・・彼の作品の中でも異質な作品であり、ニュウファウンドランド島の山村で行われた菜食主義者たちの世界大会に日本の代表として参加した主人公の話として書かれている。
賢治はこの作品で、ビヂテリアン(菜食主義者・菜食信者)と肉食異教徒の論争を通して肉食の是非を議論している。議論の相手を論破するために選ばれたテーマは多種多様で、肉類と野菜の消化率、味覚の比較に始まって、さらに殺生の是非、人口増加と食糧資源の問題、動植物を区別することの是非、キリスト教と仏教の見解の相違、輪廻の問題へと進むが、肉食異教徒も最後には皆ベジタリアンとなり反対者はだれもいなくなってしまうのだが・・・。
ここでの議論では、必ずしも菜食主義の主張が勝っているとは言えないと思うし、童話の最終章では反菜食主義の主張もすべてビヂテリアン側の仕組んだものであることが明かされている。そして、この物語の結末は皆さんで作ってください・・となっている。
ベジタリアンが肉食を否定する主張には大きく2種類あり、過剰な肉の摂取を戒める主張と肉食そのものを否定する主張がある。この2つを混同している傾向も見られ、これが議論をより混乱させる要素となっており、「健康のため」と称しながらも、突き詰めれば別の理由に立脚している場合もあるようで、ベジタリアニズムが単純な理由に拠らない活動であることにも絡んで、その各々の信奉者・実践者によって主張・様式もまちまちである。
宗教・思想上等の理由で肉食を避ける者がいるがそれだけではなく、健康上の理由から肉食を避ける者もあり、上述のベジタリアン協会の主張する立場に立てば、ベジタリアンの本義は「健康で活力のある人」であり、「そうなるために肉食を避ける者」であるとされている。
明治以前の日本においては、基本的には仏教の僧侶には肉食が認められていなかった(例外もある)。それにより、精進料理が創られたが、精進料理の思想では、「より高い精神性を獲得する(=精進する)ために、菜食を主体とした食事をとる」という面で、原義のベジタリアニズムに近いものを持っている。この精進料理の思想の影響を受けて誕生した懐石料理も同様である。よって、ベジタリアンとは単に植物しか食べないということではなく、人生観・世界観をより深めてくれるライフスタイル(lifestyle。生活の様式・営み方。また、人生観・価値観・習慣などを含めた個人の生き方。)を表しているものだ。しかし前述の「ベジタリアン=菜食主義」という訳語の誤った印象もあり、ベジタリアニズムは、近代以降の日本、特に最近では一種の健康ブーム的な側面が強調され、正確に理解されていない面もある。ひどい時にはただの偏食と同列に看做される場合さえある。
宮沢賢治の「雨ニモマケズ/風ニモマケズ」より始まり、「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」で終わる有名な詩「雨ニモマケズ」(詩はここを参照)の中には、「一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ・・・」とあるが、四合は「よんごう」ではなく音読みで「しごう」と読む。だからと言って別に意味合いが変わるわけではなく、書かれている通りの意味なのだが、これは随分と粗食だよね~。今とは時代は違うが、幾らなんでも現代の若い男性が、毎日これほどの粗食を続ければ、恐らく栄養不足で、病気になってしまうだろうね~。
「粗食は健康で長生き」・・・と考える人が多いようであるが、これは誤りで、粗食の人は病気がちで短命だと言う意見もある。多食・美食はいけないが、健康で長生きをするためにはバランスの良い食事で栄養を摂ることで大切であり、そのためには肉食も必要だ。
健康とは文字の如く、健(すこ)やかさと康(やす)らかさであり、身体が丈夫なことではなく心の問題であるが、多くの人は食べ物に拘っている人が多い。
人間は病気さえしなければだれでも皆90歳ぐらいは生きることが出来るといわれている。同じ野菜を食べても、菜食主義者になってはいけない。肉食を控えた菜食愛好者である事が望ましい。
最後に、「雨ニモマケズ」の詩は、東北砕石工場の嘱託を務めていた賢治が壁材のセールスに上京しているとき再び病に倒れ、この時賢治は死を覚悟して父母近親者へ遺書2通を書いているという。父の厳命により花巻の実家に戻って闘病中だった1931(昭和6)年秋に使用していた黒い手帳に記されていたもので、この手帳は今日、研究者からは「雨ニモマケズ手帳」と呼ばれており、手帳には、その当時の賢治の悲願と自戒が綴られているそうだ。
詩の最後の言葉である「ワタシハナリタイ」に続いて、南無無辺行菩薩、南無上行菩薩、南無多宝如来、南無妙法蓮華経、南無釈迦牟尼佛、南無浄行菩薩、南無安立行菩薩と書き込まれている。中央に書かれている「妙法蓮華経」は「法華経」の正式な呼称であり、南無は「帰依します」の意味である。またその上下に書かれている「釈迦牟尼佛(釈迦如来)」は仏教の開祖釈迦を仏(仏陀)として敬う呼び方であり、多宝如来は、法華経の「見宝塔品第十一」に登場する仏であり、上行菩薩、無辺行菩薩、浄行菩薩、安立行菩薩は法華経の「従地湧出品第十五」に登場する法華経の四菩薩である。
大乗仏教では、悟りを求める人や求道者を菩薩という。宗教では、人が「生きる」とは言わずに「生かされている」と言う。それは、自分だけのために生きるのではなく困っている人がいれば助けるために生かされているのだが、詩の中の「東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ」に始まり「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」までに書かれている内容を見ると、賢治の法華経信仰の深さと共に、自身の実践が出来ていないことへの自戒の念も感じられる。宮沢賢治は、この詩を書いた翌翌年・1933(昭和8)年9月21日急性肺炎により37歳の若さで永眠した。
画像は精進料理。Wikipediaより。箸袋には、信州 善光寺 淵之坊とある)
参考:
※1:NPO法人 日本ベジタリアン協会 | Japan Vegetarian Society | 公式ページ
http://www.jpvs.org/
※2:青空文庫:作家別作品リスト:No.81宮沢 賢治
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person81.html#sakuhin_list_1
※3:宮沢賢治の詩の世界
http://www.ihatov.cc/song/kanai.html
※4:法華経と日蓮にアプローチ!―宮沢賢治をより理解するために―
http://www.kitakama-yusui.net/tokusyu/zen-6.html
お年寄りの食生活を改善しよう /大曲市保健センターの料理教室
http://www.hana.or.jp/hana/nitiniti/news00/Oct/n001012.html
Yahoo!百科事典-菜食
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E8%8F%9C%E9%A3%9F/
Yahoo!百科事典-動物保護
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%8B%95%E7%89%A9%E4%BF%9D%E8%AD%B7/
utopia-宮沢賢治
http://www1.ocn.ne.jp/~workship/utopia/utopian/Miyazawa_Kenji/utopian-Miyazawa_Kenji.htm
ベジタリアニズム - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0
Yahoo!百科事典トップ
http://100.yahoo.co.jp/ http://100.yahoo.co.jp/
菜食のススメ
http://saisyoku.com/index.html

アメリカン・ニューシネマの代表作「明日に向って撃て!」で知られる俳優・ポール・ニューマンの忌日

2010-09-26 | 人物
今日・9月26日は米国を代表する俳優の1人で、アメリカン・ニューシネマの代表作である「明日に向って撃て!」(1969年)や「スティング」(1973年)などで知られるポール・ニューマン(Paul Newman,本名:Paul Leonard Newman)の2008年の忌日である。
アメリカン・ニューシネマとは、1960年代後半 ~1970年代にかけてアメリカで製作された、反体制的な人間(主に若者)の心情を綴った映画作品群を指す日本での名称である。
ヴェトナム戦争への米国の軍事的介入を目の当たりにすることで、米国民の自国への信頼感が音を立てて崩れ、以来、懐疑的になった国民は、アメリカの内包していた暗い矛盾点(若者の無気力化・無軌道化、人種差別、ドラッグ、エスカレートしていく暴力性など)にも目を向けることになる。そして、それを招いた元凶は、政治の腐敗というところに帰結し、アメリカの各地で糾弾運動が巻き起こった。アメリカン・ニューシネマはこのような当時のアメリカの世相を投影していたと言われている。
真夜中のカーボーイ」「イージーライダー」(いずれも1969年)などとともに、アメリカで若者にヒットしたアメリカン・ニューシネマの代表作「明日に向って撃て!」が日本で封切られたのは、「血のメーデー事件」(1952年5月1日に東京で発生した、デモ隊と警官隊とが衝突した騒乱事件)が17年にして一区切りのついた年・1970(昭和45)年の2月のことであった。冒頭の画像が同映画の1シーン(アサヒクロニクル週間20世紀より借用)である。映画は、1900年代末の西部に実在した銀行強盗ブッチ・キャシディ( 主演:ポール・ニューマン。向かって左)と・サンダンス・キッド( 共演:ロバート・レッドフォード。右)に、サンダンスの恋人エッタ・プレース(キャサリン・ロス。中央)が絡む物語。
冒頭、セピア調のモノトーンが徐々に色づいてゆき、峡谷の夜明けのシーンで始まる画像は、冒頭とは逆に、ラストシーンでは、フルカラーからモノトーンへと変化していくストップモーション(映像を静止させること)は映画史に残る屈指の名シーンとして有名である。名うての強盗のくせに銃で人を撃ったことがないというブッチ(ニューマン)と腕利きのガンマンのくせに泳げないというサンダンス(レッドフォード)のウィットに富んだ会話や、軽やかな音楽(雨にぬれても)が新鮮で映画を観終わっても心地よく爽やかな風を感じさせる作品である。この映画の設定と筋立ては、アメリカン・ニューシネマと同じように、体制に楯を突くアウトローたちが時代に追い詰められ、次第に行き場を失くし、やがて最後はついに破滅(自滅)していくストーリではあるが、一連の西部劇に良く見られるような刺客との銃撃戦など派手なアクションシーンもない異色西部劇映画であり、私の心にも深く残っている名画である。
この映画で見せた親しみやすい笑顔と、漂う知性で魅了したポール・ニューマン。「スティング」のニューマンは、都会的なスマートさと味のあるユーモアを滲ませていて、実に魅力的であった。この2作は共にレッドフォードとの共演であるが、女性を魅了させるレッドフォードに対して、ニューマンは男が惚れる男といった感じである。
彼は、1925年1月26日、米国オハイオ州クリーブランドで、スポーツ用品店を経営するハンガリー系ユダヤ人の父と同じくカトリックの母との間に生まれ、父親が共同経営するスポーツ用品店を継ぐため大学では経済学を専攻していたが、第二次世界大戦が始まり無線士として従軍。
復員後。演劇の道に進み、エール大スクール・オブ・ドラマに学び、同大学院で披露した演技がプロデューサーの目に留まり、ニューヨークに招かれ、そこでのテレビドラマや舞台における演技が認められて、1952年にジェームズ・ディーンマーロン・ブランドと共にアクターズ・スタジオに入学。その後、ブロードウェイの舞台「ピクニック」(後にウィリアム・ホールデン、キム・ノヴァク主演で映画化されている。Goo映画-ピクニック参照)の演技などが評価され映画界へ。しかし、1954年に「銀の盃」(ニューマンの出演映画のことは、以下参考に記載の※1:goo映画参照)で映画デビューを果たす。しかし、この作品を私は見ていないが、作品自体が映画評論家から失敗作の烙印を押されるという不本意なデビューとなったようだ。
アクターズ・スタジオで共に学んだディーンとブランドがそれぞれ「エデンの東」(1955年)、「波止場」(1954年)で世界的トップスターへと上り詰める一方でポールは満足のいく作品に出演できない上、スタジオや批評家から「第2のマーロン・ブランド」と称されることに失望し映画を離れ、活動の拠点を舞台とテレビドラマへ移していたようだが、そこでの演技が賞賛されたポールは、ディーンの急逝(1955年9月)により主演のポストが空白となっていた映画「傷だらけの栄光」(1956年)に、監督のロバート・ワイズの依頼を受け出演した。
この映画では、不良少年からボクシングの世界王者にのぼりつめた実在のプロボクサー・ロッキー・グラジアノの半生を演じて一躍注目を浴びる存在となった。確かに、ブランドとニューマンは顔の印象もさることながら、共に徹底した役作りをするなど優れた演技派でもあり、どこかに少しニヒルさを感じさせ、陰のある演技を見せるなど共通しているところが多い。私もイメージ的には、この2人には非常によく似ているとところが多いと思う。
1956年に最初の妻と離婚し、1958年、先述の舞台「ピクニック」で知り合った女優、ジョアン・ウッドワードと映画「熱く長い夜」での再共演を機に再婚。この年の映画「熱いトタン屋根の猫」(1958年)で初めてアカデミー主演男優賞にノミネートされるなど、公私共に充実した時期を迎えた。1960年代はニューマンにとって順風満帆そのものであり、「ハスラー」(1961年)で英国アカデミー賞の男優賞を受賞すると1963年の「ハッド」での受賞を機に1965年と1967年の3度、ゴールデングローブ賞の「世界で最も好かれた男優」に選出された(以下参考の※2参照)。そして、1974年の「タワーリング・インフェルノ」での報酬は100万$に達したという(Wikipedia)が、この映画では、前妻との息子スコット・ニューマンとの共演も実現している。その後、「評決」(1982年)などで何度もアカデミー主演男優賞にノミネートされたが長くこの賞には恵まれなかったが、初の受賞は「ハスラー2」(1986年)であった。彼は、監督業にも進出し、「レーチェル・レーチェル」(1968年)では妻のジョアン・ウッドワードを主役に起用もしている。
又、サラダドレッシングなどを作る食品会社を起こし、実業家としても成功したほか、ベトナム戦争の敗北を目の当たりにしたニューマンは、積極的な公民権運動ならびに反戦運動を展開。活発な運動と過激な発言は、当時のリチャード・ニクソン大統領をも敵に回す結果になり、1973年にホワイトハウスが公表したブラックリストにその氏名が記載されたという。
1970年代後半からは俳優業も不振続きであったが、不幸な出来事としては、1978年に、息子スコットが酒とドラッグに溺れ命を落としたが、 愛息の死を嘆いた彼は、麻薬撲滅運動の展開を決意。ドラッグで命を絶たれた息子の名を冠した「スコット・ニューマン基金」を設立 し、ドラッグの弊害を描いた映画やテレビ番組に対する資金提供を行っていたという。
又、彼は本業の俳優・監督の他にカーレーサー、実業家という顔も持っており、自家製のサラダを自慢していたニューマンは、1982年、冗談半分で食品会社「ニューマンズ・オウン」を設立し、サラダドレッシングなどを作る食品会社を起こし、実業家としても成功。設立以降挙げた純利益(2億2千万ドルとも)を全額、貧困に喘ぐ子供たちに寄付しているという。
カーレーサーとしては、1975年にレーシング・チーム(ここ参照)を設立し、1979年のル・マン24時間耐久レースでは2位にもなったが、レース中からずっとパパラッチがしつこく付いてくることに嫌気が差し、それ以来ル・マンにエントリーすることはなかったが、カーレースへの興味は晩年まで尽きず、擬人化されたレースカーが主人公のピクサーのアニメ映画「カーズ」(2006年)に声優で出たのが、最後の映画出演になった。
その翌・2007年5月25日に、現役を引退することを24日に出演したABCテレビの番組で表明したことが報じられた。この中で、ニューマンは「自分が求めるレベルの演技ができなくなった」「記憶力も自信も創造力も失い始めた」と引退の理由を語っていたが、1年後の 2008年の今日・9月26日、50年以上連れ添った妻や5人の娘(ジョアン・ウッドワードとの間は3人)・孫など愛する家族に看取られて亡くなった。
反抗的で野性味に満ちたヒーロー役が多かった演技派スター、ポール・ニューマンは、「明日に向って撃て!」の映画以降、知性を前面に出したスマートな役柄が増えていったが、何時の時代にも何にでも常に挑戦を続けた“理由ある反抗児”だったともいえるだろう。私の大好きな俳優の1人であった。以下では、映画「明日に向って撃て!」で、ブッチ・キャシディ役のポール・ニューマンとエッタ・プレース役のキャサリン・ロスが、雨にぬれてもの曲の流れる中自転車に乗ってデートをするシーンが見られる。最後にこの映画の名場面を見て彼を偲ぶことにしよう。
YouTube - Butch Cassidy and The Sundance Kid 明日に向かって撃て / 雨にぬれても
http://www.youtube.com/watch?v=hUVpYENQJMg
(画像は、「明日に向かって撃て!」のポール・ニューマン。向かって左端。画像はアサヒクロニクル「週間20世紀」1970年号より借用。)
参考:
※1:ポール・ニューマン- goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/c4237/index.html
※2:Yahoo!映画/ゴールデン・グローブ
http://info.movies.yahoo.co.jp/bin/search/a4/proaward/
アメリカンニューシネマの誕生とその時代
http://www3.ocn.ne.jp/~zip2000/new-cinema.htm
ポール・ニューマン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3シネマ・イラストレイテッド | 明日に向かって撃て!
http://cinema200.blog90.fc2.com/blog-entry-59.html

待宵月

2010-09-22 | 行事
今日は中秋の名月、1年で最も美しい満月の日ですね。
貼付の画像は昨夜の月「待宵月」です。
「月々に月見る月は多けれど、月見る月はこの月の月」
今日の満月は特に綺麗で、中秋の名月ともてはやされるが、この月は曇り空で、月見が出来ない事も多い。今日も天気予報では夕方から雨で見れないかもしれないという。
そのようなこともあり、名月の前後にそんな綺麗な月を惜しんでの行事が待宵月。
待宵月の待ちとは人が沢山集まって供物を備えて月の出るのを待ち、月を拝んで飲食を共にすると言う月を祭る行事ですが、「待宵月」優雅な良い名前ですね。

世界アルツハイマーデー

2010-09-21 | 記念日
1994(平成6) 年「国際アルツハイマー病協会」(ADI.。以下参考の※1参照)は、世界保健機関(WHO)と共同で毎年9月21日を「世界アルツハイマーデー」と制定し、この日を中 心にアルツハイマー病の啓蒙を実施しているそうだ。日本では「公益社団法人認知症の人と家族の会」(=旧呆け老人をかかえる家族の会。以下参考の※2参照)が実施しているようで、同会HPの「世界アルツハイマーデー宣言」を見ると、アルツハイマー病の患者は今や世界に1500万人を数えているという。
この病気は人の脳の中の、思考、記憶、言語等を司る部分を破壊するため、患者自身はいうに及ばず、家族、友人も知的機能を失った者との精神的、肉体的、経済的関わりのなかで日々戦いを余儀なくされている。アルツハイマー病および痴呆症に至る他の諸疾患については、治療も原因も解明されておらず、全世界の科学者による幅広い研究がつづけられているが、同会は、このような患者とその家族に対して、理解をもって生活の質の権利を擁護すべく、これらの諸疾患に関する世界的啓蒙の普及を図ると共に、地球規模での理解と把握につとめ、患者と家族への支援を推進するための努力と働きかけをしているようだ。 
先天的に脳の器質的障害があり、運動の障害や知能発達面での障害などが現れる状態である知的障害のある気の毒な人もいるが、私たちのようなもともと知的障害のない人間でも、歳をとるとともに、次第に記憶力も弱くなり、それが進むと、子供の名前さえ判らなくなるほどの酷い状態になることがある。そのような後天的な脳の器質的障害により、いったん正常に発達していた知能が低下した状態を、かって、日本では「ボケ」とか「痴呆(ちほう)」とかいっていたが、老人などのこのような症状を「ボケ」とか「痴呆」という言葉で表現するのは差別的・侮蔑的であるということから、2004(平成16)年以降、学術用語・行政用語としては「認知症」という用語に置き換えて使用されているようだ(詳細についてはWikipedia のここ⇒#名称変更の項を参照)。
「認知症」の狭義の意味としては「知能が後天的に低下した状態」の事を指すが、医学的には「知能」の他に「記憶」「見当識」の障害や人格障害を伴った症候群として定義されるようだ。単に老化に伴って物覚えが悪くなるといった誰にでも起きる現象は含まず、病的に能力が低下するもののみをさすようだ。又、統合失調症などによる判断力の低下も、認知症には含まれないが、逆に、頭部の外傷により知能が低下した場合などは認知症と呼ばれるのだという。つまり、専門家・医学界などでは、「認知症」と「痴呆症」とは、明確に区分しているようであるが、「認知症の人と家族の会=(=旧呆け老人をかかえる家族の会)」などでは「認知症」「痴呆」「ぼけ」は同義語です(編者)・・・としており、その症状や発生要因がどうであろうと痴呆の症状が発症いる人を介護している家族にとっては、専門的な区分などどうでもよいことだろう。世話をするのが大変なことにはちがいないのだから・・・。
日本の高齢者(65歳以上)での認知症の有病率は3.0〜8.8%(調査によってばらつきが大きい)。高齢化が進んでいる現状からすると2026年には10%に上昇するとの恐ろしい推計もあるそうで、年間発症率は65歳以上で1〜2%。年間発症率は75歳を超えると急に高まり、65〜69歳では1%以下だが、80〜84歳では8%にも上るという(Wikipedia)。
このような認知機能(以下参考の※3参照)低下、人格の変化を主な症状とする認知症の一種に、最近よくいわれる「アルツハイマー型認知症」があるが、痴ほうは、アルツハイマー型老年痴ほうと、脳血管性痴ほう(小さな脳こうそくの繰り返しらしい。以下参考の※4:「認知症の基礎知識」の認知症と脳血管障害のところを参照)で9割を占めるといわれているようだ(以下参考の※5参照)。日本では、かって脳血管障害による認知症の方が、アルツハイマー病よりも多いと言われていたが、最近ではその割合が逆転し、アルツハイマー型の方が多いそうだ。
アルツハイマー型には、アルツハイマー型老年認知症といわれるものの他に、家族性アルツハイマー病(FAD)といわれるものもあるが、こちらはアルツハイマー型認知症の中でもごく少数で、常染色体の遺伝により、30~60歳、特に特に50 - 54歳位での発症例が多いらしいが、アルツハイマー型老年認知症は、老年期(通常60歳以上)に発症し、アルツハイマー型認知症の中の大部分を占め、老年期の認知症では、約80%が疑われているというから、今、現在、認知症でない人でも十分な警戒が必要だろうね~。
このような認知機能(以下参考の※3参照)低下、人格の変化を主な症状とする認知症の一種に、「アルツハイマー型認知症」があり、この「アルツハイマー型」の名は、最初の症例報告を行ったドイツの精神科医アロイス・アルツハイマーに由来しているもので、日本では、認知症のうちでも脳血管性認知症(以下参考の※4:「認知症の基礎知識」の認知症と脳血管障害のところを参照)、レビー小体病と並び。その中でも最も多いタイプがこの型だ。そして、アルツハイマー型認知症には、家族性アルツハイマー病(FAD)といわれるものと、アルツハイマー型老年認知症といわれるものの2つのタイプがあり、前者はアルツハイマー型認知症の中でもごく少数で、常染色体の遺伝により、30~60歳、特に特に50 - 54歳位での発症例が多いらしいが、後者は 老年期(通常60歳以上)に発症し、アルツハイマー型認知症の中の大部分を占め、老年期の認知症では、約80%がこの型と疑われているというから、今現在、認知症でない人でも十分な警戒が必要だろうね~。
実は、今日この話をブログで書いたのは、私がまだ現役の50代半ばに、最後のお勤めで九州へ赴任していたとき、原因(頭痛だったと思うがなぜかよく覚えていない)は何だったかよく覚えていないのだが、初めて、九州の地元のかなり大きな病院で診察してもらったとき、何か急に、CT(コンピュータ断層撮影)による頭部断面レントゲン検査をしようといわれ、即日検査をしてくれたが、その結果を聞くと、自分が病院へ診てもらいにいった病気の症状のこととは関係なく、今撮ったばかりのレントゲン写真を見せられ、脳と頭部の間に隙間が出来ており、これは「アルツハイマーの初期症状だ・・・」などといわれた。そして、この状態が進行するといつか痴呆症になるので注意しなさいなどと言われ、ショックを受けたことを思い出したからである。そのことを、家人に話すと、家人もずいぶん心配し、私は少々短気なところがあるので、「短気な男性は痴ほうになると暴力を揮う人が多いそうだ」と聞いていると言って、なにかあると定年退職後、家にいて、ボウッとしているとボケ(痴ほう)が進むので気をつけてくださいよ・・と注意されていた。
しかし、ノー天気な私は、その後も、そんなことなど余り気にもせず、CTやMRYによる再検査などもしないまま今日まで来たが、その当時から15年以上も経過した今でも特別気になる症状は出ておらず、一体あれは、なんだったのか?と未だに判らないまま不思議に思っている。とはいえ、やはり、歳のせいだろう、歳相応に記憶力は確実に衰えているようだ。私は、どちらかと言うともともと若い頃から、余り、歴史上の人物の名前や、年代などよく覚えられないタイプの人間(覚えることより考える方のタイプ)だから、余計に、物覚えが悪くなるのだろう・・・。ただボケ(=痴ほう症)は「記憶障害による知的判断力の低下の為に社会生活が困難」な状態をいうものだから、中年以降になって人や物の名前をすぐ思い出せなったからといっても、これは単に記憶力の低下、いわば脳の老化現象の代表である健忘といわれるものであって、「痴呆」ではないので、特別、ボケの始まりと心配することはないのだが、ただその症状が月単位で進んでいったり、日常生活に支障を来すようになってきたりした場合には認知症の疑いがあるので、医者に相談をしなければいけないだろう。
誰でも現役から退くと、どうしても人とのつながりも少なくなり、頭や体を使うこともなくなっていく。高齢になったからと言って知能機能が低下するわけではないが、やはり、日常の生活習慣・・・食習慣、運動習慣、知的生活習慣など、年相応のことに努力し、夫婦で痴呆症になって子供たち家族に世話をかけないよう努力しようと誓い合っているのだが・・・。
私は、先にも書いた、現役最後の方で、九州にいたとき、仕事柄数日の宿泊を伴なう出張が多かったので、家人が知らない土地で1人いるのは寂しいだろうと、暇なとき用に私のパソコンのゲームをやらせていたが、その頃、ちょうど、テレビゲームの中古販売店があちこちに出来始め、又、近くの大きな神社の市などに小さな子供たちが使い古しのゲーム機やソフトを本当に安い値段で処分に来ていたので、パズルゲームを中心にいろんな機種の中古のゲームソフトを大量に買い集めておいた。それも、年をとった家人でも出来るようにと操作が容易なものや、特に思考型のパズル系統のものが殆どである。
最近はテレビも見ようと思うような良い番組もなくなったので、夕食後などは、夫婦で、買い集めておいた中古のテレビゲームを楽しんでいるが、これは、結構、反射神経や思考力を保つために良いものだと思っている。昼間は、私は、このようなブログを書いたりしているが、これも、もともと人に読んでもらうというよりも、書くために本を読んだりネット上を色々検索したりして、自分流にまとめて書く・・つまり、脳トレのつもりでしているものである。編み物教室をしていたことのある家人は、趣味の編み物で、嫁や孫の着る物を作って楽しんでいる。これも、結構頭のトレーニングにはなるようだ。又、夕食後の散歩(ウオーキング)や体調の良い日は、裏山登山のほか遠方へのテクテク歩きもしているので、どちらかと言うと周囲の同じような年代の人達よりは、精神的にも肉体的にも若いのではないかと思っている。ただ親戚にも痴呆症により夜中に俳諧を繰り返し、世話をしている人も看護疲れから、最後には介護施設のお世話にならざるをえなかった事例も見ているし、回りを見渡せば、知り合いや近所の人達の中に、80歳を超えた人、特にその頃になって、連れ合いをなくした人などには、精神的なショックが影響したからであろう、それまで、本当に元気にしっかりとした生活していた人が、急に痴ほう症状となっている人も多くいる。私達も今元気に過ごしているが、これから先どうなるか・・?この問題は人ごとではなく私たち夫婦にとっても最も気がかりなことではある。
(冒頭の画像は、通常の老人の脳(左)とアルツハイマー型認知症患者の脳(右)。解剖学的な特徴の違いを示しており、アルツハイマー型認知症患者は大脳皮質海馬の萎縮、および脳室の拡大が見られるようになるという。Wikipediaより)
参考:
※1:国際アルツハイマー病協会
http://www2f.biglobe.ne.jp/~boke/newsadi.htm
※2:公益社団法人認知症の人と家族の会
http://www.alzheimer.or.jp/jp/kokusai/alz_day.htm
※3:健康長寿ネット−認知機能の老化
http://www.tyojyu.or.jp/hp/page000000300/hpg000000217.htm
※4:鹿児島大リハビリテーション医学>リハビリの窓から>第5回:ボケはよくなる?
http://www.kufm.kagoshima-u.ac.jp/~rehabil/koza/window/990705.html
※ 5:認知症の基礎知識
http://www.icatgroup.com/nintisyou/archives.php
認知症なんでもサイト
http://www2f.biglobe.ne.jp/~boke/boke2.htm
教えて!認知症予防
http://www.ninchisho.jp/index.html
認知症- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%8D%E7%9F%A5%E7%97%87#.E5.90.8D.E7.A7.B0.E5.A4.89.E6.9B.B4

「敬老の日」(Part2)

2010-09-20 | 行事
9月20日(9月第3月曜日)は「敬老の日」である。
2010年度中に全国で100歳の誕生日を迎える高齢者が9月1日時点で過去最高の2万3千269人(前年度比1666人増)に上ったことが14日、「敬老の日」を前にした厚生労働省の調査で分かったという。100歳を迎えられた方には心から「おめでとう」といいたい。
しかし、全国で高齢者の所在不明が問題となる中、同省が、全国の自治体に100歳の高齢者の存命確認を要請したところ、この中10人については住民票は残っているが、所在が確認できなかったことも判明したという。この10人は、どうなっているのだろか?
世界的に経済が低迷している中、経済的に恵まれていない人や病気などで身体が自由にならない人達、又、そのようなお年寄りたちを支えておられる方達のご苦労を考えると本当に大変だろうな~と、自分の将来を重ねあわせながらつくづくと考えさせられる。
敬老の日は、日本の国民の祝日の1日である。国民の祝日に関する法律(祝日法)では「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことを趣旨としている。兵庫県の一地方で行なわれていた「としよりの日」が始まりで「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」と、農閑期の気候も良い9月中旬の15日を「としよりの日」と定め、敬老会を開いたものが1950(昭和25)年からは兵庫県全体で行われるようになり、後に全国に広がったが、「としより」という表現は良くないということで1964(昭和39)年に「老人の日」と改称され、1966(昭和41)年に国民の祝日「敬老の日」となった。新祝日を記念して日本交通公社(現:JTB )が、全国で180コースの敬老旅行を計画。東京では都内在住の80歳以上の夫婦16組を1泊2日の伊勢参りの旅に無料招待した。参加した32人の歳の合計は2651歳で、平均82,8歳。元気良く東海道新幹線で旅立った。冒頭の画像及びここに引用の文は、朝日クロニクル「週間20世紀」(1966年)からのものである。この当時の微笑ましいニュースではある。
「敬老の日」のことは、以前にこのブログで書いた(以下参考の※1参照)ので、このことを書くつもりはなかったのだが、今年になって、100歳以上の方の所在不明や、戸籍上は生きていることにはなっているものの実際には生存しておらず、介護疲れや年金目当てに実の子供達によって、何年も前に殺されていたなどという哀しいニュースが連日報じられている。又、所在のわからない高齢者が全国で相次いで確認されているなか、今年の8月25日朝日新聞により、大阪府東大阪市では、120歳以上の高齢者228人が戸籍上で生存している状態になっていた。その最高齢は江戸時代の1861(文久元)年生まれの149歳であると発表されたあと、山口県防府市で坂本龍馬より12歳年上の186歳の人がいた。いずれも住所や性別不明であるなどというとんでもないニュースなどを聞くにつけ、又、どうしても書かずにはいられなくなり、Part2として書くことにした。
今回再度、冒頭の画像を借用した朝日クロニクル「週間20世紀」を見直していると、1967(昭和42)年版(36P)に、「敬老の日」に関連する以下のようなことが記載されていた。
1967(昭和42)年2月11日は、初めての建国記念日(戦前で云えば「紀元節」)に当たる。この祝日を巡っては賛否両論が続出。歴史的にも曖昧な上に軍国主義復活を憂える雰囲気もあり、特に学校現場では、日教組からの突き上げもあり、各学校の校長はこの祝日を生徒にどのように説明してよいか相当困惑したようだ。もとはといえば、1946(昭和21)年3月、当時の吉田茂首相が「紀元節」を復活したいと公式に表明した事が始まり。以来8回ほど国会に提案されたが結局実現しないままだった。しかし、1968(昭和43)年は、明治維新100年にあたることから、佐藤栄作首相は、建国記念日制定に積極的になり、1966(昭和41)年3月に、敬老の日、体育の日とのセットで、建国記念日を新設する「国民の祝日法改正案」を国会に提出。6月に敬老の日と体育の日が公布され、建国記念の日だけは、紆余曲折を経て、12月に政令(昭和41年政令第376号)として公布された。・・・と。
要するに建国記念日新設の為に敬老の日と体育の日との3点セットで新設して、ごちゃごちゃっと祝日法を改正してしまったということであり、このような経緯を知ってしまうと、祝日法の趣旨である「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことを、どこまで思って「敬老の日」を設置してくれたのか・・・・?
昨今のマスコミで伝えられるお年寄りの悲しい報道などと照らし合わせていると非常に疑問を感じると共に、日本の政治家がやることなどそんなものかな~と変に納得したりするのが同じ日本国民として哀しく思う。
2003(平成15)年までは毎年9月15日を敬老の日としていたが、2001(平成13)年の祝日法改正いわゆるハッピーマンデー制度の適用によって、2004(平成16)年からは9月第3月曜日となった。ハッピーマンデー制度とは、週休2日制が定着した今日、月曜日を休日とする事によって土曜日・日曜日と合わせた3連休にし余暇を過ごしてもらおうという趣旨で制定されたもの。つまり、余暇を旅行などで過ごすには連休の方が良いだろう・・・と言うことで制定されたものである。思い起せば、今のような核家族化が進行し核家族と言う言葉が流行語となったのは、「敬老の日」が新設された翌・1967(昭和42)年のことであった。離れて暮らしている田舎のおじさんやおばあさんの為に何かしてやろう・・・などと気のきいたことをしている人がどの位いるであろうか?
又、介護老人保健施設に入所している要介護者は、大部分が65歳以上の敬老対象となるお年寄りであるが、ハッピーマンデー制度を利用して、遠くはなれた自分の家庭に帰って年老いた家族との談笑をしたり、施設などに入っている家族への面会などが増えたとなどという話などは余り耳にしたことはない。皮肉なことに、この祝日法の変更はお遊びの大好きな若者にとっては都合の良いものだろうが、お年寄りにとって余り、幸せなことではなかったのではないか。
この敬老の日を第3月曜日に移すにあたって、高齢者団体から反発が相次いだため、2001(平成13)年に老人福祉法第5条を改正して9月15日を老人の日、同日より1週間を老人週間とした。その老人福祉法第5条1項には、「国民の間に広く老人福祉についての関心と理解を深めるとともに、老人に対し自らの生活の向上に努める意欲を促すため、老人の日及び老人週間を設ける。」・・・と記載されており、つまり、老人には人に頼らず自分の生活の向上は自分でするよう促すための日と1週間の期間が設けられたのだ。しかし、残念ながら、長年家のため、子供たちのために一生懸命に働いてきたお年寄りへの感謝の気持ちや敬老の精神、又、核家族化による家族制度の崩壊などによって、年寄夫婦だけ又1人暮らしの孤独な暮らしをしている老人たちが増加しているがこのような老人をどのように慰めてあげようかといったいたわりなどはどこにも見られない。単に高齢者の経済的な側面や肉体的衰えに対してどうフォローしようか・・・といった物理的な面のみが中心になっている。
老人福祉法でいう老人とは、満65歳以上の人を指し、国連の世界保健機関 (WHO) の定義では、65歳以上の人のことを高齢者としている。
1985(昭和60)年9月14日、65歳以上の高齢者が全人口の1割を突破したと総務庁が発表した。・・・このことも以前にこのブログで書いた(以下参考の※2参照)。
直近では、2008(平成20)年9月12日厚生労働省発表の、同年9月1日現在の100歳以上の高齢者数は36、276人であった。100歳以上の高齢者の数は、年々急速に増えており、老人福祉法が制定された1963(昭和38)年には全国で153人であったが、1981(昭和56)年には1千人、1998(平成10)年には1万人を超え、2007(平成19)年は3万人を突破、2008(平成20)年は36,276人(前年比+3,981人)となった。また、100歳以上の高齢者36,276人のうち、女性が31,213人で、全体の約86%を占めているとある。以下参考の※3参照)。
今年(2010年)5月10日世界保健機関(WHO)が、発表した「World Health Statistics 2010(世界保健統計 2010)」によると、日本人の平均寿命は、83歳(男女平均。男性は、79歳=4 位、女性が86歳=1位)で193カ国中1位である。(寿命の統計は、2008年時点のもの)。以下参考の※4:平均寿命ランキング・国別順位 - 世界保健機関(WHO)世界保健統計(2010年)参照。
又、以下参考の※5:「図録主要先進国の平均寿命の推移」を見ると、1950年代には主要先進国中、最低だった日本の平均寿命が、1970年代~80年代には総て抜き去り、世界一に躍り出て、以来世界一を維持していることになる。これには、医学の進歩の影響のみならず、日本の場合、国民皆保険制度の普及や日本的食生活なども長寿の要因としてあげられており、結構な事である。
しかし、昨今の日本の経済状況の低迷を見ていると、高齢者のための医療制度など何処まで維持していけるかかなり不安があり、この長寿実績の継続維持も難しいのではないかと考える。
現在の高齢者には、長年こつこつと働き、相当の資産を持っている人も多いが、悲惨な戦争による苦しい生活も経験し、戦後の復興期には、サラリーマンなど毎日毎日残業が続く中、ろくろく休みも取れずに働き、まともに遊ぶこともせず、食べるものも始末してお金を溜めてきたのは、ほとんどの人が、老後に、贅沢をしようとかいったことではなく、過去の辛い経験の中でお金の苦労を厭と言うほどしてきているだけに、不安な将来の医療や生活、災害など非常時の備えをしてきたものだろう。しかし、逆に生活保護を受けている人よりも少ない年金で細々とした生活をしている人が多いことも留意が必要。低所得であってもこのような古い年代の人達は愚痴も言わずにその日その日をなんとか過ごしているのである。
バブルが弾けて以降、最近の経済不況が続く中、将来に不安を抱えている若者には、医療・年金などの福祉に対する負担が重くのしかかっており、そのような少々の蓄えをしている高齢者への一種の妬みのようなものが芽生えている人もいるのでないかと言う気もする。
かって、道徳的で、老人を尊敬し優しく面倒もよくみていた我が国では、最近、老人などの弱者を騙す詐欺事件や虐待、介護の世話から逃れるため、また、終いには年金などを目当てに実の親まで殺すといった者まで現れるというなんとも哀れな、情けない国になってしまった。
これらの問題を基本的に解決する為には、若いうちから、親や子、家庭を大切にし、真面目にしっかりと働けば、そのような人(国民)は、「亡くなるまで国が守りますよ」・・・といった将来への安心が約束される国へ改造しなければならないだろう。そうでないと、少子高齢化問題(以下参考の※6参照)も、痛ましい犯罪(以下参考の※7 など参照)もなくならないだろうし、結局若者もいつかは、孤独な辛い老年期を迎えなければいけないことになるだろう。
教育や医療費のこと、安心して暮らせる年金や介護が約束されれば、国民は、そのために必要な税の負担にも応じるだろうし、貯金ばかりしなくても安心して、収入の多くを消費に回すようになるだろう。
かって、日本が経済的にも精神的にも豊かだった時代は、1億総中産階級といわれる時代だったと思うが、今はどんどんと弱者と強者、高所得者と低所得者の2階層へと分離していっている。
昔の儒教修身の教育が今の教育に必要などとは言わないが、世界の中でも仏教やキリスト教などどんな宗教でも、それを信じている人達の国では、自分を生み育ててくれた親やその親の親であるおじさんやおばあさんを大切にしようなどと言うことは当然のこととされているはずである。無神論者が多数を占めるといわれる日本では、戦後、新しい教育の中で戦前の規範であった道徳などについての教育もおざなりにされていた嫌いがあるが、「老人を敬愛」などと言っても、かって老人が尊ばれた時代の老人の知識・教養も、老人などから直接学ばなければならないことが少なくなった今の時代、新しい視点からの倫理観や道徳観を共有するようにしなければいけないだろう。同時に、昔から有名な「貧すれば鈍す」ということわざがあるが、これは孟子の「梁上編」にある言葉「恒産無くして恒心有るは、ただ士のみ能(よ)くすとなす。民のごときは、則(すなわ)ち、恒産無ければ因(よ)って恒心無し」を日本風に修正した格言。やはりある程度生活が出来るだけの「安定した財産がないと、心も動揺しがちで、安定した状態(精神)を保つことはできないもの」であることを云っている。現代社会のように、生活に困る状態の人が多くなってくると色々な問題が起こってくるのは必然ともいえる。政治家には老子のこの教を肝に銘じて良い国づくり・政治をして欲しいものだ(老子については、以下参考の※8や※9を参照)。
お年寄りのことについては 、このブログで前に、2月2日の記念日「>おじいさんの日 」について書いたので、興味があったらそこも見てください。)
(冒頭の画像及び文朝日クロニクル「週間20世紀」1966年より)

「敬老の日」(Part2):参考 へ