今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

床屋さんのサインポール

2014-06-25 | ひとりごと
「床屋さんはどこも赤青白の3色の回転灯が店の前にあるけれど、どうしてかな~?」

子育てしたことのある人なら、だれもが小さな子供の質問にどきまぎさせられた経験を持っているのではないだろうか。
北極と南極の氷、どう違う?(03/15)
植物にも体温はあるの?(03/29)
クモの巣はどう作る?(04/05)
好奇心の旺盛な子供に、このような質問を次々とされたらどうします?
私は新聞などちょっと面白いと思った記事を見つけるとスクラップを残してあるのですが、冒頭の質問は、2011(平成23)年の今日・6月25日付朝日新聞朝刊 be 連載の「ののちゃんのDO科学」欄に掲載されていたののちゃんの疑問である。以下の質問も同様。以下参照。
朝日新聞デジタル:ののちゃんのDO科学一覧

さて、先に書いた床屋さんの赤・白・青の三色の縞模様がクルクルと回転する細長い円柱形の看板はサインポール(signpole)と呼び、今では、理容店を 示すシンボルともなっている。
営業中であることを表すため回しているが、この三色の「サインポール」は、世界共通のマークだという。
サインポールの由来には諸説あるようで、Wikipediaには4種類の説を上げている(※1参照)が、「ののちゃんのDO科学」ではののちゃんの質問に対して、その中の一説を藤原先生が、確からしいところの話として以下のように説明していた。
中世のヨーロッパでは、歯を直したり傷を手当てしたりする人たちが理髪外科医と呼ばれ、髪を整える仕事もしていた。
その治療法の中に「瀉血(しゃけつ)」というのがあり、体の悪い部分に、悪い血が集まるから、病気を治すためにその血を体外に出そうとした。当時はこのような方法が盛んだったようで、患者に棒を握らせて、血が棒を伝わって受け皿へ落ちるようにしていた。
だから血が目立たないように棒は赤く塗られていたらしい。治療後に巻く白い包帯が棒に巻きついたことがあり、そんな様子から赤と白が理髪外科医の看板に使われるようになったという。
「では、青は何なの?」というののちゃんの説明に、
いろいろな看板が使われるうちに青も加わったみたい。その後、専門性が高まって外科と理髪が分けられるようになり、イギリスで、1745年に仕事別に組合を作った時、外科は赤白、理髪は赤青白を使うようになったんだって。理髪店の団体の人に聞いてもこの説が有力だって教えてくれた。
お医者さんがやっていたことと関係づけて、赤は、動脈、青は静脈、白は包帯を表すという説明も聞く。ただ動脈を赤、静脈を青で表すのは、1628年の発表で用いられたのが最初らしい。
しかし、赤青白を使った看板はその前からあったので、この説は後から広がっただけと言えそうだ。この説は
日本心臓財団のHP※2:「赤いハートは聖杯から」に、もう少し詳しく書かれているのでそこを読まれるとよい。

上掲の画像は、Wikipediaに掲載の「中世ヨーロッパの瀉血」の様子を描いた画像。これを見ると、瀉血をするのに棒をもっているようには見えないが・・・。

それでは、「サインポール」は、何時日本でも使われるようになったのか?
日本には、髪結いという仕事が江戸時代にもあったが 、西洋風の理髪店は1869(明治2)年に横浜が開かれたのが最初。その2年後、赤青白に塗り分けた看板の記録が残っているらしいので、西洋の理髪技術とともに入ってきたようだ。このことは この後でまた書くことにしよう。
「美容院」では赤青白の「サインポール」を使っていないが、「美容院」が法律で区別されたのは第二次世界大戦の後のことであり、その時に、赤青白の「サインポール」は、理髪店が継いだらしい。
よく見るといろんなタイプの「サインポール」があり、型の違いだけでなく、緑やオレンジを使った色変わりタイプ、また、店頭に立てているような大きいものは、存在感はあるが、出し入れが大変と、最近は壁に取り付ける小型のものに人気があるようだ。
では、とりあえず「サインポール」の話はこれまでにして、次は床屋の話に移ろう。
現在の理容店(理髪店)は、一般的に散髪屋、床屋という呼び名が用いられ、「理容室」は男性用であり、「美容室」は女性用といったイメージを持つ人が多いかもしれないが、美容と理容の意味は似ているが、これは男女の区別ではなく、法律で次の通り、業務内容が明確に区別されている。
○理容:頭髪の刈込、顔そり等の方法により容姿を整えること(理容師法第1条の2第1項)
○美容:パーマネントウエーブ、結髪、化粧等の方法により容姿を美しくすること(美容師法第2条第1項)
そもそも、理容の場合、仕事のなりたちは、文明開花散髪脱刀令(明治4年8月9日太政官第399)が発布されたあたりに遡る。しかし、この法令は一般に「断髪令」という名称で知られているが、実際は、髪型を自由にして構わないという布告であり、髷を禁止して散髪を強制する布告ではなかった。
この断髪令が布告される3ヵ月前に、
半髪頭をたゝいてみれば因循姑息の声がする
惣髪頭をたゝいてみれば王政復古の音がする
ザンギリ(斬切)頭をたゝいてみれば文明開化の音がする
という俗謡が新聞に掲載され、流行したが、これは新政府の木戸孝允が新聞の果たす役割が大きいことに着目し掲載させたもので、文明開化にザンギリ頭が欠くことのできないものであるという観念を国民に植え付けたのだそうだ(※3:「全国理容生活衛生同業組合連合会」の理容の歴史のここ参照)。
男性が髪型改革で混乱した影響からか、女性の中から黒髪をバッサリと切ってしまう人が現れた。これに対し、政府部内でもこの現象を問題視して、明治5 年4月5日(1872年5月11日)に「婦女子のザンギリと男装はひっきょう『散髪の儀は勝手たるべし』とのかねての布告の趣旨のとり違えであるから婦女は従前のとおりにせよ」という布告を出すに至り、ついには、明治6年(1873年2 月13日には「婦人断髪禁止令」が出されている。
そののち「婦人束髪会」(著者:豊原国周。※4参照)は、男性の断髪に対する政府の「散髪七徳の広告」(大坂新聞・明治6年1月20付け。※3のここ参照)と同様に、「女子の今日の結髪は、実に無駄遣いである」と結髪の不経済さを説くなどして、執拗に日本髪廃止に力を入れた(※3のここ参照)。以後、新しく開発された近代束髪は明治の女性の間に多く見られるようになるが、 基本的に女性は明治時代になっても髪を結うのが普通であって、「カットでそろえる」という概念はなかったようだ。
そのため、最初は理容美容が一緒だった法律「理容師法」が昭和23年(1948年)1月につくられ、徐々に成熟してきたことによって、昭和32年(1957年)に、単独の法律「理容師法」「美容師法」に分かれたのだという。※3また理美容を参照)。

現在の理容店は、一般的に床屋という呼び名を用いるが、これは江戸時代から明治にかけての理髪業に従事する人を総称し、髪結いといったが、男の髪を結ったり、ひげやさかやき(月代)をそったりするのを職業とした店を「髪結い床」と呼んだことに由来する。

床屋発祥の地は山口県下関市といわれており、髪結職の業祖に関しては江戸時代中期につくられたといわれる「一銭職由緒書」という史料が各地に伝えられているそうで、同書によれば、藤原鎌足の子孫である藤原晴基(または基晴)の三男ともいわれる藤原采女亮政之新羅人から技術を学び髪結所を開業したのが始まりとされているそうだ。
店の中に床の間を設け亀山天皇と藤原家を奉る祭壇があり、人々は“床の間のある店”から転じて“床屋”という屋号で呼ぶようになったという。采女之亮はその後鎌倉に移り、幕府からも重用されるほどになったといわれている。
そして、日本における理美容業の祖として、昭和のはじめ頃まで全国の理美容業者は采女亮の命日である17日を毎月の休みとしていたようだ(※3のここ参照)。

髪を結う場合、自分で髪を結う場合と人に結ってもらう場合がある。
雑用をこなす召使がいる武士と違い、庶民は自分で、月代(さかやき)を剃ることができず髪結いに頼んでいた(貧しい人は月代を伸ばしっぱなしにしたり妻に剃ってもらうなどした)。
江戸時代になって髪結い職というのが、社会的要求から男子の場合は公に許された鑑札制となり、慶長末(17世紀初頭)の高札には「一銭剃り」とか「一文剃り」とあるという(NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第六巻服飾編)。
男性の髪結いは月代が広まった室町後期位から江戸初期に永楽銭一文程度の料金で髪を結い月代を剃った「一銭剃」が起源だといわれている。髪結いは町や村単位で抱えられ、床と呼ばれる仮店で商売を行ったため床屋とも呼ばれる。
床屋が特に多かったのは独身男性が多い江戸だったが万治年間(17世紀中頃)、江戸市中に髪結床の株を設け、1町内に1か所、八百八町に1件ずつとして八百八株と定めた。床屋の数はこれ以後増え続け、幕末には2400余り開業されているという。
1軒の店舗を構えたりせず江戸初期は江戸も京阪も大きな橋の袂など往来の多い所へ床を置き、葦簀(よしず)や幕の類を巡らして、通行人の求めに応じて月代を剃ったり髪を結った。
江戸の男性はかなり頻繁に床屋に通っていたらしく床屋は番所や社交場としても利用された。
江戸や大阪・京都では、髪結い職人の数を限定して営業保障をする一方、髪結いに対して交役を課し、床屋は幕府に届出して開業した後は町の管理下で見張りなどの役割を果たしており番所会所と融合したものを内床、橋のそばや辻で営業するものを出床、また髪結いの道具一式を納めた道具箱を持って得意先回りをするものは廻り髪結いと呼ばれた(大坂では床髪結は牢番役を務めその中核には一人の組頭がいたという)。
当時の床屋は現在の美容院と違って客の髭を剃ったり眉を整えたり耳掃除までしていたため、かなり長い年月の修行が必要になる技術職でもあったようだ。床屋の料金は天明年間でおおよそ一回280文前後で、月代・顔剃り、耳掃除、髪の結いなおしをする。
一方、得意先と年季契約して出張する「廻り髪結い」は大店などに抱えられており、主人からは一回100文前後、ほかの従業員はその半額程度の料金を取ったという。決められた料金のほかに、「あごつき」といって得意先に食事を出してもらう契約のところもあり、また祝い事のご祝儀なども届けられるなど、腕のよい髪結いならそれなりに余裕のある暮らしを送っていたようである。

上掲の画像は「(洛中)と郊外(洛外)の景観や風俗を描いた江戸時代以降の屏風絵『洛中洛外図屏風』(舟木本、屏風六曲一双)東京国立博物館蔵に、描かれている「床屋と番人」である。原画は以下でみられる。向かって左から2曲目橋の袂に描かれている。

東京国立博物館 - コレクション 名品ギャラリー 館蔵品一覧 洛中洛外図


上掲の画像は、式亭三馬の滑稽本『浮世床』に描かれている「髪結い床」の図である。
この図に出てくる床屋は、長屋の一角に店を構え、客は上り框の板敷に座り、月代や顔をそり、髷を結いなおしてもらっている。親方のほかに下職も何人かいた。湯屋の二階(※5参照)と同様、順番待ちの客にとっては良い社交場でもあった。

上掲の画像は場所回りの髪結床(出床)の図である。向かって左:山東京伝作・画『青楼晝之世界錦之裏国立国会図書館蔵。右:英泉画 「髪結い床の図」名古屋市博物館蔵である。
左図は、遊郭などを回り、夫人の髪を結っている(女髪結い)。女の人の髪は遊女以外は自分で結うことを原則とし、髪を結えれば一人前と言われた。女性の髪を手がける女髪結いは明和年間(1764年から1771年)あたりから登場したようだ。奢侈を戒めることから何度か禁令が出たようだ。また、右図、英泉の『青楼晝之世界錦之裏』の原画は以下でみられる。

電子図書 戯場訓蒙図彙 - 文化デジタルライブラリー


上掲の画像は、歌舞伎を題材とした読み物『戯場訓蒙図彙』(享保3年=1803年 初代(歌川豊国画)に出てくる芝居の楽屋裏に設けられた「床山」の図である。役者の髪を専門に結う職人を床山と呼び、現代もその名は続いている。(※ここに掲載の画像等はいずれも私の蔵書NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第一巻生活編、第六巻服飾編のものを使用した)。
 
江戸時代までの月代を剃り、髷を結う床屋ではなく、現代的な西洋理髪をする床屋を、明治の初めころは西洋床と呼んでいた。その最初の西洋床は、外国との通商条約(日米修好通商条約を参照)が締結されたことにより開港された港町から始まるが、特に江戸に近い横浜で始まった。
その祖は南京町で開業した小倉虎吉や松本定吉という人物等だとされている。
そして、一般の人たちが、散切り(ざんぎり)頭になったのは、散髪脱刀令が出された後の1873(明治6年)3月明治天皇が西洋風に断髪したことで、官吏を中心にこれに従う者が増え、一般の国民も同様にする者が増えていったが、それでも保守的な男髷姿を選ぶ人を(半ば揶揄して)「丁髷頭」と呼ぶようになった。そして、1887(明治20)年頃には、殆どの人が散切り頭になったといわれている。

これで床屋とサインポールの話は終わるが、「なぜ?」「なぜ?」を連発するののちゃん・・・いや、多くの小さな子供の質問に辟易している人も多いのではないかと思うが、大変なことではあるが、その質問にちゃんと答えてやるのが一番の教育なのだろう。
古代ギリシアの哲学者であるソクラテスは、「知らないのに知っていると思っている人より、知らないので知らないと思っている人(無知の知)のほうが優れている」と言っており、弟子のプラトン等への教育方法としては“相手に問いかけて、答えを相手の言葉で相手の中から引き出す”=“問答法”が有名。
ソクラテスは「 私は自分が何も知らないということを知っている 」と主張して いるのだからソクラテス自身は何も教えはしない。
ただ、知らないから教えてと「問うこと」だけをする。問われた相手の回答に納得できなければ更に問いを出す。
これを繰り返し最後には、相手は自分の納得できる回答をする。この答は 相手の中で出来たもの。だからソクラテスは教えていないことになるのだ。
ソクラテスの場合は「これはなにか?」と問答しながら、結局最後には相手に自らその真実を気づかせている。
これとは逆に、仕事でも勉強でも疑問があった時には、 知らないことは知ったふりをせずに人に聞くことが大切である。
ところが最近の若者は、聞くのが恥ずかしい。まあよくわからないけどいいやと解決しないことが多くあるようだ。
そういうことを積み重ねていると、後々痛い目を見ることになる。
『聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥』・・・という諺もある。
私も現役時代感じたことであるが、学生時代とは異なり、一般社会では仕事のできる人と頭の良し悪し(この場合、一流の大学を出たとか、なんでも良く知っているとか)はあまり関係ない。
仕事のできる人とできない人は「、知らないことを知らないとわきまえているか否か」で決まる。
仕事でも勉強でもできる人ほど、判らないことは判らないと疑問点は質問していることが多い。つまり、知ったかぶりはしていない。
彼らは、聞くことを恥ずかしいなどと思わず、わからないままにしておいて、成果が出ないことを恥ずかしいと思っている人達である。
若いうちは特に誰にでもなんでも聞けるという特権を持っている。年を重ねるほどに聞きづらいことも、若いうちなら許される。そしてチャレンジし、失敗することも・・・・。

生涯に約1300もの発明をしたアメリカの発明家・起業家であるトーマス・エジソンは、発明王また、エジソンの研究所が置かれたニュージャージー州のメンロパークにちなんで「メンロパークの魔術師」とも呼ばれるが、彼の功績は、伝記などに記されている“発明”ではなく“発明”という行為を大勢の人間に認知させたことが何よりも重要なことであったと言われている。
それまでの発明と言うものは「立派な学校を出た一流の科学者が作り出すもの」という既成概念があった。しかしエジソンは幼いころから正規の教育を受けられないという困難に見舞われたが、図書館などで独学し、新聞の売り子(販売員)として働くことでわずかなお金をコツコツと貯め自分の実験室を作った逸話などでも知られている。16歳ころには電信技士として働くようになり、さまざまな土地を放浪しつつも、自力で様々な科学雑誌を読破して学び続けた。耳が不自由になったにもかかわらず、それに負けず、努力を積み重ね成功したことでも知られている。
エジソンは成功した人物として知られているが、その一方で、それと同じくらい、あるいはそれ以上に数々の失敗・敗北を経験したことでも知られいる。
そんな努力の積み重ねで身に付けた科学知識で様々な発明を作り上げていった。そして発明を一般人にも手の届く、アメリカンドリームを実現する手段へと多くの人たちに夢を与えた人であった。
数多くの発明の中では「電球を発明した」人物としても有名だが、実際には電球の原理はエジソン以前にすでに知られ、エジソンの独創ではない。彼は、電球などの家電を含めて発電から送電までを含む電力の事業化をして普及させ、その電気の流れに乗せてさまざまな電化製品を開発・製造・販売した偉大なイノベーターであったのである(※7参照)。
そんなエジソンの名言・格言(※8参照)には、
「失敗したわけではない。それを誤りだと言ってはいけない。勉強したのだと言いたまえ。」
「私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、うまく行かない方法を見つけただけだ。」
「私たちの最大の弱点は諦めることにある。成功するのに最も確実な方法は、常にもう一回だけ試してみることだ。」
・・・といったように失敗を恐れないチャレンジする姿勢こそが、成功の条件だと言っている。ただ、当然、判らないことをわからないままにしていたわけではないだろう。自分で知らべ、判らないことは当然誰にでも相談しながら実験した事だろうと私は思っている。
無論、人にものを聞くのに、全く考えずに、質問していてはいけないが、独りで考えても解決しないことは、質問すべきだろう。
何も考えずに質問しても実力はつかない。自分なりに論理を組み立て、ここまではわかるが、この部分がわからない。この部分について、自分はこう思うのだが、なぜこうなのか。といったような自分なりの見解を持って、質問をしなければいけないだろう・・・。
経営の神様と言われる松下幸之助も質問することの大切さを説いている。「成功した秘訣は何か」と聞かれた時に彼は「わからないことがあったら人に尋ねることだ」と答えているのである(※9参照)。

ただ、今日の「床屋さんとサインポール」の質問をしたののちゃんのような小さな子供は好奇心の塊のようなもの。子どもにとってはなにごとも初体験で、自分が知らないことはストレートに素直に聞いてくる。それに対して、「そんなことはもう少し大きくなればわかる・・」などと拒否せずに、なんでも真面目に答えてやることが大切だろう。
そして、ソクラテスじゃないけれど、「それでこれはどうなると思う?」と新たな質問を投げかけて考えさせたり、一緒に百科事典などで調べてみて一緒に勉強してやることがその子の成長へのより動機づけとなるのではないか。
それやこれやで、今日は、「ののちゃんのDO科学」過去記事(※9)などについて、一緒に子供と話しをしてみても面白いかもしれないね。

参考:
※1:サインポール - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB
※2:日本心臓財団HP-赤いハートは聖杯から
http://www.jhf.or.jp/bunko/mimiyori/14.html
※3:全国理容生活衛生同業組合連合会
http://www.riyo.or.jp/
※4: 国立国会図書館デジタル化資料 - 婦人束髪会
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1305531
※5:世風呂:江戸の湯屋・ページ5
http://www5.ocn.ne.jp/~ukiyo26/yuya5.html
※6:自己成長のチャンスは質問力にあった!経営の神様・松下幸之助も認めるその重要性 ...
http://u-note.me/note/47485774
※7:電力事業と計測の歴史 (その1) - 日本電気技術者協会
http://www.jeea.or.jp/course/contents/02102/
※8:トーマス・エジソンの名言・格言集。失敗は勉強である!
http://iyashitour.com/archives/20390
※9:asahi.com:過去記事一覧 - ののちゃんのDO科学 - NIE
http://www.asahi.com/edu/nie/tamate/index2.html



理化学研究所設立(2-1)

2014-06-19 | 歴史
理化学研究所設立(2-2)
理化学研究所設立(参考)


何時もブログを書くのに参考にさせてもらっている「今日は何の日~毎日が記念日~」の6月19日のところに、
「1917(大正6)年のこの日、理化学研究所(理研。※1)が、東京都文京区本駒込に設立された。
1958(昭和33)年に「理化学研究所法」(※2)にもとづく特殊法人になり、1957(昭和32)年から1966(昭和41)年の10年間かけて、現在の埼玉県和光市に移転した。」・・・とあった。

現在、ノーベル化学賞を受賞(2001年)した野依良治が理事長を務めるなど、多数の科学者を擁し、物理学化学工学生物学医科学など基礎研究から応用研究まで広い分野での研究を行ってきた日本有数の巨大研究機関である理化学研究所は、3年後の2017年には創立100年を迎える古い歴史をもつ日本を代表する研究機関の一つである。
創設以来、鈴木梅太郎寺田寅彦中谷宇吉郎長岡半太郎嵯峨根遼吉池田菊苗本多光太郎湯川秀樹朝永振一郎仁科芳雄菊池正士など多くの優秀な科学者を輩出してきた理化学研究所は、国際的にも高い業績と知名度を持ち、日本国外では、“RIKEN”の名称で知られている。
日本国内には和光市以外に、仙台市、つくば市、名古屋市、神戸市など全国に8つの主要拠点を持ち職員の数は3502人を数える(平成26年4月1日現在)。
あらゆる分野の研究をしている理研であるが、我が地元神戸では、現代の科学技術の発展にとって不可欠なツールとして文部省のイニシアティブにより開発主体の理研を中心にしたプロジェクトにより開発された「スーパーコンピュータ(京)」が供用を開始している(※1:理研の計算科学研究機構(AiCS)参照)。
兵庫県佐用町播磨科学公園都市内には世界最高の性能を誇る大型放射光施設「SPring-8(スプリングエイト)」を擁している(※1の放射光科学総合研究センター参照)。
この理研、日本だけでなく、海外の4ヵ所の施設(アメリカ、イギリス、シンガポール、北京)にも職員が665人いる。
そんな日本を代表する巨大な機構である理研が、小保方晴子ユニットリーダー(あるユニット[編成単位]のリーダー)の「研究不正」問題で揺れに揺れている。
理研などが、マウスを使っての実験により、外からの刺激で体細胞を初期化することにより、どんな細胞にでもなれるまったく新しい「万能細胞」の作製に成功した・・・と発表したのは、今からまだ、約5ヶ月ほど前の今年(2014年)1月28日のことであった(※1理研Hの2014年1月29日60秒でわかるプレスリリース参照)。
この新しい細胞を発見した理研の発生・再生科学総合研究センター(CDB。神戸研究所。※1のここ参照)の小保方晴子ユニットリーダーらは、この新たな万能細胞にSTAP(スタップ)細胞(刺激惹起性多能性獲得細胞)と名付けた。
いったん役割が定まった体の細胞を外からの簡単な刺激(酸による刺激らしい)だけで万能細胞に変わることはありえないとされていた。そんな生命科学の常識を覆す画期的なこの成果が、翌29日、英科学誌ネイチャー電子版のトッ プ記事として掲載された。

上掲の画像は、2014年1月29日、STAP細胞について説明する理研 発生・再生科学総合研究センター(神戸市)の小保方晴子研究ユニットリーダー。

しかし、ネイチャーに発表したSTAP細胞の論文が外部から不自然との指摘を受けて後、3月10日には小保方氏らとのSTAP細胞の共同研究者である若山照彦・山梨大教授が論文に問題があるとして論文撤回を呼びかけたことから、小保方氏らによるSTAP細胞論文に改ざん捏造(ねつぞう)疑惑があるといった問題が浮上し、日本中に激震が走った。
それに対して小保方氏は「論文に誤りがあることは認めるが、STAP細胞はある。200回以上作成に成功した」として、論文を撤回する意思のないことを記者団に表明。その後ほとんどの論文の共著者が撤回に同意するも、小保方氏は論文撤回に同意せず理研側と対立していた。
世間の一番の関心事は、論文の捏造問題などより、「STAP細胞が本当にあるのかないのか」・・ということであった。
しかし、結局、6月3日、小保方氏が論文撤回勧告に同意したため、STAP細胞の研究成果はその根拠を失い白紙となった。
そして、STAP細胞が存在するかどうかについては、ゼロから検証するために理研が再現実験をすることになった。

上記に掲載の画像は、STAP細胞を巡る経緯と主な論文著者の発言(6月5日付朝日新聞朝刊より)
論文問題で、6人の外部有識者で作る理化学研究所改革委員会(委員長・岸輝雄[※3]東京大名誉教授)は6月12日、「研究不正に至った経緯と背景を分析し、再発防止策を盛り込んだ提言をまとめ公表した。
そして「小保方晴子ユニットリーダーが所属する発生・再生科学総合研究センター(CDB。神戸市)を “構造的な欠陥がある”として早急に解体することを求めた」との報道があった。
提言書は組織内部に問題の背景があったとし、小保方氏の採用では、通常実施する英語による公開・非公開のセミナーをせず、推薦状もない状態だったのに内定を決めるなど「にわかには信じがたい杜撰さ」と批判。
IPS細胞を凌駕する画期的な成果を獲得したいというCDBの強い動機が、成果主義の負の側面として問題化したと認定。又、論文作成に関わった笹井芳樹副センター長については、「研究の秘密保持を重視するあまり、外部からの批判や評価が遮断された閉鎖的な状況を作り出した」・・・とした。
そして、2000(平成12)年の発足以来センター長を務める竹市雅俊ら幹部の責任は重大だと指摘。人事異動などでは構造的な欠陥を取り除くのは難しく「早急にCDBを解体すべきだ」として、竹市・笹井両氏を後退させ人事を一新するよう求めた。
また、理化学研究所本体についても、「事実の解明に対する積極性を欠き、問題をわい小化しようとしている」などと厳しく批判。 そして新たに見つかった疑義についても十分な調査を行うよう要請するとともに、その上で京都大学IPS細胞研究所との協力関係を構築するなどして研究体制を作り直すことを提案した。
一方、STAP細胞の存在を調べる為に理研が実施している再現実験について「いまのやりかたでは小保方氏が作成に成功していたのかが明らかにできない」などと問題視。専門家の監視のもと、小保方氏が加わって実施すべきだとした。

「理研改革委の提言骨子」は以下のようなもの。ここでは6月13日朝日新聞朝刊記事を引用したが、詳しい提言内容は以下参考の※4を参照されるとよい。
その、2週間後6月12日には、またも、STAP細胞論文の共著者の一人若山照彦教授が、記者会見し、小保方氏の「STAP細胞」から作られた細胞を調べた結果、細胞の元になったマウスと遺伝情報が一致しなかったと明らかにした。ただ、「絶対にないと言い切ることはできない」としているが、これで、「STAP細胞」があるという証拠はなくなり、存在を否定する結果が次々出ている以上、小保方氏の作製に成功したという「STAP細胞」は他の種類の万能細胞であった疑いが更に強まったことになる。
さて、この問題の中心人物である小保方氏は引き籠もったまま出て来ないが、これに対してどう説明するつもりなのか。
ただ、小保方氏らが作ったとするSTAP細胞がES細胞などから作ったとは見られない面もあると言われており、まだまだ判らない点は多い。
小保方氏にとっては、もう、専門家の監視のもと「STAP細胞」を再現して見せるか、作ったということがもし虚偽であったのなら、すべての真実を明らかにするしかないだろう。
今回の問題が起こった本当の理由はなんだったのだろうか・・・。誰もが感じている原因は、「何となくこんなことだろう」と思うことがYAHOO!知恵袋(※5参照)に書かれていた。真実か否かは知らないが凡そはそのようなことだろうとは私も思っている。
ただ、神戸の発生・再生科学総合研究センター(CDB)は阪神・淡路大震災(1995年=平成7年1月17日発生)後に、神戸復興のために神戸市が医療産業都市のポートアイランドに誕生させものた。現在世界で初めてIPS細胞を患者に使う臨床研究などのプロジェクトも進んでいる(※6のここ他※7参照)。
若し、このCDBを解体するとなると、神戸医療都市(※8参照)の柱が失われ、産業集積効果は損なわれる(※6のここ参照)。
小保方氏のような人が一人ここから出たからと言って、若い優秀な研究者を育てるためにも、組織を潰してしまうようなことがないことを願っている。
この論文改ざん問題が発生した時の理研の対応には異常さが見られたが、そこには、YAHOO!知恵袋(※5参照)にも書かれているように国からの予算の獲保の問題があったと考えられている。理研の平成26年度予算は834億円で、約人口20万人の自治体に匹敵する(例:熊谷市人口202千人で、一般+特別会計予算合計は約900億円。熊谷市HP参照)。理研の場合、その予算の9割以上が税金から捻出されている。これはすごく恵まれた条件にあることは間違いない。
昔と言っても、2009(平成21)年11月、理研の「次世代スパコン事業」(京)が行政刷新会議事業仕分けの対象事業として取り上げられ、民主党蓮舫議員から「2位じゃダメなんですか」の指摘で大論議となったことはマスコミで面白おかしく報道されたので、国民の誰もが知っている通りであるが、結果的には「限りなく見送りに近い縮減」となった。その後の大臣折衝などを経て、要求額よりかなり減額されたうえ予算がつき、理研により神戸ポートアイランドに整備された(※9参照)。
更に理研そのものに関しても2019(平成22)年4月の事業仕分け第2弾の「独法(独立行政法人通則法による法人)仕分け」でも取り上げられ「研究実施体制のあり方について抜本的見直し」が指摘されていた。そのようなことから国からの莫大な予算確保のためには それなりの成果を挙げなくてはならない・・・との意識が過剰になったのではないかと思われる。

上掲の画像は、「京」が設置された理化学研究所計算科学研究機構(神戸市)

安倍晋三政権が、政府予算の面で優遇する「 特定国立研究開発法人」(仮称※10参照) の導入が昨年12月に閣議決定している。
「特定国立研究開発法人」に指定されると、国から巨額の予算がつき、国際的に優秀な「スター研究者」を億単位の報酬で招けるなど、資金を自由に使えるようになり、その分自由な研究もやりやすくなる。
従って、これに指定されたいが為に、理研がよく調べもせずに小保方氏に論文を発表させ、成果をアピールして「特定国立研究開発法人」になろうという魂胆があったとしか思えない。
発表後、すぐに論文の疑惑問題が発生したが、今度は、慌てて、ノーべ―賞級の世界的偉業と言われた新しい「STAP細胞」が本当に発見されていたのか否かの検証を行うこともなく、その障害となる「小保方ユニットリーダーだけが論文を捏造、改ざんした」と一方的にしかも拙速に決めつけ、露骨な「トカゲの尻尾切り」をしてでも、その場を切り抜けようとしたドタバタ劇であったように思われる。
結局この不祥事から、当初は「産業技術総合研究所」と一緒に決定する予定だった理研の「特定国立研究開発法人」決定を政府は見送ることにしたが、こうなってしまったのは理研の自業自得である。この問題で小保方氏の責任は非常に大きいが、彼女も理研に所属する以上理研の方針に従い踊らされてしまった人物ではないかと私は思っているのだが・・・。
この論文が発表された当初、NHKを始めとする日本の大手マスコミは、こぞって「日本の女子力はたいしたものだ」「世界に誇れる日本の女子力」「リケジョ」など苛烈なまでの賛辞を送ったものだ。そして、小保方氏のような「リケジョ」になりたいと張り切っていた若い女性も多くいたが、その人たちの夢を破ってしまった。ただ最近、民間会社でも阿部政権でも「若い女子」の活用とかいって人気取りしている節があるが、何かブームに便乗するような形で「若い女子」だけを特別扱いして騒ぐのはどうだろう?。
男女平等の世の中、力のある人は男でも女でも公平に扱えばよいだけのことである。もしそれが出来ていないところがあればそのような企業や団体を指導すればよいだけのことではないか・・・。。

ところで、このSTAP細胞の論文問題で世界中から注目を浴びることになった理化学研究所(理研)って、この問題が発生するまで「どんな組織で何をしているところ・・?」と聞かれても、よく知らない人が多くいたのではないだろうか。
我が家の女房殿も「理研って、“ふえるわかめちゃん”や“わかめスープ”など(ここ参照)を作っているところ・・・」と言ったことぐらいしか知らなかった。
そこで、今日は今話題になっている、理研のことをこのブログで取り上げた。
理化学研究所は、明治維新(1868年)からほぼ50年後、日本の科学技術近代化の黎明期に当たる1917(大正6)年、日本における資本主義の父とも呼ばれる大実業家、渋沢栄一の呼びかけで創設された伝統ある研究組織であるが、其の理研の設立された当時の状況を見てみよう。
日清(1894年~1895年)・日露(1904年~1905年)の両戦争の中で進んできた日本的産業革命は1908・9年(明治41・42年)頃には確立され不況の中で資本の集積が進みつつあった。
こうしたなか、日本の科学の状況は、まだ西洋の模倣が主であったと言ってよい。創造的な研究成果もあがり始めてはいたが、主に欧米に出向いての仕事であり、国内での創造的科学研究を可能にする基礎づくりが強く求められていた。
1908(明治41)年~1909(明治42)年頃の創造的成果につながりのありそうな出来事を蔵書の『朝日クロニクル 週刊20世紀紀』1908-9年号を参考に書けば以下のようなものである。
1908年
4月、癌研究会発会式(会長青山胤道男爵..。評議員に山極勝三郎がいる。※11参照)。
6月、陸軍、臨時脚気病調査会を設置し7月4日発足式(初代会長:森林太郎[=森鴎外]。委員に鈴木梅太郎も在籍)。
6月細菌学者ロベルト・コッホ夫妻が北里 柴三郎に招かれて来日。
7月、池田菊苗が、グルタミン酸塩を主成分とする調味料製造法の特許を取得。
9月小川正孝が新元素「ニッポニューム」(Nipponium: Np。「原子量が約100の43番目の元素」)発表(ただし、原子番号75のレニウムの誤認。※12参照).
この他、この年長岡半太郎が、ゼーマン効果の実験研究開始(※13参照)。又、中村清二が、『帝国理学研究所設立の必要』を『時事新報』に書く(※14の参考文献のところ参照)。
1909年
3月、木下季吉(在英)が、α粒子写真作用発見(※15参照)。
4月、秦佐八郎が留学先のドイツで、パウル・エールリヒとともに、梅毒の特効薬サルバルサンを発見。第27回ドイツ内科学会で発表。
同4月、高峰譲吉(在米)、タカジアスターゼの日本での特許取得。
5月鈴木三郎助うま味調味料味の素」を工場生産して、売り出しを開始した。

恐るべき伝染病の原因が特定の病原微生物(細菌)によって起こることが明らかになったのは1870年代からで、予防法、治療法も次々開発された。
開拓者はドイツのコッホエールリッヒ、フランスのパスツールらであった。
彼らのもとへ19世紀末から北里柴三郎志賀潔秦佐八郎ら、日本の青年医学者たちが留学し、北里は、留学先のコッホのもとでベーリングと共同で破傷風の純粋培養に成功(1889年)し、翌年破傷風血清療法を開発し、帰国後は、香港でペスト菌を発見(1894年)した。そして、帰国してすぐ、日本に伝染病研究をする必要があることを訴えた。直ちに私財を投じて応えたのは、福沢諭吉であった。
北里は私立伝染病研究所(現:東京大学医科学研究所)の初代所長となり、所員らと共に華々しい成果を上げる。後に同研究所の東京大学への移管が通告されたとき辞職し、北里研究所を作った。
北里と同じく私立伝染病研究所に勤めた志賀は、1897(明治30) 年に、ここで赤痢菌を発見した。

理化学研究所設立(2-2)

理化学研究所設立(参考)

(冒頭の画像は大正期の理化学研究所、画像はWikipediaより)

理化学研究所設立(2-2)

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理化学研究所設立(参考)

 

上掲の画像向かって左:北里柴三郎明治43年撮影。右:晩年の志賀潔と孫の岡明(立っている人。ここ参照)と研究室でのもの。(朝日クロニクル 週刊20世紀紀掲載のもの借用)画像クリックで拡大

志賀は、その後ドイツのエールリッヒのもとに留学し、1904(明治37)年に化学療法剤トリバンロートを共同で開発。秦も同伝染病研究所に勤め、ここからエールリッヒのもとに留学して、1909(明治42)年サルバルサンの発見を助けた。このように、留学した年若い医学者たちが多くの成果をあげて世界中から感謝、称賛された。
この頃。日本では脚気病も軍部で特に問題になっていた。
ドイツのフィッシャーにタンパク質科学(タンパク質の化学的特性質を研究する学問分野)を学んで帰国した鈴木梅太郎は、栄養障害説をとり、1910(明治43年)年米ぬかの中にある脚気に効く成分(ビタミンB1)を抽出し、「オリザニン」と命名する(日本の脚気史参照)。当時脚気の原因については、伝染病説、中毒説、栄養障害説が対立していた。
がん(癌)も問題であった、細胞 病理学説を唱えるドイツのウイルヒョーに学んで帰国した山極勝三郎は師の説に従って、刺激によるがんの発生を考え、イエウサギ(ペット用に品種改良されたウサギ)の耳の内側に毎日コールタールを塗布し、1915(大正4)年、がんの実験的発生に世界で初めて成功する。
高峰譲吉が早々とタカジアスターゼやアドレナリンの研究(1901年発見)で成果を上げたのは、アメリカにおいてであった。アドレナリンは世界で最初のホルモン抽出、結晶化であった。当時の日本ではそれが行えるだけの条件はなかった。
ただ、池田菊苗の「味の素」の発明は一味違った発明であった。東京大学とドイツのオズワルドのもとで純正化学を学び1901(明治34)年東大教授となった池田が1907(明治40)年、昆布から「うま味」のもとであるグルタミン酸塩を取り出す仕事を始め、鈴木三郎助と組んで工業化に成功した。
ここで見落とせないのは、成功の基礎に物理化学があったことと、池田が取得した特許は「うま味」の素以外にも多数あったことである(彼が生涯において取得した特許は、国内で32件、海外で17件もあるという。※16参照)。
池田と対照的なのが長岡半太郎や木下季吉の研究である。磁気歪の研究(長岡)や原子構造の土星型有核模型(長岡。※13参照.)などは、日本の物証物理学も早くも国際水準に及びつつあったことを示している。ただ、こうした優れた人材は育ちつつあったが、社会的基盤が弱かったということである。

高峰譲吉は1913(大正13)年に築地精養軒にて日本の学術・工業を盛んにするには創造的科学研究を可能にする大研究所が必要だと説き、これが、理化学研究所誕生の契機となった。高峰が必要だと説いた研究所は、1911(明治44)年に創設されたドイツの「カイザー・ヴィルヘルム協会」を模して構想されたものらしい。
これは、1908(明治41)年に中村清二が『時事新報』に書いた、『帝国理学研究所設立の必要』という所論と同様のものであったようだ。
この理研設立の経緯については、以下参考に記載の※17:「理化学研究所の誕生と軌跡」に非常に詳しく書いてあるので、理研誕生の経緯についてはこれ以降、この記事を参考に書かせてもらう(一部捕捉をしているが)。

この計画は、当時で、およそ2,000万円(現在では約320億円に相当=米価換算)の資金で研究所を設立しようとするものであったが、まず500万円くらいの資金で差し当たり最も急務とする「化学研究所」の設立を企画した。翌1914(大正3)年、実業界の大御所渋沢栄一と池田菊苗、鈴木梅太郎ら化学、応用化学、農芸化学、薬学界の長老が連名で議会に化学研究所設立の請願書を提出した。
この請願は、議会の解散もあって目的を達成することはできなかったらしいが、研究所設立に追い風が吹いた。1914(大正3)年6月に第1次世界大戦が勃発、わが国は西欧からの医薬品や工業原料の輸入が絶たれ、また制限されたりしたことから産業上、多大な障害を来すこととなった。そこで、農商務省は化学研究所設立を農商務大臣(大浦兼武)に建議したが、ただ化学だけでは範囲が狭すぎるため、化学と物理学の両面を包含した「理化学研究所」を設立すべきとの意見が出された。
日本薬学会初代会長長井長義冶金学者の渡辺渡(※18参照)、工学博士・東京工業試験所の所長高松豊吉、物理化学者・東京化学会(日本化学会の前身)の会長桜井錠二、農学博士古在由直が特別委員となって協議し、渋沢栄一、菊池大麓、渋沢の盟友で官僚出身の政治家・実業家中野武営らも加わって新たな草案を練り上げ、設立計画の大要、研究事項などを決めた。これを主な実業家や関係者に送り、賛同を求めることになった。
渋沢、中野らは三井家総領家である北家当主三井八郎右衛門三菱財閥の4代目総帥岩崎小弥太をはじめ、財界・民間から研究所設立に必要な資金の寄付金を募る一方、時の総理大臣大隈重信が内務、大蔵、文部、農商務各省の大臣および学者、実業家を招いて設立発起協議会を開くなど、設立への準備は整い始めた。さらに、政府の補助も認められ、これに基づき、「理化学を研究する公益法人に対し、国庫補助を為す法律案」が可決され、1916年(大正5年)3月6日に公布された。
これを受けて、創立委員長に渋沢栄一、常務委員に桜井錠二、当時の三井財閥総帥団琢磨、中野武営ら7名が就き、研究所の建物・設備については、物理関係は長岡半太郎、大河内正敏、化学関係は池田菊苗、井上仁吉(?後東北帝国大学工科部長から2代目総長になった人?)に委嘱された。そして、委員長らの寄付の勧誘が功を奏し、設立に必要な額200万円を上回る寄付金を集め、「財団法人理化学研究所」が1917(大正6)年3月20日に設立された。
つまり、理研は、政府の補助金、皇室の御下賜金、産業界の寄付金を基に設立されたのである。
ところで、ここでは「理化学研究所が3月20日に設立された」と書いてあるが、冒頭に書いたように、「今日は何の日~毎日が記念日~」では、「6月19日、、この日、理化学研究所が、東京都文京区本駒込に設立された。」・・・とある。
蔵書の『朝日クロニクル 週刊20世紀』には、3月20日「理化学研究所の設立認可」とあるので、法人組織として登記し、スタートした日(設立)は3月20日だと思うのだが、ひょっとしたら理研としての活動を始めた日、営業開始(創業)を設立日と勘違いしたのか?それとも何か他の理由による単純な誤りなのだろうか?・・・・。そのような日付の問題は、この際、ここでは無視して以下話を続ける。

この創立当時の理研の最もユニークなところは、参考※17:「理化学研究所の誕生と軌跡」にも記されているように、今でいうところの新技術の研究開発や、新事業の創出を図ることを目的として、大学などの教育機関・研究機関と民間企業が連携した「産学連携」、それに、政府・地方公共団体などの「官」をも加えた、大規模な「産学官連携」を実現したことにあるのだろう。

理研は、1917(大正6)年、伏見宮貞愛親王殿下を総裁に奉載(1917~1923Sし、副総裁に渋沢と菊池大麓帝国学士院長、元文部大臣)を迎え、初代所長に菊池が就任して活動を開始した。
物理部の研究員として東京帝大の大河内(造兵学)、鯨井恒太郎(電気工学)、化学部は鈴木梅太郎(農芸化学)、田丸節郎、和田猪三郎(純正化学。※19参照)の各教授、東北帝大から真島利行(有機化学)らが選ばれた。しかし、初代所長の菊池が就任5カ月で急逝、その後を継いだ古市公威(土木学界の長老)も1921(大正10)年9月、健康上の理由で辞任し、大河内が第3 代所長に就任したが、この大河内こそが、理研の黄金期を作り上げた人物であった。
当時第1次世界大戦後の戦後不況で、予定していた財界、産業界からの寄付金はなかなか集まらなかった。大河内は、研究成果の実施企業を自ら設立し、財政的に自立する方途を講じようと2つの改革を実行した。
その第1が研究体制の一新、つまり、研究室制度を打ち出した(1922年=大正11年)ことであり、第2が、研究成果の実用化であった。
当時の研究体制は、長岡を部長とする物理学部と池田を部長とする化学部の2つしかなく、しかも、2つの部は激しく対立していたらしい。
そこで、部制を廃止して主任研究員制度を新設し、主任研究員は大学教授との兼任も可能とし、長岡や池田をはじめとする14の主任研究員が研究室をもち、所長の直下に同列に並べられ、敵対していた両部の部長も、一主任研究員となった。
そして、主任研究員に研究テーマ、予算、人事の裁量権を持たせ、研究者の自由な創意を育む環境を作り上げ、すべての主任研究員には、同等の権限を与え、平等にすることを基本に置いたのである。
ところがWikipediaに寄れが、この研究室制度は理化学研究所を活性化したのだが、湯水のごとく研究費が投入され財政難に陥ったという。同年、鈴木梅太郎研究室所属の高橋克己が長岡半太郎や寺田寅彦の助力を得て魚のタラの肝油から世界で初めてビタミンAの分離と抽出に成功し、試作品として売り出したところ、肺結核の特効薬との噂が広まり患者の家族らが殺到する事態となった。
大河内所長はその様子を見てこれを製品化することを決断し、鈴木梅太郎研究室をせきたてて4ヶ月で製品化にこぎつけた。既存の医薬品企業と提携せずに理化学研究所の自主生産で「理研ヴィタミン」を販売し財政難を乗り切った。1924年(大正13年)には理化学研究所の作業収入の8割をビタミンAが稼ぎ出す結果となったという。
上掲の画像は、ビタミンA製剤「理研ヴィタミン」の雑誌広告(1938年=昭和13年)。こうした商品の収益が「科学者たちの楽園」を支えた。ビタミンAの1カプセルあたりの製造原価は1,2銭だったが、理化学研究所はこれを10銭で直接販売したため利益幅は大きかったというが、そりゃあそうだろう、薬九層倍と云われる世界。製造直販ならもうかってしかたがないだろう。
1927(昭和2)年には、理化学研究所の発明を製品化する事業体として理化学興業を創設し大河内所長が会長に就任。理化学興業と理化学研究所は工作機械、マグネシウム、ゴム、飛行機用部品、合成酒など多数の発明品の生産会社を擁す理研産業団(理研コンツェルン)を形成していった。
最盛期には会社数63、工場数121の大コンツェルンとなったという。そして、1939(昭和14)年の理化学研究所の収入370万5000円のうち、特許料や配当などの形で理研産業団各社が納めた額は303万3000円を占めたという。その年の理研の研究費は231万1000円だったので、理化学研究所は資金潤沢で何の束縛もない「科学者たちの楽園」だったようだ。のちに理研コンツェルンの事業を継承した会社には事務機器、光学機器などの製造を行っているメーカーのリコー理研グループと呼ばれる企業群がある。
1937(昭和12)年にには、仁科芳雄研究室が日本で最初のサイクロトロンを完成させた(1944年には大型のサイクロンも完成)。
1941(昭和16)年には、陸軍の要請を受け、仁科が中心となって原子爆弾開発の極秘研究(ニ号研究)さえ開始していたようである。

上掲の画像は、1950年8湯川秀樹博士(向かって左)と仁科芳雄。「技術的には可能であっても、大規模な施設や技術者養成などで巨額の経費と時間がかかる。…大量生産せざるをえないことなど考えあわせると無駄が多い」-1943年6月原爆について陸軍首脳から問われ、こう書いたメモを渡している。という。『朝日クロニクル 週刊20世紀』1939年号より。

1946(昭和21)年、太平洋戦争終結とともに連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指命により理化学研究所、理研工業(理化学興業の後身)、理研産業団は解体され、仁科研究室のサイクロトロンも海中に投棄された。そして、公職追放された大河内所長に代わって仁科が第4代所長に就任している。
GHQは1947年(昭和22年)12月、過度経済力集中排除法の施行により、理研産業団を財閥とみなし、解体した。
そして、一時は、産業団だけでなく理研本体も解体すべきという意見も出されたが、「日本再建のためには、理研本体は必要不可欠」という仁科の主張に、マッカーサー占領軍司官の科学顧問であったハリー・ケリーらGHQ科学技術課が理解を示したことから、辛うじて理研本体は残り、戦後、株式会社「科学研究所」、特殊法人時代を経て、2003年(平成15年)10月に文部科学省所轄の独立行政法人理化学研究所として再発足したのが現在の理研である。

組織として研究所が存在する意義は、相互作用に他ならない。規模が大きいほど、その知が織りなす「総力」を高める仕組みが求められる。
だが、理研はバブル崩壊後、資金量を膨張させながらも、人材と組織の分散を繰り返してきた。今の理研は設立当時の理研とは違う。
研究不正が起きた原因には、CDBおよび理研本体の「貧弱すぎるガバナンス体制」があるとされている。小保方氏とSTAP論文問題は、理研の組織の片隅で起きた特異な事件ではないように思う。
もう一度、これを機会に、創業精神に立ち返りこれからの理研のあるべき姿を再構築すべきだろう。決して、「理研」が「利権」にだけはならないようにして欲しいものだ。


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理化学研究所設立(参考)






理化学研究所設立 参考

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参考:
※1:理化学研究所
http://www.riken.jp/
※2:独立行政法人理化学研究所法
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H14/H14HO160.html
※3:岸輝雄 プロフィール - あのひと検索スパイシー
http://spysee.jp/%E5%B2%B8%E8%BC%9D%E9%9B%84/1048949
※4:研究不正再発防止のための提言書 - 理化学研究所(Adobe PDF)
http://www3.riken.jp/stap/j/d7document15.pdf#search='%E7%90%86%E5%8C%96%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A+2014%E5%B9%B46%E6%9C%8813%E6%97%A5'
※5:STAP細胞、小保方氏の問題ってなんですか?- YAHOO!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13128469713
※6:高橋 政代 氏 インタビュー『この人に聞く』(1) : Trend ... - 科学技術振興機構
http://www.jst.go.jp/ips-trend/column/interview/10/no01.html
※7:再生医療とIPS細胞の医療情報ニュースサイト「エヌオピ」
http://n-opi.com/news/clinical/
※8:神戸医療産業都市構想 神戸医療産業都市構想とは? - 神戸市
http://www.city.kobe.lg.jp/information/public/online/photo/number21/special_features/
※9:神戸市HPスーパーコンピュータ「京(けい)」
http://www.city.kobe.lg.jp/information/project/supercomputer/
※10:特定国立研究開発法人(仮称)の 対象法人候補について - 内閣府
http://www8.cao.go.jp/cstp/siryo/haihu118/sankou1.pdf#search='%E7%89%B9%E5%AE%9A%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E7%A0%94%E7%A9%B6%E9%96%8B%E7%99%BA%E6%B3%95%E4%BA%BA'
※11:年表 - 癌研究会
http://www.jfcr.or.jp/about/history/timeline.html
※12:小川正孝新元素「ニッポニウム」の発見者
http://www.chart.co.jp/subject/rika/scnet/19/sc19_1.pdf#search='1908+%E5%B9%B4+9%E6%9C%88++%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E6%AD%A3%E5%AD%9D'
※13:原子構造の変遷
http://www.geocities.jp/ikuro_kotaro/koramu/gensi.htm
※14:戦前の日本天文学会
http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1997/pdf/19970703c.pdf#search='%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%B8%85%E4%BA%8C+%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E7%90%86%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80%E8%A8%AD%E7%AB%8B%E3%81%AE%E5%BF%85%E8%A6%81%E3%80%8F%E3%82%92%E3%80%8E%E6%99%82%E4%BA%8B%E6%96%B0%E5%A0%B1'
※15:原子(原子核)
http://www15.wind.ne.jp/~Glauben_leben/Buturi/Gensi/Gensibase4.htmhttp://www.ajinomoto.com/jp/aboutus/history/pdf/his00_2.pdf#search='%E6%B1%A0%E7%94%B0%E8%8F%8A%E8%8B%97+%E5%8F%96%E5%BE%97%E3%81%97%E3%81%9F%E7%89%B9%E8%A8%B1+%E3%81%86%E3%81%BE%E5%91%B3%E4%BB%A5%E5%A4%96'
※17:理化学研究所の誕生と軌跡(Adobe PDF)
http://www.riken.jp/~/media/riken/pr/publications/riken88/riken88-1-1-1.pdf#search='%E5%89%B5%E7%AB%8B%E6%99%82%E3%81%AE%E7%90%86%E7%A0%94'
※18:度 辺 渡 の 生涯 と 日 本鉱 業 会*(Adobe PDF)
http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/17244/3/206.pdf#search='%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E6%B8%A1++%E5%86%B6%E9%87%91%E5%AD%A6%E8%80%85+%E7%90%86%E5%8C%96%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80'
※19:白金よりも高い稀有金属を日本で発見 - 神戸大学 電子図書館:新聞記事文庫
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10071834&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

理化学研究所のまとめ検索結果(89件)-NAVERまとめ
http://matome.naver.jp/search?q=%E7%90%86%E5%8C%96%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80&slot=4&sf=1
小保方晴子・理化学研究所研究ユニットリーダー
http://hashigozakura.wordpress.com/tag/%E5%B0%8F%E4%BF%9D%E6%96%B9%E6%99%B4%E5%AD%90%E3%83%BB%E7%90%86%E5%8C%96%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BC/
理化学研究所 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E5%8C%96%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80



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わんにゃんの日

2014-06-12 | 記念日
日本記念日協会に登録されている今日・6月12日の記念日に「わんにゃんの日 」がある。由緒を見ると以下のように書いてあった。

国内最大級のペット写真共有SNS「パシャっとmyペット」を運営する株式会社サイバーエージェント(※1)が制定。
一般社団法人アニマル・ドネーション(※2)と共同で行う「パシャっとLOVEドネーション」プロジェクトの一環で、毎月12日には動物愛護関連団体への寄付を呼びかけるなどの活動を行う。日付は犬と猫の鳴き声である「わん(1)」と「にゃん(2)」から。・・・と。

もういい歳をとった私などは、今の時代にはなかなかついてゆけず、ここに出てくるサイバーエージェントやアニマル・ドネーションと言ったハイカラ?なカタカナ英語の名前の会社のことなど何も知らなかったし、写真共有SNS「パシャっとmyペット」や「パシャっとLOVEドネーション」と言ったものも何をしているところかはこのブログを書くまでは全く知らなかった。
今回調べてみると、(社)アニマル・ドネーション(Animal donation )は、動物福祉の啓発活動や、迷い動物や飼い主に放棄されたペットを保護したり、補助犬の育成に努めたりといった、“ 動物のために活動する団体(動物愛護団体等”への支援を募るオンライン寄付サイトの運営を行っているところらしい。

今や日本もペットブームであり、昔は家畜として飼われていた動物や珍しい動物などもペットとして飼われ始め、ペットの種類も多種にわたっている。
日本のペットブームは、1980 年代以降のバブル時代に重なり、収入が増え、ペットにお金をつぎ込む余裕ができたからだろう。
内閣府の「動物愛護に関する世論調査[平成22年9月調査] 」(※3参照)の“1. ペットの飼育状況について”を見てみると、ペットを飼うのが「好き」とする者が72.5%(「大好き」23.4%+「好きなほう」49.1%)に達している。年齢別に見ると、「好き」とする者の割合は20歳代、30歳代で、「嫌い」とする者の割合は70歳以上で、それぞれ高くなっているそうだ。
家庭でなど、ペットを飼っているかどうか聞いたところ、「飼っている」と答えた者の割合が34.3%あり、「飼っていない」と答えた者の割合が65.7%となっているが、「飼っていない」と答えた者の割合は、大都市で高くなっているのは、マンションなど共同住宅では飼いづらい理由があるからだろう。それでも、3人に1人がペットを飼っているというのはすごいことである。
ペットを「飼っている」と答えた者が飼っているのはやはり「犬」を挙げた者が58.6%と最も高く、以下,「猫」(30.9%),「魚類」(19.4%)などの順となっている。
それでは、どれくらいの犬や猫が飼育されているのだろうか。
一寸、猫のことについてはよく判らないが、犬については、1950(昭和25)年に制定された狂犬病予防法第四条(ここ参照)により、犬の所有権者は犬を取得した日から30日以内に厚生労働省令の定めるところにより、その犬の所在地を管轄する市町村長(特別区にあっては区長)に犬の登録申請をしなければならないことになっている。
この法律に基づいて登録されている平成24度(2012年)の畜犬は、 6,786千頭となっており、平成2年(1990年)の3.890千頭の3,9倍にもなっている(※4参照)。しかし、飼育されている犬がすべて登録されているわけではないため、実際の頭数はもっと多いはずだ 。
ペットフード事業者を中心とした98社で組織する(社)ペットフード協会(※5)による平成25年度の「国内犬猫飼育実態調査」では、犬は、10,872千頭(前年11,534千頭)、猫は、9,743千頭(前年9,748千頭)も飼われていると推測している(ここ参照)。
犬の場合で見るとこの数字は、狂犬病予防法により、登録されている頭数の1、7倍(平成24年度で比較)もの数の犬が飼われているということであり、裏を返せば、多くの犬が、同法に元ずく措置などされままに飼われているということであろう。

しかし、どうして、こんなに多くの人がペットを飼うようになったのだろうか・・・。
先に挙げた内閣府の「動物愛護に関する世論調査」の “2. ペット飼育に関する意識について”の(1)ペットを飼育が良い理由を見ると、「生活に潤いや安らぎが生まれる」「家庭がなごやかになる」「子どもたちが心豊かに育つ」といった癒しを求めて飼育している人が断然多く、このような理由でペットを飼っている人は、都市規模別に見ると大都市で多くみられるという。
一方、 ”(2) ペット飼育の問題点”では、「最後まで飼わない人がいる」(58.22%) ,「捨てられる犬やねこが多い」 (55.5%)を挙げた者の割合が高く、以下、「他人のペットの飼育により迷惑がかかる」(30.6%),「ペットの習性などを知らないで飼っている人がいる」(22.7%)などの順となっている(複数回答)。この中で、「最後まで飼わない人がいる」を挙げた者の割合は、大都市、中都市で、それぞれ高くなっており、年齢別に見ると、「最後まで飼わない人がいる」を挙げた者の割合は、20歳代から40歳代で、「ペットの習性などを知らないで飼っている人がいる」を挙げた者の割合は、30歳代、40歳代で、それぞれ高くなっているようだ。
”(3) ペット飼育による迷惑”では、「散歩している犬のふん(糞)の放置など飼い主のマナーが悪い」を挙げた者の割合が58.1%と最も高く、以下、「ねこがやって来てふん尿をしていく」(40.9%)、「鳴き声がうるさい」 (36.1%)、「犬の放し飼い」(30.9%)などの順となっている。
それでは、今後、少子高齢化や核家族化が進む中で、人とペットの関係はどのようになっていくと思うかについては、「家族の一員同様に共に生活する世帯が増える」を挙げた者の割合が43.3%と最も高く、以下, 「老後のパートナーとしてのペットの重要性が増す」(39.8%)、「高齢者が病気などにより飼育できなくなるペットが増える」(31.8%)などの順となっている([4] 少子高齢化や核家族化の進展とペット飼育参照)。

このような犬や猫などペットに関連することは以前このブログでも、猫の日招き猫の日、「忠犬ハチ公像が完成」の中でも触れてきたし、「犬の日」や、「ペットたちに「感謝」する日」などでは、その飼い方などにも触れ、かなり詳しく書いてきた。
従って、今日、又、犬や、猫など、ペットのことについて書くかどうか迷ったのだが、昨今のペットブームの陰で飼い主から捨てられた犬や猫の存在が問題となっているとの話をテレビなどの報道で耳にしたことからまた書く気になった。

飼い主に見放された放浪犬や迷い犬、野良犬などは狂犬病予防法に基づく自治体条例によって捕獲される。
これら引き取られた犬や猫の処分については1975(昭和50)年公布の「犬及びねこの引取り並びに負傷動物の収容に関する措置要領」(※6参照)により定められていて(1)出来るだけ新しい飼い主に譲渡すること、(2)動物の実験用として払い下げること、(3)、(1)(2)に該当しないものは殺処分されることになっている。
環境省から、「平成24年度(平成24年4月~平成25年3月)の犬猫収容状況(殺処分数含む)」の統計資料が発表された。
東日本大震災の被災動物の報道などもきっかけとなって、飼い主のいない犬猫たちがおかれている状況が広く知られるようにもなり、これらの犬や猫などの保護動物への理解も少しは深まったようだ。
この資料を見ると、犬や猫の引き取り数や殺処分数は年々減少し、引き取られたもののうち、返還・譲渡されたものも年々増えてはいるものの、それでも、平成24年度に殺処分された犬は38,447頭、猫は123,420頭、計209,388頭に及んでいる。
特徴的なのは、犬が引き取られたうちの約半数弱が返還・譲渡されているものの、猫の場合は、引き取られた数の約10,8%しか返還・譲渡されず、残りの約90%弱が殺処分されていることだろう(※7参照)。

どうしてこのように多くの犬猫が殺処分されるのだろうか?
ペットが高齢だから、離婚するから、子供がアレルギーだから、吠えるから、ブリーダー崩壊・・・、といった理由で、ペットとして飼っていた犬や猫が公園に捨てられたり、保険所へ持ち込まれる理由はいろいろとある。
捨てられた犬や猫は野良犬、野良猫となり繁殖を繰り返し数を増やしていくが、それでも生きて行ければよいが、その多くは事故や病気で死んでしまい、また、生き残った多くも人の手により保健所へ連れて行かれ殺処分されていくことになる。

このようなペットの増加してゆく背景には、日本の深刻な社会現象である少子・高齢化社会やストレス社会が影響しているようだ。
核家族化した日本で、子育ても終わった孤独な高齢者が生活のパートナーとしてペットを飼育している。又、外に出て働く女性の増加により、未婚で単身生活を送っている女性などが安らぎを求めてペットを飼うケースも増えてきているという。
ペットに癒やされていることが“結婚しない女性”の増加に拍車をかけているのではないかと心配する声さえもある。
このような家族を構成するメンバーの心のつながりかたが薄れるなど、生活の基盤である家族形態が変化するなかで、人が動物に求める役割も、癒しの対象へと変化させてきた。
ネットで、犬や猫の飼い主のホームページなどを見れば、ペットを「娘」「息子」と呼ぶなど動物を擬人化した表現も多くみられるように、今の日本では、ペットがコンパニオン(生活して行く上での伴侶動物)化している。
しかし、高齢化の進行により、高齢者のみの世帯が増加すると、それに伴って一人暮らしの高齢者も増えてくる。そんな、飼い主が孤独死したり、認知症になったり、病気などで入院したりするなどによって、ペットが取り残されてしまうといったことも今では問題視され始めている。
家族の一員として愛情をたっぷり受け、幸せに暮らすペットが多くいる反面、色々な理由はあるものの飼えなくなったからという人間の都合で不幸な道をたどる動物たちがいることを忘れてはならないだろう。

飼い主にとって犬や猫などのペットは可愛くて仕方がないだろう。犬や猫に触れると、柔らかく、温かくてとてもここち良い感触である。それに、ペットは成長してからも親の愛情を必要とする幼児のように純粋である。
犬や猫などのペットにも感情はあるようだけれど、口をきかないし、よほどのことがない限り、飼い主に対して反論もせず、飼い主の思うがままになってくれる。実の子どもであっても自分の気に入らないことには反抗し、憎まれ口の一つもたたくのだが、ペットにはそれがない。飼い主たちはそんなペットに癒されるのだろう。
先日TVのニュースで、全国の大学の食堂で、テーブルをついたてで仕切るなどした「1人用席」を設ける動きが広がっている。と報じていた。「周囲の目が気になり1人で食事がしづらい」と相席を嫌がる学生の声に応えたものだという(※8参照)。
私も現役時代感じたものだが、最近の若い人は、会社の慰安旅行、運動会、宴会を始め、会社の上司や先輩との酒のお付き合いなども拒否する人が増えてきている。そのような付き合いが煩わしいのであろう。
自分とは違う年代や、趣味、考え方、性格の人とは付き合わない。同類項の仲間としか付き合うことのできない人が増えてきている。同じ学校の学生同士でも、知らないものとは、食事の席を共にするのを嫌う。私たちの年代の者からするとちょっとゾットする存在だが、そのような自分の世界に閉じこもっている人たちにとって、自分の言うことなら何でも聞いてくれるペットは唯一安心して一緒に生活できる相手だと言えるのかもしれない。可愛いがれば、可愛がるだけ自分になついてくれるから・・・。
考えてみると、現代社会でペット以外で、自分の思い通りに牛耳れるものは、そうなかなかありはしないだろう。会社で、学校で、友だちでも思い通りには運ばない。それは、愛し合った恋人であっても、結婚した後の夫婦でも・・・・。
それが出来るのは唯一ペットぐらいのものかもしれない。だから、そんなペットは飼主にとってこの上なく可愛く、愛すべき存在だろう。愛を誓ったはずの恋人でも、夫婦でも、なにかあれば今は簡単に離れていく時代だ。

一般社団法人ペットフード協会の第15回(平成20年度) 全国犬猫飼育率調査時の史料(ここ参照)によると、2003年(平成15年)度を境に犬、猫の数が15歳以下子供総数を逆転(犬猫飼育頭数:約1,922万頭 15歳以下子供総数:1,791万人.)し、その関連市場(ペット及び、ペットフード、ケージなど関連商品)も1兆円をこえるといわれている。
高齢化社会では高齢化した人間が痴ほう症になり徘徊したり行方不明になったりする人が増え、そんな高齢者を介護する子供なども高齢化てしていることから、そんな老老介護が今話題になっている。
しかし、犬や猫などペットの高齢化も進んでおり、一般にシニアと言われている7歳以上の犬が全体の55.3%(昨年度:51.0%)、猫が47.4%(昨年度: 45.8%)を占め、更に、老齢と言われる10歳以上の犬は29.3%(昨年度:29.0%)、猫が31%(昨年度:28.3%)を占めていることが分かったという。高齢化の要因としては、栄養バランスの取れたペットフードの普及や獣医療の更なる進化、室内飼いの増加などが考えられという。
結構なことだが、ペットも高齢化すると人間同様、徘徊したり、行方不明になったりもする。そして、高齢者が高齢ペットを看る“老老介護”も珍しくなくなったという。
それに、飼い主のところからいなくなった迷い犬や迷い猫などを見つけるペット捜しの会社も忙しそうだ(※9参照)。無事見つかれば良いが、もし、見つかっても、そのあと、高齢者が飼ってゆけるのだろうか?
ペットの老齢化が進んでいる要因に、栄養バランスの取れたペットフードの普及や獣医療の更なる進化があるというが、これらペットを飼うのにどのくらいの費用がかかっているのだろうか。
以下参考※10:「ペット関連ビジネス調査」によると、犬にかける年間費用は病気や怪我の治療にかかる費用が最も多く約18,6万円、猫にかける年間費用は犬に比べて少ないもののそれでも約11,9万円を要している。
家族同然のペットに要する費用だからこれくらいは安いものと考えるべきか。しかし、動物の場合保険がきかないので人によっては治療費の負担は大変だろう。
中には、歳をとった犬や猫がマッサージをしてもらったり、鍼治療を受けていたりしているという。人間でも歳を取るとからだ全体の骨格や関節の歪み・ズレなどから整体の医院や鍼灸院の通っている人が多く、年寄の人が多く住むわが町でもこのような医院の数が多くどこも大流行である。犬や猫でも歳をとれば同じような状況に陥るだろう。
ペットの場合、人間のように健康保険はなく自由診療だが、動物だって人間なみに腹もこわすし、風邪もひき、怪我もするし、不眠にもおちいるだろう。人間と同じで年をとれば、ちょっとしたことで骨折もするし、その時の手術費は高いのだろう。
人間社会では今、デフレと不況で健康保険料も支払いができない保険料支払困難者が社会問題化されている。
その一方で、ペット愛好者はペット保険に加入して、金を惜しまない。つまり、人間社会だけではなくペットの世界でも二極化現象が起こっているのである。
自分の病気治療のための医療費も大きな負担となってきている多くの老いた年金生活者にとって、ペットを我が子同様に可愛がっていればいるほど、そのペットの医療費の負担は重くのしかかってきていることだろうと推測している。
最近よく聞く言葉に「ペットロス症候群」というものがある。ペットロスとは文字通り「ペットを失う事」である。
人間とペットの関係が密接になってきたことを背景に生まれた新たな現象であり、ペットと死別したり、ペットが行方不明になったり、その他の事情でペットを手放さなければならない状況などに遭遇したことなどを契機に発生する疾患ないし心身(精神的・身体的)の症状のことをいう。
もし、自分がちゃんとペット保険に入っていれば、愛しているペットを死なせずに済んだかもしれない・・・などと考えたらいたたまれないだろう。そして、このようなペットロス症候群に落ちってしまったりすることになる。
このような精神的・身体的障害が起こる原因として、飼い主のペットを伴侶動物(コンパニオンアニマル)としての位置づけが挙げられている。つまり、ペットと共に過ごす事によって培われた余りにも深いペットへの愛着や愛情から引き起こされる症状と言ってもよい。
日本では2000年代頃から注目を集めるようになったが、ペット産業の盛んな米国では1990年代頃より精神疾患の契機として重要視されるようになったという。
日本では、内田 百間が居なくなってしまった愛猫ノラを探し、一喜一憂する日々を書いたエッセイ集『ノラや』(1957年)が、ペットロス症候群という言葉さえなかったころの、同症候群らしき記述として注目されている。猫付きの猫かわいがりは特別だというが以下参考※11の読書感想文を読んでみるとよい。

日本のペットトブームは、バブル時代に始まり、それに関連した種々のペット産業が生まれた。そうして、ペットフードから、ペット保険、専用の医療施設、訓練サービスなどのほか、ペットファッションからペットシッターサービス(※12参照)、ペット用温泉まで出来ている。
世界には飢えた子どもが大勢いる(※14参照)中、犬や猫に高価な化学療法を受けさせる飼い主がいることについては批判さえもあると聞く(※13参照)。
兎に角、飼い手側の人間と、飼われている動物。人間の方が絶対的に有利である。 ペットの気持ちを斟酌するとしても、しょせんは人間の都合で行われることとなる。極端な言い方だが、絶対者がもたらす慈悲と、対等な関係での思いやりとは違う。残念なことだが、今見られるような異常とも思えるペットブームは、人間同士の対等な付き合い方が出来なくなっていることを象徴しているようにも思われる。
いま世界で、力のある者とない者、金のあるものとない者、その極端な差、二極分化が進行している。力のあるものからすると、「自分の甲斐性で得た金でなにをしようが自由であろう」・・。そう言いたいだろう。しかし、力のないものは黙って力のある者に気に入られるようにして生きていく世界が出来上がってしまうと、余りも哀しいことではないだろうか。
自由主義の国を代表するアメリカ、共産主義を代表する中国でさえ、その格差社会が、行き詰まりを見せ、破局に向かっているような気がする。
人間とペットとの関係においても、本当に犬や猫は本来の役割も果たさず餌を与えられ、人間に気に入られるよう、媚を売った生き方をすることを望んでいるのだろうか。私が子供の頃でも、犬は、家の番犬であり、子供の遊び相手としての役割を果たしていた。
私には、人間と同じように服を着せられたり、可愛い可愛いと抱きしめられている犬や猫が本当に喜んでいるようには思えないのだが・・・。
いずれにしても、このデフレの日本にあって、異常なほどのペットブームでほくそえんでいるのはペット産業の人達であろう。そこには、獣医や、ペット用の医薬品の開発をしている人も含まれるが・・・。
人間界でも、高齢化社会の中で元気に長生きしようと頑張っている私たち老人を最も歓迎してくれているのは、恐らく自分の息子のような若い人たちではなくて、私たちを最高の上得意としている医療業界の人達と、それにつながっている官僚や政治家なのだろうね~。 

●冒頭の画像は内田 百間著『ノラや』 (中公文庫)
参考:
※1:パシャっとmyペット | 株式会社サイバーエージェント
http://www.cyberagent.co.jp/service/detail/id=3843
※2:アニマル・ドネーション
http://www.animaldonation.org/
※3:内閣府:動物愛護に関する世論調査[平成22年9月調査]
http://www8.cao.go.jp/survey/h15/h15-doubutu/index.html
※4:厚生労働省-犬の登録頭数と予防注射頭数等の年次別推移
http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou10/02.html
※5: 一般社団法人ペットフード協会
http://www.petfood.or.jp/
※6:犬及びねこの引取り並びに負傷動物の収容に関する措置要領 - 環境省
http://www.env.go.jp/hourei/syousai.php?id=18000007
※7:統計資料 「犬・猫の引取り及び負傷動物の収容状況」 [動物の愛護と適切な管理] .. - 環境省
http://www.env.go.jp/nature/dobutsu/aigo/2_data/statistics/dog-cat.html
※8:相席イヤ…学食に1人用「ぼっち席」設置広がる
http://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20140606-OYO1T50035.html
※9:迷子動物、保護動物リンク集 - 獣医師広報板
http://www.vets.ne.jp/link/pc/6100.html
※10:ペット関連ビジネス調査 - 地方経済総合研究所(Adobe PDF)
http://www.dik.or.jp/?action=cabinet3_action_main_download&block_id=57&room_id=1&cabinet3_id=1&file_id=49&upload_id=411
※11:今月の読書 内田百 「ノラや」「百鬼園随筆」「冥途・旅順入場式」
http://www013.upp.so-net.ne.jp/mayalibrary/niki/niki141.htm
※12:ペットシッターとは/日本ペットシッターサービス
http://hwbb.gyao.ne.jp/cupet-a5w/question.html
※13:2012 Japanese First Language Written examination
http://www.vcaa.vic.edu.au/Documents/exams/japanese1st/2012/2012japFL-w.pdf#search='%E3%83%9A%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%A0++%E4%BA%BA%E9%96%93%E5%90%8C%E5%A3%AB'
※14:《ユニセフ》募金にご協力を[胎児の時から、営統が足りません。]
http://www.unicef.or.jp/special/13win/?utm_source=yahoo&utm_medium=cpc&utm_campaign=13win
動物福祉について | 公益社団法人日本動物福祉協会
http://jaws.or.jp/welfare01/
ペット - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%83%E3%83%88