今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

結核予防週間

2014-09-24 | 行事
9月24日~9月30日は「結核予防週間」である。
1949(昭和24)年から厚生省(現在の厚生労働省)と結核予防会(JATA)が実施している。
結核についての正しい知識を普及し、これからの活動を考える週間として、結核予防会では周知ポスターやパンフレット「結核の常識」等を作成配布するとともに、「全国一斉複十字シール運動キャンペーン」として全国各地で街頭募金や無料結核検診、健康相談等を実施して、結核予防の大切さを伝えている(参考※1「公益法人結核予防会」HPの結核予防週間参照)。
 
「みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる」 

上掲の短歌は、日本を代表する短歌結社誌『アララギ』の中心人物として明治・大正・昭和と長く活躍した歌人・斎藤茂吉の処女歌集で、1913(大正2)年に刊行された『赤光』(死にたまふ母 其の一)に所収のものである(※2参照)。
茂吉は、1882(明治15)年、山形県守谷家の三男に生まれる。生家には経済面の余裕が無く、茂吉は、15歳の頃より東京に出て浅草で精神科医院を開業するも跡継ぎのなかった同郷の医師、斎藤紀一の家に養子候補として厄介になっていた。
上京してからの茂吉は開成中学(現・開成高校)から旧制第一高校(現:東京大学の前身)へと進学、このころから歌を詠むようになり、幸田露伴森鴎外などを愛読。とくに露伴の影響は大きかったようだ。
1902(明治35)年第三学部((現:東京大学教養学部)の学生となった茂吉は、発行されたばかりの正岡子規の遺稿集第一篇『竹の里歌』(※3参照)を読んで強い感銘を受け、作歌を志すようになる。
しかし、養家の医師である斉藤家を継ぐため、同年、第一高等学校卒業後、東京帝国大学医科大学>(現在の東大医学部医学科)に入学し,1910(明治43)年に卒業している。
その翌・1911(明治44)年には、東大医科大学副手となり、精神病学を学ぶかたわら付属病院に勤務。7月より東京府巣鴨病院勤務し、授業と診療の生活が始まっていた。この時茂吉29歳。
その間1906(明39)年、子規の流れを汲む伊藤左千夫に入門し、本格的に短歌の道を歩み初めていた。
そして、茂吉が31歳の時、生母いくが1913(大正2)年5月に亡くなっている。上掲の短歌は臨終を迎えようとしている郷里山形の母に対する想いを詠んだ短歌である。東京に住んでいた茂吉。今のように飛行機も新幹線もなかった時代。 おそらく夜行列車に揺られているときに浮かんできた短歌だろう。
「一目見ん一目見んとぞ」と反復させることで、作者の願いや祈り、あせりが強く表現されている。
そんな茂吉のエッセイ(随筆)『結核症』(1926=大正15年)がある。
日本を代表する歌人でありながら、精神科医を本業としていた茂吉が、ここでは肺結核の病状が作風に影響を及ぼす例を分析している。一般的に結核性の病に罹(かか)ると神経が研ぎ澄まされ、健康な人の目に見えないところも見えて来るようになり、更に末期になると病に平気になり呑気になるものの依然として鋭い神経を持つ傾向にあるそうだ。
そして、肺結核患者は健康の人が平気でやっていることに強い厭味(いやみ)を感じたり、細かい粗(あら)が見えたりすることがあるそうで、その例として子規が若い頃は傾倒していた幸田露伴の作品に対して嫌味というか細かい指摘をしたことを挙げている。
そして子規の末期の作品を「センチメンタリズムから脱却しているが、感慨が露(あら)わでなく沈痛の響に乏しい」のは、俳人としての稽古によるものでなく、末期の肺結核特有の症状から来たものと結論づけている(参考※4:「青空文庫」参照)。

茂吉の『結核症』に出てくる正岡子規や、国木田独歩の他、高山樗牛(ちよぎう)、綱島梁川(りやうせん)、石川啄木 、森鴎外など結核で亡くなった文豪等が登場する。
正岡子規は、1894(明治27)年夏に日清戦争が勃発すると、翌1895(明治28)年4月、近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡ったものの、上陸した2日後に下関条約が調印されたため、同年5月、第2軍兵站部軍医部長の森林太郎(鴎外)等に挨拶をして帰国の途についたが、その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院(現:神戸大学医学部附属病院)に入院。その後7月には、療養のために須磨保養院へ移り、故郷の松山へ行くまでの1ヶ月間、須磨に滞在していた。
当時須磨には、鶴崎平三郎博士によって解説された日本最初のサナトリウム「須磨浦療養院」(現:須磨浦病院。※5参照)があり、紛らわしいことに、隣接して「須磨保養院」もあった(須磨浦療養院より須磨駅方向。同じ須磨浦公園内の東端)。後者は療用にも保養にも利用されていた施設で、子規はこの「須磨保養院」に滞在し、サナトリウムの医師の診察を受けていたようだ。
松山に帰郷した子規は、1897(明治30)年に俳句雑誌『ホトトギス』を創刊しているが、その4年後 1902(明治35)年9月に肺結核が悪化し34歳 の若さで死去した。辞世の句「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」「をとゝひのへちまの水も取らざりき」を残している、苦しんで死んだことだろう。

国木田独歩は、1905(明治38)年5月の日本海海戦で、日露戦争 の勝利がほぼ確実になると、戦後にそなえ翌1906年初頭にかけて、新しい雑誌を次々と企画・創刊して、12誌もの雑誌の編集長を兼任していた。そして、日露戦争の終結後自ら独歩社を創立したが、1907(明治40)年には破産。その上独歩は肺結核にかかる。
しかし皮肉にも、前年に刊行した作品集『運命は』(「運命論者」など9編を収める第3著作集、うち「運命論者」は※4:「青空文庫」参照)が高く評価され、独歩は自然主義運動の中心的存在として、文壇の注目の的になった。
神奈川県茅ケ崎にある結核療養所の南湖院で療養生活を送る。「竹の木戸」「窮死」「節操」などを発表するが、病状は悪化していき、1908(明治41)年6月、満36歳で死去している。

高山樗牛は、明治時代の文芸評論家、思想家である。1871年2月28日(明治4年1月10日) 現在の山形県鶴岡市に生まれた。父は庄内藩士・斎藤親信。生後高山家の養子になった。樗牛の号は『荘子』の巻頭に載せられている「逍遥遊」(何ものにも拘束されない全く自由の境地。伸びやかに遊ぶ荘子の意か・・※6参照)からという。
樗牛がこの号を用いるようになったのは、彼が仙台の旧制第二高等学校に在学中のことであったという。彼は自分の性格を良く知っていたのだった。若輩の身で天下国家を論じるような、良く言えばスケールの大きな話、悪く言えば大風呂敷と見做されるような話を好んでする性格を、樗牛は自覚していたのだった。
1896(明治29)年に東京帝国大学文科大学哲学科卒業後、第二高等学校の教授になったが、翌年、校長排斥運動をきっかけに辞任。博文館に入社し『太陽』編集主幹になった。
当時は三国干渉後で国粋主義的な気運が盛り上がっており、「日本主義」を鼓吹する評論を多く書いていたようた。一方で『わがそでの記』のようなロマン主義的な美文を書いたり、美学をめぐっては森鴎外と論争を行っていたという。
1900(明治33)年、文部省から美学研究のため海外留学を命じられた。夏目漱石芳賀矢一らと同時期の任命であり、帰国後は京都帝国大学(現:京大)の教授が内定していたが、洋行の送別会後に喀血し、入院。療養生活に入った。
翌・1901(明治34)年、留学を辞退。病中に書いた『文明批評家としての文学者』ではニーチェの思想を個人主義の立場から紹介した。また、田中智學の影響を受け日蓮研究を進めていたという。
当時病気で喀血で入院と云えば結核であった。樗牛は、24 歳の時に結核を発症してからは、時として頭をもたげてくるこの病をなだめながら、評論活動を続けたのだったが、病床に臥していたある時(1897年=明治 30年)、次のように述べているという。
「われ病にかかりて、ここにまことの人生を見そめき。あだ波たてる世の常にかけはなれて、ここに静かなる寂しきまことの世相を観じそめき。利に走り名にあこがるるともがらの外に、真の友情の貴むべき事を覚えそめき。あだにすごせし幾とせの、偽り多くつみ深きを想ひて、ここに青春の移ろひやすく、勝事のとこしへならざるを嘆きそめき。(『わがそでの記』)
この文章は、友人の姉崎嘲風との交友について、樗牛が書いたものだそうである(※7、※8参照)
1902年(明治35年)、論文『奈良朝の美術』により文学博士号を授与されたが、病状が悪化し、前年東大の講師になり週1回、日本美術を講じていたが、これを辞任、12月24日に31歳の若さで死去している。

綱島梁川 、本名:栄一郎は、1873(明治6)年5月年岡山県上房郡有漢村(現:高梁市)生まれの宗教思想家、評論家である。
1890(明治23)年に岡山の高梁教会で牧師より洗礼を受ける。1892(明治25)年に東京専門学校(後の早稲田大学)に入学。
坪内逍遥大西祝の教えを受ける。逍遥の『早稲田文学』の編輯に加わり、文藝・美術評論を書く。
横井時雄本郷教会植村正久の一番町教会(後の富士見町教会)に出席する。この頃正統的な神学に懐疑的になり、倫理に傾倒するようになった。
肺結核で神田の吉田病院に入院しているときに、副院長の橋本善次郎神戸教会牧師の海老名弾正と出会って信仰を回復。
文芸評論家として活動すると同時に、倫理学者としても活動した。病身になってからは、主に宗教の論評を発表するようになり、明治38年(1905年)に『新人』に発表した『病間録』「余の見神の実験」は大きな反響を呼んだ。この宗教的な思索は、安部能成、斎藤勇らに大きな影響を与えたという。綱島も肺結核のため満34歳で死去している。

岩手県出身の歌人、詩人石川啄木は、曹洞宗日照山常光寺住職の長男として生まれる。戸籍によると1886年2月20日の誕生だが、1885(明治18)年10月28日に誕生したともいわれているそうだ。
盛岡中学校(現:岩手県立盛岡一高)時代に、のちに妻となる堀合節子や、親友の岡山不衣金田一京助らと知り合う。
明星』を読んで与謝野晶子らの短歌に傾倒し、また上級生の野村長一(のちの野村胡堂)や及川古志郎らの影響を受け、文学への志を抱くようになる。
1901(明治34)年12月から翌年にかけて友人とともに『岩手日報』に短歌を発表し、啄木の作品も「翠江」(すいこう)の筆名で掲載された。これが初めて活字となった啄木の短歌だったという。
しかし、翌1902(明治35)年文学で立身することを決意し、盛岡中学校を中退し、11月9日、雑誌『明星』への投稿でつながりがあった新詩社の集まりに参加、10日には、当時、歌壇ではきら星の如き存在であった与謝野鉄幹・晶子夫妻を訪ねる。
東京滞在は続き作歌もするが出版社への就職がうまく行かず、結核の発病もあり、1903(明治36)年2月、父に迎えられて故郷に帰る。
1903(明治36)年 5月から6月にかけ『岩手日報』に評論を連載、11月には『明星』に再び短歌を発表し新詩社同人となる。この頃から啄木のペンネームを使い始め、12月には啄木名で『明星』に長詩「愁調」を掲載、歌壇で注目されるようになる。
啄木は貧窮と病に冒された漂白の生活の中、1910(明治43)年)には、処女歌集『一握の砂』(※4「青空文庫」で読める)を発表。新しい光を世に放つ551首が納められたこの歌集を残して、2年後の1912(明治45)年わずか26歳で夭逝した.。

森鴎外は、東京大学医学部卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツで4年過ごして、帰国後、訳詩編{於母影』、小説『舞姫』、翻訳[『即興詩人』を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』(※:「青空文庫」の55柵草紙の山房論文参照)を創刊して文筆活動に入った。
その後、日清戦争出征や小倉転勤などにより、一時期創作活動から遠ざかったものの、『スバル』創刊後に『ヰタ・セクスアリス』『』などを発表。乃木希典の殉死に影響されて『興津弥五右衛門の遺書』を発表後、『阿部一族』『高瀬舟』など歴史小説や史伝『澁江抽斎』等も執筆した。
晩年、帝室博物館(現在の東京国立博物館・奈良国立博物館・京都国立博物館等)総長や帝国美術院(現日本芸術院)初代院長なども歴任するなど幅の広い文芸活動とともに幅広い交際もしてきた鷗外も、1922(大正11)年、親族と親友の賀古鶴所らが付きそう中、腎萎縮、肺結核のため60歳で死去している。
森鴎外の死については、鴎外の妹で、訳詩集『於母影』の共訳者として、紅一点で名をつらねる等、女性文学者として明治期に若松賤子バーネットの『小公子』の名訳で知られる)と並び称された歌人・随筆家でもある小金井喜美子が、『鴎外の思い出』の中で、以下のように書いている(※3:「青空文庫」参照)。
「近親中で長生したのは主人の八十七、祖母の八十八でした。祖母は晩年には老耄(ろうもう)して、私と母とを間違えるようでした。主人は確かで、至って安らかに終りました。この頃亡兄は結核であったといわれるようになりましたが、主人も歿(ぼつ)後解剖の結果、結核だとせられました。解剖家は死後解剖するという契約なのです。医者でいる子供たちも、父は健康で長命して、老衰で終ったとばかり思っていましたら、執刀せられた博士たちは、人間は老衰だけで終るものではない、昔結核を患った痕跡(こんせき)もあるし、それが再発したのだといわれます。解剖して見た上でいわれるのですから、ほんとでしょう。つくづく人体というものを不思議に思います。」・・・と。
喜美子の兄、鴎外の直接の死はやはり結核によるものだったようだ.
続いて「割合に早く終った兄は気の毒でした。何も長命が幸福ともいわれませんけれど、その一生に長命の人以上の仕事をせられたのですから。・・・長年の間、戦闘員でこそなけれ、軍人として戦地に行き、蕃地(ばんち)にも渡り、停年までその職に堪えた上、文学上にもあれだけの仕事をされたのですから、確かに過労に違いありません。よくもなされたと驚くばかりですが、それにつけても、晩年にはもっと静養させたかったと、ただそれだけが残念です」・・・と。
結核で亡くなったその他の文豪たちの中では鴎外の60歳での死は湯治としては早い方ではないが、長生きの家系の中では意外と早死した兄の働き過ぎを惜しんでいる。
又、喜美子の夫は日本解剖学会初代会長などをつとめた小金井良精であり、その夫も、当時としては長生きの88歳で亡くなったがその死因は老衰ではなく解剖の結果死因は結核だったそうだ。

上記以外にも明治以降、とされる主な文豪、樋口一葉(24歳と6ヶ月)、•二葉亭四迷(45歳)、•宮沢賢治(37歳)梶井基次郎(31歳)などは、肺結核で亡くなっていると言われている。
特に梶井基次郎氏は、京都の三高在学中、四条大橋の上で文学仲間に「肺病になりたい、肺病にならんとええ文学はでけへん。」と叫んだそうだ(祖母も弟も肺病で先に亡くしている)。その直後、肺結核を発病、その後名作『檸檬』を残し、31歳で生涯を閉じたという(※9参照)。

明治時代から昭和20 年代までの永い間、「国民病」「亡国病」と恐れられた結核は、年間死亡者数も10数万人に及び死亡原因の第1位であった。
医療や生活水準の向上により、今では薬を飲めば完治できる時代になったが、過去の病気と思っていたら、結核の集団感染が学校や病院、老人ホームなどで続き、1999(平成11)年には厚生省から「結核緊急事態宣言」が出された((※10:「厚生労働省」のここ参照)。
1997(平成9)年の国内の結核新規登録患者数は42,715 人で、前年比243人増。1998(平成10)年は44,016人で、さらに1,301 人増加と、確実に増えてきた。
世界的に見ると、日本は先進国中で図抜けた罹患率( 平成10年34.8)であった(※10:「厚生労働省」のこのページの参考資料-1参照) 。
この状況は、現在でも同様である。「平成24年結核登録者情報調査年報集計結果(概況)」(※10:「厚生労働省」のこのページの参考資料 1参照)を見ても、日本の結核罹患率16.7は、米国(3.4)の4.9倍、ドイツ(4.3)の3.9倍、オーストラリア(5.4)の3.1倍である。、欧米諸国と比較すると、日本の結核罹患率は依然として高い。
このような状況から判断して、結核罹患率が、10人以下となっている欧米先進国に比べ日本はまだまだ結核は多く、現在でも世界の中では依然「“中”蔓延国」とされている状況である。
人口10万人あたり10人以下の「“低” 蔓延国」になるにはまだまだ相当年数かかるだろうし、100万人あたり1人以下の「制圧」までには50年以上かかるのではないかという予測もあるようだ。
それには、結核を知ることが予防への第一歩であり、早期発見・早期治療は本人の重症化を防ぐためだけではなく、大切な家族や職場等への感染の拡大を防ぐためにも重要である。

結核は明治前期の資本主義経済の発展と共に増え続けたと言われている。
貧しい農村か若い女性を製糸、紡績工場に集め、低賃金、重労働で働かせた。作業場も住宅も不潔で栄養不良が重なると、徐行は結核に倒れ、故郷に帰りひっそりと暮らした。このような過酷な労働条件下で働く女工について語るとき、これを「女工哀史」などともいった。
結核を患い故郷に帰った女性は、親や兄弟に厄介者扱いされるケースもあった上、家族に菌を移し、農村に結核を広げた。死亡率が高かった頃は、病名「結核」はあまりにも直接的で人々の口に出しづらかった面があったからだ。
折しも、1908(明治41)年6月、結核菌の発見をしたドイツの細菌学者コッホ夫妻が来日した。

上掲の写真はその折の記念写真。前列左がコッホ、後列右端が弟子の北里柴三郎である(画象『朝日クロニクル週刊20世紀』1913-1914 年号より。
コッホは来日時の談話で、イギリス、プロシアなどで結核が減少している理由として、
1)伝染を恐れ注意するようになった。2)一般に衛生思想が発達した。3)貧民の住宅事情を良くした。4)療養所を増やし、感染源を隔離できるようになった。・・・ことを指摘したという。これを機に日本でもようやく本格的な結核対策を講じる機運が高まったようだ。
そして、1913(大正2)年は、このような結核予防史上重要な年となった。財団法人日本結核予防協会が発足したからだ。発会式は2月11日の紀元節に行われ、会頭に芳川顕正、理事長に北里柴三郎が就任した。
それまでは北里柴三郎らの大日本私立衛生会(日本公衆衛生協会の前身、※11参照)と、2年前にクリスチャン医師ら数名により出来た白十字会(※12、※13参照))があったが、国家的な取り組みが求められていた。
同協会の事業を1939(昭和14)年に引き継いだのが、今の結核予防会である。
日本結核予防協会は啓発活動の小冊子を発行し、翌1914(大正3)年には東京大正博覧会で大がかりな展示をし、「結核征伐の歌」を製作、その後も映画、劇で広く大衆に予防を訴えた。
1、そも肺病は目に見えぬ 結核菌の襲ひ来て
強と見ゆる體(からだ)にも 呼吸に障(さわ)りあるときは
その弱點(じゃくてん)につけ入りて ついに発するものぞかし

2、されば豫防(よぼう)の第一は 結核菌を近づけず
常に體を養ひて よしかの菌の襲ふとも
打ちかつ程の體力(たいりょく)を 備へおくこそ秘訣なれ

上掲は「結核征伐の歌結核征伐の歌」1、2番、 歌詞は10番まであるようだ。
また、冒頭に掲載のものは、大正末期に作られた結核予防協会の宣伝ポスター。このころは3月27日が結核予防デーだったのだろうか。歌も、ポスターも時代を感じさせるよね~。、

政府の方針で1917(大正6)年初めて結核療養所・大阪市立刀根山病院(現:国立病院機構刀根山病院)が開院した。
この施設は結核専門の診療所であると同時に根本的な治療方法のない結核という病気の研究機関でもあった。結核治療という分野に関していえば日本国内で最古の歴史を持つと言える。
個人の結核療養所としては、先にも書いた通り、神戸の須磨浦療病院が1889(明治22)年に設立されているが、その2年前の1887(明治20)年に、鎌倉海浜院が設立されているが,翌年ホテル(鎌倉海浜院ホテル)に転向しているので、本格的な日本最初の結核サナトリウムは須磨浦療病院といってよいであろう。
開設者は鶴崎平三郎博士で,湘南と同様,景勝の気候温暖な海浜が建設地として選ばれている。
湘南地方にはその後1892(明治25)年に鎌倉養生院、1887(明治30)年に杏雲堂平塚分院、1899(明治32)年に中村恵風園療養所と南湖院が次々と開設され、最も多い時代には12のサナトリウムが湘南地方にあったという。
この中で,医師高田畊安によって開院された南湖院は最初は5千坪強の土地から発足し、最後には5万坪の土地に総病床数200床強の施設に発展し、当時東洋一と云われた施設であったらしい。東京の医科大学の学生が施設見学にくるなど、診療の他に医学教育にも貢献している施設であったという(※1:「公益法人結核予防会」HPのここ参照)。

上掲の画像は神奈川県・茅ケ崎にあった民間の結核療養所「南湖院」。写真は、1931(昭和6)年南湖院海浜会場で衛生講和をしている様子(写真は鶴田蒔子氏蔵のもので、『朝日クロニクル週刊20世紀』1913-1914年号掲載のものより借用した)。

しかし,入院料は1939(昭和14)年に一番安い病床でも1日3円であり、1カ月入院すると100円弱かかり、当時大学出の初任給が100円くらいであったことを考えると、庶民には長く入院することは困難であったようだ。それは、湘南と同様、景勝の気候温暖な海浜が建設地として選ばれた「須磨浦療病院」も同様であった。
そのようなことから公的な療養所として最初に大阪市、そして、東京市に続いて、第3番目に建設されたのがわが地元、神戸市立療養所であったという。
須磨浦療病院のある須磨公園駅から山陽電鉄板宿まで行き、市営地下鉄で2駅目の名谷で下車、車で数分の国立神戸医療センターが、今は旧神戸市立療養所跡に建てられた施設である。1918 (大正7)年創立の神戸市立屯田療養所を伝統的母体として、1941(昭和16)年にこれを統合して現在の地(多井畑)に神戸市立多井畑療養所として開設されたものである。
1919(大正8)年には、旧結核予防法が施行され、人口5万人以上の市に結核療養所の設置が命じられ,強く蔓延していた結核に対応するために,公立の結核療養所は急速に増えていった。そして、患者の家の消毒、有業制限、結核療養所への収容や生活保護などを定め、性病やらい病などその後に次々とできる予防法の手本となった。
しかし、この当時は、まだ、患者の救済・援助よりは感染から社会を防衛する意識が強かったようだ。
先にも書いたように、かって、結核は若き天才が倒れる病気であった。1898(明治31)年徳富蘆花の『不如帰』は上流階級のモデル小説で、結核に倒れ、離縁される薄幸の新妻、浪子(大山 巌元帥の娘信子がモデルとされる)を通じて結核の残酷さを浮き彫りにした。このことは目にこのブログ蘆花忌で詳しく書いた(※14参照)。

結核とは、「結核菌」という細菌が引き起こす「おでき」のようなものだという。最初は炎症から始まり、肺ならば肺炎のような症状になる。
 炎症が進むと、組織がだめになって「化膿」に似た状態になる。肺結核ではこの状態がかなり長く続き、レントゲンなどに写る影の大半がこの時期の病巣で、その後、だめになった組織がドロドロにとけて、咳(せき)やくしゃみと一緒に気管支を通って肺の外に出され、病巣は空洞(穴のあいた状態)になる。
空洞なので空気も肺からの栄養も十分にあり、結核菌には絶好のすみかとなって菌はどんどん増殖するのだという。
 ここから菌が肺の他の部分に飛び火したり、リンパや血液の流れに乗って他の臓器でも結核菌が悪さを始めたりすることもある。こうして結核は肺全体、全身に拡がって行く。最後には肺の組織が破壊され呼吸困難や、他の臓器不全を起こして生命の危機を招くことになるという。
こう書けば怖い病気だが、予防法や治療法の発達により、現在の結核の罹患率などは明治大正、昭和前期の結核の壮絶さとはとうてい比較にならないほど低くはなっている。
しかし、先進国中でも高い水準にあるのは、日本が諸外国と比べて湿気が多いという結核になりやすい気候条件のあることが大きな理由のようでもある。加えて戦前は、衛生面で劣悪(これは日本に限ったことではないが)だったことも、感染に拍車をかけていた。
日本結核予防協会の「結核征伐の歌」じゃないけれど、「結核予防の第一は 結核菌を近づけず、常に身体を養って 結核菌に打ちかつだけの体力を備へおくことが最も基本的に大事なことではあるのだが、今後日本は更なる高齢化により、患者数が再び増加に転じる恐れが強まっており、これを食い止めるため厚生労働省や結核予防会などが結核予防の啓発活動を進めているわけである。
結核を撲滅するためには、なによりも、だれもが結核について正しい知識を持っていることが大切であり、この機会に、結核について少し学んでみるのも良いのではないだろうか(※15、※16参照)。

冒頭の画像は、結核予防会の2014年度結核予防週間のポスター。
参考:
※1:公益法人結核予防会
http://www.jatahq.org/index.html
※2:小さな資料室:資料91 斎藤茂吉「死にたまふ母」(初版『赤光』による)
http://www.geocities.jp/sybrma/91syakkou.syohan.html
※3:近代デジタルライブラリー - 竹の里歌
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/873702
※4:青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/
※5:須磨浦病院HP
http://www5c.biglobe.ne.jp/~sumaura/
※6:(逍遥遊篇)のすべて [ 原文・読み下し・訳]
http://www.1-em.net/sampo/sisyogokyo/souji/soushi1.htm
※7:明治三十年代の文明論 : 文明批評の成立と展開<1>- 北海学園大学(Adobe PDF)
http://hokuga.hgu.jp/dspace/bitstream/123456789/1256/1/JINBUN-6-13.pdf#search='%E6%96%87%E6%98%8E%E6%89%B9%E8%A9%95%E5%AE%B6%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E6%96%87%E5%AD%A6%E8%80%85'
※8:高山樗牛と「冥想の松」 - 東北薬科大学(Adobe PDF)
http://www.tohoku-pharm.ac.jp/laboratory/germany/PDF%20chogyu.html.pdf#search='%E9%AB%98%E5%B1%B1%E6%A8%97%E7%89%9B+%E7%B5%90%E6%A0%B8'
※9:肺結核と文豪、文学 - やさしイイ呼吸器教室
http://tnagao.sblo.jp/article/60254385.html
※10:厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/kouseiroudoushou/shozaiannai/
※11:「北里柴三郎博士と日本私立衛生会」(PDF )
http://www.kitasato.ac.jp/kinen-shitsu/data/download/syonaihou_52.pdf#search='%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A7%81%E7%AB%8B%E8%A1%9B%E7%94%9F%E4%BC%9A'
※12:連載 - 結核予防会結核研究所(Adobe PDF)
http://www.jata.or.jp/rit/rj/2010_1.pdf#search='1911%E5%B9%B4+%E7%B5%90%E6%A0%B8+%E7%99%BD%E5%8D%81%E5%AD%97%E4%BC%9A'
※13:社会福祉法人白十字会
http://fields.canpan.info/organization/detail/1159347721
※14:今日のことあれこれと・・・蘆花忌(小説家・冨蘆花の忌日)
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/2b06b2e4bd2f1732efd5dae461deadd1
※15:結核ってこんな病気
http://www.jazzday.net/
※16:結核(BCG) |厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kenkou/kekkaku-kansenshou03/
結核 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E6%A0%B8

第1回カンヌ国際映画祭が開催された日(2-1)

2014-09-20 | 歴史
1946年の今日・9月20日は第1回カンヌ国際映画祭開催された日である。
世界各地で開催される映画業界の祭典「映画祭」の中で、最も有名ななものは「国際映画祭」であり、同映画祭は、多様な作品の上映を中心に、優れた作品の選考や、映画売買のマーケットとしての機能も備えている。、
世界23か国・26の映画製作者団体で構成され、フランスパリに本部の置かれている国際映画製作者連盟(Fédération Internationale des Associations de Producteurs de Films, 英語:International Federation of Film Producers Associations, 略称:FIAPF)が公認している国際映画祭では、各映画祭を「コンペティティブ」(Competitive)、「コンペティティブ・スペシャライズド」(Competitive Specialised, あるジャンルに特化した映画祭)、「非コンペティティブ」(Non-Competitive, 賞の選考を目的としない映画祭)と「ドキュメンタリー/短編」(Documentary/Short Film) の4つに分類している。
因みに、「コンペティティブ」(competitive)は、名詞:「コンペティショ(competition)」の形容詞で、競争率が高い。つまり、同映画祭では、パルム・ドールグランプリ、監督賞、男優賞、女優賞などの審査対象になる作品のことで、一般的に「カンヌ映画祭○○賞受賞」と言われるものはこのカテゴリの受賞作品のことを指しているようだ。
FIAPF公認の映画祭の中で、イタリアのベネチア国際映画祭、フランスのカンヌ国際映画祭、ドイツのベルリン国際映画祭が世界3大国際映画祭として知られている。
映画祭は政治や社会の動きともかかわりが深く、1932(昭和7)年にスタートした最も歴史が長いベネチア国際映画祭は、第2次世界大戦中にファシズム政権に利用され、「ムッソリーニ杯」が設けられた時期もあった。
FIAPFが公認している国際映画は、世界三大映画祭以外にチェコのカルロビバリ、ロシアのモスクワ、スペインのサンセバスチャン、中国の上海、日本の東京、エジプトのカイロ、スイスのロカルノ、アルゼンチンのマルデルプラタ、など、合計52もあるそうだ。
その中でも、世界最大の映画祭、「カンヌ国際映画祭」は独特である。
世界最古の歴史を持つ映画祭イタリアの「ヴェネチア国際映画祭」は、最も歴史の古い国際美術展であるヴェネツィア・ビエンナーレの第18回(1932年)の際に、その一部門(映画部門)「ベネチア映画芸術国際展」として開始された。
初回の最優秀賞は観客の投票で決められた。
2年後の1934年第2回が開催され、この年からコンペティション部門がスタート。自由な作品上映を目指して始まったが、1936年にはムッソリーニ賞が設定されるなど、独裁政治家だったムッソリーニのプロバガンダとして映画祭が開催されるようになるなど、1930年代後半からファシスト政府の介入を受け、次第に政治色を強めた「ヴェネツィア国際映画祭」に対抗し、自由な映画祭をつくろうという発想のもと、フランス政府の援助を受けて開催される事になったのが「カンヌ国際映画祭」である。
1939年から開催の予定だった第1回は、当日に第二次世界大戦勃発のため中止。
結局、「第1回カンヌ国際映画祭」(La première édition du Festival international du film)は終戦後1年が経過した1946(昭和21)年の今日・9月20日 から 10月5日の間に開催された。しかし、映画祭はまだ「カンヌ」の名を冠していない(正式名=仏: Festival International du Film de Cannes)。又、この時は、古いカジノを改装して上映会場としたという。

上掲の画像第1回の会場近辺。
この「第1回カンヌ国際映画祭」には、長篇映画40本、短篇映画68本、21か国が参加した。現在の最高賞は「パルム・ドール」、次点が「グランプリ」であるが、まだこの時には「パルム・ドール」という名称は生まれておらず、同賞に当たる最高賞「グランプリ」該当作が11本選ばれた(ここ参照)。
審査員は、フランスのエコール・デ・ボザール学長で本映画祭の創立者のひとりであるジョルジュ・ユイスマンを委員長に、18か国から選出された。開会宣言は、当時の国務大臣が行なったという。
その後も、会場設備・予算などの問題などから第2回は1947(昭和22)年9月12日 ~ 同25日に、第3回は1949(昭和24)年9月2日から17日にかけて開催されたが、1948年、1950年と中止が相次ぐなど当初は混乱も見られたものの、1951年(第4回)からは映画祭としての環境が整備され、この頃から1946年に完成したパレ・デ・フェスティバルが会場として使用され、世界最大の国際映画祭へと成長していった。

掲の画像がパレ・デ・フェスティバル・エ・デ・コングレ。
カンヌ国際映画祭で賞の対象となるのは、先にも述べたコンペティション部門に出品された作品のみ。審査するのは、映画祭事務局によって選出された著名な映画人や文化人などのシネフィルであり、この審査団がどのような作品を選んでくるかが、この賞の最大の面白味のようである。また、世界最大の所以(ゆえん=いわれ、理由)は、映画祭と併行して行われる「国際批評家週間」と「監督週間」にあるという。
前者はフランス映画批評家組合(SC)が主催するカンヌ映画祭とは独立した並行部門で、1962年から新人監督の作品を、後者もフランス監督協会が主催するカンヌ映画祭とは独立した並行部門で、1969年から世界中の映画監督の作品を、映画ジャーナリストたちに公開している。
 1968年の第21回にはパリの五月革命に呼応したフランスヌーヴェルヴァーグの旗手ジャン=リュック・ゴダール監督らによる実力行使により、各賞選出が中止に追い込まれるといった事件(カンヌ国際映画祭粉砕事件)が起きたり、あるいは1979年(第32回)には、この年の審査委員長を務めた作家のフランソワーズ・サガンからフランシス・コッポラの『地獄の黙示録』がグランプリをとったが、それには“審査に実行委員会から圧力がかかった”と衝撃発言が後日フランス社会党系新聞『ル・マタン』紙に発表され、スキャンダルとなる(※001:「French Mania」のカンヌ映画祭とスキャンダル参照)など、カンヌはスキャンダルにも事欠かなかったようだが、むしろ、様々なスキャンダルとともに成長してきた映画祭とも言えるようだ。
カンヌ国際映画祭は当初9月開催であったが、1951年の第4回頃からは4月から5月にかけて開催されるようになり、1957年(第10回)から5月に開催されるようになったようだ。
併設されている国際見本市「カンヌ・フィルム・マーケット」(Marché du Film)は、イタリア・ミラノの「ミフェド」(MIFED)、「アメリカン・フィルム・マーケット」(American Film Marke)と並び世界三大マーケットのひとつである。マーケットには例年800社、数千人の映画製作者(プロデューサー)、バイヤー、俳優などが揃い、世界各国から集まる映画配給会社へ新作映画を売り込むプロモーションの場となっている。
とりわけ、世界三大映画祭と世界三大マーケットが同時に開催されるのはカンヌだけであるため、世界中のマスメディアから多大な注目が集まり、毎回全世界から数多くの俳優、映画製作者が出席。毎年春の映画祭開催時期、南フランスの小さな観光都市カンヌは映画一色となる。
開催期間中は、メイン会場を始め各映画館では映画が上映され、見本市では各製作会社によるブースでプレゼンとパーティが行われる。これから公開される映画はもちろんのこと、予告編しかできていない映画やまだ脚本すらできていない企画段階の映画までが売り込みに出され売買されるようだ。

戦後アメリカの影響を大きく受けている日本の若者などには、世界三大映画祭の中でも最大の映画祭であるカンヌなどよりもアメリカのアカデミー賞の方に関心があるのではないだろうか。
アカデミー賞は、「アメリカ映画の祭典」という冠詞を付けられることが多い事からも分かる通り、基本はアメリカ映画を対象とした映画賞であり、作品の選考対象も「1年以内にロサンゼルス地区で上映された作品」と比較的狭義である。つまり、あくまでもアメリカの映画人の内輪の大会なのである。
従って、カンヌ等と違い、賞レースには、プロダクション関係のロビーストロビー活動が盛んであり、結果的に、映画の優秀さより、ロビー活動での成否が大きく影響するとも云われている。
それに対して、カンヌは、映画祭と併催される映画関連の巨大マーケットであり、権威と・見識によって各賞が決定され、アカデミー受賞作と比較しても、誰もが納得出来る優秀な作品が選抜されているといわれている。
しかし、アカデミー賞は、その知名度と世界三大映画祭よりも古い歴史(初回は1929年5月16日)を持つ権威ある賞であるため、マーケットへの影響力は国際映画祭の各賞以上に大きく、受賞結果が各国の興行成績に多大な影響を与えていることはまちがいない。このため各国のマスコミは「映画界最高の栄誉」と報道することが多い。

さて、肝心の映画のことだが、最初の1946(昭和21)年の第1回カンヌ国際映画祭開催時は社交界の集まりのようなものであり、ほぼ全ての映画に賞が授与され、世界のスターがレッドカーペットに登場した。「グランプリに選ばれた受賞作(ここを参照)。
11作品中で、私の記憶にあるのは、デヴィッド・リーン監督の『逢びき』(原題::Brief Encounter。セリア・ジョンソントレヴァー・ハワードが主演)くらいか。
互いに配偶者を持つ身でありながら道ならぬ恋に惑う男女の出会いと別れを描いた恋愛映画である。当時jまだ子供であった私が見たのは、大人になってからで、1974(昭和49)年にリチャード・バートンソフィア・ローレンの主演によるテレビ映画化でリメイクされたものだ。日本では1976(昭和51)年に劇場公開された。

上掲の画像はDVD映画「逢びき」(1974年公開)
映画の内容は、不倫してる男女の出会い・・・、邦題タイトルそのままの映画である。日本ではまだ、デートなど、不道徳なこととされていた時代、“相愛の男女が人目を避けてこっそりと会うこと(密会)”を、「逢いびき」などと云う言葉で表していた。江戸後期から使われ始めた語のようであるが、男女の出会いをなんでもデートの一言で言い表す今の時代には、懐かしい言葉ではある。
もう一つ私は映画を見ていないので詳しく語れないが当時話題になった作品が1つある。ロベルト・ロッセリーニ監督による『無防備都市』であるが、この映画のことは、この後簡単に触れる。
第2回映画祭(1947年)では、グランプリは発表されず、部門ごとの受賞となったようだ(受賞結果はここ参照)。その中で知っているのは「アニメーション賞」を受賞した (Best Animation Design)に、ディズニーの子象を主人公にした長編アニメ『ダンボ』(1941年公開映画)ぐらいである。日本では『空飛ぶゾウ ダンボ』という題名で1954(昭和29)年に公開されている。
ダンボが公開された1941年10月の時点で、既に欧州第二次世界大戦が始まっており、日米間の緊張がピークに達し太平洋戦争の勃発(12月)が間近に迫っていた時期でもあった。
Wikipediaによると、真珠湾攻撃直後のアメリカを舞台にしたスティーヴン・スピルバーグのコメディ映画『1941』(1979年)では、米陸軍のジョセフ・スティルウェル将軍が劇場で公開中の『ダンボ』を鑑賞し、母子の愛情に涙するシーンがあるそうで、日本公開当時のパンフレットによると、映画に感動して涙する件(くだ)りはスティルウェルの回顧録にヒントを得たものだという。
MGMMGMカートゥーンの『トムとジェリー』に、本作のパロディである「ジェリーとジャンボ(Jerry and Jumbo)」という短編作品が存在する。同作では子象が「ジャンボ」を名乗っている。
私の家はケーブルテレビJ:KOM(ZAQ)に加入しているが、子供たちの夏休みである8月には、602チャンネル(カートゥーンワークHD)で、日本上陸50周年記念として「トムとジェリー」の漫画を毎週放送していた。数が非常に多いのでタイトル名はいちいち覚えていないが確かその中に、小象の出てくるものがあった。久しぶりに、楽しませてもらった。

1948年は、カンヌ国際映画祭が開催されず、1949(昭和24)年第3回のグランプリ(最高賞のパルム・ドール賞)に輝いたのはキャロル・リード監督の『第三の男』.。原作・脚本を書いたのが、戦後イギリス文壇で代表的な位置に立つカソリック作家グレアム・グリーンである。
第二次世界大戦直後のウィーンを舞台にしたフィルム・ノワール。光と影を効果的に用いた映像美、戦争の影を背負った人々の姿を巧みに描いたプロットで高く評価されている。翌・1950年度のアカデミー賞では監督賞、撮影賞(白黒部門)、編集賞の3部門でノミネートされた。そのうちロバート・クラスカーが撮影賞(白黒部門)を受賞している。
この映画は、オーストリアの民俗楽器、チターが奏でるテーマ音楽と相まって20世紀屈指の古典的名作として現在でもよく知られている。私も非常に印象に残っている映画であり、また、若い頃、この曲でギターの練習もよくしたものだ。
大好きなこの映画のことは、前にこのブログ『グレアム・グリーン (英:小説家『第三の男』) の忌日』 でも詳しく書いた。
1950年もカンヌ国際映画祭は開催されず、1951(昭和26)年第4回、のグランプリにはスエーデンの監督:アルフ・シェーベルイの『令嬢ジュリー』と、ネオ・リアリズモの嚆矢(こうし)で、代表作『自転車泥棒』(1948 年)などで知られるイタリヤの監督ヴィットリオ・デ・シーカの.『ミラノの奇蹟』が入賞している。
又、審査員特別賞(女優賞)に入賞の米国『ジョセフ・L・マンキウィッツ監督のイヴの総て』は、実在の女優エリザベート・ベルクナーをモデルとしたものだそうで、主役のマーゴ・チャニングをベティ・デイヴィス)が演じ、ブロードウェイの裏側を見事に描ききったとして、アカデミー賞では、作品賞をはじめとして6部門で受賞している。
カンヌ国際映画祭はこの第4回から、毎年開催さるようになり、その様子が絶えずメディアに報道され、急速に国際的、伝説的な評判となった。
1950年代には,カーク ダグラス、ソフィア ローレン、グレース ケリーブリジット バルドーケーリー グラントロミー シュナイダーアラン ドロンシモーヌ シニョレジーナ ロロブリジーダ…といった有名人の出席により知名度を上げていった。
創設以来、カンヌ映画祭は、設立時の開催目的を忠実に守り続けているという。その目的とは、映画の発展に貢献するために作品を紹介し、援助すること、世界中の映画産業発展の援助をすること、第7芸術を国際的に称揚することだという(※002参照)。

第1回カンヌ国際映画祭が開催された日ー参考
第1回カンヌ国際映画祭が開催された日ー(2-2)


冒頭の画像はレッドカーペット

第1回カンヌ国際映画祭が開催された日(2-2)

2014-09-20 | 歴史
映画はその誕生から1世紀そこそこの新興芸術であり、その最初期は、遊園地のアトラクションまたは見世物小屋の呼び物であった。当時、映画は大衆娯楽でしかなく、芸術としては認められてはいなかった。
1908年から映画についての執筆活動を始めたイタリアの若き映画理論家リッチョット・カニュードは、映画を既存の芸術ジャンルと対比しながら、その特性の定義を試み、音楽・舞踏・文学の「時間の芸術」と建築・絵画・彫刻の「空間の芸術」というの既成の6つの芸術をつなぐ第7番目の芸術として、「映画は第七芸術という総合芸術である」と宣言した(『第七芸術宣言』1911年。※003、※004参照)。

第二次世界大戦の影響を受け、フリッツ・ラング(ドイツ)やジャン・ルノワール(フランス)等の多くの映画人がアメリカに亡命した。
亡命ではなく招聘(しょうへい=礼を尽くして人を招くこと)されてあるいは自ら望んでアメリカに行ったマックス・オフュルスエルンスト・ルビッチ(ドイツ)、ルネ・クレール(フランス)などの作家も含めると、1930年代から1940年代にかけてのアメリカには著名な多くの映画作家が世界中から集まった。
そのため、映画製作本数も年間400本を超え、この頃、質量共にアメリカは世界の映画界の頂点にあった。このことにより、1930年代~1940年代は「ハリウッド全盛期」、「アメリカ映画の黄金時代」とも呼ばれている。
サイレント映画の黄金時代(1913~1927)、世界各地で数多くの名作・傑作が生まれ、映画は単なる娯楽から、芸術の一分野としての地位を築きあげるようになった。そして1910代初頭は、イタリア映画の時代でもあった。
この時期に世界に名を轟かしたイタリア映画の大半は歴史映画であったというのも歴史の国イタリアらしい。そうしたイタリア史劇の中で、最高の成功作とも言われているのが、現在唯一ビデオで鑑賞することができるらしい『カビリア』(1913年制作)だと言われている。監督は、すでに『トロイ陥落』で成功を治めていたジョヴァンニ・パストローネ(別名ピエロ・フォスコ。1883~1959)。映画の内容等は※005,006参照。
無声映画時代に映画界を革新したイタリア製スペクタクル史劇だが、『カビリア』をピークに、以降,イタリアの映画産業自体の衰退と共に下降線を辿っていく。
ちょうど『カビリア』が公開された1914年に、第一次世界大戦(1914年 - 1918年)が勃発する。凄惨な主戦場となったヨーロッパ全体が大きな損害を受け、イタリアも、映画制作どころではなくなった。
その間に,「スタジオ」と称される大手映画会社を次々と設立したり、世界初の長編発声映画(トーキー映画)を制作したりと着々と力をつけるアメリカが、世界の映画産業の中心となっていった。
第二次世界大戦が終わって1950年代に入ると、イタリアとアメリカで大作主義が回帰した。第一次世界大戦以降、低迷の一途を辿っていたイタリアと、世界の映画産業の中心として既に不動の地位を確立しつつあったアメリカ、ハリウッド。
世界の映画産業をリードし、第二次世界大戦では勝戦国ともなり、順風満帆であるかのように思えたアメリカの映画産業だったが、大戦終結と同時に、世界はアメリカとソ連を中心にした東西冷戦の時代に突入。
1947年から、反共産主義活動が本格的に開始され、赤狩り(レッドパージ。詳しくはマッカーシズム参照)が行われた。
共産主義勢力が拡大することを危惧した米政府は、見せしめのため、娯楽産業を代表する映画業界に第一に赤狩りの矛先を向けた。これによって,映画監督、脚本家など、映画産業に関わる者が多数追放された。しかし,この赤狩りによる追放が、イタリアとアメリカの映画産業を繋げるきっかけを作ることとなった。
赤狩りで追放された1人に、ダルトン・トランボという脚本家がいた(運動の最初の標的とされたハリウッド映画界の著名な10人の映画人ハリウッド・テンの一人)。
追放された後、彼はアメリカ国外に出て偽名を使いながら数々の脚本を書きあげた。その代表作が、ローマを舞台にアメリカ制作で映画化され、オードリー・ヘップバーンが主演の名作『ローマの休日』(1953年)である。
そして,トランボはこの後,依頼を受けてハリウッド史劇大作『スパルタカス』(1960年、製作総指揮・主演カーク・ダグラス)の脚本を手がけた。
『スパルタカス』は、豪華絢爛な衣装やセットに、偉大な英雄を主人公に用意した他の典型的な史劇大作とは少し異なり、社会的身分の低い奴隷スパルタカスを主人公に置き、権力に立ち向かう姿を描いた社会派スペクタクル史劇といえ、人間の自由と尊厳の意義を訴えたこの作品は、祖国に迫害されて全てを失ったトランボ自身に重ねられるものなのかもしれないという。
他にも赤狩りによって追放された者の多くが、国外、特にヨーロッパに逃れ、偽名や匿名で映画の仕事に携わっていた。彼らは、再び母国アメリカで日の目を見る時を待ち望みながら、映画人としての誇りを捨てずに、他国でもその才能を存分に発揮させて映画制作に関わり続けていた。
また、同時期の1948年,パラマウントなどのハリウッドのメジャースタジオ8社に対して,独占禁止法(反トラスト法)違反の罪を問う訴訟の判決が下され、事実上、スタジオ側が敗訴する。
力を失った大手映画会社に成り代わり、スタジオに頼らず低予算のロケーション撮影主体で映画を制作する独立系小規模プロダクションの作品や外国の作品が、急速にアメリカの映画市場を大きく占めていくこととなった。
更に、テレビ放送開始に伴うテレビの急速な普及は追い討ちをかけ,たちまち映画館から観客を奪った。他にもレジャーやスポーツ、音楽など人々の関心が他の娯楽文化に移るようになった。戦後の高度経済成長に伴い、人々のライフスタイル(生活の仕方、生活様式)が多様化していったのだ。
娯楽産業としての地位を脅かされていく映画が、テレビや、他の娯楽文化に対抗して観客を集めるためには、大作を制作する必然性が生じた。
また、この頃,テレビへの対抗意識が高まる中で映画の技術も急速に進み、ほとんどの作品でカラーやワイドスクリーンが採用されるようになった。
その為、撮影スタジオでのミニチュア合成や国内のロケーション撮影による背景映像に、観客は満足しなくなる。こうして,アメリカは豪華で迫力のあるスペクタクル史劇制作に力を入れるようになった。
しかし、赤狩りやスタジオ・システムの崩壊で弱体化し、技術費用や人件費も高騰してしまったアメリカには、大作を制作する費用もスタッフも撮影スタジオも足りなかった。
それに第二次世界大戦後、アメリカ映画が世界中に輸出されたが、輸出先の外貨事情が悪いために収益金が凍結していた。映画会社はそれを回収するために海外ロケで映画を製作、又、映画の制作拠点そのものを海外に移す傾向があらわれた。これを当時はランナウェイ方式と呼んだ。
中でもイタリアは好まれた。アメリカ国内よりもヨーロッパで制作するほうが低予算に抑えられる上、ローマには,ヨーロッパ最大級の撮影所、チネチッタがある。
文化遺産が街に多く残っているイタリアは大規模なロケーション撮影が可能であり、神話や聖書などスペクタクル史劇の題材を十分に持っていて、かつてスペクタクル史劇大作の栄華を極めた歴史と伝統もある。
このようにして、イタリアで数々のハリウッド史劇が制作されるようになり、『十戒』(1956年監督:セシル・B・デミル主演:チャールトン・ヘストン)、『ベン・ハー』(1959年,監督ウィリアム・ワイラー。主演:チャールトン・ヘストン)といった名作が生み出された。
日本の大映の協力の下、奈良や京都で撮影が行なわれたマーロン・ブランド主演、日本の京マチ子共演の『八月十五夜の茶屋』(1956年)や、主演のデヴィッド・ニーヴンや当時新進女優であったシャーリー・マクレーンなど数十人の有名な俳優が部分部分に入れ替わり立ち替わり登場し、世界をロケしまくっている『八十日間世界一周』(1956年)なども海外ロケで映画を製作したランナウェイ映画である。
一方のイタリアも、このようなアメリカの影響もあり、歴史を題材。文化遺産を撮影に使った史劇作品の制作に再び乗り出した。
第二次世界大戦後の1940年代後半から1960 年代にかけての時代は、長いイタリアの映画史にとっても大きな転機となった。敗戦し、多くのものを失い、映画制作自体ままならないはずのイタリアは,、すぐに映画産業を復興へ導いていった。
なぜ大戦直後の短期間で成功を収めたのか。その大きなきっかけとなったのが,ネオレアリズモであったという。
ネオレアリズモとは、イタリアで、主に文学や映画において盛んになっていた「新しい現実」を芸術表現した潮流である。
戦後にわかに強まったネオレアリズモは、イタリア国内に留まらず、アメリカなど世界の戦後映画の流れをも大き く変えた。
その特徴としては,ロベルト・ロッセリーニの『無防備都市』に代表されるように、.ドキュメンタリー要素が強く、社会問題や政治問題など現実的なテーマを取り扱ったものが多い。
この映画は、1945年.第1回カンヌ映画祭でグランプリに選ばれた作品の一つである。
敗戦して多くを失った自国の現状を目の当たりにして、映画制作者たちは、より身近に、より重く「現実」に目を向けた。それは本来の人々の姿をありのままに映像に映し出す原点回帰でもあり、新たな手法による新たな価値の創造でもあった。
ネオレアリズモには、芸術を再生させ、新しい時代を自ら築いていこうとする映画制作者たちの、芸術家としての熱く強い意思が感じられる。
しかし,映画界に再生と転機をもたらしたネオレアリズモの潮流は1950年代初頭にはすっかり勢いをなくしてしまう。
それでも,映画産業復興への流れと、原点を顧みるという方向性は変わらず、新たに戦後復興期を支える映画ジャンルが登場する。
正確には,再来というべきだろうか。代表的なものが、喜劇と、そして、歴史や神話が題材となったスペクタクル史劇であった。
共に,初期の無声映画時代から存在するという古い伝統を持つ。とりわけ、アメリカの影響を受けて再び制作するようになったスペクタクル史劇は、異質な存在感を持ち、圧倒的に人気があった。
イタリアのスペクタクル史劇大作といえば,豪華絢爛なセットに衣装、そして何より欠かせないのがワイドスクリーンを悠々と駆け巡る、屈強そうな怪力ヒーローたちであった。
さて、この時期に恰も大作主義を嘲笑うかの様にひたすら作家としての拘りを追求した作家たちがいた。これは二つのそれぞれ起源の異なるものに分けられる。一つがアメリカの内から生まれた1950年代のB級映画の流れを汲むものであり、もう一つがフランスで1960年代に新風を起こした「ヌーヴェル・ヴァーグ」の流れを汲むものである。
1960 年代の後半から1970 年代の初めにかけて、アメリカの映画産業は最悪の状態にあった。
それを打開したのが「アメリカン・ニュー・シネマ」と呼ばれるものであった。
政治の腐敗というところに帰結し、アメリカの各地で糾弾運動が巻き起こった。アメリカン・ニューシネマはこのような当時のアメリカの世相を投影していたと言われる。
しかし、ベトナム戦争の終結とともに、アメリカ各地で起こっていた反体制運動も下火となっていき、それを反映するかのようにニューシネマの人気も下降していくことになる。
このように、映画も時代と共に年々変化をしながら今日に至っている。映画史等以下参考の※007、008などが詳しく、このブログもこれらを参考に第1回カンヌ国際映画開催前後の大きな流れを書いた。

第1回カンヌ国際映画祭が開催された日ー参考
第1回カンヌ国際映画祭が開催された日(2-1)へ戻る

第1回カンヌ国際映画祭が開催された日ー参考

2014-09-20 | 歴史
参考:
※001:「French Mania」
http://french.rose.ne.jp/index.html
※002:Festival de Cannes:映画祭について :
http://www.festival-cannes.com/jp/about.html
※003:第7芸術:現代美術用語辞典|美術館・アート情報 artscape
http://artscape.jp/dictionary/modern/1198689_1637.html
※004:映画は見世物から第七芸術へ
http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_bcab.html
※005:歴史の国の歴史映画~イタリア史劇「カビリア」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~st_octopus/MOVIE/SILENT/01ITALIA.htm
※006:文芸映画シリーズとイタリア映画 - 映画中毒者の映画の歴史
http://d.hatena.ne.jp/cinedict/20060615/1150376387
※007:ハリウッド100年史
http://www.geocities.jp/gosuke2006/movie.history.html
※008:史劇大作の隆盛からみるイタリア映画産業 - 桃山学院大学(Adobe PDF)
http://www.andrew.ac.jp/gakuron/pdf/gakuron26-6.pdf#search='%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E6%98%A0%E7%94%BB+%E9%9A%86%E7%9B%9B'
カンヌ国際映画祭 - allcinema
http://www.allcinema.net/prog/award_top.php?num_a=2
カンヌ映画祭のまとめ検索結果(116件)-NAVERまとめ
http://matome.naver.jp/search?q=%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%8C%E6%98%A0%E7%94%BB%E7%A5%AD&slot=4&sf=1
カンヌ映画祭スペシャル2014映画専門チャンネル「ムービープラス」
http://www.movieplus.jp/fes/cannes2014/s/about/history.html
カンヌ国際映画祭受賞一覧 - Cannes
http://www.geocities.jp/yurikoariki/cannes.html
カンヌ国際映画祭 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%8C%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%98%A0%E7%94%BB%E7%A5%AD

第1回カンヌ国際映画祭が開催された日(2-1)へ戻る
第1回カンヌ国際映画祭が開催された日(2-2)へ戻る

水路記念日

2014-09-12 | 記念日
日本記念日協会(※1)の今日・9月12日の記念日に「水路記念日」がある。
「水路」(すいろ、英語: water way)には、主として、人工的に造られた水を流すための人工のみち(構造物)である、用水路放水路 などと、海・川・湖・運河(人工的なものもある)などの、船の航行する道、航路がなどある。
今日の「水路記念日」で取り上げる「水路」は後者の方である。
1871(明治4)年の今日(旧暦では7月28日)、明治政府内の兵部省 海軍部に水路局が設置されたことから、海上保安庁が制定したもの。水路業務を広く人々に理解してもらうために、展示会などを開いているそうだ。
海上保安庁に設置されている内部部局のひとつに海洋情報部(英語表記:Hydrographic and Oceanographic Department。※2参照)があり、ここでは、海図や電子海図(ENC=Electronic Navigational Chart)および水路誌などを用いての安全な航海に資する情報の提供や、海底火山漂流物に関する情報の速報、領海のための調査、海流・潮流(潮汐)の観測、航海に必要な天文情報の収集・提供を行っている。組織としては旧日本海軍の水路部を母体としている。
海上保安庁海洋情報部(※2)の「水路記念日について」の説明によれば、1869(明治2)年8月に兵部省が設置され、翌3年3月その下に海軍掛と陸軍掛との分課が設けられ、1871(明治4)年7月28日(旧暦)に兵部省が海軍部と陸軍部に分けられた。
この時、海軍部に第1秘史局、第2軍務局、第3造船局、第4水路局、第5会計局の5局が置かれた。ここに、当時わが国の緊急課題であった日本沿岸の安全を図るための海図作りを使命とした水路局が初めて誕生した。
1951(昭和26)年の水路部創立80周年記念事業を期に、その後、毎年7月28日を水路部の創立の日として制定していたが、1971(昭和46)年の創立100年を期して、太陰暦から太陽暦に換算し、9月1日を創立の日とし、以後、この日を「水路記念日」としているそうだ。

道路に交通規制があるように、海にも信号や守らなければならないルールがたくさんある。一方通行や進入禁止、速力制限もある。いま自分がどこにいて、いかに安全に気持ちよく目的地へ行けるか。
そんな時、あれば便利なのが、今も昔もかわらず、それぞれの「みち」筋における各種の情報だろう。その一つが、陸の「みち」や海の「みち」を案内し一望することができる地図であったことは、間違い。海のみちの地図は海図である。

敗戦後の私がまだ子供の頃、日本には、外国映画が沢山入ってきた。中でもチャンバラ物の好きな私は、海賊などが登場する海洋映画が大好きであった。
その中の1つに冒険映画「宝島」(1950年、英・米合作)がある。原作は1934(昭和9)年の映画に続き2度目の映画化となるロバート・ルイス・スティーヴンソンの冒険小説『宝島』(英題『Treasure Island』)で、本作はディズニーにとって初の実写のみで作られた劇映画作であるとともに、初めてカラーで劇場上映された『宝島』作品でもある(冒頭の画像は1911年版スティーヴンソンの冒険小説『宝島』)

18世紀末。英国西海岸で母と2人で宿屋を開いていたジム少年、その宿へ或る日、船長と名乗る老水夫がやってきた。それから次々と事件が起こり、その船長が仲間に殺されたことから、彼の残した一枚の地図を手に入れた。
それが、有名な海賊フリントが孤島にかくした財宝の場所を示したものであることを知り、その宝を探し出すために船を買って冒険に出発する。
その地図には緯度・経度、付近の水深、島の山や湾や入海の名、それから船を安全な碇泊所に入れるに必要らしい注意などが書いてあった。まさしくこれは海の地図-今でいうところの海図である。

上掲の画像がスティーヴンソンの冒険小説『宝島』に描かれている地図(※3の「青空文庫-宝島」より)。

海図は船が安全に航海するためのものであり、現代の海図には陸の地図にはない情報がたくさん載っている。目には見えない水中・海底の様子、海の交通ルール…等々。記号も地図とは違う。私は専門的なことは判らないので、参考※2「海上保安庁 海洋情報部」のここや4:「日本水路協会」のここなど参照されるとよい。
人類が船で未知の海に乗り出すようになると、海図は船乗りにとってなくてはならない航海の道具の一つとして作り出され、発達してきた。
現代の海図は、中国から羅針盤が導入された13世紀のヨーロッパで発達した。
世界で最も古い海図は、13世紀中頃に地中海一帯で用いられた「ポルトラノ海図」といわれる図で、図示された羅針盤(コンパスローズ)から多数の方位線が引かれている。船は目的の港の方角に羅針盤(コンパス)を合わせて進んだ。
15世紀以降の大航海時代には、航路の開拓とともに水深も徐々に記入されるようになる。1569年、オランダの地理学者・メルカトルが、経線と緯線(子午線参照)を格子状に書き込むメルカトル図法を考案し、以後の海図にはこの図法が用いられるようになった。

日本では、安土桃山時代から鎖国前の江戸時代初期には当時のヨーロッパで使われていた「ボルトラノ海図」が多く作られ、幕府の許可を得た貿易船(朱印船貿易)では、その海図が用いられ、中国沿岸や東南アジア各国へ航海していた。しかし、鎖国政策の実施とともに海図は用いられなくなった。
鎖国により船舶航行の範囲を国内に限定していたが、江戸時代後半になると、沿岸の海運も活発になり、日本沿岸から瀬戸内海への西廻り東廻り航路が発達し、沿岸航海用の質素で実用的な航路の案内図-「海瀕舟行図」などが多く作られ、北前船などに利用された(※5:「日本財団図書館」の総記>逐次刊行物.年鑑>成果物情報>しおかぜ60号::世界海図あ・ら・か・る・と参照)。
また、欧米各国の船が開国を求めて日本沿岸に現れるようになり、中には航海の安全のためとして、勝手に沿岸を測量し、海図を作成し始める国も出た。
これらの状況は、海防の上でも、海上交通の安全からも問題があると見て、幕府は海図の作成を始めようとする。まず、沿岸の測量を行い、1821(文政4)年には伊能忠敬が「大日本沿海輿地全図」(伊能図)を完成させた。しかし、これは全国沿岸地図であり海図ではない。

日本初の海図は、1859(安政6)年に刊行された「神奈川港図」で、測量者は、長崎海軍伝習所でオランダ式測量術を学んだ松岡磐吉らの様である。
開国後の1862(文久2)年には、幕府も日本近海の測量を始めたものの、本格的な海図作成は明治時代になってからであった。
明治新政府は「海軍の創立はまず航海測量を基礎とする」という立場からこの水路業務を継承し、当時の実務は、勝海舟らとともに長崎海軍伝習所においてオランダ式の航海・測量術を学んだ津藩出身の柳楢悦少佐〔初代水路部長〕を中心として東京築地海軍兵学寮(後の兵学校)の一室で、現在の水路業務の基礎がスタートした。
日本の沿岸測量に最も精力的に従事していたイギリスの指導を受け、1870(明治3)年には、三重県志摩の的矢湾と尾鷲湾(三重県南部、熊野灘に面した湾.。尾鷲港参照)、塩飽諸島の測量が行われた。
1871(明治4)年には日本海軍水路寮(水路局)が創設され、北海道の諸港湾、岩手県の宮古湾釜石湾が測量された。
そしてわが国における近代的海図の第1号は「陸中国釜石港之図」(※ここ参照)で、1872(明治5)年9月(旧暦8月)に完成している。

,今の日本は尖閣諸島問題・竹島問題を抱えている。
日本が自国領土として実効支配している尖閣諸島について、1971年から台湾(中華民国)と中国(中華人民共和国)が領有権を主張しているが、日本政府は、尖閣諸島が我が国の固有の領土であることは、歴史的にも国際法上も疑いがなく、現に我が国はこれを有効に支配している。したがって、尖閣諸島を巡り解決すべき領有権の問題はそもそも存在しない。・・としている。
一方、竹島を巡る問題については、我が国は、遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには、竹島の領有権を確立していた。
そして、サンフランシスコ平和条約起草過程における竹島の扱い についても、韓国は、米国に対し、日本が権利、権原及び請求権を放棄する地域の一つに竹島を加えるよう要望したが、これに対し米国は、かつて竹島は朝鮮の領土として扱われたことはなく、また朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない旨回答し、韓国側の主張を明確に否定した。・・・等により、韓国による竹島の占拠は、国際法上何ら根拠がないまま行われている不法占拠であり、国際司法裁判所への提訴の提案 をしている(※7、※8参照)。
これら領土問題について、意見を述べるほどの知識を私は持っていない。今世界のあちこちで領有権問題が起こっているが、利害の対立する国同士での話合いで解決できるような単純な問題ではない。
回りを海で囲まれている海洋国の日本には、多数の無人島を抱えている。そして、人の住んでいる島でも少子高齢化と共に無人島化しているところが多く出始めていると聞く。これらの島を守ることは、これからの日本にとっては、国防上からも最重要課題となってゆくだろう。

参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:海上保安庁 海洋情報部公式HP
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/jhd.html
※3:図書カード:宝島 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000888/card33206.html
※4:日本水路協会
http://www.jha.or.jp/
※5:日本財団図書館(電子図書館)
https://nippon.zaidan.info/index.html
※6:新収資料コーナー 開港直後の横浜の港と町の測量図 - 館報「開港のひろば(横浜資料館) ...
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/093/093_05.html
※7:平成24年9月10日(月)午後 - 首相官邸
http://www.kantei.go.jp/jp/tyoukanpress/201209/10_p.html
※8:竹島問題について | 首相官邸ホームページ
http://www.kantei.go.jp/jp/headline/takeshima.html
海図の誕生
http://www.tanken.com/kaizu.html
日本の地図測量年表
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaempfer/archive/ac-otona/nenpyou2.pdf#search='%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E5%BC%8F%E6%B8%AC%E9%87%8F%E8%A1%93%E3%82%92%E5%AD%A6%E3%82%93%E3%81%A0%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E4%B9%85%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80'
神戸大学海事博物館
http://www.museum.maritime.kobe-u.ac.jp/index.html
水路 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E8%B7%AF