今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

ビスケットの日

2006-02-28 | 記念日
今日(2月28日)は、「ビスケットの日」。
全国ビスケット協会が1980(昭和55)年に制定し、翌年から実施。
全国ビスケット協会 のHPによれば、水戸藩が長崎周辺で外国人向けに作られていたビスケットの“保存性”に注目し、藩士の蘭医、柴田方庵がオランダ人から学んだビスケットの作り方を手紙にし、 安政2年(1855年)2月28日に、同藩の萩信之助に宛てて送った記録が「方庵日録」として今でも残っており、これが日本でビスケットが作られたことが明確にわかる最も古い記録だそうだ。
また、別のHP「お菓子の博物館」などに寄れば、語源はラテン語のビスコクトウム・パネム(Biscoctum Panem)で「二度焼いたパン」であるといわれ、フランス語のビスキュウイ、ポルトガル語のビスカウトもみな二度焼くという意味を持っているそうだ。 日本に、パン及びビスケットが渡来したのは1540年から1550年の間のことで、ヨーロッパ人との接触点である長崎を起点として、日本国中に伝わり南蛮趣味としては、ひとつの潜在需要を持っていた。しかし、カステラ及び金平糖のように全国に流行するまでには至らず、長崎の周辺にその名残をとどめたに過ぎなかったという。 その後、ビスケットの需要を大きく伸ばしたのは日清・日露の両戦役で兵士の食糧として大量に用いられたためで、昭和27年5月に小麦粉の統制が撤廃されたのを契機に質・量ともに急速な発展をとげることになったそうだ。
今、総称してビスケット類と呼ばれる仲間には、ビスケットのほかに、 クラッカー、乾パン、カットパン、プレッツェル、パイ、 またはこれらの加工品があり、共通点は小麦粉を主原料として練った生地を成型して焼くという点が同じ。
日本では、ビスケットとクッキー両方の名前が使われているが、本来は、同種のもの。アメリカでは、私たちが食べているクッキーやビスケットは全て「クッキー」といい、ビスケットとは、丸く、柔らかいパンのことをいう。 また、イギリスにはクッキーという言葉自体がなく全て「ビスケット」というそうだ。それなのに、なぜ日本には両方の名前があるの・・・?と思っていたら、日本には、1971(昭和46)年に施行されたビスケット類の表示に関する公正競争規約においてビスケットの定義が定められており、「ビスケット類の表示に関する公正競争規約の施行規則」の、規約第3条第1号アに定めるクッキーとは、次に掲げるものをいうとある。
”(1)「手作り風の外観を有し、以上のもので、嗜好に応じ、卵、乳製品、ナッツ、乾果、蜂蜜などにより製品の特徴づけをおこなって風味よく焼き上げたもの”
公正競争規約が出来た当時、日本では「クッキー」は「ビスケット」よりも高級品だと思われていたようで、安物の「ビスケット」を「クッキー」というのは、消費者を誤認させる恐れがあるとしてやむを得ず、この決まりを作った・・・のだそうだ。しかし、この規約は自主ルールなので、全国ビスケット協会に加盟してなければこれに、従う必要はないというが・・。
しかし、「クッキー」より、安物のお墨付きをもらった「ビスケット」は、ちょっと、気の毒な感じだね~。
それに、手作り風の外観をもつのは良いが、今の時代、糖分や脂肪分の合計が40%以上含まれている食べ物は良い食べ物なのかね~。血液中の糖分や脂肪分が高い状態が長く続くと、糖やタンパクが血球に付着して血球が硬くなることがあり、コレステロール値や血糖値が普段から高めの人は要注意だといわれており、私には向かないようだね~。
私には、高級なクッキーより、安物のビスケットの方が向いていそうだが・・・、思い起こすと、私がビスケットを最近食べたのは何時だろう?戦後の子どもの頃にはよく食べたが、その頃のものは、今の乾パンと呼ばれるもののようだったな~。甘味はなく、今食べるとそんなに美味しくもないが、食べるもののなかった当時は美味しかった。時代とともに甘味のあるビスケットも子どもの頃食べた記憶があるが、それ以降食べたのが何時か・・?。確かな記憶がないくらいだから随分と前のことだな~。神戸では、阪神大震災が発生したので、それ以降、非常食として、、乾パンを非常持ち出し用のリュックに入れて保管している。だから、乾パンは今でも、半年ごとに新しいものと入れ替えるのでその時に、古いのを食べてはいるが・・・。
しかし、スーパーなどへ買物に行くと、結構、ビスケット類がスペースをとっているので、今でも、子ども達には、好まれるのだろうな~。最近は、外国からの安いビスケットの輸入が増え、国内生産は少し減っているようだ。やはり、ビスケットは、安さが売り物・・・?全国ビスケット協会で、 ビスケットにも歌ができた。ビスケット好きの人は聞いてみては・・。また、以下の参考には「クッキー・ビスケットのレシピ」もあるよ。
「ビスケットの歌」のページはここ
(画像は「クッキーとビスケット」フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)より借用)
参考:
全国ビスケット協会
http://www.biscuit.or.jp/top.html
ビスケット - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88
[PDF] 横 浜 税 関 はじめに:ビスケットについて
http://www.yokohama-customs.go.jp/toukei/topics/data/biscuits.pdf
クッキー・ビスケットのレシピ
http://www.bob-an.com/recipe/sweet/cookie.html

徳川光圀が『大日本史』の編纂に着手した日

2006-02-27 | 歴史
2月27日『大日本史』の編纂
1657(明暦3)年 の今日(2月27日)徳川光圀が『大日本史』の編纂に着手した。
大日本史は、神武天皇から後小松天皇まで(厳密には南北朝が統一された1392年までを区切りとする)の百代の帝王の治世を紀伝体で記した日本の歴史書。江戸時代に水戸藩主徳川光圀によって執筆が開始され、光圀死後には、水戸藩及び水戸徳川家の事業として、近世・近代という二つの時代を通じて執筆・校訂が継続され、完成されたのは250年後の1906(明治39)年 のことである。本紀(君主=皇帝、天皇)73巻、列伝(后妃・皇子・皇女を最初に置き、群臣はほぼ年代順に配列、時に逆臣伝・孝子伝といった分類も見られる)170巻、志・表154巻、全397巻の大部である。
しかし、1つの書物の編纂事業に、250年もの歳月をかけて行ったのには一体どのような意味があるのだろうか。
16世紀に形成された新しい近世の社会は、17世紀を通じて、順調な発展を続けようやく成熟の段階に達しようとしていた。発展には限界があり、社会的な矛盾も顕在化し始めてはいたが、まだ、危機の時代には至っていなかった。しかし、この歴史的な時代は、その成熟した生活意識に自覚の光をあて、自己が生きていることの意義を認識する、いわば、アイデンティティ(自己確認)を求めていた時期ではないだろうか。それが、元禄文化を生み出したともいえる。この時代に活躍した人には、芭蕉や西鶴、近松などの芸術だけでなく学問の面でも新井白石や貝原益軒、他にも儒学では荻生徂徠、国学では契沖、など実に多彩な顔ぶれが見られるが、水戸藩における『大日本史』の編纂事業が軌道に乗るなど歴史の研究が活発になったのもこの頃といわれる。
歴史の転換期に際して、それ以前の長い歴史の過程を振り返ってみることにより、現在の自己がおかれている位置を確認しようとする関心が生まれるのは自然であり、「愚管抄」(1220年慈円)や「神皇正統記」(1339年北畠親房)はまさにそのような歴史の転換期の産物であった。しかし、これらの2書は個人の私的な著述であるのに対し、17世紀には幕府による「本朝通鑑(ほんちょうつがん)』や水戸藩の『大日本史』のように、公的な政府の事業として、古代以来の日本の歴史を全体として叙述した大部の書物が編纂されていることに特色がある。これに類似した政府あるいはその代表者の意思に基づくものとしては、7世紀末の「古事記」と「日本書紀」の編纂が見られるが,7世紀末は、まさに古代国家の完成期に当たっていた。17世紀における武家の為政者たちの間にも同様に新しい国家体制が完成の段階にたっしていたとする意識があったのではないかと想像されている。「記」「紀」の歴史観が、古代国家の成立に正当な根拠を与える意味を担っていたと同様に、近世の新しい国家体制にとっても、それが歴史の流れの結果として必然的に成立したもので嗚呼タコとが示されるなら、その存在にっ正当な根拠が与えられると考えたのではないか・・・。
「本朝通鑑」は林羅山が三代将軍家光の命を受けて編集に着手し、子の鵞峯(がほう)が継承して4代家綱の1670(寛文10)年に完成したもので、310巻の大部の書で、内容は漢文で編成体による、神代から1611(慶長16)年までの通史である。これに対し、水戸藩の第2代の藩主徳川光圀(1628年~1700年)が『大日本史』編纂を企画したのは、さらに本格的な漢文の歴史書を作ろうとする意図に基づくもので、本書では『史記』『漢書』以来の中国での歴史の正史の体裁である紀伝体が採用されている。紀伝体とは、本紀、列伝、志、表の四部で構成される歴史叙述の方式で、編年体よりも多角的な視点から歴史が捉えられるという。それだけに、編纂が困難を極め、最終的に397巻の大著が完成させるのに250年の時を要したのである。
紀伝体では、本紀では、正当と認められた君主の事跡を記述し、列伝ではどのグループに入れられるかによって、人物評価を示すが、本紀にも列伝にも、論賛と呼ばれる批評の文章が加えられ、それぞれの人物の功罪が明らかにされているのだそうだ。その評価基準は、儒教の道徳に置かれ、その基準に照らして正しいものは栄え、不正な者は亡びるという、一種の合理的な法則として、中国の歴史観である「天」の応報が、人々の運命を支配するとする考えがとられている。
本紀について、光圀が特に重視したのが、いわゆる「三大特筆」で、その一つが「南朝正統論」であり、南朝を正統とするとともにその終末まで本書は完結している。そこには、中国の歴史が、「史記」以外は、亡びた王朝の歴史を、次の王朝で編纂するという原則に則り、この場合でも、南朝が亡びるとともに天皇を君主とする古代以来の国家そのものが滅亡したと考え、それに代わったのが武家を主権者とする国家であり、江戸幕府にいたって、その国家の体制が完成されたとする歴史観からのものであろう。神戸の湊川神社には光圀の建てた楠木正成の墓碑がある。光圀の南朝正統論は湊川への楠公墓碑の建立と相俟って、後世の志士を感奮させ、王政復古の運動を導く大きな役割を果たしたともいえる。
(画像は、湊川神社の「光圀像」)
参考:
大日本史 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2
大日本史概要
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kintaro2/dainihoshi.htm
水戸学について
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Cosmos/4774/page008.html
元禄文化
http://www.tabiken.com/history/doc/F/F354R100.HTM
愚管抄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9A%E8%8F%85%E6%8A%84
神皇正統記 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%9A%87%E6%AD%A3%E7%B5%B1%E8%A8%98
古事記 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98
日本書紀 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80
国立国会図書館貴重書展:展示No.60 本朝編年録
http://www.ndl.go.jp/exhibit/50/html/catalog/c060.html
南北朝時代 (日本) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%AD%A3%E9%96%8F%E8%AB%96
皇国史観 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E8%A6%B3
湊川神社 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%8A%E5%B7%9D%E7%A5%9E%E7%A4%BE

2.26事件の日

2006-02-26 | 歴史
1936(昭和11)年2月26日の今日、「2.26事件」が発生した。
「2.26事件」は、1400名余の将校・兵士が、「昭和維新」「尊皇討奸」をスローガンに起こした、近代史上最大のクーデター事件である。
1936(昭和11)年2月26日の朝、陸軍の皇道派の青年将校たちが、歩兵第一、第三、近衛歩兵第三各連隊から約1400名の部隊を率いて決起。襲撃は速やかに実行され、斉藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監らを殺害、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせ、陸軍省、参謀本部、首相官邸など一帯を占拠し、陸軍上層部に対し国家改造の断行を要請した。東北農村の疲弊などを背景にしたこのクーデターには、陸軍上層部の一部関与していたといわれるが、陸軍主流・海軍は反クーデター側に結集、重臣殺害に激怒した天皇の勅命をタテに、鎮圧。結局クーデターは未遂に終った。軍法会議では、決起部隊の参加人員は連座を含め将校21人、准士官・下士官91人ら、1483人とされた。このう不起訴・無罪となったのは自殺した2人の将校を含む1407人。起訴された将校19人全員、有罪となり、死刑13人、無期禁錮5人、定期禁錮1人、民間人では参加の8人全員が有罪、死刑は襲撃・占拠を支持したとされた村中孝次、磯部浅一、渋川善助、水上源一であった。(朝日クロニクル・週刊20世紀より)
2.26事件の起点は統制派と皇道派の対立に遡る。1930年代陸軍内部にはこの2つの派閥があった。どちらも、古い長州閥中心の陸軍を変革していこうする点では同じであるが、目的が違った。皇道派は、荒木貞夫、真崎甚三郎らを中心に「君側の奸」を討ち、「国体明徴」「天皇親政」を実現すべしと主張、直接行動による国家改造をもくろみ、青年将校たちに広く支持されていた。皇道派はこれを昭和維新と称した。一方、永田鉄山、東条英樹、武藤章らの統制派は皇道派のやり方に批判的で、政治、経済、思想の全面的再編による国家総動員体制の確立を目指していたが、1934(昭和9)の年の林銑十郎陸送就任以降統制派が優勢となる。皇道派は、次第に陸軍中枢部から遠ざけられつつあった。翌年、中心人物の永田鉄山が皇道派の陸軍中佐相沢三郎に暗殺される(相沢事件)と、皇道派との対立を激化させる。
そして、折から、中心的な青年将校が所属する第1師団の満州派遣が発表され、「満州の地で果てるよりは・・・」と言う気持ちが、彼らを決起に向かわせる大きな要因になったのではと言われている。しかし、これら皇道派の青年将校にも2グループあり、北一輝の「日本改造法案大綱」を金科玉条とする「改造派」と「天皇親政」の「国体」が実現すれば、日本の社会は自然に良くなっていくと考えた「天皇派」とでも言うグループがあり、2.26事件の中核をなしたのは、磯部、中村らの「改造派」グループであった。
この事件は、極めて綿密に現実的な計画の元に行われ、岡田内閣を倒し、上部工作により真崎甚三郎による皇道派暫定政権をを起立させれば農産漁村の救済も出来ると考えていたようである。
このクーデターは、暗殺、要地占拠は一部の手違いを除き彼らの構想道り成功した。しかし、木戸幸一内大臣秘書官長がいち早く、事態の本質を知り、暫定内閣の成立を許すことは、「実質的に反乱軍の成功に帰する」として、天皇の政治方針を”現内閣の辞職を許さない”ことに決した。その後の、青年将校たちの上部工作によって、天皇周辺には「暫定内閣」の成立を献言する人物ばかりが何人も現れたが、天皇は、木戸の方針通りに動いたので26日中に大勢は決することになってしまったという。クーデターが成功しても、現内閣が倒れず皇道派の暫定内閣が出来なければ仕方がないので、4日間占拠を貫いて頑張ったが、最後は諦めて2月29日原隊に帰った。
”天皇のもとに、万民平等の社会を作る”というのは、幕末維新以来の日本における正当性をもったイデオロギーであった。明治維新はそうした目的のために行われたはずであり、それが行われていないことの方がおかしいという彼らの主張は民衆の共感を得るものでもあった。2.26事件の時、無邪気な庶民の中には、青年将校たちという義士が腐敗した政党政治に”討ち入り”をやってのけたという、受け取り方をしているものがいたといわれる。
この事件の後、陸軍の皇道派は勢力を落とし、東条英機ら統制派の政治的発言権がますます強くなった。
昭和初期は、第一次世界大戦(1914年~1918年)後の世界恐慌の煽りで日本はかってない不況であり、経済改革の為の政党政治が十分に機能せず、この2.26事件の前にも昭和7年2月には、血盟団事件、5月には5.15事件と次々に政治改革を叫ぶ右翼テロが起こっており、これを境に軍部主導の政治へと邁進していく。そして、「軍部大臣現役武官制」が復活し、軍部はいつでも内閣を倒せるようになる。このような軍部による威嚇が、以後の日本を、太平洋戦争へと導いていく上での重要なファクターとなったのである。
(画像は、2.26事件。週刊朝日百科・日本の歴史より)
参考:
二・二六事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/2.26%E4%BA%8B%E4%BB%B6
第一次世界大戦 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6
血盟団事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E7%9B%9F%E5%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
五・一五事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E3%83%BB%E4%B8%80%E4%BA%94%E4%BA%8B%E4%BB%B6
相沢事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%B2%A2%E4%BA%8B%E4%BB%B6
軍部大臣現役武官制 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E9%83%A8%E5%A4%A7%E8%87%A3%E7%8F%BE%E5%BD%B9%E6%AD%A6%E5%AE%98%E5%88%B6
はてなダイアリー - 日本改造法案大綱とは
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C6%FC%CB%DC%B2%FE%C2%A4%CB%A1%B0%C6%C2%E7%B9%CB?kid=126159

箱根用水完成の日

2006-02-25 | 記念日
今日(2月25日)は、「箱根用水完成の日」
1670(寛文10)年2月25日、日本の土木史上重要な意味を持つ箱根用水が完成した。箱根用水は、箱根にある芦ノ湖の水を駿河の国(現在の静岡県)駿東郡(すんとうぐん)に流した用水路。
芦ノ湖は海抜723m。貯水量1億7千万tで宮ケ瀬ダムに匹敵する。この芦ノ湖には二つ水門がある。芦ノ湖キャンプ村近くの逆川口に造られた湖尻水門と西岸にある深良水門である。
湖尻水門は湖水の水位調節を目的とし、深良水門は箱根用水としての役割も持つ芦ノ湖からの取水を目的とした水門だ。
芦ノ湖の清流は隧道(トンネル)を通って山向こうの裾野市深良地域へと流れ出している。隧道の長さは、全長1280m。
新田開発のために湖尻峠の真下に隧道を堀り、箱根用水造りが始まったのは1666(寛文6)年のことである。江戸町人の友野与右衛門らが同郡深良村(現在の裾野市)の名主・大庭源之丞の依頼によって、灌漑に苦慮した村々に引水して、新田を開発しようと計画。幕府の許可を得て着工、湖尻峠を掘り抜く工事は難航したが、4年後の1670(寛文10)年2月25日に完成。この話は、地元の言い伝えでは江戸の町人・友野与右衛門らが、水不足に悩む農民を救済するために私財を投じて幕府や小田原藩の権力に抵抗しながら用水を造り、その結果、開田500町歩(1町歩は約(1ha)、8,000石(一石は150kg)の増収になったといわれてきた。そして、戦後、民主主義実戦のモデルとして、小説や映画(箱根風雲録)で全国に紹介された。映画では、お上にも出来ぬ大工事が、一町人と農民の手で成功すれば幕府の威光は地におちると考えた幕府の役人たちが、陰険な妨害を加えて、与右衛門は2度も3度も捕られ、挙句の果てに、与右衛門は用水貴流と共に幕府の兇刃に倒れたことになっている。
しかし、以下参考の「箱根(町観光振興協会HP)」によると、後の調査で、「箱根用水は耕作期にだけ湖水を渡し、他は、早川に流した。小田原藩が藩米増加のため計画し、友野らは工事請負人、農民は代官の命令で動員された。友野らは工事完成後、新田から年貢米を売り上げて資金を回収し、さらに利益を見込んだが、掘抜工事1年の予定が4年に延び、新田500町歩が200町歩以下と資金繰りに困り、富沢村の「選び出し米代金」として幕府へ納めるお金110両を着服して訴えられた」ことが判明。だから、友野は、義人ではなく横領犯という不幸な結末に終わったというのが史実らしい。
寛文(1661年~1672年)といえば、徳川家綱の時代。戦争が終結し、全国的な支配権を握った江戸幕府や各藩が年貢 の増収をねがい、盛んに新田開発に取り組んでいた時代である。当時の新田開発の主眼は、大きな河川の護岸、川筋の付け替え、溜池の新造などを中心に、距離の長い用水路を掘り、沖積地を水田化することにあった。先ず、領主直轄や豪商請負による大河川の工事があり、次に土豪や町人による用水路開発、さらに寺院や村方、入植者による野場開墾へと進んで、大量に水田が増えた。箱根用水もその新田開発政策を受けての小田原藩管轄の事業で、友野与右衛門らはその工事の請負人だったのである。
近世に於ける平野から山地にまでの開発の進行は、河川に大きな影響を与えるに至った。全国的な洪水の頻発である。「国を治めるには水を治めよ、水を治めるにはまず山を治めよ」行き過ぎた開発の奨励を反省し、1666(寛文6)年、「諸国山川掟」が発布され、初めて開発至上主義から既存の田畑を丁寧に耕作する方向に農政の大転換をはかったときでもある。新田の乱開発から開墾に進む事業の資本と技術を「民間」の町人に求めることもしばしば行われていた。友野与右衛門もその1人であった。
この芦ノ湖の水利権は神奈川県でなくて静岡県にある。江戸時代は箱根も深良も小田原藩の領地であったので何の問題もなかった。しかし、廃藩置県後、両地域は神奈川県と静岡県に分かれてしまった。そのため、水利権をめぐって両県で争いがあったが、裁判により静岡県に水利権があるとされたようだ。
(画像は、映画 > DVD > 「箱根風雲録 」製作: 1952(昭和27)年 。監督: 山本薩夫 。出演: 河原崎長十郎/山田五十鈴)
参考:
駿東郡 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A7%BF%E6%9D%B1%E9%83%A1
第21回 失敗のシミュレーション●箱根用水と友野与右衛門●
箱根(町観光振興協会HP)
http://www.west4.gr.jp/pdf/hakone.pdf
箱根 芦ノ湖編(箱根用水)・・・写真が多い。
http://www.geocities.jp/suityurov/hakone.htm
深良水門(箱根用水)
http://www.shonan-rockets.com/ashinoko/fukara/
[PDF] 農業土木遺産を訪ねて
http://dokaikyo.or.jp/yomimono/isan/244_isn.pdf
箱根風雲録 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD23415/index.html?flash=1
熊沢蕃山
http://f59.aaa.livedoor.jp/~kanburia/introduce11.html


鉄道ストの日

2006-02-24 | 記念日
今日(2月24日)は、「鉄道ストの日」
1898(明治31)年、日本初の鉄道ストライキが実施された日。
日本鉄道会社の機関士ら400人がストライキに突入し、上野~青森の列車が運休した。
18世紀イギリスで始まった産業革命は、単に工業上の変革だけではなく、それによってもたらされた、運河の改良、汽船や汽車によてもたらされた大量の貨物・旅客の輸送などの交通革命もそのひとつである。我が国の場合も近代的交通手段の発達と資本主義の発展とは不可分に、結びついていた。明治政府は、統一国家形成という政治目的からも、国内治安維持という警察的対策からも、交通革命を必要としたし、大陸侵略を目指した兵員輸送という軍事的動機にもかられていた。その結果、日本では、産業の発展を背景に民間資本が運輸・通信業等を営んだイギリスと異なり、国家資本による官営と政府から特別の保護を受けた政商資本がこれらの部門を独占することとなる。
1872(明治5)年9月13日、新橋ー横浜間の鉄道が営業を開始した。もともと、政府部内で、鉄道建設を決意したのは、民部大輔大隈重信、同少輔伊藤博文であった。二人は、東京ー横浜間をはじめとして、全国各地に鉄道を建設することによって、封建的割拠の体制を打破し、中央集権制を強化出来ると考えた。
明治政府は、鉄道の原則国有を主張していたが、明治政府の黎明期でもあり資金が集まらず、又、当時アジアでは日本やタイ王国等の一部を除いて欧米列強諸国による植民地化が進んでおり、政府は、これらの惨状を勘案し外資の参入を阻んだこともあり、財政資金の不足から行き詰まりつつあった。その上、その後の西南戦争の戦費支出後はインフレーションをも招いた。
これからの鉄道整備が進まない事が予想されたことから、政府は、鉄道の官設官営の方針を転換し、華士族の秩禄(ちつろく)公債による投資を含む半官半民の会社として「日本鉄道会社」の創立を認めた。これが、日本初の私鉄の創業であり、1881年(明治14年)8月1日のことであった。陸軍は、西南戦争の際、鉄道が軍隊の輸送にその機能を発揮したことから、鉄道を軍事目的に利用することを考えた。また、当時防ぎようもないほど高まりつつある自由民権運動の波を見た彼らは、何時起こるか予期できない「不穏」な事態を鎮圧するために軍隊・警察の機動性の高い輸送手段として鉄道網の整備を痛感していた。事実、明治17年の秩父事件に際して上野ー高崎間に開通したばかりの日本鉄道は、東京から憲兵や警察官を輸送し大きな効果を挙げている。だから、日本鉄道会社に対する免許を決めた特約条約書には、政府・軍部の必要に応じて輸送命令に服することが義務付けられており、明治20年5月18日公布の私設鉄道条例が、私設鉄道の線路・施設の規格を規制し、軍事輸送業務への従事を義務付けた。そして、私鉄鉄道といっても、日本鉄道はその建設・営業を鉄道局に委託していた。したがって、初期の段階では資金を集めるだけの企業といった性格が強かった。政府は、1885(明治18)年から、翌年にかけて、軍部の戦略はそれまでの防備戦略から、朝鮮・清国に対する進行戦略に転換。急速に鉄道が整備され、路線は拡張していくことになる。
日本鉄道は、1883年(明治16)7月には上野―熊谷間が開通し、1884年(明治17)には前橋まで開通、1886年(明治19)6月、大宮―宇都宮間も開通、そして1891年(明治24)9月、盛岡―青森間の開通により、上野―青森間が全通した。その後,現在の水戸線・両毛線・常磐線を買収あるいは建設した。営業成績は良好であり、これが私鉄経営に刺激を与え,以後各地に続々と私鉄が建設されていった。そして、1889(明治22)年、7月、新橋ー神戸間の東海道線が全通した。その前年には、山陽鉄道会社が設立され、鐡道は神戸以西にも延びていった。
明治のこの時期、このような国家主導による資本主義化の中で、軍工廟・製鉄所・鉄道・電信電話といった官営企業などの巨大化、さらに、港湾・道路橋梁など社会資本に対する国家の財政投資も膨大であった。国家資本に次ぐ財閥資本は政府の保護の下、国家権力と癒着しながら鉱工業や金融・商業部門にも進出し財閥を形成した。そしてこれらに従事する膨大な賃金労働者郡が生み出されることとなる。しかし、これらの労働者の多くは小作貧農の子女の出稼ぎや没落農民の流出者であった。彼らの賃金は極端に低く、労働条件は劣悪を極め、身分的な拘束さえうけていた。やがて、低賃金や劣悪な労働条件に抗議する声が高まる。ストライキが頻発する中で、鉄道業でも、1898(明治31)年、日本鉄道の機関士らが待遇改善期成同盟会を結成、弾圧を跳ね除けて、400人がストを決行し、要求を貫徹した。これが、日本初の鉄道ストである。政府は、その後、鉄道網を延伸した後に1906年(明治39年)鉄道国有法を公布し民間鉄道を買収した。日本鉄道も、同年11月1日には国有化され,東北本線・高崎線などになっていった。
この、日本鉄道がストを起こしたころ、こんな歌が流行っていた。
なにをくよくよ 川端柳 
焦がるる なんとしょ
川の流れを 見て暮らす
東雲の ストライキ
さりとはつらいね てなこと
おっしゃいましたかね
この歌は年配の人なら知っていると思うが、明治後期の流行歌で「ストライキ節(東雲節)」といわれるものだが、名古屋旭新地の東雲楼の娼妓のストライキから生まれたともいわれているが、正確なことはよくわからないらしい。元唄は高杉晋作の作った都々逸とも言われるがこれもわからない。当時、演歌師によって全国に広まったといわれている。
面白い歌なので、聞いてみては・・・・・・→ ストライキ節
日本鉄道や日本鉄道のストのことなら以下参考の「日本鉄道会社」「社長を退陣させた日本初の鉄道スト」が詳しいよ。
(画像は、鉄道労働者のスト「労働界」第8号、明治31年3月15日。週刊朝日百科・日本の歴史に掲載のもの)
参考:
日本鉄道会社
http://www.tabiken.com/history/doc/O/O042L100.HTM
社長を退陣させた日本初の鉄道スト
http://www.yomiuri.co.jp/yomidas/meiji/meiji32q.htm
日本国有鉄道 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%9C%89%E9%89%84%E9%81%93
東雲節(しののめぶし)考
http://homepage2.nifty.com/tanosiki/v-enka-sino1.htm
日本国有鉄道の歴史
http://page.freett.com/anotoki_kokutetu/motto/shikenkokutetu/shikenkokuteuindex.html