今日(11月1日)は「本格焼酎の日」
1987(昭和62)年9月、九州で開かれた本格焼酎業者の会議の場で制定。日本酒造組合中央会が実施。
その年に8~9月ごろから仕込まれた新酒が飲めるようになるのが11月1日ごろであることからだそうだ。
焼酎は蒸留法の違いによって酒税法上「甲類」と「乙類」に分けられるが、この表現が等級の違いのようであり紛らわしいため、原料の風味が活かされた乙類を「本格焼酎」と呼ぶようになった。この11月1日の記念日には他に「泡盛の日」もある。沖縄県酒造組合連合会が1989(平成元)年に制定したものだが、焼酎と同様、11月から泡盛製造の最盛期に入り、泡盛の美味しい季節となることから。
天高く馬肥ゆる秋などと言うが、秋も本格化、これからの季節は食欲が進むが、魚も脂が乗って美味しくなり、寒い季節には、意図のほか酒が恋しくなる。しかし、今まで、日本でお酒と言えば日本酒(清酒)が中心であったが、ここのところの健康ブームで「焼酎」ブームがおこっている。酒は百薬の長と言って、適量は身体によいものであるが、飲み過ぎはよくない。これに関しては、日本酒も焼酎も同じことだ。ただ、焼酎には、・糖分が少ないので、カロリーが低い・ビールや日本酒に比べ、痛風の原因になるプリン体の量が少ない・血栓を溶かす作用がある・他のお酒に比べて、血糖値が上がりにくいと言った様なカラダに嬉しい特徴があるそうだ。、私は日本酒(灘の清酒)の本場神戸が地元であり、日本酒党であり焼酎は飲まなかった。酒好きで、若い頃からの暴飲暴食から、定年前頃には、大分内臓の方も弱っていた。そして、現役時代最後の仕事で、九州に5年間ほど住んでおり、九州にいる間に、焼酎の味を覚え、私の身体には、焼酎の方が良いと医者にも言われ、最近は酒よりも焼酎が中心となった。
焼酎は13~14世紀頃には、すでに中国大陸や南海諸国で製造されていたようであり、わが国へは、14・5世紀に琉球、南海諸国、朝鮮を経路として種々の焼酎を含む外来酒がわが国に伝来したようである。
ポルトガルの宣教師、フランシスコ・ザビエルが初来日したのは1549(天文15)年の事であるが、その、ザビエルが来日した3年前の1546年、薩摩(現在の鹿児島)半島南端の揖宿郡山川地方に半年間も滞在したポルトガル船があった。その船長ジョルジェ・アルバレスはザビエルの信奉者で、ザビエルの依頼により、日本の詳しい情報を記した見聞録を書き送っている。それが、「日本の諸事情に関する報告」で、当時の薩摩の地理、気候、社会生活、宗教等が記されているそうで、その中の一節に、「飲み物として米から作るオラーカ(orraqua)が飲まれていたという記述があるそうだ。この文書が、日本へ来たことのあるヨーロッパ人が書いた最初の日本見聞記であると同時に、焼酎に関する最も古い記録とされている。
ここに書かれている「orraqua」とは、言語がアラビア語の「araq(蒸散)」で、蒸留酒を意味し、つまり、「米からつくるオラーカ」とは、米焼酎のことである。だから、1546年に、鹿児島では、既に米焼酎が広く飲まれていたことを意味している。
日本の記録では、鹿児島県大口市に国の重要文化財の一つである、郡山八幡宮という神社があり、1949(昭和29)年、傷みが激しくなったため解体修繕工事が行われた際、屋根裏の一角から400年以上も昔の宮大工が落書きを残した手のひら大の木片が発見され、「神社の修理の時に、施主が大変なケチで一度も焼酎を飲ませてくれなかった。」という内容で、永録二年(1559年)の年号が記されてあったそうで、この木片に記されている「焼酎」という文字が、日本で最も古く残された“焼酎”の文字ということなるという。
これらのことからも、当時すでに、この地方では焼酎が庶民のお酒として親しまれていたことが窺え、先のザビエルへの日本の報告とこの木片の落書きの二つの記録から、今から450年前の薩摩では、南薩から北薩までの広い地域で焼酎が飲まれていて、その焼酎が米焼酎であり、“焼酎”という呼び方と書き方が当時から使われていたことが窺える。当然、、それ以前から焼酎は造られていただろうから、今で、焼酎の歴史は500年というのが一般的なようである。
焼酎の語源は、 中国語では「焼」は熱を加えるという意味で蒸留酒を指す言葉であり、、焼酎の「焼」という文字は、モロミを加熱、沸騰させてつくるという蒸留酒の基本的な作業をさし、また「酎」は濃い酒という意味だそうだ。
焼酎は、甲類と乙類に分かれ、甲類は、連続式蒸留機でつくられ、ホワイトリカーとも呼ばれており、、果実酒や「チューハイ」のベースに使われている。乙類は単式蒸留機でつくられたもので単式蒸留の方が歴史が古いことから本格焼酎と呼ばれている。この本格焼酎にも、米焼酎のほか、麦焼酎 、いも焼酎、 黒糖焼酎 、そば焼酎 、泡盛 、粕取り焼酎 等々色々有ある。
焼酎と言えば、鹿児島が本場であり、鹿児島と言えば、「薩摩白波」の名で有名な芋焼酎が、思い出されるだろうし、芋焼酎が、焼酎の代名詞のように思っている人も多いのではないだろうか。しかし、私は、昔、弟が九州へ転勤し、初めて私に土産だといって持ってきてくれたのが、芋焼酎の「薩摩白波」であった。それまで、灘の清酒の本場・神戸の人間なので、それまで、酒と言えば清酒の私が、焼酎を飲んだのは、この芋焼酎が初めてであった。清酒と違って強い芋の薫りが鼻にきて、正直、それで、焼酎が大嫌いになった。以来、焼酎は、絶対飲まなくなったが、そんな私が、その後、仕事で、九州へよく出張するようになり、特に大分への出張が多く、仕事先の人との付き合いで、夜、酒を飲みゆき、焼酎が嫌いだという私に、是非飲んでみてくれと、勧められたのが、大分の麦焼酎であった。それも、これは、極上のものだよと言われて飲んだ、麦焼酎には、前に飲んだ芋焼酎のような匂いはなく、美味しかった。それ以来、大分へ行ったときだけ、麦焼酎を飲んでいたが、現役最後の定年前に、私が九州へ転勤となり、5年ほど住んだ。その間、鹿児島だけは、行ったことがないが、他の県へは九州の仲間と一緒に全て行った。そして、旅館でそこの地元の焼酎を飲んでいたが、どこのものでも美味しかった。特に、清酒に慣れ親しんでいる、私には、熊本の米焼酎(球磨焼酎〉)が一番合っているのか一番美味しく感じられた。以降、私の飲む焼酎は、1に「米焼酎」2に「麦焼酎」である。酒は好き好きなので、どの酒がいいとは言えないが私には、米のものにこだわりがあるが、鹿児島の焼酎の歴史を見ても、古く500年も前には米焼酎が一般的だったのになぜ、今は、「芋焼酎」になったのか疑問が感じられた。
200年前に、薩摩を旅して『西遊記』を著した橘南谿(たちばななんけい)が薩摩の焼酎と清酒について以下のように記しているという。
「薩摩には焼酎と言う琉球の泡盛のような酒があるが、京都の焼酎のように強いものではない。薩摩の国では七、八割がみなこの焼酎で酒宴を開く。清酒はお祝ごとなどの贈り物や、あるいは儀式などにだけ用いられるが、この清酒はみな京都や大阪あたりから持ってきた酒で、値段も高価なものである。薩摩でたまたま造る酒もあるにはあるが、はなはだ下品で飲みにくい。だからみな焼酎を飲んでいる。さつま芋からも焼酎を造るが、これは味がはなはだよい。その外、民家では黍(きび)・栗(くり)・稗(ひえ)等もみんな焼酎にしている。」 ・・・と。
要するに、200年前も清酒が飲まれなかったのは、温暖の地、薩摩では美味しい酒が造れなかったからのようである。
その理由は、鹿児島の焼酎は芋焼酎だけだったと思われているところがあるが、台風常襲地帯である薩摩は米の出来が悪い。また、ほとんどをシラス(灰)におおわれた台地で、さつま芋が戦前農民の主食であったことからの、誤解のようである。ただ、米は武家社会や地主に独占されていたから、庶民の酒は芋焼酎、あるいは、わずかな雑穀製焼酎であった。また、戦後、米の不足から鹿児島のすべての焼酎メーカーが芋焼酎を造らざるを得なかったこと、さらに昭和40年代の行政が熊本は米、宮崎は雑穀、鹿児島は芋だとすみわけをしたこと、そして決定的なことは大分の麦焼酎の登場であった。こうした理由によって、鹿児島は芋焼酎だけと誤解されるようになったようである。
しかし、戦前は米焼酎が約3分の1を占めていたが、米焼酎は旦那衆の焼酎、芋焼酎は庶民の飲む焼酎で価格は米焼酎の約2分の1であった。上客に対しては上酒(かんしゅ)(県外産の日本酒)を買いに酒屋へ走るもので米焼酎の倍の価格であり、薩摩で造られた清酒は正月のお屠蘇(とそ)用か結婚式等のお祝ごとに使用されるだけのものであった・・・と言うのである。(以下参考の 田苑酒造株式会社 焼酎随想「薩摩と焼酎-1」より)
以降、薩摩の芋焼酎も改良に改良を加え、美味しいのだろうけれども、やはり、例え、焼酎といえども、芋や、麦、雑穀などより、当然米のものの方が美味しいはずだ・・との私の考えは、間違っていなかった。私の調べで、日本に伝わる前の琉球(今の沖縄)、韓国の焼酎も基本は、米がベースとなっている。日本の焼酎には、先に述べた事情などにより、その土地土地で、違った素材を元に焼酎が作られるようになり、その改良をしてきただけなのだから・・・。しかし、お酒も嗜好品である。その人が美味しいと思うものを飲めばよい。
焼酎は、基本的なお湯割りのほか水割りでもロックでも楽しめる。それも割り方は自由である。その人の好みによって気軽に、自由に楽しめるところが本格焼酎の魅力だろうね。
ただ、本格焼酎のお湯割りの仕方であるが、皆さんは、どのような割り方をしているかな・・・?グラスに焼酎を入れてから、お湯を入れている人が多いのではないかな・・・?それは、間違いらしいよ・・。本格焼酎の水割りを、グラス等で飲む場合、お湯から先に入れ、その後本格焼酎を入れるのが正式らしい。それは、お湯と本格焼酎の温度差で、後から焼酎を入れ、お湯の対流作用を利用して混ぜるためだそうだ。
(画像は、マイコレクションの「ウンスケ」福岡県・高取焼・江戸末期のもの。九州地方などでは、民家で焼酎を作っていた。そのときに利用された壷である。口に注ぎ口があるのは、上澄みを飲むため)
参考:
日本酒造組合中央会
http://www.japansake.or.jp/
酎どっとねっと
http://www.shochu.net/
日本の酒・本格焼酎と泡盛index
http://www.japansake.or.jp/honkaku/
田苑酒造株式会社 焼酎随想
http://www.denen-shuzo.co.jp/essay/essay.htm
「お酒をよく飲む人」のための60秒健康情報
http://www.kenko60.com/koudoku/osake/index.html
1987(昭和62)年9月、九州で開かれた本格焼酎業者の会議の場で制定。日本酒造組合中央会が実施。
その年に8~9月ごろから仕込まれた新酒が飲めるようになるのが11月1日ごろであることからだそうだ。
焼酎は蒸留法の違いによって酒税法上「甲類」と「乙類」に分けられるが、この表現が等級の違いのようであり紛らわしいため、原料の風味が活かされた乙類を「本格焼酎」と呼ぶようになった。この11月1日の記念日には他に「泡盛の日」もある。沖縄県酒造組合連合会が1989(平成元)年に制定したものだが、焼酎と同様、11月から泡盛製造の最盛期に入り、泡盛の美味しい季節となることから。
天高く馬肥ゆる秋などと言うが、秋も本格化、これからの季節は食欲が進むが、魚も脂が乗って美味しくなり、寒い季節には、意図のほか酒が恋しくなる。しかし、今まで、日本でお酒と言えば日本酒(清酒)が中心であったが、ここのところの健康ブームで「焼酎」ブームがおこっている。酒は百薬の長と言って、適量は身体によいものであるが、飲み過ぎはよくない。これに関しては、日本酒も焼酎も同じことだ。ただ、焼酎には、・糖分が少ないので、カロリーが低い・ビールや日本酒に比べ、痛風の原因になるプリン体の量が少ない・血栓を溶かす作用がある・他のお酒に比べて、血糖値が上がりにくいと言った様なカラダに嬉しい特徴があるそうだ。、私は日本酒(灘の清酒)の本場神戸が地元であり、日本酒党であり焼酎は飲まなかった。酒好きで、若い頃からの暴飲暴食から、定年前頃には、大分内臓の方も弱っていた。そして、現役時代最後の仕事で、九州に5年間ほど住んでおり、九州にいる間に、焼酎の味を覚え、私の身体には、焼酎の方が良いと医者にも言われ、最近は酒よりも焼酎が中心となった。
焼酎は13~14世紀頃には、すでに中国大陸や南海諸国で製造されていたようであり、わが国へは、14・5世紀に琉球、南海諸国、朝鮮を経路として種々の焼酎を含む外来酒がわが国に伝来したようである。
ポルトガルの宣教師、フランシスコ・ザビエルが初来日したのは1549(天文15)年の事であるが、その、ザビエルが来日した3年前の1546年、薩摩(現在の鹿児島)半島南端の揖宿郡山川地方に半年間も滞在したポルトガル船があった。その船長ジョルジェ・アルバレスはザビエルの信奉者で、ザビエルの依頼により、日本の詳しい情報を記した見聞録を書き送っている。それが、「日本の諸事情に関する報告」で、当時の薩摩の地理、気候、社会生活、宗教等が記されているそうで、その中の一節に、「飲み物として米から作るオラーカ(orraqua)が飲まれていたという記述があるそうだ。この文書が、日本へ来たことのあるヨーロッパ人が書いた最初の日本見聞記であると同時に、焼酎に関する最も古い記録とされている。
ここに書かれている「orraqua」とは、言語がアラビア語の「araq(蒸散)」で、蒸留酒を意味し、つまり、「米からつくるオラーカ」とは、米焼酎のことである。だから、1546年に、鹿児島では、既に米焼酎が広く飲まれていたことを意味している。
日本の記録では、鹿児島県大口市に国の重要文化財の一つである、郡山八幡宮という神社があり、1949(昭和29)年、傷みが激しくなったため解体修繕工事が行われた際、屋根裏の一角から400年以上も昔の宮大工が落書きを残した手のひら大の木片が発見され、「神社の修理の時に、施主が大変なケチで一度も焼酎を飲ませてくれなかった。」という内容で、永録二年(1559年)の年号が記されてあったそうで、この木片に記されている「焼酎」という文字が、日本で最も古く残された“焼酎”の文字ということなるという。
これらのことからも、当時すでに、この地方では焼酎が庶民のお酒として親しまれていたことが窺え、先のザビエルへの日本の報告とこの木片の落書きの二つの記録から、今から450年前の薩摩では、南薩から北薩までの広い地域で焼酎が飲まれていて、その焼酎が米焼酎であり、“焼酎”という呼び方と書き方が当時から使われていたことが窺える。当然、、それ以前から焼酎は造られていただろうから、今で、焼酎の歴史は500年というのが一般的なようである。
焼酎の語源は、 中国語では「焼」は熱を加えるという意味で蒸留酒を指す言葉であり、、焼酎の「焼」という文字は、モロミを加熱、沸騰させてつくるという蒸留酒の基本的な作業をさし、また「酎」は濃い酒という意味だそうだ。
焼酎は、甲類と乙類に分かれ、甲類は、連続式蒸留機でつくられ、ホワイトリカーとも呼ばれており、、果実酒や「チューハイ」のベースに使われている。乙類は単式蒸留機でつくられたもので単式蒸留の方が歴史が古いことから本格焼酎と呼ばれている。この本格焼酎にも、米焼酎のほか、麦焼酎 、いも焼酎、 黒糖焼酎 、そば焼酎 、泡盛 、粕取り焼酎 等々色々有ある。
焼酎と言えば、鹿児島が本場であり、鹿児島と言えば、「薩摩白波」の名で有名な芋焼酎が、思い出されるだろうし、芋焼酎が、焼酎の代名詞のように思っている人も多いのではないだろうか。しかし、私は、昔、弟が九州へ転勤し、初めて私に土産だといって持ってきてくれたのが、芋焼酎の「薩摩白波」であった。それまで、灘の清酒の本場・神戸の人間なので、それまで、酒と言えば清酒の私が、焼酎を飲んだのは、この芋焼酎が初めてであった。清酒と違って強い芋の薫りが鼻にきて、正直、それで、焼酎が大嫌いになった。以来、焼酎は、絶対飲まなくなったが、そんな私が、その後、仕事で、九州へよく出張するようになり、特に大分への出張が多く、仕事先の人との付き合いで、夜、酒を飲みゆき、焼酎が嫌いだという私に、是非飲んでみてくれと、勧められたのが、大分の麦焼酎であった。それも、これは、極上のものだよと言われて飲んだ、麦焼酎には、前に飲んだ芋焼酎のような匂いはなく、美味しかった。それ以来、大分へ行ったときだけ、麦焼酎を飲んでいたが、現役最後の定年前に、私が九州へ転勤となり、5年ほど住んだ。その間、鹿児島だけは、行ったことがないが、他の県へは九州の仲間と一緒に全て行った。そして、旅館でそこの地元の焼酎を飲んでいたが、どこのものでも美味しかった。特に、清酒に慣れ親しんでいる、私には、熊本の米焼酎(球磨焼酎〉)が一番合っているのか一番美味しく感じられた。以降、私の飲む焼酎は、1に「米焼酎」2に「麦焼酎」である。酒は好き好きなので、どの酒がいいとは言えないが私には、米のものにこだわりがあるが、鹿児島の焼酎の歴史を見ても、古く500年も前には米焼酎が一般的だったのになぜ、今は、「芋焼酎」になったのか疑問が感じられた。
200年前に、薩摩を旅して『西遊記』を著した橘南谿(たちばななんけい)が薩摩の焼酎と清酒について以下のように記しているという。
「薩摩には焼酎と言う琉球の泡盛のような酒があるが、京都の焼酎のように強いものではない。薩摩の国では七、八割がみなこの焼酎で酒宴を開く。清酒はお祝ごとなどの贈り物や、あるいは儀式などにだけ用いられるが、この清酒はみな京都や大阪あたりから持ってきた酒で、値段も高価なものである。薩摩でたまたま造る酒もあるにはあるが、はなはだ下品で飲みにくい。だからみな焼酎を飲んでいる。さつま芋からも焼酎を造るが、これは味がはなはだよい。その外、民家では黍(きび)・栗(くり)・稗(ひえ)等もみんな焼酎にしている。」 ・・・と。
要するに、200年前も清酒が飲まれなかったのは、温暖の地、薩摩では美味しい酒が造れなかったからのようである。
その理由は、鹿児島の焼酎は芋焼酎だけだったと思われているところがあるが、台風常襲地帯である薩摩は米の出来が悪い。また、ほとんどをシラス(灰)におおわれた台地で、さつま芋が戦前農民の主食であったことからの、誤解のようである。ただ、米は武家社会や地主に独占されていたから、庶民の酒は芋焼酎、あるいは、わずかな雑穀製焼酎であった。また、戦後、米の不足から鹿児島のすべての焼酎メーカーが芋焼酎を造らざるを得なかったこと、さらに昭和40年代の行政が熊本は米、宮崎は雑穀、鹿児島は芋だとすみわけをしたこと、そして決定的なことは大分の麦焼酎の登場であった。こうした理由によって、鹿児島は芋焼酎だけと誤解されるようになったようである。
しかし、戦前は米焼酎が約3分の1を占めていたが、米焼酎は旦那衆の焼酎、芋焼酎は庶民の飲む焼酎で価格は米焼酎の約2分の1であった。上客に対しては上酒(かんしゅ)(県外産の日本酒)を買いに酒屋へ走るもので米焼酎の倍の価格であり、薩摩で造られた清酒は正月のお屠蘇(とそ)用か結婚式等のお祝ごとに使用されるだけのものであった・・・と言うのである。(以下参考の 田苑酒造株式会社 焼酎随想「薩摩と焼酎-1」より)
以降、薩摩の芋焼酎も改良に改良を加え、美味しいのだろうけれども、やはり、例え、焼酎といえども、芋や、麦、雑穀などより、当然米のものの方が美味しいはずだ・・との私の考えは、間違っていなかった。私の調べで、日本に伝わる前の琉球(今の沖縄)、韓国の焼酎も基本は、米がベースとなっている。日本の焼酎には、先に述べた事情などにより、その土地土地で、違った素材を元に焼酎が作られるようになり、その改良をしてきただけなのだから・・・。しかし、お酒も嗜好品である。その人が美味しいと思うものを飲めばよい。
焼酎は、基本的なお湯割りのほか水割りでもロックでも楽しめる。それも割り方は自由である。その人の好みによって気軽に、自由に楽しめるところが本格焼酎の魅力だろうね。
ただ、本格焼酎のお湯割りの仕方であるが、皆さんは、どのような割り方をしているかな・・・?グラスに焼酎を入れてから、お湯を入れている人が多いのではないかな・・・?それは、間違いらしいよ・・。本格焼酎の水割りを、グラス等で飲む場合、お湯から先に入れ、その後本格焼酎を入れるのが正式らしい。それは、お湯と本格焼酎の温度差で、後から焼酎を入れ、お湯の対流作用を利用して混ぜるためだそうだ。
(画像は、マイコレクションの「ウンスケ」福岡県・高取焼・江戸末期のもの。九州地方などでは、民家で焼酎を作っていた。そのときに利用された壷である。口に注ぎ口があるのは、上澄みを飲むため)
参考:
日本酒造組合中央会
http://www.japansake.or.jp/
酎どっとねっと
http://www.shochu.net/
日本の酒・本格焼酎と泡盛index
http://www.japansake.or.jp/honkaku/
田苑酒造株式会社 焼酎随想
http://www.denen-shuzo.co.jp/essay/essay.htm
「お酒をよく飲む人」のための60秒健康情報
http://www.kenko60.com/koudoku/osake/index.html