今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

伊達騒動と原田甲斐

2013-03-27 | 歴史
寛文11年(1671年)年3月27(新暦5月6日)日仙台藩の内紛・伊達騒動(寛文事件とも)幕府が裁断。この席上で重臣・原田甲斐(宗輔)伊達安藝(宗重)らを斬殺し、甲斐も斬殺される。
冒頭の画像は江戸時代末期から明治時代の大坂の浮世絵師中井 芳滝画「原田甲斐」、演じる俳優は阪東寿太郎。画像は、以下参考の※1:「早稲田大学演劇博物館 浮世絵閲覧システム」にあるものを借用。原画(拡大図)その他詳細は作品番号:016-2080 を参照。
伊達騒動は、17世紀後半、まだ割拠性の強い家臣団をおさえて、仙台藩が藩政を確立してゆく過程で起きたお家騒動であり、加賀騒動黒田騒動とともに三大お家騒動と呼ばれている。
騒動は綱宗隠居事件に始まり、寛文事件へと続き、そして綱村隠居事件にてようやく終止符が打たれる。
一般に伊達騒動と呼ばれる場合には、寛文事件を指す。

巷説において伊達騒動は、おおむね以下のような物語が形成されている。
仙台伊達家の3代藩主・伊達綱宗吉原高尾太夫(二代目万治高尾)に魂を奪われ、での遊蕩(女遊びにふけること。放蕩)にふけり、隠居させられる。これらはお家乗っ取りをたくらむ家老原田甲斐(宗輔)と黒幕である伊達兵部(宗勝)ら一味の仕掛けによるものだった。
甲斐一味は綱宗の後を継いだ亀千代(4代藩主・伊達綱村)の毒殺を図るが、忠臣たちによって防がれる。忠臣の筆頭である伊達安芸(宗重)は兵部・甲斐らの悪行を幕府に訴える。酒井雅楽頭(忠清)邸での審理で、兵部と通じる雅楽頭は兵部・甲斐側に加担するが、清廉な板倉内膳正(重矩)の裁断により安芸側が勝利。もはやこれまでと抜刀した甲斐は安芸を斬るが自らも討たれ、伊達家に平和が戻る。
本作をはじめとする伊達騒動ものは基本的にこの筋書きを踏襲している。

しかし、当事件後、歌舞伎人形浄瑠璃などの好題目となったが、当時は、こうした事件をそのまま上演することは禁じられていたから、北条織田今川などの時代に置き換え脚色した。
お家騒動を素材にしたものを「御家もの」というが、奈河亀輔作「伽羅先代萩」(通称「先代萩」)などは、その代表的なものである。

上掲の画像は、外題:「伽羅先浮世の流行おそのまゝに 伽羅先代萩 加賀ツ原薩摩座代萩」、画題等は、「浮世の流行おそのまゝに 伽羅先代萩 加賀ツ原薩摩座」となっており、絵師は、二代目広重、落款印章は、「応需広重筆」としている。「応需」とは、“もとめに応じること”であるため、自分の意志で書いたというよりも版元などに求められて書いたものという意味だろうか。
上演は明治1年 (1868年)4月。上演場所は江戸・ 加賀ツ原(※3参照)の薩摩座での演目であったらしい。画像は、以下参考の※1:「早稲田大学演劇博物館 浮世絵閲覧システム」にあるものを借用。原画(拡大図)配役その他は詳細は、ここで、作品番号:100-7001と作品番号:100-を参照とよい。

この歌舞伎「伽羅先代萩」は、奥州の足利家の執権仁木弾正(原田甲斐 に相当)や妹八汐(やしお)らが、足利家の乗っ取りを企む物語として書かれている。
題目の「伽羅先代萩」(めいぼく せんだいはぎ。通称:先代萩)の「伽羅」とは、特に良質の香木の銘であり、武士は出陣する際に兜の中に香を焚き込めたということから,伽羅=忠義(※4参照)の武士となり 先代萩=古代の仙台地方における歌枕の地、宮城野に生える萩「ミヤギノハギ(宮城野の萩)」を表しており、「伽羅先代萩」が仙台藩伊達家のお家騒動を取材した作品であることを暗示している。
そして、そこには、忠義の乳母・政岡(千松の生母・三沢初子に相当。初子は、綱宗の側室。しかし、綱宗は正室を設けなかったので、初子が実質正室のようなもの)とその子・千松を登場させ、鶴千代(綱宗嫡子の亀千代に相当)と同年代の我が子・千松とともに鶴千代の身辺を守っている。
舞台では、逆臣方に加担する管領・山名宗全(史実の老中・酒井雅楽頭)の奥方・栄御前が現われ、持参の菓子を鶴千代の前に差し出す。毒入りを危惧した政岡だったが、管領家の手前制止しきれず苦慮していたところ、駆け込んで来た千松が菓子を手づかみで食べ、毒にあたって苦しむ。
本作中最大の山場「御殿」の場面では、我が子を犠牲にしてまで主君を守るという筋書きは、朱子学が幅を利かせた江戸時代に発達した歌舞伎や人形浄瑠璃の世界では常套の展開である(※5参照)。
「床下の場」では御殿全体がせり上がり、床下の場面となる。
讒言によって主君から遠ざけられ、御殿の床下でひそかに警護を行っていた忠臣・荒獅子男之助が、巻物をくわえた大鼠(御殿幕切れに登場)を踏まえて「ああら怪しやなア」といいつつ登場する。鉄扇で打たれた鼠は男之助から逃げ去り、煙のなか眉間に傷を付け巻物をくわえて印を結んだ仁木弾正の姿に戻る。弾正は巻物を懐にしまうと不敵な笑みを浮かべて去っていく。
そして、女性中心からなる義太夫狂言様式の前場「御殿」から一変して、せり上がりやすっぽん(花道の舞台寄りの七三と呼ばれる場所にある小型のセリ。※2参照)などの仕掛けを用い、荒事(※2参照)の英傑と妖気漂う男性の悪役が対峙する名場面である。
上掲の画題は、「浮世の流行おそのまゝに 伽羅先代萩」となっており、この画は、そんな「御殿」の場面から一変して、せり上がり「床下の場」となった場面を描いているのだろう。
政岡は「御殿」の主役であり、「片はずし(かたはずし)」(※2参照)とよばれる御殿女中役の中でも大役とされている。また仁木弾正は、悪の色気を見せる「国崩し(くにくずし)」(※2のかたきやくを参照)とよばれる敵役(かたきやく)の大役として有名。この舞台では、岩井粂八が仁木弾正と、日替わりで正岡も演じている。
「伽羅先代萩」の現行の脚本は大きく「花水橋」「竹の間・御殿・床下」「対決・刃傷」の3部に分けることができるが、物語の概要は ここ、を見てください。また、その史実については、Wikipedia-伊達騒動その他以下で述べる事項等を参照してください。

さて、史実としての伊達騒動に触れていこう。
陸奥国の仙台藩3代藩主伊達綱宗は第2代藩主(伊達氏第19代当主)・伊達忠宗伊達政宗の二男で嫡子)の6男であり、幼名は巳之介といった。
母が後西天皇の母方の叔母に当たることから、綱宗と後西天皇は従兄弟関係になる。
6男であるが、寛永21年(1645年)、兄・光宗夭折により綱宗が嫡子となった。存命の兄、宗良宗倫、は他家に養子に出ている。
そして、万治元年(1658年)、父忠宗の死去により、若年19歳で家督を継いだ綱宗自身は、酒色に溺れて藩政を顧みない暗愚な藩主とされている。
さらには叔父に当たる一関藩主・伊達宗勝(伊達政宗の10男で、第2代藩主忠宗の弟)の政治干渉、そして家臣団の対立などの様々な要因が重なって、藩主として不適格と見なされて幕命により万治3年(1660年)7月18日、不作法の儀により21歳の若さで隠居させられた。これが綱宗隠居事件である。
家督は綱宗の世子(せいし。世嗣、跡継ぎのこと。嫡男を参照)で、2歳の亀千代(後の伊達綱村)が継いだ。

上掲の画像は、向かって左が伊達綱宗の肖像画である(wikipediaより借用)。また、右は、私の酒器のコレクションより、犬山焼(「犬山乾山」)のぐい飲みである。
犬山焼は、尾張犬山の陶器で、宝暦年間(1751年~1764年)に犬山に近い今井村(愛知県丹羽郡に存在した村)で始まり、文化7年(1810年)に犬山城東の丸山に釜を移した。それで、犬山焼、別称丸山焼の名があるが、作風は”乾山”を模した呉須赤絵風なので”犬山乾山”とも呼ばれている。
突然こんな焼物の話を持ち出してどうしたのかと思うかもしれないが、このぐい呑は、私が現役時代、仕事で東北へ出張したおり、花巻温泉の骨董屋で入手したものであるが、何故、東北のこんなところに犬山焼があるのかを主人に聞くと、主人の説明では、仙台の伊達藩主、「伊達綱宗公が別注で作らせたもので、非常に珍しいものである」と言って、以下の説明をしてくれた。
仙台・伊達藩の「伊達騒動」を扱った山本周五郎の小説「樅ノ木は残った」は良く知られているが、この伊達騒動に登場する伊達綱宗は、先にも書いたような理由で「若くして、3代藩主となったが、叔父で一関館主・伊達兵部宗勝の干渉や家臣間の対立などで嫌気が差し酒肉(酒と肉。さけさかな。酒肴)に溺れていた為、徳川幕府によって、21歳の若さで隠居を命じられ、僅か2歳の亀千代(後の綱村)に家督を相続させた。そして、この綱宗は隠居後も酒に溺れていたようであり、このぐい呑は、この綱宗の別注により特別に焼かれた中国風赤絵写しの犬山焼で、綱宗専用の「御止め柄」である。酒の好きな綱宗は酒席にいた気に入った人達などに、このお気に入りの焼物をやったそうだ。」・・・と。これが本当だとするとすごい珍品である。と同時に、綱宗が相当な酒好き、お遊び好きであったようであることは推測できる。

伊達騒動を題材にした読本や芝居に見られる、吉原三浦屋の高尾太夫身請話やつるし斬り事件などの俗説がある(注3参照)。
上掲の浮世絵、画題は「見立三十六句選」より「三浦の高尾 左金吾頼兼」。画像は、※1:「演劇博物館浮世絵閲覧システム 」より借用(拡大画像や、詳細はここ で、作品番号:500-2216「見立三十六句選」「三浦の高尾 左金吾頼兼」を参照)。
「見立三十六句選」は、役者絵を得意とした人気絵師の三代歌川豊国(国貞)による人気演目と人気役者を取り合わせて描いたシリーズだという(※6参照)。
「三十六句選」というように、単なる歌舞伎の名場面だけでなく上段には句の外題、人物名、豊国の落款(落款印章は「一陽斎豊国」)、その隣には駒絵(挿絵参照)が描かれており、同様の人気絵が36枚あるようで、これはその一枚。
駒絵には、「君は今駒形あたり」の文字とその横にホトトギス(時鳥、不如帰)が描かれており、これで、「君は今 駒形あたり ほととぎす」という句になる。
隅田川にかかる駒形橋。この駒形(にごらずに”こまかた”と読む)の名は、駒形橋の西詰め(浅草寺の一部)にある「駒形堂」に由来する。
ここは古来、交通の要地で、駒形の渡しのあったところ。
私の大好きな池波正太郎の時代小説『鬼平犯科帳』。その第1巻第4話「浅草・御厩河岸(おうまやがし)」(※7:「江戸観光案内:」の御厩河岸参照)で、盗み金を小船に積み込んで逃げようとしたのが仙台掘.である。なんでも、江戸には二つの“仙台堀”が在り、一つは、深川の仙台堀川で、人工的に造られた川で、位置的には清澄庭園の南側を東西に流れており、名前は、かつて北岸に仙台藩蔵屋敷が在ったことに由来するそうだ。もう一つは、JR御茶ノ水駅周辺の神田川であり、ここに登場する仙台掘は、後者のJR御茶ノ水駅周辺を流れる神田川のこと。
神田川は、三代将軍徳川家光の時に、江戸城東北の防備の必要から、仙台藩主伊達政宗に命じて掘らせた空堀が前身で、四代将軍家綱の時に拡幅し、平川の流路をこちらへ付け替えてから、神田川と呼ぶようになったそうだ。この神田川(小石川堀普請)(※8参照)の大工事を命じられたのも仙台藩主伊達綱宗であった。そのため、神田川の別名も「仙台掘」なのだそうだ(※7:「江戸観光案内:」の仙台堀、また※9参照)。
このとき、若くして仙台藩主となった綱宗は普請場の視察の帰りに、遊郭へ足繁く通っていたといわれる。そのうち、高尾太夫もいつか綱宗公を深く愛するようになって、あるとき高尾太夫が綱宗公に書いたという手紙が残っているそうで。それが以下の名文だという。

「ゆうべは波の上の御帰らせ、いかが候。
御館の御首尾つつがなくおわしまし候や。
御見のまま忘れねばこそ、思い出さず候。かしこ。」
「忘れねばこそ、思い出さず候。」は、「私はあなたのことを思い出すことがない。それはいつもあなたのことを思っているために忘れることがないからです」・・といった意味で、なかなかの殺し文句である。教養の高かったといわれる太夫ならではの愛の表現だとされている。
また、明治中期に作られた「又の御見(ごげん)」という小唄は、かつて高尾太夫が、館へ帰られる仙台候を乗せた船が、今頃は駒形河岸あたりへ挿しかかっているであろうと、綱宗公との後朝の別れを惜しんで口ずさんだといわれている句「君はいま 駒形あたり ほととぎす」を取り込んで作ったもので「又の御見」は、“この次にお目にかかる日を楽しみに”の意だそうだ(※10参照)。
歌川広重の「駒形堂吾嬬橋」の画にも、五月雨の空に一羽のホトトギスが飛んでいるが(駒形参照)、この句の舞台もこのあたり。この句は、文芸・美術などの上で駒形堂とともに、この辺りの雰囲気を伝えている。
しかし、日本橋箱崎町にある高尾稲荷神社の説明では、どうしてもなびかない高尾太夫を綱宗が切り殺したという(※11)が、綱宗が高尾太夫を殺したという史実はなく、綱宗と高尾太夫との話は「大名を振った遊女」といった筋書きが面白かろうと、虚実織り交ぜての芝居話となっていったのだろう。
綱宗逼塞(ひっそく)の理由として、綱宗公が普請の視察帰りに遊郭へ足繁く通っていたらしいこと、更には酒癖が悪く、藩主に就任以降これがひどくなり重臣達の諫言にも耳を貸さなくなった等が挙げられているが、遊郭通いは当時の大名には珍しいことではなかったとする説もある。ただ幕命による普請の視察ついでに遊郭通いというのは、イメージとしては決して良いものではないが、そんな遊郭通いだけで藩主の座から下ろされるというのは、理由としては、少々弱い気がする。
ただ、綱宗に酒狂の悪癖はあったらしく、以下参考に記載の※3:「女たちの伊達騒動」には、"父である忠宗公に殉死した重臣古内主膳重広は、死の間際、綱宗公の酒好きが将来心配であると語ったとされている。更に、逼塞を命じられた直後の奥山大学常辰の書状に、公が屋敷を堅く閉じ、酒を留めたことが記載されている。”・・・と、いう。
また、参考※12:「伊達の黒箱/寛文事件(伊達騒動)の資料 - ひーさんの散歩道」には、”水戸黄門が「女中の召使方が荒いなど、綱宗の素行の悪さが噂されているが、幕府に知れてはもってのほかである」と、綱宗に自制を促すように伝えていた。”(綱宗を叱った書状が残っている)らしく、多くの学者も綱宗逼塞の最大の理由に酒癖の悪さもその一つとしてあったことは認めているようだ。
とはいえ、綱宗公が幕府から逼塞を命じられた本当の理由などその真実は明らかになっていないが、綱宗の隠居の背景には、綱宗と当時の後西天皇が従兄弟同士であったために、仙台藩と朝廷が結びつくことを恐れた幕府が、綱宗の酒癖の悪さをいいことに綱宗と仙台藩家臣、伊達一族を圧迫して強引に隠居させたとする説も見逃せないようだ(※3参照)。
元々血筋的にも藩内で孤立していた綱宗だったが、二代忠宗が亡くなった後に、綱宗を擁護しようとする勢力が藩内に居なかった。
唯一、忠宗の死後頼りになるのは、母振姫(徳川秀忠の姪)の存在だけであった。綱宗が家督を継ぎ仙台藩主に就任出来たのも振姫の御声がかりによってのもの。その、後ろ盾になっていた振姫は、忠宗が死去した翌・万冶2年2月5日江戸において53歳で浙去してしまったのが不運であった。
綱宗は母・振姫がなくなったその翌・万治3年(1660年)7月18日、不作法の儀により21歳の若さで幕府により強制的に隠居させられ、正徳元年(1711年)6月7日、71歳で亡くなるまでの50年間を品川大井の伊達家下屋敷で、作刀などの芸術に傾倒していったといわれている。

伊達騒動のもう一つの重要な事件、原田甲斐の大老酒井雅楽頭屋敷での刀傷事件の真実はどうだろうか。
伊達騒動は、言うまでもなく綱宗逼塞に端を発する政治的な権力争いである。
綱宗逼塞後、4代藩主には、わずか2歳の世子亀千代(後の綱村)が就いた。
初めは亀千代が幼少のため後見の座に着いた大叔父にあたる伊達兵部宗勝(陸奥仙台藩初代藩主・伊達政宗の十男。仙台藩支藩・一関藩の藩主)や最高の相談役である立花忠茂(筑後柳河藩第2代藩主。継室は徳川秀忠の養女で、伊達忠宗の娘・鍋子)が信任する奉行(仙台藩の役職に家老は存在しないため、他藩の家老相当職を奉行と呼称している)奥山常辰が、藩政の実権を握り、人事も政治も、伊達宗勝を無視して専横をきわめたが、同時に、伊達宗勝の藩主を無視した行為をも糾弾した。怒った伊達宗勝は寛文3年(1663年)7月、彼を奉行職から罷免した。
その後は、宗勝自身が実権を掌握し権勢を振るった。
宗勝は監察(監督・査察すること。取り締まり、調べること。また、その役。)権を持つ目付(藩士や奉行の仕事や動きを観察する役人)の権力を強化し、奉行や家臣への影響力を強めてゆく。監視された奉行らは、本来は格下である目付の顔色を窺うようになり、目付の勢いは奉行を超えるほどになる。また、兵部を恐れる奉行の原田宗輔は、兵部とのつながりを深めて側近に加わる。
その中で諫言した里見重勝跡式(あとしき)を認可せずに故意に無嗣断絶(跡継ぎがないため大名家を取り潰すこと)に追い込んだり、席次問題に端を発した伊東家一族処罰事件が起こる。こうして兵部は自身の集権化を行い伊達六十二万石の藩政の主導権を独占した。
尚、綱宗逼塞後、伊達宗勝と共に二代目忠宗の三男、当時の一関城主田村 右京亮(宗良)が綱村の後見となっていた。しかし、田村は、人柄は温和であり人望を集めていたようだが、同時に気弱な一面もあり、才気活発な宗勝による専横を許すことになったようだ。

一方、それを憎んだ伊達安芸守宗重(涌谷伊達氏第2代当主)が、幕府に上訴するのだが、そこへ行くには以下のような背景があったようだ。
藩主後見人とはいえあくまで代理人の立場である宗勝が、藩内の有力者たちの合議なども行なわず、自らの一派のみで藩政を取り仕切ることは、宗重をはじめとする藩内の有力者たちには容認し難く、藩内は両者の対立により混乱に陥った。こうした中で宗重は、家格・年齢的にも反宗勝派の筆頭格と目されるようになる。
突然の綱宗隠居から5年後の寛文5年(1665年)、かつて奥山を失脚に追い込んだ一門の登米領主・伊達宗倫(伊達一門第五席。伊達忠宗の五男。宗勝の甥)と宗重(涌谷伊達氏)との間に知行地境(領地)争いがおこる。
この争いは長引き、寛文9年(1669年)秋、宗勝ら藩首脳は宗重と宗倫の争点となっていた地域の3分の2を登米領として裁断を下し、事態の収拾を図ったが、宗重はこの裁定を不服として、翌年藩に再吟味を訴えるが宗勝たちはこれを拒否した。
一方寛文6年(1666年)には、藩主・亀千代の毒殺未遂事件が発生(毒見役が死亡)、更に寛文8年(1668年)、今度は伊東重門(岩沼古内氏初代古内重広の息子。養子となり、伊東家を継いでいた。)
と共に、宗勝暗殺の計画が発覚した首謀者・伊東重孝(七十郎)が寛文8年4月28日一族共々誓願寺(※13参照)河原にて処刑された。こうした一連の騒動の中で宗勝への家中の反感はますます高まっていった。
領地の件などで度重なる冷遇を受け、またかねてから宗勝一派と相容れなかった宗重は、事ここに至り、宗勝一派一掃のため、仙台藩の現状を幕府に訴える決意を固める。
宗重の考えを知った茂庭姓元(※14参照)や片倉景長(通称小十郎)らは、藩の内紛が幕府に知れれば仙台藩は改易の危機に瀕するとして宗重の上訴を諌止(かんし。いさめて思いとどまらせること)したが、伊達宗勝派の専横を正したいという宗重の意思は固く、結局寛文10年(1670年)12月、宗重の申し条を記した上訴文が幕府に提出された。
そして、寛文11年(1671月27日、両者は、老中酒井雅楽頭(忠清)久世大和守(重之)等の面前で対決する。事件の性質上、決着の山場は公の評議・評定の席にある。
原田甲斐は幕府の評定を受けるため、他5人の仙台藩家臣と騒動解決を目的として大老・酒井忠清邸に召喚されたが、審問後、同じく召喚されて来ていた伊達宗重をその場で斬殺し、さらに宗重派の柴田朝意と斬りあって双方ともに傷を負っていた。そこへ、聞役の蜂屋も柴田に加勢したが、混乱した酒井家家臣に3人とも斬られて、原田は即死、柴田もその日のうちに、蜂屋は翌日死亡したという。
関係者が死亡した事件の事後処理では、正式に藩主綱村は幼少のためお構い無しとされ、大老宅で刃傷沙汰を起こした原田家は元より、裁判の争点となった宗勝派及び、藩主の代行としての責任を持つ両後見人が処罰され、特に年長の後見人としての責務を問われた宗勝の一関藩は改易となった。

歌舞伎の世界を大観してみるに、ここで造形された原田甲斐の役柄は、ほぼ一貫して極悪非道の冷血漢だったと言ってよい。
御家騒動は藩にとっても名誉なことでは無いので、その関係資料は処分されることも多く、例え残っていても他見不許可の措置がとられるのが普通だろうから、実際の原田甲斐が極悪非道の冷血漢だったという証拠があるわけではない。
ただ、勧善懲悪を元とする当時の作劇術は、善玉を追いつめる「敵役」を必要としていたし、さらに、御政道批判を憚って他所事に仮託する事でかろうじて事実を語っていた当時の作劇術では、その劇の元になる事実の枠組を大きく変える事は許されなかった。
これが芝居になると脚色され、複雑かつ面白く筋書きが変わっていき、架空の人物も加えられ、あたかも実在の人物であるかのように印象づけられていく。
結果として、原田甲斐は、極悪非道の悪役に仕立て上げられることになる。

代表作の1つでもある『樅の木は残った』を書いた山本周五郎は、
「私は、自分が見たもの、現実に感じることの出来るもの以外は(殆ど)書かないし、英雄、豪傑、権力者の類いには、まったく関心がない。人間の人間らしさ、人間同士の共感といったものを、満足やよろこびのなかに、より強く私はかんじることができる。『古風』であるかどうかは知らないが、ここには読者の身近にすぐみいだせる人たちの、生きる苦しみや悲しみや、そうして、ささやかではあるが、深いよろこびがさぐりだされている筈である」と書いているそうだ(アサヒクロニクル「週間20世紀)。
だから、『樅の木は残った』では、極悪人として描かれることの多い原田甲斐も、そのようなヒロイックな存在ではなく、人間としての苦しみや悩みをもち、社会的な枠の中にあって、それに抗しながらギリギリの生き方を貫いた人物、悪名を負って藩を救った人物として描かれている。

Wikipediaによれば、伊達宗勝と原田甲斐(宗輔)との密接な関係は有名だが、「仙台市史・近世2・通史4」によると、原田を奉行に推挙したのは宗勝ではなく、藩主・伊達綱村のもう一人の後見人である田村宗良であり、この推挙に対して宗勝は「もし家柄だけで原田を奉行にするなら、心もとないから原田の詰番のときにはしっかりとした評定役をつける必要がある」と述べており、宗勝からは奉行としての能力を全く評価されていなかったとしている。ちなみに原田の正確な奉行就任の月日は定かではないが、少なくとも里見重勝一件での書状で寛文3年(1663年)7月23日までには奉行に就任している。
他方で寛文9年(1669年)の仙台藩奉行の古内 義如から田村宗良の家臣への手紙の中で宗輔は宗勝を大変恐れて、宗勝とその寵愛を受けた目附衆がおかしいことをいってもすぐ同意し、えこひいきや立身、威勢を望むところは奥山常辰と変わらないと指摘している。・・・そうだ。
時の大老、酒井雅楽頭忠清の屋敷においての裁きによって、大老宅で刃傷沙汰を起こした原田家だけでなく、、裁判の争点となった宗勝派及び、藩主の代行としての責任を持つ両後見人が処罰され、そのうえで、伊達家の御家は無事安泰となっている。
こう見てゆくと、悪の中心人物と云われた原田甲斐は酒井邸においてその悪政が暴かれた悔しさに伊達安芸に手向かっただけの、弱い人間だったような気がする。
今の時代でも、権力者に抵抗できず、その手先として使われ、びくびくしながら悪いことをしている人間は多いものな~。

参考:
※1:早稲田大学演劇博物館 浮世絵閲覧システム
http://www.enpaku.waseda.ac.jp/db/index.html
※2:歌舞伎辞典
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc_dic/dictionary/main.html
※3:女たちの伊達騒動
http://yubarimelon.blog.so-net.ne.jp/2011-08-21
※4:忠義 - 武士道 -- Key:雑学事典
http://www.7key.jp/data/bushido/chuugi.html
※5:歌舞伎素人講釈>作品研究>引き裂かれた状況
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/sakuhin80.htm
※6:平木浮世絵美術館:三代豊国 見立三十六句選 歌舞伎の名場面集
http://www.ukiyoe-tokyo.or.jp/2012exhibition/20130136kusen/20130136kusen.html
※7:江戸観光案内
http://edokanko.blog.ocn.ne.jp/blog/
※8:鬼平犯科帳 第4話「浅草・御厩河岸」 仙台掘・御茶の水
http://blog.goo.ne.jp/tabineko_j/e/6517e0cb4f451d8bc71af3b56ba5b7f7>
※9:江戸城のお濠めぐり
http://www.geocities.jp/peepooblue/ohori.html
※10:又の御見 小唄清元教室
http://kiyuumi.com/archives/2012/05/post_508.php
※11:高尾稲荷神社|中央区日本橋箱崎町の神社
http://www.tesshow.jp/chuo/shrine_hakozaki_takao.html
※12:伊達の黒箱/寛文事件(伊達騒動)の資料 - ひーさんの散歩道
http://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/e1a21fba66e6524b19b689ade271fbbc
※13:「伊東七十郎重孝」の碑
http://taihakumachikyo.org/taihk/taihk0200/index.html
※14:みぃはぁ版・平成伊達治家記録別館鬼庭家の人々
http://www008.upp.so-net.ne.jp/tomeas/moniwa.htm
仙台市博物館 - 仙台市史 | 仙台市
http://www.city.sendai.jp/kyouiku/museum/shop/kankou/kankou05.html
岩沼市/岩沼藩三万石ものがたり
http://www.city.iwanuma.miyagi.jp/kakuka/011000/iwanumahan2.html
歌舞伎の部屋:歌舞伎外題一覧
http://www.asahi-net.or.jp/~RP9H-TKHS/kab301.htm
Wikipedia - 伊達騒動
,/a>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E9%A8%92%E5%8B%95


春分の日・お彼岸・春季皇霊祭

2013-03-20 | 行事
今日は、春分の日。二十四節気の第4。二月中(旧暦2月内)。現在広まっている定気法では、太陽春分点を通過した瞬間、すなわち太陽黄経が0度となったときである。
ではそれが起こる日.であるが、天文学ではその瞬間とし、日のほうは春分日(しゅんぶんび)と呼ぶ。毎年、3月20日から3月21日ごろがそれにあたる。
太陽がほぼ真東から昇って真西に沈み、昼と夜の長さが同じになる日とされている。しかし、実際には昼の方が長いらしい(詳細は春分を参照)が、いずれにしても、これからは、日ごとに昼が長くなっていくことには変わりはない。これと同じような現象は秋にも発生し、これは、春分日に対して秋分日と呼び毎年9月23日ごろである。
この「春分の日」「秋分の日」を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間(1年で計14日間)がお彼岸であり、暦の上では雑節の中に入る。そして、最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」と呼んでいる。
また、「彼岸」とだけ言った場合、これは春の彼岸を指す。これに対し、秋の彼岸を「のちの彼岸」「秋彼岸」と呼び分けることもある。
そして、この彼岸の期間に法要や墓参りをしたり、お寺では彼岸会(ひがんえ)が催されるなど、仏教の影響が色濃く感じられる。
冒頭に掲載の画像は、お彼岸の光景で、『江戸名所図絵』より江戸の六阿弥陀めぐりの図である。画像は、NHKデーター情報部編『ヴイジュアル百科江戸事情』第一巻生活編より借用したもの。江戸の六阿弥陀のことについては、以下参考に記載の※1:古今宗教研究所 別館「古今御朱印研究室」の江戸の六阿弥陀のところを参照されるとよい。江戸時代には、在俗の信者はお彼岸に、念仏講に行く人もいた。

春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まり…といったように、現在では、彼岸の仏事を浄土思想に結びつけて説明される場合が多いのだが、本来の仏教行事とは解釈できない要素が含まれていて、もともとは我が国固有の信仰や民間行事が、基調をなしているものだとされている。

日本人が石器から鉄器の器具を使い出し、「稲作」を始めた頃,春には「豊作への祈り」、 秋には「収穫への感謝」を、太陽を始め、様々な「」への祈りを始めたのが、「春」と「秋」の祈りの始まりだろう。
今では1年のうちで「」と「正月」の祭りが中心であるが、この頃は「春」と「秋」の祭りが最も重要であった。
古くから使われている日本の慣用句に”暑さ寒さも彼岸まで”とはよく言われることだが、日本人にとって、春と秋の彼岸に「暑い夏」の終わりや「寒い冬」の終わりを実感してきた。
そんな日本に仏教が伝来し、彼岸は日本古来の信仰と合わさり、日本独自の行事として営まれるようになった。

仏教用語の彼岸は、元々梵語(ぼんご)波羅蜜多(はらみつた)を漢訳した「到彼岸(とうひがん)」。つまり、「彼岸」という場所に至ることと解釈されている。
煩悩に満ちた世界「此岸(しがん)」から解脱した悟りの世界、涅槃を指している。
しかし、悟りの境地に達するのには「六波羅蜜」の修業をしなければならない。
こんな難しい修業は、誰にでもできるわけはなく、出家をしたものでなければできない。
そのようなことから、在家のものには、せめて、「春分」、「秋分」を中日として前後7日間のうち、中日には、先祖に感謝し、残る6日は、悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目「六波羅蜜」を1日に1つずつ修める日としたのである。
1、布施。 2、持戒(戒律を守る。在家の場合は五戒もしくは八戒)、3.忍辱(耐え忍ぶこと。あるいは怒りを捨てること【慈悲】)、4 、精進(精進努力する)。 5、禅定(心を安定させる)、 6、智慧(般若。真実を見る智慧を養う)。
この彼岸の考え方が、さらに煩悩に満ちたこちらの世界を現世、涅槃の世界を死後の極楽浄土ととらえ、あちらの世界と考えたところから、亡くなった先祖たちの霊が住む世界を「彼岸」と考えるようになった。

この彼岸について説明しているものとして『観無量寿仏経疏』(『観経疏』)のなかに「二河白道(にがびゃくどう)」の譬えがある。
中国・唐の著名な浄土教家である善導(613~681)が著した『観無量寿経』の註釈書である『観経疏』巻第四で三心(さんしん。仏語。浄土に生まれるために必要な3種の心。観無量寿経に説く、至誠心[しじょうしん]・深心[じんしん]・廻向発願心[えこうほつがんしん])の中の、廻向譬喩が説かれている(参考※2「観経疏 散善義 七祖」の.2.3.12 二河白道譬喩に詳しく書かれている)。
わが国では法然、がその著書『選択本願念仏集』の中で、親鸞も『教行信証』などで引用・言及してから浄土教諸派でこれが絵画化されるようになった。

上掲の画像は、その一つ。神戸市東灘区にある、香雪美術館蔵の「二河白道図(にがびゃくどうず)」の部分であり、同画像は、蔵書の『週刊朝日百科日本の歴史13』(中世2-2河原と落書・鬼と妖怪)に掲載分を借用した。
盗賊と悪獣に迫られた旅人の前に現れた一筋の白道は極楽往生を願う清浄心の象徴。荒波立てる河は貪婪(どんらん。ひどく欲が深いこと。また 、そのさま。貪欲。)の煩悩、灼熱の火の河は憤怒の煩悩を表している。図は、その絵解きによって衆生を導こうとしたものである。
この画の全体図は参考※3:「二河白道図 - 絵画 一覧| 香雪美術館」のものを参照されるとよいが、絵が小さい。※4 :「NAMs出版プロジェクト: 二河白道図」では、全体図が拡大して見られるし、この画題としては最古と言われる京都・光明寺蔵のもの、また、 香雪美術館とよく似た構図の京都・清涼寺蔵のものとも比較して見られるので、ご覧になるとよい。
また、※5;「静岡県平野美術館所蔵二河白道図について 」では、その後発見されたものと比較して、図の詳しい解説がされているのでわかりやすいと思う。

いつの時代でも、どこの国でも、生を終えた後の世界を願う気持ちは同じであり、日本に限らず古来から、太陽祖霊信仰原始宗教の頃からつきものであり、そのような考え方に基づいた「日オガミ」「日ガミ」、そして、「日願(ひがん)」が、「彼岸」へと結びつい来たという説もある。
そして、太陽は真東から昇り、真西に沈むところから、涅槃の世界が、「西方浄土」とも呼ばれ、阿弥陀仏極楽浄土も「西」にあるとされるようになり、ここに、日本古来の民間行事であったものが、後から入ってきた仏教語の「到彼岸」と結びついものが彼岸であるようだ。このことは、以前にこのブログ「西の日」でも取り上げたことがある。
そして、先祖への感謝をこめて、墓参りをするようになったのだが、現在のような「お」が庶民に浸透するのは、江戸時代中期以降のことであり、お彼岸のお墓参りは以外と歴史の浅いものなのである。

この春分の日、秋分の日は、1948(昭和23)年に公布・施行された国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)によって制定された日本の国民の祝日の一つである。
この国民の祝日について 内閣府は、ホームページで以下のように述べている。
祝日のうち、「春分の日」及び「秋分の日」は、法律で具体的に月日が明記されずに、それぞれ「春分日」、「秋分日」と定められています。
「春分の日」及び「秋分の日」については、国立天文台が、毎年2月に翌年の「春分の日」、「秋分の日」を官報で公表しています。詳しくは、国立天文台ホームページ「よくある質問」(質問3-1)を御参照ください。・・・と(※6 参照)。
国立天文台が作成している「暦象年表」では、今年・2013年の春分の日 は、3月20日(水) 、秋分の日は、9月23日(月) となっている(※7参照)。
そして、「国民の祝日に関する法律」の第1条に、次のように記されている。
祝日法第1条では、「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける・・・と。
また、第2条では、春分日は「自然をたたえ、生物をいつくしむ」ことを、秋分日は 「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ。」ことを趣旨としている。
しかし、このような、天文学に基づいて年ごとに決定される国家の祝日は世界的にみても珍しいものだといえる。

では、なぜ、雑節の中でも、春分の日と秋分の日が祝日になっているのだろうか?
それは、戦前まであった皇霊祭(こうれいさい)からきている。
皇霊祭は、歴代の天皇・皇后・皇親の霊を祭る儀式で、宮中祭祀のひとつ(大祭)であった。
そして、毎年2回、春分日に春季皇霊祭(しゅんきこうれいさい)、秋分日に秋季皇霊祭(しゅうきこうれいさい)が斎行されていた。
休日としては、1878(明治11)年改正の年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム(明治11年6月5日太政官布告第23号)によるもので、1947年(昭和22年)に廃止されるまでこの名称だった。
今は無くなったが、戦前の休日には祝日祭日があった。皇室祭祀における「大祭」をベースにしていることから「祝日大祭日」略して「祝祭日」と呼ばれていた。
当初は、新年宴会(1月5日)、天長節(11月3日)、の祝日2日と、元始祭(1月3日)、紀元節(2月11日)、神武天皇祭(4月3日)、神嘗祭(9月17日)、新嘗祭(11月23日)、大正天皇祭先帝祭。12月25日)の祭日6日、計8日だったが、この時の改正により、春季皇霊祭(春分日)と秋季皇霊祭(秋分日)の2日の祭日が追加されて10日となった。尚、明治節(11月3日、明治天皇の誕生日。名君とされ近代日本の礎を築いたという功績を偲ぶもの)がこの改正時に追加され、祝・休日は11日となる。

「神社は国家の宗祀」との太政官布告1871)年が出され、天皇の「荒人神」としての神格化や神仏分離などに合わせて、途絶えていた祭祀の復興や新たな祭祀の創出が行われていた。
初期の段階では初代神武から、明治天皇の先代の孝明天皇まで全てをお祭りする計画もあったらしいが、121代にも及ぶ天皇をお祭りすることなどできないので、結局、神武天皇と先代の孝明天皇を残して、皇室の祭祀としては、神武天皇祭先帝祭を、大祭とし、先帝以前三代の例祭は小祭が行われている。
歴代天皇は数が多いので、あとは民間でも先祖供養の日としている、春分・秋分の時に春季皇霊祭・秋季皇霊祭とし、歴代天皇の御魂をまとめてお祀りし、この日を祭日および休日としたようだ。(詳しくは「祝祭日」参照)。
元々、この皇霊祭の日に最も近いの日は、社日(しゃにち)として、氏子氏神たる神社に参詣し、春は五穀豊穣を祈り、秋は実りある収穫に感謝する習わしがあったからであり、古代中国では祖廟(祖先の霊をまつる御霊屋〔みたまや〕)を祀る日でもあったそうだ。

日本では、『日本書紀』巻第三・神武天皇四年春二月壬戌朔甲申の条に、以下の通り記されており、神武天皇は、即位後、鳥見山で祭祀を行っている(日本書紀原文は参考の※8参照)。

「乃立靈畤於鳥見山中、其地號曰上小野榛原・下小野榛原。用祭皇祖天焉」
意訳:乃(すなは)ち霊畤(まつりのには)を鳥見山(とみのやま)の中に立てて、其地(そこ)を號(なづ)けて、上小野(かみつをの)の榛原(はりはら)・下小野(しもつをの)の榛原と曰(い)ふ。用(も)て皇祖天神(みおやのあまつかみ)を祭(まつ)りたまふ。(意訳は※9:「万葉散歩」の雑 記> 宇陀、鳥見山参照)。

また同じく、『日本書紀』巻第廿九、天渟中原瀛眞人天皇(天武天皇)下の ,天武天皇十年(682年)の条に以下の記述がみられる。
「五月己巳朔己卯、祭皇祖御魂。」
意訳:五月の己巳(つちのとのみ)の朔己卯(つちのとのう)の日に、皇祖(すめみおや。天皇の先祖にあたる歴代の天皇)の御魂(みたま)を祭った。・・・と。

このように、日本でも古くから天皇による祖先の霊をまつる祖先祭祀の伝統が前提にあったからこそ、やがて仏教的な彼岸会も行われるように至ったのであろう。
そして、彼岸の行事が806年には行われていたことが、平安時代初期に編纂された勅撰史書で、『続日本紀』に続く六国史の第三にあたる『日本後紀』に書かれている。
桓武天皇は、即位前の772(宝亀3)年には井上内親王(いのうえのひめみこ)他戸親王(おさべのみこ)の、在位中の785(延暦4)年には早良親王(さわらしんのう)の不自然な 薨去(こうきょ)」といった暗い事件が多々あった。
そんなことから、井上内親王や早良親王の怨霊を恐れて同19年7月23日(800年8月16日)に後者に「崇道天皇」と追尊し、前者は皇后位を復すと共にその墓を山陵と追称したりしている。
そして、「806(大同元)年、崇道天皇の奉為(おおんため。御為【おんため】の意)に諸国国分寺の僧として春秋二仲別七日(春秋二季の7日間)金剛般若経を読まわしむ」と『日本後紀』にある。
(注:早良親王は藤原種継暗殺事件に関与した罪で淡路島に流される途中、河内国高瀬橋付近の船上で憤死(ふんし・身の潔白を証明するための死)したといわれている。桓武天皇は、同母弟早良親王の怨霊に悩まされつづけることになり、このために、長岡京の後に遷都した平安京の造営に当たっては怨霊を鎮めることに大いに配慮することになる)。
このように、少なくとも平安時代には、すでに彼岸が年中行事になっていたことは確かなことであろう。
敗戦後、GHQからは、日本の諸制度の様々な変更と共に、皇室と国民を分断するために、皇室や神道とかかわりの深い祝・祭日の廃止が迫られた。
そして、「休日ニ関スル件」で制定されていた11の休日のうち、元始祭、新年宴会、紀元節、神武天皇祭、神嘗祭、大正天皇祭(先帝祭)の6日が廃止され、それ以外のものは、以下の様に変更された。
春季皇霊祭(春分日)→」春分の日。
秋季皇霊祭(秋分日)→」秋分の日。
天長節(4月29日)→天皇誕生日。
明治節(11月3日)→文化の日。
新嘗祭(11月23日)→勤労感謝の日。
このように、戦後の祝日法はGHQの指導もあり、皇室と神道とのかかわり(国家神道参照)のある休日は廃止され、春分と秋分に行われていた「皇霊祭」は休日からは外れたが、同じ日は春分の日・秋分の日に名前が変わって残っている。また、春季皇霊祭・秋季皇霊祭は宮中行事・宮中祭祀として今でも執り行行われている。
宮中祭祀について定めたものとしては、1908(明治41)年に皇室祭祀令皇室令の一つとして制定されていたが、戦後、皇室祭祀令など戦前の皇室令は全て廃されていた。
しかし、 日本国憲法やその下の法律に宮中祭祀についての明文の規定はなく、現在の宮中祭祀も皇室祭祀令に基づいて行われているようだ。
宮中祭祀は、皇居吹上御苑の東南にある宮中三殿賢所、皇霊殿、神殿)で行われる。
大祭は、天皇が自ら祭典を斎行し、御告文を奏上し、小祭は、掌典長(掌典職)らが祭典を行い、天皇が拝礼する形をとっているようだ。
年2回、春分の日と秋分の日には、歴代天皇、皇族の霊が祭られている三殿のなかの「皇霊殿」で、「皇霊祭」が行われ、天皇陛下がお告げ文を読み上げ、皇后陛下、皇太子殿下、皇太子妃殿下が拝礼する。また、この日には続いて「神殿」で行われる神恩感謝の祭典「神殿祭」も行われている。
このほか皇室では、数多くの祭儀が行われているがそれは以下参考に記載の※10:「宮内庁:主要祭儀一覧」を参照されるとよい。
古くから続いていた日本の祝・祭日の名前も今では変ってしまい元の意味を教えられないので、ただの会社が休める日…となってしまっているようだね。
私は、昨日お墓参りに行ってきたので、今日・彼岸の中日はお寺へお参りに行ってきます。

参考:
※1:古今宗教研究所 別館古今御朱印研究室≪SBI証券≫
http://goshuin.ko-kon.net/
※2:観経疏 散善義 (七祖) - WikiArc
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%A6%B3%E7%B5%8C%E7%96%8F%E3%80%80%E6%95%A3%E5%96%84%E7%BE%A9_(%E4%B8%83%E7%A5%96)
※3:二河白道図 - 絵画 ::| 香雪美術館
http://www.kosetsu-museum.or.jp/collection/kaiga/kaiga09/index.html
※4 :NAMs出版プロジェクト: 二河白道図
http://nam-students.blogspot.jp/2011/11/blog-post_13.html
※5;静岡県平野美術館所蔵二河白道図について - 広島大学 学術情報リポジトリ(Adobe PDF)
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/AN10217323/AnnuRev-HiroshimaSoc-SciArt_23_29.pdf#search='%E4%BA%8C%E6%B2%B3%E7%99%BD%E9%81%93%E5%9B%B3'
※6:国民の祝日について - 内閣府
http://www8.cao.go.jp/chosei/shukujitsu/gaiyou.html
※7:国立天文台 暦計算室 暦象年表
http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/cande/
※8:日本書紀(朝日新聞社本)巻一〜巻三十(日本文学電子図書館)甲南女子大学
http://www.seisaku.bz/shoki_index.html
※9:万葉散歩
http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/
※10:宮内庁:主要祭儀一覧
http://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi01.html
やまとうた:家持>伝記>人物事典
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/jinmei.html
京都社寺案内≪SBI証券≫
http://everkyoto.web.fc2.com/sitemap.html
文化庁 | 文化庁月報 | イベント案内 東京国立博物館
http://www.bunka.go.jp/publish/bunkachou_geppou/2011_10/event_04/event_04.html
大宝令・養老令(二官八省制)
http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/e_taihoyoro.html
馬込と大田区の歴史を保存する会
http://www.photo-make.jp/index.htm

さーたーあんだぎーの日

2013-03-14 | 記念日
日本記念日協会」(※1)の今日・3月14日の記念日に「さーたーあんだぎーの日」がある。
記念日の由来によると、「さーたーあんだぎー」とは砂糖、小麦粉などを使い、油で揚げた沖縄を代表するお菓子である。
「さーたーあんだぎーのうた」を2004(平成16)年3月14日に発表した沖縄出身のミュージシャン「シューベルトまつだ」が制定した日だそうで、「ホワイトデーには『さーたーあんだぎー』をお返しに贈ろう」と呼びかけ、全国に沖縄の家庭の味「さーたーあんだぎー」を普及させるのが目的・・・とあった。
私は、余り、今の時代の若いタレントや歌手のことはよく知らないので、シューベルトまつだがどんな人物か、また、何をしているのかも知らないし、「さーたーあんだぎーのうた」がどんな歌かは聞いたこともない。
そこで、ネットで検索してみるとシューベルトまつだのブログ(※2)があったので、覗いてみると、該当の歌があったので、聞いてみた。この歌は、YouTubeにも掲載されていたので以下にリンクを貼っておく。

さーたーあんだぎーのうた〜シューベルトまつだ(オリジナル曲)

このような歌に余り、興味もない私など、この歌が良いのか悪いのかは知らないが、正直、私にはまったく面白くもない、ただの沖縄の揚げ菓子のCMソング、また、記念日登録者自身の宣伝活動・・としか思えない。。
最近は、日本記念日協会へ登録の記念日にも、この手のものが非常に多くなってきたものだ。
沖縄の代表的な揚げ菓子の一つでもある「さーたーあんだぎー」そのものは、私も、沖縄へ旅行した時などに、土産として買ってきたこともあり、当然食べたこともあるので一応は知っている。
琉球(沖縄)方言で「サーター」は砂糖、「アンダーギー」は「アンダ(油)」+「アギー(揚げ)」で「揚げる」・・・、つまり、揚げ物を意味しており、その名の通り砂糖を多めに使用した球状の揚げドーナツといったもの。「砂糖天ぷら」「サーターアンダギー」、「サーターアンラギー」ともいう(方言は※3、※4参照)そうだ。
Wikipediaによれば、「サーターアンダギー」は、低温のでゆっくり揚げる際に、まず球状に表面が固くなり、そのあと内部の膨張に従って球状の表面が割れる。その形が花が開いたように見えることから、縁起のよい菓子とされ、祝い事の際などに饗応されるという。
また、サーターアンダギーは表面が割れ目を生じるその形状から、沖縄県では「女性」を象徴するお菓子とされており、結納では同じく「男性」を象徴するお菓子、「カタハランブー」(※3、※4)と一緒にどっさりと盛り付けられ、卓を囲むもので、それらを食するという習慣があるそうだ。
Wikipediaの説明だけではよくわからないので調べてみる、「カタハランブー」は、塩味の天ぷらで、天ぷらの衣に少しだけ塩味を付けて、鍋フチから滑らせるようにタネを入れて揚げるそうで、その語源は「片腹」(カタハラ)と「重い」(ンブー)の合体語らしく、もともとは、松風(マチカジ/“結びきり(水引の結び方参照)”の形をしたお菓子)との3点セットで、沖縄の結納料理として使われ、これを食べて、末永い幸せや子孫繁栄的を願うといった意味合いがあるのだそうだ(※5、※6参照)。

ところで、今日・3月14日は、ホワイトデーであるが、この「ホワイトデー」のことについては、以前にこのブログでも書いたことがある(ここ参照)ので、ここでは詳しく触れない。
「ホワイトデー」は一般的にバレンタインデーチョコレート等を貰った男性が、そのお返しとしてキャンディマシュマロホワイトチョコレート等のプレゼントを女性へ贈る日とされているが、この習慣は日本など一部の東アジア特有のものであり、欧米ではこういった習慣は見られないらしい。
「バレンタインデー」にチョコレートを贈る習慣などと同様に、日本で、バレンタインデーが定着するに従って、菓子業界がそれにお返しをする日として、昭和40年代に入って以降、個々に独自の日を定め、この日にビスケットやマシュマロ、キャンディ等を「お返しの贈り物」として宣伝販売するようになったといわれている。いわば、菓子などの物を売るための便乗商法であり、この「さーたーあんだぎーの日」も同様であろうし、先にも書いたように、記念日を登録した人自身の宣伝活動の一環でもあるのだろう。

ただ、関西人の私などには、沖縄では、バレンタインのお返しに、ホワイトデーには、男性が女性に対して、女性の象徴であるといわれる「サーターアンダギー」を贈ろうというのがよくわからない。
ひょっとして、沖縄では、バレンタインにはチョコレートではなく、男性の象徴であるとされている「カタハランブー」を女性からプレゼントされているのだろうか?
もしそうだとしたら、バレンタインには、女性から、チョコに添えてパンツ(また、トランクス)を贈られた男性が、そのお返しに、女性にパンティーを返すといった、ちょっとどぎついジョーク・・・以上に、きついブラックジョーク(英: black joke)のようにさえ思われるのだが・・・・。それは、南の島の沖縄の人と関西人との感性の違いなのだろうか。それとも、今の若い男女の性に対する意識変化についてゆけないだけなのだろうか・・・?

そういえば、2011年11月号の『日経WOMAN』の「働く女性700人のセックス白書」に、今時の女性の貞操観念についても驚くべきアンケート結果が出ていたことが、生活情報サイトAllAboutに採りあげられていた。
つまり、一昔前は、「セックスは恋人になってからするもの」という価値観が、多くの女性にとって、恋愛常識であったのだが、読者アンケート(平均年齢33.6歳)の結果では、今では、「セックスは恋人になってからするもの」という恋のルールが変わり始めており、交際を前提とする約束がなくても、女性がセックスをすることは珍しくなくなっているようであり、多くの女性にとって、その貞操観念や性意識は、かなりおおらかになってきているようだという。
この性意識の変化は、もちろん女性だけのではなく、交際を伴わずに、セックスそのものをより貪欲に楽しむ関係が男女双方に増えてきているのだと言える。・・・というのだが、詳しくは以下参考※7「あなたは、彼氏ではない男性とも、セックスしますか? [恋愛] All About」を参照されるとよい。
そうであれば、先に述べたような、ホワイトデーに、バレンタインのお返しとして、男性からパンティーならぬ女性の象徴「サーターアンダギー」を贈られても、それは単なるジョークというよりも、むしろ、積極的に男性が女性にセックスを求めている証として、女性からは喜んで受け入れられていることなのかもしれない・・・。要するに、今の時代の若者の意識変化についてゆけない古い年代の私たちの常識こそが今の時代ではおかしい・・・ということになっているのかも知れない・・・。
そんなことを考えていると、よくは覚えていないが、もう一昔も前に見た映画「氣違ひ」(1957年、松竹映画。)のことがひょっと、頭をよぎった。
この映画、きだみのるの『気違い周遊記』など、一連の“気違い”ものを原作に渋谷実が監督した社会喜劇である。
東京からわずか十三里半の所にある“気違い”がある。・・といっても気違い(注:ここ参照)が住んでいるわけではない。
小さな山村のそのまた一(集落)で、貧困のなかで欲望をむき出しにしているところが気違い沙汰に見えることから、そう呼ばれている。そのの掟は日本の法律よりも優先される…。
題名などに現代社会では差別用語とされる刺激的な言葉を使ってはいるが、きだみのるは、そのようなことに触れているわけではなく、当時の日本の農村のどこにでもごく普通に見られたそんな閉鎖的な“村社会” を取り上げて鋭く風刺したものである。
しかし、それは、はたして「気違い」と呼ばれるほどの驚きを持ったものなのか、はたまた逆にそれを笑う都会人の方が「気違い」の住人なのか。
この映画の冒頭で、解説者(森繁久彌)が登場し、「気違いは自分のことを気違いだとは思っていない…」とナレーションをしている。このような氣違いにいる人たちから見れば、自分たちとは違ったよそ者こそが逆に氣違いに見えているのだろう(※8、※9参照)。
それを今の時代に置き換えてみると、映画とは逆になるかもしれないが、今の日本の若者の性意識が急速な変化をしている社会で、一昔前の貞操観念を持った女性やそのような女性を良しとしてみている人などは、今の若者達からみれば、ちょっと時代遅れの変な人・・ということになるのだろう。
私には今、目の中に入れても痛くないほど可愛い孫娘が一人いる。その孫も今や性に目覚めているはずの中学生となっている。これからの大人への成長をどのように見守ってゆけばよいのだろうか・・・・と、戸惑っているところである。
これを飛躍させると、ひょっとしたら、孫が結婚をするような年代になったら、日本では、結婚制度そのものが崩れ、フリーセックス自由恋愛の中で出来ちゃった子供は、育てたいと思う方が育てれば良い・・・なんて考える人たちが増えているのではないかとさえ考えるのだが・・・。
そう思って、ネットで検索をすると、30歳以上の独身女性の本音を扱うコラム独女通信というものがあるようで、そこで、30代独女の結婚観を聞いてみようと思ったら、「いっその事、結婚制度なんて廃止しちゃえばいいと思う!」・・・と考えている人が意外に多いらしいことが書かれていた(※10参照)。
さもあらん、急速な若者の性意識の変化は当然これからの結婚観をも変えてゆくだろうし、そういう人たちが多数を占めてくると、それに反対する人が時代に合わない変な人になってしまうのだろう。私など、そのころには生きていないだろうが、それをありがたいことと思う。

さて、話は変わって「さーたーあんだぎー」と言えば、フジテレビ系のクイズバラエティ番組クイズ!ヘキサゴンII』から生まれた同名の音楽ユニットサーターアンダギー (ユニット) 参照)があったよね~。
「クイズ!ヘキサゴンII」では、元お笑いタレントの島田紳助音楽プロデューサーとなり、出演者同士でユニットを組み歌手デビューさせていた。
それらが2008(平成20)年には、NHK『第59回NHK紅白歌合戦』に出場するなどいわゆる「おバカブーム」を作り上げ、番組の全盛期を迎えた。平均視聴率も15%を上回るフジテレビを代表する高視聴率番組として躍進を見せていた(番組で結成されたユニットについては『ヘキサゴンファミリー』を参照)。
そんな人気番組から、沖縄県国頭郡恩納村出身の山田親太朗を中心とした森公平松岡卓弥の男性3人組のユニットで、2010年2月10日、シングル「ヤンバルクイナが飛んだ」(作詞は島田紳助【カシアス島田名義】、作曲は、J-POPユニット「ワカバ」のメンバー松井亮太 )でデビューした。
タイトルの「ヤンバルクイナ」、歌詞(※12参照)の中の方言、三線の演奏など、山田の出身地である沖縄のテイストを取り入れた楽曲であり、タイトルを聞かされた当初、山田は「ふざけた歌なのかな?ヤンバルクイナは飛ばないよ」と言っていた(※11参照)ようだが、同曲はレコチョクのデイリー着うたフルランキングで2日連続1位を記録。デビュー曲の発売日2月10日から、2月14日の都内での発売記念ミニライブまでに全国8会場でイベントを開催し、累計2万人を集め、山田を感激させたという。
また、この2月14日はバレンタインデーであることから、応援に駆け付けた里田まいはデビューしたばかりの3人に 森と松岡にはチョコレートを、沖縄出身の山田には、沖縄のお菓子ムーチーが渡されたという(※13参照)。
ムーチーは、沖縄県で一般に食される菓子の一種であり、餅粉をこね、白糖や黒糖で味付けを行い、月桃の葉で巻き、蒸して作る。旧暦の12月8日(グレゴリオ暦では概ね1月)には健康・長寿の祈願のため縁起物として食されるものだという。
島田紳助が、暴力団関係者との交際が発覚して、2011年に芸能界を引退をしたことに伴う『ヘキサゴンII』終了後も活動を継続していた唯一の同番組発ユニットであったが、2013年2月24日に解散した。
これは、昨2012(平成24)年2月のコンサートの中で「ライブ総動員数1万人」「イベント総動員数3万人」「配信ダウンロード総数5万ダウンロード」「CD総出荷枚数10万枚」と4つの目標を掲げ、「今年中にこれらを1つでも実現出来なかった場合は解散する」と宣言したが、結果は4つの目標のうち「CD総出荷枚数10万枚」が達成できず、解散が決定したのだそうである(※14参照)。
もともと歌手としての実力があったわけでもなく、島田の企画力によって、売れたものの、島田が引退した後の解散はやむを得ないものと考えるが、レビュー曲のタイトルを聞かされた山田が、「ふざけた歌なのかな?ヤンバルクイナは飛ばないよ」と言っていたものが、その予感通りに、島田引退後、サーターアンダギー (ユニット)も飛んで行けなかったということかな・・・。
私の癖で、今日も、随分と、あちこちへ飛んで行ったが、今日は私もこれからホワイトデーのお返しを配って回らないといけないのでこれで終ることにしよう。でも、お返しは、「さーたーあんだぎー」ではなく、ごくごく平凡なお菓子だよ・・・・。

(冒頭の画像は沖縄の揚げ菓子サーターアンダーギー。Wikipediaより。)
参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
※2:シューベルトまつだのブログ
http://schubert.ti-da.net/
※3:首里・那覇方言音声データーベース
http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/index.html
※4:沖縄大百科
http://word.uruma.jp/
※5:沖縄名物 サーターアンダギーは祝菓子
http://plaza.rakuten.co.jp/makiplanning/diary/20100221/
※6:十人十色の結納を一からサポート! - 与那原通
http://yonabaru-too.com/sponsor/6958.html
※7:あなたは、彼氏ではない男性とも、セックスしますか? [恋愛] All About
http://allabout.co.jp/gm/gc/386548/
※8:気違い - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD19963/index.html
※9:映画評「気違い」
http://www.ne.jp/asahi/gensou/kan/eigahyou52/kichigaiburaku.html
※10:【独女通信】ある30代独女の本音 ”結婚制度を廃止してしまえ!”
http://news.livedoor.com/article/detail/3194405/
※11:“ヘキサゴン発! 山田親太朗率いる新たなイケメン三銃士に直撃&密着”. ORICONSTYLE. (2010年2月17日)
http://www.oricon.co.jp/music/interview/100203_01.html
※12:サーターアンダギー ヤンバルクイナが飛んだ 歌詞
http://j-lyric.net/artist/a053357/l01e8d3.html
※13:“サーターアンダギーがデビューイベント! 山田親太朗らがボロ泣き”. webザテレビジョン. (2010年2月16日)
http://news.thetv.jp/article/12739/
※14:“サーターアンダギー公約守り“解散””. 朝日新聞デジタル. (2012年12月16日)
http://www.asahi.com/showbiz/nikkan/NIK201212160002.html
サーターアンダギーの歌詞一覧リスト
http://www.uta-net.com/artist/9425/
サーターアンダーギー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%BC

サクランボの実のなる桜の木

2013-03-11 | ひとりごと
は分類学上、バラ科サクラ亜科サクラ属に分類されるようだ。
サクラ属はさらにサクラ亜属、モモ亜属、ウメ亜属、スモモ亜属などがあって、広い意味では桜はバラの仲間だし、梅や桃(もも)、杏(あんず)なんかとも仲間である。
桜の名前の由来は、いくつかの説があるが、動詞の「咲(さ)く」に接尾語「ら(「ぼくら」など複数を表す「ら」)がついたという説や、「古事記」に出てくる『木花之開耶姫(コノハナノサクヤヒメ)』の「木花」が桜の花を意味していたことから「サクヤ」の音が「サクラ」になったという説が有名(※1)。
桜の漢字は、「木」へんに「ツ」に「女」って書くが、これは書きやすいように省略した形で、もともとは「櫻」と書いていた。2つの「貝」には、貝の首飾りの意味があり、「嬰(えい)」で女性が首飾りをしている様子を表している。「貝飾りのような実(サクランボ)をつける木」という意味で「櫻(桜)」という漢字になったと言われている。
桜を英語ではセイヨウミザクラのように実を食べるものをcherry、日本で改良された花をみるサクラをJapanese cherry、flowering cherry、Japanese flowering cherryと呼び,区別しているようだ。
サクランボは「さくらんぼう」とも呼ばれ、漢字で書くと「桜ん坊(さくらんぼう)」や「桜桃」と書き「おうとう」とも読む。
広い意味でのサクランボはサクラ類の果実を総称するが、ほとんどの桜になる実は小さかったり、酸っぱかったりで、余り美味しくはない。園芸上では栽培種の果実をサクランボと称しており、そのなかで日本の果樹として重要なものは、セイヨウミザクラ(甘果オウトウ)P.avium L.(英名sweet cherry)であり、サクランボの名称で市販されている果物は大部分が本種である。
セイヨウミザクラは数千年前から人類に食されていたようで、Wikipediaによれば、青銅器時代のイギリスなどのヨーロッパで、種が発掘されており、たとえば、イタリアのガルダ湖南岸付近にあるデゼンツァーノロナート付近で、青銅器時代の初期から中期の高床式住居跡から見つかっているという。
高さ15~20mになる落葉高木で、春にサクラに似た花を咲かせ、6~7月に果実が成熟する。
セイヨウミザクラは鑑賞用としても育てられているが、大きさがちょうどよいことから、公園や庭木として使われることも多い。
冒頭掲載の画像は、今朝撮ったご近所の庭木で、サクランボのなる木(セイヨウミザクラなのだろう)である。
通常花期は3月下旬頃だと思うのだが、寒い寒いと言っていたわりに今年は少し開花が早いように思われるのだが・・・。もうこの木はほとんど満開に近い。
参考:
花言葉は、小さな恋人。上品。・・だという(※2)が、本当にかわいい花である。
※1:さくらの語源 櫻と桜 桜の会
http://sakuramori.at.webry.info/200505/article_2.html
※2:GKZ植物事典・團伊玖麿植物事典・セイヨウミザクラ(西洋実桜)
http://www.t-webcity.com/~plantdan/mokuhon/syousai/sagyou/se/seiyoumizakuara.html
このはなさくや図鑑「セイヨウミザクラ 」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~cerasus/cera-sa/c-seiyo.html
セイヨウミザクラ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%83%A8%E3%82%A6%E3%83%9F%E3%82%B6%E3%82%AF%E3%83%A9

メンチカツの日

2013-03-07 | 記念日
日本記念日協会(※1)に登録されている今日・3月7日の記念日に「メンチカツの日」がある。
記念日は、コロッケメンチカツ
をはじめとして、各種の冷凍食品の製造販売を手がけ、全国の量販店、コンビニ、外食産業などに流通させている香川県三豊市の株式会社「味のちぬや」(※2)が制定した日。
日付は関西ではメンチカツのことをミンチカツと呼ぶところも多く、3と7で「ミンチ」と読む語呂合わせから。また、受験シーズンにメンチカツを食べて受験に勝ってほしいとの願いも込められているそうだ。

冷凍食品は水分や油脂が凍結・凝固する程の低温にすることで微生物の活動を抑え、長期間にわたって保存できるのが特徴である。
冷凍食品とはどんなものか?については、食品衛生法」や、「農林物資の規格化及び品質表示の適正化に関する法律(JAS法)」など各食品等関連法令において定められており、「食品衛生法」では、保存基準として、包装して零下15℃以下、JAS法では、−18℃以下で保存を規定している。
また、冷凍食品を製造する日本の企業・団体をおもな会員とする農林水産省所管の社団法人である日本冷凍食品協会(※3)の自主的取扱基準における冷凍食品の定義は「前処理を施し、品温が零下18℃以下になるように急速凍結し、包装することにより、生産から流通・消費の段階まで一貫してそのまま(−18℃以下)の低温を保って取り扱われる食品」としている(詳しくは※3の冷凍食品認定制度のための品質管理の手引き参照)。
冷凍食品にして食品を保存することを一般にフリージング(freezing)とよんでいる。
急速凍結(最大-30℃以下が望ましい)することで食品の鮮度が長期間(マイナス18℃以下であれば製造後1年程度)保つように配慮されているのが冷凍食品メーカー(※3:「日本冷凍食品協会」の会員名簿参照)などが製造している冷凍食品である。
しかし、家庭用の冷蔵庫での緩慢凍結で作られたものでは解凍時に鮮度が落ち、-18℃以下に保ち続けることが難しいため、保存も2〜3ヶ月を目処にすることが望ましいとされている。

この冷凍食品、1900年代頃にアメリカにおいて、あまり日持ちのしないジャム加工用のイチゴを輸送に適するために冷凍にしたのが興りだと言われているそうだ。
しかし、当初は、冷凍技術の問題や適切な解凍方法がないことから普及はしなかったが、その後の急速冷凍技術の開発等もあり本格的に冷凍食品が広く普及したのは1960年代(日本では1965年)以降のことである。
日本では1964(昭和39)年の東京オリンピックを機に、冷凍食品に適した解凍、調理法が研究され、外食産業分野で利用が始まった。
1970年代には、冷凍冷蔵庫や電子レンジの普及、セントラルキッチン方式のファミリーレストランチェーンの拡大により、業務用とも大きな伸びを示すようになった。
また1980年代以降には電子レンジの低価格化に伴う家庭への普及があり、同時に家庭用の冷凍食品も広く受け入れられるようになった。 
そして、技術の向上によって冷凍食品の種類も多様化し、今日では、喫茶店等で出されるモーニングセットなどでも利用され、これらの業社向けのものが業務用冷凍食品として流通している。
ここ数年、冷凍食品の世界は随分と進化しているようだが、現在、とくに注目されているのは、「自然解凍」というキーワードである。朝、凍ったまま弁当に入れると、お昼頃には解凍され、おいしく食べられるという商品であり、特に子供が学校に弁当を持って行くという家庭に人気になっている。
その上、ひと昔前の冷凍食品のイメージと違って、最近では、製造技術が進化し、また、有名ホテルを含む名店や名調理人の名前を冠し、味をそのままに冷凍した高級志向の冷凍食品も登場しているなど、「冷凍だからおいしい」という時代にもなりつつあり、自然解凍の食材は、子供の世界だけでなく、サラリーマンの弁当にも好評のようだと聞く。また、電子レンジを使わないので、節電という意味でも注目を集めているようだ。
調理済みないしは、下ごしらえ済みであるため調理の省力化に役立つことから、飲食店から一般家庭まで広く普及している冷凍食品。
この冷凍食品業界は、ニチロ食品、味の素冷凍食品、極洋、日東ベスト、キユーピー、ヤヨイ食品、日本水産など大手水産や業務用専業メーカーがシェアー争いの上位を競っている(※4:の冷凍食品の販売集中度参照)。
こうしたシェア争いの裏側では、過当競争による収益力の低下が深刻な問題になっている。特に,家庭用は量販店の目玉商品として4~5割引が常態化しており、こうしたなか、大手メーカーを中心に分社化や内外企業との提携、中国をはじめとする海外生産拠点の確立など、グループ戦略の強化と業界再編の動きが活発化したており、最近では、加ト吉が、2008(平成20)年にJTの子会社となっている。
これらメーカーによる、国内生産量上位20品目を※3:日本冷凍食品協会の統計資料で見てみると、2011(平成23)年も、第1位はコロッケ、第2位はうどんであり、3位ハンバーグ、そして、カツが6位 となっているが、今日のテーマーであるメンチカツは20位までに入ってはいない(ここ参照)。
また、今日の記念日を登録した味のちぬやが、冷凍食品業界のどのくらいのシェアーを確保しているのかは知らないが、全国の量販店、惣菜、コンビニ、製パン、給食、外食など幅広いルートで冷凍食品を販売しているという味のちぬやのHPを見ると、同社は、これら冷凍食品の中でも、コロッケとメンチカツの販売に特化して、冷凍コロッケ、メンチカツのシェアー日本一を目指して日々営業活動をしているらしい。

日本における洋食は、幕末から明治期にかけて、西洋人のために開店した西洋料理店の料理がルーツである。
日本では獣肉食を忌避する習慣があったため、牛肉や豚肉を主体とする西洋料理は抵抗が大きかったが、明治政府が国民の体格向上のため肉食を奨励し、また明治天皇が自ら率先する形で、賄い方に命じ牛肉を膳に上せられたという新聞報道などもあり(※5参照)、庶民のあいだでも徐々に牛鍋などの形で肉食が広まっていった。
しかし、明治時代の日本において、西洋料理の食材を完全に揃えることは困難で、しばしば代用品が使われた。また日本人向けにアレンジが加えられたり、新たな創案が加わった。
そうして生まれた洋食に、カレーライスや、カキフライエビフライオムライスなどと共にコロッケが挙げられる。
そのほか、人気のあったものにカツ( カツレツとも呼ぶ)があった。
1897(明治30)年、和洋折衷料理という言葉が流行。Wikipediaによれば、東京には洋食店が1500店を数えたという。このうち、東京銀座の「煉瓦亭」は、ソテー料理であったカツレツを大量の油で揚げる調理法によって改良を行い、その後に大流行する「とんかつ(豚カツ)」など日本の洋食に大きな影響を与えた。

ワイフ貰つて、嬉しかつたが
何時も出てくるおかずはコロツケ
今日もコロツケ 明日もコロツケ
これじや年がら年中 コロツケ
アハハハ、アハハハ こりや可笑し

1917(大正6)年5月、浅草オペラで歌われた『コロッケの唄』が大流行した。
鈴木ヤスシと、南地みつ春による懐メロ版のコロッケの唄が以下のYouTubeで聞ける。面白い歌だよ。

コロッケの唄 - YouTube

憧れの西洋料理は今日も明日も食卓に上り、ついに家庭の味となった。
1903 (明治36) 年1月から1年間、報知新聞に連載され、大人気を博したことで単行本としても刊行されると、空前の大ベストセラーにもなった村井弦斎作品で、食道楽をテーマにした物語『食道樂』秋の巻にコロッケのレシピが掲載されている(※6:「『食道樂』 - 国立国会図書館」秋の巻154ページ参照)。
明治の洋食として日本に伝わった「コロッケ」のルーツはオランダにさかのぼるという。
蔵書の『朝日クロニクル週刊20世紀』(1917年号)によれば、「コロッケ」のもともとの語源はドライクッキーを意味するフランス語の「croquette(クロケット)」であり、お菓子としてオランダに渡来した後、クリームソースに牛挽肉を混ぜた立派な料理に育った。
作詩・作曲者は益田太郎冠者(本名太郎)。慶応義塾に学び、ベルギーに留学した三井家の御曹司にして、帝国劇場の文芸担当重役であり、劇作家というスマートボーイであったという。
増田家は、女中を3人も抱え、ホワイトソースをふんだんに使った高級料理「クロケット」を食していたのは想像に難くないが、歌われる「コロッケの唄」は似て非なる庶民の味。イモコロッケだ。すなわち、ジャガイモを茹でてつぶし、塩、コショーを加え、豚挽肉とタマネギを混ぜて揚げた、ご婦人のでんぷん質欲を満足させる一品であった。
日本人が改良したこの「コロッケ」は、同年の「実用割烹教科書」に掲載され、女学校でも経済的お惣菜として盛んに教えられていた。増田氏はこうした庶民の新婚家庭を見事に風刺した。
ジャガイモ(じゃがたらいも)は、オランダ領東インド会社の拠点ジャガタラから、オランダ船で伝えられたとされる。父祖の国の名物料理との思いがけない国・日本での出会いであったと言える。・・・と。
しかし、Wikipediaには、この年の洋食の値段は豚カツ13銭、ビーフステーキ15銭に対し、コロッケ25銭と、明治から大正にかけてのコロッケは高価な料理だったが、昭和に入り徐々に安価なものとなってきた(注記『おいしいコロッケ大百科』 アイフォレスト出版)。・・・と書かれている。
Wikipediaに書かれているような高価なものは今でいうコロッケではなく高級料理「クロケット」のことかもしれない。「コロッケの唄」が流行りだしたころには、今でいうところのコロッケに変身し、ちょっとハイカラな女性が好む家庭料理として定着していたのだろう。
その後安くなり、昭和初期の東京では、コロッケは肉屋でつくって売るものが惣菜として一般的であった。 まだ、肉屋で、薄切りのペチャカツでも、カツを買えるのは少なく、普通はコロッケであった。
戦後の私がまだ小学生の頃でも、コロッケは、肉屋で買うものであった。まだ、今のようにおやつなどもいろいろなものがない時代、市場の肉屋で揚げたてのコロッケを買ってもらって、その場でソースをつけてもらいおやつ代わりに食べるのがうれしくて、母親が買い物に出るといつもその尻について行ったのを思い出す。
本当においしかったな~。私たちが子供であった戦後のこのころにも『コロッケの唄』はよく歌われていたよ。
厚生省が実施している1986(昭和61)年の国民栄養調査によると、家庭でよく利用する夕食の惣菜の第1位は、コロッケであり、また、デパート、スーパーマーケットなどの惣菜屋で売っている惣菜のベストワンがコロッケ、以下、てんぷら、ギョウザ、焼鳥、フライであり、ファーストフードのコロッケは、10代の若者などにハンバーガー同様の人気があるようだ(※7:「国民健康・栄養調査|厚生労働省」の1986(昭和61)年国民栄養の現状参照)。

ホワイトソースに白身の魚や貝、エビなど高級な食材を加え、冷やして固め衣をつけて揚げた高級な西洋料理が日本に入ると、ジャガイモと申しわけ程度のミンチ肉の入った和様折衷の惣菜「コロッケ」に化け、日本人の味覚をガッチリと掴み、今日では、冷凍食品の生産量としてもトップを誇る存在になっている。
調理が手軽で安価である事から人気のコロッケは、日本各地で町おこしの為のご当地グルメとしても販売され、ジャガイモを主体とした「 ポテトコロッケ」は、混ぜる具材によって、肉(挽肉)を多く使用した「ミートコロッケ」ほか、「ツナコロッケ」、「野菜コロッケ」 、「カレーコロッケ」 「肉じゃがコロッケ」 「 ポテトサラダコロッケ」 「カボチャコロッケ」 「サツマイモコロッケ」、カニやエビを使った「クリームコロッケ」などさまざまな種類が存在する。

「ミンチカツ」と呼ばれるものは、豚肉や牛肉の挽肉にタマネギのみじん切り・食塩・コショウなどを混ぜて練り合わせ、小判型に成形し、小麦粉・溶き卵・パン粉からなる衣をつけて油で揚げたものをであるが、中華鍋などに入れた多量の油で揚げるか、またはフライパンで焼き上げる方法もある。
関東では「メンチカツ」と呼ぶ人が多いが、近畿地方、四国の一部などではこれを「ミンチツ」と呼ぶ。「メンチ」も「ミンチ」も“細かく刻む”という意味の英語「mince(ミンス)=挽き肉」が由来のようだが、新しくいことばが伝わる当初は、ことばの形が一定しないことがよくあるので、「メンチ」「ミンチ」両方の呼び方が生まれたのだろう(語誌参照)。
NHKの「お元気ですか日本列島」の”ことばの宝船”によると、メンチカツは、東京・銀座の洋食店が発祥らしい。そして、それは、先にも挙げたひき肉をパン粉で包んで油で揚げた「ポークカツレツ」を生み出した店で、同じようにまとめたひき肉を揚げて「メンチカツ」として売り出した。
一方、関西で初めてメンチカツを出したのは、神戸湊川の肉屋、「三ツ輪屋総本店」(神戸市兵庫区東山町4-23-6)であり、「三ツ輪屋総本店」2代目水野三次氏が、関東での修業時代にメンチカツのレシピを修得し、神戸に持ち帰って、「ミンチカツ」として売り出した。・・・とある(※8NHK「ことばの宝船」”メンチカツ?ミンチカツ?”参照)。
湊川の「三ツ輪屋総本店」は明治34年創業で、元祖ミンチカツ発祥地として知られてはいるが、私が神戸で他に知っている有名なところとしては、元町から大丸のある筋に下ったところにある神戸牛の老舗 「本神戸肉 森谷商店」(神戸市中央区元町通1丁目7−2。※9参照)がある。
同社HPによれば、創業は1873(明治6)年11月で、肉食の文化が日本に広まる前の頃、神戸港の開港とともに、外国人のご用達のホテルやレストランへ牛肉を納めていたという老舗である。現在は元町に店を構えているが、当初は神戸の中国人街「南京町」に店があったそうだ。
皇室への御料理肉の献上という栄誉もいただいているという。そして、但馬牛の仔牛を生産牧場で買ってきて、地元の肥育牧場でこの仔牛の生産から肥育まで一貫体制で育てたものを販売しているという。
そんな老舗が、厳選した国産ジャガイモと玉葱、じっくり煮込んだ筋肉を使ったコロッケは芳香な肉の香りが漂い、衣は薄くサクサクとしていて肉の甘みがあり美味しいと評判がよく行列もできる店である。また、ミンチカツの肉はミンチではなく、肉片を使っていて、衣を割ってみると肉汁がジューシーで、噛むと肉汁がじゅわっと出てきて美味しいとまた評判が良い。
神戸へ来られたら、場所も便利なところにあるのでぜひ一度立ち寄られるとよい。コロッケとミンチカツは冷凍にしたものも売られている。

上掲の画像は神戸元町・(株)本神戸肉森谷商店の冷凍ミンチカツ。画像は同社HPより。
森谷のコロッケは衣の薄いのが特徴だが、反面破けやすいのが難点。しかし、冷凍のまま説明書きにあるポイントをしっかり押さえて揚げると、自宅で揚げても、店で揚げたのと同じようにおいしく食べられる。

ところで、ミンチもメンチも mince(ミンス:挽肉)の事で、カツはカツレツ(cutlet:薄切り肉等に衣を付けて油で揚げた料理)の事。ミンチカツ(メンチカツ)は和製語であるが、ミンチ(挽肉)とカツ(薄切り肉)を組んでミンチカツとは面白い言葉だ。
挽肉を多く使用した「ミートコロッケ」をミンチコロッケと読んだりもする。みなさんおイメージでは、ミンチカツはカツレツですかコロッケですか・・・・?

(冒頭の画像はメンチカツ。Wikipediaより。)

参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
※2:味のちぬや
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%84
※3:日本冷凍食品協会
http://www.reishokukyo.or.jp/
※4:類食品産業の生産・販売シェア もっと詳しく - 日刊経済通信社
http://www.nikkankeizai.co.jp/share.html
※5:浅羽昌次「明治時代における食肉事情」
http://okayama.lin.gr.jp/tikusandayori/0204/tks08.htm
※6:『食道樂』 - 国立国会図書館
http://iss.ndl.go.jp/api/openurl?ndl_jpno=41008841
※7:国民健康・栄養調査|厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kenkou_eiyou_chousa.html
※8:NHK「お元気ですか日本列島」ことばの宝船”メンチカツ?ミンチカツ?”(2010年5月11日放送)
http://www.nhk.or.jp/kininaru-blog/55108.html
※9:本神戸肉 森谷商店
http://www.moriya-kobe.co.jp/
洋食をもっと楽しむ
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/n412493/kit/ktindex.html
ジャガイモ博物館:ポテトエッセイ第35話
http://www.geocities.jp/a5ama/e035.html
冷凍コロッケの市場規模、メーカーシェア 2011年 | Mpac-マーケティング
http://www2.fgn.jp/mpac/_data/1/?d=002001
冷凍食品
http://www3.ocn.ne.jp/~eiyou-km/newpage121.htm