今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

鉄人28号の巨大モニュメントが完成した日

2012-09-29 | 歴史
1995(平成7)年1月17日(火)に発生した阪神・淡路大震災は、当時の地震災害(Mj7.3)としては戦後最大規模の被害を出した(建物被害は地震波の強弱によるものか?。※1、※2参照)。
この震災は近畿圏の広域(兵庫県を中心に、大阪府、京都府も)に大きな被害を与えたが、特に震源に近い神戸市市街地(東灘区・灘区・中央区(三宮・元町・ポートアイランドなど)・兵庫区・長田区・須磨区)の被害状況は甚大で、日本国内のみならず世界中に衝撃を与えた。
この震災で壊滅的な被害を受けた神戸市長田区JR新長田駅周辺地域の震災後の復興と商店街活性化のシンボルとして、同駅南口を出てから徒歩5分ほどのところにある若松公園に設置されたのが、地元商店街などで作るNPO法人KOBE鉄人PROJECT」による鉄人28号の高さ15.6m(全長18m)の巨大(実物大)モニュメント像である。
当初は、JP新長田気前に高さ5~6mの像を建てる方針だったが、「強烈な印象で多くの人を引き付けたい」として、震災時には被災者の避難所ともなっていたこともあるより広い近くの若松公園に5~6階建てのビルに相当するものにすることとした。
外装は耐候性鋼板製、重量は約50t。総工費は1億3,500万円。ただ資金集めが難航し、神戸市からの補助金4,500万円や神戸市灘区に本社のある食品会社(エム・シーシー食品)が発売した「鉄人カレー」の売上金の一部を充てても足りなかったが、当初の完成予定次期2008(平成20)年の末に公園近くに自動販売機37台を設置することで大手飲料メーカーが支援を決定。費用の8割程度が集まる見通しとなり、残りは個人や企業からの寄付や協賛金によって集められた。
そして、翌・2009(平成21)年7月27日に起工式が行われ、同年、9月29日に完成し(完成セレモニーは10月4日)公園内に恒久設置されたもの。なおこれに合わせ、周辺の街路灯も鉄人の頭部を模したデザインのものに変更して使用している。
いよいよ鉄人28号のモニュメント建設が決まったとき、同プロジェクトの岡田誠司氏が「鉄人は今のロボットアニメの原点。復興の記念碑として沢山の人に見てもらいたい。長田を全国的に有名な町にしたい」と話していた(朝日新聞2009年2月14日朝刊)。
又、完成式典が行なわれた時、同式典で井戸敏三兵庫県知事は「震災15年を迎えるのにふさわしい長田の新たな守り神ができた。街に元気を与え続けることを期待する」と述べていたが、私も心からそれを願っていた。
JR新長田駅の南に広がる大正筋商店街を中心とする周辺一体は震災復興再開発地区(震災復興再開発事業参照)となり、住商一体型のビルが建設され、現在では、商店街も、復興し、人出も震災前にも増したようではあるが、余りにもこの地域としては商業規模が大きく、競合が激しすぎて、商店の営業面では非常に厳しく大変な状況となっているようである。
地元神戸に住み、子どもの頃から、この地域のことをよく知っている私などから見れば、正直言って、神戸市の都市再開発事業の大失敗だと思っているのだが・・・。
ロボットアニメとは、ロボットを主人公格に据えた、あるいは中心的な題材としたアニメのことである。
1950年代(昭和30年代前半)日本では『少年』、『冒険王』 、『ぼくら』、『少年ブック』、『少年クラブ』、『少年画報』 などの月刊誌が、百花繚乱の時代で、毎月競ってマンガを載せ膨大な別冊付録やオマケを付けて販売されていた。
ちなみに『「鉄腕アトム」』や『鉄人28号』なども、これら月刊誌から誕生した人気キャラクターである。
1963(昭和38)年1月1日、テレビ・アニメシリーズ、「鉄腕アトム」第1話がブラウン管(フジテレビ系列)に登場した。
この鉄腕アトムは、手塚治虫(当時34歳)が自ら製作・演出した日本で最初の本格的な1話30分の連続TVアニメであった。
21世紀の未来を舞台に、原子力(後に核融合)をエネルギー源として動き、人と同等の感情を持った少年ロボット、アトムが活躍する物語であり、米題は『ASTRO BOY(アストロ・ボーイ)』。
1951(昭和26)年4月から、翌年3月に連載された『アトム大使』の登場人物の一人(脇役)として出ていたロボット少年アトムを主人公にして、1952年(昭和27年)4月から1968年(昭和43年)にかけて、『少年』(光文社)に連載されるなど、すでに10年余りにわたって雑誌や漫画本で親しまれていたアトム
そのアトムが、今度はTV画面を所狭しと飛び回る動画として登場したものであったが、そのストーリー性豊かな手塚マンガのアニメ化は、それまでギャグ中心の外国製テレビアニメしか知らなかった子ども達に熱狂的に迎えられ、子ども達はテレビの前に釘付けになった。この第1話の視聴率は27,4%で、以後さらに伸びて、時には40%を超えたという。
この成功の影には、当初の『アトム大使』では、ロボット少年アトムは脇役であり、作品自体の人気も今ひとつであったことから、『少年』編集長の金井武志から「弱さや人間らしい感情のあるロボットを主人公にすれば読者に受け入れられるのでは・・」との手塚への提案があり、アトムを主人公として設定を少し変更したものであったことが挙げられるようだ。
又、漫画鉄腕アトムを、テレビアニメ化する前に、実写版テレビドラマ「腕アトム」として、1959(昭和34))3月7日から1960(昭和35)年5月28日まで毎日放送制作、フジテレビ系列で放送されていた。
しかし、1年間に及ぶ人気作となったものの、手塚治虫は「原作のイメージと余りにもかけ離れている」として、自作漫画の実写化に不満を抱くこととなり、これが『鉄腕アトム (アニメ第1作)』制作の原動力となったものという(Wikipedia)。
以下で、貴重な実写版鉄腕アトムのオープニングアニメ付き画像を見ることが出来る。

鉄腕アトムOP.mpg - YouTube

日本では、終戦後、 GHQ によりテレビ研究の禁止令が出されていたが、1946(昭和21)年から再開され、1953(昭和28)年1月にシャープから国産第1号の白黒テレビが発売される(サイズは14インチ、価格は175,000円)。
同年2月にNHKが本放送を開始。発売当初は高価だったことから購入者は富裕層などに限られていたが、高度経済成長の波に乗って、1959(昭和34)年の当時の皇太子明仁親王今上天皇)ご成婚パレードを機に普及が進んだ。
1950年代後半には、白黒テレビは電気洗濯機や電気冷蔵庫などとともに「三種の神器」の一つに数えられるようにさえなっていた。
そして、1960(昭和35)年7月には、東芝から国産初のカラーテレビが発売され、1964(昭和39)年の東京オリンピックを契機に各メーカーが宣伝に力を入れはじめ、1960年代後半にはカラー放送が大幅に増えたことによって普及が進み、カラーテレビはクーラーや自動車などとともに「新・三種の神器」(3C)の一つに数えられるようにもなった。
先に書いた、実写版鉄腕アトムの放映は、まだテレビが一般家庭に完全に普及する前の番組だったにもかかわらずよくこんな貴重な映像が撮れたものと感心する。
子ども達にとって、大好きな漫画でも、テレビで視覚的に訴えるアニメは漫画本で見たものより格別に魅力的であったことは間違いない。
テレビアニメが放送・映画業界の注目する新しいメディアとして認知されるようになると、その勢いに刺激されるように、後続のテレビアニメ作品が続々と誕生した。
テレビCM 制作会社のTCJ(現エイケン)は、アニメーションを使ったテレビCMの制作を得意としていたが、テレビCMはアニメから実写での制作が主体となり、アニメの制作スタッフ活用のために、1963(昭和38)年の春、社内に映画部を設立してテレビアニメに進出。
そして、虫プロ制作の「鉄腕アトム」のヒットにあやかって、同年9月には「仙人」を、10月からは、「鉄人28号」(共にフジテレビ系)、11月には「エイトマン」(TBS系)などを送り出している。
TCJの連続アニメ番組の第一作となる「仙人」は、昔の中国の桃源郷に住む老子の元に就く若い弟子の一人が、3人の乙女仙人や年増仙人と色恋沙汰を繰り広げ、やがて老子をも巻き込んで大騒動に発展してしまう…といったもの。
アサヒ芸能』(徳間書店)にて1956(昭和31)年より、現在にも続く長期連載されている小島 功の代表作『仙人』を、日本初の大人向けのテレビアニメ番組として、一種の深夜番組として製作・放映されたものであった。
その次の 「鉄人28号」、「エイトマン」はともに子どもたちの大好きなロボット物のアニメである。
「鉄人28号」は、神戸市長田区に隣接する須磨区 出身の漫画家、横山光輝(本名:横山 光照)が1956(昭和31)年に発表(月刊誌『少年』で連載開始)した作品に登場する架空のロボットの名称である。 
太平洋戦争末期、大日本帝国陸軍が起死回生の秘密兵器として開発していた巨大ロボット「鉄人28号」が戦後に現れ、鉄人を自由に操る小型操縦器(リモコン)を巡って悪漢、犯罪組織にスパイ団までもが入り乱れる争奪戦に、主人公の少年探偵・金田正太郎も巻き込まれる。数々の苦難の末に鉄人を手に入れた正太郎は、今度は鉄人28号の力で次々と現れる犯罪者や怪ロボットを倒して平和を守る為に活躍する・・・、といったストーリーで、リメイクを繰り返し、何度も映像化された人気作品である。
本来は少年探偵ものであったが、鉄人編が好評を博したため、ロボットものへと方針が変更されたとされているようだ。
また、サンケイ新聞記者として工業関係の取材経験のあった横山は、「最初は大きくしかできず、それから小さくなる」と考え、手塚治虫の『鉄腕アトム』を意識して鉄人28号を大型ロボットにしたとも語っていた・・・・と、Wikipediabには書かれている。

鉄人28号 - YouTube

グリコ!グリコ!グー!リー!コー!
グリコ劇場のスポンサーは、江崎グリコとその関連会社グリコ乳業(グリコ協同乳業)であったため、提供クレジットとして放送開始時およびオープニングテーマの最後にこの「グリコ、グリコ、グーリーコー!」というデューク・エイセスによるコーラス(通称「グリココール」)が流れた。
このコーラスまでがテーマ曲。また、開始時の台詞の部分で、画面に「グリコ劇場」という字幕が表示された。
このオープニング・テーマ「鉄人28号」の作詞・作曲・編曲は、三木鶏郎
ビクター版、朝日ソノラマ版ともに歌手は同じだが、音源が異なる。以下の貴重な164年(昭和39年)発売の朝日ソノシートの「鉄人28号」と聞き比べると面白い。

鉄人28号の歌, 進め正太郎, アニメ「鉄人28号」, ソノシート - YouTube

横山の『鉄人28号』も、テレビアニメ化される前の1959(昭和34)年には、ラジオドラマ『鉄人28号』としてニッポン放送で放送されており、放送メディアでの作品化はこれが最初である。
そして、鉄腕アトム同様に、1960(昭和35)年2月1日 から 同年4月25日まで、日本テレビ系列で実写版テレビドラマ「鉄人28号」としても放送されている(全13話でモノクロ)が、どうも、不人気だったようで、この実写版TVドラマ「鉄人28号」は、わずか3ヶ月の短期間で終了している。この実写版TVドラマの内容や評価は以下参考の※3、※4を参照されると良い。
「エイトマン」の原作はSF作家の平井和正、作画は桑田次郎(現:桑田二郎)。1963(昭和38)年5月からの『週刊少年マガジン』での看板作品をもとに、アニメ化されたの。
あるギャング事件を追跡していて殉職した警視庁捜査一課の敏腕青年刑事東八郎の脳細胞と組み合わされた電子頭脳をもつスーパーロボットである「エイトマン」が主人公。
体は、特殊な金属を使って作られた内部機構を人造皮膚で覆っており、外見は人間そっくりにできている。当然人間と同じように、ものを考えたり手足の動きなども脳の命令でする。
日常は粋なダブルのスーツを着た私立探偵・東八郎だが、ひとたび事件が起き、田中課長から要請を受けると、エイトマンに変身して数々の難事件・怪事件に立ち向かうといった筋立てである(※5参照)。
この原作は、コンペティションによって先行する『鉄腕アトム』とも『鉄人28号』とも異なる、「変身能力」「加速性能」というオリジナリティが受け入れられて採用されたものだという。
作品には平井和正自信に加え、半村良豊田有恒らに日本の SF の胎動期から活躍した一線級作家陣がシナリオに参加し、内容、キャラクター共に、あまり子供向けとは言えなかったが、相当の視聴率を上げ、惜しまれつつ終わった。

エイトマン(エイトマン登場~) 第一話 前半 - デイリーモーション動画

漫画の旗手であった手塚治虫は日本のアニメにおいてもパイオニアであった。
そこに、登場する鉄腕アトムなどは、以下参考の※6:「ロボットアニメの歴史」でも触れられているように、ロボットと言うよりも非常に生物くさい、人間と等身大の存在であった。
それを、いわゆる戦闘ロボに変貌させたのが、横山光輝であった。彼が創造した『鉄人28号』は、旧日本陸軍の秘密兵器という設定であった。
これは、リモコンによって操作される兵器であるから、感情を持たぬ冷たい鉄の塊であり、リモコンを用いる者の意思によって、善にも悪にもなる存在である。
横山の描くロボットは、『ジャイアント・ロボ』、『バビル2世』、『マーズ』を通して、全て同じイメージが貫かれているので、これが彼のロボット観なのだろう。
手塚治虫の『鉄腕アトム』に比肩する人気作となった『鉄人28号』は、又、巨大ロボット物の先駆として、『マジンガーZ』(永井豪作品)を初めとする多くの作品に強い影響を与えたという点では、手塚よりも上だろう。これ以後、圧倒的に巨大ロボット物がアニメを含めて作られる様になっているからだ。
今読むと如何にも古臭いとの印象は拭えないかも知れないが、ロボット漫画の歴史を塗り変えた記念碑的作品として、『鉄人28号』は後世に語り継がれていくことだろう。
横山 光輝のことについては、以前に此のブログで書いたので、気が向けば以下参考の※7:「今日のことあれこれと・・・「マンガ家・横山 光輝(『鉄人28号』)誕生日」」を見てください。
(冒頭の画像は2009年11月28日に摂ったもの)
参考:
※1:芝建 東日本大震災と阪神淡路大震災の違い
http://contest.thinkquest.jp/tqj14/140183/page4.4.html
※2:揺れによる建物被害少ない可能性…地震波分析
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20110317-OYT1T00173.htm
※3:鉄人28号 実写 角めんこ
http://menkonohako.web.fc2.com/untitled.htm27.htm
※4:超映画批評『鉄人28号』30点(100点満点中)
http://movie.maeda-y.com/movie/00493.htm
※5:EKエイケン公式HP
http://www.eiken-anime.jp/
※6:ロボットアニメの歴史
http://www.t3.rim.or.jp/~miukun/robot.htm
※7:今日のことあれこれと・・・「マンガ家・横山 光輝(『鉄人28号』)誕生日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/fa68045839b217b2b5a121c91e75fb31
TezukaOsamu.net(JP) - 手塚プロダクション
http://tezukaosamu.net/jp/
神戸市:阪神・淡路大震災の記録
http://www.city.kobe.lg.jp/safety/hanshinawaji/index.html
震災記録写真(大木本美通撮影)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/eqb/photo/oogimoto/index.html
横山光輝オフィシャルサイト
http://www.yokoyama-mitsuteru.com/
神戸・ながたまちの情報館
http://i-town-nagata.com/02/cont-02-07.htm
鉄人28号- デューク・エイセス - 歌詞 : 歌ネット
http://www.uta-net.com/song/3135/
鉄人28号 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E4%BA%BA28%E5%8F%B7

 俳人池西言水(木枯しの言水)の忌日

2012-09-24 | 人物
今日、このブログで何を書こうかといつも参考にしている「今日は何の日~毎日が記念日~」(※1)をみると、旧暦9月24日は、俳人・池西言水の1722(享保7)年の忌日・・・とあった。
池西言水(いけにしごんすい。※2参照)は、江戸時代に松尾芭蕉と同時代に活躍した俳人の一人だそうであるが、私はこの人のことをよく知らないのだが、前に、京都観光をした時に、言水の句碑を見た記憶があったので書くことにした。
句碑の場所は、京都市中京区新京極通りにある寅薬師と称した薬師如来を安置する西光寺(蛸薬師上る中筋町495−1)の北隣に、華嶽山東北寺(かがくざんとうぼくじ)、誠心院(せいしんいん)と号する通称和泉式部の名で知られている真言宗泉涌寺派の寺である(西光寺、誠心院の位置関係など※3参照)。
寺伝によれば、関白藤原道長が、娘の上東門院(藤原彰子)に仕えていた和泉式部のために、法成寺東北院内に一庵(小御堂)を与えたのが寺の起こりだとか。
当初、御所の東側にあったが、その後一条小川に再建され、さらに天正年間(1573~91年)にこの地に移されたといわれている。
誠心院本堂に安置される本尊阿弥陀如来像の傍らに和泉式部法体(ほったい。僧侶の姿)の像があるほか境内墓地には、和泉式部塔と称する石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある(※3又※4:誠心院HP参)。また、傍らの梅の木は、和泉式部が生前愛木した「軒端(のきば)の梅」(※5参照)に因んで、後に植えられたものだそうである。
このほか、誠心院HPには何も記されていないのだが、同境内墓地の和泉式部塔の近くに池西言水の小さな石碑がひっそりとあった。
冒頭の画像向かって左がそれである。その右側にも副碑のようなものがあり、副碑上部には「池永言水句碑」と書かれているが、その下に、書かれている刻字はかなり損傷が激しくよく読めないが、どうやら「此度爰に地を占し○○を加へ永○に○保存所や」と刻まれているようなのだが解読できない。どうやら句碑ではなく、此の地に言水の句碑を建て永世に保存所しようと言うようなことではないかと推測している。
その句碑というのは左側にある墓標らしく、よく見ると石碑の上端に縦書きではなく、横へ流れる形で「木枯の果てはありけり海の音」の句が刻まれている。
この池西言水のことについては、参考2:コトバンク-「池西言水」や、特に※6:「龍谷大学学術機関リポジトリ」のコミュニティ> 10学位論文 >■博士(文学)>宇城, 由文著:芭蕉と言水 ―近世前期俳諧の位相― などに詳しく書かれており、興味のある人はそこを見られると良い。ここでは、その経歴等を簡単に書くと以下のようになる。
言水は、慶安3年(1650年)奈良にて出生。祖祖父千貫屋久兵衛は奈良大年寄を勤め、祖父良以は 和歌に通じ、実父柳以も誹詰(俳諧)を、たしなむなど比較的めぐまれた環境のもとで育ったようだ。
16歳に法体(僧体)して俳諧に専念したと、言水の死後発行された追悼集(俳諧集『海音集』。作者:方設)にある。
名は則好。通称八郎兵衛といい、兼志、紫藤軒、洛下童、鳳下堂とも号したようだ。
同『海音集』には、「木がらしを辞世にし自筆をうつして彫りて和泉式部軒端しの梅の下影に石のかた代築く」とあるので、それが、先に書いた誠心院にある墓碑にあたるのではないのだろうか。
石碑の句の下に刻まれている銘は別号の「紫藤軒言水」が用いられており、又、墓碑に刻まれている命日の日付「享保七年九月廿四日」も一致する。
俳諧は、はじめ京都の松江重頼の門人であったといわれるが、重頼の選集に名はみえないようだ。
言水の句の初見は寛文12年(1672年)刊『続大和順礼』(岡村正辰編。岡村正辰=郡山に住んでいた俳人で、池田正式の門人といわれる)で、23歳の時であった。このとき42句入集しているそうだが、発想においても技巧においても貞門風の俳諧だという。
延宝4年(1676年)刊の『到来集』(胡兮編)に、江戸小石川にて「小日向の雪やとけ来て小石川 」(南都 池西兼志)と、言水の句が見られるところから、このころ江戸へ出てきたようだ。
寛文13年(1673年)から延宝4年(1676年)までの間の言水の足取りは定かではないという。
江戸では、談林派の俳人として活躍するが、言水の江戸での本格的な活躍(デビュー)は風虎サロン(※6、※7参照)に始まる。
それは延宝5年(1677年)内藤風虎の催した『六百番誹詰(俳諧)発句合』の入集である。
入賞の句は当時流行の句作りを示しており、言葉の巧みな使用、機知に富んだ句作り、聴覚的なイメージの利用などには、既に言水の句作りの特性が発揮されつつあり、『続大和巡礼』の作品と比較すると著しい進展が見られるという。
松尾芭蕉、椎本才麿と交友を重ね、江戸俳壇に確固たる地位を築く。当時の彼は時代の新風を追い求める先鋭的な俳人であったようだ。
しかし、天和2(1682)年の春、33歳で京都に移住したのち、北越、奥羽、九州などに行脚し、京都、新町通り六角下るに落ち着き、定住後は京都俳壇を代表する俳人の一人として活躍。伊藤信徳と交友を重ねた。
能書家(書家の中でも特に書における高度な技術と教養を持った人のこと。書の名人)でもあり、また、絵画、茶道、書画骨董の目利きにも優れていたようだ。
江戸在住中に『江戸新道(しんみち)』(1678年)、『江戸蛇之鮓(じゃのすし)』(1679年)、『江戸弁慶』(1680年)、『東日記』(1681年)、『後様姿』(1682年)などを著した。京都へ帰ってきてからは地方への勢力を拡大しつつ、『京日記』(1687年)、『前後園』(1689年)、『都曲(みやこぶり)』(1690年)などを刊行し京での地歩を固めていった。
言水の代表句「凩(こがらし)の果はありけり海の音」の句は、元禄3年(1690年)『都曲』への所収が初めてであり、この句が評判になる。又、元禄15年(1702年)刊『花見車』(轍士〔てっし〕著)には、「木がらしの果はありけり、とたちあがりたる風俗に一たびは京も田舎もなづみたり」とあり、「木枯の言水」と評判されたという。
『海音集』で、「我木枯の発句は人生のあらまし二つの海の心も述べたり。此句辞世とすべし。」と方設 が言水の遺言を伝えているところから、言水自身にとっても生涯で最も自信のある句であったと考えられる。
「凩」は風の略形と木とをあわせたもので日本製の漢字「和語」であり、木を吹き枯らす意から、「木枯」とも書く。秋から初冬にかけて山から海へ吹く、強く冷たい風。冬の訪れを告げる風でもあるため、冬の季語となっている。
この句は「湖上眺望」の前書きがあり、ここでの「海」は琵琶湖なので、「木枯」は比叡颪(おろし)のことである。
冬になって野山の木々の葉を吹き散らす木枯しは、どこまでも絶え間なく吹き続けているようだが、やがて冬の荒れた海に出ると、激しい波の音の中に消えていく。この海こそが、木枯しの行き着く果てであった。そして冬は、一年の終末であり死を喚起させる季節でもある。
冬の荒々しい自然を、木枯しと海の音の照応でとらえた句である。いまはもう吹き枯らすものもなく、役割を終えた木枯らの風に、言水自身の最期の姿を思い浮かべていたのだろうか。この世のはかなさを詠んだもので、談林派の知的観念的作風とは一線を画する名作といわれている。
山口誓子の「海に出て木枯帰るところなし」や、大場寥和の「木を枯らす風の相手や海の音」なども、言水の句の意を踏まえて詠んだものだろう。多くの俳人が木枯しを詠んでいる(※8)参照。
京・大坂・江戸の点者を遊女に見立て、廓詞(くるわことば)で品評し評判をえた俳人評判記『花見車』は、言水を太夫の位にランクし、「目はしのきいた君也」と評しているが、この評の通り、時流には敏感で、元禄年間(1688~1704)に流行し始めた前句付,笠付などの雑俳にも手を染めている。
ただその前段で、言水の京移住後の生活については、「身上がりに大分借銭があり(略)お子がひたと出来てとまらんす。それゆえ神ほとけをふかふいのらんす頬もすいていかふ古う見えます。」とあり、よく解釈できない言葉もあるが、言水の京での生活は楽ではなかったようである。金になる雑俳に力を注いだのもこのような生活に窮してのことだったかもしれない。そのような俳諧への姿勢から大阪などでは、必ずしも言水への評判は良いものではなかったようだ。
「木枯し」の句が作られた元禄3年(1690年)頃、ほぼ同時期に芭蕉の蕉風開眼の一句とされる「古池や蛙飛び込む水の音」(貞享3年=1686年)がある。
言水の「木枯し」の句は芭蕉の「古池」に匹敵する名句といえるかもしれない。しかし、文学史的な視点からみると、同時代に活躍した2人でありながら、後世への影響力、また、その評価には雲泥の差がある。
元禄期において芭蕉とあい並ぶ有名な俳人には池西言水と椎本才丸がいた。この3人が永宝の末の数年間江戸俳諧を舞台に何らかの交渉を持ち、新風起立をめざして活躍した。
3人の年齢は延宝6年(1768年)に、芭蕉35歳。言水29歳、才丸23歳であった。
この永宝6年芭蕉が意欲的な活躍をするが、同じ年に言水も第一撰集『江戸新道』を出版している。才丸の第一撰集『坂東太郎』はその翌延宝7年の出版である。このように3人はほぼ時を同じくして活躍している。
この3人の関りは密接であり、特にとし若い言水、才丸らが薫風樹立の前段階にあって、芭蕉の先駆者ないし、同伴者としての役割を果たしたといわれている。ただ、言水は『東日記』を出版した翌年(天和2年)に突然江戸を去り京都に移っている。
延宝6年(1768年)から4年間、年ごとに新しい撰集を出版し、『東日記』の序で才丸が「これより先三度句帖を顕はし、三度風躰をかへて三度古し」と言水自信の言葉を伝えている通り、あれほど意欲的な活躍を続けてきた言水が何故江戸を去らねばならなかったのかという疑問が残る。後に残った才丸も6年後の元禄2年に江戸を去って大阪に移っている。
結果的に見て、言水や才丸が江戸の俳壇という活躍の舞台を、芭蕉一派に譲った形になっている。
特に言水は延宝6年に『江戸新道』を出版して以来、延宝7年『江戸蛇之鮓』、延宝8年『江戸弁慶』延砲年『東日記』と年毎に撰集を出版し、延宝期の俳壇でもっとも注目すべき活躍をした人物の1人であったのだが・・・。
このことについては、以下参考※9「延宝・天和の江戸俳壇-言水 ・才丸 ・芭蕉とそれらの周辺-」で詳しく考察されているので、見られると良い。
考察は、言水の発行した撰集にあらわれる人物を検討することからはじめられている。
そこから見られるのは、内藤露沾幽山一派と密接な交渉を持つことによって、江戸俳壇の中で、安定した立場を得、幽山の地盤を受け継ぎ、次第に調和一派との交渉を深め(同7年)、ついで才丸との緊密な協力体制を固め(同8年)、ついに新興勢力である芭蕉(桃青)一派に接近する(同9年)。
このように1年ごとにかなりはっきりとした特徴をみせながら、言水の撰集活動は進んでいくわけであるが、その反面、幽山を中心とする『江戸八百韻』の連衆(連句では、集った人たちをいう)が不振となり、そのことが言水の活躍をかなり制限したようにも見える。
江戸俳壇における言水の表面的な活躍が余りに急速かつ花々しかったことにより、言水はいきおい多くの俳人達との交渉を生じたが、彼にとって最も重要な基盤であるはずの幽山一派の勢力を伸ばすことに、はたしてどれだけの努力をしたか疑問がある。
そして、言水は幽山一派の連衆から次第に浮きあがった姿勢で、自己の撰集活動を勧めていったようである。或いは逆に考えれば、幽山一派というものが、言水にとって、(最初の踏み台としては適していたはずだが)次第に物足りなさを感じさせるようになったのかも知れない。
なにしろ、幽山一派は調和派などに比べれば、まだ弱小グループの観をまぬがれない存在だったから。
こうした不安定な立場にあった言水に、さらに大きな打撃を与えたのが内当家の内紛事件(内藤露沾退身の事件)だろうという。
俳壇のパトロン内藤風虎・露沾父子が不和を生じ、加うるに露沾が逆臣松賀紫塵の陰謀事件に巻き込まれたために、ついに露沾の退身となった。
このため風虎の文学サロンは活動を停止し、幽山一派とりわけ言水の受けた打撃は大きかったと想像されるという。
必ずしもこれだけが京都移住の原因だとはいえないまでも、内当家の事件が天和2年2月であり、言水の京都移住が同年3月であってみれば、この2つの事件は全く無関係とは言い切れないだろう。
こうして江戸を去ってからから、京都俳壇において言水の占める位置は、後年高いものではあったろうが、江戸での活躍に比べればやはりさびしさの影が付きまとていたようだ。
江戸俳壇という活躍の場を捨てた言水の俳人としての限界を、杉浦正一郎の論文では以下のように書いているようだ。
「彼(言水)は珍しい程詩人的センス豊かに恵まれた人であったので、いち早く談林の只中から薫風的新風に移りゆくべき運命を感じとったのであったが、のち、京、南都に帰り住んで上方俳人となってからは、若き日の情熱も失せたものか、洗練された技巧をもって都会人らしいデリケートな感覚描写に腕の冴えを見せただけで終わってしまった。」・・・と。
芭蕉一派の結束が固まるにつれて、元来よそものであった才丸も芭蕉一派から締め出されてしまったようである。元禄2年芭蕉が『奥の細道』の旅に出発したその年に、才丸も江戸を出発して、伊勢路向かう。その年の冬大阪に帰りついた才丸は以後およそ50年間この地に住み着いて生涯句を終わっているという。

参考:
※1:今日は何の日~毎日が記念日~
http://www.nnh.to/
※2:コトバンク-池西言水とは
http://kotobank.jp/word/%E6%B1%A0%E8%A5%BF%E8%A8%80%E6%B0%B4
※3;京都観光Navi:誠心院
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=10&ManageCode=180
※4:和泉式部-誠心院
http://www.seishinin.or.jp/
※5:能・演目事典:東北
http://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_050.html
※6:龍谷大学学術機関リポジトリ:コミュニティ
http://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/
※7:内藤風虎の元禄サロン
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kiyo/AN00090146/kokubungakukou_43_120.pdf#search='風虎%20露活'
※8:勝手に俳句歳時記「木枯」
http://www.ab.auone-net.jp/~koboku/huyu/saijiki/kogarasi.pdf
※9:延宝・天和の江戸俳壇-言水 ・才丸 ・芭蕉とそれらの周辺-(Adobe PDF)




グランド・ジェネレーションズ デー

2012-09-17 | 記念日
今日・9月の第3日曜日は国民の祝日「敬老の日」である。
既に、この日のことは、敬老の日敬老の日(Part2)として、このブログで2度も採りあげているのでそこを見てください。
今日、何を「テーマー」に書こうかと、日本記念日協会の記念日を見て見ると、「グランド・ジェネレーションズ デー」というのがあった。
記念日の由来には、“若々しく年齢を重ね、豊かな知識と経験を持ち、第二の人生をさまざまなライフスタイルで楽しんでいるGRAND GENERATION(G.G)世代。その世代にエールを送り、より輝きを増す日にと、千葉県千葉市に本社を置きイオンなどのショッピングセンターを全国展開するイオンリテール株式会社(英: ÆON RETAIL Co., Ltd.)が制定。日付は「敬老の日」を尊重して。 ”とあった。

グランドジェネレーション(GRAND GENERATION)。略すと、「グラジェネ」や「G,G」。
ジェネレーション【generation】は、世代。また、同世代に属する人々を言う。又、グランド【grand】という言葉には、壮大な、 雄大な、 印象的な;壮麗な、 豪壮な、みごとな、それに、最高位の・・といった意味もあることから、「最も偉大なる世代」といった意味になる。
イオングループが提唱している呼称だが、この呼び名を考えたのは、イオンではなく、放送作家であり、脚本家として第81回アカデミー賞外国語映画賞 、および第32回日本アカデミー賞最優秀作品賞受賞作品である映画「おくりびと」(2008年公開、滝田洋二郎監督)の脚本を担当したことでも知られている小山薫堂氏だそうである。
小山氏は昨年、音楽プロデューサーの松任谷正隆氏の還暦パーティーに携わった際に、松任谷氏を見て「この人に『シニア』という言葉は似合わない」と感じたとのこと。そこで、センスがあり、知識や経験も豊富で、財産の蓄えもそれなりにあるパワフルな団塊世代に対して新たな呼称を考えてみたくなった氏は、「グランド」という表現を思い付いたとのことである。

そして、小山氏が「高齢化社会の到来を憂うばかりではなく、その世代の消費を促すアイデアがこの国には必要だと思う」とも論じると、早速この考え方に賛同したのがイオンで、同社では、今後増加が見込まれるグランド・ジェネレーションをターゲットにした、商品・売場作り、SCサービスという4つの切り口から、この層の支持・獲得に取り組んでいるようだ(※1、※2の 『グラジェネ』っていう言葉の意味、知っていますか?を参照)。
そういえば、今の時代の60代以上の人は昔と比べて元気である。昨・2011年3月、元ドリフターズ加藤茶が68歳にして、自分の長女(20歳)とほぼ同年代である23歳の一般人女性と再婚したことが報じられ世間を賑わせた。この加藤の姿は、60代以上の世代でもまだまだ人生に可能性があるということを世間に示したといえるだろう。

シニアのことについても、これまでに、シニアの日シニアーズディと2度も、書いていので又同じようなことを書くのに抵抗は感じるのだが、今の時代、日本の消費を論じるとき、これらの高年齢者層、特にシニアと呼ばれる層について論じなければやってゆけない状況になって来ているのであえて、又書くことにした。
前に書いた「シニアーズディ 」では、40代後半から50代後半を「シニア」に位置づけているようだったが、実際には、何歳ぐらいを「シニア」と呼ぶか?・・・など、「シニア」に対する考え方は、人によって、かなりの違いがある。
シニア【Senior】を辞書で調べると「年長者」「上級生」「上級者」という意味があるが、一般的には「ジュニア(Junior)」の対義語として使われることが多く、特定の年齢層を意味している訳ではない。
ただ、サラリーマンでいえば、定年で第一線を退いた年代、主婦でいえば子育てを終わった人々などをさしていることが多い。つまり、会社などの仕事や子育てに一つのピリオドを打ち、それまでの経験や知恵を生かして第二の人生、新しいライフスタイル(※3)を目指す人たちのことを「シニア」と呼んでいるようだ。
Yahooの意識調査(実施期間:2007年7月2日~2007年7月13日)「何歳からがシニア?」といったアンケートの結果でも、60歳以上を「シニア」と答えた人が76%にもなっており、これは退職や年金などの関係から、60歳以上を区切りとした人が多いからのようだが、確かにその面もあるだろうが、現代のような健康で長生きしている人も多い長寿社会では、私なども、60代の人はシニア世代とみてもよい時代になっているのではないかと思っている。
実際に、私など70歳を過ぎて、数年後には国による後期高齢者医療制度の対象となる年代になっても、メタポ検診では、中性脂肪が多い、血圧が高い等々、色々医者から注意はされ、血圧を抑える薬などは飲んでいるものの、早朝に1時間程度の早足での散歩もしているし、自分から病気だと言って医者にかかることは殆どなく、表面的にはいたって元気であり、他の人達からも、若く見えるといわれているので、自分でもその気になっている。
マーケット(Market)の世界においては、国内市場がどんどん縮小する中、これらシニアマーケットを如何に捉えることができるかが、最重要課題であることに相違はないだろう。
しかも、急速な少子・高齢化の進行により、年少や老年人口を養う能力(生産年齢人口の減少)の限界に達してくると、年金・医療・福祉など財政面だけでなく日本の社会における労働力不足は日本経済にも影響するなど様々な問題が生じてくることから、これら豊かな経験を積み重ねてきた人たちを「知的生産者」として、その能力を発揮してもらえる社会にする必要もあり、政府は、①65歳までの雇用の確保、②中高年の再就職の促進、③多様な就業機会の確保を内容とする改正高年齢者雇用安定法を2004(平成16)年6月5日に成立させ、同年12月1日から施行(高年齢者の安定した雇用の確保等を図るため措置については平成18年4月1日から施行)している(※4)。
1960年代のアイビールックや、'70年代のアンノン族、'80年代のニューファミリーを形成してきたのも、又、インターネットによる株取引やパソコン、デジカメといったデジタル家電人気を牽引してきたのもこの世代である。
いわば、高度成長期がむしゃらに働きながらも、自らの人生を楽しみ、より積極的に生きてきたアクティブな人たちであり、こういった人々がこれからの日本の社会を牽引していくことになるだろうことは、前にも「シニアーズディ 」の中で書いる。
このようなシニア世代を新しく「グランド・ジェネレーション」と位置付け、その世代をターゲットに商品展開を行うとしてイオンが記者会見を開いたとき、会見でイオンリテール代表取締役社長の村井正平氏は、「シニアとくくられることに抵抗を覚える方もいる。そういったことを考慮して、弊社では一貫してシニアという言葉を使わず"グランド・ジェネレーション"という言葉を使うことにした」と説明しているが、この年代の人達は健康で活動的であり、まだまだ働ける元気な状態にあり、還暦を迎える年代になったからといって、昔のように「高齢者」と呼ばれることを望んではいないのは確かだろう。
9月17日の今日を「グランド・ジェネレーションズ デー」としているのは、「敬老の日」を尊重してのもの。
9月15日の朝日新聞朝刊の経済蘭のコラムに、「敬老 自分にお疲れ様」のタイトルで、百貨店や通販等の敬老の日に向けた商戦が変わってきたことが掲載されていた。
つまり、かって、百貨店や通販等は、高齢者に贈り物をする若い人をターゲットにしていた。しかし、今はお金があり流行に敏感な高齢者が「自分買い」をする動きが目立っているという。
大丸心斎橋(大阪市)のバッグ売り場に並ぶ商品は、若々しい感じの青やオレンジ、えんじ色など多彩。軽量で、旅行など趣味の活発なシニアがターゲットになっている。
「プレゼントで買う人が中心だが、自分用に買っているお客さんが増えている」(売り場担当者)という。近鉄阿部野店(同市)でもパープルの眼鏡やオレンジ色のバッグなどを展開。通販大手ニッセン(京都市)は、平均70歳の女性15人がモデルのファッションショーを敬老の日に近い日に開き商品をアピールすると言う。顧客の中心は、30歳~40歳だったが、昨年春、60歳以上の女性が対象のカタログを創刊。「敬老の日をきっかけにシニアの注目を集めたい」といっているそうだ。
千趣会(大阪市)も角川マガジンズと共同で会社を設立し、角川発行のシニア向け雑誌の読者を対象に通販事業を展開。昨年度のこの事業の売上は前年比で約65%伸びたと言う。
総務省によると、昨年10月1日時点で65歳以上の高齢者の比率は23,3%まで上昇(※5)。第一生命経済研究所(東京)の試算では60歳以上の個人消費は2011年に100兆円を突破し、国内の消費全体の44%を占めると見られるという(※6)。
若い世帯は、教育費の負担や、住宅ローンの返済を抱え、財布の紐が硬め。流通業界はこれを痛感し、流行に敏感で趣味にも積極的な高齢者をターゲットにしている。敬老の日であっても、」やはり狙いは、若い人ではなく高齢者となっているのだと言う。
今、日本の65歳以上の高齢者数は、2010 年時点で2,948 万人と世界第4番目の人数であり、高齢者の数があまりに多くなっている。
小子・高齢化が進む中、シニア層をターゲットとしたビジネスが有望視されていることについては、これまでも多くの企業の殆どが承知しており、同 市場を狙ったビジネス戦略が展開されてきたわけであるが、その多くは必ずしも成功を収めているとはいえなかったのではないか。それは、イオンも同様であったと思う。
だが、いよいよ、日本の消費を論じるとき、これらの年代層をターゲットにしなければやってゆけない状況になって来ているのである。

ただ、シニア層を単に「アクティブ」とだけ捉えたら、マーケティングを誤る。「元気さ」と「行動的」という2つのキーワードが当てはまるという理由で、「アクティブ・シニア」という言葉で呼ばれるようになり、さらにそれを、「グラジェネ」に発展してきた。
小山氏が、シニアから「呼び方を少し変えるだけで、新しいマーケット(市場)が生まれてくるような気がするから不思議だ」とも語っているように、マーケティング戦略上、新しいターゲットには、旧来のイメージを超えた明確な性格付けをし、それに適したふさわしいネーミングを付けた方が、新しい商品開発などの革新も進むだろう。
小山氏の提案を受けて、早速イオンが、今後増加が見込まれる高齢者層をシニアとは呼ばず「グランド・ジェネレーション」と位置づけての商品開発をしようと言うのは流石であると思う。
私は、かって、イオンの前身ジャスコ時代に、人事部長をしていた小嶋千鶴子さん(前イオン会長=創業者の岡田卓也の実姉)が、新しいことを始めるときには儀式が必要だ。それを起爆剤として、目標にひたむきに取り組むのだ。・・と言っていたのを思い出す。
この小嶋さんと言う方は本当に立派な方で、ジャスコの前身岡田屋時代、岡田屋の6代目当主惣一郎が逝去後長男の岡田卓也が幼少だったため、卓也の姉千鶴子らが後見人となって長男卓也が成長するまでの店を支えてきた。
そして、弟の卓也には帝王学を学ばせ、企業の成長は、人材にあるとして、何十年先を見据えての将来の幹部候補を育てることに全精力を傾けてきた人だ。
ジャスコ発足当時、流通業界では、「教育のジャスコ」、「小嶋さんあってのジャスコ」とまで言われていた。
そして、7代目当主となった岡田卓也氏は単なる一地方の呉服屋にすぎなかった岡田屋を国内最大規模の流通企業であるイオングループに発展させて事業を拡大させてきたが、今イオンが、日本の小売業のトップ企業にまで成長しているのは、かって、ジャスコの人事部長として小嶋さんが育成をして来た人たちが育ち、今のイオンをささえているからだろう。

1969(昭和44)年、三重県を中心とする岡田屋は、兵庫県のフタギ、大阪のシロとの3社共同出資で共同仕入機構「ジャスコ株式会社」を設立。その翌1970年3月第1次合併。岡田屋がフタギ等を合併し、翌4月従業員への新社名公募等により「日本ユナイテッド・ストアーズ株式会社(Japan United Stores Company、略してJUSCO)」が選ばれ、その通称のジャスコ(株)に社名変更。大阪に本社が設立された。
1972年に第2次合併により、京阪ジャスコ(株)(旧(株)シロ)等を合併。そして、1989年(平成元年)9月 - グループ名称を「ジャスコグループ」から「イオングループ」に変更。2001年8月21日「ジャスコ株式会社」は、「イオン株式会社」へと社名を変更した。
地方の中堅スーパーの三者合併によりジャスコが設立された当時、まだ、流通業界では、ダイエーやイトーヨーカ堂、西友に続いて4位の地位であった。
新会社JUSCOの名前には、日本の地方の弱小スーパーがジャスコと一緒に手を組んで、連邦制経営の下、日本一の流通業に育っていこうとの願いがこめられていた。
そのために、旧ジャスコ株式会社設立時に基本理念となる社是「商業を通じて地域社会に奉仕しよう」を制定すると同時に、ジャスコの信条とジャスコの誓いが発表された。また、1979年(昭和54年)1月には「ジャスコの憲章」を制定した。これはジャスコの連邦経営の理念を明らかにし、連邦各経営者の初志貫徹と連携の強化を目的としたもであった)。
そしてこれらの理念を徹底させるための仕組みを作り、徹底的に指導をして来た。又、ジャスコが5年後の姿を描いた基本政策、それを落とし込んだ年度政策を発表すると、翼下の各事業部、関係会社もそれを下に具体的な政策を立案し、それを所属の部署、店舗グループごとの実践的な政策と戦略へと落とし込ませ、徹底して、その実現に邁進させるように指導をしていた。

曙けぼのは いまさし染めて 明けていく 緑の山河
ひらけていく 世紀を目指し つどうもの 
ジャスコ ジャスコ ジャスコ ジャスコ
繁栄は ジャスコの願い

これは、旧ジャスコ株式会社の社歌「人間の園」1番の歌詞である。
作詞は現東京都知事である石原慎太郎、作曲は、神津善行である。相当な金をかけたであろうが、なかなかいい曲であった。
グループ内の結束を固め、一丸になって目標に向かって前進する。関西での基盤が固まると、本格的に、イトーヨーカ堂などが本拠としている関東・東北地方への出店を強化するため、大阪から本社を東京へ移した(1983年)。1970年ジャスコ設立から13年後のことである。これは、岡田屋創業当時からのユニークな家訓「大黒柱に車を付けよ」に従ってのもの。この古くからの家訓は、お客様の変化に合わせて店舗を移せ。ひいては、既成概念に捉われることなく環境変化に対応せよということを物語っている(※7参照)。
常にお客様と共に歩み続けてきたジャスコ30 年の歩みのなかでのイオンへの社名変更。これは21世紀に向けた新生イオングループの革新への挑戦でもあった。
「イオン (ÆON)」とは、古典ギリシア語 αἰών(aiōn、アイオーン)に由来するラテン語で、「永遠」を意味している。
現在のスーパー業界はセブン&アイグループとイオングループの2強体制となっている。しかし、欧米先進国において、小売業は巨大な産業であり、今世界最大の小売業は西友ストアに資本出資をしているアメリカのウォルマートであるが、ウォルマートは現在売上 30 兆円以上(2011年:売上高 連結:4189億5200万ドル)である。それに対して、日本のトップ企業であるセブン&アイやイオングループはせいぜい5兆円程度。世界の中では、16位から18位であり、「グローバル化」し、外国企業も自由に日本へ進出できるようになった今、日本企業も今の倍以上の売上高にはもっていかなないと、そのうち、外国の企業に総て飲み込まれてしまうことにもなりかねない(※8参照)。
日本国内の内需が減速しているなか、イオンは、そうならないために世界のイオンを目指している。

少し、横道にそれてしまったが、テーマーのシニア層の話に戻ろう。
先にも書いたように、日本は世界に類のない高齢化社会となっており、数字上、高齢者の消費支出が、毎年平均2.7%増のペースで拡大を続けていて、日本の成長分野にみえるかもしれないが、現実問題として、勤労期間を終えて、年金生活の期間を迎えた高齢世帯は、1世帯当たりの所得水準が大きく減少し、節約志向が強まるだろう。
さらに、高齢期になると、先行きの収入が増えていく見通しがなくなり、医療・介護費用を支払っていく備えが心配だという意識も高まる。
核家族化した現代においては、子どもが親の介護をしようとしないし、又、多くの親は、子どもには世話をかけずに自分の老後は自分達で何とかしたいと考えている。
そのために、年をとれば有料の老人ホームへでも入ろうと思っている人が多いだろうが、そうすると、1人3~4000万円の金が必要になる。夫婦ならその倍近い金が必要となり、それを用意できる人は少ないのではないか。又、程ほどのお金はあっても、自分に合った適当なホームへはなかなか入居が困難なようだ。
そのような時、孤立化した年よりはどうすればよいのか・・・。高齢者の誰もが一番不安に思っていることは、このことだろう。
子ども達が親の面倒を見、年寄りが働く息子夫婦の為に孫たちの世話をする。三世代が一つ屋根の下で生活を送っていた戦後のころまでは、貧乏ながら、若い夫婦も大きな住宅ローンに苦しめられることもなく、可愛い子供たちは爺さん婆さんに預けて安心して働けた。年老いた老人も介護の心配などもせず明るく生きられたものだった。
今日本は、小子・高齢化で、何か高齢者が増えることが大きな問題のようにマスコミなどでとりあげられているが、最大の問題は、少子化と、核家族化による家族の断絶が問題なのだ。
高齢者は若年層より、保有金融資産が多いといわれるが、不安な将来を考えれば少しでも貯蓄を増やしておきたいが、今の低金利ではそうも行かない。保有金融資産の中には株価に連動する資産の占める割合が高いのもそのためである。
それがゆえに、景気が上向き、株価が上昇し、金融資産が増加すると消費マインドは高まるが、逆の場合は消費を抑えざるえなくなるだろう。
このようなことから、景気や株価動向は、高齢者の消費マインドに大きく影響するだろうし、本当に、高齢者が消費ブームを生み出すかどうかは、高齢者の将来への不安をいかにして取り除いてゆけるか・・・。制度面での政府の取り組みが、大きく影響するだろうが、今政治家が行なおうとしていることは、医療費や年金問題解決のために、医療費の負担増や年金の引き下げ、消費税のアップと高齢者の不安を煽ることばかりではないだろうか。
老後を安心して過ごす為に、苦労して蓄えた貯蓄を、生活に充当するために少しずつ減ってゆくのをみている世代に、消費マインドを起させる施策はなかなか難しいものだろうね~。
何暗い気分になってきた。今日は敬老の日。シルバー。
チューリップの歌銀の指環(財津和夫作詞・作曲)でも聞いて終わろう。

銀の指環(2008)/チューリップ - YouTube

(冒頭の画像は、血圧手帳のの表紙より)
参考:
※1:NEWSポストセブン:小山薫堂 アクティブシニア層の新呼称は「グランド・ジェネレーション」
http://www.news-postseven.com/archives/20120331_98633.html
※2:シニア市場マーケティング
http://senior-market.info/
※4:ライフスタイル とは - コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%AB
※4:平成16年改正高年齢者雇用安定法のお知らせ|厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/general/seido/anteikyoku/kourei2/
※5:第1節 高齢化の状況|平成24年版高齢社会白書(概要版) - 内閣府
http://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2012/gaiyou/s1_1_1.html
※6:Economic Indicators 定例経済指標レポート - 第一生命保険:100兆円の高齢者消費の行方(Adobe PDF)
http://group.dai-ichi-life.co.jp/dlri/kuma/pdf/k_1112d.pdf#search='Economic%20Indicators%20定例経済指標レポート%20100兆円の高齢者消費の行方'
※7:創業時からの家訓「大黒柱に車を付けよ」「下げにもうけよ、上げでもうけるな」
http://www.zeroemission.co.jp/B-LIFE/SFC/speech04/sp0406.pdf#search='大黒柱に車をつけよ'
※8:グローバル小売ランキング 2011|コンシューマービジネス
http://www.tohmatsu.com/view/ja_JP/jp/industries/cb/f78cdc56b2bcd210VgnVCM3000001c56f00aRCRD.htm
60歳からの年金受給スタイル
http://www.remus.dti.ne.jp/~laputa/nenkin/60_style/60_style_1.html
第一生命経済研究所
http://group.dai-ichi-life.co.jp/dlri/guide/guide.html
内閣府:政策統括官:共生社会政策担当「高齢社会対策」
http://www8.cao.go.jp/kourei/index.html
グランドジェネレーションコレクション| イオンのネットショッピングhttp://www.aeonshop.com/contents/ggc/index.html
銀の指環 チューリップ 歌詞情報 - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND1647/index.html
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html



食べものを大切にする日

2012-09-09 | 記念日
日本記念日協会の今日・9月9日の記念日を見ると「食べものを大切にする日」があった。
「食べものを大切運動」に取り組んでいる一般財団法人ベターホーム協会(※1)が制定した日。
食べものを捨てることなく食べきることが健康にも通じるとから、健康長寿を祝う重陽の節句にあたる9 月9日としたもの。また、食べものを「捨てないん(ナイン)」「残さないん(ナイン)」の語呂合わせからでもあるようだ。
ベターホーム協会は、1963(昭和38)年に、消費者教育組織として発足した一般財団法人である。
明治時代に制定された従来の公益法人制度のもとで、主務官庁の許可によって数多くの公益法人が設立された。
しかし、その中には、公益性に乏しく営利を目的としていながら税金面で優遇措置を受けていたり、官僚の天下りの温床にもなっていたことから、さまざまな問題が指摘され、批判が絶えなかった。
そのことから2008(平成20)年12月1日施行された公益法人制度改革関連3法の一つ一般社団・財団法人法に基づいて設立された法人である。
一般財団法人は、事業目的に公益性がなくても構わない。公益性があるとは、不特定かつ多数の人の利益を増やすことを目的としているということであり、個人や特定のグループのみの利益を目的としていないということであるため、一般財団法人は個人の利益を追求する法人でかまわない(※2参照)。
そのようなことはさておき、ベターホーム協会が発足した1960年代1960年代は戦後復興を確信させた東京オリンピック1964年=昭和39年)の開催を挟み、日本は「奇跡」と言われる高度経済成長を実現し、新幹線や空港・道路等が整備され、家庭には次々に新しい家電製品が増えて行き、市場にはスーパーマーケットが登場していた。
そして、それまで使ったこともなかった新しい加工食品(※3のここ参照)が登場するなど、人々の暮らしが大きく変化していった時代であり、「今日より明日が良くなる」と皆が信じた時期でもあった。
このような戦後の復興期を経て、日本も、アメリカ型の大量生産、大量消費の消費社会を追随していた。
同協会は、そのような世情にあって、いたずらに消費文明に流されて良いのか、よく勉強して賢い消費者になろうと、主婦たちの学習集団、つまり消費者教育組織として活動を始め、約50年近く、消費者教育(※4参照)の中でも、とくに「食」の分野に特化した活動を展開してきたのだという。
現在、食分野で、日本の国を良くするための大きなテーマとして「食の安全」「食育」「食糧需給率の向上」「日本型食生活の普及」(※3のここ参照)「地産地消」などがいわれている。
また、食の知識や知恵や食文化を知り、おいしい料理の作り方を身につけることは健康で、心豊かな楽しい人生を育んでいく。
そのようなことから同協会は、国民の健康と心豊かな人生のために、大勢が楽しく参加できる食の講習会を通して、社会のために尽くそうということらしい。
そして、同協会は「食べもの大切運動」のひとつとして、2008年に「第1回 ああ、もったいない!捨てないで!食べものを大切にしよう川柳」の募集を行なっており、今年は第5回目となる。
川柳は毎年8月末応募作品が発表されているようだが、今年のものはまだ、同HP上には、発表されていない。

「震災後 残さず喰べる 我が家族」(俄か雨さん53歳)

上掲の句は2011年8月29日、全国から717通の第4回応募作品の中から発表された入選作(入賞5点、佳作10点作品)のうちの1つである。
作品紹介に、「震災後のスーパーやコンビニの食料品の品切れを経験したあとは、食べもののありがたさを再認識しました」とあるように、昨年3月11日の東日本大震災は、広範囲で甚大な被害をもたらしたが、震災の中から、人々が忘れられかけていた人と人との「」の大切さや食べものの大切さなどを思い起させてくれた。

「間に合った 賞味期限に あと5分 」(姫ちゃんさん45歳)

上句も同年入賞作品の1つであるが、ついつい買い過ぎて、気がついたら、賞味期限切れといった無駄も多いのではないか。
折角買った食べ物も、賞味期限が過ぎると味が変わってしまう。賞味期限は、製造者が安全性や味・風味等の品質が維持される保証期限を示した日時であり、期限がきたから食べられないと言ったものではないが、余り期限が過ぎて長く日が経つと当然食べられなくなったりもする。
期限内でも、同じ食べるなら美味しく食べて、「ああおいしかった!」と、心から食べものへの感謝の気持ちがもてるようにしたいものだ。
これら投稿作品には、ついつい笑ってしまうような句や、考えさせられる句など、力作が揃っている。
第1回から第4回のものは、ここで見ることが出来るので、興味のある方は見られると良い。
さて、食べ物の話の続きだが、前に、このブログ「象供養の日 (Ⅱ)」でも触れたことがあるが、約3億6千万年前、海で生活していた魚にも上陸のチャンスが訪れた。ヒトを含む最初の霊長類は、今から約6500万年前に食虫類(ネズミの仲間)から分かれて進化したといわれており、私たちヒトの祖先もはじめは象と同じように水辺で生活していたのである。(以下※5参照)。
つまり・・・、今生きている私たちヒトにしろ象にしろ、馬にしろ牛にしろ、その歴史を辿れば、食虫類として水辺で生活するようになる前は、もともと水の中で生活していた魚類が進化したものであった。
考えれば、それこそ、みんな同じような仲間であったといえるかもしれない。しかし、どんな動物でも、物を食べなければ生きてはいけない。言い換えれば、生きるということは、喰べると言うことであり、その食べている魚も牛も黒マグロもクジラも、かっては同じような魚が進化してきた生物である。
だから、生きてゆく上で、これは食べて良い動物や悪い動物などといったものがある訳がない。どんな動物だって食べられたくはないのである。
日本では、私たちの世代のものは、仏教の教えに従って、食時の前には、手を合わせ「いただきます」、食後にも「ご馳走様でした。ありがとうございます」と手を合わせて感謝していた。
「いただきます」とは、「生きてゆくために、食べさせていただきます。」「食べることによって生かせていただきます」の意味である。
そして、食べた後で、「有り難うございます」と、生きてゆくのが難しい中、同じように生きているものを食べさせていただいたことにより自分が生きながらえさせてもらえることへの感謝の気持ちを述べていたのである。
しかし、昔に比べて、豊かになった今の日本では、食べものの種類も増え、金さえ出せば、食べたいものがいつでも食べられるようになったものの、その反面、食べ物が食べられることへの感謝の気持ちは少なくなってしまったようだ。
日本における食事前の挨拶である「いただきます」は、「もらう」や「受ける」の謙譲語であり、食事を作った人と食材を作った人への感謝の気持ちも表している。
グルメ情報があふれる一方で、「いただきます」を知らない現代の子どもたちに、食べることについての日本人の「心」の教育も必要ではないか。
冒頭掲載の画像は、ベターホーム協会のシンボルマーク「だいこんハート」。
だいこん(大根)はしっぽから葉先、皮まで捨てるところがない野菜である、又、殆どが国産でもあるところから「無駄にしない」象徴としてシンボルに使用しているそうだ。 
現在、日本の食料自給率は39%(※6参照)と非常に低く、食料の約6割を輸入に頼りながら、日本人には食べものを食べ残し、捨てているもが多くいると聞く。
そのような現状を改め、食料を無駄なく食べきることが大切なことであるだろう。その点では、ベターホーム協会による、「食べもの大切運動」は、良い運動だと思う。今日の記念日を機会に、食べものの大切さや、今の時代、どのような食べ方が良いか、考え直してみるのも良いと思うが、以下参考に記載の※3、※6、※7、※8など参考になるかな~。

ところで、今日9月9日(旧暦)は五節句の一つ重陽(ちょうよう)の節句。旧暦では菊が咲く季節であることから菊の節句とも呼ばれる。
中国では、菊酒を飲み長寿を祈る習慣があったとのこと。しかし、日本で、奈良時代には重陽の節句は行なわれていなかったようだ。
それは、この日は、天武天皇の亡くなられた日、天武忌、であり、 国忌でもあったためだそうだ。
傅在の新暦の9月ではまだ菊は早い。それに、万葉の時代、日本で秋の花見と言えば、萩が第一。この萩のことは、今9月1日のブログ秋・萩・月で書いたので、気が向いたら見てください。


※1:一般財団法人ベターホーム協会
http://www.betterhome.jp/index.php
※2:一般財団法人とは
http://www.kaishasetsuritsu.biz/zaidan/index.html
※3:e-shokuiku.com
http://www.e-shokuiku.com/
※4:消費者教育-Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%B6%88%E8%B2%BB%E8%80%85%E6%95%99%E8%82%B2/
※5:林原自然科学博物館
http://www.hayashibaramuseum.jp/
※6:農林水産省/パンフレット「いちばん身近な『食べもの』の話」について
http://www.maff.go.jp/j/zyukyu/zikyu_ritu/zikyu05.html
※7:農林水産省/「食事バランスガイド」について
http://www.maff.go.jp/j/balance_guide/
※8:みんなのよい食プロジェクト
http://www.yoi-shoku.jp/
平成20年版国民生活白書(全文HTML)|第2章|第1節 消費者政策の経済分析
http://www5.cao.go.jp/seikatsu/whitepaper/h20/01_honpen/html/08sh020101.html
重陽の節句|日本文化いろは事典
http://iroha-japan.net/iroha/A03_goseku/05_choyo.html
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/

朝の月

2012-09-02 | ひとりごと
今朝、5時30分ごろ、散歩時西の山の上に見えたおさまが綺麗だった。
今年8月31日は、数年に一度の「ブルームーン」(青い月ではなく、月に2度目の満月)だったので、まだ2日目の朝のためお月様は丸いです。
ブルームーンは見損ねたが、次のブルームーンが見られるのは2015年とのこと。
通常、満月は1カ月に1度しか見ることができない。月は、約1カ月かけて満ち欠けをするが、その1カ月とは正確には約29.5日。そのため、この誤差が、2~4年に一度1カ月の間に2度、満月が見られる「ブルームーン」といういう現象を起す。
秋は特に月が綺麗に見える季節。特に9月の中秋の名月(十五夜のお月見、芋名月)が一年で最も綺麗と言われている。それが9月 30日 だが、その日は満月でもあるそうだ。
中秋の名月とは、いわゆる旧暦(太陰太陽暦)8月15日の夜の月のことだが、毎年十五夜の月が満月とは限らない。綺麗に見えるといいのだが・・・。
お月様と言えば、面白い記事を見つけた。
月と農業の関係を調べたタネ屋さんのブログに、以下のようなことが書いてあった。
害虫の防除を満月の前後に行なうのが良いそうだ。より正確には、満月の3〜4日後がベストだという。
虫の生態として、満月の3日前に交尾、満月の日に産卵、そして満月の3日後に孵化する傾向があるからなのだそうだ。
興味のある人は、以下を参照されると良い。
月刊 現代農業2009年6月号 月のリズム防除
http://www.ruralnet.or.jp/gn/200906/moon.htm