今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

みその日Part2

2013-01-30 | 記念日
「みその日」(毎月30日)は、全国味噌工業協同組合連合会(※1)が1982(昭和57)年9月に制定したものであり、推進はみそ健康づくり委員会(※2)が実施している。記念日の日付は「みそ(三十)」の語呂合せから。
味噌(みそ)は、穀物発酵させて作られた発酵食品であり、古くから使用されてきた日本の基本的な調味料の一つでもあり、今では、日本の味(MISO)として日本国外にも広く知られている。
副食素材が豊富になった今日では、味噌は、単に調味料とみなされる事もあるが、古くから日本の食生活(※3の日本型食生活参照)における主要な蛋白源であり、特に江戸時代中盤以前は「おかず」的な扱いをされていた。もっとも、現在でも「おかず」としての「おかずみそ」は多数は存在しているが(※4参照)・・・。
しかし、日本の食生活の洋風化と外食による味噌(みそ)の消費減少のなか、”すぐれた健康食品でもある味噌を健康増進に役立ててもらおう”と設立された組織が、みそ健康づくり委員会のようである。
この「みその日」については、以前に、このブログでも書いた(ここ参照)のだが、先日(1月23日)も「アーモンドの日」で食べ物と健康に関することなど書いて以来、ここのところ、このような食べ物のことに興味を持つようになり、今回も、「みその日Part2」として、 前回触れていないことなどを中心に、もう少し「みそ」のことについて書いてみようと思った。
江戸時代前期の俳諧師で、後世俳聖とも称されるに至った松尾芭蕉は、伊賀国(現在の三重県伊賀市)で生まれ、若いころ藤堂藩伊賀付侍大将家の嫡子藤堂良忠(俳号は蝉吟)の近習として仕え、その感化で俳諧を学ぶが、良忠に仕えた時の仕事は陪膳役か厨房役また料理人のようなものだったのではないかといわれているが、芭蕉は料理には関心があったようで、食べ物の句を多く詠んでいるし、また、酒も好きであったらしく、酒の句もたくさんある(※5:「芭蕉db」の芭蕉補遺>芭蕉の嗜好参照)。

「あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁」(桃青)・・・という句がある(※5の芭蕉句集参照)。

芭蕉は、伊賀で良忠の病没後、京都で北村季吟に師事。のち、1672 (寛文12)年29歳の時に江戸に下り、1677(延宝5)年からから1680(延宝8)年までの4年間、神田上水(小石川上水)の修理工事に携わった。
このころ、俳壇内に地盤を形成。上掲の句は『江戸三吟』の巻頭句。1677(延宝5)年、芭蕉34歳の時の作(このときの号は桃青)。この年に俳諧宗匠として立机(プロの俳諧師になること)したらしい。
その後、隅田川のほとりの深川の草庵、いわゆる今日の深川芭蕉庵に移った頃(1680[延宝8]芭蕉37歳頃)から独自の蕉風を開拓したといわれる。
『ここに出てくる河豚汁は、今の人ならふぐ鍋を思い出すかもしれないがこれは文字通り河豚(ふぐ)の汁、つまり、河豚の味噌汁のことである。
日本で、現在の穀物を発酵させて造られた液体調味料としての醤油に近いものが生産されるようになったのは、室町時代末期頃だといわれる.。その製法は秘伝口承であり、関西方面(湯浅龍野)で生まれた醤油は、やがて関東(銚子野田)へ、そして全国に広まっていった。
江戸時代、醤油が普及するまでは膾(なます)や、刺身(さしみ)に欠かせない調味料としては「煎り酒」が使用されていた。この醤油が広く庶民に普及したのは、関西では江戸時代初期、関東では江戸時代中期以降からだといわれている。
室町時代に日本料理の正式な膳立てといわれる「本膳料理」が出来、一の膳(本膳)、二の膳、三の膳から成り、それぞれの膳に「一の汁」(味噌汁)、「二の汁」(すまし汁)、「三の汁」(潮汁)がつけられていた。
江戸時代になると醤油が味噌と並んで重要な調味料となるが、芭蕉が江戸で活躍した時代には、まだまだ関東での醤油醸造は盛況ではなく、醤油自体が高価であったと推定されることから、庶民生活の中の汁物には依然として味噌仕立て(味噌汁など)のものが主流であった。
汁物の具には野菜のほか魚、鶏肉なども含まれており、鍋物らしい様相を備えていく。しかし現代の味噌汁と同様、主食の飯に添えられたもので、人々はこれを独立した料理とはみなしていなかった。
味噌汁の上澄みを用いた「おすまし(すまし汁)」 は、当時、今とは違って、食事をした後の酒の肴として添えられるものであった。
当時は、現在とは違って「汁」とともに飯を食べてから、あらためて酒の宴を張るというのが当時の食事の作法であった。このため「汁」と「吸い物」に区別を付けるのもそれなりの合理性があった。すなわち「汁」は飯に添える物であるため、飯の味が引き立つように濃いめに、「吸い物」は酒が進むように淡白にというのが約束事だった。
しかし、汁物ほど多種多様なものはない。魚、肉、野菜だけではなく世の中のほとんどの食品は、味噌汁の具になり得る。そのため、地域によって家庭によって、独自の具沢山な汁物が作られたのだろう。この汁物を入れた鍋を卓上に置き、各人が自分勝手に好きなように食べれば、現代の鍋物となるではないか。
江戸時代にどんな汁物が食されていたかその実態はよくわからないが、その汁は今の味噌汁と同じようなものだから、あまりにも普通過ぎて、記録したりするに値しなかったのだろうが、その例外的なものの第一が、先にも挙げた芭蕉の句にもある河豚(ふぐ)汁であろう。
なにしろ食べ方を一つ間違えると死んでしまう。しかも特別に美味しいし、冬に獲れる魚だから、鍋物に最適である。しかも、食べれるチャンスは1年にさほど多くない。
それに、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に「ふく」を食べて多くの兵士が亡くなったことから禁止令が出され、江戸時代には多くの藩でも禁止令が出されたそうだ。だから、大げさに言えば、死を覚悟して口にしなければならないし、本当に死んでしまうこともある。
江戸後期の浮世絵師、喜多川歌麿が絵を描き、それに宿屋飯盛(石川 雅望)撰で二十五首の狂歌を添えた絵双紙『絵本詞の花』(以下参考の※6)には以下の二人の狂歌が絵と共に掲載されている。
「きこしめせ あたる ふしき あたらぬも ふしぎなりけり 易と 河豚汁 」(紀定丸。きのさだまる)
「鉄砲の こんや あたりの やくそくを はづすハ 君が 玉に きずあり」(千枝鼻元。ちえのはなもと)
前者は、あたる、と、易・ふぐを、後者は鉄砲と当たる・玉をひっかけたものである。
後者の、豚汁は鉄砲、あるいは鉄砲女郎のことらしい。「鉄砲見世」は最下級の遊女を置く店。 鉄砲店の玉という意味で、鉄砲店の遊女。玉に瑕(きず)の玉女・芸娼妓・陰間・道具の意味でもあるらしい。鉄砲店の遊女。鉄砲女郎 は梅毒感染の危険性が高く、「毒にあたる」ことからだという。
○河豚食う無分別、河豚食わぬ無分別 ○河豚は食いたし命は惜しし・・・などの諺もある。
上掲の芭蕉の「あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁」の句の「あら何ともなや・・・」は、謡曲の言葉「あらなんともなや候」の文句どりもじり(捩り)を用いたもの。謡曲では「何だ、つまらない」とか「おや、ばかばかしい」といった意味だという。
句意は、「河豚を食うからには、命に別状のあることも覚悟の上でなくてはならない。しかし、翌朝目覚めて昨日と同じ気分であれば、ほっとすると同時に、昨夜の多少の思いつめはばかばかしくもなるものである。」といったところ。
その中にはびくびくしながら死をかけて食べ、どうなることかと心配しながら寝たのに、翌日の目覚めは何事もなく、あんなに心配しなくてよかった・・・なんとばからしいことだといった気持が含まれている。
この笑いは謡曲の言葉を生かして、死の危険の覚悟を河豚汁と対比させているところに面白さがある。
芭蕉の句はこのように古典文学、謡曲を入れながら言葉の可笑しさを介在させ、河豚汁をすする人の心の機微をつくような詠み方をする。
貞門との違いは、連歌への向上を意識せず、しかも、生活感覚を生かしながら異なった次元ににある言葉を突き合わせて俳諧のもつ滑稽と通俗性をもとうとしたところにあるといわれている(※7参照)が、それだけに、短い語句で非常に深い意味を持っていて面白い。
関西でよく使われている「てっちり」(河豚ちり)「てっさ」(ふぐ刺し)は、この「鉄砲」から派生したものである。
私は神戸の生まれであり、昭和30年代初めに大阪の会社へ勤務するまでは、ふぐ鍋を食べたことがなかったが、当時は、まだ、河豚を食べるのは怖いものと思っている人が多く、河豚鍋がそんなにメジャーな食べ物とはなっていなかったように記憶をしている。
大阪へ勤務後、先輩に初めて安くておいしいと評判の店へ「てっぽう」を食べに連れて行ってもらい、ドキドキしながら食べたが、余りにも美味しかったので、追加して、ちりを2人前食べたら、その後しばらく舌が少ししびれて、もつれた状態になり、大丈夫だろうかと非常に心配をしていたことも覚えている。
安さで有名な店だったので、ひょっとしたら危険な状態であったのかもしれないが、それでも、おいしいので、何度かこわごわ食べていたが、その後、東京で仕事をするようになったのだが、東京では、そのような、舌がしびれるようなものはどこを探してもなかった。安全性を考えてのものだろうが、何か頼りなく感じた。
その後、東京から大阪へ帰ってきて仕事をするようになったときには、もう、大阪でも舌のしびれを感じるようなものは食べられなくなっていたが、あの時の舌のしびれた感覚は無性に懐かしい。私など、最初は、そんな河豚こそ本物だ・・なんて思っていたが、今思えばぞっとする。
江戸時代など、そんな少々危険な河豚汁を食べていたのではないだろうか・・・?ちょっと、横道が過ぎたので、本題の方へ戻ることにしよう。

色付くや豆腐に落ちて薄紅葉(真蹟短冊)

順序が逆になったが、この句も、先の「あら何ともなや・・・」で河豚汁を詠んだ1677(延宝5)年、芭蕉34歳の時の作であるが、「あら何ともなや・・・」の句が冬に詠まれたのに対し、紅葉だから秋の句であり、芭蕉東上後の経済的庇護者として知られる杉山杉風と両吟で百韻を興行した時の発句である。
この句意を、※5:「芭蕉db」(ここ)では「真っ白な豆腐に色付けのための葉が一枚添えられると、豆腐の白さでなお一層色付けられて薄紅葉になり、それが紅葉豆腐となる。」としている。
江戸時代、和泉国(大阪府)堺に「紅葉豆腐」と呼ばれる名物の豆腐があったようである(※9)。上にもみじの形を印したもので、のちに江戸でも売られたようだ。
江戸時代の風俗、事物を説明した一種の類書(百科事典)である『守貞漫稿』(喜田川守貞著。※8)の豆腐売には、「豆腐昔は豆腐に紅葉の形を印す今も江戸にては印レ之、京坂は菱形を印せり、是は豆腐製筥に其形を彫たる也。」とある(※10)。
紅葉豆腐がどんな豆腐であったかであるが、豆腐の中に蕃椒粉(とうがらし)を擂(す)りまぜて蒸して製したものだそうだ(※11参照)。
この句は、唐辛子を混ぜて紅葉豆腐を作るのを秋の紅葉に見立てたもので、あえて、句面から肝心の「唐辛子」を抜き、読者の機知でそれに気づかせる「抜け」の手法とかいうものがつかわれているのだそうだが、芭蕉の俳句を理解するのはなかなか大変だな~。

豆腐は、大豆の搾り汁(豆乳)を凝固剤(にがり、その他)によって固めたものであるが、日本へは奈良時代に中国から伝えられ、日本に伝来した豆腐は白く柔らかい食感を持つ「日本独特の食品」として発達した。
鎌倉時代末期ごろには精進料理とともに民間へと伝わり、室町時代にはかなり普及していたが、江戸時代初期には、豆腐はまだまだぜいたく品であり、農民は特別な日にしか食べられることができず、製造も禁止されていたほどであったが、江戸時代の中ごろからは、落語の題材になったり、『豆腐百珍』(17828[天明2]年)のような料理本まで出るほど、広く庶民の食べ物となっていた。

上掲の画は、豆腐の料理 『地口絵手本』個人蔵。画像は、NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第一巻産業編208pより。
豆腐は煮物、焼き物、揚げ物、和え物など様々に料理された。それらはおよそ100種の豆腐料理を集めた『豆腐百珍』のなかに見ることができる。
『豆腐百珍』に紹介されているさまざまな豆腐料理の中で、特に流行したのが、田楽であった。
江戸では先割れしていない串を1本使い赤味噌をつけ、上方では先割れの串2本に白味噌を使って焼いた。

上掲の画像は、田楽屋、『百人女郎品定』(※12参照)。画像は、NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第一巻生活編244pより。
東海道筋目川村(滋賀県栗東町)の街道茶屋で、菜飯とともに出す田楽は名物であった。『東海道名所図会』(※13 )には、目川で菜飯と田楽豆腐が名物であった伊勢屋が紹介されており(※14参照)、広重はそれをそのまま描写し、その背景に山河を添えて書いている。

上掲の画像は広重画「東海道五拾三次之内 52 石部」《目川ノ里》である。この広重の絵と(※13:「東海道名所図会 絵引データベース」の目川の茶店とを比較されるとよくわかる。
名物の「豆腐田楽」は、硬めの豆腐を串にさして味噌をつけて焼いたもの。蕪や大根の葉を細かく刻んで薄い塩味で炊いたご飯に混ぜた菜飯(なめし)とともに、『目川田楽』の名でセット販売されていた。

江戸時代では食材のの期間しか食べられない物が多い中、豆腐と納豆は季節を問わないため人気があり、これらは、身分の上下に関わらず好まれた。
江戸時代も、明和年間(1764年から1761年)に入ると人々に経済的な余裕が生まれ、屋台や道端の店が増えた。
江戸時代にはその場で調理する屋台だけでなく、調理済みの物売りが売り歩いていた。ぼてふりまた、ふり売りと呼ばれてい商人であり、豆腐売りや納豆売りなどもそうである。

上掲の画像は、豆腐売りの様子である。『露休置土産(ろきゅうおきみやげ)』(初代露の五郎兵衛作の噺本)。東京大学文学部図書室蔵。NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第二巻産業編178pより。
幕末の風俗史書守貞漫稿に、当時の状況が記述されているそうだ。
「納豆売り」は、納豆汁の食材を売り歩いた。
納豆汁とは、納豆を加えた味噌汁の一種であり、叩き潰した納豆に豆腐や「細かく切った葱また青菜をなどを添えて、すぐに味噌汁の具に使えるようにした「叩き納豆」がセットになったもので、今でいうインスタント味噌汁のようなものであったようだ。
なお、江戸で食事を売ることを専門とする固定の料理店の最初は、明暦の大火(1657年)以後に、江戸浅草金竜山(浅草寺)門前に出来た「奈良茶飯屋」とされる。ここの奈良茶飯は、茶飯に一汁二菜(豆腐汁に煮染・煮豆等)が付いていたらしい。
江戸前期に存在したのはこうした手軽な飲食店だけであり、本格的な料理茶店が出現するのは江戸後期の明和、安永期ごろになってからだという。

侘びて澄め月侘斎が奈良茶歌   芭蕉
(わびてすめ つきわびさいが ならちゃうた)

芭蕉が青雲の志を持って江戸に下り、ついに3年前、念願の俳諧師匠として立机したものの、その 文芸の世界も金と名誉欲の渦巻く俗世界そのもの。
絶望した芭蕉は、9年の江戸市中の生活を捨てて深川の草庵(後に芭蕉を植えて芭蕉庵となる)に隠棲してしまう。そしてそこに、暮らし始めてまだ1 年を経ない1680(延宝8)年芭蕉38 歳の秋の作.で、翌1681(天和2)年3月に刊行となる千春撰『武蔵曲』に収められている、はじめて芭蕉の号で詠んだ発句の一つである。
芭蕉の門人支考の『俳諧十論』によれば、芭蕉は、「奈良茶三石喰ふて後、はじめて俳諧の意味を知るべし」と弟子に語ったとある。
句意は、奈良茶とは、上記で述べた奈良の東大寺などで食する奈良茶飯のこと。
奈良茶歌とは、奈良茶飯を食いながらわび住まいの中で詠まれた歌という程度の意味で、月侘斎は侘び住まいの隠士で、芭蕉自らを指しているそうだ(※5:「芭蕉db」参照)。
月を見ながら奈良茶歌でも口ずさみ、わびしくも独りで住めよと、自身に問いつつ自覚を促しているのであろうか。枯淡(こたん)なわびの生活へ向おうとする芭蕉の心境がよく解る。

この時代は質素と淡白を尚ぶ(たっとぶ=重んじる)風が行われて、一串の豆腐田楽で花見をしたり、湯豆腐で雪のあしたを楽しむ風雅なところがあったが、この室町時代に出現したといわれる田楽、もともと、種を串刺しにして焼いた「焼き田楽」のほか、種を茹でた「煮込み田楽」があった。つまり、コンニャクなど串に刺さないで、ゆでて味噌をつけたものも「お田」であった。
この「煮込み田楽」が今の「おでん」のルーツである。
江戸の町で醤油が大量生産され始めたことに関係しているのだろう、江戸の末期のころには、鰹出汁(かつおだし)に醤油や砂糖、みりんを入れた甘辛く色の濃い汁で鳥・獣肉などと共に一つ鍋で煮込まれたおでんに、そのお株を奪われるようになった。
上方では種を昆布だしの中で温めて甘味噌をつけて食べる「焼かない田楽」しか存在しておらず、田楽が江戸で発達し汁で煮込むようになったおでん」(煮込み田楽)が上方にも伝わった際に、それと区別するために「関東だき煮屋」の名で商い繁盛したとか。その名残か、関西地方では今もおでんを「関東炊き」と呼んでいる。
あらかじめ煮込んでおけば提供できるおでんは、外食産業が盛んであった江戸では、「おでん かんざけ」と書いたのれんを掲げたおでんの振売が流行したようだが、今では全国各地の屋台や店で安上がりに飲んで楽しめる食材として人気である。
繰り返すが、江戸時代もっとも用いられた調理法は煮物で、魚介、鶏肉、野菜類などを材料に塩、味噌、醤油酒などを用いて味付けされた。
冬の俳句の季語にもなっているちり鍋は、新鮮な白身魚が決め手。新しい魚の切り身は煮るとちりちりと縮まることからこの名がついたといわれる。
「魚を豆腐や野菜と共に水煮する」料理は中心となる魚の種類によって様々なバリエーションがあり、魚種名を添えて「○○ちり」という名で呼ばれることが一般的である。また魚だけでなく、豚ちり(毎晩食べても飽きないことから"常夜鍋"とも呼ばれる)、鶏ちりなども広まっている。
砂糖・醤油などの甘味料の使用は江戸後期以降のことであり、それまでは味噌が主であり、また、それ以降でも味噌が多くの料理で使われている。

上掲は牛鍋。『安愚楽鍋』東京家政学院大学図書館蔵。NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第一巻生活編209p。
江戸時代日常の食事から除外されていた獣肉は「ももんじ屋」(いのしし料理店)と名を変えた料理屋で食べられていたが、江戸末期になると、横浜、京都などで牛鍋屋が開業した。牛肉にはネギを入れ、味噌で調理した牛鍋は、明治期に爆発的に流行した。
日本では幕末になるまで、牛肉を食べることは一般には行われていなかったが、別に「すきやき」と称された料理は存在していたそうだ。
古くは1643(寛永20)年刊行の料理書『料理物語』に「杉やき」が登場しており、これは鯛などの魚介類と野菜を杉材の箱に入れて味噌煮にする料理であったそうだ。
また、使い古した鋤を火にかざして鴨などの鶏肉や鯨肉、魚類などを加熱する一種の焼き料理「鋤やき」の名が享和・文化・文政の書物に見られるらしく、この二種類の料理が、「すき焼き」のルーツとして挙げられているという。
味噌汁を考えてみればよくわかるが、魚、肉、野菜、世の中のほとんどの食品は、味噌汁の具になり得る。そして、味噌は魚・肉の臭いを消してくれる。これを発展させて、鍋で煮て、その鍋を囲んで皆で食べられれば、現代の鍋物になるだろう。
味噌汁も鍋物も、その土地、土地、また、家庭でのアイデア次第で、お好みのものを創造してゆくことができる。それに、この「ちり」タイプの鍋物は、何と言っても各人がお皿の上で、自由に味付けを加減して食べることのできるのが魅力でもある。
そして、酒を酌み交わしながら食べた後の鍋に、麺類を入れて食べたり、残り物のご飯を入れて雑炊にして食べると、これが、また、格別に美味しいだけでなく、具から染み出た汁から栄養を十分に摂ることもできる。

日本が今のように豊かではなく、まだ貧しかった頃、質素な食事でありながらも、人々が健康でいられたのは、ご飯とみそ汁のおかげだともいわれている。
それは、ただ美味しいだけでなく、味噌そのものに栄養があり、具を煮た煮汁ごと食べるため、その具の栄養も一緒に摂れるすぐれた健康食品だからである。鍋物は具沢山のため、尚、一層の栄養を摂ることができる。
食品には、大きく分けて3つの機能があり, 1次機能とは栄養、2次機能とは味、3次機能とは体調を整えたり病気を予防する働きのことだそうだ。3次機能をもつ食品を、とくに「機能性食品」と呼ぶそうだ。
みその機能性については、科学的に究明され、多くの効用が解明されつつあるようだが、このような機能性は、継続的に食べることによって威力を発揮するものだという(※15、※16参照)。
そして、このみそ汁のうま味は、味噌、だし、具のそれぞれが持つうま味が一体となって生まれるものであり、したがって、美味しいみそ汁を作るには 出汁(だし)をしっかりとる事、味噌の種類、具の組み合わせ方が決め手となるようだ。
今年のような寒い冬などには、味噌汁は体も温まるし、是非、食べたい食べ物ではある。

(冒頭の画像は、豆腐の田楽を長方形の焼き火鉢で一人で焼きながら食べている。『地口絵手本』個人蔵。NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第一巻生活編209pより。木の芽味噌、辛子味噌などいろいろな味噌をつけた。・・とある。)

参考:
※1:全国味噌工業協同組合連合会
http://zenmi.jp/
※2:みそ健康づくり委員会
http://miso.or.jp/
※3:食育・食生活の指針の情報センター
http://www.e-shokuiku.com/outline/
※4:メチャ買いたい.com:おかずみそ |
http://food.mechakaitai.com/seasoning-miso/%E3%81%8A%E3%81%8B%E3%81%9A%E5%91%B3%E5%99%8C.html
※5:芭蕉DB
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/basho.htm
※6:絵本詞の花(えほんことばのはな) 二巻  一冊
このサイトはリンクできないので、上記で検索してください。
※7:芭蕉、蕪村、子規の俳句と能Adobe PDF)
http://atlantic.gssc.nihon-u.ac.jp/~ISHCC/bulletin/01/104.pdf#search='%E3%81%82%E3%82%89%E4%BD%95%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%AA%E3%82%84+%E8%AC%A1%E6%9B%B2'
※8:国立国会図書館デジタル化資料 - 守貞謾稿. 巻1,3-16,18-30,後集巻1-4
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2610250
※9:紅葉豆腐の謎 | お豆腐ランド
http://www.toyoshinpo.jp/tofu/3298
※10:林春隆『新撰豆腐百珍』「豆腐の今昔」
http://plaza.rakuten.co.jp/amizako/diary/200510060002/
※11:林春隆『新撰豆腐百珍』「ひ之部」「も之部」「せ之部」「す之部」
http://plaza.rakuten.co.jp/amizako/diary/200509300002/
※12:百人女郎品定 - 古典籍総合データベース
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%95S%90l%8F%97%98Y%95i%92%E8
※13:東海道名所図会 絵引データベース
http://www.himoji.jp/database/db07/tokaido/
※14:栗東の名物-目川田楽と菜飯 - 広報りっとう
http://www.city.ritto.shiga.jp/koho/1107/071_4.html
※15:みそは医者要らず!
http://www.koujiya.com/site/shinobu/study/function.html
※16:宮城県味噌醤油工業協同組合 - みその機能性
http://www.omiso.or.jp/modules/tinyd3/index.php?id=6
日本鍋物研究会
http://www.nabe-ken.com/index.html
古典籍総合データベース:地口絵手本 / 梅亭樵父 筆
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he09/he09_03605/index.html
浮世絵事典・ふ☆ ふく 河豚
http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/ukiyoeyougo/hu-yougo/yougo-hugu.html
堺と醤油 堺市立図書館
http://www.lib-sakai.jp/kyoudo/kyo_digi/monodukurisakai/monodukuri_syoyu.htm
鍋物大学
http://www.nabe-ken.com/column/gallery.cgi?mode=view&id=1202232048
味噌- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%B3%E5%99%8C

アーモンドの日

2013-01-23 | 記念日
日本記念日協会の今日(1月23日)の記念日に「アーモンドの日」がある。
記念日の由来は、“アーモンドは小さな1粒に10種類以上の良質な栄養素が詰まった天然のサプリメントで、とくに「若返りのビタミン」と呼ばれるビタミンE食物繊維ミネラル類、ビタミンB群をバランス良く豊富に含んだ健康食品である。
このアーモンド約23粒で日本人の成人女性に必要な1日の摂取目安量をまかなえることから、「1日23粒のヘルシー・アーモンドライフ」を推奨するカリフォルニア・アーモンド協会(※1)がこの「1日23粒」をアピールすることを目的に制定したという。
日付は1と23で「1日23粒」を表し、「1,2,3」の掛け声でアーモンドを食べる習慣を始めてもらうことから。“・・・・だそうである。

アーモンド(英名:Almond)は、バラ科サクラ属の落葉高木。およびそれから採ったナッツ[nuts]のこと。
ナッツのことは以前にこのブログ「7月22日「ナッツの日」」でも書いたことがあるが、アーモンド粒の形状が偏平なことから和名を「ヘントウ(扁桃)」と呼び、咽頭部の両側にあるリンパ組織の形がこれに似ていることから「扁桃腺」の語源となったという。また、「ハタンキョウ(巴旦杏)」あるいは「あめんどう」ともいう(※2:「GKZ植物事典」の日本語検索にて参照)。
和名の一つである「あめんどう」は、江戸時代にポルトガルを通じてこの実が持ち込まれたことからきているという。ポルトガル語のアメンドア〔amendoa〕が転じて、アメンドゥ、もしくはアメンドースと呼ばれていたそうだ(コトバンク)。
ちなみに、英語のアーマンド〔almond〕、フランス語アマンド〔Amande〕と呼ばれるアーモンドの語源は、古代ラテン語のアミグダラ〔amygdala〕、古代ギリシア語のアミダグレーに由来しているそうだ。
アーモンドの原産はアジア西南部。現在では南ヨーロッパ、アメリカ合衆国、オーストラリアなどで栽培されており、アメリカ合衆国のカリフォルニア州が最大の産地である。日本では小豆島などで栽培されている。
このアーモンドの木は、バラ科さくら属であることから、その花はに大変よく似た五弁の淡いビンク色の可愛いもので、く2~3月にかけて一斉に開花する。
わが地元神戸市の東灘区深江浜町30番地に、アーモンドの菓子類を製造している東洋ナッツ食品株式会社(※3)というところがある。この工場では、1986(昭和61)年以来、阪神・淡路大震災で3年間の中断はあったが、その後も毎年、「アーモンドフェスティバル」を開催している。
私もちょうど10年前の2003(平成15)年に工場へ見物に出かけたが、なんでも、カリフォルニアの得意先からアーモンドの苗木を譲り受け、その苗木を工場前庭に移植したものだそうだ。
阪神電鉄深江駅から、工場までの道路際にも植えられており、桜より少し早い時期に花見が出来て、年々好評のようだ。

上掲の画像は、東洋ナッツ食品株式会社深江の工場で撮ったアーモンドの花(2003年03月19日撮影)である。
アーモンドの果実は、殻、果肉、核、仁からなる。アンズ、モモやウメの近縁種だが果肉は薄く、食用にならない。食用に供しているのは仁(上図参照)の部分である。

※上掲の画像はアーモンドの実。写真は、google写真より借用している。
果肉と種子の殻を取り除いた仁(生アーモンド)を炒って、もしくは揚げて食用とする。
そのまま塩味をつけて食べるほか、スライスしたり粉末にしたものを料理(コルマなど)や洋菓子(フィナンシマカロンアマレッティヌガーマルチパンなど)の材料にする。
種子を水につけてからアーモンドミルクを絞って飲料とすることもある。イランでは、未熟果をホーレシュという煮込み料理に用いるそうだ。
アーモンドの種類としては、 大きく分けると、スイート種(スィートアーモンド[sweetalmond]、甘扁桃仁)とビター種(ビターアーモンド[bitter almond]、苦扁桃仁)がある。
後者のビター種(苦扁桃仁)は、 野生種、或いはそれに近いアーモンドの木から穫れるもの。
それに含まれるアミグダリンという青酸化合物によって苦い味がして一定量以上摂取すると有毒であり、食べられない。日本へは食品として輸入することはできない。
ビター種には、鎮咳(ちんがい)鎮痙(ちんけい)などの薬用、ベンズアルデヒドを多く含むため着香料、ビターアーモンドエッセンス、オイル(苦扁桃油)の原料として用いられている。
食用にされるもののほとんどは前者のスイート種で、 スイートアーモンドには細かく分けると100以上の品種があるらしく、その主な品種は、ノンパレイユ(Nonpareil)、カリフォルニア(California)、カーメル(Carmel)、ミッション(Mission)、ビュート(Bute)などだそうである(その特徴などは※4参照)。
先にも書いたように、アーモンドには、食品の中でもビタミンEが最も多く(含有100グラム中約30ミリ・グラム)含まれている。ビタミンEは活性酸素による体細胞血管酸化を防ぐ抗酸化作用(※5参照)の強い脂溶性ビタミンであり、老化の予防に役立つ。
また、悪玉コレステロール(LDLコレステロール。※6参照)の酸化を抑制し、過酸化脂質の生成を防ぎ、心臓病糖尿病など生活習慣病の予防にも役立つ。
また、アーモンドの食物繊維の量は、牛蒡の約2倍、薩摩芋の約4倍、玄米の約7倍といわれ、豊富な不溶性食物繊維(※15のここ参照)は腸の働きを活発にして整腸を促してくれる。
他に亜鉛マグネシウムカリウムなど様々なミネラルがバランスよく含まれている。
この様に、アーモンドには、10種類以上の豊富な栄養素が一粒に詰まっているので「天然のサプリメント」とも呼ばれている。アーモンドの種子から絞ったアーモンドオイルは、料理に使われる他、キャリアオイルとしても用いられる。
アーモンドの効用は、紀元前から認められており旧約聖書の中にも記述されている。
旧約聖書は、一冊の本ではなく、39書もの正典と、外典からなっている(※7参照)が、アーモンドは創世記出エジプト記民数記の3記、伝道者の書(コヘレトの言葉)、エレミア書の2つの伝道書に合計9節の出典がみられるそうだ。
その象徴する所は多様で、豊かさ(多産)、神の祝福(約束、あるいは奇跡)、価値ある贈り物、神へ捧げる聖なる燭台、神の復活、目覚め(再生/春の訪れ)、神が見張っている事(神の目)と非常に宗教的には重要な要素を象徴しているという(※8:「アーモンドとは? 」の旧約聖書におけるアーモンを参照。尚、各書については※9を参照)。
いずれにしても、狩に出かけなくても毎年、決まった食料が取れることから、人類が樹木の栽培をする、きっかけになった木の一つだとも言われている。
このアーモンド栽培の歴史は、参考※8:「アーモンドとは? 」に詳しく書かれているが、概ね以下のようである。
アーモンドはメソポタミア地域では、紀元前4000年頃から食用にされていたようであり、ここから始まり、その後、地中海に沿ってシナイ山麓(シナイ山 - goo辞書参照)からナイル川沿いのエジプトやヒッタイト(現トルコ)へと栽培が広がり、やがてギリシャを始めとしたヨーロッパの地中海沿岸の諸国へともたらされることにる。
古代エジプトでは紀元前1352年、ツタンカーメン王が亡くなると、王の墓には死後の旅路の食糧として、アーモンドが入れられたと記述が残されているそうであり、ギリシャ神話でもフリュギア(現在のトルコ)で昼寝をしているゼウスから生まれた女神キュベレ(Kybele)の体の一部から熟した実をつけたアーモンドの木が生えたといわれている(アッティスまた、※「8:アーモンドとは?」のギリシャ神話におけるアーモンドを参照)。
アーモンドはアレキサンダー大王東方遠征(途中で死去)がアーモンドの栽培がギリシャから更に西方のヨーロッパへと広まっていった時期と、ほぼ同じであることから、アレキサンダー大王によって本格的にその栽培地域が地中海沿岸の西方地域へと伝えてられていったのではないかとされている。
そして、アーモンドがカリフォルニアに伝えられたのは18世紀の中頃、スペインの宣教師フニペロ・セラ神父によってもたらされたと伝えられているそうだ。
18世紀の中頃から19世紀にかけて、フランシスコ派イエズス会はミッション・サンディエゴ・アルカラを起点にカリフォルニアを北上し、ソノマまで21のミッション(伝導所)を創設していった(カリフォルニア・ミッション参照)。
セラ神父の功績はその伝導活動に留まらず、ミッション(伝道所)の周辺にアーモンドやぶどうを植え、今日のカリフォルニアにおけるアーモンド産業やワイン産業の礎を築いたといわれているという。
アメリカでは東部のニューイングランドや中部諸州でも栽培が試みられたと記録されているそうだが、商業生産が定着したのはカリフォルニア州だけで、本格的な生産が始まったのは1840年代のことだという。
そして、2000年代に入り、カリフォルニアのアーモンド産業は地中海沿岸諸国の生産量を遥かに超える10億ポンド以上の生産量を誇り、世界の8割以上のアーモンドを生産する主産地へと発展してきたという。
そして、日本へは、1950年代に本格的な輸入が始まり、お菓子の材料やスナック等、幅広く食品や料理に利用されている。

さて、先にアーモンドの歴史の中では、“フニペロ・セラ神父の功績は、その伝導活動に留まらず、ミッション(伝道所)の周辺にアーモンドやぶどうを植え、今日のカリフォルニアにおけるアーモンド産業やワイン産業の礎を築いたといわれている。”と書かれている。
確かに、ミッション(伝道所)の周辺にアーモンドを植え、アーモンド産業の礎を築いたとのは、セラ神父の功績かもしれないが、このセラ神父について、Wikipediaには以下のようなことが書かれている。
セラ神父は、カリフォルニアでの伝道(ミッション)を、イエズス会のやり方に倣った。
武装したスペイン軍隊と共にセラはインディアン(アメリカ先住民)たちの平和な村々を襲い、酋長や呪い師を「異端者」として真っ先に捕え、拷問を加えて脅迫し、火炙りにしてこれを殺した。
大人も子供も構わず、インディアンたちを動物のように捕まえ、柵の中に追い込み、「死にたくなければカトリック教徒に入信するように」とインディアンたちを脅迫し、逆らう者たちを殺した。
セラが率いるフランシスコ会によるカリフォルニア支配が始まって3年の間に、カリフォルニアのインディアンの3分の1から4分の1が死んだ。
セラは洗礼させた言語の違う多数の先住民(インディアン)達をひとまとめにして、伝道所へ拉致連行し、「ミッションインディアン」(スペイン・カソリックに改宗させられた諸部族)として奴隷化したという。
「ミッション・インディアン」はプランテーション (plantation) での労働を強制された。
プランテーション>とは、大規模工場生産の方式を取り入れて、熱帯、亜熱帯地域の広大な農地に大量の資本を投入し、先住民や黒人奴隷などの安価な労働力を使って単一作物を大量に栽培する大規模農園のことである。このプランテーションで、アーモンドも作られた。
プランテーションでの労働では、満足な食事も与えられずインディアンたちを栄養失調で苦しめた。
セラの下で奴隷労働させられたミッション・インディアンたちは、同時期のミシシッピ州、アラバマ州またはジョージア州の平均的な黒人奴隷に与えられたカロリー摂取量の半分以下しか許されなかったという。
また、もう一つの問題として、栄養価の問題があり、セラがミッション・インディアンたちに強いた食事内容には、ビタミンAとC、さらに高品質のタンパク質とリボフラビンが深刻に不足していた。その結果として生じたのがひどい栄養失調であった。
このような状況下で、当時、スペイン人が持ち込んだ疫病は野放しで、梅毒、結核、麻疹、天然痘、腸チフス、インフルエンザの流行が、すべてのインディアンたちを襲っていた。
伝道所では、地域によって様々であるようだが基本的には、土着の宗教と文化、言語を否定し、強制的にカソリックに改宗させる場所であったようだ。
食事も最低限のカロリーしか与えられず、多くの者が、過労や栄養失調、その上に、不潔で窮屈な生活環境の中で、彼らを感染症に一層かかりやすくし、そして、飢餓、病によって、驚くべき死亡率で死んでいったのだという。
インディアンに対する洗脳同化教育は、全米で行われていたが、主に子供中心であった様だが、カリフォルニアの修道院教育は家族まとめて教育するもので、徹底していたらしい。
そして、亡くなると、次々と補充され、そうして先住者たちは絶滅に追いやられていった。つまり、伝道所とは名ばかりで、現実には、奴隷労働力のための強制収容所のような存在だったようだ。
このようなカリフォルニアのインディアンに対して行った残虐行為とその残忍性から、作家のジョージ・モンビオット(英語版)はセラを「カリフォルニアのアドルフ・アイヒマン」と呼んでいるという(『ガーディアン』(「George Monbiot – The Holocaust We Will Not See」,George Monbiot,2010年1月11日。この翻訳をしたものがある。参考※10参照)。
これが真実かどうかは知らないが、考えられないことではないので、このようなものを見ていると、歴史というものは、単に、表面上の一面的なことのみを見ていてはだめだな~ということを改めて考えさせられた。
私は、日本の時代劇が好きだが、これと同様に、アメリカの西部劇も大好きだ。
若いころに見た西部劇で、ジョン・ウエインが制作、監督、主演をした西部劇映画「「THE ALAMO」(1960年公開.。※11参照)を思い出す。
「THE ALAMO(アラモ)」とは、アラモ砦、アラモ伝道所 のことである。
この映画は、当時メキシコ領であったテキサスの、アラモ砦に立てこもったアメリカ人と、それを包囲攻撃するサンタ・アナ率いるメキシコ軍との壮絶な戦い・・・、アメリカ西部開拓史上に有名な「アラモ砦の戦い」を描いた作品である。
アラモ伝道所は、正式名称はサンアントニオ・デ・バレロ伝道所(Mission San Antonio de Valero)。
もともと聖域と周辺の建造物を包含していたこの施設は、地元のインディアンをキリスト教へ改宗させる教育のために、18世紀にスペイン帝国によって建設されたもの。つまり、その目的は、前記のカリフォルニヤの伝道所と同じ目的で、建てられたもの。多くの現地人が、スペイン人宣教師に、改宗させられ、苦汁を強いられていたことだろう。
映画「アラモ」では敵役にされているサンタ・アナであるが、1810年~1821年のスペインからのメキシコ独立戦争では活躍し、スペインの再征服を返り討ちにした1829年の戦いで、メキシコの国民的英雄となり、「西部のナポレオン」と自称していたそうだ。
1833年大統領に選出されるも、各地で保守派の反乱が頻発し、独裁体制を築こうとする。その中でテキサス州も反乱を起こし、鎮圧に乗り出したのが、アラモの戦いであったのだ。
この映画の内容そのものに対する評価はいろいろだが、ディミトリ・ティオムキンの名曲「遥かなるアラモ」「アラモの唄」「皆殺しの歌」などと共に、非常に印象に残っている映画だ。
ついでだからちょっとその名曲を聴いてみますか。
懐かしの名シーンとともに曲を楽しむなら以下が良い。
John Wayne's "The Alamo" in 8.5 minutes with Original Soundtrack –YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=EWmr0Afr4f8

名曲そのものを堪能したいのなら以下が良い。
The Alamo - Main Title~ Dimitri Tiomkin
http://www.youtube.com/watch?v=UuGy6ykIiQ0

アーモンドは蛋白成分に鎮痛効果があること、食物繊維が多い事から便通に良い、あるいはカルシウムが多いことからイライラ解消に効く等、その栄養成分の効果が古くから知られていたという(※8:「アーモンドとは?」の薬草史におけるアーモンド参照)。
このアーモンド、現在日本では、スナックやおつまみをとして、食べられることが多いのではないかと思うが、お菓子の材料としてのアーモンドは大変古く、アーモンドペーストで出来たマジパンは、 古代よりお祭り用のお菓子の材料として珍重されてきたようだ。
このマジパンの詳しい作り方を書いた一番古い記録は、イタリアのパティストであるプラチナムという人が 15世紀に書いた料理書だそうだが、マジパンそのものは紀元前の時代から用いられてきた様で、 粉状に砕いたアーモンドにハチミツや砂糖を混ぜる様子が古代の壁画等にも多数描かれているという(※8:「アーモンドとは」のアーモンドのお菓子の始まり参照)。

アーモンドの種類には、スイートアーモンド、ビターアーモンド以外に、アプリコットカーネル(apricot kernel、の仁=杏仁) がある。
アプリコットカーネルの木は中国原産であるが、古代ローマ時代にヨーロッパで栽培が盛んになり、後に中東地域へと伝わった。
アーモンドより通常小型で、中国ではアーモンドと混同されているそうだ。
この種は、ビターアーモンドと同様の香りを持つことから代用としても使用出来るそうで、古くから杏仁豆腐の材料としても用いられている。

上掲の画像は杏仁豆腐。画像は、Wikipediaより借用。
杏仁豆腐は、本来は薬膳料理の一種で、喘息・乾性咳嗽(咳)の治療薬であるアンズ類の種の中の仁=杏仁(きょうにん、中国語では「シンレン」)を粉末にしたもの(杏仁霜)を、苦味を消すために甘くして服用しやすくした料理。
杏仁には薬品用の苦みの強い苦杏仁と食品用の苦みの弱い甜杏仁があり、杏仁豆腐に使用されるのは後者である。
日本では完全な嗜好品・デザートとして扱われているため、実際には杏仁を使っていないものが多く、現在日本のスーパーマーケット等で杏仁豆腐として売られているものは、ほとんどが杏仁と似た香りを持つアーモンドエッセンスを用いて作ったものだそうだ。だから、杏仁豆腐は、一種独特の香りと味がするのだね~。
あんずの種子からは良質のキャリアオイル「アプリコットカーネルオイル」も作られる(※13)。

現在、アーモンドなど食品としてのナッツ類は、栄養価の高い高カロリー食品であることはよく知られており、「ナッツは健康食」として推奨されている。
カロリーとは、食べ物や運動の熱量などを表現する「エネルギーの単位」のことである。
1kcal(キロカロリー)は1gの水の温度を1℃上昇させるのに必要な熱量を意味している。
一般的な成人の摂取カロリーの目安は、だいたい1800kcal~2200kcal前後である。しかし、年齢を重ねるほど、体内の代謝は悪くなるので、基礎代謝量は減ってしまう。ということは、摂取するカロリーも少なくていいわけである。また女性より男性の方がカラダも臓器も大きいため、基礎代謝量は高くなる。
カロリーには、食べ物によって体内に入る摂取カロリーと生命維持や運動などにより消費される消費カロリーがある。摂取カロリーに比して消費カロリーのバランスが取れていることが肝要となる。
例えビタミンEが身体に良いといっても、取りすぎは良くない。やはり何事も「ほどほど」ということだろう(※14、※15のビタミンE参照)
体を動かすとカロリーは消費され、ジョギングを20分程行えばで80kcal程消費するといわれている。
健康のために体重を減らすには食事による摂取カロリーを減らし、体が使う消費カロリーを増やして、カロリー収支をマイナスにすることことが基本である。
しかし、そのためには、運動などで消費するカロリーについてもそれなりの知識を持っておかなければいけないだろうし、1日の摂取カロリーの計算もしなければいけないが、摂取量全てを計算するのはなかなか難しいことだ。
以下では、そんな、カロリーダイエットを徹底解説しており、食品別、料理別のカロリー計算や、標準体重、BMI、体脂肪、摂取カロリーなどの測定もできるようになっている。
私も、このようなことについては、何も知らないので、今日を機会に、ちょっと勉強しておこう。
カロリー計算コントロール
http://www.no1-diet.com/

(冒頭の画像は、フィンセント・ファン・ゴッホ「花咲くアーモンド」複製画。ゴッホが死の半年前、収容されていたサン・レミの精神病院で描いたといわれるこの絵。ゴッホと彼の無二の理解者であり、その生活と創作活動を支えてきた弟 テオ家族との絆を語る特別な一枚だという。その理由は以下参考の※12 参照)

参考:
※1:カリフォルニア・アーモンド協会
http://www.californiaalmond.jp/
※2:GKZ植物事典日本語検索(総索引)
http://www.t-webcity.com/~plantdan/index.html
※3:東洋ナッツ食品 株式会社
http://www.toyonut.co.jp/
※4:アーモンドのお話(グリコHP)
http://www.ezaki-glico.com/almond/index.html
※5:「抗酸化作用」研究ノート:抗酸化作用とは
http://o2.blogsnation.net/c.php/1/
※6:悪玉コレステロールを下げる方法!
http://www.koresuteroru-sageru.net/index.html
※7:旧約聖書
http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/kyuyaku.html
※8:アーモンドとは?
http://www.bdalmonds.com/index.html
※9:カテゴリ:旧約聖書 (口語訳)-Wikisource:
http://ja.wikisource.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA:%E6%97%A7%E7%B4%84%E8%81%96%E6%9B%B8_(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)
※10:[私的翻訳][映画]アメリカ原住民虐殺のメタファーとしての「アバター」:ジョージ・モンビオット(英ガーディアン紙)
http://d.hatena.ne.jp/cameracamera/20100120/p1
※11:アラモ(1960) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/p530/index.html
※12:名画デスクトップ壁紙美術館 ゴッホ・花咲くアーモンドの枝
http://stephan.mods.jp/kabegami/kako/AlmondTree.html
※13:アプリコットカーネルオイル - キャリアオイル
http://www.t-tree.net/carrieroil/apricotkernel.htm
※14:ビタミンE 取りすぎ注意 骨粗しょう症リスク高まる 慶大チーム
http://asahi-ph.2240.co.jp/article/14297381.html
※15:イートスマート>得する健康情報>栄養素を知ろう!
http://www.eatsmart.jp/do/contents/eiyoinfo/index
『抗酸化作用』 活性酸素 - About
http://allabout.co.jp/gm/gc/298902/
幻想万象資料館
http://homepage3.nifty.com/onion/labo/l-index.htm
摂取カロリー・消費カロリー大辞典
http://muuum.com/calorie/1010.html
聖書の植物(日本ナザレン教団)
http://www.nazarene.or.jp/plants-in-bible-1.htm
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
アーモンド - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%89

大寒

2013-01-20 | 行事
今日1月20日は二十四節気の第24「大寒」.である。
『暦便覧』では「冷ゆることの至りて甚だしきときなれば也」と説明している。
大寒は、一年で最も寒さが、厳しくなる時期ということ。。
1月5日の小寒から数えて15日後、小寒から大寒までの15日間と大寒から立春までの15日間、あわせて30日間を「寒(かん)の内」という.
武道などではこのころ寒稽古などが行われるが、私のお寺でも、寒修行が行われている。
また、 寒気を利用した食べ物(凍り豆腐、寒天、酒、味噌など)を仕込む時期ともされている。
「大寒の日には何を食べる」という決まりはないが、『一年のうちで一番寒い日』とされる大寒には 温かいものを食べよう!と、様々なレシピが紹介されたりしているが、身体を温める 香辛料や生姜にんにく・お酒類などを使用した料理が多く、 シチューや鍋ものなども大寒にはピッタリのメニューである。
その中でも、最近は、特に人気のあるのが生姜のようだ。
先日(1月15日)、NHK「あさイチ」、”スゴ技Q” で、”これぞ究極 ウルトラ蒸しショウガ”と題して、冷え性の人には乾燥させた生姜よりもさらに体を温める効果が強い「ウルトラ蒸しショウガ」が良いと、その作り方や効能を紹介していた(※1参照)。

冒頭の画像は、それをまねて百均の店で買ってきた「多用途ネット」で、蒸した生姜を乾燥させているところ。
炊き込みご飯の中に ショウガを千切りにして入れる「生姜ご飯」や鍋物に薄切りの生姜を入れると、香りもよいし体が温まる。
また、紅茶に生姜を入れたり、蜂蜜に混ぜてお湯を入れて飲むのも良い。それに、朝の散歩やジョッギングの前に、蒸し生姜を少し食べておくと脂肪燃焼率が向上して効果的・・・・。興味があれば、同ホームページ(※1)を覗かれるとよい。

また、甘酒は疲れを癒し、身体が温まる飲み物として大寒の頃がもっとも飲まれている・・ということから、瓶入りの甘酒を販売してきた森永製菓株式会社が、1月20日を「甘酒の日」に制定しているが、甘酒も寒い冬には体が温まる良い飲み物ではあろう。
記念日「甘酒の日」については、前に、このブログでも書いた(※2参照)。

1月20日は、「二十正月」ともいう。
二十日正月とは、[松納め」、「正月送り」また、「あがり正月」などともいい、正月の終りとなる節目の日であり、餅や正月料理を食べ尽くしたり飾り物を納めたりする日だが、我が家にはもう正月の気配はない。
かつては正月の祝い納めとして仕事を休む物忌みの日であった。万事のんびりした昔の人もこの日の行事をもって正月を終了したようだ。
二十日正月についても前ににこのブログで書いている(※3参照)。
私も、正月気分から抜け出して、明日からは、このブログ作りももう少し真剣に取り組むようにしよう・・。

参考:
※1:NHKあさいち:スゴ技Q これぞ究極 ウルトラ蒸しショウガ
http://www.nhk.or.jp/asaichi/2013/01/15/01.html
※2:1月20日「甘酒の日」・・・今日のことあれこれと・・・
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/f5bab7e3664afe04482425279487a967
※3:二十日正月。
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/03f7c19092193a490e16bfa4e6b8c773


分割・民営化された最後の国鉄総裁を務めた杉浦喬也 の亡くなった日

2013-01-16 | 人物

今日1月16日は、元運輸官僚で、分割・民営化された国鉄の最後の総裁を務めた杉浦喬也(すぎうら・たかや)が死去(2008年)して5年目になる。
杉浦は1925(大正14)年8月15日東京大森で生まれ、東大経済学部卒業。1951(昭和26)年に運輸省(現国土交通省)へ入省。
1969年鉄道監督局国鉄部財政課長に就任の後、国鉄部長になる。1982(昭和57)年から運輸事務次官を務める。
1982(昭和57)年7月、第2次臨時行政調査会国鉄(日本国有鉄道)の分割・民営化を答申。
運輸事務次官を退官後、1985(昭和60)年6月、国鉄分割民営化に消極的で非分割民営化を推進していた仁杉巌第9代国鉄総裁が、当時の中曽根康弘内閣総理大臣の強い意向を受けて辞任、その後任を受ける形で6月25日第10代国鉄総裁に就任した。就任後、分割民営化を取り仕切り強力に推進。
民営化後は、旧国鉄の債務を引き継ぐ国鉄清算事業団の初代理事長に転じ、1991(平成3)年全日空会長に就任。1999(平成11)年、勲一等瑞宝章受章。平成20年1月16日死去した。<享年82歳>。

大学卒業後、運輸省に入省し、国鉄と並走するが如く運輸官僚人生を駆け抜けた杉浦の推進した国鉄分割民営化の方法やその評価について、意見は様々ある。
今日はそんな、杉浦個人のことを書くつもりはない。ここでは、世界に誇る日本の鉄道・・・・、かっての国鉄が民営化に至るまでの軌跡を簡単に追ってみようと思う。

明治維新の翌年、明治新政府は東西両京を結ぶ鉄道幹線と定め、東京―横浜間と、琵琶湖から敦賀港に至る線を支線とすること、また、これを官営によって建設することを決定し、鉄道建設を開始した。
そして、日本の鉄道が、新橋駅 - 横駅間で正式開業したのは1872(明治5)年9月12日(旧暦新暦だと10月14日)のことであった。ただし、実際にはその数か月前から品川 - 横浜(後の桜木町)間で仮営業が行われていた(※1)。
冒頭に掲載の画像は、“浮世絵に描かれた開業当初の鉄道(横浜)”、 画像はWikipediaより借用。
鉄道は大評判となり、開業翌1873(明治6)年には大幅な利益を計上したが、運賃収入の大半は旅客収入であった。
この結果「鉄道は儲かる」という認識が広まった。また旅客と貨物の比率について、鉄道側に貨物運用の準備不足もあったが、明治維新直後で近代産業が未発達な時期であり「運ぶ荷物がなかった」事も考えられる。
京浜間と同時に工事が進められていた京阪神地区も順調に建設が進み、1874(明治7)年5月11日には大阪駅 - 神戸駅間が開通したが、この時は仮開業として扱われ、開業式が行われたのは1877(明治10)年に京都駅まで延伸した時であった。尚、1875(明治8)年5月官鉄の神戸工場で輸入車両車軸による、客貨車を製造(客貨車の日本初国産)が行われている。

上掲の画像は「日本最古客車図」(Wikipedia-日本の客車史 より)。
1872(明治5)年に開業した日本最初の鉄道は、順調にスタートしたが、これらの鉄道は国による建設であり、国有国営を旨としていたものの、その後、1877(明治10)年に勃発した西南戦争による政府財政の窮乏により、新規建設は東海道線(1889年=明治22年全通)などを除いてほとんど停止.。幹線鉄道網の一部は政府の保護を受けた半官半民の会社としての日本鉄道などの私鉄により建設された。
しかし、日清(1894年7月~1895年3月)・日露( 1904年2月~1905年9月)の両戦争を経て、軍事輸送の観点などから鉄道国有論が高まり、1906(明治39)年に鉄道国有法が制定され、日本の鉄道網は基本的に国が運営することとなった。
これにより、1906(明治39)年から翌年の1907年(明治40年)にかけて、17社(被買収私鉄の一覧参照)の2,812哩(約4,500km)が買収された。買収前には1,600哩(約2,600km)に過ぎなかった官設鉄道は、4,400哩(約7,100km)と3倍に増え、私鉄は地域輸送のみに限定されることとなった。
その後も鉄道敷設法に基づいて、私鉄の買収国有化が行われた。
明治維新によって新政府が発足した当時、アジアでは欧米列強諸国による植民地化が進んでいた。
日本はそれを避けるため、富国強兵による近代化を図った。鉄道の敷設も、その一策であった。
欧米では、極東の鎖国をしていた島国の日本が、当初は日本に鉄道技術がなかったにもかかわらず、外国人技師の指導を受けながらも、明治維新より僅か数年で自前の鉄道を完成させたということには、驚嘆の声が上がったといわれる。
Wikipedia(日本の鉄道史)には、歴史家のアーノルド・J・トインビーが、「人類の歴史の奇跡の一つは、日本の明治以降の近代化である」と述べていたが、新橋駅 - 横浜駅間開業から30年余りで7000kmを突破した日本の鉄道網が、その近代化を支えていたのは間違いない。・・・とあるが、私もその通りであろうと思う。

このように、鉄道国有法以降、第二次世界大戦直後までは、国(鉄道寮→鉄道院→鉄道省→運輸省)が全国の主要路線(国有鉄道)を直接運営していたが、終戦直後の一般産業は戦争の影響で停止した状態に入っており、国民の足といわれ、国民の動脈といわれている国鉄は、一瞬たりとも休止することを許されなかったが、その国鉄も、8年有余にわたる戦争により軌道は、全延長キロの約5%が戦災被害を被り、さらに、鉄道施設・車両も荒廃し、旅客も貨物も全く輸送需要に応じきれないという状態であった。
その上、労働力、それに石炭・鉄鋼(鉄を主成分とする金属材料の総称)等資材も不足しており、戦災で焼かれた駅舎はもちろん、ホームの屋根すら修理することができず、また、洪水等で流された橋梁も復旧できず、木製の仮橋で間にあわせるというような事態すら生まれた。
このような施設・車両の荒廃のさなか、1947(昭和22)年2月の八高線(小宮駅 - 拝島駅間の多摩川橋梁上)、同年4月の京浜東北線田端駅(※2)での追突事故、同年8月山陽本線(万富駅通過中(※3:「きはゆに資料室」の事故と安全対策の歴史参照)の脱線・転覆事故等重大事故及び荷物・貨物の紛失・盗難等が続出して、国有鉄道の体質・モラルの荒廃が議論の焦点とさえなっていた。したがって、国有鉄道の制度を根本的に改め、一刻でも早く輸送の正常化を図る必要性が生じていた。
そして、1949(昭和24)年、6月1日に国有鉄道は公共企業体公社)として改組され、日本国有鉄道の名称で発足した。
この公共企業体としての発足は、1872(明治5)年以来、官設官営の方式をとってきた国有鉄道にとって、根本的な改革を意味するものであったが、このような抜本的な改革の背景には、占領体制下にあって、当時絶対的権力を保持していたGHQの意向があった(のちに触れる)ものの、例え、そうでなくても、戦後の国有鉄道には早急に取り組まねばならない事情が多くあった。
国有鉄道では、日中戦争以後、戦争遂行のために女子、年少労働者の雇用が増大し、1944(、昭和19)年には、職員数は1936(昭和11)年の約2倍に達していた。
その後、終戦とともに軍召集者・引揚者の増加や戦災復興への着手等の業務のための新規採用もあって、職員数はさらに増大し、1947(22)年度には61万人(約51万人とも)にも達していたという(※4また※5:「国鉄があった時代」の労働運動と国鉄参照)。
このような状況のもとで、1949(昭和24)年7月、行政機関職員定員法(詳しくは、※6:「日本労働年鑑」の第23集(1951年版)>第三部 労働政策第二編 政府の労働政策 第五章 行政整理の”ここ ”参照)に基づく国鉄職員9万 5,000人(75000人とも(※4また※5参照)という大規模な人員整理が実施された。
一方、労働組合法(昭和二十年法律第五十一号)の成立(最終改正昭和24年6月1日)を契機として1946(昭和21)年2月には、国鉄労働組合総連合会が結成されていたが、最初の労働争議は、同年9 月に起こった、いわゆる 9.15 争議((国鉄総連は9月15日ゼネストを予定)とよばれるものであった。
これは、終戦後の未曾有の赤字に対処する経営の合理化の必要から生じた人員整理問題に端を発したものであるが、スト突入寸前に至り、運輸大臣の介入等により収拾した。
続いて翌1947(昭和22)年には、全官公庁労組のいわゆる2.1 ストが発生した。
これは、給与問題に端を発したものであり、これもまたゼネスト突入寸前に至り、マッカーサーの中止指令により中止された。しかしながら、この争議後も地域闘争、職場離脱等が各所で起こっていた。
1948(昭和23)年国家公務員法が施行された際、GHQは、マッカーサー書簡(同年7月付)を日本政府に送り、公務員の争議権を否認した。
それは、労働運動に対する政策という観点から、公共企業体としての国有鉄道の改編を指示したものであり、そこでは、国営企業の民主化及び現業部門の運営の能率向上等の理由から、鉄道現業部門を運輸省から切り離すべきであるという考え方が有力であった(※4)。
1949(昭和24)年6月、公共企業体としての日本国有鉄道の発足とともに公共企業体等労働関係法が施行され、国鉄労働組合(略称国労)は、この法律により規律されることになり、争議行為は禁止され、これに代わり調停、仲裁制度等が設けられることとなった。
このような状況を経て、上記7月の大規模人員整理は、組織的な争議を伴わず実施されたのであるが、この人員整理の進行中、 下山事件(1949年7月5日下山国鉄総裁変死事件)、三鷹事件(同年7月15日、三鷹駅構内での無人電車暴走事件)、松川事件(同年8月17日、松川での旅客列車脱線転覆事件)が続発している。
国鉄財政面では、軍需関係貨物の減少と石炭事情の悪化による輸送量の減少のため運賃収入は減収となる一方、インフレによる諸経費の増加、鉄道施設の戦災復旧のための多額の出費、さらに、これらの財源として多額の借入金を抱えたこと等から、昭和20年度には、創業以来初めて赤字を計上した。
しかも、赤字経営が長期化することが予想されたため、国鉄職員の整理と並行して、国鉄運賃を昭和20年度~23年度にかけて4度改定し増収をはかった。
しかし、民生の安定・経済の復興に重要な役割を果たすことから、運賃水準をできる限り低水準に抑えたため、国鉄運賃は、物価の上昇に追随することが出来ず、国鉄財政は、引き続き物件費の高騰に悩まされることとなった。
その後、1950(昭和25)年にぼっ発した、朝鮮戦争に伴う特需景気により国内産業は活況を呈し、それに伴い、旅客・貨物輸出量とも増加したことなどから、国鉄財政は、昭和25年度及び昭和28年度の2年間は良かったもののこの2年間を例外として昭和20年代は、いずれの年度も赤字計上となった。
その後、国鉄財政は、昭和30年代こそ、高度成長期による輸出量の増大等に支えられて黒字経営が可能となったものの、40年代からは、再び構造的な赤字経営に落ち込むこととなった。
また、民営鉄道においても、朝鮮戦争後の資材の高騰と1950(昭和25)年のシャウプ勧告による税制の改正に伴う法人税等の引き上げ等により経営難に陥る中小民鉄が出てきた。
このため、1953(昭和28)年8月に地方鉄道軌道整備法(※5:「国鉄があった時代」のここ参照)が公布され、天然資源その他産業の振興上、特に重要な新線の建設の助成、赤字に悩む中小民営鉄道の救済をはからねばならない状況となっていた(※4参照)。
そのようなことから1949(昭和24)年に公共企業体(公社)として発足した日本国有鉄道(国鉄)の赤字解消のために再び改組が行われることとなった。
1986(昭和61)年11月に成立した国鉄改革関連8法に基づき、翌・1987(昭和62)年4月1日、国鉄は6つの旅客会社と1つの貨物会社のJRグループに分割・民営化された。この年は、1872(明治5)年日本に初めて鉄道が開業してから116年目にあたる。
このほか同時期に電電公社(現:NTT)や日本専売公社(現:JT)を含めた三公社の民営化は自由民主党によって進められたが、分割・民営化に現場で辣腕を振るったのは、当時運輸大臣であった三塚博であったといわれている。
最後の国鉄総裁杉となった杉浦喬也は、鉄道監督局国鉄部財政課長に就任の後、国鉄部長になったころ自民党の有力な運輸族であった三塚博らと親しくなったとされている。
この国鉄の分割民営化は、経営が破綻に瀕した国鉄という全国一元的な経営形態を解体・再編し、経営の効率化や長期債務処理、労使関係の正常化、鉄道事業の再生を図る「世紀の大手術」であった(※7:「運輸白書」の昭和61年度運輸白書:第2章:第2節 分割・民営化による国鉄事業再生への取組み 参照)。

国鉄最後の日の3月31日国鉄は6000円(子供は3,000円)で全国前線乗り放題というこの日かぎりの「謝恩フリー切符」を売り出し各列車は大混雑となった。各地でも記念行事が開かれ、東京駅では臨時列車「旅立ちJR」を一目見ようと鉄道ファンが殺到した。

上記の画像は国鉄最後の日の3月31日「旅立ちJR」を一目見ようと東京駅に殺到した鉄道ファン。画像は「朝日クロニクル週刊20世紀」1987年号より借用。

また、上掲のものは、2013年3月31日、早朝より神戸・三宮の駅で長い行列に並び、苦労して手に入れた私のコレクションの1つ「日本国有鉄道から西日本旅客鉄道ゆき」と記された1000円のオレンジカードである。1985(昭和60)年3月25日に、国鉄の関東圏の主要駅で販売が開始されたのち、全国で発売されたが今年・2013(平成25)年3月31日をもって発売を終了するとの発表があった(※8)。私は、発売駅の違うものを他に2種類持っているが、少しはプレミアが付くかな・・ヾ(´▽`;)ゝウヘヘ。

国鉄最後の日(汽笛オーケストラ)- YouTube
上掲の動画では、国鉄最後の日に、京都・梅小路機関車館でだと思うが、作曲家、指揮者である故山本 直純指揮による汽笛のオーケストラが聞ける。これはすごいのでぜひ見てほしい。

この国鉄改革をめぐる評価はさまざまである。
改革を推進した運輸省などは、次のような点を挙げて「大成功」だといっているようだ。
1、 国鉄時代は値上げの連続だった運賃が一部を除き民営化前の水準で維持されている。
2、 地域の実情にあったダイヤ設定、新規車両の投入、社員の接客態度の改善など、サービス内容が改善した。
3、 人員削減などの合理化により、生産性が向上した。
4、 労組のストが激減した。
しかし、仮に、これらを改革の「功(利点)」とすれば、その一方で、「負の遺産」も少なくはない。
1987(昭和62)年度当初、約37兆円にのぼった国鉄の長期債務は、約25.5兆円を国鉄清算事業団、残りは、新幹線保有機構が5.7兆円、JR各社が5.9兆円を引き継いだ。
同事業団は旧国鉄の土地や保有するJRの株式を売って借金返済にあてたが、返済の穴埋めのため借金を重ねた結果、債務は逆に1998(平成10)年度当初で約28兆円に膨らんだ。
政府は、同年10月に「日本国有鉄道清算事業団の債務等の処理に関する法律(債務等処理法)」(※9)を制定し、同年から60年間かけて返済する処理策を決めた。
そして、国鉄清算事業団は解散し、同事業団の業務は、日本鉄道建設公団(国鉄清算事業本部)に引き継がれ、このうち、年金等の負担費用である3.9兆円を日本鉄道建設公団が承継し、残りの24.1兆円の債務を国が、0.2兆円をJRが負担することとなったという。・・・、財源の大半は、公的資金、つまり、国民の負担とされたのだ(※7の平成8年度運輸白書の第1部 国鉄改革10年目に当たってや、※10参照)。
また、輸送需要の少なさなど構造的に経営基盤が弱体なまま出発した北海道四国九州の三島会社とJR貨物は苦しい経営が続いている。
国鉄の赤字ローカル線を地元自治体などによる第三セクターが引き継いだ転換鉄道も、ほとんどが経営悪化に悩んでいる(JR 民営化から現在までの状況。また、※7:「運輸白書」の平成8年度運輸経済年次報告の図表 1-3-7表 JR旅客各社の営業利益及び経常利益の推移 参照)。
JR各社の収益・効率優先の経営姿勢に、安全面の不安を指摘する声も少なくない。
さらに、国鉄改革では、国鉄職員をいったん清算し、JRが新規に選別採用する方法がとられた。しかし、希望に反して、採用されなかった約7600人のうち、国労組合員ら1047人は1990年に同事業団を解雇されたが、不採用を組合間差別の不当労働行為だとして、地元JRへの復帰を求め、いまも裁判などで争いを続けている状況だという(「朝日クロニクル週刊20世紀」1987年版参照)。

2005(平成17)年4月25日に西日本旅客鉄道(JR西日本)の福知山線(JR宝塚線)塚口駅 - 尼崎駅間で発生した福知山線列車脱線事故は乗客と運転士合わせて107名もの死亡を出した。
同事故においては多くの問題が指摘されているが、国鉄時代から並行する阪急電鉄などの関西私鉄各社との激しい競争に晒されており、その影響からか、民営化後のJR西日本にも競合する私鉄各社への対抗意識が強かったとされて、私鉄各社との競争に打ち勝つことを意識するあまり、スピードアップによる所要時間短縮や運転本数増加など、目前のサービスや利益だけを優先し、安全対策が十分ではなかったと考えられている。
また、本件事故を起こした運転士は運転歴11か月で、運転技術や勤務姿勢が未熟だった可能性がある。この背景には、国鉄分割民営化後の人員削減策で、特にJR西日本においては他のJR各社と比べると長期間にわたって新規採用者を絞り、定年退職者がまとまった数になったのを契機に採用者を増やしたため、運転士の年齢構成に偏ったばらつきが出て、運転技術を教える中堅およびベテラン運転士が少なくなったとも言われており、これらもある意味での「負の遺産」といえるかもしれない。これら「負の遺産」の解決を迫られている国鉄改革はまだまだ過去の問題として放置してはおけないことがいろいろ残ってはいるようだ。

先にも述べたように、この国鉄改革(分割・民営化)をめぐる評価は、評価する人の立場や、何を重視するかなど見方によってさまざまであろう。そのことは、国鉄改革への評価と同時にそれを推進し、実行してきた人の評価にもつながるのだろう。
この改革を評価する人、逆に批判する人それぞれに言い分はあるのだろうが、私はそのような評価についてここで述べる気はないので、興味のある人は、以下参考の※11、※12、※13その他に目を通されて、一度考えて見られるとよいのではないか。

話は変わるが、今年は、昨年までの民主党を中心とする野田佳彦内閣に代わって、昨2012(平成24)年12月16日の第46回衆議院議員総選挙で独り勝ちした・・というよりも、国民の期待を裏切ったあまりにも頼りにならない民主党、それに対抗すべき第三勢力となることを期待された、日本維新の会が選挙前のゴタゴタから票を集められず、野党共闘もないまま、余りにも多くのミニ政党が乱立した結果、国民は、どの党を選んだらよいのかわからなくなり、票も割れ共倒れとなった。
特に、前回選挙での公約を果たさず、国民の期待を裏切った民主党が記録的な大敗を喫してしまったことから、国民が、安全パイとして選んだ自民党が大勝し、第2次安倍晋三内閣が誕生することとなった・・といえるだろう。
デフレ脱却を掲げる“アベノミクス”を世界の市場は好感し、昨年末から円安が加速、株価は連日上昇と、出だしから好調なスタートを切っている。
しかし、国債や借入金などを合計した「国の借金」の膨張に歯止めがかからない(※15:「世界の経済のネタ帳」の>参照)。今、日本政府の抱える国および地方の債務残高は1200兆円を超える状況。以下参照。
リアルタイム財政赤字カウンター 12

欧州債務危機の震源地ギリシャでは財政悪化から信用不安が広がった。
財務省の推計によれば12年度末推計の債務残高は国内総生産(GDP)比219.1%に達する見込みであり、主要先進国中最悪の水準(ワースト2位アメリカ103.6%の約倍)であるという。
この数値は、あのギリシャを大きく上回る「借金大国」だ(※15:「世界の経済のネタ帳」のここ参照).。
よくマスコミやエコノミストなどからは、日本の政府は借金が多い一方で資産もあり、資産を売れば借金の返済は容易だという意見もよく聞くが、財務省は、これらの資産の大半は、性質上、直ちに売却して赤字国債建設国債の返済に充てられるものでなく、政府が保有する資産を売却すれば借金の返済は容易であるというのは誤りであり、仮に純債務残高で見た場合でも、我が国は134.8%となり、主要先進国中最悪(ワースト2位米国、80.3%、あのイタリアでさえ100.6%)の水準だという(※14のここ参照)。
我々国民には、その実態を知るすべもなく、一体どちらの言い分が正しいのかは、正直なところ判らない。
いずれにしても、安倍自民党政権は、デフレを脱却し、年2%程度のインフレを人工的に作り出すために、国債を無制限に増発してでも市場に金をばらまき景気を上昇させようとして走り始めた。
今年一年くらいは先行投資のばらまき予算が効いて景気は上向くかもしれないが、公務員改革や、許認可制度の緩和など根本的なことに手を付けないと、その後が続かず、思ったように景気は上昇せず、収入は増えないのに、インフレだけが加速するといった危険性も内蔵している。
つまり、「パンドラの箱」を開けてしまった以上、もう、行き着くところまで、走らなければならないことになり始めたたといえるかもしれない。
私は、この円高、株高で、投資している外国債券などが急騰し、いまのところ、少しは儲けさせてはもらったが、この先は、どうなるかが不安で仕方がない。
年金以外に収入のない身、年齢的にも危険な投資には消極的にならざるを得ず、これからの増税ラッシュの中で、インフレが予想されているとなると、それこそ、出るものを減らしていくしかなくなる。
今日の主題とは、関係のないところへ脱線したように見えるかもしれないが、このような、国家的な取り組みについては、過去の経験からして、最近のマスコミなど、必ずしも、その真偽を確かめて正しい情報を我々に伝えているとは言い切れず、どちらかといえば、表面的には政府批判をしているようでいて、実際には、政府などからのリーク(leak)情報(意図的に情報が漏らされること)がそのまま流されていることも多いように思われる。
この仕事は、国鉄など三公社の民営化以上に大変な大仕事だ。国民は、いい加減な情報に迷わされないよう、しっかりと、その行く末を見届けていく必要があるでしょうね。

最後に、せっかくだから、国鉄が分割民営化された当時の懐かしい映像でお気に入りの以下の動画を紹介しておく。興味のある人は見られるとよい。

国鉄1/43-YouTube
上記では、サブメニューの矢印(1←1/43→)で送ってゆくと、さよなら国鉄 1/3-YouTubeさよなら国鉄 2/3-YouTubeさよなら国鉄 3/3- YouTubeに続き、思い出の国鉄として懐かしいローカル線の映像が沢山(43の映像がある)見ることができる。これも見ごたえがありますよ。


参考:
※1:日本の鉄道史- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%89%84%E9%81%93%E5%8F%B2
※2:ATS解説(昭和22年4月 京浜東北線 田端駅追突事故)
http://homepage3.nifty.com/kiha/SP/sp-ATS-06.html
※3:きはゆに資料室
http://homepage3.nifty.com/kiha/index.htm
※4:日本鉄道史 - 国土交通省(Adobe PDF)
http://www.mlit.go.jp/common/000218983.pdf#search='%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9+%E7%9B%B8%E6%AC%A1%E3%
81%90%E4%BA%8B%E6%95%85++%E9%89%84%E9%81%93%E5%86%8D%E5%9B%BD%E6%9C%89%E5%8C%96'

※5:国鉄があった時代
http://page.freett.com/blackcat_kat/index.html
※6:日本労働年鑑
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/index.html
※7:運輸白書
http://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/index_.htm
※8:JRグループ、2013年3月31日をもってオレンジカードを発売終了 - 財経新聞
http://www.zaikei.co.jp/article/20121204/119389.html
※9:日本国有鉄道清算事業団の債務等の処理に関する法律
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H10/H10HO136.html
※10:鉄道・運輸機構 | 国鉄清算事業 | 国鉄長期債務の処理及び事業の収支構造
http://www.jrtt.go.jp/02Business/Settlement/settle-saimu.html
※11:[主張]JRグループ二十年の展望 -
http://d.hatena.ne.jp/stationmaster/20070401/1175353488
※12:国鉄「分割・民営化」25 年の検証 公共交通の再生 - 建交労中央本部(Adobe PDF)
http://www.kenkourou.or.jp/topmenu/tetsudohonbu/1047/2012/riron54/120-158_25kensyo.pdf#search='87%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E5%BD%93%E5%88%9D%E3%80%81%E7%B4%8437%E5%85%86%E5%86%86%E3%81%AE%E3%81%BC%E3%81%A3%E3%81%9F%E5%9B%BD%E9%89%84%E3%81%AE%E9%95%B7%E6%9C%9F%E5%82%B5%E5%8B%99'
※13:国鉄の分割民営化
http://homepage1.nifty.com/zpe60314/ashowakoku.htm
※14:わが国税制・財政の現状全般に関する資料(平成24年10月末現在): 財務省
http://www.mof.go.jp/tax_policy/summary/condition/index.htm
※15:世界の経済のネタ帳
http://ecodb.net/
わが国税制・財政の現状全般に関する資料(平成24年10月末 ... - 財務省
http://www.mof.go.jp/tax_policy/summary/condition/index.htm
資金循環統計の概要 :日本銀行 Bank of Japan
http://www.boj.or.jp/statistics/outline/exp/exsj.htm/
公的年金(90)――昭和61年、大改正(その10)|「はぴねす」の徒然
http://ameblo.jp/life8mapi/entry-11446080624.html
旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律,(略)JR法
http://www.houko.com/00/01/S61/088.HTM
杉浦喬也-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E6%B5%A6%E5%96%AC%E4%B9%9F

110番の日

2013-01-10 | 記念日
今日の記念日「110番の日」は110番(ひゃくとおばん)の適切な使用を推進しようと、1985(昭和60)年12月に警察庁が定めた。
記念日の日付自体は110番を日付にすると、1月10日となる語呂合わせからであり、緊急通報制度の興りなどとは全く関係はない。
110番(ひゃくとおばん)とは、日本において警察機関に提供される緊急通報用電話番号のことであり、これが、110番「ひゃくとうばん」の正式名称である。
記念日登録した翌1986(昭和61)年1月から警視庁では「通信指令センター」を一般公開している。
また1月10日には、全国の警察でもこれに関連したキャンペーンが行われている。
東京では、今日の午後2時から4時まで、千代田区有楽町の読売会館7階 「よみうりホール」で、「110番の日の集い」が行われ、平成25年110番イメージキャラクター「川島海荷さん」・「ピーポくん」とともに110番通報時の正確な場所の伝え方等について学び、警視庁音楽隊・警視庁音楽隊カラーガード(※1のここ参照 )の演奏・演技で、楽しいひとときを過ごそうということらしい(※1:警視庁HP『110番』参照)。
冒頭掲載の画像は、平成25年 警視庁「110番」広報用ポスターであるが、ポスターの女性が川島海荷さん。

上掲画像は、「ピーポくん」のぬいぐるみ(Wikipediaより)。
ほぼ全身が黄色であり、耳が大きく、腰には拳銃を装備したベルト(1994年3月まで警察官の装備として採用されていた負革の付いた帯革)を締めているピーポくんは、都民と警視庁のきずなを強めるため「親しまれ、信頼される警視庁」をテーマに、警視庁のシンボルマスコットとして、1987(昭和62)年4月17日に誕生した警視庁のマスコットキャラクターである。
名前の由来は、人々の「ピープル」(People)と、警察の「ポリス」(Police)の頭文字(Peopo)からだそうだ。
ピーポくんは特定の動物ではなく、いろいろな動物の可愛らしい部分をイメージ化して作られたもので、顔が大きく体が小さいなど、愛着のあるキャラクターとして幼児向けの要素も盛り込んでいるが、大きい耳や触角のようなアンテナ、見開いた目には、それぞれ以下のような役目を持つとされる(※1:警視庁HPピーポくんタウンより)。
耳:都民の声を幅広く聞くためのもの
アンテナ:社会全体の動きを素早くキャッチするためのもの
目:社会をすみずみまで見わたすためのもの
ピーポくんは元々、警視庁広報課が発案しキャラクターデザイナーと共同で製作したもので、その著作権は警視庁に帰属し、商標登録もされている(登録権利者は東京都)。ネットで検索していると、キャラクターをデザインしたのは日本漫画界の巨匠・手塚治虫とのうわさも見られるが、根拠は見当たらない。
いずれにしてもかわいいキャラクターなので、当初は防犯ポスターなどに使われていたが、その後、縫いぐるみや携帯ストラップ、メモ帳、消しゴム、マウスパッド、テレカ、Tシャツ、キーホルダー、防犯ブザー等各種グッズが製作・販売されるようになり(警視庁管内の運転免許試験場の売店等で購入できる)、また、警視庁公式ウェブサイトには、いたるところにピーポくんが登場する。
さらに、警視庁管内の交番や警察署の各課窓口等には、縫いぐるみやポスター、建て看板などが置かれていたりもするようだ。
ぴーぽくんには家族もおり、これらキャラの使用については、1988(昭和63)年に、「シンボルマスコット等活用要綱」で決められている(警視庁シンボルマスコット等活用要綱の制定について参照)。
こんなかわいいピーポくんンの誕生は、都民に対して、それまでの、「怖い、威圧的な警察」のイメージ改善には結構貢献したことだろう。今は、ぴーぽ君の歌までできている(ぴーぽ君の歌)。

もともと、戦後の警察は民主警察を基本としており、警察官による警察活動も「市民を脅かす」、「恐い顔をして牽制する」などという戦前の旧体制下の警察とは全く異なるものである。
日本の警察制度は明治維新とともに始まる。江戸時代には警察に相当する役所として町奉行所があった。
江戸には南北の町奉行が、諸国には遠国奉行があり、その職員である与力同心が現在の警察官に相当した。ただし与力、同心の人数は人口に対して非常に少なく、江戸の人口100万人に対して与力は50人、同心は250人しかいなかったという。そのため、同心は私的に岡っ引と呼ばれる手先を雇い、警察業務を執行していた。
明治維新によって江戸幕府が崩壊すると、諸藩の兵(藩兵)が治安維持に当たった。しかし藩兵は純然たる軍隊であり、警察ではなかった。
1871(明治4)年、東京府に 邏卒(らそつ:“巡邏の兵卒”の略.。巡査参照)3000人が設置されたことが近代警察の始まりとなった。同年、司法省警保寮が創設されると、警察権は同省に一括され、東京府邏卒も同省へ移管された。
そして、明治5年(1872年)、邏卒総長に就任した薩摩藩出身の川路利良が、新時代にふさわしい警察制度研究のため、同年、司法省の西欧視察団(8人)の一員として、欧州各国の警察制度を視察、渡欧し、帰国後、フランスの警察に倣った制度改革を建議。司法省警保寮は内務省に移され、1874(明治7)年、首都警察としての警視庁創設に伴い初代大警視(後の警視総監)に就任。日本の近代警察制度がここに始まる。
以後の警察は、国家主導体制のもと、管轄する中央省庁の権限委任も多く行われたが、最終的に内務省に警察権が委任され、内務省方の国家警察・国家直属の首都警察としての警視庁と、各道府県知事が直接管理下に置く地方警察の体制に落ち着いた。
そして、内務大臣が主任の大臣として、地方長官たる警視総監及び府県知事等を指揮監督し、これらの地方長官は、国の機関としての警視庁及び道府県(警察部)とその下に置かれた警察署等を指揮監督した。
この体制は昭和に入っても継続され、第二次世界大戦中には、特高憲兵といった秘密警察を筆頭に地域の警察署や交番に至るまで軍部や政府の方針通りに思想統制を行う弾圧機関として暴走していた過去がある。この頃の警察は現在とは異なり、イメージ的には威圧的で、市民から恐怖と非難の的となってた存在であり、とても現在のような「正義の為の警察」、「市民の安全を守る警察」といったイメージではなかった。
こうした暴走を繰り返さない為、戦後は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指導の下、日本警察の再編が行われ、それまでの中央集権的な警察組織が廃止され、1948(昭和23)年に旧警察法が定められる。
旧法では、地方分権色の強い国家地方警察自治体警察の二本立ての運営で行われる(※2の『平成16年 警察白書』のここ参照)が、1954(昭和29)年には現警察法に改正され、国家行政組織の警察庁と地方組織の警視庁道府県警察に統一されて今日に至っている(※2の『平成16年 警察白書』のここ参照)。
また、警察官の服装に関しては、第二次世界大戦中までは、一般の制服警察官が常時拳銃を携行することはなく、常時の武装としてはサーベルを佩用(はいよう。身におび、用いること)していた。交通警察・消防警察・水上警察その他サーベル佩用が不便な業務に従事する警察官は、サーベルに代えて短剣を佩用していたが、終戦後はサーベル・短剣は、GHQの指示に基づき、1946(昭和21)年3月12日付勅令第133条(昭和時代の日本の勅令一覧)により佩用禁止となり、警棒を持つようになった。また、1948(昭和23)年からGHQの指示により警察官が拳銃を携行(※3)するようもなった。
そして、警察官のシンボルである、制服も戦前は軍服と似たような襟詰デザインだったが、これも変更され、戦後しばらくは、GHQの指導のもと、アメリカの占領軍兵士が着ているような気色味をおびたカーキ色のブレザー風制服だったが、その後、紺色ブレザーへと変わった。
現在の制服は、従来の制服にさらに威圧感軽減を図ったもので、警棒や拳銃を納めた帯革が上衣の下に隠れるようになり、外観から武器が極力見えないようになって威圧感がより軽減された。

110番制度も、1948(昭和23)年にGHQからの申し入れにより、国家地方警察(現在の警察庁)と逓信省(現在の総務省)が協議して、同年10月1日より始まった。
当初は東京都区部・大阪市・京都市・横浜市・川崎市・名古屋市・神戸市・福岡市の8都市のみでスタートした。
110番や1110番というようにバラバラだったが、1954(昭和29)年7月1日の新警察法施行をもって110番に統一された。
この警察への通報用電話が110番となった理由としては、
国民に覚えやすい番号とすること
誤報が少ないように番号を3桁にすること
ストッパーまでの距離が短い「1」を多くすること(当時の電話機は回転ダイヤル式であった)
の三項目を基本に検討された結果だと言われている。

日本では、1950年(昭和25年)に電気通信省(現在の総務省、NTTグループ)によって4号電話機(※4のここ参照)が制式化され、1952(昭和27)年に、電気通信省が廃止され日本電信電話公社(現:NTT)に移行し、この年から提供が開始された。
1950年代には、商店・企業の連絡手段として電話は必要不可欠なものとなっていたが、そのころ一般家庭では、まだ「呼出電話」と呼ばれる、電話を持っている人に着信させ、電話を受けた人が呼び出す人をその人の家まで呼びに行くものであった。そのため、電話機は玄関に設置されていた。
私の家は商売をしていたので、早く戦前から電話は設置されていたが、記憶に残っているのは長方形の壁掛け式の電話であった。そして、よく近所の人が利用していたのを覚えている。
日本で一般の家庭にも、電話が普及しはじめたのは1970年代以降のことである。

緊急通報用電話番号の110番の読み方が「ひゃくとおばん」と世間に広まったきっかけは、作家の故向田邦子さんが、脚本家としてデビューしたテレビドラマ「ダイヤル110番」であり(※5参照)、実際に起きた刑事事件をモチーフに製作された。
当連続ドラマは、1957(昭和32)年9月3日から1964(昭和39)年9月6日まで、日本テレビ系列にて放映された日本初の刑事ドラマだとされている。
オープニングでは、警視庁の通信指令室が映った後、係が受話器を取って「はい、こちら110番」と応じる場面から始まった。また、本作では本物のパトカーが使用されたことも評判になった(ここ参照)。
Wikipediaによれば、このドラマ「ダイヤル110番」は、アメリカで放映された実録刑事ドラマ「ドラグネット」にヒントを得て制作。
アメリカのドラマ同様、警視庁の協力を得て、警視庁、警察庁、日本全国の警察署から寄せられた現実の事件等の資料に基づいてストーリーが構成されたものだそうであり、後に本作は、警察庁長官賞を受賞したとある(日本テレビ編『日テレドラマ半世紀』114ページ)。
私は、この「ドラグネット」という映画の名前に記憶があり、調べてみると、私のコレクションの中の1つ、映画のチラシの中に同ドラマを映画化した1987年度アメリカ映画「ドラグネットー正義一直線―」(※6)があった。

上掲のものがその映画のチラシである。同チラシ説明によると、「ドラグネット」は1949年NBCのラジオ番組として産声を上げた。
このドラマは、アメリカで実際に起こった事件と、警察の捜査に基づいたリアルなシリーズとして、当時の聴取者達をラジオの前にくぎ付けにしたという。
その人気は、そのまま、テレビシリーズとして引き継がれ、テーマ曲として有名な“ダーンダ・ダンダ”と共に、コンビで活躍する2人の刑事ドラマを原点として、テレビや映画に強い影響を与えた。
テレビシリーズでは、途中数年間のブランクの後、1970年の放送終了まで延べ22年間に渡って人々に愛された正に国民的な(日本でいう水戸黄門的な)番組であったらしい。
そんなシリアスな刑事ドラマがダン・エイクロイドトム・ハンクスの2人の名優によって、現代に蘇り、1987年度全米興行成績第9位に輝く新刑事コンビが誕生した・・とある。
今では、全米No1 スターに成長した、当時まだ売り出し始めたばかりのトム・ハンクスが若い・・・。以下では、映画解説と共にそのワンシーンも見ることができるよ。

燃えよ!映画論 : ドラグネット 正義一直線

電話も普及した今、警察への直通電話番号として「110」番が定着しており、警察への問い合わせにも「110」番が使われることが多くなったため、全国共通のプッシュ回線(トーン回線)や携帯電話専用の直通総合相談番号「#(シャープ)9110」も設定され、ダイヤル回線(パルス回線)の場合には、更に別の番号が用意されている(ここ参照)。あわせて、警察署の代表番号の下4桁を「110」番から連想しやすい「0110」、「9110」とする地区も多い。
警察への事件の連絡が「110番」にかかると、各都道府県警察本部や地域の通信司令室の110番受理台につながり、場所・事件内容を確認後、管轄の警察署から警察官が出動する形を取っている。
場所が警察署の管轄地域の境界に近い場合、管轄の署をめぐって出動に手間取ることも多いようだ。また、ダイヤルの0と9の位置が隣り合っているため、緊急事態であることも加わって、消防・救急(119番)と間違える場合も多いと言われている(110番と119番との受付台で相互に連絡を取り合っているようだが(※7)。

平成23年警察白書(※2:「警察庁HP」のここ参照)の“110番通報の現状”を見ると、
110番通報受理件数は、平成22年中は約931万件と、前年より約27万件増加し、依然として高い水準にあり、これは、約3.4秒に1回、国民約14人に1人の割合で通報したことになるらしい。
また、携帯電話等の移動電話からの110番通報が65.9%を占めているという。
警察では、1月10日を「110番の日」と定め、110番通報を適切に利用し、緊急の対応を必要としない相談等の電話には専用の「#(シャープ)9110」番を利用するよう呼び掛けている。また、移動電話を用いて110番通報をするときは、所在地や番地、目標物を確認するほか、通話中にはできる限り場所を移動しないことなどを呼び掛けている。・・・ようだ。

“刑法犯の認知・検挙状況”を見ると、
平成22年中の刑法犯の認知件数は158万5,856件と、前年より11万7,188件(6.9%)減少したが、120万件前後で推移していた昭和40年代と比較すると高い水準にあることに変わりなく、情勢は依然として厳しい。
この刑法犯の認知件数は、平成8年以降急増したが、中でも街頭での強盗やひったくり、住宅等に侵入して行われる窃盗や強盗等の増加が顕著であったことから、警察では、平成15年1月から街頭犯罪・侵入犯罪抑止総合対策を推進している。・・・という。

事件の早期解決は、事件発生直後、いかに多くの情報を正確に早く伝えるかにかかっている。
犯罪から自身の身を守るため、また、地域の人たちの安全を守るため、110番は、正しく活用したいものですね。

参考:
※1:警視庁HP
http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/index.htm
※2:警察庁HP
http://www.npa.go.jp/
※3:警察官等けん銃使用及び取扱い規範
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S37/S37F30301000007.html
※4:NTT DIGITAL MUSEUM:電信・電話の歴史年表
http://park.org/Japan/NTT/DM-/html_ht/HT_idx_j.html
※5:向田さん“幻のデビュー作”発見 「ダイヤル110番」脚本
http://www.47news.jp/CN/200909/CN2009091401000150.html
※6:映画 ドラグネット・正義一直線 – allcinema
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=16144
※7 :大分県警察本部>110番について
http://www.pref.oita.jp/keisatu/110ban/110_01_08.htm
「全国読売防犯協力会」のホームページ
http://www.bouhan-nippon.jp/
罪と罰(日本刑事政策研究会)
http://www.jcps.or.jp/publication/index.html
110番の日 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/110%E7%95%AA%E3%81%AE%E6%97%A5