今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

果ての二十日(Ⅰ)

2010-12-20 | 行事
月日の経つのは早いもので、もう1年の最後の月・12月も中を過ぎ、「年の瀬」の慌しい時期となってきた。
日本では、旧暦12月を師走(しわす)または極月(ごくげつ、ごくづき)と呼び、現在では師走は、新暦12月の別名としても用いれ、その由来は僧侶(師は、僧侶の意)が仏事で走り回る忙しさ(しはす=師馳す。平安後期編『色葉字類抄』)からという説がある。また、言語学的な推測として「年果てる=年果つ(としはつ)」、四季の果てる月「四極(しはつ)や1年の最後になし終える意味の「為果つ(しはつ)」等から「しわす」に変化したなどという説もある。
年末の事をいう「年の瀬」も中々趣きのある言葉だ。『瀬』と言うと百人一首に出てくる以下の崇徳院の恋歌を思い出す。
「瀬を速(はや)み岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思」(歌の意味は以下参考の※1参照)
この「瀬」とは、本来、「淵」の対義語。歩いて渡れるほど浅いところを「瀬」と呼ぶが、水が深くてよどんでいるところを「淵」と呼ぶ。また、川は岸が近くて浅いところほど流れが急なので、急流の意味もある。「瀬をはや(早)み」は、「~を+形容詞の語幹+み」と続くと、「~が・形容詞・なので」と理由を表す言葉になり、ここでは「川の瀬の流れが速いので」という意味であるが、浅瀬、早瀬はこの「瀬」の用例である。そこから転じて「立つ瀬がない」「浮かぶ瀬」「逢瀬」などと、場所、立場、拠り所、場合、機会の意味で「瀬」という言葉が使われるようにもなった。さらに、最後の拠り所ということを指す意味の「瀬」から、1年の最後を「年の瀬」と呼ぶようになったと言われている。余談だが、「この崇徳院の歌は久安百首には「行きなやみ岩にせかるゝ谷川の」となつていて、百首異見(天保6年刊香川景樹著)には久安百首の方が正しいといつている」・・・と、北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』にある(以下参考に記載の※2参照)。
崇徳院は、1123(保安4)年に白河法皇の影響の下、鳥羽天皇に譲位され、5歳で皇位につくが、白河法皇の死後治天の君となった父、鳥羽上皇に疎んじられ、1142(永治2)年に、鳥羽上皇の異母弟である近衛天皇に譲位させられている。保元の乱により、出家するも許されず、讃岐国に流刑に処された。そして、最後には、崇徳は後白河法皇を呪詛しながら亡くなったという。
崇徳天皇の歌は、改作によって激しい恋の歌に変貌しているが、その元歌に見られる迸る(ほとばしる)激情と崇徳天皇の悲惨な運命を重ね合わせるとそこには鬼気迫るものが感じられる。哀れな死を遂げた崇徳天皇には、古くから怨霊伝説が囁かれるようになった(怨霊伝説参照)。
このページ冒頭の画像は、讃岐に流された崇徳上皇。歌川国芳による百人一首を題材にした浮世絵である。
それにしても、年末は「岩にせかるる」の言葉の通り慌しい時期であり、「年の瀬」とは誠に言い得て妙な言葉ではある。
この慌しい12月は昔から「果ての月 」とも言うそうだ。特に、12月20日のことを「果ての二十日 」 と言い、この日は身を慎み災いを避ける忌み日 ( いみび )として 正月準備や祝事を控えてきた。
「 果ての二十日 」の由来については諸説あるようだが、京都などでは罪人の処刑をこの日に行っていたからと言われている。
♪京の五条の橋の上、
 大の男の弁慶は
 長い薙刀ふりあげて、
 牛若めがけて切りかかる。
これは尋常小学校唱歌「牛若丸」に出てくる牛若丸こと義経と弁慶の戦いの場面である。
千本の太刀を集めることを思い立った武藏坊弁慶は毎晩、京の都で太刀を奪いとり、いよいよこれで千本めの太刀が集まるという夜、西洞院通松原にある五条天神に行き、「良い太刀を授けてください」と祈願をすると、神社すぐそばの堀川通で牛若丸(源 義経)と出会い五条の大橋で薙刀を振りまわして戦い完敗。そして、牛若丸の家来となる・・・。
義経と弁慶のことは、義経とその主従を中心に書かれた『義経記(ぎけいき)』に登場するが、この『義経記』は曾我兄弟の仇討ちを題材にした『曾我物語』と対称せられる英雄伝説的な意図の下に後世つくられた歴史物語である。作者は不明であるが、その流布本は南北朝時代から室町時代初期に成立したと考えられている。
ただし、この軍記物語『義経記』には、唱歌に歌われたような弁慶との闘い方とは異なり、太刀で闘っており、なによりも、五条橋の闘いのことは出てこない。牛若丸と弁慶の戦いの場に「五条の橋の上」が登場するのは、『義経記』を基にした御伽草子『橋弁慶』が成ったころからのようだ。
『義経記』によれば弁慶は6月17日の夜、先ず五条の天神社で出会い、義経に「是より後にかかる狼藉すな。・・・・」と嗜(たしな)められている。次に翌朝清水観音(清水寺)への参詣道の清水坂、最後の清水の舞台(本堂)では弁慶は義経に組み伏せられ、君臣の誓いをたてている(以下参考に記載の※3:「義経記」の巻第3:“弁慶洛中にて人の太刀を奪ひ取る事”参照)。
現在の東大路通の清水道交差点から清水寺までの約1.2キロの坂道は清水道(松原通の東端部分)と称され、今、道の両側には観光客向けのみやげ物店などが軒を連ねている。この道は松原通(もとの五条通)の延長である。つまり、平安時代の五条通は現在の松原通に相当することから。「五条の橋」は今の橋よりも北、現在の松原橋付近にあったことになる。
京都市内の南北の通りの一つである小川通は、北は紫明通から南は錦小路通まであるが、南の延長線上を東中筋通、別名天使突抜通(てんしのつきぬけどおり)が走る。平安京の時代には存在せず、豊臣秀吉による天正の地割で新設された通りである。
牛若丸と弁慶の像がある現在の五条通は平安京の六条坊門小路あたりにあり、秀吉が、方広寺の大仏殿を建立するにあたって鴨川に架かる五条の大橋をこの通りに移設したため、この通りが五条橋通と呼ばれるようになり、やがて「橋」の字が略され、「五条通」と呼ばれるようになった。そして、元の五条大路が松並木が綺麗な通りであったことから松原通と呼ばれるようになったそうである。(通りのことは以下参考に記載の※4:大路小路を参照)。
東中筋通を別名天使突抜通と言うが、その「天使」とは五条通との交差点近くにある五条天神社を指し、当初は「天使の宮(天使社)」と称していた。その神社の境内を貫通して道が開かれたことが通り名の由来となったようだが、後鳥羽天皇の時代に五条天神宮と改められたそうだ。
義経と弁慶が最初に出会たとされている現在の五条天神は桓武天皇の平安遷都の際、都の守護を目的に大和の国宇陀郡から天神(あまつかみ)を勧請し、当時の五条通西洞院、今の松原通西洞院の一角に建立されたのが始まりで、祭神として大己貴命(おおなむちのみこと)少彦名命(すくなひこなのみこと)天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀っている。造営当時は洛中最古の神社として社域も広く、南は六条まで広大な鎮守の森を有し、社殿も広壮であったが、保元の乱や、応仁の乱蛤御門の変(禁門の変)など度重なる兵火に巻き込まれ、社殿も消失し由緒書も残っていない。戦後現在の地に移されて再建され、今は、小さな社と一対の榊のあるこぢんまりとした境内が、周囲のビルに埋もれている。(以下参考に記載の※5、※6参照)。
兼好法師徒然草第二百三段では「勅勘の所に靫(ゆき)懸くる作法、今は絶えて、知れる人なし。主上の御悩、大方、世中の騒がしき時は、五条の天神に靫を懸けらる。」とあり、古来、靫は、矢を入れ背に負った細長い箱形道具であるが、弓矢を、羽を下にし、鏃(や‐じり=矢尻)が外に見えるようにした構造になっており、実用的ではなく、概して威嚇用の武具であり、天皇の病気平癒や世の騒擾(そうじょう。集団で騒ぎを起こし、社会の秩序を乱す。騒乱。擾乱)の静まることを祈願して、五条天神に裄を懸けたのであろう(以下参考に記載の※7:「徒然草」第二百三段参照)。
この五条天神から松原通りを東に行った新町通りを右折してすぐのところに、猿田彦命天鈿女命(あめのうずめ)を祭神とする小社があるが、『宇治拾遺物語』の中で「五条の道祖神」(以下参考に記載の※8:「現代語訳:宇治拾遺物語」の巻一の一参照)として登場する古い歴史を持つ神社であり、かつては、五条天神宮の境内とひと続きであったと言われている。(以下参考に記載の※9:「京都PHOTO CLIP」の“洛中”に、五条天神宮と松原道祖神社の写真あり)。又、『拾遺都名所図会』巻一には、「道祖神社」として「新町通松原の角、人家の裏にあり。今首途神(いまかどでのかみ)と称す」と記載されており、現在は新町通に面した西側(新町通松原下ル藪下町)に移っている。(以下参考に記載の※6また、※10:「拾遺都名所図会データーベース」参照)。
「首途」とは旅立ち・門出(かどで)をいう。又、道祖神は路傍の神であり、五条大路(現在の松原通り)の道の神として道行人を守護する神であるとともに、その集落神域常世黄泉の国)を分かち、過って迷い込まない、禍を招き入れないための結界でもあった。
松原新町はかって「十念の辻(じゅうねんのつじ)」とよばれていた。江戸時代に京都の処刑場では、「果ての二十日」 に その年最後の処刑 が行われていたようで、六角の獄舎から引き出された市中引き回しの罪人は、この辻で、十念(南無阿弥陀仏の念仏を十回唱えること)とともに引導を渡されて、粟田口の刑場(日ノ岡)に向かったという。
鴨川にかかる三条大橋を東へ行くと南北路の東大路通。さらに東へ行き、白川橋より東蹴上あたりまでが、粟田口であり、この辺りは奈良時代以前から開けた土地で粟田氏が本拠とした愛宕郡(おたぎぐん)粟田郷とよばれていたところである。
粟田氏は、小野妹子の氏である小野氏と同じ和珥氏(わにうじ)系の豪族である。海神の神使いである「ワニ」を名にし負う和珥氏は、阿曇氏と並んで海人族の雄であり、埴輪などの祭祀関係土器製作者集団の統率者で、山陵の管理と、古墳埋葬者(天皇・皇族)の事跡を語り伝える役目を有して朝廷に重きをなしていたといわれる(以下参考に記載の※13:「海神の国日本」参照)。
平安京が出来ると、ここは、京の都から東国へ出る時、必ず通る出口であることから、粟田口と呼ばれるようになり、京の七口(三条口とも言う)の一つに数えられるようになり、関所も設けられていた。
粟田口の近くには粟田神社があり、もともと粟田氏の氏神であったらしいが、ここも「旅立ちの神」として信仰されていた。牛若丸(源義経)が、金売り吉次に連れられて京都から奥州平泉へ「首途」のおりに祈念したという謂れを持つ恵比須像も、粟田神社の境内に祀られている。この像は、もと粟田山(以下参考に記載の※11:「東山三十六峰」参照)字夷谷にあったものが、明治に粟田神社へ移されたものだという(以下参考に記載の※12参照)。なお、平安末期以来この付近には、大和(奈良)から移住してきた鍛冶師が刀剣をつくっていたと言い、そのことは、粟田神社の所在地名“鍛冶町”として残っている。又、江戸時代から明治まで粟田焼と呼ばれる陶器の山地でもあった。
東海道沿いの江戸の入り口とも言える場所に設置されていた鈴ヶ森刑場や江戸の北の入口(日光街道)に設置されていた小塚原刑場などにみられるごとく、粟田口も人通りが多いので見せしめの場にもなり、粟田口を東へ行った上り坂「蹴上」(最初の峠で「日ノ岡峠」という)あたりに処刑場が置かれ、悪人はここで曝し首にもされた。
本能寺の変で三日天下を取った明智光秀は、1582(天正10)年山崎の合戦で秀吉に破れて、伏見の小栗栖(おぐりす)の藪(京都市伏見区、現在は「明智藪」と呼ばれる)まで逃れたが土民の落ち武者狩りに遭い殺害された。その首は謀反人として粟田口の刑場に晒された後、栗田口黒谷(西小物座町)に、他の数千の首と一緒に埋められたという。この粟田口の刑場で処刑された罪人の数は1万5千余人にのぼったと伝えられている。
神道では、念(思い)を残して死んだ人の霊魂を慰め鎮める祭りを行う日などが忌み日であるが、果ての二十日に何を忌むのかは諸説あって、山の神に深く関る忌み日ともされ、この日に山に入ることが忌まれる地域も多いようだ。
山で遭遇するのは、山の神だけとは限らず、いろんな妖怪に出くわすことが多いようだが、和歌山と奈良の県境の果無山脈では、皿のような目を持つ一本足の妖怪一本ダタラに遭遇することがあるとされている。この妖怪は旧暦の12月20日のみ現れるといい、この日はやはり「果ての二十日」と呼ばれ厄日とされている。果無山の果無の名の由来は「ての二十日」に人通りがくなるからだともいわれている。
奈良県の伯母ヶ峰山でも同様に、12月20日に山中に入ると一本ダタラに遭うといい、「果ての二十日に伯母ヶ峰を越すな。」とこの日は山に入らないよう戒められているそうだ。こちらの一本ダタラは、一本足の鬼と化した猪の妖怪(猪笹王)だ(以下参考に記載の※14:「上北山村公式ホームページ :伯母峰の一本足」参照)。
「一本ダタラ」の「ダタラ」はタタラ師(鍛冶師)に通じるが、これは鍛冶師が重労働で片目と片脚が萎えること、一本ダタラの出没場所が鉱山跡に近いことに関連するとの説があるそうだ(隻眼#神話・伝説の中の隻眼を参照)。一つ目の鍛冶神天目一箇神(あめのまひとつのかみ)の零落した姿であるとも考えられているという。
高知では「タテクリカエシ」といって、夜道を転がる手杵状の妖怪の伝承があり、伯母ヶ峰山の一本ダタラはこれと同じものとの説もあり、各地に一本ダタラの伝承はあるが、名前は同じでも、土地によって大きな違いがあるようだ。また、香川(琴南町)の民俗には、果ての二十日は山姥(ヤマウバ)が洗濯しているから山越しをしてはいけないといわれているそうだが、山姥の原型は、先住民族の末裔、木地屋(師)サンカといった、山間を流浪する民であるとも、山の神に仕える巫女が妖怪化していったものとも考えられている。 土地によっては「山姥の洗濯日」と呼び、水を使ってはいけないとか、洗濯をしてはいけないとする日があり、例えば北九州地方では、「山姥の洗濯日」は暮れの十三日または二十日とされ、この日は必ず雨が降るため洗濯をしないという風習が残っているそうで、これは恐らく、雨を司る山神の巫女の禊(みそぎ)の日であったものの名残りであったろうという。山姥が、山岳信仰における神霊にその起源を持っているのは確かだろう。妖怪のことは以下参考に記載の※14:「国際日本文化研究センター:怪異・妖怪伝承データーベース」で検索はされるとよい。
山姥以外に天狗河童と呼ばれるもの、あるいは不思議な能力をもった狐や狸、蛇、猫といった動物たち----、昔の人はこれらを「もののけ(物の怪)」とか「化け物」、「変化・魔性の物」などと呼んで恐れていた。
これらには、相次ぐ政争による敗北者の怨霊や念を遺して亡くなった人の霊、はたまた、農業中心の世界観の中で、中世には、境界的な空間に生活の場・方便を得ていた、山の民や川の民、雑芸能民たち(農業以外での生活者)の少なからぬ数をも「異類異形」(以下参考に記載の※19参照)の名でこの中に引き込んでいった。

果ての二十日(Ⅱ)

果ての二十日参考

果ての二十日(Ⅱ)

2010-12-20 | 行事
話はまた少し前の方に戻るが、元の五条大路は松原通と呼ばれていたことは先に述べたが、平安京は現在の寺町通が東京極通(京都市内の通り又、以下参考に記載の※4:「大路小路」の東京極通参照)となり、東京極は、名前の通り、京の東の極みつまり東の端を意味し、当時 そこから東は京ではなかった。つまり、松原通は寺町通から清水寺までの道、つまり、平安京の外の道(他界)であった。
西福寺を通り過ぎ轆轤町(ろくろちょう)の前を通り東大路通の手前頃で、六道珍皇寺の門前に出る。通称六道さんと呼ばれるこの寺は、小野篁が冥界(死後の世界)に通ったと伝わる井戸で知られている。ここに「六道の辻」の石碑が建っている。松原通(旧五条通)が轆轤町(ろくろちょう)にかかるこの付近が、「六道の辻」であり、平安時代以前からこの辺り一帯から山麓(清水寺の一帯、特に南西、阿弥陀ヶ峰〔鳥部山山頂〕辺り)にかけては、「鳥辺野(とりべの)」といわれる葬送の地・・・といっても、死骸を捨て風葬にした場所であったという。
今とは違って、身分の高い人以外、一般人には人が死んでも墓を建てて弔うこともなかったこの時代、葬送は野辺に限っていたようで、京都ではそのような地に「野」の字をつけたようだ。鳥辺野と鳥の字がつくのは、カラスなどの鳥類などに屍肉を食い尽くされるままに放置していたからだとか。このような風葬の地は、ここのほか他、嵯峨野の奥地の化野、洛北(船岡山から紙屋川に至る一帯)の蓮台野があって、ここに葬送される人は未だ幸せで、河原に、道端に死体がごろごろという時代、清水(清水寺)の舞台と称される場所を役人に開放して、ここから投げ落として葬送していたという。この状態はまさに人生最後の別れで、清水の舞台から飛び下ろされる時であり、死んだつもりなら少々の事は頑張れることから、これが諺「清水の舞台から飛び下りる」の始まりなのだという(以下参考に記載の※16、※17参照)。
当時、鴨川の岸も遺体の捨て場であり、葬送の場であったことから、踊り念仏で知られる市聖(いちのひじり)空也が963(応和3)年に鴨川岸に僧600名を集めて大規模な大般若経供養会を行ったが、この時をもって西光寺(六波羅蜜寺 。松原通大和大路東入2丁目轆轤町にある)の創建とする説もあるようだ。このようなことから、この地には、かつて、おびただしい人骨が出土したため「髑髏原(どくろはら)」と称され、その「髑髏(どくろ)」が転訛して「六道(ろくどう)」になったといわれているそうだ(以下参考に記載の※18:「京都通百科事典」の六道の辻参照).
仏教において「六道」とは、迷いあるものが輪廻するという、6種類の迷いある世界のことである。つまり、この地が、あの世とこの世をへだてる境界である。清水寺は、六道の辻を越えた先、つまりは死者の世界とも見られていた辺りに建っており、あの大舞台から見渡せる辺り一帯が葬送の地ということになる。清水寺の創始も、延鎮がそれらの魂を供養しようと、音羽の滝近くに庵を結んだのが始まりではないか・・・ともいわれている。
従って、松原通そのものが京の外・異界の世界との境界であるとともに、鳥辺野、六道の辻など黄泉の国に繋がる場所でもあったわけだ。
このような死者もしくは亡霊を含めての鬼や他の妖怪など魑魅魍魎(ちみもうりょう)たちが姿を変えながら夜明け前の「かわたれ時」(「彼(か)は誰(たれ)時」)から夕暮れの「たそがれ時」(「誰(た)そ彼時」)に、河原をはじめとする村はずれ、町外れの辻、門、橋など「境界」の向こう側(魔界・異界・他界)から人々の前に現れては畏怖を与えた。まさにこの時こそが「逢魔(おうま)が時」であった。
このページ冒頭の画像は、日本の妖怪の基本形を作った画家の一人といわれる鳥山石燕の妖怪画集『画図百鬼夜行』(「前篇陰」「前篇陽」「前篇風」の3部構成)の後編に相当する『今昔画図続百鬼』の1枚目「逢魔が時」、塔のそびえる街並みの上空を怪しいものが過ぎていく図である。そこには、「黄昏をいふ。百魅(ひゃくみ)の生ずる時なり。世俗、小児を外にいだす事を禁(いまし)む」とある(週間朝日百科『日本の歴史』より)。み【魅】 とは, 化け物、もののけ。魑魅魍魎のこと。この「怪しいもの」の姿は何故か「入道雲に夕陽が陰影を与えればこのようにみえるかも」とおもわせる姿をしている。夕ぐれの空に何を感じるのか・・・、「怪しいもの」を生み出す心はこんなところにあることを教えてくれているようだ。
昔の人々は今日の私たちには想像できないほど多くの怪しいものに取り囲まれて生活していたわけであるが、当時の人たちにとっては、それらに対して、戦って退治するか、また、それらの気持ちを少しでも和らげて事なきように取り払う、つまり、祭ることで災厄をなさぬよう祈りこめるかの二者択一しかなかったのであろう。それらを鎮める必要から地域によって違いはあるが、経験則から割り出された日をもって、祭り日となっていったものが忌み日である。
】と【祝】の字は良く似ているが、いずれも語源は、述べる(のべる)」の祖語「のぶ」の古い形「のる(宣る、告る)」よりきたものだという。つまり、呪力のある言葉を神や魔に告げる・・・の意である。
平安時代には陰陽道が信じられ、災いがある日を忌み日としていたためか、神道では、念を残して死んだ人の霊魂を慰め鎮める祭りを行う日などが忌み日であったことから、日の吉凶でも凶の方の忌みの方が後世に残ったものと考えられている。そして、戸外にも出歩かないようにし、身を慎み災いを避けたのだろう。
これから迎える正月の注連縄も、、厄や禍を祓うまた、招かれざる客がi家の中に入り込まないようにするための結界として張られたものであった。

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果ての二十日:参考

果ての二十日(参考)

2010-12-20 | 行事
(1ページ目冒頭の画像は、讃岐に流された崇徳上皇。歌川国芳による百人一首を題材にした浮世絵。 Wikipediaより。2ページ目冒頭の画像は、『画図百鬼夜行』に描かれた“逢魔が時”週間朝日百科『日本の歴史』13、中世Ⅱ-3河原と落書・鬼と妖怪 より借用)


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参考:
※1:崇徳院(崇徳天皇 崇徳上皇) 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sutoku.html
※2:百人一首(北原白秋訳) - 都々逸菊池眞一
http://www.kikuchi2.com/100/hakushu.html
※3:義経記(国民文庫)全巻
http://www.j-texts.com/sheet/kgikei.html
※4:大路小路
http://www.mutsunohana.net/miyako/oji-koji/
※5:京都新聞:ふるさと昔語り:(111)五条天神の森(京都市下京区)
http://www.kyoto-np.co.jp/info/sightseeing/mukasikatari/070621.html
※6:第 3回 天神と天神ん(PDF)
http://homepage3.nifty.com/xymtex/kyomeguri/kyomeguri-jintan3.pdf#search='第 3回 天神と天神ん(PDF)'
※7:徒然草(吉田兼好著・吾妻利秋訳)
http://www.tsurezuregusa.com/index.php?title=Mainpage
※8:現代語訳:宇治拾遺物語
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/2189/ug/ugindex.htm
※9:京都PHOTO CLIP
http://photo-clip.main.jp/index.html
※10:拾遺都名所図会データーベース
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/c-pg2.html
※11:東山三十六峰
http://www.toshiomi.net/h36/h36main.htm
※12:神奈備・粟田神社
http://kamnavi.jp/it/kinki/awata.htm
※13:海神の国日本:和珥〔和邇・丸邇〕
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/wani.htm
※14:上北山村公式ホームページ :伯母峰の一本足
http://vill.kamikitayama.nara.jp/kanko/shiru/densetsu/
※15:国際日本文化研究センター:怪異・妖怪伝承データーベース
http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiDB2/index.html
※16:鳥辺野葬送
http://www.kadode.com/toribenosousou.htm
※17:京都三大葬送地
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shi-bu/kyotorekishi/sandaisousouchi.html
※18:京都通百科事典
http://www.kyototsuu.jp/index.html
※19:異類異形(いるいいぎょう):四字熟語データバンク
http://www.sanabo.com/words/archives/2004/06/post_1955.html
京都まにあ
http://www.linkclub.or.jp/~mcyy/kyo/mania.html
きょうのことあれこれと・・「閻魔賽日,十王詣の日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/38a03b811938177f752f5c63c179aee9
鳥辺野- Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%B3%A5%E8%BE%BA%E9%87%8E/
京の七口
http://www.j-sl.com/chn/ippuku/kyo06/kyo06_main01.html
京都通百科事典
http://www.kyototsuu.jp/index.html
京都妖怪紀行(17):粟田口刑場跡:蹴上側から
http://komichin.blog80.fc2.com/blog-entry-208.html
実は恐い怖い京都の裏観光情報! : 京都 葬送の地
http://kyotouranavi.blog64.fc2.com/blog-entry-19.html
京都新聞:ふるさと昔語り:(111)五条天神の森(京都市下京区)
http://www.kyoto-np.co.jp/info/sightseeing/mukasikatari/070621.html
おいでやす京都
http://kyoshiro.seesaa.net/archives/200605-1.html
怪しい話-522
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/itimuan/maru/old6/aya522.html
京都観光Navi:五条大橋
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=3000042
葛野の歴史
http://www.geocities.jp/syuugoro2/kyoudoshi.htm
名所旧跡めぐり
http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/urochoro_kyoto_sansaku.htm
義経伝説
http://www.st.rim.or.jp/~success/yositune.htm
京都市内の通り - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82%E5%86%85%E3%81%AE%E9%80%9A%E3%82%8A
12月20日 今日は何の日~毎日が記念日~
http://www.nnh.to/12/20.html

昭和の大横綱双葉山の忌日

2010-12-16 | 人物
12月16日の今日は第35代横綱双葉山こと時津風・元日本相撲協会第3代目理事長の1968(昭和43)年の忌日である。
双葉山 定次(本名:龝吉 定次〔あきよし さだじ〕)は、1912(明治45)年2月9日大分県宇佐郡天津村布津部(現在の宇佐市下庄)出身。双葉山時代は無敵の69連勝を記録し、この記録は現在も破られていない。しかも、当時は年2場所しか行われていなかったため、3年間にわたって勝ち続けたことになる。
双葉山は、少年時代は成績優秀で普通に出世を目指していたらしいが、家庭の事情から父親の事業(海運業)を手伝っているとき県警の双川喜一部長(のち明治大学専務理事)に才能を見出され、その世話で1927(昭和2年)年、立浪部屋に入門。同年3月場所初土俵を踏む。
四股名の双葉山は「栴檀(センダン)は双葉より芳し」のことわざ(諺)からだが「栴檀は二葉より香し」ともいうそうだ。このことわざの栴檀はセンダンではなく、栴檀は白壇(ビャクダン)の中国名でもあるそうで、白檀は発芽のころから香気を放つことから、将来大成する人物は幼少のときから優れているという喩(たと)え。一般に「いろはかるた」などでは犬も歩けば棒に当る」などことわざを使ったものが有名で良く知られているが、これは江戸版(いわゆる犬棒かるた)で、この京都版の「い」は「一寸先は闇」。京都版の「せ」に「栴檀は二葉より香し」がある(以下参考に記載の※1参照)。この諺から、中国語では「英雄出少年」と言うそうだ(以下参考の※2参照)。良い四股名をつけてもらったものだ。しかし、双葉山は、入幕以前は目立った力士ではなく、大きく勝ち越すことがない一方で負け越しもなく、年寄・春日野(元横綱栃木山)から、「誰とやってもちょっとだけ強い」と評されていたのだという。
1931(昭和6)年5月場所には19歳3ヶ月で新十両に昇進。翌年2月場所、春秋園事件での関取の大量脱退により繰り上げ入幕(十両6枚目から前頭4枚目へ)となるが、相撲が正攻法すぎて上位を脅かすまでには至らず、ただ足腰が非常に強い為攻め込まれても簡単には土俵を割らず土俵際で逆転することが多く「うっちゃり双葉」と皮肉られていたそうだ。1935(昭和10)年1月場所には小結に昇進するが4勝6敗1分と負け越して前頭筆頭に落ち、5月場所も4勝7敗と負け越すなど、この頃までは苦労の連続だったという。
だが、1935(昭和10)年に、蓄膿症の手術を機に体重が増え、それまでの取り口が一変し、一見、相手より遅れて立つように見えながら先手を取る「後の先をとる」立合いを地で行き、右四つに組みとめた後、吊り寄り、乃至必殺の左上手投げで相手を下すようになったそうだ。
そして、翌・1936(昭和11)年1月場所6日目、双葉山の台頭以前に一時代を築いていた横綱玉錦に敗れるが、翌7日目前頭4枚目の瓊ノ浦(のち両國)を下すと残りを連勝して9勝2敗。新関脇で迎えた同年5月場所では9日目に玉錦を初めて破って11戦全勝で初優勝し大関に昇進。以後、大関は全て全勝で通過し、1937(昭和12)年5月、全勝で連続全勝優勝し横綱に昇進。
1938(昭和13)年5月、5場所連続全勝優勝し、この場所で双葉山の前の記録保持者である江戸時代の大横綱谷風の63連勝(引分預り・休場を挟んだ記録)を、約150年ぶりに塗り替えた。
そして、3年間、負ける事を忘れたかのように勝ち続けてきた大横綱双葉山が次の1939(昭和14)年1月場所4日目(1月15日)、勝てば連続70勝となる「世紀の大一番」で、当時平幕の安藝ノ海(あきのうみ)に左外掛けであっけなく敗れ連勝記録は69で終わってしまったが、双葉山は約3年ぶりの黒星で連勝記録を阻止tされたにもかかわらず、普段通り一礼をし、まったく表情も変えずに東の花道を引き揚げていったという。
実は、この1939(昭和14)年1月場所、前年の満州巡業でアメーバ赤痢に感染して体重が激減、体調も最悪だったことから、双葉山は当初、休場を考えていたらしいが、力士会長の横綱玉錦が虫垂炎を悪化させて急死(1938年12月)した為、双葉山が2代目会長になり、責任感の強い双葉山は強行出場したようだ。
さらに、当時の出羽海部屋では、打倒双葉を目指して場所ごとに作戦会議を開き、その中から、「どうやら双葉山は右に食い付かれるのを嫌がる」「無理な投げを打って体勢を崩すこともあるので、そこを掬(すく)うか足を掛けるかしてはどうか」という作戦が生まれ、双葉山とは稽古もしたことがなく、弱点も知られていない。それに入幕して初の挑戦者となる安藝ノ海が打倒双葉の期待を担う事になっていたという。実は、双葉山は、少年時代の負傷が元で右目がほとんど見えていなかったという。そこを突いた作戦が見事功を奏したというわけだ。
ラジオの実況中継を担当していたNHKアナウンサー和田信賢は、この日に双葉山の連勝が途切れるなどとは予想もしておらず、双葉山が外掛けに倒れた時に控えのアナウンサーに「双葉負けたね!確かに負けたね!」と繰り返し確認してから、「双葉散る! 双葉散る! 旭日昇天まさに69連勝、70連勝を目指して躍進する双葉山、出羽一門の新鋭安藝ノ海の左外掛けに散る! 時に、昭和14年1月15日、双葉山70連勝ならず!まさに70 、古希やはり稀なり!」と絶叫したという。いや~、なかなかの名解説!今時のアナウンサ~ならどんな放送をするんだろう?
この70連勝を阻まれた日の夜、双葉山が心の師に対し打った電報は「イマダモッケイタリエズ(未だ木鶏たりえず)」であったという。この心の師は陽明学者安岡正篤とされており、以下参考に記載の※3:安岡正篤「1日1言」:名横綱双葉山と木鶏の逸話では、安岡が欧米の東洋専門の学者や当局者達と話し合いをするためにヨーロッパへ船旅をしているときに、双葉山より電報が入ったと書いている(安岡正篤『人物を修める』の中で)らしいが、Wikipediには、実際には双葉山に安岡正篤を紹介してくれた友人へ打った電報をその友人が取り次いだものだともいわれていると書いている。以下YouTubeの動画は、昭和14年1月場所4日目、安藝ノ海に敗れるまでの69連勝を記録したものであるが、最後の場面に出てくる電報の宛名には「コウベシ ナカヤ セイイチ殿」となっている。この人が双葉山の友人であり、その知らせを友人が安岡に転送したのでははないか・・・と私は思っている。
双葉山の69連勝ーYouTube
http://www.youtube.com/watch?v=2sC6OBedhr8
以下参考に記載の※3には、「列子」と「荘子」に出てくる「木鶏」の話が詳しく解説されているので、読まれると良い。ここに出てくる木で彫った鳥(木鶏)のように驕りも高ぶりもない境地 相撲人生・・・それが双葉山の最後まで求めた境地であった。
尚、この「世紀の一番」は大相撲史上で最初の号外として伝えられた、と言われているようだが、この号外の紙面は現存しないそうだ。
双葉山と同じく昭和の大横綱である大鵬北の湖千代の富士(現九重)でさえ届かなかったこの連勝記録は、おそらく永久に破られることのない不滅の記録であろうと言われていた。そして、若乃花(今は実業家・タレント花田 勝)・貴乃花の兄弟横綱が相撲界から去って後は、強い日本人力士はいなくなり、日本の国技とまで言われていた大相撲界に陰りが見え始めた中、今では三役など上位を占めているのは殆どが外国人力士となってしまった情けない状況にある。
そのような中で、双葉山の69連勝達成から70年余り経った今年・2010(平成22)年1月場所14日目から62連勝を続けてきた白鵬(モンゴル出身。宮城野部屋)が、同年11月九州場所で、初日栃ノ心を上手投げで破り、江戸時代の大横綱谷風に並ぶ63連勝を達成した。いよいよ昭和の大横綱双葉山の不滅といわれた連勝記録が外国人力士白鵬によって達成される可能性が出てきた。そんな記録達成への期待とそれが外国人力士によって行なわれようとしていることへの日本人として、又、大相撲を日本の国技として愛してきた者の悔しさや情けなさ・・・。記録達成には色々な感情が渦巻いていただろうが、いずれにしても、白鵬の連勝記録に多くの人が関心をもっていたことだろう。しかし、期待された白鳳は2日目、なんと双葉山同様に、平幕(前頭筆頭)の稀勢の里に正面から真っ直ぐ寄り切られ土俵下まで転落し、完敗を喫し、連勝記録は63でストップしてしまった。
ところが、1年半ほど前の読売新聞の『よみうり時事川柳』に、この稀勢の里の連勝ストップに関して予言めいた一句が載っていたそうである。その川柳とは、「稀勢の里君(きみ)が何とかせにゃいかん (投稿者:東京・後藤克好〉」だそうである(「11月16日付 編集手帳 : 社説・コラム : YOMIURI ONLINE」より)。
大の大相撲ファンだった私も、若・貴兄弟が相撲界から去り、国技と言われた日本の伝統ある大相撲に期待できる日本人力士がいなくなり、上位は殆ど外国人が占めるようになってからは、今の相撲に興味が薄れテレビも余り見なくなってしまったので、白鵬に勝った稀勢の里については何も知らなかったが、Wikipediaによれば、彼は、中学卒業と同時に(鳴戸部屋)に入門。低迷する日本人力士の希望として親方衆やファンの期待も大きく、関取昇進以前から将来の飛躍を確実視されていた逸材だそうだ。彼も精進し、2004(平成16)年九州場所、貴乃花に次ぐ年少2番目の記録(18歳3カ月)で番付を駆け上がり新入幕を果たし、この時これまで本名(萩原寛)のままで取っていた四股名を「稀勢の里」と改名したという。この四股名は、「稀な勢いで駆け上がる」という意味を込めて師匠が提案、本人も納得してつけられたものだという。
双葉山の70連勝の記録を阻止した安藝ノ海は、その後、「双葉山に勝った自分がみっともない相撲は取れない」と稽古に励み、1943(昭和18)年1月照國と同時に横綱に昇進した。
白鵬を破り自身3個目の金星を獲得した稀勢の里は、最終的には10勝5敗となり、殊勲賞を受賞した。稀勢の里もこの後精進して、一日も早く平成の日本人大横綱として大相撲界をリードして行ってもらいたいものだ。私もこれから応援したい。
双葉山の69連勝にチャレンジした白鳳と双葉山両者の記録を単純に比較するには余りにも環境が違っている。
大相撲場所数が年6場所になったのは、名古屋場所が本場所となった1958(昭和33)年からのこと。1949(昭和24)年に東京の2場所に大阪場所が加わり年3場所となり、1953(昭和28)年からは年4場所、九州場所が本場所となった1957(昭和32)年に年5場所であった。
大相撲の場所数は江戸時代から10日間の本場所が年2回と相場が決まっており、双葉山が三役に上がった昭和10年代でもそうであった。
場所の取り組み日数は10、11、13、15日間と時代とともに増えていったが、双葉山時代、一場所の取組日数は11日だったが、双葉山人気が凄まじく、1月場所でも徹夜で入場券を求めるファンが急増した為、1937(昭和12)年5月場所から日数が13日となり、さらに1939(昭和14)年5月場所から現在と同じ15日となった。だから、双葉山は実に3年も掛けて白星を積みかさね69連勝を達成したのだ。それに、当時は、ライバルに強豪力士も多く存在していた。
立浪部屋所属の横綱・双葉山は、その実績が評価され現役力士のまま弟子の育成ができる二枚鑑札を許可され、1941(昭和16)年5月に立浪部屋から独立して双葉山相撲道場を設立した。そして、1942(昭和17)年から1944(昭和19)年にかけて4連覇、36連勝もしている。
1945年(昭和20年)11月場所限りで現役引退して12代目となる年寄・時津風を襲名するとともに、時津風部屋と改称した。1957(昭和32)年に相撲協会理事長に就任。横綱17場所の成績は180勝24敗、勝率8割8分2厘、優勝12回、全勝を8回している。
12月1日スポニチの記事((以下参考に記載の※:4参照)によれば、今年の大相撲九州場所で5場所連続17度目の優勝を飾った横綱・白鵬は、11月30日、観光大使を務める鹿児島県霧島市で前田終止(しゅうじ)市長を訪問し、連勝が63で止まった現在の心境について「われいまだ白鵬たりえず」と明かしたという。「知人に言われた言葉」と前置きした上での発言だったそうだが、モチーフとしているのは尊敬する双葉山が69連勝で止まった際に残した「われいまだ木鶏たりえず」という名言であり、双葉山は、どんな時でも無心に戦う天下無敵の鶏「木鶏」を引き合いに出したが、白鵬は「理想の自分」を追い求める意思をその言葉に込めたもので、「途中から勝ちにいってスキができた」と振り返った稀勢の里戦の敗北を糧に「また69連勝を目指したい」と誓ったそうだ。
場所数、取り組み日数も増えた今なら双葉山の69連勝の記録は「1年足らずで超える」ことが可能だが、横綱としての人間双葉山を超えるのは容易ではないだろうが、同じモンゴル出身の外人力士ながら、朝青龍などと違ってただ強いだけではなく、日本の大相撲に溶け込もうと一生懸命精進もしているようであり、相撲態度も立派な横綱・白鳳なら日本の伝統相撲の頂点に立って相撲界をリードしてゆく資格は十分にある。出来ることなら日本人力士によって双葉山の記録を更新して欲しいが、白鳳が2度目のチャレンジで更新するのであれば、私も素直に認めることが出来そうだ。
最後に、YouTubeで戦後の連合国軍占領下の厳しい制約下の中で相撲協会映画部において制作された映画「双葉山物語」の一部が以下で見ることができる。
双葉山物語1  
双葉山物語 2
双葉山物語 3
双葉山物語 4
(冒頭の画像は双葉山。Wikipediaより)
参考:
※1:ゲーム研究室「かるたの部屋」
http://www.asahi-net.or.jp/~rp9h-tkhs/carta.htm
※2:日本を経由して中国に入ってきた西洋の言葉
http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2010-05/20/content_20083155.htm
※3:安岡正篤「1日1言」:名横綱双葉山と木鶏の逸話
http://www.chichi-yasuoka.com/episode03.html
※4:新たな名言?「われいまだ白鵬たりえず」(12月1日スポニチ)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101201-00000039-spn-spo
ことわざ辞典:栴檀は双葉より芳し
http://www.proverb.jp/proverb3271.html
大相撲コラム集(大相撲名言集) - goo 大相撲
http://sumo.goo.ne.jp/ozumo_joho_kyoku/yomu/003/146.html
双葉山定次 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8C%E8%91%89%E5%B1%B1%E5%AE%9A%E6%AC%A1
双葉の里
http://www.jaoic.net/oitausa/page/futabayama.html

ニイタカヤマノボレ1208

2010-12-08 | ひとりごと
12月8日と言えば皆さんは何を思いだしますか?
日本記念日協会で調べると、協会認定の記念日に「ジュニアシェフの日」。その他の記念日に「ジョン・レノン忌」、「太平洋戦争開戦記念日」がある。
協会認定の記念日にある「ジュニアシェフの日」について由緒書によれば“「ジュニアシェフ」とはこどもを対象とした料理の教授、教室の企画・運営・開催を指すもので、福岡県久留米市に本社を置き、食品卸売業・レストラン事業・旅館業・農業などを手がけるベストアメニティ株式会社が有する登録商標。記念日は食育の一環として、食文化、作法、食材などの知識を広めるために同社が制定。日付は12と8で「ジュニアシェフ」と読む語呂合わせから”・・・とある。
同社は、国内産の16種類の穀物を配合した雑穀米「十六雑穀米」などを販売しているらしいので、その販促が目的のものだろう。ここのところの記念日ブームに便乗したいわば企業のCM的な記念日だろう。最近は、この手の記念日が急増している。長期にわたり経済の低迷している今の時代、企業も生き残りをかけて必死なのだろう。私の好みではないが、最近は少々このブログもネタ切れになってきたので、時々、この手の記念日も記念日のタイトルを拝借して書いているが、中身は関連した他のことを書いていることが多い。
その他の記念日「ジョン・レノン忌」のことについては、2004(平成16)年の今日「レノンズデー(Lennon's day) 」として書いたし、6月29日「ビートルズ記念日」でも触れた。
ジョン・レノンのパートナーであり、前衛芸術家のオノ・ヨーコの提唱のもと売上金からチャリティし、「世界の恵まれない子どもたちに学校を贈ろう」と2001(平成13)年から毎年ジョン・レノン音楽祭の一環として「Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ」が、開催されているが、特に2010(平成22)年の今日12月8日は、ジョン・レノン が自宅アパート前で、狂信的なファンによって、拳銃で射殺されてから30年目の日ともなるので今日、日本武道館(東京・北の丸)では、豪華なゲストを招いて盛大に行なわれるようだ。マスコミなどではジョン・レノンや、「Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ」の話題で賑わうことだろう。
しかし、私達戦前子で、戦争(第二次世界大戦)の惨禍を経験してきた年代の者にとって、「12月8日」といわれて先ず思い出すのは、真珠湾攻撃の暗号「ニイタカヤマノボレ」である。
日中戦争4年目の1941(1946)年、欧州諸国により行われていた中国大陸での植民地獲得競争に遅れを取っていたアメリカと明治以来アジア唯一の先進国となっていた日本が中国大陸での権益をめぐり対立するようになる。当初は日本を支援していたアメリカが、日本と争っている中国を支援するようになり、日本とアメリカの関係は険悪の一途をたどる。
そこで、かって駐米大使館付海軍武官であった知米派の野村吉三郎が大使に任命され、同年2月4日より日米交渉が始まったが、双方の思惑と誤解もあり交渉は難航。相互不信のなか6月22日の独ソ開戦に乗じて陸軍が南部仏印進駐を強行すると、アメリカは石油の全面禁輸で応じた。四面楚歌のなかで対米強行論が急速に高まるなか、11月26日、アメリカから示されたハル・ノート(中国からの撤兵・三国同盟からの離党・蒋介石政府の承認などが盛り込まれていた)を最後通帳と見做した日本は、12月1日の御前会議で、外交交渉を打ち切り、即時開戦(対米宣戦布告は真珠湾攻撃の30分以上前に行うべきこと)が決定された(以下参考に記載の※1:「対米英宣戦布告演説」にて、東条英機首相の甲高い声の生の演説が聴ける)。
そして、12月2日、ハル・ノートが提示される以前に択捉島単冠湾を出航していた機動部隊に向けて、暗号電報「ニイタカヤマノボレ一二〇八」が千葉県の船橋海軍無線電信所から送信され、戦艦アリゾナ等戦艦11隻を撃沈、400機近くの航空機を破壊して、攻撃の成功を告げる「トラトラトラ」という暗号文が打電された。

上の画像は、炎上するアメリカ海軍戦艦「アリゾナ」
ニイタカヤマ(新高山)は当時日本領であった台湾の山の名(現・玉山)で当時の日本の最高峰であり、一二〇八(ヒトフタマルハチ)とは12月08日のことで、「日本時間12月8日午前零時を期して戦闘行動を開始せよ」の意の符丁であった(ちなみに、戦争回避で攻撃中止の場合の電文は「ツクバヤマハレ」であったそうだ)。

上の画像は、台湾の玉山東峰(左・3869m)と玉山主峰(右・3952m)。
船橋海軍無線電信所は日露戦争後、聯合艦隊の行動範囲の拡大に伴い東京近郊の東葛飾郡船橋町周辺にある塚田村行田(現船橋市行田)に設置された海軍の無線電信施設であり、戦後は、進駐軍(日本を占領した連合国軍)が接収、1966(昭和41)年に返還されたが1971(昭和46)年5月19日から解体され、今は、行田公園に記念碑が東西の広場を分ける道路から西広場入口付近にあるそうだ。
結局、8ヶ月に及ぶ日米交渉は思惑と誤解が先行したまま終わり、元々は、ワシントンで交渉していた野村吉三郎・来栖三郎両大使がアメリカ側に最後通牒を手渡してから攻撃を開始することになっていたものが、最後通牒の文書の作成に時間がかかったため、事実上奇襲攻撃となってしまい、「真珠湾攻撃は日本軍の騙し打ちである」とのアメリカのプロパガンダに使われることになってしまったのは残念なことである(アメリカ軍はRemember Pearl Harbor !「リメンバー・パールハーバー」」を戦争遂行の合言葉とした)。
以後、3年6箇月に及ぶ大東亜戦争対米英戦(太平洋戦争)が勃発したのである。この真珠湾への奇襲攻撃の日が、「対米英開戦記念日(太平洋戦争開戦記念日)」であるが、このことについては前にこのブログで書いたのでここを参照してください。
1941(昭和16)年の真珠湾攻撃は、私の生まれたほんの数年後の出来事であるが、戦後69年を経過した今の日本では「ニイタカヤマノボレ」なんて言葉はもう知らない人が殆どになったであろう。そして、敗戦後の被占領期に作成された日本国憲法では、日本が二度と戦争を起さないようにするために憲法第9条は"戦争の放棄"と"戦力不保持"、並びに"交戦権の否認"を定めているため、憲法前文の記述及びこの条文から日本の憲法は「平和憲法」などと呼ばれ、この憲法の解釈上から自衛隊は「戦力」にはあたらない組織などとされており、自衛隊は日米安全保障条約と同条約に基づいて駐留している在日アメリカ軍の存在を前提にして組織されている。そのためアメリカ軍の協力なくして日本単独では自国を守れない状況にあるのに、占領時にアメリカによって作らせられたこの「平和憲法のお陰で日本の平和がある」・・などという平和ボケした日本人が多く、以後、後生大事にこの憲法を改正することもなく今日に至っている。
よく、中国や韓国などから日本が侵略国家であるなどといわれ、また、敗戦後の日本の教育でもそのようなことが教え込まれ、日本人の中にも本当にそのように思っている人が少なからずいることを非常に残念に思っている。
日本が明治維新を迎えた当時を振り返ってみると判るが、その当時は既に、世界列強による植民地獲得競争が最盛期を迎えており、アジアの中で真の独立国は唯一日本だけといえる状況であった。そのような弱肉強食の時代に欧米列強の包囲網の中にあって、明治新政府が自国の防衛と独立を確保し、さらに国の成長発展を遂げるのは極めて困難なことであり、明治新政府には富国強兵への道を歩まざるをえない必然性があったのである。
明治新政府は、隣国の清国・朝鮮と協同して列強に対抗する道を求める努力もしているが、各国の政情がそれを許さず、ロシアの南下政策など列強の脅威が増大するに従って軍部はその防衛戦力の増強を進めていった。そして、新興国日本が、産業発展の途を中国大陸に求めるや、その前面に立ちはだかる清国およびロシアと衝突するに至り、以後、日清戦争、日露戦争、ついでシベリア出兵、満州事変などの戦争へと繋がり、満州事変以降、アメリカが、日本の大陸政策を否認する方針をとり、政治的・経済的にも日本を圧迫し、1939(昭和14)年には、「日米通商航海条約」を一方的に破棄し、全面的に対日経済の断交を図ったことから、日本は止む無くそれまでの対米依存経済を修正して、南方諸国を含めた東亜共栄圏にわが国の生存と発展の基盤を求めたのが、大東亜戦争(太平洋戦争)へと突入した経緯である。
これは、日本が好んで戦争を仕掛けたのではなく、戦争に突入せざるをえないようアメリカに仕向けられたものであることを分かって欲しい。(以前、このブログ神戸大空襲の日の中で、「神戸大空襲の日【余談:大東亜戦争へ突入の原因】」として書いたので参照してください。また、Wikipediaの「真の近現代史観」懸賞論文なども参照)。
話し変わって、今年(2010年)9月、日本の領土である尖閣諸島沖で領海侵犯をした中国漁船に対し、海上保安庁の巡視船が退去を命じるも、それを無視して漁船が違法操業を続行し、逃走時に海上保安庁の巡視船に衝突を繰り返し巡視船2隻を破損させたため、海上保安庁が同漁船の船長を公務執行妨害で逮捕し、取り調べのため石垣島へ連行し、船長を除く船員も同漁船にて石垣港へ回航、事情聴取を行ったことに対して、中国側が日本に抗議をしてくると、漁船も船員も返還した上、取調べ中の船長までおも、日本の法律に照らし粛々と裁くこともせず解放させてしまうという事件が起った(詳細は尖閣諸島中国漁船衝突事件参照)。
その上、中国漁船が追突してきたときの証拠のビデオを、日本国憲法で知る権利(Yahoo!百科事典参照)を保障されている国民に公表もしないくせに、そのビデオを動画サイトYouTubeに流出したと名乗り出た第五管区海上保安本部の海上保安官を逮捕させようとする・・・など、なんとも弱腰と言うよりも、腑抜けの民主党菅直人首相や仙谷由人官房長官の対応を見ていると、日本の将来が危ぶまれて仕方がない(このことも、先日〔 11月26日〕のブログ「沖ノ鳥島をコンクリート保全」でも書いた)。
今、経済力を身につけた中国は、虎視眈々と領土拡張を目論んでおり、ロシアも、戦後のどさくさに進出し不当に実効支配をしている北方領土を日本に返還することなく我が物にせんと動き出している。
そのような状況の中、命を懸けて日本の海(領海)を守っている海上保安庁の人たちは、はらわたが煮えくり返るほど腹が立つというよりも、情けなくて仕方がないだろう。こんなことで、日本の海、いや、日本の領土を守ることができるのか。特に「自衛隊は暴力装置」などと発言をする左翼的な人間(仙谷氏)が、影の民主党党首などと呼ばれ、民主党政権を牛耳っているらしい・・・などと聞くとそら恐ろしい感じがする。
又、11月23日、北朝鮮による突然の韓国砲撃事件が発生したが、その時の民主党菅首相の動きなど見ていると、とってもこの人達には、政権を委ねてはおれないとますます感じた。私も自民党政治からの転換を求めて民主党を応援はしてきたが、こんな無能な人たちばかりであったのかと今更ながらに驚いている。民主党総裁選に破れ金銭問題でマスコミなどにたたかれている小沢氏が党首時代に、今の民主党にはまだ政権担当能力はないと言っていたが、さすが政界の大ベテラン、確りと自己分析をし、彼らの能力を見通していたようだ。
世界の無法国北朝鮮が自らウラン濃縮施設を公開するなど核兵器計画(北朝鮮核問題参照)がかなり進んでいる可能性が排除できない中での韓国・延坪島への砲撃事件(延坪島砲撃事件参照)。今後何時第二の朝鮮戦争が勃発してもおかしくない現状を考えれば、早急に日本の国防問題を解決しなければいけないが、今の無能な菅・仙石を中心とする民主党政権では危なっかしくて見ておれない。菅氏等にもし国民や国家のことを思う気持が少しでもあるのなら己の能力を悟り、一日も早く自ら政権から下りるべきであろうことを最後に付け加えておきたい。
(1枚目の画像は炎上するアメリカ海軍戦艦「アリゾナ」、2枚目:台湾の玉山東峰、左・3869mと玉山主峰、右・3952m。Wikipediaより。)
参考:
ニイタカヤマノボレ 2009.12.05
http://www.mars.dti.ne.jp/~saitota/2009/hitori091205.htm
※1:対米英宣戦布告演説(東条英機首相)
http://rasiel.web.infoseek.co.jp/voice/tojo.htm
時事ドットコム:特集 真珠湾攻撃
http://www.jiji.com/jc/v2?id=20091207attack_on_pearl_harbor
東京外国語大学 2003年度 歴史学(日本史I)
http://homepage3.nifty.com/a-yamada/rekisigaku2002.html
大東亜戦争研究室
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2687/home.html
近代日本戦争史概説
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-annai.html
シルバー回顧録
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/index.htm
12月8日「レノンズデー(Lennon's day)」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/724c2bc19f30c1b302954229c06f7d4c
6月29日「ビートルズ記念日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/b389558e02978dc0affa8f906a3ae68f
Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴの公式サイト
http://www.dreampower-jp.com/
真珠湾攻撃 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%8F%A0%E6%B9%BE%E6%94%BB%E6%92%83
北朝鮮による韓国・延坪島砲撃 - Yahoo!ニュース
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/world/north_korea_attack_on_yeonpyeong_island/
YouTube-尖閣諸島中国漁船衝突事件 流出ビデオ 1/6.flv
http://www.youtube.com/watch?v=Ujq9ztBLN1E&feature=related
YouTube-仙谷由人 「自衛隊は暴力装置」・・・「訂正して実力組織と致します」
http://www.youtube.com/watch?v=y07Wzdgt_X0