今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

Piknikの日

2014-07-29 | 記念日
日本記念日協会(※1)に登録の07月29日の記念日に「Piknikの日 」がある。
制定したのは飲料ブランドの「Piknik(ピクニック)」を発売する森永乳業(株)(※2)。「Piknik」は森永乳業が1981(昭和56)年から発売している箱型紙容器に入った乳飲料で、ストロベリー、フルーツ、ヨーグルト テイスト、カフェ・オ・レ、コーヒーなどの製品があり、紙パック飲料ながら、未開封の場合、常温状態で賞味期限が製造日から90日という長期保存が可能。日付は29日を「Piknik」の語尾のニック と読む語呂合わせから。親しみやすい飲み物なので毎月の29日を記念日とした。…という。

「僕たち飲むならピクニック」のキャッチコピーで知られる。1990年代ごろからタレントを起用し、これまでに観月ありさ、有村美波、小川那奈、乙葉、蒲生麻由、かわい綾、井原慶子、V6の岡田准一などが出演している。又、CMソングには、以下のようなものがある。いずれもいい曲だ。
1986年 ジョセフ・ウィリアムズの「MY ONE」↓
Joseph Williams - My One - YouTube
1989年 スターダストレビューの「夏のシルエット」↓
スターダスト・レビュー 夏のシルエット 動画 PV 視聴 | Youtube
1997年 D&Dの「SUNSHINE HERO」↓
SUNSHINE HERO - D&D - 歌詞・動画 : 歌ネット

D&D(ディー・アンド・ディー)は、沖縄アクターズスクール出身の3人組(OLIVIA、Aya、Chikano)の女性アイドルグループで、1996(平成8)年から1999(平成11)年にかけて活動。1997(平成9)年6月、3枚目のシングル『SUNSHINE HERO』が、森永「Piknik」のCMソングとなり、グループとして自らCMにも出演。
OLIVIA(オリヴィア)(本名: オリヴィア・ラフキン)は父親がアメリカ人で母親が日本人のハーフであり、日本語があまり話せないということもあって『LOVE IS A MELODY』(1996年)でテレビ番組に出演するようになった最初の頃は、Aya(アヤ:本名: 上原あや)が3人のセンターに立って歌っていた。
D&D - LOVE IS A MELODY-You Tube

しかし、出演を重ねる間に、メインボーカルであるOLIVIAがセンターに立つようになった。同年、OLIVIAがサッカー・FIFAワールドカップフランス大会の公式アルバムで、小室哲哉ジャン・ミッシェル・ジャールプロデュースの『TOGETHER NOW』にボーカルとして参加。
"TK" KOMURO - TOGETHER NOW - YouTube

この頃からOLIVIAがグループとは別に活動するようになり、残ったAyaとChikanoで、Aya&Chika from D&D 名義での初のシングル『Kiss in the Sun』を発売している。1999(平成4)年2月に、 OLIVIAは、シングル『I.L.Y. 〜欲望〜』でソロデビューした後、自分自身の曲を表現したい為セルフプロデュースを開始するようになる。D&Dは、歌もダンスも上手い突出した実力を備えたユニットだっただけに、Oliviaが抜けてすぐに活動休止となってしまったのがファンなどには残念だったろうね~。

話変わって、本来のピクニック(Picnic)とは、屋外に出て野山や海岸などの自然豊かな場所に出かけていき、食事をすること。語形としてはpique‐nique(フランス語)が古いが、語源は諸説あって不明らしい。元来は「持ち寄りの宴会」を意味したようだ。
このピクニックの風習は、ヨーロッパの貴族たちの社交場として始まったという。Wikipediaには、狩猟遊びで栄えたとあるが、当時、ヨーロッパの貴族たちにとって狩猟遊びが、屋外での社交場でもあったのだろう。その当時は配膳などに使用人を配するなど、戸外で食事をすることに贅(ぜい)をこらして楽しむ傾向が見られたようだ。
●以下に掲載の画像は貴族のピクニックの様子。15世紀の図版らしい(Wikipediaより)。

使用人たちのほか、左下には猟犬もおり、大所帯で戸外に繰り出している様子がうかがえる。
いつしかピクニックの風習は欧米に広がり、大衆化する過程で簡略化され、家族やカップルないし遊び仲間など少人数で楽しむ際に、食器を使わないでも食べられる簡便な、それでいて「食べる」という娯楽性を付与した食事が供されるようになった。
交通機関やモータリゼーションの発展、公園や公共空間の整備などに伴い、気軽に自然環境の豊富な郊外に出かけることが可能となり、一般のライフスタイルに浸透していった。
食事では、主に弁当・サンドイッチ・果物などの運搬性の良い食べ物を持って行き、自然に親しみながら遊ぶ。これらの遊びはスポーツなどの本格的なものではなく、軽く体を動かす程度(散歩を含む)で、これは専ら「食後の軽い運動」程度にとどめられる。
似たような行楽には、ハイキングがあるが、こちらは「てくてく歩く」という意味あいがあるようで、行楽地まで徒歩で移動することのほうに主体がある。ピクニックではその移動の距離や過程は重要視されず、より純粋に戸外で食事や行楽をすること(パーティー【party】)に重点が置かれている。
日本の「花見」などもピクニックの一つであろう。
ピクニックというと私などの年代の者は、ウィリアム・ホールデンキム・ノウ゛ァク共演のアメリカ映画『ピクニック』(1955年)を思い出す。

9月初旬の労働の日(レイバーデイ)に催されるピクニックを前に、湧き立つアメリカ中西部の小さな町。
町をあげてのピクニックの朝、貨車から降りた無一文の流れ者ハル(ホールデン)は、旧友アランを頼ってやって来たのだが、沿線沿いにあるポッツ家の庭仕事を手伝うことでやっと朝飯にありつく。
半裸で庭仕事を手伝うハルに目を見張る女ばかりの隣家。ピクニックに興じるうち、次女ミリーがハルに夢中になる。しかし、夜のダンス・パーティーをきっかけにハルの心を射抜いたのは友人の婚約者で町一番の美人でもある長女のマッジ(キム・ノウ゛ァク)だった。しかし、ハルはマッジを愛するアランに自動車泥棒の疑いをかけられて町を出ることになる。
それぞれの生活を抱えた人々が年に一度のピクニックにうきうきと繰り出し、また元の生活に帰っていく。カンザス州の田舎町を舞台に若い二人が駆け落ちするまでのたった一日のできごとを描いている。風物詩的な味をもち、恋心の甘さと苦さをにじませた名編だ。
その中で、ベニー・グッドマン(Benny Goodman)の名曲『ムーングロウ(Moonglow)』のスローな「スウィング」に乗って踊り出すマッジ役のキムノウ゛ァクの踊りが印象的だった。
また二人が踊るロマンチックなダンスシーンは周囲の人達も溜息を漏らすほどのもので、この映画のハイライトでもあった。舞台出身のジョシュア・ローガンの傑作であり、ゴールデングローブ賞 監督賞を受賞。この映画では、アカデミー賞美術賞、編集賞も受賞している。以下でその感動的なダンスシーンが・・・。
Picnic (1955)
映画の流れ全体は以下がよくわかる。
PICNIC (1955) original TRAILER

このピクニックの夜の雰囲気、今ではなく、かってあった良き時代、私たちがまだ青年の頃の日本の夜桜の雰囲気などとよく似ている。
私の住んでいる神戸の源平合戦ゆかりの須磨寺横の大きな池のある公園(須磨寺公園)は伊藤博文も兵庫県知事時代には花見に来たこともある明治の頃からの桜の名所。この公園の大池の周囲は落ち着いた雰囲気で夜桜には最適であった。
シーズンになると池の前の提灯の薄明かりに照らされた桜の前で多くの花見客が、茣蓙(ござ)を広げて楽しく談笑しながら会食をしていた。場所によっては、野点のようなこともしていたし、三味線や太鼓に合わせて歌を歌を歌ったり、踊りを舞っている人もいたし、盆踊りの様に小さな輪を作って踊っている人もいた。
三味線などなくても、酒がすすんで来ると手拍子で一緒に歌を歌ったりしていたが、最近の花見などで見られる様な、混雑した人ごみの中での焼肉の臭い匂いと煙を撒きちらしながらのバーベキューや、騒々しいカラオケの使用などはなかったので、わりと静かに粛々と陽気で明るい雰囲気であった。
神戸には勧告人の方も多く済んでいるが、その人たちも毎年決まって同じ場所で花見をしている人たちが居り、アリランなどの歌を歌いながら陽気に踊っていたが、私達日本人も参加して、一緒に楽しく踊っていたものだ。
昔はごく一部の酔っ払い以外の普通の人は、先ず人に迷惑をかけないよう気を使い、節度ある行動をしていたが、自分勝手な人の多くなった今日この頃は、傍(はた)迷惑な行動を平気でする人が多くなり、折角の楽しいはずの場が鬱陶しい雰囲気になってしまったので、最近は花見にもゆかなくなった。

アメリカ映画の『ピクニック』でも一人酒を飲んで荒れていたおばちゃんがいたが、このような場では、人に迷惑をかけないようマナーには十分気を付けてもらいたいものだ。
暑い盛りの京都・祇園祭や、大阪天神祭に欠かせない魚が「(はも)」。 鱧は梅雨の雨を飲んで旨く なると言われており、梅雨の明ける7月になると脂が乗り始め旬となる(※3)。
関西では京都大阪だけではなく神戸でも夏に欠かせない味覚として喜ばれる。
それで、今年は、私たちも暑い最中、夕刻から京都へ鱧料理を食べに出かけた幸い、神戸からは京都までは、阪急電車を使えば1時間少々で行ける。食後に、嵐山鵜飼を見て帰ってきた。

●上掲の画像は、鱧料理の一品鱧の薄造り。

夜に1時間ほど鵜飼を見に行ったと言っても、鱧料理を食べることの方が主目的だったので、これはピクニックの一種ともいえるかもしれない。しかし、ピクニックとしては、やはり暑い夏より、涼しくなった秋がいいね~。
夏はおとなしく家で休養し、ピクニックには秋に出かけましょう。
今年の夏は昨年ほどではないとはいえ、平年よりは相当厳しいようなので、私も、明日から8月一杯はこのブログもお休みしようと思います。
みなさんも熱中症や、食あたりなど気を付けて暑い夏元気に乗り切ってください。
9月にまた来てください。よろしくお願いします。
最後に嵐山での鵜飼の写真を1枚おいて行きます。下手な写真ですがほんの一服の冷となればよいのですが・・・。


○冒頭の画像は、フランス印象派の画家マネの代表作『草上の昼食』(制作年:1862年–1863年)は、女性が脱いだ服を左下のピクニックの持ち物の中に配置する事によって、「現実の裸体の女性」を描いたことが「不道徳」とされ1863年のサロン(salon。フランスの官展)に出品したが落選となったもの。Wikipediaより。
参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:森永乳業
http://www.morinagamilk.co.jp/
※3:ハモ - 日本の旬・魚のお話
http://www.maruha-shinko.co.jp/uodas/syun/5-hamo.html
ピクニック - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%AF%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF

下駄の日

2014-07-22 | 記念日
日本記念日協会(※1)の今日7月22日の記念日に「下駄の日」があった。由緒は、以下のように書かれていた。
” 下駄の生産業者などで結成された全国木製はきもの業組合連合会が、伝統的なはきものの下駄のよさを見直してもらおうと設けたもの。下駄の寸法に「七寸七分」など7の数字がよく使われること、雪道を下駄で歩くと漢字の二の字に似た跡が残ることから7月22日とした。 ”・・・と。

私は下駄のことなどあまりよく判らないので、先ずは記念日を登録したとされる「全国木製はきもの業組合連合会」を探して、そこでいろいろ下駄のことを調べてみようと思い、ネットで検索してみたのだが、同連合会のHPが見当たらない。
仕方なく、まず、国内では、どこでどれだけの下駄が生産されているのか?・・と言ったことから始めようと、調べていると、 “主として木材や木材の利用に関する情報の備忘録、木のメモ帳」的な役割を目的として作られたサイト、その名も「木のメモ帳」の木の雑記帳(※2参照)の46 平成下駄事情 のところで、私の知りたいことが書かれていた。
国内では、どこでどれだけの下駄が生産されているのか?といった統計データの所在を調べても、全国をカバーする生産団体がなく、都道府県別の生産量のデータも確認できないのが現状の様である。
かつては「全国木製はきもの業組合連合会」の名の団体が存在したというが、既に解散して現在は存在しないらしいく、そのため、名の知れた下駄の産地がある一方で、職人仕事として少量生産されるものが各地に存在するが、残念ながら全貌の把握されていないのが実情のようである。
しかし、広島県福山市松永町(かつて広島県に存在した市:松永市)は下駄の生産量が日本一、あるいは全国生産量の6割を占めているとする情報が公的機関・団体、さらにはウィキペディア等を通じて広く流布していているのを確認したという。
この地はかつては価格の安い輸入材を利用して、機械化した大量生産方式によって、大衆向けの製品で高いシェアを誇った歴史があり、また、日本で唯一の「日本はきもの博物館」を有することでも知られていたようだ。
しかし、この「日本はきもの博物館」は、下駄屋の主人丸山茂助(後のマルヤマ商店)が、1878(明治11)年に下駄づくりを始めて100周年を記念して、1978(昭和53)年に開館したものだが、入館者減などに伴う収益悪化などを理由に昨・2013(平成25)年11月24日に一時閉館しており、閉館後は、福山市が運営管理を引継ぎ、2015年度に再開を目指す方針だそうである。
この、松永町も、かつてのような大量生産方式の下駄生産はなくなり、その隣町の本郷町でごく小規模な生産をしているらしい。
「広島県はきもの協同組合」(※3参照)に聞いてみると松永・尾道府中などでの生産はあるらしいが、全国の生産量がわからないことから、正確なシェアは不明ということだそうである。かつてのような大量生産方式の下駄生産は既に滅びたが、元々、伝統工芸的な存在ではなく、消耗的商品であることから、存続してゆくこと自体が厳しいことのようだ。
既に廉価なものは輸入品しか目にしないことから、国内生産のシェアを云々することは、そもそも無意味になっているといった現実の様である。
「広島県はきもの協同組合」は、昔、年間5,600万足もの下駄を作っていたという歴史ある松永を中心とした下駄関係者によって開発された下駄を紹介するWebサイト「げたのSITE」を運営しており、同サイトには、下駄に関する歴史など興味あることがいろいろ書かれているので、当ブログも、下駄の産地別状況などは問題にせず、このサイトやウィキペディアをたよりに調べたことを書いてゆくことにしよう。

広辞苑には【下駄】は、2枚の歯のある台木に三つの穴()をあけ、鼻緒をすげたはきもの(履物)。歯には差歯と一木作りの連歯があり、また一本歯や三枚歯のものもある。〈日葡辞書〉。ただ、ぽっくり下駄のように歯がないものもある・・・とあった。

上掲のものがぽっくり下駄。ぽっくり、木履(ぼっくり)、こっぽり下駄、おこぼ等々、呼称は地方によって異なるようだ。
下駄はいつ頃から履かれていたのか?
日本にはを用いる履物として、足を乗せる部分に木の台を用いる下駄、草や樹皮などの柔らかい材料を用いる草履(ぞうり)、緒が踵(かかと)まで覆い足から離れないように踵の後ろで結ぶ草鞋(わらじ)の3種がある。
下駄は中国(参照)及び朝鮮半島にもあるが、日本語の下駄にあたる言葉はなく、木靴まで含めて木履という。
一説では木靴のなかでもゲキ(屐)と呼ばれる形状のものが、日本の下駄の原型になったという。
下駄は温暖な農耕地帯、特に稲作農耕民族に用いられており、日本での出現も稲作の伝播と関わっていた可能性は考えられる。
イネおよび稲作技術の日本への伝播経路については、諸説あるが、いずれの経路にせよ、イネが大陸部から東シナ海を渡り日本にもたらされたことは、間違いない。
そして、日本で一番古い水稲耕作の遺跡である福岡県の板付遺跡や佐賀県唐津市の菜畑遺跡などから、炭化米や土器に付着したモミの圧痕(押しつけられたり,圧力が加わったりしてついた形)、水田跡、石包丁、石斧といった農具、用水路田下駄等が発見されていることから、その時期は、今から約3000年前の縄文時代後期にはすでに大陸から稲作が伝わっていたことが明らかとなっている。
縄文晩期、北九州地方に伝来した水田稲作技術は、その後、弥生時代になって急速に日本列島を東へと伝播し始める。現在まで、弥生時代の水田は全国で20か所以上見つかっており、最も有名なのが静 岡県の登呂遺跡 (弥生後期)であり、ここでも農具の田下駄が見つかっている(※4参照)。
田下駄は、今ではほとんど使われることがなくなったが、泥湿地の歩行や水田の農作業などに着用された履き物の総称である。この田下駄は、稲作を基礎とする日本の生活文化史に おいて、農具としてだけでなく、履き物の起源を考える上でも重要な民俗資料でもあるという。
最も原始的なものは、一般にナンバと呼ばれる板型のもので、鼻緒がとりつけられておらず、平たい板に開けた穴に縄紐を通して足に結束した。
田下駄は、その用途から二つの系統があることが知られている。その一つは、深田の田植えや稲刈り、泥湿地の芦刈などの作業用であり、泥中に足が沈み込むのを防ぎ、作業を容易にするために使われてきた。
これらは、板型、輪かんじき型、下駄型、足駄型など小ぶり のものが主で、地方によってナンバのほか、カンジキ、タゲタ、ブクリなど、さまざまな名称で呼ばれていたようだ。
もう一つは、代かき、肥料の踏み込み、その後の代直しなど、田植え前の水田の代拵(こしら)えのために使ったものである。こちらは簀(さく)の子型、枠型、箱型など、概して大型で、オーアシと呼んでいた地域が多いようだ。
また、猪苗代湖周辺の湿田地域のように、「なんば踏み」といって、代こしらえに板型の田下駄を使っていた地域もある。この地域のナンバは幅が1メートルほどもある横長のものだが、登呂遺跡出土のものは幅50センチほどでこれとよく似ているという(※5参照)。
ところで,登呂遺跡から出土した田下駄の足板を例に見ると,緒孔の数が3つのものと,4つのものの両方が出土しているようだ。前者は板を縦長に,後者は板を横長に使い,足を中央にのせ,紐などで縛って固定したものと考えられているようだ(※6参照)。
田下駄「ナンバ」については以下参考の※7:「田下駄の名称をめぐって −猪苗代湖周辺のナンバを 中心に」の論文で詳しく考察されている。いろいろと画像入りで考察しているので、興味のある人は読まれるとよい。
しかし、千葉県の利根川流域で使われていたといわれる田下駄など見ていると、やはりこれが、日本の下駄のルーツではないか・・・と思われたりもするのだが・・・。参考※8の田下駄。以下参照。
6. たげた【田下駄】
そして、以下参考の※9:「万葉集7番歌「秋の野の歌」について 其の三」では、万葉集を題材に、田下駄の事についても触れているのでこれを参考にしながら見てゆこう。
履物の用途は、何よりも足の保護にあり、万葉集に以下の歌がある(歌の原文、直訳は※10を参照した)。
原文:信濃道者 伊麻能波里美知 可里婆祢尓 安思布麻之《奈牟》 久都波氣和我世(巻一四-3399)
直訳:信濃道(しなぬぢ)は今の墾道(はりみち)刈株(かりばね)に足踏ましなむ沓(くつ)はけ我が背
」には、原野を切り開いて農地にするの意味があり、墾道とは、新たに切り開かれた道のこと。「刈株」は、稲や麦を刈り取ったあとに残る根株。かりくいのこと。
この歌の意味は「信濃路(信濃へ至る道)は今切り開かれたばかりの道。切り株に足を踏みつけないでくださいね。くつをお履きなさいよ、私のいい人。」・・と言ったことになる。
当時の道の作り方はふた通り。踏み固めて側溝を作る、比較的整備された道。そしてもうひとつは、木を伐り、石をどけ、文字通り切り開いて作る道。
この歌に歌われている道は、後者の方であり、伐採された木の切り株がむき出しになっている道を行かれるのですから、どうぞ沓(くつ)を履いていってくださいよ。あなたのことを心配していますよ。と、特に比喩などなく、ストレートな意図の表現であり、そういう意味では万葉集にあっては珍しく、愛情のやりとりを、そのままに言葉にした歌である。
特徴的な巻十四のなかで、これまた異色ともいえる愛の歌と言える・・と、万葉学者・奈良大学文学部国文学科教授の上野 誠はMBSラジオ番組での「上野誠の万葉歌ごよみ」(2011年4月17日)の中でこう解説している(※11参照)。

又。下駄類の履物の呼称については、当初からゲタないし、ケタと呼ばれていた可能性があり、その状況証拠としては、第一に、万葉集に以下の歌が存在するとしている(歌は※10の ここ参照)。

原文:小墾田之  板田乃橋之  壊者  従桁将去  莫戀吾妹(巻第十一 - 2644)
直訳:「小墾田の 板田の橋の 壊(こほ)れなば 桁より行かむ な恋ひそ吾妹(わぎも)」
この詩には、題詞:「寄物陳思」とある。『万葉集』中の相聞の歌の表現様式は、3分類あるそうで、正述心緒歌(ただにおもいをのぶるうた)(心に思うことを直接表現する),寄物陳思歌(ものによせておもいをのぶるうた)(物に託して思いを表現する)の2分類と並び、物だけを表面的に歌って思いを表現する、いわゆる隠喩の歌を「寄物陳思」と云うそうだ。
以下参考の※12:「訓読万葉集」では原文の「坂田の橋」は略解に板は坂の誤りにて、サカタなり、サカタとせることは小墾田金剛寺坂田尼寺といへり(中略)と云えり」とあるので、この歌は、「小治田の坂田の橋が壊れても 橋桁を伝ってでも逢いにゆくよ  だからそんなに恋しがるな 妻よ」といった意味になるのだろう。・・・としている。
※9:「万葉集7番歌「秋の野の歌」について 其の三」では、家や橋などで、柱や橋脚などの上に架け渡して他の材を受けるものを桁(けた,ケタ、ケの甲乙不明)という。
下駄は、人間を受けるために歯の上に板の架け渡された履物である。また、ケダ(角・方、ケは乙類)とは、方形を表す語で、副詞のケダシ(蓋、ケは乙類)はその派生語で、推量の語とともに使われて、きっと、おそらく、たぶん、もしかして、の意になったとされる(※ 13 けた,ケタも参照)。
和名抄』に、「 兼名苑(※ケンメイエン=唐の釋遠年撰とされる字書体の語彙集)に云はく、屐〈音竒逆反、阿師太(あした)〉は一に足下を名づくといふ」とある。これが下駄の古称であり、板製履物の総称とされ、一般に、アシダと濁音で呼ばれている。
遺物ばかりでなく、平安時代に入ると、清少納言の『枕草子』で、「帶ばかりしたる若き法師ばらの、屐(アシダ)といふものをはきて」(一二四段、※14参照)などとアシダの語が一般的に用いられるようになっている。
以上から見て、下駄そのものの由来が大陸の木靴「ゲキ」にあると思われるが、呼び名としての下駄/足駄は、935年前後に成立した『倭名抄』の「阿師太」が初出であり、木靴をはじめとする中国の衣装風俗の到来は古墳時代と推測されていることから、その間約500年ほどの空白期間があることになる。
ここで注目したいのは、古墳時代中期(5世紀)の遺跡から出土した履物形の滑石製模造品である。以下を見られるとその画像を見ることが出来る。

「古墳時代の神マツリ」のミカタ4 - 東京国立博物館

東京都野毛大塚古墳野と京都府鏡山古墳(出土品は、共に下駄形模造品を含む滑石製模造品の代表的なものである。
鼻緒の孔も開けられ、ちゃんと左右共に専用に造られた精巧なつくりであり、いずれも下面に下駄の歯の突起が付けられていて、近年、古墳時代に遡る木製下駄の発掘も相次いでいるという。
個々では、これらの出土遺跡は水を濾過する沈殿槽のような装置と祭祀遺物を伴い、何らかの儀礼の場で使用されたとみられる例が多いことが特徴であり、まだ解釈には諸説(泥湿地で足を汚さない、又、清水を汚さない為?など)があるが、水を使った儀礼の場で使用された履物である可能性が高いようだとしている。
参考※3「広島県はきもの協同組合」でも、歩行に用いられたものではなく農具の一つである田下駄から歩行用の下駄が生まれたとは考えにくく、歩行用の下駄の原型は先に挙げた古墳時代の古墳から出土した滑石製模造品や木製下駄にあるのだろうとしている。
先に見られた古墳時代の古墳から出土の下駄の画像をよく見ると、前の緒穴が左右に片寄ってあけられている(※3のここ参照)。
この前緒穴の片寄り、つまり左右の違いのある下駄は、現在でも日本以外の使用地にはみられることであり、いいかえれば、前緒穴が台中央にあけられるのは非常に日本的な特徴なのだそうである。この日本特有の形が出現するのは9世紀前半、平安時代初期のことだという。
奈良時代の都だった平城京跡からはこの時期の下駄が80 点以上出土しており、台はほぼ長円形にととのってきており、長さも18~24センチのものが多くなる。そして前緒穴が中央に位置するものが約80パーセントを占めており、年齢や性別を問わず使用されるようになっていくことがうかがえるという。以下のブログを見てください。

(3)すり減るまで大切に - 奈文研ブログ - 奈良文化財研究所

木履(きぐつ)と並べられている下駄には前緒穴の片寄りのあるものと、中央にあるものがある。この中央に穴のある下駄へと変化していったのだろう。しかし、これらの出土例は少なく、田下駄のような農耕具としての下駄は別とし、履物として、の下駄は、宮廷、公家、僧、武士、庶民とその階層の用途によって発達していったが、下駄は、身分の高い人が使用しただけで当時まだ多くの人々は、草履や裸足で生活していたようだ。
武家社会となる鎌倉・室町時代には、宮廷、公家だけの履物と、新興の武士たちは鼻緒のついたはきもの-草鞋(わらじ)・草履-を履くようになり、下駄の使用も増えていった。しかし、当時の履物としては、この草鞋や草履が中心であり、下駄自体が普段履きになるのは江戸時代からで、それまでは雨天や水仕事、排便時など、足下が濡れている状況での履物であったようだ。
「下駄」の呼び名の成立は戦国時代と推測され、「下」は地面を意味し、「駄」は履物を意味する(履物については※16:「履物概説」参照)。それ以前は「アシダ」と呼称されていた。
七十一番職人歌合』二十二番の返し歌に「下駄(あしだ)作り」の記述がみられる。足駄つくりの姿が描かれ、焼火箸で、鼻緒の穴をあけている。

上掲の画像は七十一番職人歌合』二十二番。画は参考17:「東京国立博物館情報アーカイブ」より借用。同サイトでは拡大図を見ることが出来る。

ただ、日本独自の履物「足駄」が初めて世に現れてから、徳川時代以前まで木製履物は形の上で、殆ど変化しなかったのは、打ち続いた戦国乱世が、その余裕を与えなかったからだろう。
江戸時代に入って、泰平が続くにつれてようやく形状に変化を示し台に漆を塗ったり、竹皮や籐の表を付けたり、鼻緒に天鵞絨(てんがじゅう。ビロード)を用いたりと、着物とともにお洒落を意識したものになる。
一木作りの下駄には、江戸初期に今の下駄の直接の祖先にあたる杉製で差歯、角型。台の下をひし形に刳りぬいてあるために歩くと馬の蹄のような音がしたという「馬下駄」が現れるが、この「馬下駄」をさらに進化させ雨天だけではなく晴天にも履ける日和下駄である「駒下駄」の現れた元禄以降においては、広く男女の平装として用いられれるようになり、下駄の発達は最も著しいものがあったようだ。
そして、世俗が遊惰となるにしたがって様々なものが現れた。安永天明の頃には、世の女性だけでなく、男性まで着物で踵をおおい、女性のように塗下駄を履いて、流し歩くようになったことから、一段と下駄の需要が増加したという。
こうした下駄の大衆化にともなって、流行の先端を行く通人の間では、同じ下駄の好みながらも一般の者とはいささか好みを異にしたようだ。
だが、一般の人たちが普段に下駄を履くということは未だ数は限られていたようで、文政一年に刊行された『江戸買物独案内』には、草履屋や雪踏屋(竹の皮の草履の裏に獣の皮をつけた履物)は記載されているが、下駄屋という専門店は一軒もない(※18参照)。
履物はこのころ草履.雪踏が一番多く履かれていたということができる。一般に都会では幕末までは草履が主であったし、地方ではほとんど自給していたようだ(※19参照)。
下駄も足駄も江戸では男子は角形を専用し、京都、大阪は高低ともに下駄、あるいは差下駄(差し歯の下駄)といい、また男女ともに丸形を専用していたが、江戸では、女性用は丸形であった。差し歯の高さによって京差しと大阪差しがあり、歯の高さが、三寸三〜四分が京差しで、二寸二分が大阪差しであった。そして、大阪差しより低い物を日和下駄と言ったようだ。
江戸時代後期の天保年間に斎藤月岑が刊行した鳥瞰図を用いた江戸の名所図会(地誌紀行図鑑)『江戸名所図会』(7巻20冊、斎藤長秋 編輯)は、長谷川雪旦の挿図も有名である。

上掲の画は『江戸名所図会』の下駄屋の図である。原寸大拡大図はNo49参照)。
この『江戸名所図会』の書かれた江戸後期には、下駄屋も出来ていたようだ。
下駄新道、神田鍛冶町の西の裏通りなり。『七十番職人歌合』のなかに月をよめる 足駄作 「山風の落ちくる露のふる足駄かたはれ月は木の間 なりけり」親長卿とある。
親長卿とは『親長卿記』(甘露寺 親長作)であり、「画中詞」はこの中で詠まれている歌なのか?
鍛冶町二丁目には鍛冶職人の屋敷だけでなく、下駄の製作・販売にたずさわる職人や業者が集まっていた「下駄新道(げたじんみち)」と呼ばれる裏通りがあった(※21)が、その下駄を作っている店の様子を描いている。 この当時になると下駄屋は原材料を加工するだけでなく鼻緒も販売し下駄の修理や歯入れも営んだようだ。
右手から、太刀を持った男性2人が走ってくる。この刀は、相模の大山参りに行き、刀を奉納するようだ(※22参照)。この鍛冶町二丁目界隈は、金物のなかでも、とくに刀や薙刀といった打物(打ち合って戦うための武器)を扱う業者が多かったのが特徴だったようだ。
男性は、裸足であるが、当時では、まだ、村・漁村・山村などでは、裸足が普通だったようで、特別な時以外は履物は使わなかったようである。絵の中で塗られている下駄は、「こっぽり」、後には、「ぽっくり」と呼ばれたもののようである。

文明開化・洋風化が掲げられていたとはいえ、明治はまだまだ江戸の風俗を色濃く残していた。
明治34年に警視庁から「跣足(裸足)禁止令」が出され、東京市内においてペスト防止の為に自分が住んでいるところを除いては裸足で歩いてはならないと定められた。
それまでは、まだまだ裸足の生活が多く、特に子供ははだしで遊んだ。大人でも車夫・馬丁・車力その他の職工などの労働者の社会では、裸足で市中を往来する者も多く、特に雨のときなどは、丁稚小僧が裸足になって歩いたり、一般の大人でも雨が降れば尻はしょりの裸足姿になって往来を歩く者が多かった。警視庁は、これを野蛮の風習としてペスト防止を理由に取締りの対象とし、禁止するようになったもの(※23参照)。
一般市民の間で誰もが履物を履くことが一般的になってゆくのは、この禁止令があって以降のことであったのだ。
下駄の歴史や下駄の種類など以下参考の※24日本の履物下駄」が分かりやすいので覗かれるとよい。

「人並はずれて丈(せい)が高い上にわたしはいつも日和下駄をはき蝙蝠傘を持って歩く。いかに好(よ)く晴れた日でも日和下駄に蝙蝠傘でなければ安心がならぬ。これは年中湿気の多い東京の天気に対して全然信用を置かぬからである。変りやすいは男心に秋の空、それにお上の御政事(おせいじ)とばかり極(きま)ったものではない。春の花見頃午前(ひるまえ)の晴天は午後(ひるすぎ)の二時三時頃からきまって風にならねば夕方から雨になる。梅雨の中(うち)は申すに及ばず。土用に入(い)ればいついかなる時驟雨(しゅうう)沛然(はいぜん)として来(きた)らぬとも計(はか)りがたい。尤(もっと)もこの変りやすい空模様思いがけない雨なるものは昔の小説に出て来る才子佳人が割(わり)なき契(ちぎり)を結ぶよすがとなり、また今の世にも芝居のハネから急に降出す雨を幸いそのまま人目をつつむ(ほろ)の中(うち)、しっぽり何処(どこ)ぞで濡れの場を演ずるものまたなきにしもあるまい。閑話休題(それはさておき)日和下駄の効能といわば何ぞそれ不意の雨のみに限らんや。天気つづきの冬の日といえども山の手一面赤土を捏返(こねかえ)す霜解(しもどけ)も何のその。アスフヮルト敷きつめた銀座日本橋の大通、やたらに溝(どぶ)の水を撒(ま)きちらす泥濘(ぬかるみ)とて一向驚くには及ぶまい。
 私はかくの如く日和下駄をはき蝙蝠傘を持って歩く。」
(永井荷風『日和下駄』より抜粋)
永井荷風は1915(大正4)年に、江戸の名残を求めた散策を主題として書いた随筆『日和下駄』を発表。その本文冒頭部分からの抜粋である(※25の青空文庫参照)。
永井は序文で、「東京市中散歩の記事を集めて『日和下駄』と題す。そのいはれ本文のはじめに述べ置きたれば改めてここには言はず。」とあり、その部分を抜粋したもの。

上掲の画像は、『日和下駄』への永井自身による挿絵である。
永井荷風、が蝙蝠傘を持って、下駄をカラコロ鳴らしながら散歩している。絵で見る限り、永井が履いている下駄は随分と歯の高いものである。「日和下駄」は、 足駄(雨天用)に対する意味でこの名がある。時期によって定義はいろいろとあるが、男物の場合は角形で台は桐(糸柾目が高級品)、長さ七二〜三(女物は五分ほど短い)。歯は二寸二分程度がふつうで(大阪差し)、これを三寸三〜四分にすると(京差し)、足駄(高足駄)というようになる。
永井は上記本文冒頭にもあるように、突然の雨に遭遇することや泥濘を期にせず歩くことを前提に蝙蝠傘を片手に下駄を履いており、それは足場の悪いところを歩くのに都合の良い高足駄・・・現在の高下駄に相当するものだろう。
バンカラ旧制高等学校生徒が履いていたのもこの種の下駄である(朴歯の高下駄)。マント、弊衣破帽、高下駄が 高校生のシンボルとされていた。

下駄を鳴らして奴が来る
  腰に手ぬぐいぶらさげて
  学生服にしみ込んだ
  男の臭いがやってくる
「我が良き友よ」 (唄: かまやつひろし、作詞・作曲:吉田拓郎)の歌詞一部。
1975((昭和50)年に発表したかまやつひろしの代表曲「我が良き友よ」の歌詞に出てくるバンカラな大学生は作詞・作曲をした吉田拓郎の大学時代の同級生がモデルだそうである。
戦後の子供の半数ぐらいは学校へ行くとき以外下駄を履いていたと記憶している。私も下駄の愛好者で今も下駄は2足、雪駄を2足持っている。
私の家は商売をしていたので駅に近い商店街の一角にあったので同じ町内に大きな下駄屋があって繁盛していた。
小学校高学年頃からは高下駄(当時書生下駄と呼ばれていた)が大好きだったので、どこへ行くのも書生下駄。家の裏山や時には神戸の布引の滝なども書生下駄で登っていたので仲間がびっくりしていた。
「一本歯下駄(高下駄)」は、天狗や修験者が履くイメージが強いが、二本歯でも丈夫な歯の高下駄の場合一本歯下駄と同じように1本の歯を使って登れば割と楽に登れたのが自分でも新発見であり驚いたのを思い出す。
私は若いころから和服が好きで、それで下駄や雪駄も揃えたのであるが、もう、着物は着なくなって久しく、浴衣のようなものでさえ着なくなっので、下駄は、箱に詰め込んだままの状態である。今は、作務衣を愛用しているので雪駄は重宝している。
しかし、素足で履く下駄は雪駄より気持ちが良いのだが、大きすぎて嵩(かさ)が高く邪魔なのである。若い時のように、書生下駄が履きたいのだが、歳をとった今、ちょっと恥ずかしいし、少し小高いところに住んでいるので転ぶ危険性もあるのでもう無理だ。
足を締め付ける靴などと違って裸足で履ける下駄は開放的でとても気持ちが良いものだ。これからの蒸し暑い夏など最高なのだが・・・・。

参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:木のメモ帳:木の雑記帳
http://www.geocities.jp/kinomemocho/index.html
※3広島県はきもの協同組合
http://www.e-hakimono.com/
※4:米穀機構米ネット1-3 伝わったのは縄文時代の終わりころ
http://www.komenet.jp/bunkatorekishi01/112.html
※5:田下駄(たげた):水資源機構 - 独立行政法人 水資源機構
http://www.water.go.jp/honsya/honsya/referenc/siryou/dougu/19.html※6:教育出版 - Q3 田下駄 はどのように使っていたの?
https://www.kyoiku-shuppan.co.jp/view.rbz?nd=1991&ik=1&pnp=100&pnp=108&pnp=198&pnp=1991&cd=760
※7:田下駄の名称をめぐって −猪苗代湖周辺のナンバを 中心に
http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10487/11951/1/10%20%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%B8%B8%E6%B0%91%E6%96%87%E5%8C%96%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%A9%9F%E6%A7%8B%E5%B9%B4%E5%A0%B12.pdf#search='%E7%94%B0%E4%B8%8B%E9%A7%84+%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%90'
※8:デジタルミミュージアム『分野』で選ぶ:むかしの道具:どうぐいちらん:(千葉県立中央博物館 大利根分館)
http://www.chiba-muse.or.jp/DM/index.php?fid=8 
※9:万葉集7番歌「秋の野の歌」について 其の三
http://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/4e47a852285917e27fbce2999803c967
※10:万葉集検索システム巻物形式表示3399 - 山口大学
http://infux03.inf.edu.yamaguchi-u.ac.jp/~manyou/ver2_2/panorama/makimono.html?kekka=3430
※11: MBS上野誠の万葉歌ごよみ:【巻】14・3399…信濃路は今の墾道
http://www.mbs1179.com/podcast/p0877/archives/31314.shtml
※12:訓読万葉集
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/manyok/manyo_k.html
※13:ほつまつたゑ 解読ガイド
http://gejirin.com/
※14:原文『枕草子』全巻
http://www.geocities.jp/rikwhi/nyumon/az/makuranosousi_zen.html
※15:鏡山古墳
http://www.isekiwalker.com/iseki/108546/
※16:履物概説
http://members3.jcom.home.ne.jp/pehota02/equipment/foots/foot01.htm
※17:東京国立博物館情報アーカイブ-職人尽歌合(七十一番職人歌合)(模本)
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0017469>http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0017469>http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0017469
※18:江戸買物独案内について
http://homepage1.nifty.com/saga-t/kappa/watashi/kaimono/kaimono-index.html
※19:下駄の歴史
http://homepage2.nifty.com/miyuki-honpo/getanorekisi.htm
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0017469
※20:江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図(早稲田大学図書館)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko10/bunko10_06556/bunko10_06556_0001/bunko10_06556_0001.html
※21:鍛冶町二丁目 - 千代田区役所
https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/bunka/bunka/chome/yurai/kaji-2.html
※22:画展518号
http://toki.moo.jp/gaten/501-550/gate518/gate518.html
※23:1.明治・大正ペスト騒動
http://www2.odn.ne.jp/nihonsinotobira/jiyuu1.html
※24:永井荷風 日和下駄 一名 東京散策記 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/001341/files/49658_37661.html
日本の履物下駄
http://homepage2.nifty.com/miyuki-honpo/index.htm
丸屋履物店-サイトマップ 
http://www.getaya.org/sitemap.html
ぞうりの文化史
http://www.zouri.or.jp/hanasi/bunkasi.htm
下駄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%A7%84>

別府 観光最大の功労者と云われる油屋 熊八 誕生日

2014-07-16 | 人物
歓楽的な温泉都市大分県別府市の観光開発に尽力し、田園的な温泉保養地由布院の礎を築いた実業家油屋 熊八は、文久3年7月16日(1863年8月29日)、伊予国、宇和島城下(現愛媛県宇和島市)の裕福な米問屋の長男として誕生した。江戸時代は油問屋を営んでいたことから明治になって油屋の姓にしたと言われている。
15歳の時には家業(米国問屋)に精を出していたといわれ、26歳の時に旧宇和島藩主伊達宗城側用人戸田義成の娘ユキを娶る。翌、27歳の時、町村制施行(明治22年4月)時の町会議員となる。
しかし、明治24年(1891年)父が没した後、30歳の時、熊八は家業に見切りをつけ大阪に出て、相場や株式市場を学び米相場で富を築き、別名「油屋将軍」として羽振りが良かったらしいが、日清戦争後の経済の大変動のとき、相場で失敗したことを契機に、明治30年(1897年)再起を期して単身アメリカに渡ったという。
渡米中の熊八の詳細は不明だが、ホテルのボーイや皿洗いなど手当たり次第に色々な職業をしていたようだが、明治33年(1900年)春、熊八38歳の時、サンフランシスコ郊外で空腹と疲労で行き倒れとなっていた時、日系人牧師より洗礼を受け。キリスト教徒となり、牧師より帰国を勧められ、3年間の滞米生活に終止符を打ち帰国の途についたという。
しかし、熊八は帰国後、また元の相場の世界に頭を突っ込むが、うまく行かず、熊八のアメリカ渡航時に別府に身を寄せていた妻を頼り、別府港(のちの楠港)開港(明治4年=1871年)以来温泉地として飛躍的に発展していた別府温泉で再起を図ろうと移り住む。
賢明な熊八の妻ユキは熊八渡米時に渡されていた金で古家を買っていた。それを改築し、湯治場に改築して、「亀の井旅館」(後に亀の井ホテルと改称。現在の亀の井ホテル別府店)と名付けた。
熊八はアメリカで助けられ牧師より学んだ、聖書の中にある言葉「旅人をねんごろにせよ」(旅人をもてなすことを忘れてはいけない。※1:「新約聖書」ヘブル人への手紙 13章2節参照)に感銘していたことから、この言葉を思い出し、この言葉を合言葉に、サービス精神の実践として婦人が経営していた亀の井旅館を手伝うところから 別府生活が始まったという。それが明治44年(1911年)のことだとされている。
宿泊客に対する熊八のサービスは徹底していたようで、ロビーに投書箱を置き、「お食事はいかがでございましたか」「女中やボーイに不行き届きはございませんでしたか」など4項目について記入してもらい、客へのサービス改善を怠らなかったという。又、旅館に2メートル四方もある世界各国の国旗を全部揃え、5人以上の外国人団体客が泊まった時は、その国の国旗を玄関前に掲げて歓迎の意を表し、ホテルのホールでは歓迎ダンスパーティーも開いて外国人客を喜ばせた。又、利用客に万が一の急病に対処する為に看護婦を常駐させていたらしく(※2参照)、こうしたきめ細かいサービスで亀の井の名声は高まり、有名人など上客の宿泊も増えていったという。
小旅館の経営から初めて独特の奇知と迫力ある行動力と宣伝力で大正13年(1924年)には洋式ホテルに改装して、亀の井ホテルを開業。
続いてバス事業に進出し、昭和3年(1928年)に亀の井自動車(現在の亀の井バス)を設立して、日本初の女性バスガイドによる案内つきの定期観光バスの運行を開始した。
この間、梅田凡平(口演童話家)らとともに別府宣伝協会を立ち上げ、別府お伽倶楽部のお伽船(※3参照)の活動に参加する中で、自らのもてなしの哲学と様々な奇抜なアイデアで別府の宣伝に努め、大正の広重といわれる盟友吉田初三郎とともに別府の名前を全国へと広めた(※4参照)。さらに、中谷巳次郎とともに由布岳の麓の静かな温泉地由布院に、内外からの著名人を招き接待する別荘(現在の亀の井別荘)を建て「別府の奥座敷」として開発している。

さて、戦後別府 観光の最大の功労者として頌徳碑も建立されている油屋熊八という人物について当ブログでは、Wikipediaをはじめ、ネットで検索されたもの(★印のもの)等を参考として書いたのだが、熊八の確たる足跡となると、本人が遺した日記や資料は意外と少なく、虚実入り混じった伝聞が散見され、それが市井に流布して実像掌握を困難にしているのが現実だそうである(※5参照)。
ひとつ解せぬことがあったのだが、アメリカから帰ってきた熊八が別府のユキを訪れユキの古家を湯治場に改築し「亀の井旅館」と名付け、婦人が経営してい旅館を手伝うところから 別府生活が始まったというが、その旅館の名前「亀の井」は「亀井タマエ」と言う女性の名前をとったとしている者が多く、中には,この女性を熊八の第二夫人とする説もあるようだ。
熊八の女性関係はかなりのものだったらしいことから、そのような説も出ているようだが、調べてみると「亀井タマエ」という人物はおらず、「亀井アイ」という女性が実在していたようで、彼女は「料亭一つ家」の女将で、熊八に旅館経営を教えた重要な人物だったそうだ。
この「亀井アイ」は相当の経済人であり、男女関係の問題はさておき、熊八にとってはビジネス上の先輩であり、また熊八の良き協力者、今風に言えばビジネスパートナーだったようである。とあったが、それなら、苦労を掛けた女房を訪れ旅館業を始めるのに女房以外の名前を旅館名にしてもおかしくないと納得できた気がする。
別府温泉郷は大正時代を迎えると大きく発展を遂げているが、当時の別府観光の発展を支えたのは外来からやってきた人々だそうだが、その中で、別府温泉郷を全国区に押し上げた最大の功労者は「別府観光の父」と呼ばれている油屋熊八であることは疑いの余地はないようだ。しかし、彼が別府で活躍する10年ほど前から様々な人物が別府の魅力に取りつかれて開発を手掛けていたようだ(※6参照)。以下※5.※6を参考にまとめることにしよう。
別府観光の幕開けは、明治維新政府では長崎裁判所参議に任じられていた松方正義が、日田県知事に転任してきて、県内視察の際、海上交通の便を図れば別府発展が期待されるとの発案から明治4年(1871年)、別府(楠)港が築港し整備され、明治6年(1873年)に大阪開商社汽船の「益丸」が就航、大阪との航路が結ばれたのが始まりと言える。
この時は大阪から香川県の多度津・広島県の鞆の津・愛媛県三津浜を経由し別府に至るルートを蒸気船「益丸」18トンが月1往復したのみであったが、これを契機に、次々と就航する船が増え、2年後には大阪と別府を結ぶ瀬戸内航路は競争時代を迎える。激しい競争を展開していた。それが明治44年(1911年)のことだと言われている。
各社の経営環境は厳しさを増し、やがて船首が一体となって、明治17年(1884)大阪商船株式会社 (現:商船三井)が設立された。
大阪商船が別府港に寄港したのは、大阪-細島航路と大阪-宇和島航路の2航路であった。運航日も開設当初の月3回から、6回そして8回と増便し明治30年代には毎日運行となった。当時まだ鉄道は開通していなかったので、大阪商船が観光客の旅客輸送に果たした役割は計り知れないものだったろう。
そして、明治33年(1900年)九州初の路面電車として別大電車が開業。これは、京都電気鉄道名古屋電気鉄道大師電気鉄道(神奈川県川崎市)、小田原電気鉄道に続く日本で5番目の電気鉄道として開業したものであった。また、運行のために別府の中心地・中浜に設置された火力発電所は日本で2番目に設置されたものであり、電力は周辺の商店街へも供給され当時としては数少ない街灯も点灯していたという。
そして、明治44年(1911年)には、現在のJR 日豊本線別府駅開業など、交通近代化の影響が計り知れない。
また、次に別府温泉郷が観光地として飛躍する契機となったのは、「上総掘り」(別府では「湯突き」と言う。参考※7のここ参照)と呼ばれる温泉掘削技術の導入であり、この技術は、明治15年(1882年)地元の豪商荒金猪六が掘削したとの記録が最も古いという。
この湯突きによる温泉掘削によって、これまで自然湧出に依存していた温泉資源が人為的に獲得可能となったため、別府各地で源泉掘削が広まり、その湯口数は明治38年(1905年)は198孔であったが、その6年後の明治44年(1911年)には593孔と増加し、さらに大正12年(1923年)になると1,584孔にまで達した。別府温泉郷は次第に温泉観光地として各地からの来客を迎えることになり共同温泉も賑わいを見せてきた。そして、別府および浜脇両温泉は僅か2 年で入浴客数が10倍前後に増加するなど観光地化が劇的にすすんだようだ。
そして、観光施設の開発であるが、今日でも別府観光の目玉商品である「地獄巡り」の自然湧出の源泉「地獄」を観光資源としていち早く着目したのは、鉄道技師であった千寿吉彦(直入郡竹田町出身 在:東京)で、彼は明治の末に日豊本線の敷設工事で別府にやってきた際、その風光明媚な土地に魅かれ開発の夢を膨らませたといわれている。
当時点在していた地獄は「厄介もの」扱いされていたようが、千寿はこのような扱いを受けていた海地獄を別荘地の泉源という全く新しい発想で買収し、温泉付き別荘地の開発を構想し今日の新別府一円を開発したという。
この地獄がさらに新しい局面を迎えることになったのは、明治43年(1910年)に、地獄を覗き見していた湯治客に対して、海地獄の管理人が二銭を徴収したことが始まりとされている。つまり、これまでの「厄介もの」が「見せ物」としてそれなりに価値のあることが判明し、各地獄の所有者も海地獄に続いた。
さらに、所有者たちは競うようにして各地獄に嗜好を凝らしはじめ、これが本格的な観光施設としての地獄めぐりの始まりとなったようである。
地獄ばかりか別府温泉郷の名が一躍全国に知れ渡ったのは、昭和天皇(当時皇太子)による巡幸の報道によるものであった。目的は大正9年(1920年)11月8日から4日間、宇佐平野を中心とした二豊の原野で繰り広げられた陸軍大演習を統監することだったようだ(※8のNo688大正9年11月皇太子行啓参照)。
また、この巡幸に合わせて道路等の環境整備もおこなわれ、大演習後は、これが地獄めぐりの循環道路ともなり、地獄の所有者たちはこれを好機と遊園地化を推し進めていったといわれている。
皇太子の巡幸によって全国的に名が知れ渡ることになった別府温泉郷ならびに地獄であるが、この機を逃さなかったのが油屋熊八であった。先にも述べたように、彼は亀の井バスを設立して、昭和3年(1928年)には全国初の試みとして「ガイド付き遊覧バス」の運行を開始した。
バスガイドは大正14年(1925年)12月、東京乗合自動車が遊覧自動車で採用し、観光案内のため乗務させたのが最初であった。観光案内には豊富な知識が要するとされて、大学を卒業した男性のみを採用した。しかし案内能力は抜群に良かったが、それに見合う手当や待遇を求めていたので、かなりの高コストになってしまった。今日のような女性のバスガイドは熊八が経営する亀の井バスの地獄巡り遊覧バスがはじまりであり、平成21年(2009)年3月30日に亡くなった村上アヤメさんが当時採用された第一号ガイドの一人だそうである。
若い女性の採用と、七五調による観光案内が話題を呼び、連日満員の乗客を乗せて北浜を出発したといわれている。また料金を一周1円で乗り降り自由とした。この価格は同時期の別府と海地獄間のタクシーならびに馬車の往復料金2円50銭と比べても破格なものであったようだ。
以下は、村上あやめさんが、2008年10月トキハ別府店20周年のセレモニーで名調子を披露している様子である。

初代バスガイド村上あやめ - YouTube

別府温泉郷が観光地として全国的に知れ渡るとともに、市内各所に観光施設の整備が相次いだ。まず、大正14年(1925年)に、広島県呉市出身で、呉市長、貴族院議員を務めた松本勝太郎によって温泉と複合した総合的なレジャー施設別府鶴見園を開園。勝太郎は、松本建設を興し、鉄道工事で財を成した人物であるが、明治時代末期に豊州本線(現:日豊本線)の工事に関わった際に別府の魅力に惹かれ、レジャー施設建設を思い立つたという。当時阪神地区で人気を博していた宝塚を模して「鶴見園女優歌劇」を結成し、「九州の宝塚」ともいわれたようだ。
次いで、昭和3年(1928年)には東京の鉱山会社(「木村商事」と言うらしい)によって別府市内を一望できる山上に「ケーブルラクテンチ」が開園した。施設としては、遊園地とともに展望温泉、食堂売店、乙原地獄、ベビーゴルフ場、演舞場などが整備されたようだ。
この当時別府温泉郷は湯治を中心とする鉄輪温泉・明礬温泉、保養的な観海寺温泉そして歓楽色の強い浜脇・北浜温泉とに大まかに区分されていた(温泉のことは別府温泉又※9:「別府八湯まちなみ彩都- ITOデザインの別府八湯フォトアルバム参照)。とりわけ、浜脇温泉と別府(北浜)温泉は別府港と別府駅、東別府駅を中心として大いに賑わっていた。
松原公園(※9の別府市の公園>松原公園参照)は別府(北浜)温泉と浜脇温泉との中間点に位置し、その立地性から公園周辺には劇場、芝居小屋、商店が立ち並んでいた。
このように、昭和初めの別府温泉郷は地獄巡りをメインにしながらも市内各所に大規模な観光施設が点在する一大アミューズメント(娯楽)地帯をなしていたようだ。
この頃、別府温泉郷を舞台として大きな博覧会も開催されている(※10参照)。当時全国各地で地域産業の育成を意図した産業・勧業博覧会が開かれていた。
別府で最初に開かれたのが「中外産業博覧会」で、同博覧会は、別府市制施行(大正13年 4月1日)5周年を記念して、昭和3年(1928年)の4月1日~5月20日の40日間開催された。地獄めぐり遊覧バスもこの開催に合わせて運行を開始している。会場はメインとなる第一会場として別府公園、第二会場として浜脇海岸埋立地が充てられた。
この開催は別府温泉郷が阿蘇・雲仙・長崎とを結ぶ国際観光ルート(現在の九州横断道路[やまなみハイウェイ]の原型でもある)として構想されたことによるものであった。会場の別府公園には温泉館・観光館・産業本館・大分館・台湾館・朝鮮館・農具機械館・ラジオ館・陸軍館・海軍館といった数々のパビリオンが建ち並び大勢の入場者で賑わった。

●上掲の画像(クリックで拡大)は私の絵葉書のコレクションより、向かって左:別府市主催中外産業博覧会の記念絵葉書セット(袋入り5枚中の1枚。同画2枚と本館、会場正門、温泉館、別府前景色の写真入りのもの)。右:これは記念絵葉書ではなく、顧客招待用また宣伝用に作られた使用済みハガキ。大分県特産・別府名産陳列所が昭和2年7月盛夏として、「暑中見舞い」に使われている。他にも同博覧会の絵葉書はいろいろ出ているが、以下参考の※11:「山口県文書館」で見ることが出来る。
又以下は、大正から昭和初期にかけて活躍した鳥瞰図絵師・吉田初三郎が描いた中外産業博覧会の会場及び周辺案内図である(発行年:昭和3年=1928年、発行元:別府市)。

別府市主催中外産業博覧会

上掲の画像右の葉書には、大谷句仏上人 湯治の歌として「天下第一の湯に入る幸や朝涼し」の句が掲載されている。 
この句がいつ詠まれたものかは知らない。大谷句仏上人とは、明治41年(1908年)11月には父光瑩より東本願寺第二十三代法主を継承し、真宗大谷派管長となっていた大谷光演のようだ。
正岡子規の影響を受け、『ホトトギス』誌にて河東碧梧桐高浜虚子らに選評してもらい、彼らに傾倒して師と仰いでいたが、後に『ホトトギス』誌の影響から脱し独自の道を歩む。「句仏上人」(「句を以って仏徳を讃嘆す」の意)として親しまれるていたそうである。

先に紹介すべきであったが、参考※11:「山口県文書館」の中には、初三郎最大の盟友でもあったらしい油屋熊八の依頼により作成した亀の井ホテルの案内図もある。以下がそれである(発行:昭和2年=1927年、発行元:亀の井ホテル)。

別府温泉御遊覧の志おり「日本第一の温泉別府亀の井ホテル御案内」

スポンサーの亀の井ホテルが別府の大半を占めるという、大胆な構図で描かれている。このコンビで数々のイベント企画や日本新八景(日本八景ともいう)の当選(温泉部門第1位)など観光別府の売り出しに成功しているという。
ちょうど一般の国民が観光に目を向けるようになった時期に行われた日本新八景の選定は、広く国民の関心を集め、投票総数は当時の日本の総人口の1.5倍にもなる約9,300万通に及んだという。投票は全国からの公募で、官製はがきに一枚一景を書くことによるものとされていた。この投票では、一部の地域で、集中的な地元投票がおこなわれたとも言われるが、油屋熊八も別府温泉が八景に選ばれるのに際しては、大いに活躍したようなので、組織的投票運動を繰り広げたことだろう。見事、温泉の部で別府温泉が八景に選ばれた。
選定された景勝地には、著名な文人と画家が訪れ、その紀行文が新聞紙上に掲載されたが、別府温泉の項の筆は過去にも別府を訪れたことのある高浜虚子が執っている。
虚子の別府の旅は、船で別府入りして、さっそく亀の井旅館で一風呂あび、「温泉(ゆ)に入るや瀬戸内海の昼寝覚」と詠んでいるそうだ。
夕方からは、初代別府町長の日名子太郎、市の温泉係の両人の案内で地獄めぐりに出かけ、亀川経由で血の池地獄、竃地獄を見物。明礬の紺屋地獄、坊主地獄、海地獄、鉄輪地獄、さらに鶴見地獄とぐるり一巡し、このうち、鉄輪地獄(現在の陽光荘、※13参照)、鶴見地獄については前に来たとき(大正9年)にはなかったと記しているそうだ。
また、観海寺の住宅分譲をはじめ、文化村(西別府団地の通称)、海岸の埋立地の別荘、新別府の分譲がはかばかしくないという事情にも触れ、「不景気風に吹きまくられて湯の都の発達もちょっと小頓挫の形」とあり、昭和初期の世相がかいまみられるという(※8のNo413 文学散歩、※14など参照)。
虚子は大正9年と今回、そして、翌昭和3年にも冨士屋旅館を訪ねているそうなので相当な別府温泉好きらしい。ひょっとして、先の温泉の句を詠んだ句仏上人も温泉付きの師匠虚子と一緒に来た時の句であろうか・・・。絵葉書一枚でいろいろ想像するのもコレクターなどの楽しみでもある。
又、、虚子が別府へきて、初代別府町長(明治39年=1906年、別府と浜脇両村が合併して別府町となった時の町長)日名子太郎に会っているらしいが、この「日名子」の名前が私には懐かしい。
かつては別府を代表する旅館だったのが日名子旅館であり、別府で一番古いとされる「日名子旅館」(当初は符内屋)の開業は安政年間(1854ー1859年)と云われる。「日名子旅館」は第2次世界大戦後の1945年頃まで営業を続けたがその後岡本忠夫(大分県弥生町出身)が日名子旅館を買収(昭和20年又昭和24年頃とされる)し、合資会社日名子ホテルに商号変更をしていたが高度経済成長期における設備投資の失敗で昭和60年 (1985)年に倒産し、今はデオデオのあるマンションとなっている。
私は、若い頃大阪から東京の会社へ転職し、東京にいる時に見合いをし即、結婚することになったので、地元神戸へ帰ってくる前に、東京の旅行会社で新婚旅行の切符や旅館等の手配をしてもらった。
行程は、初日は神戸で結婚した後疲れるので、夜は大阪の阪急ホテルに泊まり、朝大阪空港から飛行機で九州横断旅行の為に大分空港へ、当時空港はまだ国東半島ではなく、別大興産スタジアム(新大分球場)の位置にエプロンがあった。
別府で地獄めぐり他市内観光の後、日名子ホテルで1泊し、翌日 九州横断バスを利用して久住高原経由で阿蘇へ向かったのを思い出す。

●上掲は日名子ホテルの札(なんというのか知らない荷札かな?)
明治時代は旧国道側が入口だった日名子旅館は大正時代に旧国道から山手側に流川通り(大分県道52号別府庄内線参照)が延びていったため、流川通り沿いに玄関があった。
以下参考※15 :「豊後の日名子一族」によれば、日名子氏の系譜は古代に国東半島を領域とした国前国造の末流とみられるそうで、鎌倉中期の別府温泉には大友頼康によって温泉奉行が置かれた。それが、豊後別府に住みついた日名子太郎左衛門尉清元だそうだ(※16も参照)。
初代別府町長日名子太郎もその末裔だと思うし、日名子旅館の創業者もそうであろう。「日名子旅館」は、当初は「符内屋」と称したそうだが、府内(ふない)は、大分市中心部の明治時代初期までの旧称である。
この歴史ある日名子旅館には初代総理大臣を務めた伊藤博文(号は春畝=しゅんぽ)が名づけた「霊泉館」という別名があり、また政治小説「雪中梅」を書いたことで知られる末広鉄腸も泊まって漢詩を残したようだ。そこにある流川についての解説では、流川の両側に遊郭があったと書いているようだが、のちの近代的な町の様子からは想像がつかないことである(※8のNo1136流川は遊郭街だった!?参照)。
昭和3年(1928年)に始まった別府地獄めぐり遊覧バスの、日本初の女性バスガイドによる七五調の観光案内では
「ここは名高き流川 情けの厚い湯の町を 真直ぐに通る大通り 旅館商店軒並び 夜は不夜城でございます」 と紹介され大いに賑わいを見せていた。

このような歴史ある旅館を吉田初三郎が鳥瞰図で描いていない訳はない。以下は、参考※12:「地図の資料館」の中にあるものである。(発行:日名子旅館 発効日:大正15年夏)
日名子旅館御案内

地獄の観光地化と観光施設の開設が相次ぎ、押しも推されぬ我が国を代表する温泉観光地となった別府温泉郷は別荘地としての開発も盛んに行われた。
別荘開発の先駆者は、前述の海地獄を買収した千寿吉彦である。千寿は前述の通り海地獄を源泉として「温泉付き別荘地」の開発をし、鉄輪温泉に隣接する一帯を新別府と称して進めた。
その後、愛媛県出身の多田次平が大正11年(1922年)六角温泉(※17参照)・荘園地区の開発に着手したが、この開発は資金繰りが行き詰まり途中で頓挫するが、その後を久留米絣で財を成した国武金太郎が継いだ。
これらの別荘分譲地は在阪の政財界をターゲットとしたとも伝えられているが、実際は台湾、朝鮮半島、旧満州で財を築いた人々が多く購入したようだという。

積極的な観光開発により、別府温泉郷における観光客(入浴客)の数は、明治初期と比べると飛躍的に増加しており、明治末には別府村および浜脇村だけでも年間46万人もの観光客(外来入浴客)を数えるまでになった。日清・日露戦争後の好景気など様々な理由で明治期から大正期にかけて別府八湯の旅館数は拡大したと推測される。そして、大正8年(1919年)には別府温泉郷全体の年間入浴客数は100万人を突破したという。
このたように、油屋熊八が別府に来た明治末頃には、初代別府町町となった日名子太郎は既にしたたかに別府宣伝の手を打ち始めていたのだそうである。
日名子太郎は都市計画事業の推進というハード事業と、宣伝と云うソフト戦略をともに意識した都市政策を進めていたようでこの人物の別府進行に果たした役割は非常に大きいという。
上記のような入湯客の増加が需要だとすれば、供給面の宿泊施設の方も別府市誌2005年版には明治35年(1902年)の別府町では名前が分かるだけでも10件の他に数十件の旅館があったこと、また、亀川にも20軒ほどの宿屋があったことが書かれており、それが明治43年になると、別府町の宿屋は175軒にのぼった(『市政洋要覧』)とあり、「大正元年(1912年)には201軒となり、そして、昭和8年(1933年)には296軒を数え、亀川町、朝日村、石垣村が合併した10年には402軒となった。」とあり、こちらも急成長であったことら、別府が明治末から大正期にかけて温泉観光地観光地として飛躍的に発展したのは間違いない。
このような別府発展のための油屋熊八の功績は色々と伝えられているところだが、彼の最大の功績は別府の宣伝にあり、それは民間人としての活躍であり、行政も当然精力的に行っていたようで、むしろ別府発展には官民共同での宣伝戦略の展開こそが功を奏したと考えられているようだ。
熊八が別府へ来る前段階の明治39年時点で、別府、浜脇両町の合併を記念し、別府町長の日名子太郎が大阪方面に出かけ、別府温泉を宣伝したこと、さらには、新聞記者や作家を招き、別府宣伝を仕掛けていたようである。
油屋熊八が別府に来て亀の井旅館を創業したのは、明治44年(1911年)10月1日だとされいるところから、どうやら熊八はこうした別府の動向を睨んでタイミングよく別府での旅館業を企てたのではないかと見られている。ただし、熊八がそのように考えて別府に来たということを実証する裏付けは残念ながらないようだが・・。
ただ、熊八は、相場師として失敗はしたがある程度成功もしており、情報力は持っていただろう。
失意の中での渡米ではあったが、アメリカでの見聞は後の旅館・ホテル業に見事開花したと言える。
「勘がいい男」と云われるが、それは持って生まれた才能ともいえるが、大阪での相場師や、アメリカでの苦労から「時代を見抜く洞察力」を身に着けたと考えられる。
熊八が手掛けた事業は、別府での個性的なホテルの経営。地獄循環道路の整備と地獄遊覧バスの運行。女性バスガイドの登用。手のひらの大きさを競う「全国大掌大会」の開催。「別府宣伝協会」や「別府 オトギ倶楽部」の発足。有名な「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」というキャッチコピーの創出。海外宣伝。『日本新百景』選定への応募活動。宝塚少女歌劇団の誘致活動。九州横断道路構想など。奇抜なアイディア事業であふれかえっているが、この様な奇抜な独創力は今日でもあらゆる企業や地域に求められることであり、大正期において別府の熊八は郡を抜いていたといえる。
私の住んでいる神戸市でも明治・大正・昭和初期は観光客で賑わう活気あふれる都市であったが、今は有馬温泉南京町(中華街)・異人館街・六甲からの夜景などであるが、かっては、日本を代表する神戸の港は、今はさびれて閑散としている。
港町神戸が再生するにはこの港をどう生かすかにかかっているが、今の助役上がりの神戸市長にそんな能力があるとは思えない。恥ずかしながら、4代続いて助役が市長になっている都市など日本のどこを探してもないだろう。大分の様に独創的な知事もいるが凡そ、公務員の市長に独創的な発想力のある市長はそう多くはいないだろう。
神戸市民でもそれがわかっている人は独創的な発想力を期待して、民間人を推薦するのだが、神戸市議会、市役所、それと市が関係している外郭団体などが一緒になって、候補者つぶしを仕掛けてくる。前回は,3度も助役が市長になるのをなんとか阻止するため日銀神戸支店長他が立候補し多くの票をとった。しかし、助役が市長になることに反対して対抗する民間人に投票する人は多かったのだが多くの人が立候補したために票が割れて助役が当選してしまった。
今回も、民間のIT関係の会社社長に期待をかけていたのだが、低投票率の中、票を稼いで肉薄したものの、それを潰すかのように、神戸市議会の若い女性議員が立候補し、女性票を稼ぎ、結局、会社社長はわずかな票差で、又、助役に敗れてしまった。
いつもいつも選挙のたびに、市長の息のかかった助役が、市議会議員、役所職員をバックに組織ぐるみで臨んでくる選挙に対抗する側がばらばらに戦っていてはこれからも同じ負け方を繰り返すだけだろう。何の改革も期待できない。もう、あきらめの境地です。
ちょっと、愚痴になってしまったが、今日でもあらゆる企業や地域において発展させるのに最も必要なものは、別府の熊八のような郡を抜いた独創力だろう。
ただ、アイディアだけでは仕方がない。それを実行するには賛同者・協力者を得るための説得性に富む企画力がなければならない。この点でも熊八は他に勝っていたと言えよう。そして、それをやり抜く、粘り強い実行力も必要だ。
それに、熊八には広い人的ネットワークカがあった。熊八の回りには当時の経済界では小林一三阪急社長、森永製菓創始者の森永太一郎、後の宝酒造の礎を築いた大宮庫吉、文化人では、口演童話(童話の読み聞かせ)家の久留島武彦、童話作家の巌谷小波、詩人の野口雨情、作曲家の中山晋平などの名が挙げられる。
それに人を引き付ける「愛嬌の良さ」もあったようだ。だから、周りの人が熊八に協力を惜しまなかったのだろう。
別府は、湯量とその質において日本一であったが、明治30年代初頭までは、全国的に知られた観光地とは言えなかった。しかし、我が国の産業革命が軌道に乗り、国土交通網整備が進むとともに、国民の移動が活発化し、「大正期の観光ブーム」が起こる。その時流に別府はタイミングよく乗り、当時の為政者や住民らの努力もあり、全国の他の地方に先がける形で、鉄道整備、港湾整備、都市計画(道路整備・耕地整理)、上水道整備など、いわゆる都市の物的(ハード)整備を完了し、観光に十分対応しえる都市づくりが進んだことと同時に、積極的に別府宣伝活動というソフト事業を進めたことが、大きな飛躍の要因だったといえる。
我が国の近代化過程においては、国土開発や地域開発においてはハード整備が先行した点では、戦後日本の高度経済成長期とよく似ているとも言える。
そして高度経済成長期後は、「ハードからソフトヘ」「文化の時代」が標榜され、地域振興のソフト事業の充実が希求されたように、大正期には地域振興策も地域情報発信に重点が移っていったと考えられ、それをいち早くものにしたのが別府であったようだ。かっての神戸市もそのような時代があった。
また、これは今の時代でもそうあるべきだろう。
今の日本の安倍内閣でも外国人旅行客がもたらす経済効果に注目し 成長戦略の中に観光業の拡大を盛り込んでおり、2003年以降、「訪日外国人旅行者1000万人」を目標にビジット・ジャパン・キャンペーン(VJC)などに取り組んできたが、訪日外国人数はこの10年でほぼ倍増したというのだが・・・(※※18、※19参照)。

冒頭の画像、中央男性は、油屋熊八。昭和2,3年頃の撮影。『朝日クロニクル週刊20世紀』1912年号掲載のもの借用。


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別府観光 最大の功労者と云われる油屋 熊八 (参考)

2014-07-16 | 人物
別府 観光最大の功労者と云われる油屋 熊八 誕生日  本文へ戻る

参考:
★1:「油屋熊八翁の実情を探る」 三重野 勝人
はじめに 油屋熊八という人物は、 戦後、 別府観光の最大の貢献者と  ←左で検索すると見れる。
★2:JAIRO随想「油屋熊八翁を偲び 毎年、宇和島へ墓参」編集部
http://jairo.nii.ac.jp/0140/00000156/en

※1:新約聖書(口語訳)
http://words.kirisuto.info/02.html
※2:市報べっぷ特集(14.08号)別府観光の父油屋熊八に続こう!! - 別府市
http://www.city.beppu.oita.jp/03gyosei/kouhou/old_special/special1408_1/
※3:お伽船研究室
http://www.geocities.jp/otogi1907/index.html
※4:JAIRO | “観光デザイナー”論―観光資本家における構想と妄想の峻別―
http://jairo.nii.ac.jp/0141/00002324/en
※5: JAIRO |「大正期における 別府の観光振興をめぐって」 織田直文
http://jairo.nii.ac.jp/0140/00000257
※6:第8章 温泉観光の過去と現在 - 別府市(Adobe PDF)
http://www.city.beppu.oita.jp/education2/yukemuri_keikan/pdf/02_08.pdf#search='%E5%88%A5%E5%BA%9C%E5%B8%82%E4%B8%BB%E5%82%AC+%E4%B8%AD%E5%A4%96%E7%94%A3%E6%A5%AD%E5%8D%9A%E8%A6%A7%E4%BC%9A'
※7:別府温泉地球博物館:別府温泉事典
http://beppumuseum.jp/jiten/jiten.html
※8:懐かしの別府ものがたり
http://today.blogcoara.jp/natukashi/
※9:別府八湯まちなみ彩都(- ITOデザイン
http://www.itooffice.com/index.html
※10:瀬戸内海モダニズム周遊 第62回 別府 九州へのゲートウェイ
http://www.gei-shin.co.jp/comunity/14/62.html
※11:山口県文書館
http://ymonjo.ysn21.jp/msearch/search.php?m=oth&op=search&c=&pg=207
※12:地図の資料館:オールド観光案内図コレクション/大分県
http://www.asocie.jp/oldmap/oita_top.html
※13:入湯貸間 陽光荘のホームページ
http://www.coara.or.jp/~hideharu/
※14:日本新八景になった別府
http://rokai.cocolog-nifty.com/mbc/2011/11/post-9ae3.html
※15:豊後の日名子一族
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/hinago1.htm
※16:日名子ホテル(歴史) : 別府八湯検定
http://b8spa.exblog.jp/12746303
※17:六角温泉
http://www.coara.or.jp/~yuki/beppu/muramatu/beppu009.htm
※18:訪日外国人旅行者、初の1000万人突破 | nippon.com
http://www.nippon.com/ja/features/h00046/
※19:安倍政権の観光政策の副作用とは
http://www.huffingtonpost.jp/2013/10/24/abenomics_tourism_n_4153724.html
「瀬戸内海コドモ連盟」についてー続観光と児童文化
http://www.geocities.jp/otogi1907/kanko2.pdf#search='%E7%AB%A5%E8%A9%B1%E5%AE%B6+%E6%A2%85%E7%94%B0%E5%87%A1%E5%B9%B3'
別府市における老舗旅館の経営動向 - 大阪観光大学図書館
http://library.tourism.ac.jp/No13Uratatsuo.PDF
温泉観光都市 ・ 別府の地域変化 - 千葉大学(Adobe PDF)
http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/AN00179512/KJ00004298718.pdf#search='%E6%98%8E%E6%B2%BB+%E5%88%A5%E5%BA%9C+%E9%83%BD%E5%B8%82%E8%A8%88%E7%94%BB%E4%BA%8B%E6%A5%AD'
別府地獄めぐり マップ - 別府地獄めぐり公式サイト
http://www.beppu-jigoku.com/pan.htm
パンフレット(PDF:6.74MB) - 大分県立図書館(Adobe PDF)
http://library.pref.oita.jp/kento/information/event/articles/20110117/library.pdf#search='%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87%EF%BC%88%E5%BD%93%E6%99%82%E7%9A%87%E5%A4%AA%E5%AD%90%EF%BC%89+%E5%88%A5%E5%BA%9C+%E5%B7%A1%E5%B9%B8'
油屋熊八 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B9%E5%B1%8B%E7%86%8A%E5%85%AB


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泣く日

2014-07-09 | 記念日
な・く」【泣く・鳴く・啼く】は、ネ(音)の古形(母音交替形)「ナ」の動詞化したもの。人間・鳥・獣・虫が声を立てる意。人間の場合は「泣く」と書く。「泣く」は、“泣き声を出す。涙を流す。つらく感じる”の意であり、声を出して泣き叫ぶ場合は「哭く」とも書く。人が、悲しみ・苦しみなどのために声を出し、涙を流す。また,喜びなどで涙を流す場合にもいう。

.万葉集』に山上憶良が筑前守在任中の神亀五年(728)頃、大宰府での宴で詠まれた以下の歌がある(※2参照)。

山上臣憶良、宴を罷(まか)る歌一首
「憶良らは今は罷(まか)らむ子泣くらむそれその母も我(わ)を待つらむぞ」(巻3-337)
万葉集の歌の世界には、柿本人麻呂や、山部赤人をはじめとして、男女の愛を歌った相聞歌が数く作られているが、山上憶良は、仏教や儒教の思想に傾倒していたことから、死や貧、老、病などといったものに敏感で、かつ社会的な矛盾を鋭く観察していた。そのため、官人という立場にありながら、重税に喘ぐ農民や防人に狩られる夫を見守る妻など社会的な弱者を鋭く観察した歌を多数詠んでおり、当時としては異色の社会派歌人として知られている。そのような歌風から他の人のように男女の愛を歌うことはなかったが、そのかわりに子どもを思う歌を多く作っている。
上掲の歌の通釈は「憶良どもは、もうこれで失礼致しましょう。家では子らが泣いているでしょう。ええ、その母も私どもの帰りを待っていることでしょう。」と家で泣いている幼い子やその母親(憶良にすれば女房ともとれる)などが待っていることを理由に宴席を中途で退出するときの歌を詠ったものであろうと解されているが、罷るとは「貴人のもとから、退去する」ことであり、このような理由で宴席を中座するのはちょっと失礼な話であり、※2の【補記】にも書かれている通り、「憶良ら」は、「私憶良以下の者ども」ということで、宴に参加していた下僚たちを代表し、主人の大伴旅人(当時大宰帥)に辞去の歌を捧げたものだろう。憶良はこの時、60歳を遥かに越えていたことから幼い子もその母親もいなかったと思われ、これは一種のユーモアたっぷりな笑わせ歌だったのだろう。

泣く子が待ってたかどうかは別にして、「泣く子と地頭には勝てぬ」の諺がもある。
ききわけのない幼い子供(特にあかちゃん)や横暴な権力者の無理には従うほかはない。道理を尽くしても,理の通じない者には勝ち目がないことをいう。
又、「泣く子は育つ」ともいう。
生まれたばかりの赤ん坊は、言葉がしゃべれないから、体のどこかが痛くて泣く場合も あるかもしれないが、ほとんどの場合は、空腹感や、おむつの違和感、眠気などであり、 大きな声で泣き叫ぶ赤ん坊は、元気なことを意味していて、病気になりにくい 健康な、強い子に育っていくということ。
小さな子供は、自分の満たして欲しい欲求を言葉や仕草で伝えるが、赤ちゃんの頃、空腹やおむつの汚れを「泣くこと」で訴えたことが始まりと云われている。
欲求が満たされないとき、子供は悲しい、寂しい、苦しい、悔しい、怖いといった感情を味わい。これは、欲求が満たされていないことを教えてくれる大切な感情だという。つまり、欲求と感情は表裏一体なので、ある感情が動くときその裏には何かの欲求があるはずであり、また、感情が限界点を超えたとき涙となって表れる。それに気づいたお母さんが優しく抱きしめ欲求を満たしてあげると、涙とともに感情は発散され平静を取り戻し、そして、子供は満ち足りた表情を取り戻すのだという。
子供にとって泣くことは非常に重要なことであり、だから子供がなぜ泣いているのかを注意深く観察しながら泣かせ上手な親を目指してほしいと、臨床心理士の方は言っておられる(※3)。ただ、「今日は様子が変だ」ということに気付いた時には注意して、小児科医と相談することも忘れてはいけないが・・・。

赤ちゃんだけではない。「人間は感情の動物」とよく言われるが、それは、感情が人間の行動の最大の動機となるものだからだろう。
人間にはどのような感情があるのかについては、古来様々に議論されてきた。六情(喜.怒,哀,楽,愛 [いとしみ]、憎)や、中国の五情(喜.怒,哀.楽、怨)、そして、再近よく使われるところの「喜怒哀楽」など(感情の一覧参照)。
喜怒哀楽の喜怒=喜びと怒りの感情。哀楽=悲しみと楽しみ。いずれも相反する言葉の組み合わせである。
この「喜怒哀楽」は、儒学のテキストである四書のなかの一つ『中庸』の一章目に出てくる。
この『中庸』はもともと『礼記』中の一篇、初めて『中庸』を表彰したのは南朝宋の戴顒(たいぎょう)だとされており、彼が書いた礼記中庸篇として伝えられてきたもので、そこには以下のように記されている。
(書き下し文)
喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う。
発して皆節(せつ)に中る(あたる)、これを和(か)と謂う。
中は天下の大本(おおもと)なり。和は天下の達道(たつどう)なり。
中和(ちゅうか)を致して、天地位(くらい)し、万物育つ。
白文=原文)、現代語訳等は以下参考※4「総合心理相談」の中国古典の解説 『中庸』の書き下し文と現代語訳:7を参照)。
「中庸」という言葉そのものは、『論語』のなかで、「中庸の徳たるや、それ至れるかな」(※4の中国古典の解説『論語 雍也篇』の書き下し文と解説:3の29段参照)と孔子に賛嘆されたのが文献初出と言われており、それから儒学の伝統的な中心概念として尊重されてきた。中庸の徳とは『大きく偏らない考えや判断に宿っている徳』という意味であるが、『中庸』の中に出てくる「中庸」は、必ずしも全体を足して割った平均値や過不足のない真ん中のことを指しているわけではない。
中庸の“中”は『偏らないこと』、“庸”は『普通・凡庸であること』を意味するが、儒教の倫理規範の最高概念である中庸には『その場における最善の選択』という意味も込められているようだ。
何か難しいが、簡単に言えば、喜怒哀楽などの感情が動き出す前の平静な状態を中といい、感情が動いても節度にかなっている状態を和という。中こそは世の根幹であり、和こそは世の習い。中と和を実践すればあらゆるものが順調に進行する。常に、その時々の物事を判断する上でどちらにも偏らず、なにごとにも感情を揺さぶられない強い心の大切さを説いており、それには日頃からの地道な積み重ねが必要であることが書かれているようだ(砕けて判り易い解説は参考※4を参照されたほうがよいかな・・)。

ここで思い出したのが先日の政務活動費から多額の交通費を支出し、記者会見で号泣しながら釈明していた兵庫県議会の野々村竜太郎県議の姿だ。大の男が、それも県会議員のあの尋常を逸した泣きながらの釈明はどのような感情から起こったものだろう。
マスコミ報道によると、遠距離の日帰り出張は初当選した2011年度から3年間で計350回にのぼり、約800万円もの交通費が領収書もないまま支出された。その中には、「特急のグリーン車を使用した」とした昨年の9月2日のものなど当日出張したとする大阪から城崎方面に向かう特急は始発から夕方まで運休していたという。
今まで見たこともない、ヒステリックにわんわんと大声で泣きながらの弁解は、自分のしたことが説明できないことから来る感情の乱れれから来ているのだろう。
同じ兵庫県に住むものとして、あのような人が県議になっていることを非常に恥ずかしく思っている。又、そんな議員の責任問題を追及しようともしない県議会の不思議。恐らく、同じ穴のムジナがいっぱいて、下手に追及すると自分の方にとばっちりが来るのを恐れているのだろう。昔から問題となっていた政務活動費。市民オンブスマンがしっかり監視してゆかなくてはいけないのだろう。

上掲の画像は号泣しながら記者会見の野々村竜太郎県議
ところで、私は野々村県議が「号泣」したと書いた(新聞などでもそう書いてある)が、「号泣」と言えば、どんな泣き方を想像しますか?
文化庁が平成22年度の「国語に関する世論調査」で、「悲しみの余り、号泣した。」という例文を挙げて,「号泣する」の意味を尋ねたところ、本来の意味である「大声をあげて泣く」で使うと答えた人が34.1パーセント、間違った意味「激しく泣く」で使うと答えた人が48.3パーセントという逆転した結果が出ているそうだ(※5参照)。
あの野々村議員の泣き方などテレビで見ていると単に大声で泣くというより、何か訳のわからないことをわめきながら激しく泣いていたよね~。あの議員のおかげでますます日本語が分からなくなってしまいそうだよ。

人間の 喜怒哀楽」など、このような激しい感情を「情動」いう。
では何故、「感情」といわず、「情動」という言葉を使っているのか?
恐怖、怒り、悲しみ、喜びなどの感情には、その当人にしかわからない主観的な側面と、外部から観察可能な側面があり、感情が生じている時に示す行動を通じて客観的にとらえることができる。
元来、心理学の専門用語で、英語では "emotion" といい、以前は「情緒」という言葉をこの訳語として使っていたが、この「情緒」は「情緒不安定」などという表現に使われるが、他に日本語の表現として「下町情緒」という表現もあり、恐れや怒りなどの激しい心の働きを表現する"emotion "の訳語としては不適切だということで、情動という言葉を使うようになったようだ。

哲学者デカルト(1596年- 1650年)は、自著『情念論』(1649年)で精神の知覚感覚感動、すなわち情念(passion)を主題として研究を行い。さまざまな種類の情念を検討しているが、人間の精神が身体を最も強く意識するのは感覚においてであり、感覚には三種類のものがあるという。ひとつは、いわゆる五感を通じて外的な対象を認知するもので、外部感覚という。二つ目は、痛みや快感など自分の身体内部に起源するもので、内部感覚という。三つ目は、普通「情念」といわれるもので、デカルトは、まず基本的な情念として驚き憎み欲望喜び悲しみの6つであるとして、それらを外的対象の感覚に関係させて分類しようと試みている。
まず、何か新しいあるいは異常な対象が感覚されるとき、直接に起こるのが「驚き」の情念である。ふつうは、そういう対象がわれわれにとって善いか悪いかの感受を付け加える。
そこで出て来るのが「愛」と「憎み」の情念である。「愛」は対象に有意的に合一して一体となろうとする傾向であり、「憎み」は反対に対象を避けようとする傾向である。
。ここへ時間の様態の区別を入れ対象が過去において、または今、現にわれわれの得るところとなっている場合、それが善いものであれば「喜び」の情念が生まれ、悪いものであれば「悲しみ」の情念が生まれる。対象が未来的なものであるときは、それに対する情念は「欲望」であり、それは未来に向かって善きものを求め悪いものを避ける傾向である。・・・と言っている(※6参照。)。
いわば、体と精神が、どのように相互に作用しあうかを論じる必要から書かれたものがこの書であり、「情念」とは、passion=知覚・欲求・感情のことであり、精神の受動を意味しており、簡単に言えば、以下のような構図になる。
感情は、物事に感じて起こる気持ち。外界の刺激の感覚や観念によって引き起こされる、ある対象に対する態度や価値づけ。快・不快、好き・嫌い、恐怖、怒りなど。つまり、まわりからの感覚を受けた時の気持ちである。
情念は、感情が刺激されて生ずる想念(心の中に浮かぶ考え、思い)。深く心に刻みこまれ、理性では抑えることのできない悲・喜・愛・憎・欲などの強い感情である。
つまり感情→外界の刺激→情念 という構図になる。情念とは、いわば「惹き起こされる」ものだ(※7参照)。
情念の働きを抑制するためにデカルトは謙遜勇気などのを守ることを主張しており、知恵とは情念を支配する意義があると分析している。

あの進化論でよく知られるチャールズ・ダーウィン(1809年- 1882年)も感情の研究をしていたそうだ。・・・というよりも、彼が着目したのは感情そのものよりも「感情表出」、つまり感情による表情の変化、泣いたり、怒ったり、喜んだりという顔面等の表現の方に関心を抱いて研究をしていたようだ。
そして、動物での情動研究を基にして情動の表出がネコ、イヌ、サルを経てヒトにいたるまで共通であることを指摘しており、動物での情動研究を基にしてヒトの感情・情動を論ずる根拠を与えてくれている。また、彼は情動を「非常事態にさらされた生物が、適切に対処し、生存の可能性を増加させるもの」であるととらえている。つまり、情動の生物学的意義は、個体維持と種族保存を達成するためにあるのだという。
ヒトでも動物でも、外敵や有害なもの、危険なものに対しては恐怖が生じ、それから逃げる。一方、自分の欲求を満たしてくれるものには接近行動を示す(快情動)。そして、欲求の充足が阻止された場合には、怒りが生じ、攻撃行動が起こる。このように、情動にはヒトや動物を行動に駆り立てる性質があり、こうした適応行動が起こるためには、外界から入ってきた刺激の生物学的意義(たとえば、有害か否か)を評価する過程が働いていると考えられるという(※8参照)。
そういう意味では感情には原因があるというより目的があるといえるのかもしれない。例えば、「怒り」の感情は相手や物事を脅かしたり、怖がらせたりすることで自分の思った通りにしたいという気持ちといえるし、悲しみの感情は「○○してほしかった」とか「○○してほしくなかった」という願いが叶わないときに生じやすいものなのだが、あの野々村県議の号泣しながらの喚くような釈明はこれらの感情がすべて入り混じったものだったのだろう。

長々と難しいことを書いてしまったが最後に、本題の「泣く」に戻ろう。
色々人間の感情について書いてきたが、「ヒトは何で悲しいときに泣くのだろう?」 ,
は目の涙腺から分泌される体液のことでり、眼球の保護が主要な役割であるが、人は、悲しいとか嬉しいといった感情的な原因で涙を流す。痛みを感じたときや、吐き気がするときや、大笑いしすぎるときや、あくびをしたときに流れることもある。
感情による涙の場合は通常の排出(涙点=涙の流出口経由のもの)では間に合わず、涙が目の外へ流出する。悲しみによって涙を流し、声を出す一連の動きのことを「泣く」と言う。
涙を流す動物は、他にもいるが、こうした感情的涙(emotional tears)を流すのは、ヒト特有の現象だそうだ。
ところで、「悲しい」から「泣く」のかそれとも、「泣く」から「悲しい」のかどちらだと思いますか?…と聞くと、ほとんどの人は「悲しいから泣く」と答えるだろうと思うのだが。実は、そうではなくて『悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ』する説があり、これを「ジェームズ・ランゲ説」と呼んでいるそうだ。
これは、普通の感情形成過程の理解は、先のデカルトの情念論のところでも触れたように、『外部刺激→感情体験(感情反応)→生理学的変化(涙を流す・血圧の上昇・呼吸数の増加・筋肉の緊張や弛緩・表情の変化)』といった時間的生起の順序を持って理解されているが、ウィリアム・ジェームズとカール・ランゲは『外部刺激→生理学的変化・行動の形成→感情体験(感情の自己知覚)』といった時間的順序で情動の形成過程を捉えなおしたものだという。
ジェームズ‐ランゲ説は、『情動の末梢神経説』とも言われ、末梢神経系の生理学的反応が自覚的な情動経験に先行して起こるという考え方を意味している。
ジェームズ・ランゲ説の興味深いところは、自分自身の情動の生起を経験するよりも早く、涙が流れたり、心臓の鼓動が早くなって発汗したりといった生理学的反応が起こるという事であるが、これは、恐怖体験の瞬間を思い起こすと分かりやすいが、突然、自動車が自分の真横をビュンとぶつかりそうな距離で走り去った時などには、やはり生理的反応が感情の自己認識よりも先に起こっている。
だから生理的反応が先にあって心理が働くという側面もあるということも知ってておかないといけないのだろうね~。
東邦大学医学部統合生理学教授・有田秀穂氏によると、私たち人間が流す涙は3種類に分けられるそうだ。
ひとつ目は、ドライアイ防止や角膜保護のために常に分泌される“基礎分泌の涙”。
ふたつ目は、玉ねぎを刻んだ時や目にゴミが入った時に防御のために出る“反射の涙”。
そして3つ目が、悲しみや感動で流す“情動の涙”である。
“情動の涙”とは、良きにしろ悪しきにしろ、感情が高まることで流れる涙のこと。その時、コミュニケーションや共感を司り、脳の司令塔とも呼ばれる“前頭前野”(前頭部に位置。※10参照)に血流が増え、激しく興奮することから涙が出るのだそうだ。
「“情動の涙”には、その時の高まっている感情を抑え、心身をリラックスさせる力が秘められている」と有田氏。
いったいなぜ、涙にそんな力があるのだろう? 
それについては、人が生きて行く中で出合うさまざまな体験と、涙の変化について知ることが近道だという。この辺りは省略するが、泣くのを我慢するとストレスが溜まる結果にもなるそうで、笑うことも、免疫力が高まり健康につながると言われているが、ストレスを解消するという意味では、泣くことのほうが効果的であるという。いろいろ泣く方法が書かれているが、気持ちよく泣くためには、家で、感動的なDVDの“映画”などおすすめだという(※11参照)

生化学者のウィリアム・フレイ二世(William H. Frey II)が「情が高ぶった時に、人は何故涙を流して泣くのか?」との問いへの答えを探求したそうで、彼によると、感情的な涙の原因の内訳は、女性の場合、悲しみが5割、喜びが2割、怒りが1割で、同情・心配・恐怖がこれに続く。また、女性の85%、男性の73%は、「泣いた後、気分が良くなる」と答えているそうだ。そして、彼も涙に精神的なストレスを解消する働きがあるのではないかと考えた(※12参照)ようなので、今日は、以下参考の※13:TSUTAYAが選んだ 「世界が泣いた映画100選」などで良い映画(泣ける映画)を探して、泣いてみませんか。

参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:山上憶良 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/okura2.html
※3:第13回「泣く子は育つ」といわれる理由
https://www.peacemind.com/pm_home_column.php?id=24&dat=754
※4:総合心理相談
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/index.html
※5:中庸
http://www.h4.dion.ne.jp/~sstm/library/shoshi/chuuyou.html
※6:「心身対話」~心の在り処を求めて~
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/islam/philo/syuron1.htm
※7:哲学入門6月6日講義思考(精神の働き)について_3
http://www.parsley-pf.jp/kudo/philo/philo_m_0606.html
※8:情動のメカニズムの探求 - RIKEN Brain Science Institute - 理化学研究所
http://www.brain.riken.jp/bsi-news/bsinews3/no3/special.html
※9:シャクターの情動二要因理論と情動の形成機序
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/basic/social002.html
※10:
前頭前野 - 脳科学辞典
http://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%89%8D%E9%A0%AD%E5%89%8D%E9%87%8E
※11:泣いた後には、笑顔になれる。人だけが持つ「涙」の力
http://fufufu.rohto.co.jp/feature/339/
※12:人はなぜ泣くのか
http://www.systemicsarchive.com/ja/a/cry.html
※13:TSUTAYAが選んだ 「世界が泣いた映画100選」一覧
http://makemyself.blog64.fc2.com/blog-entry-370.html
最近、泣いてますか・・・?感情的な〝涙〟 - Naverまとめ
http://matome.naver.jp/odai/2137454061006937701
脳科学(感情と情動)
http://www.mind-science.jp/pg90.html
痛みと鎮痛の基礎知識
http://www.shiga-med.ac.jp/~koyama/analgesia/react-emotion.html