今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「さくらの日」Part Ⅱさくらさくら

2012-03-27 | 記念日
3月27日の今日は「桜の日」。
日本を代表する花であるへの関心を高め、花と緑の豊かな国土を作ろうというのが目的。
「咲く」(3×9)=27の語呂合せと、七十二候の中のひとつ「桜始開(さくらはじめてひらく)」が重なる時期であることから3月27日を記念日に、日本さくらの会(以下参考の※1参照)が1992(平成4)年に制定した。
今日の「さくらの日」の記念日のことは前に書いた(ここ参照)ので、今日は「さくらの日」Part Ⅱとして、前とは違った視点で書いてみよう。

雪がとけて川になって 流れて行きます
つくしの子が恥ずかしげに 顔を出します
もうすぐ春ですねえ
ちょっと気どってみませんか
風が吹いて暖かさを 運んできました♪
(以下略)
キャンディーズの歌「春一番」(穂口雄右 作詞/作曲)
キャンディーズと言えばこの歌だが・・・彼女達可愛かったね~。

キャンディーズ 春一番 – YouTube

この歌のように、春一番の風が吹くと暖かい春がやってくる。
春分の日の20日は、平年より気温が低い地域が多かったようだ。そして、関東や近畿、東海ではとうとう春一番は吹かずじまいだった。関東地方では2000(平成12)年以来、12年ぶのことらしい。
春一番は、気象庁が立春から春分までに吹く南風に風速や気温で定義しているもので、その名前とは裏腹に土ぼこりを巻き上げ、時には看板を吹き飛ばす乱暴物の強い風ではあるが、来なければ来ないで寂しいものだ・・・と、天声人語(3月22日)にもあったが、確かにそういうものだな~。
今年、春一番が吹かなかった原因について大阪管区気象台は「日本海の低気圧が発達せず、日本列島に近づかなかったことなどが挙げられるとしている。そして、日本付近で偏西風が南よりに流れている影響で、北からの寒気の影響を受けやすい状況が今後も暫く続く見込み・・・」といっていた。
それでも、気象庁は3月21日に、全国のトップを切って高知市の桜(ソメイヨシノ)が開花したことを発表。全国で最も早い待ちかねた便りであった。
ただ、桜前線は、これからおよそ2ヵ月かけて日本列島を北上し、5月18日頃に北海道根室市に到着する予定。
九州・四国・東海地方の開花予想は平年とほぼ同じか平年より2~6日遅いようで、中国・近畿・関東・北陸地方は平年より4~6日遅い所が多く、甲信・東北地方と北海道は平年とほぼ同じか2~3日程度遅いだろうと予想している。
ちなみに、私の地元、兵庫県 神戸市の予想開花日は 4月1日 、満開日は 4月10日 らしい(※2)。
欧米人がもっぱら季節の盛りを愛でるのに対して、日本人がこのような「さきぶれ」に敏感なのは日本の四季の変化が豊かなことと関係があるのだろう。
そんな日本人が桜の開花を待ち焦がれている中、日本より一足早く、米国立公園局が桜の開花宣言をした3月18日、ポトマック川沿いのタイダル・ベイスン(貯水池)周辺の桜は早くも3700本余りの桜が見頃を迎え、多くの花見客で賑わったことが、20日に奉じられていた(NHK・NEWSweb:ポトマック河畔100年の桜見頃に)。
アメリカの首都ワシントンD.Cのポトマック河畔の桜並木は、今では世界の名所の一つになっている。ここの桜は、1912(明治45)年3月、日米友好の証として日本から米国に約3千本の桜の苗木が贈られ、ポトマック河畔に植樹されたもので、それに因み、毎年3月末から4月のはじめにかけて桜のシーズンには、盛大に「桜まつり」が開催され、全米から観光客が訪れるようになった。
今年は桜寄贈100周年にあたり、開催期間も例年の2週間ほどからおよそ約5週間に拡大し、3月20日から4月27日まで行われる、期間中はワシントン周辺で日本の伝統芸能や文化を紹介するイベントが相次いでおこなわれるようだ。
しかし、開花が遅れそうな日本とは対照的にアメリカ東海岸は今年、記録的な暖冬のため、平年よりも2週間ほど早く見頃を迎えたため、関係者は桜祭りの期間中いつまで花がもつかやきもきしているという(※3)。
ところで、ワシントンに桜の樹が欲しいといったのは、アメリカ大統領ウィリアム・タフト夫人であることや、当時の東京市尾崎行雄が日米親善のために寄贈したことは知られているが、桜がアメリカに贈られるまでには紆余(うよ)曲折があり、その影には、世界的化学者、実業家でもある高峰譲吉やアメリカの人文地理学者・文学博士・ジャーナリスト、写真家でもあるE・R・シドモア女史の尽力があった。
シドモア女史は、世界中を取材して廻ったが、兄が横浜領事館に勤務していたこともあり、日本にも1884(明治17)年の初来日以降、度々日本を訪れ、人力車で全国各地を駆け巡り、日本を紹介した「Jinrikisha Days in Japan」(1891 年。「日本・人力車旅情」恩地光夫 訳 昭和61年刊、有隣堂)という著書なども出している。
武士道に基づく文化と、桜を愛でる日本人の精神に深く魅せられ、新渡戸稲造とも親交があった。
日本滞在中、中でも、隅田川の花見に感銘を受けた彼女は、母国の首都ワシントンのポトマック河畔に桜植樹を提案し続けていたが、旧知の間柄で来日経験もあり桜の美しさも知っているアメリカ大統領タフト夫人のへレンに働きかけそれが受け入れられた。また、高峰譲吉博士ら在米邦人にも粘り強く働きかけた。
因みに、シドモアと新渡戸稲造とはシドモアが米国の日本人移民禁止法(排日移民法)に反対してスイスに亡命、そして亡くなるまで親友の仲であったことから、新渡戸等の計らいで横浜米国領事だった兄、母の眠る横浜外人墓地に埋葬されている。その墓碑の傍らには、ポトマック河畔の桜が1991年に里帰りし、市民団体「シドモア桜の会」によって植えられている(※4 )。
一方、東京市長の尾崎行雄は、在米の高峰譲吉博士やアメリカ領事館の水野幸吉大使を通じで、この桜の植樹計画を知り、ワシントン市に桜の苗木を贈る事を決めた。その経費はアドレナリン結晶抽出などの成功で財をなし米国政財界で活躍していた高峰譲吉博士の負担により2000本の桜苗木が横浜の植木商に発注され、米国に送られたがアメリカに到着したときには、すべてに病害虫発生のため、植物検疫上の問題から国内に持ち込むことが出来ず焼却処分にされた。尾崎行雄東京市長は、約束を果たすために、その失敗を繰り返すことなく高峰博士の支援を受けて再度桜を送ることにした。寄贈本数も6000本となり 半数は高峯譲吉博士や日本人の希望でニューヨークハドソン河開発300年記念式に送るためのものであった。
そこで、尾崎行雄市長は、1910年(明治43年)3月、農商務省の農事試験場(現:農業試験場)長もしていた古在由直農学博士に害虫の駆除や苗木づくりの方法について調査依頼。古在博士は桜の苗木づくりを引き受け、寄贈する桜苗木の生産は、丈夫な苗木を育てるため、接ぎ木で増やすこととし、それを、旧清水市興津(静岡県)にあった農商務省農事試験場園芸部(1902年=明治35年創設)でしてもらうことになった。
その際、桜の権威、三好 学博士(※5も参照)の助言により、穂木(接ぎ木の上部にする植物体のこと)は東京の荒川堤の桜並木から興津の農事試験場に集められ、台木(接ぎ木のにする植物体)は、兵庫県の東野村(旧兵庫県川辺郡稲野村之内新田中野村字東野、現在は伊丹市 東野地区)産の山桜を使用し、この台木に穂木を接ぎ木して育てられた。
そして、1912年(明治45年)2月14日、横浜港より桜苗木6040本を積んだ日本郵船「阿波丸」がシアトルに向け出航した。
苗木の半数はワシントンのポトマック河畔植樹用に、そして残りの 半数は高峰譲吉博士や日本人の希望でニューヨークの「ハドソン・フルトン祭」(ニューヨークハドソン河開発300年記念式)におくるためのものであった(※6 参照)。
到着後これらの苗木はワシントンへ向け、冷蔵貨車で運ばれ、1ヶ月後の3月26日に無事到着した。米国農務省検査局が検査したところ病気や害虫がまったく無く完璧な苗に驚いたという。
ワシントンでの歴史的な植樹式は1912年3月27日に行われ、タフト大統領夫人と米国駐在珍田捨巳大使夫人がタイダル・ベイスンの北岸、現在のインディペンデンス 通り南側に最初の2本の桜を植樹した。この植樹式はシドモア女史はじめ、ごく少人数で行われたようで、いまでもその2本の木は記念碑とともに残っているそうだ。
一方、3月に無事ニューヨークに到着した桜の苗木は、4月28日に同市ハドソン河畔のクレアモント公園内にあるグラント将軍墓所前で盛大な歓迎植樹式が行われ、翌29日に植樹されたようだ(28日は雨だったかのようだ)。ニューヨークでも100周年を迎えた記念すべき年を多くの人々でお祝いするため、桜や日本に関係した多くのイベントが実施される予定となっているという(※06参照)。
ところで、このブログを書いていて、100年前にアメリカで行なわれた日本の櫻植樹祭。以外やニューヨークでの櫻植樹祭は非常に盛大なものであったようだが、ワシントンの櫻植樹は思いも寄らぬ簡素なものであった。・・・それは、何故だろうか?
以下参考の※7:「指導資料の解説 アメリカと日本の友情を深める花」に、日本とワシントン、ニューヨークへ送った友好の桜のことは詳しく書かれているが、1887(明治20)年ごろ、アメリカから日本に来て、シドモア女史同様、いや、それ以上に桜の美しさに心をうたれていた人物が2人いたという。その1人日本の国に親しみを持ち、世界中の植物をあつめていたディビット・フェアチャイルド博士は、日本での旅行中、東京の荒川堤に咲いているいろいろな種類の桜の花の美しさに心をうたれた。
そして、「このような美しい桜をアメリカへ輸入できないだろうか」と考えたが、日本の桜をアメリカで育て、花を咲かせるには、気候や土の性質がよく似ていなければいけないと言うことで、彼は、1906(明治39)年、ワシントンの近くのメリ−ランド州にある自分の庭園に、75本の日本の桜と25本の枝垂れ桜を植えて、育てることができるかを試みた結果、みごとに育ち、花を咲かせた。
又、同じアメリカ合衆国農務省に勤めていたフェアチャイルド博士の友人のチャ−ルス・L・マ−ラット博士も、30年間昆虫局長をつとめている間に桜の木を自分の庭に植えていたという。
早速、1904(明治37)年の春、マ−ラット博士の庭園で、花見のお茶の会をひらくことを決め、日本に来たり、親しみを持っている人たちをこの催しに招待。その客の1人に、シドモア女子がおり、ここで、3人の桜を通した友情が芽生えシドモア女子の桜の木をワシントンに移し植えたいとの考えも、博士の庭園とワシントンとでは、気候も同じようだから、桜はきっと元気に育つだろうということになり、本格的な活動が始まったようだ。そんな中で、シドモア女子がタフト大統領夫人ヘレンへ働きかえるようになった。
そして、1907(明治40)年に、来日したタフト陸軍長官が、日本から80本の桜の苗木を輸入して植えたのが始まりだ・・・とある。
ええ・・・! 1909(明治42)年、尾崎東京市長が、タフト大統領夫人や高峰たちの願いや友情を受けて、2000 本の苗木を寄贈し、到着時害虫のため焼却してしまっているが、タフトが大統領になる前の陸軍長官時代の1907(明治40)年に日本に来たときに、桜を輸入していた?・・・・。
実は、ヘレンは夫のウィリアム・ タフトが陸軍長官時代に、同伴で来日(1905年7月)している(当時の内閣総理大臣兼臨時外務大臣もあった桂太郎との間で、「桂・タフト協定」なるものが交わされている)。このとき、日本側は、皇居に招いて最高の待遇で接待をし、宮中午餐会(内外の賓客を招いて宮中において催される昼食会)にタフト夫妻は出席している。
その接待役として、横浜領事館勤務の外交官をしていたシドモア女史の実兄ジョージ・W・ シドモアが参列することになったが、実兄が独身であったため、妹のシドモア女史を同伴させたそうで、これがタフト陸軍長官夫人ヘレンとシドモア女史の親交の始まりとなったそうだ。だから、ポトマックの桜実現にとって、歴史的な出会いの始まりとなったのは、日本の皇室がご縁であったという訳であった。
又、その2年後の、1907(明治40)年にも確かに来日しているようなので、その時に、桜の苗木を輸入したとしても不思議ではないが、その苗木は、育っていたのだろうか?ひょっとしたら、ディビット・フェアチャイルド博士が1906(明治39)年、ワシントンの近くのメリ−ランド州にある自分の庭園に、75本の日本の桜と25本の枝垂れ桜を植えて、育てることができるかを試みた結果、みごとに育ち、花を咲かせたともあるので、この苗木の花が咲くのは1907年になるので、このことを言っているのだろうか・・・。いずれにしても、※7によれば、1907年には、アメリカワシントンで日本の桜が咲いていたということになり、それで、1912年日本から送られてきた3000本の桜の苗木の植樹祭は、その善意に応えて、簡素に粛々と行なわれたものであったのかもしれない。
一方ニューヨークでの櫻植樹祭では作曲家高折宮次作曲による「萬歳」と「サクラ」が奏でられなど盛大に行なわれていたことは、※8:「hanamizuki-nitibeiyukoの日」の中の“『日本の櫻の名誉』・・・・当時の新聞記事見出し”に詳しく書かれている。
それにも関らず、ワシントンのポトマック河畔のサクラは世界的な名所になっているのに、ニューヨークでは、サクラはどこにあるの?・・・といった感じになっているのは、ワシントンの桜があくまでも友好的なものとして東京市から寄贈された形をとったのに対して、ニューヨークの桜は、高峰譲吉博士や在米日本人の希望による外交的な親善目的として贈呈されたものであることが、その後のメンテナンスの違い生んだのではないかと推測している。
因みに、シドモア女史はグラハムベルが会長のジオグラフィック誌(※9参照)に明治三陸大津波(明治三陸地震参照)をいち早く記事掲載した。この記事内のTSUNAMI(津波)が昨年の東日本大震災では米国民に反響を与え改めて日本に関心を持つ大きな要因になったという(※10)。
また、越中国高岡(現・富山県高岡市)産まれの高峰譲吉の生涯を綴った映画「さくら、さくら~サムラ イ化学者高峰譲吉の生涯~」(市川徹監督)が北國新聞富山新聞による製作で2010(平成22)年公開されている。以下はその映画チラシ。

桜を題材とした映画には、「太平洋と日本海を桜で繋ごう」という夢を実現しようと、名古屋~~金沢間を結ぶ旧・国鉄バス路線(名金急行線)が走る街道沿いに、二千本余の桜の木を黙々と植え続け、47年の短い生涯を桜の植栽に捧げた同路線バスの車掌だった故・佐藤良二を基にした1994(平成6)年公開映画「さくら」(監督:神山征二郎)もあった。
上掲の画像は神山征二郎監督映画「さくら」のチラシ。
原作は中村儀朋の『さくら道』(風媒社・刊)。
彼の活動は、御母衣ダムに沈んだ集落から高山市荘川町(旧荘川村)中野の国道156号沿いへの桜(荘川桜)移植の記録撮影を担ったことで、日本さくらの会から表彰されたことや、生前から新聞やテレビで取り上げられていたが、全国的に有名になったのは志半ばでの彼の死(1977=昭和52年、病没)後、その活動が高く評価され、1984(昭和59)年、NHKテレビで「桜紀行〜名金線・もう一つの旅〜」(北陸東海)が全国に放映され、さらに、1987(昭和62)年度、中学校の国語教科書にもとりあげられことが大きいという。
荘川桜移植を指導したのは大阪市出身の桜博士と呼ばれる当時の桜研究の権威笹部新太郎である。
東京帝国大学卒業後、犬養毅の秘書をした後、兵庫県宝塚市切畑長尾山の麓(現在のJR西日本福知山線武田尾駅近辺)に桜の研修を行う演習林「亦楽山荘」(※11)を造園。品種保存などを研究した。現在、その跡地は「桜の園」という里山公園として宝塚市が整備管理している。
渋沢栄一後藤新平などが名を連ねる「東京さくらの会」とも交流した。京都府向日町(現向日市)にも「桜苗圃」を造園。
ソメイヨシノばかりが日本の桜ではない」と、日本固有種の桜の保護育成を目指し、大阪造幣局の通り抜け、奈良県吉野、兵庫県西宮市夙川公園ならびに甲山周辺など、各地で桜の管理・指導を行った。笹部新太郎について、詳しくは、※12:「笹部桜考」を参照されるとよい。
日本人だけでなく、外国人も好きな桜。我が地元・兵庫県でも1991(平成3)年度から「ふるさと桜づつみ回廊」事業が実施されており、瀬戸内海から日本海を結ぶ、延長172キロの川沿い(武庫川篠山川加古川上流~円山川)を桜でつなぎ県内のさくらの名所づくりを進め、今では整備されて約10年が経過、当時若木だったさくらも立派に成長し、河川の堤防沿いには、立派な「さくら並木」が形成されている。
そして、それらのさくら名所を結ぶ「さくら周遊ルートマップ」(「阪神」「丹波」、「但馬」の3ルートのマップ)が作成されている。同周遊ルートマップには、さくらの撮影地ガイドもあり、マップを片手に河川沿いに広がる「ふるさと桜づつみ回廊」の散策を楽しんでみてはいかがですか。

上掲の画像は「さくら周遊ルートマップ」(丹波ルート)であるが、以下へアクセスすると「阪神」「丹波」、「但馬」の3ルートマップの拡大図があります。
兵庫県HP:ふるさと桜づつみ回廊のページ
http://web.pref.hyogo.lg.jp/wd15/wd15_000000005.html

(冒頭の桜の画像は、
タイダルベイスンと桜。奥はワシントン記念塔。Wikipediaより。)

参考:
※1:日本さくらの会
http://www.sakuranokai.or.jp/
※2:開花予想 - 桜情報 - 開花予想 - 日本気象協会 tenki.jp
http://tenki.jp/sakura/expectation
※3:Yahoo!ニュース:米ワシントン桜祭り情報
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120319-00000503-san-int
※4:横浜市政策局 > 国際政策課 > 日米桜交流100周年
http://www.city.yokohama.lg.jp/seisaku/kokusai/sakura-koryu/
※5:ふるさとを守ることの大切さ/桜ノ博士・三好 学
http://shuchi.php.co.jp/article/935
※6:在ニューヨーク(New York)総領事館:お知らせ:日米桜寄贈100周年
http://www.ny.us.emb-japan.go.jp/jp/h/245.html
※7:指導資料の解説 アメリカと日本の友情を深める花
http://aranishi.hobby-web.net/3web_ara/wcherry.pdf#search='アメリカと日本の友情を深める花'
※8:hanamizuki-nitibeiyukoの日記
http://d.hatena.ne.jp/hanamizuki-nitibeiyuko/archive
※9ナショナル ジオグラフィック協会とは?
http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/qa/qa.shtml
※10ナショナル ジオグラフィック チャンネル:日米桜寄贈 100 周年「エリザ・シドモア」写真展
http://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000030.000003179.html
※11:桜の園「亦楽山荘」 - ぐるっとおでかけ阪神北
http://www.hankita-sannou.jp/kanko/shosai/061.html
※12:笹部桜考
http://www.rikuryo.or.jp/home/column/sasabe.html
日米友好の桜寄贈100周年事業実行委員会
http://itamisakura.web.fc2.com/page2.html
AFP BB News:寄贈100年、米ワシントンの桜こそ日本の「ソフトパワー」
http://www.afpbb.com/article/politics/2867129/8664204
米国ワシントンD.C.の桜物語
http://www2.osk.3web.ne.jp/~aranishi/sakura.htm
反日ワクチンが書棚の中からご紹介した本など - シドモア日本紀行
http://astore.amazon.co.jp/vaccinesblojp-22/detail/4061595377>

ザ・ピーナッツツ育ての親宮川 泰(作曲家・編曲家) の忌日

2012-03-21 | 人物
今日・3月21日はザ・ピーナッツツ育ての親であり、ピアニスト・作曲家・編曲家宮川 泰(みやがわ ひろし) の2006(平成18)年の忌日である。
宮川 泰は、1931(昭和6)年3月18日、北海道生まれ。学生時代(大阪学芸大学=現:大阪教育大学の音楽科)から自らのバンドで関西を中心に演奏活動を展開。上京後、「平岡精二クインテット」のメンバーとして活躍、後に「渡邊晋渡辺プロダクションの創立者)とシックスジョーズのピアニストになり、また、アレンジャーとしても手腕を発揮。独立後は、作曲・編曲家として活躍。
テレビ時代の幕開けから現在に至るまで映像に携わるとともに、ヒット歌謡曲や映画音楽など、不朽の名作を生み出しレコード大賞作曲賞をはじめ多くの賞を受賞。数々のヒット曲を輩出し、1960年代以降の日本の歌謡ポップス(和製ポップス)を飛躍的に発展させた大功労者の一人であり、私の大好きであったザ・ピーナッツツ育ての親として知られているが、他にも1960年代の和製ポップスの黄金期を代表する歌手伊東ゆかり中尾ミエ園まりなど『スパーク3人娘』なども育てている。(詳しくは、※1、※2参照)。代表作には「恋のバカンス」「ウナセラディ東京」「逢いたくて逢いたくて」他「宇宙戦艦ヤマト」など多数ある。

ため息の出るような
あなたのくちづけに
甘い恋を夢見る 乙女ごころよ
金色に輝く 熱い砂の上で
裸で恋をしよう 人魚のように

陽にやけた ほほよせて
ささやいた 約束は
二人だけの 秘めごと
ためいきが 出ちゃう
ああ 恋のよろこびに
バラ色の月日よ
はじめて あなたを見た
恋のバカンス

1963(昭和38)年4月に発表されたザ・ピーナッツ歌唱の歌謡曲「恋のバカンス」。岩谷時子の作詞に、宮川泰が作曲したものである。
思い起こせば、1960年代(昭和35年から昭和44年)、いわゆる日本の「高度成長期」(=高度経済成長の最盛期)は、日本の生活習慣が大きく変化した時代である。
この歌の発表された翌1964(昭和39)年には東京オリンピックが開催されている。個人所得が上昇し家電商品も豊富に出回って、テレビがほとんどの家庭に広がり、カラーテレビも普及がはじまり、レコードプレーヤーも一般家庭にも普及し、豊かさが本当に実感できるようになり、社会やお国のためにと言うより、自分の趣味に合わせて、のんびり暮らす風潮も出始め、人々はようやく遊びにも目を向け始めた頃である。
遊びと言えば「レジャー」。「レジャー」と言えば観光旅行である。1964(昭和39)年4月からは海外旅行が制限つきとはいえ自由化され、世界の人と仲間入りできるようになる。兎に角、希望の満ちた時代だった。
『レジャー』とは、余暇に行なう一時的な気晴らしの遊び。しかし、1963(昭和38)年、この年の流行語は、その遊びと休暇をより積極的にとらえた「バカンス」であった。
バカンス(仏:vacances)は、ヨーロッパの人々の生活に深く根付いており、特にフランスでは7割の人々が夏を中心に4週間は休暇をとる。しかし、1963(昭和38)年当時の日本では都市住民の60%余が1泊以上の旅行はしていてもその平均回数は年3回、日数にして2・3日。もっともようやく週休2日(1ヶ月の間に週2日の休みがある週が1度以上あること)が叫ばれ出し、幾つかの企業の長期休暇が話題となったばかりの頃だけに止むを得なかった。このように、バカンスという言葉は、ムードが先行した。
バカンスルック(東レが名付けたサマーウェアのネーミング)なるファッションが広告を賑わし、ザ・ピーナッツの「恋のバカンス」がヒットし巷に流れた(『アサヒクロニクル週刊20世紀』b1963年号)。
本曲のヒットにより「休暇」を意味する「バカンス」(vacances)というフランス語が日本で流行語になったと云われるが、この1960年代から1970年代にかけての音楽界では、「渡辺プロ(通称:ナベプロ)なくしては歌番組やバラエティ番組は作れない」と言われるほどの「一人勝ち」状態を誇っていた。
また、この時代は、日本歌謡へのポップ(Pop music)の流入時期でもあった。
アメリカなど外国のヒット曲を日本人歌手たちがこぞってカバーし、これを、発売するとレコードは飛ぶように売れていた。それだけ洋楽は、当時の日本の歌謡曲と比べハイカラで、新鮮に感じられたものだった。
このような欧米ポップスの影響を契機として、日本人がこれらに、作詞・作曲・歌唱した歌謡曲のジャンルの一つが和製ポップスといわれるものである。
和製ポップスは、戦前から活躍していた服部良一の一連の作品がルーツであるとも云われているが、より直接的には、戦後において、戦勝国アメリカの消費文化への憧れの元に流行したこのような「カバーポップス」(翻訳ポップス・訳詞ポップス)を消化吸収する過程で生まれたものだといわれている。
ただ、欧米の軽音楽の影響を受けつつも、それが単なる模倣に留まらず、それらの真髄、あるいは本質を把握し、十分に咀嚼(そしゃく)した上で日本の視聴者の耳になじむ型での作品に仕上げているところに、和製ポップスの良さがあり、当時の作詞、作曲、編曲者の能力が素晴らしさが感じられる。
そんな和製ポップスの実質的な第1号として認知されたものが、1959(昭和34)年、ザ・ピーナッツが歌手デビューを行った際の曲「可愛い花」(作詞:F.Bonifay、作曲:S.Bechet、)とされている。元の歌はフランス歌謡の「Petite Fleur」(「小さな花」)で、これを、訳詞は
音羽たかしが、そして、宮川が編曲したものである(この曲の解説は※3:「ザ・ピーナッツ・ファンサイト」の資料館>年代順レコーディング曲名一覧の中の可愛い花を参照)。
この翌年ザ・ピーナッツが歌った、キューバのオスバルド・ファレス (Osvaldo Farrés) の曲「Quizás, quizás, quizás」のカバー「キサス・キサス」、それに続く3枚目のカバー「情熱の花」も連続してヒットしているが、この曲は、ヨーロッパの歌手カテリーナ・ヴァレンテ(Caterina Valente)が「PASSION FLOWER」(情熱の花)の題名で歌唱(フランス語)していたもので、ベートーベンの「エリーゼのために」のメロディをアレンジして使用したものだそうだが、これも私の大好きな曲の一つである。しかし、さすが、元祖のカテリーナ・ヴァレンテの歌も迫力があって素晴らしいな~・・・。
これらの楽曲以前にもポップス曲を歌う日本人歌手の事例もあるにはあったが、「ポップス」と言うジャンルはほとんど認知されていなかった。
1961(昭和36 )年の坂本九の「上を向いて歩こう」(作詞:永六助、作曲:中村八大)や、1962(昭和37)年のザ・ピーナッツの「ふりむかないで」(岩谷時子[作詞]=宮川泰[作曲]コンビによる初のヒット曲)前後から次第に認知されるようになった。この「ふりむかないで」は、ザ・ピーナッツにとっても、オリジナルソングとしては初のヒット曲でもあった。
ところで、私は先に書いたようにザ・ピーナッツのファンであり、宮川 泰には、そのピーナッツ育ての親として興味があるので、それを前提に、このブログを書いているため、少々ザ・ピーナッツのことに偏重していることをここでお断りしておく。
愛知県出身の双子(伊藤エミ:姉、妹 ユミ:妹)の女性歌手(デュオ)ザ・ピーナッツは、駆け出しの頃、主に名古屋市内などで「伊藤シスターズ」の名義で歌っていたところを、1958(昭和33)年に、同市内のレストランにて渡辺プロダクション(通称:ナベプロ)社長渡邊晋にスカウトされ上京。同社長宅に下宿しつつ宮川泰に師事し、歌唱レッスンを受けていた。そのような関係から、又、宮川自身が元「。渡辺晋とシックスジョーズ」のピアニストであった関係から作・編曲を手がけた歌手も渡辺プロ所属の歌手が多いが、中でも、最も多くの作品を提供したのがザ・ピーナッツに対してであった。
この「ふりむかないで」に続くザ・ピーナッツのオリジナルソングによるヒット曲が「恋のバカンス」であり、ジャズの4ビートを生かした、歌謡曲としてはかつて無かった程のスウィング感に満ち溢れた楽曲で、シングル発売直後より大ヒットして、第5回日本レコード大賞では編曲賞を受賞したというが、この曲が、岩谷時子の作詞に、宮川泰が作曲したものなのに、何故、日本レコード大賞では、作曲賞ではなく編曲賞として受賞したのだろうか・・・?
ちょっと不思議に思うのだが、※3:「ザ・ピーナッツ・ファンサイト」での「恋のバカンス」の説明を見ていると、“当時、渡辺プロは企業や団体の総合的なキャンペーンにも参画していたことから、東レの企業戦略での「レジャー」に変わるキャッチ・フレーズの流行を作り出す、いわば、恋のバカンスは一種のCMソング的なものだったようだ。それで、ヒットが怪しくなったなと感じた途端、カテリーナ・バレンテまで呼んで、わっと盛り上げて、「バカンス」を流行らせてしまった。だから、当時発売されたレコード・ジャケットの歌詞は、実際の歌と全然違っており、如何に大急ぎでキャンペーンに間に合わせる努力をしたかが伺い知れるという。面白いことに、その歌詞には、1番と2番があり、これを現在歌われている覚え易い簡潔な歌詞に凝縮させたということがわかる”・・・という(※3の資料館>年代順レコーディング曲名一覧から「恋のバカンス」を参照)。
そういえば、日本ではザ・ピーナッツが、カテリーナ・ヴァレンテの「情熱の花」をカバーしているが、逆に、カテリーナ・ヴァレンテがザ・ピーナッツの持ち歌「恋のバカンス」「ウナ・セラ・ディ東京」などを日本語でカバーし、これもヒット曲となっている。
「恋のバカンス」に継ぐ、「ウナ・セラ・ディ東京」(1964年)、つまり、「UNA SERA DI TOKIO」は「黄昏の東京」という意味で、前年(1963年)に「東京たそがれ」の題名で歌っていたが、当時はあまりヒットしなかったが、翌1964(昭和39)年に「カンツォーネの女王」として有名なイタリアの歌手ミルバが来日した際、本曲を日本語で歌った事を契機に一気にブームとなった(キングレコードのスタッフがミルバの歌唱力の高さを評価した上で本曲を歌わせる事を提案したとも言われているようだる。Wikipediaより)。
その後、ザ・ピーナッツの「東京たそがれ」も曲調を一部アレンジして、翌年にタイトルも歌詞でもあった「ウナ・セラ・ディ東京」にして再リリースした。
当時、「ふりむかないで」および後続曲の「恋のバカンス」、「ウナ・セラ・ディ東京」等は一部では“無国籍歌謡”などと揶揄されたりもしたが、ミルバの歌の影響により、この頃からこれらの曲が音楽界で再評価されることになり、ザ・ピーナッツのヒット曲の一つとなった。又、これらの曲が今日の「 J -POP」へと繋がる日本オリジナルのポップス(和製ポップス)の幕開けを告げることにもなった。
宮川も、遂に「ウナ・セラ・ディ東京」で、1964 (昭和39) 年レコード大賞作曲賞を受賞している。
いや~、この1960年代、当時の歌謡曲は短文で判りやすい詩に、その時代、時代を先取りしたリズムが取り入れられており、子供から大人まで、誰でもが口ずさめる日本人に馴染みやすい語感・語調で歌われ、その曲を聴いただけで、その時代や世相を十分に感じとることが出来た。
そこには、当時一流の作詞家、作曲家が多く居たことからこれらの人達が競って良質の曲をつくり、その曲を歌うにふさわしい歌手に歌わせた。正に、三者それぞれの能力が複合されることによって生み出されたプロの芸術作品である。
当時テレビの歌謡番組やラジオなどで新しい曲が頻繁に放送できたのも、今のように、音楽に対する著作権問題がやかましく言われなかったからであろう。
技術の発達により、今は、音声だけでなく動画までが簡単にコピーできる時代になった。一度放送したら、直ぐにそれをコピーして、誰もが、そのコピーを聞いたり見たりするようになれば、その曲のクリエイターの生活が成り立たなくなることもあるので、それらを規制せざるを得ないだろうことはよく理解できる。
しかし、新曲がメディアで流されなくなって以降、今は誰がどんな歌をうたっているのか・・・。
角川文庫の映画や本の宣伝ではないが、本を読んでから映画を見るか、映画を見てから本を読み直すか・・・。良いなと思う本を読んだ人は、その本が映画化されるとそれを見たくなり、又、その逆もある。
かって、テレビなどで、音楽番組華やかなりし頃、テレビや、ラジオで新曲が紹介され、それに感動した人たちが、レコードを買いにそれを聴いて楽しんだ。
私なども、数は少ないが、好きな曲のレコードやCDをいくらか持っている。
しかし、今は、新曲を聞く機会がなくなりどんな曲が流行っているのかも判らず、音楽とは縁のない存在となってしまった。
そんなことから、哀愁の漂う上質の歌謡曲を誰もが聞き、楽しめ、共有できた・・・そんな1960年代が非常に懐かしく思い出された。
最後に、そんな懐かしい時代の宮川 泰の作・編曲「恋のバカンス」、「情熱の花」をピーナッツとカテリーナ・ヴァレンテの歌を比較しながら、それと私の好きだったザ・ピーナッツの「恋のフーガ」を聞いて終わろう。
「恋のバカンス」ザ・ピーナッツ - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=UFB7tcb5-OM
カテリーナ・ヴァレンテ 「恋のバカンス.wmv」 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Pn_S4EY-Ue8
ザ・ピーナッツ「情熱の花」- YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=rsIYY4oRGs8
カテリーナ・ヴァレンテ「Passion Flowers(情熱の花。)」 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=dTyepoyfnoA
YouTube -ザ・ピーナッツ 「恋のフーガ」
http://www.youtube.com/watch?v=XSm7z1OQ3-Q

(冒頭画像は、「ザ・ピーナッツ sings 宮川泰」2006年9月KING RECORDS発売CD。ザ・ピーナッツ育ての親・宮川泰がザ・ピーナッツのために書いた全39曲を収録したもの。)

参考:
※1:MIYAGAWA WORLD
http://www.miyagawa-world.jp/
※2:日本TV音楽>作家インタビュー>第6回:宮川泰
http://www.ntvm.co.jp/int/b6.html
※3:ザ・ピーナッツ・ファンサイト(INFANT LAND)
http://peanutsfan.net/
60年代「思い出の歌」
http://homepage2.nifty.com/mtomisan/page039.html
asahi.com:「恋のバカンス」など作曲宮川泰さん急死 - 文化芸能
http://www.asahi.com/culture/nikkan/NIK200603220001.html
宮川泰 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B7%9D%E6%B3%B0
歌ネット -作曲者名:宮川泰
http://www.uta-net.com/user/ichiran.html?Cselect=1&sort=2&Aselect=8&Keyword=%8B%7B%90%EC%91%D7&Bselect=3
日本のポップス史1960年前後: ケペル先生のブログ
http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/1960_b24a.html
dentsu:広告景気年表
http://www.dentsu.co.jp/books/ad_nenpyo/
ザ・20世紀
http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/index.html
はてなキーワード
http://d.hatena.ne.jp/keyword/




復刊判少女雑誌『少女の友明治・大正・昭和ベストセレクション』

2012-03-13 | ひとりごと
3年前の今日・3月13日、雑誌『少女の友明治・大正・昭和ベストセレクション』が発売された。
これは、2009(平成2)年に、創刊100周年を迎えた『少女の友』の版元である実業之日本社が、54年ぶりに、過去の傑作記事をセレクトし、再録したリバイバル特別号として1号だけ復刊させたもの。
創刊100周年記念復刻版のサイトによると『少女の友』は“「少女にこそ一流の作品を」をモットーのもと、与謝野晶子 、井伏鱒二 、太宰治川端康成吉屋信子中原中也ら、当代きっての作家達の作品が筆をふるい、若き中原淳一が表紙画家として活躍した少女向け雑誌”であり、1908(明治41)年に創刊、1955(昭和30)年の終刊まで48年間続いた。日本の少女雑誌史上、もっとも長きにわたって刊行された雑誌である。...としている。
題字は当時20代だった北大路魯山人揮毫(きごう)したものという(※1の会社概要>実業之日本社トリビアを参照)。この「少女の友」創刊100周年記念号発刊は、廃刊から50年以上にもなる今も多勢いる愛読者からの強い要望によるものであったという。

上掲のものが、雑誌『少女の友』創刊100周年記念号明治大正昭和ベストセレクション。
掲載された小説でとりわけ人気の高かったのは吉屋信子と川端康成で、川端康成の『乙女の港』(1937年[昭和12年]6月号 ~ 1938年(昭和13年)3月号)は、中原淳一の挿絵の魅力とあいまって一大ブームを巻き起こしたというが、『乙女の港』は、のちに芥川賞をとる中里恒子が、当時のまだ無名時代に代作したものらしい(※2参照)。
以下参考の※3:「中原淳一公式HP」のプロフィールによると、日本美術学校で、本格的に西洋絵画の勉強に励み、1930(昭和5)年、17歳の時には、上野広小路の高級洋品店にオーダー服のファッションデザイナーとして迎えられ、1932(昭和7)年19歳 の時、銀座の松屋にてフランス風人形の個展を開催し、新聞雑誌にて絶賛され、一躍有名になり、これを機に『少女の友』と専属契約を結び、雑誌『少女の友』の表紙、挿絵を手がけるようになり、一流抒情画家の仲間入りをするようになったようである。
戦時中の1945(昭和20)年3月に横須賀海兵隊に召集されるが、8月には復員してすぐに出版の「ひまわり社」を設立し、1946(昭和21)年に雑誌『ソレイユ』(フランス語で太陽、ひまわり。後のそれいゆ)を創刊する。その後、雑誌『ひまわり』、『ジュニアそれいゆ』を次々に創刊。掲載内容は、マナーなどの礼儀、洋服や浴衣の型紙、料理のレシピ、スタイルブック、インテリア、等幅広く一貫し「美しい暮らし」を演出した。
雑誌『宝塚をとめ』の表紙を中原が手掛けたことが縁で、戦前の宝塚歌劇団の男役スター葦原邦子を妻とした。この時期の画風は妻の容貌に似た挿絵も多く、中原の葦原への思い入れが窺えるという。晩年の22年間を館山市で送った。
今日このブログで、3年も前の創刊100周年を迎えた『少女の友』の特別号のことをとやかくと書くつもりはない。ただ私は、若い頃、大阪の商社の衣料品部門でファッション関係商品の企画・製造の仕事にも就いていた事があり、その後も、長く衣料品分野で仕事をしていたこと、それに、絵が好きで、中原淳一の絵のファンでもある。
もともとお酒大好き人間なので、趣味で酒器のコレクションなどしているうちに、いつの間にか絵葉書まで購入しており、その絵ハガキの中に、彼の書い絵ハガキも少しだけ持っていることから、彼の絵とそのような少女が書かれた歴史的背景などをちょっと、この機会に調べてみようと思い、このブログを書いた次第である(冒頭の画像は、戦時中のものと思われる少女雑誌付録絵葉書。中原淳一画)。
彼の略歴等は上述のようなものであるが、公式HPには触れられていなかったが、中原は、『少女の友』で、1937年(昭和12年)]5月号 ~ 1940年(昭和15年)5月号まで、「女学生服装帖」というファッション・ページを担当していたそうだ。
この「女学生服装帖」は、中原が大戦前夜の1937(昭和12)年、街をゆく女学生の洋装のちぐはぐさに心を痛めて筆をとったイラストエッセイで、1940年(昭和15)年、戦争が始まると、優美でハイカラ、かつ目が大きく西洋的な淳一のイラストが軍部から睨まれ、その軍部の圧力によって突然雑誌への執筆を禁じられ終了するまで、セーラー服の着こなしから、髪型、しぐさなど、すこぶる親身でちょっぴり辛口なアドバイスで、読者に大きな影響を与えたという。どうも、淳一は少女たちに、外見の服装だけではなく立ち振る舞いや身だしなみ、心掛けなど内面も美しい存在であることを願っていたのだろう。
このユニークな連載もの「女学生服装帖」を一冊にまとめて単行本化した『中原淳一の「女学生服装帖」 (少女の友コレクション) 』も2010(平成22)年9月、同じく、実業之日本社から、販売されている。本の内容、イメージはAmazonの本の紹介ここを参照されるとよい。
当時少女向けに、少女雑誌でこのようなファッションが紹介されていたのを見ると単に美少女の抒情画家としてだけでなく、プロフィールにもあるようにファッションデザイナーとしての素晴らしい能力があったことに驚かされるだろう。
私は、「女学生服装帖」でどんな絵が書かれ、どんな説明がされているのか詳しくは知らないが、贅沢で華美なおしゃれではなく、既製品の充実している現代とは違いまだまだハンドメイドが主流だった当時のこと、この連載では洋服も型紙はもちろん生地などの素材も紹介されているようだが、それはギンガムや木綿といった廉価な生地がほとんど、また、男物の袴や古い制服などを再利用して作る方法もよく出ているという。
先に紹介した私の絵葉書のコレクションの中にも、中原が戦時中に戦場の兵隊さんたちを慰めるために書いたと思われる慰問絵葉書のセット物「歌」と「服装」があり、これも当時(戦時中)のファッションを紹介しものであるが、「服装」では絵葉書には何を使って再利用するかなどその方法が補足説明されている。
中原淳一のファン非常に多く、このような希少な絵葉書は、古書店などでは1枚1000円もするそうだが、興味のある人は、私のHPの
コレクションルーム:Room 2絵 葉 書のところを覗いて見てください。

上掲の画像はその1枚である。
今、今著名なファッションデザイナーとして活躍しているコシノヒロコジュンコミチコの「コシノ3姉妹」を育て上げ、自らも晩年同じ職で活躍し、2006(平成18)年に死去した小篠綾子の生涯を実話に基づくフィクションストーリーとして描き、放送されているのが、NHKの朝ドラ「カーネーション」で、非常な人気を呼んでおり、私も毎朝見ているが、「カーネーション」の時代設定としては、1924(大正13)年9月の岸和田だんじり祭の初日の早朝、祭に参加する主人公の父親を見送るところから始まる。
設定当時の時代背景として、ちょうど1年前(大正12年)の9月1日に発生した関東大震災をきっかけとした、服装の洋装化への流れがあり、劇中でも洋装を提唱する新聞記事や心斎橋で洋服を着た人を良く見た話といった、洋装が進む様が出る場面がある(※4参照)。
物資不足の中、当時、11歳の糸子が初めて作ったアッパッパは、呉服店である家にあった晒(さらし)」で作った設定になっている。当時は、こういう方法で洋服を仕立て直すことが多く行われていただろう。主人公の糸子は、呉服屋の生まれにも関わらず早くから洋裁に興味を持ち、数々の修業と経験を経た後1934(昭和9)年に自らの洋裁店を立ち上げる・・・・。
NHKの連続テレビ小説「カーネーション」公式HP(※5)では、ドラマをもっと面白く見るための企画特集(スペッシャル)のページには「糸子がデザインした洋服たち」や、テレビタイトル画面などでも当時の懐かしいファッションが少し登場するが、「カーちゃん、ネーちゃんのふぁっション写真ギャラリー」では、大正から平成10年代にかけてのファッションが沢山紹介されており、当時の懐かしい風俗を鑑賞できるようになっているので、好きな方は、公式HP(※5)を覗かれると良い。
この小篠家に大きな影響を与えたデザイナーが、少女雑誌『少女の友』に可憐なスタイル画を描いているうちに、ファッションデザイナーの草分け的存在となった当時の中原淳一であり、NHKでは、今年(2012年)2月15日に、「歴史秘話ヒストリア」101回「“カワイイ”に恋して~中原淳一と“カーネーション”の時代」と題して、中原淳一の生涯について放映していた(※6)。
番組の最後に、晩年を過ごした千葉県館山市の塩見海岸にある中原淳一の詩碑から、詩の一部が紹介されていた。
赤いいガーベラの添えられた詩碑に刻まれた『もしもこの世に風にゆれる「花」がなかったら、人の心はもっともっと、荒(すさ)んでいたかもしれない』・・・で始まるこの詩の「花」や「色」の字にはそれぞれ、赤や青の色がつけられている。彼の色彩感覚、詩作の素晴らしさを感じさせてくれるものである。参考の※7:「Kaonfu~getu」を参照。詩碑の写真をクリックすると拡大するのでちゃんと詩が読める)。
中原淳一の絵を見ていると、どこか大正ロマンを象徴する画家・竹久夢二(1884-1934)の絵を感じさせる。私は、もともと夢二の絵が大好きで同じような中原の絵にも興味を持つようになったといえる。
中原は、昭和4(1929)年16歳のときに、画家を目指し上京したとき、当時一般の学生が目指していたピカソルオーなどの本格的な油絵には目もくれず、夢二の描く可憐で可愛らしい絵に惹かれたという。それから、夢二の絵が載った雑誌を買いあさり、それを手本として描く事に熱中するが、中原を養ってくれていた兄に反対され、「カワイイ物がなぜ悪い」と引きこもっているとき、1927(昭和2)年、日米友好の印としてアメリカから日本各地へ贈られてきた青い目の人形が大きな話題を呼び、街角でも西洋人形が売られるようになりチョットしたブームになった。
なお、「青い眼の人形」は野口雨情が同名の詩を発表して有名になったもので、人形に添えられた手紙には「友情の人形」とだけ書かれており、人形も雨情の詩にあるセルロイド製ではなく、多くがビスクドール(陶器製)であったようだ。
これを見て、大きな目をした人形を作って個展をすると評判となり、『少女の友』へ誘われ入社し表紙絵を描くようになっことは中原のプロフィールのところで書いたとおりである。
今年(2012年)3月8日朝のMBSラジオ:子守康範 朝からてんコモリ!で「なぜ子供は可愛いのか」といったことを話していた。結論から言えば、心理学的に、目が大きいほど好まれることが分かっているようだ(詳しくは※8参照)。
だから少女画も目を大きく書いた方が可愛く見えるので、現代書かれている少女マンガの主人公も目の大きいものが多いし、現代女性の化粧方法なども、どのように目を大きく見せようかとずいぶん苦労しているようだ(^0^)。
しかし、それでは、昔の少女雑誌の少女の絵が皆、目が大きかったかと言うとそうではない。これからは、雑誌『少女の友』と中原淳一の直接的な話からは少し離れ、雑誌『少女の友』誕生までの少女雑誌の世界のことに触れてみる。ただ、何もこれは目の話しを書こうという訳ではない。
普通、こども以上大人未満の若い男子を「少年」とするとき、「少女」はその対義語となっているが、このこども以上大人未満の年代の女性をさす「少女」という概念は明治初期以前には存在しておらず、「少年」は、現代で言うところの少女をも含めた性別を区別しない言葉であった。それは、現代の「少年法」などでも司法の世界では、性別を問わないことが通常であるのと同様である。
「少女」という言葉がメディアに登場しはじめたのは、明治30年代ぐらいからである。このころから少女小説が書かれはじめ、1902(明治35)年、当時誕生したばかりの女学生をターゲットに日本で最初の少女向け雑誌『少女界』(4月号)が創刊された。
これは、『少年界』という少年向け雑誌の姉妹誌として、金港堂書籍から出版されたものであり、このころから少女というカテゴリー(事柄の性質を区分する上でのもっとも基本的な分類のこと)が、「少年」から分岐したといえる。
女学生とは当時、中等教育機関である旧制高等女学校の生徒をこう呼んだ。
明治維新後、日本は西洋の科学技術の移植を目指して、国家をあげて科学者・技術者の養成を行ってきたが、女子の高等教育の始まりは、1871(明治4)年文部省を新設し、翌1872(明治5)年、フランスの学区制を模範とした学制が発布されてからである。これは、従来根強かった「女子に教育は不要」との男尊女卑の考え方を否定し、国民皆学を目標とする近代教育の建設を目指して、教育を受ける機会が男女児童に平等に与えられたという画期的な意義を持つものであった。
この年に東京神田に官立東京女学校が設立され、一般教養に重点を置いたわが国の新時代の女子教育の中心機関として期待されたが、西南戦争後の財政難を理由にわずか5年でこの学校は閉鎖(1877[明治10]年)されてしまった。
一方、学制は1879(明治12)年には教育令に変わり、これ以降中等教育以上の男女別学を原則とする教育体制が作られ、中学校において、男女同等の教育を受ける機会は失われたもののそれでもなお、ミッション系女学校を初め、明治20年代の女学校や私塾では欧米の思想や風習、キリスト教などに触れ、文明開化の時代精神と知識を享受することが出来た。
この間教育制度には、色々と、試行錯誤があったが、 1885(明治18)年、内閣制度の成立にともない初代文部大臣に就任した森有礼の下で翌・1886 (明治19) 年学校令がしかれ、4年間の義務教育(1907年には6年間に延長)が認められ、国民教育は発達し、1899(明治32)年高等女学校令の発令によって女学生は急激に数を増やした。
そして、彼女達のファッションや言葉は良くも悪くも世間の注目を集めるようになる。
少女の名はついていないが、1901(明治34)年1月博文館より創刊された日本最初の女学生を主な対象とした雑誌『女学世界』(※10参照)や、「少女界」(明治35年創刊)、「少女の友」(明治41創刊)など彼女達を対象にした雑誌も数多く刊行され始め、いわば女学生は一定の社会的価値を持つ存在となった。
こうした女学生に対する教育のあり方については当時の知識人の女性観・家庭観が大きく影響していた。
幕末から明治前期にかけて、欧米留学や洋行を経験した為政者や啓蒙家達は、欧米社会の進歩を一方で支えているのは、人間としての教養を見につけ、良き妻として、夫を助け、賢母として子供を育て、家庭を管理できる聡明な女性の存在である事を知り、近代国家の道を急ぐわが国が、妻妾同居もありえた当時の家庭像を改め、一夫一婦制を確立することは議会制度や近代的法体系の確立と並ぶ緊急にして重要な政治課題の一つと考えた。
そんな中で、福沢諭吉や森有礼らの一夫多妻制批判の後を受けて、一夫一婦家族の具体的イメージを提示し、その担い手となる女性たちの育成にあたった教育指導家が、巌本善治であった。
そんな巌本のあるべき家庭と、女性のあるべき姿は、凡そ次のようなものであったようだ。
従来の君主と家来の関係にも例えられるような家族のあり方は、女性にとっても、男性にとっても決して幸福ではないし、また、緊張に満ちた家庭に育った子供は国家を建設する人材として完全に能力を開花することは出来ない。
新しい基礎を為すべき家庭は、愛し合う夫と妻が、互いに協力して作っていくもので、夫が一方的に命令し妻が従うという武士型の家族ではない。
社会と言う戦場で闘い帰って来る男達の疲れを癒す、団欒の場としての家庭が機能するためには、妻も「ホームの女王」として、家庭を合理的に経営する才覚を持つことが必要である。
また、時代を担う子供たちの教育に当たるのは、教養のある有能な母親像でなければならない。そのために料理や裁縫のみならず文学や歴史、科学など幅広い教養を身につけさせることが女学校教育の課題である。・・と。
すなわち、西洋近代化に範をとった家庭の建設と、それを担う「賢母良妻」の育成こそ彼の言論活動と、教育活動の目標であった。
1885 (明治18)年7月、巌本は、近藤賢三を編集人に日本初の本格的女性誌『女学雑誌』を創刊した。創刊号の「発行の主旨」には、「日本の婦女をしてその至るべきに至らしめんことを希図す」とある(※11参照)。「女学」とは、「女性の地位向上・権利伸張・幸福増進のための学問」と理解されている。
翌1886(明治19)年5月近藤が急逝し後を継いだ巌本善治が長く編集人を勤めた。主筆であった巖本は、明治女学校の教頭、校長を歴任し、思想と実戦を両立していることで一目おかれ、次第にその女性改良運動の先頭に立つことになる人物であった。
それは明らかに近世日本の儒教的女性像を批判する開明的色彩の濃いものであった。
こうした理念に基づき、政府は明治5年(1872年)、欧化主義の東京女学校を創立したのだが、明治30年代になると、
1、日清日露戦争の体験から夫が不在でも国のために家を守るという概念を定着させること。
2、条約改正による外国人の内地雑居への対応策として、日本女性の「婦徳」(女子の守るべき徳義)を涵養すべきこと。
3、資本主義の発展に必要な女子労働力を供給し、なおかつ、それによる家制度の弱体化を防ぐことを目的に、国家のため、家のために働くという労働感を養成すること。
等の要因から日本の良妻賢母像は、明治中期までの開明的色彩から国家主義的性格の濃いものへと変化し、とりわけ女子教育の場で家制度維持、女子の本分の強調、家計補助的労働観、家事裁縫教育の重視などを中心に展開されていく。
森有礼は、「良妻賢母教育」こそ国是とすべきであると声明。翌年、それに基づく「生徒教導方要項」を全国の女学校と高等女学校に配布し、国家主義的性格の濃い「良妻賢母教育」を、高等女学校令で法的に規制して、公教育を通じて浸透させることを図った(週刊朝日百科」「日本の歴史」129号)。
大正期に入ると12歳から20歳前後の女性たちが、社会的義務(良妻賢母となること)を果たすことを猶予される期間(モラトリアム期)つまり、「少女時代」という時間をもつようになり、多様で流動的な生の輝きを見せ始めた。
そして、高等女学校の生徒達を中心とした、「女性文化」という独特の世界が形成された。その社会的背景には、尋常小学校卒業後も高等女学校や女子師範学校だけでなく実業学校、裁縫学校、看護婦、やタイピスト養成等々各種学校で学生生活を送る者が大正期を通じて激増し、実生活から相対的に独立した世界を持つ層が産まれたことがある。それに、この層は中等教育以上の男女別学により、同性・同年齢集団から成っていたので「女性であることは、どういうことか」と模索しつつある少女達にとって、お互いに問題を深める場となったようだ。
巌本の思想を受け継いだのは、このような都市の中間層に属する女子ちまり、「少女」たちであり、その後、続々発行される少女雑誌がいわゆる良妻賢母主義に沿った誌面づくりをし、少女たちを誘導する型ともなっていたが、当時の雑誌の読者欄の影響が大きかったようである。
そして、女学生の増加が、又、公教育の普及による読み書き能力の向上に伴う読書人口の増加が、少女雑誌の誕生を後押しする原動力ともなった。
竹久夢二の叙情的な挿絵を収めた少女雑誌、吉屋信子の少女小説を耽読(たんどく)し、宝塚少女歌劇団のスターたちに胸ときめかせ、友人や上級生との妖(あや)しくも美しい親密な関係性を生きた「少女」たち。近代日本の都市新中間層の興隆とともに誕生した「少女」という存在のリアリティーを、社会的・歴史的・政治的な背景に照準しつつ分析している人(今田絵里香。日本学術振興会特別研究員)がいる。
彼女が当時の雑誌が少女たちにどうのようなイメージ付をけし、少女像が時代とともにどう変わってきたととみているかなどは以下参考の※12:「少女雑誌にみる近代少女像の変遷:『少女の友』分析から」を見ると良い。又、「女学生:女学校:少女文化」等については、以下参考の※13:「第148回常設展示 女學生らいふ | 本の万華鏡 | 国立国会図書館」に詳しく書かれているのでそこを見られると良い。
最後に、私の好きな少女雑誌の挿絵についてであるが、雑誌の表紙絵の少女像、その瞳は明治から大正、昭和にかけ徐々に大きくなっているのが判る。
「少女界」(明治38年11月号)の表紙絵。その少女の目は、線や点でシンプルに描かれているが、これは、江戸時代以来の美人画の伝統を受け継いだ顔である。
大正5年2月号「新少女」。大正時代には、竹久夢二の描く少女像が登場。初めて瞳が開き、瞳の輝きが描かれている。語りかけてきそうな、生き生きとした表情が生まれた。
「少女画報」(大正15年2月号)。夢二の後、大きな瞳が主流になる。高畠華宵の描く少女は、大きな二重まぶた。白めが強調され、あでやかさが特徴。
「少女の友」(昭和14年4月号)。瞳は、昭和に入ると極端な大きさになる。中原淳一の絵である。大きな瞳が支持された背景には、当時、自由な発言ができなかった少女たちが目で自分の意思を伝えたい、という自己表現への思いが反映されている、と評論家の上笙一郎氏は語っているという(※14に画像とこの説明あり)。
大正時代を代表する高畠華宵の絵のことについては、以前このブログで大正と言う時代背景とそこに描かれた華宵の絵のことを書いた居るので興味があったら見てください。ここ→「挿絵画家・高畠華宵 の忌日
次代とともに、少女の目も姿もどんどん変化してきているが、私などの年齢のものには、現代の女性は何か攻撃的で恐く見えて仕方がない。もう元に戻ることはないだろうが、大正・昭和初期の芯は強くても、温和で優しそうな女性像が懐かしい・・・、などと言うと叱られるだろうな~・・・( ̄ρ ̄)

(冒頭の画像は、戦時中のものと思われる少女雑誌付録絵葉書。中原淳一画。雑誌『少女の友』創刊100周年記念号明治大正昭和ベストセレクション。)
※1:実業之日本社ホームページ
http://www.j-n.co.jp/company/presidentmessage.html
※2:川端康成の「乙女の港」という本に盗作疑惑があったという話があるようだが・・・
http://q.hatena.ne.jp/1262778167
※3:中原淳一公式ホームページ
http://www.junichi-nakahara.com/
※ 4:大手小町 企画・連載(3)「アッパッパ」で洋装化、読売新聞、2011年8月26日
http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20110826-OYT8T00156.htm
※5:連続テレビ小説「カーネーション」
http://www9.nhk.or.jp/carnation/
※6:NHK 歴史秘話ヒストリア
http://www.nhk.or.jp/historia/
※7:Kaonfu~getu
http://kaonfu-getu.blogzine.jp/yoke/cat2781588/
※8:なぜ子供は可愛いのか
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5184706.html
※9:大手小町:断髪洋装 働く女の決意 :企画・連載 : ニュース :: YOMIURI ONLINE
http://www.yomiuri.co.jp/komachi/news/rensai/20090414ok0b.htm
※10:『女学世界』における「投書」の研究(Adobe PDF)
http://www.iii.u-tokyo.ac.jp/pdf/bl/77/77_07.pdf#search='女学世界'
※11:伊藤明己:女権論の系譜
http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/works/dm/dancem2.htm
※12:少女雑誌にみる近代少女像の変遷:『少女の友』分析から
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神田の錦輝館で東京で初めて映画が公開された

2012-03-06 | 歴史
錦輝館(きんきかん。1891年10月9日 開業 - 1918年8月19日 焼失)は、かつて東京に存在した日本の映画館であり、1891年(明治24年)10月9日、東京府東京市神田区錦町(現在の東京都千代田区神田錦町3-3)に開業した。
錦輝館が開業した1897(明治30)年当時の神田駿河台を中心とする地域は学者・医者・華族。財界人の高級住宅地として発展した。駿河台は、その地名のとおり、昔は東京から富士山を見る名所の一つで、永井荷風の生育地でもあり、随筆『日和下駄』(※1参照)にも登場する。
この駿河台に対して、低地の神田小川町周辺の繁華街はキリスト教各派の社会改良運動を手段とする伝道の絶好の舞台であった。
1891(明治24)年2月には神田駿河台東紅梅町の旧火消屋敷跡(定御火消 蒔田数馬之助 役宅跡)にハリスト(キリスト)復活大聖堂(東京復活大聖堂・ニコライ堂)が建設された。
さらに、1894(明治27)年に、東京基督教青年会館(のちの神田YMCA、2003年閉館)が完成し、1000人を収容する大講堂が出来、労働運動の発火点となる演説会が盛んに開催されていた。
この東京基督教青年会館の中には、1898(明治31)年1月に、日本医学図書館が開館。1891年(明治24)年10月9日には錦輝館が開場したが、この錦輝館は、日本医学図書館の維持費を得るための集会場(貸席)として作られた(※2参照)ものだそうで、東京基督教青年会館と並んで職人・学生を中心とする政治運動・社会運動の中心地として知られ、府下に於ける学生の巣窟といわれていたようだ。
そのようなことから、ここは、後に赤旗事件の舞台となったことでも知られている。
1891(明治24)年に御茶水橋が駿河台西紅梅町と本郷湯島3丁目との間に架けられて以降、この神田本郷の間の交通が便利になり、この辺りの往来が増えた。
そして、錦輝館で1897(明治30)年の今日・3月6日から「電気活動大写真会」と銘打ち、東京初のヴァイタスコープによる映画の上映会が行なわれた。
映画の歴史上、19世紀後半に、写真を動かそうとする試みが相次いだ中で、日本では、まだ独自に映画の撮影機・上映機は開発されていなかった。そのため、日本における映画は、機械の輸入から始まった。
1891(明治24)年にアメリカの発明王トーマス・エジソンらが発明した(実際の開発者は、ウィリアム・K・L・ディクソンだという)「キネトスコープ」は、スクリーンに映写されるのではなく、大きな箱の中にフィルムを装填し、のぞき窓を小窓から中を覗き込むという非投影式の映画装置であり、一度に一人しか見られず、とても今日の映画と同じ物とはいえないものの、ブロードウェイで動く写真が一般公開されると世界の人たちが驚いた。とにかくこれが、世界最初の映画(動く画像)を観る装置ではあった。
日本でエジソンが発明したキネトスコープとフィルムを輸入し、初上映したのは、1896(明治29)年、神戸相生町の鉄砲火薬商高橋信治によるもので、最初の披露は皇族を招いて知事の別荘で行われ、引き続き、花隈の神港倶楽部(当時の神戸在住財界人の社交場)で、11月25日から5日間一般公開の興行が打たれた。
興行は10種類のフィルムを日ごとに分けて行ったという。見る時間は1,2分ですぐに終わってしまうため、長い説明を交えて行ったという。装置は、非常に幼稚なものだったが、兎に角写真が動くということが当時としては大変珍しく、話題を賑わし人気が良かったので、当初予定されていた上映を、12月1日まで日延べしたそうで、キリの良いこの日を、映画産業団体連合会が、日本における映画産業発祥の年、明治29年(1896年)より数えて60年目にあたる昭和31年(1956年)に、この12月1日を記念日として設定した。このことは、前にこのブログ12月1日、「映画の日」でも書いたことがある。
しかし、キネトスコープはのぞき箱の中の小さな映像でしかなかったため、その後人気が続かず、又、すぐに上映機が輸入されたために、その人気は短命であった。
一度に多くの人が鑑賞できるスクリーンに投影される形の映画(シネマ)は、リュミエール兄弟による「シネマトグラフ」の発明(1895年)を待つことになる。
そして最初の商業公開(有料公開)がリュミエール兄弟によって行なわれたのが同年12月28日、パリグラン・カフェ地階のサロン・ナンディアン(現:ホテル・スクリーブ・パリ)であった。
その際、上映されたフィルムは「工場の出口」を含む10本の短編映画だったと言われており、スクリーン上の人が歩く映像や、列車が近づいてくる映像に大勢の観客が興奮した。
これが今日の映画上映のスタイルと同じ物であったことから、一般的には、この日が映画の誕生日と見なされている(Wikipedia -映画の日参照)。

上掲のものが、フランスリヨン(フランスにおける金融センターのひとつであり、永井荷風が横浜正金銀行の社員として滞在したこともある)のリュミエール社が独自に開発した動く“写真映写装置”「シネマトグラフ」(Wikipediaより)で、撮影機、映写機、焼付け機をかねていた。リュミエール社はシネマトグラフを発明後、この装置を販売せず、その市場を独占的に拡げていた。
まだ、アメリカにシネマトグラフが輸入される以前の1896年、キネトスコープが、人気がなくなり落ち込んでいたエジソン社が発明したものとして1986年4月に発表されたものがヴァイタスコープ(キネトスコープの改良型。スクリーン投射可能)であった。何でもこの映写機はトーマス・アーマットという人の発明品の権利を買い取ってエジソンの発明品としたものとのことである(詳しくは、参考※3:「映画の歴史という名の無間地獄」映画の歴史>エジソン社のヴァイタスコープを参照)。
1897(明治30)年、リュミエール社のシネマトグラフやこのエジソン社のヴァイタスコープがほぼ同時に輸入され、日本でも映画の上映が行われるようになった。
シネマトグラフを初めて日本に持ってきたのは、京都の著名な実業家であった稲畑勝太郎(現:稲畑産業の創業者。※4参照)であった。
リュミエール兄弟の兄オーギュストと稲畑とは、稲畑が京都府師範学校(現京都教育大学)の学生時代、当時の最先端染色技術を学ぶためにフランスに留学していたとき、リヨンの、リヨン工業学校で学んでいたときの同級生であり友人でもあったという。
その稲畑が紡績機械購入のために渡仏したときオーギュストと再会し、シネマトグラフを知った。
当時京都で染料会社を営んでいた稲畑が、畑違いの映画にどうして、それ程興味を持ったのかは知らないが、発明されたばかりの映画(シネマトグラフ)を見せられて、よほど感激したのだろう、リュミエール社の日本における代理人となった。それには、リュミエール社がシネマトグラフを発明後、技師を養成して、世界各地にカメラマンを派遣し、風物を撮影させていたが、そのような社の方針からも、東の果てのジャパンの風俗の撮影にも興味があったからだろう。
1897(明治30)年1月、稲畑は、リュミエール社がシネマトグラフの映写・撮影のために同行させた技師・フランソワ・ コンスタン・ジレルと共に映写機材一式をもって、神戸に到着した。
京都では、当時の電気設備が乏しい時代、屋内での映写が不安なためか、京都四条河原町の京都電燈会社(現関西電力)敷地内で試写を行った後、同年2月15日から28日にかけて大阪の南地演舞場(後の南街会館)にて本邦初の一般公開を行った。
多数の人で同じスク リーンを見るという盛り上がりで雰囲気がのぞき方式とはまるで違ったようだ。 大阪では連日超満員で場外の柵は壊され、札止めで帰った人が多く いたという。続いて京都の新京極元東向演劇場、神田の川上座、横浜の港座と各地で公開されていったが、興行成績は至って良好で、さ らに地方興行に移って行った。
このとき映写機とともに持ち帰ったフィルムの種類は「フランス士官の騎馬演習」 「パリ中学生の水泳」 「リオ ンの市街」 「パリの踏会」「テームズ河畔の舟遊び」など欧米の風俗を撮影した一種2~3分のもので、一興行40分から1時間に組み合わせて公開しという。
この時の大阪ミナミの南地演舞場での興行が、一般的には日本で最初の映画興行であるといわれている。又、この興行を委託されたのが、後に日活(日本活動写真株式会社)の創立に中心的な役割を担った稲畑の友人であった高木永之助(のちの横田永之助)であった。
高畑が直接興行を手掛けなかったのは、当時、興行の世界は、任侠が仕切っているヤクザな仕事として見られていたため、堅気の世界で、一流事業家を自負している稲畑が、興行のしきたりに明るい高木に興行権を譲ったようだ。
このシネマ トグラフの初公開 (大阪) から20日ほど遅れて別ル一トの機械が入ってきた。 東京新橋で幻灯機の製作販売を業とする吉沢商会で、在日イタリア人の陸軍砲工学校の講師をしていたプラチャ リーニが持ち込んだものを購入。 これを3月9日から横浜の港座で初披露。同地にある居留地にあるパブリックホールを経て、同月27日から東京神田の錦輝館で興行する。注目すべきはこのとき吉沢商店ではフィルムに彩色して、いわゆる着色映画を試みていたとのことである。
一方、 時をほぼ同じく してエジソン社の映写方式ヴァイタスコープが入ってくる。 輸入元は大阪の西洋雑貨商荒木和一。 シネマ トグラフの初公開から僅か1週間後の2月22日から同じ大阪の新町演舞場(現在の大阪屋本店、西区新町2-5。※5)で上映され、 3月には道頓堀五座のひとつと称された朝日座(※6)に場を移して興行している。 このときはやはりエジソンが発明した蓄音器と併せて上映したといい、吉沢商店のカラー、荒木の音と映画の将来を見据えた試みがすでになされていたようだ。
東京でもヴァイタスコープが貿易と興行物の海外斡旋業の新居商会の手で輸入され、1897(明治30)年の今日・3月6日から「電気活動大写真会」と銘打ち、ヴァイタスコープによる映画の上映会が神田錦輝館で行なわれた。吉沢商店が行なった3月27日興行よりこちらの方が早いので、これが、東京における最初の映画興行の日ということになる。
入場料は、特別:1円、ー等:50銭,、2等:30銭,、3等:20銭と高い(☆1参照)が、内容は「露国皇帝即位戴冠式」 「メ リー女王死刑の舞台」「ナイ ヤガラ瀑布」「群鳩飼養の図」などほかと大同小異。 ただし、このときから十二人のジャズバンドによるオーケス トラが映写に伴奏を加えていた。
又、このときには映画の説明者もついていたようであり、これがやがて初期の日本映画興行界における特徴のひとつである活動写真弁士と呼ばれる存在になった最初の一人十文字大元であった。
何でも、ヴァイタスコープには直流電源が必要で、新居商会に発電のための石油エンジン(石油発動機)を貸し出した十文字商会の人物が十文字大元であり、その縁で手伝うこととなり、同日上映の際の弁士を務めたのだという。又、宣伝を仕切ったのが広告代理店の広目屋駒田好洋であった。駒田は後に、ヴァイタスコープの機械を新居商会から譲り受け、興行を行うこととなる(※7、※2の映画の歴史日本1-1901年参照)。
このブログ冒頭に掲載の画像が、錦輝館での映画上映風景である。【『風俗画報』(※8)1987(明治30)年4月10日号に掲載された「神田錦輝館活動大写真の図」】。上映は常打ちの芝居小屋での珍しい見世物として公開された(『アサヒクロニクル週刊20世紀』1904年号より)。こう した輸入物の映画は、日本ではさかんに競争しあい、業者によってさ まざまに翻訳され広めて行ったが、当時の広告や紹介文によると、キネ トスコープは「活動写真また写真活動 」シネマトグラフは「自動写真、また自動幻画や電気作用活動大写真」、 ヴァイ タスコープは「蓄動射影活動写真、また、活動大写真や、自動幻画、電気作用活動大写真」 などいろいろ使われていたが、やがて、 三者に共通する 「活動写真」 という言葉で統一されるようになる。
多くの文学者が錦輝館で映画をみたことを日記に書き残し、小説に同館を登場させているが、その中で、永井荷風の『ぼく東綺譚』(参考※1のぼく東綺譚参照)では、冒頭から以下のように書かれている。

「わたくしは殆ど活動写真を見に行ったことがない。
 おぼろ気な記憶をたどれば、明治三十年頃でもあろう。神田錦町にあった貸席錦輝館で、サンフランシスコ市街の光景を写したものを見たことがあった。活動写真という言葉のできたのも恐らくはその時分からであろう。それから四十余年を過ぎた今日では、活動という語は既にすたれて他のものに代えられているらしいが、初めて耳にしたものの方が口馴れて言いやすいから、わたくしは依然としてむかしの廃語をここに用いる。
震災の後、わたくしの家に遊びに来た青年作家の一人が、時勢におくれるからと言って、無理やりにわたくしを赤坂溜池(ためいけ。☆2参照)の活動小屋に連れて行ったことがある。何でもその頃非常に評判の好いものであったというが、見ればモオパッサンの短編小説を脚色したものであったので、わたくしはあれなら写真を看(み)るにも及ばない。原作をよめばいい。その方がもっと面白いと言ったことがあった。
しかし活動写真は老弱の別(わかち)なく、今の人の喜んでこれを見て、日常の話柄(わへい。話す事柄。話のたね。話題)にしているものであるから、せめてわたくしも、人が何の話をしているのかというくらいの事は分かるようにして置きたいと思って、活動小屋の前を通りかかる時には看板の画と名題とには勉(つと)めて目を向けるように心がけている。看板を一瞥(いちべつ)すれば写真を見ずとも脚色の梗概(こうがい。物語などのあらすじ)も想像がつくし、どういう場面が喜ばれているかという事も会得(えとく)せられる。
活動写真の看板を一度に最(もつとも)多く一瞥する事のできるのは浅草公園である。ここへ来ればあらゆる種類のものを一ト目に眺めて、おのずからその巧拙をも比較することができる。・・・・」・・・と。

墨東(ぼくとう)というのは、現在の墨田区にあった戦前の玉ノ井という私娼街であり、当時このあたりは東京の郊外であった。
関東大震災後の復興に際して、浅草では銘酒屋の再建が許可されず、亀戸とともに銘酒屋営業が認められた玉の井は、ますます繁栄したという。
『ぼく東綺譚』は1937(昭和12)年、朝日新聞に連載されたものであるが、この小説の書かれた時代背景は、今でいう映画「活動写真」が日本で初めて公開されるなど、日本の文化の中に、西洋の文化がどっと入ってきた時代である。
舞台となった玉の井は、1918、19年(大正7、8年)から関東大震災の後にかけて、浅草にあった銘酒屋街(私娼窟)が移転してきたもので、後の東武伊勢崎線東向島駅(旧名・玉ノ井駅)付近である
小説の主人公であるわたくし大江匡は作者・永井荷風の分身である。永井自身は、1903年(明治36年)渡米後~1907年までタコマ、カラマズー、ニューヨーク、ワシントンD.C.などにあってフランス語を修める傍ら、日本大使館や正金銀行に勤め、さらに1907年から1908年にかけてはフランスに10ヶ月滞在し、リヨンの正金銀行に勤め、退職後パリに遊び、モーパッサンら文人の由緒巡りをし、帰国後には『あめりか物語』や『ふらんす物語』(『ふらんす物語は届出と同時に発売禁止)を刊行したほどの西洋通であった。しかし、荷風は、当時、まだ、伝統的な文学が存在していた日本には、新しい文化ではなく、日本の文化的なものを求め、女性についても、洋装の現代的女性ではなく、和装の古風な女性を求めている。
だが、震災後に出来た新しい町は自分のイメージと違ったものとなっていた。寺町や裏町や路地を好んで歩いた荷風は、現代(昭和12年当時)のような、ただ狭くむさくるしいものではなく、過ぎ去った時代のうら寂しい情味の残る玉の井で偶然出会った可憐な娼婦お雪に心を癒され、季節のうつりかわりとともに、その交情が消えていくさまを美しくも哀れに描いている。
荷風は『ぼく東綺譚』の中で、映画の広告看板を一瞥すれば実際の映画を見ずとも物語などの概要・あらすじも想像がつくので、映画はあまり見ないが、巷の話題、時代の流れに遅れないように看板を見て映画の内容を把握するよう努力をしている。・・・と言っている。そして、そのころ、最も多くの看板を一瞥する事のできるのが浅草公園であると・・・。
1873年(明治6年)の太政官布告により浅草寺境内が「浅草公園」と命名され、翌年に一区から七区までに区画された中の浅草六区には、浅草寺裏手の通称奥山地区から見せ物小屋等が移転し歓楽街が形成され、演劇場、活動写真常設館、オペラ常設館などが出来て隆盛を誇っていた。
これまでの日本で見る映画、つまり、リュミエール社のシネマトグラフやてエジソン社のヴァイ タスコープは、'すべて海の彼方の出来事や様子を伝えるものであり、珍しい光景などかの国のことはかの国のこととして観客はひとつの距離を置いてみていた。
それでは、 日本を舞台にしたものは当時の映画には全く登場しなかったのかと言うとそうではない。
リュミエール社から派遣され稲垣と共に来日した技師ジレルは、1897 (明治30)年1月から約ー年間京都に滞在し、上映の操作の指導と各地の撮影に従事しており、その行動範囲は極めて広く、京都'、横浜、東京から名古屋、瀬戸内海、長崎、そして函館、室蘭にまで及んでおり、撮影機と映写機を兼ねるシネマ トグラフの特性を生かして、三台のヵメラで興行と撮影を両立させていた。つまり、ジレルは、日本で映画を撮影した最初のカメラマンと言うことになる。

上掲の画像は、ジレルとアイヌの人々である。撮影者としてのジレルは、この年10月初めには室蘭から奥地に入り、アイヌの人々の生活を撮影している。「蝦夷のアイヌ」は貴重なフイルムとなった。左端がジレルである(『アサヒクロニクル週刊20世紀」』1904年号)。
ジレルの帰国後、ジレルに代わってガブリエル・ヴェールと言う人物が派遣され1898 (明治31) 年10月に来日し、4ヶ月ほど東京に滞在して技術指導と撮影にあたっている。また、二人が不在であった時期に、日本人カメラマン・柴田常吉(※9)によっても映画『紅葉狩』(歌舞伎座で公演の歌舞伎舞踊)などが1899(明治32)年に撮影されている(これが、日本人によって撮影された現存する最古の動画とされている)。
ジレルとヴェールの二人が残したものと柴田常吉の作品などリュミエール社による日本での撮影フィルム33本の作品が『明治の日本』と名付けられて、東京の国立近代美術館フィルムセンターに収められているという。これらは、初めて生の日本と日本人を伝えるものであった。
リュミエール社は日本以外の国々にも技師を派遣し、撮影を行っているが、日本を撮影した本数は他の国と比べて多いが、これは、当時フランスを中心としたヨーロッパに「ジャポニズム」と呼ばれた日本趣味・日本心酔があったことから日本の特質を取り込もうというモード(Mode。流行)があったためとも言われているようだ。
ただ、日本で撮影されたフィルムは単なるドキュメンタリーだけではなく、演出がなされており、単におもしろいシーンを撮影したいという意思のほかに、フランス人のイメージに合った日本人像を撮影したいという意思が感じられ、例えば、「田に水を送る水車」という作品では、当時の日本では裸(ふんどし)で農作業を行うという風習はなかったが、撮影では農民が裸のみで作業を行っているシーンが撮られており、これは、日本人は裸でいるものという概念に従って撮影されたものではないかと指摘されている(「映画伝来」)ようだ。
ジレルが帰国した1897(明治30)年の秋までには、東京の小西写真店(後のコニカ)にイギリスのバクスター・アンド・レイ社製映画撮影機B&Wシネマトグラフが輸入された。元々、小西では本機械を輸入販売する為に仕入れたものであったが、製品に取扱説明書がついておらず、試験撮影を行う必要が生じ、この時試験撮影を小西の店員で当時20歳であった浅野四郎が担当した。
撮影の対象となったのは、日本橋や浅草の絵葉書的風景や芸人などの演技をしている人物であり、リュミエール兄弟のように人々の日常の生活のような光景は撮影しなかったという。この時撮影した映像が1899(明治32)年6月20日、歌舞伎座にて一般公開され、日本における活動写真のはしりとなった。
このようにして日本でも映画の上映が行われるようになるが、映画は、最初のうちこそ大衆の好奇心を引きつけはしたものの、映画輸入が活発に生されるわけでも、国内での映画撮影が熱心に行なわれたわけでもなかった。そして、20世紀に入るころには、映画の関心も余りなくなってしまっていたようだ。
1899年(明治32年)6月1日、米西戦争(1898年)についてのアメリカエジソン社のニュース映画『米西戦争活動大写真』が神田錦輝館で上映され、これが「日本初のニュース映画上映」とされているが、このほか、1900年(明治33年)10月18日同館で、「北清事変活動大写真」が上映された。これは日本人カメラマン柴田常吉が撮影した義和団事件の実況フィルムで、日本人によるニュース映画の初めてのものだといわれる(※10)。
このような報道映画は、上映にあたって、大々的に宣伝はされはしたが、こうした映像による出来事の記録が社会的な意味を持つようになるのは、まだ暫く時間が必要だった。
映画の上映は20世紀初頭までは、大都市に限られていた。その場所は演劇のための劇場で、芝居が上映されていない合間を使って行なわれた。また、寄席の1プログラムとして上映されたりするのが普通だったからだ。
日本初の映画専門館(常設館)「電気館」を浅草六区にオープンしたのは、神田錦輝館で映画が初公開された6年後の1903年(明治36年)のことであったが、幻灯と錦絵の商売が本業であり、この2年ほど前から映画の輸入・撮影にも乗り出していた吉沢商店がこの映画館の経営にあたった。この頃になると、上映用映画のフイルムのストックも増え、フイルムと映写機を持った巡業隊が地方を回り映画を上映し始めた。しかし、映画が注目を引くようになったのは、日露戦争がきっかけだった。
大本営写真班が結成され、その中に映画撮影のカメラマンも加えられた。1904(明治37)年5月1日に映画の上映プログラムが加えられて以降、日露戦争関係の映画が興行的に大成功を収めるようになったという(『アサヒクロニクル週刊20世紀』1904年号)。
以下参考の※11「1900年~日露戦争 - 明治・大正期に日本で公開されたロシア映画」によると、日露戦争が勃発する直前の1903年8月25日の「錦輝館活動大写真」のプログラムは「日英露活動写真」と銘打たれていて正に「ロシアと一戦交えるべし!」と戦争がまだ始まっていないにも関らず、そんな時代の風潮を匂わせていたという。そして、1904(明治37)年2月、日露戦争の勃発と同時に"活動写真"の輸入・製作・上映を手がけてきた吉沢商店は、専属のカメラマンを戦地に派遣。5月1日には、錦輝館にて、この第一報とともに、各国の従軍カメラマンの撮影した映画も一緒にして上映されているという。(「露国番兵の失敗」「露国コサック兵の動作」「露国コサック白昼交戦をなすの実況」日本活動写真会[=吉沢商店]提供。詳しくは※11参照)。
この5月の最初の上映以来東京では、毎週どこかの劇場で、日露戦争映画をプログラムに含む映画上映がおこなわれるという前代未聞の状況となっていたそうだ。日露戦争映画として上映された作品には、外国製のものも多く、記録映画の偽装をした作り物も多く存在していた。こうした偽りの記録映画に対して文句をいう観客もいたらしいが、多くの観客は満足し、映画がスペクタクル(壮大な見世物)として、社会的な認知を受けるのに大いに貢献していたようだ。
兎に角、戦争が終わる1905~1906年頃までは、新しく公開される映画は「日露戦争」もののオンパレードであり、こうした日露戦争のフィルムが、日本で映画を大衆的なものとして普及させる一因ともなったとされている。

上掲の画像は、錦輝館での「社会パック活動写真」の上映を告知したチラシである(画像は、『アサヒクロニクル週刊20世紀」』1906-7年号から)。
日露戦争後の好景気を背景に、欧米に比した一等国への自負の機運が高まるなか、1906(明治39)年9月、神田錦輝館で「社会パック活動写真」と称する上映会が催され、「活写会の玉乗り」「当世紳士の正体」などの喜劇や「女学生の末路」「飲酒と家庭」といった道徳劇が上映された。それぞれ、社会を痛烈に風刺した作品だったようである。
「社会パック活動写真」は、殖民世界社を主宰し主に台湾で活動していた高松豊次郎(活動写真資料研究会参照)が映画による社会啓蒙を意図して3年ほど前から吉沢商店のカメラマン千葉吉蔵を監督・撮影に起用して制作していたものだった。「パック」(Puck)とは漫画を意味し、時事新報に風刺漫画を描いていた北沢楽天が創刊した漫画雑誌『東京パック』に由来する。
高松豊次郎は鐘淵紡績(カネボウ参照)の職工だったときに、左腕を機械に切断されたことから労働者の権利と保護に目覚め、明治法律学校に学んだ後片山潜が結成した「労働組合期成会」の宣伝活動を担当していたが、「社会パック活動写真」はその一環として映画を使っての宣伝教化活動であった。こうした高松の活動は、映画の社会的機能を自覚した嚆矢(こうし)といえるが、高松自身は同じ頃、台湾総督府の民政長官だった後藤新平の依頼で台湾に赴いていたこともあり、彼が「活動写真資料研究会」を設立して映画による啓蒙運動を再び始めるのは、10年ほど経ってからであった。(『アサヒクロニクル週刊20世紀」』1906-7年号)。
明治40年代には映画常設館が急速に増加していく。東京で見ると、まず1907(明治40)年に浅草の美音館、三友館、新声館、神田の新声館が、1908年に浅草の大勝館、富士館、牛込の文明館、麻布の第二文明館が開館し、1909年になると東京府下の映画常設館は40館以上に急増したという。このような映画常設館の急増は、京都、大阪、名古屋の大都市などでも起こっている。(※12)。
上映される映画は、1907(明治40)年頃までは大部分が、外国映画だったが、1908(明治41)年には、吉沢商店が、現在の目黒区下目黒に、日本初の撮影所を建設し、本格的に映画を製作し始めると、地方巡業に力を注いでいた京都の横田商会も劇映画製作を本格的に始めた。こうして、日本映画は、1908(明治41)年から1910(明治43)年にかけて驚くほどの勢いで成長し、後の映画製作の礎(いしずえ)が出来たのである。
参考:
☆1:1987年ではないが、1900(明治34)年の賃金は、綿糸紡績職工平均賃金:1日男子約30銭)女約20銭(これは、1日11~11、5時間労働。残業で18時間労働に成る事も少なくない。昼夜交替制でのもの。農商務省商工局調査)また、物価はビール大瓶19銭、牛肉100g7銭、ハガキ1銭5厘、理髪15銭(週間朝日編「値段の風俗史」などから)、資料は『アサヒクロニクル週刊20世紀』1901年号より。
☆2:「溜池」とは、江戸時代にこの地に作られた大規模なため池(貯水用の池)のことで、これに由来する溜池町(後の赤坂溜池町。現在の赤坂一・二丁目の各一部)という町名が住居表示が実施された1967年まで付近に存在していた。

※1:作家別作品リスト:No.1341:永井 荷風
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1341.html#sakuhin_list_1
※2:神田錦輝館のあった場所 「『日本医学図書館』
http://www015.upp.so-net.ne.jp/reposit-horie/newpage19.html
※3:映画の歴史という名の無間地獄
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Stage/4989/historytitle.html
※4:稲畑勝太郎と京都産業の発展
http://www.joho-kyoto.or.jp/~retail/akinai/senjin/inahata-1.html
※5:西区の歴史① 新町遊郭・新町演舞場・砂場
http://mariachiweb.blog13.fc2.com/blog-entry-86.html
※6:道頓堀繁盛記(Adobe PDF)
http://www.oml.city.osaka.jp/info/osakaasobo/asobo_050.pdf#search='道頓堀繁盛記'
※7:ときのそのとき - 風俗画報
http://www.meijitaisho.net/toa/fuzoku_gaho.php
※8:映画渡来〝 日本は映画をどう受容したか(Adobe PDF) - html
http://hokuga.hgu.jp/dspace/bitstream/123456789/1278/1/JINBUN-10-5.pdf#search='映画渡来'
※9:古写真館:全国写真師一覧表 さ行
http://www.geocities.jp/photography1862/kikakusitu/syasinsiitiran-sa.html
※10:2 日本人が撮影した映画 - 館報「開港のひろば」 横浜開港資料館
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/089/089_05_02.html
※ 11:1900年~日露戦争 - 明治・大正期に日本で公開されたロシア映画
http://czarist.nomaki.jp/1.html
※12:映画常設館の出現と変容 ―1900 年代の電気館とその観客から―(Adobe PDF)
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/oldarc/kiyou/09/ueda.pdf#search='映画常設館 三友館'
※13:2. シネマ産業(Adobe PDF)
http://www.ushio.co.jp/documents/technology/lightedge/lightedge_19/ushio_le19-02.pdf#search='2シネマ産業'
最古の日本映画について ―― 小西本店製作の活動写真
http://www.momat.go.jp/research/kiyo/13/pp65_91.pdf#search='最古の映画'
映画史探訪第2章-サイレント黄金時代(特別企画)文豪の映画礼讃~谷崎潤一郎の映画製作~
http://www5f.biglobe.ne.jp/~st_octopus/MOVIE/MOVIEINDEX.htm
東京YMCA歴史130年
http://tokyo.ymca.or.jp/ymca/enkaku.html
Wikipedia - 錦輝館
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%A6%E8%BC%9D%E9%A4%A8