今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

牛丼チェーンの松屋が390円の牛丼を290円に値下げ。牛丼の値下げ戦争が激しくなる。

2013-09-27 | 歴史
牛丼(ぎゅうどん)は、薄く切った牛肉(切り落とし、小間切れなど)とタマネギなどを甘辛く煮込み、丼に盛った飯の上に載せた料理である。
その源流は、牛鍋にある。
1872(明治4)年明治天皇の獣肉解禁により肉食は大衆化してくる。その火ぶたを切ったのは「牛鍋」である。しかし、この牛鍋はご禁制のさなか、すでに大流行しており、1862年(文久2年)横浜入船町の居酒屋「伊勢熊」が店の半分を仕切り、日本初の牛鍋屋を開業したとされている(Wikipedia)。
また、牛肉愛好者として有名な福沢諭吉は、緒方洪庵適塾で学んでいたころから牛鍋屋に通っていたそうで、『福翁自伝』によると、幕末の大坂には牛鍋屋が2軒。「緒方の書生ばかりが得意の定客」と、牛肉と酒と飯でおなかがふくれた、安くて便利な牛鍋屋の様子が窺えるという(※1参照)。
「牛丼」は、その牛鍋をの飯にかけた料理が原型で、当時は「牛めし」と呼ばれ、明治時代に誕生した。牛めしというものは東京にはある。京阪にはない」(『国民之友』―明治30年2月)はこう報じているという(※2参照)。
当時日本橋にあった魚河岸に「吉野屋」という味で評判の牛丼屋があった「牛丼」の名称は、吉野家を1899(明治32)年に創業した松田栄吉が名付けたとされている。
吉野家の牛丼も同類の内容であり、当時は「牛鍋ぶっかけ」と呼ばれていたそうだ。具材は明治から大正時代は牛鍋と同様の時期が続いたが、客側の「特に牛肉とご飯を一緒に楽しみたい」という要望が高まり、それを追求・進化していった結果、現在に通じる「牛肉とご飯を一緒に楽しむ」ことに特化した内容へ変化していったという。
1973(昭和48)年から吉野家がファーストフードのひとつとしてフランチャイズチェーンを展開したことで、一般に親しまれるようになり、その後、養老乃瀧松屋すき家なか卯神戸らんぷ亭などが牛丼(牛めし)をチェーン展開した(「養老乃瀧」は後に牛丼からは撤退)。
47都道府県すべてに展開しているのはすき家と吉野家のみであり、この2社のみ店舗数が1000店を超えている。2000年代の一時期では、こういった状況やエリアごとの店舗分布や売り上げから考慮して、すき家と吉野家の「2強」時代と見る向きもあった。しかし2000年代後半以降に発生した価格競争に松屋も度々参戦したことから、すき家・吉野家・松屋の3社が「3強」「御三家」といった主要チェーンとして認識されている。
各チェーン店の牛丼販売価格は物価の上昇や景気の動向、そしてBSE問題によって値上げと値下げを繰り返してきた。とくに、値下げに関しては1社が先行して値下げを行うと他社も後から追随する構図が繰り返されている。その様子は牛丼#飲食店における牛丼価格の変遷を参照されるとよい。
大きく動き出したのは、1990年代に入ってからである。
1990年に吉野家は、並盛350円から400円に値上げ。
1995年1月に神戸らんぷ亭が牛どん(並)を290円に値下げ。しかし、同業他社は追随せず、吉野家は1996年7月から3回にわたって値上げを繰り返し、1998年3月には1994年時点の価格に戻る。
2000年(平成12年)に入ると、 7月に、神戸らんぷ亭が、持ち帰り牛どん(並)のみ400円を290円に値下げ。
松屋が同年8月に300店舗出店達成。それを記念して同年9月27日、牛めしの販売価格を値下げ(並390円→290円)。当初は期間限定の予定だったが好評だったこともあってそのまま継続販売となる。これにより、牛丼の値下げ戦争がその後激しくなる。
その後、度重なる期間限定値引きが繰り返されてきたことでその効果は薄れてきたとの指摘も出ているようだ。
現在は、並盛の通常価格は、すき家が280円で松屋も同額の280円、この2社が最安値で並んでいる。
私の住んでいるところには、すき家と松屋が道路を挟んで向かいどうしで競争しているが、吉野家がないので、昔は食べたことも何度かあるが、今は食べたことがないので内容や価格はよく知らない。すき家と松屋へは、たまに食べに行くが、今は、どちらかというとすき家の方が気に入っている。
吉野家の牛丼並盛は確か今年の4月までは380円だった。2社と比べると高く、肉も少なめだが、味を支持する人も多かったという。
その吉野家が、、4月18日に牛丼(並)を380円から280円に値下げした効果で客数が伸び、2013年5月の既存店売上高は、前年同月に比べて15.9%増と2か月連続で前年を上回り、「すき家」と「松屋」は、吉野家にお客を奪われたようで、売り上げを減らした・・・という(※3、※4参照)。
単に「牛丼」といっても、材料の牛肉の産地や質・味付け方法など、それぞれ異なるのだから、単に値段の違いだけでどこが良いとは簡単には言い切れないが、吉野家も競争上やむを得ず他の2社に価格を合わせているのだろう。
安倍政権になって以降デフレ脱却を旗印に円安によるインフレを誘導しており、ここにきて輸入物価の値上げが相次いでいる。このような状況下で、無理した安売り競争がいつまで続くのだろう。我々庶民にとっては、安いことはありがたいことなのだが、経営不振で、近くの店舗がなくなってしまうと困る。経営の合理化などにより、継続可能な適正価格の中で、出来るだけ安くいつまでも販売して欲しいものだ。
サラリーマンというより世の男性の昼食の定番といえば、今は安くてうまい牛丼のようだ。
「食」という観点からライフメディア(旧Webマーケティング支援サービス iMiネット※5参照)のアンケート登録メンバー 478,292名を対象に、日本人全体の嗜好を共有するため、「日本人の好きな料理」50品を調査(2011年7月29日から8月4日)すると、「日本人の好きな料理」1位は圧倒的ににぎり寿司で、2位には、カレーライス、3位ラーメンと続き、牛丼はなんとか50位以内(47位)に位置している状況の様だ(※6参照)。
しかし、リクルートが発行するフリーペーパーR25 (雑誌)』創刊に合わせてオープンしたウェブサイト『R25』が、まだまだ食べ盛りのR25世代の人気の食べ物は何なのか?、「おにぎりの具」「パン」「丼もの」…など、この世代「身近な食べ物についてR25世代の独身サラリーマン500人にBEST3をアンケートした結果(2010年.09月)、好きなおにぎり1位は「ツナマヨ」、丼1位は「牛丼」だったという(詳しくは※7参照)。
因みに、丼では、以下の通りであったそうだ。
1位 牛丼   597pt
2位 カツ丼  515pt
3位 天丼   326pt
4位 うな丼  316pt
5位 海鮮丼  252pt
R25世代とは、どんな世代かであるが、ウエブ「R25」公式ページの“そもそも「R25(アールニジュウゴ)」って?”には、「25才以上の男性ビジネスマン向けのフリーマガジン」とあり、「R25(アールニジュウゴ)誌名の由来は?」によれば、“「R25の「R」とはR指定、という言葉にあるようにリストリクト(Restrict:制限)という意味。つまり、R25とは18禁ならぬ25禁」とのこと。”とある。また、このアンケート調査でも“まだまだ食べ盛りのR25世代の独身サラリーを対象”とあるので、総合的にみれば、凡そ25歳以上35歳位までの若者を対象にしているものと思われる。
この調査の結果を見てみると、「より安く、手軽に食べられるものが好まれる」傾向にあるようだが、とりあえず、丼界の王者は牛丼・・ということになっている。
前民主党政権時代の野田首相が、「あまり外でご飯を食べると、SP(要人警護の警察官)がかわいそうなので、外に行かないようにしている」と語り、さらに「牛丼が好物なんだが、(牛丼チェーン店の)吉野家には今、入れないので、通信販売で『牛丼のもと』を首相公邸に取り寄せて食べている」と、“苦労話”を披露している報道があった(※8参照)。
彼は、1957(昭和32)年生まれだから、2012年当時はもう55歳、この年代の男性でも、牛丼が好き名男性は多いだろう。
特に近年、サラリーマンの男性は、給与も上がらず女房から、月のお小遣いもどんどん減らされているようであり、そんな可愛そうな男性にとって、安くて美味しく、そして腹も膨れる牛丼は非常に有難い昼食であろう。それに、最近は居酒屋でのちょっと一杯もままならない人は、牛丼店の、肉を肴にビールを飲んで我慢しているとの報道もあった。
今や牛丼チェーンは国民的な人気No1のファーストフード。美味しいのに、この安さ! 
相手が倒産するまでの潰しあいの競争ではなく、お互いが切磋琢磨して、双方の業績が上がって何時までも消費者に良きサービスを継続できるよう、良い意味での競争を期待している。

(冒頭の牛丼の画像はWikipediaより借用。)

参考:
※1:4. すき焼き<下 - にっぽん食 探見(京都新聞)
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/rensai/shoku/040310.html
※2:キリン食生活文化研究所 - キリンホールディングス
http://www.kirinholdings.co.jp/csr/food-life/column/foodculture/24.html
※3:牛丼戦争、5月は吉野家に軍配 客数30%伸び、2カ月連続の売り上げ増
http://www.j-cast.com/2013/06/05176656.html?p=all
※4:吉野家、牛丼並を「常時」280円 現行価格から100円値下げ(外食チャンネル)
http://gaisyokuch.blog.fc2.com/blog-entry-1184.html
※5:Webマーケティング支援サービス iMiネット(イミネット) : 富士通
http://fenics.fujitsu.com/outsourcingservice/imi/
※6:日本人の好きな料理 JPN50選抜総選挙 | クチコミデータ
http://kuchikomi.lifemedia.jp/entertainment/jpn50_3.php
※7:好きなおにぎり1位は「ツナマヨ」、丼1位は「牛丼」 | web R25
http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/rxr_detail/?id=20100927-00003692-r25
※8:野田首相「牛丼が好物だが、外に食べに行くとSPがかわいそうなので、通販で『牛丼のもと』を買ってる」
http://blog.livedoor.jp/nico3q3q/archives/67723130.html
明治天皇が初めて牛肉を試食 - 今日のことあれこれと・・・
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/87589b52e3f6d2341a6832c911e1f94d
牛丼 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E4%B8%BC


相続・贈与の日

2013-09-20 | 記念日
日本記念日協会に登録の今日の記念日に「相続・贈与の日」があった。
由来を見ると、彼岸の時期であり、先祖を供養するために家族が集まる機会も多いこの時期に、相続贈与についての知識を深め、家族で 話し合うきっかけにと、NPO法人・不動産承継支援ネットワーク(※1)が制定。高齢化社会が進行する中で、相続や贈与の準備、対 策を行うことの大切さをアピールするのが目的。春の彼岸の時期の3月20日と秋の彼岸の時期の9月20日を「相続・贈与の日 」に制定している。・・・とあった。

この様な話になると、時代劇映画大好き人間の私などはすぐに黒澤明監督による1985年(昭和60年)公開の日・仏合作映画「」を思い出す。
戦後、黒澤明の映画「羅生門」がベネチア国際映画祭で金獅子賞に輝いて以来、日本映画が海外の映画祭で受賞する回数は徐々に増加。一方で、日本経済は戦後の経済復興を成功させていた。
そんな日本に対して、「国際映画祭を開かないのはおかしい」という声が世界の映画人からあがった。そうした後押しもあって、パリに本部のある国際映画製作者連盟の公認を必要とする、優秀作品を選ぶコンペティション部門をもつ国際映画祭の開催が実現、1985 (昭和60)年5月31日に東京のNHKホールで開催式が行われた。
期間中に134作品が上映され、300人を超す映画関係者が世界中から集合、述べ10万5千人が入場したという。
この第1回のオープニングに公開されたのが、黒沢監督の新作「乱」(劇場公開6月1日)であり、黒澤はこの年、映画人として初の文化勲章を受章し、爛熟期にあった。

●上掲の写真中央は、12月2日に催された文化勲章受章祝賀パーティーでの黒澤明監督。来賓の挨拶には「今頃になって遅い」という批判が出たという。手前男性は映画評論家の淀川長治(左)と、女性(右)、小森和子である(『朝日クロニクル週刊20世紀』1885年号より)。
さて、その映画「乱」の粗筋は以下のようなものである。
過酷な戦国時代を生き抜いてきた猛将一文字秀虎は七十歳を迎え、ある日突然客人の前で、家督を三人の息子に譲る決心をした。「一本の矢は折れるが、三本束ねると折れぬ」と秀虎は、長男太郎は家督と一の城を、次郎は二の城を、三郎は三の城をそれぞれ守り協力し合うように命じ、自分は三つの城の客人となって余生を過ごしたいと告げた。
隣国の領主藤巻と綾部もこれには驚いた。しかし、父親思いの三男三郎は三本の矢を自分の膝に当てて無理矢理へし折り、父秀虎の甘さをいさめた。客人たちの前で愚弄されたと感じた秀虎は激怒し、三郎と重臣の平山丹後の二人を追放した。客人の一人藤巻はその三郎の気性が気に入り、藤巻家の婿として迎え入れることにした。一方、秀虎の残る2人の息子にかける期待は、思いのほか早く裏切られる。
長男は秀虎をひそかに憎む妻に懇願されるままに秀虎を冷遇し、そして次男も・・・。秀虎を待っていたのは息子たちの反逆と骨肉の争いだった。
失意のうちに家臣と居た三の城へ太郎と次郎が攻めてきて三の城は陥落、秀虎の郎党、侍女たちは全員討死。秀虎はこの生き地獄を目の当りにして自害しようとしたが太刀が折れて果たせず、発狂寸前のまま荒野をさまよい歩く。
藤巻の婿になった三郎のもとに、秀虎と道化の狂阿彌が行くあてもなくさまよっているとの知らせが丹後から届き、三郎は自陣を侍大将にまかせ、丹後、と共に父を探しに向かった。果たして秀虎はいた。心から打ちとけあう秀虎と三郎。・・・が、その時一発の銃弾が、三郎の命を奪う。秀虎はあまりのショックに発狂し、やがて息絶える・・・。

架空の戦国武将を主人公にその晩年と3人の息子との確執、兄弟同士の擾乱(じょうらん。入り乱れて騒ぐこと)を描いたこの物語の骨格はシェイクスピア作四大悲劇(『ハムレット』『オセロー』『マクベス』『リア王』)の一つ『リア王(King Lear)』をベースに、毛利元就の「三本の矢」の逸話(三子教訓状)なども取り入れて作られた日本の戦国時代を舞台に大規模な合戦シーンを交えて展開する悲劇である。
黒澤による監督作品としては第27作目であり、黒澤が製作した最後の時代劇となった。黒澤はこの作品を、自分の「ライフワーク」と位置づけ、また「人類への遺言」でもあるとしていたという。
日本の時代劇映画としてはストーリーにもなぜ?と思わせるようなところもあり、それを問題にする人もあるわけだが、どのシーンを取っても徹底して重厚で美しい映像はさすが黒澤らしい素晴らしい描写である。特に、私もファンである一文字秀虎役の仲代達矢の演技は鬼気迫るものであった。正に彼が演じた一文字秀虎は「リア王」そのもだ。

●上掲の画象は、おそらく1769年のジャン=フランソワ・デュシー(※3)による上演でリア王を演じたL・ドゥブリアン(Ludwig Devrienを描いた絵(作者不詳、1769年)といわれるもの。Wikipediaより借用。
黒澤は、映画「羅生門」で“人間の愚かさ”を描いたように、本作もシェイクスピアの悲劇「リア王」をベースに“人間の愚かさ”を描き切っている。
「羅生門」では、事件を目撃していた杣売(志村喬)が、下人(上田吉二郎)に語る事件の当事者たちの姿はあまりにも無様で、浅はかものであった。
ラストで、その話を聞いていた下人までもが、羅生門に捨てられていた赤ん坊の衣服を剥ぎ取って行ってしまい、呆然とたたずむ杣売と法師(千秋実)。だが、杣売が、赤ん坊を引き取って育てるという。法師が彼の行為に一縷の希望を見出して、映画は終わる。
しかし、映画」「乱」には「羅生門」のような“希望”はない。あるのは残酷なまでの“醜さ”だけだ。 舞台は架空の戦国時代であるが、現代社会にも通じる乱れた世界に対する“嘆き”が込められており、製作者黒澤のメッセージや深い想いが感じられる作品である。
ラストで、秀虎と三郎の死体を運ぶ行列を、秀虎が滅した末の方(次男次郎の正室)の生家梓城の石垣の上の、秀虎に命と引きかえに両眼をつぶされた末の弟鶴丸(野村萬斎)の姿が超ロングショットで映し出され、無常観をこの上なく醸し出していた。
「ピーター演じる道化の狂阿彌が本作の裏の主役でもあり、一見狂っているようにみえる彼が、“乱”れた世で一番まともだっ・・・と言いたいのだろう。
この映画は「リア王」をベースにした作品だから当然「乱」との共通点は多い。
「リア王」でも、年老いたリア王は娘に見放され1人荒野をさまよう羽目になってしまう。

映画ではなく本題に入るが、誰も」「乱」の秀虎やシェイクスピアのリア王のような惨めな老後は迎えたくはないだろう。そもそも彼らの悲劇の起こりはなんだろう。
リア王の場合、ことの起こりは、リア王が生前贈与で無一物になったことに始まる。生前贈与しなければ娘に見捨てられることはなかったはずである。
リア王は最後に、口下手のため遺産分与にあずかれなかった末娘に助けられるのだが、人の本心は口先だけでは分からないもの。実の子であっても用心が肝心。要領の良い人間ほど適当なことをしゃ~しゃ~というものだ。とにかく、不用意に財産を手放すことは、非常に危険ということ。それは、秀虎の場合も同じである。
リア王の時代や秀虎のいた戦国時代と現在とでは、世の中の仕組みは変わっていても、人の心はさほど変わっていないだろう。いや、むしろ、近世以降、資本主義社会における市場経済の進行と、自由競争の進んだ社会の中では、価値観道徳観も今流に変わってきており、拝金主義と言ってもいいほど「金」の重要性は高まっている。お金がないことでの危険性はより高いといえるだろう。

しかし、日本には、年金をはじめ各種の福祉など社会保障制度が曲がりなりにも機能している為、今まではなんとか最低限の生活が保障されているので、リア王のように荒野に放り出される心配はない・・・と、思われていたものだが・・・(※4)。

社会保障とは弱者の救済措置であり、病気・けが・出産・障害・死亡・老化・失業などの生活上の問題について貧困を予防する。そして貧困者を救い、生活を安定させるために国が所得を保障する。医療や介護サービスも実施する。社会保障とはそんな救済措置である。
日本での社会保障の始まりは、1927年に施行された健康保険法で、当時は対象者が限られ、加入も任意のものであった。1938年に国民健康保険法が制定され、1941年には、労働者を対象とした労働者年金保険法(※5)が創設され、その後、対象を職員や女子にも拡大する形で1944年には、厚生年金保険法が制定されるなどして、国民皆保険・皆年金となったのは1961年のことであった(※6:「一緒に学ぼう 社会保障のABC」の国民皆保険・皆年金(6)年金の歴史を参照)。
その後、約50年を経過しているが、現在の日本は当時と全く違う社会になっている。つまり、1961年当時の目論見が大きく外れてしまっているのですある。その原因は、少子高齢化にある。
1980年代後半から合計特殊出生率や経済成長率の低下で「社会保障の危機」が言われるようになった。
日本の人口の高齢化は世界で最もスピードが速いと言われており、年々増大する高齢者医療や高齢者介護や老齢年金の財源をいかに確保するかが最大の課題となっている。
しかし、現在の社会保障給付は7割が高齢者に充てられており、人口の高齢化による給付の増加が現役世代の負担を年々増やしているため、給付と負担のバランスの確保や世代間の不公平の是正が求められるようになっている(世代間格差や、社会保障#2.1.5 保障制度の見直しを参照)。
社会保障制度は基本的に、強者が弱者を救う制度。具体的には、現役世代が老人を救う制度であるが、少子高齢化により、その負担が現役世代に重くのしかかっており、このままでは従来通りのクオリティを維持することは困難となってきているのである。では一体どうしたらよいのであろう。まず、デフレ経済を脱却し企業が収益を上げ社会保障費を補えるだけの税収があればそれに越したことはない。

長く続いた不景気とデフレ安倍晋三首相の主導するアベノミクスは、この不景気と財政危機(日本の財政問題 参照)から脱却するためには、まずはデフレと円高から脱することが先決と考え、「3本の矢」として「大胆な金融政策」「機動的な財政政策」「民間投資を喚起する成長戦略」が基本方針として掲げている(※7 )。
そのひとつである「大胆な金融政策」の一環として、2%のインフレ誘導目標を設定し、まさに大胆な金融緩和が行われている。
そして円安へ導くことにより輸出産業主体の日本の企業の収益アップを図り、さらに公共事業を増やすことでも企業の収益アップや働く人の賃金アップを目指して、それらがひいては税収アップをもたらすことにより財政の健全化を期待する政策を進めているのである。
確かに、昨年安倍政権誕生以来、その期待感から円安、株高が進み、トヨタ自動車など輸出関連企業は為替差益で大きな利益を上げている。
そして、狙い通りに、円安による輸入物価の上昇がデフレ経済下における物価の下げ止まりに大きく寄与し、この7月には小麦粉、パン、油、肉製品など、多くの品目で小売価格が値上げされている。又、ガソリンなどエネルギーの価格上昇が多くの消費者物価に転嫁される動きも見られ始めている。
ただ、円安による賃金上昇の恩恵を受けられるのは、当面、輸出関連産業に従事しているなどごく一部企業のの労働者が中心であり、これら円安によるメリットを享受できない中所企業やその労働者、又、老齢の年金生活者などは、ほとんどが物価上昇の負担だけを強いられることになる。これから、そんな円安のメリットを享受できずにデメリットのみを受ける層からの不満が徐々に高まってくるだろう。
アベノミクスでデフレ脱却の成長戦略を描く安倍政権にとって、賃金アップは欠かせない政策であり。2%の物価上昇目標を上回る率、つまり15円以上は上げないと消費拡大につながらないどころか、給料アップによる景気回復がいつまで経っても実感できないとの批判が強まる可能性がある」と言われている。
安倍政権の意向を踏まえ、厚生労働省の小委員会が2013年度の全国加重平均額(単に最低賃金を平均するのではなく、都道府県ごとの労働者人数の多い少ないも考慮した平均)を前年度比14円(昨年は7円)増の763円とすると決めた(※8)。
これを、デフレ脱却への一歩と歓迎する声もあるが、雇用への影響も懸念されている(※9)。経済成長をし、企業の利益が伸びなければ支払うことのできる賃金の全体額も増えない。したがって、経済成長のない企業では低賃金を上げれば雇用人数を減らさざるを得なくなり、負担がかえって大きくなる可能性もある。先にも述べたように、収益が伸びないのに円安による原材料費の高騰によりかえって経営が苦しくなっているという企業が多いとマスコミなどでは報道している。そのような企業は人件費の負担増が倒産にも結び付くかもしれない。
安倍内閣は、労働者派遣法の「改正」を成長戦略にうたっている。正社員を派遣労働者に置き換えることができるようにするものであり、正社員が減らされ、派遣労働者が増えることになる。つまり、労働者の平均賃金は減少してゆく危険性があるのである(※10)。

また、一方で、戦後日本の高度経済成長を支えてきた高齢者が今、そのアベノミクスから痛みを強いられようとしている。
実現すればいいことづくめに見えるアベノミクスだが、そのなかで気をつけておきたいのが、2%のインフレ誘導目標である。
物価の上昇があった場合、銀行預金やタンス預金はどうなることであろう。インフレになるとせっかく貯蓄したお金が目減りする。だって、インフレになっても、預・貯金金利は上がらずゼロに近い低金利のままなのだから・・・。老後のためにと若い時から休みも取らず遊ぶこともせず苦労して貯めてきた預貯金等が実質的に目減りしてしまうのだ。
インフレに強い金融商品といえば、株式、金、不動産が真っ先に挙げられる、若い人ならいざ知らず、これから先年金も減らされ、社会保障費の負担もアップしてゆく中で、リスクを伴う投資に金をつぎ込めるのは、それこそ、今高額の収益を上げている現役世代や富裕層に限られる。
昔は庶民のなけなしの預貯金を保護するために、マル優制度(少額貯蓄非課税制度)というものがあり、利子所得への課税が非課税扱いにされていたが、来年度から導入される日本版ISA=ニイサ(少額投資非課税制度。※11参照)は、株式や株式投資信託に投資した時に発生する所得や譲渡所得が非課税になるものであり、これらに投資をしないで預貯金に頼っている高齢者には恩恵はない。
その上、財政健全化のためにと「社会保障と税の一体改革」を名目に消費税増税を無理にでも押し通そうとしている。ますます、預貯金が減ってゆく。したがって、ますますお金を使うわけにはいかなくなる。
バブル経済が崩壊してからの20年間、日本経済は停滞が続いていたが、緩やかなデフレによって高齢者の購買力も緩やかに右肩上がりが続いてきた。
巨大な財政赤字を抱えている中で、無制限にでも国債を発行し、市中にじゃぶじゃぶに金をばらまき、インフレを起こして、これまでの状況を逆回転させようとしているアベノミクスは、パンドラの箱を開けたようなものだが、成長に向けた財源を捻出するため、比喩的にも実質的にも高齢者に重い負担をかけようとしているのは間違いない。
インフレ上昇や増税の見通しで高齢者が持つ700兆円を超えるともいわれる資産の流動化が始まれば、アベノミクスが効果を発揮する前に財政危機に火が点くことになりかねないと一部のアナリストやエコノミストは警戒している。
●上掲の画象はジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの描く「パンドーラー」Wikipediaより。

大胆な金融緩和や、起爆剤となる公共事業が関心を集める「アベノミクス」だが、2013年度税制改正(※12:)では、贈与税軽減など、世代間の資産移転を強く意識した政策もめじろ押しだ。
現行制度では、相続税の基礎控除について、定額控除額が5000万円から3000万円に引き下げ、法定相続人比例控除額が1000円から600万円に引き下げ、最税率を55%に引き上げ、税率区分が6段階から8段階にされる。
贈与額は、現行制度では「1000万円超」で50%、「600万円超-1000万円」で40%などの贈与税がかかる。これを、祖父母から孫や子に渡す場合に限り、それぞれ10%程度減らすなどの措置を検討している。
又、教育資金の一括贈与に係る贈与税の非課税措置の創設で、子・孫(30満に限る)の教育資金に充てるために祖父母等が金融機関等に信託等をした場合は、受贈者1人につき1500万円までの金額について非課税とするといったものである。
要するに、総額約44兆円ともいわれる眠れる資金「タンス預金」の活用が狙いだ。なるほど、高額のタンス預金をするだけの余裕ある富裕な人などは、従来より有利な条件で子や孫たちに生前贈与が出来ていいことだろう。しかし、息子や孫たちにそのような大金を贈与するだけの余裕のない者にとっては、メリットではない。
私なども、そうであるが、私たちの世代の者は歳をとって、子供達に老後の介護など面倒をかけないように、最後は、介護付きの有料老人ホームなどへ入って余生を過ごしたいと願っている人が多いことだろう。
しかし、そのためには、老齢年金だけで自分が望むようなところに入れるわけではない。入居前に支払う権利金や入居後の管理費等夫婦二人が入ろうと思うと相当な費用がかかる。
そのために今の楽しみも十分にせず、将来の為にと準備してきたものが、インフレや消費税アップなどによって、目減りしてまう。
そして、もし、その希望通りの良いところが見つからず、そのような施設に入れないまま死んだとしたら、子供達への相続税にがっぽりと税金がかかってしまうことになる。
「日本の個人金融資産の総額は、1434兆円にのぼる。2007年の家計調査では、その約6割は、60歳以上の世帯が保有している。 老後の生活に必要な資金をはるかに超えた額が消費に回らず、事実上眠っている。」とし、「国債による借金(ここ参照)は限界に近い。その余剰貯蓄を有効利用し、消費を刺激して景気回復を図る方策を真剣に考えるべき」であるといった論調がマスコミなどでなされている。
しかし、今高齢者が自らの意志で「死に場所」すら決められない現実が広がっているのである。
ひとり暮らしで体調を壊し、自宅にいられなくなり、病院や介護施設も満床で入れない・・・「死に場所」なき高齢者は、短期入所できるタイプの一時的に高齢者を預かってくれる施設を数か月おきに漂流し続けなければならない状況である。「歳をとり、周囲に迷惑をかけるだけの存在になりたくない…」 施設を転々とする高齢者は同じようにつぶやき、そしてじっと耐え続けているのが現状である。
中には、介護をしてもらうことのできない人の孤独死や自殺、年老いた子供が年老いた親を介護する老々介護での介護疲れからの自殺や、親殺しまでするという悲劇までもが発生している。
団塊世代の高齢化が始まった日本。現在、死亡する人の数は年間120万人位らしいが、2030年には160万人位へ急増する「多死」の時代が到来すると予想されている。
かってのような、病院など施設での介護ではなく「施設から在宅へ」という方針を加速させ平均在院日数を減らし、在宅医療を推進することで、医療・介護費を抑制しようとしている。
介護をしてくれる家族のいない一人暮らしや夫婦二人暮らしの高齢者までも、自宅へ戻されている。そこには公的な介護サービスも十分に受けられず、自宅で悲惨な最期を迎えなくてはならないという厳しい現実がある。まるで、高齢者の長生きは社会のお荷物・・・と言った感じである。
体の不自由な老夫婦や一人暮らしの老人がヘルパーなどへの費用を払いながら自宅介護で生活をしようと思ったらどれだけの費用が掛かるのか。不安は募るばかりである。
先行きどうなるかわからない将来不安の中で、「今、お金を使ってしまったらミジメになるかもしれない」と思っているから日本人は貯金に手を付けないのである。政府が最後の余生を安心して送れるようにしてくれれば、誰も、今楽しむべきことを楽しみもせず、むやみにお金を貯めるようなことをする人はないだろう。
今は医療技術の向上とある程度の社会保障の充実化により、死亡する確率がかなり低くなり平均寿命が急上昇している。サラリーマンが定年を迎えて後、何年生きなければならないのか。20年か、30年か、ひょっとしたらそれ以上かも・・・。
これだけの期間をそこそこの生活をしながら生きて行こうと思えば、いくらの費用が掛かるのか。サラリーマンなどの年金支給の見直しにより、至急年が伸びてゆくと定年から年金をもらうまでの空白期間は、退職後も働き続けることができればなんとかなるが、そうでなければ数年間の空白期間は収入ゼロになってしまう。
それに、国の年金はインフレに追随しないことをすでに決めているので、そのような目減りも考慮しておかなければならない。老後をどう生きるか自分のライフスタイルを考えたうえでその準備をしておかればならないだろう。

体の弱ってきた老人にとって、最も気がかりなのは、老後の介護問題である。その介護を社会保障に頼っているのが今の時代であるが、かっては年老いた親の世話は子供たちがするものであった。しかもそれをするのは、基本的に長男の役割であった。
私なども長男であるから、それを当然のことと受け止め、結婚の嫁選びの条件も老後の親を見てもらえることを前提に相手を選んだ。幸い、良い人が嫁に来てくれ、母ががん(癌)になって死ぬまで、長い年数であったが、よく面倒を見てくれて非常に感謝している。
昔は、先祖代々の稼業と遺産は長男が相続し、その代わり長男が、親の面倒をはじめ一家のすべてを取り仕切り、墓守も勤めた(例え相続する財産がなくてもである)。
ところが戦後の日本では、経済発展と共に進んだ近代化とともに、サラリーマン転勤族の増加、女性の社会進出等による核家族化への進行は、日本の伝統的家族制度そのものを崩壊させ、遺産相続も均等配分になったため、長男だけが親の面倒をみなければならない理由が希薄になった。保守的な農村部と違い都市部では、とくにこの傾向が強い。
その上、戦後の誤った自由主義平和主義の教育は、自己中心的で、利己主義な人間を育て、親の介護さえしたくないと言った人間を増やしており、実の子でない嫁などは、嫁ぎ先の親の面倒など他人事のように思っており、家へは顔さえも見せないといった人が増えている。私の近所でもそのようなことの不満を漏らす人がたくさんいる。
昔の姑は一家の権限を一手に握り嫁をいびる鬼にさえみられていたが、今は姑どころか舅すら嫁に遠慮しなければならない時代である。若い女性はますます強くなり、老人は子供たちにさえ気を遣いながら方も載せまい思い出生活しなければならない時代となっているのである。
このような 環境の中で、老親の介護は次第に家族の手を離れ、国の社会システムに肩代わりされつつある。しかし、その費用負担の問題が起こっているのである。
しかも、その上に、少子・高齢化が重なって、余計に社会保障問題が深刻になってきているのだ。
このことが社会保障問題の中で一番の重要なことなのである。今の若者は老人世代と若者世代では、若者世代の負担率が高いと嘆く。しかし、昔は、子供たちが年金などなかった時代の老親の生活の面倒から老後の世話まで必死に支えてきたのである。
だから、今の若者も、昔のように、現役を退いた老親の生活から老後の介護まで兄弟で手分けして面倒を見れば、医療費などの他大きな社会保障費を負担しなくてもよくなるだろう。
金を出して支援するか、自分の実を犠牲にして支援するか・・どちらが良いか・・ということだろう。
もし、今のように一人っ子で出来ないのであれば、子供を産めばよいことだ。教育費がかかるからとか言ったことを子供が産めない理由に挙げる人が多いがそれは詭弁である。事実、苦労しながら5人も6人も子供を育てている親は今でも多くいるし、そんな中で育った子が皆悪い子に育つかというとそんなことはない。今とんでもない犯罪をおかしている青少年は逆親に甘やかされ、贅沢に慣れ、我慢をすることもできない軟弱な子が何かちょっと気に入らないことがあるとキレて親殺しのような犯罪や秋葉原通り魔事件のようなとんでもない事件を引き起こしているのである。。
しかし、今更それを言っても、時計の針はもとに戻らないだろう。この様な時代に生きようと思えば、老人もしっかりと金を貯めておかなければ安心して生きてゆけない。
江戸時代の、井原西鶴はは、『日本永代蔵』の中で、最後に、
「人、若時貯して、年寄ての施肝要也。迚も向へは持て行ず、なふてならぬ物は銀の世中(人というものは、若い時に金を貯めて、年を取ってから消費することが大切だ。とてもあの世へ持ってはいけないが、なくてはならないのが金で、万事金が物を言う世の中だ)」という言葉で結んでいる。「苦は楽の種」ということわざがあるが、若い時は大いに働いて苦労を重ねながら金を貯め、年老いてからはその金を使えと言っているのである。西鶴がこう結んだのは、経済の理として、多くの人が金を使うことによって、その金が回り回って世のためになることを見抜いていたからだ。また、金がものを言う世の中だという現実を熟知していたからだ。金はただ貯め込むだけでは死に金になってしまうというのである。いかにも上方の町人らしい発想であった(※13:「永代蔵・胸算用に見る町人の姿」の第一章第三節消極的致富道たる始末を参照)。
親は子供のため、特にかわいい可愛い孫のためには、出来ることはしてやりたいもの、生前贈与をするだけの余裕があるのなら、無理をしない範囲でしてあげればよい。しかし「金の切れ目は縁の切れ目」ということわざもある。爺さんばあさんに甘えていても、現金なもので、お金もなく何も買ってやれなくなるとだんだんと離れていくもの。それが現実である。
定年後の20年、30年は短いようで長いもの。老後の介護をしてもらうだけの金も含めたお金をしっかりと貯めて持っておれば、子や孫に逃げられることはない。その上、年金があれば残りの人生そんなに心配することもないだろう。リア王の教訓は今も生きていると思った方がよい。念のため、参考の※14:「危険が一杯】 生前贈与について」なども詠んでおいた方がよいだろう。
それにしても、私は、常々余り長生きはしたくないと思っている。家人といつも 話し合っていることだが、年老いて病気になっても延命治療だけはしてくれるなと言ってあるし、このことは遺言状と共に文書で、残しておくことにしている。家人も同じ考えのようである。尊厳死については難しい問題があり人それぞれに、いろいろな考え方があるだろう。しかし、もし、日本人のだれもが、これを実行すれば、日本の社会保障費は相当助かるだろうと思うのだが・・・・。

冒頭の画像は、【DVD】乱 デジタル・リマスター版。

参考:
※1:NPO法人・不動産承継支援ネットワーク::当団体について
http://www.fudosanshokei.com/
※2:乱 - 前川ゼミ
http://www.fic.i.hosei.ac.jp/~maesemi/study/031nishino.html
※3:Jean-François Ducis
http://www.fra5.net/extrait/extrait270.html
※4:意外とイケてる? 日本の社会保障制度?-All About
http://allabout.co.jp/gm/gc/8393/
※5:労働者年金保険法 - Hi-HO
..http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/CL5.HTM..
※6:一緒に学ぼう 社会保障のABC
http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=75216
※7 :アベノミクス「三本の矢」 - 内閣府
http://www5.cao.go.jp/keizai1/abenomics/abenomics.html
※8:「社会保障の給付と負担の見通し(平成18年5月推計):厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/hokabunya/shakaihoshou/futanminaoshi/index.html
※9:最低賃金アップは本当にいいこと? 今年度14円増を考える
http://ameblo.jp/yzyoichi/entry-11588106603.html
※10:全く知られていない改正労働者派遣法とその問題点 - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2135045250109382601
※11:日本版ISA=ニイサ(少額投資非課税制度)とは? - 雑学情報 - TypePad
http://convenience.typepad.jp/naze/2013/03/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%B5.html
※12:2013年度税制改正の概要 | PwC
http://www.pwc.com/jp/ja/taxnews/taxnews-issue83.jhtml
※13:永代蔵・胸算用に見る町人の姿(html)
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=ohFn94CydPAJ&p=%E8%8B%A5%E3%81%84%E6%99%82%E3%81%AB%E9%87%91%E3%82%92%E8%B2%AF%E3%82%81%E3%81%A6%E3%80%81%E5%B9%B4%E3%82%92%E5%8F%96%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%8B%E3%82%89%E6%B6%88%E8%B2%BB%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%8C%E5%A4%A7%E5%88%87%E3%81%A0%E3%80%82&u=onda.frontierseminar.com%2Fei.doc
※14:【危険が一杯】 生前贈与について
http://ie.user-infomation.com/rougo_sigo/si_07.htm
傍観者の独り言:高齢者の終末・・・長生きは社会のお荷物?(1)~(3)
http://blog.goo.ne.jp/nonasi8523/c/2709133d1b7e32fa8fa9bca1a862fcb0
『リア王』の演劇表現
http://www.misawa-ac.jp/drama/shinso/07.html
わたしが長生きしたくない3つの理由-All About
http://allabout.co.jp/gm/gc/8396/
平成25年度地域別最低賃金額改定の目安について
http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000014598.html
円安による物価上昇と家計の不満 | コラム | 大和総研グループ | 橋本 政彦
http://www.dir.co.jp/library/column/20130722_007448.html
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/


中秋の名月

2013-09-19 | ひとりごと
古くから人々に親しまれている月、とくに天保暦(いわゆる旧暦)8月15日の月は「中秋の名月」として有名。
中秋の名月は、秋分に最も近い満月。
英語に訳すと「the full moon nearest the September equinox」となるらしい。

今年の「中秋の名月」は、2013年は9月19日。上掲の月はPM7:30頃2階ベランダより南方面にあるのを撮ったもの。暦の関係で、中秋の名月は必ずしも満月になるとは限らないが、今年は2011年、2012年に続いて中秋の名月が満月であった。
中秋の名月当夜の満月は、今年を最後に2021年まで見られないそうだ。

日本の関東以西では、この時期、晴天に恵まれる確率が低いので、なかなか綺麗な満月を見ることができないが、綺麗に見えたので写真に撮った。

画像の和歌
「月々に月見る月は多けれど月見る月はこの月の月」(詠み人知らず)

ここでは「月々」をあえて「月月」と書いた(歌の出所は※1参照)。こう書けば、月の字が8回あり、「この月」が8月「仲秋」の月であることを示していことがわかるだろう。旧暦では7・8・9月を秋と定め、7月を「孟秋」、8月を「仲秋」、9月を「季秋」としている。

百人一首では月の歌が12首を数えられる(※2参照)。日本人がいかに月を愛してきたかをうかがい知ることができる。

その中の一首
「月見れば千々にものこそ悲しけれ わが身ひとつの秋にはあらねど」(23番大江千里、古今和歌集」秋上193)
 意訳をすれば、”月を見ているとあれこれと悲しい思いが湧いてくる 秋はわたしのところだけに来るわけではないのだが ・・・」といったところ。

暑い夏から、涼しい秋に入り、月等眺めているとどうも感傷的・おセンチになり、なぜか寂しく、人恋しくなるなるようだ・・・。なぜだろう?
"人肌恋しい"とは「人の肌がなつかしく思われる、肌と肌の触れ合いが恋しい」という意味のほかに「人間らしいかかわり合いを求む」様子であると言われている。

暑い夏、肌に感じる感覚は「暑い」という感覚であるが、それが、「肌寒い」という感覚に変わってくる時期が秋ではないか・・。その秋が過ぎると寒い寒い冬が来る。
冬は動植物にとって死の季節であるともいえるが、人間にとっても、原始時代においては死と対峙しなければならない厳しい季節だったであろう。
秋になると訳もなく人恋しくなるのは、「肌寒い」感覚が、進化しきった私たちの本能に、目前にせまってきている冬が死の季節だというプログラムを呼び起させ、その前に種族の保存をせよというシグナルをだし、それが、人恋しい・寂しい・切ないという感情になって現れてくるのではないだろうか。…そんな気がするのだが・・・。
ただ、もういい年した私などは、肌寒く感じた日には「熱燗」が一番なのだが・・・。

参考:
※1:月月に月見る月は多けれど月見る月はこの月の月 - TOSSランド
http://www.tos-land.net/teaching_plan/contents/5979
※2:百人一首 月のある歌
http://hyakuninnissyu.seesaa.net/article/110232587.html
Q&A: 秋の月はなぜきれい?

春日局(徳川家光の乳母)忌日

2013-09-14 | 人物
安土桃山時代から江戸時代前期の女性で、江戸幕府三代将軍・徳川家光乳母である春日局(かすが の つぼね)が亡くなったのは今から370年前の寛永20年9月14日(1643年10月26日)のことである。
辞世の句は「西に入る 月を誘い 法(のり)をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」。法号は麟祥院殿仁淵了義尼大姉。東京都文京区の麟祥院に墓所がある(※1参照)。
又、京都市内にも春日局ゆかりの地がある。
京都市右京区妙心寺塔頭麟祥院(※2参照)は、春日局の菩提寺であり、ここの御霊屋(みたまや)には小堀遠州作春日局木像が安置されている。
冒頭の画像は、その小堀遠州作・春日局像である。妙心寺麟祥院蔵。画像は、『週刊朝日百科日本の歴史』30掲載分より借用。
本院は春日局が帰依していた碧翁愚完(肥前藩主鍋島勝茂の子)を開祖として寛永11年(1634 )に創建された。もとは、木辻菖蒲小路(現在の花園高校の辺り)に香華所(仏前に香や花を供える役割を担う寺院。菩提所)として建立されたのが起こりだそうだ。
春日局の御霊屋は仙洞御所釣殿であった建物を後水尾上皇が春日局の隠棲の場として下賜されて後、二条城に移築し、局在世中は、能舞台として使われていたらしいが、局の逝去後は当院に移し、祠堂となり、現今は御霊屋として保存されている。
明治30年(1897年),現在の花園学園の校地の位置から現在の地に移されたようだ。

徳川将軍家・初代徳川家康には11人の男子があったが、長男信康織田信長から武田方に内通しているとの疑いをかけられて自殺したので、後嗣は、次男秀康ということになるが、実際には性格が素直で、家康の云うことをよく聞くだろうとの配慮から三男秀忠が二代を継いだ。
この秀忠には慶長6年(1601年)に誕生した長男・長丸がいたが、既に早世(慶長7=1602年9 月に死去)していたため世子として扱われていた次男(嫡男)竹千代(家光)は病弱で吃音、しかも愚鈍・粗暴の気味があったが、竹千代よりも容姿端麗・才気煥発(かんぱつ。すぐれた才能が外にあふれ出ること)な三男国千代(忠長)は立居振舞にも節度があったために、両親・家臣の多くが三代には国千代をと考えていた。
竹千代の乳母お福(春日の局)がこれを心配して、家康に直訴。これからの継嗣者は個人の資質より出生序列による方が政権が安泰とみて、竹千代を後嗣とした。
ここに将軍家の長男子継承のルールが確立して、「生まれながらの将軍」となったのが四代家綱である。
ところが彼は病弱で子がないまま死去、若干のトラブルがあったが五代には末弟の綱吉が継いだ。だが綱吉にも継嗣がないために、亡兄の子綱豊(家宣)が六代となる。
その後を継いだ七代家継は八歳で死亡したために、男系男子が途絶えると、八代を吉宗が継ぐことになった。(週刊朝日百科日本の歴史7-228P)
徳川将軍家の出自について、八代将軍吉宗(母:浄円院)を語るとき、よく聖母の素性が問題にされるが、江戸時代には「腹を借りもの」という考えがあり、男子の血のみを重視する習慣があったので、生母の賎しさは問題にならなかった。
四代家綱の生母お楽の方(宝樹院)は刑死した罪人の娘であり、五代綱吉の生母お玉の方(桂昌院)の出生には諸説はあるが、八百屋の出戻り娘であったともいわれている(『玉輿記』※3)。ただ、桂昌院がしばしば「玉の輿」の語源とされるが、これは俗説に過ぎないようである。
徳川十五代の将軍のうち(父親の)正室の子供は実に三人(家康・家光・慶喜)のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は家光のみで、あとは全部腹の出である。

三代将軍・家光の生母秀忠夫人である江(崇源院)は、織田信長に滅ぼされた近江小谷城主浅井長政の三女、その,母は信長の妹お市の方。長姉は豊臣秀吉の側室淀殿、次姉は若狭の大名京極高次夫人初(常高院)である。
りちぎ者(きまじめで義理堅い人。実直な人)という評の残る秀忠には、正夫人の他に側室を持たなかったとも言われるが、それは崇源院が嫉妬深かったという説がある。ただし、秀忠には、正夫人を迎える前に生まれた長男長丸の母(家女に産ませるが名前不明)や幸松丸(後の名君保科正之)の母女中の静(後の浄光院)の2名がいる。家を継ぐ側室は男子をもうけるためにもったものだが秀忠には9人の子がおり、このうち実に7人が正室、つまり崇源院の子であった。そのため秀忠には、無理に側室をもつ必要がなかったとも言える。
この崇源院は、そして、父親の秀忠も竹千代時代の家光を長子でありながら、余り可愛がらなかったようである。彼らの愛情はより強く弟の国松にそそがれており、徳川の家督も国松が継ぐと予測した向きもあったらしい。この形成を心配した乳母春日局が駿府の家康に直訴し、家康の計らいで竹千代の家督が再確認されたという逸話は余りにも有名である。

春日局、名は「ふく(福)」は美濃国の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族斎藤利三の子であり名は「ふく」。母は稲葉良通(一鉄)の娘安。
斉藤氏は美濃守護代を代々務めた武家の名門だったが、ふくの実家の斉藤家も、この一門である。守護代斎藤氏が滅びると、一門であった斉藤家は明智氏に仕官。
ふくは、明智光秀の重臣であった父・斎藤利三の所領のあった丹波国黒井城下館(興禅寺)で生まれ、城主の姫として、幼少期をすごした。
その後、父は光秀に従い、ともに本能寺の変で織田信長を討つが、羽柴秀吉に山崎の合戦で敗戦し、帰城後に坂本城下の近江国堅田で捕らえられて処刑され、他の兄弟は落ち武者となって各地を流浪していたと考えられている。
斉藤家が没落後、福は女であることから追われることはなく、母方の親戚に当たる三条西公国(織豊時代の公卿三条西実枝の子)に養育された(外祖父である一鉄の妻は三条西公条の娘であり、三条西家は母方の祖母の実家にあたる)。これによって、公家の素養である書道・歌道・香道等の教養を身につけることができた。
その後、伯父の稲葉重通の養女となり、重通の養子で小早川秀秋の家臣である稲葉正成の後妻となる。正成は関ヶ原の戦いにおいて、平岡頼勝と共に主君・秀秋を説得して小早川軍を東軍に寝返らせ、徳川家康を勝利に導いた功労者である。
正成との間に正勝らを産み、後に将軍家の乳母となるために夫の正成と離婚する形をとり、慶長9年(1604年)に2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の家光)の乳母に正式に任命される。
乳母となって以後の家光のへの局の献身は家光が疱瘡を患った時(種痘の発見されていない当時、疱瘡は貴賤ともに一生に一度はかかる恐ろしい病であった)、東照社に家光の無事平穏を祈り、その願いに自分の命をかけるあかしに以後医薬を絶つことを誓い、生涯それを守ったことなど、数々の逸話に示されている。
それに応えて家光も局を厚遇し、彼女を江戸城大奥を取り締まり、そこで生活する家光の側室や子女を保護・後見する役につけた。

先に述べたように、徳川将軍は世襲制であり、後継者が途絶えることは幕府存亡にかかわる一大事である。
そこで、 徳川のお世継ぎを誕生させるシステムとして君臨したのが大奥であったといえる。
大奥は、将軍の御台所(正室)や側室や生母、彼女らに仕える奥女中(御殿女中)の生活の場である。
大奥と呼ばれる区画は、初代将軍・徳川家康の時代から、江戸城に存在していた。しかし当時は、政治を行う場である「表」と、城主とその家族の私的な生活の場である「奥」の境界が存在していなかった。この境界が江戸城に現れたのは元和4年(1618年)に2代将軍・秀忠が「壁書」という触れで人々の行き来を制限することで厳密に区別した時である。以後、本丸は幕府政庁の「表」、将軍が政務を執る「中奥(奥)」、将軍の私邸「大奥」に区分された。
大奥は、その性格上、男子の出入りに制限があるのは当然である。しかし、一般に牡猫一匹入れないといわれるが、それは誇張しすぎである。
まず、大奥には広敷(大奥の玄関口)といわれる一角があり、男性職員が多数詰めている。この広敷と大奥御殿は自由に出入りができるわけではなく、御広敷御錠口によってのみしか出入りができず、厳重に管理されている。
3代将軍徳川家光乳母・春日局によって組織的な整備がなされていき、こうして現在知られる形の大奥に整えられていった。
この大奥の内部での身分制度は厳格に守られていた。

将軍正室として大奥一の立場にあった御台所は、征夷大将軍となった時点で既に正室がいなかった初代将軍家康、幕府成立以前の豊臣秀吉存命中に正室(継室)江(江与)を迎えた2代将軍秀忠は別として、大奥の制度が確立されて以降、皇室公家摂家)から迎えるのが慣例となっていた。
11代家斉御台所の寔子と13代家定御台所の敬子島津家出身であるが、両人とも近衛家の養女となった上で公家の姫として輿入れしている。これは、御台所に格式が求められたためなされた処置であると考えられる。
また、正式の側室を持たなかった2代秀忠の御台所江が3代将軍家光の生母となった以外、将軍生母となった御台所はいない。これは、皇室や公家の外戚を持つ将軍が生まれないよう、大奥が管理していたからともされている。
御台所は大奥の主宰者であるが、江戸時代前期の大奥における実権は御年寄や世継ぎを産んだ側室、将軍生母が握っていたため、御台所としての本来の立場を維持していた例は少ない。実際、実権を持っていた御年寄や側室たちには、女中たちの居住区「長局向」とは別に独立した住まいを与えられていた。

大奥女中の階級を、大きく分類すると「お目見以上」、「お目見以下」、「部屋方」に分類される。お目見以上は、将軍・御台所に謁見できる身分の女中であり、お目見以下は、謁見できない身分である。ただし、お目見以下であってもお目見え以上に出世することが可能であることは表役人と変わらない。 お目見以上の役職を見ると、
上臈御年寄は、奥女中の最高位で、多くは、御台所の輿入れに随行してきた有職故実に長けた京の公家の娘で、通常は、将軍や御台所に近侍するが、大奥の中で実権を持つことはあまりなかったとされている。
御年寄は、大奥女中の位の中では第2位に当たるが、奥向の万事を差配する大奥随一の権力者で、表向の老中に匹敵する役職であったという。老女・局(つぼね)などともいう。
御中は、将軍、御台所の身辺の一切の世話を行う。大奥女中の中から家格や容姿の良い者が、御年寄などの推挙により選ばれた。通常、将軍の「お手つき」というのは将軍付きの御中から出るが、御台所付女中から将軍の目に止まった場合は、御台所から将軍に献上という形をとったという。お手つきとなると「内証の方」と呼ばれ、子が出来て、初めて独立した部屋がもらえる。子が女子であれば「御腹さま」、男子であれば「お部屋さま」と呼ばれた。御中より下位の女中が将軍に見初められた時は、御中に昇進した。
その他の階級や役職、その職務内容等は大奥女中また、以下参考の※4、※5を参照されるとよい。

家光の時期の大奥で春日局とともに権勢をもった婦人に英勝院がいる。彼女は関東の名族太田氏の出身で、太田道灌四代の孫にあたると言われている。家康の関東入国のとき名家の子弟ということで兄と共に家康に召し出され、後、側室となって「おかじの方」と呼ばれた(一女を生んだが幼死)。
家康の死によって髪を剃り、邸を与えられて江戸に住んだ。
家光が将軍となって以後は、水戸頼房の娘大姫の養母格となって加賀藩前田光高に嫁がせるなど厚く信任された。家康の生前に、その側近にあった英勝院が、父母の愛のうすい家光を大切にしたからだと言われている。
甥の資宗も家光の側近として取り立てを受け、六人衆と呼ばれる後の若年寄に相当する地位に就いた。
取り立てと言えば、春日局の子稲葉正勝も家光の側近から取り立てられて老中相当の地位についている。
春日局にせよ、英勝院にせよ、家光の信任があればこそ一族までが取り立てを受けたのであるが、その前提にはいずれも没落した名家の出であったことがあるという。
幕府としては奥向きの運営にそうした家のしきたりを身に着けた女性を必要とした事情があったと考えられている。
類似の例として、秀吉に改易された宇都宮国綱の妻(小少将[佐竹義重養女、佐竹義久女])が入内した東福門院和子の付人として関東から京都の御所に赴いている。
これも彼女が、常陸の大名佐竹氏の出身であり、嫁ぎ先の宇都宮家が鎌倉以来の守護の家柄であったことによるようだ。(家光には何人かの姉妹があるが姉では豊臣秀頼に嫁いだ千姫が著名である。妹の和子が産んだ照子内親王の即位により、家光は天皇の伯父となった。)。
春日局や英勝院など、奥向きをとりしきる「老女」の重要な役割のひとつは、表の世界とは直接に交渉をすることのない将軍家御台所(関白鷹司信房の娘鷹司孝子)や側室、将軍の子女にかわって、外との取次ぎをすることであった。そしてその交渉の中で大きな比重をしめたのが、外部の宗教者の祈祷の以来であった。
崇源院は筑波山の修験者知足院(※6、※7参照)に帰依し江戸城の近くに寺を建立しているが、春日局と英勝院が深く信頼したのは言うまでもなく天海であった。
彼女たちは狐が騒いだといってはその吉凶を天海に問い合わせ、江戸城築城の落成に際しては御台所の寝間や御産の間の守り札を依頼している(※8)。
家光の娘千代姫(後尾張家に嫁ぐ、※9参照)誕生の時は、名付けを天海に頼み、初宮参りにも祈祷を依頼している。また、側室お楽の方(宝樹院)が家綱を懐妊したときは、妊婦の年齢、解任の時期などを詳しく知らせて安産の祈祷を頼みこんでいる。大奥の家光とその子女はこうした祈祷に守られて生活していたのだという(『週刊朝日百科日本の歴史』30)。

寛永3年(1626年)、家光生母・崇源院(江)の死後大奥の公務を取り仕切るようになった春日局は、家光の側室探しに尽力し、伊勢慶光院の院主であったお万(永光院)や、お楽、お夏(順性院)などの女性たちを次々と奥入りさせ、また将軍の権威を背景に老中をも上回る実質的な権力を握った。

上掲の画像が、マイコレクションより1997(平成9)年9月帝国劇場で公演のチラシ「徳川の夫人たち」。中央春日局役は故山田五十鈴。その右隣りお万の方役の片平なぎさ。また、山田の左隣は藤尾役の故池内順子、その隣男性は、徳川家光役の西郷輝彦である。
同舞台では、江戸城に三代将軍家光へ謁見のため、はるばる伊勢より訪れた尼僧・慶光院。その美貌と品位に心動かされる家光の意を察した春日局は、こともあろうに慶光院が将軍の側室になるようにと介護役・藤尾に命じる。そして、その三ヶ月後、慶光院あらためお万の方のお目見えの日、江戸城に晴れやかな空気が流れるが、しかし、それは春日局、藤尾、お万の方それぞれにとって大奥を舞台にした女たちの戦いの序幕であった・・・。
朝日新聞に連載の当初から爆発的な人気を呼んだ吉屋信子の同名小説を原作を舞台化したものである。

大奥では大きな力を持っていたを春日局(当時はまだふくを名乗っている)ではあるが、武家である斎藤家の娘の身分のままでは御所に昇殿するための資格を欠くため、血族であり育ての親でもある三条西公国の息子・三条西実条と猷妹の縁組をし、公卿三条西家(藤原氏)の娘となり参内する資格を得、三条西 藤原福子として寛永6年(1629年)10月10日、後水尾天皇や中宮和子に拝謁、従三位の位階と「春日局」の名号及び天酌御盃をも賜り、この時から「ふく」ではなく「春日局」を名乗るようになった。その後、寛永9年(1632年)7月20日の再上洛の際に従二位に昇叙し、緋袴着用の許しを得て、再度天酌御盃も賜わる。よって二位局とも称され、同じ従二位の平時子北条政子に比定する位階となった。
寛永11年(1634年)に正勝に先立たれ、幼少の孫正則を養育、後に兄の斎藤利宗が後見人を務めた。寛永12年(1635年)には家光の上意で義理の曾孫の堀田正俊を養子に迎えた。寛永20年(1643年)9月14日に死去した(享年64)。

春日局をドラマ化したものは多いが、一番記憶に残っているのが、1989年1月1日から12月17日にNHKで放映された大河ドラマ『春日局』(原作・脚本は橋田壽賀子)。
当ドラマは、明智家臣の娘という立場で戦国の乱世を生き抜き、その器量を徳川家康に見込まれて大奥の取り仕切りと後の三代将軍徳川家光の乳母を任された女性・春日局の生涯を描き、それまで「強い女」「烈女」のイメージが強かった春日局を、平和な世を希求し、献身的に家光の母代わりになろうと生きた女性として描かれていた。
ドラマは、おふくと対比する形で家光の母・お江与(崇源院)をもう一人の主人公のように位置付けている一方で、本来おふくや家光を語る上で欠かせないはずのお万の方(永光院)が登場することはなかった。

最後に、先に書いた天海という僧は、関ヶ原の戦いの後、突如、歴史の舞台に登場し、徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与したが、それ以前はどこで何をしていたのか全く不明、謎の多い人物でもある。
その素性は、本能寺の変で織田信長を討ち、山崎の戦いの後土民の落ち武者狩りに遭い自刃したとされる明智光秀と同一人物説がある。この説は無理としても、それに近い人物である可能性もあるという主張は現在も引き続きなされているようだ。
そして、この天海と春日局とは旧知の間柄であったという。そんな天海のことについては、Wikipedia-天海 特にその中の異説や「明智光秀#南光坊天海説」を参照されるとよい。

参考:
※1:春日局の墓 - 私立PDD図書館
http://pddlib.v.wol.ne.jp/photo/yushima/kasuga.htm
※2:臨済宗妙心寺派麟祥院
http://www.myoshinji.or.jp/k/index.html
※3:玉輿記
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0096-28102
※4 :大奥を知る
http://homepage1.nifty.com/SEISYO/oooku.htm
※5 :フナハシ学習塾/ためになる?ページ/64・徳川幕府 大奥 の なぞ
http://homepage3.nifty.com/funahashi/sonota/hoka64.html
※6:江戸時代の筑波山信仰と物見遊山 昔も今も変らぬ男女の遊び
http://blog.goo.ne.jp/htshumei/e/b891ecfa9ffcfdaffafe13b3ee5d4560
※7:筑波山中禅寺三重塔
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/sos_tukubasan.htm
※8:江戸を大都市にした天海は、何を仕掛けたのか | 社会 | PHPビジネス Online
http://shuchi.php.co.jp/article/1389
※9:名古屋城と千代姫
http://hikaenochou.world.coocan.jp/18imagawa.html
「本能寺の変」のミステリー
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/honnnouji.htm
新説・日本の歴史第23弾/明智光秀と天海
http://home.att.ne.jp/banana/history/Dai23-Akechi.html
江戸城大奥を改新。女中3700人以上を解雇。
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/e00b53ced446843a10c7e6cabed491b0
春日局 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%97%A5%E5%B1%80


テレンス・ヤング (映画『007』初期作品の監督) の忌日

2013-09-07 | 人物
1994年09月07日は、テレンス・ヤング (英国映画監督)の忌日である。
テレンス・ヤング(Terence Young)と言えば映画007シリーズの初期の作品の監督として知られている。
英国警察長官の父のもと、1915年上海市共同租界に生まれる。
ケンブリッジ大学在学中に映画研究会に属したのがきっかけで映画界を目指すようになった。大学ではテニス・ラグビー・クリケットが得意だったという。
卒業後、A.コルダによって創立(1932年)されたロンドン・フィルムで働き、やがてルネ・クレールなどの著名監督の助監督に付き原案やシナリオも執筆するようになる。
第二次世界大戦中は、ヨーロッパ戦線(西部戦線参照)に従軍しつつ、ロンドンで脚本家、助監督を経て監督になりドキュメンタリーなどを演出。
Wikipediaによれば、テレンス・ヤングは、ヨーロッパ戦線に参加した1944年9月に行われたマーケット・ガーデン作戦に参加した際に負傷して、当時オランダのアーネムの病院でボランティアの看護婦をしていたオードリー・ヘプバーンに介護されていたそうだ。ヘプバーンは1929年5月生まれだから、当時まだ、15歳の時ということになる。
このころ、戦時中にナチス・ドイツ占領下にあったオランダで、「オードリー」という名はあまりにイギリス風であることを心配した母エッラが、自らの名前をもじってつけた名前「エッダ」(EllaをEddaとした)を使用していたかもしれない。
Wikipediaのテレンス・ヤング監督作品の中に、「Theirs Is the Glory」 (1946年)があるが、これは、後(1977年)に、リチャード・アッテンボローが映画化した「遠すぎた橋「A Bridge Too Far」)の中でも描かれた第二次大戦中最大の激戦地のひとつである1944年のアルンヘムの攻防戦を描いたドキュメンタリー映画である。
「Theirs Is the Glory」(邦題「第一空挺兵団」)は、いわば、「遠すぎた橋」の元となる映画でもあるが、この映画は見ていないものの、「遠すぎた橋」は見た。往年の名優が多数出演している名画である。
「Theirs Is the Glory」は、戦後戦いの場となった地でロケが行われ、出演者は全員この作戦に従った兵士の二個中隊で、ここに扱われた出来事はすべて事実、公式記録、目撃者の談話にもとづくものであり、また、戦闘シーンの特殊効果には実弾が使用され、独軍の装甲戦闘車両も鹵獲(ろかく。敵の軍用品・兵器などを奪い取ること)されたティーガー戦車パンター戦車の実車が使用されており、マニア垂涎(すいえん。・ 食べたくてよだれを垂らすこと。 ・ある物を手に入れたいと熱望すること。)の作品とも言えるものだそうだ。
しかし、この映画の製作スタッフは発表されていないという。なぜなら、アルンヘムに降下した一万の兵のうち、死闘ののち生き残ったのは、わずか二千だったという。そのイギリス第一空挺兵団に捧げる映画が、この映画なのだからだそうだ(※1参照。ここでは、映画の一部シーンを見ることもできる)。
テレンス・ヤングも1944年9月、西部戦線に従軍し負傷して、アーネム(またの呼び方=アルンヘム【Arnhem】.。オランダ語発音)の病院でオードリー・ヘプバーンに介護されていたというから、その真意はよくわからないが、やはり、その戦争の経験者として、事実を後世に伝えたかったのだろうね~。
その後、1947年に「Corridor of Mirrors」(邦題「鏡の回廊」)で監督デビューを果たした。この作品は日本未公開作品だそうで、私も映画を見ていないのでよく知らないが、内容はたぶんにジャン・コクトーの影響を受けた恋愛小説であり、製作はフランスでされ、16世紀の貴族の末裔の男が、16世紀の肖像画そっくりの女性と、現代に、16世紀の恋を生きなおそうとする、輪廻転生を題材にしたファンタジーだとの、映画評論がある(※2参照)。
そして、1962年に007シリーズ第1作「007/ ドクター・ノオ- Dr.No 」をヒットさせ注目される。
翌・1963年、第2作「007 /ロシアより愛をこめて - From Russia with Love」の世界的ヒットで娯楽監督としての名声を確立した。
第3作「007/ゴールドフィンガー」(1964年)はガイ・ハミルトン監督作品であるが、第4作「007/サンダーボール作戦」(1965年)は、再度ヤング監督が演出した。
007シリーズ作品は初期のこの3本だけであるが、同時代に劇場で映画を観た私たち世代の者にとっては、感慨深いものがある。
イギリス映画は、第2次世界大戦後に黄金期を迎えた。その中心的存在が、キャロル・リードデビッド・リーンの2人の監督であった。
特に、光と影を巧みに用いたリードの「第三の男」は一世を風靡した。また、リーンはメロドラマの秀作「逢びき」を発表、以後「旅情」「アラビアのロレンス」などヒット作を制作。
さらにシェークスピアの一連の戯曲を映像化したローレンス・オリヴィエ、「赤い靴」などで色彩革命を起こしたマイケル・パウエルエメリック・ブレスバーガーなど多士済々だった。
そして、1950年代には、トニー・リチャードソン監督を筆頭に登場した“怒れる若者たち”(※3参照)が、映像で階級制度に挑戦といった具合だった。
さらに、1960年代になって「007/ドクター・ノオ」を皮切りに“ジェームズ・ボンド”シリーズが誕生した。その後1990年代まで、イギリス映画は低迷するが、007シリーズは、今なお健在である。
この007シリーズ第1作・原題「Dr. NO」の日本公開は、1963(昭和38)年6月のこと。当時の日本での公開時の邦題は「007は殺しの番号」であった。
東京オリンピック開催(1964年)の前年の、1963(昭和38)年は、私にとっても忘れられない重要な年であった。この年、私は、大阪の商社に勤めていたが、当時急成長を続けていた東京の会社の仕事に私のやりたい仕事の募集があったので、意を決して再就職をすることにした。
まだ新幹線が開通する前年なので東京へは、寝台特急銀河で行った。まだ、銀河の始発は、我が地元神戸からであった。今から思えば、当時の港町神戸は日本の5大都市として、横浜と張り合うだけの力を持った繁華な町であった。
商都大阪も東洋のマンチェスター、極東のハンブルクなどとも称され,新都東京と商圏を2分する勢いのある街であり、特に繊維関係では断然大阪が東京をリードしていた時代なので、少なからぬ不安を持っての上京でもあった。そんな時に東京で初めて見た映画が、007のこの映画であった。
”My name is Bond, James Bond.” とロンドンのアンバサダー・ホテルのカジノで初めて名乗りを上げて以来、ファンに愛され続けている世界一有名なスパイジェームズ・ボンド
ジェームズ・ボンドには、任務遂行中は自分の一存で容疑者を殺めても不問にされる殺人許可証(「殺しのライセンス」)が与えられており、「007」(00セクションに所属する7番の番号を振られたエージェント)のコードネームをもつている。
彼が活躍する007シリーズ第1作「007/ドクター・ノオ」。原作はイアン・フレミングの長編小説の『007』シリーズ第6作を映画化したもの。日本初公開時の邦題は「007は殺しの番号」。タイトルだけで見たくなる。ボンド紹介の第1作としては当を得たものだ。
当初はフレミングの小説第8作『サンダーボール作戦』が第1作になるはずだったが、著作権に関する訴訟問題から暗礁に乗り上げ、SF色のある第6作『ドクター・ノオ』が選ばれたという。結果的に、米ソの宇宙開発競争や、偶然にも公開時に起きたキューバ危機などから、時事性を帯びた作品となった。
初作品だけに、後に作られたボンドシリーズものと比較すると、秘密兵器やボンドカーなどの出番もなく、アクションも地味だったが、そのコアな部分は確立している。
まず、英国情報部「MI6」に所属するエリート諜報員「007」こと、ジェームズ・ボンドの人物像である。
この主演のボンド役を演じたショーン・コネリー。大スターのケーリー・グラントリチャード・バートンらも候補にあがっていたが監督テレンス・ヤングの指名で当時ほぼ無名であったコネリーが抜擢されたという(『アサヒクロニクル週刊20世紀』1964年号38p)。
運動神経抜群で戦闘能力が高く、頭脳明晰。稀代のプレイボーイであり、ユーモアと愛嬌も併せ持つ。反面、任務達成のためには冷酷になる危うさが、ほのかに漂っている。
彼はこのボンド役に抜擢され、合計7作に出演し、知名度は世界的に上昇した。彼を抜擢した監督の慧眼に感心させられる。私なども歴代のボンド役を演じているスターを見てもぴったりの適役はやはり、ショーン・コネリーしかいないと思う。
そして、筋肉質な大型グラマーぶりと独特の美貌を買われ、初代ボンドガールとして登場したウルスラ・アンドレスが、海から白ビキニで上がってくる登場シーンは、鮮烈であった。彼女が、その後のボンドガールのイメージを決定付けた。
また、悪役のドクター・ノオ
Wikipediaによれば、ドクター・ノオは、実在する中国系の秘密結社トング(Tong)の元メンバーらしいが、原作ではその後独立し、ソ連を商売相手にアメリカの誘導ミサイル実験の妨害を行う。映画では、架空の組織スペクターの幹部であり、小説でスペクターが登場するのは、『サンダーボール作戦』からである。
映画で、ドクター・ノオは放射能の実験で両手首を失い、怪力を発揮する金属の義手を付けて登場。
ドクター・ノオは、映画ではミサイルだけでなくアメリカの月ロケットの妨害も企む。本作公開前年の1961年にケネディー大統領が、1960年代中に人間を月に着陸させると声明を行い話題になっていた。
“ジェームズ・ボンド”、“ボンドガール”、そして“悪役”と、シリーズの三拍子が、既に本作(映画第1作)から完璧な形で提示されている。
当作品の世界的好評を得てシリーズ化が始まった英国映画。第2作「007 ロシアより愛をこめて」(原題:FROM RUSSIA WITH LOVE。)。日本公開されたのは、翌1964(昭和39)年のこと。日本公開時の邦題は「007/危機一髪」。この年の洋画の中で、一番の興行成績を記録した。
原作は前作同様にフレミングの小説第5作『ロシアより愛をこめて』であるが、映画化される前に、米紙『ライフ』がケネディー大統領の愛読書と紹介して話題にもなった一冊である(『アサヒクロニクル週刊20世紀』1964年号38p)。
英国・ソ連両情報部を対立させ、その際にソ連の最新暗号解読機を盗み出そうとする国際犯罪組織スペクターに挑む英諜報部員ボンドの活躍を荒唐無稽なストーリー展開とボンドガールのお色気を絡めて描いたスパイアクション。製作は前作と同じスタッフ。
メーンタイトル登場前に仕掛けられた観客の度肝を抜くシーン、アタッシュケースに仕込まれたナイフや組み立て式狙撃銃などの新兵器類(※4参照)。更に素晴らしいテーマーソングなど、007シリーズ特有のパターンの多くが確立したのもこの第2作であった。
第2作目の日本題名の「危機一発」は、いかにもアクション映画らしいタイトルだが、映画が大ヒットしたせいか、国語のテストで「危機一髪」と正確に書けない学生も現れたとか。
第1作「ドクター・ノオ(007は殺しの番号)」では、原作を上手く活かせなかったが、第2作「ロシアより愛をこめて(007危機一発)」は大ブレイクした。ラスト30分の連続アクションは見事であった。
私は、ボンドのもっていたアタッシュケース(正式にはブリーフケースのこと)がどうしても欲しかったが、どこの店も売り切れで手に入らず、カバンを扱っている取引先に頼んで、半年以上待って手に入れたのを思い出す。このかばんを持って得意になって営業をしていた。そんな時代が私にもあったのだ。
当作品のヒットで、シリーズの人気を決定付けたが、シリーズ第3作「007/ゴールドフィンガー」は、ガイ・ハミルトン監督により、製作された。そして、この映画でさらに人気を不動のものとしたと言っても過言ではない。第1作、第2作はどちらかといえば、インテリ層に人気があったともいえるかもしれないが、この第3作によって子供まで幅広い層に人気が広がった。
オープニングのシャーリー・バッシーの歌う同タイトル曲とボンドの活躍。ボンドが世界各地を飛び回る、Qの研究室に訪れ多種多様な秘密兵器の説明とそれらの兵器を受け取る。前2作と比べると、スケールも大幅にアップし、ボンドカーアストン・マーチンも登場するなど、現在の007シリーズの基礎がこの作品である。
シャーリー・バッシーの歌う同タイトル曲は、映画と共に世界的な大ヒットとなり、一躍、彼女の名を世界的に知らしめた。アカデミー音響効果賞も受賞している。本作は1964年の世界興行収入で1位の映画となり、日本では1964年の外国映画興行成績で第3位、1965年には日本映画も含めた興行成績で第1位となった。
そして、再びテレンス・ヤング監督によって製作されたシリーズ第4作「007 /サンダーボール作戦」。本作はイアン・フレミングの小説007シリーズ第8作目であるが、イアン・フレミングとの訴訟問題で映画化権を取得したケビン・マクローリーとの交渉で、製作にマクローリーの名がクレジットされている。当シリーズては、初めて水中アクションが取り入れられた。前作「ゴールドフィンガー」から一転、再びシリアス路線に戻った。
映画好きの私は、007シリーズはほとんど見ているが、テレンス・ヤング監督作品以外のものは、ここで詳しく書くことは省略する。ただ、私が007シリーズの映画を映画館で見たのは、ショーン・コネリーがボンド役を務めた作品のみである。他は、テレビ放送などによるものである。それほど、ボンド役のショーン・コネリーにほれ込んでいたというわけだ。
テレンス・ヤング監督による映画といえば、他に、ブロードウェイで大ヒットとなったフレデリック・ノット(「ダイヤルMを廻せ!」などでも知られている)の同名舞台劇を、オードリー・ヘプバーン主演のサスペンス映画暗くなるまで待って」(1967年)、ミシェル・バタイユの同名ベストセラー小説の映画化「クリスマス・ツリー」(1967年)、イタリア・フランス合作によるサンペンス映画「夜の訪問者」(1970年)、フランス・イタリア・スペイン共作の映画で、日本映画を代表する三船敏郎とハリウッド映画を代表するチャールズ・ブロンソン、フランス映画のスターアラン・ドロンの世界3大スターが共演した異色の西部劇「レッド・サン」(1971年)、マフィアの一員、ジョゼフ・バラキによって語られた“影の政府”の正体を克明に描いたピーター・マーズのベスト・セラーの映画化した「バラキ」(1972年)、などの代表作がある。
それぞれ味のある映画ではあるが、この中で、あまり知られていないかもしれないが、ミシェル・バタイユの同名ベストセラー小説の映画化「クリスマス・ツリー」が良い。

十歳になるパスカルは、夏休みを父ローラン(ウィリアム・ホールデン)とコルシカ島で過ごした。
或る日、二人が釣りを楽しんでいた時、近くに核爆弾をつんだ飛行機が墜落した。その日から、パスカルは体の不調を訴えるようになったが、パスカルは、放射能のため白血病に侵されていた。医師は、ローランにパスカルの命はあと半年と宣告した。
ローランは、あと半年をパスカルの思い通りに過ごさせてやろうと決心し、パスカルの欲しがるものはオモチャ、トラクター、そして狼までも、すべてあてがった。
そして、クリスマス・イブの日。パスカルへの最後の贈物を買うため外出したローランとカトリーヌ(父の恋人)が帰ってくると狼たちが鳴いていた。いつもと違う鳴き声。何かを知らせるような遠吠えに、ローランはすぐに察して鳴き声のするところに急いだ。
するとクリスマス・ツリーの下に横たわるパスカル。その傍らで遠吠えをしている狼たち。ラストのシーンが感動を呼ぶ。以下でその感激シーンを見られるとよい。
「クリスマスツリー」映画エンディング – YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=cGizb_gmfqo

テレンス・ヤングは、こんな良い映画を作っている一方、「インチョン!」(1983年)という迷作に関わってしまったためにゴールデンラズベリー賞最低監督賞受賞というキャリアも持っている。
ノーベル賞は皆さんも良くご存知と思う。1901年から始まった世界的な賞で、物理学、化学、医学生理学、文学、平和、経済学の6分野で顕著な功績を残した人物に贈られる名誉ある賞である。
その対極にあるのがイグノーベル賞(英: Ig Nobel Prize)で、「イグノーベル(Ig Nobel)」とは、ノーベル賞の創設者ノーベル (Nobel [noubél] ) の名前に否定を表す接頭辞的にIgを加え、英語の形容詞 ignoble [ignóubl]「恥ずべき、不名誉な、不誠実な」にかけたもので、もじりあるいは駄洒落のたぐいであり、イグノーベル賞の受賞条件は「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」であることだという。
同賞には、工学賞、物理学賞、医学賞、心理学賞、化学賞、文学賞、経済学賞、学際研究賞、平和賞、生物学賞などの部門があり、毎年10月、風変わりな研究をおこなったり社会的事件などを起こした10の個人やグループに対し、時には笑いと賞賛を、時には皮肉を込めて授与される。
これに対して、ゴールデンラズベリー賞(英::Golden Raspberry Award)は、アメリカの映画賞で、毎年アカデミー賞授賞式の前夜に「最低」の映画を選んで表彰する。ラジー賞(Razzies)とも呼ばれるそうだ。
Wikipedia によれば、UCLAから映像製作・映画宣伝の道に進んだジョン・ウィルソンにより1981年に創設されたものだという。
初期は正真正銘のB級映画が各部門受賞を独占することが多かったが、近年は輝かしい実績があるにも関わらず、どうしようもない役柄を演じてしまった俳優や、前評判と実際の出来のギャップが著しい大作などが受賞する傾向にあるらしい。この賞自体が一種のユーモアであり、本当にくだらない、つまらない作品を選ぶ場合もあるが、一方で出来はよいが惜しい作品や、強烈なカリスマ性や異色性が強すぎて一般ウケしない作品に与えられることもあり、この賞の受賞作品が意外によく出来た面白い作品として評価されることもあるらしい。
テレンス・ヤング監督による映画「インチョン!」を私は見ていないのでどのような内容のものかよく知らないが、Wikipediaによれば、アメリカで1982(昭和57)年に公開された朝鮮戦争を題材にした映画で、タイトルは国連軍仁川(インチョン)上陸作戦にちなんでいるそうだ。
仁川上陸作戦は、朝鮮戦争中の1950(昭和25)年9月15日に国連軍が大韓民国(韓国)のソウル西方約20キロメートル付近の仁川(インチョン)へ上陸し、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)よりソウルを奪還した一連の作戦・戦闘だそうである。
仁川上陸作戦は、ダグラス・マッカーサー個人により発案された投機性の高い大規模な作戦を、マッカーサー個人の信念によって実行に移し、戦況を一変させたという。
キャストにはローレンス・オリヴィエ三船敏郎ら大スターが名を連ねたほか、監督にテレンス・ヤング、音楽にジェリー・ゴールドスミスら一流のスタッフを迎え、制作費に約4600万ドルと5年の製作期間をかけた超大作であったが、映画評論家からは酷評され、また興行的にも不振を極め、興業収入はわずか350万ドルしか得られず、約4410万ドル(約110億円)という、当時世界最悪の赤字を出した映画だそうである。
この映画にはアメリカ国防総省が1500人の軍人をエキストラとして出演させるなど協力したが、韓国側の財政的支援者に統一教会の教祖である文鮮明が、映画制作にかかわってきたことが映画作り失敗の要因のようである。詳しくは、Wikipedia -インチョン!を見られるとよい。
いずれにしても、結果として、「世界最悪の赤字を作った映画」や「最も多くの制作費がかかったB級映画」という不名誉な称号を得たテレンス・ヤング。気の毒なことをしたね~。

(冒頭の画像は映画チラシ S・コネリー「007 ドクター・ノオ」 )
参考:
※1:Theirs the glory - 戦争映画専門チャンネル
http://blogs.yahoo.co.jp/deathforce77/9220711.html
※2:「鏡の回廊」 Corridor of Mirrors 1948 テレンスヤング監督
http://blogs.yahoo.co.jp/deadcity666/29533014.html
※3:「怒れる若者たち」再考 The - 日本大学大学院総合社会情報研究科(Adobe PDF)
http://atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp/kiyou/pdf12/12-233-244-Kusuda.pdf#search='%E6%80%92%E3%82%8C%E3%82%8B%E8%8B%A5%E8%80%85%E3%81%9F%E3%81%A1'
※4:ジェームズ・ボンドの部屋&007武器庫
http://james-bond007.jimdo.com/
※5:007 Collection! (ジェームス・ボンド・シリーズ
http://loyd-theater.com/movie-collect-3/007/007.html
クリスマス・ツリー : 作品情報 - 映画.com
http://eiga.com/movie/44048/
クリスマス・ツリー | Movie Walker
http://movie.walkerplus.com/mv14009/
テレンス・ヤング (Terence Young) | Movie Walker
http://movie.walkerplus.com/person/2430/
Wikipedia - テレンス・ヤング
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%82%B0