今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ 

2011-03-27 | ひとりごと
支持率急落の菅直人内閣(以下参考の※1参照)。そもそも、自分の女房からも総理大臣になるほどの能力はないと言われていた男が、ひょんなことから総理になってしまった。
そのひょんなこととは、鳩山由紀夫首相が普天間基地移設問題で、やろうと努力していたことそのものはそれ程非難されることでもないはずなのだが(以下参考の※2参照)、それを由としない勢力や政権から引きずり落したい野党、それに同調するマスコミなどから追及されたことに始まる。
生まれつきのぼんぼんなので、少々現状認識の甘さと粘り腰のないところから、マスコミや野党からの追及に対してあのようなとんちんかんで、不味い応答や対応をしたことから、結局、この問題や政治と金の問題等もからみ、その責任をとる形で、昨・2010(平成22)年6月、民主党代表及び内閣総理大臣からの職を退く決意をすると、同じく野党・マスコミから政治と金の問題を追及されていた小沢一郎にも共に幹事長辞任を促した。
小沢も、目の前に迫る7月の参院選で勝利するためには、「いったん表舞台から身を引くことが党のためになるだろうと、これを聞き入れ、共に辞任した。
しかし、これが今日の民主党没落の最大要因になったと私自身は思っているのだが、それを書くと長くなるので省略するが、なぜそう思うかについては以下参考の※3を参照されるとよい。このブログを書いている人は、あることでマスコミの話題になった人ではあるが、私が現役時代には、会社幹部を対象としたセミナーなどで会社が講師として招いていたことのある経済面では有能な人物であり、ここに書かれている話の内容などは、私も前々から感じていたことなのである。
それはさておき、鳩山内閣が総辞職したのは2010(平成22)年6月4日のことであり、同日、民主党代表選挙が行なわれたが、これは形式的なものであり、当初より、鳩山の後継として菅を繋ぎに立てて、ここ暫くは党内の総力をあげて参議院選に勝利しようと思っていたからだろう。だから、余り世間には名前も知られていない小沢派の樽床伸二が代表選候補に名乗りを上げたが、これは、無投票で代表を選ぶと、又、野党、マスコミからたたかれるので一応対抗馬を出しただけのこと。
兎に角はこの選挙に勝利し、新代表に選出された菅が内閣総理大臣に指名されたが、菅の方はまるで自分が総理大臣になることがまるで“国民の民意”であるかのような錯覚をしたのだろう。
棚ボタ式で総理になった菅は、小沢への権力集中に批判的であった議員を要職に登用し、また前回総選挙のマニフェストの見直しなど財政健全化路線に切り替え、「政治主導」の修正もし、政策に関しても小沢の路線を転換した。
鳩山、小沢の二人が表舞台から消えたことが奏して少しは民主党の人気も回復したが、それに気をよくし、調子に乗った菅の財政健全化の一貫としての消費税率引き上げへの言及が仇となり、7月に行なわれた第22回参議院議員通常選挙では、与党過半数割れの惨敗となってしまった。
この参院選での惨敗をきっかけに、民主党内では管政権に不満を持っていた小沢系議員などが、執行部を批判するようになり、9月で民主党党首の満期となる代表選への小沢の立候補を促す動きが起こり、まだ時期尚早と考えていたはずの小沢も今回は、本気で立候補を決意した。
この小沢の出馬決意を受け、選挙後に党が分裂する危険性が高まったため、鳩山や輿石東などが、菅と小沢の間を取り持ち、小沢の復権を伴った「トロイカ体制」の確立を菅が了承するのと引き換えに小沢が出馬を辞退する、などの折衷案を提案したようだが、菅がこの提案を拒否したため、交渉は決裂。結局菅は民主党党首就任後3ヶ月で代表選を小沢と争うがこととなった。
政策面では2009マニフェスト(以下参考の※5参照)の順守、地方への紐付き補助金の一括廃止、早期の消費税率アップの反対など主張する小沢に対し、陸山会事件の刑事訴追について検察審査会の審査を受けている最中の小沢が金銭問題で取りざたされている(マスコミのアンケートなどで「政治と金」にまみれた小沢が民主党代表や首相になるべきでないとする見方・・・、マスコミはこれが国民の民意だと決めつけて、必要以上に連日報道)のを利用し、同じ民主党員でありながら、ただ自分が党首になりたいだけで、現民主党政権確立への最大の功労者とも言える小沢をまるで「政治と金」にまみれた犯罪者のように非難しまくった。
このマスコミがつくり上げたともいえる「民意」を気にした党員・サポーター票を取り込み、当初の予想とは違って勝利した菅が再選を果たした。この勝利には、小沢より菅の方が政権から引き摺り下ろしやすいと見たグループ・それに加担したマスメディアの執拗な世論操作があったと私は思っている(そのことは先に述べた※3を参照されるとよい)。
この時、小沢が党首になっていれば、当然それを望まない野党・マスコミ、それに感化された人たちが、ここぞとばかり攻め立ててくるだろうが、そのようなこと百も承知の小沢ならそのような攻撃に動じることもないだろうし、適当にあしらって、公約したことの実現に向けてもう少しましに取り組んだであろう。又、もし、たいした能力もない菅が日本の国の最高責任者である首相としてやっていきたいのなら、司馬遼太郎の古代中国を舞台にした歴史小説『項羽と劉邦』に出てくる項羽ではなく、劉邦のようにもう少し謙虚に、鳩山や輿石の提案を受け入れ、小沢お呼びそのグループからも有能な人材を抜擢し、多くの人に支えられながら、総力を挙げて、当初国民と約束した選挙公約の実現に向け努力していればもう少し良い方向に局面は展開していただろうと私は思う。
しかし、所詮、人柄によって周囲に賢人を得た劉邦のような人望など菅にはなかった。菅を担いだ反小沢の面々は、菅とはまた違った目的を持って反小沢を主張していた人達である。先ずは、菅が登用した彼らが過去どれほどの実績を残しているのか冷静に見てみれば、その後がどのようなことになるか予測も出来ただろうが・・・。
現実の組閣では、前回以上に徹底して小沢派議員を排除(1人も入閣させず)した菅改造内閣(第1次)を作り上げ、同時に党内野党をも作ってしまった。ただ、選挙直後に行われたマスコミの世論調査では、彼らが望む「脱小沢」路線の継続が評価され、内閣支持率が大きく回復し、発足時を上回った。そのことで得意になった菅は、この改造内閣を、恰好よく、「有言実行内閣」と名付けはしたのだが・・・・。
彼は、この選挙中の8月には、韓国併合100年に当たる節目の年として、韓国への謝罪を盛り込んだ談話を閣議決定として発表し、既に解決済みの問題を蒸し返し国内外から批判されている他、その後、9月に起きた「尖閣諸島中国漁船衝突事件」への対応などを見ても明らかなように、重要かつ繊細な問題に対するあまりにも稚拙な取扱により、組閣時からきわめて短期間で支持率を急落させ、その下降率は鳩山内閣をも超え、その乱高下振りをしてジェットコースター内閣と称されるに至った。私には、これは、初めから、そうなるように敷かれた路線を、そうとも知らずに走らされていたお粗末劇にしか見えないのだが・・・。その他にも菅内閣の体たらく(為体)振りを取り上げるときりがないので省略する。
日本には「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もある・・・」の有名な諺もあるが、そのような謙虚さは微塵もなく、“国民の支持率が1%になっても止めない”と、権力への執着力だけは、歴代総理の中で誰よりも強いようだ。元小泉純一郎総理の得意なセリフ「自民党をぶっ壊す」じゃないけれど、その点では、彼は小泉を超えている。もう、内閣総辞職しようが、解散をしようが、民主党が生き残る道がないと言える泥沼状態に追い込み国民の夢を見事にぶっ壊してくれた。
民主党の代表をしていた小沢自身が、民主党には若手の優秀な議員が育っては来ているものの今の民主党にはまだまだ政権担当能力が備わっていないと言って、衆参のねじれ現象で、身動きのとれない福田康夫内閣の申し入れを受け入れ大連立構想を図ったことがあったが、己の力をわきまえない他の民主党幹部がこぞって反対したため構想は頓挫した。
私なども、当時、世界の中で、唯一デフレに苦しんでいるいる日本が、ねじれ国会の中で、国民の年金や医療などの社会問題、それに、財政・経済の立て直しをやっていこうと思えば、大連立しかないと思っていたのだが ・・・。
その後、福田の後の麻生内閣が沈没し、鳩山内閣が誕生したが、国民も野党であった民主党が政権についてすぐに力を発揮できるほど特別な能力があるなどとは誰も評価はしていなかっただろう。ただ、野党であった民主党に、それまでの自民党政治(「55年体制」とも言う)の変革を期待し、政権を委ねてみたのだが・・・・。こうまで口先ばかりで何も出来ないお粗末な人たちばかりの集団であったとは思わなかった。中でも幹部に人材がいない。
そして、やっと自民党に対抗する勢力に育った民主党はお粗末な菅内閣でぶっ壊しになってしまい、来年度予算の成立もままならない状況下の今年・2011(平成23)年3月11、三陸沖震源とする未曽有の大惨事「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」が発生した。
この大地震をめぐっても、又、福島第一原発放射能漏れや、計画停電など、国民の安全に直結する問題においてさえ、落ち目の菅には、なにか政治主導の思惑やパフォーマンス的なことばかりが目立ち、ただ、ヒステリックに東京電力への責任追及をしているだけのようで、肝心なことへの対策の遅れ(特に総合対策)や、情報発信などに不十分な面が目立ち、国民の間に大混乱と不安・不満が広がっている。又、人命救助のための自衛隊の派遣をめぐっても、国防を担う自衛隊の混乱をも招くなど菅政権の無策ぶりは次々と明らかにされていった(以下参考の※6、※7、※8.※9、※10等参照)。
思い起こせば、17年前に私も、阪神・淡路大震災に遭遇しているが、あの時も、結党以来38年間政権を維持し続けた自民党が初めて野党となり、背に腹はかえられず、新党ブームで発足した細川内閣に不満を抱き、そこから離脱した社会党とも連立し、なんと社会党党首である村山富市を推し立てて自社さ連立政権内閣を発足させた。
そして、阪神・淡路大震災が発生した時には、何か白い眉毛だけが取り柄の頼りない田舎のおっちゃんといった感じの村山が総理大臣をしていたのだが、彼は、震災のあったことを知っていながら悠々と会議を続け、自民党議員から、こんな非常時に会議をしていて良いのかと注意をされたという。又、被災地への自衛隊派遣が遅れた理由に対して村山は「なにぶんにも初めてのことですので」と答弁し、国民から強い非難を浴び、内閣支持率の急落に繋がったことはよく知られている。
今回の東北地方太平洋沖地震では、村山と良い勝負の管が総理大臣を務めているが、何かとんでもない大きな災害が発生したときには、とんでもない人が、日本の最高責任者に就いている・・・、これは、偶然なのだろうか?・・・。いや、私には、そのようなどうしようもない人間を、かりそめにも国家の最高責任者に選んだ国や国民に対して、そのようなことをすればどのような結果を招くか・・、今後のこともありよく考えておきなさい・・と、天が反省を促したのではないかとさえ思いたくなるのだが・・。
冒頭の左画象は3月23日朝日新聞朝刊に掲載のやくみつるの一コマ漫画。
タイトルー「人体に影響のない数値」-、「以前の菅直人なら率先して食べてみたろうに・・・」。
放射能漏れによる野菜の汚染を取り上げて、昔、カイワレ大臣といわれたパフォーマンス男が「人体に影響のない数値」と言いながらも、首相になると命惜しさにかパフォーマンスはせずに、あっさりと、出荷停止を命じて、産地の人や消費者に戸惑いを与えている。
最後になったが、日本には「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もある・・・」の有名なことわざがある。以下参考の※11、※12などによると、出典は、「空也上人絵詞伝」にある「山川の末(さき)に流るる橡殻(とちがら)も 身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ」の歌からで、山あいの川を流れてきたトチの実は、自分から川に身を投げたからこそやがては浮かび上がり、こうして広い下流に到達することができたのだ・・・といった意味になるが、「浮かむ瀬」は原歌では、仏の悟りを得る機縁、成仏の機会の意だが、これを窮地から脱して安泰を得るという、世俗一般のこととして、このことわざは使われている。要するに、自分を大事と思って、我(が)に執着していてはなかなか道は開けてこないということなるのである(『成語大辞苑』主婦と生活社)。
菅のように権力にしがみつく有様を非難している。そのようなものに執着心をもっていれば、事態は悪化するばかりだ。権力への執着心を捨てよ、とこのことわざは言っている。菅のように権力にしがみ付き、震災対策に対する野党自民党う谷垣総裁への協力依頼のしかたにしても、自分のやり方は何も変えようとせず、自分に都合のよいように協力を依頼するやり方など見ていても、ただ無能なくせに生意気さだけが目立つ。そのような人間に一体何が出来るのであろうか。
空也(くうや・こうや)は平安中期の民間浄土教の先駆者とされている。平安時代に空海最澄が山中に築いた仏の世界は、それが多くの堂塔をもつ寺院として出現したとき、当初の願いや構想から外れた道を進み始めた。また、貴族が多面的に仏教とつながりを持つと、都の周辺には貴族の私寺が次々建てられるようになり、日本化した仏教が貴族文化を生み出すようになった。
山中の寺院も複雑な組織に発展し、その維持と管理をめぐる争いは寺院の内部を世俗化させていった、そして、僧の間でも階層の分化がはじまり、さらに、学統(学問の系列)や法流(仏教で、教えを伝える系譜。法系)などによってさまざまな流派も現れて寺内の争いは俗世間の権力争いと結びつき大寺院の動向は政治の帰趨に関わるようにさえなった。
世俗的な争いに明け暮れる僧が増える一方そうした寺院の外では、修行に努め人々を救うために活動をする僧が現れるようになる。
平安時代の寺院は国の管理下にあり、僧は現代で言う公務員であり、官僧は制約も多く、国家ために仕事に専念するしかなかった。そして、浄土思想も主に京都の貴族の信仰であった。そのような制約により、庶民の救済ができない状況に嫌気がさして官僧を辞し、個人的に教化活動する「私得僧」が現れるようになる。
良源が、比叡山興隆のため活動していた頃、庶民の間では、空也が浄土の信仰を説き続けていた。
空也は、20歳余りで尾張国分寺で出家。それ以前に在俗の仏教行者として諸国を巡暦し、交通路の整備や井戸の開掘、野に捨てられた死体を見れば念仏を唱え火葬するなど社会救済事業に力を注いだ。
948(天暦2)年天台座主延昌について受戒し、光勝の名を与えられたが、空也の名を捨てず、あくまでも民間布教者としての立場を守ったという。そのようなことから、市のと呼ばれている。その行状は、のちの一遍などの思想と行動に大きな影響を与えたという(週刊朝日百科『日本の歴史』)。
一遍の法話と言われているものの中に、「むかし、空也上人へ、ある人、念佛はいかが申すべきやと問ひければ、「捨ててこそ」とばかりにて、なにとも仰せられずと、西行法師の「撰集抄」に載せられたり。是れ誠に金言なり。」・・・とある(一遍の有名な法語、和歌参照)。
空也は皇室の出(一説には醍醐天皇の落胤)という説もある(以下参考の※13参照)が、自らの出生を語ることはなかったとされ、真偽は不明。
空也の彫像も色々な姿のものがあり、六波羅蜜寺が所蔵する立像(運慶の四男 康勝の作。)が、最も有名である(同画像)が、冒頭左に掲載の空也像は、滋賀県近江八幡市の荘厳寺にあるもので、この象は六波羅蜜寺の空也像を手本として13-14世紀ころ造られたと思われる寄木造りの像である。金鼓をさげ、右手に撞木を持ち、草履をはき、遊行の念仏僧空也の風貌を忍ばせている(週間朝日百科「日本の歴史」61)。
参考:
※1:時事ドットコム:【図解・時事世論調査】内閣支持率の推移(最新)
http://www.jiji.com/jc/v?p=ve_pol_cabinet-support-cgraph
※2:普天間基地移設問題での鳩山批判は正当か・・・とりつくろったただの利己主義的批判
http://iiyume.exblog.jp/12513975/
※3:鳩山総理辞意表明と政治とカネ問題への誤対応
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-0c21.html
※4:東北地方太平洋沖地震 - 北海道統一地方選挙・候補者紹介サイト
http://politomo.jp/hokkaido/2011/03/12/%E6%9D%B1%E5%8C%97%E5%9C%B0%E6%96%B9%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%B2%96%E5%9C%B0%E9%9C%87/
※5:民主党 web-site 民主党の政権政策Manifesto2009
http://www.dpj.or.jp/special/manifesto2009/index.html
※6:菅政権の政治主導演出へのこだわり、混乱を増幅(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110315-OYT1T00086.htm
※7:MSN-【放射能漏れ】なぜ、首相は非常事態宣言を出さないのか 依然、パフォーマンスばかり
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110315/plc11031513410030-n1.htm
※8:asahi.com(朝日新聞社):原発情報めぐり官邸後手後手 避難指示は日暮れ3時間後
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201103120582.html
※9:MSN【国内】 放射能漏れ「県民の不安、怒りは極限」福島県知事、首相に伝える
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110315-00000651-san-soci
※10:MSN 【東日本大震災】数字ありきの首相に自衛隊混乱+(1/2ページ)
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110314/plc11031401430003-n1.htm
※11:慣用句辞典 みや~みん
http://www.geocities.jp/tomomi965/ko-jien07/ma07.html
※12:その他の「ことわざ」「故事成語」など
http://www2.odn.ne.jp/kotowaza/00-HP/sub26~/sub31/sub31-1-sonota.htm
※13:寺史 - 六波羅蜜寺
http://www.rokuhara.or.jp/history/
東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)
http://www.google.co.jp/intl/ja/crisisresponse/japanquake2011.html
MSN産経ニュース:首相、活発に党内固め 鳩山氏と会談 仙谷氏ら問責可決も「支持率1%でも辞めない」
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110109/plc11010917500152-n1.htm



世界気象デー

2011-03-23 | 記念日
今日・3月23日の記念日「世界気象デー 」は、1950(昭和25)年のこの日に世界気象機関(WMO)が発足して10周年になることを記念して1960(昭和35)年に制定した国際デーの一つである。
世界気象機関(WMO)は、国際連合(略称:国連、UN)の専門機関の一つで、本部はスイスのジュネーヴにある。
地球をめぐる大気を対象とする気象業務においては、様々な分野で国際協力が不可欠であることは言うまでもないことで、気象そのものの性格として、各国が、自国領域内の気象の諸現象のみを対象としていても余り意味をなさず、各国間での情報やデーターのやりとり等を通じてこそ、より正確で完全な気象業務を遂行ができるといえるだろう。
このような気象に関する国際協力の発端は、海運の安全と効率化の観点から気象情報の国際交換の必要性が高まったことを受けて、1853(嘉永6)年にベルギーの首都ブリュッセルで開催された「海運気象会議」で各国の気象関係者が船舶の気象データーの収集に関する国際協力について初めて議論が交わされたのに始まり、陸上の気象観測データーの収集については、1872(明治5)年にドイツの都市ライプチヒで最初の会合がもたれ、これを契機に、1873(明治12)年には、各国の気象台長を構成員とする国際気象機関(IMO)がローマで設立され、日本の中央気象台長も1885(明治18)年にIMOに加わった。
しかし、このIMOは、各国気象台長の個人的な集まりである事から、政府間協定に基ずく国際機関への移行の機運がしだいに高まり、第二次世界大戦後の1950(昭和25)年、世界気象機関条約が締結され、これに沿って、世界気象機関(WMO)が設立され、翌・1951年12月20日に第6回国連総会にて承認され、同日をもって、WMOは、正式な政府間組織として、国連の専門機関として登録された。
我国は1953(昭和28)年にWMOへの加盟が認められた。昨・2010(平成22)年現在、世界189の国・地域が加盟しており、意志決定機関として、4年毎に開催される世界気象会議 (World Meteorological Congress) および、年に一度開催される執行理事会 があるようだ。又、世界気象機関は、 毎年キャンペーンテーマーを設けて気象知識の普及や国際的な気象業務への理解の促進に努めているが、昨・2010(平成22)年のキャンペーンテーマーは「安全と安心につくして60年」であった(以下参考の※1参照)。
国際的なプロジェクトとの1つである、全球大気監視(GAW) は、温室効果ガスオゾン層エアロゾル酸性雨など、地球環境にかかわる大気成分を地球規模で観察し、情報を提供する国際観測計画(以下参考の※2参照)で、日本の気象庁はメタンオゾン全量についてアジアの較正センター業務を担当している(以下参考の※3参照)。
又、オゾン層を破壊する物質の削減スケジュール等を定めた「オゾン層保護のウィーン条約」や地球温暖化防止を目的とする「気候変動枠組条約」(正式名称:「気候変動に関する国際連合枠組条約」。以下参考の※4:「外務省HP」参照)などに貢献している。
WMOは、1988(昭和6)年には、国際連合環境計画(UNEP)と共同で「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」を設立している。
ところで、WMOが最近重要な対策課題としている気候変動とは何だろうか?
気候変動という言葉は地球の気候の変化について使われる言葉であるが、気候が変動する原因には、自然の要素と人為的な原因があるが、近年の用法、特に環境問題の文脈では、化石燃料(石油や石炭・天然ガスなど)の大量消費による人為的な活動に起因する温室効果ガスの濃度上昇に伴って生ずる一連の諸問題であり、そのことが地球環境に悪影響を及ぼす地球温暖化問題である。
この地球温暖化によって大気や海洋の平均温度の上昇だけではなく、海水面上昇による海岸線の浸食や異常気象の頻発、生物圏内の生態系の変化や食糧生産の減少など二次的な諸問題まで含め人類の活動への悪影響が懸念されている(環境省:地球温暖化の科学的知見第4章:地球温暖化問題Q&A編参照。
この地球温暖化は、自然由来の要因と人為的な要因に分けられが、2007(平成19)年2月に、国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が発行した第4次評価報告書 (AR4) によって膨大な量の学術的(科学的)知見が集約された結果、「人為的な温室効果ガスが温暖化の原因である確率は9割を超える」と報告されている。また、2100 年の気温上昇は1.1〜6.4℃になるとみている(今後の気温上昇予測参照)。
ところで、「気候変動枠組み条約」って変った名前の条約だが、これは地球温暖化問題に対する国際的な“枠組み”を設定した条約であり、1992(平成4)年5月9日 - ニューヨークで採択された。国連気候変動枠組条約、地球温暖化防止条約、温暖化防止条約ともいう。
大気中の温室効果ガスの増加が地球を温暖化し、自然の生態系などに悪影響を及ぼすおそれがあることを、人類共通の関心事であると確認し、大気中の温室効果ガスの濃度を安定化させ、現在および将来の気候を保護することを目的とし、気候変動がもたらすさまざまな悪影響を防止するための取り組みの原則、措置などを定めており、前文と、26条からなる本文、それに付随する2つの附属書で構成されている(以下参考の※5を参照)。1994(平成6)年3月21日に発効しているが、日本は発効と同時に締結している。
ただ、この条約には国際的な“枠組み”を設定し・・・とあるように、この条約はあくまでも“枠組条約”(枠組み条約方式と呼ぶ)であって、条文中では具体的な義務内容は記されておらず、「地球環境を守ること」が何よりも大切なことであるから、取り敢えず、条約の一般的な枠組みだけを作成しておき、兎に角頑張ろう!(特に先進国が)といったようなもので、地球環境が破壊されない仕組みを構築するために、締約国が負うべき義務などは条約が発効してから後に協議の上で、追加議定書や選択議定書などを付属し、その明確化を図ろうというのである。
そして、1997(平成9)年12月に京都市で、気候変動枠組条約の発効以来、毎年開かれている締約国会議(COP)の3回目の会合(第3回締約国会議=地球温暖化防止京都会議)が開かれ、地球温暖化に対する初めての国際的な枠組み、つまり、2000年以降の取り組みについての法的拘束力のある数値目標を定めた『京都議定書』(正式名称は、気候変動に関する国際連合枠組条約の京都議定書)が採択された。
ここで、「議定書」という名前が使われているが、国際法的には「条約」と何ら変わらないのだが、気候変動枠組み条約が“枠組み条約方式”を採用していることから、あくまでもこの“枠組条約”を補完したもの、つまり、義務内容を明確に記したものであるということからこのような名前となっているようである。
京都議定書には、いくつかの重要な特徴があるが、要約すれば、概ね、以下の4つの点に絞られるているようだ。
○先進国の温室効果ガス排出量について、法的拘束力のある数値目標を各国毎に設定。
○国際的に協調して、目標を達成するための仕組みを導入(排出量取引クリーン開発メカニズム共同実施など。京都メカニズムの概要図は⇒ここを参照)
○途上国に対しては、数値目標などの新たな義務は導入せず。
○森林吸収源という特殊な仕組みを含んでいる(環境goo>環境用語集~環境について調べる~森林呼吸源参照)。
しかし、地球温暖化対策や京都議定書の在り方について、多種多様な議論があり、中でも、温室効果ガスの削減の具体的手法、数値目標については、各国の意見が対立する例が多いようだ。
また、この京都議定書の必要性や効果についてさえ、懐疑論(疑問視する意見)が展開されることも少なくないようである(京都議定書に関する議論参照)が、ともあれ、この「議定書」は、2005(平成17)年2月16日には、発効(国際法としての効力を持つこと。批准参照)している。
ただ、この『京都議定書』・・・。国際社会が一団となってCO2削減に取り組むという画期的な条約であることだけは良く判っているのだが、現在190近い国々が、一体どの国がどのようなことに対して責任を持ち取り組んでいるのか?・・その内容や批准(ひじゅん)状況など、なにか、その全貌が良く判らない・・・・。
昨・2010(平成22)年12月、メキシコのカンクン(Cancun)で開かれた第16回締約国会議(COP16)では、発展途上国の温暖化対策を支援する「グリーン気候基金」の設立などを盛り込んだ「カンクン合意」を採択して閉幕したようだが、合意内容そのものを評価する発言は少ないようで、議定書の延長や新たな枠組みの法的な位置付け、結論を出す時期など主要議題の多くが棚上げされ、難題は今年の、南アフリカのダーバンで行われる会議に持ち越すという基本方針のもとで、玉虫色の表現がちりばめられた合意となっているのだという。
今回の会議結果をめぐっては、「最初の期待値が極めて低かったがゆえに、どんな結果でも失望感は出ない」「それぞれが勝手に自らの主張が盛り込まれたことをもって満足といっている」といった冷静な分析があり、相当程度、これらの指摘は的を射ているだろうという。(以下参考の※6、※7参照)。
中国、インド、ブラジルといった現在経済発展の著しい国もあるのだが、このような発展途上国に削減義務を課していないことは、当初から多くの国が疑問を投げかけていた問題である他、削減義務を課されている先進国でもアメリカのように積極的に取り組もうとしない国があるかと思えば、日本のように過去に徹底した省エネと環境対策に努力をして来た国には努力の限界があるなど、それぞれのお国の事情を抱えての取り組みである。
二酸化炭素の削減には、多くのコストがかかるし、規制を強めれば産業の空洞化を招く危険性もある。
今世界的なインフレが進んでいる。統計的に見ればその主因は食料・原油価格の上昇である。そこから天候が安定し中東の混乱が収まればインフレは落ち着くとの楽観論もあるが、そうは、単純ではない。新興国の経済成長に伴なう食料・エネルギー需要の構造的拡大があり、一方供給量がそれに追いつかないという現実がある。また、新興国の賃金引上げが広がっており、インフレ圧力は食料・エネルギーの問題を超えて高まっている。賃金上昇とインフレ圧力が悪循環している。新興国が低賃金を武器に輸出企業の成長を続けており、輸入国は安く輸入したものを大量に消費する。それが、エネルギー消費に繋がり環境面では、地球温暖化にも繋がってゆくなど複雑な要素がある。いくら環境のためとは言っても、経済の発展・向上を疎外してまでなかなか行ないえないのが現状である。
森林植生も長い眼で見て有効的であるが、日本のように国土に限界があるところでは、なかなか理想通りにはゆかない・・・。日本の苦しい立場は外務省のHPでのぼやき “京都議定書に関する日本の立場(平成22年12月)を見ても良く判るよ。
リーマンショック以降財政面の難しい問題を抱えている国々が、お国の事情や利害の垣根を超えて、共同してこのような環境問題を改善してゆこうというのは今の時代本当に大変なことだろうと思う。
私も余り、このような面を特別に勉強したわけではないので、この機会に、地球温暖化と京都議定書のことについて、もう一度勉強し直してみよう。以下参考に記載の※8、※9など見てみるとよくわかりそうだ。
(冒頭の画像は、WMOの旗。Wikipediaより)
参考:
※1: 世界気象デー 気象庁 | 平成22年3月12日報道発表資料
http://www.jma.go.jp/jma/press/1003/12b/wmo100312.htm
※2:世界気象機関 全球大気監視プログラム(PDF)
http://gaw.kishou.go.jp/qasac/report/gaw172_j.pdf#search='全球大気監視プログラム'
※3:世界気象機関:全球大気監視較正センター
http://gaw.kishou.go.jp/wcc/wcc_j.html
※4:外務省HP:外交政策>地球環境>気候変動
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kankyo/kiko/index.html
※5:地球産業文化研究所(GISPRI):地球環境関係
http://www.gispri.or.jp/kankyo/unfccc/index.html
※6:COP16 「カンクン合意」採択して閉幕 難題は先送り
http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/environment/2778824/6571055
※7:ECO JAPAN TOPICS:課題の多くを棚上げしたCOP16、「カンクン合意」は前進か
http://eco.nikkeibp.co.jp/article/column/20101215/105521/
※8:地球温暖化
http://www.asahi-net.or.jp/~zi9n-ymgs/gw/gw.html
※9:京都議定書ほんとの基礎知識1[ビジネススキル・仕事術]All About
http://allabout.co.jp/gm/gc/293391/
JCCCA 全国地球温暖化防止活動推進センター
http://www.jccca.org/
環境省: 地球温暖化の科学的知見
http://www.env.go.jp/earth/ondanka/knowledge.html
気象庁サイトマップ
http://www.jma.go.jp/jma/kishou/sitemap.html
外務省: ウィーン条約/モントリオール議定書
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kankyo/jyoyaku/ozone.html
EICネット[環境用語集:「世界気象機関]
http://www.eic.or.jp/ecoterm/?act=view&ecoword=%C0%A4%B3%A6%B5%A4%BE%DD%B5%A1%B4%D8
インターネットで読み解く!「京都議定書、本当の問題点を言おう (2005年2月)
http://dandoweb.com/backno/20050220.htm
世界気象機関 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%B0%97%E8%B1%A1%E6%A9%9F%E9%96%A2

須磨浦山上遊園 にカーレーターが開業した日

2011-03-18 | 歴史
1966(昭和41)年3月18日、須磨浦山上遊園の ロープウェイ鉢伏山上駅と回転展望閣の間にカーレーター(冒頭の画像参照)が開業した。
カーレーターとは、山の斜面を複数のゴンドラ(二人がけの座席)を、斜面にしかれたベルトコンベアを使って運ぶことによって、人を運ぶ、登山用交通機関(システム)である。従来のベルトコンベアやエスカレーターと違い、途中で速度の変化する、ベルトコンベアによる人の輸送方法として、1960年頃にベルトコンベア製造会社である日本コンベヤ(以下参考の※1参照)により開発された。
須磨浦山上遊園に開設されたものの他、これより1年早い1965(昭和40)年に、滋賀県大津市木戸にあるスキー場びわ湖バレイに開設され全長約2kmのカーレーターが約23分で山ろくと山頂を結び、多くの人を運んでいたが、このシステムは設備が大がかりな割には輸送能力がリフトとあまり変わらない、乗り心地が悪いなど、様々な問題があり、あまり普及せず、カーレーターが導入されたのは日本どころか、世界でもこの二ヶ所だけであった。
さらに、その設備の大がかりさゆえに、老朽化するのが早く、維持費がかさむこともあって、1975(昭和50)年10月、びわ湖バレイのカーレーターが廃止され、代わってゴンドラリフトが開業。そのリフトも2008(平成20)年には、大形ロープウエイに切り替えられているため、今では、日本、いや全世界で唯一、須磨浦山上遊園にのみカーレーターが存続していることになる。
須磨浦山上遊園は、我地元・兵庫県神戸市の須磨区須磨浦公園内にあるので、先ず、その須磨浦公園の説明を簡単にしておかなければいけないだろう。
須磨浦公園は、記紀の日本列島の国産みの神話に登場する淡路島を望む鉄拐山、八伏山(いずれも六甲山地の山)を含む傾斜地と海岸沿いの松原から形成された景勝地であるが、ここは、もと御料林(皇室財産土地)であった鉄拐、鉢伏山地(約80ha=ヘクタール,約80万㎡)を、1924(大正13)年に昭和天皇御成婚記念として、また、1934(昭和9)年には、国道沿いの松原(約8ha=8万㎡)の有償払い下げを受けて後、整備し、1935(昭和10)年に、面積約103.8haの公園として開設されたものであり、開堰当時から黒松・染井吉野の植栽が行なわれ、現在は公園の主要な景観を構成している。公園は、神戸市が管理・運営しており、24時間入園可能で、入園料は無料である。
歴史的には有名な『源氏物語』の須磨の帖や源平一の谷の合戦の舞台として知られ, 園内には「敦盛塚」をはじめ史跡や碑がたくさんある(以下参考の※2、※3参照)。さらに現在は桜の名所として知られ、春にはふもとから鉢伏山の山頂まで約3,200本の花でおおわれみごとである。また、「日本の名松100選」にも選ばれるほどの美しい松も楽しませてくれる。そして、園内には、六甲全山縦走路(以下参考の※4:「六甲山麓」の六甲全山縦走を参照)が通っており、ハイキングする人のための登山道や周遊路も整備されている。
須磨浦山上遊園は、この六甲山系の西南端にある・鉢伏山と旗振山(鉢伏山頂より北、尾根道を少し〔6~7分〕歩いた先にある。旗振山は鉢伏山よりも標高が高いにもかかわらず一般の地図には記載されることは少なく、鉢伏山の一部のような扱いになっていることが多い。位置関係や山の名の由来などは以下参考の:※4「六甲山麓」の旗振山を参照)の山頂一帯に広がる須磨浦公園内の植物園・遊園地を含む緑ゆたかな公園であり、1959(昭和34)年に開園し、山陽電鉄グループの須磨浦遊園㈱が運営・管理している。
須磨浦公園には、山陽電鉄の須磨浦公園駅があり、同駅ホームに直結(乗降口は駅の直上)した須磨浦ロープウェイに約3分乗り、駅に着くと、今やここだけにしかないカーレーターに乗り換えられる。ベルトコンベヤーに取り付けられた2人乗りの椅子に乗り継ぎ、ガタゴトと全長 91m、25度の急勾配を、ゆすられながらゆっくりと登ってゆくと須磨浦山上遊園山頂エリアに着く。しかし、冒頭でも書いたように、決して、乗り心地の良い乗り物ではない。
ただ面白いのは、須磨浦山上遊園のホームページのカーレーターについての施設情報“に、ちゃんと、以下のように断り書きされていることである。
“カーレーターはロープウェイ山上駅と回転展望閣を結んで、昭和41年3月に開通いたしました。その姿も当時のままで、「乗り心地の悪さ」が評判です。
「いもむし」に乗った感じをお楽しみください。
なお、振動がありますので、体調の優れないお客さま、また、妊婦の方は平行してあるハイキングコースをご利用ください。“・・・と。
びわ湖バレイのカーレーターでは、全長約2kmと長かったため、ガタガタとよく揺れる乗り物に23分も乗っていると非常に疲れると評判が悪かったようだが、須磨浦山上遊園の場合は、路線距離は91m 、所要時間も約2分と短いので、むしろ、今の時代に、日本一ダサイ、乗り心地の悪い乗り物を経験して見るのも面白いのではないか。
当園もそれを売り物にしてのであるから・・・。それが厭なら、絶景の景色を楽しみながら脇にあるハイキングコースを登ればよい。兎に角、須磨浦公園内は何処を歩いても無料なのだから・・・。
ただ、カーレーターには、“ベルトコンベアを使用しているため、大量輸送を得意とするのはもちろん、従来のベルトコンベアや動く歩道、エスカレーターなどと違い、乗るときはゆっくりとしたスピードで動くが、途中から速くなるという、「速さの変化するベルトコンベア」であるため、非常に輸送効率が良いとされている。また、乗り場では、ゴンドラの動く速さをある程度調節することができるので、高齢者や小さい子供も乗り降りしやすいようになっている・・・といった特徴も知っておいてよね。ただ、輸送効率が良いといってもその実力を発揮できるほの搭乗者が今はいないのが残念だけどね(^0^)。
カーレーターが着いた山頂エリアには須磨海岸紀淡海峡それに、六甲山地まで360度のパノラマを楽しめる回転展望閣や林間の散策路があり、さらに観光リフトで谷を渡ったところにはふんすいランド、サイクルモノレール等が設置された遊園地がある。
園内の様子は右マップを参照 ⇒ 須磨浦山上遊園:園内マップ
兎に角、施設の殆どは開園時(1959年)からのものであり、昨・2010(平成22)年の6月23日付け朝日新聞・「ますます勝手に関西遺産」の特集:“須磨浦山上遊園”にも取り上げられていた(以下参考の※5:「asahi.com:ますます勝手に関西遺産」のここ参照)通り、今では、何処の遊園地にもあるようなジェットコースターもなければ、愛らしいマスコットもいない。電飾きらめくものも、パレードもない。それに、広い敷地に乗り物はわずかしかないが、回転展望閣の1階レストルームには、1960年代~1980年代に流行ったジュークボックスが、 2階ゲームコーナーには、インベーダーゲームが設置されているなど、昭和レトロ感を楽しむことができるところだ。関西では2001(平成13)年開業のユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)に人気が集中する一方、甲子園阪神パーク宝塚ファミリーランド神戸ポートピアランド近鉄あやめ池遊園地などの、身近にあった私鉄系の遊園地が相次いで閉鎖に追い込まれるなど、遊園地を取り巻く環境は厳しい中、来園者数も少しは増えているらしい。今日もこのブログを書くので、検索してみると、この記事が利いたのかどうか知らないが、この乗り心地の悪いカーレーターに乗って、それを楽しんでいる人達の声を聞くことが出来たのが嬉しい。良く言うところの逆張りの商法だろうが、何でも規模の豪華さと新しさに誘われてそれに引っ張りまわされている内に、気がついてみると今まで楽しんで来た施設がなにもなくなってしまっていることに気がついてももう遅い。それは、そんなムードに誰もが振り回されていること自体にに問題があるのだが、そんな浮ついた世の中で、時代遅れを逆手にとってしぶとく頑張っているところなど同じ関西人として賞賛の拍手を送りたい。
回転展望閣の西には、名所として知られる梅林、ハマナス園、フジの園といった植物園が広がっており、素晴らしい景観と季節の花などのんびりと散策しながら楽しめるところが一杯ある。ただ乗り物に乗って遊ぶだけではなく、素晴らしい景観や花などが無料で楽しめる遊園地など今の時代素敵なのではないだろうか。そして、時代遅れのカーレーターに乗って楽しむ心のゆとりもあって良いと思うのだが・・・。
この周辺には須磨離宮公園 や歴史が古いにもかかわらずとてもユニークで面白いものも見られる須磨寺神戸市立須磨海浜水族園なども有るので時間があればついでに立ち寄られるとよい。
(冒頭の画像は、須磨浦山上遊園のカーレーター。Wikipediaより)
参考:
※1:日本コンベヤのウェブサイト
http://www.conveyor.co.jp/
※2:須磨観光協会
http://www.suma-kankokyokai.gr.jp/
※3:神戸観光壁紙写真集:須磨区
http://kobe-mari.maxs.jp/kobe/index_115.htm
※4:六甲山麓:サイトマップ
http://www62.tok2.com/home/rokkousanroku/sightmap.html
須磨浦山上遊園
http://www.sumaura-yuen.jp/
※5:asahi.com:ますます勝手に関西遺産
http://www.asahi.com/kansai/travel/kansaiisan/
カーレーター - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC
須磨浦カーレーター
http://ochaplarail.web.fc2.com/sumaura.htm

トイレの神様

2011-03-10 | ひとりごと
トイレ掃除だけが苦手な私に
おばあちゃんがこう言った

トイレには
それはそれはキレイな女神さまがいるんやで
だから毎日キレイにしたら
女神さまみたいにべっぴんさんになれるんやで

植村花菜「トイレの神様」の歌詞の一部である(歌詞は以下参考の※1参照)。
植村花菜による楽曲「トイレの神様」は、昨・2010(平成22)年3月10日に発売された通算5作目のミニアルバム『わたしのかけらたち』(以下参考の※2参照)に収録されているリードナンバーであり、同アルバム収録曲の「トイレの神様」がラジオ等で取り上げられ、広く支持された事から同年11月にはシングルカットされ、12月30日の第52回日本レコード大賞で優秀作品賞および作詩賞を受賞し、翌12月31日には「第61回NHK紅白歌合戦」で披露されたが、曲の長さが約10分(アルバム、シングル収録のトラックでは9分52秒)におよぶ同曲は、紅白では、今までの他の出場歌手の歌の長さに比べて長すぎるので問題となったようだが、余り短縮するとこの曲の趣が半減されてしまうということもあり、8分弱に短縮された紅白バージョンを歌ったようだ。
この歌は彼女自身と亡き祖母との思い出を綴ったもので、ふたりが一緒に生活した小さなころ、素直になれなかった思春期、突然訪れた別れ、そして2年、おばあちゃんは亡くなった。自分を育ててくれたおばあちゃんに恩返しができなかったことを後悔し歌う。小学校3年生から23歳頃までの実体験をベースに、植村花菜が作詞・作曲し、自ら歌い表現した感動作である。余り感動的な歌を聞くことが少なくなった今、久しぶりに内容のある実に良い歌だと思う。
しかし、今日「トイレの神様」をテーマーに書こうと思ったのは、誰もが良く知っているこ歌「トイレの神様」のことではない。
実は、仏教における信仰対象であり、密教特有の尊格である明王(如来の変化身)で、天台系密教(台密)において、明王の中でも特に中心的役割を果たす五大明王とされている中の一尊に烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)がいる。
烏枢沙摩明王は、人間界と仏の世界を隔てる天界の「火生三昧」(かしょうざんまい。以下参考の※3用語集参照)と呼ばれる炎の世界に住し、人間界の煩悩が仏の世界へ波及しないよう聖なる炎によって煩悩や欲望を焼き尽くす反面、仏の教えを素直に信じない民衆を何としても救わんとする慈悲の怒りを以て人々を目覚めさせようとする明王であり、古代インド神話において元の名をウッチュシュマ(Ucchuṣma)、或いはアグニと呼ばれた神だそうであり、この世の一切の汚れを焼き尽くす」功徳を持ち、仏教に包括された後も「烈火で不浄を清浄と化す」神力を持つ明王ということから、心の浄化はもとより、日々の生活のあらゆる現実的な不浄を清める功徳があるとして信仰されてきたようだ(Wikipedia)。
以下参考の※4:「東福寺ブログ-烏蒭沙摩明王札」にも書かれているように、烏蒭沙摩明王の功徳には特に「東司(とうす)」の清めがあると言われているようだが、東司とは、仏教寺院における便所のことを言い、便所は「御不浄」などと言われ、古くから「怨霊や悪魔の出入口」と考える思想があった。そのような不浄な便所を、明王の炎の功徳によって清浄な場所に変えるという信仰に結びついたようだ。
不浄とされている便所を綺麗に掃除すればその大きな功徳(普遍的に意味のある善行為)として、心の浄化と共に、不浄なものをすべて取り去り、清浄な心と、体を得る事が出きるのだという仏教の教えは、十分に納得の出来る教えであり、昔から、お寺などでは、トイレ掃除はとても大切な仕事として修業僧のトップが率先してやってきたことだと聞いている。
「トイレの歌」の中で主人公は、おばあちゃんにトイレを綺麗にすると美人にしてくれるという女神様がいると教えられ育つが、それを実行して、実際に、トイレの神様がいるのを知ったのである。
そういえば、故渥美清主演の映画「男はつらいよ」のシーンを思い出した。
調べてみると、その映画は、1980(昭和55)年公開の シリーズ第26作「男はつらいよ 寅次郎かもめ歌」 であった。
死んだテキ屋仲間の娘すみれを柴又に連れてきてすみれの望み通り定時制の夜間高校へ通わす渥美演じる寅さんと“とらや”の人々の暖かい人情物語だった。寅さんも心を惹かれるすみれと一緒に受験のときから学校へ通うようになるが、松村達雄演じる夜間学校の先生が国語の授業で詩を朗読する場面があった。
それが、福井県生まれの詩人・濱口國雄(以下参考の※5参照)の「便所掃除」という詩であり、うろ覚えなのでネットで詩を調べた結果を書くと、詩の最後は、「便所を美しくする娘は 美しい子供をうむ といった母を思い出します 。僕は男です 。美しい妻に会えるかもしれません 。」・・・であったか・・・。この詩の全文は以下で見てください。
濱口國雄作詞「便所掃除」 ⇒ http://naha.cool.ne.jp/stssm/benzyosouzi.html
濱口國雄は、第二次世界大戦後、復員すると、1947 (昭和22) 年に、国鉄(現JR)に就職(関西線王寺駅勤務だったらしい)。国鉄詩人連盟(以下参考の※6参照)に参加。この『便所掃除』の詩は、当時の国鉄の便所掃除をしていた労働者の詩であり、1956(昭和31)年に国鉄詩人賞を受賞したものだそうだ。
日本人は昔からどうも公共の施設などはあまり大切にしない嫌いがあった。そのため、多くの人が使用する国鉄時代の駅のトイレは、非常に汚かった。仕事とはいえそんな便所を掃除するのは辛かっただろうと思うが、この詩を読んでいると、そんな汚い便所を一生懸命掃除していくうちにピカピカになって心も磨かれていく思いがする。
こんな国鉄駅構内の便所だけでなく、デパートや飲食店などの便所があるときから本当にきれいになったが、その先鞭をつけたのが、旧JRである国鉄であった。
1987(昭和62)年4月、国営の国鉄が法律によってJR7社に分割・民営化された。
そんなJR各社がまず取り組んだのが、利用客に対する挨拶とトイレの清掃であった。民営でなかった国鉄時代は、余り、利用客へのサービス精神もなかったが、そんな国鉄マンの意識改革としてはじめられたものであった。これが、民営化したJRの経営にも良い結果として繋がった。このことが広く世間に知られる様なると、私が現役時代勤めていた会社でもJRを見習えと会社のトイレ掃除を徹底するようになった。最初は嫌がっていた従業員も、慣れてくると、トイレが綺麗であることに誇りを持つようにさえなった。
しかし、昔から、良く出来た人などは、人が手を抜きそうなところを良く見ているもので、私が子供の頃、母の友人で家に来ると必ず最初に、「はばかり(憚り)を・・・」といって便所へ行く人がいた。どこへ行っても同様のことをしているらしく、厭な人だな~と思っていたが、その人にしてみれば、その家の便所をみて、その家の人物を評価していたようである。
私が、成人し、大阪の商社へ入社したとき、配属先の部長から、先ず最初に言われたことは、心構えとして「洋服は古くても良いが、靴だけはいつも手入れしてピカピカに磨いておくように・・・」だった。それも人を見る目のある大阪商人は、人が手を抜きそうなところをしていないとちゃんと見抜くので、表面的なところばかりでなく、細かいところに心を配れということで、トイレの清掃を手抜きしないのと同じ理由だ。
「トイレの神様」の歌は、人のなすべきことを教えている良い歌だ。以下で、聞けるので改めて聞いてみようかな・・・。
YouTube-トイレの神様 ・ 植村花菜
http://www.youtube.com/watch?v=yauc7_hbgEk
(画像は宝山寺の烏枢沙摩明王。Wikipediaより。)
※1:トイレの神様 植村花菜 歌詞情報 - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND88524/index.html
※2:【わたしのかけらたち 】植村花菜 : 試聴とダウンロード - listen.jp
http://listen.jp/store/album_kizc59.htm
※3:用語集
http://www6.plala.or.jp/housyou/0-yougo1.htm
※ 4 :東福寺ブログ-烏蒭沙摩明王札
http://blog.zaq.ne.jp/riyos/article/284/
※5:金沢の作家-石川県ゆかりの文学者 施設案内(石川近代文学館)
http://www.pref.ishikawa.jp/shiko-kinbun/info/novelist-02_03.html
※6:国鉄詩人連盟について
http://www.asahi-net.or.jp/~bh7y-isd/nrup/nrupdoc.htm
男はつらいよ 寅次郎かもめ歌 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD4610/index.html
烏枢沙摩明王 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%83%8F%E6%9E%A2%E6%B2%99%E6%91%A9%E6%98%8E%E7%8E%8B
トイレの神様 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%81%AE%E7%A5%9E%E6%A7%98


鯖すしの日

2011-03-08 | 記念日
日本記念日協会の今日3月3に8日の記念日に「鯖すしの日 」があった。
記念日の由来によると、滋賀県木ノ本町の北国街道(第二の鯖街道)沿いにあり、創業100年を数えるという老舗のすし店「すし慶」が制定したそうだ。初代より「鯖の棒すし」を作り続けている同店がそのおいしさや健康食品としての魅力をPRしたいからで、日付は3月8日を「サバ」と読む語呂合わせから だそうだ。
同店のホームページ(以下参考の※1参照)へアクセスしてみるとなかなか素敵なお座敷、日本庭園、そして、ギャラリーまで備えた魅力的な店舗のようだ。
北国街道は、江戸時代における北陸道の呼称であり、滋賀、福井、岐阜を連絡する街道であり、木之本町は、中山道・旧鳥居本宿(滋賀県彦根市)を起点に、米原、長浜を通って越前に至る北国街道沿いの宿場町として栄えた町。木之本地蔵院の門前町の古い庄屋や造り酒屋が並ぶ街道沿いは宿場の面影を色濃く残している。その街並にある同店の外観などは以下のYouTubeの最後の方で見ることが出来る。
YouTube - 北国街道~木ノ本地蔵院と門前町~
http://www.youtube.com/watch?v=M6W3bAk8tK4
「鯖すし」とは、サバを用いて作られる 棒すしの一種、または鯖のなれすし(熟れずし、馴れずし)のことである。近畿地方から中国地方(山陰から山間部にかけて)に広くみられる。若狭(福井県)や山陰地方、岡山県新見市などの郷土料理としても有名である。長方形に固めた酢飯の上に塩鯖の半身をのせ、出汁昆布で全体をくるみ、巻き簾で形を整えた後、竹皮で包んだ物である。バッテラとは異なり、型に入れる作業がない。山陰や若狭地方では焼いた鯖を乗せたものもある。
この鯖すしは、有名な京料理の一つでもあり、京都の庶民生活の中で祭りの日やハレの日の食卓に欠かせない御馳走であった。
海に囲まれた島国に住む日本人は古来、魚介類の好きな民族であるが、冷蔵技術が発達する以前に、海から遠く離れていて、交通機関も発達しておらず、新鮮な魚を手に入れることが困難であった内陸部の京都の人々にとって、鯖街道を通り若狭地方から運ばれてきたひと塩ものの鯖が貴重な海産物であり、この鯖を利用したすしが定着した。鯖すしはそうした時代の名残をとどめており、鮮魚が豊富に手に入るようになった現代でも、鯖すしが、京都のすしの代表であることに変わりはない。
ところで、ここでは、あえて「すし」の字に、漢字を使用していないが、「すし」の漢字には、「鮓」、「鮨」、「寿司」などの字が使われるが、「「すし」の字の日本における文献初見は、古く、651(白雉2)年に制定された大宝律令に続く律令として718(養老2)年に施行された同法の修正法『養老令』(養老律令参照)の調・庸などの賦課基準や品目、力役の賦課基準や徴発手続き等を定めた巻十「賦役令」(現在の租税法に相当)に、「鰒(アワビ)の鮓(すし)、貽貝(イガイ)の鮓のほかに雑魚の鮨(すし)」が見える(以下参考の※2::「官制大観」の現代語訳「養老令」の中の第十賦役令中01〜14条の中の01のところを参照)ように、昔からの「すし」の字には、「鮓」または「鮨」が使われている。
この「すし」という文字の中で、最古のものが「鮨」で、「魚を塩漬けした食品」(=魚の塩辛)を意味する文字として、中国の秦の時代(紀元前300~400年頃)の中国の辞書『爾雅(じが)』に登場しているという。
又、後漢(西暦100年頃)の『説文解字(せつもんかいじ)』と言う辞書に「鮓」の文字が登場し、「魚を塩で醸したもの」だと説明されているようだ。そして、その少し後、後漢末期(西暦200頃)の劉煕(りゆうき)撰『「釈名(しゃくみょう)』には、「塩と米を使って魚を葅(そ=つけもの)のようにつけて終わってから食べる」と言う意味のことが書かれているらしい(以下参考の※3:「京都と鮨・朱雀錦」参照)。従って、『養老令』に出てくる「すし」もこれと同様に魚肉や貝類を塩漬け発酵させた保存食であったようだ。
これは、現在我国の寿司で最も原始的な作り方を残す「なれすし」である滋賀県の名産鮒すしの原型とも言える食品のようで、米はあくまでも発酵用の素材であり、鮒ずしと同様、飯は捨て、魚だけを食べていたようである。
「なれ鮓」は中国貴州省など、東南アジア内陸部山間地で保存食として作られていたといわれる。魞(えり)(魚編に入る 1文字)の漁法(以下参考の※4参照)とともに6世紀以前に大陸から渡来したと推定され、古代には湖北に近い筑摩(つくま)の御厨(彦根市米原町の湖岸一帯)が本場であったそうだ。
滋賀県大津市の老舗阪本屋(以下参考の※5参照)は鮒ずしの老舗として有名であるが、本式の鮒鮓は飯と魚を樽一杯に1年近くも漬け込む「なれずし」で鼻を突く乳酸菌の臭気のため、普通の人の口には到底合わない。だから阪本屋でも今出しているのは今風にアレンジした臭み抜きの寿司で、中世の人々が無上の美味として賞賛した鮒鮓とは違う。
産卵のため湖岸近くに寄ってきた鮒を大樽に米飯と共に漬け込むのである。それが一冬を越すと、飯はもとより鮒の骨まで発酵して柔らかくなる。それが鮒鮓である。
中世には鮒鮓は近江一円は勿論のこと、京都の町衆にも親しまれ、宮中の食膳にも供せられていた。近世に入ると、若狭の塩鯖を材とした鯖鮓が一般的になり、鮒鮓は今では琵琶湖の人々にも敬遠されているようだが、この鮒を売り捌いたのが、湖西の堅田地方の漁師や粟津供御人たちであった。粟津供御人は、現在の大津市内の、琵琶湖が宇治川に注ぎ込む咽喉元に位置する地域の漁民・魚売りであり、平安後期より関銭免除の特権をあたえられ、京都で魚を販売。生鮮魚介類からはじまって、戦国時代には日常必需物資の専売権を入手し、ついには京都に於ける総合商社のような存在にのし上がったという。(週間朝日百科『日本の歴史20』中世Ⅱー9琵琶湖と淀にの水系)。
「なれずし」は漬け込んだ米を食べるか食べないかという点で「ほんなれ」と「なまなれ」に分類される。「ほんなれ」では漬け込む期間が長く(数ヶ月から1年近く)、魚の体内体外に一緒に漬け込まれた米が乳酸発酵によって流状化して米粒の実体がかなり失われることもあって、米は食べずに魚のみを食べる。「なまなれ」は漬け込む期間が短く、魚と一緒に漬け込まれた米が流状化する前に米も魚と共に食する。伝来当初の「なれずし」は熟成期間の長いもので「ほんなれ」と呼ばれているものであった。室町時代になってから発酵(熟成)期間を数日に短縮した「なまなれ」(またはその中間の半なれ)と呼ばれるものがつくられるようになり、酸っぱい米飯も食材と一緒に食べるようになり、保存食から寿司という料理へ変化した。この「なれずし」が、江戸時代になって酢が出回るようになると、もはや発酵を省略し、飯に酢を入れて酸っぱくし、シメサバなどを使った押し寿司や箱寿司が作られるようになった。
鯖街道とは、若狭国などの小浜藩領内(おおむね現在の嶺南に該当)と京都を結ぶ街道の総称であり、主に魚介類を京都へ運搬するために整備された物流ルートとなっており、その魚介類の中でも特に鯖(サバ)が多かったために後にこの名で呼ばれるようになった。
小浜の町人学者である板屋一助が1767(明和4)年に著した『稚狭考』には、本来は能登沖の鯖が有名で、それが獲れなくなり、若狭の鯖が有名になったということのようである。それらを運んだ鯖街道はいくつかのルートあるが、その中でもっとも盛んに利用されたのが若狭街道(現在の福井県小浜市から京都市左京区出町柳)つまり、小浜、を出発し、熊川宿、朽木村(現:滋賀県高島市)、途中 (大津市。途中越参照)、大原、出町に至るまでルート(概ね国道27号・国道367号あたり)を言っているが、往時の鯖街道は現在の国道367号ではなく、大見尾根を経由する山道であった。この道では大きな荷物を馬借による輸送が行われていたようだ。
街道はほかにも、小浜から北川の水路を使い馬で峠を越え九里半街道から琵琶湖の今津に至るルートのほか、最短距離の針畑峠(小浜市上根来・滋賀県高島市朽木小入谷)を越え、鞍馬を経由し出町に至る針畑越え(小浜街道)や堀越峠
を越えて京都高尾へとつながる周山街道、美浜町(現在:若狭町)から滋賀県赤坂山の山腹にある栗柄峠を越えて海津(高島市マキノ町)へ抜ける栗柄越え(西近江路)と京都を繋ぐ街道など全てが鯖街道であり、ルートにはそれぞれ固有の呼び名がある。(以下参考の※6:「田村長ホームページ」参照。そこには詳しい鯖街道繪図と説明がある)。
中でも小入谷、根来坂、針畑峠、久多(京都市左京区久多)、花背峠、鞍馬、出町柳へと続いた針畑峠越えの最短距離のルートが最も古くから、よく利用されたとも言われ、江戸期までは「若狭路」といえば、このルートを指していたようだ。
牛や馬では通れない山道が多い地域では、若狭湾で獲れた鯖にひと塩したものを人が背負子(しょいこ)に担いで、徒歩で京都まで運んでいたが、最短距離のルートである針畑峠越えのこの街道でも、京都まで18里(約72km)と、遠く、しかも起伏の激しい山道で、標高900m前後の峠を4つ越えなければならない難所の多い道。「京は遠ても十八里」を合言葉に寝ずに歩き通し、翌朝、京都に着く頃には、塩になじんだ鯖がちょうど良い味になり、都の人々に喜ばれその到着を待ち焦がれていたと言われているが、この頃は、一人で担げる荷物にも限りがあり、輸送のコストも考えると、上流階級や金持ちの町人にしか買えない高価な食材であったと推定される。
しかし、江戸時代になり、若狭街道(現在の国道367号線)が開通すると、荷車の運行が可能となり、当時としては大量輸送が可能となった。 また、18世紀半ばから日本海で鯖が大量に捕れるようになり大量の塩鯖が若狭地方から京都に運ばれたことから塩鯖は高級食材から、庶民の食材に変わった。
現代の鯖寿司は、新鮮な鯖の旨味をいかにして引き出し、持続させるか、という試行錯誤の末に生まれた寿司だといえる。
鯖は「サバの生き腐れ」と呼ばれる程鮮度低下の速度が速く食あたりの危険性のある魚である。これは、サバの持つタンパク質分解酵素が強いため、死ぬとすぐに自分の体を分解し、中毒を起こすヒスタミンを生じさせることが原因だといわれている。そのため、水揚げされると即座に塩漬けにされることも珍しくなかったようだ。
若狭から鮮魚の入荷が困難であった京都へ、陸にあげられた鯖に塩をまぶしたものが、「鯖街道」を夜通し歩いて京都まで運ぶと丁度よい味に漬かったことから、京都で、塩鯖を使った料理が研究・開発された料理が鯖寿司であった。そして、 特に三大祭(葵祭り、祇園祭り、時代祭り)にはなくてはならない料理になり、全ての家庭で鯖寿司が作られたと言われている。
私は、子供の頃から魚嫌いであり、殆どの魚を食べなかったが、中でも嫌いだったのが鯖などの背の青い魚であった。成人しても若いうちは食べなったが、仕事で、全国を出張するようになると、地元の旅館や料亭で、こわごわ、地元の魚料理を食べるようになると、その美味しさに、徐々に魚アレルギーが治っていった。
最後まで食べなかった背の青い魚・鯖を初めて食べたのは、金沢であった。仕事場に近い地元の人が良く使う旅館を仕事先に紹介してもらったのだが、そこの女将から、お客様にこのようなものをお出しするのは失礼かも知れませんが、地元でもこれだけ立派な鯖は滅多に食べれませんと言って、よろしかったらお召し上がりくださいといって、鯖のきずしを出してくれた。
恐る恐る食べた鯖がこんなに美味しいものかと驚いた。しかし、考えて見れば、私が子供の頃など、流通が発達しておらず、鯖などの魚に鮮度の良いものはなく、いつも厭な臭いがしていたが、地元で獲れた鮮度の良い魚は本当に美味いいものだということを本場の産地へ出張するようになって知ったのだ。
今でも鯖の煮つけなどは弱いが、鯖寿司は大好物の1つとなっており、夕食には、寿司としてだけでなく、お惣菜の1品として2~3切れの鯖寿司を添えるなどして、しょっちゅう食べている。その変わり様にもともと魚好きの家人も驚いているくらいだ。
参考:
※1:すし慶HP
http://www.sushikei.com/
※2:官制大観
http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/index.html
※3:京都と鮨・朱雀錦
http://www.eonet.ne.jp/~shujakunisiki/index.html 
※4:琵琶湖の伝統漁法えり漁/滋賀県
http://www.pref.shiga.jp/about_shiga/fuwari/09_05/
※5:鮒ずし元祖阪本屋
http://www.sakamotoya.biz/index.htm
※6:田村長ホームページ
http://www.tamuracho.co.jp/sabakaidou/
針畑峠
http://www.geocities.jp/tugukeiko12/saka1/harihata.html
Kyoto Shimbun 街道を巡る「若狭街道」
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/ojikoji/kaido/wakasa1.html
フィールド・ミュージアム京都
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/_index.html
『福井県史』通史編4 近世二
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T4/T4-5-01-03-05-02.htm
鯖寿司 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AF%96%E5%AF%BF%E5%8F%B8
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html