1958年の今日(11月27日)、皇太子明仁親王(今上天皇)と正田美智子さんの婚約が発表 された。
1958年11月27日、「皇室会議の 義を経て、皇太子明仁親王殿下は、正田英三郎氏長女美智子嬢と婚約されることに決定した」という宮内庁の発表に、日本中に衝撃が走った。
皇太子は軽井沢の親善テニス・トーナメントで対戦した美智子さんの人となりにひかれ、お妃候補にと自ら言われたという。婚約には皇太子本人からの希望が大きかったが、結婚の申し込みには、正田家も美智子さんも、「家格が違いすぎる」と頑固に拒否されたらしいが、皇太子からの「柳こうり一つで来てください」というお言葉に心を動かされ、美智子さんも決心されたという。ご婚約の決め手は、皇太子さまの誠実さであった。
11月27日の婚約記者会見で初対面の印象を訊かれて、美智子さんの皇太子評「ご清潔で、ご誠実で、ご信頼申し上げられる方」は流行語にもなった。
皇室内にはこのご縁談について、平民からとは・・・との反対も強かったといわれているがさもあろうことはよく理解できる。古来、皇太子妃は、皇族か五摂家といった特定の華族から選ばれるのが慣わしであった。正田英三郎氏は実業家で、日清製粉の社長。一族の中から文化勲章受賞者2人を出す家柄とはいえ華族ではない。当時のアメリカやイギリスのマスコミが伝えたようにまさしく「平民・粉屋の娘」が皇太子妃になったわけなのであるから・・・。
このお二人のご婚約は、多くの国民が支持した。そして、ご結婚が迫ると、国内の通津浦裏まで慶祝ムード一色に染まった。美智子さんの愛称が「ミッチ」であったことから、、「ミッチー・ブーム」が起こった。ミッチーと呼ぶ愛称、お二人を取り巻く光景は、テレビというマスメディアにのって、新しい皇室のイメージを国民の心に植えつけたことは間違いないだろう。既にテニスブームは起きていた。そして、お二人のテニス姿のマネキン人形がデパートを飾り、プリンセスラインやVネックが女性の人気をさらった。そのほか、美智子さんの訪問着と同じ柄の着物、美智子さんに似せたフランス人形、などあやかり商品がつぎつぎに登場し、テレビも売れに売れた。戦後、景気は徐々に上昇し、高度経済成長時代へと繋がっていった時代、日本中が神武景気を上回る岩戸景気に覆われた翌1959(昭和34)年4月10日に結婚。皇太子御成婚パレードがテレビで生中継されると、沿道にはお二人の姿を一目みたいと熱狂的な群集が押しかけた。とにかく、日本中がフィーバーし、お祭り騒ぎとなった。戦後で、これほど明るい話題で国中が盛り上がった日はなかっただろう。
最近天皇家のお世継ぎ問題が世間を騒がせている。この問題は昭和天皇の時にも既に起きていた。昭和天皇がまだ摂政の頃(大正13年1月26日)に良子妃と結婚され、お二人の間に、続けて4人のお子が生まれたが内親王ばかりであった。天皇家の皇嗣(こうし)の資格は男性に限られていることから、男児を絶やさないために、皇室の周囲からは天皇に「側室をおいては…」と云う動きも出たが、天皇はこれをた拒絶されたという。しかし、幸いなことに、皇后5度目のご懐妊で、目出度く待望の皇太子がご誕生。「継宮明仁」と命名された第一皇子が今上天皇である。その後、皇太子明仁親王殿下(今上天皇)は美智子さんとご結婚をなされ、お二人の間には2人の男児がお生まれになった。現、皇太子徳仁親王殿下、そして、 秋篠宮殿下である。しかし、この両殿下の間には、未だに男児がお生まれになられない。元々、長い歴史の間に、今まで男子が途絶えないで皇室が続いたのは側室制度があったからであった(勿論、男子が絶え女性天皇は何度かいたが)。大正天皇が側室を望まないとし、昭和天皇も側室に反対されたことから側室制度は廃止された。そうである以上、今のような男児がいないための皇室継承問題が起こることは、当然の成り行きであった。今、日本にとっては、女性天皇制を認めるか?天皇制をどうするか?といった重要な問題を解決しなければならない時期に来ている。そんな中、11月15日天皇家の長女紀宮清子様が、東京都の職員黒田慶樹さんと結婚式を挙げられた。結婚式後、新居のある区役所に婚姻届を提出した後は、紀宮様も、皇族から普通の民間人である東京都庁の職員の妻・・・黒田清子となった。皇室の内親王が華族以外の普通の民間人と結婚されたのは、今回が初めてである。皇后(美智子)様は、初めて、民間人から皇室へ嫁ぎ、自分の生んだ長女を、初めて、普通の民間人に嫁がせることとなった。結婚式当日の別れの朝、一人娘の清子さんを胸元にしっかりと抱きしめ「大丈夫よ」と繰り返し語りかけられたそうだ。それは、46年前に、婚礼の儀に向う自分を母親の正田登美子さんが無言で抱きしめてくれたことを思い出してのことであろう。皇室へお入りになってからのご苦労とその心情は察して余りあるものがる。
(画像は、コレクションの「皇太子殿下御成婚」慶祝記念カード。三井銀行=現、三井住友銀行発行。)
参考:
宮内庁ホームページ
http://www.kunaicho.go.jp/
明仁-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E4%BB%81_(%E7%9A%87%E5%AE%A4)
Yahoo!ニュース - 紀宮さま結婚
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/princess_nori/
1958年11月27日、「皇室会議の 義を経て、皇太子明仁親王殿下は、正田英三郎氏長女美智子嬢と婚約されることに決定した」という宮内庁の発表に、日本中に衝撃が走った。
皇太子は軽井沢の親善テニス・トーナメントで対戦した美智子さんの人となりにひかれ、お妃候補にと自ら言われたという。婚約には皇太子本人からの希望が大きかったが、結婚の申し込みには、正田家も美智子さんも、「家格が違いすぎる」と頑固に拒否されたらしいが、皇太子からの「柳こうり一つで来てください」というお言葉に心を動かされ、美智子さんも決心されたという。ご婚約の決め手は、皇太子さまの誠実さであった。
11月27日の婚約記者会見で初対面の印象を訊かれて、美智子さんの皇太子評「ご清潔で、ご誠実で、ご信頼申し上げられる方」は流行語にもなった。
皇室内にはこのご縁談について、平民からとは・・・との反対も強かったといわれているがさもあろうことはよく理解できる。古来、皇太子妃は、皇族か五摂家といった特定の華族から選ばれるのが慣わしであった。正田英三郎氏は実業家で、日清製粉の社長。一族の中から文化勲章受賞者2人を出す家柄とはいえ華族ではない。当時のアメリカやイギリスのマスコミが伝えたようにまさしく「平民・粉屋の娘」が皇太子妃になったわけなのであるから・・・。
このお二人のご婚約は、多くの国民が支持した。そして、ご結婚が迫ると、国内の通津浦裏まで慶祝ムード一色に染まった。美智子さんの愛称が「ミッチ」であったことから、、「ミッチー・ブーム」が起こった。ミッチーと呼ぶ愛称、お二人を取り巻く光景は、テレビというマスメディアにのって、新しい皇室のイメージを国民の心に植えつけたことは間違いないだろう。既にテニスブームは起きていた。そして、お二人のテニス姿のマネキン人形がデパートを飾り、プリンセスラインやVネックが女性の人気をさらった。そのほか、美智子さんの訪問着と同じ柄の着物、美智子さんに似せたフランス人形、などあやかり商品がつぎつぎに登場し、テレビも売れに売れた。戦後、景気は徐々に上昇し、高度経済成長時代へと繋がっていった時代、日本中が神武景気を上回る岩戸景気に覆われた翌1959(昭和34)年4月10日に結婚。皇太子御成婚パレードがテレビで生中継されると、沿道にはお二人の姿を一目みたいと熱狂的な群集が押しかけた。とにかく、日本中がフィーバーし、お祭り騒ぎとなった。戦後で、これほど明るい話題で国中が盛り上がった日はなかっただろう。
最近天皇家のお世継ぎ問題が世間を騒がせている。この問題は昭和天皇の時にも既に起きていた。昭和天皇がまだ摂政の頃(大正13年1月26日)に良子妃と結婚され、お二人の間に、続けて4人のお子が生まれたが内親王ばかりであった。天皇家の皇嗣(こうし)の資格は男性に限られていることから、男児を絶やさないために、皇室の周囲からは天皇に「側室をおいては…」と云う動きも出たが、天皇はこれをた拒絶されたという。しかし、幸いなことに、皇后5度目のご懐妊で、目出度く待望の皇太子がご誕生。「継宮明仁」と命名された第一皇子が今上天皇である。その後、皇太子明仁親王殿下(今上天皇)は美智子さんとご結婚をなされ、お二人の間には2人の男児がお生まれになった。現、皇太子徳仁親王殿下、そして、 秋篠宮殿下である。しかし、この両殿下の間には、未だに男児がお生まれになられない。元々、長い歴史の間に、今まで男子が途絶えないで皇室が続いたのは側室制度があったからであった(勿論、男子が絶え女性天皇は何度かいたが)。大正天皇が側室を望まないとし、昭和天皇も側室に反対されたことから側室制度は廃止された。そうである以上、今のような男児がいないための皇室継承問題が起こることは、当然の成り行きであった。今、日本にとっては、女性天皇制を認めるか?天皇制をどうするか?といった重要な問題を解決しなければならない時期に来ている。そんな中、11月15日天皇家の長女紀宮清子様が、東京都の職員黒田慶樹さんと結婚式を挙げられた。結婚式後、新居のある区役所に婚姻届を提出した後は、紀宮様も、皇族から普通の民間人である東京都庁の職員の妻・・・黒田清子となった。皇室の内親王が華族以外の普通の民間人と結婚されたのは、今回が初めてである。皇后(美智子)様は、初めて、民間人から皇室へ嫁ぎ、自分の生んだ長女を、初めて、普通の民間人に嫁がせることとなった。結婚式当日の別れの朝、一人娘の清子さんを胸元にしっかりと抱きしめ「大丈夫よ」と繰り返し語りかけられたそうだ。それは、46年前に、婚礼の儀に向う自分を母親の正田登美子さんが無言で抱きしめてくれたことを思い出してのことであろう。皇室へお入りになってからのご苦労とその心情は察して余りあるものがる。
(画像は、コレクションの「皇太子殿下御成婚」慶祝記念カード。三井銀行=現、三井住友銀行発行。)
参考:
宮内庁ホームページ
http://www.kunaicho.go.jp/
明仁-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E4%BB%81_(%E7%9A%87%E5%AE%A4)
Yahoo!ニュース - 紀宮さま結婚
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/princess_nori/