今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

テルアビブ空港乱射事件のあった日

2008-05-30 | 歴史
今日(5月30日)は、「テルアビブ空港乱射事件」のあった日である。
テルアビブ空港乱射事件とは、1972(昭和47)年の今日(5月30日)イスラエルテルアビブのロッド国際空港(現在のベン・グリオン国際空港)で発生したテロ事件である。別名はロッド空港乱射事件。
犯行を実行したのは、パレスチナに拠点を置いていた日本赤軍(Japanese Red Army 略称JRA)幹部の奥平剛士(当時27歳)と、京都大学の学生だった安田安之(当時25歳)、鹿児島大学の学生だった 岡本公三(当時25歳)ら日本人3名であった。
事件をおこした日本赤軍は、日本における共産主義革命を目指して、国内で警察署の襲撃や、銀行強盗等の凶悪な犯罪を犯ししていた日本の過激派グループが、冷戦下の1971(昭和46)年に、共産主義者同盟赤軍派の「国際根拠地論」に基づき、海外に革命の根拠地を求めて脱出した後、結成された新左翼系国際武装テロ組織である。
日本国内で武力闘争に限界を感じた赤軍派中央委員の元明大生重信房子は、「あさま山荘事件」を起こしていた連合赤軍と決別、同事件が制圧された後すでに出国していた元京都パルチザンの奥平剛士の後を追い、彼とともにパレスチナへ入り、パレスチナ解放機構(PLO)の武装ゲリラ組織であるPFLPの支援を得て同地に海外赤軍派(日本赤軍)として創設した。
1972(昭和47)年5月30日午後10時30分(日本時間31日午前5時30分)、パリ発の航空機でイスラエルの表玄関であるテルアビブのロッド国際空港に着いた奥平ら3人が、税関で受け取ったスーツケースから取り出した自動小銃で空港ロビーにいた係官や乗客を乱射し、手投げ弾を爆発させた。イスラエルの著名な科学者ら24人が死亡、72人が負傷する大惨事となった。乱射の実行犯だった奥平と安田の2人はイスラエル当局による銃撃で死亡、岡本は、逮捕された。
因みに、この岡本公三の兄は1970(昭和45)年3月に起きた日本における最初のハイジャック事件である「よど号」ハイジャック事件に参加した赤軍派の京大生・岡本武であり、ハイジャックしたグループは乗っ取った日航機で北朝鮮へ不法入国した。
イスラエル軍に逮捕された岡本公三は、同国の軍事法廷で終身刑の判決を受け、ラムロ刑務所に収容された。
同じロッド空港で、同月8日に、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)はサベナ航空機(ベルギーの国営旅客機)をハイジャックして逮捕されている同志の解放をイスラエル政府に要求していたが、イスラエル政府が要求を無視して強硬手段に出てPFLPのゲリラを射殺した。そこで、PFLPはその報復としてこのロッド国際空港襲撃を計画したが、アラブ人では空港の厳重な警戒を潜り抜けるのは困難と予想されたため、日本赤軍の奥平に協力を依頼し、日本人によるロッド国際空港の襲撃が行われたものである。(岡本公三によるとテルアビブ空港乱射事件は当初の計画では丸岡修を含めた4人で行う予定であったが、丸岡が別行動を取ったために3人で襲撃したと供述しているそうだ。)
日本赤軍は当初は「アラブ赤軍」と呼称していたが、ロッド国際空港での乱射事件は日本赤軍旗揚げをアピールするための軍事行動でもあったようだ。
丸岡修は、その後、テルアビブ空港乱射事件のあった翌・1973(昭和48)年、日本赤軍メンバーとしてドバイ日航機ハイジャック事件、1977年のダッカ日航機ハイジャック事件に主導的立場で関与したとして国際指名手配を受けた。(1987(昭和62)年11月に東京で警察に逮捕された。)
ダッカ日航機ハイジャック事件のことは、以前にこのブログ、9月28日「ダッカ日航機ハイジャック事件」の起こった日でも書いたが、犯人グループは人質の身代金としてアメリカドルで600万ドル(当時の為替レート〈1USドル≒約266円〉で約16億円)と、日本で服役及び勾留中の、メンバー・日本赤軍に加えようと目をつけた囚人(新左翼活動家や、「獄中闘争」を評価した一般刑事犯)9名の釈放を要求。日本国政府は議論の末、10月1日に福田赳夫首相(二世議員の現:福田康夫首相は長男)が「人命は地球より重い」と述べて、身代金の支払い及び、超法規的措置としてメンバーなどの引き渡しを決断。身代金と、釈放に応じたメンバーなど6名(3名は拒否。内訳は、赤軍派系連合赤軍メンバー1名と、系列外の新左翼活動家2名)を日本航空特別機でダッカへ輸送した。この時の日本政府の対応は、この頃すでに「テロリストや過激派と交渉せず」との欧米を中心とした国際的非難を受け、一部諸外国からは「日本はテロまで輸出するのか」などとまで非難された。予断だが、そのような、軟弱な対応しか出来なかった首相(親)から、「お前は政治には向いていないよ」といわれた頼りない息子が、何の決断も出来ずに、この混迷の時代にお茶を濁した政治をしているのは、「そんな首相を選んだ自民党が悪いよ」・・・としか言いようが無いね。
ロッド国際空港乱射事件を起こして、逮捕され、イスラエルの軍事法廷で1972(昭和47)年8月1日、終身刑が確定した岡本は、イスラエルとPFLP-GC(パレスチナ解放人民戦線総司令部)との捕虜交換により1985(昭和60)年に赤軍に戻った。その後、1997年にレバノンに潜伏していた日本赤軍メンバー5人が検挙され、岡本以外は禁固刑の執行後、日本に送還されたが、岡本については、日本の捜査当局が(既にイスラエルで処罰されている)テルアビブ事件の刑事責任を問おうとしていることを「一事不再理に反する政治的迫害」であるとして、レバノン政府は岡本の政治亡命を認めた。なお、警察庁では現在でも岡本を指名手配中である。
日本赤軍はロッド国際空港乱射事件以後、各地で軍事活動としてのテロを展開していたが、その後、世界情勢も一変し日本赤軍の活動は壊滅状態となった。最高幹部の重信房子も偽名パスポートで日本に入国していた2000(平成12)年大阪府高槻市で公安当局に逮捕され日本赤軍の活動は終焉した。
2002(平成14)年3月23日、テレビ朝日系「ザ・スクープ」で鳥越俊太郎による岡本へのインタビューが放映されたことがある。イスラエルに拘置されていた時の影響で精神疾患を患い、処方薬を服用中とされる岡本が、事件のことについては淡々と話していた。この番組のHP(以下参考に記載の「テレビ朝日|ザ・スクープ」参照)では、過去の放送分が動画配信され視聴することができることにななっているが3月23日放送分だけは、事情によって観ることはできない。理由等は以下参照。
■3月23日放送【最後の赤軍兵士・岡本公三30年目の独占初告白「私はなぜ無差別テロを行ったのか ~その数奇な半生~】
http://www.tv-asahi.co.jp/scoop/update/special_back/20020323_010.html
日本ほか先進諸国で批判されるテロ事件を起こした岡本ではあるが、レバノンなどでは英雄として取り上げられることも多いのである。それは、アメリカなどに対して反発している多くのテロ集団が今なお、後を経たないことを見ても判る。テロが良いことであるはずはないが、とてつもなく大きな力を持つものに対する弱いものの対抗手段は最終的に『テロ』しかないとも言われる。大事なことは、たとえ、抵抗勢力とはいえテロをやらなくてはならないほどにまで追い詰めないようすることが肝要なのではないだろうか・・・。
(画像は、テルアビブ・ロッド空港の乱射現場。アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)
テルアビブ空港乱射事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%A2%E3%83%93%E3%83%96%E7%A9%BA%E6%B8%AF%E4%B9%B1%E5%B0%84%E4%BA%8B%E4%BB%B6
ロッド空港乱射事件 / ワードBOX / 西日本新聞
http://www.nishinippon.co.jp/wordbox/display/373/
事件録・日本赤軍事件
http://yabusaka.moo.jp/nihonsekigun.htm
事件史探求・テルアビブ空港襲撃事件
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage365.htm
無限回廊・日本赤軍テルアビブ空港事件
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/teru.htm
強化されたイスラエルの対テロ戦略と日本赤軍の「ロッド空港乱射事件」
http://rerundata.hypermart.net/ura/hexagon/texts/textA2F2/a2f2263.html
日本赤軍及び「よど号」グループの動向
http://www.npa.go.jp/keibi/kokutero1/japanese/0301.html
昭和48年「警察白書」第7章 公安の維持
http://www.npa.go.jp/hakusyo/s48/s480700.html
日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%9D%A9%E5%91%BD%E7%9A%84%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85%E5%90%8C%E7%9B%9F%E9%9D%A9%E5%91%BD%E7%9A%84%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E6%B4%BE
あさま山荘事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%BE%E5%B1%B1%E8%8D%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6
ザ・スクープ- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%97
テレビ朝日|ザ・スクープ
http://www.tv-asahi.co.jp/scoop/


初代「ミスタータイガース」と呼ばれる藤村富美男 の忌日

2008-05-28 | 人物
今日(5月28日)は初代「ミスタータイガース」と呼ばれる藤村富美男 の1992(平成4)年の忌日。
藤村富美男は、 1916(大正5)年8月14日、広島県の出身。初代「ミスタータイガース」として知られている。タイガースの黎明期を支え、また戦前から1950年代までのプロ野球創成期を代表するスター選手であった。かっての常勝南海を築いた鶴岡親分又、初代ミスターホークス、ドン鶴岡とも呼ばれた鶴岡一人と同学年で呉市のすぐ隣の小学校に入学。大正中学2年(5年制)、14歳で早くもエースとなり、春夏の甲子園に6度出場。エース兼主砲として活躍。藤村のワンマンチーム的な大正中学であったが、呉港中学(現:呉武田学園呉港高等学校)に校名変更した翌1934(昭和 9)年夏の選手権では、田川豊塚本博睦らを擁し、高い総合力で全国の強豪をまったく寄せ付けず圧勝し全国制覇を果たした。決勝では藤村が熊本工業を2安打14奪三振で完封し、川上哲治も3連続三振に抑えたという。この時のことを川上は「ヒゲをはやし、一人だけ大人が混ざっているようだった」と述懐しているという。以後、川上とは「永遠のライバル」となる。その翌1935(昭和10)年夏の対飯田商業戦では現在も大会記録として残る「最多奪三振数」1試合個人記録”19奪三振”を記録している。藤村が2年生から5年生まで、4年間1 人で投げ抜いて奪った三振は甲子園で12試合通算111個にのぼるという。この藤村登板の試合では外野スタンドで、空き箱の上に立って試合を見る最後列の観客のために「空箱屋」が大繁盛するほどの人気沸騰ぶりだったのだとか(藤村の甲子園での活躍は以下参考に記載の「激闘の記憶と栄光の記録」甲子園「名投手」「名選手」百選・藤村参照)。又、この年、前年末の大日本東京野球倶楽部(東京ジャイアンツ。現:読売ジャイアンツ)設立をうけて2番目のプロ野球チーム 「大阪野球倶楽部」(大阪タイガース。現:阪神タイガース)が設立された。
そして、藤村が呉港中学(大正中学が改称)を卒業した翌・1936(昭和11)年には、職業野球連盟が結成され、甲子園最大のスター選手であった藤村は、設立されたばかりの大阪タイガースの熱心な勧誘で前年末に投手として入団(背番号10)した。
プロ野球リーグ開幕の1936(昭和11)年、大阪タイガース最初の公式戦である第1回日本職業野球大会4月29日の対名古屋金鯱軍戦には、開幕投手として登板、1安打完封勝利(プロ野球におけるデビュー戦シャットアウトの第1号である) をあげるなど、好成績を収める(下記の※1参照)傍ら、内野手不足となったチームの穴を埋めるため、内野手(6番)としても出場し、同年秋季には本塁打王に輝いた。
球団設立最初のシーズン、大阪タイガースの成績はダントツの1位であったが、勝ち点で並んだ巨人に優勝決定戦で負け越しての2位だった。
翌・1937(昭和12)年からは、本格的に二塁手に転向し、2番打者としてチームの二連覇に貢献したが、当時のスター選手には、投手には、景浦 將(投手兼4番 右翼手でもある )、若林忠志西村幸生御園生崇男(投手兼外野手)、野手専門には松木謙治郎山口政信藤井勇などが数多く在籍していたため、藤村の立場は完全に脇役であったようだ。(以下参考に記載の「タイガース歴史研究室」のタイガース 年度別メンバー表1936年、<1937年 参照)
日中戦争の激化に伴い1939(昭和14)年7月8日、国家総動員法に基づいて 国民徴用令が公布され、同年から1942(昭和17)年までは兵役のため出場できなかったが、復帰後は戦力の落ちた阪神で主軸となり、1944(昭和19)年に4番打者に定着すると、打点王を獲得し、優勝に貢献した。
戦後のプロ野球は1946(昭和21)年から8球団で本格的なシーズンが再開され、占領政策の後押しも有り急激に成長を遂げるが、1946(昭和21)年藤村は監督代理をもつとめたため、投手兼5番打者であったものの、その後は不動の4番打者として、史上最強といわれた「ダイナマイト打線」を象徴する存在となった。1947(昭和22)年には、打点王として優勝に貢献し、同年設立されたベストナインの三塁手に選ばれると、以降6年連続で受賞している。また、1948(昭和23)年からは、「打撃の神様」と言われた川上哲治の赤バット、打球を簡単にポンポン飛ばすことから「ポンちゃん」といわれた大下弘の青バットに対して、「物干し竿」と呼ばれる通常の選手のものよりも長い37~38インチの長尺バットを用いて、本塁打を量産、この年140試合に出場し108打点をあげる。そして、 3年連続打点王となった。このような3人の人気選手の活躍もあり、プロ野球も蔑視されていた戦前とは一転して、戦後の苦難にあえぐ国民の数少ない娯楽として、人気が急上昇した。この結果一大レジャー産業として成長したプロ野球は1948(昭和23)年には半分以上の球団に黒字化の見通しとなる。
藤村は1949(昭和24)年、187安打、46本塁打、142打点と主要三部門のシーズン日本記録を一度に更新するという空前絶後の大活躍をみせたが、惜しくも首位打者は小鶴誠にゆずり、三冠王にはなれなかった。(因みに、この年、桁ちがいの本塁打量産がされた理由には、飛距離の出やすい「ラビットボール」が採用され、前年・1948年の川上哲治と青田昇の記録25本を越えた選手が7名もいる(ボール 〔野球〕を参照)。
この年、日本のプロ野球は事業面で画期をなす事件が起きている。2リーグへの分裂である。毎日新聞球団(毎日オリオンズ。現:千葉ロッテマリーンズ)などの加盟をめぐり、かねてから揉めてはいたが、結局、”阪神の寝返り”などをきっかけに、喧嘩別れの形となる。そして、セントラル・リーグパシフィック・リーグの今日に続く2リーグ制がこの年のオフシーズンに誕生した(詳細はプロ野球再編問題 〔1949年〕参照)。この分裂時には、若林忠志、別当薫土井垣武等をはじめとする主力選手が次々と毎日オリオンズに引き抜かれたが、藤村はタイガースに残留して弱体化したチームを支えた。
1950(昭和25)年、前年藤村の三冠王を阻んだ小鶴が本塁打、打点の二冠を手にすると、藤村は首位打者を獲得し、小鶴の三冠王を阻んだ。この年記録した191安打は、1994(平成 6)年イチロー(本名:鈴木 一朗)に破られるまで44年間日本記録であった(イチロー最終的には210本に)。また、1953(昭和28)年に再び、本塁打、打点の二冠王となるなど、常にタイトル争いに加わり、1955(昭和30)年まで一線でプレーした。しかし、凄いのが1951(昭和26)年まで投手としても登板し通算34勝11敗をあげていることだ。また、1955(昭和30)年、引責辞任(1954年の大阪球場での没収試合騒動の責任をとる形)した松木謙治郎の後任として当時全くの無名であった岸一郎が監督に就任。岸監督は世代交代を目指して、意欲的に藤村等ベテラン選手より若手選手を優先して起用。そのため主力選手の反発(特に藤村の反抗は強かったようだ)を招き、シーズン中に更迭(5月21日)されるという事件があり助監督(選手兼任も)をしていた藤村が監督として指揮を執ることとなった。そして、その翌・1956(昭和31)年6月24日の対広島カープ戦で、1点リードされている9回裏二死満塁で、三塁コーチャーズボックスに立っていた彼(選手兼監督)は、球審に「代打ワシ」と告げ打席に入ると、長谷川良平から代打満塁逆転サヨナラ本塁打を放ったが、この年限りで現役を引退して監督に専任することとなった。そこには、「藤村排斥事件」があった。彼が監督をした4シーズンの成績そのものは、そんなに悪いものではないが、そこには、彼のスタンドプレー的な面があったことや口が重い、怒りっぽい、むくれるといった性格が選手、マスコミの者などに嫌われたようだが、実際には、成績が悪い、チームのごたごたは監督の首をすげがえればよいという阪神タイガースと言う球団の悪しき伝統ともいえる体質が伏線としてあったようである(詳細は藤村排斥事件参照)。
監督を解任され、42歳で平選手にされた1958(昭和33)年は、先発は1試のみであり、結局、出場試合数24試合、26打数3安打のみの打率1割1分5厘で、生涯打率3割を保つため出場を止め引退した。記者会見は、甲子園球場の食堂で行われたが、阪神一筋の大選手に対する処遇としてはあまりに冷たいものだった。
この後の評論家・解説者もうまくいかず。水原茂、浜崎真二ら他チームの大監督からは請われて、東映打撃コーチ時代は、大杉勝男の入団を促すなどの成果は挙げたものの1968(昭和43)年、野球界からは完全に離れた。
その後、藤村が久しぶりにマスコミに登場するのは、役者としてであった。1977(昭和52)年、テレビ時代劇「新・必殺仕置人」に、元締・虎役でレギュラー出演。普段は、子供好きなご隠居さんとして過ごしているが、江戸の裏社会に「寅の会」を結成。その元締として、中村主水ら仕置人を束ねる。そして、会の掟を破った外道の仕置人を物干し竿一振りで仕置するシーンには現役時代のフィルムがカットイン(挿入)するなど遊び心十分であった。
大阪タイガース結成時から藤村が付け続けた背番号10は、球団初の永久欠番となっている。1974(昭和49)年野球殿堂入りした。タイガースの歴史上欠かせない人物であり、「藤村の前に藤村無し、藤村の後に藤村無し」言われる存在であったが、終生のライバルだった川上や鶴岡が、指導者としても大きな名声を得たのと比べると淋しい引退後だった。 藤村の同僚だった田宮謙次郎(後の東映監督)は「巨人と違ってOBを大事にしないのも阪神の悪しき伝統。藤村さんあたりが球場に顔を出してもみな知らんぷりだったよ」と発言しているそうだ(Wikipedia)。確かに、選手自身も割りと勝手気ままな選手が多かったようだが、過去の阪神は、報酬の高くなったベテラン選手は直ぐに放出していたし、監督問題など、ごたごたの多い球団であったように記憶している。以下で、懐かしい藤村の姿を見ることが出来る。
藤村富美男 @1st YouTube動画
http://video.1st-game.net/tag/%E8%97%A4%E6%9D%91%E5%AF%8C%E7%BE%8E%E7%94%B7
(画像は、藤村富美男 。アサヒクロニクル「週刊20世紀」スポーツの100年より)
参考:
日本のプロ野球選手一覧 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%83%97%E3%83%AD%E9%87%8E%E7%90%83%E9%81%B8%E6%89%8B%E4%B8%80%E8%A6%A7#.E3.81.AF
asahi.com:高校野球
http://www2.asahi.com/koshien/
激闘の記憶と栄光の記録
http://www.fanxfan.jp/bb/
タイガース歴史研究室
http://www.jttk.zaq.ne.jp/genmatsu/
NHK映像ファイル あの人に会いたい
http://www.nhk.or.jp/archives/anohito/index.html
阪神甲子園球場公式サイト
http://www.hanshin.co.jp/koshien/
阪神タイガース公式サイト
http://www.hanshintigers.jp/

政治家、明治維新三傑の一人木戸孝允(桂小五郎) の忌日

2008-05-26 | 人物
明治10年(1877年)の今日(5月26日)は、政治家、明治維新三傑の一人木戸孝允(桂小五郎) の忌日 <43歳>
木戸 孝允(きど たかよし)は、江戸時代末期(幕末)には、桂小五郎(かつらこごろう)として知られていた尊皇攘夷派の中心人物で薩摩の西郷隆盛大久保利通とともに「維新の三傑」として並び称せられる。
またある時は、坂本龍馬 と並び称されることも多い勤皇の志士、桂小五郎は、天保4年6月26日(1833年8月11日)、長門国萩呉服町(今の山口県萩市)萩藩医 和田昌景の長男として生まれる。和田家は毛利元就の七男毛利元政の血を引くというが、母はその後妻だという。幼少の頃は、病弱で長生きしないと思われていたためかどうか、長男でありながら、前妻の長姉に婿養子文讓が入り、また長姉が死んだ後は次姉がその婿養子の後添えとなっていたため、天保11年(1840年)、8歳で近隣の長州藩士・桂九郎兵衛の養子となり家督を継ぐ。
嘉永2年(1849年)、17歳のときに藩校明倫館へ入門し吉田松陰より、兵学を学ぶ。また、弘化3年(1846年)からは、長州藩の剣術師範代より、新陰流を学を学ぶ、嘉永元年(1848年)、元服して和田小五郎から(以下参考に記載の「※山口県の近世・近代史」・藩士の家格・・ 無給帳掲載者 参照)大組士桂小五郎となり、嘉永5年(1852年)には、剣術修行の為、江戸に出て「技の千葉」(玄武館、北辰一刀流剣術)、「位の桃井」(士学館、鏡新明智流剣術)と並び、「力の斎藤」と称される、江戸三大道場の一つ神道無念流斎藤弥九郎に入門し、21歳で、練兵館の免許皆伝を得て塾頭になる。桂と同時期に免許皆伝を得た人物大村藩の渡邊昇(後に、長州藩と坂本龍馬を長崎で結びつけた人物。以下参考に記載の「※大村観光ナビ|大村の歴史|偉人の街|渡邉 昇」参照)とともに、練兵館の双璧と称えられていたという。又、ほぼ同時期に、「位の桃井」(桃井春蔵)の士学館塾頭を務めた武市半平太 、「技の千葉」(千葉定吉)」の桶町千葉道場塾頭を務めた坂本龍馬も免許皆伝を得ていたそうだ。
何でも、桂は、当時としては長身の大男で身長6尺(174センチメートル以上)あったという。そして、剣の道・武術にも優れた剣豪でありながら、志士時代にはその剣を血で染めることはなく、徹底的に闘争を避け「逃げの小五郎」と呼ばれていたという。
ちょっと、話がそれるが、今年(2008年)の5月16日、朝日新聞朝刊に「幕末の志士、坂本龍馬の妻お龍(おりょう)か否かを巡って論議が続く若い女性の写真を、警察庁の科学警察研究所(千葉県柏市)が鑑定した結果、本人の晩年の写真と比較して「同一人の可能性がある」と結論づけた」ことを、鑑定を依頼した高知県立坂本龍馬記念館が15日発表した。・・として、お龍の可能性があるとされる写真(井桜直美氏蔵)が掲載されていた。この写真を見ると確かに、お龍の写真とよく似ている。
慶応元年(1866年)、薩長同盟の成立を悟った新撰組によって寺田屋が包囲されたとき、お龍は風呂に入っていたが裸のままで風呂から出て龍馬に危機を知らせて救出(寺田屋事件)。その後に龍馬の妻となった。現在の寺田屋の建物には事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものや「お龍が入っていた風呂」なるものがあり、当時そのままの建物であるかのような説明がされているようだが、事件当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在ある建物は当時の敷地の西隣に建てられたものだそうである(明治38年〔1905年〕に登記されているという)事は、最近このブログ 4月23日 寺田屋事件のあった日 でも書いた。
今は亡き沢田正二郎のために、行友李風が書き下した 新国劇月形半平太」。この戯曲は、新国劇の当り狂言として一世を風靡し、幾たびとなく映画やテレビドラマ化されている。
中で、雛菊の「月さま、雨が・・・」に、半平太の「春雨じゃ、濡れて行こう」の名台詞はよく知られているところである。本作は土佐藩士・武市半平太こと武市瑞山(坂本龍馬とは遠縁にあたるようだ)をモデルにした作品という。武市は上洛後、藩の他藩応接役として、他藩の志士たちと関わる一方で、幕府に対して攘夷実行を命じる勅使を江戸に派遣するための朝廷工作に奔走するが、京では数々の佐幕派暗殺に関与し、天誅、斬奸(ざんかん=悪人をきること)と称して、刺客を放ち、政敵を暗殺させた。(武市の下で動いた人物には、岡田以蔵、薩摩藩の田中新兵衛が有名)。そのような冷徹、かつ非情な都の独裁者としての武市の姿は五社英雄監督による時代劇映画「人斬」りの中で仲代達矢が見事に演じている。彼が京の都にいた時には既に独り身ではなく、1歳年下の妻(富子)が居たようであり、新国劇の「月形半平太と雛菊」は、「桂小五郎と幾松」の方があたっているかも知れないね~。
幾松は、京都三本木(現、京都市上京区三本木通)の芸者で、後述する桂が、京にに出た文久元年(1861年)頃に出会ったとされ、 以来桂小五郎が命の危険に晒されていたもっとも困難な時代に彼を庇護し、必死に支えつづけたといい、維新後、桂の正妻となり、木戸松子と名乗ったという。
19世紀の前半期になると多くの藩は深刻な課題に直面していた。それは藩財政の窮乏と農業人口の減少と都市への流入であった。これらは、藩政の基盤にかかわる問題であり、天保の改革後に台頭したのはこうした課題を、まがりなりにも解決し軍備を充実した薩摩、長州などの西南雄藩であった。これらの雄藩は、嘉永6年(1853年)にペリーが来航した後混迷の度を深める中央政局に次第に影響力を持つようになる。薩摩や長州藩が藩力を蓄える上では、ともに交易や密貿易の果たした役割が大きかった。交易の推進により、蓄財をすすめ、反射炉・溶鉱炉などを導入し、大砲・軍艦などの製造といった軍事力の強化に努めた。また、薩長をはじめとする西南諸藩は嘉永から安政に西洋技術の導入と藩内軍政改革を意図的にすすめた。これに対して、幕府は株仲間再興、五品江戸廻令(ごひんえどまわしれい)などを発して市場統制を試みながら後退を余儀なくされた。政治的にもいち早く開国に踏み切りながら、大老井伊直弼が朝廷・水戸藩をはじめ反対派を強引に抑圧した安政の大獄を引き起こし、そのため憤激した水戸脱藩士らによって、桜田門外で暗殺されるという結果を招く(桜田門外の変)。その後の藩政は、朝廷の伝統的権威と結びついて幕藩体制の再強化をはかる公武合体路線をとるにいたった。幕府のとった公武合体路線は、藩雄の中央政局への進出を促すことなった。長州藩は長井雅楽(ながい・うた)が開国策(航海遠略策=朝廷は公武合体を推進した上、幕府に命じて艦船をつくらせ、遠く海外への進出をめざすべきという開国論)を携えて中央に乗り出した。薩摩藩は島津久光が兵士およそ千人を率いて上京、勅使を報じて江戸に下り、 公武合体路線に沿った幕政改革の実行を迫った。幕府は徳川慶喜を将軍後見職に、松平慶永を政治総裁職に任命すると共に親藩会津の藩主松平容保を新設の京都守護職に任命した。目的を達した島津久光一行は帰途横浜郊外の生麦事件を引き起こした(結果として翌年の薩英戦争や長州藩の外国艦船に対する砲撃事件を引き起こす)。そして、京都に戻った久光は公武合体を超えた尊王攘夷の高揚に迎えられて驚く。
尊皇攘夷への反論の転換は長州藩が早く、藩政において次第に重きを成すようになった桂は、長井雅楽が唱える航海遠略策を批判し、重臣・周布政之助を説きこれまで公武合体に基づく開国論(航海遠略策)をかかげていた長州藩の藩論を倒幕攘夷へ大転換させ、桂や高杉晋作らが表舞台に現れて活動し、土佐藩では武市瑞山らが進出し、朝廷を動かして京都政局の主導権をにぎり、幕府に攘夷の実行を迫っていった。その背後では、文久2年(1862年)の半ばから、京都・江戸を中心に尊王攘夷派によるテロの嵐が吹き荒れていた。
そして、文久3年(1863年)5月、桂や高杉たちの兼ねてからの慎重論(無謀論)にもかかわらず、朝廷からの攘夷要求を受けた江戸幕府による攘夷決行の宣言どおりに、久坂玄瑞率いる長州軍が下関で関門海峡を通過中の外国艦船に対し攘夷戦争を始めた。(この後、これに対する報復として行われた四国連合艦隊下関砲撃事件(下関戦争)の敗北によって長州藩は洋式軍備の必要を悟り、攘夷論を掲げながら実質的に開国論へ転換し、イギリスに接近していった。)
そのようなことから、文久3年(1863年)の「八月十八日の政変」によって尊攘派は政界から一掃され、桂も京都から追放されてしまう。
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続:政治家、明治維新三傑の一人木戸孝允(桂小五郎) の忌日

2008-05-26 | 人物
元治元年(1864年)、会津藩お預かり新選組が、勤皇の志士を襲撃した池田屋事件では、本来なら桂もその場にいたはずだったが、到着が早すぎたのでまだ同志が集まっていなかったため、一度もどり対馬藩内の派閥抗争の解決のため対馬藩邸に赴いており、奇跡的に難を逃れた。が、桂は危険を顧みず京都に潜伏し続け、長州および長州派公卿たちの復権のため活動をし続ける。池田屋事件で新選組に藩士を殺された報せが長州にもたらされると、八月十八日の政変以来、挙兵を訴えていた長州藩の急進派を刺激する結果となる。慎重派(桂や高杉など)の意見を無視した長州勢が、禁門の変を起こすが、包囲している間に薩摩・土佐・会津らの軍が集結、1日で撃退されてしまった。この時、桂は芸者の幾松などの手助けを得て、辛くも逃げ切り、潜伏生活に入るが、会津藩などによる長州藩士の残党狩りが盛んになり京都での潜伏生活すら無理となり、但馬出石に潜伏する。
禁門の変後、朝敵となって敗走した長州藩に対し幕府の第一次長州征討を受けるが、藩庁は幕府の圧力に屈する。それに対して、高杉と奇兵隊など諸隊が反乱をおこして、藩論は倒幕の方向に転換した(元治の内乱)。この後、桂がどこかに潜伏しているらしいことを察知した高杉・大村益次郎たちによって桂は長州正義派政権の統率者として迎えられる。こうして、幕末の政局は、土佐藩の動きも絡みながら、薩長の討幕同盟側と幕府佐幕藩側のとの抗争へと進んでいった。
薩長主導による武力倒幕を成し遂げ、新政府を樹立。新政府では総裁局顧問、外国事務係、参与となり、「五箇条の御誓文」の起草に参画し、大久保利通らとともに版籍奉還の実現に尽力する。
明治4年(1871年)、西郷隆盛とともに参議となると、廃藩置県を断行している。その後、岩倉使節団の副使として欧米に歴訪、近代国家の基礎を身につけるが、征韓論敗北による西郷の職辞や、大久保らの独裁的な政局運営などに不満を抱き、次第に政府中枢から遠ざかっていき、明治10年5月26日の今日、西南戦争の最中、病没。享年45歳であった。どうも、長年の心労から来る今で言ううつ状態にあったらしい。死に際には、朦朧状態の中、大久保の手を握り締め、「西郷もいいかげんにしないか」と明治政府と西郷の両方を案じる言葉を発したのを最後にこの世を去ったという。
長くなったが最後に1つ。京都の木屋町通り沿い、鴨川に面する料亭旅館「幾松」のホームページを見ると、”幾松」は、幕末の頃倒幕運動に大きな役割を果たした木戸孝允(桂小五郎)と、幾松(のちの松子夫人)の寓居跡”・・・と記載されており(幾松歴史のページ参照)、登録有形文化財にも指定されているそうだ。しかし、桂小五郎を助けたとの逸話のある幾松は、京都三本木にあった料亭吉田屋でのことだとする説も多いようで当ブログもその説を採用しているが、それは、東三本木通沿いにある「立命館草創の地」の碑にはその旨が書かれているからである。(以下参考に記載の「発祥の地コレクション/立命館学園発祥之地」参照)。
吉田屋は、後に清輝楼(せいきろう)という料亭になり、ここに明治33(1900)年、立命館大学の前身である京都法政学校が設立されたが、清輝楼は、料理旅館・大和屋と名を変え、平成8(1997)年まで存続していたそうだ。
それと、密会中に新選組に急襲された桂は、幾松の機転で裏階段から地下道に降り、鴨川の河原に逃れたといっわれておりようだが、石造りの地下道が大和屋にも残っていたといい、この近くの民家にはそのような地下道が今でも残っているところがあるらしい(以下参考に記載の「☆asahi.com:三本木通(上京区)-マイタウン京都」参照)。
寺田屋事件で新撰組が襲撃した時竜馬を助けたといわれる寺田屋の建物にも事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものあるというがそれが、どうも後の建てられた建物に後から付けられたものであるらしいが、この鴨川に面する料亭「幾松」もどうも観光を意識してのもののようだ。世の中には観光用の確たる証拠もない登録有形文化財 が結構多いのだろうね~。
興味のある人は、以下参考に記載の☆印のあるものなどを見られると良い。
そう言えば三本木の芸者幾松の妹分に、新撰組・近藤勇の妾となり子供までつくっていた駒野とかいう芸者が居たのではないかな・・・・?。
(画像は、向かって右:木戸孝允。左:木戸松子〔幾松〕。フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
Category:幕末維新側人物
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E5%B9%95%E6%9C%AB%E7%B6%AD%E6%96%B0%E5%81%B4%E4%BA%BA%E7%89%A9
松菊庵・桂小五郎HP
http://www21.big.or.jp/~kirin/
1月21日「ライバルが手を結ぶ日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/4b996bbb8d907e2501fb7ec5decc5d42
4月23日 寺田屋事件のあった日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/d/20080423
上木屋町料亭「幾松」(登録有形文化財)ホームページ
http://www.ikumatsu.com/
月形半平太 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E5%BD%A2%E5%8D%8A%E5%B9%B3%E5%A4%AA
※寺田屋(京都市観光文化情報システム)
http://kaiwai.city.kyoto.jp/search/view_sight.php?InforKindCode=1&ManageCode=6000126
木戸孝允館
http://www13.ocn.ne.jp/~dawn/index.html
やっぱりお龍さん? 写真の女性、龍馬の妻の「可能性」
http://news.goo.ne.jp/article/asahi/nation/K2008051500991.html?fr=rk
※山口県の近世・近代史
http://www.geocities.jp/furi_316/index.html
※大村観光ナビ|大村の歴史|偉人の街|渡邉 昇
http://www.omuranavi.jp/02history/history05_03.html
天保の改革
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%BF%9D%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9
公武合体 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%AD%A6%E5%90%88%E4%BD%93
下関戦争 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%88%A6%E4%BA%89
月形半平太
http://www.raizofan.net/link4/movie2/tsuki.htm
登録有形文化財 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BB%E9%8C%B2%E6%9C%89%E5%BD%A2%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1発祥の地コレクション/立命館学園発祥之地
http://hamad.web.infoseek.co.jp/hass-col/school/ritumeikan.htm
☆桂小五郎もびっくり!? 歴史“捏造”旅館にご用心(前編) : 日刊サイゾー
http://www.cyzo.com/2007/10/post_83.html
☆asahi.com:三本木通(上京区)-マイタウン京都
http://mytown.asahi.com/kyoto/news.php?k_id=27000180612190001
☆維新の嵐・第伍章 京都に於ける生活1)京都市中案内
http://page.freett.com/sukechika/ishin/kyooto/set16-1.html
都っくす・相関図・近藤勇
http://www.kyotox.com/sinsengumi/so/so_kondou.htm
幕末維新新選組・ 新選組大事典(駒野のこと記載あり)
http://www.bakusin.com/jiten22.html


湊川神社が創建された日

2008-05-24 | 歴史
5月24日湊川神社が創建された日
明治5年5月24日(グレゴリオ暦:西暦1872年6月29日)の今日、湊川神社が創建された。
湊川神社は、兵庫県神戸市中央区にある楠木正成)を祭る神社であり、地元では湊川神社のことを親しみを込めて「楠公(なんこう)さん」と呼んでいる。
後醍醐天皇による建武の中興(建武の新政)は、それまでの武家中心の社会を天皇中心の社会に戻そうとしたものであった。これは、明治維新によって江戸幕府から実権を取り戻し明治政府を樹立した明治天皇にとって意義深いものであり、明治以降、建武中興(建武の新政)に尽力した南朝側の皇族・武将などを主祭神とする神社がその縁地などに作られた。湊川神社は、それら15の神社(建武中興十五社)の1社で、旧社格は別格官幣社である。
時代は遡るが、後醍醐の建武の新政は、武士層を中心とする不満を招き、河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反。そして、延元元/建武3年(1336)年に足利尊氏による光明天皇践祚、後醍醐天皇の吉野遷幸により朝廷が分裂してから、元中9/明徳3年(1392)年に、明徳の和約によって、南朝大覚寺統)の後亀山天皇北朝持明院統)の後小松天皇三種の神器を渡し、両朝が合一するまでの間、日本には南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)に2つの朝廷が存在し、それぞれ正当性を主張していた(南北朝時代)。しかし、合一が行われたものの、両統迭立(てつりつ=かわるがわる立つこと)の約束が守られることはなく持明院統の皇統が続いたため、南朝の遺臣たちによる皇位の回復を目指しての反抗が15世紀半ばまで続き、後南朝が神璽・宝剣を一時奪還する「禁闕の変」まで起きるが、「嘉吉の乱」で滅亡した赤松氏の再興を目指す赤松遺臣によって、長禄元年(1457年)に南朝後裔の自天王・忠義王なる兄弟が殺害され、神璽が奪還される(長禄の変)ことによって、後南朝は実質的に滅亡した。以降、正式には、北朝系統の天皇が続いていたが、孝明天皇を最後に、「北朝系の天皇は終わり、南朝系統の明治天皇誕生となった。このことは、以前に幕末最後の天皇「孝明天皇 」誕生日 でも延べた通りである。
楠木正成は、河内国石川郡赤坂村(現大阪府南河内郡千早赤阪村)の出生とされているが、河内には楠木姓の由来となるような地名はなく、生年に関しての確実な史料(以下に記載の※参照)は存在せず、 正成の前半生はほとんど不明で、日本史上きわめて有名でありながら出自がこれほど謎に包まれた人物は他にいないといわれる。様々な歴史家による懸命な研究努力にも拘らず、正成が確かな実像として捉えられるのは、元弘元年/元徳3年(1331年)の元弘の乱において下赤坂城での挙兵(赤坂城の戦い)から延元元/建武3年5月25日(ユリウス暦:1336年7月4日、グレゴリオ暦:1336年7月12日)、湊川(兵庫県神戸市)の地で足利尊氏と戦い(湊川の戦い)自刃するまでのわずか6年ほどに過ぎない。
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇の公家中心の政治に、不満を持つ武士の中に、尊氏もおり、尊氏の反乱によって、各地で戦闘が始まる。鎌倉幕府の北条氏の残党、北条時行が信濃で兵を挙げ鎌倉に攻め込んだ(中先代の乱)のを機に、尊氏は、後醍醐天皇の勅状を得ないまま乱の討伐に向かい、時行を駆逐してそのまま鎌倉へ留まり建武政権から離反し、武家政権を復活しようとした。朝廷は尊氏を反逆者とみなし、新田義貞に討伐を命じ、天下はふたたび戦乱の世に入り、それから約1年間は足利と新田の戦が続いた。
延元元年/建武3年(1336年)足利軍が京都を占拠するが、わずか半月足らずで、新田義貞・楠木正成・北畠顕家らに敗れ、京都を追われ九州へ落ち延びた。ここで、正成が後醍醐天皇に、状況が宮方に有利な今のうちに足利方と和睦する事を進言するが、後醍醐はこれを退け、義貞を総大将とする尊氏追討の軍を西国へ向けて派遣した。この時、正成は和睦を進言した事で朝廷の不信を買い、この追討軍からは外され、国許での謹慎を命じられた。義貞は播磨国白旗城に篭城する足利方の赤松則村(円心)を攻めている間に時間を空費し、この間に、足利方が九州で軍勢を整えて再び京都へ迫る。尊氏軍の東上に遭い、撤退を始めた新田軍に赤松勢が追撃を仕掛け、新田軍は大量の寝返りや足利軍への投降者を出しながら敗走した。一気に陣営がやせ細ってしまった義貞は、兵庫まで兵を退いて体制の立て直しを図った。正成は同じ官軍であった義貞の武将としての才能を見限っていて、後醍醐天皇に新田義貞を切り捨てて尊氏と和睦するよう進言するが容認されず、次善の策として、一旦天皇の京都からの撤退を進言するがこれも却下される。絶望的な状況下で義貞の麾下での出陣を命じられる。同年5月23日、正成は、足利尊氏の大軍(『太平記』によると、尊氏の軍勢は数十万とされている。)を迎え撃つため、決死の覚悟で兵庫へ向かって出陣し、途中、桜井の駅(大阪府三島郡島本町)で、嫡男正行に対し、「自分は生きて帰らないつもりで戦場に向かうので、お前は故郷の河内に帰って朝廷(ここでは後醍醐天皇)に忠誠を誓え。」と諭したと記されている。この正成・正行(まさつら)父子の「桜井の別れ」のエピソードが、どの程度信憑性があるかは別として、「青葉茂れる桜井の里のわたりの夕まぐれ……」で始まる唱歌(落合直文作詞、奥山朝恭作曲)「桜井の訣別」は有名。
MIDI 「青葉茂れる桜井の」 ↓
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/aobashigereru.html
そして、同・延元元年/建武3年(1336年)5月25日(現在の暦では7月12日)、水軍を用意できなかった新田軍は、本陣を二本松(和田岬会下山の中間)に置き、和田岬にも新田義貞の弟脇屋義助などの軍勢を配置して水軍の上陸に備えた。楠木軍は湊川の西側、本陣の北西にあたる会下山に手勢700で陣を敷いた。合戦では、足利直義を司令官とする陸上軍の主力は西国街道を進み、少弐頼尚は和田岬の新田軍に側面から攻撃をかけた。また、斯波高経の軍は山の手から会下山に陣する正成の背後に回った。さらに、細川定禅が海路を東進し生田の森から上陸すると、義貞は退路を絶たれる危険を感じて東走したため、楠木軍は孤立してしまった。ここで、誰も居なくなった和田岬から、悠々と尊氏の本隊が上陸。正成は重囲に落ち、奮戦するものの多勢に無勢はいかんともしがたく、楠木軍は壊滅。正成は弟の正季ら一族とともに自害し、義貞は京へ退却した。 
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