今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

皇紀2600年祝賀式典

2005-11-10 | 歴史
1940年 (昭和15年) の今日(11月10日)、 各地で皇紀2600年祝賀式典が行われた。宮城(皇居)前広場に特設された式場では海外からの招待者を含む約5万人を集めて盛大に開催された。 一般に「皇紀(こうき」)と呼ばれているものは、正式には「神武天皇即位紀元(じんむてんのうそくいきげん」のことであり、神武天皇を初代とする歴史観に則った儀式である。天皇(昭和天皇)は、近衛文麿首相の寿詞(よごと=天皇の治世長久を祈る言葉)を受けた後、「大道ヲ中外ニ顕揚(けんよう=名をあらわす)シ、以テ人類の福祉ト万那ノ協和トニ寄与スルアランコトヲ期セヨ」と勅語を読み上げた。式典の模様はラジオで実況中継されたが、天皇の肉声は流されなかったそうだ。(週刊20世紀・朝日クロニクルより)
昨日(11月9日)のブログ「太陽暦採用記念日」でも書いたように、1872(明治5)年に、明治政府が、それまでの太陽太陰暦(旧暦)をやめて太陽暦(新暦)を採用するという詔書を布告(太政官布告第342号)し、明治5年12月2日(当時の太陽太陰暦、旧暦では明治5年11月15日)の翌日を明治6年1月1日とすることにした。この太陽暦採用と同時に施行された。
紀元元年が天皇制の始まりとすると、まさに、このときから、天皇の歴史と国の歴史を一致させたことになるわけである。 神武天皇が即位したのがいつであるかについての根拠については、明治時代の歴史学者那珂通世(なかみちよ)が、日本の紀年問題について「辛酉革命説」の中で、紀元前660年に神武天皇が即位したものとの説をたてた。この神武天皇の即位が西暦紀元前660年と計算されたことから、神武天皇即位紀元は西暦よりも660年大きな値となり、1940年(昭和15年)が神武天皇即位紀元2600年になるというのである。
「古事記」「日本書紀」によると神武天皇は天上の高天原から南九州に下った「ニニギノミコトの曽々孫カムヤマトイワレヒコのミコト。九州から大和に入り、その地方を平定の後、紀元前、660年1月1日橿原宮(現在の奈良県橿原市)で初代天皇として即位したと伝えられる。しかし、紀元前7世紀といえばまだ、縄文の世。既に、国家が成立していたとは考えにくく、大和を中心とする政治勢力が全国統一に着手をするのはが3~4世紀頃ではないかとするのが現在の歴史観の大勢ではないか・・・。
年号には、西暦や昭和・平成といった元号のほか、この皇紀年号が制度として明文化されたのは、この明治5年の太陽暦への転換をなしとげたのと同時だったが、制度化されたのちも、皇紀年号って、実際には、あまり使われていなかったようだ。それが、急に使われだしたのは、どうも、この1940年(昭和15年)の神武天皇即位紀元2600年の記念式典の催しからのようである。
兎に角、1935(昭和10)年11月、「皇紀2600年記念日本万国大博覧会」を、1940(昭和15)年3月15日~8月31日まで開催することが決定し発表された。しかし、1938(昭和13)年7月15日、開催の延期を決定(結局は開催されないままとなった)。この前年、1937(昭和12)年、日中戦争が始まり次第に戦況が悪化してくると、国家総動員法(昭和13年法律第55号)が成立し、正に国民総動員の軍国主義へ日本が突き進んでいき、中国での戦局が膠着し始めた1940年(昭和15年)、政府はこの年が「皇紀2600年」に、該当することから、これを機に天皇中心の国家神道体制を起用して国民の志気を高めようと考え、紀元2600年祝賀記念行事を多彩に催したのではないだろうか。この年の紀元節には天皇が「紀元二千六百年ノ詔書(昭和15年2月11日)」を出した。
「朕惟フニ神武天皇惟神ノ大道ニ遵ヒ一系無窮ノ宝祚ヲ継キ万世不易ノ丕基ヲ定メ以テ天業ヲ経綸シタマヘリ歴朝相承ケ上仁愛ノ化ヲ以テ下ニ及ホシ下忠厚ノ俗ヲ以テ上ニ奉シ君民一体以テ朕カ世ニ逮ヒ茲ニ紀元二千六百年ヲ迎フ今ヤ非常ノ世局ニ際シ斯ノ紀元ノ佳節ニ当ル爾臣民宜シク思ヲ神武天皇ノ創業ニ騁セ皇図ノ宏遠ニシテ皇謨ノ雄深ナルヲ念ヒ和衷戮力益々国体ノ精華ヲ発揮シ以テ時艱ノ克服ヲ致シ以テ国威ノ昂揚ニ勗メ祖宗ノ神霊ニ対ヘンコトヲ期スヘシ」・・・・難しくって良くわからないが。ここを見ると少しは分りやすいよ。
つまり、「今や非常の事態なので国威を高揚し、戦争への協力をもっと熱心につとめよ」といったようなものであった。この日、全国の神社では大祭が行われたが、その内容は、当然天皇に関係する明治神宮・橿原神宮・伊勢神宮などといった聖地を崇め直そうというものであった。政府主催の記念式典が行われた11月10日から5日間、全国各地で旗行列・提灯行列・音楽行進・祝賀宴会が行われ花火が打ち上げられたようだ。又、各家庭においては、戦力強化のための貯蓄奨励、各記念日の国旗掲揚、各地で開催される祈願祭への参加などが指示されていたという。当時「贅沢は敵だ」・「遊楽旅行廃止」なといったスローガンが駅に張られるなど観光旅行の自粛を政府は国民に呼びかけていたが、このような「聖地参拝」だけは、その例外とされ、むしろ割引乗車券を販売するなど推奨していた。だから、国民は長く旅行を遠慮していたこともあって大手を振ってそれらへ出かけ、1940年(昭和15年)の橿原神宮参拝者は約1000万人、伊勢神宮は約800万人を数えることになったという。
当時歌われた歌に「紀元二千六百年」の歌(作詩:増田好生、作曲:森義八郎 。昭和14年 日本放送協会製作)がある。
金鵄(きんし)輝く 日本の 、栄(はえ)ある光 身にうけて、いまこそ祝え この朝(あした)、紀元は二千六百年、ああ 一億の胸はなる
MIDIは→「紀元二千六百年」 
この歌は、紀元二千六百年を祝うために歌詞、曲ともに国民から公募されたもので、連日、NHKのラジオで流され、広く普及したという。また、リズムが良く、歌い易いために、いくつかの替え歌も作られたそうだ。
「替え歌煙草値上げの歌」
「金鵄あがって15銭 はえある光30銭 いまこそきたるこの値上げ 紀元は二千六百年 ああ一億の民は泣く」
支那事変(日中戦争)の戦費不足を補うため、庶民が愛好したタバコである「金鵄(きんし=ゴールデンバット)」、や、「ひかり」、「鵬翼”(ほうよく)」までも値上げしたのを不満に鬱憤晴らしに歌ったものだろう。
軍や民間で広く用いられるようになった皇紀年号も1945(昭和20)年の終戦以降、使われることはなくなった。戦後何もかも失った中から経済復興した日本も、植木等の「スーダラ節」などを歌って、極楽気分を謳歌している間に、バブルもはじけて、気がついてみれば、今の日本の財政状況は、戦争をしたわけでもないのに戦後の時と変らない赤字財政だという。小泉新政権の内閣改造人事も先日発表され、いよいよ、これからは、嫌が上にも、増税時代に入るだろう。庶民のささやかな気分転換用の発泡酒も酒税がアップされるらしい。
そのときは、「発泡酒あがって○○円、・・・・」てな、替え歌でも歌って気晴らしするしか仕方がないのかね~。
(画像は奉祝紀元2600年」の横断幕を掲げて更新する東京地下鉄労組。週刊20世紀・朝日クロニクルより)
参考:
神武天皇即位紀元ーWikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E7%B4%80
紀元2550年・2600年奉祝
http://www.tanken.com/2600.html
中野文庫 勅 語 (おことば)
http://www.geocities.jp/nakanolib/choku/chokugo.htm
紀元2600年
http://www.fiberbit.net/user/eyeland/kokumin/05kigen2600.htm
皇紀2600年奉祝楽曲
http://www.tcat.ne.jp/~eden/Music/dic/kouki2600.html
紀元二千六百年の勅語
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/chokugo-3.htm
歌は世につれ世は歌のつれ
http://8.pro.tok2.com/~susa26/natumero/index.htm
いざ行かん! 紀元二千六百年式典
http://www.tanken.com/sikiten.html