今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

いい肉の日

2012-11-29 | 記念日
日本記念日協会の今日・11月29日の記念日として、肉の日が登録されている。
全国有数の肉用牛の産地である宮崎県の「より良き宮崎牛づくり対策協議会」(※1)が味と品質の良さで知られる宮崎牛をアピールするために制定したもの。日付は11と29で「いい肉」と読む語呂合わせから。
今日は、「いい肉の日」であるが、 2月9日や毎月29日も、「に(2)く(9)」の語呂合せで、「肉の日」として、焼肉店などでセールが行なわれているようだ。
私は、前にこのブログで毎月29日「肉の日」として、書いた(http※2参照)ので、どうしようかと思ったのだが、今日は、ただの「肉の日」ではなく、「いい肉の日」なので、前回のブログと少々重複することもあるが、私は肉が大好きなので、又、少し視点を変えて書いてみることにした。
」と言えば、皆さん、先ずどんな肉を思い浮かべますか?
肉の好みは、関西や東京、又、他の地域でも随分違うようだ。
関西では、単に肉と言えば「牛肉」だが、関東などでは、豚肉が好まれるようだが、肉の好みはそのまま消費者の購買に繋がるので、スーパーなどの肉売り場での棚割り(※3:「MD-ing講座」の(13)「棚割」参照)などを見れば直ぐ分かる。
関西では牛肉のスペースが広いが、東京などでは豚肉のスペースが広い。又、私など現役時代信州や福岡など馬肉を良く食べる地域へ行くと馬肉のスペースが、大分などのように鶏の好まれる地域では、鶏のスペースが広く取られている・・・といった具合だ。
 ちなみに、農林水産省所管の独立行政法人である農畜産業振興機構(※4)の調査・報告 畜産の情報 2012年11月号:牛肉の販売意向調査の結果(24年度下期)によると、同機構が今後の食肉の販売動向を把握するため、9月に量販店と食肉専門店を対象に販売意向のアンケート調査を実施した結果、“調査時点における食肉の取扱割合(重量ベース)については、量販店では概ね牛肉3割、豚肉4割、鶏肉3割といった構成になった。
この割合を前回調査(平成24年2月、3月)と比較すると牛肉は8ポイント増加している一方、豚肉と鶏肉がそれぞれ減少している。これは、平成23年7月に発生したセシウム問題(※5参照)の影響が緩和し、豚肉や鶏肉へ一時シフトした消費が戻ってきたものとみられる。一方、食肉専門店では、牛肉4割、豚肉4割、鶏肉2割という構成であり、銘柄牛などの品揃えが量販店より充実している分、牛肉の割合が高くなっていると思われる”・・・とある。
人の食用の肉では、この他、馬肉、羊肉、猪肉などもよく食べられているが、上位3位の牛・豚・鶏の重量ベースでの販売量としては、ほぼ同じような感じである。しかし、人によって、肉の中でも好き嫌いはあるだろうが、なんといっても、一番好んでたべられ肉と言えばやはり牛肉だろう。
牛肉は、良質なたんぱく質の供給源であり、脂質・たんぱく質・が豊富に含まれており、特徴としては鉄が豚肉よりも多く含まれている事。肉に含まれる蛋白質は私達の体を構成するのに不可欠な必須アミノ酸を含んだ良質な蛋白質で抵抗力をつけるのに効果的。ただし動物的脂肪にはコレステロール上昇作用があるので食べ過ぎないよう、適量を摂取するようにする必要があるそうだ(※6:「食育大辞典」肉類>牛肉より)。

「天地の間に生るゝ動物は肉食のものと肉を喰はざるものとあり。獅子、虎、犬、猫の如きは肉類を以て食物と爲し、牛、馬、羊の如きは五穀草木を喰ふ。皆其天然の性なり。人は萬物の靈にして五穀草木鳥魚獸肉盡く皆喰はざるものなし。此亦人の天性なれば、若し此性に戻り肉類のみを喰ひ或は五穀草木のみを喰ふときは必ず身心虚弱に陷り、不意の病に罹て斃るゝ歟、又は短命ならざるも生て甲斐なき病身にて、生涯の樂なかるべし。古來我日本國は農業をつとめ、人の常食五穀を用ひ肉類を喰ふこと稀にして、人身の榮養一方に偏り自から病弱の者多ければ、今より大に牧牛羊の法を開き、其肉を用ひ其乳汁を飮み滋養の缺を補ふべき筈なれども、數千百年の久しき、一國の風俗を成し、肉食を穢たるものゝ如く云ひなし、妄に之を嫌ふ者多し。畢竟人の天性を知らず人身の窮理を辨へざる無學文盲の空論なり。・・・・」(中簡略)「今我國民肉食を缺(かい)て不養生を爲し、其生力を落す者少なからず。即ち一國の損亡なり」・・・。

これは、福澤諭吉 の『肉食之説(にくじきのせつ)』(※7:青空文庫参照)からの抜粋である。
明治3年(1870年)に福澤諭吉が『学問のすすめ』ならぬ、食肉のすすめを説いたもの。
よく日本人は、草食人種だなどと言われるが、古来、人間の食生活は肉食から始まったといわれ、日本人も古来食べていたのだが、仏教の殺生戎の影響による肉食禁忌は、一種の迷信化して長く日本人の食生活を縛っていた。

富国強兵をめざす明治政府は、文化や国民生活の近代化を促進する必要から、率先して西洋の近代思想や生活様式を積極的に取り入れようとした。
この風潮は、明治初年の新しい世相ともなり、民間におけるジャーナリズムやその他を通して啓蒙運動を促進した。この傾向は、庶民の生活様式にも一部受け入れられ、東京などの大都市を中心に広まった。当時、この風潮は文明開化と呼ばれた。
明治4年(1871年)の散髪脱刀令学制発布、博覧会の開催、同5年の国立銀行の創設、太陽暦(グレゴリオ暦)の施行、6年の地租改正などを始めとして生活の洋風化となり、衣食住にも大きな影響を与え近代化への道を促進することとなった。
この文明開花への啓蒙思想を順調に庶民層に浸透させるために、もののもつ合理性が唱えられるようになったが、これは、福沢諭吉の学問論の基調に通じるものであり、従来権威とされた儒学和学は古来世間でいうほど貴ぶべきものではなく、むしろ「専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学」(※7:「青空文庫」の『学問のすすめ』初編上段部分参照)こそ本当の学問で、これは、日常生活に必要な「物事の道理」を知るためのものである。つまり、この実用性と合理性こそ文明開化の原理であるとする考え方によるものであった。
仮名垣魯文(かながきろぶん)の戯作(げさく)『安愚楽鍋』(明治4年-5年出版)にも、

「文明開化の世の中、牛肉を食べると穢れると思う人は窮理学(きゅうり学)を辨(わきま)へねへからのことでげス、そんな夷(えびし)に、福澤の著(かい)た肉食の説でも、讀ませてへネモシ西洋にやア、そんなことはごウせん、彼土(あっち)はすべて、理でおして行く國がらだから、蒸気の船や車のしかけなんざア、おそれいったもんだネ。」(※8で安愚楽鍋が読める、“西洋好(ずき)の聴取(きゝとり)”の段参照)と、

書かれており、このような合理思想は「明治文化研究会」の編集により、明治時代の基本的文献を集成した叢書『明治文化全集』に収録の文献には共通したものだったという。
明治政府は文明開化政策を行い、諸外国の文化文明を積極的に導入することとし、政治、経済などあらゆる分野で文明開化が開花した。その影響は、生活様式にまで及び、その中で、庶民の最も身近な食生活にも養生と栄養の必要が唱えられ、新風が吹き込んできた。それが欧米食の移入であった(※9参照)。
そんな文明開化の欧米食と言えば、一番代表的なのが牛肉だった。

しかし、上古から階級を問わず、肉食を忌避してきために、『肉食の説』では、「肉は臭いというが、魚や干物だって臭いし、茄子大根の漬物だって匂いはするし不衛生」 だとか 「黒鯛の吸い物がうまいと言ったって、それは大船で人の糞を食べた魚であって、牛は五穀草木を食べて水を飲むのみ。」といった酷い話を例にあげ、肉を食べない人に対して、魚しか食べないことの短所を挙げたうえ、攻撃的とさえ言える書き方で、肉を食べることのメリットを紹介しているが、そこには、当時の人が「肉なんて臭くて汚くて食えたもんじゃねえ~」とか、牛を殺すのは可哀想だとか、数々の迷信を信じてなかなか肉を食べようとしなかった背景があったからだろう。
文明開化を推し進めなければならなかった明治の日本人には、日常生活から外交まで、あらゆる面で敵が迫っていたため、 いろんなことと戦わなければならなかったことから、肉食一つにしても、ここまで激しく立ち向かわなければならなかったのかもしれない。

幕末ペリーが開国を要求して黒船が浦賀に到来して以降、横浜に居留するようになった外国人に対する牛肉調達の必要性が生じた。
近畿や中国地方のウシが、家畜商の仲介で神戸港に集められて横浜に運ばれ、慶応3(1867)年には幕府の御用達で芝白金(現:東京都港区白金) に屠(と)畜場が作られた(※10 )。
ビーフステーキを好む外国人にとって、白糠(シロヌカ)や豆腐粕(おから)で肥育され船で運ばれてきた「神戸ビーフ」の評判は格別だったようだが、江戸町民たちには鍋料理としてひろまった。
特に人気の高かった牛鍋は、ももんじ屋で人気のあったカモ鍋や牡丹鍋のように、ぶつ切りの牛肉とザク(雑具:付け合せの長ネギ、コンニャク、焼き豆腐など)を味噌で煮ていたものだったそうだ(※11 参照)。

上掲の図は「ももんじ屋」。広重の「名所江戸百景」から“びくにはし雪中“。山鯨(やまくじら)はイノシシの肉。
ももんじ屋とは、江戸時代の江戸近郊農村において、農民が鉄砲などで捕獲した農害獣の猪や鹿を利根川を利用して江戸へ運び、その他犬や猿、牛、馬など牛肉、馬肉等を肉食させたり、売っていた店(獣肉店)のことらしい。
表向きは肉食忌避があったから、これらを「薬喰い」と呼んだ。そして、猪肉を山鯨(やまくじら)、鹿肉を紅葉(もみじ)などと称した。
江戸では両国広小路、あるいは麹町にあった店が有名であったそうだ。これらもともとあった肉食文化が明治初期の横浜や、東京での牛鍋屋開店につながっていった。
そこへ、明治に入ると、文明開化の風潮に乗って、福澤福沢が『肉食の説』で「今わが国民肉食を欠いて不摂生を為し、其生活力落す者少なからず。即ち一国の損失なり」と肉食の必要性を説き、また、仮名垣魯文が『安愚楽鍋』の中で、東京での牛肉流行のありさまを描いて「士農工商老若男女、賢愚貪福おしなべて、牛鍋食はねば開化不進奴」といい、明治2年(1869年)に海軍が牛肉を栄養食として採用し、又、明治天皇が文明国の取るべき態度として、断髪のうえ洋装して、和食をフランス料理に変えている。
これが、明治5年正月発行の『新聞雑誌』第26号に天皇が肉食奨励の方針にそって、肉食の禁を破って率先して牛肉を食べ始めたとして記載される。
そして、同年4月に僧侶の肉食妻帯が許されることになり、国民も肉食に対する偏見を改めるようになり、牛肉を食べない者は文明人ではないというような時代を迎えることになるが、牛肉の普及に大きく貢献したのは、やはり、福沢諭吉や仮名垣魯文などの知識人による肉食啓蒙であったと言えるようだ。
以下は、仮名垣魯文の小説「牛店雑談安愚楽鍋」の挿絵である(※12参照)。

牛鍋屋 仮名垣魯文『牛店雑談安愚楽鍋』1871年(明治4)刊 横浜開港

明治時代に一世を風靡した牛鍋は、関東大震災をきっかけに、関西風に卵をつけて食べることが多くなったすき焼きと、大衆食堂で親しまれた安価な牛丼に分化していったようだ。
大平洋戦争により肉食の普及が一時後退。
そして、敗戦直後の食糧難時代には食肉は手に入れることが難しくなるが、1949(昭和24)年になってようやく小売店で自由に買うことができるようになったが、食肉の消費量が戦前の水準を越えたのは1956(昭和31)年になってからのことである。
この年、日本経済は復興から高度成長に移る。以後アメリカの食文化の積極的な導入により食肉の消費は拡大し、食肉の国産化、大規模飼育経営へと転換してゆく。
しかし、牛肉は高いので、普段は一般家庭ではなかなか食べられなかった。その肉が、今のように、安い価格で、毎日でも食べれるようになったのには、スーパーの影響が大きい。戦後、高くて食べたくても食べられない肉を、目玉に安く売り出したのが、スーパーのはしりであるダイエーであった。
ダイエーは、この肉の安売りを戦略にして、当時の庶民に人気を得、急成長したのである。そのダイエーも、創業者のワンマン経営から、財務状況が悪化し、今では、急成長したイオングループ(前身はジャスコ)の傘下にあるが、正に『平家物語』じゃないが“驕 れる人久しからず”といったところだが、流通業のリーダーとして果たしたその功績は大きい。

昭和後期(1965年以降)に入り、肉食の大衆化が進み1970年代初頭には、外国肉が輸入されるようになり、1991(平成3)年から牛肉の輸入自由化(※13参照)がなされ今日に至っている。
このような、食肉(牛肉、豚肉)は、畜産農家で肥育された肥育牛、肥育豚が、と畜場でと畜・解体された後、日本では、主に枝肉の形で、全国200余ヵ所の食肉卸売市場(食肉取引の指標となる枝肉の価格形成の場所)、食肉センター(食肉卸売市場以外の枝肉取引が行われる場所)等での取引を経て、枝肉から部分肉そして精肉(直接調理できるように整形した食肉)へと流通する。
これら、食肉(牛肉、豚肉)は流通の指標としての客観的な規格により格付を受け、その結果により価格が形成される。
この食肉の格付規格は、食肉規格格付事業を専門的に行う機関として、1975(昭和50)年に、当時の畜産振興事業団(現在、独立行政法人 農畜産業振興機構)、都道府県、生産者団体及び流通団体を会員として設立された社団法人日本食肉格付協会(※14)の格付規格(「畜産物の価格 安定等に関する法律」〔畜安法〕に基づく。※15参照)により行われている。
また、肉食の大衆化と共に、消費者ニーズにマッチするように部位別、用途別(※16参照)の販売が進む一方、食肉のおいしさ、質、安全性が重視されるようになると共に牛肉も産地化、ブランド化が進んでおり、有名なものとしては、我が地元の神戸ビーフ(神戸牛)のほか、松阪牛(三重県)、近江牛(滋賀県)、米沢牛(山形県)それに、今日のブログ「いい肉の日」を登録している宮崎県の宮崎牛などがあり、このほかにもかなり多くの銘柄がある。   
牛肉のブランドは、産地(地理的表示)、血統(品種)、枝肉の格付け(枝肉の状態で A-5 から C-1 までの15段階に格付け。※16参照)、飼育法などにより、ある一定の基準を満たしたものに付けられているのが一般的ではあるが、それらのすべてが必ずしも一定の基準によってなされているとは限らないようだ(ブランド牛肉参照)。
ところで、牛肉のブランドの個別の話しに入る前に、礼儀として、今日のブログ「いい肉の日」を登録している宮崎県の宮崎牛の話しをしておこう。
宮崎県は、日本有数の農業県であり、2009(平成21)年の都道府県別にみた農業産出額は全国5位(九州では鹿児島に次いで2位)。温暖な気候を利用し、稲作においては超早場米の生産地として有名であり、また、野菜・果実等の促成栽培、葉たばこ・サツマイモ等の商品性作物の生産が盛ん。また、牧畜業は乳牛・肉牛・豚・鶏の全てにおいて日本有数の生産高を誇り、同年の肉用牛産出額も全国1位の鹿児島県に次いで全国2位となっている(※17)。
以前はそれほど知名度が高くなかった農畜産物も、2007(平成19)年に、元ビートたけ率いる芸人集団・たけし軍団の一員でビートたけしの最初の弟子であった東国原英夫は、宮崎県知事選に立候補した時から元たけし軍団の吉川敏夫又、東国原の一番弟子で、ビートたけしの初孫弟子でもある早川伸吾を選挙活動のスタッフに就け、その顔を生かして、保守陣営の分裂という追い風も幸いして見事知事選に勝利。
県知事に就任してからも、吉川を政務秘書とし、早川もスタッフ(東国原の側近と称される)につけ、タレントとしての全国的な知名度を最大限に生かして、自ら「宮崎県のセールスマン」と称し、積極的にマスメディアに出演。まるで、タレントのままのようにバラエティー番組などへの出演も多く、それを見て眉をひそめる人も少なくはなかったと思うが、テレビなどマスコミでの宣伝効果は大きく、急速に宮崎県産品の知名度を向上させることには成功した。
しかし、2010(平成22)年日本における口蹄疫の流行は、宮崎県畜産家を直撃し、大きな被害を出した。このときの県の対応については、3月下旬に感染が疑われる牛が見つかったにもかかわらず、最初の感染事例として公表したのが4月20日であったことから、3月に対策をとっていれば感染拡大は防げたとも指摘もされている。
それはさておき、2008(平成20)年10月1日付で設立された財務省所管の政策金融機関である日本政策金融公庫が、差別化に結び付けて競争力を高めるためには、「ブランド」とは何か、その価値は何によってもたらされるのかを明確にする必要から、日経リサーチ(日本経済新聞グループの総合調査会社)に委託して農産物ブランドに関する調査を実施し、特に、ブランド数が多く、全国的に取り組みの見られる事例である豚肉・牛肉のブランドについて、バイヤー・消費者・生産者に対するアンケート調査(平成20年3月)を行った結果をまとめその概要を発表している(※18)。
その中から、牛肉のブランドについての結果を一部抜き出してみる。
■バイヤーが評価する牛肉ブランドは・・・
○1位「松阪牛」、2位「神戸ビーフ(神戸肉)」、3位「鹿児島黒牛」であり、続いて、4位、米沢牛(山形県)、5位佐賀牛(佐賀県)、6位、宮崎牛(宮崎県)7位、飛騨牛(岐阜県)、8位近江牛(滋賀県)、9位、いわて前沢牛(岩手県)、10位、仙台牛(宮城県)となっている。
この時の調査対象全176ブランドのうち、バイヤー199人(178社)のうち、ひとりでもバイヤーが評価していると回答したブランドは、112 銘柄あったが、そのうちの10 人以上から評価されたブランドは たったの16 銘柄だった。
1位「松阪牛」と2位「神戸ビーフ(神戸肉)」について、「松阪牛」はランキングを構成する16項目のうち12項目が1位評価、1項目が3位評価を得た。3位以内の評価を得られなかったのは「価格水準が妥当」「価格面での取り引き条件がよい」「取り引きの対応が柔軟」の3項目であった。
一方の「神戸ビーフ(神戸肉)」も16項目のうち12項目で3位以内の評価を得た。3位以内に入らなかった4項目のうち、「価格水準が妥当」「価格面での取り引き条件がよい」は「松阪牛」と同様であったが、「松阪牛」では1位の「品質がよい」、「今後(も)、取り扱いたい」という回答はそれそれ4位と7位だったそうだ。
○ 価格や取り引きに対する評価が高いブランド・・・では、
価格や取り引きに対する評価が高いのは3位「鹿児島黒牛」と6位「宮崎牛」であった。
「価格水準が妥当」「価格面での取り引き条件がよい」「取り引きの対応が柔軟」の3項目全て、「鹿児島黒牛」が1位、「宮崎牛」が2位の評価を得た。「鹿児島黒牛」に対しては、「松阪牛・神戸ビーフ(神戸牛)より味の面では劣るが、量販で価格訴求する商品としては外せない。頭数、価格面での条件は非常に良い」(スーパー、和歌山県)、「宮崎牛」には「品質が良く、販売価格面でもリーズナブルな売価設定ができる」(スーパー、鹿児島県)というバイヤーの声があがっているそうだ。
僅差の4位と5位評価しているブランドとしてあげたバイヤーが「米沢牛」では 90人いるのに対し、「佐賀牛」は 65 人であったが、総合得点は4位「米沢牛」と、5位「佐賀牛」との差は僅か 2.6 点。「佐賀牛」は「品質がよい」と「価格水準が妥当」を両立させている点で「米沢牛」を上回り、「今後(も)、取り扱いたい」というバイヤーの意向が高いという。
■消費者が評価する牛肉ブランドは・・・1位「松阪牛」、2位「米沢牛」、3位「神戸ビーフ(神戸肉)」であり、4位、近江牛(滋賀県)、5位飛騨牛(岐阜県)、6位兵庫産〔但馬牛〕(兵庫県)、7位、山形牛(山形県)、8位仙台牛(宮城県)、9位佐賀牛(佐賀県)、10宮崎牛(宮崎県)となっている。
概要
○「食べたことがあってまた食べたい(または食べたことはないが今後食べてみたい)」ブランドに対する評価をもとにランキングを作成したが、調査対象全 176 ブランドがランキングの対象となった。
○「松阪牛」バイヤー編と二冠
「松阪牛」が2位の「米沢牛」に 100.0 点差をつけ1位になった。ランキングを構成する 12項目については、「広告・キャンペーンが魅力的」「ネーミングやラベルデザインがよい」を除く 10 項目で最も多くの消費者から評価を得た。バイヤー編では「価格水準が妥当」に対する評価は32位だったが、消費者編では最も 評価が高かったようだ。味に対する評価が最も高く、「食べたことがあってまた食べたい(または食べたことはないが今後食べてみたい)」は、725 人のうち 704 人が「味がよい(おいしそう)」と答えた。
○「松阪牛」以外で評価項目の首位を獲得したブランド
「広告・キャンペーンが魅力的」では「宮崎牛」が最も評価された。消費者からは、「宮崎の東国原知事のPRなどで有名になったのと、賞をとったとの報道など でいいイメージがあるので」(40 代、北海道)という声があがったようだ。
○2位「米沢牛」は「松阪牛」が最も評価された10項目で、2位か3位という「松阪牛」に次ぐ安定した評価を得た。僅差の3位から5位は、3位「神戸ビーフ(神戸肉)」から5位「飛騨牛」まで点差は 3.9 点。この3つのブランドでは、「味がよい(おいしそう)」など6項目に対する評価に大きな差はなかったが、マーケティングの部門では点差が開いた。「神戸ビーフ(神戸肉)」は「食べたことがあってまた食べたい(または食べたことはないが今後食べてみたい)」「プレミアム価値を感じる」「広告・キャンペーンが魅力的」「ネーミングやラベルデザインがよい」、「近江牛」は「周囲の評判がよい」、「飛騨牛」は「産地のイメージがよい」と 評価されたようだ。
しかし、「地域ブランド」制度について、消費者の65,0 %が「知らない」と回答した。「名称を聞いたことがある」が 29.6%で、「内容を知っている」と答えた消費者は僅か 5.2%と言う結果だったようである。
ブランド牛肉や豚肉について、「どんな手段で情報を得ていますか。」の質問に半数以上の56.5%が、「スーパーのPOPや店頭広告」で情報収集と最も多かったものの、「テレビ番組・CM」(49.3%)や「新聞の記事・広告」(35.3%)もあるわけだから、宮崎牛のように、元タレントの知事がマスコミで宣伝活動したり、民放のテレビ番組などが、タレントを使って、地域の特産品や、食べものをレポートするような様子で食べさせて、目をぱちくりさせながらタレントにおいしいおいしいと連発させている・・・どう見てもそれは広告ではないか?・・・と思われる番組が非常に多くなった気がする。景気が悪くテレビ局も広告収入が減ったようなので、販売面で苦労している産地や飲食店などに協力させているのだろう・・・と私は見ている。
最近のテレビ番組は、番組なのか宣伝なのか分からないものが非常に多くなったが、これでよいのだろうか?牛肉とは関係ないことだが、私は非常に疑問を感じているところである。
かって、テレビや映画などでの「閾下知覚(いきかちかく;subliminal perception)」が問題になった。
「閾下知覚」とは、簡単に言えば、“閾下の刺激によって生じる知覚”であり、この心理的効果を広告などに利用することがある。つまり、映像を見ている人が気づかない瞬間的映像をテレビ番組や映画に挿入し、見ている人の潜在意識に印象づけることである。
1950年代のアメリカで、後に有名になる「閾下知覚(いきかちかく;subliminal perception)」の実験がおこなわれた。
当時、映画館で上映されていた映画のフィルムの中に、人間が知覚できるかできないかギリギリのほんの短い間、「ポップコーン」という文字を一瞬だけ挿入したのである。その結果、売店でのポップコーンの売り上げが上がった・・・というのである。
そのような視聴者が意識していない一瞬の映像でも映画やテレビで流されると、影響を受けるのに、番組のような体裁を整えて、産地やメーカーの品や食べものを、タレントに食べさせて美味しいおいしいといったことを言わせていると、テレビで取り上げられたところだけが良い品、美味しい品との錯覚を起こさせることになる。そうは、思いませんか?
最近は、報道番組でも、昔のニュース番組のようにただ、事実だけを報道するのではなく、TVキャスターやコメンテーター、それにわけのわからないタレントがああだ、こうだと意見を述べるのは良いが、その発言がかなり視聴者を誘導・扇動していると思われることが多くなってきた。
最近では、2001(平成13)年の第19回参議院議員通常選挙、2005(平成17)年の第44回衆議院議員総選挙で起こった小泉旋風、2009(平成21)年第45回衆議院選挙での民主党圧勝劇などが代表である。308議席を獲得し、戦後初めて野党が 衆議院で単独過半数を得ての政権交代が実現することになった。その結果どうなったか・・・。
今回も野田政権が、野党自民党などから追い詰められて、突然、ヤケクソのように衆議院を解散し、来月選挙が行なわれる。少数野党が乱立し、国民は誰に投票しようかと迷っているが、マスコミの報道は、ますまし、国民を迷わすような報道ばかりである。
政治家のことを色々批判するなら、マスコミはマスコミで、責任を持った報道をすべきだろう。国民を誘導したり、混乱させるのがマスコミの役割ではないだろう。牛肉のこと色々書きたいことがまだまだあるのだが、宮崎牛から変な方向にそれてしまったが、皆さんも参考※19:※20などを見た上で、今のマスコミ報道、特にテレビの番組や報道の仕方に注意してみた上で、よく考えてみてください。私は、今の政治や世の中が少しおかしくなってきた原因に、今のマスコミの番組作りや報道の仕方が相当影響しているのではないかと思っている。

最後に、日本全国のブランド牛の取り組みについては以下参考※21:「財団法人日本食肉消費総合センタ」の「銘柄牛肉検索システム</bn>」を見られると良い。
宮崎牛は、平成19年10月に鳥取で開催された、第9回全国和牛能力共進会で最高賞の内閣総理大臣賞を受賞した他主要9区分中7区で首席を受賞したそうです。これはたいしたものですね。
我が地元兵庫県産の但馬牛(但馬ビーフ) は、兵庫県内で生産される優れた但馬牛をもと牛として、熟練した農家が高度な肥育技術を駆使してつくりだした牛肉で、この兵庫県産(但馬牛)のうちBMS等級(ビーフ・マーブル・スタンダード、肉質等級)が6以上の牛肉が「神戸ビーフ」となる。繁殖から肥育生産者、流通業者を指定登録し、一貫した組織体制を構築している。
又、参考※22:「子供すこやか食の安全・安心.com」の
米国産輸入牛肉の問題点
ファーストフードの美味しい秘密(テレビじゃいえないそのタブー)
などには、小さな子供を持つ親御さんが読むとちょっと恐い話が書かれているよ。参考にどうぞ。



(冒頭の画像は牛肉。Wikipediaより)
参考:
※1:より良き宮崎牛づくり対策協議会HP
http://www.miyazakigyu.jp/index.php
j※2:今日のことあれこれと・・・肉の日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/c78d0ced9edf622386737aa705ecdacb
※3:MD-ing講座
http://www.e4510net.com/oyakudate/md/
※4:農畜産業振興機構
http://www.alic.go.jp/
※5:牛肉のセシウム汚染問題 - Yahoo!ニュース
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/beef_containing_cesium/
※6:食育大事典
http://www.shokuiku-daijiten.com/
※7:青空文庫:作家別作品リスト:No.296:福沢 諭吉
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person296.html
※8:假名垣魯文(Adobe PDF)
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/pdf/kanagakirobun.pdf#search='%E5%AE%89%E6%84%9A%E6%A5%BD%E9%8D%8B'
※9:文明開化による欧米食の移入(Adobe PDF)
http://nccur.lib.nccu.edu.tw/bitstream/140.119/33307/5/55600505.pdf#search='%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89++%E8%82%89%E9%A3%9F%E4%B9%8B%E8%AA%AC'
※10芝浦と場・食肉市場の歩み
http://www.shijou.metro.tokyo.jp/syokuniku/rekisi_keihatu_01_01.html
※11:食肉の知識 - 農畜産業振興機構(Adobe PDF)
http://www.alic.go.jp/content/000001729.pdf#search='%E9%A3%9F%E8%82%89%E3%81%AE%E7%9F%A5%E8%AD%98'
※12:森川和夫:廣重の風景版画の研究(1)139
http://homepage3.nifty.com/morikawa_works/hiroshige139.html
※13:自由化20年、牛飼いの胸をよぎる不安:日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20110225/218600/
※14:日本食肉格付協会
http://www.jmga.or.jp/
※15:畜産物の価格安定に関する法律
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S36/S36HO183.html
※16:食材事典:牛肉
http://www2.odn.ne.jp/shokuzai/Gyuniku.htm
※17:平成21年 農業産出額(都道府県別) - 農林水産省(Adobe PDF)
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http://www.jfc.go.jp/a/information/investigate/column/pdf/column_090723.pdf#search='%E7%
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紅葉狩り

2012-11-22 | 行事
日本では、紅葉する季節になると、人によっては紅葉狩り(もみじがり)も一つの行事になっているかも知れない。
樹木の分類には、マツやスギなど1年を通じて葉が落ちない常緑樹と、サクラ、カエデ、ブナ、イチョウなど冬や乾期に葉の落ちる落葉樹があり、落葉樹が紅葉する。
落葉樹は春に冬芽が発芽して葉を展開し、夏の間に盛んに光合成をして、自らを生長させたり、種子を作るための養分を貯蔵する。そして、秋になり気温が下がってきたとき、薄い葉を持つ落葉樹が緑の葉をつけたままでいると、葉の葉緑体での光合成能力が落ち、植物体(植物の個体)を維持できなくなる。
また、乾燥する冬には葉裏の気孔からどんどん水分を奪われてしまい、樹木全体が死んでしまうことになる。そこで樹木は生育に不利な時期には一度に落葉して、休眠芽(形成されたのち、生長を止めて休眠状態にある芽。)や冬芽の形で休眠する。
一方の、常緑樹は常緑といっても全く落葉しないわけではなく、毎年新しい葉が展開して、古いものから落葉していくが目立たないだけである(植物における休眠参照)。
紅葉(こうよう)とは、こうした樹木の冬支度をしている姿であり、冬に葉を落とすために、秋になって気温が下がりだすと分や水分などの供給を中止すると、葉緑素が壊れてしまうため、今まで見えなかったカロチノイドという黄色色素が浮き出て見え、これが黄色く色づくイチョウなどの黄葉(こうよう、おうよう)である。
また、葉の中に残った糖分によってアントシアンというい色素が出来ていると赤が目立ってくるので、カエデのような赤い紅葉(こうよう) になる。
そして、ブナケヤキなど褐色に変わるのを「褐葉(かつよう)」と呼ぶが、これらを厳密に区別するのが困難な場合も多く、いずれも「紅葉」として扱われることが多い(※1参照)。
同じ種類の木でも、生育条件や個体差によって、赤くなったり黄色くなったりすることがある。
葉が何のために色づくのかについては、その理由は諸説あるが、いまだ明らかになっておらず、落葉する過程でそういう色になるというしか言い様がないらしい。
が深まり、朝晩の気温が下がってくると、草木の葉が赤や黄に色づき、深山で見られる圧倒的な紅葉には誰しもが心打たれるが、一般に紅葉は、落葉樹のものが有名であり、カエデ科の数種を特に“モミジ”と呼ぶことが多く、実際に“モミジ”の紅葉が鮮やかな木の代表種であることに間違いはない。
日本の紅葉は9月頃から北海道の大雪山を手始めに始まり、徐々に南下する。紅葉が始まってから完了するまでは約1か月かかる。見頃は開始後20~25日程度で、時期は北海道と東北地方が10月、関東から九州では11月から12月初め頃まで。また、山間部や内陸では朝晩の冷え込みが起こりやすいために、通常これより早い。
ただ、同じ場所でも毎年色の具合が違う。紅葉の良し悪しには、赤い色素となる糖分が光合成によって作られていることから、日中の天気が良いこと。次に、夜の気温が高いと、昼間作った糖分を使って活動してしまうため鮮やかな赤にならない。そのため、昼と夜の寒暖の差があること。そして、乾燥しすぎると葉が紅葉する前に枯れてしまうことから、適度な雨や水分があることなど、この3つの条件が揃うと真っ赤に色づき綺麗に紅葉する。
紅葉の名所と言われる所(全国的には奥入瀬(青森県)や日光(栃木県)、京都の社寺などが有名)に、渓谷や川沿いが多いのは、こうした条件が揃っているからである。
日本では紅葉の見頃の推移を桜前線と対比して「紅葉前線」と呼ぶが、この前線は寒い北から南へ、山から下の平野部へと進んでゆく。
古の人は奈良の竜田山に住む「竜田姫」という女神が秋を司り、その着物の袖を振って山々を染めていくとしており、平安時代前期の勅撰和歌集である『古今和歌集』(略称『古今集』)の巻五 秋歌下(※2参照)二九八番に次の歌が収められている。

竜田姫 たむくる神の あればこそ 秋の木の葉の 幣(ぬさ)と散るらめ (作者:兼覧王。※2の千人万首 兼覧王参照)

歌の意は、旅立つ竜田姫には手向けをする神さまがいらっしゃるので、秋の木(こ)の葉が神へのささげ物として散るのでしょうといったもの。
竜田山は、生駒山地の最南端、信貴山の南に連なる大和川北岸の山々の総称であり、竜田川流域にあって、その下流は平安時代より、紅葉(もみじ)の名所として名高く、歌枕として多くの和歌に詠まれている。
幣(ぬさ)とは、神に祈る時、神前に供えて撒(ま)く物で、当時、小さく切った布(麻や葛など植物繊維の布のこと)や帛(はく、絹の布のこと)、紙などを用いた。
この歌は、散る紅葉を竜田姫の幣に見立てており、竜田姫を紅葉の化身(秋の女神)とすることによって、秋という季節が華麗に表象されている。
この竜田姫が秋をつかさどる神とされたのは、竜田山一帯が平城京の西に当たり、「西」は陰陽五行説で「秋」にあたるからだといわれている(逆に春は東)。
そして、竜田姫は、佐保姫(さほひめ)が春霞の化身(春の女神)であるのに対し、竜田姫は紅葉の化身(秋の女神)として、東西・春秋の一対の女神として知られる。
又、竜田姫は、「龍田比古龍田比女神社」(龍田神社)に祭られれていた夫神・龍田比古神(竜田彦)同様、いまだ土着の神(秋の風を司る風神)としての面影も宿している。

283 竜田河紅葉乱(みだれ)て流るめり渡らば錦中やたえなむ(今和歌集、読人知らず)

『今和歌集』における竜田の歌の中で、最も古いと捉えられる上掲の二八三番歌も「平城(なら)の帝(みかど)」の歌」として伝承されているようで、竜田川に流れる紅葉がに見立てられている。
紅葉は錦織に喩えられるが、竜田姫は染織物の名手であり、時雨を縦糸に露・霜を横糸にして織ったといわれている。紅葉の色は時雨・露が染めたと思われていた古代・中世ならではの発想である。
この歌も含めて『古今集』の竜田の歌は十四首で、その中の十首が秋の歌である。しかもすべて「竜田川」の紅葉が詠まれており、このように歌枕としての竜田の季節が秋に固定されるようになったきっかけも、先ほどの五行説が反映されたからであろうという。詳しくは、参考※3:※4を参照されると良い。
今の季節、温暖な関西、特に京都の社寺など紅葉で有名なところは、どこも紅葉狩りの行楽客で大いに賑わっていることだろう。今日、明日は天気がよくないが、土日は回復しそうで良かったですね。

上掲の画像は、我が地元兵庫県神戸市北区の有馬温泉郷にある都市公園瑞宝寺公園の紅葉である。温泉街の最高部(標高500m)に位置し、紅葉の名所として知られている。写真は、今年のものではなく2004年11月25日撮影のものであり、時期的には丁度今頃が見ごろである。
歴史的には、豊臣秀吉も有馬をたびたび訪れていたといわれる。秀吉が「いくら見ても飽きない」などと瑞宝寺の紅葉を気に入ったという故事から、この地の紅葉には「日暮しの庭」、「錦繍谷」の別称がある。
公園内には、小倉百人一首にも詠まれている大弐三位(だいにのさんみ。女房三十六歌仙の一人。藤原宣孝の女、母は紫式部。本名は藤原賢子〔ふじわら の かたいこ/けんし〕)の和歌「有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする」の歌碑もある。(歌の意は※2:「やまとうた」の千人万首 大弐三位 参照)

上掲の紅葉の画像は、京都の嵯峨野にある常寂光院のもの(2002年11月14日撮影のもの)。
百人一首で詠まれる小倉山の中腹の斜面にあって境内からは嵯峨野を一望でき、秋は全山紅葉に包まれる。その常寂光土のような風情から寺号がつけられたとされる。木下から光を透かしてモミジの葉の裏から見る光景が素晴らしい。

又、上掲の画像は、勝川春潮画「海晏寺の楓狩」東京国立図書館蔵。 大判錦絵3枚続きの 右2枚である。
江戸の名所は幾つかあるが、品川海晏寺(かいあんじ)に止めを刺すといわれていたようで、俗謡にも、
「あれ見やしゃんせ海晏寺 ままよ竜田が高尾でも 及びないぞえ紅葉狩り」・・と、
昔から紅葉の名所として有名で、奈良の竜田や京の高尾(高雄。京都市右京区の清滝川に沿う景勝地で、北に接する栂尾〔とがのお〕・槙尾〔まきのお〕とともに三尾〔さんび〕とよばれる紅葉の名所)さえ及ばないほどだと謡われている(※5)。
ここでは、「紅葉狩り」を「楓狩」と表記している。つまり。”モミジ(紅葉)”ではなく、”カエデ(楓)”と書いているのである。

日本では、“モミジ”が、紅葉する季節に紅葉を見物をすることを紅葉狩り(もみじがり)紅葉狩りと言っているがそれはなぜか・・・?

900年頃成立した菅原道真撰と伝えられる歌集『新撰万葉集』は、万葉仮名で書かれた和歌と、和歌を漢詩に読み替えたものが載せられており、そこに載せられた猿丸大夫の和歌に小倉百人一首でも有名な以下の歌がある。

奥山に紅葉ふみわけなく鹿のこゑきく時ぞ秋はかなしき (百人一首5番、)

この歌は、新撰万葉集では、万葉仮名で以下のように書かれている。

奥山丹 黄葉踏別 鳴鹿之 音聆時曾 秋者金敷
(おくやまに もみぢふみわけ なくしかの こゑきくときぞ あきはかなしき)

歌意は、奧山に、黄葉した萩の下枝を踏み分けて鳴く、鹿の声が聞こえる。-そんな時だ、秋は悲しい季節だと感じるのは・・・といったとこらしい。(※6:「やまとうた」の小倉百人一首 注釈:猿丸大夫参照)

なお『古今和歌集』215番では「読み人しらず」とされており、「おくやまに」の歌は『猿丸大夫集(猿丸集)』にも入っているが語句に異同があり、「あきやまの もみぢふみわけ なくしかの こゑきく時ぞ 物はかなしき」となっている(御所本三十六人集に拠る)。
猿丸大夫は実に謎の多い人物で、私もファンである哲学者の梅原猛は『水底の歌-柿本人麻呂論』において、柿本人麻呂説を説きその評論で大佛次郎賞受賞指定している。
なぜ猿丸大夫の歌が「よみ人しらず」とされてしまったのか・・・など。興味のある人は、(※6 「やまとうた」の百人一首のなぜこの人・なぜこの一首:第5番猿丸大夫を読まれると良い。

そのようなことはさておき、花札の「モミジに、シカ(鹿)」の取り合わせは、この歌による(上掲の画像は花札「モミジと鹿」)。
葉が落ちて、獣の動きが捉え易く、弓矢で狩り易くなる季節が「秋」であり、この時期が当時のシカ狩りに適した季節であった。
本来なら獣などを捕まえるという意味の「狩り」が、時代とともに小動物や野鳥を捕まえるという意味にも広がり、さらには動植物を採るという意味(みかん狩りやイチゴ狩りなどの「果実狩り」や「潮干狩り」など)になって、草花などの自然を観賞するという意味(「紅葉狩り」「桜狩り(※7)」)の意味をもつようになった。
特に観賞する意味になったのは、狩猟をしない貴族が花や草木を眺めるために野山をめぐる様子を、狩りにたとえるようになったからである。
ただ、実際に。古代(奈良時代あたりまで)、貴族の間では紅葉の枝をもぎ取って賞でるという風習が実際にあった。「花を見る」ことを「花狩り」といい、「紅葉を見る」ことを「紅葉狩り」というのは、花や紅葉をただ眼でみるだけではなく、枝を折るという行動を通して自然との関わりをもとうとする行為だったといえる。
そして、桜などもただ見るだけではなく、実際に枝を折って頭に挿したりした。つまり、能動的に折るという行為で、花と関係をもつことによって親しむという思想である。
そのことは、以前の私のブログ3月16日十六団子の日でも詳しく触れたのでそこを見て欲しいが、農耕民族である日本人の農業は木を倒し、土を掘り起こし、草木を刈るという反自然の環境破壊行為であり、そのような環境破壊行為をすることによって、人は生きてゆけた。そのような生きてゆくための行為への神への感謝の気持ちをこめて、始められたのが、花見の始まりだったのである。
そのような風習から、よく色づいた枝葉を折って、部屋に飾ったり、外出もままならない貴人に献上したり、思いを寄せる人に贈ったりしていたが、平安時代以降は、邸宅や寺院の敷地内にカエデなどを植えてそのまま鑑賞することが多くなり、わざわざ山に入って枝を折って持ち帰る風習は廃れていき、そして「紅葉狩り」という言葉だけが残っようだ。
日本にはカエデ属の植物は多種あるが、各地でごく普通に見るのはイロハモミジオオモミジである。イロハモミジはタカオカエデとも呼ばれるが、この名は前に述べた京都の清滝川渓谷の高雄に因んだものである。
紅葉見物のことを「モミジ狩り」というが、学術的には「モミジ」という植物はなく、植物分類上はカエデもモミジもともにカエデ属樹木を表す同義語であるが、園芸界ではイロハモミジ、オオモミジ、ハウチワカエデなどイロハモミジ系のものをモミジといい、それ以外のイタヤカエデウリハダカエデなどをカエデとして区別する習慣があるようだ。
日本では、一般にはカエデに、楓の漢字をあてるが、中国で楓とはマンサク科の植物であるフウのことで、カエデは槭と書くらしい。フウは日本には自生しないが、葉形がややカエデに似ているので両者を混同したのだろうという。
万葉集巻八に:大伴田村大嬢の詠んだ以下の歌が見られる。

原文:吾屋戸尓 黄變蝦手 毎見 妹乎懸管 不戀日者無(巻八-1623)

読み:我がやど(宿)に もみつ蝦手(かえるで)見るごとに 妹を懸(か)けつつ 恋ひぬ日はなし
歌意:家の庭の紅葉した蝦手(かえるで)=楓(かえで)を見るたびに、あなたのことを思って、恋しくないなんて日はありませんよ。
異母姉の坂上大嬢(さかのうえのだいじょう)に贈った歌である(※8:「たのしい万葉集:」の楓(かえで)を詠んだ歌参照)。
ここでももみじに「黄葉」の漢字を宛てており、「もみじ」と詠んでいるが、本来「もみじ」は動詞であり、草木が秋になって変色することを「もみつ」などといったが、カエデが一番美しく紅葉するので、その別名詞となったのだろういう。 
なお、「もみつ」よりも古くは「もみち」ともよまれている例がある。万葉集巻十-2205、作者不明の以下の歌参照。

秋萩の下葉もみちぬあらたまの 月の経ぬれば風をいたみかも

歌意:秋萩の下葉が赤くなってきた。月が経って行くにつれて風がはげしく吹くからであろうか。
以下参考の※9 「秋萩の 下葉もみちぬ あらたまの(京都府立山城郷土資料館)」では、この歌について詳しく検証をしているが、記紀歌謡には「モミチ」の歌は収録されておらず、万葉集には 「モミチ」・「モミツ」・・・と発音するものは99首、102例。うち、「黄葉」と表記するものが70例と圧倒的に多く、大半が、「モミチ」 = 「黄葉」で、「紅葉」 ・ 「赤」 ・ 「赤葉」の表記はたったの4例しかないという。そして、「モミチ」は巻8と巻10 に集中しているという。
この「秋萩の・・・」の歌の原文は、以下である。

秋芽子乃 下葉赤 荒玉乃 月之歴去者 風疾鴨

冒頭部分「秋芽子乃 下葉赤」は「「アキハギノ シタバモミチ」であり、「モミチ」は普通、万葉集では 「黄葉」と表記するものを、この歌の、「下葉赤」の赤という表現は、極めて稀であり、この歌を訓読みで収録した万葉集の担当者は、の下葉が色づき始めた黄色ではないよ。月が経って行くにつれて、風がはげしく吹いたから萩の下葉の色がさらに色が濃くなって、晩秋の枯葉色に紅葉したということを言いたかったので、あえて「赤」という漢字を使ったのではないかと言っている。
万葉集の常識 「モミチ」 = 「黄葉」 は誰が設定したか。・・それは、柿本人麻呂が設定したと考えられる。
まず、不思議なことに万葉集には最初の歌から「黄葉」と表記されていること。山の紅葉や落ち葉は黄のほかにも紅や赤もあるのになぜ「黄葉」なんだろうか。カギは柿本人麻呂の以下のような挽歌にあるようだ。

原文: 秋山尓 落黄葉 須臾者 勿散乱曽 妹之當将見
よみ:秋山に 落つる黄葉 しましくは な散りまがひそ 妹があたり見む(巻二‐137)

原文: 秋山之 黄葉乎茂 迷流 妹乎将求 山道不知母(巻ニ-208)
よみ: 秋山の、黄葉(もみぢ)を茂み、惑(まど)ひぬる、妹(いも)を求めむ、山道(やまぢ)知らずも

これと同じような歌が他にもある。これらの歌の解析から、太古の日本には黄泉の国に通じる黄泉路(よみぢ)が存在し、黄泉比良坂(よもつひらさか。この世とあの世をつなぐ道)で、葦原中国とつながっていると考えられていた。
人麻呂は亡くなった人が住むという黄泉の国、その黄泉の国の「黄」を使って「もみち」 = 「黄葉」とし、色づいた葉という意の「もみち」に重ねて歌に詠んで亡くなった人を偲んだ。
しかし、黄泉という意を含んだ「黄葉」を詠んだのは人麻呂と持統天皇(巻2 159)くらいで、以降は黄泉の意は黄葉から抜け落ちてしまって、ただの色づいた葉という意味の「もみち」 = 「黄葉」だけが世の中に流布してしまった。これが「もみち」が「黄葉」となった真相ではなかろうかと考えている・・・とのことである(詳しくは※9参照)。
この他、「黄葉の」という枕詞もあり『万葉集』では、うつろい、散るところから、「移る」「過ぐ」にかかる語として、後には紅葉のあかいところから、「あけ」にかかる語として使用され又、この『万葉集』の「もみち」が濁音化して「紅葉」という漢字を常用するようになったのが平安時代になってからのようである。

このブログを書いていて、先日(11月23日)朝日新聞夕刊に、「人類の知性は2千年~6千年前頃をピークにゆっくりと低下し続けているかも知れない」との説を米国スタンフォード大学のジュラルド・クラブトリー教授が米科学誌『セル』の関連誌に発表したと書かれていた(※5参照)のを思い出した。
私なども以前からこのような万葉人の和歌や平安時代中期に成立したとされる『源氏物語』など古典文学を読んでいると、今の文学に比して、その創造力の豊かさにいつも感心させられていたので、この報道にさもあらんと納得したのだが、皆さんはどう思われますか?

ヒトの知性、6千年前ピーク? 米教授「狩りやめ低下」 (朝日新聞デジタル11月20日(火)16時49分配信 )

参考:
※1参照:BotanyWEB
http://www.biol.tsukuba.ac.jp/~algae/BotanyWEB/top.html
※2: 古今和歌集の部屋
http://www.milord-club.com/Kokin/
※3:竜田姫の秋 古典文学(平安)・日本文化史
http://www.ndsu.ac.jp/1000_guid/1400_depa/1430_japa/1432_essay/1432_essay_4th/1432_essay_4th_36_kataoka.html
※4:折々の銘 76 【竜田姫】たつたひめ
http://www.morita-fumiyasu.com/docs/oriori_076.pdf#search='%E7%AB%9C%E7%94%B0%E5%A7%AB+%E7%A7%8B+%E7%B4%85%E8%91%89'
※5:端唄・俗曲 その3 か~き
http://sky.geocities.jp/tears_of_ruby_grapefruit/minyou3/hauta3.htm
※6:やまとうた
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/index.html
※7:季語・桜狩
http://kigosai.sub.jp/kigo500d/637.html
※8:たのしい万葉集:
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/home.html
※9:秋萩の 下葉もみちぬ あらたまの(京都府立山城郷土資料館)  
http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/parts/32.htm
中国と日本の「紅葉」の違い_中国網_日本語
http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2011-10/18/content_23658210.htm
レファレンス協同データベース
http://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000089034
カエデとモミジ
http://www.geocities.jp/kinomemocho/sanpo_kaede.html
もみじの魅力
http://www.hayashiya-gr.co.jp/momiji/index.html
「椛」・・・人気漢字の読み・意味・名前例
http://happyname.livedoor.biz/archives/50422437.html
紅葉(もみじ) - 語源由来辞典
http://gogen-allguide.com/mo/momiji.html
紅葉 - Wikipedia 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E8%91%89

のど飴の日

2012-11-15 | 記念日
日本記念日協会に登録されている今日・11月15日の記念日にのど飴の日」があった。
1981(昭和56)年11月に、日本で初めて商品名に「のど飴」と名のつくのど飴「健康のど飴」を発売したカンロ株式会社(※1)が制定。2011(平成23)年の発売30周年を記念したもの。
日付は発売月の11月と、11月中旬より最低気温が一桁になりのど飴の需要期になること、11と15で「いいひと声」と読む語呂合わせなどから。 ・・・だそうだ。
同社は、を中心とした菓子を製造する食品メーカーであり、1912(大正元)年11月山口県光市にて創業。今年・2012(平成24)年11月10日で100周年を迎えたらしい。
1960(昭和35)年、カンロ飴の大ヒットにより社名をカンロ株式会社と改称。「カンロ」は漢字で「甘露」、天から降って人を癒したとされる水を語源に持っており、その語源のように人の口や心を癒したいというところから社名にしたそうだ。
同社のキャッチフレーズは「カンロはお口の童話です」。これは、人の心に愛を語りかけるような、夢のある製品づくりを心がけたい…と、そんな思いを込めた同社の合い言葉だという。
現在のど飴発売30周年を記念したキャンペーンを実施している。ここ参照。

飴は、デンプンを糖化して作った甘い菓子、および、砂糖やその他糖類を加熱して熔融した後、冷却して固形状にしたキャンディなどを指す。固形の飴を固飴(かたあめ)、粘液状の飴を水飴(みずあめ)と呼び、大別する。
最も古い文献としては、神武天皇東征の折、大和高尾において天下統一を祈願して飴をつくったという記載が『日本書紀』(巻第三)「神武天皇即位前期戊午年九月」条にある(参考※2:「古典の館」の日本書紀 巻第三のニ参照)。

「吾今当に八十平瓮(やそひらか)を以て、水無しに飴を造らむ。」

ここでは「」の字には「たがね」と訓じて あるので、飴は古くはタガネと言ったらしいが、これが「あめ」かどうかは定かではない。
ただ『日本書紀』は神話の時代に遡った伝承であり、「神武天皇の時代」とされる紀元前7世紀については不明であるが、同書が編纂された720年(養老4年)には、既に飴が存在していたことになる。

古代の飴は米などを原料にした水あめで、蔓草(つるくさ)の樹液を煮詰めてとる「甘葛(あまずら)」と並ぶ貴重な甘味料として、神饌用(神への奉げもの)としてとり扱われてきた。
奈良時代の天平9年(737年)の但馬国正税帳(但馬国の収支報告書。東大寺正倉院文書)には読経供養料として「阿米(あめ)」をつくるための米が献じられた記録がある。当時、飴には、阿米や餳、糖などの字も用いられていたようだ。
延喜式には諸国から貢納されていたことや平安京の西市に「糖(あめ)」の店があって市販されていたことが記されている。この当時、飴は諸国からの貢納品であったが、都ではその払下げが商品として売られていたのだろう。
平安時代中期に作られた辞書『和名類聚抄』には、「飴は米もやしの煎なり。阿女」と、記されているが、江戸時代に書かれた、『和妙類聚抄』の注釈研究書としての代表的な文献である『箋註和名抄(せんちゅうわみょうしょう)』(※3)には、「今の俗、飴を作るに麦もやし(麦芽)を用ふ。米もやしを用ひず」とあるそうだから、麦もやしを用いるようになったのは、後のことらしい。
『和名類聚抄』には又、おこしは「炒った米を蜜(水飴)とまぜてつくる」と言うことも載っているようなので、この頃には、すでに水飴を使用したお菓子もあったようだ。
それに、平安時代には、宮中では生薬の「地黄煎(じおうせん)」を服用する習慣があった。これは、漢方の地黄(アカヤジオウ)と水飴をまぜて練って服用した物で、後の時代には、地黄を入れていない水飴もこのように呼んだようだ(※4:「砂糖|農畜産業振興機構」の 視点 > 社会 >日本人と砂糖の交流史参照)。
宮内省典薬寮は、「供御薬」という宮中行事により、毎年旧暦11月1日、地黄煎を調達していた。
地黄煎の栽培・販売について、その後の供御人座を形成、この座による販売人を「地黄煎売」(じおうせんうり)といった。産地は摂津国和泉国、山城国葛野郡であった。
中世(12世紀 16世紀)期の「地黄煎売」の姿は、番匠(大工の前身)がかぶる竹皮製の粗末な笠である「番匠笠」、小型の桶を棒に吊るし振売のスタイルであった。
糖粽(飴粽)は、遅くとも15世(室町時代の中期)、興福寺塔頭であった大乗院(現存せず、跡地は現在の奈良ホテル)の門跡領であった大和国城上郡箸中村(現在の奈良県桜井市箸中)に、「糖粽座(あめちまきざ)」(餳粽座)が置かれていた。三代の大乗院門跡が記した『大乗院寺社雑事記』のうち、尋尊が記した長禄3年5月28日(1459年7月7日)条に「アメチマキ(箸ノツカ)」という記述がみられる。
「箸ノツカ」とは現在の箸墓古墳のことで、この地に「糖粽」を製造・販売する座が形成されていた。同座は三輪村に由来し「三輪座」(みわざ)とも呼ばれた。
三輪明神(大神神社)の大鳥居より南、かつ長谷川(初瀬川、現在の大和川)にかかる三輪大橋より北の地域で、「糖粽座」は「糖粽」を販売していた。当時近隣地区には幾つかの飴売を製造・販売するがあったが、箸墓の「糖粽座」と苅荘(現在の大軽町)の「煎米座」は、飴の販売でしばしば争いが起きていたという(ここ参照)。
室町時代、15世紀末の明応3年(1494年)に編纂された『三十二番職人歌合』の冒頭には、「いやしき身なる者」として、「地黄煎売」とともに「糖粽売(あめちまきうり)」として紹介され、曲物に入った糖(飴)を二本の箸で粽に塗布する行商人の姿が描かれている。

上掲の画像は、向かって左:地黄煎売、右:糖粽売の歌合(『三十二番職人歌合』、1494年、その1838年の模写)Wikipediaより。

この歌合に載せられた歌には、

手ごとにぞ とるはしつかの 糖ちまき 花をもみわの 昼の休みに

とあり、これは「箸塚」や「三輪」の地名に掛けたものである。同職人歌合が作成された京都においても、「箸塚・三輪の糖粽」が著名であったということである。
このころの振売を行っていた「地黄煎売」は、「飴売」とみなされていた。
飴が一般に身近なものになるのは江戸時代である。
江戸時代(17世紀 ~19世紀)にも、飴としての「地黄煎」は製造・販売されており、元禄5年(1692年)に井原西鶴が発表した『世間胸算用』にも、夜泣きに効くという趣旨で「摺粉に地黄煎入れて焼かへし」というフレーズで登場しているが、これは、京・伏見の里での話しである(※5参照)。
「地黄煎」は、もともとは薬とされたジオウの煎汁をいっていたのだが、やがてそれを水あめに加えたものをいうようになり、さらにジオウを入れないあめそのものの呼称になり、なまって〈ぎょうせん〉ともいっていたようだ。
太閤秀吉も口にしたといわれる大阪攝津の「平野あめ」や京都東福寺門前の菊一文字屋のものや桂の里の桂あめが有名で、飴の文化は上方で発展し、江戸に広まってゆき、これらは江戸で“〈下(くだ)りあめ“下りぎょうせん”と呼ばれて大いに珍重された。
江戸時代の文書に「ちゃうせん飴」と書かれて居るものがあり、これを「朝鮮飴」と誤読することがあるようだが、これは「地黄煎飴」の誤りだろう。
元禄・宝永の頃(1688~1711)には、浅草浅草寺境内で「千歳飴」が売り出されて人気を博した。
この浅草寺で千歳飴を売出し者については二説ある。
一つは、先に書いた、大坂の「平野あめ」の製造者であるとする説。
大坂の平野(今の大阪市平野区の辺)は、中世には平野荘と呼ばれて、征夷大将軍坂上田村麻呂の次男で平野の開発領主となった坂上広野を「平野殿」と呼ばれた。その平野が地名になったという由来がある。
平野庄は近世には平野郷と呼ばれるようになり、その子孫という庶流の平野氏七名家と呼ばれる家々が周囲に環濠を巡らし自衛の形を固めた自治都市であった。
この地は大坂夏の陣では徳川家康の本陣と定められ、以降は徳川幕府代官が管理していた。
その地に、大阪夏の陣で豊臣方に敗れ浪人となった平野甚左衛門の子甚九郎重政が流れてきて飴屋となり、その後元禄・宝永の頃(1688~1711)、江戸に出てきて、浅草寺境内で売りだしたのが「千歳飴」の始まりだというのである(※6参照)。
もう一説は、17世紀後半から18世紀初頭に掛けて、浅草で七兵衛と言う飴売が千歳飴を開発したとする説である。
千歳飴の始まりについては、江戸後期、文政8年(1825)刊の柳亭種彦の書いた考証随筆『還魂紙料』に千年飴(せんねんあめ)として 「元禄宝永のころ、江戸浅草に七兵衛といふ飴売あり。その飴の名を千年飴、また寿命糖ともいふ。今俗に長袋といふ飴に千歳飴(せんざいあめ)と書くこと、かの七兵衛に起れり」と書かれているという(※7)。
現在はちとせ飴と呼んでいるが、もとは、せんねん飴、せんざい飴と読んでいたようだ。
『還魂紙料』によれば「大道に肩をぬぎて天に指ざしし、広いお江戸にかくれなし、京にもよい若者まけぬを踊て……」とあって、天を指差して歌を歌い、踊って飴を売ったそうである。
享保年間(1716年~1735年)に歌舞伎の道外方役者の中村吉兵衛が森田座で、この七兵衛に扮したと言われ、それを描いた一枚絵がかつて残されていた。それは『還魂紙料』に収録されているが、画賛には「ぶしゆうとしまのこおりゑどこびき(武州豊島郡江戸木挽)町、せんねん(千年)じゆめうとう(寿命糖)、いとびんせんねんなりけり」とあるようだ(以下参考の※8:「物売り歌謡続考」又、※9:「浮世絵文献資料館」の『日本随筆大成 第一期』 あ行 ◯『還魂紙料』参照)。
今日・11月15日は七五三であるが、江戸市中での七五三のお祝いは華美を極め、神社境内でお参りした後のお土産は例外なく千歳飴で大いに繁盛したという。

江戸中期には飴の種類も増え、縁日で細工飴も売られるようになった。まだ飴がやわらかいうちに成型した飴細工もあり、最初は、鳥や渦巻状にして彩色されただけのものだったが、次第に干支の動物などの細工をしてみせた。
江戸では中期ごろから街頭で飴が売り始められたようだ。当時江戸の巷では、様々な品を売り歩く多くの物売りが登場している。
その中でも、ごく最近まで、われわれの日常生活に離れがたい存在だった親しみ深い薬売りとともに、飴売りの人々が多かったようである。特に、「飴売り」は江戸では街頭で見られる最もポピュラーな行商人であったようである。
彼らは、独特な売り声を考案し、それぞれが競った。「土平飴」「お万飴」「鎌倉節飴」「唐人飴」「お駒飴」「あんけらこんけら糖」「ジョウセン飴(朝鮮飴といったりもした)」といってもわけのわからない飴売りが様ざま、子供相手に行商していた。
飴の名はいずれも、その売り声にちなんだものであった。そして、唄を歌ったり、浄瑠璃役者の声色、踊りなどを披露してサービスをしたというから、当時の子ども達には楽しい見世物でもあったろう。私などが子どもの頃には、正月やその他神社などの市では色んな大道芸の見世物があったが、最近は市でも単に物を売っているだけのつまらないものになってしまっている。現在のテレビっ子に見せてやりたいものである。

上掲の画像は、飴売り土平 。『飴売り土平伝』舳羅山人 著 、 春信 画。画像は、参考10:「早稲田大学古典籍総合データベース」より借用。
江戸時代の飴売りについては、参考に記載の※8:「物売り歌謡続考」が非常に詳しいが、江戸に流行した商人の様子を狂歌に詠じた文政12 年(1829年)に成立したとされる滝沢馬琴の『露緬廿三番狂歌合並附録』は、江戸時代末期の物売りの様子を具に伝える代表的な資料の一種だが、ここで芸能者を商人と同一土俵の上で取りあげているのは、中世の職人歌合以来の伝統を継承しているようだという。
この狂歌合には23種の職種が収録されているが、そのうち3種は願人坊主なので、これを除くと、今日的観点から商人と認定できる残りの20種中7種が飴売であり、3分の1以上が飴売で占められていて最も多い。しかし、これはこの文献における特殊な傾向というわけではなく、同様の傾向は他の文献からも認められ、当時いかに多くの飴売が巷間に出ていたかが窺える・・・という。そんな中で、当時の飴うりがどんな飴の売り方をしていたか、詳しく調べて書いている。
土平飴売は江戸時代の飴売の中でも比較的よく知られた商人で、土平は飴売の名前である。明和年間(1764年~1772年)に江戸の町に現われたらしく、奥州の出身で、当時五十歳余であったらしい。
この人物については大田南畝『売飴土平伝』(明和6年〔1769年〕自序)に詳しいとして、冒頭部分が記載されているが、漢文なのでちょっと判り難い。この土平については他にも多くの記述が残されているとして、他にも色々、採りあげている中で、読んで分かりやすいものを以下に2つ記す。
“明和の頃、土平といふ飴売来る。木綿の袖なし羽織、黄に染て虎斑を黒く染、紅絹裏を附、羽織の紐はいかにも 大く、くけ紐(くけ縫いにして作るひも)を付、浅黄の木綿頭巾をかぶり、飴を両懸に致、日傘をさし、江戸中売歩行。世人かたき討也ど評 せり。
其唄に、「土平があたまに蝿が三疋とまつた、只もとまれかし、雪駄はいてとまつたどへえどへえ、土平といふ たらなぜ腹たちやる、土平も若い時色男どへえどへえ」(『続飛鳥陥』)
“明和の頃までは、飴うり、修行者の類、異風なる形をするものなし。土平といふ飴うり、日がさをさし、土平 土平と染出したる袖なし羽織を着、土平飴とよび、二丁町・両国辺をあるき、歌をうたふ。其うたに、「土平とゆたと てなぜはらたちやる、土平もわかひときやいいんろおとこへ、どへえどへえ」とうとふ。(『明和誌』)
・・・といった具合に唄の中で、「どへえ、どへえ」と歌い町々を歩いた。そこで述べられているその姿は上掲の絵と同じである。
また、その歌謡もかなりの数が書き留められているが、それぞれの記述で若干の異同があるものの、ユーモア溢れる歌詞が人々に受け、明和年間の江戸の町ではきわめて注目を集めた飴売であったようだ。
又、江戸時代に登場する飴売りには唐人の姿としぐさをするものが際立って多いことも指摘されている。

「飴売り」は、前にも書いたように、地黄煎の販売特権をもつ供御人による「地黄煎商売座」に始まるが、室町・戦国時代になると「職人」の特権保障の実質が失われてゆく中、偽文書が盛んに作成されるようになり、西国では特権の由来が特定の天皇ないし天皇家の人々に結び付けられることが多くなり、又、戦国・江戸期の大名は、こうした偽文書そのままに認め「職人」の特権を承認している。
中世には宋や明の商人が多数来日し、日本各地を遍歴して商売をしていたが、そうした人々が寄り集まって、博多には11世紀に早くも宋人百堂と呼ばれる大唐街が生まている。
中世平安末期以降、供御人の称号を得て自由通行を保障され旅をした多彩な供御人の中には、唐人の活躍が目立つようになっているが、こうした大陸との動きの中、“綴米(とじまい。おこしのようなものか?)、唐唐(からのあめ)、豆糖(まめのあめ)の商売をしていた土井大炊助康之が、「唐紙に書きて印判を突いた『唐土(もろこし)の支証』をもつ介三郎が同じ商売を行なうことを営業妨害として幕府に訴えた。
「異朝の証文」を持って、「本朝の商売」をするのは不当だというのである。ところが介三郎の権利はすでに天皇の綸旨によって認められており、康之と介三郎は結局示談によって双方とも商売をするようになった。
介三郎の扱った飴はおそらく、南北朝期以降、中国大陸や琉球から盛んにもたらされた砂糖を用いた飴「唐糖」で、介三郎の祖先は先ず間違いなく唐人だったと見てよいだろう。
その所持した『唐土の支証』『異朝(外国の朝廷)の証文』がどのような文書であったかは知る由もないが、例え、それが偽文書であったとしても、天皇はそれを認め商売の特権を介三郎に保証したのである。“・・・ということが週間朝日百科『日本の歴史6・中世1-6海を海民と遍歴する人々』に書かれている。
又、戦前、東北地方では、薬売りを「トウジン」「トンジンサマ」と言っていたところもあるようだ。そのような歴史的背景を考えると、江戸中期に見られる飴売りの一部には唐人の流れを汲んで居る者も少なからずいたのではないだろうか(コトバンク唐人倉 とは又、宋人 とは参照)

岡本綺堂は『唐人飴』(※11:「青空文庫」参照)という小説を書いている。綺堂らしき若い新聞記者が、引退した明治時代半七老人を訪ねて昔の手柄話を聞くという構成になっており、この小説の中では、飴細工職人の話の中で以下のように書かれている。

「今の人たちは飴細工とばかり云うようですが、むかしは飴の鳥とも云いました」と、老人は説明した。「後にはいろいろの細工をするようになりましたが、最初は鳥の形をこしらえたものだそうです。そこで、飴細工を飴の鳥と云います。ひと口に飴屋と云っても、むかしはいろいろの飴屋がありました。そのなかで変っているのは唐人(とうじん)飴で、唐人のような風俗をして売りに来るんです。これは飴細工をするのでなく、ぶつ切りの飴ん棒を一本二本ずつ売るんです」
「じゃあ、和国橋(わこくばし)の髪結い藤次の芝居に出る唐人市兵衛、あのたぐいでしょう」
「そうです、そうです。更紗(さらさ)でこしらえた唐人服を着て、鳥毛の付いた唐人笠をかぶって、沓(くつ)をはいて、鉦(かね)をたたいて来るのもある、チャルメラを吹いて来るのもある。子供が飴を買うと、お愛嬌に何か訳のわからない唄を歌って、カンカンノウといったような節廻しで、変な手付きで踊って見せる。まったく子供だましに相違ないのですが、なにしろ形が変っているのと、変な踊りを見せるのとで、子供たちのあいだには人気がありました。いや、その唐人飴のなかにもいろいろの奴がありまして……」・・・と。

上掲の画像は、一蝶画譜. 初篇 / 英一蝶 [原画] ; 鈴鄰枩 筆「唐人飴」。画像は、以下参考の※12:「早稲田大学古典籍総合データベース」より借用。
江戸時代に新たに登場した飴は、唐、唐人のイメージと結びついている。
英一蝶の『一蝶画譜』(1770年頃刊)に登場する「唐人飴売り」は先端に房飾りのある尖った帽子を被り、腰にフリルの付いた短い上着にズボンを履き、手には軍配状の団扇(うちわ)を持つという朝鮮人ともポルトガル人ともとれる奇妙な「唐人」の格好をしている。(上図参照)。
貞享5年(1688年)刊の井原西鶴作『日本永代蔵』には、長崎で「南京より渡来せし菓子「金平糖」を売って財を成した男が登場する。
金平糖はポルトガル菓子コンフェイトがもとになった砂糖菓子であるが、その挿絵には唐人飴売りの唐人にきわめて酷似したポルトガル人の姿が描かれている。
いずれにせよ、近世には日本古来の糯米(もちごめ)・麦芽を原料とする水飴に漢方の原料である地黄を加え、練り固めるというおそらく1は、中世以来の唐人がもたらした中国系の技術を用いた飴と、長崎来航のポルトガル人により招来された南蛮菓子の系譜に連なる砂糖を原料とする飴との二種の堅飴が「唐人飴」「唐飴」として存在していたことだろうという(※13参照)。
『半七捕物帳 唐人飴』の飴細工職人の話の中で出てくる「唐人市兵衛」のことだが、「髪結藤次」の本名題は「三題噺高座新作(さんだいばなし こうざのしんさく)」で文久3年江戸市村座(元:江戸三座のひとつ)で初演されたとき、高座で三題噺(客から3つの題を貰い、その題を組み入れて即興でこしらえた噺〔話〕)が流行し、黙阿弥も「国性爺、乳貰い、髪結」という題で噺を作ってみたところ、好評だったため、それを芝居に仕立て直したものだそうだ。そこに唐人飴売りの市兵衛が登場する。
藤次は和国橋の辺りを流す髪結いで、通称・和国橋藤次、略して和藤と呼ばれている。彼は酒癖が悪く、女房おむつと喧嘩が絶えない。とうとう、女房の父親である唐人飴売りの市兵衛がおむつを連れて帰ってしまう。藤次は残された赤子を抱えて、乳貰いをして歩く。
そして、妾宅(神崎屋喜兵衛宅)でおきんが二階から藤次に赤い布にくるんだ金を渡してやる場面があるが、この赤い布は、初演当時、江戸で疱瘡(ほうそう。天然痘のこと)が大流行して、疱瘡除けの赤い布が飛ぶように売れたという世相を織り込んでのものだという。この噺の粗筋は参考に記載の※14を、東洲斎写楽の役者絵は※15を参照されると良い。
「チャルメラ」であるが、オーボエの祖先と云われるチャルメラは、16世紀の末・安土桃山時代の南蛮貿易の盛んだった頃、ポルトガルから渡来した木管楽器でポルトガル語のチャラメラがいつのまにかチャルメラとして呼ばれるようになったもの。渡来の当時は、「南蛮笛」と呼ばれ、明治時代には、中国人の飴売りが使っていたので「唐人笛」とも呼ばれていた。
有名な石川啄木もその作品、「一握の砂」(明治43年〔1910年〕)の中で
「飴売のチャルメラ聴けば うしなひし をさなき心 ひろへるごとし」 という歌を詠んでいる(※16参照)。
また、話の中に唐人飴売りは、お愛嬌に何か訳のわからない唄を歌って、“カンカンノウ”といったような節廻しで、変な手付きで踊って見せる・・・とあるが、「かんかんのう」は、江戸時代から明治時代にかけて民衆によって広く唱われていた俗謡で、別名「看々踊(かんかんおどり)」。
元歌は清楽(清国から伝来した、民謡、俗曲を中心とする音楽群の名称)の「九連環」だが、歌詞もメロディー(試聴)も元歌とはかなり変わっている。
文政3年(1820年)の春、長崎の人が大坂・難波堀江の荒木座で踊った「唐人踊」に始まるという。これは、唐人ふうの扮装をした踊り手が、清楽の「九連環」の替え歌と、鉄鼓、太鼓、胡弓や蛇皮線などの伴奏にあわせて踊る、という興行的な出し物だった。その後、「唐人踊」は名古屋や江戸にも広まって大流行となり、流行の加熱のあまり、文政5年2月には禁令が出るほどであったという。
古典落語「らくだ 」では、肩にかついだ死体の手足を動かして「死人のかんかんおどり」を踊らせる、という場面がある。
また地方では、群馬県上野村のカンカンノーのように、郷土芸能として現在も伝承されているところがある(「かんかんのう」について詳しくは、参考の※17を参照)。
この唐人飴売りでは、文政年間の初め(1818年~1823年)頃に、江戸の町に登場して、爆発的な人気を博した飴売に「あんなんこんなん唐人飴売」があったそうだ。
『近世商買尽狂歌合』(石塚 豊芥子著)には四番左に「安南こんなん飴」という当て字で見え、絵が描かれるが、その上には「唐のナァ唐人のネ言には「アンナンコンナン、おんなかたいしか、はへらくりうたい、こまつはかんけのナァ、スラスンヘン、スヘランシヨ、妙のうちよに、みせはつじよう、チウシヤカヨカパニ、チンカラモ、チンカラモウソ チンカラモウソ、かわようそこじやいナァ、パアパアパアパア」と書き入れられており、また、『近世商質尽狂歌合』には補遺部分にも、面部痘瘡(とうそう)の跡あり。なをるなをるあばたがなをると戯言しある也。是も文政の初より、年の頃五十位ひの男、図の 如き姿にて「あんなんこんなん」とわからぬ事を、声よく面白く唄ふ。のちのちは替り唱歌も作り、青物尽し鳥尽 し、其外いろいろ出来たり。市中の子供等皆真似せし也。・・・とあるようだ(※8参照)。
ここに出てくる痘瘡(とうそう)は疱瘡(天然痘)と同じこと。治癒しても瘢痕(はんこん。一般的にあばたと呼ぶ)を残すことから、そのあばた面を逆手にとって商売に使い面白く戯言にしている。当時疱瘡が大流行していたことが窺がえる。
兎に角、江戸の飴売りは奇抜な衣装と鳴り物で客を集めた。飴が売れると常磐津を唄い聞かせたり、狐の扮装で踊ってみせたりする飴売りもいたようである。なかでも人気はお萬が飴売りだったそうだ。独特の節回しで唄うようにして「可愛けりゃこそ神田から通う・・お萬が飴じゃ、一丁が4文」と売り歩いたが、この飴売りはもとは屋根職人だった男が女装したものだったそうだ。その突飛さが物見高い江戸っ子に受けて、お萬が飴は大あたり。天保10年(1839)には中村座の4世中村歌右衛門が春狂言で、お萬が飴の扮装を真似、常磐津で踊ってみせたことから、いよいよ大評判になったという(※18参照)。
これら他の飴売りの売り口上や歌など興味があれば、参考※8:「物売り歌謡続考」を参照されると良い。
最後に、もう一度岡本綺堂の 『半七捕物帳 唐人飴』にもどろう。
この物語の冒頭は以下の文で始まっている。
「こんにちでも全く跡を絶ったというのではないが、東京市中に飴売りのすがたを見ることが少なくなった。明治時代までは鉦(かね)をたたいて売りに来る飴売りがすこぶる多く、そこらの辻に屋台の荷をおろして、子どもを相手にいろいろの飴細工を売る。この飴細工と粉(しんこ)細工とが江戸時代の形見といったような大道(だいどう)商人(あきんど)であったが、キャラメルやドロップをしゃぶる現代の子ども達からだんだんに見捨てられて、東京市のまん中からは昔の姿を消して行くらしく、場末の町などで折りおりに見かける飴売りにも若い人は殆ど無い。おおかたは水洟(みずっぱな)をすすっているような老人であるのも、そこに移り行く世のすがたが思われて、一種の哀愁を誘い出さぬでもない。」

綺堂の 『半七捕物帳』は各編の背景に色濃く江戸時代の風俗が描きこまれていて魅力的であるが、この書き出し文の最後の皮肉っぽさがまた面白い。
最近、“なぜ老人は「飴ちゃん」を必ず携帯しているのだろうか?・・・と話題になる。
確かに、今はなき私の母や近隣の人達も年寄りの人・・・特に、おばあさんは、家に居るときだけでなく外出時でも必ず、飴を持っていて、小さな子供たちが近づいてくると、「あめちゃんあげようか?」と、何処からともなく飴を出してくる。
私も、家人もそれを見て、微笑ましくもあり、また、何となく滑稽な感じがしてくすくす笑ったりしていたものだが、今になってみると、私たち二人の必携品となっているのである。そう、若い時は滑稽に見えたことを年をとると今同じようにしているのである。
何故、飴を持っているかというと他の人は知らないが、少なくとも私たちの場合は、何も、口寂しいからではない。
思い起こせば、私たちが、飴を絶えず携行するようになったのは、私が現役を退き、家人と二人で毎日、裏山登山をし始めたときからのことである。
そのころは、登山をしているときに何か欲しくなったとき、持ち歩きに便利で、疲れたときの糖分補給にも役立つというようなことから携行したのだったと思う。
しかし、いまは 私が血圧も高くなり、家人は足が弱っていることから、山登などもしなくなったのだが外出時だけでなく家に居る時でもいつも手近なところに飴入れ飴を置いている。
多分‥老人になると唾液の分泌が少なくなるので、それを促す為の物が欲しくなるからではないだろうか。又、喉の弱い者など、年と共に悪化する傾向が有り、咳き込み易くなるので、喉を潤すと言う意味も有るのだろう。
そんなことで、飴をなめているので、どうしても、普通のあめより、のど飴を多く食べる。私の家では、数種類のものを混ぜて、いろいろな味を楽しむようにしているが、カンロ飴も定番の一つとなっている。
年取ると、本当にのどがあれ、のどの痛みをかんじたり声が出しにくくなり咳をする回数も増える。
年をとると風邪も引きやすくなるので、それがのどあれの原因となっていることも多い。
それに、水分不足になっても、喉の乾きを感じにくくなるので夏など、それが原因で、熱中症になりやすいが、これからの冬場も、夏場より湿度が低い上に、、暖房などで部屋が乾燥するから、喉が渇きやすくなるのだが、放っておくと不思議と、水分を補給していない。だから、余計に、喉がからからになるのだが・・・。
のど飴はのどの痛みや不快感を治す飴のこと。飴の成分で多く含んでいるのは蜂蜜、レモン、ハッカやメントールが多いようだ。効果としてはのどのあれや痛みの他に呼吸器の障害を和らげるとも言われている。
のど飴には医薬品、医薬部外品、食品の3種類がある。医薬品と医薬部外品として売られているのど飴の効果はのどのあれ痛み以外に声がれ、のどの腫れ、たん等に効果があるようだ。
もしのどがあれて痛んだりしてきたらトローチなどののどのあれや痛みを抑える効果のある薬をなめると良い。
いつも飴を携帯している年寄りが、若者には滑稽に見えるかもしれないが、年をとったものには、飴は良い食べものだろう。色々種類が多くあるので、自分に合ったものを、上手に食べるようにしよう。
寒い今年の冬、雨を食べて乗り切ろう!・・・・。ま、こんあことを落ちにして、このブログを終わろう。

(冒頭の画像は、群蝶画英. 初篇 / 英一蝶 筆 、 鄰松 纂・模「飴屋の絵」。画像は、※12:早稲田大学古典籍総合データベース:英 一蝶より借用)
※1:カンロ株式会社HP
http://www.kanro.co.jp/
※2:古典の館
http://www.kyoto.zaq.ne.jp/dkanp700/koten/koten.htm
※3:箋注倭名類聚抄/MANA抄訳
http://www.manabook.jp/kariyaekisai_senchuwayaku.htm
※4;砂糖|農畜産業振興機構
http://sugar.alic.go.jp/tisiki/tisiki.htm
※5:Yahoo知恵袋『世間胸算用』 巻三の三「小判は寝姿の夢』の口語訳ベストアンサー
http://y-bestanswer.com/result.phpp1=a&p2=&p3=34_1492792319&p4=10&PHPSESSID=elur8d8eucapajlss8lmlv6oo7
※6:レファレンス協同データベース ちとせあめ(千歳飴)の起源について知りたい。
http://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000085122
※7:江戸食文化紀行-江戸の美味探訪- no.96「千歳飴など」
http://www.kabuki-za.com/syoku/2/no96.html
※8:物売り歌謡続考
http://www.welead.net/html/13_Html_%E7%89%A9%E5%A3%B2%E3%82%8A%E6%AD%8C%E8%AC%A1%E7%B6%9A%E8%80%83_669.html
※9:浮世絵文献資料館
http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/index.html
※10:早稲田大学古典籍総合データベース:売飴土平伝 / 舳羅山人 著 ; 春信 画
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he13/he13_02800/index.html
※11:青空文庫:岡本綺堂 『半七捕物帳 唐人飴』
http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1019_15031.html
※12:早稲田大学古典籍総合データベース:英 一蝶
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%89p+%88%EA%92%B1
※13:近世における飴の製法と三官飴 八 百 啓 介(Adobe PDF)
https://www.kitakyu-u.ac.jp/_lib/monograph/human/files/bh007401yk.pdf#search='%E8%BF%91%E4%B8%96%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E9%A3%B4%E3%81%AE%E8%A3%BD%E6%B3%95%E3%81%A8%E4%B8%89%E5%AE%98%E9%A3%B4'
※14:疱瘡除けに因んだ芝居
http://77422158.at.webry.info/201005/article_12.html
※15;髪結藤次 - 早稲田大学演劇博物館 浮世絵閲覧
http://www.enpaku.waseda.ac.jp/db/enpakunishik/results-1.php?Max=9&haiyakukensaku=%C8%B1%B7%EB%C6%A3%BC%A1
※16:石川啄木:一握の砂
http://www.geocities.jp/itaka84/bookn/takuboku/takuboku5.html
※17:九連環と「かんかんのう」(明清楽資料庫)
http://www.geocities.jp/cato1963/singaku-02.html#kankanno1892
※18:『おまんが飴』 ~江戸の菓子事情(その68)『近世商売尽狂歌合
http://ameblo.jp/fushigisoshi/entry-10879897116.html
2011年4月号江戸時代の砂糖食文化|農畜産業振興機構
http://www.alic.go.jp/joho-s/joho07_000274.html
江戸食文化紀行バックナンバー
http://www.kabuki-za.com/syoku/bkindex.html
眠い人の植民地日記
http://nemuihito.at.webry.info/
飴考
http://homepage3.nifty.com/tkoikawa/zatsugaku/tonchinkan1_20/ame_koh.html
江戸の生業・唐人飴売り|食べ物歳時記
http://ameblo.jp/tachibana2007/entry-10330220424.html
浮世絵文献資料館
http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/index.html
のど飴 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AE%E3%81%A9%E9%A3%B4


信楽たぬきの日

2012-11-08 | 記念日
今日11月8日の記念日「信楽たぬきの日」は、全国の店先などで愛嬌よく商売繁盛に頑張っている信楽焼のの記念日である。
信楽焼で有名な滋賀県甲賀市信楽町の信楽町観光協会では、2008(平成20)年に、11月8日を「たぬき休むでぇ~」と記念日 登録し、日頃の信楽狸の労をねぎらい、が休んでいる間に、狸以外の信楽のいいところにも目をむけようと「ほっとするたぬきの休日」事業を続けてきていたが、5年目を迎えた今年(2012年)、よりイメージアップを図ることを目的に「信楽たぬきの日」と名称を変更したものだそうだ。
日付は1と1が重なるいちばん良い月の11月と、信楽焼の狸の特徴である八つの縁起物の八相縁起から8日を組み合わせたものだという。

今、信楽と言えば、一般的には信楽焼の狸の置物で知られているが、信楽は朝鮮文化の影響を受けて、日本文化の中心として栄えてきた近畿地方の中心にあり、古代の主要道となっていたことや付近の丘陵から焼物に適した良質の陶土がでる土地柄であり、当時の天皇が宮を造営するには理想的な土地でもあった。
そのようなことから、長い歴史と文化、伝統的な技術によって今日に伝えられている信楽焼は、742(天平14)年、聖武天皇紫香楽宮造営の折に、瓦や須恵器を焼いたのが起源と云われているが、本格的に始まったのはやはり、平安末期から鎌倉初期であろうと言われている。信楽陶窯(陶磁器を焼くかま)の、窯址で発見された種壷などの日用雑記類は、ほぼ鎌倉末期から室町初期の遺品と考えられている。
生産は農家向けの壷や甕(かめ)、擂鉢(すりばち)などの日用雑貨が中心であった。それだけに気取らず仕事も丁寧であった。
茶人・村田珠光がこの“無作為の美“に目をつけ茶道に取り上げて珍重した(※1)。こうして桃山時代、農家の片隅に転がっていた信楽の各種の壷が脚光を浴びた。
種壷や茶壷が「蹲(うずくまる)」と呼ばれて花生に、油壷や酒器が花入れに、糸をつむぐ桛(かせ)を入れた苧桶(おおけ。※2参照)が「鬼桶」といわれて水指に・・といった具合であった。

上掲の画像はコレクションの酒器より古信楽の徳利。中に少し、酒が滲みて茶色く変色した景色が見える。

素朴さのなかに、日本人の風情を表現したものとして室町・安土桃山時代(戦国時代末期)に茶道が盛んになるに従い、多くの茶人が信楽を用いた。
一休和尚に師事した武野招鷗も信楽製を茶器に使い、弟子の千利休も好みを陶工に焼かせた。武野紹鴎が作らせた物は紹鴎信楽、千利休が作らせたものは利休信楽と呼ばれている。
寛永(1624年から1645年)以降は、宗旦小堀遠州本阿弥光甫(本阿弥光悦の孫)、野々村仁清有来新兵衛とそれぞれ信楽の焼物を茶器に利用した(『やきもの辞典』光芸出版編)。
このように、信楽は一旦茶道具の生産に踏み切ったが、信楽を愛した千利休の死(天正19年=1591年)後、需用が減った。
また、江戸時代、商業の発達にともない文化文政(1804-1830)の頃から、本来の日用雑貨作りに再び転進。登窯(窖窯〔あながま〕)によって、茶壷をはじめ多種多様な生活雑器を量産するようになった。
信楽焼は古くから特に茶壷で有名だが、これは古くからこの町にお茶が栽培されたので、技術的に優れたものがあったからである。江戸中期には、宇治から将軍家へ献上するお茶の茶壷を頼まれ、天下にその名を高めた。
しかし、山一つ隔てた伊賀焼では茶陶を中心に焼いていたが、信楽焼は生活雑器が主流となり、江戸後期には、ビードロ釉(松灰に長石を少量混合した釉で、青緑色あるいは黄色に呈色する)や、なまこ釉(二重に釉掛けする藍紫色を主体とする失透釉〔光沢はあるが透明でない釉薬〕)などのさまざまな釉薬が用いられるようになった。
明治時代には、新しく開発された「なまこ釉」を使った火鉢生産がはじまり、大正時代から第二次大戦前までは、熱に強く、保温性に優れた信楽焼の火鉢が人気となり主力商品となっていたが、現在では生活に根ざしたタイル・花器・食器・置物等、土の持つ味わいを生かした製品が作られている。中でも「狸」の置物は信楽の代名詞となるほど有名である。
信楽焼の特徴は、土中の鉄分が赤く発色する火色(緋色)や、登窯(窖窯〔あながま〕)窯のなかで炎の勢いにより器物に灰のふりかかる、灰かぶりの現象による自然降灰釉(ビードロ釉)の付着、また、薪の灰に埋まり黒褐色になる「焦げ」も含めた、炎が生み出す独特の焼き上がりにあるといわれている。

上掲の画像は、コレクションの茶壷と壷である。どちらもそう古いものではないし良い品ではないが信楽焼の特徴は見られる。

信楽の町へ行くとどこへ行っても出会うのが、狸の焼き物である。
この信楽焼狸の置物の歴史は比較的浅く、陶芸家で狸庵初代藤原銕造(てつぞう)氏が、昭和10年頃に作ったものが最初で、信楽タヌキの愛嬌のある顔や独特の体形は氏の作品の継承だそうだ。
1951(昭和26)年11月15日、昭和天皇が信楽町行幸の際、窯業試験場を訪問された。その際、沿道に小旗をもったたくさんの陶器製の信楽焼のタヌキを並べて歓迎されたことを天皇が大変お気に召され、その時の思い出を「をさなどき あつめしからになつかしも 信楽焼の狸をみれば」と詠んだ和歌がマスコミで報道され、それまでコツコツと作られていた信楽の狸が全国的に広がり、以来全国的に信楽ダヌキが大流行する切掛になったのだという(※3参照)。

上掲の画像は昭和天皇の近畿巡行。天皇は1951(昭和26)年11月11日~25日まで京都、滋賀、奈良、三重の近畿4府県下を巡行された。写真は11月24日三重県賢島港でのもの。(アサヒクロニクル週刊20世紀1951年号より借用)


上掲はコレクションより土産物の7cmほどの小さな狸の飾り物。

編み笠を被り少し首をかしげながら右手に徳利、左手に通い通帳を持って突っ立っているなんとなく憎めない狸の置物の姿形は、いわゆる「酒買い小僧」型の豆狸(まめだ)が定番となっている。

雨がショボショボ降る晩に
豆狸が徳利もって酒買いに
酒屋の前で徳利割って
家いんでおかんに叱られて
おまん三つで泣きやんだ

これは、兵庫のわらべうたの中の手まり歌の一つ「豆狸の徳利」であり、神戸に住む私なども、女の子ではないが、子どもの頃には面白半分にこんな歌を歌っていた記憶がある。
この手まり歌は主に四国地方に分布するといわれ、近畿地方で広く歌われている歌であるが、前段の2節「雨がショボショボ降る晩に 豆狸が徳利もって酒買いに」までは同じでも、その後の歌詞は地域によっていろいろ違いがあるようだ(参考の※4 ※5 参照)。
神戸の造り酒屋では、酒蔵に豆狸が1~2匹は住んでいないとおいしい酒がつくれないという話もあるようだが、それ程古い酒蔵は、古い伝統と経験がないとよい酒が造れないという例えのようである。
その清酒は慶長年間(1596年-1615年)に完成し、江戸初期から一般庶民の口に入るようになり、小僧が通い徳利(私のHP「よーさんの我楽多部屋」のCorectionRoom3酒器類の通い徳利参照)を持って酒を買いに行き、酒屋で樽から注いでもらいもって帰ったもので、代金は通い通帳に記入しておいてもらい後で支払ったものだ。酒買い小僧の狸の置物は、その姿をタヌキの置物にしたものである。
徳利または通帳に○に八のマークがあるのは、尾張徳川家の合印(あいいん)として用いられていたもの。
合印とは、他と区別するためのしるし。特に戦場で敵味方の区別をするために、兜(かぶと)や袖(そで)の一部につけた一定の標識であり、丸八印は尾張藩の略章(正式の家紋は葵巴紋)というべきもので、小使提灯、小者用の紋所、小荷駄などに使用されていた。
制定の経緯は定かではないようだが、「丸は無限に広がる力、また八は末広がりで発展を示す」というお目出度いマークであり、現在名古屋市の市章である(※6参照)。
それを、尾張知多半島にある常滑焼きで、○に八の紋を入れて造ったのが人気を博し、それを模して、狸の置物には○に八と意味も分からないまま造るようになったという説があるようだ。
現在、八相縁起と行って、笠は災難除け、腹は太っ腹、顔は愛想よく等々、8つの縁起があると言う意味での○に八と結びつけているが、これは、昭和天皇が信楽町行幸の翌・1952(昭和27)年に、当時名城大学の講師、をしていた石田豪澄が「信楽狸八相縁起」を詠んだことによるそうだ(※7:「おいでやす狸楽巣(りらくす)」 狸めぐり>滋賀県>信楽タヌキ参照)。
「信楽狸八相縁起」とはどんなことか?それは、滋賀県工業技術総合センター :: タヌキのページ
参照。

酒買い小僧といわれる(徳利と通帳を持ち、傘を冠っている)形の置物は、何も信楽のみならず、常滑や備前清水などでも古くから焼かれている。
どの産地が最初であるか今のところ明かではないが、清酒が酒屋で売られるようになった江戸時代から、狸のやきものは造られていたようである。
当初の信楽タヌキの特徴は細身、長身、本物のタヌキを髣髴させる顔であった。それが現在のような親しみあるふっくらとしたデザインへと変っていった。
それは、信楽だけでなく何処の地域でも同様であろう。それに当初の信楽タヌキは、笠は別に造って焼き上げてからしゅろ縄でくくりつけて用いていたらしいが、のちに現代のもののように頭上から背中にかけて、生素地の内にくっつけて焼くようになている。

上掲の画像は、私のコレクションで備前焼のタヌキの徳利であるが、向かって左が昭和の作品。右の笠のない方が明治時代の作品である。どちらも笠は別作りのものを紐で括って被るように造られているが、右の方は笠を紛失したものである。

狸の置物は縁起物として喜ばれ、また、タヌキ(狸)が「他を抜く」に通じることからも商売繁盛と洒落て店の軒先に置かれることが多い。
今では狸の置物は、信楽焼の代名詞のような存在となり、信楽へのアクセス路線である信楽高原鐵道の車体には、タヌキのキャラクターが描かれている。
同鉄道は、昭和62年7月12日に、JR西日本旅客鉄道㈱信楽線が廃止され、その翌日より、第三セクター信楽高原鐵道信楽線として開業(運転開始)するようになった。

上掲の画像は、コレクションの信楽高原鉄道開業1周年記念乗車券(63・7・13日付印あり)である。焼物の町らしく陶器製の切符で、信楽狸の図案があるのも面白い。

タヌキ(狸/貍)は、哺乳綱食肉目イヌ科の動物である。
体重5~8kg、体長50~70㎝。体はずんぐりしていて、長胴短脚、尾は太くフサフサ、耳は丸くて小さい。毛は厚く、密生した下毛と荒く長い差し毛とがある。
習性としては、夜行性で、雑食。集団行動し、水辺近くの山林に住み、木の根元のうろ(樹洞)や岩穴、アナグマの放棄した巣穴などをねぐらとする。
日本およびユーラシア大陸の北、シベリアアムール川より、南はベトナム北部までの間に分布するという。
タヌキ属には、タヌキ1種だけが知られているが、生息する地域によりわずかではあるが形態的違い(地理的変異)がみられ、6亜種に分類され、日本にはこのうち2亜種が生息し、本州、四国、九州および佐渡島に分布するものをホンドタヌキ(N. p. viverrinus)とよび、北海道のものをエゾタヌキ(N. p. albus)とよぶそうだ。このほかの亜種はすべて大陸に生息するという。
タヌキに冬眠の習性はないが、秋になると冬に備えて脂肪を蓄え、体重を50%ほども増加させる。タヌキのずんぐりしたイメージは、冬毛の長い上毛による部分も大きく、夏毛のタヌキは意外にスリムなのだそうだ。
タヌキは急に驚かされると仮死状態のようになることがある。完全な失神状態ではなく脳はある程度目覚めているため、一種の警戒状態の行動であろうといわれている。また、この状態からしばらくたつと起き出して逃げるので、古来「たぬき寝入り」とよばれて死にまね(擬死)とみられたり、キツネと同様に人を化かすという言い伝えのもとにもなっている。
タヌキは体形的に攻撃や逃走が不得手なため、長い間に、生存上有利であったこのような習性を身につけたものと考えられているようだ。
タヌキは人家近くの里山でもたびたび見かけられ、野生動物のなかで、もっとも人間とのつきあいが古いものの一種である。ケモノヘンに里と書く「狸」の文字が、そのことを物語っている。
狸(貍)は狐と共に人を誑(たぶら)かす妖獣の代名詞ともなっているが、狸は狐に比べて、なにか素朴で愛嬌があり、どこか憎めない印象を抱かせる。しかし、狸が滑稽な動物とされたのは近世中頃以降のことで、近世初期の狸は人に害をなす恐ろしいあやかし(妖)として描かれることが多い。
蔵本の『週刊朝日百科日本の歴史71・近世1-5動物たちの日本史)』を見ていると以下のようなことが書いてあった。
狸の怪異は『宇治拾遺集』に始まる。その巻八-六”猟師仏を射る事”で、狸は普賢菩薩に化けて現れ、猟師の矢に射られて命を落とす(※8参照)。
ただし、この狸の日本語読みは不明である。そして、興味深いことに、『今昔物語集』巻ニ十第十三話は、これと全く同形の説話であり、ただ狸の役割を今昔物語集は野猪が演じている(※9参照)。
古今著聞集』六百六話においては、水無瀬山(現在の地名としては大阪府三島郡島本町北西の山を水無瀬山と呼ぶそうだが、名所歌枕 としての水無瀬山は、”水無瀬の地より見える山々”といった程度の意味だろう)の奥の古池のなかに光が現れ、岸の松の木との間を飛び移り、たびたび人をとらえては、池に引きずりこむ。
そこで、源仲俊(源仲国〔宇多源氏・源仲章の兄〕の子といわれる)がその正体を見届けると、老婆の姿をしていた。さらにそれを刺し殺すと、狸になった(六百六話とあるのは実際には603段 “薩摩守仲俊、水無瀬池にて変化を捕縛する事”の誤りであろう。※10参照)。
この狸はたぬきと訓じられているが、空中飛翔と池中の行動を見ると、どうもタヌキらしくない。
ちなみに、『類聚名義鈔』(十二世紀)で、狸・貍の読みは、タヌキ、イタチ、野ネコ等、又、『覚禅鈔』(覚禅、千二百年頃※11参照)西南院本(高野山西南院本)の貍(訓はたぬき)は、動物学者・池田啓氏によれば、中国のジャコウネコ科の一種に近いという。中国では、貍はヤマネコジャコウネコなど中型のネコ的野生動物の漫然たる総称だったようである(※0012参照)。
そして、貍は『捜神記』(干宝、四世紀)以来、キツネとともに大いに怪異を発揮してきた。これが日本人の知識人に影響をあたえ、彼らは中国の貍に相当する山の動物に日本においても想定したのではないか。
かくて、タヌキ、イタチ、テン、アナグマ、ムササビ、小イノシシ及び野生化した飼いネコなどが貍(タヌキ)の概念に曖昧に包括されたのだと思われる。
ネコマタ(猫又、猫股)もまた、貍イメージの一構成要素だったのだろう。それならば、貍の怪とネコマタの出現の時代がほぼ一致するのも理解できる。
こう考えると『鳥獣人物戯画』甲巻のネコ的動物は、実は当時における貍の一つの解釈だったのかも知れない・・・と。

上掲の画像向かって左は『鳥獣人物画』甲巻に描かれたネコマタ。左端近くの烏帽子を被り扇を持った猫的動物がそれ。自分の尻尾を抱えているが、この動作は同じ甲巻の他の場面でキツネについても描かれており(右画参照)、怪異性を示唆するのかもしれない。古代末期から中世にかけて出現したネコタマあるいはキツネの怪が、ここに現れているのではないか。
中国で狸とは、ヤマネコやジャコウネコなど野生のネコ的動物を意味していたが、ネコマタはその日本版であるといえよう。
日本では『日本霊異記』の写本に「狸」にネコと訓ずる例があり、江戸時代になっても、たとえば『狂歌百物語』のネコマタは「狸」と表記される。
中国では、タヌキのことを古くから「貉(狢。ムジナ)」と表記しており、現在でもタヌキの動物学的標準名は貉となっているそうだ(※13)。
ムジナ(貉、狢)とは、主にアナグマのことを指す。地方によってはタヌキやハクビシンを指したり、これらの種をはっきり区別することなくまとめて指している場合もある。
日本の民話では、ムジナはキツネやタヌキと並び、人をばかす妖怪として描かれることが多い。
ことわざの「同じ穴のムジナ」とは、”一見違っているように見えるが、実は同類である”と言うことのたとえ。主に悪い意味で用いられることが多い。迷信では、ムジナが「(人間を化かすとされる)タヌキと同じ穴で生活する習性をもつこと」に由来していると思われる。
日本では「狸・貍」は「ねこ」「むじな」「あなぐま」「きつね」等と同一視され、混同され、あるいは入れ替えられていたようだが、古来、農耕民族である日本人に、中型の獣は皆同じように見えたらしい。特に種の違いを厳密に区別する必要はなかったから、呼び名すら統一されなかったのだろう。
「狸」表記のケモノの怪異譚は前にも書いた通り、鎌倉時代の『宇治拾遺物語』『古今著聞集』で増え始め、室町後期の日記や絵巻物になると「狸」が人やに化けたという話になる。
これ以後「狸」はおおむねタヌキに統一されたと考えられるが、「むじな」「まみ」とも呼ばれアナグマとはほとんど区別されなかった。大正時代にたぬき・むじな事件さえ起こっている。「むじな」は東日本に、「たぬき」は西日本に多い呼称らしい。
狸がなにをさすかはさておき、キツネとタヌキの怪異は、全国的に多いが、全国分布をみると、はっきりとした特徴があり、キツネは東日本、タヌキは西日本に多いようだ(参考※14の第51回 キツネとタヌキ参照)。
化け物としての狸、つまり、化け狸の伝説は、新潟県の佐渡島や四国に多く、中でも佐渡の団三郎狸、阿波国(徳島県)の金長や六右衛門(阿波の狸合戦)、香川県の屋島の禿狸のように、特別な能力を持つタヌキたちには名前がつけられ、祭祀の対象にもなっている。
化け狸の話は、日本各地に伝わっている。しかし、タヌキの本場は何と言っても四国で、怪異といえば、原因はたいていタヌキの仕業である。全国的には八百八匹の眷属を従えていたとされている隠神刑部(刑部狸とも)などが知られる(日本各地の化け狸参照)。
「タヌキ寝入り」「タヌキ親爺」「捕らぬタヌキの皮算用」「タヌキの金玉八畳敷」などのことわざがあるし、コッケイな顔つきの人には「タヌキ」のアダ名をつける。
キツネとは違って、タヌキは人を化かすといいながら、何か憎めない、その図々しさにも逆に親しみさえ感じられるところが、日本人に愛されてきたところだろう。
ところで、「タヌキの金玉(きんたま)八畳敷」の諺の意味は知っていますか。
ここでいうきんたまは睾丸(こうがん)のことを行っているようであるが、実際は睾丸ではなく狸の陰嚢(いんのう) (金玉袋)の非常に大きいことをいう言葉であり、大きく広がった物のたとえである。
タヌキと言えば、信楽狸の巨大な陰嚢をもった意匠が思い浮かぶのではないか。信楽狸の大きな金袋は八相縁起では金運を表しているそうだ。
八畳敷きの由来は“タヌキの皮は耐久性に優れているため、金箔を作るときにタヌキの皮を利用したことに由来しているとも言われているそうだが・・・。

上掲の画像は狸の八畳敷『八笑人』(※15参照)。都立中央図書館蔵。
隅田堤(すみだづつみ。かつての東京・隅田川〔古隅田川〕の両岸。桜の名所であった)に屋形船を浮かべて酒宴を催し、狸噺子(たぬきばやし)を聞いていたと思ったら、屋形船は狸の八畳敷であったというばか話の図である。当画像は以下参考に記載の※16:滝亭鯉丈 編『花暦八笑人第五編』の13-7より借用している。
実際にはタヌキの金玉は小さく、人間の小指の先程しかないという。むしろ哺乳類の中でも小さい部類らしいのだが・・・。
タヌキが座ったときに、フサフサ大きなしっぽが股の間からおなか側へはみだしている様子が金玉に見間違えられたという説があるそうだ。
狸の妖怪豆狸(まめだ)は、西日本に伝承されているほか、江戸時代の奇談集『絵本百物語』にも記述がある。
広げると八畳もある陰嚢を持ち、関西以西に多く棲んでいたという。犬くらいの大きさで、通常の狸よりもずっと知能が高く、陰嚢に息を吹きかけることで大きく広げて部屋などの幻を人に見せたり、自ら陰嚢をかぶって別の者に化けたりしたという。

上掲の画像は竹原春泉画『絵本百物語』より「豆狸」(Wikipediaより)

とにかく、狸のことを書き始めるときりがないので、中途半端だが、もうこれくらいでやめよう。豆狸(まめだ)のことはここを見てください。
最後に、たぬきの金玉・・と言えば、私などのような戦前生まれのものは、子どもの頃に面白がって、以下のような歌を歌っていたものだ。

たんたんたぬきの ○○○○は
風もないのに ぶ~らぶら・・・・

作者不詳のこの「たんたんたぬきの」の歌も地域によっていろいろと歌われていたようだ(詞や曲など参考※17参照)が、この歌は、賛美歌まもなくかなたの」 の冒頭部分のメロディーが同じであることから、この賛美歌の替え歌としているところもあるらしいが、実際には、賛美歌「まもなくかなたの」の曲の一部を流用してつくられた「タバコやの娘」(作詞:園ひさし、作曲:鈴木静一)の替え歌だそうだ(※作詞の「薗ひさし」は、鈴木静一のペンネーム)。
「タバコやの娘」は1937(昭和12)年、コメディアン岸井明と童謡歌手から流行歌歌手に転向した平井英子の歌で大ヒットしていたそうだ。
当時盛んに作られたコミックソングまたはナンセンスソングと呼ばれるジャンルの曲であり、歌いやすく面白い。
この歌は、佐川ミツオ渡辺マリのデュエットによるカバー曲が以下で聞ける。この歌の元曲である賛美歌「まもなくかなたの」と比較して聴いてみるのも面白いのでは・・・。

まもなくかなたの 聖歌・賛美歌 - YouTube

煙草屋の娘 (佐川ミツオ, 渡辺マリ) - YouTube



参考:
※1表千家不審菴:茶人のことば:村田珠光「心の文」その1
http://www.omotesenke.jp/chanoyu/7_2_1a.html
※2:信楽鬼桶水指
http://story.turuta.jp/archives/6804/
※3:信楽地域情報
http://www.shigaraki-labo.co.jp/shigaraki/index.html
※4:詩誌『現代詩神戸』231号
http://homepage2.nifty.com/GOMAME/2010/05/100519.htm
※5:兵庫県のわらべ歌 - ODN(PDF)
http://www1.odn.ne.jp/~aar16910/imgs/warabeuta.pdf#search='%E5%85%B5%E5%BA%AB%E7%9C%8C%E3%81%AE%E3%82%8F%E3%82%89%E3%81%B9%E6%AD%8C'
※6:名古屋市:ご存じですか?八マーク(観光・イベント情報)
http://blog.livedoor.jp/zunousen007/archives/17258732.html
※7:おいでやす狸楽巣(りらくす)
http://www.katch.ne.jp/~msyk-tsj/index.html
※8:日本古典文学摘集宇治拾遺物語
http://www.koten.net/uji/
※9:ゐむら【豕羣】 | 情報言語学研究室
http://club.ap.teacup.com/hagi/234.html
※10:鈴なり星:古今著聞集ぶらぶら 
http://xxxsuzunari88xxx.yamanoha.com/tyomonsyu.htm
※11:覚禅鈔
http://www002.upp.so-net.ne.jp/eigonji/gane/kakuzenshou.html
※12:s-ryooの語源随想『ねこ』の語源を考える(7)~『たたけ』について
http://d.hatena.ne.jp/s-ryoo/?of=1
※13:埼玉県立自然史博物館 自然史だより 第20号 :貉(むじな)か狸(たぬき)か
http://www.kumagaya.or.jp/~sizensi/print/dayori/20/20_6.html
※14:国際日本文化研究センター | 怪異・妖怪伝承データベース
http://www.nichibun.ac.jp/youkaidb/ikai/
※15:私の古典(12)『花暦八笑人』
http://plus.harenet.ne.jp/~kida/topcontents/news/2010/121601/index.html
※16:花暦八笑人. 初,2-5編 / 滝亭鯉丈 編 ; 渓斎英泉,歌川国直 画 (古典籍総合データベース。早稲田大学)
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he13/he13_03094/index.html
※17:作詞者不詳・曲=「たんたんたぬきの」聖歌687番(新聖歌475番) http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/tantantanuki.html
狸の本・アラカルト狸
http://www.ztv.ne.jp/ann/ooatari/rink.htm
信楽焼の歴史
http://www.the-anagama.com/Ja/kanzaki_4/j_pot_history.html
京都大学 防災研究所( html )
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=ZKTy0L2UREIJ&p=%E7%81%98%E3%81%AE%E9%80%A0%E3%82%8A%E9%85%92%E5%B1%8B++%E9%85%92%E8%94%B5+%E8%B1%86%E7%8B%B8&u=www.dpri.kyoto-u.ac.jp%2F%7Edptech%2Ftusin%2F94%2Finfo25.doc
滋賀県工業技術総合センター :: タヌキのページ
http://www.shiga-irc.go.jp/scri/shigaraki_info/%E3%82%BF%E3%83%8C%E3%82%AD%E3%81%AE%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8/
信楽町観光協会
http://www.e-shigaraki.org/
信楽焼 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E6%A5%BD%E7%84%BC

犬の日

2012-11-01 | 記念日
日本記念日協会の今日・11月1日の記念日を見ると「 犬の日」があった。
記念日の由来を見ると、“11と1で「ワンワンワン」と読む語呂合わせから、2007年12月8日にロードショー公開の映画「マリと子犬の物語」(東宝株式会社)と、2008年3月にロードショー公開の映画「犬と私の10の約束」(松竹株式会社)が制定。2作品とも犬が主人公の感動の作品。”・・とあった。

種としてのイヌ(犬、狗。Yahoo!百科事典も参照)は、食肉目イヌ科 哺乳類である。
広義には、広くイヌ科に属する動物(イエイヌ、オオカミ、コヨーテ、ジャッカル、キツネ、タヌキ、ヤブイヌ、リカオンなど)の総称である。
しかし、人間にもっとも早く飼いならされ、家畜化された種であり、狭義には、一般にイヌ科の家畜種である現在のイエイヌのことをイヌと言っている。
現在も、ネコ(猫、 Felis silvestris catus), と並んで代表的なペットまたはコンパニオンアニマルとして、広く飼育され、親しまれている。
野生化したものを野犬(やけん)といい、日本語ではあたかも標準和名であるかのように片仮名で「ノイヌ」と表記されることも多いが、分類学上は種や亜種としてイエイヌと区別される存在ではない。
現在、ジャパンケネルクラブ (JKC) では、国際畜犬連盟 (FCI) が公認する331犬種を公認し、そのうち176犬種を登録してスタンダードを定めており、世界全体では4億匹の犬がいると見積もられているようだ。血液型は8種類あるらしい(※1参照)。
イヌは単に野生の動物を捕らえて飼い慣らしただけのものではない。品種を異にするまで淘汰を重ね、その子孫もまた家畜として生まれてくるように改良されたものであり、その家畜がペットともなっているもである。
イヌの祖先については、食肉目イヌ科に属するオオカミとジャッカルから分化したという説、オーストラリアなどに生息するディンゴなど野イヌであるという説などがあったようだが、1990年代以降発展した分子系統学の知見によると、ほぼ間違いなくオオカミから分岐した動物と考えられており、分類上の位置づけとしてはタイリクオオカミ(Canis lupus。以下オオカミという)の一亜種とされているようだ(イヌの起源参照)。
従って、オオカミに似た形質を残してはいるが、家畜化(=馴化)の途上で人為淘汰(とうた)を受け、さまざまな品種が産み出され、形態に著しい差異がある(犬種については犬の品種一覧を参照)。
イヌがオオカミから分岐した(イヌが人間によって最初に家畜化された)時期については異なった見解が並立しているようであるが、考古学的遺物の研究から最古のイエイヌの骨であるかもしれないものとして、
シリア・ドゥアラ洞窟にあるネアンデルタール人の住居遺跡(約3万5千年前)、ムスティエ文化から発掘されたイヌ科動物の下顎骨(この下顎骨については、※2:「精神のエクスペディシオン」内、「東京大学展」や「ネアンデルタールとの出会い 洪積世人類遺跡調査」(赤澤威)で画像と解説を見ることができる。)。埴原和郎らが発掘。オオカミの下顎骨に比べて小さく、これを世界最古のイエイヌとする説がある。
又、ウクライナ・マルタ遺跡などで出土した、イヌ科動物の骨(※3)。 オオカミにしては小型。同じくウクライナのメジン遺跡(約3万年前)でもイヌの骨が出土している。など非常に古いものがあるらしいが、現在では、アイン・マラッハ遺跡など、前1万2千年ごろの西アジアのもの、あるいはドイツ・オーバーカッセル遺跡(Oberkassel, 約1万4千年前)から発見された、イヌまたは馴化されたオオカミの骨を「最古のイヌ」として挙げる資料が多いそうだ。
前1万2千年ごろは、中石器時代のナトゥーフ文化( Natufian culture※4 )初期に当たり、主要な狩猟具が石斧から細石器(小さな石のやじり)へと移行した時期である。狩猟の形態の変化が、イヌの利用と何らかの関わりをもつ可能性もあるという。
このことから全てのイヌの祖先が東アジアのオオカミから家畜化された動物で、これがその時代に移動生活を始めた人間とともに世界各地に移動して広がっていったと考えられているようだ。

ペットと家畜(実用的な理由に拠るもの)の歴史は古く、狩猟において助けとなるイヌや、農耕において害獣となるネズミなどを駆除してくれるネコやイタチのような小型肉食獣が珍重されていた。
特にイヌの場合は、はっきりした主従関係を好む習性から、家族の一員として扱われた歴史が長いとされる。
石器時代におけるイヌの墳墓(埋葬に際して添えられたと見られる花の花粉が見られたり、なんらかの食料の残骸が一緒に発見されるなどの特徴も見られる)も発見されている。
その一方で、所有物という概念もあったようで、殉死によって飼い主と共に埋葬されたと思われるケースも見られる。
欧米では、古来から現代まで王侯貴族や歴代大統領から一般市民の間で愛玩用、護衛用、狩猟用などとして飼われている。
ただ、古くは家畜とペットの境界は曖昧で、飼育する側の社会的地位によって、その境界は更に曖昧な物であった。
今日では多くの国で愛玩用または訓練されるイヌであるが、日本でも一般的な食用動物として見なされていた時代があった。

それでは、古い時代の日本人はどのような動物にどのような関心を抱いてきたのだろうか。
私の蔵書『週刊朝日百科:日本の歴史71動物達の日本史』に面白い記事があったが、で要約すると以下のようなことである。
古代の8世紀から中世の14世紀に至るまでの幾つかの史書、地誌・歌集・説話集・物語に登場する名を調べて表にしてみると、この当時の日本人に一貫して親しまれた哺乳類は、ウシ・ウマ・イヌ・シカ・イノシシ、キツネ・サルおよびネズミだったそうだ。そしてこれらの動物がキツネとネズミを除いては埴輪に造形された哺乳類と一致する。この中にもっと多く表れてよいと思われるのに以外に出現頻度の低い動物がネコ、タヌキ、カモシカなどがいる。このような事実は古い時代の日本人の動物感を反映している。
それは『日本書紀天武天皇4年4月17日(675年)のいわゆる肉食禁止令に見られる。以下がそのときの詔である。
「庚寅、詔諸國曰、自今以後、制諸漁獵者、莫造檻穽、及施機槍等之類。亦四月朔以後、九月卅日以前、莫置比彌沙伎理・梁。且莫食牛馬犬猨鶏之宍。以外不在禁例。若有犯者罪之。」(日本書紀巻第廿九)・・・(※5:日本書紀参照)
これを見るとわかるように、肉食禁止の対象は、ウシ・ウマ・イヌ、サル、ニワトリに限定されている。これは、埴輪として出土し、又、表の諸書に多く出る動物と禁制対象の動物との対応が印象的であり、シカとイノシシを除くと、そのまま食禁哺乳類のリストとなる。
このことからも分かるように、古代日本人の関心を最も強く引き付けた哺乳類は、家畜のウシ、ウマ、イヌ、人もどきのサル、および食用に最適のシカ・イノシシに3分されていた。尚、シカとイノシシは、山神の動物形態としても有力だろう。
古事記景行記でヤマトタケルを苦しめた足柄の坂本のシカ、伊吹山のイノシシはいずれも山の神である(※6参照)。


上掲の画像は、「イヌの埴輪」、東京国立博物館蔵。
これら動物の埴輪の製作意図は動物の種類によって多少異なるが、いずれも広い意味で、宗教儀礼に用いられたことは間違いないようだ。
特に、これら哺乳類のイヌはについて言えば、縄文時代に、すでにイヌはヒト(人)の狩猟を助けていた。
それは弥生時代銅鐸からも明らかである(以下の画像参照)。又恐らく警備にも利用されていただろう。

上掲の画像は袈裟襷紋(けさだすきもん)銅鐸の動物の図とイノシシを狩る場面。(右下)。数等のイヌがシカを取り巻いている。(画像は東京国立博物館蔵。画は『週刊朝日百科:日本の歴史71動物達の日本史』より)

ただ前に紹介した天武天皇4年の詔は五畜の肉食を禁じているが、恒久的なものでなく、期間が4月1日から9月30日までの農繁期に限定されており、裏を返せば農閑期は肉食を行ってもまったく問題がなく、また農繁期であっても五畜以外の動物の肉は食べてもよいということである。したがって、この肉食禁止令は仏教に基づく肉食禁止ではない。
日本人の食肉習慣を見ると、ウシ、ウマ、イヌは、食肉以外の目的に有用であるからこそ を禁止されたものであろう。つまり、明治以前の日本人は食用のために特定の家畜を定めることなく、むしろ野生獣を捕らえて屠食していたことになる。
このような犬食の習慣は日本を含めた東アジア、東南アジア及びハワイ、ポリネシア、ミクロネシア、オセアニアなどの島嶼(とうしょ)に於いて多く存在したことである(肉食文化参照)。
しかし法令(「生類憐れみの令」)や宗教的な理由から獣肉を食べる習慣が日本では次第に廃れたことから、今日の日本ではイヌを食用と見なす習慣はない(犬食文化の項を参照)が、犬食は日本でも戦後しばらくまで一部の地域で行われており、神戸でも一部の地域では「赤犬(毛色が茶〜赤のイヌの俗称)は旨い」といって食べていたところがあると子ども時代に噂話として聞いている。
今、愛玩犬として人気の高い中国原産のチャウチャウも、もともとは食用のために作られた種類であった。

ところで、中世や、近世での、イヌやネコの飼い方はどうだったのだろう。
日本には、元来ネコ(イエネコ)が存在していなかった。日本へネコは、奈良時代ごろに古代中国古代朝鮮から、仏教の伝来とともに経典を守る益獣として輸入されたという説が有力のようだ。
従って、愛玩用というよりも益獣として輸入された猫ではあるが、平安時代には、貴重な動物として貴族達の間で猫がかわいがられ、平安時代の『源氏物語』や、鎌倉時代の『石山寺縁起』などの絵巻物を見ると、猫が逃げたり、盗まれたりしないように、首に縄をつけ、紐に繋いで飼っていた。

上掲の画像は紐につながれている猫。石山寺縁起より。石山寺蔵。(画像は、週刊朝日百科「日本の歴史別冊・史実と架空の世界」より借用)

江戸時代初期の1602(慶長7)年には猫にとって画期的な法令が出た。すなわち猫を綱でつないで飼うことが禁止された。目的は、鼠退治の為である。これは「猫のさうし(草子)」という御伽草子(※006、007にもなった有名な事件であるが、このあたりから、猫の放し飼いがされるようになったようである。このことは、私の前のブログ「招き猫の日」でも詳しく書いた。
色々な変遷があり、世界各地で猫が飼われるようになっても、人が猫に求める最大の役割は、狩猟本能を利用した「鼠退治」だったので、犬のようにさまざまな目的のために改良されることはなかった。そのため、猫は今も野生的な性質を存分に残しているといわれる。

上掲の図、向かって右:『年中行事絵巻』から、12世紀末、個人蔵。左:粉河寺縁起12世紀末。粉河寺蔵。(いずれもともに週刊朝日百科「日本の歴史別冊・歴史の読み10 方史実と架空の世界」より借用)。

猫同様に、犬も都市に必須の動物だ。『猫のさうし』で放し飼いになった猫に猛然と襲いかかったのは犬たちであった。
中世の絵巻物などに描かれている犬は殆ど放し飼いであった。たとえば『年中行事絵巻』に描かれた人に吠えかかる犬や、闘鶏の鶏に吠え掛かる犬など(上掲の画像向かって右参照。なお、粉河寺縁起の原画は参考※9の2-cで総て見られる)。『粉河寺縁起』第一段の猟師の家の庭の赤い首輪を付けた犬を見ると良い(上掲の画像:向かって左参照)。放し飼いだ。赤い首輪は狩猟の際に目印になる。それに鈴を付けている場合もある。

上掲の画像右:『江戸名所図屏風』から。出光美術館蔵。左:「南蛮屏風」から17世紀前期。神戸市立館蔵。(画像は、いずれもともに週刊朝日百科「日本の歴史別冊・歴史の読み10 方史実と架空の世界」より借用)

近世でも繋がれていない犬が多かった。でなければ、『猫のさうし』にあるような、放し飼いになった猫に襲いかかることは出来なかった。
その限りでは犬の飼い方は中世(鎌倉時代・室町時代)と近世(安土桃山時代・江戸時代)ではあまり違わなかった。だが、注意したいのは近世に於ける犬のペット化の進行であった。それに伴って犬を首綱で引いている場合や家の中で犬を飼う場合が多くみ見られるようになる。
また、都市化の進行で、人に吠え付いたり、噛み付く犬を繋いでおく必要が高まったろう。例えば、『江戸名所図屏風』(※10)の浅草寺境内で、赤い首綱で引かれている犬の姿がある(上図右参照)。
こうした首綱で犬を引く姿は、恐らく南蛮人のそれを真似た可能性があることに注意したい。それほど南蛮人と犬は日本人の関心を集めたらしい。
そこで、『南蛮屏風』(鹿島出版会)に収録されている『南蛮屏風』に描かれている犬たちを見ていると、南蛮人の連れている犬は、すべて首綱でつながれている。南蛮人のこうした犬に首綱をつけて歩く姿を日本人が真似た可能性が大きい。
つまり、中世では猫は首輪でつながれ、犬は放し飼いだった。近世では、猫は放し飼いになり犬を首綱でつないで飼うような飼い方が増加した(犬は基本的には放し飼いであったが)。
このように見ると、現在の都市生活での我々の犬と猫の飼い方と中世のそれでは全く正反対であったこと、現在のそれが近世社会の飼い方の延長線上にある事が判る。

現代は、猫と共にペットとして飼われている犬が多くなり、2010(平成22)年9月の内閣府による動物愛護に関する世論調査(※11参照)によると、ペット飼育の好き嫌いでは、「好き」とする者の割合が72.5%、「嫌い」とする者の割合が25.1%となっており、前回の調査結果(平成15年7月調査)と比較して、「好き」(65.5%→72.5%)とする者の割合が上昇し、「嫌い」(31.7%→25.1%)とする者の割合が低下している。
又、家庭で犬や猫など、ペットを飼っているかどうか聞いたところ、「飼っている」と答えた者の割合が34.3%、「飼っていない」と答えた者の割合が65.7%となっており、前回の調査結果と比較してみると、大きな変化は見られない。
そして、ペットを「飼っている」と答えた者に(666人)に、どんな動物か聞いたところ,「犬」を挙げた者の割合が58.6%と最も高く、以下、「猫」(30.9%),「魚類」(19.4%)などの順となっている。(複数回答、上位3項目)。
今日では、ペットは、家族として、パートナーとして、仲間として人の暮らしに密接に関わり、心を癒してくれたり、あるいは愛玩されたり、共生するなど、様々な面を持った存在となっている。
近年では、生命全般を大切にする思想も普及してきており、動物であっても無下に扱う事を忌避する人々は増えている。
古来、日本人が仏教的な輪廻転生の思想や「鳥獣すらなお道を知る、いわんや人間は・・・」という儒教的道徳観から、人と動物の関係は優劣のない一体のものと見てきた。

上掲の図は、近世末期の犬の墓。(白金館址遺跡調査団提供。画像は、週刊朝日百科「日本の歴史別冊・歴史の読み10 方史実と架空の世界」より借用)。
上掲の画像は、近世末期の犬の墓であるが、このように、イエイヌの死体を人の葬送のように、墓を設けて葬った例はすでに縄文期にもあった。それは、個々人の愛情によるもので制度として行われているものではない。しかし、近世に都市が発達し、警備や愛玩のために多くの市民がイエイヌを養うようになると、その死に際し寺院で人に類する葬儀を営んで埋葬し、墓碑を建立するものも少なからず出た。江戸郊外にもいくつかそうした墓が存在し、現今のペット化がすでに犬猫にみられたことを立証している。

古くから人間と接してきた犬。現代ではペットの家族化も進んでおり、中にはペットに遺産を残したいと望む人さえもいる。
ペットを飼うことの長所としては癒し、孤独の解消、世話をする事によって(飼う側の人間に)育まれる興味や思いやりの心等が挙げられている。そして、近年、ペットを飼うことが、子どもの健全な心を育てることもわかっているそうだ。
そんな家族化しているペットの多くが最近危機に直面した。それが、阪神・淡路大震災、や昨年の東日本大震災などに遭遇し、震災した飼い主と離れ離れになり被災地に取り残された多くの哀れペットが多く出たことである。
今日の記念日の由来にある、映画「マリと子犬の物語」は、2004年10月23日の新潟県中越地震で大きな被害に見舞われた山古志村で、失意の被災者を勇気づけた奇跡の実話を映画化したもの。
地震の被害で全村避難となり、愛犬マリと3匹の子犬を村に残さざるを得なかった飼い主家族の苦悩と、孤立した村で生き延びエサもない中、我が子を懸命に守り抜く母犬マリの奮闘を描いた感動のドラマであった(※12参照)。以下でそのワンシーンが見れる。
マリと子犬の物語 – YouTube
神淡路大震災のときには、急きょ仮設住宅が建てられ避難命令が出されたが、傾きかかった自宅の中でイヌや猫と一緒に暮らしているお年寄りがずいぶんいた。東日本大震災でも同様の犬が数多くいた。
このような、動物と暮らす飼い主が災害時に備えるために何をしておいたらよいか。地震などの大災害のときに、自分の犬を救うために必要なものはなにか・・・これからペットを飼うときには、そのようなことを十分に考えて飼わなければいけないだろう。
又、ペットがもたらすメリットがある反面、ペットを物品のように扱い、「飽きたから捨てる」という考え方をする者の存在により、飼い主がこれら動物を野に放ち帰化動物を作り出してしまうという問題も、世界各地で発生している(日本の場合、今イヌだけでく、ペットとして飼われている動物の殆どと言っていいほど外来種が多いように思う)。
それに、躾の問題でもあるが、本人自身は可愛がっているつもりでも、隣近所に迷惑をかけている場合や、ペットにとっては、好ましくない可愛がり方をしている場合も多くあることだろう。
映画「犬と私の10の約束」は、作者不詳(実際には分かっているらしい)のまま広く世界に伝わっている英文の詩で、日本では「犬の十戒」として知られているものをモチーフとした本木克英監督による映画である。
私も犬は大好きなので、子どもの頃には家の近くを餌を求めてうろついていた野良犬(雑種犬)を拾ってきて飼っていたたが、戦後のことであり、家の周辺は焼け野原でもあったことから犬には、身元が分かるように首輪だけは付けているが、飼い方は放し飼いで、相手をしなくても一日中、家の近所でひとり?遊び歩いて、食時のときになるときっちりと決まった時間に帰ってきて犬小屋で寝ていた。
私が、公園や海へ泳ぎに自転車で行ったり、又、山に登るとき、公園で遊んでいるときには呼ばなくても勝手についてきていたが、特別に散歩として連れてゆくことはなかった。餌も私たちの食時の残り物を与えていたから、本当に世話と言うほどのことはしていかった。
この当時は、戦後の大変な時代であり、どこの親も食べるものを得るために、忙しく寸暇を惜しんで働いていたので、犬どころか、自分の子どもでも、食時以外は放任で特に面倒を見ることもなかった。放っておけば、子どもは子どもで、近所の子どもと勝手に遊んでいたし、犬もその近くで走りまわっていた。
それでも、子どもも犬も親や飼い主の言うことは良く聞き、いい関係を築いていたものだ。思い出せば、かえって雑種犬だからだろうか、なんでも教えたことは非常に覚えが早く、ウンチなども早くから決められた砂を入れた木箱の中にちゃんとしていた。
年をとって、自分の子どもも巣立ち、夫婦二人だけになると、家人なども私以外に世話をやくものも居らず寂しいものだから、犬を飼いたいといって、何度か話をしたことがあるが、昔のような放し飼いは出来ず、年取った者が毎日の散歩をさせるのも自信がないし、それよりも一番に、犬の寿命が短いので、死ぬのは犬か私たちかどちらが先になるか微妙なところで、情の移った犬が亡くなるのをみるのも悲しいし、私たちが先に亡くなり、犬だけが残ることになるのも可哀想だということで、結局は飼うのを諦めることになった。
今の時代に、ペットを飼うのはなかなか大変そうだが、飼う以上は、きっちりと躾もし、また、ペットのこともよく理解して飼わなくてはいけないだろう。
そういうことで、”ペットとして飼われることとなった犬と人間との望ましい関係”を作る上で、犬の十戒を実行するのはいいことなのだろうね~。
犬の十戒
尚、犬についての総てはなかなか書ききれないので随分書きたいことを省略したが、詳しいことは、以下の参考に記載しているブログで詳しく書かれているので、そちらを見られると良い。
(冒頭の画像は、コレクションの映画「マリと子犬の物語」チラシ)
参考:
※1:イヌの血液型
http://imahome.fc2web.com/dog-ketuekigata.htm
※2:精神のエクスペディシオン
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1997Expedition/
※3:松井章 「日本人と家畜 考古学から見た動物と日本人の歴史」http://www.kinrenju.jp/menu02/taikai_0910.pdf
※4:ナトゥーフ文化(1)農耕なき定住 - るいネット
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=43375
※5:日本書紀
http://www.seisaku.bz/shoki_index.html
※6:伊吹山 ー神話への旅ー
http://www013.upp.so-net.ne.jp/mayalibrary/niki/niki45.htm
※7:歴史家の見た御伽草子 『猫のさうし』 と禁制
http://ci.nii.ac.jp/naid/110004688378
※8:【大塚ひかりの古典にポッ】猫と鼠、因縁の始まり 御伽草子
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120821/wlf12082115110011-n1.htm
※9:粉河寺縁起
http://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kaiga/emaki/item05.html
※10:江戸名所図屏風 八曲一双 - 出光コレクション - 出光美術
http://www.idemitsu.co.jp/museum//collection/introduction/painting/genre/genre03.html
※11:動物愛護に関する世論調査(平成22年9月) - 内閣府
http://www8.cao.go.jp/survey/h22/h22-doubutu/index.html
※:12:マリと子犬の物語
http://fc.ccb.or.jp/tourism/product/mari.html
十 二 支 物 語;犬の話
http://www2.plala.or.jp/terahakubutu/jyuunisiinu.htm
日本における肉食の歴史
http://www.bunbun.ne.jp/~drhnakai/sub1-59.htm
イヌ
http://www.jttk.zaq.ne.jp/takasho/abc-052-dog.html
イヌ-Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%A4%E3%83%8C/
イヌ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%8C
コトバンクーイヌ(犬)
http://kotobank.jp/word/%E3%82%A4%E3%83%8C(%E7%8A%AC)
「中国語」としての漢字:「犬」と「狗」
http://www.jttk.zaq.ne.jp/takasho/abc-052-dog.html
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http://www.edu.dhc.co.jp/fun_study/howto/pdf/essay003.pdf#search='%E3%82%A2%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%88%EF%BC%88%E6%AF%8D%E9%9F%B3%E4%BA%A4%E6%9B%BF%EF%BC%89'
漢字Q&A(その7)
http://www.taishukan.co.jp/kanji/qa07.html
024 【脱線】動物の神と妖(あやかし)|猫の雑学|野良猫総合研究所
http://ryoquest.sakura.ne.jp/town/cgi-bin/town/patio212/game.cgi?mode=view&no=25
縄文時代と同じ頃の西アジア
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2000dm2k/japanese/02/02-08.html
世界史テーマ研究 農耕の起源とドナウ文明
http://thaumazein.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-4947.html
ペットたちに「感謝」する日- 今日のことあれこれと・・・
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/7f3675e29c8f70d94b3af5d85ab12f8e

猫の日 - 今日のことあれこれと・・・
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/9455856dc1a307620fa3ffcaf2c27456