今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

初めて『軍艦マーチ』が演奏された日

2006-04-30 | 歴史
1900(明治33)年 の今日(4月30日)は、神戸沖の観艦式で初めて『軍艦マーチ』が演奏された 。
この日、明治天皇を招き神戸沖でおこなわれた海軍初の大演習観艦式で、初演奏された通称『軍艦マーチ』の正式名称は「軍艦行進曲」であり、その名の通り軍艦の艦上で演奏された。
「守るも攻むるもくろがねの・・・」
この勇ましい曲、戦後は、パチンコ屋などでよく聞かれた軍艦マーチこと『軍艦行進曲」』は、「旧友」(ドイツ)、「星条旗よ永遠なれ」(米国)とともに世界三大行進曲の一つとして知られており、現在の海上自衛隊でも、観艦式などで使用されている。
この曲は、1893(明治26)年発行の「小学校唱歌」で発表された「軍艦」という唱歌(作詞鳥山啓/作曲山田源一郎:元のメロディは3拍子の全く違う曲)の歌詞に、1897(明治30)年、軍楽師の瀬戸口藤吉が軽快な2拍子のメロディをつけたものだそうだ。しかし海軍から、1900(明治33)年に行われる観艦式用の楽曲として使いたいとの要請があり、瀬戸口は吹奏楽用の勇ましい行進曲として再編曲。さらに間奏部分に、当時唱歌として親しまれていた東儀季芳作曲の「海ゆかば」を導入し、軍艦行進曲として完成させたという。
瀬戸口藤吉(せとぐちとうきち、1868年~1941年)は、現・鹿児島県垂水市出身の音楽家の一人で旧海軍軍楽隊長をしていた。他にも「愛国行進曲 」など数々の行進曲が作られている。又、余談だが、唱歌「軍艦」の作詞者鳥山啓(とりやまひらく)は、田辺の大庄屋の次男で和歌山師範学校教員のち、和歌中学教員となり、理化学、博物、作文など教えたが百科に通じ地理、洋楽にもすぐれていたそうで、和歌山中学に入学した南方熊楠の貪欲な才能と知識欲を愛した鳥山は熊楠に博物学の手ほどきと、採集の方法、分類、記録、標本づくりを指導し、ときには新刊の動・植物学の原書を貸し与えたりしたという。熊楠が生涯にただひとり、「先生」と呼んだ人だといわれている。
観艦式(かんかんしき)というのは、軍事パレードのひとつであり、艦艇を並べて壮行する式のこと。観艦式の起源は、1341年、英仏の百年戦争の最中に、イングランドの王、エドワード3世が自軍艦隊の威容を観閲したことに始まるそうで、現在各国で行なわれている観艦式の様式は、1897(明治30)年、イギリスのビクトリア女王即位60年祝賀の際に挙行されたものが基となっているという。
我が国では、1868年4月18日(慶応4=明治元年3月26日)、明治天皇を迎えて大阪・天保山沖で実施された「海軍天覧」が日本で初めての観艦式であるが、1890年(明治23年)に神戸沖で実施された「海軍観兵式」が近代海軍としての観艦式の始まりである。名称としての「観艦式」という言葉が最初に使われたのは、、第4回目に当たる1900(明治33)年の今日、神戸沖で行われた「大演習観艦式」からである。公式な観艦式は、1868(明治元)年に天保山沖で行なわれたものから18回行われており、内6回神戸沖で行われているが、明治時代に実施された6回中4回は、神戸沖で行われている。特に、1905(明治38)年の日露戦争凱旋観艦式と、1928年(昭和3年)の昭和天皇即位の大礼に伴う観艦式は、外国の軍艦も参加する盛大なものであったという。また、旧海軍最後の第18回観艦式は、1940(昭和15)年横浜沖において実施された紀元2600年記念特別観艦式であり、これも盛大に行われている。
かつては、味方の艦隊を天皇陛下が観閲することにより、軍の士気を高め、国民や友好勢力には、精強さをアピールすると共に、敵勢力に対する示威行為とすることであったが、現在では、国家の祝典の際や、自国の国民の海軍に対する理解を深めることを主要な目的としてほぼ3年おきに海上自衛隊が行っている。1989年(平成元年)からは、一般市民も公募で見学できるようになった。
最近のものでは、海上自衛隊は、2002(平成14)年 10月、創設50周年にあたって、多国間安全保障対話として第8回西太平洋海軍シンポジウムを、多国間共同訓練として多国間捜索救難訓練を主催するとともに、また、国際観艦式を行っている。国際観艦式とは、通常、国家的な節目となる記念日などに多数の外国海軍艦艇の参加を得て行われるものであり、このときには、11か国17隻の外国海軍艦艇の参加を得て、海上自衛隊艦艇24隻を合わせた41隻の艦艇で、晴天の下、東京湾で行われている。
『軍艦マーチ』で思い出されるのが、名匠小津安二郎監督 の映画「秋刀魚の味」(1962年)。共に暮らす娘の婚期を気にかけながら生きる元海軍将校のサラリーマン(笠智衆)は、やがて娘を嫁がせることになる・・・秋刀魚の味という題目の通り、娘を嫁に出す心境に至るまでの父親のほろ苦い心情変化がよく描かれた映画であるが、ラストシーン、娘の結婚式の夜、岸田今日子のいる飲み屋で『軍艦マーチ』を聞きながら、海軍時代駆逐艦「あさかぜ」の艦長であった笠がその部下であった加藤大介と敬礼を交わし続けるせつないシーンが印象的であった。加藤大介の「ねぇ艦長、どうして日本負けたんですかね?」に始まる会話。境遇こそ違え、敗戦を体験し、戦後苦労をして現在の地位を築いた男達が、過ぎ去った日々を振り返りながら酒を飲む。そして「戦争に負けてよかったじゃないか」と言う。戦争の記憶がまだ新しい時代、戦争体験と云うものに対する日本人のメンタリティをなにげなく描いた名場面でもある。1937(昭和12)年9月~1939(昭和14年)年7月、一下士官として中国大陸で従軍。1943(昭和18)年6月には軍報道部映画班としてシンガポールに赴任、終戦の日を同地で迎えた小津安二郎監督 は、映画「東京物語」でも旧友再会シーンで『軍艦マーチ』を使っているが、この「秋刀魚の味」でも戦友再会シーンで『軍艦マーチ』が流れる。このシーンのユーモラスでありながら哀切極まりない情緒こそ小津自身の戦友たちへの鎮魂なのだろう。私が社会に出て、居酒屋あたりで飲んでいた昭和30年代初期にはまだ、大勢の人たちが『軍艦マーチ』を歌っていた。この曲をを聴いて、パチンコ屋ではなく、あの苦い戦争を思い出す人は、もう、我々ぐらいの年代ぐらいまでだろうな~。戦争を思い出しながら、一曲歌いますか!!
MIDI「軍艦行進曲 」(天翔艦隊)
(画像は「2002年国際観艦式記念」80円郵便切手。2002年10月1日発行。)
参考:
観艦式 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E8%89%A6%E5%BC%8F
観艦式の歴史
http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/JmsdfRv.html
軍艦行進曲 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E8%89%A6%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%81
軍艦マーチの碑
http://www.kkr.mlit.go.jp/kinan/kosaka/kosaka_027.html
おんがく日めくり | YAMAHA
http://www.yamaha.co.jp/himekuri/view.php?ymd=19990430
百年戦争 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89
秋刀魚の味 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD20891/?flash=1
ダイスポシネマ館
http://www.daispo.com/othercolumn/sanma.htm
小津安二郎と戦争
http://www.msz.co.jp/titles/06000_07999/ISBN4-622-07148-7.html
小津安二郎 (東京物語)
http://www3.ocn.ne.jp/~zip2000/ozu-yasujirou.htm
天翔艦隊
http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/tensyofleet.htm
解説 国際観艦式
http://jda-clearing.jda.go.jp/hakusho_data/2003/2003/html/1545c100.html



缶ジュース発売記念日

2006-04-28 | 記念日
今日(4月28日)は、「缶ジュース発売記念日」
1954(昭和29)年、明治製菓が日本初の缶入りジュース「明治天然オレンジジュース」を発売した。
そして、1957年1月、明治製菓発売の「明治天然オレンジジュース」の缶の上部にオープナーが付いた「オープナー付缶ジュース」が発売され、缶切りがなくても、いつでもどこでも手軽にジュースが飲めて評判に。自販機が普及する昭和40年代まで、ジュースは"ビン詰め"が圧倒的多数であった。缶の最初は、現在のようにタブで簡単に開くスタイルではなく"缶詰"ジュースで、缶詰の缶同様に開けるところがなかったので、小型のオープナー(尖った 小さな缶切り)が附属しており、それで上に口を付けて飲む箇所と空気を入れる箇所の最低2箇所の穴を開けて飲むスタイルだった。その後、タブ付になったが、昔のものはリング部分を持ってムキッと外すタイプで「プルタブ」といった。現在のものは、環境保護のため、タブ部分を起こして戻すタイプは「ステイオンタブ」と言い、缶のフタがついたまま残る方式になっている。
ジュースの英単語としては、果物や野菜の絞り汁のことであるが、昔は、「ジュース」とは名ばかりの、「着色砂糖水」といったようものも売られていたが、このごろでは果汁100%のものが主流になってきた。日本国内において、1971(昭和46)年に公正競争規約が制定され、今では、果汁100%のもの以外は、「ジュース」という名称で販売できないことになっており、それ以外はソフトドリンクという。1971(昭和46)年に公正競争規約が制定される前は、無果汁でも堂々と「果汁ジュース」と書かれている商品すらあった。
それと、この「100%ジュース」といっても、2種類あり、果汁を搾って、そのまま製品化したもの(「ストレート果汁」)と、いったん濃縮した果汁を薄めて、計算上100%にしたものがある。
これを「濃縮果汁還元」というが、水分をある程度蒸発させることによって、容積を減らし、保管・輸送費などを節約するために開発された技術。濃縮果汁還元のものは、輸入されてきた濃縮果汁を薄めて作られており、濃縮する際、どうしても香りが飛ぶようで、香料などを添加するのが普通だとか。そのため、飲み比べると、ストレート果汁の方が美味しいだろう。 このオレンジ果汁の輸出では、ブラジルが最も有名のようだ。
それと、パッケージに果物の切り口の絵や写真も果汁100%のもの以外は使ってはいけないことになっている。
ところで、缶ジュースの内容量表示には、グラムとミリリットルがあるが、なぜか知っている?。詳しくは以下参考の「缶ジュースの内容量表示」(農林水産消費技術センター)を見てほしいが、ミネラルウォーターやウーロン茶のように糖類の入っていない飲料の場合、常温では比重が概ね1なので、内容量はグラム表示でもミリリットル表示でも同じ数字になるが、ジュースなど糖類が含まれている飲料では、比重が1より大きいので、内容量はグラム表示とミリリットル表示とでは違う数字になる。例えばオレンジジュースの場合、概ね比重が、1.05なので、体積が200ミリリットルのとき質量は210グラムということになる。缶飲料でもコーヒーなどはグラム、清涼飲料水はリットル表示が多いのは、コーヒーなどは熱した状態で缶詰され、冷めたときに容積が減ってしまう為の処置らしい・・・。
私は毎朝パン食なので、このごろは、健康のために毎朝家で、野菜と果物のジュースを作って1杯飲んでいるが、外では、買ってまで缶ジュースやコーヒー缶などは飲まなくなったな~。
外で買って飲むのは、糖分などの入っていないウーロン茶や麦茶、ミネラルウオーターなどだけだ。ウーロン茶や水は健康のため、1日2Lは最低飲むようにしているが・・・。
(画像は、日本初缶入りジュース。明治製菓HPより)
参考:
ジュース - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9
日本果汁協会
http://www.kaju-kyo.ecnet.jp/MyPage/menu1.html
明治製菓
http://www.meiji.co.jp/
暮らしの疑問:「缶ジュースの開け口は、なぜ左右非対称?」
http://www.home-tv.co.jp/entame/gimon/10920/index2.htm
缶ジュースの内容量表示(農林水産消費技術センター)
http://www.cfqlcs.go.jp/administrative_information/public_relations_magazine/kouhousi/question_and_answer_of_food/qa51.htm缶缶辞典
http://www.cancanziten.com/

悪妻の日

2006-04-27 | 記念日
今日(4月27日)は「悪妻の日」。
ソクラテスの妻が悪妻として有名であることかららしいが、誰が、こんな記念日をつくったのかはわからない。
ソクラテス(Socrates )は、古代ギリシアの哲学者である。彼自身は著作を行わなかったため、その思想は弟子のプラトンや歴史家のクセノポンの著作を通じて紹介されている。
ソクラテスは、紀元前469年頃 、アテナイの中産市民階級の家に生まれたらしい。父親は彫刻家もしくは、石屋で、母は助産婦とされている。スパルタと戦ったペロポネソス戦争の最初の大会戦(デリオンの戦い)では重装歩兵として従軍している。青年期には自然科学に興味を持ったとの説もあるが、晩年は倫理や徳を追求する哲学者としての生活に専念。「幸福とは何か」「正義とは何か」「人間はいかに生くべきか」などと精神を磨くことを説き、問い続け、その信念ゆえに投獄されたといわれている。このソクラテスが獄中で毒杯を仰いで自殺した日(死刑に服した日)が、紀元前399年の今日(4月27日)であり、その最期の言葉(悪法もまた法なり)」は、有名な言葉である。
このソクラテスの結婚は遅く、50歳頃、クサンティッペと結婚し、長男をもうけたが、ソクラテスにはもう一人の妻ミュルトーがおり、ミュルトーとの間にも二人の息子をもうけ、三人の子供がいたことになるが、当時アテナイでは人口減が問題になっていたので、一夫多妻を議会で可決し、ソクラテスが率先してそれを実戦したのだそうだ。
クサンティッペ(生没年不詳)が世界三大悪妻の一人とされている。因みに、他の2名は、コンスタンツェ・モーツァルト(作曲家モーツァルトの妻) とソフィア・トルストイ(作家トルストイの妻) と言われているが、ソフィア・トルストイの代わりに、ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(ナポレオン・ボナパルト第一夫人) とする説もある。
クサンティッペは主人の着る物に頓着せず、ずだの修行をする僧侶のように擦り切れた襤褸(ぼろ)を着せ、何かというとソクラテスに詰寄り、ヒステリックに暴れ狂い、夫を困窮させたというエピソードが伝わっているようだが、クサンティッペを悪妻ということで有名にしてしまったのは『ギリシア英雄列伝』(ディオゲネス・ラエルティオス著)のようで、ある時クサンティッペはソクラテスに対して激しくまくしたて、彼が動じないので「ソクラテスに水をぶっかけた」「広場でソクラテスの上衣を剥ぎ取ろうとした」などと書かれているそうだ。その時、ソクラテスは平然として「雷の後は雨はつきものだ」と言ったという。その他にも、ソクラテスが語ったとされる言葉に、「セミは幸せだ。なぜなら物を言わない妻がいるから」 、「ぜひ結婚しなさい。よい妻を持てば幸せになれる。悪い妻を持てば私のように哲学者になれる」 と・・・、そして、そんなにひどい妻なら別れたらいいじゃないか」と言った人に対し、ソクラテスは、「この人とうまくやっていけるようなら、他の誰とでもうまくやっていけるだろうからね」 ・・・という。このような、エピソードの信憑性には疑問の余地があるものの、ソクラテスの弟子クセノフォンも著書のいくつかのところで彼女の悪妻ぶりに言及しているところがあるようで、あながちすべて作り話だともいえないようだ。少なくともかなり激しい気性の女性ではあったらしい。
しかし、プラトンの著作『パイドン』の中で、妻クサンティッペは、獄中にあるソクラテスの死刑の日の潔さに耐えられずに取り乱して泣いたという描写がある。彼女は、勇気ある夫ソクラテスを愛していたのであろう。
ソクラテスは本業の石工そっちのけで街をうろついてばかりいた。そして、街では多くの若者と哲学論議に明け暮れる日々、妻クサンティッペは家庭を守り続けていたが、家の中ではそのクサンティッペとほとんど話しをしなかったからだとも言われている。悪妻は百年の不作、悪妻をめとった夫は一生を台無しにするとも言われるが、「悪妻」というのは第三者から「悪い妻」と見られているだけで、当の夫は案外気にしないことが多いようだ。私などから見ると野球の落合監督夫人、野村監督夫人などもそのようなうちの一人ではないかと思うのだが、肝心の夫は、結構満足しているように見えるが・・・。ソクラテスの言うように、”その人とうまくやっていけるようなら、他の誰とでもうまくやっていけるだろうから”・・・監督業も難しくはないだろうね。
ソクラテスについては、昨年のブログ今日(4月月27日)は、「哲学の日」でも書いたので、興味のある人は見てね。

(画像は「悪妻に訊け―帰ってきたソクラテス」 池田 晶子 著。 新潮社)
参考:
ソクラテス - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%86%E3%82%B9
悪妻 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E5%A6%BB
悪妻クサンチッペの涙/~古代ギリシア・アテネより~
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mizuta/mizutasekaisi/7sokrates.htm
ソクラテス
http://philos.fc2web.com/socrates/whatsoc.html

黒澤明監督の映画『七人の侍』が公開 された日

2006-04-26 | 歴史
1954年の今日(4月26日)は、黒澤明監督の映画『七人の侍』が公開 された日。
黒澤 明(くろさわ あきら。1910年3月23日 - 1998年9月6日)は、海外でも広く名前が知られている日本映画の巨匠の一人であり、1936(昭和11)年、東宝の前身のピー・シー・エル映画製作所に入社後、1943(昭和18 )年33歳 の時「姿三四郎」で監督デビュー。1951(昭和26)年に「羅生門」がベネチア国際映画祭でグランプリを受賞日本映画が世界から注目されるきっかけとなった。以降、1954(昭和29)年に、「生きる」で、ベルリン国際映画祭銀熊賞、、同年「七人の侍」ベネチア国際映画祭 銀獅子賞、1976(昭和51)年にソ連映画「デルス・ウザーラ」でアカデミー賞最優秀外国語映画賞を受賞、さらに、1980(昭和55)年「影武者」でカンヌ国際映画祭グランプリ)など国際的に評価の高い名作を手掛け、1990(平成2)年には米アカデミー賞の名誉賞を受賞。世界の映画界に大きな足跡を残し、世界のクロサワ」とも呼ばれている。この黒澤作品には、大きく二つの流れがあるといわれ、その一つは、活動写真的なアクションの魅力を満喫させるものであり、その最も純粋な形を示しているものが、三船敏郎の「用心棒」や「椿三十郎」のようなものであろう。これら娯楽に徹したショー的なものとは別に、一方、人間はいかに生きるべきかといった求道的な主題を中心に据えた一連の作品があり、その主題が社会問題に対する批判と結びついたところに、癌であと半年の命の初老の市役所の課長が役所の官僚主義と戦い抜く「生きる」や小企業主が原水爆実験におびえてブラジルに移民することを考えるが、家族のエゴイズムにはばまれて発狂するという「生きものの記録」のようなものである。
30本にも及ぶ黒澤作品中、最も評価が高く人気の高いのが「七人の侍」であろう。
時は戦国時代の貧しい農村が舞台。夜盗化した野武士の横暴に苦しむ農民たちは、侍を雇って村をまもろうとする。かくして集められた個性的な七人の侍たちの指導により百姓たちは鍛え上げられ、村も要塞と化す。そこへ何も知らない野武士たちがやってくる。百姓と侍という相対する存在の描写を加えつつ「百姓と侍の連合軍」対「野武士の一団」の合戦が始まった。7人の侍たちの活躍をダイナミックに描いた堂々3時間30分にも及ぶ作品である。
1年近い製作日数と、破格の制作費を費やした文字通りの超大作は、撮り直しのきかないスペクタクルシーンを撮るために、数台のカメラで同時撮影する方法がとられた。また、日本画家・前田青頓を美術顧問に迎え、髷や衣装、刀などを戦国期のリアルなもので統一し、時代劇に新風を吹き込んだ作品であり、娯楽性と芸術性、それに時代を超えた社会性も備え、美しくも迫力ある映像と、観る者を楽しませ感動させるストーリー。映画のすべてが詰まった、映画のなかの映画である。
この映画の中で、百姓は非常に弱くてずるい存在として描かれており、侍が来たら、娘を犯されると思って髪を切ったり、 侍を雇っても野武士が来ずに、メシだけ食わせて 損したとか、小市民的なこずるさ、弱さ丸出しである。 その一方の、雇われた侍は強く卑怯なところのない、正義の存在として 描かれ、気品高いものとして描かれている。 しかし黒澤 明監督は、単に侍を持ち上げて 百姓を貶めて描くのではなく、百姓がそのようになったのは、侍のせいだという 百姓出身の侍、三船を用いることで、非常に上手く バランスをとっている。 農民の腕力と侍の気高い心を併せ持つ男・菊千代役は、三船敏郎のイメージそのままである。この役はまさに三船のはまり役だろう。また、志村喬扮する勘兵衛は常に冷静沈着。だが、決断は早く、理想のリーダー役を演じていた。これも、志村にぴったりの役であった。、アクションシーンも リアルである。又、どしゃ降りの中での大決戦。黒沢映画の自然はいつでも厳しく、雄雄しいが、その画面は実に綺麗だ。黒澤は、18歳で二科展に入選もしており、画家を目指していたといわれ、映画を撮る前に主要シーンの絵コンテを描いている。映画の一つ一つの場面のイ メージを眼に見える様にかため、ふくらませ、 しっかり掴んで、それから映画の撮影に臨むのである。 だから、黒澤の映画は、一場面一場面が非常に絵画的であり、それが、見るものに感動を与えている。ラスト、戦いによって、野武士は全滅した。しかし百姓も数人倒れ、七人の侍の中4人が死んだ。新しい土鰻頭の前に立った勘兵衛達3人は、6月の爽やかな風の中で働いている百姓達を静かに眺めた。「勝ったのはあの百姓達だ。俺達ではない。百姓は土と共に何時までも生きる。」田の面をみながら勘兵衛がつぶやいた。
幼年期に黒澤の作品に触れ、多大な影響を受けたというスティーヴン・スピルバーグは、映画の撮影前や製作に行き詰まった時に、モノ作りの原点に立ち戻るために必ずこの映画を見るそうだ。この作品のリメイク版、 ハリウッド製西部劇「荒野の七人」(1960年、ジョン・スタージェス監督)も大ヒットし、続編まで製作された。内容は『七人の侍』と殆ど同じ、ラスト、志村喬と同じリーダー格のユル・ブリンナー演じるクリスが村を眺めながら言った。「本当に勝ったのは農民たちだ。俺たちじゃない。」・・・と。ラストのセルフまで同じだよ・・・。
(画像は、コレクションより『七人の侍』ポスター画絵葉書。黒澤明監督が亡くなられたときの記念絵葉書。平成11年に沖縄那覇中央郵便局が発行した世界の名監督、黒澤明監督映画全30作品の絵入り葉書の1枚である。)
参考:
七人の侍 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E4%BA%BA%E3%81%AE%E4%BE%8D
七人の侍 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD23967/?flash=1
荒野の七人 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD3223/?flash=1

拾得物の日

2006-04-25 | 記念日
今日(4月25日)は「拾得物の日」
1980(昭和55)年、4月25日夜、トラック運転手、大貫久男さん(当時42歳)が、東京・銀座の路上でふろしき包みに入った現金1億円を拾った。写真
一事は「犯罪に関する金か!?」と、警察は専従捜査班を作り落とし主を捜したが、落とし主は名乗り出ず。その後いたずら電話が殺到。大貫さんは、仕事を辞めて、正体を現さない無気味な落とし主や大金を目当てに家族を誘拐される恐れがあるとして24時間警護のガードマンを雇い入れ、ラジオ、テレビにも出演。11月、9日0時、落とし主の届け出がなかったため”時効”となり、大貫さんに所有権は移った。 11日、1億円の小切手が大貫さんの手に。記者団に示す手が震えた。翌12日、大貫さんは前日普通預金に入れた1億円を3種類の定期預金に分けて入金した。 まさに、大貫さんは1980(昭和55)年の”時の人”だったな~。
その大貫さんが、2000(平成12)年12月2日、釣りのため訪れていた静岡県伊東市で、心筋梗塞のため倒れ病院に運ばれたが死去したとのニュースは耳にしたことがある。一億円で騒がれた頃は、家に脅迫電話が1日100回もかかってきたこともあるといい、カツラを新調し、防弾チョッキを身につけたり、サングラスにマスク姿で変装することもあったという。その、大貫さんがその後、どのような生活をしていたかは、よく知らないが、何でも、1億円を拾った後も質素な生活は崩さなかったようであった。
私など、1億円などと言う大金を手にしたことがないから、よくはわからないが、突然大金を手にしたらどうしようかと戸惑うだろう。しかも、宝くじのような場合には、氏名が公表されないけれども、このように拾った場合など、マスコミなどで報道されると、本当に大変だろうな~。宝くじにしろ、競馬などの博打、最近流行のネットでの株取引などで一億円以上もの大金を手にした人が、その後が幸せになっているのか・・・どうか?は、気になるよね。
しかし、世の中、結構、訳の判らない大金の拾得などといったものがあるようだね。そのようなものの中で、最近のものでは、昨、2005(平成17)年、1月に埼玉県蓮田市の用水路で現金約1800万円が見つかった事件があった。その後の埼玉県警の捜査の結果、盗難の被害総額は6000万円であり、被害届を出していたのは26歳の建設関連会社の営業マンの男性であった。発見された1800万円は、その盗まれた金の一部で、警察が現金6000万円を盗んだとして窃盗容疑で逮捕した女が「大金を盗んだが怖くなり捨てた」ものだった(他の2名の共犯者と山分けをしたもの)。しかも、この6000万円は悪質な訪問リフォームで稼いだカネと判った。要するに、今流行の年寄りを相手に詐欺まがいの悪徳リホームで稼いだ金だったのである。そして、被害届を出した者は、特定商取引法違反(不実告知)容疑で逮捕、起訴された。また、現金を発見した少年野球チームの関係者3人が拾った現金の一部を着服してた・・・という、ややこしい事件であった。
やはり、このような大金の拾得金といったものには、何らかの犯罪のようなものがからんでいるんだろうね。大貫さんが拾ったお金も、1億円もの大金を届出がないというのは、よほどなにか悪いことにからんだお金なのだろう。
しかし、拾得者もこのような大金を拾うと、変な気持ちになるかも・・・。この頃は、届けたお金を「警察官がネコババ」するといった事件もあったものね~。
古典落語に『芝浜』(しばはま)というのがある。酒ばかり飲んでいる男が芝浜で大金の財布を拾うが、妻の言葉によってこれを夢と諦めて改心、懸命に働き、3年も経ち、小さいながらも表通りに店を構えるようになった。その時、妻から事の真相を知らされ、拾ってきたお金を妻が届けたものも、落とし主がいないからと、奉行所から戻ってきたものを見せられ、夫が感謝するという いいお話である。
あぶく銭は当てにしない方が幸せになると思うよ・・・。
(画像は、「古典落語」 講談社学術文庫、著者/訳者名 興津要/編。」「芝浜」も収録されている。 )
参考:
埼玉・蓮田の現金拾得:下流から新たに200万円--1500万円発見の用水路
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/reformsagi/archive/news/2005/01/20050131ddm041040103000c.html埼玉・蓮田の現金拾得:発見者3人、10万円着服 7カ月後申し出、岩槻署が書類送検
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/reformsagi/archive/news/2005/12/20051221ddm041040027000c.html大阪・警察官ネコババ事件
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage412.htm
芝浜 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%9D%E6%B5%9C