今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

きんさん・ぎんさんで有名な双子姉妹の妹・蟹江ぎんの忌日

2011-02-28 | 記念日
”きんさん・ぎんさん”は、記録的な長寿で話題となった双子姉妹・成田 きんさんと、蟹江 ぎんの愛称であるが、今日・2月28日は、その双子の姉の妹・蟹江ぎん <108歳>の2001年の忌日である。
“きんさん・ぎんさん”は、1892(明治25)年8月1日、愛知県愛知郡鳴海村(現在の愛知県名古屋市緑区)で矢野家の長女・次女として生まれた。Wikipediaには、“きんとぎんの二人が一卵性双生児であることも検査で確認されているが、なぜか血液型は異なっている”・・・とあった。何でも、血液型はきんさんがO型、ぎんさんがA型だという。
双生児とは、多胎児の1つであり、同じ母親の胎内で同時期に発育して生まれた2人の子供を指す。いわゆる双子(ふたご)のことであり、母体が受胎した時の受精卵(卵子)の数により一卵性双生児と二卵性双生児に大別されている。
一卵性は、卵子1つと精子1つで、本来なら一人の赤ちゃんになるはずの1つの受精卵が、受精後何らかの理由で偶然に2つの個体に分裂(多胚化)したものであり、二卵性は2組の別々の卵子と精子が受精したものである。従って、一卵性双生児の場合は血液型や遺伝子も全く同じはずであり、当然、二卵性とは異なり性別も一緒だし、顔も良く似ているはずであるが・・・・。しかし、”きんさん・ぎんさん”の血液型が異なるというのはどうしてなのだろう?。又、この2人は、双子だから顔も良く似ているものの、何かちょっと、違った顔立ちをしている(一目で見て区別できる)ような気もするのだが、それは、年輪や2人の生活環境の違いなどによるものからだろうか・・・・?
1991(平成3)年、敬老の日を前にした9月13日、鈴木礼治愛知県知事らが名古屋市に住む数え年100歳の双子の姉妹成田 きん・蟹江 ぎんを訪問し長寿を祝った。2人揃って長寿の祝いを受けたことが地元の中日新聞等に紹介される。
その後、日本中を元気づけてくれた100歳の双子のお婆さん、きんさん・ぎんさんがCMに登場したきっかけは、ダスキンのCM。ダスキンの問い合わせ電話番号が「0120-100-100 」であったことから。双子の100歳の姉妹に白羽の矢が当たった。
向かい合う2人が「きんさんは100歳、100歳」「ぎんは100歳、100歳」「うれしいような、かなしいような」と掛け合い、「ダスキン呼ぶなら100番、100番」とユーモラスな会話で語呂合わせの宣伝をした。この語呂合わせの面白CMで全国的に有名になったが人気の秘密はなによりも2人の老婆の天真爛漫さにあった。
このCMは1992(平成4)年正月用に制作されて、2人は翌年にはCMのスターにのし上がった。2人は、1991(平成3)年12月6日に愛知県庁を訪問し、それぞれ200万円づつを「福祉基金に」と寄付したそうだが、これは、テレビコマーシャルの出演料全額を寄付したものだという。
冒頭の画像は、百歳の双子姉妹を報じる9月8日付け朝日新聞(朝日クロニクル『週間20世紀』より)。
この記事には、1992(平成4)年成田市のデパートである写真展「百年の旅」のテープカットをしたあと成田山新勝寺へお参りする予定のぎんさんは、出発する前に「旅行は楽しみですか」の質問に「いまはどこも同じようなビルが建っていて、いっしょ。やっぱり、立派なお城がある名古屋がいい」と。又、「これからも、今と同じようにのんきに暮らしたい。みんなに心配かけないようにね」と笑ったという。
同時期、通信販売情報誌「通販生活」のCMやAMラジオ局・ニッポン放送のAMステレオ放送開始宣伝にも出演している。
そして”きんさん、ぎんさん”の呼び名は、1992(平成4)年12月1日に発表された新語・流行語大賞の年間大賞に選ばれた。また、この年同時に「うれしいような、かなしいような」「はだかのおつきあい」で[語録賞]も受賞しているが、「はだかのおつきあい」は、まだ関脇であった貴花田(貴乃花)と宮沢りえの当時国民的な人気を誇っていた2人の若者の電撃的な婚約発表を受けての感想。まだ17歳とも18歳ともいう人気絶頂の人気女優であった宮沢りえは、前年末(1991年11月)に篠山紀信撮影によるヌード写真集『Santa Fe』を出し世間を驚かせ、話題を呼んでいたが、この感想を聞いた取材陣は、驚き、笑い、呆然とするばかりであったという。翌1993(平成5)年にはNHK紅白歌合戦に応援ゲストとして出場した。兎に角この2人の絶妙な会話が面白い。以下YouYubeにアクセスすると、北九州市の「年長者相談コーナー」のCMや”通販生活 CM“なども見れる。
YouTube-きんさん・ぎんさん 「困った事はなにもありません」
http://www.youtube.com/watch?v=oLX-FmjPd5E
困った事は「年長者相談コーナー」へ”というCMで、ぎんさんの「何か困っとるかね、君」の質問にきんさんが「こまっとらんよ」「な~んにも」と応じて笑っているシーンなど、きんさんぎんさんの元気で明るい性格が相俟って本当に微笑ましくって良い。よくCMでは、なまじっかな芸しかないタレントなど、愛くるしい幼い子供や、可愛い動物にはかなわない・・と言われるが、こんな可愛いおばあちゃんには誰もかなわないな~。
きんさんぎんさんは1992(平成4)年、1998(平成10)年の2度『徹子の部屋』にゲスト出演し、1993(平成5)年にはNHK紅白歌合戦にも応援ゲストとして出場。地元テレビにも出演するほか、敬老の日スペシャルゲストとして『笑っていいとも!』にも登場するなど数多くのTVに出演している。
1995(平成7)年には「金銀婆婆」と呼ばれ人気を得ていた台湾へ招かれ、103歳で初めての海外旅行をした。このとき、ぎんさんは「(名古屋弁が)通じればええけどね」と語っていたという。2人は、全国各地のイベントに参加するなど、亡くなる直前まで芸能活動や慰問を続けたが、100歳になってメディアに出演するようになって大金が入った際、「お金を何に使いますか?」という問いに対して、2人揃って「老後の蓄えにします」とユーモアたっぷりに答えた。また、100歳を超えて初めての確定申告を経験をすることにもなった。
2000(平成12)年1月23日、姉の成田きんさんが心不全にて死去(享年107歳)。 後を追うように、翌・2001(平成13)年2月28日に妹の蟹江ぎんさんも老衰で死去した。享年108歳だった。
双子で100歳を超える長寿というまれな例であることからぎんさんの遺体は「長寿の研究をしたい」という南医療生協南生協病院の主治医の希望でこの日、病理解剖されたという。
90年代初めに、揃って100歳を迎えた双子の姉妹、きんさん・ぎんさんが年を取っても元気で明るくユーモアあふれた笑顔で語る姿は、「理想の老後像」として、バブル終焉を迎えようとしていた日本の人々の気持ちを和ませてくれた。反面、きんさん・ぎんさんの存在は、急速に進む高齢化社会の到来を象徴していたともいえる。
厚生省(現厚生労働省の前身)が、きんさんぎんさんが100歳を迎えた1991(平成3)年の9月10日、9月15日の敬老の日を前に発表した長寿名簿によると100歳以上は全国で3, 625人(男749人、女2,876人)であった。
その厚生労働省が2009(平成21)年9月11日に発表した「厚生労働省PressRelease」(以下参考の※2参照)によると、100歳以上の高齢者の数は、年々急増しており、老人福祉法が制定された1963(昭和38)年には全国で153人(男20人、女133人)であったが、1981 (昭和56)年には1千人(男202人、女870人計1,72人)、平成10年には1万人(男1,812人、女8,346人計10,158人)を超え、2009(平成21)年は4万人を突破し、40,399人(前年比+4,123人)となっており、又、100歳以上の高齢者の内女性は、34,952人となっており全体の約86,5%を占めている。そして、表彰対象者は21,603人、前年度比+1,835人で、男女国内最高齢者は、男性は112歳、女性114歳だという。
つまり、きんさんぎんさんが100歳を迎えた1991(平成3)年には、100歳以上の老人が3, 625人であったわけであるから、この時点で、100歳以上の老人の数は福祉法が制定された1963(昭和38)年の23,7倍になっており、きんさんに続いてぎんさんが亡くなった2001(平成13)年は15,475人(男2.541人、女12,934人)となっており、、きんさん・ぎんさんが100歳を迎えた1991(平成3)年より、銀さんが亡くなるまで10年間に、4,27倍にも増加しているのである。それが、2009(平成21)年は40,399人となり、銀さんが亡くなった年から8年で更に2,6倍になったというのだから驚異的な増加率である。
又、これを、厚生労働省が2010(平成22)年7月26日に発表した「平成21年簡易生命表概況」(以下参考に記載の※3参照)により平均寿命でみてみると、1963(昭和38)年、男67、21歳、女72,34歳が、1991(平成3)年には、男76,11歳、女82,11歳に、2001(平成13)年には男78.07歳、女 84.93歳に、そして、2009(平成21)年には、男79.59歳 女86.44歳と更新を続けており、日本人の平均寿命が延びている要因として、医療技術の発展により3大死因(がん・心疾患・脳血管障害)及び肺炎による死亡率が減少傾向にあるため、と説明されている。
その結果、日本人の平均寿命は男女ともに4年連続で過去最高の記録を更新し、男子は、カタール(81.0歳)、アイスランド(79.7歳)、スイス(79.7歳)、香港(79.8歳)に続き4位であるが、女子は、2位フランス(84,.5歳)を1.94歳も上回り、女子は世界一となっている。これは、25年連続で長寿世界一となるのだそうだ(以下参考の※4参照)。
このように日本人の寿命が延び、きんさん・ぎんさんのように健康で明るく元気に長生きをできるのであれば大変喜ばしいことではあるのだが・・・、昨・2010(平成22)年7月以降、100歳以上高齢者の所在不明実態が次々に明らかになってきて、一部諸外国から日本の長寿世界一に対して疑問の声も上がっているようだ(以下参考の※5、※6参照)。
その後、東京都内で最高齢とされる113歳の女性の所在不明問題から悪質事例が発覚したことなどから、厚生労働省が100歳以上全員の身元確認を支持したところ、中には各地で超高齢者に関する年金詐欺事件(家族による年金の不正受給が疑われる事例)も発覚する事態となった。
一部諸外国からの日本の長寿世界一に対して疑問の声があることに対して、以下参考に記載の※7:「年金情報サイト:厚生年金・国民年金情報通」をみると、色々と平均寿命算出根拠となっている資料を分析をした上で“100歳以上高齢者に限って言えば、いくら長寿国とはいえ日本人総人口に対する100歳以上高齢者の割合は小さなものであり、『平均寿命』に与えるインパクトは微々たるものである”・・・として、日本が長寿国であることには間違いがないことしているのだが・・・。
それは、さておき、これらの所在不明問題の発覚により、役所などの怠慢のほか、長寿社会の日本で、隣人との関係が希薄な都会などにおいてはお年寄りが行方不明になっても誰も気づく者がおらず、通報することさえもないなど、核家族化や地域コミュニティーの崩壊など、高齢者をとりまく哀しい現実が浮き彫りになったといえるだろう。
このことは、先日(2月20日日曜)のTV「たかじんのそこまで言って委員会」で,宮崎 哲弥氏が「高齢者の人口の伸びをはるかに超える高齢者の犯罪が増えている」ことを報道した新聞記事をもとに、「どうして高齢者犯罪が増えるか」をテーマーに取り上げていた(以下参考に記載の※8参照)。
2009年以降「切れる老人」「憤怒に任せての老人の犯罪」つまり、高齢者による殺人などの凶悪犯罪が年々増えいるという。そのような凶悪犯罪でなく万引きなどの軽犯罪も増えており、そこには、貧困の問題もあるが、むしろ、単身による、「独居」「無縁」「孤独」つまり孤立化した高齢者が増えており、改めて、家族の重要性が必要になっていることを指摘いる。
それと、長寿社会において最も重要なことは、日本の老人がきんさん・ぎんさんのように本当に”健康で元気に明るく”過ごしているかということであろう。
健康の概念は、1948(昭和23)年の設立におけるWHO(世界保健機関)憲章の前文にある定義が有名であるが、これを、さらに、1999(平成11)年の総会では健康の定義として以下のように定義を提案している(太字部分が強調されている)。
「健康とは身体的・精神的・霊的・社会的に完全に良好な動的状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない。」(何が健康かについて詳しくは、ここ⇒健康を参照)
しかし残念ながら、長寿世界一と言われる日本は、他の長寿国と比較して、生活習慣病などの病気にかかり、病院の世話になり、対処療法などを受けながら、ただ生かされている人が多い。つまり、世界の長寿者には寝たきりの人が少ないが、日本の高齢者は、病気がちで、医者と薬を頼りに生きている人が多いといわれている。
そして、最近では、医療費の自己負担が増えたこともあり、病院での受診を我慢し、病院受診をするまでに、辛い症状に悩む期間が長い・・・つまり、病悩(びょうのう)期間の長い人も多くなってきていると聴く。
2000(平成12)年4月から、介護保険制度がスタートし、いわゆる“寝たきり老人”、“老人痴呆”(認知症)を始めとする要介護者に対して公的保障がなされるようになったが、それは、同時に、日本にはそのような状況にある老人が非常に多くいたことが社会の表面に登場することになったといえる。
この公的保障としての介護も国家財政上の限界から、十分な施設や介護者の確保もされておらず、寝たきり老人など、あちこちの病院をたらい回しされていたり、60歳を超えた、もう老人ともいえる年代になった子供たち親族が要介護者である親などの介護をしなくてはならない状況も多々あり、要介護者を介護している年老いた介護者の方が先に参ってしまって、ついには、要介護者を道ずれに自殺してしまうとか殺害にまで及ぶといった悲惨なことも見られるようになっているのである。そのようなことから、私自身もそうだが、今の日本においては、多くの人達が、これから先の自分の老後がどうなるのかへの不安を抱いて生活している。いや、老いることへの恐怖感さえ感じて生活しているのが実情ではないだろうか。
それは、昨・2010(平成22)年4月、内閣府発表の、「高齢者の地域におけるライフスタイルに関する調査」の結果を見ても判る。同調査によると、誰にも看取られずに死後発見される「孤独死」を身近に感じている高齢者は、全体の42.9%にも上る。また、健康状態が良くないとの回答も18.8%あり、このうち52.0%が孤独死を身近に感じている。そして、健康状態が良くない人の24.7%が、何らかの手助けやサービスを受けている一方、12.2%が必要と感じるものの手助けやサービスを受けていなかったとある(以下参考に記載の※9参照)。
日本は、平均寿命、高齢者数、高齢化のスピードという3点において、世界一の高齢化社会であることには間違いがない。日本の少子高齢化の原因は、出生数が減り、一方で、平均寿命が延びて高齢者が増えているためであるが、この日本の平均寿命・・・本当に信用できるのだろうか・・・・?
そのことについては、今回言及しないが、以下参考の※10:「【驚愕】日本人女性の平均寿命は60歳前後?」など、興味のある人は読んでみては・・・。
100歳を超えた双子の姉妹、きんさん・ぎんさんが年を取っても元気で明るくユーモアあふれた笑顔で語る姿は、「理想の老後像」として私たちの気持ちを和ませてくれたが、100歳を超えた人が4万人を超えるまでになった今では“しあわせに老いる”為の人生はどうあるべきかを若い年代から真剣に考えておかなければいけないようだ。いずれにしても、普段から病気にならないための健康管理をしっかりしておかないと、年をとって本当に悲惨な目に会うかも知れないよ。
(冒頭の画像は、百歳の双子姉妹を報じる9月8日付け朝日新聞。朝日クロニクル『週間20世紀』No089号より借用)
参考:
※1:「きんさんぎんさん」など“名作CM”MovieWalker
http://news.walkerplus.com/2009/0919/7/
※2:厚生労働省PressRelease
http://www.mhlw.go.jp/houdou/2009/09/dl/h0911-3g.pdf
※3:平成21年簡易生命表の概況について(平成22年7月26日。厚生労働省)
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/life09/index.html
※4:平均寿命 日本人女性86.44歳、25年連続世界一 男性は5位転落
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/living/health/420542/
※5:[MSN産経ニュース]名ばかり高齢者続出…日本の平均寿命、実はインチキ!?
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110129/crm11012917400014-n1.htm
※6:【特集・高齢者所在不明】法務省通知、戸籍120歳以上「死亡」扱いに
http://www.47news.jp/47topics/e/169138.php
※7:厚生金情報サイト:厚生年金・国民年金情報通
http://www.office-onoduka.com/nenkinblog/2010/08/100_1.html
※8:高齢者の殺人が大幅増加 22年、認知件数は戦後最少 (産経新聞 )
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/484125/
※9:「高齢者の地域におけるライフスタイルに関する調査」結果(PDF)
http://www8.cao.go.jp/kourei/ishiki/h21/kenkyu/gaiyo/pdf/kekka1-1.pdf#search='内閣府調査 孤独死'
※10:【驚愕】日本人女性の平均寿命は60歳前後?
http://tadanoaho.blog11.fc2.com/blog-entry-5.html
高齢者の所在不明問題 - Yahoo!ニュース
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/whereabouts_old_people/
ユーキャン新語・流行語大賞
http://singo.jiyu.co.jp/
日刊スポーツ・訃報・蟹江ぎんさん
http://www.nikkansports.com/jinji/2001/seikyo010301.html
きんさんぎんさん - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8D%E3%82%93%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%8E%E3%82%93%E3%81%95%E3%82%93

不眠の日

2011-02-23 | 記念日
日本記念日協会に登録されている記念日に「不眠の日」があった。
由緒を読むと、“日本人の約53 %がなんらかの不眠症状を持っているといわれる。しかし、その中の多くの人が対処方法や改善手段の正しい知識を有していないことから、睡眠改善薬などを手がけるエスエス製薬株式会社が制定。不眠の改善について適切な情報発信を行うとしており、日付は2 と3 で「不眠」と読む語呂合わせから2月3日を「不眠の日」とし、また、不眠の症状は一年中起こるので毎月23日も「不眠の日」とした。”・・・とある。
不眠症とは眠りたいという意思があるにもかかわらず、眠りが浅く、睡眠時間が短くなり、身体や精神に不調が現れる神経症であり、睡眠障害の一種である。つまり、不眠症とは、何らかの原因によってよく眠れないことを悩んでいる状態(=症状)を指している言葉であり、病名ではない。
フランスの英雄ナポレオンは1日に3時間しか寝なかったとなどいわれているが、相対性理論を創始したことで有名な20世紀最大の物理学者アインシュタインは10時間の睡眠が必要だったと言われているように、睡眠には個人差が大きく、短い睡眠時間でもぐっすり眠れる人と、8時間以上眠らないとだめな人がある(※:ただ、ナポレオンは癲癇持ちであり、1日3時間しか睡眠を取らなかったと言われるのは、夜間に発作が起きたからだとも言われているが・・・)。
また、寝床に入るとすぐに睡眠に入る人がいるかと思うと、寝つきが悪く、なかなか眠れない(入眠障害)人もいるが、年をとるとともに、夜中に何度も目覚める(中途覚醒)や、朝早く目が覚め再度眠ることが出来ない(早朝覚醒)人が多くいることは、よく知られているところである。そして、十分に睡眠時間はとっているものの、眠りが浅く、熟眠感が得られない(熟眠障害)の人がいるなど、現代の複雑多様なストレス社会にあっては、不眠に悩まされている人は多い。
我が家では、私など寝床に入ると、2~3分もしないうちにいつとはなしに寝入っているのだが、家人は、寝入るまでには少なくとも1時間くらいはかかると歎いている。当然、朝の寝起きが悪いのだが、家人自身は、これは若い頃からであり、それは、低血圧だからだと言っている。
このような低血圧の人には、いくら寝ても寝たりない、また、寝つきが悪いなどにより自分に必要な睡眠のとれていない人が多いらしいが、それは、脳にある睡眠中枢(中枢神経系参照)を含めた自律神経中枢に障害があり、睡眠リズム(概日リズム参照)が狂っているからだと考えられているそうだ。
寝たときにイビキ(鼾)をかく人も多くおり、イビキをかくのは「よく眠っている証拠」だ・・などと誤解している人もいるのだが、イビキは、睡眠中に、鼻や喉など息を通すところ(気道)が狭くなり、ここを無理矢理に息を通すため、気流が乱れ、鼻や喉が振動して出る音であり、睡眠中に呼吸をするための余計な労力を要しているわけだから、実際にはよく眠れない原因の1つとなっているのだ。それに、重度のひどいイビキをする場合には、睡眠時無呼吸症候群(Sleep Apnea Syndrome。SAS)、の疑いもあり、その場合には睡眠時に呼吸停止または低呼吸状態になっているため、深い睡眠はまったくとれていないのでる。
このような人は、無呼吸をくりかえすことにより夜間も交感神経が興奮しているため睡眠中も血圧が高い人が多く、その状態が日中まで引きずられ、一日中血圧が高い状態に陥っている人もいるようだ。この症状の人は、肥満の人より2倍も高血圧になりやすいというデーターがあるという。このような状態であることから血圧が高いだけでなく心臓にも負荷がいっそうかかり、さらに、心臓病や脳血管障害も引き起こす可能性があるといわれているので恐いよね~(以下参考の※1参照)。
「僕の神経衰弱の最も甚(はなはだ)しかりしは大正十年の年末なり。その時には眠りに入らんとすれば、忽ち誰かに名前を呼ばるる心ちし、飛び起きたることも少からず。又古き活動写真を見る如く、黄色き光の断片目の前に現れ、「おや」と思ひしことも度たびあり。十一年の正月、ふと僕に会ひて「死相(しさう)がある」と言ひし人ありしが、まことにそんな顔をしてをりしなるべし」・・・・・。
これは、芥川龍之介『 病中雑記』(以下参考の※2:青空文庫の『病中雑記』参照)よりの抜粋であるが、結局、芥川は、体力の衰えと「ぼんやりしたとした不安」のなか、35歳という若さで薬物自殺している。
彼は、1921(大正10)年、中国各地を旅行し、3月から7月月上旬まで大阪毎日海外視察員として中国に派遣され、この旅行後から健康を害して、その後晩年まで激しい不眠症と神経衰弱・胃腸病に悩まされていたという。そして、1927年(昭和2年)7月24日未明、『続西方の人』(以下参考の※2:青空文庫の『続西方の人』参照)を書き上げた後、致死量の睡眠薬 (青酸カリとの説も) を飲んで自殺した。
「神経衰弱」というのは戦前まで、現在に普及している「ノイローゼ」という呼称のように精神疾患の一種でとして使われていた用語であり、心身の過労による中枢神経系の刺激性衰弱の状態とされ、疲労感、頭重、頭痛、過敏、不眠、集中力低下、抑うつ感などの症状が特徴だというが、今日では他の病名、とくにうつ病と診断されることが多いそうだが、それは、うつ症状を中心症状と理解される場合が多くなったことによるものだそうである。
芥川は、煙草が大好きで、1日に180本も吸っていたといわれており、もう、これは完全なニコチン依存症というべきである。
近年喫煙が睡眠障害を引き起こすことが判ったという。タバコに含まれるニコチンにはアドレナリンの分泌を促して脳を覚醒させる働きがあるため体は活動モードに切り替わって血圧や心拍数も上がってしまう。そして、寝つきが悪くなり、眠れたとしても健全な深い眠りを得ることはできない。
つまり、タバコを吸う人は脳のための深い眠り(ノンレム睡眠)が少なく、浅い眠り(レム睡眠)のままでいる時間が長いためどんなに長く眠っていても、睡眠障害に陥りやすいそうだ(以下参考の※3を参照)。
人間の精神活動は脳の働きによって保たれているので脳が侵されるとその結果として、記憶の障害や、判断の誤り、感情の障害、幻覚や妄想の出現といった、さまざまな精神機能の障害が生ずることのなる。
晩年(1926〔大正15年〕)の芥川の作品「点鬼 簿」(以下参考の※2:青空文庫参照)では実母が狂人であることを述べており、この頃の芥川は神経衰弱(うつ症状)・・不眠症等で薬漬けの日々で幻覚症状も起きていたようだ。
眠りたいが眠れない不眠の人も居れば、逆に眠いけれども眠れなかった睡眠不足の人。また、どんなに眠くても眠ることを許されない状況や環境にある人など、現代においては、睡眠不足を解消できないと感じている人も多いだろうが、人は一体何時間眠れば良いのだろうか?
睡眠障害に取り組む専門医により組織された快眠推進委員会の公式サイトである以下参考に記載の※4:「快眠推進倶楽部」によれば、
“よく、理想の睡眠時間として「1日8時間」という数字があげられているが、これは医学的根拠があるわけではなく、多くの人の睡眠時間が6~9時間の間という統計から出された平均的な睡眠時間にすぎず、これは、あくまでも一つの目安であり、基本的には、日中眠気がなく、きちんと活動していくのに十分な睡眠時間が確保されていれば、何時間でもかまわない”という。
そして、“長く眠る人でも、脳の睡眠であるノンレム睡眠は短時間睡眠の人と変わらないとの報告もあり、睡眠は時間よりも「質」の方が重要であり、質のよい睡眠とは、目覚めがスッキリとしていて、ぐっすり眠ったという満足感が得られる眠りのことだ”・・としている。
ただ、今年・2011(平成23)年2月3日「不眠の日」に合わせ、杏林大学医学部精神神経科主任教授の古賀良彦氏を中心に、『睡眠改善委員会』が発足しているが、同HPに書かれている同委員会発足の理由を見ると、同委員会が、「慢性的な不眠ではなく、専門的な治療をする必要はないが、睡眠に悩みや不満を抱え、日常生活に影響がある。そんな状態にもかかわらず睡眠の重要性に対して認識が低い状態を示す言葉」として命名した「かくれ不眠」の人が近年増えており、全国には20~40代の約8割がこの「かくれ不眠」だというデータが出ているそうである。そのデーターとは、「不眠の日」を記念日として設定した エスエス製薬株式会社の2010年12月調べだそうだが・・・。
そのようなことから、当委員会では、「不眠の日」として制定された2月3日と毎月23日に合わせ、特設サイト上にて、「かくれ不眠」 解消のための正しい情報や知識を発信し、すこやかな眠りのための支援を行ってゆこうということらしい(以下参考の※5:「睡眠改善委員会」参照)。
又、厚生労働省が一般の人を対象に正しい健康情報をわかりやすく提供するために開設したという「e-ヘルスネット」というサイトがある。サイトのサブタイトルには、”メタポリック症候群が気になる方のための健康情報サイト”とあり、2008(平成20)年4月1日オープンとなっていることから、同年4月から始まった特定健診制度(糖尿病等の生活習慣病に関する健康診査)、すなわち、一般に言われるところのメタポ検診に併せての開設であろう。
このサイトの“情報提供”ページの最下段の“記事ランキング”の、「今、最も読まれているのは?」のところを見ると、1位、”アルコールの吸収と分解 ” 、2位”飲酒と暴力 ”に続いて3位に“不眠症”がランキングされているのを見ても、それだけ、不眠症に悩まされている人が多いのは確かなことなのだろう。
日本人、特に子供や就労者の睡眠時間は世界で最も短いと言われているようで、とりわけ女性は家事や育児の負担が大きいため男性よりもさらに睡眠時間が短く、平日・週末を問わず慢性的な寝不足状態にあると言えるようだ。
質の高い眠り・・・「快眠」は心身の休養のために欠かすことができないものだが、現代生活はシフトワークや長時間通勤、受験勉強、インターネットやゲームをしての夜型生活など、睡眠不足や睡眠障害の危険が一杯であり、睡眠不足による産業事故、慢性不眠によるうつ病や生活習慣病の悪化など、睡眠問題を放置すると日中の心身の調子にも支障をもたらすため、最も身近な生活習慣である睡眠にもっと目を向けてみる必要はあるだろう。
よく日頃の寝不足を週末に平日より長く眠ることで何とか睡眠不足の帳尻を合わせている人も多いようだが、このようなことをしても、寝る時間が毎日バラバラであると、体中の体内時計がひっきりなしに微調整されることになり、まとまったリズムを作ることが困難になり、自然で質の高い睡眠はとりにくくなってしまう。
結論的には、快眠のための生活習慣にはふたつの役割があるといい、一つは直接的な役割で、「運動」や「入浴」のように習慣そのものが直接的に快眠をもたらす場合。もう一つは間接的な役割で、良い習慣で体内時計を24時間にきっちりと調節すれば、規則正しい睡眠習慣が身に付き、快眠が得られるが、そのためには光浴(太陽など自然の光を浴びる)が必要だと言う。
それと、以下参考に記載の※6:にある加藤諦三氏のホームページにも書かれているように神経症者には、執着性格があり、完璧な結果を求める傾向があるようだ。このような非現実的な要求は外の世界についてばかりではなく、時に自分自身に対する要求についても同じであり、床につけば、すぐに寝付けないとイライラするという。「不眠を治そう」とするある欲求が、実は、不眠を作り出しているというのだ。
つまり、眠ろうと頑張るほど興奮が強まり、眠るためにするいろいろな試みが、「眠らせない」という脳の反応に結びついてしまうので、あまり、「こうしなくてはだめ」とか「あれをしてはだめ」という考え方にとらわれず、「これができた」、「これは自分にとって気持ちがいい」といったことを大切にして、自分なりのリラックス法を見つけることが大切なようだ。そのため、日々の生活でのちょっとした工夫で、快適な眠りを手に入れることができるかもしれない。加藤諦三の言葉のページなど読むと少しリラックスして眠れるようになるかもしれない。
兎に角、睡眠と社会生活および心身の健康は、互いに深く関係しあっているものであり、厚生労働省の「e-ヘルスネット」には、「快眠のためのテクニック」「快眠をもたらす生活習慣」で日常生活において出来る限り健やかな睡眠を確保するためのテクニックを紹介しているので、関心のある人は、一度見ておかれると良いだろうね。
(冒頭の画像は、睡眠改善委員会のシンボルマーク。同委員会より借用)
参考:
※1:高血圧と睡眠時無呼吸症候群(SAS)
http://www.ketuatu.jp/index.html
※2:青空文庫:作家別作品リスト:No.879〔芥川 竜之介〕
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person879.html
※3:睡眠・メンタルヘルス » 喫煙が睡眠障害を引き起こす
http://www.hgc-ncl.com/bbp07.php?itemid=209
※4:眠りの総合サイト:快眠推進倶楽部
http://www.kaimin.info/index.html
※5:睡眠改善委員会
http://www.brainhealth.jp/suimin/
※6:加藤諦三ホームページ
http://www.katotaizo.com/index.html
e-ヘルスネット(厚生労働省HP)
http://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/index.html
総合失調症の陰性症状とうつ病との違い
http://utu-kokufuku.org/utsubyou/sougou.html
ぐっすりネット
http://www.gussuri.net/
Yahoo!ヘルスケア
http://health.yahoo.co.jp/
Yahoo!百科事典トップ
http://100.yahoo.co.jp/
不眠症 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%9C%A0%E7%97%87
不眠を起こす怖い病気 前編:心の病 - [不眠・睡眠障害] All About
http://allabout.co.jp/r_health/gc/300280/

時代劇「必殺」シリーズなどで人気を集めた 俳優・藤田まことの忌日(Ⅰ)

2011-02-17 | 人物
てなもんや三度笠」、「必殺」シリーズ、「はぐれ刑事純情派」シリーズ、「剣客商売」などテレビドラマで人気を集めた俳優の藤田まこと(本名:原田真=〔はらだ・まこと〕)が亡くなって早や1年になる。
当たり役そのままの庶民派、人情派として幅広い層に愛された役者人生だったが、大動脈瘤破裂による死を知らされたときには、関西からスターの座に上り詰めた数少ない芸人であっただけに非常に残念であった。
草創期のテレビ界に飛び込み、それまで歌手を志望していた役者経験の乏しい藤田が、日本が高度経済成長を遂げる中、ブラウン管に、元気で圧倒的に異色の存在として頭角を現した。そして、日本の経済成長に合わせてテレビが成長するとともに出演作も増え、テレビにはなくてはならない存在となった。まるでテレビドラマが老成し、視聴率が低迷するのを見極めたかのように、今が死に時とばかりに突然消えていったような感じがする。
彼の最後のテレビドラマ出演作品は、死ぬ前年の2009(平成21)年10月に、土曜ワイド劇場(テレビ朝日系)で年に1回程度の割合で放送されていた和久峻三の推理小説を原作とした人気のテレビドラマシリーズ「京都殺人案内」(第32話)を収録したものとなったが、この同シリーズ第32話は、追悼企画として、藤田の亡くなった10日後、2010(平成22)年2月27日に放送された。
このドラマでの京都市内の名所で起こった難解な殺人事件を地道な捜査をもとに解決していく叩き上げの刑事「音やん」こと音川音次郎も渋い味があって大好きだった。
当ドラマも1979(昭和54)年4月21日に第1話放送(この時の原作者は山村美紗で藤田は狩矢警部を演じた)から1996(平成8)年4月までの17年と、一時中断の後、2000(平成12)年4月再開から2010(平成22)年2月迄の10年、計27年間も続いた長寿番組であった。
そんな藤田の作品の中で何が一番印象に残っているか・・・と問われれば、それぞれの年代や好みの問題等もあろうが、私たちのような古い年代の者であれば、彼の出世作でもある1960年代のお笑い番組であるミュージカル時代劇「てなもんや三度笠」のあんかけの時次郎、と言う人も多いだろうが、幅広い層では、やはり、必殺シリーズでの中村 主水役を思い浮かべる人が1番多いかもしれない。
私も時代劇大好き人間なので、この必殺シリーズも最初から殆ど欠かさず見ているので非常に面白く楽しんではきたが、私自身の好みの問題から言えば、その後、1990年代から始まった「剣客商売」の秋山小兵衛役や、現代劇ではあるが1980年代から始まった「はぐれ刑事純情派」の「やっさん(安さん)」こと安浦刑事などを演じている藤田の方が好きなのだが・・・。
藤田まことの父は大正から昭和時代にかけて無声映画で活躍した俳優藤間林太郎。1933(昭和8)年4月13日東京で生まれるが、生母は彼が生まれてすぐに死去し、継母に育てられるが反りが合わない等の複雑な環境で育つったようだが、1943(昭和18)年、と言うから彼が15歳の頃一家は京都に移ったようだ。
1940年代後半から父・林太郎が所属していた一座に参加し司会業で地方を回り、17歳のときに歌謡ショーの一座の公演で「旅笠道中」(作詞は藤田まさとで、唄は藤田が最も好きだったという東海林太郎のもの)を歌ったのが初舞台だそうで、やがて舞台俳優として舞台にも立つようになり、その頃、「藤田まこと」の芸名を名乗るようになったそうだが、芸名は父の芸名から藤の字を1字もらったもののようだ。
10代の終わりに歌手を志して上京し、ディック・ミネのカバン持ちをしながら前座の歌手として活動し、1年ほどで大阪へ戻り、日本マーキュリーレコードでアルバイトとして働きながら歌手としての修業を積み、同社所属の歌手の地方巡業に前座歌手として参加もしていたそうだ。
ある時病気になった司会者の代役を務めたのをきっかけに、巡業の司会者としても活動をしていたらしいが、当時の人気漫才コンビ中田ダイマル・ラケットのアドバイスを受けて司会の仕事をやめ、俳優として「ダイマル・ラケット劇団」に入団。1957(昭和32)年、コメディー時代劇「ダイラケのびっくり捕物帖」にチョイ役でテレビ番組に出演。この番組が藤田にとってのテレビデビュー作となった。
1961(昭和36)年4月からは同じくダイラケに、ミヤコ蝶々(社長役)や横山エンタツ(支店長役)など、当時の人気上方コメディアンを揃えた澤田隆治演出のコメディ番組「スチャラカ社員」に女性事務員を口説きたがる社員として出演している。
そして、それまで脇役しか演じたことのなかった藤田が初めて主役(あんかけの時次郎)に抜擢されたのが、同じく澤田演出の時代劇風コメディ「てなもんや三度笠」であった。まさに日本が高度経済成長真っ只中の1962(昭和37)年、藤田29歳の時である。
“ゴ〜ン・・・”と鳴る鐘の音とともに御堂の扉が“ギ〜ィ”と開きあんかけの時次郎が登場し、番組は始まる。
毎回様々な扮装をした怪人物が現れて一悶着した所で、時次郎が「俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー!」と言いながら懐から前田製菓(この番組のスポンサー)のクラッカーを取り出し見栄を切って締める。
第3話からは「スチャラカ社員」に給仕役で出演し人気を博した白木みのるが小坊主役で登場し、時次郎の相方を務め、時次郎は顔が長いところから馬呼ばわりされる。白木みのるや財津一郎などとの掛け合いが絶妙で大いに人気を博した。
あんかけ時次郎の「耳の穴から指突っ込んで、奥歯ガタガタいわしたる」のフレーズも一世を風靡した。
冒頭に掲載の画像は「てなもんや三度笠」に出演の藤田まこと(左)と手前の小坊主役が白木みのるである(2010・2・19朝日新聞朝刊より)。
この番組は兎に角、毎週のゲスト出演者が素晴らしかった。まだ、藤田の人気が関西ローカルだったことから、東京や大阪の人気ゲストを出演させて番組の人気を上げたのは、ディレクターである澤田隆治の力によるところが大きかったが、この番組への出演依頼が来た時点で、藤田は脇役としてテレビで6本、ラジオで5本の番組にレギュラー出演していたそうだが、澤田からは「主役の役者が他の番組で脇役を演じては恰好がつかない」という理由からそれらの番組を全て降板するよう要求されそれを承諾したという。
視聴率は高く、最高視聴率は関西で60%、関東でも40%を超える人気番組となり、1968(昭和43年)3月31日まで続き、藤田はコメディアンとしての地位も確立したが、番組が終わると、この番組での名声がかえって藤田には呪縛となったようだ。
その後も、1971年(昭和46年)まで続編シリーズ(「てなもんや一本槍」、「てなもんや二刀流」)が続いたものの、時次郎のイメージが強すぎて、他の役が決まらない。超売れっ子から急転し、キャバレー回りなどで糊口(ここう=ほそぼそと暮らしを立てること。生計)をしのいでいたところへ、「必殺仕置人」への依頼が舞い込んできたのは、高度経済成長も終わる1973(昭和48)年のこと、藤田39歳の時であった。
この作品が、役者としての藤田の本当の転機となった。この必殺シリーズの中村主水という役柄が、藤田の個性をも作り上げた。この役で演技の幅を広げ、人生の襞(ひだ)まで表現できる役者に成長していった。
今では、「必殺シリーズ」と言えば、藤田演じる中村主水を想像する人が多いだろうが、このシリーズで藤田が初登場するのは、この1973(昭和48)年4月21日から始まった必殺シリーズ第2作「必殺仕置人」からである。
のさばる悪を なんとする
天の裁きは 待ってはおれぬ
この世の正義も あてにはならぬ
闇に裁いて 仕置する
南無阿弥陀仏
(必殺仕置人オープニングナレーション)
「闇に裁く」の名曲(BGM。以下※1で聴けるが少々雑音あり)をバックに芥川隆行のオープニングナレーションで始まる本作は、第1作「必殺仕掛人」(池波正太郎の小説『仕掛人・藤枝梅安』シリーズが原作)の設定を踏まえつつも、原作を持たないオリジナルドラマシリーズとして作られ、シナリオ展開、登場人物の配置など、以後の必殺シリーズの原型となっている。
以後、同シリーズの顔となる中村主水の初登場作品ではあるが、本作品における主人公は、前作「必殺仕掛人」の主人公・藤枝梅安緒形拳)をモチーフに作られた骨接ぎを営む、通称“念仏の鉄”(山崎努)であり、主水はあくまで参謀役であった。殺しには参加しない回もたびたびあり、全く仕置きに関わらないことすらあり、また、登場しない回もあった。
許せぬ悪を金で請け負い暗殺するときのすごみのある顔と、家に帰れば嫁姑に「ムコ殿!」と呼びつけられ頭の上がらない町方同心。表と裏の両極端な演技。長い間この役を演じている間に、藤田の目も座ってきて、それまでのコメディーをやっていたときとは違って本当の殺し屋かと思われるような目になっており、役柄がそのまま染み付いてきた感じだ。
しかし、藤田へこの作品に出ないかとの誘いが来て、引き受けたら、なんと、面接して10日目ぐらいでバタバタとクランクインしたという。理由は後でわかったらしいが、監督が出演を宛てにしていた複数の俳優に打診したものの、“うだつの上がらない町方同心で、家に帰ったら養子で肩身が狭い”という設定が嫌われ引き受け手がいなかったそうだ。
実際に、このドラマの役作りは藤田にとっても難しく、藤田はNECインターチャネルから、1996(平成8)年松竹映画「必殺!主水死す」で、中村主水シリーズの完結(一旦の最終回)を迎えたことを記念してリリースされた「必殺! CD-ROM」(必殺シリーズの中で中村主水の登場するものを収録)のインタビューで「中村主水というキャラクターが自分の中に確立できたのはいつ頃か」という質問に「必殺!商売人の頃だ」と答えている。(以下参考の※2を参照)。
第1作の『必殺仕事人』で主演した緒方が、過去のテレビには存在しなかった現代感覚を定着させた必殺シリーズの「生みの親」とすれば、藤田まことが必殺シリーズ「育ての親」と言うところだろう。
中村主水役を演じ当たり役となった「必殺シリーズ」全31作品中、16シリーズに出演(Wikipedia TVシリーズ参照)。そのほかテレビスペシャルや、映画・舞台にも数多く出演している。

時代劇「必殺」シリーズなどで人気を集めた 俳優・藤田まことの忌日(Ⅱ)へ

参考は、上記(Ⅱ)のページに有ります。

時代劇「必殺」シリーズなどで人気を集めた 俳優・藤田まことの忌日(Ⅱ)

2011-02-17 | 記念日
上掲の画像は、1987年、梅田コマ劇場のチラシ「藤田まこと特別公演”必殺仕事人 /地獄花”とまこと演歌を斬る!」で、中尾彬が神谷兵十郎役、誠直也が念仏の鉄役で出演している。チラシはマイコレクションより)
「必殺仕置人」での主人公・中村主水役を演じてからは、必殺仕事人が藤田まことの代名詞ともなり、同時に俳優としての地位を確立した。
必殺シリーズは1996(平成8)年公開映画「必殺! 主水死す」のキャッチコピーも「シリーズ完結、さらば婿殿」と必殺シリーズの終了を宣言するに等しい形をとったが、2007(平成19)年7月7日に東山紀之主演の「必殺仕事人2007」と題したスペシャル番組が放送された。
この作品は、主人公を藤田の中村主水からの東山の渡辺小五郎に交替した初の作品であり、新たな主人公としての東山演じる渡辺小五郎も、南町同心という表の顔と家庭での「ムコ殿」の立場を継承し、これまでの中村主水的な役割を担っているが、藤田演じる中村主水も登場した。そして、藤田も番組の“顔”としての立場を担うが、これまでの中心的な立場から一歩引き、新メンバー達を束ねる元締め的立場(専任ではなく、仕事人としても現役である)で登場した。
これが好評を得たため2009(平成21)年に連続テレビ時代劇として「必殺仕事人2009」が放映され、藤田演じる“番組の顔”としての中村主水と、東山演じる“物語の主人公”としての渡辺小五郎、という二枚看板での本格的な始動となった。
これは、ABC「必殺仕事人」シリーズ30周年記念、テレビ朝日開局50周年記念作品であり、第30弾「必殺仕事人・激突!」(1991年10月8日~1992年3月24日放送)以来18年ぶりの必殺シリーズの復活である。又、中村主水を演じる藤田にとっては、体調不良を検査した2008(平成20)年4月、食道癌であることが判明し、以降休養(入院加療)からの復帰第1作となっていたものである。
藤田はテレビで4つの山を作ったといわれているが、初期の藤田は、「てなもんや三度笠」で見られる2枚目半のコメディアンとして毒のあるアドリブとキャッチフレーズを連発し、典型的な上方芸人的な面白さと親しみやすさで売っていた。
この必殺シリーズでは、「てなもんや」のコミカル味を継承しつつ「ほんわかした親しみやすさ」が回を追うごとに前面に出てきて、妻と姑の間に置かれた肩身の狭い「婿殿」は「こういう人、おるおる」と言った感じで視聴者との距離を近づけていった。
そして、その典型が、1988(昭和63)年に始まった刑事ドラマ「はぐれ刑事純情派」での主人公・安浦吉之助(通称・やっさん)役である。誇張のない普通の話し声による台詞回しに、真っ白いワイシャツを着つつ一番上のぼたんを開け放したノーネクタイ姿の無造作ぶりが、身近にいる人間の存在を感じさせた。そして、このような人の良さがにじみ出る自然な演技で18年間この役を演じ続けた。
そこには、藤田自身が「てなもんや」では29歳の遅咲きで世に出たこと。それに加えその後の不遇も経験したことなどが、懸命に生きる市井の人々の喜びや悲しみを共有できる人間味あふれた大衆のヒーロー役を演じる力に繋がっていったのだろう。
そして、その演技力は、1998(平成10)年から放映された『剣客商売』シリーズの秋山小兵衛役にたどり着く。
無外流の達人でありながら郊外に庵を結び静かに余生を送る老剣士。人生の甘い苦いを全て知り尽くした先にいるかのごとき達観した佇(たたず)まい。このドラマもそんな平穏を打ち破る剣客たちとのぶつかり合いの対比が際立った味わい深い作品である。
この作品も『鬼平犯科帳』や『仕掛人・藤枝梅安』と並ぶ池波正太郎の代表作であるが、1973(昭和48)年から始まった最初のシリーズには、山形勲が小兵衛・加藤剛が小兵衛の息子大治郎役を演じた。10年後1983(昭和58)年からの2度目のシリーズでは、歌舞伎俳優の中村又五郎が小兵衛役・息子大治郎役には続いて加藤剛が演じていた。そして、3回目のシリーズが藤田の小兵衛・息子大治郎役は当初は渡部篤郎、後に山口馬木也が演じている。
この第1回・第2回の両シリーズでは、主役は小兵衛ではなく息子の大治郎であり、小兵衛はその補佐役を演じていた。それが、第3回目から小兵衛役を中心のドラマとなり藤田が主演をするようになった。
原作者の池波は新潮社刊『日曜日の万年筆』の中で、小兵衛役の風貌は旧知の中村又五郎をイメージして書いたといわれている(Wikipedia)ようだが、それが、第3回からは、藤田演じる小兵衛が主役となるのだが、これはどうも、藤田が自分の方から売り込んだらしく『池波正太郎の世界2号剣客商売<一>』という小冊子には藤田のインタビュー記事が掲載されており、藤田が「この役だけは他の誰にも渡したくない」と述べているそうだ(以下参考の※3参照)。
私は、第2回シリーズに出てくる小柄ながら強い老剣士の風貌と洒脱さあふれた中村の渋い演技とその持ち味が大好きであったが、藤田になって小兵衛を主役にしたのもうなづける。
中村とは風貌は異なるものの、年輪を重ね精進し、幅広い演技力を見につけた藤田は、中村に負けない渋い味をかもし出し、その上に、必殺シリーズで身につけた剣客としての凄みも加わり、最も老剣客秋山小兵衛らしい人物像を描き出していたと思っている。
このほか藤田の晩年を代表する作品のひとつに「その男ソルバ」のようなミュージカルの舞台もある。
上掲の画像は、梅田コマ劇場が移転し、その名も新たに劇場「飛天」となった記念公演の1つとして、1993(平成5)年5月に公演されたブロードウエイ・ミュージカル「その男 ゾルバ」のチラシである(マイコレクションより)、
原作はギリシャ人作家ニコス・カザンザキス(1883-1957)の小説「アレクス・ゾルバ」で、ゾルバは実在の人物で、作者自身の自伝的小説だそうだ。
1964(昭和39)年に映画化され、アンソニー・クイーン主演で大ヒットした。その後、ミュージカルとしての初演は1968年、ニューヨークらしいが、「ゾルバ」は彼のお気に入りの役で、ブロードウェイのミュージカルでも同じ役を演じているそうだ。
このアンソニー・クイーンは私の大好きな俳優なので、以前にこのブログ6月3日「アンソニー・クイン」の忌日の中で、この映画のことは詳しくとりあげた(ここ参照)。
「その男ゾルバ」は、ギリシャの寒村を舞台に、一人の孤独な男ゾルバと、鉱山の所有者である若者ニコとの交情を軸にして、ゾルバの人間性の豊かさ複雑さを描く、人間讃歌のミュージカルであり、 ”人生とは、愛とは” を考えさせてくれる作品である。
藤田は、この舞台の上演した50代を自らの人生の中で最も充実した時期であったと振り返っていたらしいが、今あるがままの人生を肯定し、決して自分を偽らずにストレートに生きる楽天家ゾルバに自分の姿を映して演じていたのかもしれない。漂白の男ゾルバと同じように、藤田が入れ込んだ役には出世とは無縁の男が多い。それにしても、藤田演じるゾルバの風貌は私の大好きなアンソニー・クイーンと非常に良く似ているな~。以下のYouTubeでアンソニー・クイーンの踊っているシーンが見れるので時間があれば見ると良い。
YouTube-Zorbas Syrtaki
藤田は俳優となる前は歌手を志望していたことはこのブログの最初の方でも述べたが、歌の好きな藤田はしばし歌を作って過ごしたという。1971(昭和46)年に発表した「十三の夜」(作詞・作曲供藤田)は晩年も公演などで歌い続けたという名曲である。
♪梅田離れて中津を過ぎりゃ思い出捨てた十三よ
 女一人で生きていく 娘ちゃん娘ちゃん十三の娘ちゃん
 涙をお拭きよ 化粧くずれが 気にかかる
十三は、大阪府大阪市淀川区にある地名で、一般に阪急電鉄十三駅付近の繁華街を指すことが多い。大阪梅田から阪急電車に乗るとここ十三駅で藤田の自宅である箕面方面・私の住んでいる神戸方面・京都方面への分岐となるところから、若い頃飲んだくれであった私も大阪の会社からの帰りに何度か寄ったことがあるが、この地域の夜のネオン街は多くのサラーリーマン客などで賑わっている。大阪の北(大阪駅・梅田周辺)や南(難波周辺)と異なり、非常に庶民的な町で、安く遊べることで有名である。この地域のネオン街の女性を大阪人は“十三の娘(ねえ)ちゃん”と親しみを込めて呼んでいる。藤田も良くこの辺で飲んでいたのだろう。
大阪の歓楽街・十三で働く女性を歌うこの詩は限りなく優しく、藤田の市井の人々に向ける目線の優しさが窺える。
それでは以下のYouTubeでこの曲を聴きながら藤田まことを偲ぶことにしよう。途中、一昔前の大阪梅田や十三の風景などと共に、「必殺!商売人」の頃からの懐かしいシーンも挿入されているよ。
YouTube -藤田まこと・十三の夜
上記YouTubeへアクセスすると藤田の歌う「黄昏のビギン」も聴ける。彼は小節を回す演歌などは苦手だったというが、きっちりと基礎を学んでいるだけにさすがこのようなポップス系の曲もきれいな声で、しっくりと歌っている。歌手としても一流である事が判るよ。

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参考:
※1:必殺仕置人BGM
http://flipnote.hatena.com/1F4A48E0A0A4FA58@DSi/movie/A4FA58_099C1251696B9_000
※2:YouTube-藤田まこと「必殺」を語る
http://www.youtube.com/watch?v=pibNpwrfJWw&feature=related
※3:池波正太郎 | Midodiary
http://mido-ri.net/diary/tag/ikenamisyotaro/
その男ゾルバ - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/p5302/
必殺シリーズ同人サークル"江戸のクロねこ
http://homepage1.nifty.com/edonokuroneko/index.htm
朝日放送 | 必殺シリーズ
http://asahi.co.jp/hissatsu/
必殺シリーズとは -はてなキーワード
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%AC%BB%A6%A5%B7%A5%EA%A1%BC%A5%BA
必殺シリーズ・データファイル
http://space.geocities.jp/wrjsw332/deta-file.htm
藤田まこと- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E3%81%BE%E3%81%93%E3%81%A8
必殺!主水死す - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD5895/index.html
必殺!
http://www.textlife.net/ccwa/CDROM/cdroms2/hittsats.html


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育児の日 Part Ⅱ

2011-02-12 | 記念日
「育児の日」は、 社会全体で子育てについて考え、地域が一体になって子育てしやすい環境づくりに取り組むきっかけの日にと、神戸新聞社が制定したもので、日付は育(いく)で1、児(じ)で2をあらわすことから毎月12日としている。 以下参考の※1に記載のように、神戸新聞では当該日(毎月12日)の朝刊1面の題字下欄に「毎月12日は『育児の日』  みんなで考え みんなが支える みんなの子育て」というキャッチフレーズを掲載している。
ここで、”「育児の日」は、冒頭にも書いているように” 社会全体で子育てについて考え、地域が一体になって子育てしやすい環境づくりに取り組むきっかけの日にと制定された。”と書かれているが、子育てとは、子を育てることであるが、「子育て」が様々な年齢の子供の養育全般を指すのに対して、「育児」という場合、出生直後から幼児期まで(乳幼児)の養育を指す[広辞苑」)。
同じ、子育てでも、出生直後から幼児期までの「乳幼児」を育てるのと、それ以降の年代の子を育てるのとでは、子育てに関する問題も相当違ってくるだろう。
ちょっと話が横道にはずれるが、平安京時代の五条通りは現在の松原通に相当し、牛若丸と弁慶の戦いの場に出てくる「五条の橋」は今の橋よりも北、現在の松原橋付近にあった。そして、平安京は現在の寺町通が東京極京通(東の極み。東の端を意味する)で、当時そこから東は京ではなかった。言い換えれば、寺町通から清水寺までの道・松原通は平安京の外の道(他界)とされていたことは、昨年の暮12月20日にこのブログ「果ての二十日(Ⅰ・Ⅱ)」」でも書いたことだが、そんな五条通りを清水寺に向かって進み大和大路通りを渡って、轆轤町(ろくろちょう)の手前にある西福寺に来ると寺の向かい側つまり・左側(松原通大和大路東入2丁目轆轤町。Googleマップ参照)に「京名物 幽霊 子育飴」と書かれた看板を掲げた小さな駄菓子屋(みなとや幽霊子育飴本舗)があり、琥珀色をした綺麗な飴を売っている。以前は六道珍皇寺の方から松原通に出て近くにあった木村茶舗と言う店で売っていたが、今はその店は閉ざされ、販売はこちらに移動したようだ(以下参考の※2参照。そこには、2003年11月に撮った木村茶舗の写真がある)。
飴の名に「子育飴」なら分かるが、冠に「幽霊」などとつけている由来は、昔、夜な夜なこの店に飴を買いに来る女がいて、不審に思った店主がその女の後をつけていくと、墓場であった。赤子の鳴き声のするその墓を掘り返してみると女の死体と一緒に生きている赤子がおり、その赤子を助けた後は、女が飴を買いに来ることはなくなったという。そして、助かった赤子は成長の後に、高名な僧になった。いつしか誰ともなく、この飴を「幽霊子育飴」と言い始めたと言うが、言い伝えでは、この子が六道珍皇寺の僧侶になったともいわれているが、日蓮宗京都八本山の一つ、立本寺の日審上人も死して墓に埋葬された母体から生まれたという逸話がある(以下参考の※3の同寺HPの◆立本寺縁起参照)そうだが、この類の話は京都には他にも色々見られるらしい(以下参考の※4参照)。この話は、どうも、日本で古くから伝わる民話「子育て幽霊」の話から来ているようだ。そして、この民謡からきていると思われる同様の話は、私の地元兵庫県にも見られる。
摂津・丹波・播磨を眺望できる三国山の南麓(三田市永沢寺210)にある青原山・永澤寺(ようたくじ)の門前の花しょうぶ園は関西花の寺第11番札所として有名であるが、同寺は、南北朝時代通幻寂霊(俗姓は藤原氏)という曹洞宗の僧侶によって開山されたというが、この通幻禅師にも民話と同様に、お墓から生まれ育てられた赤ん坊の後身だとする伝承がある(以下参考の※5:同寺ホームページの民話のところを参照)。
そしてこの通幻の生誕地には諸説があるようだが、京都出身とする説が多いようで、京都の臨済宗建仁寺派の高台寺が曹洞宗であった時代の5代目住職に就いた直傳龍察和尚とも深い係わり合いがあるようだ(以下参考の※6を参照)。
上方の落語家桂文の助 (2代目)の落語「高台寺」は、この民話を基につくられたというが、落語では「母親の埋葬地は高台寺の墓地で、幽霊になっても子どもを育てていた。それは場所が「コオダイジ=子大事→高台寺」だからという落ちにもなっているらしい(以下参考の※7:「ぼちぼちいこか」の中の京都落語地図にある『幽霊飴』を参照)。
西福寺を通り過ぎて轆轤町の前を通り東大路通手前頃で、六道珍皇寺の門前に出る。通称六道さんと呼ばれるこの寺は、小野篁が冥界(死後の世界)に通ったと伝わる井戸で知られている。ここに「六道の辻」の石碑が建っている。松原通(旧五条通)が轆轤町にかかるこの付近が、「六道の辻」であり、平安時代以前からこの辺り一帯から山麓(清水寺の一帯、特に南西、阿弥陀ヶ峰〔鳥部山山頂〕辺り)にかけては、「(とりべの)」といわれる葬送の地・・・であったことは、このブログ「果ての二十日(Ⅰ・Ⅱ)」」でも書いた通りである。この地には当時、身ごもった赤子を生むことも出来ないままに亡くなってしまった哀れな女性も多くいたことだろう。
この民話の「子育て幽霊」は「飴買い幽霊」とも言うようだが、この「飴を買う女」の怪談は、南宋の洪邁が編纂した『夷堅志』に載せる怪談「餅を買う女」と内容がそっくりであり、もともとは中国の怪談の翻案であったと考えられており、子育て幽霊伝説とよく似た話として、「産女(うぶめ)」という妖怪の話がある。妊娠中に亡くなった女性が、赤子を抱いて幽霊として現れる・・というもので、『今昔物語集』にも源頼光の四天王の1人である平季武(卜部季武)が肝試しの最中に川中で産女から赤子を抱くように強要され、赤子を受け取って抱けば返せと追いかけてくる・・・というくだりがある(以下参考に記載の※8:国宝・今昔物語集〔京都大学附属図書館〕の巻第二十七「頼光郎等平季武産女値語第四三」参照)ので、古くから知られていた話であり、死んでもなお子供を守ろうとする母親の愛の深さが、幽霊の薄気味悪さとともに人々の心をつかんだのであろう。この伝説は、全国各地の曹洞宗系の寺院で布教のために語られていたそうだが、他の様々な宗派の僧によっても説教として語られ全国各地に広まっていったのだろう。
随分と遠回りしたが、幼い我が子を虐待する事件が頻発している殺伐とした現代において、幽霊になっても我が子を案じて、飴を買い求めるというこの話がとても感動的であり、以前に、「育児の日」のことは、このブログで1度取り上げたにもかかわらず、又、「育児の日Part Ⅱ」としてとりあげた次第だ。その時は、当時話題を呼んでいた赤ちゃんポスト(慈恵病院の「こうのとりのゆりかご」)と乳児問題を中心に取り上げた(ここを参照)。
子育ての中でも、古来、出産(分娩)は妊婦にとって命がけの行為であった。医学の発達した今日では出産のリスクはかなり軽減され、周産期死亡率は日本国内においては先進諸外国と比しても著しく低下(2004年 4.4%。ちなみに米国10%、イギリス6%、ドイツ3,7%)しているようだが、それでも妊娠高血圧症候群前置胎盤癒着胎盤へその緒の巻絡、大量出血、HELLP症候群などのリスクが決してなくなっているわけではないそうだ(Wikipedia)。
しかしそうした必然的なリスクに対してまで医療者の責任を求める訴訟が相次いでおり、産科の医師の労働条件の厳しさに加え、そんな訴訟リスクの高さに見合うほど報酬が他科に比べて特に高いというわけでもないことから産科医を志す人材が減少し、一層深刻な医師不足を招く要因ともなっている。
産科医の減少に伴い顕在化した、病院出産を希望しながらも希望する地域に適当な出産施設がない、あるいは施設はあっても分娩予約が一杯で受け付けてもらえないといった出産難民が増加しているというが、「子育て」「育児」の出発点でもある「出産が出来ない」、「生みたいのに生むところがない」といった状況は、少子高齢化の現代にあって最も深刻な問題である。以下は、そのような産科医の状況を取材したものであり、時間があれば見られると良い。
YouTube産婦人科医がいなくなる日1/3 (同ページへアクセスすると2/3、3/3も見られる)
一般に、子育ては大きな喜びであり、また、子育ての成果である子供の成長ぶりを見る充実感は何にもかえがたいと感じている人も多くいて、中には子育てこそが自分の最大の生きがい、この世に生まれてきた意味なのだとまで感じている人も多くいるであろうが、最近は、「出来ちゃった婚」だとか、「バツイチ」などという言葉が流行語にさえなるほど増えている。色々な理由でそうなっているのだろうから、真に子供を欲してかどうかは別にして、出来ちゃってから結婚しても、その後の結婚生活が上手くいっており、生まれた子供にも十分な愛情を注いで育てている。又、喩え、バツイチになっても、離婚後の生活になんら支障もなく、そして、子供がいる場合、何の罪もない可愛い子供に負い目を感じさせることもなく世間並みに普通に育ててやることが出来ているのなら、このような行為そのものを肯定するか否定するかといったことは、単なる道義論に過ぎないが、その結果が逆に上手くゆかなかった場合・・・、つまり、結婚するつもりがなかったが子供が出来ちゃったので結婚はしたものの、結婚後の生活が上手く行かず、片親1人では十分な収入が得られない、又、育児に手が足りず子供に愛情が注げないといった場合(これはバツイチも同じ)・・・・生まれた子供はどのような気持ちで育ち、どのような生き方をするようになるのだろうか。特に若い女性が1人で仕事をしながら子供を生み育てるのは並大抵なことではないだろうが・・・。
今、NHKの朝の連続テレビ小説「てっぱん」が放送されている。尾道で生まれた主人公の村上あかりは、造船所の下請け鉄工所を営む村上家の家族の一員として幸せに明るい性格の子として育つていたが、ある日、祖母・初音が尾道を訪ねてきたことから、自分が村上家の養子だったこと、生みの母親が既にこの世にいないこと、また、実際の父親が誰かも分からないままであることを知り悩む。そんなあかりが、祖母の住む大阪にやってきて、色々有る中、祖母初音と実のおばあさんと孫の関係を築き、育ての母から受け継いだ広島の味と初音から仕込まれた大阪の味を二枚看板に、お好み焼き屋「おのみっちゃん」を開業する。
そんなあかりの店に、あかりと同様に実父が不明で、母1人に育てられた気の強いOLののぞみが、結婚も破談となり、失望し、勤めていた建設会社を退職し、居場所を失ってやって来る。のぞみに帰る家もないことを知ったあかりは、祖母の反対するなか一緒に仕事をしながら暮らし始めるが、その際にのぞみの妊娠が発覚するのだが、“子どもを本当に産むべきか”・・・と、のぞみの心が揺れ動いていることをあかりは知る。自分もシングルマザーの子であるあかりは、「自分の母も、自分を産むときに、悩んだのだろうか」と不安に襲われる。一方「他人に甘えて生きたくない」と、心を開かないのぞみと、下宿人たちとの間にはいさかいが絶えない。そんな中、2月2日の放送(第18章)では、のぞみが自分が子供を生むことについて「子供に人生を奪われたくない」・・と言ったのに対して、初音は「子育てを損得なんかでできるものではない。」、「アンタには母親になる資格はない・・」と強い口調で叱る場面があった。その言葉にあかりも自分に言われたかのように傷がつく。心配や不安が重なったあかりは、高熱を出して倒れ、それを機会に、のぞみは初音の部屋に移ることになり、のぞみは初音から、あかりが村上家の養女であることを知る。親になる自信がまだ持てないのぞみは、他人の子を家族として育てた村上家の決断に、考えさせられる。そして、下宿屋の住人の皆から応援を受け子を生む決心をする。また、偶然なことから、あかりの誰かわからなかった父親が現れることになるのだが・・・・(以下参考の※9参照)。
戦後の日本は核家族化が原因で、しつけや家庭教育にも問題が生じていることがよく論議にあげられる。2世代、3世代が大家族で暮らしていたころは、育児のノウハウもごく自然に同じ屋根の下で引き継がれていたが、近年の核家族化により家族は分断され、子育てのスキルを容易に獲得できず不安になる親の姿が見られる。そのような子育てのストレス等から、親が子供を虐待してしまうケースも多くあると聞く。
又、戦後の高度成長期に経済優先の風潮とともに学歴社会化した中で、子供の教育も、全人格的な教育や子供本人の希望や生きる喜びという観点が脱落しがちになり、物質主義的な視点から、収入に直結したり大組織に採用されやすい学歴をつけさせることにばかり関心を持つ人が増えるという事態も起きているようだ。
「子育て」ということになると、反射的に「子育てにかけるコスト」「投資」「回収」などといったビジネスライクな言葉を結びつける人も増大しているようだが、確かに、今の時代子育てにはお金がかかる。しかし、そのようなことを自分の親から感じ取った子供達は、親にどのような感情を抱き、どのような大人へと成長をしてゆくのだろうか・・・。
人は、自分の子供を育てるようになって初めて自分の親の気持ちが理解できるようになるという。また、子育てをすることによって、親も、親である以前にひとりの人間だったというこということに気づき、自分自身の人間的な成長へとつながるともいう。
急速な少子高齢化が進行している日本では、2010年現在は、3人の現役世代で1人の高齢者を支える形になっているが、2055年には1人の現役世代で1人の高齢者を支える状況となることが見込まれている(ここ参照)。
しかし、子どもを産むか産まないかは個人の自由であり、子どもを持ちたくない人もいれば、産みたくても身体的な事情などで産めない人もいる。また子どもが欲しくても、いろいろな要因で希望するだけの子どもを持てない人も沢山いるが、日本の将来を担うのは子どもたちであることには違いないだろう。
子どもを産む意志がありながら、それができない最大の理由が経済的負担であるとすれば、子育てによって家計が圧迫され、経済的な事情で子育てを諦める人があってはいけない。そのようなことから民主党が2007年に政権政党マニフェストに取り上げた「民主党3つの約束」の中の1つが「安心して子育てできる社会」づくりであった(以下参考の※10参照)。
そして政権政党となった民主党が「次代の社会を担う子ども1人ひとりの育ちを社会全体で応援する」こと及び「子育ての経済的負担を軽減し、安心して出産し、子どもが育てられる社会をつくる」ことを政策目的とし、15歳以下の子どもの保護者に対し手当(金銭)を支給することを主な内容とする法律「子ども手当法」(平成二十二年度における子ども手当の支給に関する法律」平成22年3月31日法律第19号)が、2010年度から施行されているが、この支給に対する財源が見つからず、来年度からの実行が危ぶまれているのはここのところ連日マスコミで報道されているので誰もが周知の通りである。
この法律の趣旨は良く理解できるし、良いことだとは思うが、日本の少子化問題は単に金銭的な問題だけではなく、多岐にわたっており、国の財政が破綻しようとしている状況も考え、財源として当てにしていた埋蔵金もなかったとなれば、子育てのためには何が最も必要か、国民の声を十分聞いた上、余り、マニフェストにこだわらず、最も効果的な方法で実施してはどうだろうかと思うのだが・・・。
(画像は、鳥山石燕画図百鬼夜行』より「姑獲鳥〔うぶめ〕」
参考:
※1:神戸新聞 「育児の日」運動 - すきっぷ21
http://club.kobe-np.co.jp/mint/article/kosodate/kosodateskip_ikujinohi.html
※2:ご朱印めぐり~京都 東山~
http://homepage3.nifty.com/osanpo-cafe/KIYOMIZU.HTM
※3:西龍華・具足山 本山 立本寺HP
http://honzan.ryuhonji.nichiren-shu.jp/
※4:京に癒され:幽霊子育て飴 by 五所光一郎
http://kyoto-brand.com/read_column.php?cid=5327
※5:永澤寺
http://www.youtakuji.net/temple/index_r.html
※6:PDFライブラリ <ひょうご伝説紀行 -妖怪・自然の世界->
http://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/legend3/html/pdf/pdf-list.html
※7:ぼちぼちいこか
http://shigeru.kommy.com/index.html
※8:国宝・今昔物語集〔京都大学附属図書館〕
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/konjaku/kj_top.html
※9:連続テレビ小説「てっぱん」 - NHKオンライン
http://www9.nhk.or.jp/teppan/
※10:民主党の政権政党マニフェスト
http://www.dpj.or.jp/special/manifesto2007/
平成10年版厚生白書の概要〔厚生労働省〕
http://www1.mhlw.go.jp/wp/wp98/wp98p1c2.html
関西花の寺25ケ所めぐり
http://www.youtakuji.net/hananotera/index.html
米朝ばなし 上方落語地図 桂米朝/[著]
http://www.kanshin.com/keyword/963343/comment
育児 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%B2%E5%85%90
今日のことあれこれと・・・「育児の日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/632a3e7009108b375e70abd7b8b5df4d