今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

将棋の日

2005-11-17 | 記念日
今日(11月17日)は「将棋の日」
将棋(本将棋)は、囲碁とともに、戦争の要素を反映して作られたゲームでもあり、家康が重視したため、江戸時代には幕府の公認となり、碁所・将棋所を名乗るようになった。1612(慶長17)年に、幕府は本因坊算砂・大橋宗桂らに俸禄を支給することを決定した。寛永年間(1630年頃)には、将棋の家元御三家(大橋本家・大橋分家・伊藤家)の棋士を江戸城によび、将軍御前で指す「御城将棋」が行われるようになり、将棋の家元である名人らにも俸禄が支払われた。そして、八代将軍徳川吉宗のころ、年に1度、11月17日に、「御城将棋」を行うことが制度化されたという。このことから、日本将棋連盟がこの日を「1975(昭和50)年に「将棋の日」に制定した。
わざわざ年に一度の「御城将棋の日」を定めたことでも窺えるように、あのTVドラマ「暴れん坊将軍」で有名な八代将軍・徳川吉宗公は、江戸時代の歴代将軍の中では家康と並んで最も将棋好きであったらしい。
江戸時代を通じて、お城将棋・碁の対局者には大名を歓待する時並みの料理が用意されるほどに遇された様で、そのため、将棋にしても碁にしても、それぞれの家元は血筋とは無関係に優秀な人材を発掘して、最も優秀な弟子に家督を譲りレベルを維持した。これは、華道、茶道、歌舞伎などの世襲制を採っているところは皆同じようなものだ。
極めて卓越した実力を持つ人は「名人」の称号を受けていた。最初の頃、名人というのは常に存在しておらず、それに値する人がいなければ空席になっていたそうだが、後に将棋の世界ではこの名人というのが将棋界の最高位に君臨する人の称号とされ、名人は大橋家・大橋分家・伊藤家が持ち回りで世襲していた(初代~十一世)。そして、名人を襲位した棋士は、江戸幕府に詰将棋の作品集を献上するのが慣わしとなっていたそうだ。幕府の瓦解とともに、家元名人制は終焉を迎えた。
しかし、現在でも名人の称号は「名人戦」というタイトルに残されている。
ただし、明治・大正・昭和前期においては、将棋界の年功ある実力者が推薦されて名人を名乗った(名誉称号)。1898(明治31)年、十二世名人を小野五平が襲名。1921(大正10)年十八世名人を関根金次郎が襲名。関根金次郎・・・・・と言えばなにか思い出しませんか?
あの有名な映画『王将』・・・阪田三吉と関根金次郎との因縁の対局を描いた名画である。阪田三吉は、1913(大正2)年4月、来阪していた関根金次郎八段と対局、相方譲らぬ熱戦の末、終盤近く、阪田三吉の打ち込んだ窮余の一手二五銀が決めてとなり、阪田は関根に勝利する。この対局において後に阪田は『銀が泣いている』という有名な言葉を残している。この一戦で阪田三吉の名は天下に轟いた。その後、無学門であった阪田も長年の修練で人間的にも成長していた。そして、関根は八段、阪田は七段になり、名人位をかけた一戦も阪田の勝ちとはなったが、そのとき病床に臥していた女房小春の望みもむなしく、名人位は関根八段に冠せられたのであった。その関根八段に祝辞をのぶべく病床に臥している小春に内緒で上京した阪田は、関根名人との会見で自分で編んだぞうりを渡す。名人となった関根八段も酒田三吉のあまりにも律儀な態度に感銘を受ける。その席上、自分をここまで仕立ててくれた最愛の妻小春のふ報を聞かねばならなかった。阪田三吉を演じる坂東妻三郎が電話を小春のほうに向けさせ、「お題目を唱えるから」と言って、「南無妙法蓮華経」と必至に何度も唱えだす。小春も目を開け、うれしそうな顔をする。しかし、力尽きて、臨終ということになるが、付き添っていた娘が布団を開けてみると、小春は合掌していて、力尽き、その手が開くと中から将棋の王将の駒がこぼれ堕ちる。電話で必至に女房小春に呼びかけ、お経を唱える迫真の演技が感動を呼んだ。私はこの映画を何度見ただろう。涙腺の弱くなった私は、いつも最後は泣かされる。
その後、1925(大正14)年、京阪神の財界有力者八十余名の主唱者により名人に推薦され、坂田三吉は「大阪名人」を名乗る。このことが名人僭称とされ、棋界を追放される原因ともなった。
1935(昭和10)年、関根金次郎十三世名人は、それまでの世襲制名人位に異を唱え、その時その時に最高の実力を持つ人が名人を名乗るという実力制名人の制度を導入した。その第1期名人戦(当時の正式名称は名人決定大棋戦)はそれから2年にわたって行われた。阪田三吉も1937(昭和12)年に和解し、将棋大成会(現在の日本将棋連盟)に復帰した。同年2月、阪田の復帰を記念し、読売新聞社主催の特別対局が行われることになった。当時の名人は関根であったが、高齢のため、関根の弟子であった木村義雄が対局に臨むことになった。
対局の舞台は京都の南禅寺。2月5日から7日間、持ち時間は30時間。現在の公式戦で持ち時間が最も長い名人戦が9時間であるから、この長い時間の闘いは、66歳の阪田にとって当初より厳しい闘いになることが予想されていた通り、結果は、木村の勝ちとなった。この年、木村義雄が初代名人(十四世名人)となった。タイトル戦の始まりである。
阪田は復帰後、名人戦挑戦者リーグに参加、その後引退した。
阪田三吉は、数多くの舞台や映画,、ドラマ化されたが、歌のモデルにもなった。
「吹けば飛ぶよな 将棋の駒に 賭けた命を 笑えば笑え うまれ浪花の 八百八橋 月も知ってる 俺らの意気地」
作詞:西条八十、作曲:船村徹、歌手:村田英雄のMIDI(歌詞付)が聴けるよ
MIDI>王将
http://www.biwa.ne.jp/~kebuta/MIDI/MIDI-htm/Ousho.htm
最近、将棋界を賑わしている人物がいる。アマチュアの強豪・瀬川晶司さん(35歳、横浜市)が、プロ入りをかけてプロ棋士6名との六番勝負を行い、3勝で合格となるプロ編入試験・・11月6日の第5局で、高野秀行五段を破り、見事3勝勝目をあげて合格。念願のプロ棋士になることができた。26歳の時、11年余り席を置いた、プロ棋士養成機関の奨励会を年齢制限でやむなく退会していたが、プロへの願望が強く、その後の努力が実を結び、厳しいプロ編入試験にこぎつけたもの。システムエンジニアーとして働いていたものが、プロデビューして勤めをやめると、新たなプロ将棋の世界では、勝てなければ収入は半減する。それでも、好きな、将棋の世界で自分の可能性を求めてのチャレンジであった。是非、名人になってほしい人物である。今、世の中には、自分が、「何をしたいのか分らない」「したいことがない」などと、馬鹿げたことを言って、働きもせず、親の脛をかじってフラフラしている若者が大勢いるという。この人の爪の垢でも煎じて飲めよ・・・と言いたいね~。
(画像は、高野秀行五段(左)を破り、プロに合格した瀬川晶司さん。11月7日朝日新聞朝刊より)
参考:
日本将棋連盟
http://www.shogi.or.jp/
将棋ーWikipedia
a.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%86%E6%A3%8B
名人戦(将棋) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E4%BA%BA%E6%88%A6_%28%E5%B0%86%E6%A3%8B%29