今日(11月23日)は「勤労感謝の日(Labor Thanksgiving Day)」
勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう国民の祝日。1948(昭和23)年公布・施行の「祝日法」で制定。戦前の「新嘗祭」の日をそのまま「勤労感謝の日」に改めた。
「新嘗祭」って、知ってますか?とりあえず広辞苑に記されている説明をを見てみよう。広辞苑には、
にいなめさい【新嘗祭】 (しんじょうさいとも)天皇が新穀を天神地祇にすすめ、また、親しくこれを食する祭儀。古くは陰暦11月の中の卯の日に行われた。近時は11月23日に行われ、祭日の一とされたが、現制ではこの日を「勤労感謝の日」として国民の祝日に加えた。天皇の即位後に初めて行うものを大嘗祭という。にいなめまつり。しんじょうさい。【新嘗】ニヒナヘ(新饗)の転化か。
だいじょうさい【大嘗祭】 天皇が即位後、初めて行う新嘗祭。その年の新穀を以って自ら天照大神および天神地祇を祀る、大礼で神事で最大のもの。祭場を二ヵ所に設け、東(左)を悠紀(ゆき)、西(右)を主基(すき)といい、神饌の穀はあらかじめ悠紀と主基とに卜定せられた国郡から奉らせ、当日、天皇は先ず悠紀殿、次に主基殿で、神事を行う。おおなめまつり。おおにえまつり。おおんべのまつり。・・・とある。
新嘗祭がいつ頃から行われていたのかは必ずしもはっきりしないが、日本書紀で皇極天皇元年(642年)の11月16日に新嘗祭の記述があるのが文献に出てくる最初だそうだ。
少し歴史的に振り返って見ると、村々では、古くから作物の収穫が行われ、これをニヘナヘ(ニヘノアヘ・新嘗)といっていた。そこでは、収穫物の一部が初穂として首長に貢納され、共同体の代表者である首長と共同体成員の関係が年毎に更(あらた)めて確認されたのであった。この儀礼が宮廷に取り入れられ、天子がその年の初穂を祖神に供えて共食する新嘗祭が旧暦11月中の卯(なかのう)の日に行われていた。この祭式を即位したばかりの天子が一世一度の大祭として始めて挙行するのが大嘗祭であり、天武天皇(631年? ~686年)の時代からそれほど下らない時期に制度化されて、何度かの中絶はあっても現在まで続いて行われている。11月に行われるのは、村々の霜月際と同様に、物忌みの期間を設けて冬至をめぐる季節の復活儀礼と連動させるためであったようだ。
日本の暦で10月は「神無月」つまり、日本中の神々が出雲の国に出かけてしまい神の加護がえられない月だから、日本中一切の神事が行われず、人々は慎み深い生活をすべきとされていた物忌みの期間である。そして、神々の帰って来る11月はおのずと祭りの行われる月になり、この時期が農業での収穫の時期でもあることから、最も重要な祭り・・ニヒナメの祭り(新嘗祭)・・・、「新穀収穫感謝祭」へと結びついてゆくことになる。
このニヒナメの祭りは、持統天皇(645~702)の大嘗祭(律令で制度化された初の大嘗祭)が冬至に行われている事からみて、「冬至祭」としての役割もあったようだ。もともと宮中での新嘗祭は、古来、11月の中の卯の日(太陰暦)に執り行われていた。それが太陽暦に切り替わったのち1873年(明治6年)、11月23日(卯の日)に行われて以来、この日が新嘗祭の日となったが、太陰暦11月中卯日は、ほぼ冬至の前後にあたっている。そのためこの日は最も日照時間の短い(=太陽の活力が最も衰えた)日であり、、忌み篭った果てに新穀を神と共にいただく事により、太陽の復活にあやかり、生命のよみがえりをはかった。それがニヒナメのもうひとつの意義であるらしい。つまり新嘗祭とは、収穫祭と冬至行事(≒復活祭)とが結合した祭りと言えるようだ。日照時間のサイクルと農耕のサイクル。冬至から春へ、夜から朝へ、闇から光への転換の象徴的体験。厳粛な物忌みを守り、人は一時的に死ぬ。そして神饌を共食する事により、神と一体になり、新たな生命力を得る・・・農業民族にとって一年で最も大切な儀礼であったのである。古代では皇室ばかりでなく各氏族の家々でも行っていた。この儀礼を天皇自らが行う儀礼が新嘗祭であり、「新天皇が初めて司式する新嘗祭」が大嘗祭なのである。
日本書紀で、稲は天照大神(アマテラスおおみかみ)が高天原に所御(きこしめ)す斎庭(ゆには)の穂を、孫の瓊瓊杵尊(邇邇芸命=ニニギのみこと)に授けて,この国にもたらさせたということになっている(天孫降臨)。そして、イネの生い茂る豊かな国として、日本は豊葦原の瑞穂国となったというのである。つまり、稲種は年の始め歳神=ニニギが、天照大神=日神=ムスヒ(生産霊)から授かったものを土地に播種して成熟させるというものである。それゆえ、ムスヒから派遣された稲種は首長の手を経て授かるものと考えられ,今にその習俗を伝えているところがある。それは稲穂が渡来し,天つ神からの授りもの,首長から与えられるという意識を生み,収穫感謝祭が変貌し新嘗祭の色彩を濃厚にしていったと考えられる。
新嘗祭では、天皇はニニギノミコトの役割を演ずる。そして「斎庭の穂」でつくられた神聖なる食事を食べる。それによって、高天原(天上)の神の力を身につけ、そして地上に繁栄をもたらす、という宗教的意義がある。そして、この新嘗祭のうち、天皇が即位してから最初に行う大嘗祭の儀式を済ませることによって、その天皇は天皇としての資格を身に付け、実質的に即位したことになっていた。だから、皇位の継承があったときは、必ず挙行すべき、皇位継承に伴う一世に一度の重要な儀式であった。
しかし、日本の新憲法下のもとに再編成された「皇室典範」においては、即位の儀礼としては「即位の礼」のみが認めら、大嘗祭に関する規定などはどこにもない。それでは、今上陛下の即位はどのようにして行われたか・・・。「平成2年に挙行された大嘗祭についての考え方(政府の説明)」は以下のとおりとなっている。
大嘗祭の意義
「大嘗祭は、稲作農業を中心とした我が国の社会に古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたものであり、天応が即位後、大嘗祭において、新穀を皇祖及び天神地祇にお供えになって、みずからお召し上がりになり、皇祖及び天神地祇に対し安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに、国家・国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される儀式である。それは、皇位継承があったときは、必ず挙行すべきものとされ、皇室の長い伝統を受け継いだ、皇位継承に伴う一世一度の重要な儀式である。」として、
大嘗祭の儀式の位置付けは、
「大嘗祭は、前記のとおり、収穫儀礼に根ざしたものであり、伝統的皇位継承儀式という性格を持つものであるが、その中核は、天皇が皇祖及び天神地祇に対し、安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに、国家国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される儀式であり、この趣旨・形式等からして、宗教上の儀式としての性格を有すると見られることは否定することができず、また、その態様においても、国がそのないように立ち入ることはなじまない性格の儀式であるから、大嘗祭を国事行為として行うことは困難で有ると考える。・・・とするも、大嘗祭は、「公的性格」を持ちその費用を「宮廷費から支出することが相当である」……との見解を示している。
そして昭和64年1月7日「剣璽等承継の儀」、平成元年1月9日「即位後朝見の儀」、平成2年11月12日「即位礼正殿の儀」「祝賀御列の儀」「饗宴の儀」など一連の「即位の礼」は、”国事行為”として行われ、11月22・23日「大嘗宮の儀」、11月24・25日「大饗の儀」については、”皇室の行事”として行われている。
戦後、新嘗祭自体は伊勢神宮及びそれに連なる神社の祭儀となり、伊勢神宮には天皇の勅使が遣わされて、大御饌(おおみけ:神が召し上がる食事)を供える形式となった。又、天皇は、神から人になったが、その人間天皇も、大嘗祭の儀式を行い、天から天王としての資格が与えられないと真の天皇となりえないのか・・・?。複雑な問題ではある。
(画像は東山天皇貞享4年(1687年)11月再興の儀を写したもの。右がユキ殿、左がスキ殿で。池辺義象・今泉定共編「御大礼図譜のもの・・・週刊朝日百科「日本の歴史」より)
参考:
新嘗祭 にいなめさい
http://www.tabiken.com/history/doc/N/N321L100.HTM
天孫降臨について
http://www.ffortune.net/spirit/zinzya/sinwa/korin.htm
日本書紀を読んで古事記神話を笑う
http://www3.point.ne.jp/~ama/index.html
伊勢神宮
http://www.isejingu.or.jp/maturi/maturi2.htm
[PDF] 皇位の継承に係わる儀式等(大嘗祭を中心に)について
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai8/8siryou3.pdf
勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう国民の祝日。1948(昭和23)年公布・施行の「祝日法」で制定。戦前の「新嘗祭」の日をそのまま「勤労感謝の日」に改めた。
「新嘗祭」って、知ってますか?とりあえず広辞苑に記されている説明をを見てみよう。広辞苑には、
にいなめさい【新嘗祭】 (しんじょうさいとも)天皇が新穀を天神地祇にすすめ、また、親しくこれを食する祭儀。古くは陰暦11月の中の卯の日に行われた。近時は11月23日に行われ、祭日の一とされたが、現制ではこの日を「勤労感謝の日」として国民の祝日に加えた。天皇の即位後に初めて行うものを大嘗祭という。にいなめまつり。しんじょうさい。【新嘗】ニヒナヘ(新饗)の転化か。
だいじょうさい【大嘗祭】 天皇が即位後、初めて行う新嘗祭。その年の新穀を以って自ら天照大神および天神地祇を祀る、大礼で神事で最大のもの。祭場を二ヵ所に設け、東(左)を悠紀(ゆき)、西(右)を主基(すき)といい、神饌の穀はあらかじめ悠紀と主基とに卜定せられた国郡から奉らせ、当日、天皇は先ず悠紀殿、次に主基殿で、神事を行う。おおなめまつり。おおにえまつり。おおんべのまつり。・・・とある。
新嘗祭がいつ頃から行われていたのかは必ずしもはっきりしないが、日本書紀で皇極天皇元年(642年)の11月16日に新嘗祭の記述があるのが文献に出てくる最初だそうだ。
少し歴史的に振り返って見ると、村々では、古くから作物の収穫が行われ、これをニヘナヘ(ニヘノアヘ・新嘗)といっていた。そこでは、収穫物の一部が初穂として首長に貢納され、共同体の代表者である首長と共同体成員の関係が年毎に更(あらた)めて確認されたのであった。この儀礼が宮廷に取り入れられ、天子がその年の初穂を祖神に供えて共食する新嘗祭が旧暦11月中の卯(なかのう)の日に行われていた。この祭式を即位したばかりの天子が一世一度の大祭として始めて挙行するのが大嘗祭であり、天武天皇(631年? ~686年)の時代からそれほど下らない時期に制度化されて、何度かの中絶はあっても現在まで続いて行われている。11月に行われるのは、村々の霜月際と同様に、物忌みの期間を設けて冬至をめぐる季節の復活儀礼と連動させるためであったようだ。
日本の暦で10月は「神無月」つまり、日本中の神々が出雲の国に出かけてしまい神の加護がえられない月だから、日本中一切の神事が行われず、人々は慎み深い生活をすべきとされていた物忌みの期間である。そして、神々の帰って来る11月はおのずと祭りの行われる月になり、この時期が農業での収穫の時期でもあることから、最も重要な祭り・・ニヒナメの祭り(新嘗祭)・・・、「新穀収穫感謝祭」へと結びついてゆくことになる。
このニヒナメの祭りは、持統天皇(645~702)の大嘗祭(律令で制度化された初の大嘗祭)が冬至に行われている事からみて、「冬至祭」としての役割もあったようだ。もともと宮中での新嘗祭は、古来、11月の中の卯の日(太陰暦)に執り行われていた。それが太陽暦に切り替わったのち1873年(明治6年)、11月23日(卯の日)に行われて以来、この日が新嘗祭の日となったが、太陰暦11月中卯日は、ほぼ冬至の前後にあたっている。そのためこの日は最も日照時間の短い(=太陽の活力が最も衰えた)日であり、、忌み篭った果てに新穀を神と共にいただく事により、太陽の復活にあやかり、生命のよみがえりをはかった。それがニヒナメのもうひとつの意義であるらしい。つまり新嘗祭とは、収穫祭と冬至行事(≒復活祭)とが結合した祭りと言えるようだ。日照時間のサイクルと農耕のサイクル。冬至から春へ、夜から朝へ、闇から光への転換の象徴的体験。厳粛な物忌みを守り、人は一時的に死ぬ。そして神饌を共食する事により、神と一体になり、新たな生命力を得る・・・農業民族にとって一年で最も大切な儀礼であったのである。古代では皇室ばかりでなく各氏族の家々でも行っていた。この儀礼を天皇自らが行う儀礼が新嘗祭であり、「新天皇が初めて司式する新嘗祭」が大嘗祭なのである。
日本書紀で、稲は天照大神(アマテラスおおみかみ)が高天原に所御(きこしめ)す斎庭(ゆには)の穂を、孫の瓊瓊杵尊(邇邇芸命=ニニギのみこと)に授けて,この国にもたらさせたということになっている(天孫降臨)。そして、イネの生い茂る豊かな国として、日本は豊葦原の瑞穂国となったというのである。つまり、稲種は年の始め歳神=ニニギが、天照大神=日神=ムスヒ(生産霊)から授かったものを土地に播種して成熟させるというものである。それゆえ、ムスヒから派遣された稲種は首長の手を経て授かるものと考えられ,今にその習俗を伝えているところがある。それは稲穂が渡来し,天つ神からの授りもの,首長から与えられるという意識を生み,収穫感謝祭が変貌し新嘗祭の色彩を濃厚にしていったと考えられる。
新嘗祭では、天皇はニニギノミコトの役割を演ずる。そして「斎庭の穂」でつくられた神聖なる食事を食べる。それによって、高天原(天上)の神の力を身につけ、そして地上に繁栄をもたらす、という宗教的意義がある。そして、この新嘗祭のうち、天皇が即位してから最初に行う大嘗祭の儀式を済ませることによって、その天皇は天皇としての資格を身に付け、実質的に即位したことになっていた。だから、皇位の継承があったときは、必ず挙行すべき、皇位継承に伴う一世に一度の重要な儀式であった。
しかし、日本の新憲法下のもとに再編成された「皇室典範」においては、即位の儀礼としては「即位の礼」のみが認めら、大嘗祭に関する規定などはどこにもない。それでは、今上陛下の即位はどのようにして行われたか・・・。「平成2年に挙行された大嘗祭についての考え方(政府の説明)」は以下のとおりとなっている。
大嘗祭の意義
「大嘗祭は、稲作農業を中心とした我が国の社会に古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたものであり、天応が即位後、大嘗祭において、新穀を皇祖及び天神地祇にお供えになって、みずからお召し上がりになり、皇祖及び天神地祇に対し安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに、国家・国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される儀式である。それは、皇位継承があったときは、必ず挙行すべきものとされ、皇室の長い伝統を受け継いだ、皇位継承に伴う一世一度の重要な儀式である。」として、
大嘗祭の儀式の位置付けは、
「大嘗祭は、前記のとおり、収穫儀礼に根ざしたものであり、伝統的皇位継承儀式という性格を持つものであるが、その中核は、天皇が皇祖及び天神地祇に対し、安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに、国家国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される儀式であり、この趣旨・形式等からして、宗教上の儀式としての性格を有すると見られることは否定することができず、また、その態様においても、国がそのないように立ち入ることはなじまない性格の儀式であるから、大嘗祭を国事行為として行うことは困難で有ると考える。・・・とするも、大嘗祭は、「公的性格」を持ちその費用を「宮廷費から支出することが相当である」……との見解を示している。
そして昭和64年1月7日「剣璽等承継の儀」、平成元年1月9日「即位後朝見の儀」、平成2年11月12日「即位礼正殿の儀」「祝賀御列の儀」「饗宴の儀」など一連の「即位の礼」は、”国事行為”として行われ、11月22・23日「大嘗宮の儀」、11月24・25日「大饗の儀」については、”皇室の行事”として行われている。
戦後、新嘗祭自体は伊勢神宮及びそれに連なる神社の祭儀となり、伊勢神宮には天皇の勅使が遣わされて、大御饌(おおみけ:神が召し上がる食事)を供える形式となった。又、天皇は、神から人になったが、その人間天皇も、大嘗祭の儀式を行い、天から天王としての資格が与えられないと真の天皇となりえないのか・・・?。複雑な問題ではある。
(画像は東山天皇貞享4年(1687年)11月再興の儀を写したもの。右がユキ殿、左がスキ殿で。池辺義象・今泉定共編「御大礼図譜のもの・・・週刊朝日百科「日本の歴史」より)
参考:
新嘗祭 にいなめさい
http://www.tabiken.com/history/doc/N/N321L100.HTM
天孫降臨について
http://www.ffortune.net/spirit/zinzya/sinwa/korin.htm
日本書紀を読んで古事記神話を笑う
http://www3.point.ne.jp/~ama/index.html
伊勢神宮
http://www.isejingu.or.jp/maturi/maturi2.htm
[PDF] 皇位の継承に係わる儀式等(大嘗祭を中心に)について
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai8/8siryou3.pdf