今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

クーベルタン男爵がオリンピックの復活を提唱した日(2-1)

2014-11-25 | 歴史
1892(明治25)年の今日・11月25日は、 クーベルタン男爵オリンピックの復活を提唱した日である。

4年に一度、世界の人々を熱狂させる平和の祭典オリンピック第32回夏季オリンピック)が2020(平成32)年7月24日〜8月9日まで、日本の東京都で開催される
ことが、昨・2013(平成25)年9月7日(現地時間)にブエノスアイレス(アルゼンチン)で行われた第125次IOC総会で決まった。
アジアで開催される夏季オリンピックは北京オリンピック(2008年)以来12年(3大会ぶり)4回目、東京での開催は前回の東京オリンピック(1964年)以来56年ぶり2回目であり、アジア初の同一都市による複数回開催となる。なお、日本でのオリンピック開催は夏季・冬季通じると、冬季開催となった長野オリンピック(1998年)以来、22年ぶり4回目にあたる。
今回、東京都は、第125次IOC総会に日本政府関係者や招致委員会関係者、日本オリンピック委員会(JOC)や各競技団体の関係者らを大量動員し、精力的なロビー活動を行った。
政府からは岸田文雄外務大臣や下村博文文部科学大臣、森喜朗元首相らが現地入りし、現地時間9月6日にはサンクトペテルブルク(ロシア)でのG20を途中で切り上げた安倍晋三内閣総理大臣も現地入りした。また、9月7日の最終プレゼンテーションでは招致委関係者や安倍首相に加えて、皇室から憲仁親王妃久子様が参加して招致演説前にフランス語と英語で計4分半のスピーチを行っている。
日本の皇族がIOC総会に出席したのは今回が初めてである。総会に出席しながら五輪招致活動には関わらないという微妙な立場での「東日本大震災の復興支援への謝意を伝える」スピーチの内容は、久子さま自らが直接まとめられたという。コラムニストの勝家誠彦氏は2020年五輪が東京に決定した最大勝因はIOCの委員にも数多くお会いされたらしいという高円宮久子様にあると語っている。
また、フリーアナウンサーの滝川クリステルがスピーチで発した「お・も・て・な・し」という言葉が話題にもなったが、この言葉は同年の新語・流行語大賞を受賞した。
以下のYouTubで高円宮妃久子様のスピーチ他、滝川クリステル、当時の猪瀬直樹東京都知事のスピーチや、勝家誠彦の談話などが聞ける。

高円宮妃久子さま IOC総会で復興支援に感謝の言葉-YouTube

兎にも角にも、多くの人の努力によって、2020年東京オリンピックの開催が決まった今の日本では、アスリートの多くがこのオリンピックへの参加を目指して頑張っており、活躍してくれるだろうから、私もその日がくるのを楽しみにしているのだが、今から6年後と云うと、私も平均寿命を超える年齢になるので、無事オリンピックが観られるかどうかは微妙なところではある。

さて、現代、国際オリンピック委員会(英:IOC)によって開催されている世界的なスポーツ大会であるオリンピック(近代オリンピック)は、何時から始まったのか・・・。それは、1896(明治29)年に、ギリシャアテネで開催されたのが始まりである(アテネオリンピック 第1回)。
しかし、そのずっと昔、ギリシャのペロポネソス半島西部にあった古代ギリシアエーリス地方、オリュンピアで、4年に1回、ギリシャ全土から選手が集まる当時最大級の競技会であり、祭典があった。
この祭典は「オリュンピア大祭」また「オリュンピア祭典競技」とも呼ばれていた。いわゆる古代オリンピックといわれるものである。
オリュンピア(オリンピア)の名は、オリュンポス十二神の主神ゼウス([Zeus]英語名:ジュピター[Jupiter]。ラテン語名:ユピテル[Jupiter])が、他の11の神々とともに君臨していたギリシアの最高峰であるオリュンピア(オリンポス)山にちなんだものである。古代オリンピックが行われた場所オリュンピア(以下オリンピアと書く)には、現在も数多くの遺跡が存在し、1989年に、世界遺産に登録されている(ギリシャの世界遺産のオリンピアの考古遺跡 参照)。 
以下参考に記載の、Wikipediaの「オリンピック関連年表」や※1:「日本オリンピック委員会」その他のサイト等を参照しながら今日は、ちょっと、オリンピックの歴史を振り返ってみよう。

オリュンピアは、紀元前10世紀ごろにはギリシャ神話の全能の神ゼウスの聖地として栄えたとされている町であり、ペロポネソス半島の西、のどかな緑が広がるクロノスの丘の麓に静かに息づき、オリンピアの遺跡の真中には「ゼウス神殿」があるが、現在、ゼウス像はなく、神殿跡には基壇と倒れた円柱が残るのみとなっている(※2:「ギリシャ周遊 オリンピア」でその風景が見られる)。
しかし、オリンピックの聖火は、今もなお、古代オリンピックが行われていたギリシアのオリンピアにおけるヘーラー(ゼウスの妻)の神殿跡において採火(点火)され開催地へと運ばれている(ここ参照)。

古代オリンピックが始まったのは、考古学的な研究によって紀元前9世紀ごろとされており、以後、紀元後4世紀にかけて行われていた。
現代行われている近代オリンピックは世界平和を究極の目的としたスポーツの祭典(オリンピック・ムーブメント参照)であるが、古代オリンピックはギリシアを中心にしたヘレニズム文化圏の宗教行事であった。つまり、全能の神ゼウスをはじめ多くの神々を崇めるための、神域における体育や芸術の競技祭だったのである。
オリンピアで行われる「オリンピア大祭」は、古代ギリシアにおける四大競技大祭のうちの一つであり、当時のギリシアには、このオリンピアで行われていた「オリンピア大祭」(祭神:ゼウス).の他に、ネメアー で開催されるネメアー大祭(祭神:ゼウス)、イストモス(現・イストミア)で開催されるイストモス大祭(祭神:ポセイドン)、デルポイで開催されるピューティア大祭(祭神:アポロン)があり、4年ごとに都市国家(ポリス)がこぞって参加し、競技が行われていたが、このうち、大神であるゼウスに捧げられる「オリュンピア祭」が最も盛大に行われていたのであった。
古代オリンピックで最初に行われたスポーツ競技は、1スタディオン(約191m)のコース を走る「競走」だけであった。オリンピアの聖地には、競走のための「スタディオン」(階段状観覧席)が築かれていた。因みに、階段状観覧席のある競技場をいうスタジアム(英語:stadium)という語はこのスタディオンに由来している。
紀元前776年の第1回大会から紀元前728年の第13回大会まで、古代オリンピックで開かれていたのはこの競走1種目だけであった。1スタディオンはゼウスの足裏600歩分に相当し、ヘラクレスがこの距離を実測したとも伝えられているそうだ。
ゼウスが男神であることから、オリュンピア祭は女人禁制で、参加資格のあるのは、健康で成年のギリシア人男子のみで、奴隷も参加できなかった。そして奉納競技において競技者は不正を防ぐため、全裸で競技をした。以下ここではスポーツ競技についてのみ述べる。
古代オリンピックの競技種目はその後、第1回からの伝統である192メートル(1スタディオン)のスタディオン走(短距離走)のほか、ディアウロス走と呼ばれる中距離走(2スタディオンの距離を走る。現在の400mに相当)、ドリコス走と呼ばれる長距離走(スタディオンの直線路を10往復する競技)、や幅跳び、円盤投げ、槍投、それにこれらを組み合わせたペンタスロンと呼ばれる五種競技(短距離競走、幅跳び、円盤投げ、やり投げに、レスリングを一人で3種目以上を制した者が優勝者)が行われていた。
そして、五種競技の中のレスリングが、紀元前668年の第23回大会から単独の競技として実施されるようになった。立ったままの姿勢から相手を持ち上げて投げる競技で、正しく美しいフォームで投げなくてはならなかった。時間制限はなく、勝敗が決するまでに長い時間がかかる過酷な競技だったようだ。
又、レスリングと同じ大会から、ボクシング(拳闘)も始まった。レスリングと同様に時間 制限もインターバルもなく、たとえ倒されても敗北を認めない限り相手の攻撃は止まらない。さらに体重別の階級はなく、グローブの代わりに敵へのダメージを大きくするための革ひも(のちに金属の鋲まで埋め込まれた)を拳に巻いての殴り合いだったという。.

上掲の画像は、古代ギリシアのボクサー(ヘレニズム期、ローマ国立博物館蔵)拳には革ひもを巻いている。

紀元前680年の第25回大会からは、映画『ベン・ハー』に見られるような48スタディオンの距離で争われる4頭立ての戦車競走が始まった。また、第33回大会(紀元前648年)からは競馬競走も行われていたようだ。こうした競技はスタディオンの南に位置するヒッポドロモス(=ヒッポドローム [hippodrome] ギリシア語の「ウマ」を意味する hippos と「道」を意味する dromos を組み合わせた語。戦車や馬の競技場)で開催されていたらしいが、現在でも未発掘のため詳細はわかっていないようだが、実際には、この競技がオリュンピア祭の由来であるとする説がある。
神話上ではホメロスの長編叙事詩『イリアス』第23歌「パトロクロスの葬送競技」にトロイア戦争で死んだパトロクロスの死を悼むため、アキレウスが行った戦車競走に関する記述がある(詳しくは、参考※3:《イーリアス》のパトロクロスの葬送競技、ヘクトールの遺体引取りを参照)。
このレースの参加者はディオメデスエウメロスアンティロコスメネラオスメリオネスらであったそうだ。

上掲の画像は、4頭立ての戦車(ミュンヘン古代美術博物館蔵、紀元前540年頃)

尚、戦車競走においての、最初の女性優勝者に、スパルタアルキダモス2世の娘キュニスカがおり、紀元前396年および紀元前392年の2度にわたって、自らが所有する戦車で勝利をおさめているらしい。ただ、古代オリンピックでは女性の参加は認められていなかったが、戦車を使った競い合いは戦車の御者ではなく、その所有者(オーナー)が勝者となるルールがあったためこのようなケースが発生したようだ。つまり、競技者の力より、金に物を言わせて作った戦車が優れていたということで、戦車の御者は競技者と認めていなかったわけだ。
このような陸上競技で走ったり、飛んだり、遠くに物を飛ばしたりするのに一番優れていた者を決める事は出来たが、誰が見ても一番強い者を決める事が出来なかったことからだろうか、第33回大会からはレスリングとボクシングを合わせたような競技パンクラティオンという格闘技も加わった。ギリシア語で「パン」とは「すべての」を、「クラティオン」は「力強い」を意味するそうで、素手ならどんな攻撃をしてもよいというルールで、間接技や首を絞めることも許され、ボクシングと同じようにどちらかが敗北を認めない限りは勝負が決することのない熾烈な競技であったようだ。
競技者は腕を上げることでギブアップしたことを示すことができたが、多くの場合ギブアップは一方の競技者の死亡を意味したともいう。ルールは“目潰しと噛み付きの禁止”の2つのみで、指や骨を折る行為も許されていたようだ。そして、当時オリンピックでは、パンクラチオンの優勝者こそ誰もが認める地上最強の
人間として称賛されていたようだ。(パンクラティオンについて、詳しくは。参考※4参照)。

上掲の画像は、パンクラチオン(Pancratium) 紀元前3世紀頃の像。

先にも書いたように、古代オリンピックにはギリシア全土から競技者や観客が参加して、数々のスポーツ競技、芸術競技が行われた。
当時のギリシアでは、いくつかのポリス(都市国家)が戦いを繰り広げていたが、宗教的に大きな意味のあったオリンピアの祭典には、戦争を中断してでも参加しなければならなかった 。これが「聖なる休戦」とも呼ばれているオリンピック停戦であり、ギリシャ語では、エケケイリアといって「手をつなぐ」という意味を持っているそうだ。
古代ギリシャ王、エーリスイフィトス、ピサ(ペロポネソス半島西部のポリス?)のクレオステネス、スパルタリュクルゴスが、当時としては史上最長となる停戦協定であった停戦協定であったオリンピック協定に署名し、後に、これがギリシャの都市国家間で条約として承認された。
この条約により、交戦中の都市も一時戦いを中止して、敵の選手の国内通過を許した。そして、27年にわたったペロポネソス戦争の間も祭典は中止されなかったという(※5参照)。
競技はその後ヘレニズムアレクサンドロス3世([アレキサンダー大王]の死亡[紀元前323年]からプトレマイオス朝エジプトの滅亡[紀元前30年]するまでの約300年間) にも続いたが、紀元前146年、ギリシアはローマ帝国に支配された。
古代オリンピックはギリシア人以外の参加を認めていなかったが、ローマ帝国が支配する地中海全域の国から競技者が参加するようになり、次第に変容を遂げていく。
さらに392年、ローマ皇帝テオドシウス一世がキリスト教をローマ帝国の国教と定めたことで、宗教と民族の純粋性を失って衰微していった古代オリンピックは393年の第293回オリンピック競技大祭開催を最後に、その後、古代オリンピックで使われたスタジアムやゼウス神殿などは、キリスト教以外の神殿を破壊せよという世命令と、オリンピア地方を襲った大地震とによって、大きく破壊されてしまった。
古代オリンピックの火が途絶えて1500年以上たってからそんなオリンピックを、復活させようとした人がいた。それが、近代オリンピックの父と呼ばれているフランスのピエール・ド・クーベルタン男爵だ。
クーベルタンは、1863年1月1日、貴族の家系の三男としてパリに生まれた。彼もそうであったが、当時の貴族の子息の多くが士官学校に学び、ゆくゆくは軍人か官僚、あるいは政治家になることを期待されていたが、その道は彼を満足させるものではなく、次第に教育学に興味を示すようになったという。
というのも、彼が青春時代を送っていた当時のフランスでは、普仏戦争(1870~71)の敗戦を引きずり沈滞ムードが蔓延していた。この状況を打開するには教育を改革するしかない、と考えるに至り、パブリックスクール視察のために渡英し、イギリスの学生たちが積極的に、かつ紳士的にスポーツに取り組む姿を見て感銘を受け、「服従を旨として知識を詰め込むことに偏っていたフランスの教育では、このような青少年は育たない。即刻、スポーツを取り入れた教育改革を推進する必要がある」と確信したという。
そして、その後も彼は、精力的に各国へ足を伸ばし、世界各地を視察、各国の交流に触れて海外からの選手の招聘、交流試合などに携わることで、次第にスポーツが果たしうるもう一つの役割「国際交流」「平和」が見えてきたことから、古代オリンピックの精神を現在に国際的な規模で復活させるという「国際的競技会」構想へと変わっていったようだ。

その背景には、古代オリンピックが廃止になってから約1000年のときを経て、再び古代オリンピックに光が当たり始めていたことがある。
ルネサンスに入って、古代ギリシャへの関心が急速に高まり、古代ギリシャ時代に書かれた文学作品ホメロスの『イーリアス』や、旅行家パウサニアスの『ギリシャ案内記』(160年から176年頃『ギリシア記』とも呼ばれる)には、オリンピアやデルポイの神域に関する記述で、古代オリンピックや「ピューティア大祭」などの競技会の施設や優勝者を記念する彫像などについての逸話も交えての描写がされるようになり、当時の人々が遙か昔の運動競技に思いを馳せるようになった。
そして、現在のオリンピア遺跡(一部)が発見されたのは1766年、イギリスの考古学者リチャード・チャンドラー (Richard Chandler) によってであった。しかし、遺跡の発掘は1829年、フランスによる「モレア探検」 (Morea expedition) まで行われなかったが、この時、フランス発掘隊により、ゼウス神殿の一部が発掘されている。
1870年代以降、ドイツの帝政が開始され、遺跡の保存・発掘はアテネのドイツ考古学研究所によって行われることになり、オリンピア聖域の遺跡の最初の本格的な発掘は、ドイツの考古学者 E. クルティウス(Ernst Curtius)が1852年に行った講演〈オリュンピア〉が口火となり、ドイツ帝国の事業としてドイツ発掘隊により、1875年から1881年にかけて本格的になされた。
これらの発掘の成果は1878年のパリ万博における「オリンピア遺跡」の展示につながり、古代オリンピックの情景は、パリを訪れた多くの人々のまぶたに焼き付けられることになった。
そして、考古的な研究が進むにつれ、「オリンピック」という名をつけたイベントが、ヨーロッパ各地で見られるようになり、例えば、ビートルズで有名なイギリスのリバプールで開かれた「リバプール・オリンピック」(その後1863、1864、1866、1867)や1866年にも開催)などがある。
このようなイベントの中には、近代オリンピックに影響を与えたものもある。1850年にイギリスのマッチ・ウェンロックで始まったオリンピック競技祭「マッチウェンロック・オリンピック」(その後、1867, 1868, 1874, 1877, 1883年)と、1859 年、アテネでの「オリンピア競技祭」(その後、1870,1875,1889年にも開催)である。
1832 年にオスマン帝国,(トルコ)からの独立を果たした近代ギリシャ(ギリシャ独立戦争参照)において、行われた1859年の大会は、独立記念としのて第1回復活オリンピック大会であり、国家の産業を振興させるという目的で,産業博覧会と運動競技を合わせたオリンピア競技会を開催したようだが、その後の1870年には、運動競技中心のオリンピア競技祭へ移行している。
近代オリンピックの創始者クーベルタンは1890年にマッチ・ウェンロックを訪れて、古代オリンピアの香り漂う競技祭を楽しみ、このとき、主催者であるブルックス博士から、後に近代オリンピックに取り入れることになった大会の国際化や開催都市の持ち回り、芸術競技の実施というアイディアを聞かされたようだ。一方、1859、1870、1875、1889年にアテネで開催された「オリンピア競技祭」と、1891、1893年に開催され「全ギリシャ競技会」は、第1回近代オリンピック大会のアテネ開催(1896)を受け入れる土台となった。 (※6、参照)。

そして、クーベルタン男爵が、パリ・ソルボンヌ大学での講演で、近代オリンピックの復活を提唱したのが、1892(明治25)年の今日・11月25日のことであった。
この講演の中で近代オリンピック復興に関する構想を始めて公表し、オリンピック競技大会復興の支持と協力を要請したが、この時は、あまり協力が得られずオリンピック復活の最初の呼びかけは失敗に終わった。クーベルタンは1893年アメリカで開催されていたシカゴ万国博覧会を見学し、この行事の一環として開かれた世界大会オーグジリアリ(“auxiliary” 補助の)は224の会議を実施 した(※7参照)というが、そのうちの一つである教育会議に出席し、オリンピックの理念を宣伝してまわり支持を得ることができたという。
そして、1894(明治27)年6月23日、パリの万国博覧会に際して開かれたスポーツ競技者連合の会議が開催され、その席上で、オリンピック大会の復興が満場一致で可決された。唯一クーベルタン男爵の構想が外れたのは、近代オリンピックのスタートは1900年のパリからだった構想が第1回大会開催まで6年も待つのは長すぎるという声が高まってきたため、第1回近代オリンピックの栄誉を、ギリシャへ譲るという形になり、それが満場一致で決まったことだという。
オリンピック開催が決まると同時に次のことが会議で決定した(※8参照 )
1)1896年をもって近代オリンピアードの第1年とする。
2)古代の伝統に従い大会は4年ごとに開催する。また大会は世界各国の大都市で持ち回り開催とする。
3) 競技種目は近代スポーツに限る。
4)第1回大会の一切は、クーベルタンおよびビケラス(IOC初代会長)に一任する。
5) オリンピック大会開催に関する最高権威を持つ国際オリンピック委員会(IOC=International Olympic Committee)を設立する。・・・など。
近代オリンピックの基礎となる事柄が決定され、これを記念して、後にIOCはこの日を「オリンピックデー」として推奨。日本では1949(昭和24)年から様々な記念式典や行事が行われている。

上掲の画像は、第1回オリンピック競技大会のポスター。

近代五輪最初の大会として開催されたこの第1回オリンピック大会は、資金集めに苦労し、会期も4月6日から4月15日まで(当時のギリシャのユリウス暦では3月25日から4月3日まで)の10日間と短かった。又、参加者は古代オリンピック同様男子のみであった(女子の参加は第2回オリンピック以降になる)。
実施競技は、・陸上競技・競泳競技(実施場所・ゼーア湾)、・体操、・ウエイトリフティング(体操の種目)、・レスリング(グレコローマンスタイルのみ)、。フェンシング、・射撃、・自転車、・テニスであった。
この大会陸上競技では12種目中、9種目でアメリカ選手が優勝、100mの予選では、全てのレースでアメリカ選手が1位になった。他の国の選手がスタンディングスタートであるのに対して、クラウチングスタートをしていたためだといわれている。100mで優勝したトーマス・バークのクラウチング・スタートは各国選手の注目を集めたという。
陸上競技短・中距離走では優勝者を出せなかったギリシャは、大会最終日の、古戦場から競技場までのコースでおこなわれたマラトン(マラソン)で、無名の牧夫であるスピリドン・ルイスが優勝している。最後の200mでは、大喜びのコンスタンティノス皇太子、ジョージ親王(ゲオルギオス1世、ギリシャ王)が伴走したという(アテネオリンピック (1896年) における陸上競技参照)。
競泳競技(ここ参照)は、水夫のための100m自由形1種目のみで、競技の場所は港(ゼーア湾)の海面であった。第2回パリ大会はセーヌ川、第3回セントルイス大会は人工湖が舞台となった。初めてプールが作られたのは、1908年の第4回ロンドン大会で、しかもプールの長さは今の倍の100で、メーンスタジアムのフィールド内に設置されていた。1 00メートル種目では、まさに陸上のごとく、一直線のコース上で火花が散らされた。今のような50 メートルプールで行われるようになったのは、1924 年の第8回パリ大会からだという(※9参照)。
古代オリンピックでは、パンクラチオンこそオリンピックを代表する競技であり、優勝者は民族の誇りだったが、第1回大会からレスリング、1904年セントルイスオリンピックからボクシングが正式種目として実施されているが、パンクラチオンは危険だという事と国際連盟が存在しなかった事等が理由でいまだに実施されていないが、こんな危険な競技はオリンピック種目としては難しいのだろう。競技のことについては、※1の競技紹介参照されたい。ここではこれ以上のことは省略する。
各国の獲得メダル数は、1位アメリカ合衆国 金11 銀7 銅2 計20個。2位2ギリシャ(開催国)金10、 銀17 、 銅19、計46個、3位ドイツ 金6 、銀 5、銅2  計13個の順だったそうだ。開催国としてメダル総数では1位アメリカの倍以上獲得しており、面目を保っている。
尚、財政事情により、第1回オリンピックでは金メダルは無く、優勝者には銀メダル、第2位の選手には銅メダルが贈られ、第3位の選手には賞状が授与されたという。又、当時は国家単位ではなく個人名義による自由出場だったため、国混合チームが出場していたそうだ。
そして、先にも書いたように、1859年のアテネでの「オリンピア競技祭」は、独立記念としのて第1回復活オリンピック大会であり、国家の産業を振興させるという目的で,産業博覧会と運動競技を合わせたオリンピア競技会を開催していたが、その後の1870年には、運動競技中心のオリンピア競技祭への移行をしているが、これは、近代国際オリンピック競技会においても同じような経過を辿っている。
それでも両者は,芸術的成果への尊敬を忘れなかったようだ。ギリシャでは,1870年の第2回オリンピア競技祭で,産業製品競技の一部として芸術競技が行われ、近代国際オリンピック競技会も,1912年の第5回オリンピック競技会(ストックホルムオリンピック)から芸術競技が導入された。その中身は、絵画,彫刻,建築,音楽などであり、奇しくも同じ内容であったという。
古代オリンピックは神を讃えるという信仰的要素が強いものであり、その点で、スポーツは強く美しい肉体で神を表現することから生まれたものであり、芸術表現も同じく神を表現する一手段であった。また、近代オリンピックにおいてもその理念として「肉体と精神の向上の場」が掲げられており、クーベルタン男爵の希望もあり芸術競技が採用された。
ただ、1948年のロンドンオリンピックまで合計7回の大会で正式競技として実施されたが、以降、正式競技から外れるが、芸術作品について客観的な基準をもって採点を行うことが困難であり、しばしば恣意的な判定があったのではないかとの批判が生じたことが理由とされているようだ。
しかし、このような批判は現在においてもフィギュアスケート、シンクロナイズドスイミング等の芸術的要素が重視される競技においても同様であり、近代オリンピックが「世界的な祭典」からより純粋にトップアスリートの競技の場として変貌していくなかでそぎ落とされたものともいえるようだ。

クーベルタン男爵がオリンピックの復活を提唱した日(2-2完)

クーベルタン男爵がオリンピックの復活を提唱した日(参考)

クーベルタン男爵がオリンピックの復活を提唱した日(2-2完)

2014-11-25 | 歴史
1896年ギリシャ・アテネで開催された第1回オリンピックは、期間は、短かったものの大成功に終わった。しかし、1900年のパリ大会・1904年のセントルイス大会は、同時期に開催された万国博覧会の附属大会に成り下がってしまい、賞金つきの競技(1900年パリ大会)、キセルマラソンの発覚(1904年セントルイス)など大会運営にも不手際が目立った(※10:「ロンドン五輪特集:大会で振り返る五輪のニュース」参照)が、1908年のロンドン大会、1912年のストックホルム大会から本来のオリンピック大会としての体制が整いだした。
この1912年5月からのスウェーデンでの第5回ストックホルム大会は、日本が初めてオリンピックに参加した大会であった。
1909年の春、講道館柔道の創始者嘉納治五郎は、突然近代オリンピックの創設者クーベルタン男爵より、東洋初の国際オリンピック委員になり、日本もオリンピックに参加してくれないか・・・という要請を受けた。
オリンピックのスポーツを通して世界平和に貢献する精神に共鳴した加納は、第12回オリンピック大会をしようと尽力することになる。彼は1882(明治15)年に講道館柔道を創始していた。そのころ世界的スポーツの祭典としてアテネで第1回オリンピック大会を開催したクーベルタンの精神は、柔道を普及し、国民体育の向上を根ざす加納の届き、加納は国際オリンピック委員を引き受けた。そこで、加納は、日本最初の体育団体である大日本体育協会(現:日本体育協会)を設立(1911年)して、翌・第1912年の第5回ストックホルム大会に参加したのであった。
この大会には28の国と地域から2490人の選手が参加。15競技108種目が行われた。
日本の出場選手は、共に陸上競技で短距離の三島弥彦とマラソンの金栗四三のわずか2名であった。行列人数が非常に少なく蕭条(しょうじょう。ひっそりとしてもの寂しいさま)の観があったが、かえって群集の同情をひいた・・・・と、日本人記者は報じていたという。
三島は当日午後短距離予選に出場したが、最初の100m予選でいきなりトップに1秒以上の差をつけられ敗退。つづく200m予選は英米独3選手に敗れ最下位。400m予選は100m、200mで金メダルを取ったラルフ・クレイグ(アメリカ)が他選手に謙譲して棄権したこともあり、見事準決勝進出の権利を得たが、「右足の痛み激しきが為」棄権してしまったという。近年の資料では「精神的肉体的困憊のため」あるいは「勝機無しと見たため」を理由に掲げるものの方が多いそうだ。
一方の金栗は10000mを棄権してマラソンに出場。レース途中で日射病で意識を失って倒れ、近くの農家で介抱された。その農家で目を覚ましたのは、既に競技も終わった翌日の朝であったという。
1967(昭和42)年、ストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典が開催されたが、開催に当たって、当時の記録を調べていたスウェーデンのオリンピック委員会が、陸上競技の男子マラソンにおいて金栗が「(棄権の意思が運営者側に届いていなかったため)競技中に失踪し行方不明」となっていることに気付いた。このため、オリンピック委員会は金栗を記念式典でゴールさせることにし、金栗を式典に招待。招待を受けた金栗はストックホルムへ赴き、競技場内に用意されたゴールテープを切った。ゴールの瞬間、場内には「只今のタイムは54年8ヶ月6日5時間32分20秒3、これで第5回ストックホルム大会は総ての競技を終了しました」とのアナウンスが響いたという。これに対して、金栗はゴール後のスピーチで「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメントしている。…という。・・・何とも散々な、不名誉な出来事ではある。

話は元に戻るが、1912年のストックホルム大会で、三島 は、金栗の競技が終えると、嘉納団長、金栗と語らって4年後の1916年ベルリン大会での雪辱を誓い、閉会式を待たずに出国、次大会開催国であるドイツに向かった。ここでオリンピック会場などの視察をした後、砲丸や槍などの当時日本ではまだ知られていないスポーツ用品を買い込んで、翌年2月7日に帰国したという。
その1916年ベルリン大会は第一次世界大戦で開催中止となり、8年間の中断期間を経て1920年(大正9年)に、ベルギーで再開された第7回アントワープ大会には、第一次世界大戦の敗戦国であるドイツ、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、トルコは大会に参加することを禁止された。この辺りは、古代オリンピックの精神にそぐわないように思うのだが・・・・。
日本は、2回目の出場となったこのアントワープ大会で、男子テニスのシングルで熊谷一弥が銀メダルを、またダブルスでも熊谷と柏尾誠一郎のペアで銀メダルを獲得。日本人のスポーツ選手として史上初のオリンピック・メダリストを輩出した記念すべきオリンピックになった。
又、このアントワープ大会で初めてオリンピック旗が会場で掲揚され、オリンピック宣誓が行われている。
この大会以降、1924年パリでの2度目となるパリ大会には、選手村の設置・マイクロフォンの使用、第1回冬季大会(フランス・シャモニー大会)の開催(開催の経過は※1のここ参照)があり、1928年アムステルダム大会 より約3週間の開催期間となり、1936年ベルリン大会より聖火リレーが行われるなど、現在のオリンピック大会の基盤となる施策が採用されたが、オリンピックが盛大になり、それを国策に使おうとする指導者も現れ、1936 年のベルリン大会は、ナチス・ドイツの宣伝大会であったと言われている。
尚、この間のオリンピックでの日本の選手の活躍状況を書くと、以下の通りである。
1924年パリ大会では、レスリングフリースタイルのフェザー級で内藤克俊が銅メダルを獲得。日本レスリング史上初のオリンピックメダリストとなった。
1928年アムステルダム大会では、陸上競技・三段跳びで、織田幹雄が、日本人初の金メダリストとなる。また同じ競技に出場した南部忠平も4位に入賞し、人見絹枝が陸上競技・800メートルで銀メダルを獲得している。
1932年大恐慌下で行われたアメリカでの第10回 ロサンゼルス大会は、ヨーロッパから遠隔地だったため、欧州各国からの参加国(37ヶ国)・選手数(1,328人)が激減した。
そうした中、、満州事変の勃発などで国際世論の風当たりの強い日本が192人の大選手団を派遣。悪化するアメリカの対日感情に加えて祖国の期待という重圧。それに耐え選手たちはメダルに挑んだ。その中で、特に大活躍したのが水泳チームであった。
男子競泳で日本勢は金銀銅合わせて12個の、メダルを獲得。
競泳男子では、6種目中400メートル自由形をのぞく5種目を制し金メダルを獲得。背泳ぎでは金銀銅を独占。水泳日本を印象付けた。
陸上競技・男子100メートルで吉岡隆徳が決勝に進出。6位入賞。
陸上競技・三段跳びで南部忠平が15メートル72を跳んで優勝。日本選手が2連覇を果たした。南部は、1931年に走り幅跳びで7m98の世界記録を出していたが、三段跳びは専門外でほとんど練習していなかったというからすごい。
そして、馬術のグランプリ障害飛越競技では、西竹一中佐が金メダルを獲得している。

上掲の画像、向かって左が陸上競技・三段跳びで優勝した南部忠平。右が背泳ぎでメダルを手にした3選手。右から、清川正二(金)、入江稔夫(銀)、河津憲太郎(銅)。画像は『朝日クロニクル週刊20世紀』1931-32年号より。

そして、 ドイツヒトラー総統の開会宣言で始まった1936 年の第11回ベルリン大会では、参加国も49か国、3959人の選手が出場したが、ここでも日本選手は大奮闘。
陸上競技・三段跳びで、田島直人が優勝し日本人がこの種目3連覇を果たす。また、原田正夫が2位に入り、日本人が1、2位を独占。
陸上競技・棒高跳びで、激闘の末、西田修平大江季雄が2、3位に入賞。
当時日本の占領下にあり、日本代表として出場した朝鮮出身の孫基禎がマラソンで優勝。
水泳では、男子競泳で金メダルを3個獲得。200メートル平泳ぎは三段跳びと同じくオリンピック3連覇となる。
又競泳女子200メートル平泳ぎでは前畑秀子による日本女子初の金メダリストとなる。この競技をラジオ中継したNHK・河西三省アナウンサーの「前畑がんばれ!」の絶叫が伝説となっている。その時の感動的な動画が以下で見れる。

前畑秀子 オリンピック女子200m平泳ぎ 1936 - YouTube
 
二・二六事件、中国での排日運動の激化(※11参照)、欧州ではイタリアのエチオピア侵攻(第二次エチオピア戦争参照)、日本にも世界にも覆った苦しい空気が広がる中で、人々は明るいニュースを求め、国際的孤立感から国威の発揚を願っていた。その絶好のはけ口がベルリンオリンピックだった。
「残念ながらナチのプロパガンダは成功を収めたようだ」とアメリカ人ジャーナリストウイリアム・シャイラーの『ベルリン日記』は8月16日の日記に書いた。『ナチはいまだ見なかったほどの贅(ぜい)をつくした大がかりな大会をやったのだが、これが選手たちの非常な好感を呼んだ』(『ベルリン日記』、大久保和郎他訳)ようであり、ナチに批判的な彼も、ベルリンオリンピックの成功は認めざるを得なかったようだ。
この大会で、日本は金メダル6個銀メダル4個銅メダル8個計18個総メダル数で8位の立派な成績を上げている。それにしても、今の日本は、陸上競技では全く精彩がないが、この当時の男性は、外人に負けない身体能力を備えて活躍していたんだよね~。陸上陣はもっと頑張ってほしいね~。

ベルリン大会の次の1940年第12回大会は東京で開催される予定であったがその誘致については嘉納治五郎が努力したしたことは先に簡単に触れた。
ちょうど1940(昭和15)年は、日本の紀元2600年(紀元二千六百年記念行事参照)にあたり、オリンピックを東京で開催しようとの機運が盛り上がっていた。この招致役には長年国際オリンピック委員をしていた嘉納に白羽の矢が当たり1938(昭和13)年エジプトのカイロで開催国決定の会議が開かれ、当時国際連盟を脱退し、日中戦争に突入している日本に反対する国が多かったが、加納は77歳の高齢をおして会議に臨み、英語で堂々と意見を述べた。「日本は今大会の準備が進んでいないが、大国だから必ず成功させる。国民も戦争よりスポーツを通した平和の素晴らしさに気付くと思う」と熱弁をふるい、各国委員も29年間も国際オリンピック委員を務めている嘉納の為にということで、ついに第12回東京大会が決定すると言った経緯があった(『朝日クロニクル週刊20世紀』1938年号)。
嘉納は日本への帰路ヨーロッパやアメリカにお礼を述べ、バンクーバーを出港したが、帰国途中の船上で肺炎のため急逝した。

上掲の画像はIOCカイロ会議で東京大会決定を祝福される嘉納治五郎。

その後、日本も日中戦争でオリンピックどころではなくなり、開催は中止となってしまった。IOCは急遽ヘルシンキを代替え地として開催準備を進めたが、間もなく、ソ連のフィンランド侵攻(冬戦争参照)が始まり、第12回大会は中止となった。
更に、第13回大会はロンドンが開催地として決定したものの、開催地決定からまもなくヒトラーによるポーランド侵攻を引き金に第二次世界大戦がはじまり、再び中止せざるを得なくなった。
戦後の、第14回大会はイギリスのロンドンで開催されたが、第二次世界大戦の責任を問われ、日本とドイツは招待されなかった。日本の競泳には日本大学在学中の古橋広之進橋爪四郎らメダルが確実視されていた強豪揃いであったが出場できなかったのが残念である。
この大会では、ベルリン大会で感動を呼んだ聖火リレーが踏襲され、こののち、1951年のIOC総会で聖火リレーは「オリンピック憲章」に正式に加えられた。
1952年、第15回ヘルシンキ大会(フィンランド)で、日本は16年ぶりにオリンピック参加をするが、金メダルはレスリングのフリースタイル・バンタム級で石井庄八が獲得したものが唯一であるが、そのほかでは、レスリングフリースタイルフライ級で銀、男子体操、徒手と跳馬で、銀と銅、水泳では競泳男子100m自由形、1500m自由形、800m自由形リレーでそれぞれ銀メダルを獲得している。33回も世界記録を更新して期待されていた水泳の古橋廣之進は400メートル自由形決勝で無念の8位となっている。第14回ロンドン大会に出られなかったことは、本当に悔しかったことだろう。
初めて南半球でオリンピックが開催されることとなった1956年の第16回 メルボルン大会(オーストラリア)は、3つの国際情勢(・イギリスとフランスが関与したスエズ動乱に抗議する国、・ソ連によるハンガリー侵攻への抗議国、・中華民国の参加に抗議する中華人民共和国)によりボイコットする国々が相次いだことにより、参加国、選手数が減少した。
日本は、この大会で、競泳男子200m平泳ぎの古川勝、体操男子鉄棒小野喬、レスリングフリースタイルウエルター級池田三男,同フェザー級笹原正三が4個の金メダルを獲得。銀メダルは、レスリングフリースタイルライト級、水泳では男子競泳200平泳ぎ、バタフライ、400、1500の自由形、男子体操では平行棒、あん馬、徒手、個人総合、団体総合などで10個、銅メダルは、男子体操でつり輪、平行棒鉄棒などで5個、計19個のメダルを獲得。水泳、体操陣が大活躍、した。
1960年、第17回 ローマ大会(イタリア)では、マラソンで、まだ無名だったエチオピアのアベベ・ビキラがはだしのまま石畳のコースを走り抜き優勝を飾り、脚光を浴びた。
日本は16競技に219人(選手167人、役員52人)の大選手団を送るが、男子体操では、団体総合の金メダルを獲得するなどで、金メダル4個、銀メダル7個、銅メダル7個の合計18個を獲得。次の東京大会へ向けて、選手強化面で課題を残した。

残念ながらも、1940(昭和15)年の夏季大会の開催権を返上した東京は、1954(昭和29)年に1960(昭和35)年夏季大会開催地に立候補したが、翌1955(昭和30)年の第50次IOC総会における投票でローマに敗れた。次に1964(昭和39)年夏季大会開催地に立候補し、1959(昭和34)年5月26日に西ドイツのミュンヘンにて開催された第55次IOC総会において欧米の3都市を破り開催地に選出された。

そして、 待ちに待った第18回東京大会が1964年10月10日に開催された(~24日まで)。
アジアで初めて行われる人類最大のイベントに日本中が興奮した。
「第18回近代オリンピアードを祝い、ここにオリンピック東京大会の開会を宣言します」10月10日、大会名誉総裁昭和天皇の声が7万5000の観衆が見守る国立競技場に響き渡った。戦争で消えた幻の東京大会から24年・・・。日本が世界に認められた、そんな気がした瞬間であった。
東京オリンピックにかける日本人の熱意と努力はすさまじかった。国立競技場の拡張、オリンピックプールをはじめ各競技施設、選手村の新設。高速道路の建設や、路面電車の撤去。東京の市街は瞬く間に姿を変えた。
戦後の復興を遂げた日本の国力示威の格好のスター東海道新幹線まで五輪関連施設に含まれ、総費用は1兆8000億円とされている。1964年度の国の一般会計予算が3兆4000億円だから,まさに、国力を傾けての大イベントであった。新幹線の東京―新大阪の開業は10月1日。すべてをオリンピックに向けてひた走ってきたのである。
参加国・選手数も93の国と地域から5,152人が参加。競技種目、参加国、会場の規模ともにすべて新記録である。
この大会で、柔道とバレーボールが正式種目に加わり、実施競技種目数は、20競技163種目となり、世界新記録41、オリンピック新記録365が飛び出した。
競技では様々なドラマが展開されたが、日本人の大会初の金メダリストはウエートリフティング・フェザー級の三宅義信だった。
階級別に行われた柔道で、日本は3階級を制覇した。しかし無差別級ではオランダのアントン・ヘーシンクが日本代表の神永昭夫を制して優勝し、日本の4階級制覇を阻んだ。
この試合、ヘーシンクが神永に勝利した瞬間、会場の日本武道館は信じられないものを見たような静けさに包まれた。敗れて居住まいを正す神永は、顔面蒼白になって泣いているようにも見えたが、この時、オランダ関係者が歓喜のあまり畳の上に土足で上がり駆け寄ろうとしたところ、ヘーシンクはこれを手で制止して試合場まで上らせなかった。
ヘーシンクは、日本の講道館や天理大学で指導を受け、選手としての才能を開花させた。この頃、毎年2ヶ月ほど日本に滞在しトレーニングに励んでいたという。彼のこの時の試合での行動は「礼に始まり礼に終わる」という講道館柔道の精神を体現したものとして、現在でも高く評価されている。
期待されたバレーボール女子の決勝戦では、「東洋の魔女」と呼ばれた日本が回転レシーブの冴えを見せ、ソビエトをセットカウント3 対0で下し金メダルを獲得。勝った瞬間日本チームが泣き、ソ連チームも、控室へ入ってから報道陣をシャットアウトして号泣したと言われている。

上掲の画像は、10月23日夜、駒沢屋内球戯場の女子バレーボール日本対ソ連の決勝戦で、ソ連にスパイクを打つ磯部サダ。『朝日クロニクル週刊20世紀』19634年号より。
そして、オリンピックの伝統的競技であるレスリングでは、日本勢が金メダル5個を獲得する大活躍をみせた。また、遠藤幸雄を中心に、男子体操陣も金メダル5個を獲得するなど、大国の面目をかけた金メダル争いで、日本は金メダル16を獲得し、アメリカ、ソビエトについで3位と健闘した。
最後のマラソンでは、甲州街道をひた走ったエチオピアのアベベが2時間12分11秒2の世界最高記録を出し、ローマに続いて2連覇の偉業をなし遂げた。日本の円谷 幸吉は健闘して3位、最終日のメインスタジオに日の丸を飾った。

この東京オリンピック招致の成功は、開催に先駆けて1964(昭和39)年4月28日に経済協力開発機構 (OECD) への加盟が認められる大きな背景となった。OECD加盟は原加盟国トルコに次いでアジアで2番目、同機構の原型となったマーシャル・プランに無関係の国としては初めてで、戦前は「五大国」の一国であった日本が敗戦を乗り越えて再び先進国として復活した証明の一つともなった。
東京オリンピック開催を契機に競技施設や日本国内の交通網の整備に多額の建設投資が行なわれ、競技や施設を見る旅行需要が喚起され、カラー放送を見るためのテレビ購入の飛躍的増加などの消費も増えたため、日本経済に「オリンピック景気」といわれる好景気をもたらした。テレビ購入者が増えたため「テレビ番組」の視聴者も多くなった。
第二次世界大戦の敗戦から立ち直り、経済成長をしてきた日本の力を世界に示し、これを起爆剤にその後も成長を続けてきた日本、アメリカに次ぐ世界2位の経済力を誇っていたが、近年急成長をしてきた中国に2位の座を開け渡し、今はそれでも3位にいる。
1964(昭和39)年に続いて、56年ぶり2回目の東京でのオリンピックを2020年に開催出来ることになり、日本をこれを機会にさらなるスポーツ振興と共に経済発展が期待されている。そして、1964年東京オリンピックのメインスタジアムとして使用されていた国立競技場は、新国立競技場として全面建て直しを行い、2020年東京オリンピック・東京パラリンピックのメイン会場となる予定である。
ただ、とてつもなく巨大なこの新国立競技場の建設費は当初1,300億円を見込んでいたが、その後の試算により、最大で約3,000億円にまで膨張することが明らかになり、その後、JSC(日本スポーツ振興センター)は昨年11月、床面積を25%削減し建設費を1785億円に削減する設計を公表。12月には、文科省と財務省は、総工費の上限1699億円で合意し、今年(2014年)5月、国立競技場将来構想有識者会議は、総工費1625億円とする基本設計を承認した。しかし、その後も、建設費が当初案に比べると削減されたとは言え、依然として他の大規模競技場と比べると高価であることや巨大すぎる建物が歴史的空間を破壊すると言った反対意見も出るなどいろいろと問題になっている(※12や新国立競技場問題点等参照)。
アベノミクスの円安政策のおかげで、輸出関連会社などは円安メリットの恩恵を受け大儲けをし、市場では株価も上昇しているが、実体経済は依然不審であり、給与アップが消費税アップや株安のインフレに追いつかず中小企業や庶民はアップアップしているのが実情である。
そんな中で、建設費用はますます上がるだろうから工事費がいくらかかるかは、当初より心配されていたことであった。
地方の時代と言われて久しいが、その実行はされずますます地方は過疎化している。そのようなときに、何でも彼んでも東京へ集めようとすること自体、今の時代では問題があるのではないだろうか。まだ、日本が成長を始めたばかりの前回の東京オリンピック時代とは全然状況が違うのですよ・・・・。
弱体化している関西でするとか、原発を海外へ売り込もうと一生懸命の安倍政権が、原子力の安全性を本当に保証できるのなら、東日本大震災で大被害を受けた福島を中心とする東北地方で開催し、震災からの復興と福島原発事故の安全性に問題がないこと示せば、前回の東京大会よりずっと意義ある大会になると私は思うのだが・・・。
ま!そんなことは横へ置いておいて、平和の祭典と云われる近代オリンピックだが・・・。世界の歴史の変動の中で、オリンピックもその大きな波に呑まれてきた。
「オリンピズムは人生哲学」「人間の尊厳保持に重きを置く、平和な社会を推進することにある。」「スポーツを行うことは人権の一つである。すべての個人はいかなる種類の差別もなく、オリンピック精神によりスポーツを行う機会を与えられなければならず・・・」と、オリンピック憲章には、高邁(こうまい)な精神が謳(うた)われている(※13参照)。
しかし、古代オリンピックでは戦争状態にあっても、戦争を一時中止し、すべての国がオリンピックに参加したというが、近代オリンピック開始以降、戦争や紛争が相次ぐと、オリンピックをボイコットする国があったり、戦争が終結しても敗戦国の参加を認めないと言ったことがあったのは先にも書いたが、同じようなことは第二次世界大戦も終わり、東京オリンピック後の1980年の第22回 モスクワ大会(ソビエト)も、ソビエト軍のアフガン侵攻(アフガニスタン紛争参照)に対する制裁措置として、アメリカのカーター大統領がモスクワオリンピックのボイコットを表明。日本は多くの選手、コーチが参加を訴えるなか、5月24日に開かれたJOC臨時総会において不参加を決定。そのため、オリンピックを目指して努力してきた人たちはどれほど悔しい思いをしただろう。
これに対して、次の1984年、アメリカでの第23回 ロサンゼルス大会には、モスクワ大会の報復として、ソビエトや東欧諸国など16の国と地域が参加をボイコットしている。この大会ではアメリカが221種目中83個の金メダルを獲得。これは、東側諸国不参加によって起こった異常事態ではあるが、日本もおこぼれ頂戴で、10個の金メダルを獲得した。
又、当大会では、聖火ランナーからも参加費を集めるなど、増大する運営経費と商業主義が話題になったが、次第に、オリンピックは巨大化し、政治やビジネスなどに利用され、IOCも年々商業ベースで拡大し、開催国が利用されていくようになったとも感じられる。
クーベルタンの有名な言葉「オリンピックで重要なことは、勝つことではなく参加することである」は、実は彼の創作ではなく、英米両チームのあからさまな対立(※14参照)により険悪なムードだったロンドン大会(1908年)中の日曜日、礼拝のためにセントポール大寺院に集まった選手を前に、主教が述べた戒めの言葉だったそうだ(ここ参照)が、、実際の競技では、国も選手も勝ちにこだわり、ドーピングの使用や反則さえ見られることもある。
思い起こせば、以前はオリンピックも「アマチュアの祭典」であり、「プロフェッショナル」を排除していた。「スポーツそのものを楽しむ」ことがスポーツの本来の喜びであり、スポーツによって金銭を得ることは、スポーツ本来の歓びを損なうものだという「アマチュアリズム」に基づいていたが、今では、野球やテニス、サッカーなどプロが参加しているが・・・・。
札幌オリンピック(1972年)当時のIOC第5代会長アベリー・ブランデージは、反プロスポーツ主義者で、いかなる形であれオリンピックにプロフェッショナリズムが持ち込まれることに強く反対ていた。しかし、この態度は次第にスポーツ界からも、また他のIOCメンバーからも賛同を得られなくなってゆき、ランデージがミュンヘンオリンピックで引退後、第6代会長キラニン卿を経てサマランチ会長になった。
ブランデージ時代に逼迫した財政状態にあったIOCは、サマランチ時代にいたって、スポンサー契約や放送権料の大幅な引き上げで息を吹き返したが、同時にオリンピックが「収入の得られる商売」になっっていったとも言えるようだ(利権が生まれるオリンピックの商業主義化は、先に書いた1984年夏季のロサンゼルスオリンピックに始まると評されている)。
そして、「アマチュアリズム」自体が、豊かな余暇時間を持つ上流階級が、スポーツの世界で下層階級を排除するための差別意識から成立しているという指摘などを受けて、1974年には五輪憲章からは「アマチュアリズム」の概念は消え、「スポーツ選手」は、「プロフェッショナル」として、多くの賃金とともに、社会的地位を手に入れる機会を得ることができるようになったようだ(※15参照)。
考えてみれば、アマチュアと言っても、オリンピックに出るような人は皆、どこかの企業など職域団体に所属し職業化している人たちばかりである。違うとすれば、体操や水泳など学校関係に所属の学生ぐらいだろう。職業団体に所属し職業化している人はそのスポーツで飯を食っているのだから、一般にセミプロなどと云われたりしており、野球などの様に職業別の社会人野球大会もある。この野球など大学野球や社会人野球の人達に混ざってプロの選手がオリンピックに出場しているが、サッカーなどJリーグ所属選手ばかりであり、日本でなく、他の国で活躍している人も日本代表チームのメンバーとして、出場している。このようなケースを見ているともう、国対国の対抗戦がオリンピックだというしかないだろう。
そうなれば、国のメンツにかけて勝たさねばならなくなる。柔道女子などでコーチらによるしごきがいじめ問題としてクローズアップされたたりもしたが、どうしても勝たなくてはいけないとなると、そのような問題も発生してくるのだろう。
そして、また、ユニホームや靴などのメーカーが開発した商品を選手が身に着け広告塔としてた戦う。単に人の戦いだけでなく科学技術の争いや競争にもなっている。それを、マスコミが宣伝する。
貧富の格差がアマチュアのスポーツに格差を生むからプロ化したというが、プロ化しても、経済力のある国とそうでない国では、格差が生じている。
古代ギリシャでは、不正をなくすために裸で戦ったというが、科学技術力や、経済力の格差をなくして競うには、古代ギリシャ時代と同じように、裸になって戦うしかないのかも・・・。
「平和の祭典」「スポーツの祭典」と云われるオリンピックではあるが、何かいろいろ問題も多くありそうですね~。

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クーベルタン男爵がオリンピックの復活を提唱した日(参考)

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2014-11-25 | 歴史
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参考:
※1:日本オリンピック委員会
http://www.joc.or.jp/
※2:ギリシャ周遊 オリンピア
http://4travel.jp/travelogue/10240369
※3:《イーリアス》
http://www.aurora.dti.ne.jp/~eggs/iliad.htm
※4;めざせ!!パンクラチオン日本代表!! - 頂上会
http://choujyoukai.com/HTML/mezase_panc.html
※5:国際連合とオリンピック停戦 ~ よくある質問 ~国際連合広報センター
http://www.unic.or.jp/news_press/features_backgrounders/1016/
※6:オリンピックから〈遠い国〉 - フェリス女学院大学
http://www.ferris.ac.jp/departments/sections/global/invitation/invitation_25.html
※7:概要・シカゴ万博
http://www.athena-press.co.jp/sum.columbian_expo..htm
※8:クーベルタンとオリンピック第1回アテネ大会 - 京都産業大学
http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/furukubo(04-1-29)
※9:ロンドン五輪百話 :プール 初代は100メートル-YOMIURI ONLINE
http://www.yomiuri.co.jp/olympic/2012/feature/20120507-OYT8T00167.htm
※10:ロンドン五輪特集:大会で振り返る五輪のニュース(MSNニュース)
http://sankei.jp.msn.com/london2012/news/120627/clm12062722220014-n1.htm#2
※11:第一次大戦以降、中国の排日運動を背後から操ったのはどこの国だったのか
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/214/
※12:悪評紛々の新国立競技場で本気見せた大成、竹中の思惑
http://diamond.jp/articles/-/61615
※13:オリンピック憲章英和対訳版 (PDF)
http://www.joc.or.jp/olympism/charter/pdf/olympiccharter2011.pdf
※14:企画・連載 : ロンドン五輪2012 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/olympic/2012/feature/20120409-OYT8T00175.htm
※15:プロ化には2つのプロ化がある
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/arenasports/article/2

オリンピック関連年表
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E9%96%A2%E9%80%A3%E5%B9%B4%E8%A1%A8
19世紀のオリンピア競技祭
http://home.att.ne.jp/kiwi/meiwa/syoseki21.htm
滝口隆司、毎日新聞運動部記者、スポーツアドバンテージ
http://www.sportsnetwork.co.jp/adv_3/col_takiguchi.html
世界史の目
http://www.kobemantoman.jp/whe.htm

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ホタテの日

2014-11-18 | 記念日
今日に限らず毎月18日は「ホタテの日」である。
青森県漁業協同組合連合会(※1)とむつ湾漁業振興会が制定。ホタテの「ホ」を分解すると「十八」になることから。元はホタテの旬であり陸奥湾の「むつ」=六つに通じる6月18日のみであったが、後に毎月の記念日に拡大したそうだ。

金毘羅(こんぴら) 船々
追い手に 帆かけて
シュラシュシュシュ♪

香川県・金刀比羅宮を題材とした日本の古い民謡『金比羅船々』。料亭などで舞妓・芸妓と行う「お座敷遊びの曲としても知られている。、
私なども若い頃大阪の商社にいたときには、京都祇園での会社の慰安会などで、こんなお遊びをしたごとがあるが、「ホタテ」の名前からほっと、こんな懐かしい歌のことを思い出した。

お座敷遊び:金比羅船々 - YouTube

「ホタテ」とは「ホタテガイ」のことでであり、動物分類学上は軟体動物門(Mollusca)二枚貝綱(Bivalvia)、糸鰓目(しさいるい、Filibranchia。翼形類参照)、イタヤガイ科(Pectinidae) に分類される二枚貝(貝の種類などは※2参照)の一種で、この科の貝は一般に貝殻は右殻が膨れ殻頂に左右不対称の耳型の部分があり、貝殻表面に放射肋(ほうしゃろく)がある。
世界で300種程が知られており、ホタテガイを英語では、「“scallop”(スカロップ)」と呼ばれるが、これはイタヤガイ科の総称であり、そのうち、日本のホタテ貝は“Japanese Scallop”と分類されている。
世界のScallop類漁獲の主産地は、日本を含む極東地域と北米大陸の大西洋側の アメリカ、カナダ沿岸、ヨーロッパの大西洋岸であり、この他、北米大陸の太平洋岸、南米大陸の太平洋岸、オーストラリア、 ニュージーランド周辺などにも分布しているようだが、近縁種を含め寒海性(年間を通じて水温の低い海域にすむ)のものが大半で、大型で生産量の多い種は南北両半球の高緯度冷水域に分布している(※2、※3参照)。
日本で食用として生産されているホタテガイ類(“Japanese Scallop”)には、(ホタテガイ(Patinopecten yessoensis[JAY])の他、イタヤガイ(板屋貝、Pecten albicans)、アカザラガイ(アズマニシキガイ。Chlamys farreri)、ヒオウギガイ(Chlamys swiftii) の4種類がある(貝の種類などは※2参照)。ホタテガイは北方に生息する貝で、最も成長が早く大型になる貝である。
国際統計・国別統計専門サイト・グローバルノートのホタテ貝(帆立貝)の漁獲量・生産量 国別ランキング統計(※4参照)をみると、2012年の漁獲量は世界合計 2,385,519トンであり、その上位5か国は以下のようになっている(単位トン)。
1位 中国 1419956 、2位、日本  499,674 、3位アメリカ216,468 、4位カナダ 53,462 5位イギリス52、426
この数値は、FAO(国際連合食糧農業機関)の統計数値によるものらしいが、日本水産資源保護協会発行の『我が国の水産業ホタテ貝』(※3)によれば、FAO統計ではホタテガイやイタヤガイなど“Scallop”として一括にされているが、中国産のものは、アメリカ東岸から種苗を搬入して、養殖された“Bay Scallop”(アメリカイタヤガイ Argopecten irradians)でホタテ貝より小型の別種だそうだ。そうすると、純粋のホタテガイの生産では、日本が1位になるということか・・・・(ここの日本の漁獲量はFAOの推測値としている)。
いずれにしても、現代では、ホタテガイは日本が世界に誇る有用な水産資源であり、年間の生産量は50万トン以上に達し、国内第2位のカキ(牡蠣)(約20万トン少々)に圧倒的な差をつけて、食用貝の王者の座に君臨し続けている(※5の“養殖業の現状と課題について”参照)。
ホタテガイは古くから人類の食糧として利用されていたようだが、我が国では、北海道・伊達市の若生貝塚群、北黄金貝塚群(5000年前)、虻田市の入江貝塚、長万部町静狩(4000年前)などからホタテガイの貝殻が出土しており、5000年前の古代人がすでに、ホタテガイを食べていたことが窺える(※6参照)。
そして、江戸時代末期、日本開国のきっかけとなったのマシュー・ペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊黒船)の来航であるが、その主目的は遠洋捕鯨のための補給基地を確保することであったようだ。
日米和親条約により伊豆国下田(現静岡県下田市)と箱舘(現:函館)の開港が決まり、ペリーが函館に寄港した際(1854年)に函館湾よりホタテを採集しアメリカに持ち帰ったといわれている。函館湾における貝類の学術的な調査はこの時の調査に対してアメリカ人Jay (1857) が行ったのが最初で、函館 (Hakodadi) を、模式産地(新種を記載・発表するときに使った標本を採取した場所をいう)として、水産上重要な新種としてホタテガイ(Patinopecten yessoensis[JAY]。「生物分類について」は※7参照)と命名したことが日本の探検報告書に記載されいるようだ(※8参照)。
ラテン語で”patino” は「皿」、”pecten” は「櫛」、”yessoensis”は「蝦夷の」、つまり「蝦夷産の櫛のある皿」という意味で、ホタテガイの貝殻の表面にある条肋を櫛の歯になぞらえたものであり、(,※7参照)。函館湾における貝類の学術的な調査は, 過去にも行われているがホタテガイの調査についてはは、ペリーの黒船が函館港に入港した時のものに対してアメリカ人のJay (1857) が行ったものが最初だそうである。
また、ホタテガイが加工品として登場するのは、今から150年前の江戸時代の末期で、乾(ほし)アワビ、スルメ、昆布等とともにホタテ乾貝柱(干貝柱)が長崎俵物として、対中国貿易による幕府の重要な財源の役割を果たしてきた。
約30年前から北海道や青森県等で増養殖技術が飛躍的に進歩し、現在ではカキと共に親しまれている。
この日本産ホタテガイ(Patinopecten yessoensis)は寒流系の二枚貝であるため、太平洋側では東京湾以北に、日本海側では能登半島以北に分布している。産業的にはホタテガイ養殖発祥の地である青森県陸奥湾、北海道噴火湾サロマ湖オホーツク海沿岸が中心で、近年養殖技術の進歩により、岩手県や宮城県にも産地が広がっており、北海道、青森県、岩手県、宮城県で日本の生産量の99%以上が生産されているようだ(※9参照)。
イタヤガイについては日本全土に生息しているが、島根県などの一部の地域でしか生産されていない。アズマシニシキガイも日本全土に生息しているが、宮城県などの一部の地域でしか生産されていない。ヒオウギガイは南方に生息する貝で、紀伊、四国、九州で養殖されている。この貝は品種改良で色々な色を持っている。ホタテガイは、味も良く食用として人気があるだけでなく収集家にとっても人気のある貝類である。

日本のホタテガイの和名表記は 古くから「帆立貝 ・ 車渠 ・ 海扇」 等、複数あるようだが、現在一般的に使われている「帆立貝」の漢字の由来は、江戸時代に中国明代の『三才図会』を真似て作られた絵入りの百科事典ともいうべき寺島良安の『和漢三才図絵』(1712年編) 介貝部 四十七(※10参照)の「 ほたてかひ/いたやかひ/車渠」の項目に見られる。
そこにある「俗に帆立貝と云ふ。(中簡略)その殻、うえの一片は扁(ひらた)くして蓋(ふた)のごとく、蚶(サキ=赤貝)、蛤(ハマグリ)の輩と同じからず、大なるもの径1~2尺(30~60cm)、数百群行し、口を開いて一の殻は舟のごとく、一の殻は帆のごとくにし、風にのって走る。故に帆立蛤と名づく。」・・との記載によるものだろう。
確かにホタテガイは、ススーッとすばやい動きはするが、それは貝の中に入っている海水を勢いよく吐き出すこと(閉殻筋=貝柱によって殻を開閉する。)によって、その反作用で跳ぶように動くもので、ホタテガイの生態がよく判っていない時代には、それが帆を立てて走っているように見えてつけられたのだろう。
文中に「車渠は北海・西海に多くして」・・・などとあるように、イタヤガイとの混同があるようだ。
同じようなことは、良安の『和漢三才図絵』より3年ほど前の1709(宝永7)年に刊行されている貝原益軒編纂の本草書大和本草』卷之十四(介類 海扇。参考※11の34p参照)にも書かれており、寺島良安も介類についてはこれを参考にしているのだろう。
「海扇」(うみおうぎ)は厳密にはホタテ貝の中国名でもあり、殻の形が扇を連想させることとによるもので、車渠とよばれることもある。また、これを、板屋葺の形に似ていることから、板屋貝とも呼んだようだ。
『和漢三才図絵』ほたてかひの項目の最後には、以下の歌が掲載されている。

「あやしくぞうら珍しきいたや貝とまふくあまの習ひならずや 」 信實

この歌は、貝類を題材とした歌合形式の秀歌選である『三十六貝歌合』(1748年)の中に収録されている11番板屋貝を歌った藤原信実の歌であるが、そのもとは、『新撰和歌六帖』(1243年に藤原家良為家知家・信実・光俊の5人の和歌を所載した類題和歌集)第三:水 1159の歌である(※13参照)。
1748(延享5)年には、京都と江戸で、主に女子向けの教養書として出版された『教訓注解 繪本貝歌仙』(※14参照)に、この中から、36種の貝の歌に注釈と教訓を加えて, 浮世絵師西川祐信挿絵と共に掲載されている。

上掲の画像は西川祐信挿絵による『教訓注解 繪本貝歌仙』中巻に掲載されている信実の11番 いた屋貝の歌 である。
ここでは、いたや貝(板屋貝)の解説で、 イタヤガイ科の二枚貝。扇を拡げた形で、ホタテガイに似、左殻の外面は紅褐色で、放射肋が強く、板ぶき屋根を思わせるのでこの名がある・・・としており、ここでは、いた屋貝をホタテガイに似たものと明確に区分がされている。
尚、良安の『和漢三才図絵』、貝原益軒の『大和本草』の漢文の書き下し文や解説等以下参考の※12:「鬼火」心朽窩旧館>やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇>>和漢三才圖會 介貝部 四十七 寺島良安や、日々の迷走> カテゴリー>「貝原益軒「大和本草」より水族の部」>大和本草卷之十四 水蟲 介類 海扇を参照されるとよい。

ホタテガイはイタヤ貝やヒオウギ貝などと形状がよく似ているが、ちなみに、その違いはどここにあるか?
その回答は、「YAHOO!知恵袋-イタヤ貝とヒオウギ貝、ホタテ貝の違い」に書かれているが、色や大きさの違いもあるが、特徴的なものとして、「ちょうつがいの部分から放射状に伸びる肋(列状の出っ張り)、つまり「放射肋」の外形や、本数」にあるようだ。詳しくはここを覗かれるとよい。
又、ホタテガイの形状のみについ詳しく見たい場合は、ここを参照されるとよく判る。

ホタテガイはフランス語だと 「Petoncle Conque de Venus」 とよぶそうだ。ローマ神話の愛と美の女神ウェヌス(日本語では「ヴィーナス」と英語読みされる。古典ギリシャ語のアフロディテと同じ) の名が入っている。
西洋では海から生まれた美しい女神ウェヌスの持ち物とされ、一説によると女神はホタテガイそのものから生まれたとすらいわれている。
“petoncle”は、ラテン語の“pectin”に“-culus”がついた言葉“pectunculus”の転化で、女神ウェヌスとかかわりのあるこの貝を愛すべきものと考え、語尾に縮小辞“culus”をつけたようだ。また“conque”はギリシァ語の“konkhe”〈貝、貝殻〉からきていて、“conque de Venus”は「ウェヌスの貝」という意味だという(※9参照)。
ヨーロッパではホタテガイ類(ヨーロッパホタテ[学名:Pecten maximus]を主とする近縁種群)は豊穣の象徴としてギリシア神話の女神ウェヌスとともに描かれており、フィレンツェウフィッツィ美術館にあるボッティチェリの有名な「ヴィーナスの誕生」の絵にも帆立貝が描かれている。以下がその絵である。

この絵は、ギリシア神話で語られている通り、女神ヴィーナスが、成熟した大人の女性として、海より誕生し出現した様を描いている。古典的な女神ヴィーナスは、水より出現して貝殻の上に立ち、霊的情熱の象徴であるゼピュロス(西風)に乗って、岸へと吹き寄せられている。季節の女神であるホーラたちの一人が、花で覆われた外套を女神へと差し出している。ギリシア・ローマ古典時代には、貝は女陰の暗喩(メタファー)であった。ヴィーナスのポーズは、当時発見された『恥じらいのヴィーナス』タイプの古代彫刻から得たものだそうだ。
また、ホタテガイは新約聖書に登場するイエス十二使徒の一人聖ヤコブとしても知られ、この聖人の聖地であるサンティアゴ・デ・コンポステーラ(スペイン)へ向かう巡礼者たちは、ホタテガイ類の貝殻を身に着ける風習を中世以来現代まで続けている。
ホタテ貝はヤコブのシンボルで、フランス語ではヨーロッパ産のホタテガイ類(ヨーロッパホタテ[学名:Pecten maximus])を「聖ヤコブの貝」(coquille Saint-Jacques、コキーユ・サンジャック)と呼ぶそうだ(聖ヤコブとサンティアゴ・デ・コンポステーラの詳しいことは※15参照)。

上掲の画像はカルロ・クリヴェッリ作『聖ヤコブの肖像画』
ホタテガイの和名の由来からは少し回り道をしたが、大きく括ってホタテガイの名前の由来という意味では、興味深いものである。

日本の天然のホタテカイの生息場所は水深20~30mの海域で、アサリ、ハマグリ等の生息場よりも粒の大きい砂泥域~砂れき場で、右殻を下にして、砂を被って分散して生活しているが、その生息に至適な海水温は +5~+19℃の冷水であるが、−2~+22℃の間なら生きていける(稚貝はさらに4℃ほど高温でも耐えられる)という。
天敵はヒトデオオカミウオミズダコなどであるが、、ヒトデに襲われると閉殻筋で力強く殻を開閉させて海水を吹き出し、泳いで逃げることができる。
日本の天然のホタテカイは雌雄異体、つまり、雌(めす)と雄(おす)が別々の個体で、明瞭に区別されており、産卵期(水温が4~8℃)になると生殖巣が大きく膨らみ、雄はクリーム色、、雌は赤ピンク色となる。そして、成長に伴い雄の一部が雌に性転換する。天然貝では0年貝と1年貝ではすべて雄だが、2年貝に移行する間に性転換し、 2年貝では半数が雌になるそうだ。
一方、地蒔き漁場(漁場に稚貝を放流)で種苗として放流した稚貝(放流貝)と養殖貝は成長が良いため、満1年貝で性転換するものもあるという。
水温上昇の刺激により放卵、放精し、海中で受精後浮遊する幼生となり、浮遊期間約40日間後に殻長300ミクロン(マイクロメータ)前後になると、何にでも付着するが、自然界ではその多くは海藻類に付着し、養殖貝のものは、採苗器などに付着する(4月中旬~5月下旬)。
付着後、稚貝は採苗器の中で40~60日経過後、殻長約8~10㎜に成長すると付着力が弱まって自然に落下する。もし自然環境で付着していたら海底に落下することになるが、このとき海底にヒトデが多かったり、貧酸素(水中の酸素濃度が少ない)等の悪い環境であれば稚貝は死の危険に晒されることになる。そこで7~8月までに採苗器から稚貝を採取し、中間育成(稚貝を海に放流できるように、より自然に近い環境である程度の大きさになるまで飼育する)ことが増養殖技術のポイントとなっているようだ。養殖にはカゴ(ネット)を使うものと、貝殻の一部に穴を開けてロープに吊す方法(耳つり方式)とがあるようだ。
ホタテ貝は寒海性の二枚貝で海水中の植物プランクトン有機物を餌にして成長する。1年で殻の大きさは2cm、2年で6cm、3年で9cmくらいに成長し、漁獲される。養殖の場合はもっと成長が早く2年で9cmくらいになるそうだ。ホタテ貝の寿命は 12年位で、大きいものは殻が20cmにも成長し、その貝柱の直径はなんと7cmにも達するという。
養殖ホタテは2~4 年で商品として出荷される。何年物かの見方は貝殻の表面にある年輪みたいな濃い目のシマを数えることで知ることができきる。

ホタテガイは甘みと旨味に富み、「貝の王様」とも云われているが、貝の味に寄与しているうま味成分は主にアミノ酸グルタミン酸グリシンアラニンなどで、ホタテガイ特有の甘味成分は筋肉細胞のエネルギー源となる糖タンパクの一つであるグリコーゲンである。特にホタテのグリコーゲンは他のグリコーゲンと異なり、ガンの防止と抑制に効果があることが近年報告されているという(※3参照)。
ホタテガイの貝柱には春から夏にかけてグリコーゲンが大量に蓄積され、更に旨味を増す。また、ホタテガイには市販の「栄養ドリンク」にも含まれているタウリン は体の疲れを癒し、目の疲れをとり、肝臓や心臓の機能を助け、コレステロールを減らし、血圧効果の作用や、基礎代謝能力を高め、ストレスの抑制効果があるとされているそうだ。さらには、免疫力をアップさせ、不足すると味覚障害を起こす亜鉛や、その他にも分やカルシュウムマグネシウムなどのミネラル分がたっぷり含まれていうから、ホタテは美味しいだけでなく、栄養が豊富で万能薬のような自然食材といえるかも・・・。それなら私も大いに食べなきゃいけないな~。

ホタテガイで刺身にされる部分は貝柱である。貝柱は貝殻を閉じる閉殻筋と呼ばれる部分であり、普通2枚貝の場合、この閉殻筋は前後に2つあるが、ホタテガイの場合、前閉殻筋はなくなって、後閉殻筋が大きく発達している。
ホタテ貝は、刺身やサラダ、焼物、揚げ物など調理法の種類も多く、しかも、和・洋・中華風いずれの味付けにも合い、しかも、下ごしらえに手間もかからないのが良い。
冷凍物などいつでも使えるので便利である。我が家でもいつも冷凍物を保管している。古くは超高級品で干し貝柱などは輸出されて国内には出回らないものであったが養殖が盛んとなり、今では日常的な食品のひとつにもなっている。
私は、生のホタテを刺身か寿司ネタにして食べるのが一番好きだが、バターで焼いても非常に美味が、この時はあまり火を通しすぎないのがコツだな~。
こんなこと書いていたら、急に食べたくなった。寿司は数日前に食べたので、家人に行言って明日の夕食には、バター焼にでもしてもらおうかな・・・・。
最後に、ただ心配なことが一つある。最近のニュースなどで、海水温(※16参照)上昇で北海道に異変が起きているという報道があった。
サンマイカ漁が記録的な不振に見舞われている一方、暖かい海流に生息するブリクロマグロの漁獲量が増え、沖縄など暖かい海に分布するシイラマンボウまでが泳いでいるという。
それに、アワビの大敵であるヒトデも大発生しているというから心配である。これから、日本の漁業はどうなるのだろうね~。

参考:
※1:青森県漁業協同組合連合会
http://www.amgyoren.or.jp/index.php
※2:市場魚貝類図鑑:軟体類
http://zukan-bouz.com/category.php?id=2
※3:『我が国の水産業ホタテ貝』(平成6年3月発行)ー社段法人日本水産資源保護協会
http://www.fish-jfrca.jp/02/pdf/pamphlet/067.pdf#search='%E5%8D%97%E5%8C%97%E9%AB%98%E7%B7%AF%E5%BA%A6%E5%86%B7%E6%B0%B4%E5%9F%9F'
※4:ホタテ貝(帆立貝)の漁獲量・生産量 国別ランキング統計・推移:グローバルノート
http://www.globalnote.jp/post-7341.html
※5:養殖業のあり方検討会- 水産庁 - 農林水産省
http://www.jfa.maff.go.jp/j/saibai/yousyoku/arikata/document.html
※6:水産資源と水温の関係~ホタテ編
http://mtcs.hkso.co.jp/me/unchiku/hotate.htm
※7:生物分類について
http://www.cudo29.org/taxonomy.html#cit008
※8:函館貝類研究史-北方圏貝類研究会
http://wsnr.web.fc2.com/wsnr/history.html
※9:ほたてがい豆知識 - 青森県産業技術センター
http://www.aomori-itc.or.jp/public/zoshoku/hotateinf/hotatemame.htm
※10:和漢三才図会 - 島根大学附属図書館
http://www.lib.shimane-u.ac.jp/0/collection/da/da.asp?mode=vt&id=1317
※11:貝原益軒アーカイブー大和本草 - 中村学園大学
http://www.nakamura-u.ac.jp/library/kaibara/archive01/
※12:鬼火
http://homepage2.nifty.com/onibi/
※13:新撰六帖題和歌 - 和歌データベース
http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/waka/waka_i067.html
※14:絵草紙屋:目次
http://www.geocities.jp/ezoushijp/mokuzi.html
※15:聖ヤコブの眠る サンティアゴ・デ・コンポステーラ
http://stella-corp.co.jp/guide/holy/h03.html
※16:気象庁 | 海水温・海流のデータ 日本近海 日別海面水温
http://www.data.jma.go.jp/kaiyou/data/db/kaikyo/daily/sst_jp.html
サンマ1匹1600円…海水温上昇で北海道の海に異変
http://amaebi.net/archives/2185726.html
水産庁/平成25年度 水産白書 全文 - 農林水産省
http://www.jfa.maff.go.jp/e/annual_report/2013/
サンドロ・ボッティチェリ-主要作品の解説と画像・壁紙
http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/botticelli.html
7月18日 ホタテの日|なるほど統計学園 - 総務省統計局
http://www.stat.go.jp/naruhodo/c3d0718.htm
ホタテガイ- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%BF%E3%83%86

介護の日

2014-11-11 | 記念日
皆さんは「介護」について考えたことがありますか。
今年、後期高齢者(高齢者のうち75歳以上の者。→後期高齢者医療制度参照)の仲間入りをした私など、今のところ、ほんの少し血圧が高い(いわゆる高血圧)ため軽い薬(降圧薬)を飲んでいる以外は、医者に通わなければならない病気もなく、自分では年の割に元気なつもりなのだが、メタポ検診などではいろいろと医者から指摘はされており、平均寿命の延びた今の時代、一番気になることは、やはり女房を含めて、これから先の二人の病気と、体が不自由になった時の看護のことである。
日本では高齢化が進み、生活習慣病などの病気も増えている中、親や配偶者など家族の介護をする人が増えている。
今、介護をしていない人も、何時、家族の介護をする立場になったり、逆に介護を受ける立場になったりするかもしれない。介護は誰にとっても身近なものなのである。

今日11月11日は「介護の日」である。定めているのは厚生労働省(※1)。
厚生労働省のHP(※1)の「介護・高齢者福祉」のところを見ると、以下のように書かれている。
高齢者が尊厳を保ちながら暮らし続けることができる社会の実現を目指して、
高齢者が、 介護が必要になっても、住み慣れた地域や住まいで尊厳ある自立した生活を送ることができるよう、質の高い保健医療・福祉サービスの確保、将来にわたって安定した介護保険制度(※1の介護保険制度の概要参照)の確立などに取り組んでいます。・・・と。
障害福祉サービスの体系は→ここ参照。

そして、介護の日を定めた趣旨については、以下のように書かれている。
高齢化などにより介護が必要な人が増加している一方、介護にまつわる課題は多様化している。こうした中、多くの人々に介護を身近なものとしてとらえてもらうためには、それぞれの立場で介護を考え、関わってもらうことが必要となっている。
介護についての理解と認識を深め、介護サービス利用者及びその家族、介護従事者等を支援するとともに、これらの人たちを取り巻く地域社会における支え合いや交流を促進する観点から、高齢者や障害者等に対する介護に関し、国民への啓発を重点的に実施する日を設定することとした。
名称と日にちについては、意見公募を行った結果、最も支持の多かった名称と日にちを選び「介護の日」と「11月11日」とした。
日にちについては、「いい日、いい日、毎日、あったか介護ありがとう」を念頭に、「いい日、いい日」にかけた、覚えやすく、親しみやすい語呂合わせとなっている。
今後、高齢化がさらに進行することが予想される中で、福祉介護サービス分野は、最も人材確保に真剣に取り組んでいかなければならない分野であり、福祉・介護サービスの仕事が、働きがいのある職業として社会的に認知され、特に若い世代の人々から魅力ある職業として選択されるようにする必要がある。
このため、厚生労働省は、平成19年8月に「社会福祉事業に従事する者の確保を図るための措置に関する基本的な指針」(平成19年度8月28日厚生労働省告示第289号)を策定し、指針に基づく取組を進めているところである。
この取組みの一貫として、11月4日から11月17日までを「福祉人材確保重点実施期間」として設定し、厚生労働省、地方公共団体、関係機関・団体及び事業者等が連携して、福祉・介護サービスの意義の理解を一層深めるための普及啓発及び福祉人材の確保・定着を促進するための取組に努めることとしている。・・・と。

さて、私達は基本的に、一人ひとりが自らの責任と努力によって生活を営んでいるが、病気や怪我、老齢や障害、失業などにより、自分の努力だけでは解決できず、自立した生活を維持できなくなる場合も生じる。そのように個人の責任や努力だけでは対応できないリスクに対して、相互に連帯して支え合い、それでもなお困窮する場合には、必要な生活保障を行うのが、社会保障制度の役割である。
つまり、社会保障制度は、私たち国民の「安心」や生活の「安定」を支えるセーフティーネットであり、戦後の昭和21年11月公布の日本国憲法では生存権の規定 (25条1項) に次いで,「国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と定められている (同2項) 。
憲法に定められて以降、現在に至るまで、いろいろな経済社会や人口構造(男女・年齢・配偶関係などの属性別の人口の構成)のめまぐるしい変化に直面しながらも、各時代における人々の努力により、社会保障制度に対する国民各層の様々なニーズに応え、それなりの充実は図られてきた。
しかし、21世紀を迎えた今日、経済社会を取り巻く環境が大きく変化する中で、日本の社会は、世界でも稀に見る少子高齢化の進行に直面しており、このため、経済社会の様々な側面で深刻な長期的問題を抱えているが、その中でもとりわけ深刻な課題が社会保障制度の問題であり、現在の制度がそのまま続けば、早晩破綻することが避けられないといわれている。
厚生労働省:政策レポート(戦後社会保障制度史)

この社会保障の中でも、最も重要なのは高齢者の老後の生活の支えとなる年金問題であり、この問題は、長期的に継続する制度なのでとりわけ厄介な問題だが、医療・介護もそれに劣らない政治的、社会的に難しい問題を多く含んでいるが、本日のテーマーは、「介護」が主題なので、以下本日の主題である介護のことについて見てみたい。社会保障制度全般や、年金、介護の問題等は、厚生省HPや、※2.※3、※4等を見て考えてください。

介護(英::nursing, elderly care)とは、自分で体を動かしたり、判断したりすることが困難な障害者の生活支援をすること。あるいは、高齢者や病人などを介抱し世話をすることである。
人はだれでも年をとり、体の機能が衰えていく。そして、噛む力や飲み込む力、骨や筋肉の力、判断力などが弱くなると、食事や入浴、外出など、日常生活のさまざまなことが困難になってくる。また、50代、60代でも、脳卒中糖尿病心臓病、関節疾患(※5参照)、認知症などの病気をきっかけに、それまでできていた日常生活のことが、突然、一人ではできなくなってしまうこともあり、「介護」は、いつか突然、自分や家族に起こるかもしれない、身近なものなのである。
介護保険制度では、被保険者は、65歳以上の第1号被保険者と、40歳以上65 歳未満の第2号被保険者とに分類されている(介護保険参照)。
介護保険事業状況報告の概要(平成26 年7月暫定版)を見ると、
平成26年(7月末現在)の全国の65 歳以上の被保険者、32,348千人( 65才以上75歳未満16,799千人75歳以上15,549千人)、に対して要介護(要支援)認定者数は、5,945千人(男 1,829千人、 女 4,117千人)となっている。
現在の日本の尐子高齢化現象は深刻な問題となっている。尐子高齢化とは、出生率の低下により子供の数が減ると同時に、平均寿命の伸びが原因で、人口全体に占める子供の割合が減り、65 歳以上の高齢者の割合が高まることを言うが、問題は、日本の高齢化進行のスピードが、諸外国との比較において、その進行速度がきわめて速いことである。
今後「団塊の世代」が全て75歳となる2025年には、75歳以上が全人口の18%となる。
そして、我が国の総人口は、今後、長期の人口減少過程に入り、2026年に人口1億2,000万人を下回った後も減少を続け、2048年には1億人を割って9,913万人となり、2060年には8,674万人にまで減少すると推計されているが、一方で、65歳以上は全人口の約40%となることが予想されている(人口構造の変化と現役世代参照).。
このようなことから、介護の面でも、第1号被保険者は、年々増加し、特に、75歳以上の後期高齢者の増加割合が高くなる。つまり、被保険者に占める要介護(要支援)認定者数の増加傾向が、ますます高まるということになる。それだけ、急速な高齢化に対応するための施策を展開していく必要があるということである。
この後期高齢者人口の増加が問題となるのは、加齢に伴い「寝たきり」や「認知症」などの要介護状態となる確率が後期高齢者では高くなるということである。
そして、この高齢化における地域格差の存在である。大都市への若者の集中により地方都市の高齢化率が急速に進んでいる。産業界全体では労働力の供給不足に対する不安などが指摘されているが、他方で、高齢化による公的年金保険制度の破たんの恐れや、それを回避するための保険料率の大幅な引き上げによる被保険者の負担の増大、さらには高齢者医療費の増大による健康保険国民健康保険等の医療保険の赤字財政問題も危険視しされている。
厚生労働省の『社会保障と税の一体改革』では、日本の人口構造の変化について、2010(平成22)年には1人の高齢者を2、6人で支えている社会構造になっており、尐子高齢化が一層進行する2060年には 1 人の高齢者を 1、2 人で支える社会構造になると想定されている(平成14年版「厚生労働白書」1章 人口構造の変化と現役世代参照)。
そうなると、1990 年の頃には高齢者 1 人に対し 5.1 の人が支えていたので、負担率は 1990 年から 2060 年までに 5 倍にも跳ね上がることが予測されているが、ここまで負担が大きくなってしまうと、若者だけで社会保険費を肩代わりできなくなり、ますます赤字財政を生み出すことになってしまうだろう。
また、高齢化対策も急務になってくるのだが、先にも述べたように、日本の尐子高齢社会の特徴として、後期高齢者人口の増大があげられる。高齢者といっても、60 歳代の高齢者の場合、全般的にいえば健康状態も良好であり、介護を要する可能性は低いが、後期高齢者になってくると、寝たきりや認知症といった要介護状態になる可能性が高くなる。それゆえ、この後期高齢者人口の増大という側面は、高齢者扶養における介護問題が大きなウエイトを占めることを意味している。
要介護者の扶養、とりわけ介護についてはこれまで、日本では、“介護は家庭(家族)の問題”という意識があり、「両親は息子(特に長男)や親族が面倒をみるもの」という価値観があった。
しかし、少子高齢化が進展する中、女性の社会進出や核家族化が進行し、又、医療の進歩に伴い寿命が延びたことなどにより、寝たきりや認知症などの要介護高齢者の増加などから、介護期間も「看取り三月」(高齢者を昔は三ヶ月家で看取れば亡くなるという状況を言っていた)などではなくなり、看護期間も長期化したことなどにより、介護を行う家族(配偶者や子)もまた高齢者であるという「老老介護」の問題なども浮かび上がっている。
さらに、認知症の家族を介護している人も認知症の症状があるという「認認介護」の状態も見られる(※7参照)など、家族にとってはより重い負担となっているが、こうした中で、介護に対する負担感から、介護うつや介護ストレス(※8参照)に陥ったり、介護が必要な家族を虐待してしまったり、挙句の果てには、老老介護の苦労や負担に耐え切れず、介護する子が親を殺害するなどのあまりにも哀しい犯罪にも繋がっている。そういった状況は、介護する側にとっても、介護される側にとっても非常に不幸なことである。
介護は、介護する人自身が心も体も健康であることが大事であり、頑張りすぎると、介護をしている人の体も心も病んでしまうのである。
このように日本の家族構成の変化してきた社会では、果たして、一体要介護の高齢者を今後どのような仕組みで、どこで、誰が介護していくのか。従来のサービスを維持していくのか、それとも抜本的な見直しが必要なのか。そのような高齢者の介護問題への対応が迫られることになった。
こういった問題が生じてきたことから、日本の介護保険制度は「介護の社会化」を目的として、要介護高齢者の介護に関する責任を社会的に担う制度として2000(平成12)年4月年スタートしたのだが、その目的はどの程度達成されたのだろうか・・・・。

厚生労働省は2014年3月、25日、特別養護老人ホーム(特養)に入所できていない高齢者が、2013(平成25)年度は52万2000人にも上るとの調査結果を発表している(特別養護老人ホームの入所申込者の状況 |報道発表資料参)。
これは2009(平成21)年12月の前回集計の約42万1千人より4年間で約10 万人、24%増えた。
待機者全体の3分の2を占めているのは、食事や排せつに介助が必要な要介護3~5の中・重度者で約34万5千人に上る。待機者の中でも他の介護施設には入らず、自宅で特養の空きを待っている人は25万8千人(49.6%)もいる。
毎年、各自治体が特養整備を進め、入所者数の枠は2009年時点から7万4800 人分広がっているが、急速な高齢化の進行で、自治体が特養を整備するペースを入所希望が上回り待機者が増加したことになる。
これに対して政府は在宅介護への移行を促しており、特養へは原則、要介護3以上に限定する方針の介護保険法改正案を国会に提出していて、2015年度施行を目指しているようだ。
特養ホームに入れない待機者の受け皿となるのが、在宅介護であるが、これは、自宅で暮らしつつデイサービスホームヘルパーを利用したり、配食や見守りなど一定のサービスが付く高齢者向け集合住宅へ入居したりするのを見込んでいる。
サービス付き高齢者住宅(サ高住)を含めた「有料老人ホーム」の数は、民間企業が運営に参入したこともあり、厚労省の調べで2012年には約7500 と4年間でほぼ倍増しているようだが、特養での介護を望む高齢者が依然多い。
それは、特養が有料老人ホームなどより比較的料金が安いことと食事や入浴、排せつを含め、日常生活全般で手厚い世話を受けられるし、負担額が少なくて済む利点が希望者を増やす理由になっている。待機者の中には「症状が軽いのに早めに申し込む人もいる」との傾向を指摘する地域もある。
その半面、運営費の大半を介護保険で賄い、入所者1人当たりの給付額は月30万円近く保険財政には重荷となっている現実がある。政府方針は症状の重い人に限って特養で受け入れる法改正を目指しているが、ギャップが浮き彫りとなった格好だ。
詳しくは、以下参照。
週間介護情報第85号

いずれにしても、この厚労省の調査が、在宅サービスの供給量が増えたにもかかわらず、特別養護老人ホームなどの介護施設への入所希望者が依然として根強いことを表しており、在宅サービスの利用は増えているものの、在宅介護の主力部分は依然として家族が担っているケースが圧倒的多数であるなど、現状においては、介護者の身体的、精神的、社会的負担が軽減するまでには至っておらず、厚生労働省が目論んでいる「在宅介護」が利用者のニーズを満たすには条件が整っていない現状を露呈していることを示しており、今後のより多様なサービスの開発や普及が求められるということだろう。

厚生労働省が目論む社会保障制度の基となっているのは2025年問題である。
高齢化が進むわが国では、社会保障費は、2012年度109.5兆円(GDP比22.8%)となり、100兆円を超えた。2025年度には148.9兆円(同24.4%)にまで増加する見込みである(出典:厚生労働省社会保障審議会資料12年4月25日「資料4-1社会保障に係る費用の将来推計の改定について」参照)。
2025 年には、4 人に1 人が75 歳以上の後期高齢者になるという超高齢社会が到来するわけだが、75 歳以上ともなると、加齢に伴う心身の機能低下や無数の慢性疾患を抱えているケースも多く、その一部は社会的入院患者や要介護者になっており、団塊世代の年齢が上がるごとにその比率は高まっていき、負担がさらに増えると予想されている。
このような状況のもと、限られた財源で現状のまま社会保障を維持し続けることは困難であり、厚生労働省は2025年を1つの区切りとして医療・介護における改革を行っている。その1つが2012(平成24)年度診療報酬・介護報酬同時改定であったが、このような診療報酬による政策誘導が今後も続くだろうという。
医療機関は地域における役割を明確にし、他の医療機関や介護施設等との連携をすることが求められており、在宅医療(自宅で医師や看護師に訪問され治療を受ける)も推進される。
つまり、少子高齢化により、病院や介護施設が足りず、看取りまで患者を看ることができないことから、今後、国の政策も「脱施設」・「脱病院」そして、「在宅」へと医療・介護財源の問題もあり、在宅での医療・介護支援へのシフトを進め、深夜の往診や自宅での(サ高住)「みとり」の報酬を上げて、医師らが積極的に取り組むように促そうというわけだ。
だが、在宅で介護ができるのは同居世帯であり、「老老介護・認認介護・高齢者のひとり暮らし世帯」などでは、現実的に無理がある。
そうすると「高齢者が安心して住める住まいの普及」が絶対に必要になってくる。それが、「サービス付高齢者住宅」の(サ高住)なのだが・・・。事業者が不必要な介護保険サービスを提供したり、自社の介護利用を入居の条件にしたりといった事態が横行し問題となっている(※9参照)。
サービス付き高齢者向け住宅の費用は「一般型」と「介護型(特定施設入居者生活介護)」で異なるが、主に自立した人を受け入れる一般型ではなく、介護型のところは、介護サービス費は、要介護度などによって異なり、要介護度が高くなるほど、高く設定されており、また、施設の設備や体制、施設で対応する処置やサービスなどに応じて、色々な介護サービス加算が発生し、入居費用も、数千万円かかるものが多く、だれでもが入れというものではない。老後安心して生きてゆくためにはそれ相当の金がなければひどい目に遭いそうだ。
少子高齢化による総人口の減少が日本経済の今後の問題として、しばしば取り上げられるが、本当に問題となるのは、総人口や、総労働力などではなく、介護の労働力(介護者)確保が深刻な問題となることである。そして、医療は介護よりさらに多くの労働力を必要とするが、現在医師不足も言われているが、医師以外の看護婦等医療従事者の賃金は経済全体の平均に比べて高いとは言えず、人員確保は容易でないと言われており、今後の需要増に応えられるかが大きな問題となるだろうとも言われている。
2013年の男性の平均寿命が前年を0,27歳上回り、80,21歳となり、初めて80歳を超えた。女性は前年より0,2上がって過去最高の86,61歳となり、2年連続の世界一。男性の平均寿命は前年の世界5位から4位に順位を上げたことが厚生労働省が、7月31日に発表した「簡易生命表」で判った(平成25年簡易生命表参照)。
又、2014年9月12日、「敬老の日」を前にした厚生労働省の調査で 全国の100歳以上の高齢者が過去最多の5万8820人に上ることが分かった。女性が87.1%を占め、初めて5万人を超えた。前年から4423人増え、44年連続の増加だという(※10参照)。これから先寿命は何歳まで伸びるのだろう。
長寿祝いには様々なものがあるが、数え年60才で行われる「還暦」のお祝いなどは、寿命が長くなった日本では今や長寿祝いというには早すぎる年齢となった。現役を引退したサラリーマンが年金ももらえない。そのうち70才位まで働かないともらえないだろうと言われている。
現在存命中の日本一(長寿世界一でもある)は116歳際の大川ミサヲさん(女性)であるとテレビで紹介されていたが、お元気なのにはびっくり。長寿の人を見ていると、大家族の中で大勢の子供や孫に囲まれて明るく幸せに過ごしている人が多いようだ。
しかし、何によらず、いいことずくめは、ないものであり、寿命もそうで、長寿に恵まれた人だけが知る悲しみもある。
介護老人保健施設や病院のデイケアを訪れて「出前短歌教室」をおこない高齢者の短歌づくりの手伝いをしてきたと云われる医療法人耕和会迫田病院の伊藤一彦さん(評議員、宮崎県立看護大学 客員教授)が、そんなお年寄りの短歌を 『百歳がうたう 百歳をうたう』(、鉱脈社刊)という本にして出版されている。それ等の歌のうち、ブログで紹介されているものを一部、以下に引用させてもらおう。

・一日中言葉なき身の淋しさよ君知り給え我も人の子       東京 103歳 高橋 チヨ

・幾度か友を送る日重なりて辛さを人は長寿ともいう        北海道 101歳 長家 ミノ

・七夕に百歳になっても願いごと名残りはつきぬこの世の中に 熊本 100歳 友枝 巴

他の人がなかなか話しかけてくれない孤独感(高橋さんは耳が遠い)、長家さんは友人をつぎつぎに送らざるをえない悲しみを歌っている。ともに心に深く残る歌であるがつらい内容だ。友枝さんは「名残り」と言っているが、この「名残り」が尽きぬからこそ人は苦しくても、悲しくても、寂しくても、一生懸命に生きるのだろう(※11参照)。
寿命が延びれば延びるほど、自分の周囲から、友達や知人が一人づついなくなってゆく。私などやっと後期高齢者の仲間入りをした程度だが、呑兵衛だった私が仲良くしていた呑兵衛友達などは、もう誰も居なくなってしまった。悪たれ子世にはばかるということか、内臓が人一倍丈夫だったからだろうか。
大勢の家族に見守られて生活している人は良いが、そうでない人は、歳をとればとるほど孤独になる。その上、体の自由が利かなくなって、介護をされながら生きてゆかなければならなくなったことを考えたりしていると、私なども、時々落ち込んでしまう。
ところで、「健康寿命」という言葉を知っいますか?
WHOが2000年にこの言葉を公表したもので、健康寿命とは、健康上の問題がない状態で日常生活を送れる期間のこと。したがって、平均寿命と健康寿命との差は、日常生活に制限のある「不健康な期間」を意味している。
厚生労働省は、2010(平成22年)年の統計では平均寿命と健康寿命(日常生活に制限のない期間)の差は、平成22年で、男性9、13年、女性12、68年となっているそうだ(ここ参照)。
今後、平均寿命の延伸に伴い、こうした健康寿命との差が拡大すれば、医療費や介護給付費の多くを消費する期間が増大することになるので、疾病予防健康増進、介護予防などによって、平均寿命と健康寿命の差を短縮することができれば、個人の生活の質の低下を防ぐとともに、社会保障負担の軽減も期待できる。…というのであるが・・・。
私も元気で長生きはしたい。私が思うには、恐らく、健康寿命が延びれば、人生における「不健康な期間」のパーセンテージは下がるかもしれないが平均寿命も延びるだろう。
年を取って、風邪もひかず何の病気もしないで死ぬなんてことはできないだろう。一年多く長生きすれば、その分、個人としては、医療費もいるし、食事代等の生活費も多くかかる。
しかも、今の日本の経済や社会、そして、社会保険の状況を見ていると、物価は上がり、税金も医療費等もどんどん上がるが、所得のない年金生活者の年金額はどんどん減額されてゆく。これから先、老人が生きてゆくのにどれくらいのお金が要るのだろう。少々の貯蓄では心配でしようがないが・・・。
今ピンチにある国や自治体の年金財政や社会保険料の負担も寿命が延びれば延びるほど増えるのだが・・・、こちらの方は大丈夫なのか?。
先日厚労省は、特別養護老人ホーム(特養)の相部屋代について、一定の所得(夫婦二人所帯で本人の年金収入が211万円超、単身所帯で155万円超)のある入居者には1万5千円を軸に全額負担してもらうことや水道光熱費の値上げなどを提案しているという記事が載っていた。(10月30日朝日新聞)。この様な、負担はどんどん増えるだろう。長生きすればするほど、収入は少なくなり支出は増えてゆく。楽には死なしてもらえなくなる。
そのため私達夫婦は、病気になって、延命のための治療だけはしないことを医師あての紙にし残している。

介護保険制度が担った「介護の社会化」を在宅の介護環境を整備しようということで、ホームヘルパーとかショートステイとかを増強してきたが、在宅の介護の環境整備が整えば整うほど、在宅の介護環境の限界が明らかになる。また在宅の介護環境が整備されればされるほど、在宅での介護環境の限界を止揚する新しい介護ステージを準備しなければいけなくなってくるわけだ。
つまり、多様で豊富な介護サービスができたからこそ、介護の長期化・重度化・高齢化がはじまったということであり、逆に、既に困難な在宅介護の事態が進行していたからこそ介護保険のような施策が登場してきたとも言えるわけである。これは実は介護保険サービスがもたらした一種のパラドックスでもある。
最近の若い人には、結婚もせず、子供もつくらない人が大勢いる。それが少子化の原因であるが、若いうちは、好きなことをして自由に生きるのも良いだろうが、自分の老後がどうなるかは十分に考えておかなければいけないだろう。
安倍政権は今後の日本の発展のためには女性の活躍を期待しており、女性が社会に出てバリバリ仕事をしてもらえるよう環境づくりに努力している。そして、一方、少子化を無くすため、女性が働きやすい環境づくりの一環として子供を預かる保育所を増やそうとしている。ここでも、問題になるのが、保育所と保育士の不足だろう。
少子高齢化の中での介護問題は若い人が少なく要介護者を介護する人が足らないこと。又、その介護者への報酬を十分払う費用がないことである。
介護をしてもらわなければならない老人は寿命が延びて必然的に増加し、少子化を無くすために子供を増やそうとするが子供を産んだ女性は、ますます社会へ出て働く人が増えてゆく。
介護を必要とする老人を介護する人がいない時に、どんどん子供を増やして、生まれたその子供たちは保育所に預けて働きに行く。一体、どれだけの保育所と保育士が必要となるのか。そして、その保育は誰がするのか。ここにも、介護と同様の人手不足や費用の問題が横たわっている。
女性の社会進出促進と、子供を多く生み、育てること。いずれも理想的なことであり、一日も早くこれらを実現できることを期待したいが、ここにも、新しい社会制度が、新しい介護実態を作り出す原因にもなれば、逆にその結果にもなっている介護保険制度と同様のパラドックスがあるように思えるのだが・・・。

(冒頭の画像は、介護の日ポスター。2013年度のもの。厚生労働省HP掲載のもの借用。)
参考:
※1:厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/
※2:わかりやすい年金講座
http://www.geocities.jp/f05_west/anenkin01.html
※3:はじめに - 星 多絵子 | ブクログのパブー
http://p.booklog.jp/book/63920/page/1511644
※4:野口悠紀雄 2040年「超高齢化日本」への提言 - ダイヤモンド・オンライン
http://diamond.jp/category/s-noguchi2040
※5:関節疾患:メルクマニュアル18版日本語版
http://merckmanual.jp/mmpej/sec04/ch034/ch034a.html
※6:社会保障・税一体改革 |厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hokabunya/shakaihoshou/kaikaku.html
※7:No.25–増えている「認認介護」-80歳夫婦の11組に1組も! | 公益社団法人認知症の人と家族の会
http://www.alzheimer.or.jp/?p=3404
※8:介護うつの予防法-いい介護どっとこむ
http://iikai5.com/mental/depression.html
※9:東京新聞:介護漬け横行 高齢者住宅 自治体の半数問題視:社会(TOKYO ...
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014102602000134.html
※10:100歳以上、最多の5万8820人 女性が87% :日本経済新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG12H0C_S4A910C1CR0000/
※11:心を表わすよろこび | 医療法人耕和会 迫田病院
http://www.kowakai.jp/letter/1127/
共生社会政策(内閣府)
http://www8.cao.go.jp/souki/index.html
Ⅴ.「介護の社会化」と家族介護者支援を考える介護保険 10 年の検証
http://www.ritsumeihuman.com/cpsic/model4/129_157.pdf#search='%E4%BB%8B%E8%AD%B7%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%8C%96'
介護労働の実態と課題(Adobe PDF)
http://www.f.waseda.jp/k_okabe/semi-theses/12yuiko_yokomizo.pdf#search='%E7%A6%8F%E7%A5%89%E4%BB%8B%E8%AD%B7%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%93%E3%82%B9+%E3%81%AE%E5%95%8F%E9%A1%8C%E7%82%B9+%E8%81%B7%E5%93%A1'
介護保険制度 解説・ハンドブック(手引き) - WAM NET(ワムネット)
http://www.wam.go.jp/content/wamnet/pcpub/kaigo/handbook/
内閣府;平成24年版 高齢社会白書(全体版)
http://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2012/zenbun/index.html
介護 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8B%E8%AD%B7