今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

集団疎開(そかい)の日

2005-06-30 | 記念日
今日(6月30日)は「集団疎開(そかい)の日」
1941(昭和16)年、当時、小学校は国民学校と呼ばれ、その頃の中等学校以上では、軍事教練が授業の中に入り、工場等で働く学徒動員がされるようになっていた。1942(昭和17)年には、東京、名古屋、神戸などが、米軍機による本土初の空襲を受け、又、同年ミッドウェー海戦での大きな打撃を被り、更に、翌1943(昭和18)年にはガダルカナル撤退を余儀なくされた日本軍は、制空権、制海権を失い、次第に戦況の敗色が濃厚となっていた。そして、アメリカ軍の本土襲来がさしせまった1943(昭和18)年12月、政府では、都市疎開実施要領が閣議決定され、重要都市の人員、施設、建物などを地方分散させることが決まった。翌1944(昭和19)年3月には、学童の縁故疎開を実施、ついに、6月30日には、「学童疎開促進要綱」が決定され、疎開区域にある国民学校初等科の3年から6年までの子どもたちを疎開させることにした。疎開区域とは、東京都の区部のほか、名古屋市、大阪市、尼崎市、神戸市、横浜市、川崎市、と今の北九州市(当時は門司、小倉、戸畑、若松、八幡の各市)であった。学童疎開は、保護者の申請によって行われる建前であったが、実際には、半強制的で、これを拒否するのは難しかった。
「疎開」は もともと軍事用語のようであり、「広辞苑」を見ると「疎 開」とは、・疎通させてひらくこと。・戦況に基づいて隊形の距離・間隔を開くこと。・空襲・火災などの被害を少なくするため、集中している人口や建造物を分散すること・・・・とあり、都市で足手まといになる者を地方に送り出して、都市の防空体制を強化するとともに、将来の戦力となる子どもたちを温存するためのものである。
農村の疎開先では、旅館や、寺院、農家などが宿舎に当てられたが、当時は、農村だからといって、十分な食料があったわけではなく、食糧不足であり、わずかな配給が頼りであったが、疎開児童たちは一食分の食料を3度に分けるよりも、さらに少ない量を支給されたという。
そして、敗戦後、混乱する都市に戻ってきた子供達は、そこでも更に厳しい飢えと戦わねばならず、特に、戦争で、家族を失い浮浪児となった子供達は、靴磨きをしたり、物乞いをしたりしなければ食べていけず、これまで以上の苦難の道が待っていたのである。戦争は、単に、大人たちが戦場で闘っているだけのものではなく、その影で、このような小さな子供たちまでが飢えと必至に戦っていたのである。
私はこの年代には、まだ、小学校への入学前であったが、神戸は、空襲が激しく、住んでいられなくなり、父親だけが焼夷弾から家を守るために家に残り、母親と下の弟・妹2名とともに高砂市の親戚の家へ、そこも空襲が激しくなり住んでいられなくなり、徳島の母方の田舎へ疎開していた。幸い、母方の田舎は、徳島の豪農とまではいえないものの大きな農家だったので、喰べるものには不自由せず、恵まれた環境であった。しかし、戦争が、終わって、1年ほど経過してから、神戸へ帰って来た時の家は、前に済んでいた家は焼夷弾で焼かれてなくなり、当時、家を建て直すにも材木ほか建材もなく、仕方なく、他の場所の焼け残った家を買い取って少し、手直ししただけの家であった。父の商売の都合上辺鄙なところは困るので、街の中の駅前の便利なところではあったが、「向う3軒両隣」なんて言葉があように、本当に家の周りは焼け野原であり、まともな家といえるものは、たまたま、焼け残った家が、両隣に7~8軒あっただけ。その近くには、バラック小屋のような家や、防空壕に住んでいる人さえいた。
それでも、私の父は、身体が小さく目が不自由なこともあり、徴兵されておらず、商業で、ある程度の収入はあったので、まともな人の住める家など手に入れていたし、戦後、食べるものがなく、皆が飢えていたときに、芋や雑炊のようなものとはいえ、飢えることがなかったのは、幸せ中の幸せであった。本当に恵まれていたことを今でも感謝している。
以下参考の「歴史記録映像」では、当時の学童疎開の状況が動画で見れるよ。疎開先では、自分のことは、すべて自分で始末しなくてはならなかった。掃除、洗濯などは低学年の子供たちでも最低限のノルマだった。それが中にはプレッシャーになった子もいただろうが、多くの子供には成長にプラスになったのではないだろうか。そして、敗戦後、この時代の子供達が、貧しさから抜け出す為に、そして、豊かさを求めて休みもとらずに猛烈に働き、今の日本が築かれたのである。今の日本の子供達は当時と比べて、どれだけ恵まれていることだろう。それこそ、天国と地獄ほどの差があるだろう。しかし、物質面での豊かさと引き換えに、心が病んでいるように思われる。それは、食べるものもなかった時代、この当時に飢えていた子供達が成長し、親となり、自分達の味わった苦労を自分の子供達に味あわせたくないという親心から、少し、過保護に育てすぎたのではないかと思っている。子供にも子供なりの役割と試練を与えないといけないのではないだろうか・・・。
(画像は「疎開学園素描」のうちの「朝食」子どもたちの前にあるのは、どんぶりご飯と湯のみ茶碗ひとつだけ。おかずなどはない。朝日クロニカル、週刊20世紀掲載のものより抜粋)
参考:
歴史記録映像-昭和19年中期頃
http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/p-rek1/p-sho6/p-s42/IPA-rek570.htm
歴史記録映像 動画 p-223.mpg ⇒ 昭和19~20年 ⇒ 昭和19年中期頃
【日本の学童疎開】 1944年、本土空襲に備えて国民学校初等科児童の疎開が促進される。映像は、疎開先の寺で授業を受けたり、広い縁側で並んで昼寝をしている児童。
歴史記録映像動画 p-224.mpg ⇒ 昭和19~20年 ⇒ 昭和19年中期頃
【英仏の学童疎開】 日本だけでなく連合国側のイギリス、フランスなどでも、空襲を避けるため、都市では学童の集団疎開が盛んに行われた。映像は、ロンドンの学童疎開、列車に乗り、親と別れる子供たち。
語り継ぐ学童疎開
http://www.ne.jp/asahi/gakudosokai/s.y/sub1.htm
1944年(昭和19年)世相
http://www.ucatv.ne.jp/~shuumei/20seiki/1944.htm
誰か昭和を想わざる ~流行歌と歴史のサイト~
昭和15年~20年【破局への道】
http://www.geocities.jp/showahistory/history03.html

「星の王子さま」の日

2005-06-29 | 記念日
今日(6月29日)は「星の王子さま」の日。
童話「星の王子さま」で知られるフランスの作家・飛行士のアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの誕生日である。
「星の王子さま」の作者アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリは、1900年、フランスの地方都市リヨンに伯爵家の5人兄弟の長男として生まれた。20歳の時、彼は兵役をきっかけに、飛行士としての道を歩き始める。のちに航空郵便会社に入社、そのときに書いた、航空郵便の飛行士としての体験を書いた「南方郵便機」「夜間飛行」「人間の土地」などで作家としての名を知られるようになる。そして、南米で知り合った美しい女性、コンスエロと結婚をする。第2次世界大戦が始まり召集され、偵察部隊に配属されて、アラスカへの偵察飛行などを行っているが、その後、パリがドイツに占領された為難を逃れて米国に亡命。米国では、亡命フランス人社会の勢力争いなどがあったが頑として加わらず貴族らしい超然とした態度をとり続けたため同国人から非難の浴びたという。亡命中の米国でその苦境の中「戦う操縦士」(1942年)を、その翌1943年に「星の王子さま」を出版した。この出版からほぼ同時期に彼は、連合軍に参加。軍隊に復帰した彼は、空軍パイロットとして祖国フランスのために闘った。1945年年7月31日、フランスのコルシカ島から偵察飛行に出かけた彼は、そのまま消息を絶ちついに還ることはなかった。
「星の王子さま」では、バラの花の言葉に心を傷つけられた王子さまは、自分の星を後にし、7つの星を旅する。そして、王子様が出会った色々な小さな星の住人が出てくるが、その人達はみんな少しずつ、大切な事を忘れてしまっている。王子様は子供の目で彼等を見て、子供の心で考える。そして、最後に地球へ向かい飛行士と出会う。地球ではキツネやヘビとも出会う。
キツネの言葉「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目には見えないんだよ」・・・と。王子様は目には見えない「本当に大切なもの」を見つけ出す。
幼くして弟を失い、第二次世界大戦では、また親友を失うという絶望を味わった彼は、人間にとって本当に大切なものとは何かを十分すぎるほど知った。それは、大人の心の奥にも秘かに息づいている「内なる子ども」の無心な愛。その純一な愛こそが、苦しみの中で人間を根底から支える力となりうるということを・・・。
「星の王子さま」のバラのモデルは美しい妻のコンスエロといわれている。王子さまはバラの花が、この世にたった一本のバラだと思って一生懸命尽くすが、世話をするたびにバラの花の文句は多くなる。でもそれは、王子さまに対していつまでも愛されていたいというバラの思いからであった。お互いに愛し合っていたにもかかわらず、バラの仕打ちをまともに受け取ってしまった王子さまは、友情と愛することを知るためにも自分の星とバラの花に別れをつげて旅に出たのであった。星にいたころはたった一本の薔薇の美しさが大好きだったのに、地球にやってきてみて庭にたくさんの薔薇が咲いているのを見て悲しくなった。自分はありきたりの一本の薔薇を愛していたにすぎないことが悲しかったのだが、キツネとの色々な話から、自分が星に咲いていた一本の薔薇が好きだったのは、水をやり風から守っていたせいで、一本という数をもつ薔薇に恋をしたわけではなかったことを知る。王子様はどこの星の世でもなにより「結びつき」というものが大切であることに気がついて、自分の星に帰る決心をしたのである。この本は、ストーリーの展開を楽しむ意味においては子ども向けの本だが、内容的にはむしろ大人向けのメッセージに満ちている。日本では 1953年に岩波書店が『星の王子さま』の題名で出版した。昔読んだけど、そのときはどこが面白いのかよくわからないまま終わった。同じ岩波書店から、著者の生誕100年を記念し作られた復刻版も出版されている。もう一度、よく、読み直してみたい本である。
(画像は、愛蔵版 「星の王子さま」 岩波書店、著者の生誕100年を記念し作られた復刻版。)
参考:
星の王子さまについて
http://www.lepetitprince.co.jp/prince.html
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ
http://www.pcs.ne.jp/~yu/ticket/saint/antoine.html
松岡正剛の千夜千冊『夜間飛行』
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0016.html




貿易記念日

2005-06-28 | 記念日
今日(6月28日)は「貿易記念日」
1963(昭和38)年、自由貿易推進の為に閣議決定し、通商産業省(現在の経済産業省)が実施。1859(安政6)年5月28日(新暦6月28日)、江戸幕府がロシア・イギリス・フランス・オランダ・アメリカの五か国に、横浜・長崎・箱館(函館)での自由貿易を許可する布告を出し、港を開港、同時に「運上所」が設けられた。貿易に携わる企業だけでなく、ひろく国民全般が輸出入の重要性について認識を深める日として設定したそうだ。因みに、わが町神戸の「神戸運上所」は、1868(慶応3)年の神戸開港と同時に設置された。
日本は資源の少ない国であるため、外国との貿易が非常に重要。そのため、貿易の自由化を積極的に進め、今後とも世界の貿易自由化に力を注がなければならない。戦後、 日本経済が国際競争力を回復するつれ、日本からアメリカへの輸出が増加しはじめ、貿易黒字の増えた日本と、その日本からの輸入で貿易赤字が大きくなった米国との間で、1960年代の繊維に始まり、1970年代の鉄鋼、1980年代の自動車などの分野に貿易摩擦が起こるようになり、半導体・ハイテク分野と、産業構造の高度化につれて貿易摩擦品目も高度化してきた。日本からの「集中豪雨的輸出」が、相手国の企業経営を悪化させ、失業をひきおこすことにもなった。そして、1985年のプラザ合意以降のドル安・円高にもかかわらず,日本は企業努力によって、大幅な輸出超過と国際収支の黒字となり,1984年には世界最大の債権国となる。片や同じ年にアメリカは70年振りに債務国に転落、これによって,日米貿易摩擦はさらに悪化した。
このアメリカが貿易赤字による国際収支の悪化を招いた要因の最大のものは、1971年に「金・ドル交換停止」がなされて以来、アメリカは貿易赤字を気にしなくても良い体質になってしまったといえる。なぜなら、アメリカは、世界の貿易で使われる自国通貨「ドル」を自由に印刷できる権限をもっており、そのドルという紙切れと交換に、欲しいものをいくらでも手に入れることができるようになったからである。
アメリカ人の貯蓄もしないで過剰に消費する体質は、そんなところからきているんだろうね~。しかし、日本も輸入を増やすためには、もっと、国内の内需を拡大しなきゃ~いけないが・・・日本人の貯蓄率の高さも異常。もう少し、消費に回しても良いのだが、政府の無策から、今の時代先が見えないこともあり、老後が不安。この問題が解決しないと消費にはなかなか回らないね。そのようなこともあり、これからも、日米間の貿易摩擦は続くだろう。日本の国際化につれて,対外摩擦は貿易財からサービスや金融などの市場解放要求にまで広がり,問題の解決が急がれている。最近では、アメリカからの牛肉の輸入問題が世間を騒がせたね。 それに、これからは、目覚しい経済発展を遂げている中国からの輸入の急増を背景に、ねぎ、生しいたけ、畳表の農産品3品目についてセーフガードの暫定措置が発動されたことをきっかけに、セーフガードなど輸入制限をめぐる動きが活発化し、日中間の貿易摩擦も起こっている。
これらの輸入制限の話が出てくるとどうしても一部業者や産地の利益を代表する政治家の声が大きくなってくる。これらの問題を論ずる際は、保護の対象となる一部の業種や産地という枠にとらわれず、国全体の利益という観点からその是非を論じて欲しいものだね。兎に角、日本は、貿易なくして、成り立たない国なのだから・・・。
(写真は、神戸商工貿易センタービル)
参考:
経済産業省
http://www.meti.go.jp/
日米貿易摩擦
http://www2u.biglobe.ne.jp/~hmminami/note-masatu.htm
懸念される日中貿易摩擦-拡大均衡を目指して RIETI 経済産業研究所
http://www.rieti.go.jp/jp/columns/a01_0003.html
はてなブックマーク - 貿易摩擦
http://b.hatena.ne.jp/keyword/%E8%B2%BF%E6%98%93%E6%91%A9%E6%93%A6
米中が貿易摩擦解決に向けて合意
http://japan.cnet.com/news/biz/story/0,2000050156,20065614,00.htm
中日貿易摩擦--人民網日文版
http://j1.people.com.cn/zhuanti/Zhuanti_43.html

女性雑誌の日

2005-06-27 | 記念日
今日(6月27日)は、「女性雑誌の日」。
1693(元禄6)年に、ロンドンで世界初の女性向けの週刊誌『ザ・レディース・マーキュリー』が創刊されたことによるそうだ。
ところで、日本初の女性雑誌はなんだろうとちょっと調べてみたら、それは、どうやら、平塚らいてう、本名平塚明(はる)等が、1911(明治44)年に創刊した『青鞜(せいとう)』のようだ。この頃の女性は、民法他の法律により、家父長制に従属させられ、政治活動も禁止されていたが、その反面この時代には、女子大学や専門学校が増設され、女性の知的水準も向上し、社会に出て働く女性も増えてきた。そして、自分が置かれている立場に不満を抱き、自ら表現の場を求める女性も出てきた。そうした女性だけで作られた雑誌がこの『青鞜』である。
「青鞜」はその名前からして「女らしからぬ」名前であった。18世紀のイギリスのサロンで芸術や化学を論じ女権を声高く唱えた新しい女性達が、黒い靴下が常識とされた当時青い靴下(ブルーストッキング)をはいていた故事に倣ったものである。この創刊の辞に揚げられた平塚らいてうの「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である…」という言葉は、当時の女性たちに大きな衝撃を与えた。
平塚らいちょうは『青鞜』の創刊にあたって与謝野晶子に原稿を依頼したが、「女は男にはかないません」と言われ、ショックを受けたという。しかし、一番最初に原稿を送って来たのはその与謝野晶子であり、平塚を感激させたという。次は『青鞜』創刊にあたって晶子がよせた詩である。
山の動く日きたる、かく云へど、人これを信ぜじ。
山はしばらく眠りしのみ、その昔、彼等みな火に燃えて動きしを。
されど、そは信ぜずともよし、人よ、ああ、唯だこれを信ぜよ、
すべて眠りし女、今ぞ目覚めて動くなる。
与謝野晶子は情熱的な女性であるが、平塚らいちょうも負けてはいない。彼女は「新しい女」と呼ばれて、夏目漱石『三四郎』の美奈子のモデルとも言われており、漱石の弟子・森田草平(もりたそうへい)との雪の塩原逃避行、心中未遂事件で世を騒がせもしている。
『青鞜』は、当初は詩歌が中心の女流文学集団であったが、やがて伊藤野枝が中心になり婦人解放運動に発展していった。
しかし、『青鞜』とそのメンバーは“良妻賢母”を主張する人々の痛烈な批判を浴び、1916(大正5)年に廃刊に追い込まれることになる。
女性による女性のための文学雑誌として登場したのが『青鞜』であるが、では、現在、どんな女性雑誌があるのか又、どんな内容なのかなどは、私は男性でもありよく知らない。私が女性誌を目にするのは、病院や銀行などの待合所に置いている雑誌や週刊誌くらいのものだ。そのような場所に置いてある、雑誌や週刊誌は、時間待ちの為に気軽に読めるものが置かれているせいでもあろうが、旅行か、ファッションか、食べるもののことか、芸能スキャンダル、といった内容であり、殆どは、読むというより、見て流す程度のものが殆ど。それで、ネットで、女性の雑誌をどう見ているかをちょっと、調べてみると、昔と比べて「現在の女性雑誌は、確実に質が落ちている」という意見や、最近は女性誌に限らず、「手間ヒマをはぶいて作った」というように、安易な作りの雑誌が増えているという。これは、別に、女性雑誌だけに限った話ではなく、男性の雑誌も含めてそうなっているのだろう。今では、幅広い読者層を満足させるものとしては、取り上げられるテーマーも決まってくるのだろう。質の高いものにしようと思えば、限られた層をターゲットにした専門誌にならざるを得ないのだろうね。
(画像は、雑誌『青鞜』表紙)
参考:
青鞜社(せいとうしゃ)
http://www.tabiken.com/history/doc/K/K081C100.HTM
書評・『青鞜』を読む
http://www.gifu-u.ac.jp/~kameoka/seitoh.html
平塚らいてう(ちょう)
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/hiratukaraityou.htm
森田草平・平塚らいてう心中未遂 (煤煙事件)
http://www.c20.jp/1908/03baien.html
『person』編集長 林るみさんが問いかける最近、女性誌買ってる?
http://www.ewoman.co.jp/report_db/pages/10_010723_4.html


雷記念日

2005-06-26 | 記念日
今日(6月26日)は「雷記念日」
930(延長8)年6月26日、京都・愛宕山から黒雲がわき起こり、閃光一閃、轟音とともに平安京の清涼殿に落雷があり、大納言の藤原清貴が亡くなった。この年の6月は長期間日照りが続き雨が降らず公卿たちが清涼殿に集まり雨乞いの論議が行われていたときである。大納言、藤原清貫は胸を裂かれて即死、紫宸殿でも3人が雷に蹴殺(しゅうさつ)されるなど、5人が死亡したという。このことにより醍醐天皇は病気となり、朱雀天皇に譲位したが、一週間後に崩御する。この落雷は政治的な策略によって太宰府に左遷され、そこで亡くなった菅原道真のたたりであるとされ、道真の霊は火雷天神と恐れられた。そして、当時流行していた御霊信仰や雷神信仰と結合して、彼の霊を祭神とする天神信仰が京都・大宰府を中心に起こった。
京都・北野天満宮に伝わる『北野天神縁起絵巻』(国宝)には清涼殿の落雷の場面が描かれている。雷神の清涼殿襲撃場面は2回ある。最初の襲撃では、髪を逆立て、目をむき、大口を開けた赤鬼と、菅原道真を大宰府へ左遷した張本人、藤原時平が抜刀し、対決する場面が描かれている。この雷神こそが、道真の怨霊だった。
私たちの祖先は、山や木や岩、あるいは風や火や水といった自然の現象の中に神の存在を感じて畏れ敬っていた。そして部族の者達が飢え苦しむことの無いように、農耕や狩猟や漁業の収穫をそうした自然の神に祈った。これが天神様の原型であった。農耕民族にとってとりわけ大切なのは雨で、その雨を降らす雷様を、古代人は「天神」として崇拝していたのである。つまり、天神は、もともと、地神(くにつかみ)に対する天神(あまつかみ)の総称で住天の神をさす。道真以前にも北野には天神が祀られ(「続日本後紀」)、藤原基経は毎年、北野の雷公に年穀豊穣を祈っている(「西宮記」)。天神信仰とは、古くからあった農耕祈雨と深く結びついた雷神信仰であったのである。後に、天神が牛を聖物としたのは、殺牛祭神と関係があるのだろう。
兎に角、この落雷が道真の霊が成仏できないでいることに原因があるとされ、その霊をなだめるために、やがて、道真の霊が天満大自在天とか太政威徳天(だいじょういとくてん)と尊称されるようになると、あらゆる災難をもたらす悪神たちを支配する神だと考えあられるようになり、そして、災難をおこす、悪神を統御している道真を祀ることで、もろもろの災難から逃れることが出来るのだとされた。そして、道真を祭神とする天神信仰が流布するとともに、日本各地の天神は、天満大自在天天神の眷属だと考えられるようになり、道真はそれらの天神を支配統制する神として各地に歓請されるようになったという。(「国内神明帳」)
昔の人は雷を、雲の中にいる神様や魔物が暴れているものだと思っていた。
しかし、科学が発達した現代では、雷は自然現象のひとつであることが判っているが、なぜか電力会社が「落雷情報」を提供しており、調べてみると、雷の電流は、非常に大きなエネルギーであり、送電線などに落雷があった場合,送電線がショートすることがあり、大量の電流が流れてしまうため、そのままにしておくと、電気を送るための設備が壊れてしまうため、落雷を直ちに検出して。変電所の遮断器で回路を切離すことで、被害を防ぐ必要があるからだそうだ。(東北電力HPより)
そういえば、昔は、雷による被害での停電が多かったが、最近は、ないな~。去年は、台風23号の塩害で5時間くらい停電になったが・・・。
昔から、「地震・雷・火事・おやじ」が怖いものの代表であったが、やはり、あの雷のゴロゴロと腹に響く大きな音は怖いね~。ただ、この頃の「おやじ」は、怖いというより、やさしくなったというか、少なくとも「威厳」は感じられなくなってしまったな~。
菅原道真に関する記念日には、この「雷記念日」のほか、天神の縁日 毎月25日 。左遷の日 1月25日など がある。「左遷の日」については、私のこの1月25日のBlogでも取り上げたので見てね。ここです。
つけたし:今年は空梅雨で、雨が降らず、困り者。雨を降らす雷神様にお願いしなきゃ~ね。
(画像は、落雷の様子。東北電力雷情報より)
参考;
「御霊神」の誕生(2)・・・9殺牛祭神
http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/genbunronshu/25-2/itoh.pdf
国内神名帳
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/newpage3.html
西宮記(古写本)
http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~tsubota/chrono/seikyuu1.html
雷情報リンク集【HIR-NET提供】雷リンク
http://www.hir-net.com/link/weather/thunder.html