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記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

『笈の小文』の旅に出た松尾芭蕉が、大坂から舟で神戸に着いた

2011-04-19 | 歴史


冒頭の画像は、「蝸牛 角ふりわけよ 須磨明石」
須磨浦公園内にある芭蕉句碑。
(※印を付してあるものは以下に記載の参考を参照ください)
『笈の小文』は松尾芭蕉俳諧紀行(旅行記)である。
芭蕉独自の蕉風俳諧は、1684(貞享元)年の旅と、旅先の名古屋で成った連句集『冬の日』(※1の芭蕉七部集)によって、確立したとされている。その旅の記は冒頭に、「野ざらしを心に風のしむ身かな」の句を揚げるところから『野ざらし紀行』(※1の芭蕉文集)と呼ばれる。翌年4月末に芭蕉は江戸に帰ったが、蕉風開眼の句として知られる「古池や蛙とびこむ水の音」が芭蕉庵(※2)で作られたのは、その翌・1686(貞享3)年のことである。
さらに芭蕉は、1687(貞享4)年8月の『鹿島詣』(※1の芭蕉文集)の旅をした後、10月より翌年8月にかけて、10ヶ月に及ぶ『笈の小文』『更級紀行』(※1の芭蕉文集)の旅などによって心境を深め、蕉風俳諧は次第に完成の域に近づいた。
『笈の小文』冒頭の、「旅人とわが名呼ばれん初しぐれ」の一句によっても『野ざらし紀行』の場合と、旅に向かう態度が大きく異なっていることがわかる。
ただ、この『笈の小文』は、1687(貞享4)年の10月、郷里伊賀への4度目の帰郷に際して創作された作品を集めて一巻としたものであり、『奥の細道』のように芭蕉自身が書いた旅行記ではなく、後に、芭蕉自身が書いた真蹟短冊や書簡などをもとに、芭蕉の死後、大津の門人川井乙州(※1の芭蕉関係人名集)によって編集されたものだそうであるが、内容的に必ずしもまとまった作品とはいいがたい点があるようだ。
この旅そのものは、1687(貞享4)年10月25日に江戸深川を出発し、翌・1988(貞亨5)年8月末に江戸に戻るまでの長期のものであったが、芭蕉は、旅の途次に、わざわざ空米売買(帳合取引参照)の罪で名古屋を追放となり、三河国保美(ほび)(愛知県田原市保美)に隠棲(いんせい=俗世間を逃れて静かに住むこと)していた坪井杜国 (つぼいとこく。※1の関係人名集)を訪れこの先の旅で合流しようと密約を交わして分かれたのか、その後、芭蕉は故郷伊賀上野で正月を過ごし、2月に、伊勢神宮参拝旅行に出かけ、次は吉野への旅立ちであるが、芭蕉は大胆にもこの伊勢で、刑に服し伊良湖で謹慎しているはずの杜国と合流し、2人旅で吉野の花見をし、高野山和歌浦そして、奈良唐招提寺などを見物して、大坂(大阪)へ出ると、4月19日には、尼崎より舟で神戸に着き、4月20日、須磨明石へ赴き、翌4月21日には神戸の布引の滝を見物後、山崎街道(西国街道のうちの六宿駅)へ入り箕面の滝などを見物した後、京に入って分かれるまで、100日ほどの間一緒に旅を楽しんでいる。
ちなみに、杜国は、芭蕉が特に目を掛けた門人の一人であり、彼を幼名のまま「万菊丸」と呼び続け、真偽のほどは不明だが、「寒けれど二人寝る夜ぞたのもしき」の句(前年11月伊良湖の杜国を訪う為越人と豊橋の旅籠に泊まった折の感)からも感じ取られるように、彼を“心も身体も”愛していたようである。
杜国はこの旅の翌々年34歳の若さで死去。芭蕉の「嵯峨日記」(※1の芭蕉文集)4月28日には、亡き杜国への思いが綴られている。芭蕉と杜国の関係が師弟以上のもの(同性愛)であったとする俗説はここに由来するようだ(※4)。
それはさておき、芭蕉の『笈の小文』の話に戻そう。芭蕉の『笈の小文』の旅は、4月19日に船で尼崎から神戸(=兵庫津)に着き1泊している。
現在の神戸港が出来たのは明治維新以降のことであり、古くは日本書紀に出てくる神功皇后伝説(※5)の時代に始まり、奈良時代から大輪田泊と呼ばれ、浜がのように伸び、沢山の松林があり、有名な景勝地であった輪田(和田)岬(輪田御岬)の東側にいだかれた天然の良港をなしていた。
平安時代に平清盛による大修築により中国宋との貿易福原遷都で大いに栄えたが、源平合戦(治承・寿永の乱)により焼却するが、栄華を極めた平家滅亡後、鎌倉時代に東大寺の俊乗坊重源の修築により、国内第一の港として「兵庫津」と呼ばれるようになり、京・大坂の外港・経由地として栄えた。又、江戸時代には、西宮宿(現在の西宮市)と大蔵谷宿(同明石市)とをつなぐ旧山陽道(西国街道)の宿場として兵庫津が存在した。

上図は、『摂津名所図会』に描かれた“尼崎より須磨浦まで遊覧の風景”であり、同図会には瀬戸内海の沖から本州を眺めた風景が描かれている。(以下参考の※6:の山陽道の中の“兵庫津”にて拡大図が見られる。)
瀬戸内を行き交う白帆の船と共に右頁に尼崎、頁中央には和田岬と兵庫津、その向こう左頁には須磨、鉄拐山(以下参考の※7)、鉢伏山一ノ谷が、そして左遠くには、播磨国が見える。
須磨の浦とは大阪湾と播磨灘を分ける明石海峡の東口にあたる海岸線一帯を指し、風光明媚で、須磨は明石と共に白砂青松の景勝地として名高い。
古来より『枕草子』(須磨の関、※8)『万葉集』(海女の塩焼き、※9)『古今和歌集』などで多くの歌に詠まれている。
平安末期の歌僧西行法師山家集に以下の歌がある。
「播磨潟なだのみ沖に漕ぎ出でてあたり思はぬ月をながめむ」(311)
「播磨潟(がた)なだのみ沖」とは、播磨灘の沖を言っており、山などによって視界を遮られることもない播磨灘の沖に舟で漕ぎ出て、沖合の海で、人目など周囲を気にすることもなく心ゆくまで月を眺めよう・・・と言った眺望を込めた歌のようで、それは西行の囚われのない自由な境地への憧れでもあったようだ(※10の西行)。
また、先にも触れたが、芭蕉は1687(貞享4)10月からの、『笈の小文』の旅に出る前の8月に『鹿島詣』の旅をしているが、『鹿島詣』の冒頭には、「らくの貞室、須磨のうらの月見にゆきて、「松陰や月は三五や中納言」といひけむ、狂夫のむかしもなつかしきまゝに、このあき、かしまの山の月見んとおもひたつ事あり。」・・・とある。
つまり、京都の貞室(安原貞室。貞門の俳人)が、須磨の浦の月を見に行って「松かげや月は三五夜中納言」と吟じたそうで、その風雅に心を奪われてしまった昔の人が懐かしく思われたので、この秋、鹿島神宮参詣と筑波山の月見をしようと思い立ち旅に出たと言うのである(※1の芭蕉文集鹿島詣)。・・・しかし、結局、雨にたたれて筑波山の名月を見ることは叶わなかったようだ・・・。
この貞室が詠んだという「松かげや月は三五夜中納言」の句の、三五夜は三×五=十五で、仲秋の十五夜のことであり、中納言とは在原行平のこと。『古今和歌集』にある「わくらわに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつ侘ぶとこたえよ(962)」の歌が念頭にあるという。
行平は、文徳天皇の頃、摂津の須磨に籠居させられたことがある。藻塩(もしほ=海藻からとった塩)たれつつとは、藻塩を作るための潮水を垂らしながら。涙に暮れる意の「しほたれ」と掛詞になっているという(※10の在原行平)。
これらを総合すると、「松陰や月は三五夜中納言」の句意は「須磨の裏の白砂に、美しく松のかげを落とす月はと見上げれば、時あたかも十五夜の月であるよ。その昔、須磨に籠居させられた中納言行平もこの月を眺めながら涙に濡れて侘びしく暮らしていたのだろうなあ・・と言うことになるのだろう・・・?ただ、貞室の句として鹿島詣本文に掲げられたものの真の句は「松にすめ月も三五夜中納言」(『玉海集』)のことで、引用は芭蕉の記憶違いによるものだそうだ。
行平の「わくらわに問ふ・・・」の歌は、『源氏物語』に、「おはすべき所は、行平の中納言の、「藻塩垂れつつ」侘びける家居近きわたりなりけり。」という形で引かれている(※11の第十二帖「須磨」第二章第一段「須磨の住居」)。
『源氏物語』のおこりなどについてのいくつかの古注のなかでは、最高の水準にあるとされている四辻善成の『河海抄』には、村上天皇の皇女選子内親王から新しい物語を所望され石山寺(滋賀県大津市)にこもって構想を練っていた紫式部は、8月15日夜、琵琶湖の湖面に映った月を見て『源氏物語』の構想を思いつき、須磨の巻の「こよいは十五夜なりと思し出でて」と書き綴ったのがきっかけだとしているそうだ(※12)。・・・ただ否定説もあるようだが・・。
朧月夜との仲が発覚し、追いつめられた光源氏は後見する東宮に累が及ばないよう、自ら須磨へ退去した。
須磨で行平が侘び住まいした付近に住み、都の人々と便りを交わしたり絵を描いたりしつつ、憂愁の日々を送る源氏を癒してくれたのが、須磨の月であった。
物語のなかでは、「「今宵は十五夜なりけり」と思し出でて、殿上の御遊恋ひしく・・」とあり、月を眺めながら都を回想している(『源氏物語』「須磨」第三章第二段 )。『源氏物語』「須磨」は、行平が須磨に流されたあとの松風・村雨との恋物語なども当然、題材としたと思われる。源氏には、明石の君が登場する。
須磨は六甲山系西端の鉢伏山・鉄枴山が海近くまで迫り、また平地の端にもあたる。山の西に流れる現在の垂水区塩屋との境を流れる小川を「境川」と呼ぶが、この「境川」が古くは畿内摂津・山陽道に属していた播磨の境界であったためそう呼ばれている。このことは後に又触れるが、兵庫県の境界についての歴史は、ややこしいので、とりあえず気になる方は以下参考の※13など参照されるとよい。。
須磨の地名は一般的には、摂津の隅っこの「スミ」が転訛し、それに当て字したものと言われている。「スミ」は「棲む」「(夜を)明かす」に通じ、更には月の「澄む」「明し」にも通じるため、須磨・明石が月の名所となったようだ。
光源氏の須磨での住居跡と伝えられる寺・現光寺(須磨区須磨寺町)境内には、芭蕉の「三段切れ」(※14)の名句といわれるものの句碑がある。以下の句がそれだ。
「見渡せば眺むれば見れば須磨の秋」
この句は、松尾芭蕉が、「芭蕉」という俳号を使う前の「松尾桃青」時代の1678(延宝6)年、「須磨・明石」を題とする句会で詠んだものとされている(※15の第一編第三章 俳諧師 二 談林風の芭蕉 〔2〕)p.7参照)。
「月はあれど留守のやうなり須磨の夏」
「月見ても物たらはずや須磨の夏」
この二句は芭蕉が『笈の小文』の旅で須磨を訪れ最初に詠んだ句であり、このとき、芭蕉らは現光寺境内の風月庵に宿を取ったといわれている(以下参考の※16参照)。この寺は、もとは「源光寺」「源氏寺」とも呼ばれていたそうだが・・・、付近には「藩架(ませがき)」とか「ヤグラ」という字名が残っていて、古代の須磨の関跡だったとも言われている。
芭蕉は行平や源氏らが見たであろう須磨の名月を見たかったのだろう。しかし、はるばる訪ねてきたものの当然ながら、そこには庵の主人はいなかったし、又、謡曲『松風』(※17、※18参照)の松風・村雨の幽霊にも出会えることはなかったようで、その物足りない思いを夏の月の物足りなさにかけて詠んだものらしい。
幾ら古来より有名な須磨の名月であっても、やはり月は秋の月に勝るものはないと、時期外れの須磨訪問をしきりと悔やんでいるようだ。尚、芭蕉の宿泊した日が4月20日だったことから、地元須磨では、この日を 「芭蕉の日」 と呼び、この日を記念して、芭蕉の足跡をたどる「芭蕉ウオーク」などが行なわれている。
芭蕉は須磨見物をした時、須磨では前二句の他に五句読んでいる。
「海士(あま)の顔先(まづ)見らるゝやけしの花」
「須磨のあまの矢先(やさき)に鳴(なく)か郭公(ほととぎす)」
「ほとゝぎす消行方(きえゆくかた)や嶋一ツ」
上記の三句についてはあまり面白くないのでこの際割愛するが、嶋一ツとは淡路島のことだ。句のことについては、※1の『笈の小文』のなかで詳しく解説しているので参照されるとよい。
以下の句はその後、須磨寺(上野山福祥寺)で詠んだもの。
「須磨寺やふかぬ笛きく木下やみ」
須磨寺は、平敦盛の「青葉の笛」と称する笛(『平家物語』では『小枝』(さえだ)という横笛。謡曲では『若葉の笛』という。)を寺宝としている名刹であり、現光寺より、近いところにある。
句意は、“この寺の生い茂った木々の下では、誰も吹いていないのに、この笛の音が聞こえてくるような気がする闇である”といったところ。
一の谷の合戦の前に、平氏は源氏が攻めてくることも知らず、管弦の宴を楽しんでいたが、そのとき16歳の敦盛の吹く小枝の笛の音色には、源氏の軍勢もしばし心を打たれた。
熊谷次郎直実が敵の大将を倒したと思うと、見れば自分の息子ほどの年であったが、それでも泣く泣く首をはねると、腰の錦の袋に笛を見つけて先の笛の主だと知り、悲しみ無常観にひしがれ出家したという。
謡曲『敦盛』(※17、※18参照)では出家した直実が一の谷を訪れ、敦盛の霊と出会い、かつての敵味方を忘れ、今はともに仏法の道を行くものとしてお互いを許しあう。芭蕉が彼への哀惜の思いを句にしたもの。
源平合戦ゆかりの寺として知られる須磨寺境内には、敦盛が身につけていた「青葉の笛」のほか、敦盛首洗い池、敦盛首塚、義経腰掛の松、敦盛と直実の戦いの様子を再現した「源平の庭」また、その「源平の庭」には、『源氏物語』須磨の帖に、光源氏が紫の上を想って植えたという「若木の桜」跡がある(※11の「第十二帖「須磨」第四章第一段「須磨で新年を迎える」)。
この「若木の桜」は、謡曲にも登場し、『須磨源氏』では、日向の国、宮崎の社官藤原興範が、伊勢を参詣する途中、須磨の浦に着き、そこで若木の桜を眺めている翁にその謂れを問うと、ここは昔、光源氏の邸で、その頃よりあった桜木だと答え、源氏の生涯を懐かしげに話す場面がある(※18)。
又、謡曲『忠度』では型を変え、光源氏ではなく平忠度に置き換わり、もと歌人の藤原俊成に仕え今は出家の身である旅僧が、須磨の浦で薪を運ぶ老人(忠度の亡霊)に会い、忠度の墓標である桜の若木のもとで回向を頼まれる。その夜、花の木陰に仮寝した旅僧の夢に武将の姿で現れた亡霊は、自分の歌が『千載和歌集』に入れられたが朝敵ゆえに「読み人知らず」とされたことを嘆き、定家に作者を付けるよう伝言を頼む・・といった話となっている(※17、18)。
作者が忠度であることは周知の事実であったが、朝敵の身となったため、撰者の俊成が配慮して名を隠し、“故郷の花”と云ふ題にて、詠まれた歌のなかから一首だけ、讀人しらずとして入れたのであるが、その間の事情は、『平家物語』巻七「忠度都落」にも述べられている(※19、※20)。詠まれた歌のことは※10の平忠度を参照されるとよい。
謡曲『忠度』の中で、忠度の亡霊が「そもそもこの須磨の浦と申すは、淋しき故にその名を得る。・・・・」と言っているように、奈良・平安時代までの須磨は、田畑が少なく浜辺に漁師の家が点在するだけの寂しい場所であるとともに、そこに伝わる話も悲しいものが多い。
芭蕉は、須磨見物後、“明石夜泊”と題して以下の句を詠んでいる。
「蛸壺やはかなき夢を夏の月」
蛸壺に入っている蛸は、明朝には引き上げられる運命とは知らず、夏の月夜にはかない夢を描いているという句意だが、明日をも知れぬ人生の哀れを客観視した句であると言って良いだろう。ただ、なかなか難しく、句だけを読んでもなかなか理解しづらいだろうから※1の『笈の小文』の解説(ここ)を参照されるとよい。
明石市人丸町にある人丸神社(柿本人麻呂を祀る)の山門前にこの芭蕉句碑がある。
芭蕉が、『笈の小文』を終えた後の4月25日に、伊賀上野の門人猿雖(惣七)に宛てた書簡(ここ参照)があり、この書簡自体が旅行記になっていて、『笈の小文』を補完するものとなっているようだが、そこでは、4月19日に兵庫に夜泊り、20日に和田岬の源平合戦の旧跡や行平の松風・村雨の旧跡を見て、鉄拐山に登りそこから見た景色と一の谷の合戦など歴史上の哀しい出来事などを思い浮かべ「生死事大無常迅速(しょうじじだいむじょうじんそく。=人の生と死こそまさに無常そのものであるの意。)として、「この海見たらんこそ物にはかへられじと、あかしより須磨に帰りて泊る」と書かれており、この書簡の内容からすると、『笈の小文』では、“明石夜泊”と題しているものの、実際の宿泊は明石より須磨に帰っての“須磨夜泊”であったとするのが正しいようだ。
それに、この句は『笈の小文』の句の中でも完成度が高く、この地で即興的に詠まれたというよりは、後から十分に推敲された句ではないかとも言われているし、折角、明石へ行ったというのに、この句以外明石の句が無いと言うのも少々気になるところではある。
『笈の小文』はこの「蛸壺や・・」の句を最後に、この後、「須磨懐古」の文章を載せて終っているが、その懐古文の中に、「淡路嶋手にとるやうに見えて、すま・あかしの海右左にわかる。」とあるが、どこからの眺めかは記されていないが、先の猿雖(惣七)に宛てた書簡には、はっきりと「てつかひが峰にのぼれば、すま・あかし左右に分れ、あはぢ嶋。丹波山、かの海士(あま)が古里(ふるさと)田井の畑(太井畑)村など、めの下に見おろし」と書かれている。

上図は、『攝津名所圖會』矢田部郡下より須磨の浦を描いたもの。
一の谷は源平の戦いで有名であるが、以下参考に記載の※21:『攝津名所圖會』より、上記画像の(左部分をの拡大図〔16〕)を見ると、右頁には、右〔東側〕から鉢伏山の手前ニノ谷、三ノ谷が、左方向(西方面)に並び、この三ノ谷から浜側の古山陽道を西側に熊谷直実に討たれた平敦盛を供養する大きな五輪塔(敦盛石塔)が見える。三ノ谷は現在の須磨浦公園西端に当たる。
その西側左頁の中央付近、浜辺に向かって、川とはいえないほど小さな川「さかい川」(堺〔境〕川)が描かれている。現在山陽電鉄の鉄橋の下を流れている。
この境川が、古くから摂津と播磨の国境とされていたところであり、このあたり、「 赤石(明石)の櫛渕 」 と呼ばれ鉢伏山の断崖が海に突き出し、多くの谷と尾根が櫛の目のように交互に連なった交通の難所であった。
左の頁の上には以下の句が添えられている。
「蝸牛(でんでむし)つのふりわけ(角振り分け)よ須磨あかし(明石)」
この句は、「芭蕉七部集」の1つ「猿蓑(巻之二)に「蛸壺や・・・」の句と共に収録されており、『笈の小文』の終点須磨・明石にて見た光景をよんだもの。
この句には、“この境、「這ひわたるほど」といへるも、ここの事にや ”との前詞がついており「、蝸牛(でんでむし)」は平仮名で「かたつぶり」として詠まれている。
前詞の「這ひわたるほど」は、『源氏物語』「須磨の巻」では「あかしの浦ははひわたるほどなれば云々」、すなわち須磨と明石の間は這って渡れる程に近い距離だという記述があることによったものだそうで、句意は「カタツムリの二本の角、須磨と明石が「這いわたる」ほどの距離であれば、お前の角で片方は須磨、もう一方は明石を指し示してみよ」、というのである.(※1)。名句として有名だが、まだこの句は『笈の小文』の草稿段階では、完成してなかったのだろう。
前詞にある、この境、「這ひわたるほど」の距離という「境」が、当時摂津の西の端である西須磨村と播磨の明石郡(塩屋村=現:垂水区塩屋)との境界である小さな「堺川」のことを言っているとすれば、当然この歌はこの堺川付近で詠まれたもので、芭蕉が明石へ行ったというのもこの地を訪れたことを言っているのではないか・・・。
『摂津名所図繪』によると、「堺川は三ノ谷より西五町にあり。堺川の西は播州塩屋村へ八町なり。」とあるようだ。因みに、三ノ谷は、山陽電鉄須磨浦公園駅から「鉢伏山山上」駅へのロープウェイの索道のちょうど真下の谷である。その山上駅からカーレーター(ここ参照)を乗り継いで山頂付近には回転展望閣があり、そこら一帯が須磨浦山上遊園となっている。
六甲山系の西南端にあるこの鉢伏山は標高は246mと高くは無いが、鉢を伏せた様な形状をして海から一気にそそり立っており、須磨浦公園駅から歩くと、急な登りで約30分はかかる。その鉢伏山から北方徒歩で約10分程のところに旗振山(標高252m)、そこから徒歩約10分のところに鉄拐山(標高234m)がある。源平の合戦では一の谷に陣を構えた平氏軍を攻略するために、その背後の鉄拐山の東南の急斜面を馬で駆け降りて奇襲したという。旗振山からの途中に一の谷の坂落とし(鵯越の逆落とし。※22参照)で降りたとされる地点があり、道標が整備されている。
芭蕉は、どうしても、その鉄拐山に登りたくて、鵯越の逆落としの時に義経を導いたという十六歳の熊王より四つも年下の少年を道案内に雇ったが、少年が途中で疲れたとか言ってごねたりしたようで「麓の茶店にて物くらはすべき」となだめながら、苦労してなんとか案内をしてもらい、這い登ったことが、『笈の小文』の「須磨懐古」の中に書かれている。
非常に眺めのよいところである。今は便利に登れるので、是非一度は登ってみてください。

参考は別紙となっています。⇒ ここ

『笈の小文』の旅に出た松尾芭蕉が、大坂から舟で神戸に着いた(参考)

2011-04-19 | 歴史
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参考:
※1:芭蕉DB
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/basho.htm
※2:深川芭蕉庵跡
http://kkubota.cool.ne.jp/fukagawabashouan.htm
※ 3:芭蕉と伊賀
http://www.ict.ne.jp/~basho/index.html
※4:芭蕉の恋?
http://nara.cool.ne.jp/say-to-say/basyou.html
※5:神戸市兵庫区ホームページ
http://www.city.kobe.lg.jp/ward/kuyakusho/hyogo/shoukai/rekishi/history_2_2.html
※6:兵庫歴史ステーション:兵庫歴史の道
http://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/trip/html/index.html
※7:鉄拐山
http://www.geocities.jp/yamaaruki17/peak/peaktekkai.html
※8:須磨観光協会:須磨の歴史と史跡
http://www.suma-kankokyokai.gr.jp/modules/tinyd3/
※9:たのしい万葉集:兵庫
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/area/kinki/hyogo/home.html
※10:千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin.html
※11:源氏物語の世界
http://www.genji-monogatari.net/
※12:滋賀県石山観光協会 紫式部ゆかりの花の寺 石山寺
http://www.ishiyamadera.or.jp/ishiyamadera/genjistory.html
※13:播磨とは
http://www.asahi-net.or.jp/~fb9d-mk/harima.htm
※14:俳句用語
http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku3-1.htm
※15:芭蕉庵ドットコム:「芭蕉全傳」
http://www.bashouan.com/Database/Zenden/search02.htm
※16:神戸旅行・観光めぐり.:現光寺
http://www.travel.kotomeguri.com/kobe/otera/tem_genkou.html
※17:謡曲を読む
http://vtaizousi.web.fc2.com/
※18:謡曲集目次
http://cubeaki.dip.jp/youkyoku/index.html  
※19:平家物語 総目次
http://www.st.rim.or.jp/~success/heike_index.html
※20:小さな資料室 :忠 度 の 都 落『平家物語』巻第七より
http://www.geocities.jp/sybrma/240tadanorinomiyakoochi.html
※21:『攝津名所圖會』. [正,続篇] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru04/ru04_03651/index.html
※22:神戸市文書館 源平特集:目次
http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/genpei/genpei.html
KOBEの本棚第46号ー神戸ふるさと文庫便り
http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/library/bunkodayori/hon_46.html
玄太郎の部屋:須磨区内(一部垂水区)の旧山陽道を走る
http://www.hi-net.zaq.ne.jp/buhjj003/suma/suma.htm
北部九州説を取る理由-(6)卑奴母離
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/siroztatsunosuke/view/200904?.begin=21
「櫛淵」の検索結果 - Yahoo!辞書
http://dic.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E6%AB%9B%E6%B7%B5&fr=dic&stype=prefix
源平ゆかりの寺・大本山須磨寺
http://www.sumadera.or.jp/
古事類縁:地部/浦
http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/index.php?%E5%9C%B0%E9%83%A8%2F%E6%B5%A6
玉海集 - 古典籍総合データベース
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%8B%CA%8AC%8FW
私と芭蕉
http://www12.ocn.ne.jp/~mizutori/basyou.htm
西出町の歴史と資料
http://www.nishidemachi.jp/rekisi/index.html
明石観光協会:地名の由来 「 赤石伝説 」
http://www.yokoso-akashi.jp/akashi-history.htm
日本紀行:山陽道(西国街道)
http://www.geocities.jp/ikoi98/sanyoudou/sanyoudou1.html
「旅の日」松尾芭蕉が『おくのほそ道』の旅へ旅立った日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/ffaac97a0edd01400c65a29559c7e8f7/?img=09f58ee62b4679767aab415a13cc70a6
『笈の小文』-風来の旅-目次
http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/oinomokuzi.html
芭蕉庵桃青傳
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/bashoden_1.htm

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阪神電気鉄道 が営業開始をした日

2011-04-12 | 歴史
略称「阪神電鉄」または「阪神電車」と呼ばれている阪神電気鉄道は、大阪(出入橋)と神戸(三宮)間を結ぶ鉄道を運営している大手私鉄であり、1905(明治38)年の今日・4月12日営業を開始した。
都市間電気鉄道インターアーバン)としては日本で最も古い。また、プロ野球球団「阪神タイガース」の親会社であることは良く知られている。
2006(平成18)年6月に村上ファンドによる買収問題を発端とする株式公開買い付け (TOB) が成立し、今では、阪急阪神ホールディングスの完全子会社であり、阪急阪神東宝グループの企業となっている(詳しくは阪急・阪神経営統合を参照)。
2009(平成21)年3月20日に西九条 - 大阪難波間)が延伸開業(なんば線)し、近畿日本鉄道(近鉄)との相互直通運転も開始され、神戸方面と奈良などの近鉄沿線を直接結ぶルートが形成され便利になった。
初期の鉄道は18世紀後半、 産業革命により発明された蒸気機関を動力としていた。電気鉄道の実用は、1879(明治12)年に、ベルリン工業博覧会で電機会社シーメンスが世界最初の電車の試験運行を実施したのに始まる。この時の電力は直流を使用した。
1887(明治20)年、エジソン研究所出身のアメリカ人発明家スプレイグ架空電車線方式と共に開発した吊り掛け駆動方式は、モーターの回転力を安定して車軸に伝える事を可能にし、以後半世紀にわたって電車の駆動システムの主流をなした。この結果、路面電車の急速な発展がもたらされ、やがては都市市街地以外への電車の進出をも促した。1893(明治26)年ごろからインターアーバンの建設がはじめられ、1900年までに3000キロほどの路線が建設された。
このようなアメリカのインターアーバン発達の情報は日本にも早期に伝わっていたようだ。当時の日本で電気鉄道を積極的に推進していた電気技師としては、藤岡市助が有名だそうであるが、他にも阪神電鉄の建設に携わった三崎省三(以下参考の※1参照)はスタンフォード大学の電気工学科で教育を受けており、アメリカのインターアーバン建設に携わった同窓には事欠かなかったようだ。
そのため、インターアーバン建設にあたっては技術的な問題よりも、日本の交通事情や規制、経済事情に合致する路線をどう建設するかというのが大きな課題であったようだが、こうした課題を乗り越え、日本で最初に都市間電気鉄道インターアーバンを開業させたのは阪神電気鉄道で(以後阪神電鉄と呼ぶ)であった。
関西地方最初の鉄道として、官設鉄道(現JR)旧東海道本線の大阪-神戸間が開通したのは1874(明治7)年5月11日のことであった。
このとき、神戸-大阪の中間には神戸の手前の三ノ宮(三ノ宮駅)と、西宮(西ノ宮駅)に停車場が設けられたが、発着は1日8往復と少ないうえ駅間距離が長く、やや長距離向きの汽車鉄道であった(※2参照)。
阪堺鉄道(現:南海電気鉄道の前身)は最初の私設鉄道として1885(明治18)年開業し、難波-大和川間を汽車が走った。また、1893(明治26)年摂津鉄道(軽便鉄道)などが開業していたが、これらは皆汽車(蒸気機関車)である。
そして、阪神電鉄が1905(明治38)年に大阪~神戸間の鉄道営業を開始した頃の同業者は、日本初の営業用電車を走らせた京都電気鉄道((1895年営業。1918年京都市に買収され、京都市電の一部となった路面電車)、かつて名古屋市を中心に路面電車を展開していた日本国内2番目(1898年営業)の電気鉄道・名古屋電気鉄道 、旧東海道川崎宿に近い六郷橋から川崎大師まで標準軌で開通した日本で3番目、関東では最初の大師電気鉄道(現:京浜急行電鉄の元となった鉄道、1899年営業)の各電鉄のほか、1903(明治36)年に電車に代わった東京馬車鉄道と大阪の築港~花園橋間に走っていた魚釣り電車(大阪市電=日本初公営電気鉄道。1903年開業。詳しくは以下参考の※3参照。)しかなく、これらはいずれも小型の市内電車であったが、大阪(出入橋)と神戸(三宮)間を34駅 90分で結ぶ、本格的な広軌(=標準軌)高速・による都市間大型電車・郊外電車の運行は、阪神電鉄が最初であった。
阪神電鉄はこの開業にあたって官鉄線(旧国鉄東海道本線)との競合を危惧する逓信省外局の鉄道作業局(1907年に帝国鉄道庁に改組。鉄道省参照)側の反対から私設鉄道法での認可が得られず、この問題を回避するため、鉄道作業局・内務省共同所轄の軌道法準拠による電気軌道として特許を申請した経緯から、集客を目的として西国街道沿いの集落を結ぶルートを選択した名残で各駅間が平均1kmと短く、駅の数が多いのが特徴である。電気を表徴する稲妻でレール断面を菱形に囲んだだけの、開業以来変わらぬシンプルな社紋(社章)に、その歴史が現れている。
上図は阪神電鉄社章。Wikipediaより。
因みに阪神の競争相手であった阪急電鉄(当時箕面有馬電気軌道)も1920(大正9)年には、大阪梅田-神戸(上筒井。神戸市の山手東端にあった駅)間を開業した。又、1934(昭和9)年には省線(省営鉄道=現:JR)が電化されると、阪神間は、省線電車・阪神電車・阪急電車3線が並行する競合路線となっていた。
そのような時代、関西の大手私鉄各社はいずれも沿線開発に注力を注いでいるが、阪神電鉄・阪急電鉄も設立当初から市外居住・郊外生活を標榜し、これを都市生活者の新しいライフスタイルとして紹介、郊外の住宅や余暇を開発することで、乗客の誘致、経営の安定をはかろうと考えたのが、当時阪神電鉄の技術部長であった三崎省三だそうである(以下参考の※4参照)。
郊外生活を実現すべく、1905(明治38)年に開業した阪神電鉄が沿線への誘客を目的に最初に手掛けた娯楽事業が海水浴場の経営であった。まず同年、芦屋市の打出の浜辺に海水浴場を開き、休憩書、食堂、脱衣場を設置した。そして、チンドン屋を雇い、仕掛け花火や軍楽隊の演奏などの催し物を用意して、酷暑の都会を抜け出して涼味を求める人々を招き入れたという。海水浴は手軽な健康増進法として当時の人達の人気をよんだ。
2年後の1907(明治40)年には、香野蔵治・櫨山喜一が、夙川西岸の羽衣町、霞町、松園町、相生町、雲井町、殿山町一帯(現在の阪急神戸本線夙川駅西側)(約33ha)に娯楽場「香櫨園遊園地」を開設、これに阪神電鉄が補助金を支出。博物館・動物園・音楽堂・大運動場のほかウォーターシュートなどの遊具も設けられた総合的な余暇施設として、人気を博していた(以下参考の※5:「西宮の新田開発と用水の歴史」の“豆知識 西宮に温泉?”に当時の遊園地の図あり)。
マッチ画像、朝日新聞「今昔マッチング」より
阪神電鉄は、ここに香櫨園停留場を新設し、海水浴場を打出浜から、上掲のマッチの画像にも書かれている香櫨園浜(御前浜)に場所を移設した。のちに、スイートピーやダリアなどの園芸展示会を企画して夏だけでなく四季折々の行楽をあつめようとした。
そして、1909(明治42)年には西宮停留所前に貸家30戸を建設するなど住宅開発もしている。
1916(大正5)年には西宮市(当時は武庫郡鳴尾村)に、陸上競技場やプール、テニス場、野球場(鳴尾球場)を併設した総合スタジアムとしての鳴尾運動場をオープンし、第3回から第9回までの全国中等学校優勝野球大会(現全国高等学校野球選手権大会)などが開催されるようになった。ちなみに、鳴尾球技場が完成した年は、阪神電鉄のノンプロ球団が大阪実業野球大会に初めて出.場した年でもあったそうだ(※4参照)。
1951(昭和26)年に西宮市に編入されるまで鳴尾村と呼ばれていたこの地域は、武庫川と、かつての分流枝川(現在は浜甲子園甲子園口停車場線)・申川の三角州上の地域で、明治・大正期は苺の有名な産地であった。
鳴尾の郊外住宅の開発は、1910(明治43)年、阪神電鉄が鳴尾村西畑(現甲子園駅付近)に文化住宅70戸を建設したことに始まり、武庫川の改修工事により旧申川とともに枝川も廃川となった廃川敷地を兵庫県より1922 (大正11)年に購入してからは、甲子園地域にシフトし、甲子園球場を初め色々な施設を造っていくことになる。
1924(大正13)年に、枝川と旧申川の分岐点だった所につくられた球場が、現・阪神甲子園球場であるが、これは、全国中等学校優勝野球大会の人気が高まり、鳴尾運動場では観客を収容しきれなくなったことから大規模な球場が必要となり建設されたものである。従って、この球場が完成した年の第10回大会からは試合会場が甲子園球場となったので、鳴尾球場は廃止された。そして、第1回を山本球場で開催した選抜中等学校野球大会(現:選抜高等学校野球大会)も第2回以降は甲子園で開催されることとなった。
この甲子園球場は、当初、甲子園大運動場という名称で呼ばれていたようだが、その呼び名からもわかるように、ラグビーの試合や陸上競技などにも利用することが考えられていたらしいが、多機能グラウンドとしては不具合が生じることが判明し、海岸(浜甲子園)よりの場所に新たに運動場(南甲子園運動場)が造られ、1929(昭和4)年にオープンした。
甲子園球場のオープンとともに、甲子園駅が臨時駅として開業し、2年後には常設の駅となる。そして、1926(大正15)年に甲子園-浜甲子園間(路面電車の甲子園線)が開業した。この間は武庫川の支流であった枝川の跡地であるが、1975(昭和50)年に廃止となっている。地元では今でも「電車道」と呼ばれることが多い。阪神は枝川跡地の開発を進め、甲子園線を開業させると、さらに沿線の開発を進めていった。
上掲マッチ画像にもある甲子園浜での海水浴場経営は、停車場前に甲子園球場を建設した翌年即ち、1925(大正14)年に始まる。夏の風物詩である海水浴場もまた、海浜リゾート都市を目指した甲子園の中核となる集客施設であった。甲子園浜は、今でも阪神間に唯一残された自然の砂浜・干潟・磯がある貴重な浜である。
1926大正15)年には甲子園の西側(洲鳥町5)に甲子園テニスクラブ、また娯楽事業の1つとして、甲子園球場の道路を挟んだ反対側(南甲子園運動場の上手)には、1929(昭和4)年に、甲子園娯楽場も開園。1932(昭和7)年には名称を「浜甲子園阪神パーク」と改称し、動物園と遊戯施設が増強され、甲子園エリアを一大娯楽施設としていったが、USJ開業後の利用者減少にともない、2003(平成15)年3月30日の営業をもって閉鎖となり、跡地は商業施設「ららぽーと甲子園」になっている。
尚、1927(昭和2)年、阪神国道電軌が大阪西野田-東神戸間の開業をしたが、阪神国道上を走るこの路面電車は、既に競争相手となっていた阪急電鉄以上に阪神本線に近接する並行路線となるため、この路線の開業は阪神電鉄にとって経営危機を招く可能性が高かったため、翌年にこれを買収している。しかしモータリゼーションの進展に伴い、1975(昭和50)年5月6日までにその路線網は段階的に廃止され、現存しない。
(冒頭の画像は、阪神5001形電車、香櫨園駅にて撮影のもの。Wikipediaより)
参考:
※1:三崎省三 とは - コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E5%B4%8E%E7%9C%81%E4%B8%89
※2:国鉄があった時代:明治7年 鉄道ニュース
http://freett.com/blackcat_kat/nenpyou/meiji/meiji7.html
※ 3:大阪市電保存館
http://www.tcn.zaq.ne.jp/jq3rej/osakacity01.htm
※4:阪神タイガース(PDF)
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/matsuyo/edu/04semi2/gd.pdf#search='三崎省三'
※ 5:西宮の新田開発と用水の歴史
http://homepage3.nifty.com/j---u---n---e---/hajimeni.html
大正時代からある野球場
http://oldmaproom.aki.gs/m03e_station/m03e_koshien/m03e_koshien.htm
武庫川女子大学 -- 70年史こぼれ話
http://www.mukogawa-u.ac.jp/70_history/ed_news.htm
西宮市立郷土資料館第13回特別展:郊外生活のすすめ1900/1950-電車ポスターにみる西宮市の郊外生活文化-
http://www.nishi.or.jp/homepage/kyodo/zuroku/zuroku7.htm
海にできた芦屋
http://www.trans-usa.com/ashiya/newtwn.html
夙川まるごとウェブガイド
http://www.shukugawa-navi.com/
阪神電気鉄道株式会社
http://www.hanshin.co.jp/
交通に関する日本初の一覧- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%80%9A%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%88%9D%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7

商標登録された「南京町」

2011-04-08 | 歴史
昨・2010(平成22)年4月8日の朝日新聞夕刊第1面に、中華街で有名な神戸元町の南京町商店街振興組合が「ブランド力の強化を図ろうと、「南京町」の商標を登録した旨の記事が掲載されていた。これにより、組合員は無料で「南京町」の商標を使える一方、非組合員は組合の許可を得たうえでロイヤルティー(使用料)が必要になった。
南京町では、中華料理店や雑貨店約150軒(うち、当時の組合加盟95軒)が営業(「南京町」の表記について参照)。中華街として知名度が高く、商品や屋号に名称を使われていた。当然、非組合員の戸惑いや反発もあったようだが、2002(平成14)年に「神戸南京町」の名前を冠したギョーザを売る店が東京で営業を始めるなど全国で「南京町」を使われるケースが相次ぎ、ブランドを守る必要があったからと同組合理事長は商標登録の理由を説明していたが・・・。冒頭掲載の画像は、朝日新聞夕刊掲載のもので、上が、商標登録された「南京町」のロゴ。下が、同商店街振興組合が町名を商標登録した南京町の一角(ネットにはもう朝日の記事はないが、当時の神戸新聞NEWSがあるのでここ参照)。
桑港のチャイナタウン 夜霧に濡れて
夢紅く誰を待つ君を待つ 柳の小窓
泣いている泣いている おぼろな瞳
花やさし 霧の街
チャイナタウンの恋の夜
「桑港のチャイナ街」(サンフランシスコのチャイナタウン。作詞:佐伯孝夫、作曲:佐々木俊一、1950年11月発売)
記念すべき第1回NHK紅白歌合戦渡辺 はま子が、紅組トリを飾った曲で、戦後最大の代表作ともいえる作品である。ちなみに以下YouTubeで渡辺の歌が聞ける。
YouTube-渡辺はま子: 桑港のチャイナ街( 桑港華人街 )
渡辺は1937(昭和12)年に勃発した日中戦争で日本軍が占領していた戦時下の上海など戦地への慰問も積極的に行うようになり、「シナの夜」「広東ブルース」などの大陸を題材にした曲目も多くなり、当時は『チャイナ・メロディーの女王』『チャイナソングのおハマさん』と呼ばれ支持されていた。
チャイナタウン(Chinatown)つまり、中華街 (唐人街)とは、非中国人地域における華僑華人の街のことであるが、大きなものは北アメリカや東南アジアに多く見られるが、ヨーロッパやオーストラリアでも拡大中の中華街が見られるようだ。サンフランシスコの中華街は、アメリカの中でも最大規模の中華街である。
これら、中華街の特徴としては、関帝廟(かんていびょう)など中国民間信仰の宗教施設を地域的な中核とし、同郷会館や中華学校、中華料理店、中国物産店などの施設が集まっている。
中国は、各地で中国語の方言の差が大きいため、出身地が違うと会話も成り立たない例も多く、同じ方言を話せる同郷人を中心とした結束力が強いようだ。
中華街に住む中国人を出身地別に見ると、20世紀前半までは海南島を含む広東省出身者が多く、次いで福建省出身者であったが、近年は福建省出身者が増加し、さらに上海や台湾出身者も増えている。それに、昨今の新華僑には方言の壁はほとんどなく、学校教育で獲得した中国(北京)語と現地語(日本語等)とが共通語となっているようだ。
日本三大中華街と言えば、横浜中華街長崎新地中華街 、そして、神戸南京町の3つだろう。
横浜市中区山下町一帯に所在する横浜中華街も以前は、唐人町や南京町と呼ばれていた。1859(安政6)年、横浜が開港すると外国人居留地(一種の租界)が造成され欧米人とともに多数の中国人買弁(中国人商人や取引仲介者)や外国人外交官の雇い人が来住した。
開港から数年で、海岸に近い土地は各国の商館で埋まり、背後に広がる土地が急ピッチで整備されていった。そのひとつが「横浜新田」と呼ばれる斜めの一角、現在の中華街のエリアであった。
当初、彼らは香港や広東から来ていたため、広東省出身者が多かったが、各地に分散している。上海路、中山路、福建路、香港路など、地名を冠した路地が交差しており、各路地に、当地の出身者が多くおり、所在地である中区の中国人人口は6000人を超えている。この横浜中華街でも飲食店など約350店が加盟する「横浜中華街発展会協同組合」が2007(平成19)年8月「横浜中華街」を商標登録しているようだ。
長崎新地中華街についてであるが、江戸時代の鎖国下でも長崎は対中貿易港として認められ、最盛時には約1万人の福建省出身者を中心とした中国人が長崎市中に住居していた。その後、中国人の住居は丘陵地の唐人屋敷に限定されていたが、1698(元禄11)年の大火で五島町や大黒町にあった中国船の荷蔵が焼失したため、唐人屋敷前面の海を埋め立てて倉庫区域を造成。この地域は新地と呼ばれた。
幕末の鎖国政策の放棄により、長崎港も1859(安政6)年、国際開放され、唐人屋敷とともに新地蔵所も廃止されたため、在住中国人は隣接の長崎市新地町に移り住み、中華街を形成した。これが長崎新地中華街の起源となった。
神戸の南京町は、神戸市中央区の元町通栄町通の1、2丁目一帯を指し、東西約200m、南北110mの範囲に組合加盟95(2010年現在)の店舗が軒を連ねる。店頭の路上で点心、スイーツ、食材、記念品などを売る店も多く、休日は地元の買い物客や観光客で賑わっている。
この「南京町」という用語はかっては中国人街を指す一般名称であったが、行政上定められた正式な地名と言うわけではなく、現在では、南京町商店街振興組合の登録商標となっている地域の名前となっている。
南京町の中央通りは、十字路になっていて中央の広場には「あずまや」(冒頭の画像があずまや)、東は「長安門」、西は「西安門」、南は「南楼門」という名前の門があり、北は元町商店街につながっている。
現在日本に在住の華僑の人々は横浜華僑6000人に対して神戸華僑はその倍近い1万人を超えているといわれる。しかし、横浜中華街と比べると神戸南京町の規模は随分と小ぶりであるが、それは、実際に生活の場でもある横浜中華街と違い、神戸の南京町には居住者は少なく、ほぼ純然たる商業地となっているためである。
神戸関帝廟(以下参考の※2、※3参照)や神戸中華同文学校などの華僑関連施設は南京町にあるのではなく山手(中央区中山手近辺)に点在している。実際の神戸華僑の居住地は、鯉川筋トアロード北野町などであり、神戸の有名な中華料理店の大半も南京町ではなく三宮など市内中心部に拠点を置いている(以下参考の※4参照)。
それは、1868年(慶応3年)の神戸開港に伴い、現在の神戸市役所の西側一帯に外国人のための居留地が設けられ、それまで人口2 万5 千人程の寒村であった神戸が、わが国の世界への窓口となった。しかし、日本と通商条約を締結していなかった当時の中国「清国」の人々はその中に住むことを許されず、居留地の周辺の雑居地に住むようになったからである。
神戸港が世界へと扉を開いたとき山側の北野の異人館通りから近く、海側の居留地に隣接する西側の雑居地に清国人街(南京町)が形成されるようになったが、この南京町は特に日本人相手に始めた商売ではなく、日本人の雑居地の中に入って、自分の国、外国の人々が求めている商品を集めて、倉庫兼、商品集めの場所にして住んでいたものであった。
神戸華僑の人々が他の地域に比べて日本人社会と良好な関係を築いてくることが出来たのは、ひとつには神戸港の発展に華僑が清国とのパイプを利用して貿易面で少なからぬ貢献をしてきたことがあるだろう。それに、同じ日本人でも多くの人が他の地域から神戸に来ると住みやすいというが、神戸の住民には比較的地元で育った人よりも、やはり外から流入してきた日本人が多かったことから、余り、他地域から来た人のことなどをとやかく気にしないので、外から入ってきた人間同志の和が生まれやすい雰囲気もあった為だろう。
辛亥革命の父と仰がれる孫文(孫中山)を顕彰する日本で唯一の博物館(孫文記念館)となっている「移情閣」(国の重要文化財)の創建者として知られる呉錦堂(本名:作鏌。以下参考に記載の※5:「中国の友人達」の第五部 呉錦堂 -神戸と中国-参照)は、日清戦争(1894年7月~1895年3月)の少し前、1890(明治23)年に神戸にきてから30余年、神戸と上海及び彼の生誕地寧波など海を挟んだ二つの地域を拠点として貿易、海運から製造業へと事業を広げ活躍していたようだ。
そして、神戸の関帝廟は神戸で成功を収めた呉錦堂たちが中心となり、華僑の寺院として東大阪市の布施にあった長楽寺が廃寺になるところを神戸に移転させ、宇治市にある黄檗宗の萬福寺の末寺にしたことに始まる。
このように、呉錦堂は、神戸華僑社会の基礎を形成した人物の一人として、同時に華僑と神戸市民との間に太い絆を築き上げるうえでも大きな役割を果たした人物といえるだろう。
日清戦争時、海運界の目覚しい発展により神戸からの輸出入も著しく伸張しているが、神戸港が日本の対中国貿易総額の60%以上を占めた1900年頃には、日中の関係はなくてはならないパートナーとしてのものとなり、神戸の主幹産業であったマッチ(このブログで以前に書いた「マッチの日」参照)、大阪の綿製品の中国系世界への販路を開拓したのが彼ら華僑であった。以来、続いてきた華僑と神戸市民との良好な共生関係は、世界各地のチャイナタウンのいずれにもひけをとるものではないという(以下参考の※6:「ひょうご経済研究所」のここや※7を参照)。
それゆえ、戦前の一時期南京さん等の言葉が侮蔑的に用いられた事はあったものの、南京町という名称は既に世間に広く認知されているとして戦後も名称を変更する動きもなかったようだ(横浜・長崎では、中華街に改称している)。
神戸にゆかりのある人物として日本人以上に日本語の綺麗な作家と言われる陳舜臣がいる。
私の大好きな作家の1人でもあるが、彼の初期のミステリー、第7回江戸川乱歩賞受賞作『枯草の根』に名探偵・陶展文が登場する。この陶展文は北野町の住人で、海岸通りの中華料理店「桃源亭」主人であるが、陳氏も当時北野町に住んでいたと思う。
毎年、旧暦の正月に中国の「春節」をアレンジした「春節祭」が行なわれ、龍踊や獅子舞などが披露され、当日には多くの市民や観光客が集まり、南京町のみならず神戸の重要な行事にもなっており、1997(平成9)年には、神戸市の地域無形民俗文化財に指定されている。
北野町山本通にある神戸中華同文学校は、1899(明治32)に犬養毅を名誉校長に立てて創立された古い歴史を持つ華僑子弟の多くが通う学校であるが、最近では、経済発展著しい中国への関心の高まりから、中国との血縁を持たない日本人子弟が中国語も学べる「国際学校」として位置づけ、同校への入学希望が急増していると聞いている。ここで学んだ人たちが、今後神戸と中国との絆を深め、神戸の発展に尽くしてくれたらいいな~と期待している。
中華料理には、大きく分けて 広東料理上海料理四川料理北京料理 の四大料理が有名であるが、これらの料理の有名店も神戸では南京町だけではなく、神戸三宮や山手その他あちこちに多くあるので、南京町で飽き足らないないときは、以下参考の※8:「食べログ」などで捜してみて・・・。神戸には本当に美味しい中華料理店は多くあるから・・・。例えば、南京町にある“豚まん発祥の店”ということで行列の出来る「老祥記」(ここ )の豚まんも美味しいが、ここの豚満は結構人によって好みが分かれるようであるが、三宮の太平閣(ここ)や一貫楼(ここ)の豚まんが私などは美味しいと思うよ。

参考:
※1:南京町公式ホームページ
http://www.nankinmachi.or.jp/index.php
※2:社団法人中華会館
http://www.zhonghua-huiguan.com/index2.html
※3:神奈備・関帝廟神戸
http://kamnavi.jp/dk/kanteikb.htm
※4:中華料理(広東・四川・北京)・豚まん・ギョウザ
http://www.kobe-news.net/f_china.html
※5:中国の友人達
http://www.eonet.ne.jp/~yuzo/index.html
※6:ひょうご経済研究所
http://www.heri.or.jp/index.html
※7:[PDF] 「こうべ港 140 年、貿易の変遷」
http://www.customs.go.jp/kobe/boueki/topix/h19/kobe_port_140.pdf
※8:食べログ
http://r.tabelog.com/
神戸の外国人学校
http://www.heri.or.jp/hyokei/hyokei73/73gako.htm
神戸港の歴史
http://www.pa.kkr.mlit.go.jp/kobeport/_know/p6/html/p-1-1.html
神戸市:神戸開港140年/トップページ
http://www.city.kobe.lg.jp/life/access/harbor/140/140.html
神戸華僑歴史博物館
http://www16.ocn.ne.jp/~ochm1979/index1.html
館報「開港のひろば」 横浜開港資料館
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/100/03.html
ケンジの推理小説図書館・あらすじ情報「ち・つ」
http://www.h2.dion.ne.jp/~kentuku/naiti.htm
神戸新聞読者クラブ:神戸・関帝廟
http://club.kobe-np.co.jp/mint/article/odekake/yuing20070313cyugokunotabi01.html
神戸と架橋
http://www.pa.kkr.mlit.go.jp/kobeport/_enjoy/culture_study_04.html

NHK「みんなのうた」が始まった日

2011-04-03 | 歴史
みんなのうた」は、日本放送協会 (NHK) がテレビとラジオの各チャンネル(国外向けを含む)にて放送している、5分間の音楽番組であり、「おかあさんといっしょ」「きょうの料理」「きょうの健康」などとともにNHKを代表する長寿番組として広く親しまれている。
ファミリーソングを目指して誕生した「みんなのうた」の放送が開始されたのは、1961(昭和36)の今日・4月3日であるため、今年・2011(平成23)年で50周年を迎えた。これまでに1300曲近くもの国民的愛唱歌を時代とともに生み出してきた(※1参照)。
1953(昭和28)年に、日本テレビが開局し、時代は一挙にテレビの時代へと突入するが、そんな日本のテレビ時代の幕開けだった1960年代、氾濫する歌謡曲やCMソングを口ずさむ子どもたちの姿に危惧し、局内で“子ども向き歌番組を”という声が上がったという。そして、最初は学校唱歌的な歌を流すことが期待されていたが、“それではテレビでやる意味がない”と思った初代ディレクター・後藤田純生(以下参考の※2参照)は、外国曲の導入を思いつく。こうして「おお牧場はみどり」を筆頭に「クラリネットをこわしちゃった」「大きな古時計」などの名曲が世に送り出されることとなった(以下参考の※:「みんなのうた缶」の収集・みんなのうた関連記事参照)。
本来は未就学児から10代の視聴者層を想定したいたことから、初期は既存の童謡や、外国の民謡を日本語に解釈させた作品が多かったが、1970年代後半頃からは「みんなのうた」のために書き下ろされたオリジナル曲が中心となっている。
放送開始当時は、毎回放送される“月の歌”(1曲)と、曜日ごとに替わる“曜日の歌”(5曲)との組み合わせで放送されていたようだが、翌年からは、“月の歌”が月ごとに替わるようになった。今は、月曜日から土曜日までほぼ毎日、それも2か月間繰り返し同じ曲(1曲あるいは2曲)が放送されている。
スタート時、つまり、1961(昭和36)年4・5月(2ヶ月)に放送された6曲は、以下のようであり、正に、ファミリーソングのイメージが浮かぶ(以下参考の※3:「みんなのうた缶」参照)。 
月の歌   
おお牧場はみどり(外国民謡)、唄:東京少年合唱隊 、(毎回)
あわて床屋(童謡)、唄:ボニージャックス、(月曜)
どじょっこふなっこ(わらべうた)、唄:中村浩子、(火曜)
誰も知らない (新作)、唄、楠トシエ、(水曜)
カナダ旅行(シャンソン)、芦野宏、スリーグレイセス 、(木曜)
登山電車=フニクリ フニクラ(カンツォーネ)、 デューク・エイセス、(金曜)
上述のように、1961(昭和36)年4月3日、最初に放送されたのが、「おお牧場はみどり」と「誰も知らない」であった。
「みんなのうた」で、4・5月の2ヶ月にわたって東京少年合唱隊(現:東京少年少女合唱隊。以下参考の※4 、※5 参照)によって毎回歌われた外国の民謡「おお牧場はみどり」は、もともとはチェコスロバキアボヘミア地方の民謡であるが、本国ではあまり歌われてないようである。
ボヘミア地方は、16~18世紀の間オーストリア=ハンガリー帝国の支配化にあり、農民たち」は、事実上オーストリアの植民地に押し込められていた。
原曲の歌詞は、このような時代に、封建領主が、好きな狩猟にかこつけて若い娘を召し上げようとすることを風刺した一種のバラッド(物語や寓意のある歌)であったようである。以下参考の※6:「世界の民謡。童謡;おお牧場はみどり」に原曲の歌詞が掲載されている。
19世紀末、貧困に追いたてられて故郷の地を離れ、アメリカに移住するものが増えた。これら移民たちが故郷を想いながら歌っていたもの一つがこの曲で、原曲はやや哀調を帯びたメロディーだったそうだが、この歌をアメリカ風に明るく英訳してレクリエーション・ソングとして歌われるようになったものが日本のYMCA(キリスト教青年会)の歌集に紹介された。この時、牧師であり教会音楽の第一人者であった中田 羽後が日本語詞をつけたものが今広く歌われている歌のようだ。
アメリカのレクリエーション・ソングだったときの歌詞がいったいどんなものだったかは知らないが、以下参考の※7:「池田小百合:なっとく童謡・唱歌」には、中田が英語を訳したときのもではないかと思われるものが、今広く唄われている歌と共に掲載されている。英語の歌詞の1番は日本語の「おお牧場はみどり」に近い内容であるが、2番3番は内容がかなり違う。1番は訳詞といってもよいが、2番3番は中田が子供にも向くように作詞したのだろう。
尚、この歌は「みんなのうた」ではじめて歌われた訳ではなく、1955(昭和30)年3月、関鑑子編『青年歌集(四)』(音楽センター刊)に発表され、「うたごえ運動」によって歌い広められていった。
そういえば、私が社会人になった昭和30年代初頭全国各地に「うたごえ喫茶」があり、会社の同僚や学生時代の友人と一緒に良く歌いに行ったが、この歌も良く唄ったのを思い出したよ。リーダーの音頭のもと、店内の客が一緒に歌を唄うのだが、伴奏はピアノやアコーディオンのほか、大きな店では生バンドも入っていた。今の時代のようにマイクを使わず、皆で一緒に腹の底から声を出して唄えるので気持ちが良かったな~。
又、1956(昭和31)年の8月にNHKのラジオ歌謡でも歌われている(以下参考の※8参照)。
1961(昭和36)年の第1回NHK「みんなのうた」では、1番の歌詞が繰り返し歌われたそうだ。1番の英語版は、以下参考に記載の※9:「歌声入りの童謡・唱歌・演歌・歌謡曲・民謡・外国曲」のここで聴ける。
また、1961(昭和36)4月3日、第1回NHK「みんなのうた」で外国民謡の「おお牧場はみどり」と共に最初に歌われた楠トシエの「誰も知らない」は、谷川 俊太郎作詞、中田喜直作曲による新作ものであった。  
楠 トシエ(本名:楠山敏江)は、1949(昭和24)年、21歳のとき、角筈(現在の西新宿)のムーランルージュ新宿座へ歌手として入団。1951(昭和26)年のムーラン解散前後から、以前より付き合いのあった三木鶏郎の誘いでNHKのラジオ番組「日曜娯楽版」に出演し、一躍全国区の歌手となり、1953(昭和28)年、25歳のとき、「NHK専属タレント第1号」となっていた(※10:kotobank参照)。
そして、1957(昭和32)年第8回から連続してNHK紅白歌合戦に出場(1963年、第14回)まで7回)。又、清酒黄桜の「かっぱの唄」(以下参考の※11 :「黄桜のサイトCM」参照)などCMソングの歌手としても活躍し、元祖「コマーシャルソングの女王」と呼ばれていた。
楠が「みんなのうた」で歌った「誰も知らない」が、どんな曲かは残念ながら当時の歌を聞いたことがないので私は知らないが、歌詞とそのMIDIは以下で聞ける。
誰もしらない(MIDI) 
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/daremoshiranai.html

これは谷川の童謡を詩にしたものらしいが、日常の中でふっと起こった「誰も知らない、ここだけの話」を短い言葉で表したもので、合間に入る「おこそとの・ほ」とか「いきしちに・ひ」といった言葉遊びも楽しいが、この谷川の原曲の4番にあたる「うしろを見たら ひとくい土人(どじん) わらって立ってた 」の「ひとくい土人」の部分が、「みんなのうた」では「大きな象」に差し替えられているものもあるようだ。これは、「ひとくい(人喰い)土人」が、いわゆる差別用語にあたり、放送には適さないということのようだ(以下参考の※12参照)が、1961(昭和36)年放送の「みんなのうた」で最初に歌われたものが、どのようなものであったかは定かではないが、LP等収録バージョンでは、“ひとくい土人”と原詩通り歌われているようだ。しかし、「でたらめのことば ひとりごと言って うしろを見たら ひとくい土人 わらって立ってた 」というのは、子供にはちょっと恐い話だよね~。
余談だが、谷川の童謡に林光が曲をつけたものに、「ひとくいどじんのサムサム」というものもある。以下参照。
ひとくいどじんのサムサム(MIDI)
 http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/hitokuidojinno.html
YouTube-ひとくいどじんのサムサム
http://www.youtube.com/watch?v=c-ctneSZMJs
この童謡について、谷川は『谷川俊太郎《詩》を語る』(澪標)で次のような発言をしているそうだ。
“「ひとくいどじんのサムサム」という童謡のようなものを書いたことがあって、今は「人食い土人」は差別用語とされているそうで困るんですが、林光さんが作曲してくれました。人食い土人がいて、お腹がすいたのでまず亀の子たわしを食べて、次に隣りに住んでいる自分の友だちを食べて、最後に自分を食べて、とうとう「ひとくいどじんのサムサムはいなくなった」というのをコミカルなファンタジーだと思ってぼくは書いたんですが、ある批評家の方が「これは核時代に滅びゆく人類の比喩である」と言われて、それで僕は初めて「すごくいい詩なんだなあ」とわかって(笑)、感激したことがあります」”・・・と(以下参考の※13:「教育言誤学」参照)。
ただ、私のような感性の低い者には難しくって、この童謡が谷川の言うようなコミカルなファンタジーだかどうかはよく分らないが、逆に、背に腹は変えられないと友達まで喰ってしまって最後は1人になり自分まで食べて死んでゆく人食い土人は、確かに、ある批評家の言っているような「核時代に滅びゆく人類の比喩」のような気がするよ。
今年の3月11日、三陸沖で発生した東北地方太平洋沖地震によって簡単に、福島第一原子力発電所における原子力事故などが起こってしまったが、飽くなき人間の欲求を満たすために、たとえ平和利用とはいってもの、このような危険な核エネルギーに頼らなくてはままならなくなってしまったのだが、これから先将来には、いずれ、SF漫画や映画などで見るような、核爆発や核戦争などによって地球が滅びてしまうのかもしれないな~。
この「みんなのうた」からは「山口さんちのツトム君」(1976年、唄:川橋啓史〔NHK東京児童合唱団〕)、「切手のないおくりもの」(1977年、歌:チューリップ)、「ビューティフル・ネーム」(1979年、歌:ゴダイゴ)、「一円玉の旅がらす」(1989年、唄:晴山 さおり)、「WAになっておどろう 〜イレアイエ〜」(1997年、唄:AGHARTA)、「おしりかじり虫」(2007年、うるまでるびが手掛けたアニメの歌)といったヒット曲も生まれた。
また、「大きな古時計」(1962年、保富康午:訳詞、唄:立川澄人)も2002(平成14)年に平井堅にカバーされて広く知られるようになり、「北風小僧の寒太郎」(1974年、唄:堺正章)は、1981(昭和56)年には北島三郎の歌で放送され、「さとうきび畑」(1975年、ちあきなおみ)の歌は、1~3番と最終部だけという超ショートバージョンであったが、1997(平成9年)年には森山良子によって、ちあきのバージョンとは異なる形のショートバージョンを「みんなのうたバージョン」として放送された。又、「WAになっておどろう」は長野オリンピックのイメージソングにも抜擢され話題となった。
他にも色々良い曲があり、私も大好きな番組であるが、このような番組を見ていると、やはり、民放にはないNHKの良さを感じるよね~。ま、ちゃんと、お金を払ってみているのだから、民法にはないNHKらしい番組つくりに励んで欲しいよね。
最後に、私の大好きな歌手であったちあきなおみバージョンの「さとうきび畑」を聞いて、このブログを終わることにしよう。
YouTube-さとうきび畑」(唄:ちあきなおみ)
http://www.youtube.com/watch?v=AEMJjO7rKos

(画像は、決定盤!!「NHKみんなのうた」ベスト。
参考:
1:NHKみんなのうた
http://www.nhk.or.jp/minna/
※2:後藤田純生氏死去 元NHKプロデューサー
http://www.47news.jp/CN/200403/CN2004031101000702.html
※3 :みんなのうた缶-NHKみんなのうた非公式サイト
http://www.interq.or.jp/orange/mitumi/utakan/
※4 :東京少年合唱隊とは
http://www.mars.dti.ne.jp/~ethereal/LSOT/about.html
※5:東京少年少女合唱隊
http://www.lsot.jp/
※6:世界の民謡。童謡;おお牧場はみどり
http://www.worldfolksong.com/songbook/others/makiba-midori.htm
※7:池田小百合:なっとく童謡・唱歌
http://www.ne.jp/asahi/sayuri/home/doyobook/doyo00sengo.htm#oomakiba
※ 8:日本ラジオ歌謡研究会
http://www.rajiokayou.net/index.html
※9:歌声入りの童謡・唱歌・演歌・歌謡曲・民謡・外国曲
http://14.studio-web.net/~yamahisa/index.html
※10:kotobank.jp
http://kotobank.jp/
※11:黄桜のサイトCM
http://kizakura.co.jp/ja/gallery/jidai/cm.html
※12:放送禁止用語(差別用語) 人種差別
http://www.jiko.tv/housoukinshi/sabetsu2.html
※13:教育言誤学
http://www.toyama-cmt.ac.jp/~kanagawa/education/gengogaku5.html
元祖コマソンの女王"楠トシエ大全
http://joshinweb.jp/dp/4988003348991.html
60年代 懐かしの宝箱 
http://homepage2.nifty.com/mtomisan/index.html
アカイさんノート
http://www.nhk.or.jp/archives-blog/2010/02/post_102.html
みんなのうた - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%82%93%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%86%E3%81%9F