今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「昭和の日」その1

2016-04-29 | 記念日
熊本・大分地震(※1)で被災された皆さまに対して、心からお見舞い申し上げます。
私の地元神戸を中心に発生した20年前の阪神・淡路大震災と同じクラスの大規模地震、日が経つにつれてその被害状況が明らかになっていますが、今回の地震は、何時までも大きな揺れが継続して発生しており、住民の方は本当に不安な毎日をお過ごしのことでしょう。ただただ、一日も早い復興をお祈りするばかりです。

いつもこのブログを書く時、参考にしているのが日本記念日協会(※2)登録の記念日であるが、同協会に登録されている今日・4月29日の認定記念日には、「豊後高田昭和の町の日」(大分県豊後高田市が制定)や 「歯肉ケアの日」(花王株式会社が制定)、 「歯肉炎予防デー」(花王株式会社が制定) 、「Piknikの日」(森永乳業株式会社が制定)、 「クレープの日 」(株式会社モンテールが制定)、 「キン肉マンの日」(集英社が制定)、「畳の日」(全国畳産業振興会が制定)、 「羊肉の日」(ジンギスカン食普及拡大促進協議会が制定)が登録されており、その他の記念日として、「昭和の日」が登録されていた。
この認定記念日の「Piknikの日」(ここ参照)や,「クレープの日 」(ここ参照)、「畳の日」(ここ参照), 「羊肉の日」(ここ参照)は、すでにこのブログ「今日のことあれこれと・・・」で、取り上げたし、 「歯肉ケアの日」や「歯肉炎予防デー」に代わりに、似たような記念日としては「歯の日」「歯ブラシの交換日」(毎月8日. サンスターが制定。ここ参照)や、虫歯予防デー (6月4日、日本歯科医師会や厚生労働省が設定していたものを日本記念日協会が再設定。ここ参照)で取り上げたことがある[()内のこことあるのは当ブログで取り上げたページ]。あとは、「キン肉マンの日」と「豊後高田昭和の町の日」だけがまだ取り上げていない。
「豊後高田昭和の町の日」は、大分県豊後高田市が制定したもの。
同市が2001年から商業と観光の振興のために、商工会議所、商店街とともに進めてきた昭和30 年代をテーマとした「豊後高田昭和の町」をさらに多くの人に知ってもらうのが目的だそうで、日付は国民の祝日の「昭和の日」からだそうだ。
「豊後高田昭和の町」は、その懐かしい街並みや商品、人々の温かい対応などで全国から多くの観光客を集めているそうだ。


ただ、今回の地震の風評被害などで大分地方の大した被害のない観光地も旅館予約な取り消しなどが相次いでいるところがあるとも聞く。困ったものですね~。
そのようなことからというわけではないが、今日は、日本の国民の祝日の一つである「昭和の日」をテーマーに書くことにしよう。
国民の祝日である「昭和の日」は、もともと昭和の時代には、帝国憲法時代の戦前・戦中では「天長節」、戦後の日本国憲法(新憲法)下の国民の祝日に関する法律(略称「祝日法」、昭和23年7月20日法律第178号)では「天皇誕生日」という祝日であった。
「祝日法」第2条によれば、天皇誕生日は、「天皇の誕生日を祝う」ことを趣旨としており、日付は昭和天皇の誕生日である4月29日があてられている。
それが、昭和64年(1989年)1月7日に昭和天皇が崩御され、今上天皇即位により、同年以降の4月29日はそれまでの天皇誕生日としては存続できなくなり、「祝日法」の天皇誕生日に係る項を改正する必要が生じた。
孝明天皇明治天皇大正天皇の場合は崩御日が先帝祭として 戦前は太政官布告年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」や勅令「休日ニ関スル件」により、法定の休日とされていたが、昭和天皇の場合は現行の「休日法」により崩御日が休日とならない(「休日法」施行と同時に前述の法は廃止)ため、当初から誕生日を活かして「昭和記念日」など昭和に因んだ新祝日として存続させる案が出ていたようだが、その案は見送られ、天皇誕生日は、今上天皇の誕生日である12月23日に改められることとなったが、同時に、同年(平成元年=1989年)以降の4月29日は「みどりの日」という名称の祝日に改めた上で祝日として存続させることとなった。
「みどりの日」の名前の由来は、各界識者をメンバーとする小渕恵三官房長官(当時)の私的諮問機関(皇位継承に伴う国民の祝日に関する法律改正に関する懇談会)において、「昭和天皇は植物に造詣が深く、自然をこよなく愛したことから『緑』にちなんだ名がふさわしい」という主旨の意見が多数を占めたからであるとされている(Wikipedia)。参議院での審議などは以下参考の※3:「参議院会議録情報 第162回国会 内閣委員会 第9号」参照。
「祝日法」第2条には、「自然にしたしむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ」ことを趣旨としている(「祝日法」条文※4参照)。
その後、平成12年(2000年)3月、自由民主党自由党公明党の連立与党が改正法案を参議院に提出。参議院は通過したものの、同年5月に内閣総理大臣森喜朗の「神の国発言」の影響で衆議院での採決が見送られた後、衆議院解散(神の国解散)により廃案となった。
平成14年(2002年)に自由民主党と保守新党が再提出。公明党・自由党が賛成、平成12年(2000年)の法案に反対した民主党も賛成に転じて、平成15年(2003年)7月に衆議院を通過した。参議院で継続審議に入ったが、衆議院の解散により審議未了のまま廃案となった。
平成16年(2004年)、自由民主党・公明党が3度目となる改正法案を提出、翌平成17年(2005年)4月の衆議院内閣委員会で自由民主党・公明党・民主党の賛成多数により可決。参議院での継続審議を経て、5月13日の参議院本会議で成立した。同改正法は平成19年(2007年)から施行され、同年以降の4月29日は「昭和の日」、従前の「みどりの日」はそれまで「国民の休日」であった5月4日に上書き的に移動した。なお、同改正法にはこの二つの祝日設置のほかにも付随する改正(振替休日や国民の休日の重複を避けるための条文の変更等)が盛り込まれている。
これらの経緯を見ていても、4月29日という日はゴールデンウィークの一角を構成する祝日を廃止することによる国民生活への影響も配慮されたようであるが、昭和天皇の誕生日をとりあえず「みどりの日」という名の祝日で存続させておいて、後に改めて「昭和の日」と名称を変え、何が何でも存続させたかったという執念のようなものが感じられる。
祝日法」第3条第3項に「その前日及び翌日が「国民の祝日」である日(「国民の祝日」でない日に限る。)は、休日とする。」とあり、これらの祝日に日曜日が当たる場合は休日が増えることになるのだが、残念ながら、今年は、4月29日の後の4月30日、5月1日(日曜)の後の5月2日も平日と、飛び石連休になっており、有給などで休める人は良いが、ちょっと残念な人も多いだろうね。

日本国憲法(新憲法)の時代になり、宗教政治は切り離さないといけないと決められれている(政教分離の原則参照)。
戦前は「天皇」はとして崇められており、その誕生日は「祝日」として扱われていた。しかし戦後、天皇は神ではなく「日本国民統合の象徴」(象徴天皇制)という新しい意味を持つようになった。その事を受け、天皇を神格化した行事では無く天皇の誕生日を純粋にお祝いし、国民と天皇との距離を縮めることを目的とした日として「天皇誕生日」が設けられた。
戦前までの天長節は、「天皇誕生日」と名をかえ「天皇の誕生日を祝う日」として今上天皇の誕生日12月23日に設定され、明治天皇の誕生日、旧暦(嘉永5年)の9月22日は新暦(1852年)の11月3日に、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」日として、現在の「文化の日」として残されている。
この日は新憲法公布の日(1946年11月3日。因みに施行は翌1947年5月3日)にもあたり、前半はそのスローガンである「自由平和」をとり、後半の「文化をすすめる」は明治時代の近代化政策により、飛躍的に社会の生活・文化が発展したことをふまえている。新憲法の公布日をこの日に設定することには色々とGHQにも気を使わねばならなかったようだ(※5参照)。この日は、まさに明治と新生日本を記念する日ではある。そして、昭和天皇の誕生日は、亡くなられた後に現在の名称に改名され残されている。
ただ、なぜか、昭和天皇の父君である大正天皇の天長節由来の休日(8月31日か8月は酷暑のため10月31日にずらして実施されたことあり)が現在祝日として残っていない。
大正天皇は、明治45年/大正元年(1912年)践祚後1915年(大正4年)に即位の礼を行っているが、明治天皇と異なり政治的な判断が不得手でこの面の力が無かったたようであり、また、生まれて以降病弱であったため大正6年(1917年)頃から、公務や心労が病の悪化に輪をかけ、公務を休むことが多くなり、大正10年(1921年)末には、当時二十歳であった皇太子裕仁親王(昭和天皇)が摂政となり、それ以降公務は、ほとんど皇太子が行なっていたという事実がある。
この頃、第一次世界大戦(1914年~1918年)末期の1917年(大正6年)ロシア革命(二月革命や十月革命)や1918年(大正7年)のドイツ革命(11月革命とも言う)などによって次々と帝政(帝国)は崩壊し、その影響はヨーロッパや日本にも及んでいた。そして、国内でも「大正デモクラシー」による労働運動・小作争議の高まりで「革命」の危機感があった時代でもある。天皇が病弱であることで、国内の統治秩序に問題が生じれば、天皇の権威を失墜させることにもなるので、元気で聡明な皇太子裕仁親王(昭和天皇)に公務をゆだねざるを得なかった・・・。この辺のことが原因になっているのかも知れないが、本当のところはよくわからない。
「祝日法」第一条には、「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける。」としている。
「憲法」や「天皇」の話になると、戦後いろいろな意見も出てくるのだが、ここは、あまり難しく考えずに、「祝日法」の趣旨や意義を考える日にしてもよいのではないだろうか。
祝日法における「昭和の日」は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。」ことをその意義としている・・・。
それでは、1年に一度は廻ってくるこの日に、昭和天皇とともにあった昭和の時代を改めて見つめ直してみよう。
昭和の時代は、「昭和」の元号を冠した時代(1926年~1989年)を指すが、「昭和」は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日にもなり、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)と、康熙(61年)と乾隆(60年)しかない。
その特徴は,明治時代,大正時代のように,ある特定のイメージで語られる時代とはいえないだろう。それは、第2次世界大戦の敗北とその後の改革による変動があまりにも大きく,戦前と戦後(1945年=昭和20年以降)とは,まったく違った時代といってもよいほどの大きな変化を遂げているからである。
急速な技術進歩を続ける20世紀は、2度の世界大戦(第一次、第二次世界大戦)に象徴されるように、それまでの時代と異なり、国土そのものを破壊する大規模近代戦争を伴う動乱の時代でもあった。
日本は国内的には立憲君主制の体裁をとり、当初の藩閥政治を脱して、1920年代には政党内閣を構成するようになった。
しかし、政党政治がその一面で見せた腐敗は、相次ぐ不況(第一次世界大戦後の戦後恐慌昭和恐慌も参照)下で困窮する国民の不信と怒りを買い、大陸(満州)への進出(侵略と呼ばれている)による事態の打開と国家改造を志向する勢力の台頭を招く。
1920年代末から独立性を強めた軍部は、昭和5年(1930年)以降は政府の意思に反した軍事活動や戦闘を多数引き起こし(1931年の 柳条湖事件をきっかけに[ =満州事変が起こる])、相次ぐ軍事クーデター(1932年五・一五事件から1936年二・二六事件)により、ついには政党政治を葬り去った。
この事件の後、社会主義者だけでなく、自由主義者に 対する取り締まりも行われ、国家主義に反するとみられた思想や言論は、強く制限を受けるようになった(言論統制)。
昭和55年(1980年)に、高倉健吉永小百合の初共演により話題を呼んだ森谷司郎監督作品映画『動乱 』の背景は、昭和7年から昭和11年。経済恐慌と凶作が重なり苦しみを強いられる庶民たち、皇道派統制派に分裂する陸軍内部、昭和維新の声が高まる皇道派の青年将校たち、そして決起される二つのクーデター(昭和史の起点となった五・一五事件[犬養毅首相暗殺]から二・二六事件[クーデター未遂])までの風雲急を告げる動乱の中、時代の波に翻弄されながらも信念を貫き生きる寡黙な青年将校(高倉健演じる宮城啓介大尉{ モデルは実在の安藤輝三})と、その妻との愛と生きざまを、一大叙事詩として二部構成の雄大なスケールで綴った感動のドラマとして描かれている。


二・二六事件収束の後、昭和12年(1937年)3月末内閣総辞職した岡田内閣の後の林銑十郎内閣は、成立2か月後の5月31日には総辞職となり、6月4日に第一次近衛文麿内閣が成立する。
中国では西安事件で拉致された蒋介石周恩来の間で国共合作が成立して、抗日闘争が進めら(第二次国共合作)、同年盧溝橋で日中両軍が衝突し(盧溝橋事件)、停戦協定後も通州事件第二次上海事変などが続き、日中戦争支那事変)が始まった。
戦線の拡大に従って, 思想統制が導入され、国家総動員法も成立。
その後、昭和14年(1939年)1月に平沼騏一郎内閣が誕生後、2月に軍部は南支那海海南島を占領し、3月にはフィリピン西方海上の無人諸島の領有を宣言して新南群島(南沙諸島参照)と名付け領土として、台湾高雄市に編入される。
この軍事行動は英米を大きく刺激した。また6月には天津の英仏租界を封鎖した 。天津事件という(※6;「クリック 20世紀」のここ参照)。
その間満洲では5月には、ノモンハン事件などで衝突している。そして、7月になるとアメリカが日米通商航海条約を破棄したのでイギリスの対応も変わり日英会談も決裂した(日英関係)。
ここから日本による米英敵視が顕在化した。そして、 昭和16年(1941年)イギリスからも日英通商航海条約を破棄され、日本国内では「ABCD包囲網による経済封鎖」への対抗として開戦論が高まり、12月8日、太平洋戦争が勃発すると、東條内閣で参戦が閣議で決定され今でいう第二次世界大戦へ突入した。
結果的に、昭和20年(1945年)硫黄島の戦いに敗れ、硫黄島が陥落。 その前年から、アメリカ陸軍航空隊のボーイング B-29爆撃機による日本本土空襲が本格化し,、低高度による夜間無差別爆撃焼夷弾攻撃が行われるようになり、東京、大阪、名古屋、横浜、そしてわが地元神戸神戸大空襲参照)の百万都市の他、仙台、福岡、岡山、富山、徳島、熊本、佐世保など、全国の中小各都市も空襲にさらされる事になった。
それでも一億総玉砕を掲げた東條内閣は戦争をやめようとはせず、8月6日に広島市への原子爆弾投下、8月9日には長崎市への原子爆弾投下により、何十万人もの死傷者を出して、やっと、8月14日の昭和天皇臨席の御前会議で、ポツダム宣言受諾を承認。
この決定は8月15日正午に、昭和天皇自らの日本放送協会のラジオ放送(いわゆる玉音放送)により内地・外地の国民に伝えられ,やっと終戦にこぎつけたのである。,
私は、当時神戸に住んでいられなくなったので、父型の親戚のある高砂市疎開し、そこで幼稚園に入ったが、その高砂も軍事工場のある工業都市だったので攻撃が激しくなり危険になった為、今度は母方の実家徳島へ疎開し、そこで小学校に入り、終戦を迎え、誰もが、玉音放送を聞きながら泣いていたのを覚えているが、まだ、小学校の私などには 、酷い戦争が終わってやっと、暗い毎日から解放され嬉しいはずなのに、皆が泣いているのを、その時は、奇妙にさえ感じていたのを覚えている。





冒頭の画像は旭日旗を持つ、迪宮裕仁親王
参考
※1:平成28年(2016年)熊本地震の関連情報 - 気象庁
http://www.jma.go.jp/jma/menu/h28_kumamoto_jishin_menu.html
※2:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※3:参議院会議録情報 第162回国会 内閣委員会 第9号
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/162/0058/16205120058009c.html
※4:国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)
http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/hs23-178.htm
※5:新憲法の公布日をめぐる議論 | 日本国憲法の誕生 - 国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/04/002_44shoshi.html
※6;クリック 20世紀
http://www.c20.jp/index.html

「昭和の日」その2完

2016-04-29 | 記念日
昭和の前半においては、このように、世界恐慌などの厳しい国際環境の中で、困難な状況に直面した日本は,結局、軍部が独走し、第二次世界大戦に突入。日本だけでも300万人を超える死者(第二次世界大戦の犠牲者参照)を出し、大都市を焼け野原にし、何もかもなくすなど大きな犠牲を払って戦争に終わりを告げた。
第二次世界大戦後においては,経済的には、国際環境にも恵まれ,国民の叡知と努力を生かして,戦後の復興から高度成長を達成し、昭和43年(1968年)には国民総生産(GNP。※7参照)が、当時の西ドイツを抜き第2位となり、石油危機,円高不況をも克服して,自由世界第二位の経済力を実現(名目GDP、名目GNI共に1位米国、2位中国、日本は3位・※7のここ及び※8参照)。
今や,豊かな所得・消費水準を享受するとともに,質量両面において,世界最高水準の工業国として世界経済の運営に重要な役割を担うまでに発展をとげいる。
その意味では、「昭和の時代」には明暗両極があり、この日を祝日とするには無理があるとの説があるのもわからぬではない気もする。。
戦時中家を守るためまた仕事もあり、一人神戸に残っていた父から、神戸に帰ってくるように言われ、徳島から帰ってきたときには、住んでいた家は、焼失し、苦労して駅近くに半焼した家を買い取り修理してそこを仕事場としていた。その家は、年寄りの大工の棟梁が女房と二人だけでが住んでいた家だけに、木造住宅だが大黒柱や、とても太い丸太を利用した丸太を多数使っており、非常に丈夫にできており、一部火災で焦げていたが大工が、もう田舎へ帰るというのでそれを買い取ったものである。もう駅近辺は、焼夷弾攻撃で焼け野原となっており、何とか焼け残った家が数十件残っていただけである。
戦後経済が成長したといっても、復興期に至るまでの戦後混乱期、つまり、戦争終結の昭和20年(1945年)~昭和25年(1950年)6月25日に勃発した朝鮮戦争の特需景気(※6の朝鮮特需参照)で経済復興の糸口を掴む頃、また言い換えれば、GHQに占領されていた時期(占領時代)までは、700万人にも及ぶ在外日本人の引揚者もあり、庶民は合法的に配給された食糧だけでは生活財に事欠き、生活が困難であり、焼け跡には闇市が立ち並んだ。
町には、物乞いする人や傷痍軍人GI(在日米軍人)を相手の「パンパン」と呼ばれる街娼が登場。悲しいことに、親を失った戦災孤児などは、喰うために、ガード下で靴磨きをしたり、かっぱらい(掻っ払い)を、してその日をしのいだ。
戦後、食糧難で飢えて餓死した人の数は戦死者よりも多かったといわれるが、何とかその日の食事は出来ても、おやつどころでない時代、「ギブ・ミー・チョコレート」(※9:「昭和毎日」のここ参照)が流行語になったのもこの時代である。当時の小さな子供が最初に覚えた英語がこの言葉であったのではないだろうか。
野坂昭如自身の戦争原体験を題材した短編小説『火垂るの墓』は、わが地元神戸市と西宮市近郊を舞台に、戦火の下、親を亡くした14歳の兄と4歳の妹が終戦前後の混乱の中を必死で生き抜こうとするが、その思いも叶わずに栄養失調で悲劇的な死を迎えていく姿を描いた物語である。
愛情と無情が交錯する中、蛍のように儚く消えた二つの命の悲しみと鎮魂を、独特の文体と世界観で表現したこの物語は、漫画や映画、ドラマにも取り上げられた。以下は、ドラマ版「火垂の墓」の映像をX JAPANの「Tears」にのせて編集している。結構良いものだよ。

この戦後の復興期、新憲法制定下で,大戦による経済困難からの脱却を図るため,政府は、「経済安定本部」設置(21年)による傾斜生産方式の実施、財閥解体農地改革といった民主化政策の推進、インフレ抑制のための緊縮財政(「ドッジ・ライン」)、360円レートの設定(昭和23年。※9:「昭和毎日」のここ参照)等相次ぐ政策を打ち出した。
こうした中で我が国経済は「朝鮮特需」もあり,戦前水準に向かって回復を続け、昭和31年(1956年)7月に発表された日本初の『経済白書』(※10)では「もはや戦後ではない」と明言するまでに復興した。
復興をとげた日本経済は,「国際収支の天井」(※11も参照)による引締め,景気後退をはさみながら,神武景気(昭和30年代前半),岩戸景気(昭和30年代半ば)、いざなぎ景気(昭和40年代前半)と平均10%以上の高度成長をとげた。
第1次池田勇人内閣の策定(昭和35年)した「所得倍増計画」の下で,「投資が投資を呼ぶ」設備投資ブームと三種の神器(洗濯機,テレビ,冷蔵庫)から3C(乗用車,カラーテレビ,クーラー)へという消費ブームがこれを支えた。
この間,「IMF8条国」(ここ参照)への移行(39年)など,開放経済体制の整備が行われるとともに,昭和40年代に入ると次第に国際収支の黒字が定着していった。
よく「昭和はよかった」・・と回顧されることがある。その場合思い起こされているのは、この昭和30年代のことではないだろうか。
戦後の復興が進み、街は活気を取り戻し、日本の人々の暮らしも戦前、戦後に比べれば大分豊かになった。まだ残業も多く、有給どころか休日の休みさえもなかなか取得出来なかった働き蜂サラリーマンもインフレと所得倍増計画の中で、給料も上がり、気分もよくなり、クレージーキャッツ植木等が歌い大ヒットした「スーダラ節」やそれに続く歌を「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ・・」(「ドント節」以下参照)と居酒屋などで、陽気に歌いだしたのも昭和36・7年ごろのことである。
ハナ肇とクレイジーキャッツ ドント節 歌詞

平成17年(2005年)に上映され大ヒットした昭和30年代を舞台にした映画『ALWAYS 三丁目の夕日』や、大好評のため2年後の平成19 年(2007年)にも公開された『ALWAYS 続・三丁目の夕日』などを見ていると、あの頃は今のように便利な世の中ではなかったが、そこに暮らす人々が生活を共有するようなところがあって非常に心豊かに暮らしている。それが若い人にも感動できたからこそ、昭和が見直され、それ以後、全国各地で昭和の町づくりななども盛んになっていったように思う。豊後高田市の「昭和の町」や「昭和」の雰囲気が漂う東京都青梅市などが評判を呼ぶようになったのだろう。

当時集団就職で地方の多くの若者が、東京へ出てきてたが、私自身も、この時代、大好きな歌手フランク永井の「有楽町で逢いましょう」の歌に誘われてという訳でもないが、大阪の商社を辞めて、当時あこがれであった東京で急成長していた会社へと転職し、花の銀座や、ちょっと渋い街渋谷、その当時何か大阪の下町通天閣周辺や新世界と同じような雰囲気のあった新宿で大いに青春を堪能していた。
いわば、生活が豊かになることが幸せになることだと信じられた時代。すべてが幸せだったわけではないにしても、人々は未来に希望が持てた。頑張ることで報われた最後の時代と言えるかもしれない。
今振り返って見ると、まだまだ貧しく、街も清潔とは言えず、暮らしは依然として不便なままだったが、それでも、昭和30年代を生きた私を含め多くの人達が「あの時代は良い時代だ」と懐かしく振り返るのは、あの暗くてひもじくて辛い戦中・戦後の長い時期を必死に耐え、何とか生き抜いてきた人間が、やっと、その苦しいことや辛かったことも忘れかけ、明日への希望を見出せるようになってきてからこその感慨に違いないような気がする。
戦中、戦後の辛い時代を知らない、戦後生まれの豊かな世の中に生まれてきた世代の人たちにとっては、つまらぬ時代であったかもしれない。私たちの年代のものとは違って、ただ、当時のものや街並みにレトロノスタルジーを感じさせているだけではないだろうか。
今の時代とは違って、まだまだ、男らしい男が男であり、女らしい女が女であった時代、私たちが感じる昭和の男や女は、もう、古臭い男や女になってしまっている。
昭和30年代が過ぎ40年代に入ると、必ずしも夢や希望だけで生きていける時代ではなくなったようだ。自由主義の進化は、当然に強いものが弱いものを駆逐し2極分化してゆく。
私が会社へ入った時代などは、年功序列終身雇用の時代でもあり、私たちは先輩や年配者のいうことをよく聞き、それに従って行動してきものだが、何時の間にか、新入社員など若い人からは、そんな考えは古い、これからは「能力主義」だと言って笑われたのを思い出す。
昨日があって今日があり、そして明日が来る。原因がなくて結果はない。すべての今は過去のなせる業である。よくなったこともあれば悪くなったこともある。昭和の時代の何が良くて何が悪かったのか・・・,振り返ってみるのもよいだろう。
もし、昭和30年代のことにだけ興味があるのなら、YouTubeに沢山動画がある。以下参照。




参考
※7:世界ランキングー経済と産業についてのランキング
http://top10.sakura.ne.jp/listp14.html#rank1
※8:今なぜ「GDP」ではなく「GNI」が日本経済にとって重要なのか?
http://diamond.jp/articles/-/38153
※9:昭和毎日
http://showa.mainichi.jp/
※10:経済白書 昭和31年度-経済企画庁編
https://www.komazawa-u.ac.jp/~kobamasa/lecture/japaneco/innovat/ecwhpp_inv.htm
※11:国際収支の天井とは? | 証券取引用語集 - 投資用語集
http://www.glossary.jp/sec/economy/balance-of-payments-constraint.php
宮内庁:主要祭儀一覧
http://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi01.html
Global Note(グローバルノート )
http://www.globalnote.jp/
日本の歴史 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2#.E6.98.AD.E5.92.8C.E6.99.82.E4.BB.A3




ブラジリアの首都がリオデジャネイロからブラジリアへ遷都した日

2016-04-21 | 歴史

上掲の画像はブラジリアの衛星写真(Wikipediaより)

ブラジル(正式には、ブラジル連邦共和国)の首都はどこ?」と聞かれて、すぐにおもいだせましたか。正解は、ブラジリア(ポルトガル語: Brasília)。
現在の首都ブラジリアは、連邦直轄地区(ブラジリアのためにブラジル中部のゴイアス州から分割された地区)で,州には属さない。ブラジル高原の中心部の標高約1,100mの位置に建設された人工都市(計画都市参照)である。
1956年1月、ジュセリーノ・クビチェック大統領によって遷都計画が実行に移され、わずか3年10ヶ月の歳月で。新首都ブラジリアが建設され。1960年の今日・4月21日に、ブラジル政府はリオデジャネイロからブラジリアへと遷都した。
しかし、最近のどこかのテレビのクイズ番組の回答者もそうだったのだが、「ブラジルの首都は?」と聞かれると、旧首都のリオデジャネイロサンパウロを思いだす人が多いのではないだろうか。
ブラジルを代表するクラブとして知られているCRフラメンゴをはじめとしてCRヴァスコ・ダ・ガマフルミネンセボタフォゴなどのサッカークラブの本拠地として知られ、世界最大のサッカースタジアムで1950年、2014年のFIFAワールドカップの主会場となったエスタジオ・ド・マラカナンがあるリオデジャネイロは、今年・2016年夏季オリンピックの開催地にもなっているし、世界最大の見世物のひとつにもなっているリオのカーニバル謝肉祭)はあまりにも有名だ。
そして、都市周辺の美しい文化的景観は「リオデジャネイロ:山と海との間のカリオカの景観群」として、2012年に世界遺産リストに登録されている。
また、ブラジル南東部に位置するサンパウロ州の首府サンパウロは、都市別人口を見ても、人口約1190万で、第2位のリオデジャネイロ(約646万人)に比べて約1,84倍、連邦直轄区ブラジリア(人口約 285万)に対しては、4,18倍(2014年7月1日時点、※1参照)と、ブラジル最大かつ南半球でも最大のメガシティである。
そして、プライスウォーターハウスクーパース(略称:PwC)が公表した調査によると、サンパウロの2008年の都市GDPは3880億ドルであり、世界第10位(※2参照)、南米では第1位の新興経済都市であり、日本やアメリカ、スペインやドイツなどの世界中の大企業や金融機関などが古くから多数進出しており、パウリスタ通り近辺や新ビジネスエリアにはこれらの企業のオフィスが集中している。また ,サンパウロには、多くの観光名所もあるが、2015年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界38位の都市と評価されている。特にビジネス部門で高評価を得ており、同国では前主都であったリオデジャネイロを上回り第1位である。このようなことからブラジルの首都といえばこれらの都市が思い浮かぶのだろう。

「日本から見て地球の裏側に位置するブラジルは、南アメリカ大陸最大の面積を擁する国家であると同時にラテンアメリカ最大の領土、人口を擁する国家で、面積は世界第5位である(※3:世界の経済のネタ帳の面積ランキング参照)。
南北アメリカ大陸で唯一のポルトガル語圏の国であり、同時に世界最大のポルトガル語使用人口を擁する国でもある。ポルトガルによる植民地支配が厳格化する17世紀半頃までは、殆どの原住民は男女とも全裸に首飾り等の装飾品を付けた状態で生活していたという。

国号のブラジルは、樹木のパウ・ブラジル(伯剌西爾木、学名Caesalpinia echinata)に由来する。元々この土地は、大航海時代に,コロンブスが1492年にヨーロッパ人として初めてアメリカ大陸に到達した後、1498年ポルトガルの第1回インド遠征隊を率いたバスコ・ダ・ガマによってインド航路が開かれた。
続いて、インド航路を目指していたポルトガル王マヌエル1世に顧問官として仕えたキリスト騎士団の一員であるペードロ・アルヴァレス・カブラルが率いる第2回インド遠征隊が、1500年4月22日,未知の陸地(現在のブラジル)に漂着した(漂着ではなく意図した航海の結果との見解もあるるようだが・・・)。
漂着した当初は、南米大陸の一部ではなく島だと思われたために当初、漂着(上陸)した周辺一帯をサンタクルス(十字架の意)島(Ilha de Santa Cruz)と名付けられたが、この名は後に大ベラクルス大陸(Terra de Vera Cruz)と改められる。このサンタクルスは現在のバイーア州(Bahia)バイーア州南の ポルト・セグロ (Porto Seguro、「安全な港」の意)といわれる。
当時まだ「サルとオウム」しかいなかったといわれるこの地は、1494年6月7日にスペインとポルトガルの間で結ばれたトルデシリャス条約に基づいてポルトガルに帰属することとされたものの、その後暫くは開発が進むことはなかった。
カブラルの艦隊に同行していた貿易商たちは、1503年にヨーロッパで需要のあった色染料「ブラジリン(en)」(英語版を日本語翻訳のものここ参照)を抽出できる「ブラジル木」(パウ・ブラジル(=ブラジル)語、: Pau-Brasil)を見つけて、この地を“ブラジルの地”と呼び、これが、今日の呼び名「ブラジル」の語源にもなったという。

1500年にカブラルがブラジルを「発見」してから、ブラジルの首都は三回変わっている。最初の首都が、サルバドール(Salvador)、二番目の首都が、リオデジャネイロであり、三番目の首都が、現在のブラジリアである。
サルヴァドール(Salvador)は、ブラジル北東部の大西洋に面した「諸聖人の湾」を取り囲む半島に位置している港湾都市である。
サルヴァドールの正式名称は「サン・サウヴァドール(サルヴァドール)・ダ・バイーア・ジ(デ)・トードス・オス・サントス」で、「諸聖人の湾(バイーア)の、聖なる(San)救世主」という意味そうで、「諸聖人の日」(11月1日。古くは「万聖節(ばんせいせつ)」)に発見されたことから、そう名付けられたそうだ。サルヴァドール自体は,ポルトガル語で救世主(「神」)を意味している。
「諸聖人の湾」が,ブラジル探索を進めていたフィレンツェ人アメリゴ・ヴェスプッチによって、初めて発見されたのは、1502年だそうだ(※4:「ラテンアメリカの政治」ラテンアメリカ各国年表>ブラジル年表その1参照)が、その後、砂糖キビ栽培が始まって以降、先住民との抗争等も発生し、サルヴァドールが建設されるのは、ポルトガル王室が1549年に国王直属の総督が、直接ブラジルの植民地経営を担う総督制を導入し、初代ブラジル総督トメ・ヂ・ソウサ率いるポルトガル人入植者の到着を待たねばならなかった(※4の中の、ブラジル先住民の抵抗史を参照)。
ソウザは、先住民の反乱を鎮圧し、バイーアに総督府を設立。これが現在のサルヴァドール市である。
その後急速にブラジルの主要貿易港として発展し、砂糖産業と奴隷貿易の中心地であったポルトガル領ブラジルの最初の首都となった。
このサルヴァドールが首都となった理由は、当時ブラジルにおける植民都市の建設は,ブラジルの領土を分割(14ないし17とされている)し、砂糖生産を基礎とするカピタニア制(民間の力で開発する方式。)によりそれぞれを有力貴族へ依託し、防衛と開発に当たらせていたが、カピタニア制崩壊のあと、ポルトガル王室はカピタン(総督)制度を創設し、カピタン領ペルナンブーコやサンビセンチ(現在サンパウロの沿岸部にある市)のカピタニアの経営はそのまま尊重し、ほかのカピタニアの底上げをするため、両者の中間にあるサルヴァドールに第三の拠点を作ろうとしたのだろうという。
1763年、その当時新たな経済の中心地となったリオデジャネイロへと首都を移転して後も、大いに発展し、北米でアメリカ独立戦争が起こった1776年の段階では、新世界で最大の都市のひとつになっている。

リオデジャネイロ(葡: Rio de Janeiro)には1763年から1960年までの約200年間、ブラジルの首都が置かれていた。また、1808年にナポレオンに本国領土を奪われたポルトガル王室が遷都してからブラジルが独立するまではポルトガルの首都であった。また、中南米有数の貿易港でもあるためにブラジルの経済的な中心地でもあった。
リオデジャネイロのポルトガル語は「rio(川)」「de(の)」「janeiro(一月)」と三つの単語で構成されている。日本語に訳すと、「一月の川」という意味になる。
カブラルが、ブラジル本土に上陸し、ポルトガル領を宣言した後、インドに向け出発.その船団のうち一隻を本国報告のためリスボンに戻し.バウ・ブラジルから作られた染料が、ポルトガルに持ち帰られた。
そして翌年、ポルトガルがベラクルスに調査船を派遣。そして、ポルトガル人探検家が、グアナバラ湾(葡: Baía de Guanabara)に、到達したのが1502年1月1日のことである。グアナバラ湾は湾口が狭まっているため大きな川であると誤認し、発見した月に因みポルトガル語で「一月の川」と命名された。

上掲の画像は、1565年のリオデジャネイロの創設を描いた画(Wikipediaより)

それでは、サルバドールからリオに遷都した理由は何か?
ポルトガルによるブラジルの探索が進められている間、他のヨーロッパ諸国(フランス、オランダなど)もブラジルに興味を示し、沿岸部のいたるところで、領土の争奪戦が繰り広げられた。
リオでは、1555年、フランスが、先住民のタモイオ族たちと手を結び、ポルトガルの領土を侵略し始めた。フランスの副提督ニコラス・デュラン・デ・ ビルガニョン(Villegagnon)率いる船団がグアナバラ湾内のセルヒペ島(Ilha de Sergipe.現ビルガニョン島)に上陸し、フランス領「南極フランス」(Frank Antartida)を宣言。.島の切り立った断崖の上に砦を建設した。
ポルトガルは自陣の体勢を整えて、フランスを追放するには、拠点となる都市を設立し、整備する必要があった。
ポルトガル総督メン・デ・サー(Mem de Sa)らは1567年ついにこれを追い出し、18世紀までここ(海岸部)に小さなコミュニティをつくっていた。町の名は川(rio、実は湾)の名の転用である(リオデジャネイロ再建)。
17世紀までのリオは、砂糖の栽培と製糖工場がある小さな港町にすぎなかったが、これらの主な生産地はブラジル北東部であった。しかし18世紀前半に内陸のミナスジェライス周辺で金鉱が発見された。
この金の集散地は、当初は金鉱発見者であるバンデイランテスたちの基地であるサンパウロであったが、1725年にリオとを結ぶ新道が開通すると、距離的に近いリオがサンパウロに代わってミナスの金やダイアモンドの積出港となり、ブラジル植民地の交通と富の中心となった。
このためそれまで栄えていた北東部から南東部への重心の移動が生じ、1763年にはブラジル総督がサルヴァドール・ダ・バイーアからブラジル植民地の首府がリオに移されることとなった。また、1808年にナポレオンに本国領土を奪われたポルトガル王室が遷都してからブラジルが独立するまで、リオはポルトガルの首都でもあったのは余り知られていないのじゃないのだろうか。

そんな首都リオがなぜブラジリアに遷都したのだろうか?
現在のブラジルの首都、ブラジリアは1960年4月に当時の大統領クビシェッキにより建設された計画都市であるが、これより100年以上前、つまり、ブラジル独立の直前の1821年に、ブラジル独立の父と呼ばれるジョゼ・ボニファシオ(José Bonifácio)だという。
1808年にナポレオン軍がポルトガルに侵略したことで、ポルトガル王と王室はリオ・デ・ジャネイロに移り、そこに1821年まで留まっていた。王室が14年間にわたりブラジルに中央政府を置いたことは、結果的にブラジルの独立を早めることになった。1815年ナポレオン支配は終結したが国王ジョアン6世はリオ・デ・ジャネイロに残り続けていたが、国王は6年後の1821年にリスボンに帰還するが、ドン・ペドロ王子を総督摂政としてリオに残していた。
ジョゼ・ボニファシオはこの時、本国のリスボン議会に、首都移転の構想を書き送っており、さらに、ブラジル独立後、自らが宰相になってからも首都移転の構想を議会に諮った(この時新首都の名として「ブラジリア」をすでに提案していたともいう。ブラジリアというのは、「ブラジル」をラテン語読みした名前である。)が、残念ながら移転に至らなかったという(※5:「ブラジル余話」>ブラジル関連>ブラジル歴史>たった三年で作られた首都、ブラジリアの歴史参照)。
それは、彼がブラジルに存在した制憲議会での「奴隷制度廃止計画」の起草者となったが、民主主義の考え方を理由に彼のペドロとの関係は、相いれないものとなり、ついに彼は1823年官職を追われ、同年11月の議会の解散にさいし逮捕され、フランスへ追放されてしまったからだろう。
その後、1889年に、ブラジルでデオドロ・ダ・フォンセカ(Deodoro da Fonseca) 元帥により、ブラジルの軍部が蜂起し、皇帝ペドロ2世を退位させ、共和制を宣言し1891年の大統領選挙で初代大統領に当選すると、貴族制度の廃止などを盛り込んだ憲法が公布され、この憲法の中でそれまでの県(provincia)は新たに州(Estado)となり、正・副大統領の直接選挙、三権分立が定められ、国名はブラジル合衆国(ブラジルの国旗参照)と定められ、各州は独自の州憲法と州軍を保有し、ブラジルは中央集権的な帝制国家から、地方分権的な連邦共和制国家に移行した。そして、1946年までに、首都移転を実現しようという目標が据えられたが、軍が政治介入し、フォンセカは1891年に失脚したため、目標年から十数年遅れること1960年、ジュセリーノ・クビシェッキ政権の下、ついにブラジリアへの移転が実現することになった。
ミナスジェライス州知事として同州の工業化に成功し、その実績を背景に1956年、大統領に当選したクビシェッキは、「五年間の任期中に五十年分の発展を実現する」という「メッタス計画」(プラノ・デ・メッタス)を打ち出したが、31のメッタス(目標)からなるこの計画の最大の目玉が首都ブラジリアの建設であった。そして、ブラジリアは、ブラジル中西部の内陸の何もない場所に建設された。
しかし、そんなに急いで中西部の何もない場所に首都移転をした目的は何なのだろうか?
駐日ブラジル連邦共和国大使館経済部長へのインタビュー(平成22年6月14日※6参照)で、エドウアルド・ティシェイラ・ソウザ氏は以下のように答えている。
首都移転の最大の目的は、「ブラジルのアイデンティティを構築すること」でした。ブラジルは多民族から構成されており、旧首都のリオデジャネイロはポルトガルの影響を非常に強く受けていたのです。そこでブラジルの多民族統一のため、国民国家を象徴するような一つの都市を造る必要があったのです。
2番目の目的は、それまでは沿岸部に人口が集中していて内陸部には人口がまばらでしたので、地理学的な戦略から、内陸部へも人口を分散させる必要性があったということです。
3番目の目的は内陸部の開発です。労働者を移住させ、土木工事を行ったり、あるいはセラード(低木草原地帯)の農業を振興する。セラードというのは「ブラジルのサバンナ」とも言われますけれども、非常に肥沃な土地ですが、農業を行うためには土地改良の必要がありました。この面では日本人移住者が多大な貢献をしています。・・・と。

そして、ブラジリアは、ブラジル中部・標高約1100mの未開の大地に、計画的に建設された。
計画都市地域は、1955年からのパイロットプラン(Pilot Plan。ブラジル人建築家ルシオ・コスタの設計による)というユートピア構想にもとづいて構築されたエリアで、キリスト教の多いブラジルの環境から、十字架にまず線がひかれ、空から見ると、パラノア人造湖のほとりに飛行機が羽根を広げた形をしており、飛行機の機首の部分・三権広場周辺には国会議事堂や行政庁舎、最高裁判所が並び、羽根の部分には高層住宅や各国の大使館が配置されている。三権広場を中心につくられた放射線状の街並みは今もいきる平安京の碁盤の目のようで日本の古代の都市計画の素晴しさを再認識させるものだった。

上掲の画像は、飛行機の主翼の形状を模したブラジリアの都市計画であるパイロットプラン(Wikipediaより)

国会議事堂やメトロポリタン大聖堂などの主要建造物は、いずれもモダニズムの流れを受けた未来的なデザインで作られている。これらの公共建築の主任建築家は、ニューヨーク市の国際連合本部ビルの設計も担当したブラジル人建築家オスカー・ニーマイヤーやルシオ・コスタの両建築家により 1958年から4 年足らずで建設され、1987年には世界遺産にも登録され人口は、285万2.372人(2014年7月現在)にもなっている。まずは以下でその街の景観を見られるとよい。
ブラジリア・都市の景観
モニュメンタル・アクシス通りのパノラマ写真画像クリックで拡大
また、以下参考の※7:「ブラジリア旅行|エクスペディア」では、ブラジルの名所が説明付きで見られるが、以下で、ブラジリア連邦直轄区の建造物をご覧ください。
ブラジリア連邦直轄区旅行ガイド

しかし、このブラジリアへの首都移転は成功したといえるだろうか?
どうもメリットよりデメリットの方が大きかったようだ。
この新首都の建設によって内陸部の開発が進んだが、その一方で、莫大な建設費はブラジルの国家財政に大きな負担となって残り、1970年代から1980年代にかけてブラジルを襲った経済不振と高インフレの大きな原因の一つともなり、通貨=クルゼイロ(現在はレアル)の対外的信用は極めて低かった。
特に、1986年から1994年までの8年間に合計4度のデノミによって、通貨価値は2兆7500億分の1に切り下がっており、かってのジンバブエのように毎日のように物価が倍々ゲームで上昇していく「ハイパーインフレーション」が起こっていた(ジンバブエ・ドルは2009年4月12日をもって発行停止)(※3:「世界の経済のネタ帳」のブラジルのインフレ率の推移参照)。
ブラジル政府は、フランコ大統領のもとでカルドーゾ蔵相が1993年12月に実施した「レアルプラン」を発表し、ドルペッグ制の通貨レアルの導入を1994年7月に行いインフレを終息させたが・・・。
新首都を国土の中央に建設した結果、内陸部の経済振興はかなり進み、ブラジリア国際空港建設、物流拠点の整備、長距離バス路線の再整備などで内陸部経済発展と国内アクセス面でメリットが出ている反面、ブラジリアには水運手段がなく、国際線定期便の就航も少ない。サンパウロやリオデジャネイロ、マナウスなどの大都市とは距離がかなり離れており、大企業の本社機能の移転などはほとんどないようだ。
ブラジルの狙いは政治、行政という首都機能を移すことで企業もブラジリアに進出し産業の振興が進み、海岸部と内陸部の経済格差を縮小することだったのだが、河川が無い内陸部に建設されたため水運手段がなく、企業は物流経費がかかる内陸部を敬遠したのだろう、行政も実質的には大西洋沿岸部の大都市中心になっているという。さらに、ブラジリアは整然とした計画都市だが、市内の移動は自動車による移動を前提にしているために、実際の市民生活を送るには不便であるという。
しかも、国家プロジェクトとして緻密な計画が練られて開発されたブラジリア市とは対照的に、周囲の衛星都市は無秩序に発展し、ブラジリアが位置する連邦直轄区内は州境の幹線脇を中心に土地の不法占拠など半ばスラム化(ファヴェーラ参照)しているところもある(中でもリオデジャネイロ市のファヴェーラがもっとも有名だそうだ)ようであり、そうした衛星都市を都市圏とすることで成り立つブラジリアもその影響を免れておらず、一口に成功したとは言い難い状況だそうである。
ブラジルが、国を挙げてリオデジャネイロへの“2016年オリンピック”招致を図ったのは、今でも、リオデジャネイロはブラジルの顔で、ブラジルというと多くの人はリオデジャネイロをイメージする。そのため、リオを再活性化するという大きな計画がありその一環だと、カルドーゾ蔵相は、いっているが、現在、同国第36代大統領ジルマ・ルセフが2014年の再選を目指す大統領選で選挙に勝つために財政赤字を隠したなどとの批判が出ており、また、政府予算の不正執行の疑いが持たれて、ルセフ大統領に対する弾劾手続きが4月18日、同国議会下院で可決されたが、経済は停滞し、ジカ熱流行が終息の兆しを見せないなかで、リオ五輪の開催が迫っているが、まともに、開催できるのであろうか?暴動でも起こりそうで心配である。
ブラジル中央銀行が今年2月29日発表した2015年の財政収支赤字は6130億レアル(1509億9000万ドル)と過去最悪に達したとのこと。財政再建の取り組みの失敗や金利上昇が響き、2014年の水準から2倍近くになったそうだ。
財政赤字の対国内総生産(GDP)比率は10,3 4 %だった。2011 年半ばまでの12 カ月間の財政赤字の対GDP比に比べると約5 倍に膨らんでおり、ルセフ大統領が就任した11 年以降で赤字額がいかに増大したかを物語っているという(※8参照)。ジルマ・ルセフ政権になってからの財政状況などは、※9を、ブラジルの
財政収支の推移は参考※3:「世界の経済のネタ帳」のここを参照)。
ファヴェーラの人たちにとっては、オリンピックどころではないだろうな~。人によっては、ブラジルの財政危機が世界経済に大不況をもたらすだろうというが・・・。

参考:
※1:ブラジル、2014年の人口は2億276万8.562人に
http://megabrasil.jp/20140829_13358/
※2:新興市場都市経済 世界GDPランキングで急速に上昇 PwC報告書
http://www.pwc.com/jp/ja/tax/news/library/report/largest-city-economies-2009.html
※3:世界の経済のネタ帳
http://ecodb.net/
※4:ラテンアメリカの政治
http://www10.plala.or.jp/shosuzki/
※5:ブラジル余話
http://tabatashingo.com/top/
※6:首都ブラジリアの過去、現在、未来~首都移転50周年を迎えて - 国会等の移転ホームページ
http://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/iten/service/newsletter/i_02_70_2.html
※7:ブラジル旅行|エクスペディア
https://www.expedia.co.jp/Brazil.d23.Travel
※8:ブラジルの15年財政赤字は過去最悪、前年比ほぼ2倍| ロイター
http://jp.reuters.com/article/brazil-economy-fiscal-idJPKCN0VA15V
※9:「第二期ジルマ・ルセフ政権(ブラジル)への考察」(PDF) - 世界平和研究所
http://www.iips.org/research/data/note-toyoda20150413.pdf#search='%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%AB%E8%A8%88%E7%94%BB'
ブラジル レアル・プラン3年後の課題と今後の展望
http://www.bizpoint.com.br/jp/reports/sakurai/sk05_98.htm
ブラジルのスラム
http://blog.livedoor.jp/wakanalivedoor/archives/50465259.html
ブラジルの歴史 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2#.E6.B0.91.E6.94.BF.E7.A7.BB.E7.AE.A1.E4.BB.A5.E9.99.8D.EF.BC.881985.E5.B9.B4-.EF.BC.89

柔道整復の日

2016-04-14 | 記念日
日本記念日協会に登録されている4月14日の記念日に「柔道整復の日」がある。
柔道整復」が東洋医学に基づく医療として広く認識してもらうことを目的に、NPO法人・全国柔整鍼灸協会(※1)が制定したもの。日付は1970(昭和45)年4月14日に「柔道整復師法」(通称「柔整法」)が公布されたことからだそうだ。
この「柔道整復師法」(昭和45年4月14日法律第19号。条文はここ参照)は、柔道整復師全般の職務・資格などに関して規定した法律であり、1970(昭和45)年7月10日に施行された。1964(昭和39)年には「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師、柔道整復師等に関する法律」という名称で交付されていたものが、1970(昭和45)年に単独法として成立したものである。
ところで、皆さんはこの「柔道整復師」という名称を知っていましたか?



“私の家の近所に整骨院があって、そこの主人は柔道五段か何かで、小さい道場も設備せられてある。夕方、職場から帰った産業戦士たちが、その道場に立寄って、どたんばたんと稽古をしている。私は散歩の途中、その道場の窓の下に立ちどまり、背伸びしてそっと道場の内部を覗いてみる。実に壮烈なものである。私は、若い頑強の肉体を、生れてはじめて、胸の焼け焦げる程うらやましく思った。うなだれて、そのすぐ近くの禅林寺に行ってみる。この寺の裏には、森鴎外の墓がある。・・・”

上掲の文は太宰治の小説『花吹雪』(※2:青空文庫参照)からの引用である。この作品にはさらに、
“男子の一生は戦場です。諸君が、どのような仕事をなさるにしても、腕に覚えがなくては かなわぬ。何がおかしい。私は、真面目に言っているのです。腕力の弱い男子は、永遠 に世の敗北者です。”
“男はやっぱり最後は、腕力にたよるより他は無いもののようにも思われる。”
“明治大正を通じて第一の文豪は誰か。おそらくは鴎外、森林太郎博士であろうと思う。あのひとなどは、さすがに武術のたしなみがあったので、その文章にも<ahref= http://dictionary.goo.ne.jp/jn/233205/meaning/m0u/ >凜乎(りんこ)たる気韻(きいん)がありましたね。あの人は五十ちかくなって軍医総監という重職にあった頃でも、宴会などに於いて無礼者に対しては敢然と腕力をふるったものだ。(まさか、という声あり。)いや、記録にちゃんと残っています。くんづほぐれつの大格闘を演じたものだ。鴎外なおかくの如し。いわんや、古来の大人物は、すべて腕力が強かった。”・・・とある。

男の腕力の重要性、そして体を鍛えることの必要性等が語られているが、太宰は、生涯疎外意識に悩まされ、多くの作品の中で疎外者、弱者を描き出している。
この文中の「産業戦士」とは、戦時下、労働者を戦争を支える存在として使った言葉だが、太宰は、ここで「産業戦士」を戦時下の時代が求めていた“健康で力持ちの象徴”として描写している。戦時下は強制的に国民の同質化が行われ、戦時体制に適合するにふさわしい人的資源だけが優遇されるが、その反面、多くの疎外者を生み出した時期でもあった。
因みに、戦時下に、うたわれていた「産業戦士の歌」(作詞:大日本産業報告会、作曲:林伊佐緒)の歌詞は→ここで、また、少々雑音が入っているがレコードは以下で聞ける。
産業戦士の歌 小野巡 服部富子 鬼俊英 中村柾子 – YouTube

少々、回り道をしてしまったが,太宰の『花吹雪』じゃないが、私の家の近所にも接骨院があって、私も子供のころはやんちゃ坊主だったもので、足の捻挫や骨折などで整骨院にはよく通ったものだが、そこの先生も柔道をやっていた人だったが、当時整骨院の先生といえば柔道をやっていた人が多かったような気がする。
講道館柔道の創始者であり、柔道・スポーツ・教育分野の発展や日本のオリンピック初参加に尽力するなど、明治から昭和にかけて日本に於けるスポーツの道を開き、「柔道の父」と呼ばれ、また「日本の体育の父」とも呼ばれている嘉納治五郎)も、まさに、太宰の『花吹雪』にある“いわんや、古来の大人物は、すべて腕力が強かった。”・・・に該当する人物だと思うのだが、この嘉納が柔道を始めたきっかけが柔道整復師(接骨院)にあったというから面白い。
治五郎は1860年12月10日(万延元年10月28日)、摂津国莵原郡御影村(わが地元、現:兵庫県神戸市東灘区御影町)で、父・嘉納治朗作(希芝)と母・定子の三男として生まれた。

その前年には安政の大獄がおこり、続いて桜田門外の変が勃発。300年続いた武家政治が倒幕運動により終焉を迎え新しい時代(明治)が始まろうとする激動の時代であった。

治五郎が生まれた摂津御影は日本有数の清酒業地(現在でいう「灘五郷」の一つ)で、実家の嘉納家 も代々酒造業を営んでいた(「菊正宗」も「白鶴」も嘉納本家や分家白嘉納家から誕生したもの)。
祖父の次作は当時酒造・廻船にて各方面に名声を博した人物で、その長女定子の婿として後を託されていた(婿入りした)のが父次郎作であった。
初め祖父の治作は治朗作に家を継がせようとしていたが、治朗作はこれを治作の実子である義弟に譲り、自らは廻船業を行い、大阪に出て幕府の廻船方御用達を勤め, 同時に, 1862年(文久2年)勝海舟のもとで和田岬砲台西宮の砲台などの築造工事を請け負っており、また ,1867年(慶応3年)10月には,出願によって幕府所有の汽船長鯨丸,奇捷丸,太平丸などを託され、江戸―神戸―大坂間の定期航路を開き、これがわが国の洋式船による定期航路の端緒となるなど、大いに活躍をしている。
幼少の頃から英才教育を受けていた治五郎は、1870年(明治3年)、明治政府に招聘(しょうへい)された父に付いて上京し14歳の時の烏森町(現:新橋2丁目)にあったという育英義塾(のちの育英高校)に入塾後オランダ人やドイツ人の教師から英語、ドイツ語などを学んだ後、1875年(明治8年)16歳の時官立東京開成学校)に進学。開成学校は1877年(明治10年)に東京大学となり、同大学文学部1年に編入された嘉納は政治学、理財学および哲学を専攻。1881年(明治14年)、政治学、理財学は卒業して残り、1年を道義学と審美学を学ぶ為に哲学選科に入り、1882年(明治15年)7月東大文学部を卒業したという(※3)。
この嘉納治五郎が、柔術をやろうと思い立ったのは、育英義塾・開成学校時代のことだそうで、その動機について、後年彼は次のように書いているそうだ。

「(自分は)学科の上では他人におくれをとるようなことはなかったけれども、当時少年の間では、とかく強いものが跋扈(ばっこ)して、弱いものはつねにその下風に立たなければならない勢いであったので、これには残念ながらつねにおくれをとった。自分は今でこそ普通以上の強健な身体を持ってはいるが、その当時は、病身というのではなかったがきわめて虚弱なからだであって、肉体的にはたいていの人に劣っていた」。
そのため、他の塾生から軽んじられたことを悔しく思っていた治五郎は、
「日本に柔術というものがあり、それはたとえ非力なものでも大力に勝てる方法であるときいていたので、ぜひこの柔術を学ぼうと考えた」(『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』)。・・・といっているそうだ。
したがって、治五郎が、柔術を始めたのは、決して日本の伝統的な武道が廃れていくのを嘆き、その復興を図ってなどという高邁な理想から出発したわけではなく、あくまで、「強くなりたい」という、当時の男子なら誰もが一度は抱く素朴な願望が、柔術を習おうという動機であったようだ(※4、※5:「柔道チャンネル」の柔道お役立ち情報>柔道整復師情報を参照)。
しかし、親の反対により許されなかった。当時は文明開化の時であり, 在来の剣術や柔術は衰退し、全く省みられなくなっており、師匠を探すのにも苦労したが, 当時柳生心眼流の大島一学に短期間入門したりした後、あるとき、日本橋人形町通りの整骨師で、昔天神真楊流の柔術を修めた八木貞之助(磯 正足の弟子)を介して、同門の幕府講武所師範をもしていた福田八之助道場を紹介してもらい念願の柔術入門を果たしたという。
熱心に道場に通って稽古をしていた治五郎は、福田が52歳で死んだ後は、天神真楊流の家元(三代目)磯正智(本名:松永清左衛門)道場に学ぶ。
上達に伴い関心も広がり幕府講武所教授起倒流飯久保恒年師に師事した。柔術を通して強さを身に付けた治五郎は、やがて、柔術二流派の技術を取捨選択し、「崩し」の理論などを確立して独自の「柔道」へとさらに発展させていったのである。柔道の基本「崩し」、興味のある人は以下参照。

崩し解説 日本視覚障害者柔道連盟 選手強化合宿

そして、治五郎が、下谷北稲荷町16(現・台東区東上野5丁目)に、「柔道を講ずる館」として講道館を設立したのは、翌・1882年(明治15年)のことであった。福田八之助のもとで天神真楊流柔術を習い始めたのが、18歳のころ(1877年明治10年)だというから、柔術を始めてたった5年で、柔術を改良した柔道場「講道館」を設立したのだから、治五郎は文武両道の天才少年だったのだろう。そして、「柔道」という武術を高い精神性をもったスポーツにまで高めたのだから立派である。

私もあまり耳にしなかった言葉「柔道整復師」は、その名の通り「柔道」から派生したものである。
“戦国時代の武道の書物には「殺法」、「活法」に関する記述があるが…として、”殺法は武技そのもので、柔術でいうところの、当身技、投技、絞技、関節技、固技はすべて殺法に属する。活法は、傷ついた者の治療法、手当てであり、骨折、脱臼、打撲、捻挫などの外傷を治すもので、出血、仮死者に対する蘇生法なども含まれている“・・などと書かれている(例:※6の柔道整復師の今昔のところ参照)が、古い武道の書物には「殺法」、「活法」などは出てこず、このような記述が書物に出てくるのは明治以降のことでありこれは誤記であるという説がある(※7参照)。
詳しいことは参考の※7を見てもらうとして、1894年(明治27年)東京神田区の弘文堂から守永兵治が出版した『日本柔術活法詳解』では、
日本の伝統武術である柔術に伝わる仮死者に対する蘇生法として「活法」を詳解しておるつもりであるが、第九章「結論」に至りて「生理解剖の学理実際に通熟したる者に非ずんば之を悟了(すっかり悟ること)する難しとす」とある。またこの活法を習得するにあたっては比較解剖学(コンペラティブアナトミー)を勉強しなければならないと説く。最早柔術ではない。また、第八章「殺法」に於いては「殺法又曰く當身之法」とある。・・・そうだ。
活法とは水難での溺者や、高所からの落下者が仮死状態に陥った際に施される蘇生法で、傷ついた者に対する治療や手当は医法が施され、活法は仮死者に対してのみ施された。すなわち、活法を治療法とすることには医学の範囲的に無理がある。仮死者を復活させた方法だから、復活法という意味で活法と称したとも考えられるという。また、武道書の中で「殺法」が出てくるのは、この当身術だけである。
1893年(明治26年)出版『天神眞楊流柔術極意教授図解』(吉田千春, 磯又右衛門 著※8)を見ると、
「背活法 死者の後に図の如くかまえ、両手にて肩を持ち我が膝節にて死者の背中を二三度うち、水を与えて大声にて呼ぶと同時に中をたたくと蘇生す不思議なり。」・・・とあり、これを読むと「活を入れる」というのは「を入れる」という言葉の方が本来である。
同時に「殺法」に対しての「活法」なのではなく、仮死者を復活させるための法である意味で「活法」と命名されたのがわかるという。
そもそも「活法」「殺法」という言葉は、古来日本には見受けられない言葉であり、武に対しての医という相関図ではなく、これを伝承した者の誤解であったと推察される。
明治以降の柔術書籍には、ほぼ「活法」に対して、当て身技の急所図解としての「殺法」 が記載され、二極的発想から生み出された現代語である事もわかった。「殺」という語は我が国民性が敬遠する語であり、古典では、殺す法をあえて「兵法」と呼んでいた。・・と結論付けている。

1882年(明治15年)、嘉納治五郎が講道館を設立すると、多くの柔術道場は講道館を目の敵にし、自分の道場の有効性や有能性を宣伝しなければならなくなった。ここに、柔術界の医学的伝承論における講道館設立以前と以降に違いが出ている。設立以前には「殺法」「活法」など無かったはずなのに、設立以降には出現するようになる。・・といっているが、それまでの、武芸者が柔術、柔道の道場を構えるようになって以降、道場生の怪我を治せる技術があることが道場主に必要な要素となっていたのだろう。
明治維新後の西洋万能の風潮の中、1881年(明治14年)の漢方医学廃止によってそれまでの接骨術が顧みられなくなった。これに対して1912年(明治45年)、柔道家・柔術家の職業として認められるよう柔術家(嘉納 治五郎と繋がりの深い天神真楊流の門人が中心)を中心に運動が起こり、1920年(大正9年)の内務省令によって「あんま術営業取締規則」を準用するという形ではあるが「柔道整復術」として公認された(※9参照)。その際の資格では、「柔道の教授をなす者」が打撲、捻挫、脱臼、骨折に対して柔道整復術を行えるとなっていた。つまり、この技術をもつ者は柔道整復師として認定され柔道家、柔術家の収入源となったのである。
1970年(昭和45年)「あんま、はり灸柔道整復師法」(法217号)から「柔道整復師法」として単独法となった。しかし、内容的には、一部罰則等に変更はあったものの、法217号から単純に柔道整復師を分離したのみであった。業務内容の法的規制は、1920年(大正9年)当時のものがそのままとなっているが、柔道家のための柔道整復術という面はだいぶ後退し、従来、学校に入学しようとする者に求められていた「柔道の相当の実力」は、「柔道の素養」となったようだ。
以降法改正により、現在「柔道整復」は、厚生労働省の業務独占資格となる国家資格のひとつとなっており、厚生労働省ではこれを、医業類似行為として扱っており、医療法に基づく医療行為ではないことには留意を要する。
今、「柔道整復術」は、骨・関節・筋・腱・靭帯などの原因によって発生する骨折・脱臼・捻挫・挫傷・打撲などの損傷に対し手術をしない「非観血的療法」という独特の手技によって整復や固定を行い人間の持つ自然治癒能力を最大限に発揮させる治療術。日本独自の治療技術とされているが、WHO(世界保健機構)の『伝統医療と相補・代替医療に関する報告』では、日本の伝統医療民間療法として柔道セラピーという名称のみ紹介されているが具体的な内容の記述はないようだ。
「柔道セラピー」を行う施設といえば今どんなところがあるのだろうか。
犬も歩けば棒に当たる」ではないが、今、町を歩けば、接骨院、整骨院、整体、整形外科などの施術所や診療所医院,などにぶち当たると言っていいほで乱立している。
昔からある あん摩マッサージ指圧師はり師灸(きゅう)師などの鍼灸院なども含めて、いったい正式には、どのような違いがあるのかよくわからない人も多いのではないだろうか。
少子・高齢化時代の今の日本の社会では、私の住んでいる町にも高齢者が溢れかえっているが、高齢者は、いろんな病を持っている。中でも、足腰の悪い人が非常に多く、家人なども週に何日かはリハビリに通っているが、どこも大盛況のようだ。

結論から言えば、接骨院も整骨院も同じで「柔道整復師」に基づく国家資格で按摩、マッサージ、指圧などの施術を行っているそうだ。
いわゆる骨を接ぐと書いて 「ほねつぎ」 の接骨院。柔道整復師の 「整」の字をとって整骨院を名乗っているようだ。厚生労働大臣認可の専門学校や大学で専門知識を身につけ、卒業時に財団法人 柔道整復研修試験財団(※10)が行う国家試験の受験資格が与えられ合格することによって、厚生省から「柔道整復師」の資格が与えられている。
では、整体院というのはどうなのだろう?
整体とは日本語では主に手技を用いた民間療法、代替医療を指し、日本語としては、大正時代に用いられるようになった用語で、アメリカで誕生したカイロプラクティックオステオパシー・スポンディロセラピー(スポンディロ、英:Spondylo=「脊髄」と、 セラピー英:therapy=「療術=療法=治療」※11 、※12 ;日本武道医学会のここ参照)などを日本古来の武術柔術>の「活法」(広義には、殺法に対して存在する法すべてを指す。狭義においては、柔術[古武術]の裏技として継承されてきた医術のことを指す(※13参照)や骨法などの流派に伝わる手技療法と組み合わせ、「整体」や「指圧」と名付けたのが始まりのようであり、現在の日本で俗に用いられる整体という用語は、手や足の力を用いてカイロプラクティック(脊椎指圧療法)に似た骨格の矯正(主に脊椎)を目的とした手技療法をさしているようだが、骨格を矯正し、筋肉や内臓など各部のバランスを整えて、本来の状態に戻すことを目的とした手技療法をさして使われることも多いようだ。これを、「整体術」・「整体法」・「整体療法」 とも呼ばれている。
ただ、各団体の独自の理論や思想などを加えた整体などが存在するともいわれており、整体に定まったやり方はなく、人によって理解・解釈は異なるようだ。
「柔道整復師法」や、「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律」に定められるものではないため、国家資格も不要であり、そのため、医療制度から見れば補完代替医療の一種であっても、保険適用外であるため、通常医療(一般的な病院で受けられる、いわゆる西洋医学を用いた医療)と共に病院で補助療法として用いられることはなく、法制度からは医業類似行為の一種とされているようだ。その代り、治療内容に制限はないようだ。それが、整体の他との違い(特徴)でもあり、短所でもあるようだ(詳しくは整体を参照)。
整体が、このように「整骨院」と同じように、日本古来の武術である柔術などを基本に発展してきたにもかかわらず、法的資格制度のある「柔道整復師」の柔道整復(接骨・整骨)とは区別されているのは統一基準のなさや組織力の弱さというべきか・・・。
それに対して、昔からある、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師などは、彼らの資質を向上し、もって医療及び公衆衛生の普及向上を図ることを目的とする法律「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律」(昭和22年12月20日法律第217号、通称:あはき法)に基づく国家資格をもって行っている。
また整形外科」は肢体の機能障害をおもな対象として,その病理診断,予防,治療法を研究する外科学の一分科、つまり、正式な「医師」である。
臨床医学としては,骨,関節,筋肉,靭帯粘液包筋膜,神経,血管,皮膚などの組織の疾患,たとえば,骨や関節の炎症,腫瘍先天性奇形後天性の変形などの予防や治療,リハビリテーションなどを行っている。
医師と柔道整復師は全く違う。整形外科はレントゲン検査、手術、投薬を行うことができるが、柔道整復師にはこれらは出来ない。には使用の仕方によっては副作用があるし、レントゲンは放射線なので、生物にとって有害であり、浴びた放射線の線量に応じて何らかの放射線障害内科もあるので、患者を総合的に管理してくれているので、町では一番人気があり、家人もずっと、ここで診てもらっている。
その代り、ここは、毎日のように来ているお年寄りのサロン的存在になっており、朝早くから出かけても家に帰ってくるのは昼すぎてからである。15分ほどのリハビリは後期高齢者なら100円なので、年中休日の高齢者には気持ちもいいし暇つぶしにもなる良いサロンには違いないだろう。私もパソコンのやりすぎなどで首が吊ってしようがないのでしてもらったことがあるが、ウオーターベッドや首の牽引器など本当に気持ちが良い。100円でしてくれるのだから今でも毎日でも行きたいのだが、私はりサロン的雰囲気が嫌いなので行っていない。もし、空いているところがあれば行きたいものだ。しかし、こんな気持ちがいいというだけで行かれると健康保険料はパンクしてしまうだろうね~。腰が痛いとか、首がこるとか背中が痛いとかいうことは、本人がそう申告すれば、そうじゃない、痛いはずがない・・などという人はほとんどいないだろうから、だれでも、やってもらえることになる。
戦後、わが国の平均寿命は著しく伸長し、2001年には世界第1位の水準にる(台湾を独立国とすれば台湾に次いで2位となるが・・・※14、※15参照)。それに伴い超高齢化社会の到来により、今後増え続ける高齢者の中で介護が必要な人を社会全体で支えるため、2000年4月より介護保険制度が実施されている。その中で高齢者が日常生活を営むのに必要な機能の低下を防止するための訓練を指導する機能訓練指導員や介護サービス計画の作成や介護支援サービスを担当する介護支援専門員(ケアマネージャー)の資格を取得し、地域医療の中核を担う柔道整復師も増えていると聞く。
柔道整復を業とする職業は、、最も今の時代のニーズに合った職業と言えるかもしれないが・・・。私の知人の息子も最近、独立して、このような診療院を開業したと聞いている。
それでは、今、どれくらい、これらの業種があるのだろうか・・・?
厚生労働省の「平成22年衛生行政報告例(就業医療関係者)結果の概況」(平成 23 年7月12 日)(ここ参照)を見ると、
(1)就業あん摩マッサージ指圧師等数[()内は平成12年の人員]は、
就業あん摩マッサージ指圧師(以下「あん摩マッサージ指圧師」という。)は104,663 人(96 788)となっている(108,14%増)。
就業はり師(以下「はり師」という。)は92,421人(71 551)となっている(129,17%増)。
就業きゅう師(以下「きゅう師」という。)は90,664 人(70 146)となっている(129,25%増)。
就業柔道整復師(以下「柔道整復師」という。)は50,428 人(30 830)となっている(163,57%増)。
(2) あん摩、マッサージ及び指圧等を行う施術所数は、
「あん摩、マッサージ及び指圧を行う施術所」は19,983 か所となっている。
「はり及びきゅうを行う施術所」は21,065 か所となっている。
「あん摩、マッサージ及び指圧、はり並びにきゅうを行う施術所」は36,251 か所となっている。
「その他の施術所」は2,693 か所となっている。
「柔道整復の施術所」は37,997 か所となっている。

上記のように、いずれも120%以上の像であるが、中でも、「柔道整復師」は163,57%増と激増している。「柔整法」は昭和45 年、「あはき法」に至っては昭和22 年の制定だから、これだけ治療院が乱立してしまうことを予測していただろうか。今でも、「柔整法」受験希望者は非常に多いようだが、過当競争から、いろいろな問題も起こってきそうな感じがするのだが・・・(※16、17など参照)。

冒頭画像は、こどもや赤ちゃんのイラストわんパグより借用。
参考:
※1:NPO法人 全国柔整鍼灸協会
http://www.jusei.gr.jp/znpo/
※2:青空文庫:作家別作品リスト:No.35(作家名: 太宰 治)
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person35.html
※3:名著・快言紹介:嘉納治五郎 私の障害と柔道
http://www.ishiryoku.co.jp/user/takuwa/takuwa01/ser09_p01.html
※4:嘉納治五郎の柔術修行(1) ─ 強さへの抑え難き願望
http://blog.goo.ne.jp/rekisisakka/e/14b8704ec7c15e047941e95399d1c33b
※5:柔道チャンネル
http://www.judo-ch.jp/
※6:解説!柔道整復師―柔道整復師クラブ(JPC)
http://www.kojimachi-shiraishi.com/jpc/jusei/jusei.html
※7:活法殺法(柔道整復術の源)の歴史と医術武術の歴史
http://www.teikyo-jc.ac.jp/jyoho/periodical_pdf/journal2014/journal2014_141-147.pdf#search='%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3+%E6%AD%A6%E9%81%93%E3%81%AE%E6%9B%B8%E7%89%A9+%E3%80%8C%E6%AE%BA%E6%B3%95%E3%80%8D%E3%80%81%E3%80%8C%E6%B4%BB%E6%B3%95'
※8:近代デジタルライブラリー - 天神真楊流柔術極意教授図解
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/860406/1
※9:柔道整復年 表
http://kaigo-net.com/htm/sinkyu/nenpyo.htm
※10:財団法人 柔道整復研修試験財団
http://www.zaijusei.com/
※11:現代語訳『脊髄反射的療法』(スポンディロセラピー)について
http://www.nihaku.com/contents/2016/11/post-30.php
※12 ;日本武道医学会
http://www.budoigaku.org/index.html
※13 :活法とは»活法とその歴史 - 活法研究会
http://kappolabo.jp/modules/content02/index.php?content_id=2
※14:世界の平均寿命ランキング(過去: 2001年) - 世界経済のネタ帳
http://ecodb.net/ranking/old/wb_le00in_2001.html
※15:拡がる「平均寿命」と「健康寿命」の差を考える - GE Reports Japan
http://gereports.jp/post/129273309414/healthy-life
※16:無資格者によるあん摩マッサージ指圧業等の防止についてー厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/isei/i-anzen/hourei/061115-1.html
※17:悪質な不正請求 詐欺事件 柔道整復師
http://blogs.yahoo.co.jp/motorboy39/32390863.html
公益社団法人日本柔道整復師会
http://www.shadan-nissei.or.jp/

農林水産省創立記念日

2016-04-07 | 記念日
1881(明治14年)年の4月7日、農商務省が設置された。明治政府の殖産興業政策の一翼を担った国家機構(行政機構)である。
現在の農林水産省経済産業省 (2001年の中央省庁再編までの通商産業省)の前身である。

1854年3月31日(嘉永7年3月3日)、日米和親条約調印により徳川幕府開国に踏み切ると、日本各地の政治家(大久保利通等)たちは西洋との圧倒的な国力の差を意識した。
欧米では、1830年代に産業革命を既に完了していたイギリスをはじめ、欧米では資本主義経済を確立していたからである。
1868年1月3日(慶応3年12月9日)の王政復古の大号令によって、210年もの鎖国を布いた徳川幕府を倒し権力をにぎった藩閥政府(明治新政府)は、先進資本主義諸国の外圧に対抗するための「富国強兵」をスローガンに、また、そのための日本産業の経済的基盤固めのために「殖産興業」を政策目標に掲げて、欧米の工場制機械工業の移植を中心とする資本制生産様式の採用に踏み切り、急速な資本主義を促進することになった。
政策を推進するための、行政面での明治維新律令制の復活劇でもあった。幕藩体制の崩壊に伴い、中央集権国家の確立を急ぐ必要があった新政府は、律令制を範とした名称(例:太政官、大蔵省など)を復活させたのである。
江戸幕府摂政関白等の廃止と五箇条の誓文を交布し天皇親政が定められ、天皇の下に総裁議定参与三職からなる官制(日本の官制参照)が施行された。
その最高職である総裁には有栖川宮熾仁親王、議定には皇族公卿薩摩長州土佐越前などの藩主が、参与には公家と議定についた藩主の家臣が就任した。
しかし、明治天皇はまだ年少(当時16歳)であるため、それを補佐する体制がすぐに必要となった。そこで、1868年6月11日(慶応4年閏4月21日)、政体書の公布により、中央政府である太政官に国家権力を集めた三権分立制をとる太政官制(七官制、政体書体制)が採られ、さらに翌年(明治2年)7月には、版籍奉還により律令制の二官八省 を模した二官六省制(六省:民部省大蔵省兵部省刑部省宮内省、)が発足した(近代日本の官制の明治8年の官制参照)。
そして、明治政府は国家権力による日本産業の資本主義化を達成するため,殖産興業政策をその課題に掲げ,農・商・工の各分野での具体化が進められた。
まず、1870年12月12日(明治3年閏10月20日)には、民部省の一部が独立する形で工部省を設置し、欧米からお雇い外国人を多数採用し、岩倉使節団(1871年)に合わせて留学生を派遣するなど産業技術の移植に務め、欧米の工場制機械工業の移植や官営事業としての鉄道、造船、鉱山、製鉄、電信、灯台など近代国家に必要なインフラストラクチャー整備などを促進した。
1871年8月29日(明治4年7月14日)には、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化(廃藩置県)により中央集権化が実現。
岩倉使節団が派遣されていた間の留守政府においては制改革が行われたが、後の秩禄処分などはこれを基準として実施されたものである。
また同年9月政府収入の確保のための地租改正案が大蔵省により作成され、1873年(明治6年)地租改正条例が制定され翌年から着手された。
その間、1872年(明治5年)には、群馬県に富岡製糸場などの官営工場(官営模範工場参照)を開設している。また、官営鉄道や汽船が発足し、国内の交通網が発達した。
1871年に金融では新貨条例を、1872年に国立銀行条例を布告している。
岩倉使節団に副使として参加していた大久保利通は、1873(明治6)年5月に帰国し、日本の政治体制のあるべき姿として先進国のイギリスではなく、フランス第二帝政の国内省(内務省)と、ドイツ(プロイセン王国)の帝国宰相府(※2参照)をモデルに、同年11月10日には、強い行政権限を持つ官僚機構として、官営事業を統括する内務省を設立。北海道には開拓使を置き、屯田兵を派遣した。

大久保利通を初代の内務卿として設置された当初の内務省は、地方行財政などのちの所管事項に加え、殖産興業や鉄道・通信なども所管し、大蔵省・司法省・文部省三省の所管事項を除く内政の全般に及ぶ権限を持ち農政も所管していた。
当時の産業行政および殖産興業政策は、内務省、工部省、大蔵省などに分散していたが、官業政策の破綻と殖産興業経費の過重が明らかになったので、政策の転換と産業行政の一元化を図るため1880年(明治13年)には工場払下概則を達し、諸省に分離されてきた農・商・工行政事務を1省に統合することが行・財政改革の点から要望され,参議の伊藤博文大隈重信の建議にもとづき、1881年(明治14年)4月7日、農商務省が設置されることになったのである。冒頭の画像は東京農商務省(絵葉書:1890年)である。

新設の農商務省には、これまで内務省・大蔵省に属していた商務局を移管引継ぎ、書記、農務・商務・工務・山林・駅逓・博物、会計の八局及び農・商・工上等会議などの政策諮問機関を設けた。
太政官制の元、初代の卿に河野敏鎌が就任(農商務省の長のことについてはのちに述べる)。
鉱山、鉄道、工作関係は工部省の所管に残されたが、1885年(明治18年)12月22日、太政官制度が廃止され新たに内閣制度(※1参照)が成立(初代:内閣総理大臣には前参議伊藤博文が任命される)すると工部省は廃止された。
工部省の鉱山事務・工作事務を農商務省に統合。農商務省の駅逓事務・管船事務は新たに設置された逓信省に移管し、農商務省は唯一の産業主務官庁となった。なお、この時より、農商務省の長は農商務大臣とし、谷干城が初代大臣に就任した。
1882年(明治15年)2月8日の開拓使廃止に伴い、函館県・札幌県・根室県が設置され、また、北海道にはこの3県のほか、1883年(明治16年)、北海道事業管理局(農商務省の一部局)が設置されて(三県一局時代参照)以降1886年(明治19年)にかけては北海道の官営諸事業をも管理し、農事・水産の各試験場や工業試験所などを有していた。
1896年(明治29年)4月1日、製鉄所(八幡製鐵所)を官営組織として創設(1901年(明治34年)2月5日操業開始)。
1925年(大正14年)4月1日、農商務省が廃止され、農林省(第1次)と商工省(第1次)の二つに分離された。
農商務省の2分割は農業関係団体からの「農務省」設置要求の建議が数年間にわたって繰り返されてきたことによる。その契機は大正期にはいってからの米価高騰により外国産米輸入措置に対しての農業関係者からの反発が主原因である(1918年米騒動参照)。
第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)11月1日、いわゆる行政運営の決戦化を目ざす大規模な行政整理及び機構改革が行われ、軍需省運輸通信省とともに、農商省が新設された。これに伴い、商工省・逓信省・鉄道省・企画院・農林省(第1次)が廃止された。
「農商省」は、それまでの「農商務省」と異なり、務の文字がなくなり、長も農商大臣である。これは、商工省の主要部門が軍需省に移動したため、商工省の残存部門を農林省に統合して「農商省」としたものである。この時のいきさつ等詳しくは、参考の※3、※4等参照。
終戦後、軍需省という組織は存在意義を喪失したため、1945年(昭和20年)8月26日、再び農商省が農林省(第2次)と(法令上は農商省を改称)、軍需省が商工省(第2次)と(法令上は軍需省を改称)に分離・復活した。ただし、軍需省設置時に逓信省から移管された電力行政は商工省にとどまることとなった(ただし、電力供給に関する経済政策全般は経済安定本部によって司られた。日本発送電参照)。また、外局の馬政局は農林省畜産局馬産課設置に伴い、廃止された。
その後、農林省、商工省とも再編を繰り返し、農林省は、現農林水産省、商工省は1949年(昭和24年)の国家行政組織法(昭和23年7月10日法律第120号)施行直前に通商産業省に改組し、2001年(平成13年)1月6日の中央省庁再編により、通商産業省から移行する形で経済産業省が設置された。

政商」とは「政府や政治家と結びつき、特権的な利益を得ている商人」(『大辞林』)をいうとすれば、明治初期は「政商の時代」であったともいえるだろう。
民間資本の発達が遅れた状況下で、欧米列強の圧力を受けて急速に資本主義を図らねばならなかった当時の日本では、国家が主導して資本主義形成の担い手を保護・育成せざるをえず、そこに政商が生まれた。
明治期における殖産興業政策の展開過程を政商資本とのかかわりのなかでみる時、三つの時期に分けて考えることができるようだ。
その第一段階は1868(明治元)年の「明治維新政府成立」から1873年(明治6年)の「明治6年政変」までの大蔵省・工部省中心の時期(由 利公正 が主導したいわゆる由利財政 と第一次大 隈(重信)財政期)、第二段階は「明治6年政変」から1881年の「明治14年政変」までの内務省中心の時期(大久保利通政権下での第二次大隈財政期)、第三段階は「明治14年政変」から1889(明治22)年の「大日本帝国憲法発布」までの農商務省中心の時期(伊藤博文参議兼参事院議長と大隈の参議罷免後,参議兼大蔵卿に任ぜられた松方正義を中心に始まる財政期)に区分することができる。詳しいことはここでは避けるが知りたければ、※5:「日本工業の黎明-遣隋使から工部大学校まで-」のⅣ 維新政府の政治経済政策や参考欄の★印のところを参照されるとよい。

要約だけ書くと、冒頭から書いてきたように、明治時代の殖産興業政策は、工部省→内務省→農商務省へと変転する中央勧業機構のもとに、欧米先進諸国から進んだ生産技術と経済制度を導入し、財政・金融・貿易・教育などの諸分野とも関連させながら、工鉱業の発展、農牧業の育成、鉄道の建設、貿易の進展、技術者の養成その他について、政府の指導下に、資本制生産の体系をつくりだそうとした。
しかし、当時、新政府は、その一部が外国資本の管理下に入りつつあった旧幕府・諸藩の軍事施設や洋式工場を官収し、外国勢力や外国資本の侵入を排除して、その利権を回収する必要があった。また、幕末以降、入超が続く貿易において、輸入阻止の目的から、蚕糸(さんし。絹糸)・製茶業を中心に民間産業を育成する必要もあった。
こうして、当時の殖産興業政策は、利権回収と民業振興を支柱に進められた。以上の基調を背景に、国家権力による資本制生産様式の具体化は、第一に工部省(陸・海軍省も含む)中心の移植産業部門における工鉱業と軍事工業の展開、第二に内務省→農商務省中心の在来産業(農業と農産加工)部門における再編、という二つの経路をもって、相互に関連しつつ進行した。
このような「上から」の資本主義の育成策は、1880年代を中心に、官営事業(官営工場と官営軍事工場、鉱山・鉄道の経営など)を生み出したが、工部省所管の官営工場を中心に赤字損失が重なった。
その結果、1880年(明治13)布告の工場払下概則をきっかけに、官業払下げを実施するが、「工場払下概則」布告の払下げ条件には、政府資金の回収をおもなねらいとして、営業資本の即時納入その他、厳しい規定が含まれていたため、払受け希望者がきわめて少なかった。そこで4年後に同法令は廃止され、以後、払下げは個別に承認される形で実現することになった。
その結果、官業払下げは炭坑、鉱山などから始まり、工場や一部の鉄道などに及んだ。こうして1880年代以降、進行する払下げは、政府に必要な軍事、通信、また資金や技術を必要とする精錬冶金などの諸部門を除き、1896(明治29)年に生野銀山三菱合資会社に最後に払い下げられるまで、多くの官営鉱山や官営模範工場に及んだ。そのため、政府財政を節減する目的で実施された官業払下げは、官営軍事工業部門を強化する結果になった。
そして払受け人に有利となった払下げは、払下げを受けた三井三菱古河(ふるかわ)その他の政商に対して、払下げの施設を基礎に、後年、彼らが財閥に発展する条件を保証することになった(※5の財閥と払下げを受けた者との関係など参照)。
西南の役による紙幣の濫発はインフレをまき起こし、その影響は深刻であった。その整理にあたったのが、明治14年の政変で大蔵卿の座にすわることになった松方正義であるが、政府紙幣(不換紙幣)の全廃と兌換紙幣(※6参照)である日本銀行券の発行による紙幣整理、煙草税や酒造税や醤油税などの増税や政府予算の圧縮策などの財政政策、官営模範工場などの払い下げによって財政収支を大幅に改善させ、インフレも押さえ込んだ。
ただ、これらの政策は深刻なデフレを招き、このデフレでの価格や米の価格などの農産物価格の下落を招き、農村の窮乏を招いた。そして、このデフレ政策に耐えうる体力を持たない窮乏した農民は、農地を売却し、都市に流入し、資本家の下の労働者となったり、自作農から小作農へと転落したりしたために「松方デフレ」と呼ばれて世論の反感を買うことになった。
明治期の政府誘導による殖産興業政策はこのように全体として成功したとは言い難いのだが、民間払下げがこのような財閥から初期資本(政商資本)家が現れる契機となり、その結果、資本集中により、民間の大規模投資が可能になって日本の近代化を進めることになったこと、また、民間払下げからも除外された軍事工業(※7参照)は、松方財政下での軍備拡張政策を背景に、産業発展の基軸を構成するキー産業として展開し、以後の日本資本主義の軍事的性格を持つようになったという意味で重要である。

最後に、太政官制の元、明治政府の殖産興業政策の一翼を担った重要な行政機構である農商務省の初代の卿に就任した河野敏鎌について書こう。
彼は、文部卿として、今日まで続く日本の教育制度の根幹を築いた人でもある。

画像は河野敏鎌

河野敏鎌は、1844年(天保15年)10月、土佐藩郷士の長男として生まれる。幼名は万寿弥(ますや、旧字体:萬壽彌)。
1858年(安政5年)3月、江戸へ遊学して儒学者安井息軒の門下となり、1861年(文久元年)に帰国。余談だが、有名な言葉「一日の計は朝にあり。一年の計は春にあり。一生の計は少壮の時にあり。」は安井息軒の開いた私塾「三計塾」の設立主旨(三計の出自はここ参照)。
同年、武市瑞山(通称:武市半平太)らによって結成された土佐勤王党に加入して坂本龍馬とも交友関係を持つ。五十人組(※8参照)に参加し、尊攘派として活動したが、1863年9月30日(文久3年8月18日)の政変で前藩主・山内容堂佐幕派に鞍替えしたことから藩論が転換、武市らが失脚すると、捕縛・投獄され6年間の獄中生活を送ることになる。
1868年(慶応4年)に江戸幕府が崩壊して明治維新がはじまると、ようやく赦免され、同藩の後藤象二郎の手引きで大坂に上り、「維新の十傑」、「佐賀の七賢人」と称される江藤新平の知遇を得る。
1869年(明治2年)4月に侍詔局出仕、8月には弾正台に務め,のちに広島県大参事、司法大丞大検事となる(※9参照)。
その後、1875年(明治8年)に元老院議官、1878年(明治11年)には元老院副議長となる。1880年(明治13年)、文部卿として教育令改正(第2次)の推進をした。1881年(明治14年)、農商務省設立に伴って初代農商務卿に就任するが、明治十四年の政変で大隈重信らに同調して下野した。
1882年(明治15年)4月、大隈らとともに立憲改進党を結党して副総理(副党首)になる。1888年(明治21年)に枢密顧問官として憲法の審議にあたる。その後第1次松方内閣で内務大臣、司法大臣、農商務大臣を歴任、第2次伊藤内閣では文部大臣に就任して文部行政の基礎を確立した。1893年(明治26年)子爵を叙爵して華族に列すが、1895年(明治28年)4月20日に死去している(享年52歳)。
華やかな経歴ではあるが、彼にはあまりよくないエピソードもある。

河野敏鎌と同じ、佐賀藩出身の蘭方医相良知安は、佐倉順天堂(現:順天堂大学)で佐藤泰然、長崎精得館でオランダ人医師ボードインにより医学を学び、明治政府に、イギリス医学ではなくドイツ医学の採用を進言しその説が採用される。
明治初期の医療行政において文部省医務局長などの役職を経験したが、強引なドイツ医学の採用の進言の経緯でイギリス人医師ウィリス(お雇い外国人)を推していた西郷隆盛(薩摩藩出身)や山内容堂(土佐藩15代藩主)らの体面をつぶしたことで薩摩閥、土佐閥の恨みを受けた。
1870年(明治3年)9月に、知安は、大学(大学東校)の会計事務官森之介 ( 薩摩. 出身) が官費を消費したことに連座して嫌疑がかかり、突然弾正台に捕らわれ投獄された。この時の弾正台長が、旧土佐藩出身の河野敏鎌であった。
そして、この知安の危機を救ったのが、知安と同郷で親友の江藤新平らであった10参照)。
江藤新平らの支援が実り、その後の知安は裁判で冤罪が判明し、一年二ヶ月ぶりに出獄が適い復職したが、1873年(明治6年)には、第一大学区医学校校長と文部省医務局長兼築造局長を罷免されている。この理由は前述のドイツ医学採用の経緯や、明治6年政変(征韓論争)で下野した親友の江藤新平を支持したことなどの理由が考えられる(※11参照)。
河野敏鎌は、1874年(明治7年)の佐賀の乱(佐賀戦争)では、大久保利通に従い、鎮定のため九州に赴いた。
河野は、江藤新平の書生をしていた人物で、江藤の推薦で司法省の官吏となり、江藤に命じられて西欧視察に序列筆頭の団員として参加もした。
それが、乱後の裁判では、大久保の命により、佐賀の乱における法廷を主宰し、彼を抜擢した上司であり、恩人である元司法卿江藤新平を取り調べ、釈明の機会も十分に与えないまま死刑の宣告を下したという。
訊問に際し河野は江藤を恫喝したが、江藤から逆に「敏鎌、それが恩人に対する言葉か!」と一喝され恐れおののき、それ以後自らは審理に加わらなかったそうだ。巷では大久保が金千円で河野を買収して江藤を葬ったという風評が立ったらしいが、河野自身は晩年になって友人であり、立憲改進党掌事の牟田口元学に、自身の行動に関する弁明を試みているというのだが・・・。
同年4月8日,河野により除族(華族・士族の身分をとり上げ,平民とすること)の上、梟首の刑を申し渡され、その日の夕方に嘉瀬刑場(佐賀)において処刑された。 
ここには、大久保利通が撮影させたという獄門に処せられた江藤新平の画像がある。ここをクリックで画像が見られる。
河野の江藤に対する最初から死刑ありきの暗黒裁判ともいうべき不当な裁判も、大久保らの差し金によるものだろうが、そこに、相良知安の医療行政問題での恨みがからんでいるものだとしたら、恐ろしいことだ。また、がそれを実行した河野敏鎌が、その後、周りから引き立てられて、とんとん拍子で出世をし、第2次伊藤内閣では文部大臣に就任して文部行政の基礎を確立して行くのである。今の時代、このような人が文部大臣になったらマスコミはどのように騒ぐのだろうか・・・。

参考:
★11:明治前期殖産興業政策と政商資本(Adobe PDF)
★2:2:明治前期殖産興業政策の修正と政商資本(Adobe PDF)
★3:3明治期殖産興業政策の終局と日本資本主義の確立(Adobe PDF)

※1 : 内閣制度と歴代内閣 - 首相官邸
http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/
※2:ドイツ帝国憲法 - 世界史の窓
http://www.y-history.net/appendix/wh1202-121.html
※3:国内行政運営の基礎軍需省中心に確立す - 神戸大学 電子図書館
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10034003&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
※4:法政大学大原社研_崩壊期の戦時経済と経済統制〔日本労働年鑑 特集版〕
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji1/rnsenji1-013b.html
※5:日本工業の黎明-遣隋使から工部大学校まで-
http://ktymtskz.my.coocan.jp/ueda/u0.htm
※6:兌換紙幣 - 金融大学
http://www.findai.com/yogo/0013.htm
※7:戦前期日本軍事工業史研究の再検討(Adobe PDF)
http://human.cc.hirosaki-u.ac.jp/economics/pdf/treatise/19/treatise_19_03.pdf#search='%E6%88%A6%E5%89%8D+%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E5%B7%A5%E6%A5%AD'
※8:五十人組-幕末期の土佐藩 - 龍馬堂
http://ryomado.in.coocan.jp/Bakuto/BTprofile/tosa_profile03-04.html
※9:詳細 - アジア歴史資料センター 収蔵データ一覧
http://www.jacar.go.jp/siryo/ichiran/K_S01/m23250.html
※10:本文ファイル - NAOSITE(Adobe PDF)
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/6595/1/100_03_16.pdf#search='%E5%BC%BE%E6%AD%A3%E5%8F%B0+%E6%B2%B3%E9%87%8E%E6%95%8F%E9%8E%8C'
※11:相良知安と東京大学医学部
http://sagarachian.jp/main/90.html