今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「シチリアの晩祷事件」が起こった日

2008-03-30 | 歴史
1282年の今日(3月30日)は、「シチリアの晩祷事件」が起こった日。
当時、フランス統治下のシチリアは支配者であるフランス王家の傍流にあたるアンジュー家と被支配者のイタリア系住民とが激しく対立をし、一触即発の状態にあった。
1282年3月30日のこの日、アンジュー家の兵の一団がパレルモでシチリア住民である若い人妻にしつこく手を出したことに激怒した彼女の夫がナイフでその兵を刺し殺したことから、フランス兵たちが剣を抜き犯人を追おうとするが、たちまち大勢のシチリアの住人たちに取り囲まれ、兵士たちは一人残らず殺され、この住民による暴動は忽ちのうちにシチリア全土に拡大し、シチリアにいた兵士だけでなくフランス系の住民もほぼ全員虐殺されアンジュー王家(Angevins)は追放された。
1282年、パレルモ郊外のサント・スピリト教会での復活祭(春分の日〔3月21日頃〕を過ぎて最初の満月の次の日曜日」)は3月29日、シチリアでは、復活祭翌日月曜日に祭りを行うのが慣わしだそうでであり、この日教会前には大勢の市民が晩祷(夕刻の祈り)を行うために集まっていた。シチリアの住民が暴動を開始したとき晩祷を告げる鐘が鳴ったことから「シチリアの晩祷(晩鐘)」という名で呼ばれることになる。
この事件はヴェルディ作曲のオペラ「シチリアの晩祷(邦題は「シチリア島の夕べの祈り」)」や、フランチェスコ・アイエツの絵画など多くの文芸作品や芸術作品の題材となった。この暴動を起こした住民が口にした合言葉「Morte alla Francia Italia anela(フランスに死を、これはイタリアの叫びだ)」の各単語の頭文字が「マフィア(mafia)」の言葉の由来との説があるが、これは、文章的にも不自然で、後世の創作である可能性が高いという。
5世紀以降、イタリア半島東ローマ帝国ゲルマニア地方の諸民族、アラブ人などの外国勢力の侵略を受け、また外国の勢力に後押しを受けた小国、公国王国が乱立し、相争う状態に陥った事で政治的な統一性は失われていった。そのような状況下でカトリック教会は唯一安定した組織だと見なされ、大きな政治権力を握るようになった。ローマにいる教皇はイタリアの一部を直接統治していたが、その影響力はイタリア全域にとどまらずキリスト教化されたヨーロッパ中に及んでいた。また9世紀以降、イタリアをみずからの領土だと主張する神聖ローマ帝国と教皇の対立により、イタリア半島はしばしば戦場となった。(教皇派と皇帝派の対立)
11世紀初頭になるとイタリア中部や北部の都市、特にヴェネツィアミラノフィレンツェなどが海運や商業によって繁栄するようになり、名目上は神聖ローマ帝国の傘下にありつつも、実質的には独立した政治的権限を持つ都市国家へと発展する。 12世紀には北イタリアの都市国家群がロンバルディア同盟を組織し、イタリアでの実権をバルバロッサ(赤髭王)として知られる皇帝フリードリヒ1世から防衛している。
一方、アラブ人や東ローマ帝国に支配されていたイタリア南部やシチリア島では、ローマ教皇の求めでロベルト・イル・グイスカルドをはじめとするノルマン人ヴァイキングが征服を行いイタリア半島の南を占領。1071年、ロベルト・イル・グイスカルドの弟のルッジェーロ1世がシチリア全島を占領。この功によりルッジェーロ1世はロベルトからシチリア伯位を与えられた。1130年には、ルッジェーロ1世の子のシチリア伯ルッジェーロ2世は、対立教皇・アナクレトゥス2世から王位を得てオートヴィル朝(俗に言う「ノルマン朝」)シチリア王国が成立した。
シチリア王家と神聖ローマ皇帝(ホーエンシュタウフェン家)の政略結婚により両家の血を引く、フリードリヒ2世が成人するとイタリア半島統一の意志をあらわにしたが、ロンバルディア同盟などの反抗によりフリードリヒは統一を果せず、彼の子孫がその意志を継いだ。
1258年にフリードリヒ2世の庶子マンフレーディが実質上のシチリア王になりローマを脅かすようになると、皇帝によるイタリア統一を危惧したローマ教皇は、フランスのアンジュー家の手を借りた。フランス王ルイ9世の末弟であるシャルル・ダンジューは、ローマ教皇からシチリア王カルロ1世(Carlo I)として戴冠され、教皇の承認を得て十字軍を称してアンジュー、プロヴァンスの兵に加え、フランス中から兵を集めイタリアに進撃し、同年、ベネヴェントの戦いでマンフレーディを討ち死にさせ、シチリアを占領した。さらに、1268年にシチリア王位を求めて北イタリアに侵攻してきたコッラディーノもタリアコッツォの戦いで捕らえ処刑することにより、ホーエンシュタウフェン家を完全に滅亡させ南イタリアの支配に成功したが、1282年にシチリア住民の暴動事件(シチリアの晩祷事件)が発生したため、シチリア島を脱出しなければならなくなった。
・・・・が、この「シチリアの晩祷」事件には黒幕がいたとされている。シチリア王となったシャルル1世の野望はとどまるところを知らず、シチリアさらには東ローマ帝国の征服と地中海帝国の建設を夢見、綿密な政治工作を次々と講じていたが、これに脅威を感じていた東ローマ皇帝ミカエル8世パレオロゴスは、アンジュー家による地中海支配を恐れるアラゴン王国やイタリア海運都市国家と組み、厳しい軍事物資などの徴発を受けたシチリア住民の反フランス感情を煽る工作活動を行って「シチリアの晩祷」事件をを引き起こさせ、シャルルをナポリに追放。マンフレーディの娘婿にあたるアラゴン国王ペドロ3世率いるカタルーニャ兵のシチリア侵攻につなげた。
ささいな諍いをきっかけに起ったように見られるシチリアの晩祷事件は、時の権力者によって扇動され、結局、フランスとスペインを巻き込む何年間もの戦争にまで発展し、このことによりシチリア王国は二つに分裂し、半島側はナポリ王国と呼ばれることとなった。ダンテの「神曲」では、フランス人大虐殺事件「シチリアの晩祷」をひきおこしたことによってニコラウス三世が地獄に落ちたと歌っている(以下参考に記載の「ダンテと沙漠と詩」地獄編第19章参照 )。シチリアといえば、「ゴット・ファーザー」など多くの映画の舞台となっているが、マフィア(伊:Mafia)とはシチリア島に存在する結社を指す。19世紀末よりイタリア南部を本拠として恐喝や暴力により勢力を拡大、市民生活にまで影響を及ぼす存在となる。イタリア統一戦争によって1860年、統一イタリア王国にシチリア島が統合されたことが、歴史の変換点となった。王国とはいっても集まった人間の中身は右から左までばらばらでありシチリアの住民たちはそれまでの政治的な圧迫の記憶から中央に強い不信感があり、ここから伝統的に中道である大地主と保守的な宗教勢力に勃興する労働運動、さらにファシストによる混迷が生まれマフィアの躍進する素地が出来ていったといわれる(詳しくはマフィアを参照)。
(画像はフランチェスコ・アイエツ画「シチリアの晩祷」フリー百科事典Wikipediaより)
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「シチリアの晩祷事件」が起こった日:参考

2008-03-30 | 歴史
参考:
シチリアの晩祷 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%81%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%99%A9%E7%A5%B7
シチリアの晩祷/オペラの合唱曲・ヴェルディ(Verdi)/シチリアの晩祷(シチリア島の夕べの祈り)
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/3174/vespro.htm
ヴェルディ 「シチリアの晩鐘」
http://homepage3.nifty.com/operasuzume/opera1.htm
「中世西欧とは何か」
http://www.trpg.net/user/akts-secretroom/histories/history202.htm
イタリアの歴史
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
西欧史年表
http://homepage2.nifty.com/Kircheis/nenp007.htm
打倒ローマは一日にして成らず 大航海時代前史 その5~シチリアの晩祷~
http://hamilcar.blog64.fc2.com/blog-entry-460.html
言葉の景色
http://www.isis.ne.jp/landscape/020122.html
ダンテと沙漠と詩
http://www7a.biglobe.ne.jp/~dantesque/index.html
ダンテ「神曲」を読む!-地獄篇-
http://www.geocities.jp/michi_niku/inferno.html

源泉徴収制度が始った日

2008-03-29 | 歴史
1940(昭和15)年の今日・3月29日「所得税法」改正。給料の源泉徴収制度が始る 。
所得税法(昭和40年3月31日法律第33号)とは、広義の所得に対する税のうち、個人の所得に対する税金について定めた法律であり、所得とは、収入から経費を除いた利益のことをいう。
この所得に対する税つまり、「所得税」とは、「担税力」の源泉を、所得消費及び資産と区分した場合に、所得に対して課される税金のことを言っている。
「担税力」・・・って何だ・・・??って・・・。日本の税制を理解するためには先ずこの言葉の意味を知っておく必要があるだろう。
それでは「担税力」とは何か。先ず、以下参考に記載の「東京都外形標準課税条例と憲法 ”租税関係の用語説明”」には、”租税を負担する者が不当な苦痛を感じることなく、社会的に是認できる目的を著しく妨げられることなく租税を払える能力である。「応能原則」では、税負担は担税力に応じて配分されるのが、公平であるとするが、この担税力という概念は、社会的、政治的あるいは倫理的概念であって、統計や数値的に確定できるものではない。人の担税力を示すものとして、一般には消費、所得、財産があげられる。"・・としているが、つまりは、税金の負担できる能力に応じて税金を払うおうってことが原則であることには間違いない。
例えば、年収(所得)は同額であっても、独身者は可処分所得(自由に使えるお金)が多く担税力は高いが、妻帯者の場合は同じ収入でも妻を扶養しなければならないので可処分所得は低い。つまり、担税力は低い。このように、同じ所得でも両者の担税力が異なるために妻帯者には妻の扶養負担を軽くするために「扶養控除」などが儲けられているのである。逆に、年収(所得)以外に特別な贈与や相続があった場合には、それに応じて、贈与税や相続税を払えということになる。
このような、日本の所得税法は1887(明治20)年に農民と商工業者、資産の保有等に応じた負担の均衡を図る目的で導入された。当初は、”富裕税”と称し所得金額300円以上の高額所得者のみを納税義務者としていたことから別名”名誉税”とも呼ばれた。税率は最大3%であり、税収に占める割合は僅かなものであった。この新税導入の動機としては、先ず、に対抗して海軍の増強・整備が急がれたことがある。この当時の税制の中心である地租が、毎年一定の税収しか望めないのに対して、所得税の導入により経済の発展にともない税収の増加が期待できた。
また、当時、このような地租や酒造税などに偏った租税負担のあり方が自由民権運動によって反政府側から批判(藩閥政府による政治に対して、議会の開設、地租の軽減他)されたこと、大日本帝国憲法によって設置が予定されていた衆議院に納税額による制限選挙が導入されたために大規模土地所有者(地租の納税義務者)以外の資本家に対しても選挙権を保障して政治参加を認めるための環境整備のためなどがも挙げられている。因みに、この3年後の1890(明治23)年に行われた日本最初の国政選挙である第1回衆議院議員総選挙においては、満25歳以上の男性で直接国税15円以上を納めている者に選挙権が付与された。
1940(昭和15)年の今日(3月29日)改正の「所得税法」では、法人税法の制定によって従来の第1種(法人所得)が所得税から分離されて法人税となった。また、分類所得税と総合所得税の2本立てとなり、前者において所得種類別に異なった税率を適用するとともに勤労所得への源泉徴収制度が導入され、後者において所得合計が5,000円以上の者に10-65%の高度の累進課税をかけた。これは戦時体制の強化に伴って戦費を効率的に集める目的で、ナチス・ドイツの制度に倣い行われたといわれ、不労所得及び高額所得者に対して極端な重課を行い、同時に低所得者からも確実に徴収を行うことによって、税制の面から「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」といったスローガンを国民各層に定着させる意図があったとも言われているようだ。
現在も、勤労者の税金徴収はこの「源泉徴収」の方法で行われている。そのため、サラリーマンは脱税どころか、節税もままならない。商業者のように自分で確定申告をしていれば、もう少し、国や地方での税の使われ方などにも関心を持ち、国の税金の使われ方などにも監視の目が向くのであろうが、戦費を徴収するのに都合のよいシステムは、給与からの天引き方式のため、多くの税金を引かれていても、税に対する感覚が麻痺してしまっている。
累進課税については、所得により税率に差を設けることは、平等原則に反するなどといった意見などもあり、昨今、日本では定率減税の縮小そして2007(平成19年以降廃止など庶民の増税が進んでいる。所得税の最高税率は1986(昭和61)年までは70%であったが、1999(平成11)年一旦37%まで下がり、2007(平成19)年度では40%(課税標準1800万円以上)になっている(以下参考に記載の「財務省・所得税など(個人所得課税)に関する資料」の所得税の税率構造の推移参照)。
このような、税の徴収については、何をもって平等とするのか?、今しきりと論議され、公平とされている消費税の場合、平均消費性向を考慮すると、所得が増えるにつれて税率が低くなり、現実には不公平となる。 特に、ここのところ、所得格差が拡大しており、所得の低い庶民には、消費税は非常に重たいものとなるだろう。
家計調査における平均消費性向とは、実収入から税金等を差し引いた可処分所得に対する消費支出の比で計算されたものであるが、2001(平成13)年のわが国全国勤労者世帯の平均消費性向は72.1%。この数値は国際的にみて、もっとも低い方に属しているという。 (総務省統計局数値)平均消費性向は消費者のマインドを反映し、雇用不安や景気の先行き不透明感は消費態度を慎重化させ、数値は低下する。所得のうち貯蓄に向けられる割合を貯蓄性向といい、日本では以前から貯蓄性向の高さが指摘されているが、これは将来に対する生活不安や住宅取得という問題が背景となっているものである。
総務省統計局の高齢無職単身世帯の収支の状況をみると、、男女ともに消費支出が可処分所得を上回っている。この不足分は、貯蓄などを取り崩して賄っている(個人年金の受取なども含まれる)。
年金は物価スライド制だからと言って、2008年度に支給される年金は前年の物価が下落しているとの理由で、2007年度支給額より減額されている。今年は物凄い物価高となっているので、来年は、年金支給額をたっぷりと上げてもらえるのだろうね~。聡でなければ理屈に合わないよ。皆さん忘れてはいけないよ。
国民は、もう少し、自分の収めている税金や社会保険料の使われ方に関心を持ち、へんな使われ方をしないよう監視しないといけない。日本人は少々政治に無関心すぎる。選挙で投票しない人は文句いう資格はない。老後の生き方が不安な国なんて、一体どこが豊かな国なんだろうね~。でも、テレビなど見てると、どこの何が美味しいなどと、どこの局も贅沢な食べ物の番組ばかり。「お結び食べたい」などと遺書を残して自殺したり、面倒を見てくれる人も施設もなく、老齢の夫婦が病気の妻や夫の介護疲れで、愛する夫や妻を殺し、自らも自殺しなければならない人が多く出るようにもなっているのにね~。泰平だね~。
せめて、医療費など多くかかった人などはたとえ小額でも医療費控除等を還付請求できる人は必ず確定申告をして払い過ぎの税金返してもらおうよね。日本は、何でも申告主義だから、請求しないと返してもらえないのだよ。(国税庁「確定申告に関する手引き等」参照)
http://www.nta.go.jp/taxanswer/gensen/2662.htm
〔画像は、国税庁HPの「No.2662 年末調整のしかた 」より借用)
参考:
所得税 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%80%E5%BE%97%E7%A8%8E
東京都外形標準課税条例と憲法 ≪租税関係の用語説明≫〔担税力〕
http://www-cc.gakushuin.ac.jp/~e930032/detect-data/2003/20031020/theme2.html
租税史料ライブラリー
http://www.ntc.nta.go.jp/sozei/siryou/index.html
用語集 : マネー・経済 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/yougo/
国税庁ホームページ
http://www.nta.go.jp/zeimokubetsu/shotoku.htm
財務省・所得税など(個人所得課税)に関する資料
http://www.mof.go.jp/jouhou/syuzei/siryou/syotoku.htm
総務省統計局・全国消費実態調査
http://www.stat.go.jp/data/zensho/2004/tansin/tan-menu.htm
経済指標の見方・使い方
http://www.pref.toyama.jp/sections/1015/ecm/back/2001dec/shihyo/index.html
所得控除の今日的意義(要約)
http://www.ntc.nta.go.jp/kenkyu/ronsou/48/tanaka/hajimeni.html

「鑑三忌」明治、大正時代の思想家・キリスト教伝道者内村鑑三の忌日

2008-03-28 | 人物
今日(3月28日)は、「鑑三忌」。明治、大正時代の思想家・キリスト教伝道者内村鑑三の1930(昭和5)年の忌日である。教会的キリスト教に対して無教会主義を唱えた。
新渡戸稲造らと共に札幌農学校に学び、直接には教を受けなかったが、農学校に教頭として在校していたウィリアム・スミス・クラークらの強い感化力によって、クリスチャンとなるが、1884(明治17)年に私費で渡米し、拝金主義人種差別の流布したキリスト教国の現実を知って幻滅する。この時期、札幌同期の新渡戸とともにペンシルバニア州フィラデルフィア近郊の親日的クエーカー教徒と親交を持つようになる。翌年9月にはマサチューセッツ州のアマースト大学に選科生として編入。在学中、同大学の総長であり牧師でもあるJ.H.シーリーによる感化を受け、宗教的回心(かいしん)をする。同大学を卒業し理学士の学位を受け、続けてコネチカット州のハートフォード神学校に入学するが、神学教育に失望し神学の学位は得ないまま退学。1888(明治21)年に帰国後、教育者として立ち、1890(明治23)年から第一高等学校の嘱託教員となったが翌・1891(明治24)年1月9日、思わぬ試練に遭遇する。講堂で挙行された教育勅語奉読式において勅語に記された天皇の署名に対し、「宗教的礼拝」をためらったことで同僚・生徒などによって非難され、それが社会問題化し内村は不敬の徒として辞職に追い込まれた。世にいう一高「不敬」(不敬罪参照)事件である。この時内村は敬礼を行なわなかったのではなく、拝礼が宗教性を帯びると判断して、偶像崇拝を否定するキリスト教徒の良心から最敬礼をしなかっただけなのだが、それが、その後、「国賊」「不敬漢」として、日本中のジャーナリストから総攻撃されたのだ。この後内村は著作活動に専念し、英文の『How I Become a Christian』(余は如何にして基督教徒となりしか)などの著書を著わしている。
1897(明治30)年に上京し、「萬朝報」(黒岩涙香が社主を務める朝報社に入社し同社発行の新聞「萬朝報」英文欄主筆となった。それまで政治的知識層を読者としてきたジャーナリズム(正論新聞)が大衆的読者の憤懣を扇動してゆくなか、上流階級の暗部を暴き立てるスキャンダラスによって社会の中下層を読者としてきた萬朝報などはイエロージャーナリズム(赤新聞)と呼ばれてた。
日露の緊張関係が高まった、1903(明治36)年対露同士会戸水寛人らが結成する東京帝大七博士(七博士意見書参照)の開戦論が大衆的読者の憤懣を扇動してゆくジャーナリズムと結びつき大きな反響を巻き起こしたが、反面、イエロージャーナリズムと呼ばれる「萬朝報」の内村鑑三や幸徳秋水らが非戦論を展開するようになる。最初は日清戦争を支持していた内村だが、その戦争が内外にもたらした影響を痛感して平和主義に傾く。彼らのキリスト教や社会主義からする非戦論は、当時の社会中下層の人々の不満に根ざしていたものであった。その点では対外強硬派の開戦論と同根といえるかもしれないが、日露戦争直前には同じ社会的不満に立つ議論が開戦論と非戦論に分裂し対立していたのだ。しかし、最初は非戦論を唱えていたものの、世間の流れが開戦に傾くにつれ、黒岩自体も主戦論に転じたため、非戦を固持した内村は幸徳らとともに翌・1898(明治31)年には「萬朝報」を退社するが、1900(明治33)年からは客員として寄稿した。また、1898(明治31)年に『東京独立雑誌』を発刊し主筆となる。足尾銅山鉱毒事件で財閥を攻撃した。
足尾銅山鉱毒事件の告発者として有名な田中正造 は、栃木県下都賀郡にあった谷中村に住み、仮小屋にとどまる農民と共に生き、明治政府との戦いに終生を費やした。
その生涯は、内村が、「義の為めに責めらるる者は福なり」(興味のある人は以下参考に記載の「[PDF]聖書の読み方「来世を背景として読むべし」内村鑑三 」参照)と田中を励ましたように、旧訳聖書にみるヨブ記の世界に連なるものであった(「ヨブ記」は非常に奥の深い協議で面白いので、内容を知りたい人は以下参考に記載の※のついたものを見られると良い)。日本は「最早亡びたる後の国なり」と記す田中の思いは、内村が1899(明治32)年9月「東京独立雑誌」43号から連載開始の『興国史談』で、「興国」は半面で「亡国」を知ることであり、「亡国」を知らずして「興国」はなく、そのことが「亡国」に至らせると問い質す声に応ずるものにほかならない。内村には、富国強兵による軍事大国への道を歩む日本の姿が「国民が真理発顕に用なきに至りし為其の存在の理由を失ひ」し状況にほかならず、亡国の道を歩むものとみなされたのである(アサヒクロニクル「週刊20世紀」)
1900(明治33)年『聖書之研究』(以下参考に記載の「☆内村鑑三」の1900年9月 『聖書之研究』 創刊号参照)、1901(明治34)年には『無教会』を創刊。この時期から自宅において聖書の講義を始め、志賀直哉小山内薫らが聴講に訪れる。また黒岩や堺利彦、幸徳秋水らと社会改良を目的とする理想団を結成した。
内村は、不敬罪事件の後の日清戦争が始まったばかりの1894(明治27)年の著書『Japan and The Japanese』には、「私に愛する2つのJがある、其の1つはイエス(Jesus)であって、もう1つのJは日本(Japan)である」(私の愛国心に就て)として、内村はキリスト教の信仰と日本人としての愛国心を両立させようとしただけであったことを書いている。
日露戦争時には非戦論を展開し、戦争には批判的ではあったが、彼の元に「徴兵拒否をしたい」と相談に来た青年に対しては、「家族のためにも兵役には行った方がいい」と発言したといわれており、また、斉藤宗次郎が、内村に影響されて本気で非戦論を唱え、「納税拒否、徴兵忌避も辞せず」との決意をした時には、内村は斎藤のもとを訪れ、説得して翻意させているという。そして、幸徳秋水ら社会主義者との関係が深かったが、後年にはその社会主義をも批判しているといい、これは、1915(大正4)年の『聖書之研究』での「社会主義は愛の精神ではない。これは一階級が他の階級に抱く敵愾の精神である。社会主義に由って国と国とは戦はざるに至るべけれども、階級と階級との間の争闘は絶えない。社会主義に由って戦争はその区域を変へるまでである」というのがその主張であった(Wikipedia)という。
西村は、特定の教派・神学を持たず、聖書のみにもとづく信仰福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた魅力ある人物である。
特に若い人には宗教と言う問題から離れて、内村がどんな人物であったか、そして、どのような思想を持っていたかを是非学んで欲しいものだと思う。
(画像は、満朝報英文時代の内村鑑三 、中。この時40歳。右隣は同誌主宰者の黒岩涙香。1902年1月満朝報3000号発刊記念写真から。アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)
内村鑑三 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E6%9D%91%E9%91%91%E4%B8%89
無教会主義 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%95%99%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9
不敬罪 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%95%AC%E7%BD%AA
作家別作品リスト:No.34内村 鑑三
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person34.html
田中正造 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%AD%A3%E9%80%A0
対露同志会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E9%9C%B2%E5%90%8C%E5%BF%97%E4%BC%9A
※ヨブ記 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%96%E8%A8%98
※ヨブ物語 Index
http://www2.plala.or.jp/Arakawa/job_index.htm
※松岡正剛の千夜千冊『ヨブ記』旧約聖書
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0487.html
[PDF] 無教会主義キリスト教における社会正義
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/christ/asia/journals/asia3iwano.pdf
内村鑑三   高尚なる生涯
http://www2s.biglobe.ne.jp/~yukiya-s/home-2/uchimura.htm
☆内村鑑三
http://uchimurakorea.hp.infoseek.co.jp/uchimura/kanzou_profile.htm
内村鑑三小選集『愛国心をめぐって』(書肆心水)
http://www.shoshi-shinsui.com/book-aikokushin.htm
聖書翻訳 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%9B%B8%E7%BF%BB%E8%A8%B3
[PDF]聖書の読み方「来世を背景として読むべし」内村鑑三
http://my.reset.jp/~comcom/sozai/large/seishono_yomikata.pdf
[PDF] 日本キリスト者の「宗教的寛容」
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/christ/tolerantia/05iwano.pdf
内村鑑三「デンマルク国の話」小論
http://members2.jcom.home.ne.jp/mta5-8hg3yd7/utimura.html
「聖書之研究」を読む
http://6304.teacup.com/mitubasanokageni/bbs
「日本史なんて怖くない」近現代の文化2
http://www.melma.com/backnumber_10441_2289204/
内村鑑三不敬事件
http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_2903.html

植木等( 歌手、俳優)の忌日

2008-03-27 | 人物
今日(3月27日)は高度経済成長時代の日本を代表するコメディアンの1人である植木等 の 2007年の忌日である。
植木等はコミックバンドハナ肇クレージーキャッツの一員として草創期のテレビで人気者に。そして、1960年代「日本一の無責任男」になった。
チョイト一杯の つもりで飲んで
いつの間にやら ハシゴ酒
気がつきゃ ホームのベンチでゴロ寝
これじゃ身体(からだ)に いいわきゃないよ
分かっちゃいるけど やめられねえ
ア ホレ スイスイ スーララッタ スラスラ スイスイスイ♪
青島幸男作詞、萩原哲晶作曲「スーダラ節」。
作詞した青島幸男が生前「フルバンドのチンドン屋のような曲」と評したという型破りの歌謡曲が売り出されたのは1961(昭和36)年8月のこと。レコードは、東芝音楽工業(現在のEMIミュージック・ジャパン)から発売され、80万枚売れたという。元々は『こりゃシャクだった』のB面を埋めるために作られた曲であったが、こちらの方がヒットし、後にA面とB面が入れ替えられている。作曲者の萩原はステージでの植木のキャラクターにあった曲作りのために、まず植木の口癖でもあった「スイスイスーダララッタ~」のフレーズをメロディーにして、植木の承諾を取りつつ、残りの部分を作ったという。 しかし、映画やヒット曲から「無責任男」のイメージが強いが、実際の植木は自他共に認める真面目な性格の植木は青島が書いた歌詞を見て、歌うことを躊躇したそうだが、浄土真宗の僧侶である父から「人類が生きているかぎり、この『わかっちゃいるけどやめられない』という生活はなくならない。これは親鸞上人の教えに通じている」。「必ずヒットするぞ」と励まされたという(以下参考に記載の「※スーダラ節」参照)。
父の言う通り、発売されるや否や『スーダラ節』は大ヒットを記録。しかし植木自身は「こんな歌がヒットするようでは悲しいなぁ」「冗談じゃない」「こんなのがヒットするってことは、俺が考えてる日本と本物の日本は違うものなのか」と思い悩んでいたと言う(NHK教育テレビで2007年4月8日に放送された植木の追悼番組『スーダラ伝説・夢を食べ続けた男』)
植木 は、東本願寺名古屋別院にて僧侶の修行中だった父親の三男として、愛知県名古屋市に1926(大正15)年12月25日に生まれたそうだが、大正天皇が薨去(こうきょ。亡くなる)した日に生まれたこととか、父親が体調を崩していたとかの理由で、戸籍上は1927(昭和 2)年12月25日生まれとなっているのだとか。3歳の頃、父親が三重県の浄土真宗の一つである真宗大谷派の寺の住職として、移住したのでその寺で育ったが、戦争反対を訴えて治安維持法(大正14年4月22日法律第46号)で逮捕されたため、行く末を案じた母親が、1939(昭和14)年小学校を卒業した植木を東京の寺へ預け、小僧として寺で修行を積みながら、夜間中学へ通っていたという。1944(昭和19)年 旧制京北中学校卒業後、東洋大学・専門部国漢科に入学、軽音楽同好会に所属したことが人生を決めたようだ。戦争末期であったが軍隊に行くことはなく歌手として軍需工場へ慰問に行っては女工さんたちに持て、芸能界への道を考えるようになったという。当時日本に入ってきたジャズに傾倒して、終戦後、僧侶の道を捨ててバンドボーイとして歌手を目指す。1947(昭和22)年に入った刀根勝美楽団で「ギター持って席にいるだけでいい」と座らされたのがギタリストとしての始まりだという。ここでドラムの見習いをしていた3歳年下のハナ肇(本名:野々山 定夫)と出会う。その後、いくつかのバンドをギタリストとしてバンド活動を続ける。1951(昭和26)年、作曲家でクラリネット奏者の萩原哲晶率いるジャズバンド「萩原哲晶とデューク・オクテット」にギタリストとして加入し、 ハナ肇と再会。翌・1952 (昭和27)年に「萩原哲晶とデューク・オクテット」が解散。同年、自らのバンド「植木等とニューサウンド・トリオ」を結成しバンドマスターを務める。横浜市伊勢佐木町のジャズバー「モカンボ」の専属バンドとして活動。1954年 オペラ歌手の平山美智子からクラシックの発声レッスンを受けているときにフランキー堺率いるシティ・スリッカーズに参加。"シティスリッカーズ"で活動後、ハナ肇の"クレイジーキャッツ"にギタリスト兼ヴォーカリストとして加入することとなった。これが大筋のそれまでの経歴である。
1959(昭和34)年、クレージーキャッツの一員としてフジテレビのTV番組「おとなの漫画」に出演。 1961(昭和36)年6月4日、日本テレビで「シャボン玉ホリデー」(日曜18:30~19:00)が始まる。渡辺プロが当時売り出し中の双子の女性デュオ・ザ・ピーナッツを主役に据えたミュージカル風バラエティー番組で、植木もクレージーキャッツの一員として出演。毎回歌謡界のスター歌手をゲストに迎えていた。クレージーのメンバーは植木を植木屋さんと呼んでいた。音楽のつなぎのコメディーリリーフ(いきぬき)のはずだったコントは番組発足からほどなくメーンとなり、主客が逆転してしまった。そうして数々生まれたコントの中でもとりわけ人気の高かったのが植木の「お呼びでない?」のギャクであった。このギャグの生まれた経緯などは以下参考に記載の「ちょっとだけだよクレージー!」のシャボン玉ホリデーとは?を見られると良い。植木はシャボン玉ホリデーでのこのような歴史に残るギャグで爆発的な人気を得ることになったが、数々の傑作を生んだギャグも、クレージーの中で1人だけ背広を着こんで二枚目志向の植木が「これはヤダ」と尻込みしたものが結構あったという。翌1962(昭和37)年この番組で植木が歌って大ヒットした「スーダラ節」などもその1つである。
歌は先にも書いたように前年の1961(昭和36)年にレコード化して大ヒットしていたが、スーダラ節を植木が歌い踊る姿を見た人はこの番組が始めてという人が殆どだろう。私もそうであるが、実は、レコード化された1961(昭和36)年に、松竹が公開した「大当り三代記」(以下参考に記載のgoo-映画参照)という映画の中で「スーダラ節」を植木が歌い踊るシーンが出てくるのである。当時まだ新人の植木等がチョイ役での出演。主人公たちが繁華街を歩いている時、道端の屋台から、ひょいと出てきてスーダラ節を歌ったのである。植木がこの映画に登場したのは、この1シーンだけだそうであるが、その写真が、私の新聞の切抜きのファイルにある。それが、冒頭に掲載しているっ写真である。以降「ニッポン無責任時代」などの無責任男シリーズをはじめとして、日本一シリーズ、クレイジーシリーズなどのコメディー映画シリーズで日本の高度経済成長を支えた。真面目な性格のため、先にも書いたように"日本一の無責任男"というイメージとのギャップに悩んだ時期もあったようだが、確かに、よくよく観察すると顔では笑ってふざけていたが、心から笑っているようには見えなかった気がしたな~。昭和を代表する役者?がいなくなったのが、昨2007(平成19)年3月27日。もう1年になる。だんだんと私達の年代の者が馴染んだ芸人が亡くなってゆく・・。それだけ、自分自身も年をとっていっているのだと思うとちょっと・・・・。以下でその懐かしい姿を見、歌が聴けるよ。
YouTube - 植木等 - スーダラ節 等 4 曲
http://www.youtube.com/watch?v=z60ul_1KYYE
(画像は、映画「大当り三代記」〔1961年松竹〕の撮影風景。2007年5月5日朝日新聞「be」”サザエさんさがして””昭和の世相に足跡残して”の記事に掲載されたものより)
植木等 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%9C%A8%E7%AD%89
産経新聞 ENAK 植木等伝説(1)
http://www.sankei.co.jp/enak/2007/may/kiji/02life_ueki01.html
※スーダラ節
http://www.spacelan.ne.jp/~teruteru/houwa/su-da.html
YouTube - 植木等 - スーダラ節 等 4 曲
http://www.youtube.com/watch?v=z60ul_1KYYE
スーダラ伝説
http://877.blog2.fc2.com/blog-entry-457.html
植木等 (ウエキヒトシ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/88301/
大当り三代記(1961)- goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD20554/
植木等 - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/artist/ARTLISD1148246/index.html
「スーダラ節」MIDI
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/suudarabushi.html
クレイジー・キャッツ全曲リスト&シングルディスコグラフィーその1(1961~1969)
http://chiba.cool.ne.jp/ryugasaki_udo/all.html
スパイク・ジョーンズ (音楽) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%BA_(%E9%9F%B3%E6%A5%BD)
ちょっとだけだよクレージー!
http://www.8107.net/cats/index.html