今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

図書館記念日

2005-04-30 | 記念日
今日(4月30日)「図書館記念日」
国際図書館年の前年、1971(昭和46)年の日本図書館協会 で決定され、日本図書館協会が翌1972(昭和47)年から実施。図書館法が公布された 1950(昭和25)年4月30日にちなんでのものである。そして、これに続く、 5月1日~5月31日を「図書館振興の月」と定めた。
しかし、記念日を調べてみると、この4月30日の他に、「図書記念日」 (4月2日)があり、1872(明治5)年、東京・湯島に日本初の官立公共図書館・東京書籍館が開設されたとされている。
暦に記載されているすべての事項について解説を加えた画期的事典といわれる「現代こよみ読み解き事典」では、”4月30日を図書館記念日にするのは「東京書籍館」がこの日に設立されたからである」と書いてあるといい、 いずれも1872(明治5)年4月に、湯島の昌平こう講堂跡に「書籍館(しょじゃくかん)」 という日本初の近代図書館が設立されたのを記念するものである。 この書籍館は その後1885(明治18)年に上野に移転し、のち帝国図書館と改称、更に戦後は旧憲法下 の貴族院・衆議院の図書館と合併して「国立国会図書館」という名前に変わっている。どうして、2説あるのかわからないが、設立日と開館日の違いなどのよるものかも知れない。
なお、図書館の歴史を遡ると、奈良時代末期の有名な文人の、大納言 石上宅嗣(いそのかみやかつぐ)が、781(天応元)年に、自宅を改造して阿寺(あしゅくじ)とし、寺の南東の隅に書庫を設けて、「芸亭(うんてい)」と名付けたと言う。余談だが、石上宅嗣は物部氏の子孫でもあるそうな。
聖徳太子が書いた 「法華義疏」の巻物は日本最古の本としても有名であるが、聖徳太子は仏教を広め、写経を奨励するために製紙術を改良したともい われており、701年に大宝律令が制定され、その中に「図書寮」を置いて 政府文書の保管と国史の編集を行うことが定められ、紙を作る ところ(造紙所)も置かれたという。これが、文献上残っている最初のものだそうである。
しかし、一般開放をした図書館としては、1899(明治32)年11月、日本初の図書館単独法規である「図書館令」が公布され、これにより公共図書館に法的な根拠を与えられ、文部省が1872(明治5年)に開設した東京の 「書籍館」が最初のものであり、京都府が三条高倉西に開設した「集書院」がそれに次ぐものであると言う。又、この「集書院」は、公立の公開図書閲覧施設としては日本最初のものだそうだ。以降、図書館令の効果により全国の主要都市に公共図書館が次々に設置されるようになった。
1933(昭和8)年「図書館令」が全面的に改正された。改正の中心は、中央図書館制度の導入で、道府県中央図書館が県内の図書館を指導する権限を付与した。そして、戦後の1950(昭和25)年4月「社会教育法」の制定に続き、「図書館法」が制定され、有料制などの戦前からの制度を見直し、戦争により失われた図書館や蔵書の再生、国・地方自治体による図書館建設の責任の明確化、司書の職務規定と資格について明らかにしたのである。
私は、学生時代は、勉強が嫌いで、図書館など利用しなかったが、現役も退き、自由な時間が出来たこの頃は、よく利用するようになった。今、書いている、こういったBlogの作成においても、ネタ切れになると、近くの区の図書館に行くが、区の図書館は、品揃えが悪いね~。なかなか思うようなものが見つからない。そういったときには、市立の図書館へ行くようにしている。ここだと、概ね、満足できるものが揃っている。
今「生涯学習社会」の時代だと言われており、図書館での図書の充実が非常に望まれるのであるが、この図書館での本の貸し出しに関して、著作権の問題が浮上しているのである。それは、「図書館で大量の本を無量で貸し出しするので、著者や出版社、書店が不利益を被っている」という「著作権・公貸権」に係わる著作権者側の声が出始めているのである。このようなことは、新聞やテレビでも報じられ皆さんもご存知のことと思う。もし、図書館がなかったら、年間5億冊の本が売れると言うのである。それは、どうか知らないが、全く影響がないとは言えないだろうが、図書館が出来たことによって、今まで本など無縁であった人たちが本を読むようになるといったメリットもあるだろう。聞くところによると、ポストの数ほど図書館のあると言われる先進諸国においては、「図書館で購入するような本を出版すれば採算がとれる」ともいわれているそうである。日本の図書館が、先進諸国に比べてどれだけ普及し、又、利用している人が多いだろうか?先にも述べたように、私も図書館を利用し始めたのは最近であり、しかも、家の近くにある区の図書館の本の整備状況など全く満足できるものではない。市立や県立の図書館に出向こうと思うと交通費と時間がかかる。まだまだ、整備不足といわざるを得ない。
著作権者側が、図書館の本の充実を問題にしているが、本当は、売れるような魅力のある本がこの頃は出版されていないこと自体が問題なのではないだろうか。私なんか、若い独身時代は、給与の3分の1くらいは本代に使っていたよ。私も、本屋ではないが本を扱っている業界にも関係していたが、売れる本は気晴らしに読む程度の雑誌や漫画ばかりである。だから、品揃えする本もそんなものばかりとなって行き、良質の本は置いていない。図書館に本があると言っても同じ本が何冊もあるわけではない。多くの人が借りたいと思ってもいい本は順番待ちである。そんな図書館で人気のある本なら本屋さんでもよく売れているだろう。良いものは誰でも早く読みたいものね~。図書館に対して下らぬ言いがかりをつける前に、自分達の努力不足を反省すきと思うよ。
(画像は、全国図書館大会ポスター)
参考:
図書館記念日
http://www.commakagi.ne.jp/karasuda117/tosyokan/160430%20tosyokan-nohi.htm
20世紀の図書館(沼図市立図書館)
http://www.tosyokan.city.numazu.shizuoka.jp/html/01win/03.htm
奈良の昔話:第69回(2001年01月号掲載)佐保路 その3―不退寺と在原業平―
http://www.mynara.co.jp/1DPic/d1-69.html
紙の講座:第10回 和紙の歴史
http://www.papermuseum.jp/kouza10.html
全国図書館大会:平成17年度(第91回)茨城大会ホームページ
開催期間  2005年10月26日(水)~28日(金)
http://www.lib.pref.ibaraki.jp/home/ila/jla/jla_index.htm   

アルフレッド・ヒッチコック

2005-04-29 | 人物
1980年の今日(4月29日)は、「アルフレッド・ヒッチコック 」の忌日。<80歳>
スリラー、サスペンス映画の巨匠、アルフレッド・ヒッチコック(本名:Alfred Joseph Hitchcock)は、1899年8月13日、ロンドン郊外に生まれた。ロンドン大学の美術学科で絵画を学んだ後、1920年 アメリカの映画会社のロンドン支社(パラマウントの前身)に、字幕デザイナーとして採用され、撮影所の仕事をするうちに、監督デビュー。その翌1925年、監督として初のサスペンス映画「快楽の園」を製作。1940年、渡米し「レベッカ」を製作し、アカデミー作品賞を受賞した。その後は、「泥棒成金」や「間違えられた男」「めまい」「北北西に進路を取れ」「サイコ」「鳥」などの名作の数々を世に送り出した。
私もヒッチコックのサスペンスものが大好き、多くの映画を見ていて、いつもその独創性に感心していた。ドラマ自体の面白さのほかに、ヒッチコックは、毎回、自分の作品のどこかにホンの一瞬だけ、あるいは後姿だけでも、出るというユニークな演出をしており、作品がどんなにスリリングで、手に汗握るものであれ、ファンは、彼がいつ、どこにとぼけた表情で登場するか・・・ヒッチコック探しという稀有な楽しみ方も与えられた。
映画作りで、映画監督は、自分のイメージしていたシーンを思っていた通りに完成するのが難しいと言われるが、ヒッチコックは、もともとイラストレーターからスタートしたので、自分の思い描いている映像シーンをそのまま絵コンテに再現することができ、そのため、自分の思い通りの映像が作れたと言われている。これは、日本の映画の巨匠黒澤明監督も同様であった。彼も、もともと画家を目指していた人なので、映画の重要なシーンをイメージし、絵コンテを描いていた。
又、ヒッチコックの映画は、映像表現のすばらしさとともに、音楽も上手く使っていた。中でも、『知りすぎていた男』(1956)は最高であった。主演女優でもあるドリス・デイが劇中で歌う有名な歌「ケ・セラ・セラ」が、誘拐された息子を捜す重要な鍵として使われ、クライマックスのイギリス首相暗殺シーンでは、ロイヤル・アルバート・ホールに於けるロンドン交響楽団演奏会を舞台にしてサスペンスを盛り上げていた。
それに、泥棒成金、ダイヤルMを廻せ!、裏窓の「グレイス・ケリー」、 めまいの「キム・ノヴァク」北北西に進路を取れの「エヴァ・マリー・セイント」など女優人も良かったね~。
ただ、多くの優れたサスペンス映画を作りながら、「レベッカ」で作品賞を受賞して以来、アカデミー賞とは余り縁がなかったが、芸術性よりも娯楽性を重視したからだろうね~。サスペンスの神様として称えられた彼の独特な風貌が、1988年、アメリカ郵政のハリウッドシリーズ切手(第4次)の図案に選ばれている。又、亡くなる前年、1979年には、生まれ故郷イギリスの女王よりナイト(サー)の称号を与えられている。
(画像は、ハリウッドシリーズ切手「ヒッチコック」)
参考:
Alfred Hitchcock (アルフレッド・ヒッチコック) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/10023/
ヒッチコック館
http://www.asahi-net.or.jp/~rg4m-ootk/hitchcock.html

シニアの日

2005-04-28 | 記念日
1616年の今日(4月28日)は「シニアの日」
「シ(4)ニ(2)ヤ(8)」の語呂合せ。
シニア(Senior)を辞書で調べると、年長者・先輩・先住者・上官などといった意味であるが、一般的には、サラリーマンでいえば、定年で第一線を退いた年代、主婦でいえば子育てを終わった人々などをさしている。つまり、会社などの仕事や子育てに一つのピリオドを打ち、それまでの経験や知恵を生かして第二の人生、新しいライフスタイルを目指す人たちのことを『シニア』と呼んでいるのではないか。
このシニア層と言われる55歳以上の人口は、1955年(昭和30年)の12%程度(約1,000万人)から1990年(平成2年)には人口の約24%(約3,000万人)を占めるようになっており、あと数年後の2010年(平成22年)にはなんと4,600万人を超え、全人口の36%以上にもなると推計されている。よく、世間では、日本の急速な高齢化社会の到来などと如何にもお先真っ暗的な採りあげ方がされているが、そこには、誤った考え方があるように思う。確かに、年金や福祉などに関する社会問題があるものの、これは老齢化の問題ではなく、少子化の問題である。今日は、「シニアー」がテーマーなので、この少子化の問題については触れないこととし、以下「シニアー」について少し書きたい。
このシニアと言われる年代層には当然多くの高齢者も含まれるものの、その概念は従来の高齢者(シルバー)や老齢層(オールド)といったものと異なっている。シニアは、いずれも第一の人生で相応の知識と経験、それに金銭を蓄え、第二の人生で、自由な自分の時間を十分に持てるようになった人々が、今までの経験や財を活かして生きがいのある新しい人生を歩もうとしている人々である。
しかし、ここで重要なことは、シニアになる前の人々が、どれだけ、自分の第二の人生について考え、十分な準備をしてきたか、又、これらのシニア世代を受け入れる社会環境が整備されているかではないだろうか。
私の勤めていた会社は、進歩的であったため、ずいぶんと古くから、このようなことを予測して、10年後に定年を迎える50歳前の社員とその妻を対象に、「ライフプランセミナー」を開催して、第二の人生に必要な生活資金と社員の退職時に貰ええるであろう年金も含めての預貯金他財産状況の確認、そして、夫婦が豊かな生活を送るためにお金以外に何が必要かと言ったことを、専門の講師を招いて指導している。このセミナーは、健康保険組合と会社の費用負担で、社員とその妻の夫婦2人を温泉などに招待し、1泊2日がかりで実施される。その方法は、教えると言うよりは、初日に、色々基礎的なことの講義を聞き、それを基に、それぞれの夫婦が自分達の為のライフプランを考え、その結果を、翌日、他の同僚社員や講師の前で発表、そして、皆で意見の交換をするといった方法である。会社退職後のライフプランを夫婦でともに考え、そして、それぞれに必要とされるものを定年までに準備しておこうと言うものである。勿論、私達夫婦も参加したが、私の場合は、既に、結婚をした20代後半の時から、もう、子供の進学・結婚問題、マイホームの建設、その後の大改装も含め、定年後の暮らしを考えた、5年ごとのライフプランを作り、実行していた。誰に教えられたものでもないが、なぜかこんなことを当然だと思ってやっていた。それは、若い頃、公認会計士などを目指して勉強していた時期もあり、計画の重要性を知っていたからだと思う。計画はごく大雑把なものであったが5年ごとに見直し修正していたので最終的には殆ど狂いはない。又、よく、仕事から退いた人が生きがいがなくなったなどと言っているのも聞くが、それも不思議に感じる。私は、仕事など好きでやってたわけではなく、生活の為に仕方なくしていた。ただ、仕事をする以上、楽しくやらなければ損なので、楽しんでやっていたにすぎない。今、第二の人生を迎えて、不安があるとすれば、死ぬまでには、多かれ少なかれ病気で寝込むことがあるだろうから、そのことについては、色々家人と相談しながら少しづつ手をつけている。
話し変って、社会のシニア受け入れ体制であるが、福祉のことは別問題として、これだけ、少子化が進んでいるのに、豊富な知識や技能を持ったシニアの活用が出来ていないのは、政府、企業の怠慢であろう。それと、今、消費の低迷を嘆いているが、少子化だ、高齢化だなどといいながら、どれだけ、シニアが満足する商品やサービスの開発と提供がされているだろう。変な言い方であるが、今の、シニアは若者などよりずっと経済的にも豊かであり、又、昔の年寄りと違って文化的であり、ファッションにもうるさいんだよ・・・。それと、日本の国民自体の問題でもあるが、折角苦労して得た資産であるお金を、リスクのない預貯金にし、利息が少ないと嘆いている。リスクを負わなければ、見返りが少ないのは経済の常識である。もう少し、子供の頃から、マーケットの教育をし、多少のリスクを負っても、財産の何割かは投資に向け資産を活用できるようなバランス感覚を養っておくべきだろう。基本的には、シニアになって、快適な生活をエンジョイできるかいなかは、若い時からの努力次第である。最後に、ただ一つ、絶対に趣味を持っていないといけないと言うこと。ゴルフや、マージャンや碁だとか、言ったものを、趣味と勘違いしている人が多いが、これはレジャーである。趣味は、基本的に、相手がいなくても、自分だけで一人で楽しめるものでなければならない。出来れば、同じ趣味を共有できる人がいて、これをレジャーとできばより楽しいであろうが・・・。
参考:
(財)シニア ルネッサンス財団
http://www.sla.or.jp/index.html
シニアサーチ
当サイトは原則的に50才以上の方が制作したホームページを対象としたサーチエンジンです。シニアネット関係リンク集moaru.
http://senior.puresoul.com/
SNKホームページ
NPO法人シニアネット久留米(略称SNK)は会員の活動を通じて地域に貢献する事を願っています。
http://www.senior-net.gr.jp/snk/

よい風呂の日

2005-04-26 | 記念日
今日(4月26日)は「よい風呂の日」
「よい(4)ふ(2)ろ(6)」の語呂合せ。他に「風呂の日 毎月26日」 「露天風呂の日 6月26日」がある。世界のお風呂の歴史も古く、紀元前1800年~1400年ごろに存在したクレタ島のクノッソス宮殿には、個人用のバスタブがあったそうで、当時の王様、ミノス王とそのお后様のための浴室だったそうだが、排水設備も完備された現在のお風呂と変わらないものだったそうだ。又、ローマ時代(4世紀頃)のお風呂は、大きな公共浴場、現在でいう温泉センターのようなものだったようで、「カラカラ浴場」や「ディオクレティアヌス浴場」などが有名で、2000人~3000人収容可能だったと言うからすごいね。当時は、このような浴場が社交の場だったといわれている。
一方、日本列島は、火山島のため、全国いたるところに温泉があり、太古の昔から、日本人は近くにに湧き出ている温泉に入浴していたようだ。
この自然に湧き出している温泉浴ではなく、室内でのお湯を使っての風呂は古来、温室・湯屋などと呼ばれ主に寺院を中心に発達してきたが、それは、6世紀に渡来した仏教の沐浴に端を発したもので、仏教では汚れを洗うことは仏に仕える者の大切な仕事とされ、「体を清める」という、宗教的儀式によるものから始まったものであった。寺院では浴堂を備えて施浴が盛んに行なわれ、浴室のない庶民にも入浴を施していたのだ。東大寺や興福寺の「大湯屋」は有名で、現存しており、どちらも重要文化財に指定されている。その維持費を賄うための特別の田地(湯田)も設定されていたそうだ。
このような宗教的なものではない風呂は、江戸時代初期までは、蒸し風呂が中心であった。京都・八瀬には、竃(かま)風呂という竃状の室の中に熱した石を敷き、水をうって、その中に入って汗を流すというサウナ式の風呂が、明治の末ごろまであったという。銭湯が急速に広まりを見せるのは江戸時代である。江戸時代になって風呂は蒸し風呂から湯風呂に変るが、その折衷型として、「戸棚風呂」があった。「戸棚風呂」は浴槽が浅く、足を湯にひたし、体の方は湯気で暖めるが、暖気が漏れないよう入り口に、引き違い戸を設けた。これを改良したのが柘榴口(ざくろぐち)と呼ばれるもので入り口を低くして蒸気の出るのをふせぐもので、銭湯にはこの方式がとられた。そして慶長年間の末頃、今風なたっぷりの湯に首までつかる「据え風呂」ができ、一般庶民の家庭にも広まりを見せることとなる。当初は湯を桶に入れるくみ込み式であったが、後に風呂桶に焚口を設ける型の据え風呂(桶の中に鉄の筒を入れて下で火をたく)、「鉄砲風呂」が考案され江戸で広まった。又、桶の底に平釜をつけて湯をわかす「五右衛門風呂」は関西に多かった。
江戸の銭湯は1591(天正19)年伊勢与市という者が銭湯風呂を建てたとあるのが記録にあらわれた最初とされている。そして、慶長年間の終わり(17世紀初頭)には、江戸の「町ごとに風呂あり」といわれるほどに広まり、銭湯は江戸っ子達の社交場ともなった。当時、江戸などの大都会では、水や燃料の確保もさることながら、火災を起こすことを案じ、下級武士も含め一般の庶民は各自の家に風呂を持っていなかった。この頃から、殆どの湯屋に湯女(ゆな)が置かれ、昼間の入浴客の垢流しなどをしていた。そして、夜になると、一般の入浴客を断り、脱衣場を座敷に代えて、湯女達は、三味線片手に遊客を待ったと言われている。慶長年間の花形産業と化した湯屋は、繁盛し、やがて増築して、殆どの湯屋が2階建てとなった。この2階は、囲碁などを置いて、お茶などが飲める社交場として使われた。天保年間に、幕府は、湯女が風俗を乱すとの見解から、湯女風呂を強制撤去した。又、江戸の銭湯は当初より男女混浴であったが、天保の改革(1841~1843)の際厳しく取り締まりが行われ、浴槽の中央に仕切板を設けたり、男女の入浴日時を分けたりもしたが、長年の風習は簡単には改まらず、実際に混浴がなくなるのは大政奉還で明治になり、在日外国人などからの批判もあり、明治23年(1890)の混浴禁禁止令が出されてからだという。その後、大正時代になって銭湯の近代化がすすみ今日のような浴場に発展して行った。しかし、近年は、自分の家に風呂を持つ家庭が多くなり、銭湯利用客も減り、銭湯自体の数もも減る。今日では、銭湯もさまざまな趣向をこらし、サウナや気泡風呂も一般的となり、単なる健康面の入浴と言うより、楽しむためのものに変ってきている。
日本では、明治の中ごろ近くまで、男女混浴であったと言うが、私が、現役の頃、東北へ出張した時など、温泉旅館へ宿泊すると、脱衣室は男女別々であるが、浴場は一つとなっているところへ何箇所か泊まったことがある。今でも混浴のところがあるんだね~。
ところで、なぜこの入浴するところを、「風呂」などと呼ぶようになったのかご存知ですか?これには諸説があるようだが、民俗学者、柳田国男氏は、
「室(むろ)」が訛った言葉であるという説をとっている。先にも述べたように日本の風呂(浴場)は蒸し風呂であった。その室・・つまり部屋へ入るいうことから呼ばれるようになったらしい。
それと「風呂敷」はこの「風呂」から生まれた。風呂へ入る為に脱いだ着衣を包んでおいておくために使っていたものが、便利だと言うので、そのままの名前で、今日でも使われている。そして、今は浴衣(ゆかた)として、きているものも、混浴だった当時、蒸し風呂の中で女性が身に着けていた白衣だった。その名残りが今も浴衣という名前で残っているんだよ。
兎に角、日本人は風呂好きで、昔は、熱い湯にどっぷりつかっていた。
川柳に「名が売れて 我慢し通す 熱湯好き」なんて読まれているように、今は、健康上、ぬるま湯に浸かる方がよいとされているけど、昔は、真っ赤な顔して頭から湯気を出しながら、我慢して、長い時間湯船に浸かっていた人が多かったね~。
今日のこんな話、「ご馳走さま」なんて、言ってくれる人いると、うれしいが、この言葉も平安時代に行われていた接待「風呂馳走」(風呂を炊き、客人をもてなす)というものからきたものだそうで、本来は「入浴後に使うべき言葉」だったのだそうな。・・・これは、ご馳走さま・・・?(*^.^*)エヘッ
(画像は八瀬の竃風呂『都名所図絵』NHKデーター情報部編ビジュアル百貨「江戸事情」より)
参考:
東大寺 (とうだいじ):
東大寺大湯屋の写真が見れますよ。
http://homepage3.nifty.com/schwedenplatz/was_2/toudai1/toudai1.htm
興福寺その4
興福寺の大湯屋の写真が見れます。
http://www.kcn.ne.jp/~urano/kankou/kohukuji/kohukuj4.htm
世界の共同浴湯・風俗史〈4〉日本編
http://www.c-c.co.jp/huzokusi4.htm
洗うを洗う(ミッカン水の文化センターHP)
風呂の歴史
http://www.mizu.gr.jp/kenkyu/mizu11_arau/no11_c01.html

ギロチンの日

2005-04-25 | 記念日
今日(4月25日)は「ギロチンの日」
1792年4月25日、フランスでギロチンが正式に処刑道具として実用化された。
このギロチンが採用された当時はフランス革命後であり、多くの王族などの処刑者がいた時で、毎日何百人もの人が処刑されていた。又、従来死刑執行の方法が王族、貴族などは斬首、庶民は絞首刑であった。
そこで、内科医で国民議会議員だったジョゼフ・ギヨタンが、受刑者に無駄な苦痛を与えず、しかも全ての身分が同じ方法で執行出来るような「単なる機械装置の作用」により行うよう議会で提言し、その案が採択された。その後、外科医のアントワヌ・ルイが設計の依頼を受けて、各地の断頭台を研究し、刃を斜めにする等の改良を加えた。このため当初は、ルイの名前をとって「ルイゼット(Louisette)」とか「ルイゾン(Louison)」と呼ばれていたが、この装置の人間性と平等性を大いに喧伝したギヨタンの方が有名になり、ギヨタンから名前をとった「ギヨチーヌ(Guillotine)」(ドイツ語読みで「ギロチン」)という呼び名が定着したそうだ。しかし、当初は「受刑者の痛みを軽減させる」という人道上の理由でギヨタンが提案したものであるが、結果として大量に簡単に処刑できるということで、恐怖政治のシンボル的に扱われるようになってしまった。その為、自分の名前が付けられてしまったギロチンを提案したギヨタン博士は、断頭台をギロチンと呼ぶことに再三異議を申し立てたが結局聞き届けられず死ぬときまで心を痛め憤慨していたという。そして、ギヨタン医師の死後、子孫たちは忌まわしい家名を変えたと言われている。その後、フランスでは、1981年9月に死刑制度自体が廃止されるまで、ギロチンが使用されていた。
このギロチンを議会で採択したときの国王はルイ16世であり、その王妃はマリー・アントワネットであったが、両名ともに、半年後には、自分達がこの切れ味の良いギロチンで処刑されることになろうとは夢にも思わなかっただろうね~。従来の「斬首」であれば、死刑執行人が剣や斧を力任せに振り下ろすという原始的な方法であり、時には、執行人の手元が狂ったり、一度でスパッと切り落とせなかったりと、切られる側にとっては「災難?」が多かったようだ。 どうせ処刑されるのなら、斬首などで苦痛を味あわずに死ねたことは幸いだったのだろうか・・・・?
今、世界中で、又、日本国内でも、凶悪な犯罪が増えてきた。殺した人間を証拠隠滅の為に切り刻んで土に埋めるなどと言うおぞましい犯罪が頻繁に報道されている。又、小さな子供や女子への性的虐待や暴力などの犯罪も多い。オウムのような大量殺人を計画するカルト集団もある。一昔前なら、猟奇殺人とか言って、小説や映画の題材になったような事件が、今では、毎日のように起っており、目面しくもなくなった。小さい何の罪もない子供を無残に殺されたご両親などは、殆どの人たちが、できれば自分で犯罪者を殺してやりたいと言っている。しかし、このような凶悪犯罪者に対しても、死刑制度を維持すべきか否かについては、それぞれの個人の世界観、宗教観と密接に関連し、それこそ何十何百という理由があるだろう。死刑廃止論者が挙げる理由としては、以下の参考に揚げているアムネスティの「死刑廃止に関する質問と回答 」他を読んでいただきたい。
もともと、死刑廃止論を支えていた典型的な論拠として,「死刑は残酷だ」というものがあった。しかし、この問題については、斬首からギロチンへの改革を始め、アメリカなどでは、 麻酔による安楽死の導入など、死刑執行方法の技術的改善によって満足させられ、1977年には死刑が復活したという。
今、死刑廃止論者が挙げる第1の理由には、死刑は、万一誤判であった場合には、取り返しがつかないというものがある。だが、誤判の場合に、取り返しがつかないのは、死刑の場合ばかりではない。死刑廃止か存続かの論点は数多くあっても、誤判問題が最大の論点であることは確かであるが、誤判論を突き詰めれば裁判制度自体の否定に繋(つな)がりかねない。結局、この社会を維持するために、誤判を前提にしても、死刑制度を維持する理由があるのかということに帰する。そのためにこそ、「疑わしきは被告人の利益に」という法諺(ほうげん)があるのだというが・・・。
私は、死刑廃止か存続かについての、自分の考えを言うことは出来ないが、少なくとも、感情論としては、もし、自分の可愛い孫娘を性的虐待をした上で殺されたりしたとなると、法が許すのであれば、犯罪者を生かしておく気にはなれないだろう。
テレビで、必殺仕事人などのドラマが人気あるのも、そんな気持ちの人が多いからではないだろうか・・・。
(画像は、マイコレクションより梅田コマ劇場「必殺仕事人」チラシ)
参考:
フランス革命 ギロチン 処刑 ルイ16世 世界遺産 歴史
http://www1.kcn.ne.jp/~a7627/VHv2/koneta77.htm
見学に行ってきた。:刑事博物館(明治大学博物館)展示のギロチンなどが大きな画像で見れます。
http://kengaku.exblog.jp/745501/
日本財団図書館(電子図書館) 私はこう考える【死刑廃止について】
2003/06/23 毎日新聞朝刊:[論点]死刑制度、存続か廃止か 被害者の無念を償う。
1991/07/20 毎日新聞朝刊:世界の86カ国で死刑廃止 92カ国では存続、日本は80年以降14人執行。
死刑廃止info!(アムネスティ・インターナショナル日本死刑廃止ネットワークセンター)
http://homepage2.nifty.com/shihai/index.html
死刑廃止に関する質問と回答 1
死刑廃止に関する質問と回答 2
死刑廃止と死刑存置の考察
基本的法制度に関する世論調査
2. 死刑制度の存廃