今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

人力車発祥の日(日本橋人力車の日)

2014-03-24 | 記念日
日本記念日協会(※1)へ登録の今日・3月24日の記念日に「人力車発祥の日(日本橋人力車の日)」がある。
1870(明治3)年3月24日、人力車の発明グループの3人(鈴木徳次郎、高山幸助、和泉要助)に、東京府より人力車の製造と営業の許可がおり、日本橋のたもとから営業を始めたことから、人力車の営業活動を行っている「くるま屋日本橋」(※2)が制定したそうだ。
人力車は最近各地の観光地やイベントなどで人気があり、また環境を考える乗り物として評価が高いという。「くるま屋日本橋」では、東京の日本橋まつりなどに参加し、人力車の魅力をアピールしているそうだ。

”日本橋まつり”・・・?私は関西の人間だが、若い頃仕事の関係で5年ほど東京に住んでいたのだが”日本橋まつり”・・というのは聞いたことがないのでよく知らない。それで、ネットで検索したら日本橋、京橋間の中央通りと八重洲通りに面した商店、会社、 ビル、 近隣企業などで構成している商店街・東京中央大通会 による日本橋・京橋まつり実行委員会(※3)の主催で毎年10月に開催している”日本橋上を通過する唯一のパレード”のことらしい。
昨年で第41回目を迎えたらしいが、そうであれば、私はもう関西へ帰っていたのでその数年後に始まったようだ。昨年の「第41回日本橋・京橋まつり」のパレードの様子は以下でわかる。よく見ていると確かにパレードには人力車に乗っている人が見られる。

「第41回 日本橋・京橋まつり」開催 - YouTube

さて、人力車のことについては、このブログでは、4年前の2010(平成22)年03月22日に「歴史」の項目で「東京府(現在の東京都)が人力車の営業を許可(ⅠからⅡ)」のタイトルで、人力車の歴史、それと、人力車の俥夫(しゃふ)の生活実態等について2ページ続きで結構詳しく書いた。

ここ(2ページあります)→東京府(現在の東京都)が人力車の営業を許可(ⅠからⅡのⅠ)

今日はまた同じようなことを書くのは嫌なのだが、このような話は自分が好きなので、多少、前と重複するところもあるが、今回は視覚面を重視して別の切り口で書いてみようと思う。ただ、今日は、日本橋との関連で書こうと思うが、それを退屈と思う人は、前に書いたブログを見てもらうなり、また中間を飛ばし、このページ中断ぐらいから人力車の話題のところへ行ってください。

「日本橋」とは、東京都中央区日本橋川に架かる橋であり、本橋は、江戸時代(1604年=慶長9年)から日本全国へ続く五街道の起点となり、以降、江戸の中で最も賑わう場所として、浮世絵による風景画に描かれることが多くなる。
明治政府により編纂が始められた類書(一種の百科事典)『故事類苑』(※4)に「江戸ハ武藏國ノ一部ニシテ、其地名ハ鎌倉幕府時代ヨリ既ニ史乘ニ見エタリ」(※4:「古事類苑」地部/附江/名稱参照)とあるように古くは武蔵国豊島郡の一部であったが、平安末期、秩父平氏の一族江戸氏が今の皇居の地(東京・千代田区)に居館を造り、室町時代、上杉氏の将太田道灌が江戸城を築いてから城下町として発達、さらに1590(天正18)年徳川家康が入城して以来、幕府の所在地として繁栄した。
「江戸」の地名の由来は諸説あるが、「江」は「おおきな川」あるいは「入江」とすると、「戸」は「入口」を意味することから「江戸」とは、「江の入り口」つまり「河口」に開けた地と考える説が有力である。
当時の江戸は、武蔵国と下総国の国境である現在「隅田川」と呼ばれている川(もともとは荒川水系の入間川の下流部)の河口の西に位置し、日比谷入江と呼ばれる入江が、後の江戸城の間近に入り込んでいた。そして、現在の東京大学がある本郷台地は南に伸びて東京湾に突きだして半島のような「江戸前島」を形成していた。
その後、1590(天正18)年に江戸に入った家康は、江戸城へ物資を運ぶ船入り堀として、江戸前島の北端を両断するように「道三堀」を造築し、日比谷入江に注いでいた「平川」を道三堀につないで流路を変更し、現在の日本橋川の原型をつくった。 又、開削で出た土砂で日比谷入江が埋め立てられ町割りがなされた。当時の「江戸の原型と神田川の流路」は以下参考の※5:を参照されるとよい。
江戸前島の平川河口につくられていた現在の東京港の前身となる江戸湊は、江戸庶民に必要な消費物資の流通拠点として近世海運史上重要な役割を果たした。
中央区の地名の由来は東京23区のほぼ中央に位置することから、同区の区章は、お江戸の日本橋・京橋の欄干の擬宝珠をデザインしたもの(ここ参照)。中央の小円は日本と東京の中心を表しているという(1948(昭和23)年7月31日制定)。
区域の西側は江戸時代には日本橋や京橋など下町として栄えた地域であり、東側は同時代からの埋め立てによって出来た地域である。
現在の中央区の町名には旧日本橋区の区域にある街の町名は「日本橋○○町・○日本橋」と称している(八重洲を除く)。これは戦後、旧日本橋区と旧京橋区が合併する際に「日本橋」の町名が消えることを避けるために、旧日本橋区の町名に日本橋を冠したことによる。それだけ、江戸以来庶民に愛されている日本橋。そ後に架けられた橋は、一都市である江戸の象徴という範疇を超えて、日本の中心地として認識されていくようになった。

日本橋は『慶長見聞集』巻二「一里塚つき給ふ事」に「日本橋は慶長八癸卯の年、江戸町わりの時節、新敷出來たる橋也」「日本橋を一里塚のもとヽ定め、三十六丁を道一里につもり、是より東のはて西のはて、五畿七道殘る所なく一里塚をつかせ給ふ」(※4:「古事類苑」地部/附江/名稱参照)とあるように1603(慶長8)年徳川家康の全国道路網整備計画に際して初代の橋(木造)が架けられ、翌1604(慶長9)年五街道の基点となる。そして、現在も日本の道路網の始点であることを示す道路元標が日本橋の中央に埋め込まれている。
この橋の下を流れる平川(明治以後に道三堀の西半分と外濠[現在の外堀通り]が埋め立てられた結果、残った流路が現在は日本橋川となっている)は、江戸湊、隅田川と江戸の城下町とを結ぶ水運の動脈で、多種多様の船がひきもきらず、『江戸砂子』一に「北の橋詰室町一丁目、此西側を尼店と云、尼崎屋又右衞門拜領やしきなれば也、ぬり物見世なり、此所に前店とて、庇より又庇をさしくたして見世をかまへ、荷馬の具、其外小間物を商ふ、東の方河岸は大船町也、肴店にて毎日魚市立、」(※4:「古事類苑」地部/附江/名稱参照)とあり、両岸の河岸地には蔵や魚市があり江戸の水上物流の要として賑わった。もちろん、諸街道の基点でもあり、陸上交通の拠点でもあった。橋の規模は、全長28間(約51m)、幅4間2尺(約8m)だった。

上掲の画像は、国立歴史民俗博物館展示の17世紀前半の江戸の町の様子がわかる屏風絵『江戸図屏風』(六曲一双。※6参照)の部分であるが、『江戸図屏風』そのものは江戸幕府3代将軍徳川家光の行ったことを讃える為に描かれたと言われている。この部分は左隻第2扇最下段部分の、“日本橋、日本橋高札場、小網町、江戸の町屋(本小田原町の魚店)、江戸下町の河岸(米俵の荷揚げ)”などを描いている。

又、上掲の画像は、『江戸図屏風』左隻第2扇最下段部分の更に擬宝珠を飾った日本橋の拡大部分である。
この絵が示すようにすでに擬宝珠つきの反り橋が描かれており、橋周辺の賑わいをみることができる。擬宝珠は、橋の格を表すものであり、江戸城内廓(「城廓」)と市街とを結ぶ廓門橋(見付 御門)の他江戸市中で擬宝珠を飾った橋は、東海道筋の日本橋、京橋、新橋の3橋だけであったという。

又、上掲の画像も、同じく「江戸図屏風」左隻第2扇最下段部分の日本橋高札場の描かれた部分の拡大図である。
幕府は人々の往来の激しい地点や関所や港、大きな橋の袂、更には町や村の入り口や中心部などの目立つ場所に高札場(制札場)と呼ばれる設置場所を設けて、諸藩に対してもこれに倣うように厳しく命じたが、人通りの多い日本橋南詰には、高札場が置かれているのが分かる。高札の立てられている柵の向こう側に小さな小屋のように見えるものが、「晒し場」(「さらし首場」)だろう。晒刑では、主殺し、女犯僧、心中者などの犯罪者がそこにつながれ生き恥を晒された。
この『江戸図屏風』全体を見たければ以下参考の※6:「国立歴史民俗博物館-江戸図屏風 〔高精細画像順次拡大版〕」を覗かれるとよい。 各部分の説明付きで拡大図を見ることが出来る。また、出光美術館所蔵の同時代の八曲一双の『江戸名所図屏風』(参考※7)でも大きな画像で見られる。
この木造の日本橋は、明暦の大火(1657年)により全焼。江戸は火事が多く、江戸幕府開府から幕末に至るまでの間に幾度も焼け落ち再建されるが、現在の石造二連アーチ橋が架けられたのは、1911(明治44)年4月3日のこと。今から103年前のことである。
ルネッサンス様式の石橋は太平洋戦争の戦火にも耐えて、当時の姿を今に伝えており、現代でも近代東京の名建造物のひとつだが、今日では橋の上に首都高速都心環状線が造られているため、残念ながら景観は往時のものとは異なる風情となってしまっている。
少々前口上が長くなってしまったがここから本題の「人力車」の話に入る。


1858年7月29日(安政5年6月19日)に締結された日米修好通商条約安政五ヶ国条約)に基づき翌・1859年7月1日(安政6年6月2日)に武蔵国久良岐郡横浜村(横浜市中区の関内付近)に横浜港が開港後、さまざまな近代的な交通手段が登場したが、陸上交通の近代化は馬車から始まった。
江戸時代の日本では馬車を含む車の利用は京(京都)における牛車(ぎっしゃ)や、幕末期に主要な街道や江戸で荷車が使われた以外ほとんど利用されなかったが、横浜開港後、外国人が馬車を開港場に持ち込むようになると、物珍しさも手伝ってか馬車は大きな話題になった。ただ、その利用は外国人に限られ、一般の日本人が馬車を利用することはほとんどなかったが、こうした状況が大きく変化したのは明治維新後、京浜間で乗合馬車の営業が始まってからのことだ。
この馬車路線が開設された直後に人力車も実用化され、横浜と東京を結ぶ東海道では馬車や人力車を見ることが珍しいことではなくなった。
人力車とは、人をのせ、車夫がひいて走る一人乗りもしくは、二人乗りの二輪車であり、俥(くるま)。腕車(わんしゃ)。人車(じんしゃ。くるま)。力車(りきしゃ)とも呼ばれ、これを曳く車夫は俥夫(しゃふ)とも書き、また車力(しゃりき)とも言った。
その人力車の日本での発明には諸説あり、本当のところはよくわからないらしいが、広辞苑にも、和泉要助鈴木徳次郎、高山幸助らの発明と書かれており、又、私の蔵書週間朝日百科 「日本の歴史」106号近代1-⑦博覧会の“明治の発明品“の中にもこの3人により1870(明治3)年に発明されたと書かれているので、どうもこの3人による共同事業であったらしい。

上掲の画像は同書に掲載されていた絵(国立資料館蔵)を部分カットしたものであるが、その絵には”神田の俥屋らしい”との添え書きがあった。今観光地などで見られるものとは大分様子が違い大八車に四柱を立て屋根を付けたものだ。
日本で発明された人力車は、それまで使われていた駕籠より速かったのと、当時馬よりも人間の労働コストのほうがはるかに安かったことから、すぐに人気の交通手段になったようだ。ここらの事情は、先にも紹介したように以前このブログ東京府(現在の東京都)が人力車の営業を許可(ⅠからⅡのⅠ)で詳しく書いているでそこで見てほしい。
当時としては文明開化の象徴でもあった「人力車」は、日本橋の高札場の横で営業 を開始して、あっという間に全国に広まったようだ。
もっとも、京浜間で馬車や人力車が盛んに使われたのは鉄道が開通(日本の鉄道史参照)するまでの短期間だったが、馬車にせよ人力車にせよ、当時の人々は現在のタクシーやバスを利用するような感覚で頻繁に利用していたことは間違いない。

.それでは、江戸のランドマークであり、今も変わらず注目されている日本橋とそこに人力車のある光景を、以下参考※8に掲載の「「国立国会図書館のデジタル化資料」日本橋・駿河町の錦絵」より眺めてみよう。

上掲の画像は、歌川芳虎画「東京日本橋風景」大判錦絵 3 枚続 1870(明治3)年のものである。これ以降掲示するものについて、同ページへアクセスすると原寸大まで拡大して美麗画像が見られる。拡大図とあるところをクリックしてください。
この画像には、先で紹介した国立歴史民俗博物館-『江戸図屏風』と同じように日本橋の高札場が描かれているが、17世紀前半の家光の時代のもであり、高札場は平地に柵で仕切られた中に立てられている。Wikipediaによれば、「高札は1874(明治7)年に廃止が決定され、2年後には完全に撤去され」とあるが、1870(明治3)年に描かれたというこの絵では石垣の高いところに表示されており、文明開化の速かった東京では、もう、名ばかりのもの、観光名所程度になっていたのではないか。その高札所の横に「人力車」の絵を描いたのぼりを立てた人力車の営業所のようなものが見える。この作品は人力車の営業許可が下りた年のものであり、人力車も、前段に掲載の絵(国立資料館蔵)と同じく、大八車に四柱を立て屋根を付けたものだ。ここが今でいうタクシー乗り場的な場所になっていたのだろう。絵には、絵師の空想も含まれているかもしれないが、人力車や馬車(日本人の営業用のものも見える)他、外人が乗っている自転車とは違って、編笠をかぶった着物姿の日本人が乗っている自転車は木製のような感じであるなど、さまざまな乗り物が描かれていておもしろい。兎に角、二輪車・三輪車の登場する錦絵としては最初のものといわれている。上掲の画像では向かって右端、アクセスした先で画像が逆に配置されているので注意)。
同じく歌川芳虎の1872(明治5)年に描いた以下の絵を見てください。

この絵には、日本橋の前を人力車に乗って通り好きようとしている夫人の図が描かれているがその向こうには日本橋三井組ハウスが見える。
この建物「三井組ハウス」は、幕府御用を務め、王政復の発令を経て維新政府の為替方として業界の首位に立っていた三井組は、1868(明治1)年が、新政府の金融事務を命ぜられ、御為替方三井組の名で担当し、当時明治政府を全面的に支えていた。そんな三井組が独自に商業銀行を立ち上げるべく1872(明治5)年、現在の中央区日本橋1丁目及び兜町にかかっていた海運橋際に建設したもの。1873年8月1日に営業を開始した日本初の商業銀行である総工費は約4万7千両、5層の洋館は頂上部に展望台である「物見」が据えられ、世間の話題を集めたという。後に第一国立銀行となる。現在みずほ銀行兜町支店のビルの壁には「銀行発祥の地」のプレートが埋め込まれている。(設立の事情は※9参照)。

「上掲の画像は、兜町の「三井組ハウス」。Wikipediaより。

上の画像は歌川芳虎によって1974(明治7)年に描かれた駿河町の三ツ井正寫(しやううつし)の図である。

この絵にも三井呉服店(現三越)と共に、為替バンク三井組が描かれている。
三井組と同じく、く小野組、そして、明治政府も銀行の設立を目指していた。大蔵省で国立銀行の準備にあたっていた渋沢栄一より、三井・小野両組合共同での設立を提案(強要)された三井は、共同経営を避けたかったが、やむなく「三井小野組合バンク」を設立。さらに政府の要求により、三井組は完成したばかりの「海運橋三井組ハウス」を政府に譲渡させられた。
こうして、1873(明治6)年、三井・小野両組合合作の日本初の銀行国立銀行条例による国立銀行第一国立銀行(民間経営)が発足する。渋沢はこの時この銀行の総監督に収まっている。その後いろいろなことがあり、小野組が破綻。三井組は第一国立銀行を三井の銀行とすることを企図するが、渋沢は逆に同行を三井組からの支配から独立させ組織改正を提唱。それでも銀行設立を諦めず、三井組は第一国立銀行から手を引き、1874(明治7)年、三井の本拠地である日本橋駿河町に、銀行業務を行う3階建ての洋館「駿河町為替バンク三井ハウス」を建設。それが、上掲の中央の建物である。屋上にシャチを乗せた瀟洒な洋館には「為替バンク三井組」の看板を掲げた。
この後、1876(明治9)年7月遂に明治政府から認可を得て日本初の民間銀行「三井銀行」が開業することになる。(複雑な設立の事情は※9参照)。
屋根の上に大鯱(しゃちほこ)がひときわ目立つこの3階建て建物は、総建坪620坪(約2,050m2)、地上から鯱の頂上までの高さが80尺(約24m)あるという。外観は木造漆喰塗りのいわゆる土蔵造りで、アーチ形の扉や1・2階のベランダ、3階正面のバルコニー、ポーチとベランダのコリント式列柱などにより、海運橋に建つ第一国立銀行に増して洋風色が濃く表れている。・・・と、参考※10にも書いているように、建物とは、時代や文化、人々の思いを映し出す器であるが、文明開化の一つの象徴ともいえる「為替バンク三井組」は当時、その代表格であったことに間違いないだろう。
この下の画像は、三代広重が1875(明治8)年に駿河町三井銀行になってからのものを正面から描いたものである。


この下は、二代歌川国輝による日本橋電信局(東京格大区之内)の図である。


この絵には、人力車に乗った夫人二人が横から飛び出してきた猫らしき動物に驚いた車夫が車を止めたのでびっくりした様子が描かれている。
電信柱が立っている横の建物が日本橋電信局だろう。
明治維新後の1869(明治2)年英国の通信技師を招き、横浜灯明台役所(灯台づくりの拠点とした役所。試験灯台が出来た後は灯台勤務者の訓練所となる)から横浜裁判所までに日本で初めての電信回線を開通させ、同年末には東京築地明石町)の運上所(現・東京税関)から横浜裁判所までの電信事業が発足した。
1872(明治5)年5月には日本橋の晒場のあった南詰東側に日本橋電信局が開設され、築地から電信線が延長された。両国・浅草橋の電信局も、これと同時に開業したようだ。
以下に掲載されている郵政博物館所蔵の絵を見ると日本橋電信局の全体像が分かる。面白いことに、このころの橋では、人力車などが渡る道と人が渡る道が区別されている。それだけ、人通りが多く、また、人力車の通行も多いことから、危険防止を考えてのことだろう。
東海名所改正道中記 電信局 日本橋 新橋迄十六町 文化遺産オンライン
この下の画像は紅英斎が1882(明治15)年に描いた日本橋京橋間の銕道馬車の様子である。


紅英斎という人物についてはよくわからないが、銕道馬車の横を多くの馬車や人力車が競うように走っている。これ以上錦絵のアップはしないが、以下のサイト「大江戸データベース - 東京都立図書館」では、「東京銀座煉瓦石繁栄之図・新橋鉄道蒸気車之図」(明治6年、歌川国4代)、「東京八ツ山下海岸蒸気車鉄道之図」(歌川広三3代)明治4年)、「東京銀座要路煉瓦石造真図」(歌川国輝2二代明治6年)、「東京名所之内銀座通煉瓦造鉄道馬車往復図」(歌川広重3三代明治15年)、など時代とともに発展する東京の町で活躍している人力車の姿が大きな拡大画像が説明付きで鑑賞できる。
大江戸データベース - 東京都立図書館
また下の「鉄道錦絵 - 物流博物館」では、「東都高縄蒸気車往来之図」歌川芳虎・立祥([2代]明治4年)、「東京名勝高縄鉄道之図」(歌川広重3代、明治4年)、「京高輪真景蒸気車鉄道之図 」(歌川広重3代、明治6年)、「東京品川海岸蒸汽車鉄道之図」(歌川広重3代明治6年)、「六郷川蒸気車往返之全図」(歌川広重3代、明治4年)の絵に人力車が描かれている。
鉄道錦絵 - 物流博物館

私など、人力車と言えば、阪東妻三郎主演の映画『無法松の一生』(大映・1943年版,白黒)が思い浮かぶ。

上掲の画像は阪東妻三郎主演映画「無法松の一生」DVD
映画は、1897(明治30)年、九州小倉の古船場に博奕で故郷を追われていた人力車夫の富島松五郎が、昔ながらの“無法松"で舞戻ってきて、芝居小屋へ同僚の熊吉と行き、桝席の中で酒のつまみに炭でニンニクを焼いていて人に迷惑をかけ大混乱となるが、そこに現れた地元を取り仕切る侠客の結城重蔵に仲裁され侘びを入れるところから始まる。
その後、友人となった矢先、急病死した陸軍軍人・吉岡の遺族であるか弱い(未亡人・良子と幼い息子・敏雄)の将来を思い、身分差による己の分を弁(わきま)えながらも、無私の献身を行う無法松と、幼少時は無法松を慕うも長じて(自身と松五郎の社会的関係を外部の視点で認識するようになったことで)齟齬(そご)が生じ無法松と距離を置いてしまう敏雄、それでも無法松を見守り感謝の意を表し続けてきた良子との交流と運命的別離・悲しい最後の場面などが描かれている。
再映画化された東宝・1958年版の三船敏郎主演による映画も良かったが、やはりあのような時代背景の中での武骨な明治男の役柄は、同じ明治生まれの阪妻の方がずっと味があった。
余談だが、先日、SMAP木村卓也が2夜連続のテレビ時代劇「 宮本武蔵」を演じていたが、私も彼は嫌いじゃないので、少し見かけたが、最初から、余りにも様になっていので、もう見なかった。誰が企画したのか知らないがよくも彼にあのような役をやらせたものだ。今アメリカでは西部劇映画を演じられる役者がいないから西部劇を作らないと言われているが、日本でも時代劇を演じられる役者は数少なくなてしまった。それを木村卓也にやらせた。可愛そうに、彼もこれで値打ちを下げたのではないか。三船は時代劇好きの私にとっては大好きな俳優だし、大根役者ではないけれど、やはり無法松のような役では阪妻にかなわなかった。

無法松の映画でも見られたように、人力車の俥夫(しゃふ)の身分は明治時代には低くみられていた。
前のブログでも書いたことだが、1873(明治6)年に、「僕婢馬車人力車駕籠乗馬遊船等諸税規則」が告布されたが、これは財源不足に苦しむ明治政府が歳入増加のため、僕稗を召し使う者や、馬車・人力車などを所有する者に課税したもので、一種の奢侈税であったが、この規則に書かれている「僕碑」(ぼくひ)は、「下男」などをさしていうが、「」という用語は、身分の低いことや卑しいことを指しており、今で言う差別用語の1つである。何故、人力車の車夫などを「僕婢」などと呼んでいるのだろう。
先にも書いたが、馬車を引く馬の代わりに人が車を引く。この単純で原初的な都市内交通機関である人力車は、技術も不要であり、当時貧民街に住む下層民には手頃な職業であり、その大部分は車を借りての営業形態であったため、東京では日清戦争期に約4万人余りにまで増加したという。今のアジアでも最も貧しい人達の代表的な職業のようであるが、当時の日本も同じ状況で、車夫こそ当時の女工と並んで明治の低賃金労働の代表だったようだ。そのうえ、貧乏人に対する差別意識は、現在よりはるかに強く、乞食や細民は人間でないかのごとくに扱われていた。だから、僕碑」(ぼくひ)などと言われていたのだ。
このような人力車夫を描いた映画として、もう1つ私の記憶に残る映画があった。織田作之助原作で、川島雄三監督の映画『わが町』。1956 (昭和31) 年の古いモノクロ映画である(※11参照)。
映画は織田が育ったといわれる大阪の河童路地を舞台に、不撓不屈の精神で人力車引きをしながら孫娘を育てあげる男・佐渡島他吉の、明治・大正・昭和にわたる波瀾万丈の生涯を描いた一代記である。
佐度島他吉を演じたのは島田正吾と共に、劇団新国劇の屋台骨を支えた辰巳柳太郎である。

「国元への送金も思うようにならず、これではいったいなんのために比律賓(フィリピン)まで来たのかわけが判らぬと、それが一層「ベンゲットの他あやん」めいた振舞いへ、他吉を追いやっていたが、やがて「お前がマニラに居てくれては……」かえってほかの日本人が迷惑する旨の話も有力者から出たのをしおに、内地へ残して来た妻子が気になるとの口実で、足掛け六年いた比律賓をあとにした。
 神戸へ着いて見ると、大阪までの旅費をひいて所持金は十銭にも足らず、これではいくらなんでも妻子のいる大阪へ帰れぬと、さすがに思い、上陸した足で外人相手のホテルの帳場をおとずれ、俥夫に使うてくれと頼みこむと、英語が喋れるという点を重宝がられて、早速雇ってくれた。
給料はやすかったが、波止場からホテルへの送り迎えに客から貰うチップが存外莫迦にならず、ここで一年辛抱すれば、大阪へのよい土産が出来る、それまではつい鼻の先の土地に妻子が居ることも忘れるのだ、という想いを走らせていたが、三月ばかり経ったある日、波止場で乗せた米人を、どう癪にさわったのか、いきなりホテルの玄関で、俥もろともひっくりかえし、おまけに謝ろうとしないのがけしからぬと、その場でホテルを馘首になった。
 その夜、大阪へ帰った。六年振りの河童路地(がたろろじ)のわが家へのそっとはいって、
「いま、帰ったぜ」
 しかし、返事はなく、家の中はがらんとして、女房や、それからことし十一歳になっている筈の娘の姿が見えぬ。
 不吉な想いがふと来て、火の気のない火鉢の傍に半分腰を浮かせながら、うずくまっていると・・・・」(※12 :「青空文庫-織田作之助 わが町」よりの抜粋である)。
1906(明治39)年、フィリピンのベンゲット道路建設に働く佐度島他吉は警官と争ったため追放されるが、そんなフィリピンのペンゲット道路で過酷な労働にたえたことを人生の誇りにしている他吉は、そのせいで妻と、男手ひとりで育てた娘と夫を死なせてしまう。
そしてさいごには、他吉はフィリピンでしか見れない思い出の南十字星四ツ橋プラネタリウム(日本ではじめてプラネタリウム[ ドイツ製カール・ツァイス]II型。現在は大阪市立科学館に展示されていて、大阪市有形文化財に指定されている。※13参照)で見ながら死んでゆくという筋立てである。
この他吉の口ぐせは「人間はからだを責めて働かなあかん」・・・・である。
時代の移り変わりにもかかわらず、頑固に俥をhひき続ける他吉を演ずる辰巳も明治時代の武骨な男のよく似合う役者であり、無法松を演じた阪妻を思わせて素晴らしく、特に人力車を引く姿は思わずダブってしまう。

上掲の画像は、映画「わが町」のDVDの判妻。
運送手段としての人力車は、馬車や鉄道、自動車の普及により、都市圏では1926(昭和元)年頃、地方でも1935(昭和10)年頃をピークに減少し、戦後、車両の払底・燃料難という事情から僅かに復活したことがあるが、現在では一般的な交通・運送手段としての人力車は存在していない。

上掲の画像は、マイコレクションより、我が地元神戸出身の木版画家川西英の版画による絵葉書で、神戸港の風景。外人観光客らしい4人が人力車に乗っている。昭和前期の作品だろう。
映画「わが町」の主人公他吉は、フィピンから神戸へ着いて外人相手のホテルの帳場をおとずれ、俥夫に使うてくれと頼み込んで、英語が喋れることから、早速雇ってもらった。給料は安かったが、波止場からホテルへの送り迎えに客から貰うチップが存外莫迦にならず結構稼いだとある。
無法松などとは違い他吉は頭が良い。戦前までの神戸港は日本を代表する港であり、港には外国船がひっきりなしに着いた。外国人の観光客も当然多かった。そんな外国人はチップをくれる習慣がある。いいところに目を付けたものだ。

現在人力車は主に観光地での遊覧目的に営業が行われている。Wikipediaによると、観光に人力車を復活させた元祖は鎌倉の現在の有風亭(※14)であり、テレビ番組等で度々紹介されて各地に普及したという。当初、京都といった風雅な街並みが残る観光地、又は浅草などの人力車の似合う下町での営業が始まり、次第に伊豆伊東、道後温泉といった温泉町や大正レトロの街並みが残る門司港、有名観光地である中華街などに広がっていったそうだ。
明治時代は、仕事がなく収入も少なく、余り良くみられていなかった人力車夫の仕事。豊かになった今の日本では、これで結構いい稼ぎになるのだろうか?
私にはわからないが、昔と違って今の人力車は性能もよくなり、車も楽にひけるようになり、今の若い人の感覚では、レトロブームで、結構恰好いい仕事の一つでもあるのだろう・・・・ネ。

(冒頭の画像は、マイコレクションより、和歌山県 加太淡嶋神社で客待ちする人力車夫。絵葉書には、司令部許可とあり、、加太にも要塞があったので、戦前の要塞地帯では出版物や写真などは、在地司令部の許可を必要とした。このような写真まで・・・)


参考のページへ

人力車発祥の日(日本橋人力車の日):参考

2014-03-24 | 記念日


参考:
1頁
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:くるま屋日本橋
http://www.kurumayanihonbashi.com/
※3:東京中央大通会 日本橋・京橋まつり実行委員会
http://www.tokyochuo-blvd.net/
※4:古事類苑データベース国文学研究資料館 - 電子資料館
http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/
※5:江戸の原型と神田川の流路
http://hisappi.com/kanndagawa/kandagawa-mukasi/kanndagawamukasi.htm
※6:国立歴史民俗博物館-江戸図屏風 〔高精細画像順次拡大版〕
http://www.rekihaku.ac.jp/gallery/edozu/
※7:江戸名所図屏風・・・八曲一双 左側部分
http://www.geocities.jp/mnomura38/photo414.html
※8:「国立国会図書館のデジタル化資料」より見本橋・駿河町の錦絵
http://kazuhisa.eco.coocan.jp/nihonbashi.htm
※9 :日本初の民間銀行を設立:明治期|三井の歴史|三井広報委員会
http://www.mitsuipr.com/history/meiji/minkanginko.html
※10:「為替バンク三井組」(下) - 清水建設 
http://www.shimz.co.jp/theme/archives/0904.html
※11:織田作之助原作・映画『わが町』絶賛
http://ueshin.blog60.fc2.com/blog-entry-1954.html
※12 :青空文庫-織田作之助 わが町
http://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/53808_50752.html
※13:大阪市立科学館-プレスリリース
http://www.sci-museum.jp/server_sci/promot/press_n.html
※14:有風亭 鎌倉人力車&茶房 -Offical Webページ
http://yuufuutei.main.jp/kamakura/
江戸の日本橋・東京の日本橋(東建月報1月号掲載)
http://www.token.or.jp/magazine/g200001.html
東京探訪
http://www.geocities.jp/tokyo_ashy/index.html
日本橋あらかると
http://www.nihombashi.co.jp/category/trivia
東京府(現在の東京都)が人力車の営業を許可(ⅠからⅡのⅠ)
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/d07fa4036c25882add617e98ea7a920c
第74号 - 横浜開港資料館 - 横浜市(Adobe PDF)
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/images/kaikouno-hiroba_74.pdf#search='%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93%E3%80%81%E4%BA%BA%E5%8A%9B%E8%BB%8A%E7%BE%A4%E9%9B%86'
人力車 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%8A%9B%E8%BB%8A


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セント・パトリック・デーと三つ葉のクローバー

2014-03-17 | 記念日
日本ではあまりよく知られてはいないが、今日、3月17日はアイルランドの伝説の守護聖人聖パトリックの祝日』(英: St Patrick's Day、セントパトリックス・デー)である。
このアイルランドキリスト教を広めた司教主教パトリキウス(ラテン語: Patricius。387年? - 461年3月17日))の命日は西方教会で記念日とされている。現在のカトリック教会では任意の記念日であるが、アイルランド(アイルランド共和国)やアイルランド移民の多いアメリカ、オーストラリアでは、聖パトリックの日(St. Patrick's Day)として盛大に祝われている(教派についてはキリスト教参照)。
この日にはシャムロックを身(帽子や服)につけたり、ミサに行ったりする。
アイルランドでは何世紀も前からこの日を祝う伝統が受け継がれてきたが、正式に1903年より祝日となり、イギリスから独立後徐々に祭礼日として成長したようだ。1996年には政府が主体となって首都ダブリンで5日間の盛大なフェスティバルとなりパレードやその他の行事が行われるようになったという。
現在見られるようなパトリックスデイの巨大パレードが始められたのは実はアイルランドではなく、アイルランド系移民の多いアメリカ合衆国の ニューヨーク、ボストンやシカゴなどだそうで、アメリカでは世俗化し、カトリック信徒でないものでも緑の服を着るなどしてこの行事に参加する人も多く、ニューヨークのマンハッタンは世界で一番大きな聖パトリックの日のパレードが行われる場所となっている(※1参照)ようで、緑色の物を身につけて祝う日なので、「緑の日」とも呼ばれているそうだ。
日本でも「アイルランドを一般の人にもっと知ってもらおう!」を主旨に、アイリッシュ・ネットワーク・ジャパン(※2参照)により1992年からセント・パトリックス・デイ・パレードが、シンボルカラーのグリーンやシンボルの三つ葉のクローバーデザインの衣装、小物を身につけたりして各地でパレードなどが開催されているようだ。
アイルランドで「聖パトリックの日」に、胸などに飾るシャムロック(Shamrock)は、アイルランド政府により世界知的所有権機関(World Intellectual Property Organisation)にアイルランドの国花として登録され、アイルランドのスポーツチーム、政府機関や会社のロゴとして頻繁に用いられることが多く、アイルランドのフラッグ・キャリアであるエアリンガスも、尾翼章にシャムロックを図案化している。以下がその画像である。

これは、聖パトリックがアイルランドでキリスト教を広める際に、キリスト教の三位一体(Trinity=tri[3つ] + unity[単一性])の教義(アタナシオス信条参照)をシャムロックを用いて説いたという言い伝えがあり、シャムロックそのものが聖パトリックやキリスト教の象徴ともなっていることからだという。

シャムロック(Shamrock)は、アイルランド語でクローバーの意味の“seamair”または、若い牧草を意味する“seamróg”を、似た発音で読めるように英語で綴った語であり、マメ科のクローバー(シロツメクサ、コメツブツメクサなど)、ウマゴヤシ、カタバミ科のミヤマカタバミなど、葉が3枚に分かれている草の総称であり、アイルランド国花としてのシャムロックは、その形状からの指定で特に種を定めていないようだが、形状から見て、シロツメクサのようだ。

この三つ葉のクローバー「シャムロック」の文様は、古くは、紀元前2500年から紀元前1800年にかけ繁栄し、最大で4万人近くが居住していたと推測されるインダス文明最大級の都市遺跡モヘンジョ=ダロ(パキスタン南部)から発掘された神官王と呼ばれる彫像の衣服(以下の画像参照)にも見る事ができる。この像は、東京都美術館他で開催されていた「世界四大文明 インダス文明展」でも展示されていた(※3参照)。

●画像は「神官王」と呼ばれる胸像、ソープストーン(en)製の複製と思われる。Wikipediaより。

又、シャムロック(Shamrock)という名前は、イスラム教以前の古代アラブ三日月の女神の象徴という意味のアラビア語「Shamrakh」に由来しているとも云われているそうだ(※4参照)。
そういえば、三日月と星はイスラム教の象徴であり、多くのイスラム教国の国旗に使われている。

上掲の画像は、アラブ世界の一員でもあるチュニジアの国旗であるが、中央の三日月と星は古くからのイスラム教の象徴であり、幸運のシンボルでもあった。赤い色はオスマン帝国時代の反抗勢力の名残であり、三日月は古代都市国家カルタゴを建設した、フェニキア人の美の女神タニスを象徴したものとも言われている。
同国の国名は観光地としても有名な首都チュニスに由来し、この名は紀元前4世紀にこの地に存在した古代都市トゥネス(Thunes。チェニェス) から転化した名前であり、この名はビーナスと同格のフェニキア人の美の女神(トゥネス)を語源としているとも言われ、女神(トゥネス)はかつて国家の守護神であったという(国旗については※5参照)。

現在地理的なアイルランド島は、26の県から成る独立主権国家であるアイルランド(共和国)と、島の東北部に位置する北アイルランドの6つの県から構成されている。
アイルランド共和国は1998年の聖金曜日協定( ベルファスト合意>以前は全島(32県)の領有権を主張していたが、現在は、北アイルランドは、同聖金曜日協定の取り決めに従って設立された連立型の行政府と議会によってイギリス統治下にとどまっており、北アイルランド問題は今なお未解決となっている(アイルランドの歴史は複雑であり詳しくはアイルランドの歴史及び※6、※7など参照)。
アイルランド島の大半を占める島国アイルランドは、牧草が茂り「緑の島」とも呼ばれている。2005年の英「エコノミスト」誌の調査では最も住みやすい国に選出されているそうだ。
独立主権国家としての現在のアイルランド(共和国)の国旗は緑、白、橙の三色から成る。1922年にアイルランド自由国の国旗として採用され、1937年に新憲法を施行してエール共和国(自国ではアイルランド語でエール「Eire」と称する。)と改称した際に、憲法で国旗として定められた。尚憲法で英語読みではアイルランド「Ireland」と定められており、この「Ireland」はアイルランド語の「Eire」とゲルマン語の「Land」をあわせたものだという。
「国」を表わす三色旗は1848年に最初に使用された。フランス革命の影響から考案されたという。1916年のイースター蜂起の際に中央郵便局に掲げられ、三色旗が国旗として認識されるようになった。
緑はカソリック教徒や先住民族ケルトなどの伝統要素を、オレンジはオレンジ(オラニエ)公ウィリアム(ウィリアム3世)の支持者、プロテスタントアングロサクソン系などの新興要素を、白はその両者の融和・平和と友愛を表すという。
アイルランドの国の名前「Eire」(エール)の「Eire」の語源については諸説さまざまで、あまりよくわかっていないようだが、アイルランド(語)文学には「Eire」の古い形である「Eriu」が頻繁に用いられており、「Eriu(エリウ)」はケルト神話(アイルランド神話)に登場するトゥアハ・ディ・ダナーン(ダーナ神族)の戦いと豊穣の女神。古代のアイルランドを統治していた、土地の主権者たる三人の女神の長姉である。
バンバ(Banba)と、フォドラ(Fodla)三相一体の女神(三相女神)のひとりで、三人の女神はマイリージャ族がアイルランド島に侵略してきたとき、それを阻止するために勇敢に戦った。その戦いに敬意を表わし、エリウの名がアイルランドの古い名前エールEireとなったともいわれている。
エリウは、フォモール族の王・マクグレーネ(ダクダの孫。太陽の子の意味がある)の妻。トゥアハ・ディ・ダナーンの王ブレスの母である。バンバとフォドラも詩や物語の中でアイルランドの古称として登場するようだ。

人間を寄せ付けない極限的な風景と、人々の心を癒す牧歌的な風景が共存する不思議な国アイルランド。ヨーロッパの最果てにあるこの島国には、今も神秘的なケルト文明の遺跡が残り、独自の美の世界がみられる。
アイルランド島に初めて人類が居住したのは、紀元前7500年ごろ旧石器時代であるとされる。紀元後600年ごろにキリスト教布教がおこなわれ、それまで信仰されていた多神教が駆逐された。
キリスト教布教以前のアイルランド人に関する記述はわずかしか残されておらず、古代ローマの記述家によるアイルランドの詩、神話などが残されているだけだという。
ケルト人はゲルマン民族ラテン民族よりはるか以前、ほぼヨーロッパ全域に居住していた古代民族であり、その起源は非常に古く、紀元前(BC)2千年には、いわゆる“ケルト世界”が形成されつつあったといわれる。
紀元前(B.C.)8世紀頃、大いに栄え、その勢力を各地に広げていったが拡大する古代ローマ帝国や中央ヨーロッパのゲルマン民族に追われるように大陸の西へ西へと移動し、BC3世紀ごろから数回に渡ってアイルランド島へやってきた。
入植したケルト人は紀元前3世紀頃に鉄器文化をアイルランドにもたらし、400年ごろまでに先住民を支配統合してケルト社会を形成。ローマ帝国の侵略を免れたアイルランド島は、このケルト民族がもたらした言語や文化が島全体に受け継がれ、ヨーロッパでもルーツを異とするケルト文化の国となり、今日でもアイルランドのアイデンティティーとして息づいている。
しかし、アイルランド島におけるケルト系民族をアイルランド人と呼ぶが、紀元前に大陸から渡来したケルト系民族だけでなく、ケルト渡来前の有史以前から居住して石器時代青銅器時代・鉄器時代を歩んだ民族もいた。ただ、その後、衰退したケルト文明は神秘と謎に包まれたまま、多くの伝説や神話をこの国に残しているが、他の鉄器時代のヨーロッパの民族と同じく、初期のケルト人は多神教の神話・宗教構造を持っていた。
ただ、アイルランドのケルト人にまつわる神話『ケルト神話』は他の神話と比べて創生神話がないのが特徴で、登場する神族も実在した民族とその歴史を元にしているため人間臭さが前面に出ているという。そして、ケルト神話はダヌ(ダーナ)とその敵フォモール族(Formorians/Fomors)とを描いたものが中心となっているが、ダーナ神族が妖精ディーナ・シー(※8:「ファンタジィ事典」ディーナ・シー参照)となった以降の人間の世の話であり、アルスター伝説、フィアナ伝説(フィアナ騎士団)、マビノギ(物語集)なども含めてケルト神話と称されることもあるという(※9参照)。

先に紹介した神の一族トゥアハ・ディ・ダナーンはケルト神話ではアイルランドに上陸した4番目の種族で、女神ダヌ(ダーナ)を母神とする神族とされている。
アイルランドには旧約聖書の『創世記』(6章-9章)に登場する、大洪水(ノアの方舟参照)以後に太古からフォモール族と呼ばれる先住民族がいた。
その後紀元前(BC)2700年ころ、アイルランド島にわたってきた最初の侵略者はパーソラン族であったが、彼らはフォモール族によって放たれた疫病の前に全滅したが、アイルランドに農業と手工業をもたらした。
パーソラン族に続いて2番目にやってきたのは、紀元前(BC)2300年ころ、スペインかあるいはスキタイからアイルランド島にやってきたネミドをリーダーとするネミディア族であった。ネミディア族もパーソラン族と同じく疫病によってほろび、生き残ったわずかのネミディア族は2つのグループに別れ、一つは北の地方へ、もう一つは西の地方へ逃れて行った。
第3番目には、西の地方へ逃れたネミディア族がフィル・ボルグ族として紀元前1930年ころ再びアイルランド島へもどってきた。彼らは、フォモール族とは争わずに共存する道を選んだ。
そして、第4番目にやってきたのが、ダーナ神族であった。
フォモール族に追い出され北の地方に逃れたネミディア族は、女神ダヌを母神とする神々の一族トゥアハ・ディ・ダナーンとなり、巨人で魔法を身につけ、紀元前1900年ころ霧の中に姿を隠しアイルランド島にやってきた。彼等は高い文化、文明、すぐれた技能や芸術をもち、フィル・ボルグ族は彼らを巨人の魔術師と呼んたという。彼等はフィル・ボルグ族の土地をつぎつぎ侵略し、人々を支配下に治めていった。
その後も2種の激しい戦いがあったが、戦いの最後にはタラのドルイドの王フィゴル・マクマモスは巧妙な魔法を使い、ついにフォモール族を倒した。
敗北したフォモール族は「喜びの島」と呼ばれる海底の死者の国マグ・メル(Mag Mell)に移住し、こうしてアイルランドは完全にダーナ神族のものとなった。
ダーナ神族はアイルランド上陸時、北方四島の四都市、ファリアス(Falias)、フィンジアス(Findias)、ゴリアス(Gorias)、ムリアス(Murias)より四種の神器、またはThe Hallows of Irelandを持ち込んだ。 これは、リア・ファル(運命の石)、ブリューナク(「貫くもの」の意味で灼熱の槍とも呼ばれる)、クラウ・ソラス(光の剣)、ダグザの大釜の事であるとされるそうだ。
トゥアハ・ディ・ダナーンは紀元前1700年ころ、5番目の侵略者であるミルが率いるマイリージャ族(ミレー族ともいう)との戦いで三女神が活躍、エリウの強力な魔力で敵の前進を食い止めたのだが、最後は、マイリージャ族の大軍を前にティルタウンの戦いにおいてついに敗れアイルランド島はマイリージャ族の手にわたることとなった。
そしてミルの息子エリモンはアイルランドで最初の人間の王となリ、現在のアイルランド人の祖先となった。この時、その土地を三女神との約束で彼女らの一人にちなんで名付けると約束していたこたことからエリウと名付けたという。
トゥアハ・ディ・ダナーンはマイリージャ族にアイルランド島を奪われるが、約200年の間アイルランド島を支配し、島に数多くの痕跡、今日も謎とされる巨石群や古墳を各地に建てた。
その代表的なものは、ミーズ州にあるパッセージグレーブ(羨道墳)と呼ばれるニューグレンジである。その入り口にある巨大な石の平板に描かれている渦巻き模様(以下画像参照)はニューグレンジ特有のもので、通路や石室内にもある。

上掲の画像はニューグレンジ入り口前にあった彫刻を施された巨石である。入り口の上には日の出の際の太陽光がすぐ上の開口部から射し込むようにしたルーフボックスがある。ニューグレンジは墓だとする説が優勢であるが、太陽が信仰の中で重要な一部となっていたとも言われている。

このニューグレンジ入口に見られる巨大な石の平板に描かれている渦巻き模様はマン島シチリア、北ウェールズのアングルシー島羨道墳などに見られる三脚巴にも似ている。ニューグレンジには他の縁石にも同様の彫刻が見られる(特に52番と67番)という。
この3つの渦巻や、三脚巴の裏に横たわる観念は、三つの渦巻きを結合させたケルトシンボルと似通った「三つの意味」という意味を持つっているのだろう。

上掲の画像はケルトの渦巻き型三脚巴。Wikipediaより。

この様な三脚巴は多くの国で使用されているがどんなものがあるかはここ→各地の三脚巴を見られるとよい。
以下参考に記載の※10、「ケルトデザインの持つ意味」には、ニューグレンジなど巨石時代、新石器時代のアイルランド遺跡にも多く見られるケルトの渦巻き型三脚巴(トリプル・スパイラル=トリスケル)は、非常に古くから存在するシンボルで、古代ケルトのドルイド教的世界観では、3つの女神(女神の3要素)であるところの、『少女(処女)』『母』『老婆』を意味している。
紀元前の古代ケルトの時代にも頻繁に使われていたが、復活を暗示させるスパイラル模様と三位一体の概念が融合した神聖な形として、その後ケルト系キリスト教の写本の中にも同じデザインが描かれるようになったという。聖なる数字3と、回転・復活するエネルギーの融合したこの形は、神聖ながら野性的躍動感を秘めている。又、それぞれのスパイラルが、満ちて行く月、欠けて行く月、そして満月の3つを象徴し、月の力と繋がる形としても捉えられており、非常に神秘性の強い形である。・・・と書かれている。
この概念は、先に掲示したモヘンジョ=ダロから発掘された神官王と呼ばれる彫像の衣服描かれた三つ葉のクローバーの模様にも共通しているものと考える。

また先のトゥアハ・ディ・ダナーンがアイルランド島を支配していた頃、タラの丘(Hill of Tara)にリア・ファイル(運命の石)と呼ばれる石柱をたて、アイルランドの上王たちはその上に立ち王位を授けられたと言われている。

上掲の画像はアイルランドのミース州ナヴァンの12km南方にある丘陵「タラの丘」。Wikipediaより。

タラの丘は、カウンティ・ミース(Co.Meath=ミース州)のナヴァン(Navan)の12km南方にある丘。ケルト族がアイルランドに渡来後、ケルトの王が君臨していた古代アイルランドの首都で、聖パトリックがシャムロックを用いて三位一体を説いたのも、この地とされている。
アイルランド島の4分の3が、この丘から見渡せると言われている。現在はアイルランドの経済成長を反映して首都ダブリンのベッドタウンとして発展しているようだ。
参考※7:「エールスクエア」によれば、ケルト人は家父長制大家族を単位とした大氏族からなるトゥーハ(小王国)を各地に作り、6世紀ごろにはおよそ150のトゥーハが存在した。小国の王はトゥーハを統治し、やがて一群のトゥーハを統治するさらに力のある王に支配されていった。さらに有力な小王国に支配、統合されて次第に部族国家へと変貌していった。
ケルト人のアイルランドは単純な農業経済で、金銭を用いずに牛を交換の単位としていた。人々は個々の農地に住み、町は存在しなかった。政治的単位としての小王国(トウーハ)のほかに社会の基本単位としての家族共同体(フィネ)があった。
ケルト人が信仰していたドルイド教の僧侶ドルイドは国全体を律する唯一の法典ブレホン法を制定し、人々はそのブレホン法の親族や法的権利についての詳細なおきてによって統制されていた。ケルト人のアイルランドは政治的には統一されていなかったが、ドルイド教は文化的統一をもたらし、同一民族意識をはぐくんだ。・・・という。
【Druid】(ドルイド)は神官や、僧侶のことで、ケルト社会の知的エリート層(主導的な階級)というべき存在で、ケルト人に多大な影響力と絶対的な権力を持ち、ケルト民族全体の支配者として、神々の祭祀を司るだけでなく、数学、天文、詩文に通じ、部族間の調停や裁判を行なった。また特権身分で、ケルト人の文化的伝統の体現者として政治、社会を指導していた。・・・という。ドルイドを要請する教育期間のようなものがあり、ドルイドになるための修行とは教義の暗唱が必要。宗教儀式や予言、占いでは生け贄などもあった。・・・そうだ。

このケルト社会のキリスト教化につとめたのが、432年に渡来したと伝えられる聖パトリックであった。聖パトリック以前に、すでにローマから派遣された宣教師がアイルランド島で布教を行なっていたが、教会制度を確立し、司教を叙任したのは聖パトリックが最初であったようだ。
アイルランドの首長はドルイドに基づく独自の宗教を行っていたために聖パトリックの布教に嫌悪感を示していたが、聖パトリックはアイルランド人の伝統と宗教を理解しつつ、キリスト教との融合をはかりながら布教を行い、このときパトリックは、三つ葉のシャムロックを使い、「シャムロックが三つ葉になっているのは、父なる神・子なるキリスト・聖霊が1つとなっている"三位一体"を表している」と教えたのである。
また、ケルト教会のシンボルとなっているケルティック・クロス(ケルト十字架)は、アイルランドでは、聖パトリックが異教のアイルランド人を改宗させる際にこのケルト十字を創った、という伝説が広く信じられているそうだ。※10、「ケルトデザインの持つ意味」によると、このクロスはキリスト教的な十字の意味に加え、十字の横線は地上世界への導線、縦線は霊性的世界への導線、円形は ”永遠” の神の愛や、尽きる事ない力を示していると言われている。
それ以前から、アイルランド、スコットランド及びその他のケルト系の島に、この形の石碑が多く建てられ、信仰のシンボルとなっていた。ケルトは元々、自然・精霊信仰に基づいた、ドルイド教と呼ばれるアニミズムの様な独自の世界観を持っていたので、それと見事に融合したようだ。・・・とある。
これらは、渦巻きや円で構成された異教時代の古いシンボルが、新しい意味を付与されて現れたものであり、このようなケルト的なキリスト教で、ケルトの宗教や民族性と融合する形で広まったことから、アイルランドでは一人の殉教者も出さずに改宗がすすめられたのが特徴のひとつだという。

参考:
※1:緑一色に包まれた一日 セントパトリックスデーパレード
http://koedasmile.exblog.jp/12340386/
※2:アイリッシュ・ネットワーク・ジャパン(INJ)
http://www.inj.or.jp/
※3:世界四大文明 インダス文明展
http://www.juqcho.jp/appreciation/2000/20001015-1.html
※4:四葉のクローバーの歴史
http://fhp.from.jp/sweet-clovers/?p=0102&n=
※5:国旗の由来・歴史の資料室
http://tospa-flags.com/index.html
※6駐日アイルランド大使館
http://www.irishembassy.jp/home/index.aspx?id=33616
※7:エールスクエア
http://www.globe.co.jp/homepage.html
※8:ファンタジィ事典
http://fantasy.kakurezato.com/info/index.html
※9:ケルト神話
http://tinyangel.jog.client.jp/Faith/CelticMythology.html
※10、ケルトデザインの持つ意味
http://high-land.org/celticdesign.html
世界史の目::翠玉(すいぎょく)の聖島・その1~ある伝道師の布教~
http://www.kobemantoman.jp/sub/177.html
シャムロックと四つ葉のクローバー
http://www.avis.ne.jp/~zuzu/culture/art/craft/amulet/4shamrock.html
駐日アイルランド大使館
http://www.irishembassy.jp/home/index.aspx?id=33616
統合版(口語訳+文語訳) 聖書
http://bible.salterrae.net/
Botanical Garden(植物園)
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/Katabami.html
聖パトリックの祝日 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E3%83%91%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AE%E7%A5%9D%E6%97%A5
南アジアへの招待
http://southasia.world.coocan.jp/


治安維持法

2014-03-10 | ひとりごと
第2次安倍内閣は、昨2013(平成25)年10月25日、防衛・外交など日本の安全保障に関する情報のうち「特に秘匿することが必要であるもの」を「特定秘密」に指定し、取扱者の適正評価の実施や漏洩した場合の罰則などを定めた法律「特定秘密保護法」の法案を安全保障会議で了承を経たうえで閣議決定して第185回国会に提出し、同年12月6日に成立させ、12月13日に公布した。公布から1年以内に施行されることになっている(同法附則第1条)。
これに対して、マスメディアなどが「特定秘密保護法反対」の大合唱を唱えている。
その反対理由として一番よく耳にするのが「戦前の治安維持法(法律第54号)のように言論統制を行なう法律だ」というものである。

治安維持法は、全33条より成る(うち2条削除)治安警察法(明治33年3月10日法律第36号)とともに、戦前の有名な治安立法として知られている。
先ず、最初に、予備知識として、上記2つの治安立法成立の目的を書いておこう。
日清戦争後の資本主義の発展とともに労働運動黎明期を迎え、労働組合期成会の結成(1897)を起点に労働組合運動の発足と争議の多発化に悩まされていた。また、海外からは社会主義運動の普及が始まった。
明治政府は自由民権運動抑圧に用いた刑法270条や集会及政社法(集会条例また※1参照)、治罪法(※2も参照)などの諸法律では対応できないと考え労働運動の取締りなどを目的に新たな治安立法として制定(1900年)されたものが治安警察法(明治33年3月10日法律第36号)である。
旧憲法下で,政治集会,結社,デモなどを取り締まり、政治結社・集会の届出,女子・教員・軍人などの政治結社加入禁止を定め,集会などの解散権を警察官に与えた。
一方の治安維持法(1941年=昭和16年3月10日法律第54号)は、国体皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された法律であり、当初は、1925(大正14)年4月22日に法律第46号として制定され、1941(昭和16)年に全面改正されたものである。
余談だが「治安警察法」(明治33年)の制定日と1925(大正14)年制定の「治安維持法」(昭和16年)の全面改正日が奇しくも今日と同じ3月10日である。

治安維持法は1925(大正14)年4月22日に公布され、同年5月12日に施行。普通選挙法とほぼ同時に制定されたことからよく「飴と鞭」の関係にもなぞらえられるが、なぜ両法は1925年(大正14)年3月の護憲三派による第1次加藤高明内閣による第50回帝国議会でほとんど同時に成立したのであろうか。
普通選挙法も治安法も第一次世界大戦における民衆の政治化の所産である。
普選運動は日清戦争に始まるが、全国的な要求運動は1919(大正8)年に盛り上がる。運動は1920(大正9)年春の第14回衆議院議員総選挙で普選反対を唱える党首原敬政友会の圧勝に水を差されはしたものの、1922 (大正11)年春の第45帝国議会で、野党の憲政会国民党(のちの革新倶楽部)との統一普選案が出来たことで復活する。
一方労働者・農民の普選運動の高揚を背景に、1920(大正9)年には、日本社会主義同盟が結成され、1921(大正10)年春には当時は非合法な秘密結社日本共産党(第一次共産党)が生まれる。
この動きを察知した司法省や内務省は原敬首相の意向のもとに「危険思想」取り締まりのための新しい治安立法に着手して、「過激社会運動取締法案」を第45回議会に提出するが野党や言論界の強い反対で審議未了となリ、普選法案と新治安立法案は相打ちする型となった。
治安立法優先の政友会・官僚勢力路線と普選優先の野党路線の結合の道は関東大震災(1923年=大正12年9月1日)の直後に成立した第2次山本権兵衛内閣によって開かれた。
普選主張の先頭に立つ逓信大臣犬飼毅と治安立法の推進者で司法大臣の平沼騏一郎との間に、両社抱き合わせの相互承認が行われた。
山本首相は、普選実現を声明し、議会は大震災下の緊急勅令治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件(大正12年勅令第403号)を承認した。
同年12月に起きた虎ノ門事件の政治的責任から、山本内閣が総辞職した後、総選挙施行のため中立的な内閣の出現を望む西園寺公望の推薦によって登場した清浦奎吾内閣に対して、第2次護憲運動が起こり、選挙戦となった。
衆議院の政友会、憲政会、革新倶楽部の三会派(いわゆる護憲三派)は普選を公約し、他方政府の与党・政友本党は「独立の生計」の条件付き普選を主張した。
「独立の生計を有する者」(※3:新聞記事文庫 「独立の生計」参照)とは、事実上所帯主を意味し、有権者は30%以上減る。
選挙戦に圧勝した護憲3派の連立内閣は公約通り、普選法案を代50議会に提出した。天皇の諮問機関で、重要法案の事前審査権を持つ枢密院は官僚勢力の牙城であったが、普選法を承認するに際し、「思想ノ取締」を「必要条件」(平沼)とした。
一方枢密院は、同時に進行していた日ソ基本条約の審査にあたっても「過激思想」の流入を取り締まるため「最も有効凱切(非常に大切な。ぴたりと当てはまる)なる措置ヲ実施」せよと求めた。
政府は2月20日の枢密院本会議の普選法案採決の前日に治安維持法案を衆議院に緊急上程した。
明治政府は、枢密院の強要に屈して治安維持法案を提出したのではない。普選と治安維持を抱き合わせる・・・つまり、労働者・農民にも選挙権を与えるが、その政治的進出は極力抑制する・・・という山本内閣の方針は受け継がれ、治安維持法立案の作業は清浦内閣下ですでに始まっていた。
政府原案は「国体もしくは政体ヲ変革シ、マタハ私有財産制度を否認スルコトヲ目的トスル」結社その他の行動を最高刑罰10年の重刑で取り締まるというものであったが、衆議院では「政体」の2字は専制的官僚機構への批判の自由まで束縛する恐れがあるとしたうえ、3月7日ほとんど全院一致で可決した(反対議員は18議員)。3月19日貴族院も可決した。
普選法は貴族院の抵抗でもめたが、ここで流産すれば「過激思想」が盛んになるという認識で一致した元老院西園寺公望や政府首脳の努力で、会期延長の末3月29日に成立した。普選法と治安維持法はどちらか一方が先に成立することは当時の政治力学上不可能であった。

●上掲の画像は普選法が成立してホット一息の大臣。前列右から若槻内相、幣原外相、犬飼逓信相、高橋農商務相、加藤首相、岡田文相、(3月29日)。加藤首相は「多年の懸案であった普通選挙・・・等』国民の権利に関する問題を解決し得たから此議会は永く日本の憲政史上に特筆されるべきものであろう」(3月30日付朝日新聞)と談話を発表したという(『朝日クロニクル週刊20世紀』1925年号)。

第2次世界大戦前の治安維持法も後に改悪を重ねて悪法に成長していったが、当初はおとなしいものであった。
先にも書いたように、治安維持法は同じ月に成立した普通選挙法と抱き合わせの「飴と鞭」の立法と云う説もあるが、むしろ、第1次世界大戦後のいわゆる大正テモクラシー運動が起こる中、1925(大正14)年1月のソビエト連邦との国交樹立(日ソ基本条約)を境に、共産主義・無政府主義(アナーキズム、中でも社会的無政府主義)による革命運動の激化が懸念されていた。そんな中、普通選挙法の施行により、このような考え方が日本で主流になり、国家体制に危機を及ぼさないようその対策という性格が強かったとの説もある。
成立した主な条文の内容は,国体の変革または私有財産制度の否認を目的とした結社を取り締まることを中心とするものであった。
従って、当時、法律が取り締まりの対象とした国内の第1次共産党は1924(大正13)年3月頃に解散していたのでさしあたり適用する対象もなくなっていたのだが・・・。
この条文にある「国体」という言葉は、教育勅語に出てくる道徳的用語(国民の忠孝心が「国体の精華」であり「教育の淵源」である)で、法律用語としては内容がはっきりせず使い方でどうにでも解釈できる危険な言葉でもあった。

そして、1926大正15)年1月に京都帝国大学などが主体の左翼学生運動日本学生社会科学研究会(学連)に対して日本で最初の治安維持法が適用され学生38人が検挙される事件が起こった(京都学連事件参照)。
前年12月に警察が出版法違反事件として検挙し立件出来ずに釈放したものを検事局が治安維持法違反事件に仕立て直したものだと言われる。
この事件は当時の為政者層の思想・教育への危機感の大きさを象徴しているともいえる。この事件では司法省の張り切りぶりが目に付く。この事件を期に司法省は思想問題への取り組みを本格化させる。
「学術研究の範囲を超越し苛も国体を変革し又は社会組織の根底を破壊せんとする言論をなし、若くはその実行に関する協議をなすに至りては毫も仮籍する所なく之を糾弾せざるべからず」(1926年5月警察部長会議における小山松吉検事総長の訓示『日本労働年間』1927年版)という徹底した抑圧姿勢に特徴がある。
警察の視察取締もこの京都学連事件以後、変化が見られ、警察当局が公然と学内に侵入し、学内取締も「他の一般社会運動に対すると何等異ならない状態に至った。ビラ撒布による検束(東大)、不法検束による警察の暴行事件(京大、九州歯科専門学校)などが頻繁に起こりはじめたという(※4参)。
こうした中、1926 (大正15)年には 東京の共同印刷でのストライキが60日の大争議(いわゆる「共同印刷争議」)に発展する(徳永直による小説『太陽のない街』の大争議)、新潟県の小作争議が警官隊との衝突事件に発展する事件(木崎村小作争議)が起こるなど、この年の同盟罷業(ストライキ)は469件、小作争議は2751件で、前年に比べ飛躍的に増加していたという(『朝日クロニクル週刊20世紀』1926年号)。
こうした情勢の中で秘密裏に共産党再建大会が開かれていた。そして、2年後の1928(昭和3)年2月に国政最初の普通選挙が行われ、共産党は政治的に活躍するが、学連事件の公訴審中に全国一斉の共産党員大検挙が行われる(三・一五事件)。
時の田中義一内閣は、第55回帝国議会に治安維持法改正案を上程し、治安維持法の改正を行って最高刑を死刑とし、共産党を中心する反体制勢力の壊滅を図ろうとしたが、死刑を含む刑罰の強化は、あまりにも弾圧的として野党や言論界の強い反対で改正案は審議未了となった。普通選挙法と新治安立法は相打ちする形となった。
しかし、田中は、議会の審議を経ずに、改正を強行し、緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」(昭和3年6月29日勅令第129号)により改正法の公布をした(以下参考の※05のレファレンスコード:A03033700800に、罰則の強化の理由を「罰則が此の極悪なる犯罪に対し不適当不充分なるに由り」とする説明。この改正が、「議会の協賛を得るに至ら」ず、「緊急勅令の形式に依って実施された」ことが記されている。※5のレファレンスコード:A03021692600では、三・一五事件を契機として実施された第1次法改正の御署名原本。改正点が記載されており、主な改正点は、罰則を強化、最高刑を懲役10年から死刑もしくは無期懲役に、したこと、「結社の目的遂行の為にする行為」も処罰の対象に含めるようになったことなどが記されている。)。
同法改悪の第1点は、旧法1条の構成要件を国体変革と私有財産制度の否認とに分離し、国体変革の指導者に対しては死刑、無期、若しくは5年以上の有期懲役と刑罰を加重したことであり、その第2点は、新たに国体変革を目的とする「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者」に2年以上の有期懲役を科したことである。これにより、権力が危険と判断するすべての人を合法的に逮捕、処罰することができる根拠ができたわけである。
さらに政府は、全国主要府県の警察部にも特高警察を設置すると共に、特高警察と両輪的役割りを果たす思想検事(一般検察実務から独立した思想問題専従の特別部として設けられた)を新たに設け、出版法等諸法も治安維持法と結合させて治安立法の役割を担わせ、弾圧体制を一層強化させるなどして、日本共産党を壊滅に追い込んだ。
これは、田中・鈴木・原と政党内閣でありながら大正デモクラシーに批判的な人々が治安関係を占めた(田中は元陸軍大将、鈴木は社会運動弾圧で活躍した検事総長、原は鈴木とともに国本社会員)という矛盾に由来する政策であった。
その後、治安維持法は政府批判をする者すべて弾圧の対象となっていき、国民の言論の自由を弾圧する悪法として猛威を振るい始めた。
あたかも、日本は恐慌のさなか同盟罷業(ストライキ)や、小作争議の件数がますます増加の一途をたどった。治安維持法は、こうした労働者・農民の抵抗を弾圧し、後には宗教団体や、右翼活動、自由主義等まで弾圧をおこなう法的手段として機能していったのである。
同法は、太平洋戦争を目前にした1941(昭和16)年3月10日にはこれまでの全7条のものを全65条とする全面改正(昭和16年3月10日法律第54号)が行われた。
1941(昭和16)年法は同年5月15日に施行されたが、その特徴は以下のようなものであった。
全般的な重罰化
禁錮刑はなくなり、有期懲役刑に一本化したが、刑期下限が全般的に引き上げられたこと。
取締範囲の拡大
「国体ノ変革」結社を支援する結社、「組織ヲ準備スルコトヲ目的」とする結社(準備結社)などを禁ずる規定を創設したこと。官憲により「準備行為」を行ったと判断されれば検挙されるため、事実上誰でも犯罪者にできるようになった。
また、昭和3年6月29日勅令第129号では、過激社会運動取締法案にあった「宣伝」への罰則は削除されていたがその「宣伝」への罰則が復活した。
刑事手続面
従来法においては刑事訴訟法によるとされた刑事手続について、特別な(=官憲側にすれば簡便な)手続を導入したこと、例えば、本来判事の行うべき召喚拘引等を検事の権限としたこと、二審制としたこと、弁護人は「司法大臣ノ予メ定メタル弁護士ノ中ヨリ選任スベシ」として私選弁護人を禁じたこと等。 予防拘禁制度 刑の執行を終えて釈放すべきときに「更ニ同章ニ掲グル罪ヲ犯スノ虞アルコト顕著」と判断された場合、新たに開設された予防拘禁所にその者を拘禁できる(期間2年、ただし更新可能)としたこと。
治安維持法のことなど詳しくは、以下参考の※6又※7:「治安維持法と小林多喜二虐殺」とその中にある治安維持法を参照されるとよい。

マスメディアは言論の統制を非常に恐れる。20世紀の日本における言論表現に自由とそれに対する規制は、1945(昭和45)年までの戦前・戦中時代、第2次世界大戦後の米軍占領時代、その後現在の3つの時期に分けられるであろう。その中の第2次世界大戦後米軍占領時代、やその後現在のことは省略し、その第1期、先に述べた戦前の明治憲法体制下でのことを少し書こう。
大日本帝国憲法では、「日本臣民は法律の範囲内において言論著作印行集会及結社の自由を有す」と定められたが、その自由はあくまで天皇から臣民に与えられたもので、近代民主主義社会の基本的人権としては保障されなかった。
大日本帝国憲法下では、1909(明治42)年の新聞紙法、1925(大正14)年の治安維持法、1938(昭和13)年国家総動員法を柱に、1945(昭和20)年の敗戦まで、言論表現の自由は窒息させられた。同時に富国強兵の国策に共鳴した新聞が率先して、軍国主義世論を誘導、戦争の旗振り役を果たしてきた。
しかし、そんな暗い谷間の時代でも、果敢な言論活動を繰り広げていた人たちはいたのである。
1904(明治37)年の日露戦争当時歌人与謝野晶子は雑誌『明星』に「君死に給うこと勿れ」を発表、「旅順の城はほろぶとも ほろびずとても何事か」(旅順の城が陥落するか陥落しないかなんてどうでもいいのです)「すめらみことは戦ひに おほみずからは出まさね」(天皇陛下は戦争にご自分は出撃なさらずに)と言い切っている(※8参照)。
今これだけの反戦・天皇批判をどれだけの人、メディアが発表できるだろうか。
東洋経済新報時代の石橋湛山は当時の国策の主流であった「大日本主義」を批判し小日本主義を主張、1921(大正10)年に『大日本主義の幻想』(※9参照)を書き朝鮮・台湾・南樺太の放棄を主張し植民地政策からの絶縁を求めた。
また、桐生悠々は明治末から昭和初期にかけて反権力・反軍的な言論(広い意味でのファシズム批判)をくりひろげ、特に1933(昭和8)年信濃毎日新聞時代に関東一帯で行われた防空演習を批判した社説『関東防空大演習を嗤(わら)ふ』で、敵機の空襲があったならば木造家屋の多い東京は焦土化すること、被害規模は関東大震災に及ぶであろうこと、空襲は何度も繰り返されるであろうこと・・・等12年後の日本各都市の惨状をかなり正確に予言した上で、「だから、敵機を関東の空に、帝都の空に迎へ撃つといふことは、我軍の敗北そのものである」「要するに、航空戦は...空撃したものの勝であり空撃されたものの負である」と喝破。この言説は陸軍の怒りを買い軍部に追われ、ミニコミ誌『他山の石』を出して、日米戦争の危険を警告している(※10参照)。
これらはいずれもジャーナリズム・世論の潮流に逆らう孤立した言論であった。
満州事変から日中戦争、そして太平洋戦争期、記事掲載禁止が乱発され、真珠湾攻撃の1941(昭和16)年12月8日から軍事上の秘密だとして、気象に関する情報(天気予報)は一切、 新聞やラジオから姿を消したという。そして、嘘で固めた大本営発表は典型的なディスインフォメーション(虚報による世論操作)だった。
報道管制は「示達」(当該記事が掲載された時は多くの場合禁止処分に付するもの。記事差止命令参照。)「警告」(当該記事が掲載された時の社会状勢と記事の態様如何により、禁止処分に付することがあるかも知れないもの)「懇談」(当該記事が掲載されても禁止処分に付さないが、新聞社の徳義に訴えて掲載しないように希望するもの。)の3形式で進められ、一方的な示達、警告が圧倒的に多く、懇談はわずかであった。そして、法的根拠のない「懇談」は世論誘導のための内面指導としてマスメディアの積極的協力を得た。現代の記者クラブにも「懇談」は引き継がれ日常化しているという(『クロニカル週刊20世紀』メディアの100年)。例えば現代の記者クラブの状況など※11参照。尚、戦前の言論弾圧の実態などは※12参照)

現在、われわれが住む日本の国には、戦後改正された『日本国憲法』があり、国民主権の原則に基づいて象徴天皇制のもと、個人の尊厳を基礎に基本的人権の尊重を掲げて各種の憲法上の権利を保障し、戦争の放棄と戦力の不保持という平和主義を定め、また国会・内閣・裁判所の三権分立の国家の統治機構と基本的秩序を定めている。
又、基本的人権は、単に「人権」「基本権」とも呼ばれ、特に第3章で具体的に列挙されている(人権カタログ)。かかる列挙されている権利が憲法上保障されている人権であるが、明文で規定されている権利を超えて判例上認められている人権も存在する(「表現の自由」や「知る権利」、プライバシーの権利など)。
そんな日本で、冒頭にも触れた「特定秘密保護法」が戦前の治安維持法に似ているという指摘がある。
今の日本は戦前の明治憲法制下絶対的な天皇制と軍国主義の日本とは基本的に違う。したがって、言論に関しても、露骨な言論統制はないし、公序良俗に反しないかぎり、言論の自由が許されている。ただ、逆に、先にも述べたような少々の圧力をかけられてもはっきりと真実を述べるだけの勇気あるマスメディアや人が昔のようにいるかに疑問があるくらいである。
治安維持法はすべての国民を対象にする法律だったが、特定秘密保護法は「我が国の安全保障に関する情報のうち特に秘匿することが必要であるものについて、特定秘密の指定及び取扱者の制限その他の必要な事項を定める」(第1条)ものであり、その対象は一般国民ではない。
規制対象になる「特定秘密の取扱者」は主として国家公務員だが、政治家も含まれる。ここから、万が一漏れてはいけない国家秘密が漏れる危険性があると、同盟国であるアメリカが軍事機密を教えてくれないのだという。
尖閣諸島をめぐって中国が盛んに挑発を繰り返している昨今、これではいざというとき日米共同作戦も取れないだろう。秘密保護の法律はアメリカにもあるというが、どこの国にも国外へ洩れてはいけない国家秘密はあるだろうから、その漏えいは守らざるを得ないだろう。
「報道の自由が侵害される」という誤解もある。「国民の知る権利の保障に資する報道又は取材の自由に十分に配慮しなければならない。」ことは第22条に記されており、報道機関は規制対象とはなっていない(※13、※14参照)。
特定秘密保護法は「防衛」「外交」「スパイ」「テロ」と定めれれているが、対象について「その他」という但し書きが出てくるので、政府が無限に拡大解釈できる。秘密保護法は、何を「秘密」にするのか、政府が恣意的に決められる。第三者のチェックも無い。しかも、何が秘密なのかも秘密な為、「特定秘密」に触れたという理由で逮捕された被告人も、何故自分が捕まったのか被疑事実さえ分からない。・・・等々いろいろ心配されるのだが、結局のところ、今の政府・政治家や官僚のするところが、国民やマスコミから十分に信頼されていないところに、このような疑問の声が多く出てくる原因があるのではないだろうか・・・。
東日本大震災福島第一原発事故以降、原子力発電稼働問題等を含め政府や官僚の言ったりしたりしていることを見ていても全く信用できない状況である。
治安維持法も最初は、共産主義・無政府主義などが対象であったのだが、いつのまにか一般市民が弾圧のターゲットとなり、自由にものが言えない社会を作っていった。
現行の政府は信頼できても、いつまた前民主党政権のような訳のわからない人達が政治を動かすことになるかもしれない・・・などと考えいると…さすがの私も不安にはなる。
政府が情報を秘密にすることと、国民の知る権利とのバランスを維持することは難しい問題だ。私には、余り難しいことはわからないが、兎に角しっかりと国民が監視をしてゆかないといけないだろうね。

冒頭の画像は、警視庁検閲課による検閲の様子.
1938(昭和13)年。Wikipediaより。
参考:

※1:中野文庫 - 集会及政社法
http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/hm23-53.htm
※2:明治十三年太政官布告第三十七号(治罪法)
http://www.geocities.jp/lucius_aquarius_magister/M13HO037.html
※3:神戸大学附属図書館 デジタルアーカイブ 【 新聞記事文庫 】
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/
※4:Title 文部省の治安機能 : 思想統制から「教学錬成」へ
http://barrel.ih.otaru-uc.ac.jp/bitstream/10252/917/1/Ogino_300123.pdf#search='%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%AD%A6%E9%80%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6+%E7%9C%9F%E7%9B%B8+%E7%9C%9F%E5%AE%9F'
※5 :治安維持法 - アジア歴史資料センター
http://www.jacar.go.jp/topicsfromjacar/03_terms/index03_006.html
※6:治安維持法――なぜ政党政治は「悪法」を生んだか(その1)
http://d.hatena.ne.jp/kosuke64/comment?date=20131204§ion=1386151834
※7: 治安維持法と小林多喜二虐殺
http://tamutamu2011.kuronowish.com/TIANIJIHO.html
※8:小さな資料室資料62与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」http://www.geocities.jp/sybrma/62yosanoakiko.shi.html
※9:大日本主義の幻想”. 電子文藝館. 日本日本ペンクラブ.
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/publication/ishibashitanzan.html
※10:桐生悠々『他山の石』の言論抵抗 - 前坂俊之アーカイブス
http://maechan.sakura.ne.jp/war/data/hhkn/17.pdf#search='%E6%A1%90%E7%94%9F%E6%82%A0%E3%80%85+%E4%BB%96%E5%B1%B1%E3%81%AE%E7%9F%B3'
※11:【特集】記者クラブ問題
http://iwj.co.jp/wj/open/%E8%A8%98%E8%80%85%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96
※12:15年戦争資料 @wiki - 明治から昭和戦前期までの言論弾圧法の実態とは
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1955.html
※13:特定秘密保護法の全文:朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/TKY201312070353.html
※14:特定秘密保護法について | 首相官邸ホームページ
http://www.kantei.go.jp/jp/pages/tokuteihimitu.html
「特定秘密保護法」の問題性 - 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/adv/wol/opinion/gover-eco_131111.htm
秘密保護法は戦前の治安維持法と似ているのですか? - 弁護士ドットコム
http://www.bengo4.com/other/1146/1288/b_214313/
歴史評論「治安維持法と弾圧の実態」
http://blog.livedoor.jp/seizi10/archives/1857941.html
治安維持法(法律のみ)
http://hc6.seikyou.ne.jp/home/okisennokioku-bunkan/okinawasendetakan/tianijiho.htm
Life-歴史は繰り返す
http://life-ayu.blog.so-net.ne.jp/2013-12-05
思想と言論
http://cgi.members.interq.or.jp/kanto/just/
Wikipedia -治安維持法
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BB%E5%AE%89%E7%B6%AD%E6%8C%81%E6%B3%95

「3.9デイ」(ありがとうを届ける日)

2014-03-09 | 記念日
日本記念日協会(※1)の今日3月9日の記念日に「3.9デイ(ありがとうを届ける日)」 があった。
NPO法人のHAPPY&THANKS(※2)が社会教育の推進や子どもの健全育成などの活動で、よりよい人材育成と社会の発展などを目的に制定したもの。
「ありがとう」という言葉に託して感謝を伝えあう日で、日付は「ありがとう」のサンキュー(Thank you)」(3と9)からだそうだ。

今年1月3日に肺がんで死去した私も大好きであった大阪を代表する歌手であり、タレントのやしきたかじん(本名・家鋪隆仁)(享年64)のお別れの会が、先日(3月3日)、大阪市北区のリーガロイヤルホテル大阪で開かれた。
昼は一般参列者3700人が献花。夜は発起人に名を連ねたAKB48総合プロデューサーの秋元康氏や橋下徹前大阪市長をはじめ、各界の著名人約500人が参列した。
たかじんの歌が随所に盛り込まれたコンサートのようなお別れ会で、昨年10月、米ハワイのコンドミニアム(別荘)で録音されたたかじん最後の歌声や映像も流れた。

不思議だね 今こうして君をだきしめるなんて
いくつもの偶然が 二人引き合わせた
初めから感じてたよ遊びですむ恋じゃないと
言葉さえもどかしいほどにわかり合えた

遠く離れていても心堅く結ばれていたよね
逢えない夜も夢の中を訪れてひとつになれる

もう順子離さないよずっと
一緒ならどんな道でもきっと歩いてゆける
だから順子いつもそばにいて
海のような瞳で 僕を見つめておくれ
以下略・・・・・♪

やしきたかじんの歌『順子』(※3)より抜粋。
曲を聞きたければここで聞ける→ やしきたかじん 「順子」 - YouTube

この曲は、『やっぱ好きやねん』などやしきたかじんの曲を多く手がけている東京出身の鹿紋太郎(作詞・作曲。編曲は川村栄二)の楽曲である。
この曲1988(昭和63)年11月1日に発売された シングル『愛することを学ぶのに』(作詩・作曲:来生えつこ、編曲:川村栄二。歌詞※4参照。曲は※5で聞ける)のB面に収録されたラブ・ソングである。
たかじんは自身の曲「順子」を、最愛の妻・さくらさん(32)への思いを込めて「順子」を「さくら」に替えてアカペラで熱唱。さらに、たかじんがさくらさんに宛てた手紙も披露された。
たかじんの闘病中、「食道がんで飲み込みがつらかったので、少量でカロリーをたくさん取れるものや、軟らかいものを作っていた」と献身的な看護をしたさくらさんに、「何万語、何億語、言葉を探しても出てくる言葉は『さくら、ありがとう』。
こんな苦難な1年をぼく以上に乗り越えてくれて戦ってくれて、ぼくにとって心の支えになってくれて、本当にありがとう」。・・・・・と、愛情があふれる内容は、来場者の涙を誘った。

たかじんは2012(平成24)年1月食道がんが発見され、2月には東京の病院へ入院、「9月までは無理」と宣告されていた退院も6月に退院するまでに回復していたらしいが、結局、9月には抗がん剤の副作用の影響で再び入院する羽目となったものの、これも通常2週間の入院を1泊2日で切り上げ、その後、11月にはハワイの別荘に移動し、カラオケ20曲を熱唱したり、仲間3人とワイン10本を空けるなどしており、ここでも病気休業前の豪快さを誇示していたようだ。
結構、休養中も無茶をしていたようであるが、芸能活動休止から1年2ヶ月後の2013(平成25)年3月21日「たかじん胸いっぱい」の収録より仕事復帰(2日後の23日に放送)しているが、同年5月、「疲労による食欲不振や睡眠不足などによる体力低下」を理由に再び休養。以後、死去するまでにメディアに出演することはなかった。
たかじんは、無名だった20代前半に一般人女性と結婚。一女をもうけたが、その後離婚。1993(平成5)年には15歳年下の元モデルと再婚したが2006(平成18)年に離婚。この2度の離婚で再々婚には消極的だと伝えられていたたかじんだが、この休養期間中の2013(平成25)年12月、3人目の妻Aを迎えていたことがマスコミ報道などで明らかにされていた。
それが、最愛の妻・さくらさんだったようで、長い療養生活を支えてくれる彼女と名実ともに、二人三脚で芸能活動復帰を目指すことを選んだようだ。
彼女は30歳以上年下の長身美女で、関係者によると2人の交際は3年近くにも及ぶものだったらしく、あるテレビ局関係者は「1度目の復帰の前に紹介を受けた」としており、親しい友人やテレビ局関係者には早くから彼女を紹介していたようだ(※6)。
たかじんは、粗野な言動で、物議を醸したり、酒の上での騒動を起こすなど結構荒っぽいところあるが、根はやさしく面倒見の良いタイプで、女性には優しく好かれたようだ。
歌に関しては、歌詞へのこだわりが強いたかじんは、作家泣かせとして業界では有名だった様である。売れない時期、歌詞を添削してもらったという作詞家、秋元康は「生涯を通して彼が歌い、伝えたかったものはぶれていない」と言っている。
彼は大阪色を前面に出したバラードシンガーとして関西では知らぬ人はいないだろうし、異常な人気があるが、東京への対抗意識が強く東京の番組には出ないので余り良く知らない人も多いかもしれない。
普段テレビなどで話している彼の声はだみ声だが、歌を歌っている時の声は素晴らしくきれい。ほれぼれしますよ。是非この機会に歌を聞いてほしい。

ところで、このブログも長く続けているので、最近は、過去に一度書いたことを再度書いてしまったりすることも時々あるのだが、今日の「ありがとう(39デイ)」については、2006年の今日、「ありがとうの日」として書いたことは知っている。
ここ参照→今日のことあれこれと・・・ありがとうの日
だから、今日、この記念日について書くつもりはなかったのだが、たかじんのこの話を聞いて、又、今日、「3.9デイ」(ありがとうを届ける日)の紹介をしたくなった次第である。

”ありがとう”って伝えたくてあなたを見つめるけど
繋がれた右手は誰よりも優しく ほらこの声を受け止めている ♪

2010(平成22)年NHK「連続テレビ小説」で放送された「ゲゲゲの女房」の主題歌は、水野良樹山下穂尊、それにボーカルの吉岡聖恵の3人組音楽グループ 「いきものがかり」の「ありがとう」であった。
この主題歌の決定についてNHK制作統括のスタッフは「愛する人とともにゆっくりと一歩ずつ明日へと歩いていく女性を描くこのドラマには、いきものがかりの音楽の優しさと力強さがなによりふさわしい」と言い、又、いきものがかりのメンバーは次のようにコメントしていた(※7参照)。
「お互いを“思い合うこと”のちょっとずつの積み重ねが、人生をともにするという、若い僕らからすると途方もない、とても大きなことにつながるのかなと、そう思ってこの歌詞を書きました」(作詞作曲したリーダーの水野良樹)
「ともに歩んでくれる大切な人へ“ありがとう”を贈れる曲ができました。『誰かを思うってすてきなことなんだ……』と感じられるような、穏やかで優しい曲になったと思います」(吉岡聖恵)・・と。
このドラマは、漫画『ゲゲゲの鬼太郎』の作者・水木しげるの妻・武良布枝の書いた同名の自伝を原案にしたもので、貧しい生活の中で明るくたくましく生きていく夫婦の物語であった。松下奈緒向井理が夫婦役を好演し大ヒットしたが、『ありがとう』の曲はドラマ主題歌として書き下ろされた楽曲であるだけに、「愛する人とともにゆっくりと一歩ずつ明日へと歩いていく女性を描いたこのドラマにふさわしい良い曲だった。歌詞や曲は以下を見るとよい。

J-Lyric.net:いきものがかり -ありがとう - 歌詞ト

「ありがとう」いきものがかり - YouTube

人から助けてもらった時、褒めてもらった時、プレゼントをもらった時など、みなさんは感謝の気持ち「ありがとう」の一言をちゃんと相手に伝えられていますか?・・・私などもそうだが、日本人、特に男性は、心では感謝の気持ちを持っていてもなかなか言葉に出して言えない人が多いようだ。誰もが心で思っている気持ちを素直に口に出して「ありがとう」と言えたら、随分と周りの雰囲気も明るくなり和むことだろう。
「ありがとう」に関するの言葉の意味などは以前に書いたので、今回は省略する。
ここを見てください。
時間があれば、以下参考の※8~※10なども参照されると良い。
最後に一言、「たかじんさん良い歌たくさん残してくれてありがとう!」
冒頭掲載の画像は、マイコレクションより、たかじんの1990年Spring Concertのチラシである。
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:NPO法人のHAPPY&THANKS
http://www.happyandthanks.org/
※3:J-Lyric.net:やしきたかじん 『順子』 歌詞
http://j-lyric.net/artist/a0017cf/l000758.html
※4:J-Lyric.net:やしきたかじん 『愛することを学ぶのに』 歌詞
http://j-lyric.net/artist/a0017cf/l0062ee.html
※5:やしきたかじん 愛することを学ぶのに - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=h8VOuyMLYa0
※6:たかじん 32歳差再々婚! 長期療養中「男のけじめ」 スポーツニッポン
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2013/12/06/kiji/K20131206007145370.html
※7:いきものがかり、NHK朝ドラ『ゲゲゲの女房』主題歌に抜擢
http://musicshelf.jp/blog/staff/2010/02/nhk-1.html
※8:3月9日は「ありがとうの日」 相手に響くありがとうの伝え方
http://hatenanews.com/articles/201103/2881
※9:カウンセリングサービス心理学講座「愛することを学ぶために(1)
http://www.counselingservice.jp/lecture/lec355-1.html
※10:世界の言葉でありがとう
http://suemari.com/hello/thank.html
たかじんさん:お別れ会にファン3700人、招待500人ー毎日新聞2014年3月4日(火)
http://mainichi.jp/select/news/20140304k0000m040130000c.html