今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

富士山の日(new)

2014-02-23 | 記念日
日本記念日協会(※1)登録の今日(2月23日)の記念日に「富士山の日」がある。
登録をしているのは、オンラインを通じて、全国一斉に富士山の見え具合をネット上で報告し合うなど、富士山をテーマとした活動を活発に行っているパソコン通信上の「山の展望と地図のフォーラム」(※2)で、1996(平成8)年1月1日に制定したものらしい。日付は2と23で「富士山(ふじさん)」と読む語呂合わせと、この時期は富士山がよく望めることから。・・・。とか。
実は、2005(平成17)年の今日2月23日に「富士山の日」という記念日があるということだけはこのブログで紹介していたが、それ以外特に何も書いていなかったので、今回改めて、書きなおしてみたものである。
1996(平成8)年「富士山の日」が登録されて、その後、2001(平成13)年12月17日に、日本のシンボル「富士山」の恵みを受けている観光立町である山梨県富士河口湖町(当時は河口湖町)が「富士山の恩恵に対する感謝を表すとともに、富士山の環境保全(※3のここ参照)並びに観光資源としての重要性を認識する機会として」、この日(2月23日)を富士山の日に制定し、2003(平成15)年11月15日からは条例として施行(※4)。その後、静岡県が、2009(平成21)年に「富士山の世界文化遺産登録に向け県民運動を盛り上げるため」に、同趣旨でこの日を富士山の日として県条例で制定(※5)したことを受けて、山梨県も同趣旨で「山梨県富士山の日条例」(梨県条例第55号)に、設定したようだ(※6)。

富士山(ふじさん、英語表記:Mount Fuji)は、山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)と静岡県(富士宮市裾野市富士市御殿場市、駿東郡小山町)に跨る活火山であり、標高3,776 m、日本最高峰(剣ヶ峰の独立峰である。
懸垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され、その山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。
古来霊峰とされ、特に山頂部は浅間大神(浅間神)が鎮座するとされたため、神聖視された。
噴火を沈静化するため立律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰(富士浅間信仰)が確立された。また、富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場としても認識されるようになり、登拝が行われるようになった。これら富士信仰は時代により多様化し、村山修験富士講といった一派を形成するに至る。
現在、富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏季には富士登山が盛んである。
日本三名山(三霊山)、日本百名山日本の地質百選に選定されている。また、1936(昭和11)年には富士箱根伊豆国立公園(※3のここ参照)に指定され、その後、1952(昭和27)年に特別名勝に、2011(平成23)年には史跡に登録されている。
現在日本最高峰の富士山。その優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られている。古来富士信仰が育まれた霊峰であるとともに、日本の代表的な画家葛飾北斎(1760年1849年)の『富嶽三十六景』など(※7参照)に代表される芸術上の主要な題材として、日本国内のみならず国際的にも大きな影響を及ぼした文化的景観を形成していることから、昨・2013(平成25)年6月22日には、関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名でユネスコ世界文化遺産に登録された(※8:「世界遺産富士山」参照)。尚同※8:「世界遺産富士山」にリンクの「富士山ライブカメラ」では、富士吉田市、山中湖村、富士河口湖町(4ヵ所)、富士川町に設置したライブカメラ(Webカメラ)からの富士山の映像を見ることが出来る。

富士山ライブカメラ

『富嶽三十六景』は、稀代の天才絵師・葛飾北斎の代表作であり、巨大な波と舟の中に富士を描いた「神奈川沖浪裏」、赤富士を描いた「凱風快晴」などが代表的な作品として知られる。
 
画像クリックで拡大します。

上掲の画像向かって左:「神奈川沖浪裏」、右:「凱風快晴」。画はWikipediaより。尚『富嶽三十六景』の画すべてを、以下参考にリンクの※7:「山梨県立博物館:かいじあむ」で見ることが出来る。

「富嶽」(ふがく)とは富士山のことであり、富嶽三十六景』は各地から望む富士山の景観を描いている。このシリーズは天保初年ごろより、西村永寿堂から出版された。
初め、題名の通り36図出版されたが、非常に好評であったため、後から10図が追加され、最終的に46図のシリーズ(連作)となった(当初の36図を「表富士」、追加の10図は「裏富士」と呼ばれている)。
発表当時の北斎は72歳と、晩年期に入ったときの作品である。全図に富士山が描かれているが、「凱風快晴」や「山下白雨」(画像)のように、富士山を画面いっぱいに描いた作品から、「神奈川沖浪裏」や「甲州伊沢暁」 (画像)のように遠景に配したものまであり、四季や地域ごとに多彩な富士山のみならず、画の多くは、各地での人々の営みを生き生きと描写している。
当時、人々の間には、富士山に対する篤い信仰があった。富士山に集団で参拝する「富士講」が盛んに行われ、富士山に見立てた築山富士塚」が江戸の各地に作られている。こうした社会的風潮の中で『富嶽三十六景』は生まれ、爆発的なヒットをとばした。いつの時代も日本人の心の中にある富士山の姿。『富嶽三十六景』は、単なる風景画の域を超え、日本人の心の風景を描き出している。
中でも、巨大な波が人々を乗せた小舟を翻弄(ほんろう)し、大きく盛り上がって崩れんとする波の下に、遠く小さく富士山の望まれる「神奈川沖浪裏」の絵は、画家ゴッホによって賞賛され、さらにドビュッシーの売り出した交響詩「海」スコアの表紙に使用されるなど、世界の芸術家にも大きな影響を与えたことでよく知られている。
浮世絵の風景画は当時「名所絵」と呼ばれており、このシリーズの商業的成功により、名所絵が役者絵美人画と並ぶジャンルとして確立したと言える。
名所絵とは、日本各地の名所とされる場所を描いた絵のことであり、街道の風景を描いた名所絵としては、ほかに歌川広重(1797年 - 1858年)の保永堂版『東海道五十三次続絵』(55枚 。53の宿場と江戸と京都)があげられる。
この作品は広重の出世作であり、広重が1832(天保3)年、東海道を初めて旅した後に作製したといわれているが、この絵の中でも、江戸から、16番目の宿場「由比宿」までに富士山が描かれている。
江戸から2番目の宿場「川崎宿:六郷渡船」()は、品川宿を出て六郷川を渡ると川崎に入る。その左後方に富士山が描かれている。江戸中期から弘法大師信仰が盛んになると、川崎にある真言宗の寺「川崎大師」は流行佛(はやりぼとけ)として、江戸をはじめ近郊から参詣者が訪れた。
7番目の宿場「平塚宿:縄手道 」()では、中央のまん丸とした山「高麗山」(こまやま)の後ろに小さく富士が描かれている。高麗山へ続く縄手道すなわちあぜ道は「く」の字に大きく曲がって描かれ、そのことによって画面に奥行きをもたせようとしている。
10番目の宿場「箱根宿:湖水図」()。小田原を過ぎると箱根八里の天下の嶮へ。芦ノ湖畔の箱根町まで海道一の難所であり、旅人は馬の背や駕篭で、また草鞋の足も重く登っていく。そして芦ノ湖畔へ達する。画の中央には駒ヶ岳がそそり立つ。向かって左一望にひらける芦ノ湖、その遠山の上に富士の白雪が聳え立っている。
13番目の宿場「原宿:朝の富士」()。
原宿は北側に浮島沼が広がって おり、南側は駿河湾に挟まれた細長い州にあった。絵は宿場でなく浮島ヶ原のあたりが描かれているようだ。この絵では富士山の偉容が中心である。朝日に白雪は紅に染まり、遠い西の空は藍色に晴れている。沼津を出るとが右手に外れ、富士山が大きく中空にそびえて目近く見え、その絶景が海道をいく人々をなぐさめてくれる。
14番目の宿場「吉原宿:左富士」。原から吉原にかけ、富士の姿が最もよく眺められる。吉原宿から駿河湾田子の浦は程近い。平坦な街道には松並木がつづき、道は曲がりくねって今まで右手に見えていた富士山が左手に見えるところから、「左り富士」と呼ばれる景勝地となった。曲折する松並木の街道を描き、富士の姿を左手に見せている。
吉原宿、蒲原宿の次は、16番目の宿場「由井宿:薩多嶺」



上掲の画像は、広重の東海道五十三次「由比:薩多嶺」の画である(画像はWikipediaより)。
蒲原宿を過ぎると山は海に近くせまる。この海が清見潟である。古くは海の干潮の時に海岸ずたいに通った危険なところであったが、1655(明暦元)年に朝鮮から使節がきた時、山を切り開いて街道を通した。これが薩多峠であり、東海一の難所であった。
しかし、『東海道名所図会 巻之四』「駿河 興津」には、「田子の浦」の記述は特にないが、「由井まで二里十二町。この道は山水の風景真妙にして 東海道第一の勝地なり。」とあり、その前の「江尻」には、「田子浦」と題する漢詩が掲載されていることから、広重は、まさに田子の浦の海岸線から、(三保もしくは清見の)松原、船の帆、愛鷹山そして富士へと続く眺望を絵にしているのだろうという(※9:浮世絵に聞く!の「興津」 歌川広重 遠州屋又兵衛参照)。
広々と開けた駿河湾、沼津から続く曲汀の眼を見晴らす素晴らしい景色。その左手の峠道の断崖には、こわごわと絶景を眺める旅人が描かれている。

富士山は千年の昔から、万葉集などでも様々な形で歌われてきたが、ここの眺めは、『小倉百人一首』に掲載されている山部赤人の歌にもある。


上掲の画像は、山部赤人(歌川国芳画)

田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ

この赤人の歌は、『新古今和歌集』巻第六冬歌に「題しらず」として収められているのが、その出所である。『新古今集』は、『万葉集』に載っている、長歌と反歌から成る一組の富士山の歌のうち、反歌だけを切り離し、雪が詠まれているということで、冬の歌という扱いで、巻六に入れたもののようだ。
『万葉集』巻第三「雑歌」には以下のように詠われている。

山部宿禰赤人、不尽(ふじ)の山を望(み)る歌一首 并せて短歌
あめつち)の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴(たふと)き 駿河なる 富士の高嶺(たかね)を 天(あま)の原 振り放(さ)け見れば 渡る日の 影も隠ろひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行(ゆ)きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎゆかむ 富士の高嶺(たかね)は (3-317)
[反歌]
田子(たこ)の浦ゆ打ち出(いで)て見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける(3-318)

【通釈】
[長歌]天と地が別れて出来た時からずっと、神々しく、高く壮大な、駿河の富士の高嶺――その高嶺を、天空はるか振り仰いでみれば、空を渡る太陽もその背後に隠れる程で、夜空に輝く月の光も見えない。雲もその前を通り過ぎることを憚る程で、季節にかかわらず雪が降り積もっている。いつの代までも語り継ぎ、言い継いでゆこう。霊妙な富士の高嶺のことは。
[反歌]田子の浦を通って、視界の開けた場所に出ると、真っ白に、富士の高嶺に雪が降り積もっていた。(歌の解説詳しくは※10:「千人万首」山部赤人 参照)
◇「富士の高嶺」=富士山について、万葉集では「不尽(不盡)」の表記が最も多く、「布士」「布時」「布仕」「不自」などの万葉仮名表記も見える。「富士」の表記が一般的になるのは中世以降と言われているようだ。

この歌では、「時じくそ雪は降りける」というのは、時の区別なく、つまり「季節にかかわらず、雪は降っている」ということだから、その反歌を冬の歌とすることは、作者の意図とは違うことになる。◇「ま白にそ富士の高嶺に雪は降りける 」という下句も『新古今集』での形とはひどく異なる。万葉集の「白妙の」は「富士」に掛かる枕詞であるが、「ま白にそ」は文字通り、真白にの意で、雪が降り積もっている形容を具体的、視覚的に表現していることになる。真白に雪を戴く富士山の姿を捉えているのは、やはり『万葉集』のこの反歌であり、その意味では、この歌を参考に書いたのが、広重の保永堂版『東海道五十三次続絵』の「由井宿」(薩多嶺)ではないだろうか。
ただ、◇田子の浦 は、『続日本紀』に「廬原郡多胡浦」とあるのと同一地と思われ、現在の庵原(いはら)郡蒲原町あたりに比定されている(尚、蒲原町は2006年に、静岡市に編入合併し、清水区の一部となっている)。したがって、赤人の歌の場面は、一般的にいわれている富士市南部の田子の浦とは別だとする学説があるようだ。◇「うち出てみれば」の 「うちいで」は広いところへ出る意。奈良時代は古代・中世でも、一番、海上交通が発達していたことを失念してはいけないだろう。

同じく万葉の歌人高橋虫麻呂 并せて短歌(反歌)2首がある。(長歌原文をここに書くのは省略するが詳しくは※10:「千人万首」高橋虫麻呂参照)。

[長歌]【通釈】
甲斐の国と、駿河の国と、あちらとこちら、二つの国の真ん中に、聳える富士の高嶺は、天高く行き交う雲もその前をおずおずと通り過ぎる程大きく、空を飛ぶ鳥もその頂までは飛び上がれぬ程高く、燃える火を雪で消し、降り積もる雪を火で消し続けている。言いようもなく、形容のしようもなく、霊妙にまします神であるよ。石花海と名付けてあるのも、その山が塞き止めた湖である。富士川と呼んで人が渡るのも、その山の地下水が溢れ出た川である。日本の国の、重鎮としてまします神であるよ。国の宝ともなっている山であるよ。駿河にある富士の高嶺は、いくら見ても見飽きないことよ。

..反歌
富士の嶺(ね)に降り置く雪は六月(みなつき)の十五日(もち)に消(け)ぬればその夜(よ)降りけり(3-320)
【通釈】富士の嶺に積もっている雪は、六月十五日に融けて消えると、その夜すぐまた降ったのだった。
富士の嶺(ね)を高み畏(かしこ)み天雲(あまくも)もい行きはばかり棚引くものを(3-321)
【通釈】 富士の嶺があまり高くて畏れ多いので、天雲さえも通り過ぎるのをためらって、たなびいているのだよ。
【補記】課題の左注に「右一首高橋連虫麻呂之歌中出焉以類載此」とあり、「以類載此」とあるのは、山部赤人の富士を詠んだ歌の後に、同じ山を詠んだ歌として載せたことを示す注記である。長歌の中で、◇「なまよみの 甲斐の国」とある 「なまよみの」は枕詞。掛かり方未詳(「黄泉(よみ)」と関係あるとする説などがあるようだ)。甲斐の国は今の山梨県に相当する。◇長文「うち寄する 駿河の国」 の「うち寄する」は「駿河」の枕詞。南方の常世の国から波が打ち寄せる、の意であろうという。また「する」が同音から「駿河」を起こすことにもなるようだ。
◇「石花海」は 富士五湖の一つ西湖精進湖。一つの湖であったのが、864 (貞観6)年の富士山噴火により二つに別れたという(詳細は富士山の噴火史の中の「貞観大噴火」を参照)。
先にも書いたように、万葉の時代富士はもっぱら、「不尽山」と歌われているが、これは、当時、富士山は盛んに噴火を繰り返しており、「神代の時代から活動を続ける永遠に命の尽きない山」=不尽山だったからだろう。
それが、時代が下り、平安後期になると、「人知れぬ思いをつねに駿河なる 富士の山こそ我が身なりけれ」(古今集=905年, 読人しらず )というように「富士」の表記が出てくる。この頃になると、富士山の活動もおさまっており、その秀麗さに関心が集まるようになったようだ。富士山は今でも活火山であることは忘れてはいけないだろうね。

これらの歌を見ると、高橋連虫麿は富士山を陸上の箱根足柄方面から見たようだが、山部赤人は駿河から相模に向かう途中の海上から富士山を眺めたようだ。それは、ちょうど、葛飾北斎が描く『冨嶽三十六景』の内の36.「東海道江尻田子の浦略圖」()に相当するような風景である。逆に、葛飾北斎は集歌318の歌の真意を知っていて、それで当時の東海道では渡海をしない江尻宿だが、田子の浦の海上からの富士山を描いたのかも知れない。

広重は保永堂版『東海道五十三次続絵』によって、浮世絵界に不動の地位を築き、その後広重がはじめて手がけた富士の連作『不二三十六景』(1852年刊。版元:佐野屋嘉兵衛)、やはり富士の連作『冨士三十六景』(1858年刊。版元:蔦谷吉)で、『名所江戸百景』(1856年-1858年)と同様に風景を竪に切り取り、近景、中景、遠景を重ねた構図のものをはじめとした風景版画の数々を世に送り出すようになる。
広重が日本全国の名所を描いた浮世絵木版画の連作『六十余州名所図会』(1854年-1856年)の、12駿河( 三保のまつ原)では、羽衣伝説の舞台でもあり、日本三大松原のひとつとされ、国の名勝に指定されており、ユネスコの世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産にも登録された「三保松原」を通しての富士山が描かれている。
ただ、広重の保永堂版『東海道五十三次続絵』を書くにあたっては、伝手(つて)を頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかなどという説もあるようだ(※9や※11参照)が・・・、その真偽はよくわからない。
ただ広重の前には、既に多数の東海道五十三次ものがあったので、版元の要請などもあって、現地を観ずに先輩たちの東海道物を見て、その集大成をした…と言ったことはあるのかもしれないね・・・・。北斎の絵の中に、広重がヒントにしたと思われるようなものもある感じがする。
因みに、広重より先に東海道五十三次を書いた北斎の絵があるが、北斎の五十三次は人物が主体で風景はあまり描いていない。一方、広重の五十三次は風景が中心である。以下参考の※12:「四日市の館:広重&北斎の東海道五十三次」を見られるとよい。絵の美味さに関しては、広重の大先輩北斎がずっと上だね。

ところで、小説家太宰治(1909年6月19日 - 1948年6月13日)の短編小説に『富嶽百景』がある。1933(昭和8)年に作家デビューするが、1935(昭和10)年には東京帝国大落第・都新聞入社試験の失敗から鎌倉で自殺未遂を起こし、パビナール(アヘンアルカロイドを成分とする鎮痛剤で、薬物依存の危険性があるという※13参照)中毒にも陥り、東京の武蔵野病院に入院していた。1937(昭和12)年には愛人の女性と再び自殺未遂を起こしている。
1938(昭和13)年30歳の時、9月から11月かけて太宰は、井伏鱒二の勧めで山梨県南都留郡河口村(富士河口湖町河口)の御坂峠にある富士山が間近に見える土産物屋兼旅館である天下茶屋(※14)に原稿執筆のために逗留し、この間に同じ茶店に先に間借りしていた井伏鱒二の紹介で知り合った一女性と婚約した。
彼は翌1939(昭和14)年発表の「富嶽百景」で、この天下茶屋滞在時に日々眺めていた富士山へアンビヴァレントな気持ちを、例の曲折に富む文章で語りつくしている。
また折りしも日中戦争開始の翌年で、ナショナリズムの渦が国民を巻き込み、富士山も又、その巻き添えをくっていた時代なのであろう。そのような時代を背景にして、冒頭からいきなり〝聖化〟され〝俗化〟された富士山像に以下のようにいちゃもんをつける。
「富士の頂角、広重ひろしげの富士は八十五度、文晁(ぶんてう。江戸時代後期の画家)の富士も八十四度くらゐ、けれども、陸軍の実測図によつて東西及南北に断面図を作つてみると、東西縦断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。広重、文晁に限らず、たいていの絵の富士は、鋭角である。いただきが、細く、高く、華奢である。北斎にいたつては、その頂角、ほとんど三十度くらゐ、エッフェル鉄塔のやうな富士をさへ描いてゐる。けれども、実際の富士は、鈍角も鈍角、のろくさと拡がり、東西、百二十四度、南北は百十七度、決して、秀抜の、すらと高い山ではない。
たとへば私が、印度インドかどこかの国から、突然、鷲にさらはれ、すとんと日本の沼津あたりの海岸に落されて、ふと、この山を見つけても、そんなに驚嘆しないだらう。ニツポンのフジヤマを、あらかじめ憧れてゐるからこそ、ワンダフルなのであつて、さうでなくて、そのやうな俗な宣伝を、一さい知らず、素朴な、純粋の、うつろな心に、果して、どれだけ訴へ得るか、そのことになると、多少、心細い山である。低い。裾のひろがつてゐる割に、低い。あれくらゐの裾を持つてゐる山ならば、少くとも、もう一・五倍、高くなければいけない。・・・・と(※15:「太宰治 富嶽百景 - 青空文庫」より)。

「頂角」は、三角形の底辺に対する角。二等辺三角形では、等辺でない辺に対する角のこと。太宰は、「陸軍の実測図によつて東西及南北に断面図を作つてみると、東西縦断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。」と書いているが、以下参考の※16:「富士が聳えて見える方角の調査結果」では、どの地点から見る富士が最も聳えて見えるか、あらゆる角度から写真を撮り、分度器で計測したところ。大体113度~130度の範囲にあるという。確かに、太宰が云うように、「たいていの絵の富士は、鋭角である」。太宰に言わせると「北斎にいたつては、その頂角、ほとんど三十度くらゐ」と云うから、恐らく、『富嶽三十六景』の「凱風快晴」の富士を言っているのだろう。もし、同じ方角から撮った写真の富士山を、パソコンなどで、北斎の「凱風快晴」の富士の鋭角に合わせて作り直してみたら随分とおかしなものになるだろう。
浮世絵は、やはり浮世のことなので、富士山の「頂角」を過小に描き、スラリと、美しく描いたということだろう。それが写真との違いだろう。
御坂峠の天下茶屋は富士の名所として知られており、茶屋からも河口湖に抱かれた見事な富士を見ることができる。しかし太宰は、いかにも典型的な富士の姿を見て、「風呂屋のペンキ画だ」と馬鹿にする。なかなか執筆がはかどらない中、太宰は茶屋の人々や、あるいは峠の下の町から太宰を訪ねてきた若者などと交流して行くうちに、彼は、その時々に、新たな富士の表情を発見し、やがて彼は、いつも変わらずそこに佇む素朴な姿の富士に頼もしさを感じるようになる。
そういえば、銭湯と聞くと富士山の壁絵を思い浮かべる人は少なくはないと思われるが、Wikipediaによれば、その歴史はそんなに古いものではなく、1912(大正元)年に東京神田猿楽町にあった「キカイ湯」の主人が、画家の川越広四郎に壁画を依頼したのが始まりで、これが評判となり、これに倣う銭湯が続出し、銭湯といえばペンキ絵という観念を生じるに至ったという。なお、正確には東日本、特に関東地方の銭湯に特有のものであり、西日本の銭湯では浴槽が浴室の中央に設計されることが多いこともあり、壁面にペンキ絵はほとんど無いという。

富士山は万葉の昔から 「不二山」 「不尽山」 と書かれ、日本人の憧れと崇高を集める「信仰の山」 であった。秀麗な山容の富士山は文化的・歴史的・宗教的にみても,、日本人にとっては欠く ことのできない, まさに, 「心のふるさと」 「誇りの山」 であった。しかし、 東京オリ ンピックが開催された1964(昭和39) 年に、山梨県側の富士山5合目まで車で容易に行く ことができる 「富士スパルライ ン」(富士山有料道路)が建設されて以降、現在の富士山は, 「観光の山」 に変容している。
又、建設にあたり道路の造りやすさが優先されたことから、貴重な原生林が伐採され、道路周辺の山肌に大きな傷も残り、辺の木々 の立枯れが進み, 土砂災害の頻繁な発生や、生態系への悪影響な ど、富士山の環境に与えるダメージも甚大なものとなっているという。その後, 環境悪化の再生に30年以上の歳月 と多くの税金が投入され、富士山を愛するボランティア達の努力により、5合目以上のゴミ・し尿問題などはほとんどなくなり、何とか、2013(平成25)年6月22日、ユネスコ世界遺産委員会が開かれ、富士山の世界遺産登録が決定した。
しかし悲しいことに、山麓部へのごみの不法投棄等は今も続いており、夏のピーク時の登山者受け入れ態勢も決して十分とは言えない状況であり、また、ごみ問題のほかにも、登山者の安全対策、景観整備、開発の抑止など課題はまだまだ多く残っていると聞く。
ユネスコから世界遺産登録を受けた富士山。本来あるべきは自然遺産としての登録であったが、このような環境問題等もあり、文化遺産として登録された。
その文化を育んできたのが美しい自然であることは間違いないが、富士山を「日本の象徴」、「日本人の心の原風景」として、何時まで守り続けられるであろうか。世界遺産にとうろくされたところには、どっと観光客が押し寄せている。維持管理費がかかるとの理由で、多額の入山料や、入場料を徴収しようとしているところが増えている。今まで、自然や、文化をを愛し、ルールを守り、環境を守ってきた人達にとっては本当にいい迷惑だろう。「世界遺産登録の取り消し」・・・なんて、ことにだけはなってほしくないよあ~。
それと、1707(宝永四)年10 月 28 日、宝永東海地震が発生した時に起きた宝永大噴火以降現在まで、富士山の噴火(※17参照)は起こっていないが、近い将来、起こる可能性が高いという。この様な大自然の災害に対して、人の力で予防できることは限られているだろうから、これは、怖いな~。(冒頭に掲載の画像は、宝永山と宝永第一火口.。Wikipediaより。)

※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:山の展望と地図のフォーラム - FYAMAP
http://fyamap.jizoh.jp/
※3:国立公園-環境省
https://www.env.go.jp/park/index.html
※4:富士山の日(毎年2月23日) [富士河口湖町] - 富士河口湖町役場
http://www.town.fujikawaguchiko.lg.jp/info/info.php?if_id=442
※5:02月23日静岡県/富士山の日
http://www.pref.shizuoka.jp/bunka/bk-223/fujisannohi/top.html
※6:山梨県/富士山の日
https://www.pref.yamanashi.jp/kankou-sgn/fujisannohi.html
※7:山梨県立博物館かいじあむ:富士山
http://www.museum.pref.yamanashi.jp/2nd_fujisan.html
※8:世界遺産富士山
http://www.fujisan-3776.jp/index.html
※9:浮世絵に聞く!
http://ukiyoe.cocolog-nifty.com/
※10:千人万首 目次
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin_f.html
※11:広重東海道五十三次の 成立
http://koktok.web.fc2.com/hom_page/53Travel/yobi/53hiro2.htm
※12:四日市の館:広重&北斎の東海道五十三次
http://asake.sakura.ne.jp/02asake/ukiyoe/8.html
※13:【雑学】太宰治、パビナール中毒、精神病院: ぽん太のみちくさ精神科
http://ponta.moe-nifty.com/blog/2007/12/post_4835.html
※14:御坂峠|天下茶屋
http://www.tenkachaya.jp/
※15:太宰治 富嶽百景 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/270_14914.html
※16:富士が聳えて見える方角の調査結果
http://mohsho.image.coocan.jp/fugakuhyakukei3.html
※17:富士火山噴火:災害の教訓- 内閣府防災担当(Adobe PDF)
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/14/pdf/shiryou4.pdf#search='%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93%E4%BA%94%E5%8D%81%E4%B8%89%E6%AC%A1+%E9%8E%8C%E5%8E%9F+%E5%AF%8C%E5%A3%AB'
東海道五拾三次-国立国会図書館デジタル化資料
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1302479?tocOpened=1
浮世絵のアダチ版画
https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/category/8
富士登山オフィシャルサイト
http://www.fujisan-climb.jp/
富士山 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B1%B1


レーガン米大統領が「レーガノミックス」を発表した日

2014-02-18 | 歴史
レーガノミクス(英: Reaganomics)とは、アメリカ大統領ロナルド・レーガン共和党任期:1981–1989)がとった一連の自由主義経済政策の中で、一期目の1981(昭和56)年の今日2月18日に発表した“「強いアメリカ」再生の為の経済再建計画”のことであり、「レーガノミクス(Reaganomics)」は、「レーガン(Reagan)」の名と、経済を意味する英語「エコノミクス(economics)」を組み合わせた造語である。
この「レーガノミックス」の名を聞くと、2012(平成24)年12月に誕生した第2次安倍晋三内閣の経済政策「アベノミクス」を連想する人も多いだろう。
この「アベノミクス」という言葉も、安倍とエコノミックスを合わせた造語であるが、この造語、自民党の安倍総裁が2012(平成24)年の総選挙で「大胆な金融緩和」路線を鮮明にして攻勢に出たことを受けて、同年から朝日新聞(※1参照)が少々皮肉を込めて使用したことをきっかけに多用され始めた言葉であり、その元は米レーガン政権の自由主義経済政策「レーガノミクス」に因むものである。
「アベノミクス」では、「財政出動」「金融緩和」「成長戦略」という「三本の矢」で、長期のデフレ経済を脱却するために、政府と日銀が協定を結びインフレターゲット(物価目標2%)を設定し、名目経済成長率3%を達成しようというものである。
しかし、大胆な金融緩和は悪政インフレを招くという慎重論も根強いし、いずれ金利の急騰などにも繋がると懸念されている。
さて、デフレ脱却を目指し大胆な金融緩和を進める「アベノミクス」は良薬といえるか、副作用の強い劇薬か?…。今のところ、円安や株高などによるメリットが経済面に良い面として出てはいるように見えるのだが、1年3か月を経過した今、株価、円安とも頭打ち状態になっており、消費税アップ以後のことが心配される状況になっているところである。
「アベノミクス」と「レーガノミクス」。同じ「エコノミックス」であっても、同政策を導入するに至った両国の経済的な背景は違うはず。以下参考の※2:「バブル/デフレ期の日本経済と経済政策」(歴史編)を参考に、先ずレーガンが大統領に就任するまでのアメリカの時代背景から見てみよう。
第2次世界大戦(1939年~1945年)後の米国は、政治・経済・軍事・の諸側面で圧倒的な力を基に超大国としての地位を維持し続けてきたが、1960年代後半からその経済力にかげりが見え始めた。
1960年代の米国経済は、その圧倒的強さを背景に世界の経済成長を牽引していた。当時、米国のGDP(Gross Domestic Product。国民総生産)が世界に占めるシェアは4割を超え、農業部門・工業部門ともに生産量・生産性は世界の頂点にあった。
ドルを基軸通貨とする国際金融システム(国際金融市場参照)の頂点に立つ米国は、世界にドルを散布し、世界経済の成長を牽引した。一方、米国では通貨価値(※3、※4参照)の安定と旺盛な設備投資による生産力の拡大を通じて、物価の安定と順調な経済成長が実現された。
しかし、1960年代後半から、1970年代にかけて世界経済ではインフレ傾向が強まった。米国では、生産性の向上を上回る賃金上昇が発生した結果、労働コスト(※5参照)の上昇が見られ、国際競争力(※6参照)が低下した。一方、日本や西独等の競争力は強化され、対米輸出も増加した。
この結果、1971(昭和46)年の米国の貿易収支は戦後初めての赤字を記録した。これ以降、米国の貿易赤字は改善の気配を見せず、そのままずるずると悪化の方向を辿るようになった。
1960年代以降の米国の活発な海外投資及び援助によって世界的な過剰ドル流動性の蓄積が進行していたころ、1971(昭和46)年の巨額の資本流失および大規模な通貨投機の発生により、固定相場制の維持が困難になり、1971(昭和46)年8月にニクソン大統領の「新経済政策」の発表によって、米国はドルの切り下げを行い(ニクソン・ショック参照)、1973(昭和48)年には世界の主要国は変動相場制に移行した。
二度に渉る石油危機によって、主要国はスタグフレーションに陥ることになったが、日独経済の早期回復やNICs(アジアを中心としたNewly Industrializing Countries=新興工業国)の台頭等によって、米国の地位はもはや絶対的なものではなくなった(※2のここ表3-1[米国の失業率の推移S図表]、3-2[米国の物化の動向]、3-3[米国の国際収支Bと対日収支]参照)。
米国の民間部門の労働生産性は第1次石油危機までは年平均2.9%の上昇率を保ってきたが、1973(昭和48)年から1978(昭和53)年の間はその伸びが1/3に低下し、さらに1979(昭和54)年以降は伸びがマイナスになっている。
これは、第1に農業部門から非農業部門への労働移動が完了したこと、エネルギー集約的生産方式から資本・労働集約的生産方式へと生産方式の転換がすすんだこと(ヘクシャー=オリーンの定理参照)、環境・安全規制の強化への対応に資源が投入されたこと、未熟練労働力の比重が高まったこと等の原因が指摘されているという。
まず第1に、生産性の伸びの低下をもたらした要因として、設備投資の伸び悩みと資本装備率の低下がある。石油危機後の不況の中で稼働率が低迷し、設備投資に抑制的効果をもたらしたといわれるが、インフレによる企業課税の重課が設備投資にマイナスの影響をもたらしたことも大きな原因であると指摘されている。この結果、製造業を中心として国際競争力が低下した。
例えば、米国を代表する産業である自動車の輸出は、1962(昭和37)年には全世界輸出に対して22,6%を占めていたが、1979(昭和54)年には13.9%まで低下しており、逆に国内市場における輸入車のシェアは1966(昭和41)年の7.7%から1979(昭和54)年には21.5%まで高まっているという。また、米国の粗鋼生産の世界シェアは1962(昭和37 )年には24.5%であったが、1979(昭和54)年には16.5%へと低下する一方で輸入鋼材の国内シェアは同時期に5.6%から15.2%へと高まっている。
石油についても1970(昭和45)年の海外依存度は23.4%であったものが1977(昭和52)年には50.8%まで上昇し、アラスカ原油の生産開始後の1979(昭和54)年でも47.4%と高止まっていた。

ここでちょっと一休みして、米国の戦後の経済学とくに、マクロ経済学の移り変わりを見てみよう。
1960年代後半にいたるまでの米国のマクロ経済学と政策は、 ケイ ンズ理論に基礎をおき、財政政策を重視し, 金融政策を補助的に併用する、積極的「総需要管理政策」として展開されていた。
しかし1960年代後半以降、 そう したケイ ンジアンの積極的総需要管理主義は急速に崩壊し, それにかわって, 貨幣供給量(マネーサプライ)を重視する、 いわゆる 「マネタ リスト」 たちが米国のマク ロ経済学の主流を占めるようになった。
こう した流れの背景には,先にも上げた、1960年代後半から急激な上昇を始めたイ ンフ レの問題、 さ らにはインフレと失業の同時進行、つまり 「スタグフレーショ ン(stagflation)」 といった現実的な問題が大きくかかわっていた。
さ らに1973年以降、OPEC(石油輸出国機構)のカルテルによる原油価格の値上げなどの「サプライ ・ ショ ック(Supply shock)」、さ らには労働生産性上昇率の鈍化や国際競争カの低下などの供給側の問題が顕著化するにおよび、米国のマク ロ経済学と政策は、従来の需要側重視の立場の経済学「デマンド(需要)サイ ド経済学」から供給側重視の経済学, すなわち 「サプライ(供給)サイド経済学」 へと急速にその流れを変えてゆき、1 970年代後半以降の, 米国のマク ロ経済学と政策のなかで主流を占めるようになっていた。

こうした流れと現実を目前にして、伝統的にケイ ンジアンの積極的総需要管理主義を踏襲してきた民主党カーター政権でも、1970年代後半にはその政策の一環として米国経済の供給側の問題に眼を向けた供給管理政策を政策を打ち出していた。
すなわち、政策発足時には失業率引き下げを経済政策の最優先課題としつつも、一方でインフレ抑制のために連邦政府支出の対GNP比を21%まで引き下げること、1981年度には連邦財政の均衡化を実現すること、さらに政府規制改革、生産能力・生産性の向上等を政策目標として掲げていた(詳しくは、※7の昭和55年=1980年の第4章 供給管理政策の登場とその課題も参照)。
だが、この政策に関して、民主党政権のアプローチ(考え方)は、エネルギー政策面での政府の介入や賃金、物価に対するガイドライン政策等、それなりの政府介入に基礎を置いたものであり、基本的には、1960年代のケネディー政権以来の哲学が継承されていたものであったこと。・・・これが前述した生産性の伸びの低下をもたらした・・・第2にの要因であったともいえる。
これに対して,共和党政権は徹底して政府の介入を排除する「小さな政府」主義をその基本的政策理念としていた。この政策理念は、民主党政権と好対照を成したものであり、これはアメリカ経済のパフォーマンスの悪化は政府介入の増大が民間部門が本来備え持つ自由な活力を阻害したためであるとの基本認識に基づいている。
1980(昭和55)年の大統領選で民主党の現職大統領カーターに勝利した、レーガン大統領就任当時(1981年1月20日)の経済指標をみると、インフレ率12%、失業率7.5%、名目金利20.2%(TB3カ月もの)など、米国経済のパフォーマンスは戦後最悪の状態にあった。また、パリ協定 (ベトナム和平)に基づくベトナムからの撤退、日欧経済の台頭、スタグフレーションなどの中で米国民の誇りに傷がつき、カーター政権下でのイラン大使館人質事件(1979年)で国民の間に一層の焦燥感が高まっていた。
そうした中レーガンは「強いアメリカ」「個人の自主性・努力」「小さな政府」をスローガンとしてかかげて選挙戦に挑み、国民の支持を得て大統領に就任した。
レーガン大統領の一期目は前政権から受け継いだスタグフレーション状態の経済の回復が課題であった。政権はインフレと失業に注目した。レーガンの経済政策は減税による供給面からの経済刺激を主張するサプライサイド経済学に基づいている。またスタグフレーションの物価上昇という弊害を抑えるために「通貨高政策」を前提条件にしていた。
アメリカ経済再生の課題を担って登場したレーガン政権は,発足後間もない1981(昭和56)年2月18日、経済政策の大幅な転換を内容とした「経済再生計画(「レーガノミックス」)」を発表した(※7の昭和56年:年次世界経済報告:第3章・第3節 アメリカの経済政策参照)。そのレーガノミクスの主軸は以下のとおりである。
1. 社会保障支出と軍事支出の拡大により、経済を発展させ、強いアメリカを復活させる。
2.減税により、労働意欲の向上と貯蓄の増加を促し投資を促進する。
3.規制を緩和し投資を促進する。
4.金融政策によりマネーサプライの伸びを抑制して「通貨高」を誘導してインフレ率を低下させる。

この政策群の理想的展開は、市場原理と民間活力を重視し「富裕層の減税による貯蓄の増加と労働意欲の向上、企業減税と規制緩和により投資が促され供給力が向上する。経済成長の回復で歳入が増加し税率低下による歳入低下を補い歳入を増加させると共に、福祉予算を抑制して歳出を削減する。インフレーションは金融政策により抑制されるので歳出への制約は低下する。結果、歳出配分を軍事支出に転換し強いアメリカが復活する。」というものである。しかし、実際の展開は想定通りにはいかなかった。
このレーガン政権の一連の減税政策では所得税の減税も行われたが、それ以上に企業に対して、(1)加速償却の導入、(2)投資税額控除の拡大(設備投資額の10%)など、法人税の減税が主眼となった。企業に対する税制改革は、典型的な「利益誘導型」政策であったため、政治力が強い従来型産業(製造業、石油などの資本集約産業)が税制優遇措置の恩恵を受けたといわれる。
財政支出の削減は文教・福祉部門だけであり、逆に軍事支出は増大させた。それに対して所得税と法人税を減税しているために、減税によって税収増を図れず、米国全体としての支出は減らず、むしろ急激な財政赤字の拡大に直面した。
財政赤字が拡大する一方の米国は、米国債を大量に発行するようになり、これを日本を中心とする海外資本が引き受ける構図となって、世界中にドルがばらまかれたことから、ドル高・円安が引き起こされ(※8:アメリカのUSドル/円の為替レートの推移参照)、時を置かずにドル高による貿易収支の悪化(※8のここ参照)を招いた。
さらに軍事費の拡大の影響も大きく、技術が軍事部門に集中したために米国の産業界に競争力の低下が顕著になり、これも貿易に不利に働いて、貿易赤字を拡大させる原因となった。
しかし、レーガノミクスによって米国経済そのものは急速に浮上した。1970年代を通じたインフレと金利上昇は収まり、「株式の死」(※9参照)と形容された米国株式市場は1982(昭和57)年10月に、足かけ17年間にわたる500-1000ドル(NYダウ平均株価)の大ボックス相場からついに上放(うわばな)れした(※8のダウ平均株価の推移参照)。
米国の景気循環日付では、この時期の「景気の谷」は1982(昭和57)年11月、「景気の山」は1990(平成2)年9月である(※10:平成21年度:年次経済財政報告: コラム1-1表参照)。1980年代を通じた米国の長期景気拡大は1982(昭和57)年末に形作られた。
しかしその反動も大きかった。
高額所得者への減税と軍備の拡大は、いずれは設備投資の拡大につながり、それを通じた米国産業の競争力強化をもたらすものと期待されていたのだが、実際には、米国が陥っていたそれ以前のストック調整と、メキシコ債務危機によって顕在化した、中南米債務問題(ラテンアメリカの債務危機※11参照)に至る国際金融危機に見舞われた1980(昭和55)年~1982(昭和57)年の不況を、単なる浪費で乗り切る手段に過ぎなかった。
そして、減税と軍事費の拡大は巨額の財政赤字を招き、これに巨額の貿易赤字が加わった「双子の赤字」を抱えることになり、 第2次レーガン政権での大規模な政策転換、すなわち1985(昭和60)年の為替調整=「プラザ合意」につながっていき、為替相場は一気にドル安となった。
1980年代のアメリカ経済の名目GDPは1980(昭和55)年の2,862.48億ドルから1988(昭和63)年には5,252.63億ドルへ1.83倍に増大した。
その後、企業の投資資金は、高金利による株安から他の企業の買収合併へ向かい、株式ブームを生み出した。なお、この株式ブームは1987(昭和62)年のブラックマンデーにより終了したが、この株式ブームはFRB(連邦準備制度)の裁量により深刻な恐慌をもたらさなかったが、このことがアメリカ経済のFRB・金融政策依存と資産経済化をもたらすことになった。
レーガンは基本的には“小さな政府”の支持者であったようだが現実には彼の主張は、全くと言っていい程実現しなかった。1980(昭和55)年のアメリカ大統領選挙に立候補したジョージ・H・W・ブッシュはレーガンが政策に盛り込んだ一連の経済政策に対し「ブードゥー(魔術的)経済学」(英:Voodoo Economics)と揶揄していた。当時からサプライサイド派は経済学界においてほとんど支持を得ていない異端であったことによるものである。
レーガンの後を受けたブッシュ大統領は増税に踏み切ることでレーガン時代の後始末を図ったが不況は克服できず、1992(平成4)年には、財政赤字はピークに達するとともに、経常収支は均衡に近づいた。そして、その次のビル・クリントン政権時代には次第に財政収支が均衡に向かい、1998(平成10)年から2001(平成13)年にかけては財政黒字であったものの経常収支の赤字は拡大の一途をたどった。

●上掲の画像は、アメリカ合衆国の財政収支 (黒線)経常収支(赤線)の推移。Wikipediaより。

さて、現在日本で安倍内閣が進めている「アベノミクス」は「レーガノミクス」を真似たような政策に見られるのだが、レーガン時代の米国の政治が、日本のお手本になり得るものだろうか?
先ず社会的な背景が正反対である。当時の米国は、先にも書いたようにインフレーションの間只中にあった。それに対して、日本はデフレであり、インフレ率は2012(平成24)年-0.04%(米国は2,08%)、2013(平成25)年IMFによる推計値 0.05%(米国1,39%)(※8参照)であり、失業率は国によって計算根拠が異なるようなので、※12:「総務省統計局統計データー」を参考にすると、2012度11月:完全失業率4、1%(1913年11月4.0%)となっている。しかし、実質経済成長率を見ると日本は、2012(平成24)年1.96%(米国2.78%)、2013(平成25)年IMFによる推計値1.95%(米国1.56%)((※8参照)となっている。
確かに大きなインフレも問題だが大きなデフレも困る。
経済協力開発機構(OECD)によればデフレは「一般物価水準の継続的下落」と定義されている。IMF(国際通貨基金)や内閣府は2年以上の継続的物価下落をデフレと便宜的に定義してデフレ認定を行なっている。
デフレの弊害は現金の価値が上がりすぎて、モノやサービスや、それに関わる人の価値が下がり過ぎていることにある。個々人では、デフレによって好影響が悪影響を上回る者、あるいはその逆の者が存在する。一方で、社会全体では一般に悪影響が大きいと言われている。
デフレは名目的には低い金利に見えても、お金の借り手にとっての負担はデフレの分だけ重くなる。この場合の借り手には、日本政府も含まれる。デフレの状況は税収が上がらないので財政再建にとっては大きなマイナス要因ではある。
しかし、以下参考の※8:「世界経済のネタ帳」の日本のインフレ率(年平均値)の推移(1980~2013年)>を見ていると、日本のデフレ(マイナスインフレ)は1995(平成7)に1度-0.13%が発生し、その後は、1999(平成11)年の0.33%から現在まで、2009(平成21)年の-1.34%を最高に2003(平成15)年位からは0,02%程度の軽微なもので心配したものではないとする学者もいるようだ。
因みに、日本とアメリカなどでは、少々計算の仕方が違っているようだ。それについては、以下参考の※13:「日本のデフレ率の再計測」参照)。
私には難しいことは判らないが、いずれにしても、デフレでは困るので、「アベノミクス」インフレターゲット(2%)を設定し、経済を成長させようとの考えには賛成だ。
日本では土地バブル(※14参照)が崩壊し、その後の政権が行った「レーガノミクス」もどきの引き締めによって、長いデフレが続いた。このデフレでお金の価値は上がり続け、信用縮小を続け来た。
この信用縮小を解消するために、金融緩和を行い、その金で、震災の復興や、国土強靭化や未来志向のための投資などに振り分けられるのならそれはいいことだ。ただ、安倍政権の弱者に配慮しない、金持ち優遇・企業優遇の進め方の中で、大量に発行されだぶついたお金は、値上がりを想定した投機へと連鎖してゆき、お金(円)、国債の価格を下げ、金利のアップにつながってゆく。これは、庶民のなけなしの預・貯金価値を引き下げ、年金者の生活を圧迫する。
こうして生まれたバブルがはじけると、また大不況になる。その時、これだけ多くの財政赤字を抱えた日本はどうなるのだろう。

リアルタイム財政赤字カウンター 13

何か「レイガノミクス」と同じような結果を引き起こすようになりそうな気がするのだが・・・。年金以外収入のない老人のいらぬ心配であってほしいものだ。
今、経済活性化の為に庶民の預貯金を吐き出させ、株式や投資信託の投資に向けさせようと、かってのマル優制度(少額貯蓄非課税制度)ならぬイギリスでは広く国民の資産形成・貯蓄の手段として定着 しているISA(Individual Savings Account)を参考に日本版のNをつけたNISA(ニーサ。少額投資非課税制度)が導入されたが、日本では、個人の株式や投資信託の売買から生じる所得への課税を、一定の条件の下で非課税にするものであるが貯蓄には使えず、いろいろ利用上の制約も多くあり、なかなか庶民には利用しにくいものとなっている(※15参照)。これも、ある程度豊かな資産ある人のための制度であり、金のない庶民に恩恵のあるものではない。
サラリーマン年金や投信などリアルマネーとしてのものならいいと思うが・・・。
いま世界に流通している基軸通貨ドルには、リーマンショックの前後から、「価値の裏づけのあるドル」と「価値の裏づけのないドル」の二種類が出来ているそうだ。そして、その「価値の裏づけのないドル」はフェイクマネー(偽金)と呼ばれているそうだが、世界で膨らんだ フェイクマネーの源泉である「真水のマネー」の出し手は日本だという。
アメリカのITバブル崩壊以降の世界経済は、それまでの定石通りドル崩壊の長期的なステップを踏んでいたにすぎないのだという。国際金融資本・金貸しが日本に目をつける理由もここにあり、日本が巨大な真水の金融力をどう使うかで世界市場の舵取りは決まるのだというが・・・・。日本の政府は、私たちのなけなしの金を守ってくれるのだろうか。
こんな怖い話、以下参考の※16、※17など読んでみられるとよい。

冒頭の画像は自らの減税プランをテレビで説明するレーガン大統領, 1981年7月。Wikipediaより。
参考:
※1:超金融緩和「新・アベノミクス」は良薬か、劇薬か - 朝日新聞社
http://webronza.asahi.com/business/2012112500001.html
※2:バブル/デフレ期の日本経済と経済政策」(歴史編)1 - 経済社会総合研究所
http://www.esri.go.jp/jp/prj/sbubble/history/history_01/history_01.html
※3:どんな場面で通貨の価値が変わるのか? - FX初心者の外為入門
http://mituwasou.com/fx-begin/price-change-reason.html
※4:通貨の価値は政治力で決まる - Japan Real Time - WSJ
http://realtime.wsj.com/japan/2013/05/10/%E9%80%9A%E8%B2%A8%E3%81%AE%E4%BE%A1%E5%80%A4%E3%81%AF%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%8A%9B%E3%81%A7%E6%B1%BA%E3%81%BE%E3%82%8B/
※5:単位労働コストの推移 : 疑似科学ニュース
http://www.asks.jp/community/nebula3/171862.html
※6:国際競争力ランキングから見た我が国と主要国の強みと弱み(Adobe PDF)
http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_6019129_po_074406.pdf?contentNo=1
※7:内閣府年次リスト(平成10年度以前)
http://www5.cao.go.jp/keizai3/sekaikeizaiwp/index.html
※8:世界経済のネタ帳-世界の国・地域
http://ecodb.net/area/
※9株式の死 :きょうのキーワード :やさしい投資 :マネー :日本経済新聞
http://www.nikkei.com/money/investment/toushiyougo.aspx?g=DGXIMMVEW4005002112009000001
※10:内閣府年次リスト(平成11年度以)
http://www5.cao.go.jp/j-j/wp/index.html
※11:債務危機と通貨危機(Adobe PDF)
http://www.econ.kyoto-u.ac.jp/~iwamoto/lecture2008/sekaikeizai07.pdf#search='%E3%83%A9%E3%83%86%E3%83%B3%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E5%82%B5%E5%8B%99%E5%8D%B1%E6%A9%9F'
※12:総務省統計局統計データー:労働力調査
http://www.stat.go.jp/data/roudou/rireki/gaiyou.htm
※13日本のデフレ率の再計測 - RIETI - 独立行政法人経済産業研究所 RIETI
http://www.rieti.go.jp/jp/publications/rd/082.html
※14:日本の土地バブルとは何か
http://www.clubpac.net/01/001.html
※15:NISAの致命的な欠点について - 高橋 忠寛
http://blogos.com/article/77469/
※16:フェイクマネー崩壊で厳しい欧米投資銀行、業界縮小は不可避
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-32561720080703
※17:世界バブルの構造:フェイクマネーと化した米ドル、最後の貸し手は日本しか残らない。 ...
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=187127
安倍政権の経済政策と2013 年・2014 年の日本経済 - 三菱UFJリサーチ (2013年12月26日)
http://www.murc.jp/thinktank/rc/column/kataoka_column/kataoka131226.pdf#search='%E6%97%A5%E6%9C%AC+2012%E5%B9%B4+2013%E5%B9%B4+%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%AC%E7%8E%87'
物価上昇率2%の日銀シナリオを検証する | トレンド | 東洋経済オンライン(2013年05月23日)
.http://toyokeizai.net/articles/-/14025
Wikipedia - レーガノミックス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%8E%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9


仁丹の日

2014-02-11 | 記念日
日本記念日協会(※1)の2月11日の記念日に「仁丹の日」がある。
制定したのは口中清涼剤「仁丹」の製造販売元として知られる、森下仁丹(株)である。
現在大阪市中央区玉造に本社を置く医薬品製造会社森下仁丹(株)は、創業者の森下博が1893(明治26)年2月11日に、大阪市旧:東区(現・中央区)淡路町にて、薬種商「森下南陽堂」を創業したのが発祥である。
記念日の日付はこの同社の創業日である2月11日と、「仁丹」(※2:森下仁丹HP歴史博物館:仁丹誕生によると、現在発売されている「銀粒仁丹」の前身にあたる懐中薬「赤大粒 仁丹」)の発売日である1905(明治38)年2月11日からだそうだ。以来、同社は今日まで発売され続けている銀粒の「仁丹」の製造元としてその名を知られている。
今年2014(平成26)年で創業121年を迎える同社は、銀粒仁丹の製造から着想を得た液体も包むことの出来るビーズ状のシームレスカプセル(継ぎ目のないカプセル))技術の様々な用途への展開や、長年の 生薬研究から生まれた健康食品や素材、さらには医薬品や医療機器の製造販売に至るまで、幅広い分野を手がける医薬品メーカーのひとつとなっている。
冒頭に掲載の画像は、1912(大正元)年頃の同社の店頭看板。下は右が1905(明治38)年、左が、1916(大正5)年のトレードマークの「大礼服」(登録商標である大礼服姿の通称「将軍マーク」)であるが、時代による微妙な変化が面白い。(画像は『朝日クロニクル週刊20世紀』1912年号の、“広告と生きた世紀”シリーズに掲載されていたものを借用)。
森下仁丹は広告に非常に力を入れていたが、その一つの柱が新聞広告であり、もう一つの柱が屋外広告であった。
同『朝日クロニクル週刊20世紀』にによると、森下仁丹の宣伝部長(当時)だった谷本弘の回顧録によれば、大正時代の広告事情などについて次のように語っていたという。

口腔清涼剤「仁丹」の宣伝が開始されたのは1905(明治38)年2月11日だった。宣伝ターゲットは常備薬とする家庭と海外だった。
ブランド名の「仁丹」は中国・台湾へ売り込むには仁義礼智信(儒教で説く5つの徳目「五徳」)のトップに位置するをとるのが良かろうという漢学者の藤沢南岳や朝日新聞社の西村天囚(大阪朝日新聞主筆で、コラム「天声人語」の名付け親)のアドバイスと中国語で丸薬を意味する「丹」を組み合わせたネーミングである。
有名な大礼服のトレードマークは前社長の回想から「(軍人ではなく)仁丹の外交官」とされている。この外交官も当初案に何十回も手が加えられたうえ、その後も度々モデルチェンジされている(※2:森下仁丹HP歴史博物館:大礼服マークは薬の外交官のシンボル参照)。
「仁丹」が新聞に1ページ広告を出して売薬業界に躍り出たのは明治も末の1907(明治40)年以降で、広告を出すたびに全社員に赤飯と尾頭付の魚を配って祝ったという。同社の広告・宣伝費は、新聞6、その他4の割合で振り向けられていた。
その他には、大礼服の立て看板やホーロー製( ホーロー看板)の町名看板までが含まれる。
創業者森下博は、かねがね広告による、「薫化益世」を主張しており、社内ではこれを、「広告益世」と言い換えて踏襲していた。この仁丹の広告量がピークに達したのは1923(大正12)年、関東大震災の年であった(※2:森下仁丹HP歴史博物館:広告ギャラリー)。・・・・・と。

西洋事情』、『学問のススメ』ほか多数の著作を残した福沢諭吉は、西洋文明をわが国に積極的に紹介し、日本の近代化を推し進めた知識人として知られている。
1882(明治15)年には、日刊紙『時事新報』を発刊し、政党に左右されない「不羈独立」の新聞という理念を実現可能にするために、当初から広告を重視する姿勢を打ち出した。そして、1883(明治16)年発行の『時事新報』に、「商人に告るの文」という一文を掲載し、新聞広告について、「今の時代に在りては其及ぶ所の甚だ広く其費用の甚だ廉なるものは、新聞紙を借りて広告するに匹敵すべきものなし。・・・若し人ありて新聞の手を借らず、他の引札(チラシ)張札(張り紙)等の方法を以て新聞同様の広さに広告を行届かしめんと試むることあらんには、其費用と手数の莫大なる、尋常人の資力には及ぶべからざるものならむ」とも述べて、新聞広告の有用性を訴えている(参考※3の第18回経営の重視 ~紙面改良の工夫とその批判~、や※4参照)。
創業者森下は、この福沢諭吉の説いた新聞広告の重要性を受けて以降、広告を重要視した販売戦略を掲げた。
開業当時森下自身が開発した香袋『金鵄麝香』(1896年発売)や内服美容剤『肉体美白丸』(1898年)を発売した時までは、大きな成果は生まれなかったが、1900(明治33)年、笹川三男三医学博士の開発した梅毒薬「毒滅」の販売では家財の一切を広告費につぎ込み大々的な宣伝を仕掛けた。
商標にはドイツ宰相ビスマルクを使用、「梅毒薬の新発見、ビ公は知略絶世の名相、毒滅は駆黴唯一の神薬」というコピーを作り、日本で初めて日刊紙(新聞)各紙に全面広告を出した。また全国の街角の掲示板にポスターを出すなど、先駆的な宣伝戦略を打ち出した。
当時、梅毒は花柳病文明病としてその猛威を振るっており、「毒滅」は画期的な新薬として注目され、ビスマルクの「毒滅」、ビスマルクの「森下南陽堂」の名は瞬く間に広まったという(※2:森下仁丹HP歴史博物館:森下仁丹百年物語第1章黎明期、※5:薬屋本舗レトロの館:日本の名薬>毒滅参照)。
これで社を軌道に乗せた森下は、続いて以前から着目していた家庭保健薬の研究を進め 軍隊に召集された時、任地の台湾で現住民が清涼剤を口に含み伝染病に感染しないようにしていたのを見て発想を得たといわれる総合保健薬の開発研究に取り組み、丸薬の携帯性を高めるため、表面を赤いベンガラでコーティング(1929年=昭和4年からは銀箔)し、こうして大衆薬「仁丹」を1905(明治38)年発売することになった。この時、トレードマークにも修正を重ね、最終的に「毒滅」で使ったビスマルクをデフォルメし、大衆に人気のあった大礼服を着せたという。
そして売り上げの三分の一を宣伝費に投資したといわれ、新聞や街の琺瑯(ホーロー)看板だけでなく薬店に突き出し看板やのぼり、自動販売機などを設置。大礼服マークは当時の薬局の目印になったほどだったという。
そして、「広告益世」の真骨頂ともいえるのが、1914(大正3)年からスタートした、「金言広告」で、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」(福沢諭吉)、「堪忍は無事長久の基」(徳川家康)、「勝利は最後の五分にあり」(ナポレオン)など、古今東西の5,000種類の金言を、電柱広告や看板、紙容器などに取り入れたという。
また電柱広告にも目を付け町名表示と広告を併せたものを作ったり、鉄道沿線の野立看板を設置。更に東京浅草や大阪駅前に大イルミネーション・仁丹塔を建てこれらは名所となった。こうして、全国津々浦々に名前が浸透した仁丹は発売わずか2年で売薬中、売上高第1位を達成したという。
つまり、創業者森下博の「広告による薫化益世を使命とする」・・・を信条として大々的な広告でのし上がってきのが森下仁丹であったと言っていいだろう。町には広告が溢れ、いやがうえにも目に就いただろう。
以下参考に記載の※5:「薬屋本舗レトロの館」、※6:「京都仁丹樂會」※7:「仁丹の館」などでは懐かしい、仁丹の広告や古写真に写り込んでいる仁丹の広告看板等が数多くを見ることが出来る。興味のある人は見られるとよい。

ところで、ひとつ、気になったことがある。明治初期、新聞の三大広告主と呼ばれていたのは化粧品と書籍と並んで薬であった。
『時事新報』に、「商人に告るの文」という一文を掲載し、新聞広告の有用性を訴えていたのは福沢諭吉であるが、又、同時に、彼は、当時批判が高まっていた売薬広告について「売薬論」を掲載し、誇大広告を行う売薬広告主とそれを掲載する新聞への批判なども行い、この「売薬論」はその後、東京府下の売薬商組合から営業毀損回復の訴訟を起こされる、「売薬営業毀損事件」にまで発展している(※3の第17回 売薬営業毀損事件や、※4参照)。
日本で梅毒が初めて記録されたのは、1512(永正9)年のことで、歌人・三条西実隆の『再昌草』に以下のように記されているという。
4月24日「道堅法師、唐瘡(からがさ)をわづらふよし申たりしに、 戯に、もにすむや我からかさをかくてだに口のわろさよ世をばうらみじ」
上の「唐瘡」が梅毒のことで、この年、京都では梅毒が大流行したようだ(※8参照)。
梅毒はコロンブスがアメリカからヨーロッパに持ち込んだ後、ヨーロッパ全域に広がり、大航海時代の波に乗って日本には16世紀に伝来し、関西で大流行を起こしたあと、江戸にもやってきて吉原遊郭などで一気に広まったようだ。
梅毒は江戸時代には「瘡毒」(そうどく)と呼ばれていたようだが、日本人にとって梅毒は有効な治療法もなく脅威であった。
公娼に対して、梅毒その他の花柳病感染の有無その他の健康状態を医師により強制的に検診を行う梅毒検査(検梅)を日本で、初めて行ったのは長崎の稲佐遊郭において、ロシア海軍の要請で行ったのは万延元年(1860)のこと(※8参照)。一方、イギリス海軍の軍医だったニュートンが1868(慶応4)年、横浜に日本最初の横浜駆黴院(梅毒病院)を開設している。
しかし、明治になると、状況が変化した。1872(明治5)年に政府は御一新による四民平等の立場から人身売買を禁止し、奴隷的境遇に置かれていた芸娼妓の解放を宣言。「遊女解放令」が出ると、遊女屋は貸座敷と名称を変えるなどし、売春行為が地下に潜り、梅毒が世の中に蔓延してしまった。
この流れを受けて、明治政府は1874(明治7)年、検梅を柱とする「医制」を発布。1876(明治9)年全国の遊郭所在地に駆黴院(梅毒病院)を設置し、ここに日本で初めて検黴(検黴[=検梅]および駆黴[=梅毒を治療すること])制度が出来た。
ちなみに日清戦争(1894年=明治27年~)直前には、
「兵隊さんの間に梅毒が盛に蔓るとて種々八釜(やまか)しく」(『都新聞』明治26年)
などと書かれるようになり、軍隊でも梅毒が大きな問題となっていたようだ。
当時、治療法は水銀以外にヨウ素が使われたが、ともに危険で、1910(明治43 )年、秦佐八郎らによってサルバルサン(有機ヒ素剤)が開発されたものの、効果は不十分(毒性を持つヒ素を含む化合物であり副作用が強いため、今日では医療用としては使用されない。)であった。…そのようなことから、結局、怪しい民間治療薬が幅をきかせることになっていた(※8参照)。
抗生物質のない時代は確実な治療法はなく、多くの死者を出した。慢性化して障害をかかえたまま苦しむ者も多かったが、現在ではペニシリン(1928年=昭和3年にイギリスのアレクサンダー・フレミングによって発見)などの抗生物質が発見され、早期に治療すれば全快するようになった。
ドイツの宰相ビスマルクの絵が強い印象を与えた「毒滅」の新聞広告。森下仁丹の前身森下南陽堂が、家財を売り払ってまで「毒滅」という梅毒治療薬の全面広告を出し、大ヒットさせたのは1900(明治33)年のことである。「毒滅」とは書いて字の如く「毒を滅ぼす」、つまり梅毒や淋疾(淋病)といった性病を粉砕する為のクスリという意味をこめている。
しかし、「毒滅」が発売されたのは、抗生物質のペニシリンの発見される18年も前のことであり、又、当時では画期的な駆黴薬と言われたサルバルサンが開発される10年も前のことである。実際に「毒滅」が、サルバルサンと同等の効能があったのかどうか?・・・については大いに疑問のあるところだが、新聞広告を見ると「 公立駆黴院長五大家御証明」などと、この分野の泰斗たちのお墨付きまで付いているものがある(※5の新聞広告>明治38年3月8日のもの参照)。
当時の庶民は病気になっても医者に診てもらうことは現代ほど日常的ではなかった。そのような時代梅毒・淋疾に苦しめられていた人々にとって、広告による売薬の「毒滅」は最後の希望の光であったのだろう。
だが、明治・大正における薬の広告は、薬事法が現在のように整備されていなかったこともあって、誇大広告に類するものが多々見うけられるが、当時は日露戦争(1904年=明治37年)に勝利したこともあり、強い軍人や政治家が大変人気のあった時代。「毒滅」の新聞広告に使われたビスマルクの商標は如何にも梅毒淋疾に効いてしまいそうな感じを与えており、そういう意味では、精神的な効能はあったかもしれない。
福沢諭吉による売薬広告に対する非難もあったが、昔から「薬九層倍」と言って原材料費と製造費に対して9倍の値段で売れるため、不特定多数の民衆が目にする新聞を広告メディアとして利用することによって、多額の利益を上げることが可能になった。また、新聞社にとってもそんな薬の広告主は有難いスポンサーでもある。売薬広告は、知のメディアである新聞を利用することによってある種のいかがわしさを携えて明治の人々のココロに偲び込んでいったと言えるだろう。
毒滅発売から僅か8年後(1929年)…森下南洋堂にとってのシンボルとなる大衆売薬銀粒の「仁丹」が登場する(このころ社名「森下博薬房」に変更)。
この「仁丹」も、明治の発売当初は「完全なる懐中薬・消化と毒消し。(また最良なる毒消し)」を、謳い文句としているが、ここでいう「毒」とはコレラや梅毒のことを指しており、特にコレラは明治・大正期においては致死率の非常に高い病気であった。
当時はコレラに対する治療法が徹底されていなかったこともあり、全国紙に一頁広告を幾度も掲載して「消化を良くし、胃腸を健やかにすべし」との考えを広く知らしめたことで、仁丹の売り上げはさらに飛躍することになる。ここでも、新聞広告には、「陸・海軍隊の御用命を蒙る」などと書かれている(※5の新聞広告>明治38年6月7日参照)。少なくとも、ここらあたりの広告では、素晴らしい医薬品的効果を売り物にしている。
同社では、現代もオーラルケア製品として「仁丹」を発売している。

「一服の清涼剤」という言葉がある。この言葉はささやかだが、束の間さわやかな気分にさせるような行為や事柄をいう。
清涼剤には、「口中清涼剤」 「のど清涼剤」 「健胃清涼剤」などがある。
「清涼剤」は、日焼け止めクリームと同じような、「医薬部外品」である。
医薬部外品は、日本の薬事法に定められた、医薬品と化粧品の中間的な分類に属するもの。疾病の診断、治療又は予防に使用することが目的とされているものは、原則として薬事法でいう医薬品に該当する。現代では医薬品としての承認 ・許可を得ていない限り、医薬品と紛らわしいことを表示・広告することは認められていない。
現在販売されている口中清涼剤「仁丹」は、薬事法(昭和35年8月10日 法律第145号)上の「医薬部外品」として販売されている。つまり、口の中がさっぱりした気持ちになるために飲む薬…ということになるだろう。
このような口中清涼剤としては、「仁丹」と共によく知られているものに口中香剤「カオール」(KAOL)があった。
仁丹が発売(1905年)される6年ほど前の1899(明治32)年、現在のオリヂナル(株)(※9参照)の前身である安藤井筒堂が発売していたもので、「カオール」も新聞広告を利用した巧みな宣伝力で、高い売れ行きを上げると共に、「仁丹」と並ぶ口中清涼剤の二大ブランドとして知名度を確立させ、戦前までその知名度を維持していたようだ。こちらの商品も現在継続発売されている。
ちなみに「カオール」は川端康成の初期の代表的作品『伊豆の踊子』に登場している。
この作品は、19歳の川端が伊豆に旅した時の実体験を元にしているといわれるが、小説では最後に、踊り子の兄である栄吉と主人公の私=一高生(現在の東大教養学部)との会話の中に以下のような一節がある(※10の第七章参照)。、
 「・・・町は秋の朝風が冷たかった。栄吉は途中で敷島(明治末に発売された煙草の銘柄)四箱と柿とカオールという口中清涼剤とを買ってくれた。」 「妹の名が薫ですから。」 と、かすかに笑いながら言った。
「カオール」は、踊り子の名前「薫(かおる)にかけたオチだろう。この後、「船の中で蜜柑はよくありませんが、柿は船酔いにいいくらいですから食べられます。」・・・・と出てくるように、昔から、柿は船酔いに良いといわれており、徳島出身の私の母など神戸から徳島に里帰りするときなど柿を持って船に乗ったという話を聞いたことがある。

このカオール確か小さなガラス瓶に入れて売られていたと記憶している。今の時代、どれくらいの人が「仁丹」や「カオール」を愛用しているかは知らないが、私は若いころは携帯用のケースに入っていた「仁丹」を愛用していた。昭和30年代、私が大阪の商社に勤めていた時など、女性は知らないが、会社のほとんどの男性が携帯用のケース入り仁丹を持っていたと記憶している。私のような営業マンは日常的に人と接することが多かったので、主とした目的としてはエチケットとして口臭予防のためであったが、仁丹をかんだ後のすっとした清涼感が良かったことも人気の要因だった。
口臭予防としては、手軽に使用でき便利ではあるが、効果は数十分程度であり、虫歯や歯周病などの病的な原因があった場合は一時的に臭いを誤魔化すことしかできないと言う欠点がある。だから、しょっちゅう噛んでいたが、そのうちに、それが習慣になっていたように思われる。
口中清涼剤は、古くは仁丹に代表される口臭の予防と清涼感を与えるもののことだが、現代では、丸剤タイプ、板状の固形のもの、フィルム状のもの、液状の洗口用のもの、液状で噴霧するタイプなどさまざまな形態のものが販売されている。しかし、薬用効果はほとんどなく、主に芳香性香料によるマスキング(覆い隠すこと)効果によって、口臭を抑える効果がある。扱いとしては食品類のものが多く、おしゃれ商品あるいはエチケット商品として販売されている。
口臭の原因は複数に分かれるが、大きく生理的口臭(一時的なものを含む)と病的口臭(慢性的なもの)に分けられる(口臭参照)。口臭は虫歯や胃腸の不調など体の異常を伝えている場合が多いので、口臭を放置せず原因を追求してきちんと対策をたてておかないといけないが、具体的な対策としては、やはり、正しい歯磨きの習慣や食事の後の簡単なケア、生活習慣の改善やタバコを吸っている人は禁煙するなどが代表的で効果的な口臭対策と言えるようだ。以下参考の※11:口臭を予防して生活を守ろう!や、※12:口臭まど参考にされるとよい。

参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:森下仁丹
http://www.jintan.co.jp/
※3:慶應義塾大学出版会|慶應義塾・福澤諭吉|ウェブでしか読めない|時事 .新報史
http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/jijisinpou/32.html
※4:Vol.8 明治期の新聞広告 近代広告の幕開けを告げるニューメディア
http://www.yhmf.jp/pdf/activity/adstudies/vol_08_03.pdf#search='%E6%99%82%E4%BA%8B%E6%96%B0%E5%A0%B1+%E5%95%86%E4%BA%BA%E3%81%AB%E5%91%8A%E3%82%8B%E3%81%AE%E6%96%87'
※5:薬屋本舗レトロの館:総目次のページ
http://kusuriya.sakuraweb.com/index-3.htm
※6:京都仁丹樂會:サイトマップ
http://jintan.kyo2.jp/sitemap.html
※7:仁丹の館
http://blogs.yahoo.co.jp/kuzui0215
※8:梅毒の症状と歴史 - 探検コム
http://www.tanken.com/baidoku.html
※9:オリヂナル
http://www.original-co.jp/
※10:『伊豆の踊子』 原文
http://wenku.baidu.com/view/5fafa64f2e3f5727a5e96298.html
※11:口臭清涼剤とは? - 口臭を予防して生活を守ろう!
http://www.bav-savunma.org/koushuu_seiryouzai/what_seiryouzai.html
※12:口臭
http://health.jolly39.com/bad-breath/
稲佐お栄 - 長崎県商工会議所連合会
http://www.nagasaki-cci.or.jp/nagasaki/josei/ijinden_inasaoei.html
新聞 - 広告に利用される知のメディア
http://www.ne.jp/asahi/miyachi/sep/media-contents/newspaper.htm
医薬品産業における広告の役割―研究ノート - J-Stage
<aq href= https://www.jstage.jst.go.jp/article/iken1991/8/4/8_115/_pdf> https://www.jstage.jst.go.jp/article/iken1991/8/4/8_115/_pdf
第22回 「大衆の健康に奉仕する」大胆な広告で一世風靡
http://www.jmam.co.jp/column/column12/1188297_1513.html
明治大正時代の新聞 - Astrohouse
http://astrohouse.opal.ne.jp/ads/service.html
仁丹 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E4%B8%B9

チャップリンの映画「モダン・タイムス」がアメリカで公開された日

2014-02-05 | 歴史
1936(昭和11)年の今日(2月5日)は、チャップリンの映画「モダン・タイムス」(Modern Times)がアメリカで公開された日である。
山高帽にだぶだぶズボン、どた靴にちょび髭―チャップリンは、スクリーンに登場するや、たちまち世界中の人気者に。
権威や秩序をひっくり返し、世の不正に怒り、虐げられた人々に生きる勇気と喜びを与える。まさに弱者の英雄であった。貧乏のどん底で養った鋭い観察眼が花開き、笑いと人間愛の傑作を次々と生み出した。
映画は見れば分かるものだから音は不要とずっとパントマイムとサイレントにこだわって来たチャップリンが1931(昭和6)年製作の「街の灯」(1931年)で初めてテーマ曲だけをサウンドで流した。 

Charlie Chaplin - City Lights - YouTube(「街の灯」テーマ曲)

当時は「西部戦線異常なし」(1930年)など次々にトーキーで公開され、サイレント映画は終焉の時期を迎えていたが、そんな中で「街の灯」(1931年)は世界中で大ヒットとなった。
この映画完成後、チャップリンは1年4ヶ月間にわたる世界一周の旅に出、各国で歓迎を受ける中、政界をはじめ各界の要人に会い世界の抱える問題について意見交換を重ねている。
この世界一周旅行も終わりに近い1932(昭和7)年に、チャップリンは日本を訪れている。憧れの日本への第一歩を記した。同年5月14日7時45分、神戸港に到着したチャップリンは神戸港で数千人の歓迎を受けた後、車で神戸市のビジネスセンター、居留地などを抜けて料亭「菊水」で一服する。ここで、仲居10人が余興に「酋長の娘」などを三味線伴奏で和風ジャズ舞踏として踊ったところ、チャップリンはいたく喜んでアンコールを所望したという。

酋長の娘 勝丸 - YouTube

この後、昼の12時25分神戸発の燕号に乗り、東京駅に入り、帝国ホテルに宿泊。翌15日、相撲見物の帰りに、2日後に会う予定だった犬養毅首相が暗殺されたことを知る。5.15事件の勃発だった。
この事件では、首謀者の古賀清志海軍中尉が、後日の軍法会議でアメリカの「有名人であり資本家どものお気に入りである」チャップリンを殺すことで「アメリカとの戦争を惹き起こせると信じた」と陳述し、チャップリンも犬養首相とともに暗殺する計画があったことを暴露しているという(※001参照)。6月帰国するが、この旅の中で次作「モダン・タイムス」(1936年公開)、「チャップリンの独裁者」(1940年公開)、「ライムライト」(1952年公開)などのヒントを得たという。

ところで少し余談になるが、世界中で大ヒットした映画「街の灯」は、日本でも前評判が高く、翌年の1931(昭和7)年、早くも和製主題歌がポリドール(矢追婦美子歌唱「花売娘の唄」6月)やコロムビア(淡谷のり子歌唱「街の灯」7月)より発売された。しかし、日本での映画の公開が2年も遅れて1934(昭和9)年1月となってしまったため、映画公開より歌の方を早く出してしまったコロムビアは、淡谷のり子に同じ歌詞(浜田広介作詩)だが作曲だけを変えて(古賀政男→杉田良造に変更)、1934(昭和9)年2月に「街の灯」を改めて出すことになったという(※2参照)。
私も大好きだった若き日の淡谷のり子の懐かしい曲が以下で聞ける。両作品とも別な良い雰囲気があるが、和製主題歌にするとこんな歌になってしまうのだね~。背景の画像(映画「街の灯」)をイメージして楽しまれるとよい。

街の灯 淡谷のり子 1934年盤 - YouTube(杉田良造作曲、奥山貞吉編曲によるもの)

街の灯 淡谷のり子.wmv - YouTube(古賀政男作曲によるもの)

さて、チャップリンの映画「モダン・タイムス」がアメリカで公開された1936(昭和11)年といえば、日本では5.15事件(1932年)に次ぐ2・26事件が発生(2月26日から)した年であり、世界では世界恐慌(1929年)の影響によって超インフレ、街には失業者があふれ、世 界は第二次世界大戦への道へ歩み始めていた頃である。
当時のドイツはヒットラーによるナチス政権、イタリアはムッソリ ーニによる一党独裁政権、日本は軍部が実権を持ち、「モダン・タイムス」が米国公開された翌・1937(昭和12)年の蘆溝橋事件に端を発した日中戦争の拡大につれ、映画界にも戦争の影響が出始めた(※003。尚、太平洋戦争への突入は1941(昭和16)年12月8日のことである)。
映画「モダン・タイムス」が米国公開された翌1937(昭和12)年、外国映画禁止輸入処分によって、最も影響を受けたのがアメリカ映画であった。公開本数で前年までの222本から一気に94本と半数以下に激減。外国映画興行界2本併映体制を維持できなくなり、協力作品一本体制に移行。そうした中、チャップリンの映画「モダン・タイムス」が1938(昭和13)年日本公開された(『朝日クロニクル週刊20世紀』1938年号)。

「産業と個人企業と、幸福を追い求めて戦う人間性の物語」という字幕から始まるチャップリンの名作「モダン・タイムス」。
18世紀半ばからイギリスで起こった産業革命。それを契機に19世紀には機械及び動力の発明により、新しい技術が次々に生み出され、人類は「機械化」のおかげで物質面における空前の大発展を遂げ豊かになったのだが、果たしてそれで人間はより幸福になったのだろうか?
文明という名の機械化の波があれよあれよという間に押し寄せてきた1930年代。不況の中、街には失業者があふれ、人の心も荒んだ暗い世の中を生き抜く人々。巨大な機械工場では、社長がモニターで厳しく監視する中、オートメーション化された機械の部品の如く働かされる工員たちいた。
工場で働くチャーリーは、スパナを両手に次々とベルトコンベアーで送られてくるの部品のネジを回して締めていた。ところが絶え間なく運ばれてくる部品のネジをただひたすら回し続ける単純作業の繰り返しに頭がおかしくなり、ベルトコンベアの上に乗り、巨大な歯車の中に巻き込まれてしまう。歯車の中から戻った彼は完全に頭がおかしくなり、ちょっとでも突起したものがあればそれを締め上げたりするなど、工場内を大混乱に陥れ、病院送りとなった。そのシーンは以下で見られる。

『モダン・タイムス』 工場で大暴れのシーン

そんな彼は、退院した矢先にふとしたことがきっかけでデモ団体のリーダーと間違われ、捕まってしまうが、脱獄囚を撃退した功績で模範囚として放免される。仕事も紹介されたが上手くいかず辞めてしまい、街をうろつく生活に・・・。

この映画は最初の字幕にもあるように、「人間の機械化に反対して、個人の幸福を求める物語」であり、「機械化」に象徴される「Modern Times(近代)」、を皮肉たっぷりに批判しているコメディーである。
驚異的に進む機械化された産業社会の中、歯車に組み込まれた人々は「人間の尊厳」と言う本質を見失って「機械の一部」のようになって工場で単純労働を繰り返す。それを私設テレビで監視する資本家との構図によって、この後訪れる人間喪失の時代を予見している点、彼の社会に対する観察眼の鋭さに驚かされる。
チャップリンがこの様な映画を作ろうと思った背景には1929(昭和4)年に始まった大恐慌があったのだろう。
この映画のベルトコンベアの流れ作業、監視カメラストライキ・・・・と続くシーンなどを見ていると、フランスの映画監督ルネ・クレールの「自由を我等に」(1931年製作)がダブってくる。
管理社会により、人間らしさが失われた異常な状態が正常とされている社会の恐怖をこのシークエンス(Sequence。連続性)は表わしている。
クレールの映画「自由を我等に」は、大量生産の時代に生きる窮屈さを皮肉っている作品であり、チャップリンの信奉者を自認するクレールが、遂に喜劇王の「モダン・タイムス」に影響を与えた作品だとされている(映画の解説は※004参照)。
その諷刺と男同士の友情話、サイレント的ギャグ、そしてG・オーリックの楽しい音楽が渾然一体となった、オペレッタ的コメディのこの作品を観ているとチャップリンがこの映画を参考にした・・と言われているのも納得できる。以下では同映画のシーンと共に映画の主題歌が聞ける。
また、G・オーリックの歌の解説は※005:「作曲家ジョルジュ・オーリック」を参照されるとよい。

フランス映画「自由を我等に "A Nous la Liberte"」主題歌 - YouTube

映画「モダン・タイムス」は当時の世界情勢を反映して、ドイツや、イタリアでは上映が禁止された。ソ連でも流れ作業のシーンなどが問題となり、批判の的にもなったという(『朝日クロニクル週刊20世紀」1938年号』)。しかし、我が国では映画評論家たちに高く評価され、キネマ旬報ベストテンの4位にランクされた(1938年の日本公開映画参照)。そして、戦後の1972(昭和47)年11月には、リバイバル上映もされている。

「モダン・タイムス」の映画で、機械にたよった流れ作業の工場で働く放浪紳士チャーリーは、働いているうちに、心身ともにボロボロになっていくが、今までの他の映画に登場するチャップリン演じる放浪の紳士は、貧乏のどん底であったが、この映画では工場の悪条件や低賃金や失業と戦う、普通の人間として登場している。このため、一部の新聞で「モダンタイムス」は共産主義の宣伝映画であると非難されもしたようだ。
このように「Modern Times」(近代)・・は、機械化時代への警告と風刺を込めて描いた作品だが、ただそれだけはない。冒頭字幕にあるように、人間性の回復を高らかにうたった映画でもある。
チャーリーは貧乏な娘(ポーレット・ゴダード)と出会い、食べるために働き、クビになり、投獄され、また食べるために働き・・・・を繰り返す。まるでこの映画は労働と解雇と投獄の連続で構成されている映画と言ってもいいほどであるが、そんな場面場面でのチャーリーの奮闘ぶりは抱腹絶倒もので、何をやっても社会に適合できない小男と、彼に翻弄される“常識社会”の人々とのコントラストが笑いを誘う。
そんなシーンの中で、最もチャップリンの哲学が読み取れるシーン・・・・。それが、デパートでのシーンである。
ストライキにより職を失い、住むところも食べるものも手に入れることが困難になったチャップリンが、同じく貧しい少女(ポーレット・ゴダード)と出会い2人は草むらで休憩する。幸せそうな若い夫婦がこぎれいな家から出てきて抱擁するのを見て、楽しげに笑う二人。「僕たちにもあんな家があるといいね」少女との幸せな家庭生活を夢想するチャーリー。「よしやってやる。そのために働いて家を作る」と意気投合したチャーリーは、二人のために家を建てるという夢を胸に一念発起とばかり働き出す。
そして、チャーリーはデパートの夜警に雇われると、閉店後のデパートに少女を招いた後、初めに、食料品売り場で食事をし、腹ごしらえをすると、次に、4階のおもちゃ売り場へ、大の大人が少女とローラースケートで楽しく遊ぶ。
因みに、この4階のおもちゃ売り場で目隠しをしてローラースケートを滑り冷や冷やさせるシーンなど存分にチャップリンの至芸を堪能出来る・・のだが、チャップリンは最後の最後まで、トーキー映画にこだわってはいるものの、その実、映像面では最先端のVFXを使いこなしていることがわかる。以下ブログでそのローラースケートの名場面が見られるので鑑賞されるとよい。

チャーリー・チャップリン 『モダン・タイムス』 Modern Times-ローラースケートの名場面

遊んだあと、少女は5階の家具売り場のベッドで就寝する。一方、チャーリーはスケートに乗りながら各階を見回ていて、三人組の強盗に襲われる。そのうちの一人は、エレクトロ鉄鋼会社の工場でチャーリーと一緒に働いていたビッグ・ビルだった。懐かしいな、とチャーリーに握手するビッグ・ビル。「俺たちは泥棒じゃない。空腹なだけなんだ」と店の酒を飲んで乾杯するチャーリーとビッグ・ビル。そしてチャーリーは婦人服売り場の中で寝込んでしまい、結局、働いた最初の日に警察送りとなる。
釈放され出て来ると、少女が迎え、海のそばにある家とはいえないボロ家を見つけたことを告げる。その時字幕に“It's Paradise !”と出る。“天国”だ・・・と喜ぶチャーリー。何が人間の幸せか、考えさせられるシーンである。
つまり、「食べ-遊び-寝る場所」がある。これらは人間にとっての必要最低限の条件であるともいえるが、逆に言えばこれさえあれば十分。人間が人間としてあるべき姿なのである。つまり、人間の幸福に「機械化」も「多くのお金」もいらない。むしろ、それらを否定することにより、人間の幸せを見出そうとする。・・ここにチャップリンの哲学が見えてくるような気がする。
チャップリンには多くの名言があるが、チャップリンが初めて素顔を出した長編映画であり、同時にアメリカでの最後の作品ともなった1952(昭和27)年公開の「ライムライト」の中で、「人生に必要なものは勇気(courage)と想像力(imagination)と少しのお金(a little dollar)だ」という名言を残している。
「ほんの少しばかりのお金」は「お金に左右されない清貧の心」「自立の心」ともいえるだろう。
世の中には、お金で買えない大事なことがたくさんある。それは、信頼、友情、愛、自由、時間などである。ただ、現代社会の中ではやはり最低限のお金は必要だが、大金はいらない。これをいかに有効活用して、自分の夢の実現のために勇気をもって行動できるか…それこそが大切なことだ。…と彼は言いたいのだろうと私は思う。

海のそばの家とも言えないボロ家に天国だと喜んで住み、朝食を食べながら新聞を読むチャーリーは「工場再開される。労働者仕事に就く」という記事を見て喜ぶ。仕事にありつけるぞ。やっと本当の家をもてる・・。チャーリーは巨大機械の機械工の助手となるが、すぐに工場はストライキとなり、チャーリーは職を失い、そして、又、ストライキの首謀者と間違われて、警察送りとなってしまう。
チャーリーが釈放されると、少女は路上で踊っていた踊りが認められてキャバレー(今日見られる男性向けのものとは違い、ダンスステージつき居酒屋のような所)の踊り子になって働いていた。彼女の推薦で彼もそこの店で給仕をして歌うことになり、彼女がカフスに歌詞を書いておいてくれたのだが、ホールに飛び出して腕を振ったとたんに外れてしまい、歌詞が分からず何語ともつかぬ即興のアドリブで「ティティーナ」を歌うシーンがある。
今までの映画の中で初めてチャップリン自身の歌声が流れる貴重なワンシーンであるが、この「ティティーナ」という曲。原曲は、1917(大正6)年のフランス歌曲「Je cherche apres Titine(ティティーヌを探して)」だという。「ティティーヌ(ティティン)」とは、一般的な女性名の愛称だそうだ。
この曲、2004(平成16)年には、ロサンゼルス出身の歌手Jfive(ジェイ・ファイブ)が、チャップリンの歌う「ティティーナ」をヒップホップ風にアレンジした「Modern Times」をリリースしている。以下のブログでは、そんな、チャップリンの歌う「ティティナ(ティティーナ)」と共に、J-FIVEの「Modern Times」も動画で聞くことが出来るので聞き比べてみるとよいだろう。

ティティナ(ティティーナ)チャップリン映画「モダン・タイムス」

キャバレーでの見世物も大成功するなど上々だったが、少女は今までの微罪により少年鑑別所に連れ戻されそうになったため、チャーリーは少女を連れてキャバレーを逃げ出す。そして、ラストには感動的な「スマイル」の曲とシーンが待っている。

「Dawn」  = 「夜が明けて」

仕事も、ささやかな家(あばら家)も失い、少女は途方にくれて泣き出してしまう。

「Wha’s the use of trying?」 = 「いくら がんばっても 無駄なのよ」・・・と少女。

「Back up - never say die We'll get along!」 = 「諦めちゃいけない さあ また 一緒に頑張ろうよ」と少女を励ますチャーリー。

励まされ生きる勇気を得て立ち上がり、手をつないで道路中央に来た少女の顔がまだ堅いのを見て  “Smil”(笑ってごらん)… と、パントマイム(口の端を持ち上げて)で笑顔を促すチャーリー。
それに応えて笑顔になった少女と手を取り合った二人が道路の真ん中を歩いていく。二人の後ろに歩んできた道があり。二人の前途の道にはいくつもの山がある。
有名なこのシーン以下で見れる。
Smile, Charlie Chaplin, Modern Times (1936) 720p - YouTube

映画は、どうも現実世界に適合できないチャーリー(チャップリン)と少女(ポーレット)が道路の真ん中を手をつないで歩いていくこのシーンで、「スマイル」の盛大なフィナーレと共に幕切れする。、このシーンこそが、現代社会を生きる私たちへ最後に伝えたかったチャップリンからのメッセージだったのだろう。
つまりこの映画は、『モダンタイムス(Modern Times)』(現代社会)を爆笑のうちに皮肉り、批判しながら、そんな中で、人間らしさを失うまいと厳しい社会と格闘し、人生を正面から歩んでいる人々への賛歌だと言える。二人の前に続く長い道は、同時に スクリーンに向き合う私たちの前にも続く厳しい道なのである。
本作のラストシーンで印象的な曲「スマイル」は、チャップリンが作曲した音楽の中では特に有名であるが、喜劇映画にあっては暗いニ短調の曲であるが、1954(昭和29)年、その暗い曲調とは裏腹に「スマイル」という曲名が付けられ、ナット・キング・コールによって歌詞付きの歌が歌われている。以下で聞ける。

smile - nat king cole-YouTube

1936(昭和11)年米国で、「モダンタイムズ」の撮影を終えたチャップリンは、共演した少女役のポーレット・ゴダードとシンガポールで結婚し、アメリカへ帰る途中の1936(昭和11)年3月6日、客船クーリッジ号で又、神戸に立ち寄っている。
「お忍び」の旅行だったため、新聞報道はなかったが、映画解説で有名だった神戸出身の故・淀川長治(当時、ユナイテッド・アーチスツ社大阪支社の社員)が、船上デッキで面談したという(※006参照)。そして、同年5月にも南アジア旅行の帰途に再度来日している。歌舞伎、文楽、相撲、鵜飼などが好きで、食べ物ではエビのてんぷらが好きであったらしい。
1940年代~1950年代にかけてアメリカに吹き荒れた赤狩りの嵐をもろにかぶったのはチャップリンであった。「モダンタイムズ」以降の作品で、ヒトラーを皮肉った「独裁者」(1940年。完全なトーキーに踏みきった作品)や「一人を殺せば絞首刑だが大勢殺せば勲章がもらえる」というセリフがあまり有名な「殺人狂時代」(1947年)などを作ったことが重なって、右翼の保守派ににらまれ、1952年にはロンドンで「ライムライト」のプレミアのために向かう船の途中アメリカからの追放処分を受け、そのまま、スイスに移り住んだチャップリンは、1961(昭和36)年にも、飛行機で4度目の来日をしているが、敗戦後のすっかり変わってしまった日本には昔日の面影はなく落胆しこの時以降2度と訪れることはなくなった。
チャップリンが初来日し、神戸を訪れた際メリケン波止場に上陸したことから、映画発祥の地を示す記念碑「メリケンシアター」がメリケンパークに創られている。

上掲の画像は、メリケン シアター石の“スクリーン”である。

チャップリンが再びアメリカの土を踏んだのは20年後の1973(昭和48)年、第44回アカデミー特別賞(名誉賞)を受けたときであり、授賞式のフィナーレで、彼がオスカー像を受け取る際、会場のゲスト全員で歌詞の付いた「スマイル」の曲が歌われた。


参考:
※001:戦 時 下 に 喪 わ れ た日 本 の 商 船::照 国 丸
http://homepage2.nifty.com/i-museum/19391121terukuni/terukuni.htm
※002:昭和初期の映画主題歌あれこれ:昭和9年(その3)
http://blog.livedoor.jp/oke1609/archives/50385754.html
※003:「表現規制とのたたかい」について - 日本映画監督協会
http://www.dgj.or.jp/freedom_expression_g/index_4.html
※004:映画 自由を我等に - allcinema
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=10621
※005:作曲家ジョルジュ・オーリック(1899-1983)(Adobe PDF)
http://9264f1be048181e8.lolipop.jp/Georges_Auric.pdf#search='%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%80%8C%E8%87%AA%E7%94%B1%E3%82%92%E6%88%91%E7%AD%89%E3%81%AB%E3%80%8D%E4%B8%BB%E9%A1%8C%E6%AD%8C+%E6%AD%8C%E8%A9%9E'
※006:チャップリンと会う! その1
http://homepage1.nifty.com/Kinemount-P/yodogawa-meetschaplin.htm
モダン・タイムス - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%B9

手の内に福を収めて、鬼は外

2014-02-03 | 行事
2月3日の今日は節分である。節分は立春の前日をさし、古くは立春を1年の始まりとしたため、大晦日と同じように考えられていた。
最近は、節分になりと豆まきのほかに、恵方巻きを食べたりする。恵方(えほう)とは十干(じっかん)により、その年の幸運を招く方角のこと。歳徳神(としとくしん)のつかさどる方角とされている。恵方は毎年変わり、2014年の今年は東北東の方角になる。
この節分に関しては、今までにこのブログで、節分(行)・「節分」の鬼(行)として、2回書いた。だから、書く気はなかったのだが、今日は、節分関連で、私の趣味、酒器のコレクションの中から鬼面杯を紹介しておこう。
日本酒用の盃には、酒宴に興を添えるためにさまざまな工夫がなされたものがあるがその中に、盃の外側に鬼面を造形したものがありこのような杯は、江戸末期頃から造られはじめ、明治時代~大正時代には、九谷焼、備前焼、無名異焼などの窯元では、盛んに作られ、全国に販売されたようだ。それを見習って全国の窯元でも、それぞれに特徴をもった鬼面の盃が造られてている。
これら鬼面盃の多くは、見込(杯の内側)にお多福の絵や字などが描かれている。お多福はお福とも呼ばれている縁起のいい図柄だ。
杯の外側に「鬼」内側に「福」が描かれていることから「手の内に福を収めて、鬼は外」「鬼は外、福は内」というわけで、縁起の良い盃として使われ、節分盃ともよばれている。


上掲の画像は、私のコレクションの鬼面杯の中の「益子焼の色絵鬼面大杯」である。上段が外側、下段は内側。
直径は約15センチもある大杯であり、主席の座興で回し飲みなどしていたものだろか。我が家では小振りの杯は座興に使うが、このような大きいものは、節分などに飾ったりして使用している。
この杯、骨董屋さんで買った時には、作家の経歴書もついていたのだが、どこかえ行ってしまって、今は誰の作かわからないのが残念。
益子焼(ましこやき)とは、栃木県芳賀郡益子町周辺を産地とする陶器である。
私達年より夫婦は今夜、豆まきはしないが、恵方巻きの代用に細巻の手巻き寿司を食べ、小ぶりの鬼面杯でお酒をいただいき、來福を願おうと思ています。
皆さんは節分をどうして過ごすのでしょうね。
私のコレクションの各種鬼面盃に興味のある人は、本館、「よーさんのガラクタ部屋」CllectionRoom3の各種鬼面盃のページを見てください。


参考:
本館、「よーさんのガラクタ部屋」
http://www.hi-net.zaq.ne.jp/yousan/
節分に幸運の巻ずし丸かぶり 2014年の恵方は東北東 -
http://www.nori-japan.com/marukaburi/howto.html
益子焼 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%8A%E5%AD%90%E7%84%BC
節分 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%80%E5%88%86