今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

お墓参りの日

2015-09-23 | 記念日
日本記念日協会に登録されている今日・9月23日の記念日に「お墓参りの日」があった。
由緒を見ると、全国の石材店石材関連業者で組織される一般社団法人日本石材産業協会(*1)が制定したもので、お盆(おぼん)や春と秋の彼岸などにお参りをすることで、先祖代々に手を合わせる日本らしい文化を絶やすことなく未来へとつなげていきたいとの思いが込められているそうだ。日付は「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」ことが趣旨とされ、国民の祝日に定められている「秋分の日」としたようだ。

一般に「盆」、また、「お盆」と呼ばれているのは、仏教用語の「盂蘭盆」の省略形で、太陰太陽暦である和暦天保暦など旧暦という)の7月15日を中心に日本で行なわれる、祖先の霊を祀る一連の行事であり、 日本古来の祖霊信仰と仏教が融合した行事である。
盂蘭盆はサンスクリット”avalambana”の転訛した”ullambana”の音写(ウランバナ)とされ、倒懸(とうけん)とも言われ、それは、頭を下にして足を吊られた、「逆さ吊りの苦しみ」を意味していて、『盂蘭盆経』によると、釈迦十大弟子で神通力第一といわれる目連(摩訶目犍連)が餓鬼道に落ちた母の倒懸の苦しみを救おうとして、釈迦の教えに従って祭儀を設けて三宝に供養したことが起源であると説かれてきた。
しかし、最近ではこれを否定して,盂蘭盆の原語はイラン語系の死者の霊魂を意味する“urvan”であり,霊魂の祭祀(さいし。神々や祖先などをまつること。祭典。祭儀。まつり。)と同時に収穫祭でもあったウルバンという祭祀が,イラン系ソグド人の中国進出とともに中国に伝えられ,畑作農業地帯の収穫祭として中元と結合したもので、仏教徒が自恣(じし)の日を中元に結びつけたことによって、今日に伝わる盂蘭盆会の原型が成立したとする説が出ているようだ(ここ参照)。
中元(ちゅうげん)は、道教に由来する年中行事で、三元の1つで、もともと旧暦の7月15日に行われていたが、現代の日本では新暦の7月15日または8月15日に行われている。
日本では、盂蘭盆会は神道と習合し、お盆の行事となった(日本の仏教参照)。江戸時代には、盆供(先祖への供物)と共に、商い先や世話になった人に贈り物をするようになり、この習慣を特に中元と呼ぶようになった。
お盆は、伝統的には旧暦7月15日にあたる中元節の日に祝われたが、日本では明治6年(1873年)1月1日のグレゴリオ暦(新暦)採用以降、以下のいずれかにお盆を行うことが多いようだ。
1.旧暦7月15日(旧盆) - 沖縄・奄美地方など
2.新暦7月15日(もしくは前後の土日) - 東京・横浜・静岡旧市街地、函館、金沢旧市街地など。
3.新暦8月15日(月遅れの盆。2.の地方では旧盆とも) - ほぼ全国的.
現在では1 や2 など一部の地域を除いて、3.の月遅れ開催が殆どのようである。私が住んでいる神戸(関西)も「月遅れ」の盆で、盆期間は8月13~16日である。
現代では、一般的に「お盆とは、年に一度祖先の霊が私たちのもとに帰ってくる期間」とされ、13日には、<ahref=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%8E%E3%81%88%E7%81%AB<b>迎え火を焚いて祖先が迷わず家に来られるようにしてお迎えし、戻ってきた祖先の霊の供養をする。やがてお盆の期間が過ぎると16日には送り火を焚いてお送りをする。この風習がお盆の風習として定着している。私たちの宗派では、盆期間中、お寺(菩提寺)で作ってもらった先祖供養のため卒塔婆を盆期間は家の仏壇に祀り、15日にはお寺へ持って行き、追善供養をしてもらったのち、お寺の玄関先で燃やしている。地域、宗派によっていろいろあるだろうがこのような盆期間の一般的な行事は全国的な風習を参照されるとよい。
日本の文化や歴史に残るお盆・先祖の供養や神事は、イギリス海兵隊の艦隊に随行して来日したJ.M.W. Silverが、1867年イギリスで発行した、『Sketches of Japanese manners and customs』(『日本の礼儀と習慣のスケッチ』)という本に幕末期のお盆として掲載されている。冒頭の画像がそれである。この画の拡大図は同志社大学 貴重書デジタルアーカイブで見れる。以下で45番目のページを見られるとよい。

同志社大学 貴重書デジタルアーカイブ Sketches of Japanese manners and customs

暑さ寒さも彼岸まで」とは良く聞く慣用句であるが、彼岸は昼と夜の長さが同じになる季節の区切りであり、平均気温に例えると、3月の春の彼岸は概ね11月下旬から12月初めの気温、9月の秋の彼岸は概ね5月末から6月上旬の気温とほぼ同じであり、それぞれ秋から冬への過渡期の晩秋、春から夏への過渡期の初夏の平均気温と等しくなる。つまり、厳しい冬の寒さも、厳しい夏の残暑も、春分の日や秋分の日を境に目処がついてくるということからこう呼ばれるようになったようだ。
お彼岸は雑節の一つで、春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間(1年で計14日間)であり、この期間に行う仏事を彼岸会と呼んでいる。最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」(あるいは地方によっては「はしりくち」)と呼ぶらしい。なぜ走りというのかは以下参考の*3の「秋の彼岸について」を参照)。
こちらの岸「此岸(しがん)」は、「煩悩(迷い)」の世界であり、かなたの岸の「彼岸(ひがん)」は「悟りの境地」、「お彼岸」の行事の本来の意味は、「悟りの境地」=「極楽浄土」へ到達することを願って行われるものである。
俗に、中日に先祖に感謝し、残る6日は、悟り,の境地に達するのに必要な6つの徳目「六波羅蜜」を1日に1つずつ修める日とされている。
この彼岸という行事も、元々浄土思想に由来し、西方浄土を希求する中国の念仏行事であったものが、日本仏教において、先祖崇拝の行事になった。
彼岸会の「彼岸」は、「日願(ひがん)」から来ているとも言える。日本に限らず古来から、太陽や祖霊信仰は原始宗教,の頃からつきもののようである。
農耕民族の日本人は、この春分一週間を古来よりとても大切な日とし、春は豊穣を祈り、秋は収穫を感謝。作物を育てる太陽に、自分たちを守る先祖に、自然界すべてに感謝してお供え物をお供えしていた。このような経緯からこの彼岸会もお盆同様に日本における祖霊信仰という土壌を考えることができる。
日本ではこの彼岸会について、『日本後記』の中に次の如くのべている。
「大同元年(八〇六)三月辛巳に、崇道天皇光仁天皇の子早良(さわら)親王のために諸国国分寺の僧をして春秋二仲月別七日、金剛般若経を読ましむ」・・・と。
大同元年は五月十八日改元しているから延暦二十五年(八〇六年)となる。早良親王光仁天皇桓武天皇の弟である。七八五年崇道天皇と追号されている。お彼岸の行事はこれより前から行われたと思われるが、文献上ではこの日本後記の説を始めとしているようだ。、この時の彼岸会の目的は、無実の罪によって亡くなった崇道天皇を供養するというものであった。つまり、この当時からお彼岸には死者を供養する習慣があったといえる。崇道天皇のこの辺の事情は、以下参考*3:「彼岸の起源・由来~ひとりの怨霊を鎮めるために」を見られるとよい。
俳句の 季語などでは、単に彼岸といえば「春の彼岸」を指し、「秋の彼岸」は特に「秋彼岸」とか、「後(のち)の彼岸」といっている。これは農作業の始まる季節の「春の彼岸」の方が、特に重要だったからだったからだろう。「秋の彼岸」を過ぎると、季節は「短夜」(みじかよ。4のここ参照)から「夜長」(* ここ参照)へと移っていく。

どんな人間にも必ず先祖はいる。しかもさかのぼれば無数の先祖がいて、その血がどんなに薄くなっても子孫の一人である自分に流れていることは否定できまないだろう。
お墓は、大切だった亡き人やご先祖さまを供養するところである。祈りの象徴であると同時に、お参りする人にとっては精神的な拠りどころであり、連綿と受け継がれてきた命のつながりを身近に感じさせてくれるところでもある。つまり、お墓参りをして先祖供養をすることは、自分をこの世にあらしめてくれた(生かさせて頂いた)全ての人に感謝するということにもなるのであるが・・・。
かつてお墓は、集落の近くの山あいや、一族の屋敷のすぐ隣などにあったことから、人々にとってお墓参りは日常の生活の一部であった。それが時代とともに生活から切り離され、仕事が忙しいとか、お墓が遠いのでそうそう行けないとか、年に数回行くお墓参りに変わってきた。現在、お墓参りの時期として一般に行われるのは、お盆や春秋のお彼岸、故人の命日、正月、年忌法要などくらいであろう。

ところで、人が亡くなった時の葬儀あり方が最近はずいぶんと変わってきたようだ。ここ数年、参列者が少ない規模の小さなお葬式が増えていると聞く。
第一生命経済研究所が2012年に実施した調査では、「身内と親しい友人だけでお葬式をしてほしい」と回答した人が30.3%、「家族だけでお葬式をしてほしい」と考える人が33.1%おり、合わせて6割以上が、家族を中心としたお葬式を希望していた。一方で、「従来通りのお葬式をしてほしい」と考える人はわずか9.0%にとどまったとう。以下の第一生命経済研究所のデーター参照。

「葬儀の参列者を日本とアジア諸国で比較する」 - 第一生命保険

バブル景気の時代には一般的な葬儀でも参列者は優に100人を超えたといわれる。しかし、そのほとんどは遺族の仕事関係の人たちで個人とは直接面識もない人たちであった。そのため、そのころの葬式は、慣習やしきたりに従った社会的な儀式にならざるを得なかった。遺族は仕事関係など義理で参列する人たちの世話に忙しく、個人とゆっくりお別れするゆとりがなかったとといった経験を持つ人は少なくないだろう。
調査の結果は、そんな従来の葬式のあり方へのアンチテーゼでもあるのだろう。
しかし、費用面では、決して、身内だけでの少人数の家族葬の方が費用負担が少ないとは限らないようだ。香典が入らないので、葬儀費用のほぼ全額が遺族の自己負担となるからだ。
それでも、義理や世間体を重視するのではなく、故人と親しい人だけで送りたいと、家族葬を選ぶ人がふえているようだ。私なども同様の考え方であり、自分の葬儀は、身内だけのこじんまりとした家族葬をしてもらおうと思っているが、家人も同意見であり、これはすでに子供たちにも話してある。

また、お墓の事情も多様化しているようだ。
土。日の新聞チラシなど見ていると、その中に霊園の案内チラシも必ずと言うほど見受けられる。特にお彼岸近くの日には数枚折り込まれているこの頃である。
これは霊園に関する需要があるのか、需要を創造しているのか不明であるが、都市を中心として霊園開発が相次いでいるようである。
霊園産業、墓石産業界の売り込みの激しい売り込み競争が見られる。
前にこのブログ9月9日の記念日「知恵の輪」の日でも書いたところだが、日本では少子化・高齢化の中、総人口が減少するなかで、高齢化率は上昇し、いわゆる「団塊の世代」(昭和22(1947)~24(1949)年に生まれた人)が65歳以上となる2015(平成27)年、つまり、今年には国民の4人に1人が65歳以上という高齢化社会に突入した。その中で65歳から74歳までの前期高齢者の比率と、75歳以上の後期高齢者(後期高齢者医療制度対象者)の絶対数がまもなく(2020年頃)入れ替わる更なる「超高齢社会」に入るが、一方、日本の総人口は、2050(平成62)年には1億人を、2060(平成72)年には9,000万人を割り込むことが予想されている。そして、このとき(2060年)には、高齢化率は39.9%に達し、2.5人に1 人が65歳以上。内、75歳以上人口が総人口の26.9%となり、4 人に1 人が75歳以上の社会となるのである(以下参照)。

第1章 高齢化の状況(PDF形式:501KB) - 内閣府

このことは、団塊の世代がこの世を去るまでの今後30 年間ほどまでは死亡数は増加の一図をたどるということになるのである。言い換えれば、お墓の需要が増えるということが予測され、今の霊園・墓石産業界等の競争激化を生んでいるのだろう。
同時に、全体的には人口の減少傾向の中、都市への人口集中度は増加している。これは過疎地域等での無縁仏の増加、寺院の檀信徒の減少による墓苑・寺院の衰退にもつながっている。一方都会では墓苑土地の確保が困難になる。そのことは墓地への認識の変化と経済のグローバル化による自由市場経済の拡大と共に新しい墓地・墓石の形態が出てくる一因ともなっているようだ。
○寺院の地下や、屋上を利用する墓地○納骨堂(ロッカー式)形式墓地○壁墓地・プレート型墓地○両家、夫婦墓○永代供養墓、有期限の墓、それに○散骨など・・・。
人は生まれたからには必ず死を迎える。死んだ後「自分がどのように処置されるか」、墓地墓苑を訪れたときなど「自分の死後の空間は・・・拠り所は・・?」と考えるのであろうか。
お墓を持たない世帯は生前に自分のお墓を建てたいという気運が最近高まっているようだ。生前のお墓の建立は寿陵といって縁起がいいと旧来よりいわれていた。最近では単に縁起がよいということだけでなく「子供に負担をかけたくない」「子供はあてにならない」「終の安住地は自分らしく」等の理由でお墓を購入している人が増えているという。そして、今年から相続税の節税対策にもなると、墓石業者などが触れ込んだことが背景の1つとしてあるのかもしれない。

第一生命保険が家庭内祭祀の実態を2012年に 20歳以上84歳以下の全国男女765人を調査調査対象調査した結果、「戦後、核家族化や少子化で死者祭祀の担い手である「家」が変容したことに加え、生まれた土地で一生を終えるライフスタイルが主流でなくなったこと、地域共同体が変質したことから、葬送儀礼や祭祀財産としての墓のかたちが多様化している。
しかし一方で、「年に1,2回墓参りをしている」「先祖や亡くなった肉親の霊を祭る」惑い霊的行動の実施率は高く、遺された人が大切な死者を追慕する行為は衰退していないといえる。また、初詣やお札・お守りを持つなど、多くの日本人は、特定の宗派の信仰とは別の次元で宗教的な行動を行っている。」・・・という。以下参照。

NOTES 「宗教的心情としきたりの関連」 - 第一生命保険

このような結果を見ても、これまでのやり方のお葬式では、義理で参列する弔問客の応対に追われ、故人とゆっくりお別れできないという不満や、お仕着せのお葬式のあり方に疑問を抱く遺族も増え、こうした不満が「家族だけで葬儀をしたい」という意識にもつながっているようだ。
しかし、日本のお墓は、子々孫々での継承を前提としているところに特徴があるが、昨今の、少子化、非婚化、核家族化が進み家制度も崩壊したなか、継承者のいない家庭が増えている。たとえ、子孫がいても遠く離れて暮らしていれば、頻繁にお墓参りするのは不可能であり、実際に、墓や祭祀 の継承が困難になった無縁墓の増加が全国各地で問題となりつつある。
事実、私の住んでいる神戸市の市営の鵯越墓園(同市北区。*5また、ここ参照)は、東洋一の規模を誇るといわれているが、私の墓の横に並んである墓も長らく墓参者がなく荒れ放題となっており、今年の盆には市の連絡先を求める札が置かれていた。また、同墓園でも少子高齢化による後継者の不在などで、墓を撤去し、寺などに遺骨の管理を任せる永代供養に切り替える動きが広がっているという(*6参照)。
このような状況の中で、将来的には人口が確実に減少していくことによる無縁仏の増加が一番に気にかかることではある。

死の迎え方や葬送の選択肢が増えた背景には「終活という言葉が流行し、人生の締めくくり方を元気なうちに考え、準備しておこうという気運が中高年の間で高まっている。しかし死は当人だけの問題ではなく、死者を取り巻く家族や友人、ひいては誰もが死にゆくという意味では、社会全体の問題なのである。ところが終活は、「私の死」という視点が大きくクローズアップされ、「大切な人の死」を体験する遺族への配慮が二の次になっている。
地域の人たちが総出で葬儀を手伝い、亡くなった順番に集落の墓地に土葬されるのが当たり前だった時代には、家族の有無にかかわらず、自分の死後に不安を持つ人は少なかったはず。しかし、今では、死の迎え方や葬送の選択肢が増え、さまざまな情報が飛び交う反面、「どんな葬送がいいのか」「誰がやってくれるのか」という不安が増大してきたのは、持ちつ持たれつの互助関係が消滅し、社会の無縁化が進んできたからに他ならないだろう
歳を取り体が弱り、介護が必要になったり、死を迎えたりすれば、どんなに事前準備をしていても、自分で実行することができない以上、自分の思いを理解してくれる人に代行してもらうしかない。人生の終焉(しゅうえん)を考えることは、家族やまわりの人との関係を見直すきっかけにもなるという意味で、終活は、自分が自立できなくなったときに誰かに任せられる関係を築く「結縁」活動だともいえるようだ。私も後期高齢者となり、今は、そのようなことに考えを巡らせながら、その準備をしているところである。少なくとも、死ぬ間際になって、あれをしていなかった・・などといった悔いは残らないようにだけはしておきたい。

私のお墓の前で 泣かないでください
そこには私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

NHK2006 年紅白歌合戦で秋川雅史が歌った「千の風になって」。
この詩は「私は死んだのだけれど、いまは風になって元気に大空を吹きわたっている。だから安心してほしい、そんなに嘆かないでほしい、といった詩なのだが、私もそのようにありたい。

千の風になって 秋川雅史 - YouTube

参考
*1:日本石材産業協会
http://www.japan-stone.org/
*2:石屋さんの豆知識 目次 - 原産業
http://www.harasangyo.co.jp/reader/reader.html
*3:彼岸の起源・由来~ひとりの怨霊を鎮めるために・・・: 今日は何の日
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2007/09/post_7bf3.html
*4:「きごさい」歳時記
http://kigosai.sub.jp/
*5:神戸市:神戸市墓園管理センター
http://www.city.kobe.lg.jp/life/ceremony/memorial/cemetery/
*6:「墓じまい」自分の代で 少子高齢で維持困難、無縁墓も増加 - 神戸新聞
http://www.kobe-np.co.jp/news/kurashi/201505/0007984859.shtml


お彼岸について教えてください。 - 法華宗(陣門流)
http://www.hokkeshu.com/event/dic_o_higan2.html
墓参りの仕方とマナー - 冠婚葬祭マナー
http://www.jp-guide.net/manner/ha/hakamairi.html
お墓の辞典
http://5go.biz/ohaka/
お盆 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E7%9B%86


誕生花 「りんどう」

2015-09-16 | ひとりごと
今日・9月16日に該当する、記念日や歴史、行事等に、今までに書いていない適当なものがみあたらなかったので、今日は、9月16日の「誕生花」について書いてみることにする。
例によって、何時も利用しているインターネット百科事典「ウィキペディア」(英: Wikipedia)を見ると、9月16日の「誕生花」として、リンドウ(*1やコトバンクも参照)とオリヅルランがあった。
リンドウは、リンドウ科リンドウ属多年生植物であるが、オリヅルランは、キジカクシ科・オリヅルラン属に属する常緑で、ある程度成長すると細長い花茎を高くのばし、白い花がまばらに咲くが、あくまで花を観賞するというよりも観葉植物としてよく栽培されている。
この他、ネットでいろいろ調べていると、アキノタムラソウ(秋の田村草)アマランサス((別名: 紐鶏頭。*3のここ参照)、ベロニカ(別名:瑠璃虎の尾。*3のここ参照)、ハゲイトウ(葉鶏頭)ホトトギス(杜鵑草)ヨウシュヤマゴボウ(洋種山牛蒡)などたくさんある(*2参照)。
誕生花は、生まれた月日にちなんだ花のことで、相手に気持ちを伝えるときに,その花のもつ特徴や香などから象徴的な意味をもたせたもの。花言葉には人それぞれのイメージの違いから様々な花言葉が付けられてきた。したがって、誕生花そのものの概念・起源や、誰が決定しているのか等その由来は国や地域によって諸説分かれているようであり、日本国内においても、誕生花 と その日にちの定義はまちまちのようである。
数ある誕生花の中でも、日本では特に、9月16日の誕生花として人気があるのは、何といっても「リンドウ」であろう。
以前、このブログで、誕生花「ジギタリス」 について書いたことがある(ここ参照)のだが、リンドウも私の好きの花の一つでもあることから、今日は、誕生花「リンドウ」について書くことにした。
私の場合、リンドウといえば、私も大ファンだった歌手島倉 千代子が歌っていた『りんどう峠』(作詞:西條八十、作詞:古賀政男)を思い出す。

りんりんりんどうの 花咲くころサ
姉サは馬コで お嫁に行った
りんりんりんどうは 濃むらさき
姉サの小袖も 濃むらさき
濃むらさき
ハイノハイノハイ
(「りんどう峠」歌詞1番)

1954(昭和29)年、コロムビア全国歌謡コンクールで優勝し、同社と専属契約した島倉千代子は翌1955(昭和30)年3月、16歳の時、本名島倉千代子で歌手デビューした。
この時のデビュー曲『この世の花』(同名の映画三部作の主題歌)は半年後に200万枚達成し人気歌手となった。『この世の花』に続いて、同年初の古賀メロディー『りんどう峠』(作詞は西條 八十による)を発表し大ヒット。130万枚を売り上げるなど、この年23曲、1956年34曲、1957年37曲、1958年33曲と驚異的な速さで新曲を次々と発表して、1957年NHK紅白歌合戦(第8回)に初出場以来紅白の常連となり、2004年(第55回)まで35回も出場している。
そういえば、『りんどう峠』は、1957(昭和32)年1月15日公開の松竹カラー色彩で描く娯楽股旅映画『りんどう鴉』(*4)の挿入歌として使われていた。
この映画の主役は歌う映画スターとして人気のあった高田 浩吉で、3人の美女が出ていた。高峰三枝子瑳峨三智子雪代敬子
島倉千代子は、馬子お千代役でのゲスト出演であり、馬を曳く娘っ子の端役であった。ただ馬をひきながら『りんどう峠』を歌うだけで、台詞(セリフ)はなし。高田浩吉が、歌って女に惚れられチャンバラする娯楽時代劇で、チャンバラ映画が大好であった私などは、こんな映画でも見に行ったものだが、チャンバラ映画ファン向けというより、どちらかというと松竹得意の女性ファン向け映画ではあった。

りんどう峠 - 島倉千代子 - 歌詞&動画視聴 : 歌ネット動画プラス

この歌は今の時代からは想像できない、牧歌的な光景が描かれている。ゆったりとしたのどかなテンポの古賀メロディーの中に、馬に乗って隣町へ嫁いでゆく姉はあとを振り返り/\しながら峠の向こうへ消えてゆく。それを見送る妹との別れを淡々と織り込んでいる。
それは、りんどうの花が咲くころであり、リンリンと鳴る馬の鈴も次第に遠ざかり、濃むらさき(濃い紫)のリンドウの花だけがあとに残る。小雨と涙に濡れながら・・・
ちょっと、センチな内容の歌ではあるが、島倉のハイトーンの明るい歌声と合いの手の「ハイの ハイの ハイ」がそれを明るいものにしてくれている。
この歌、非常に音域も広く、特に高温のきれいな声が出ないと歌えない曲なので、結構歌うには、難しい曲だが、それを見事に歌いこなしている、歌詞も良いが島倉の歌唱力も、素晴らしい。当時の良い歌謡曲は、作詞家、作曲家、歌手の三者による総合芸術作品と言えるだろう。今は、このような良い歌謡曲が衰退し、聞けないのが、私たちの年代のものには寂しい。
この歌が発表されたのは、終戦からちょうど10年後のこと。高度経済成長期に入った(1954年から)とは言え、まだ、まだ、戦争の傷跡が、当時の町や、村、そして、人々の心にも残り、古い習慣や文化も残っていたが、その後、日本は急成長し、農村の風景・生活も、また都市も含め、国の全体が、大きく変貌を遂げていく。
この歌のリンドウの花咲く峠は一体どこなのだろう。馬子が出てくるので私など、東北地方の山村の光景が目に浮かぶのだが・・・。
映画『りんどう鴉』は、いかさま師高崎の仁蔵を斬って草蛙(わらじ)をはいたりんどうの政こと高田浩吉が道中、信州の伊那富長野県上伊那郡辰野町にある地名)にやって来ての物語だったが・・・。

「山の秋は旧盆のころからはじまる。(中間略)
秋風は急に吹いてきて、一朝にして季節の感じを変えてしまう。ばさりとススキをゆする風が西山から来ると、もう昨日のような日中の暑さは拭い去られ、すっかりさわやかな日和(ひより)となって、清涼限りなく、まったく宝玉のような東北の秋の日が毎日つづく。空は緑がかった青にすみきり、鳥がわたり、モズが鳴き、赤トンボが群をなして低く飛ぶ。いちめんのススキ原の白い穂は海の波のように風になびき、その大きな動きを見ると、わたくしは妙にワグネルの「リエンチ序曲」のあの大きな動きを連想する。ススキ原の中の小路をゆくと路ばたにはアスター(キク科エゾギク属の草花)系の白や紫の花が一ぱいに咲きそろい、オミナエシ(女郎花)、オトコエシ(男郎花*3のここ参照)が高く群をぬいて咲き、やがてキキョウが紫にぱっちりとひらき、最後にリンドウがずんぐりと低く蕾(つぼみ)を出す。リンドウはの降りる頃でもまだ残って咲く強い草だ。」

上掲の文は、『智恵子抄』等の詩集で知られる詩人・彫刻家高村光太郎の随筆『 山の秋』 (*5の「青空文庫」参照)からの抜粋だが、「昌歓寺」(*6)という曹洞宗 のお寺の名前が出て来るから岩手県の光景だ。高村光太郎は、1945(昭和20)年4月の空襲により東京のアトリエとともに多くの彫刻やデッサンを焼失後、花巻郊外の稗貫郡太田村山口(現在は花巻市)に粗末な小屋を建てて移り住み、ここで7年間独居自炊の生活を送っているから、そのころのことを書いたものだろう。
タイトル『山の秋』の光景がよく表現されている。ちなみに「ワグネル」とはリヒャルト・ワーグナー>の「リエンチ序曲のことであり、以下で聴ける。

ワーグナー:歌劇「リエンツィ」序曲

リンドウ(和名:龍膽=竜胆)は、本州から四国・九州の湿った野山に自生する(近縁種も含めるとほぼ日本全域に分布しているようだ)。花期は秋・9~11月。秋空に映える濃い青紫色の花は野趣・美しさ・かわいらしさなどを兼ね備えた日本人の心に響く古くから親しまれてきた野草ともいえる。
かつては水田周辺の草地やため池の堤防などにアキノキリンソウなどの草花とともに、たくさん自生しているのがみられたが、それは農業との関係で定期的に草刈りがなされ、草丈が低い状態に保たれていたためだったが、近年、そのような手入れのはいる場所が少なくなったため、リンドウをはじめこれらの植物は見る機会が少なくなってしまったようである。高村光太郎が花巻市に小屋を建てて住んでいたころは、リンドウなどどこでも見られたのだろう。

「日本の植物学の父」といわれ、多数の新種を発見し命名も行った近代植物分類学の権威である植物学者牧野 富太郎は、『植物知識』(*7青空文庫参照)の冒頭序文に、以下のように書いている。
は、率直にいえば生殖器である。」「この花は、種子(たね)を生ずるために存在している器官である。もし種子を生ずる必要がなかったならば、花はまったく無用の長物で、植物の上には現(あらわ)れなかったであろう。そしてその花形(かけい)、花色(かしょく)、雌雄(しゆうずい)の機能は種子を作る花の構(かまえ)であり、花の天から受け得た役目である。ゆえに植物には花のないものはなく、もしも花がなければ、花に代わるべき器官があって生殖を司(つかさど)っている。」・・・と。そして、最後に、
「われらが花を見るのは、植物学者以外は、この花の真目的を嘆美(たんび)するのではなくて、多くは、ただその表面に現れている美を賞観(しょうかん)して楽しんでいるにすぎない。花に言わすれば、誠(まこと)に迷惑至極と歎(かこつ)であろう。花のために、一掬(いっきく)の涙があってもよいではないか。」・・・と。

牧野 富太郎のような植物学者でもない、私なども、花の真目的を嘆美することなく、ただ見た目を楽しんでいるだけなので、何と言ってよいかわからないが、彼は、この序文の中間では、今独身貴族を謳歌している人たちにはちょっと頭の痛いことをも書いている。ここではそんなことには触れないこととする。ただ、今のままでは日本の総人口は、2060年には9000万人を割り込み、8,674万人になると推計されている(*8参照)ことだけを記しておこう。これだけ人口が減少すれば、当然、日本の経済力も落ちることは間違いないだろうね。
牧野 富太郎は序文に続いていろいろ花の解説をしているが、リンドウの花については以下のように解説している。

「リンドウというのは漢名、「龍胆」の唐音の音転(おんてん)であって、今これが日本で、この草の通称となっている。中国の書物によれば、その葉は、龍葵(りゅうき)のようで味が(きも)のように苦(にが)いからそれで龍胆(りんどう)というのだと解釈してあるが、しかし葉が苦いというよりは根の方がもっと苦い、すなわちこの根からいわゆるゲンチアナチンキが製せられ、健胃剤(けんいざい)に使われている。
 リンドウは昔ニガナ(*9も参照)といった。すなわち、その草の味が苦いからであろう。また播州〔兵庫県南部〕ではオコリオトシというそうだが、これもその草を煎じて飲めば味が苦いから、病気のオコリがオチル、すなわち癒(なお)るというのであろう。また葉が笹のようであるから、ササリンドウの名もある。
 リンドウは向陽(こうよう)の山地、もしくは原野の草間(そうかん)に多く生ずる宿根草(しゅっこんそう)で、茎(くき)は三〇~六〇センチメートルばかり、葉は狭(せま)くて尖(とが)り無柄(むへい。=葉柄を欠いた)で茎を抱いて対生(たいせい)し、全辺で葉中(ようちゅう)に三縦脈(じゅうみゃく)があり、元来緑色なれど、日を受けて往々紫色に染(そ)んでいる。秋更(ふけ)ての候(こう=季候。時候)、その花は茎頂(けいちょう。=植物の茎の先端部分で細胞分裂が行われる部分)に集合して咲き、また梢葉腋(しょうようえき)にも咲く。花下(かか)に緑(りょくがく)があって、尖がった五つの狭長片(きょうちょうへん。狭長=細長い)に分かれ、花冠(かかん)は大きな筒をなし、口は五裂(れつ)して副片(ふくへん)がある。この花冠は非常に日光に敏感であるから、日が当たると開き、日がかげると閉じる。
 ゆえに雨天の日は終日開かなく、また夜中もむろん閉じている。閉じるとその形が筆の頴(ほ=ほさき)の形をしていて捩(ねじ)れたたんでいる。色は藍紫色(らんししょく)で外は往々褐紫色(かっししょく)を呈(てい)しているが、まれに白花のものがある。筒中(とうちゅう)に五雄蕊(ゆうずい)と一雌蕊(しずい)とが見られる。花後(かご)には、宿存花冠(しゅくそんかかん)の中で長莢(ちょうきょう=ながさや)状の果実が熟し、二つに裂て細かい種子が出る。このように果実が熟した後茎(くき)は枯(かれ)行き、根は残るのである。
 花は形が大きく且(かつ)はなはだ風情があり、ことにもろもろの花のなくなった晩秋に咲くので、このうえもなく懐かしく感じ、これを愛する気が油然(ゆうぜん)と湧(わき)出るのを禁じ得ない。されども、人々が野や山より移して庭に栽植しないのはどうしたものか、やはり、野に置けれんげそうの類かとも思えども、しかしそう野でこれを楽しむ人もないようだ。
 リンドウはリンドウ科( Gentianaceae )に属し、わが邦(くに)では本科中の代表者といってよい。そしてその学名は Gentiana scabra Bunge var. Buergeri Maxim. である。この学名中にある var. はラテン語 varietas(英語の variety)の略字で、変種ということである。
このリンドウ属(Gentiana)には、わが邦(くに)に三十種以上の種類があるが、その中でアサマリンドウ(*10のここ参照)、トウヤクリンドウ(*1のここ参照)、オヤマリンドウハルリンドウフデリンドウ、コケリンドウ(*11参照)などは著名な種類である。右のアサマリンドウは、伊勢〔三重県〕の朝熊山(あさまやま)にあるから名づけたものだが、また土佐〔高知県〕の横倉山にも産する。
 根の味が最も苦く、能(よ)く振ふり出して健胃(けんい)のために飲用するセンブリは、一(いつ)にトウヤク(当薬)ともいい、やはりこのリンドウ科に属すれど、これはリンドウ属のものではなく、まったく別属のもので、その学名を Swertia japonica Makino といい、効力ある薬用植物として『日本薬局方』に登録せられている。秋に原野に行けば、採集ができる。」・・と。

リンドウの花の説明の中でも、牧野が言いたい花の真目的のことはきっちりと述べられている。彼が如何に草木を重要なものと考え愛していたかは最後の“あとがき”のところを読めばわかる。時間があればぜひ読まれたい。

補足すると。りんどう(竜胆)の属名のGentiana(ゲンティアナ)は紀元前180年~167年に存在したイリュリア王国(現バルカン半島西部)の最後の王ゲンティウスに由来したものだそうだ。、古代ローマの博物学者大プリニウスが著した百科全書的な書『博物誌』に彼がリンドウの薬効を発見したということが書かれているそうだ(*1また、*12参照)。
上記牧野 富太郎の『植物知識』に出てくる「オヤマリンドウ」(学名:Gentiana makinoi)、「センブリ」(千振、学名:Swertia japonica (Schult.) Makino)の学名にある、makinoi や、Makino
は、牧野富太郎の名に因んだものである。彼が命名したものは2500種以上(新種1000、新変種1500)とされ、自らの新種発見も600種余りとされている。

日本では平安時代中期に作られた源順の『和名類聚抄』((『和名抄』とも)は龍膽(竜胆)の和名として、「衣也美久佐」(えやみくさ)や「爾(尓)加奈」(にかな)」」と名づけた。全草は苦く、それを中国では竜の胆に例え、日本では万葉仮名を読み替え「笑止草(えやみぐさ)」、や「苦菜(にがな)」と名づけたようである(*1参照)。しかし、エヤミとは『疫病』を意味する古語であり、「笑止草(えやみぐさ)」は「疫(えやみ)草(ぐさ)」かと思うが、エヤミ「瘧」とも書くことから「瘧草」(わらわやみぐさ)ともなるのかもしれない。そうすれば「瘧草」(わらわやみぐさ)から「笑止草(えやみぐさ)」への転嫁も考えられる。
竜胆は天平5年(733年)に完成した『出雲国風土記』の神門郡(*13の〔凡諸山野所在草木〕のところ参照)に初見するが、『万葉集』では歌われていないそうだ。リンドウは竜胆の音読みで、『枕草子』に、以下のように読まれている。

竜胆(り敬老の日」のプレゼントとして人気の高い花のようだ。
理由は、ちょうど最盛期の花ということに加えて、リンドウの色(紫)が、聖徳太子のはじめた冠位十二階制度の中で、当時一番高位の色とされていた。そのことから、リンドウの色の紫色が古来より位の高い人、尊敬に値する人に身にまとってもらう色として大切にされてきたこと、リンドウの落ち着いた日本情緒あふれる雰囲気が、「シルバー世代」の好みに合うといったイメージが出来上がっているからではないかな?
それに、9月16日頃が、ちょうど「敬老の日」の時期に当たる。「敬老の日」は、9月の第3月曜日。今年・2015年の場合は、9月21日がその日になる。プレゼントにはまだ日がある。プレゼントには、リンドウの花など添えられてはどうだろう。

参考:
*1:跡見群芳譜巻五 野草譜- 跡見学園
http://www2.mmc.atomi.ac.jp/web01/Flower%20Information%20by%20Vps/Flower%20Albumn/chap5.htm
*2: 9月生まれの人の誕生花 ・花言葉| チルの工房【无域屋】花札庵
http://chills-lab.com/lofday/month-09/#16
*3:季節の花300
http://www.hana300.com/aatanjyo09.html
*4:りんどう鴉 | Movie Walker
http://movie.walkerplus.com/mv24950/
*5:高村光太郎 山の秋 (青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001168/files/43782_25641.html
*6:曹洞宗 法音山 昌歓寺
http://ww5.et.tiki.ne.jp/~jin-s/
*7:牧野 富太郎『植物知識』(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001266/files/46821_29301.html
*8:(2)将来推計人口でみる50年後の日本|平成24年版高齢社会白書
http://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2012/zenbun/s1_1_1_02.html
*9:野の花散歩・ニガナいろいろ
http://www.geocities.jp/mc7045/sub74.htm
*10:四季の山野草図鑑
http://www.sanyasou.com/index/idx_flame.htm
*11:コケリンドウ/みんなの花図鑑 - 総合花サイトみんなの花図鑑
https://minhana.net/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B1%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A6
*12:Fringed Gentian | Satchanから自然便り
http://plaza.rakuten.co.jp/washingtonbird/diary/200610050000/
*13:出雲国風土記(原文) - Synapse
http://www3.synapse.ne.jp/kintaro/c400files.htm
*14枕草子(堺本)
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/makurasakai.html
<7>青雲の志7林虎彦その3 学名に「マキノ」鼻高々 : 地域 : 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/local/kochi/feature/CO003998/20130405-OYT8T01405.html
国立国会図書館デジタルコレクション - 和名類聚抄 20巻
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2606770
366日・誕生花の辞典
http://www.366flower.net/
誕生花 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%95%E7%94%9F%E8%8A%B1

知恵の輪」の日

2015-09-09 | 記念日
日本記念日協会に登録の今日・9月9日の記念日に「知恵の輪」の日があった。
由緒を見ると、知恵の輪を知らない人が知恵の輪と出会い、知恵の輪を楽しんだことのある人が知恵の輪の思い出を蘇らせるなど、知恵の輪の魅力を知るきっかけの日にと、岐阜県在住でオリジナルな知恵の輪を手作り販売する愛好家が制定(*1)。日付は最も易しい知恵の輪のひとつに9の形の二つを組み合わせた知恵の輪があることと、難しいことで知られている知恵の輪に「九連環」というのがあることから。・・・とあった。
知恵の輪は、英語では、 puzzle ringと言われるそうだが、パズルの一種で、基本的には、簡単に外すことができない一組(2つ以上)の部品を、繋げたり外したりする遊びである。私などが子供のころに流行っていたものは、このタイプで、部品には金属が使用され、大抵のものは、特定の外し方によって簡単に外すことができるが、手順が複雑なために外し方を知っていても、外すまでに時間が掛かるものも存在する。
私も子供頃ずいぶんやったものだが以来長い間したことがないが、最近また流行っているのだろうか?
日本で「九連環」と呼ばれているものは、その名が表す通り中国で生まれた知恵の輪で、「チャイニーズリング」(Chinese ring)と言われるもので、一つながりになった輪から別の一本の輪を外すのが目的。解答の動きは規則的だ。
「九連環」という名前が通用していることから、輪が9個のものが最も多いが、5個のものや、11個や13個のもの、さらにもっと多いものも存在するそうだ。
チャイニーズリングは、もっとも古い種類の知恵の輪と考えられており、前漢の時代に編纂された『戦国策』には、以下のように、「昭王斉国に玉連環を贈った」という記述が出てくる(*2、また、*3:「斉の歴史」の“王建、秦に降伏す”を参照)。
『戦国策』
秦始皇嘗使使者遺君王后玉連環,曰:「齊多知,而解此環不?」
君王后以示群臣,群臣不知解。
君王后引椎椎破之,謝秦使,曰:「謹以解矣。」

確証はないがここに出てくる「玉連環」が、「九連環」と同種のものであるといわれているよ.うだ。一方では九連環は、「諸葛亮(字:孔明)が、妻の無聊を慰めるために考案した」という伝説もある(Wikipedia)・・・そうだが、どうもこちらの方のは、文献にはなく単なる民間伝承のような気がする。また、昭王が斉国に送った玉連環は字のごとく、玉製の知恵の輪で、斉国には誰も解くことのできる者がおらず、斉王建の母である君王后はこれを打ち砕いたという。 このときの玉連環はこんなものではないか・・と思われるものが故宮博物院に保管されているようだ(*2で写真参照)。
また、文学的には、中国の清朝中期乾隆帝の時代(18世紀中頃)に書かれた長篇白話小説の『紅楼夢』(中国四大名著の一つ)に、ヒ、ロインの林黛玉が九連環を解く記述があるらしい(*2、*4参照)が、中国の連続テレビ劇には、林黛玉が「九連環」をしている場面が登場している。
以下その動画を参照。
紅楼夢03刘姥姥一进荣国府- YouTube
西洋では、イタリアの数学者カルダーノ( Gerolamo Cardano)が1550年に書いた本の中でチャイニーズリングを論じているというから、相当古くからあったことは確かだろう。なお、イタリアではチャイニーズリングを「カルダノの輪」と呼んでいるそうだが、「カルダノの輪」と中国のものとの関係性はよくわからない。
チャイニーズリングは、錠前の一種として、財布の留め金に用いられたという。
杉田玄白が、文化12年(1815年)に著した『蘭学事始』(上下2編)の一文に、平賀源内らがカピタン(オランダ商館長)に会ったとき、知恵の輪付の金袋を出され、他の者らは皆てこずるが、源内は解いてみせたという話が載っている(*5:「蘭学事始」の上の巻参照)。

*5:『蘭学事始』上の巻(原文)より
何れの年なりしか、右にいふカランスといへるカピタン≪商館長≫参向の時なりしが、ある日、かの客屋に人集まり酒宴ありし時、源内もその座に列なりありしに、カランス戯れに一つの金袋を出し、この口試みに明け給ふべし。あけたる人に参らすべしといへり。その口は知恵の輪にしたるものなり。座客次第に伝へさまざま工夫すれども、誰も開き兼ねたり。遂に末座の源内に至れり。源内これを手に取り暫く考へ居しが、たちまち口を開き出せり。座客はいふに及ばず、カランスもその才の敏捷なるに感じ、ただちにその袋を源内に与へたり。

知恵の輪には、この他、アメリカのパズル作家サム・ロイド(Sam Loyd)の作品で、「ボタンホール」というものがあり、これは、先端に輪になった紐がついた棒で、この紐の部分を相手の衣服のボタンの穴につけて外させるものらしい。英語の“buttonhole”という単語に「他人の興味を引く」という意味があるのは、このパズルが由来とされているそうだ。
また、「キャストパズル」といわれるものは、鋳造によって作られた金属製の知恵の輪で、元々は19世紀にイギリスで作られた物だだそうだが、現在、多くの復刻版や新作が日本のパズル作家芦ヶ原伸之監修の元ハナヤマ(*6参照)より発売されている。従来の知恵の輪がおもちゃ屋でしか販売されなかったのに対し、書店やコンビニエンスストアなどでも販売された。
知恵の輪が今、若い人の間でどれほど流行っているのかは知らないが、ネットで見ると老人ホームグループホームなどでも利用され人気らしい。
知恵の輪には種類も多く、外すのではなく、部品同士を特定の形にもってゆくことを目的とするもの、また、大抵のものは、特定の外し方によって簡単に外すことができるが、手順が複雑なために外し方を知っていても、外すまでに時間が掛かるものも存在する。
外す方法を探すために試行錯誤する過程を楽しむ。また、外した後には元の形に戻すことも楽しみの一つとなるなど、楽しみ方はいろいろあるようだ。長いことしていないが、高いものでもないので、また、簡単なセット物でも買ってボケ防止の一環として楽しもうかな~。
大人気知恵の輪 | toys-games.mechakaitai.com

日本では少子高齢化の中、総人口が減少するなかで、高齢化率は上昇し、いわゆる「団塊の世代」(昭和22(1947)~24(1949)年に生まれた人)が65歳以上となる2015(平成27)年、つまり、今年には国民の4人に1人が65歳以上という高齢化社会に突入した。その中で65歳から74歳までの前期高齢者の比率と、75歳以上の後期高齢者(後期高齢者医療制度対象者)の絶対数がまもなく(2020年頃)入れ替わる更なる「超高齢社会」に入るが、一方、日本の総人口は、2050(平成62)年には1億人を、2060(平成72)年には9,000万人を割り込むことが予想されている。そして、このとき(2060年)には、、高齢化率は39.9%に達し、2.5人に1 人が65歳以上。内、75歳以上人口が総人口の26.9%となり、4 人に1 人が75歳以上の社会となる(以下参照)。
第1節 高齢化の状況(PDF形式:367KB)
このような高齢化率の増加に伴い、介護を必要とする「要介護高齢者」の数も増加し、国としては、そういった人たちのケアを今後いかに担っていくかが社会問題になっている。。
また、そのような中、高齢者当人にとっては、これからの余生を如何に健康で送れるかその生活のあり方が課題であり、中でも多くの老人にとっては、何時ボケる(痴呆。認知症)かも知れない・・・のが、一番の心配ごととなっているのではないだろうか。
は常に衰えていく器官なのだそうだが、その速度はストレスや生活習慣(生活習慣病.参照)などで大きく変化するのだとか・・・。
高齢になるとボケが起こりやすくなるのもこのためだと考えられ、そのため、脳を鍛え活性化させ、衰えを予防することが大切だという。参考✻7には、その予防法がいろいろと書かれている。
後期高齢者の仲間入りをした私の場合、健康管理については、特別にたいそうなことはしていないが、食生活面では、一応かかりつけの医師より注意されていることには注意しているが、余り、栄養的なことより、おいしく食べることを優先しているので、あとは家人任せで、食べ過ぎ、飲みすぎだけは注意をしている。
身体的な面では早朝のウオーキング(約一時間)やラジオ体操(また、テレビ体操)、それに血圧の管理くらいしかしていないが、ボケ防止に、旧式のテレビゲームで、パズルゲーム(簡単なアクションパズル含む)をよくしている。
これらゲーム機やソフトの購入は、現役の最後に5年間ほど九州の関係会社へ出向したが、その際家人が同伴したので、知らない土地で出張の多い私がいないときなどさみしかろうと、簡単なパソコンのゲームソフトを買ってやったのが始まりである。そのうち 骨とう品などに興味のある私は神社などの市へ出かけると任天堂のファミコンやゲームボーイ、セガのゲーム機や使用して厭いたゲーム機やソフトをまるでただのような安い値段で子供たちが親の横で処分していた。まだ、中古ソフトの専門店などがやっとでき始めた時だったので、これらの専門店もまだ少なかったことから、このような市で処分していたのだ。
ソフトなど100円や200円といったただみたいな値段で処分していたので、これでいいのと聞くと親ももう必要ないからいくらでもいいのですというのでそれらを買い漁っておいた。だから、初期の、任天堂や、セガ、プレステなどの各種ソフト、それもパズル系のものは息子があきれ返るほどの数を持っている。
孫が小さいときなどは孫が家に来ると一緒にしていたが、今では、家人と対戦をしたりして楽しんでいる。しかし、買った当初は若かったのだとつくづく感じさせられる。当時はクリアーできたものも、今では、クリアーできないものが多くなった。目に見えての衰えは感じなくても、いつの間にか判断力も反射神経も知らないうちにすごく衰えていることを痛感させられる。
それと、現役を退いたときから始めたホームページの作成、それに続いて始めたこのブログの更新。もう長い年数が経つので、このブログも何をテーマーに書くか。テーマー探しに苦労している。私が、なんでも知っているわけではないので、家にある蔵書や図書館の本、また、ネットのWikipedia他を参考にしながら書いているのだだが・・・。老化した脳で書くには結構大変だ。今は、少々負担になりかけているので、そろそろ止めようかと思ったりもするのだが、息子からはボケ防止で続けるように言われているので、今しばらくはそういった意味でやってみようと続けているが・・・。それと、最近はわずかばかりのお金で、株価の安い株式への少額投資をしている。昨年のまだ株式が比較的安いころに勝っているのでその後の値上がりで結構儲かっている。今中国経済の不透明さが影響し、株価は急落しているが、昨年大きく設けているのでそんな依存をすることはないだろう。しかし、わずかな金額の投資でも、経済の動向や毎日の株価の変動は気になるもので、これも結構脳を刺激してくれている。
ネット検索していると以下のようなサイトがあった。
ボケ防止 記憶力の低下にはこれが効く! - NAVER まとめ
とにかく、なんでもよいから、いろいろと脳を刺激しておかないと・・・。

ところで、知恵の輪の「知恵」だが・・・?
今のような高学歴化した時代、昔に比べれは知識をもった人は多い。
「知識」とは簡単に言えば、ある事柄について知っていること。また、その内容をいうが、「知恵」があるかどうかは別の問題だろう。
「知恵(慧)」は、物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力。言い換えれば、ものごとの理を悟り、適切に処理する能力をいう。
孟子は書物としての『孟子』公孫丑上6(*8:黙 斎を語るー朱子学の基本となる書の孟子公孫丑章上―6参照)に、「性善説」の根本思想を含めた四っの心(四端の心)についての記述がある。
「惻隱の心は、仁の端なり。羞惡の心は、義の端なり。辭讓の心は、禮の端なり。是非の心は、智の端なり。」
ちなみに「端」とは、兆し、はしり、あるいは萌芽を意味する。心の作用には「四端」といって、以下の4つの要因があるとしている。
1,惻隠…他者の苦境を見過ごせない「忍びざる心」(憐れみの心)
2.羞悪…不正を羞恥する心
3.辞譲…謙譲の心
4.是非…善悪を分別する心
修養することによってこれらを拡充し、1、が、「」の「仁」につながり、2が「義」に、3が「礼」に、4が、「智」につながるとしている。つまり、このように自然の心の延長線上にのすべてがあり、決して無理に押しつけられたり、後から教育されたものではないと主張している。
ここで、他のことは別として、知は上記に記した通り、「是非の心」 としており、この「是非の心」というのは、よい悪いを正しく見分けることのできる心、のことを言っている。
知恵と知識の関係については、様々な考え方があるが、知識を沢山持っていても、知恵を著しく欠いている人もいる、また、知識はさほど多くなくても、立派に知恵を持っている人もいる、などとも言われる。
ビジネスにおいて、専門知識は不可欠である。その「知識」は、書物やテキストから、また、企業のマニュアルなどからも得られる。またいろいろな講座を受けたり、他の人との情報交換、あるいはネットで検索して、そこから取得できる情報も「知識」と言えるだろう。このような知識を蓄えることも大切だが、それはあくまでデータベースでしかありえない。知識を売り物にしているクイズ芸人などはいざ知らず、普通では、「知識」をいくら豊富に持っていても、それだけで役に立つとは言い切れず、大事なのはそれをいかに生かすかということになる。
「知識」を生かすにはどうすれば良いか? 「百聞は一見に如かず」(*9)のことわざもあるように、それは、あくまで「知識」に過ぎず、一度でも実際に自分の目で見て体験することには及ばない。知っていることと、実際に経験したこととでは大きな違いがある。つまり、「知識」はその人の経験を通して初めて「知恵」に変わり、自分の能力として身に付けることができるのである。
「知恵」とは、経験を通し「知識」を応用して自分自身で考え、新たなアイデアや価値を付け加えて実践に役立てる能力だともいえる。最近はいろいろとノウハウものが増えている。
安易にノウハウものに頼っていては、「知恵」はつかないだろう。
『知恵の輪』の解き方などのノウハウものもYouTubeその多いろいろと出てはいるが、できれば、そのようなものに頼らず、自分で解くことを楽しみ、どうしてもできないときに、そのようなノウハウものを参考にするとよいだろう。
先に紹介したキャストパズルのホームページを見ると、販売した商品パッケージの中に解答図を入れてないそうだ。パズルを解く"楽しみ"と"苦しみ"を充分に味わってもらうため。ぜひ、自力で解答を見つけていただき、本当の"感動"を味わってください。。。。とある。
もし、それでも「どうしても解き方がわからない」という方のために解答図を用意しているので申し込めば解答図を送ってもらえるそうっだ。これはいいやり方だと思う。(ここ参照)
偉そうに、こんなことを書いている私なども、YouTubeなどでその解き方などをもう見てしまった。でも、年だな~。見ているだけではよくわからない。早速買って、やってみよう。

【知恵の輪】解き方≪動画) - YouTube

参考:
*1:知恵の輪の日
http://www.geocities.jp/kumikugi/
*2:九連環| 中國古代益智遊戲 - Classical Chinese Puzzles
http://chinesepuzzles.org/hk/nine-linked-rings/
*3:斉の歴史
http://www.sun-inet.or.jp/~satoshin/chunqiu/sei/seilist.htm
*4:紅楼夢に九連環 - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/kumikugi/34813765.html
*5:蘭学事始現代語訳+原文
http://book.geocities.jp/kunio_suwa/rangaku.pdf#search='%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9+%E6%BA%90%E5%86%85+%E8%98%AD%E5%AD%A6%E4%BA%8B%E5%A7%8B'
*6:キャストパズル | 株式会社ハナヤマ
http://www.hanayamatoys.co.jp/product/category/puzzle/cast.html
*7:認知症予防・ボケ防止サイト 老年若脳
http://magald.com/
*8:黙 斎を語るー朱子学の基本となる書
http://mokusai-web.com/shushigakukihonsho/shushigakukihonsho.html
*9:百聞は一見にしかず - 故事ことわざ辞典
http://kotowaza-allguide.com/hi/hyakubunwaikken.html
古今名言集~座右の銘にすべき言葉~
http://www.kokin.rr-livelife.net/
故事百選
http://www.iec.co.jp/kojijyukugo/index.php

木歩忌

2015-09-01 | 人物
今日・9月1日は境涯の俳人と呼ばれた富田木歩(とみたもっぽ)の1923年の忌日である。
東京の下町、墨田区向島2丁目の、隅田川に沿った墨堤(ぼくてい)通り(墨田区吾妻橋から足立区千住桜木までの道路の呼び名)から少し入ったところに、三囲神社(三囲稲荷社。※1:「Google Earthで街並散歩(江戸編)」の江戸北東エリアの三囲神社も参照)がある。創建年は不詳であるがなかなか由緒ある神社で、三囲の名は社殿の下から掘り出された翁がまたがる白狐の神像から白狐が現れて、三遍回って姿を消したことに由来するとされる(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー『江戸名所図会』※2の7巻.-19の本文参照)。
新春行事の「隅田川七福神めぐり」(※1の江戸の巡礼の隅田川七福神)の神社のひとつにもなっている。この三囲神社(三囲社)のことは、以前このブログ「雨水」(うすい)で触れたが、元禄6年(1693年)、旱魃(かんばつ)の時、松尾芭蕉の一番弟子と言われる俳人宝井其角が偶然、当地に来て、地元の者の哀願によって、この神に雨乞いする者に代わって、

「遊(ゆ)ふた地(=夕立のこと)や田を見めくり(三囲)の神ならは」

と、一句を神前に奉ったところ、翌日、降雨を見たという。このことからこの神社の名は広まり、京都の豪商三井氏が江戸に進出すると、その守護神として崇め、三越の本支店に分霊を奉祀したという。

国立国会図書館・近代デジタルライブラリー『江戸名所図会』(※2)の19巻-4「三囲稲荷社拡大図」

そのせいか、同社境内には、其角の句碑をはじめ、著名俳人の句碑がたくさんあり、その中に、富田木歩の句碑もある。

「夢に見れば死もなつかしや冬木風 木歩」

同句碑は、全国の俳人有志が浄財を出して、木歩の慰霊の為に建てたもので、同句碑の書は臼田亞浪による。
句碑裏面には「大正拾参年九月一日震災の一周年に於て木歩富田一君慰霊乃為建之友人一同」と刻まれている(※3 参照)。
1989(平成元)年3月には、富田木歩終焉の地である枕橋(※1の江戸北東エリア・隅田川・向島の源森橋参照)近くには、以下の句碑が墨田区によっても建立されている。

「かけそくも咽喉(のど)鳴る妹よ鳳仙花 木歩」

肺を患い死期の迫った妹を歌ったものである。木歩はすぐ年下の妹を看病をするが、妹もまた兄思いであった。その妹は大正7年7月になくなている。
富田木歩は多くの俳人の中でも特異な俳人である。木歩は、1897(明治30)年4月14日、東京市本所区新小梅町(現在の東京都墨田区向島一丁目)、つまり、三囲神社のすぐ隣りに生まれた。木歩が生まれた明治30年頃は、まだ江戸時代のおもかげの残った下町であったという。
最初の俳号は吟波、後に木歩と号するようになる。誕生の翌年、高熱のため両足が麻痺し生涯歩行不能になった。加えて貧困のため、本人の強い希望にもかかわらず義務教育である小学校にも通えず、2人の姉・富子や久子に当時の「いろはがるた」や「軍人.めんこ」などを読んでもらって文字を覚え、それを頼りに、少年雑誌のルビ付きで難しい漢字をも会得したという。
俳号の木歩は、彼が歩きたい一心で自分で作った木の足に依る。
彼には4人の姉妹と兄、聾唖の弟がいたが、姉妹は貧困のゆえにことごとく遊郭に身を落とし、一人の妹と弟も結核で亡くなっているが、彼の最期も無惨なものだった。
木歩自身も、1918(大正7)年21歳のころから、喀血するようになり、病臥の身となった。歩行不能、肺結核、貧困、無学歴の四重苦に耐えて句作に励み、「大正俳壇の啄木」と言われ将来を嘱望されていたが、1923(大正12)年9月1日、関東大震災で焼死。26歳の短い生涯を終えた。

そもそも、富田家は旧家で代々、向島小梅村近辺の大百姓だったそうだ。向島には三業組合(三業とは 芸者置屋、料理屋、待合のことであり、三業組合の事務所として見番[検番]がある)が今でもあり、花街がある。また隅田川土手は隅田公園と言われ、江戸時代に8代将軍・徳川吉宗が桜を植えたのが始まりの桜の名所として有名。そして、同じく吉宗が大川端(現在の隅田川河畔)で催した、「川施餓鬼」(死者の霊を弔う法会=施餓鬼)に遡る隅田川の花火(ここ参照)は夏の風物詩であり、冬は雪見の名所でもあった(※4、※5参照)。
広義の向島、隅田川東岸には「牛島」「柳島」「寺島」などといった地が点在していた。対岸地域から見て、これらを「川向こうの島」という意味で単に「向島」と総称したとも言われている。「向島」の名前が正式な行政地名としてつかわれるようになったのは1891(明治24 )年に向島小梅町、向島須崎町、向島中ノ郷町、向島請地町、向島押上町などといった地名の誕生からのこと。墨田区が成立する前、1932(昭和7)年、向島区が成立した。
木歩の祖父は明治のはじめにそんな向島に初めて芸妓屋を開いて花街の基礎を作った人で、言問にあった「竹屋の渡し」も所有していたそうだ。
隅田川には江戸時代を通じて渡し(渡し船)は増え続け、最盛期の明治時代初頭には20以上の渡しの存在が確認できるという。
「竹家の渡し」はその一つで、「向島の渡し」とも称された。待乳山聖天(本龍院)のふもとにあったことから「待乳(まつち)の渡し」とも称される。「竹屋」の名は付近にあった茶屋の名に由来するという。現在の言問橋のやや上流にあり、山谷堀から 向島三囲神社)を結んでいた。
先にも書いた通り、付近は桜の名所であり、花見の時期にはたいへん賑わったという。竹屋の渡しは、文政年間(1818年 - 1830年)頃には運行されており、1933(昭和8)年の言問橋架橋前後に廃された。近くの台東区スポーツセンター広場に渡し跡の碑がある(※1のここ参照)。
しかし、木歩の祖父の七男丑之助、すなわち、木歩の父親は、万事派手で博打好きで、分けてもらった財産のあらかたを無駄に使い尽くし、おまけに1889(明治22)年の大火で屋号「富久」の本家も資産の大方が灰に帰すと、1897(明治30)年ごろには丑之助一家は、小梅町の一角に鰻屋「大和田」をやっと開いているだけの貧乏所帯だったという。
そんな、父丑之助、母み禰(みや)の次男として生まれた木歩の本名は、一(はじめ)と言った。一が生まれた時、既に長男の金太郎、2人の姉(長女富子と次女久子)がいた。
木歩が次男なのに一と名付けられたのは、母の実兄、野口紋造に子供がないことと、貧乏だったので、口減らしの為、生まれてすぐ、養子になる約束を取り交わしていたからだが、木歩は、1歳の時に高熱を出して両足が麻痺してしまったが、長じるに従がって、膝から下は萎びた細い脛がだらりとぶら下がっているだけで、両足がきかなく歩けなくなっったため、養子の約束は伯父の方から破約されてしまった。そして、三男利助、更に2人の妹、三女まき子、四女静子と兄弟は7人となり所帯はますます苦しくなった。その上、無情にも弟利助は聾唖者だった。そのため世間からは鰻屋は「殺生をして商いをする家だから、二人も不具者が出たのだ」と陰口されていたという。
後に“我ら兄弟の不具を鰻賣るたゝりと世の人の云ひければ”…と題して木歩は以下の句を詠んでいる。

鰻ともならである身や五月雨(さつきあめ)

ここで彼はいっそ鰻にでもなりたい、鰻にさえなれぬ、と諧謔(かいぎゃく)の背後に悲痛な哀感を滲ませて呟いている(※6:「やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇」のやぶちゃん版新版富田木歩句集参照)。

生まれながらにして不運な木歩。なんともやりきれなかったことだろう。
父丑之助の鰻かばやきの店は、もともとあまり繁昌しない小店であったが、その上に、1907(明治40)年全国的な大水害で、隅田川が決壊する大洪水があり、店は水没して、大きな被害を受けた。そのため、二人の姉富子と久子は店の再興資金のために上州高崎の遊郭へと売られて行き、足萎えの木歩にも玩具造りの内職をさせて、苦しい家計を助けさせるに至った。さらに、3年後の1910(明治43)年、一が13歳の8月にも、関東一円から宮城県下まで大洪水で、東京府内では隅田川ほとりの町が最も惨状だった(明治43年の水害については※7参照)という。富田家は、この大洪水によって大打撃を受け、いよいよ貧困に陥り、1912(大正元)年には、父親も不遇のうちに世を去ってしまった。
家業は兄が継いだが、一向に暮らしは立たず、小梅町の店をたたみ、母と弟妹を連れて本所仲之郷(詳しくは判らないが現在の住居表示で向島三丁目あたりか?)の小店に引越し、そこで再び鰻屋「大和田」の暖簾を掲げた。足萎えの一も口減らしのため翌年16才の時に、友禅型紙彫りの奉公に出された。しかし、奉公先では陰湿ないじめに会い、耐えられずその年の冬、家に戻る。半年の奉公だったが、そこで2つ年下の「兄弟子」土手米造と出会った。冷たい朋輩の中で、優しく親しんでくれた彼はのちに木歩の最初の句仲間となり、波王と号している。

友禅型彫りの仕事から戻った「大和田」に一の居場所はなかった。一が奉公に出ている半年の間に兄金太郎の嫁梅代は子を生み、「大和田」の店は兄夫婦中心の家になっていたからだ。不具者がいると店の客商売にも障りとなるのを知って、一と母、弟、妹らは裏の叔母、野口みよの小さな家に同居させて貰うことになった。叔母は鰌(どじょう)屋の板前の良人をもつ貧しい生活だったが、温かい善意の人で、その甥たちを迎え入れてくれたという。
大好きな少年雑誌を読むことと、そのころから見よう見まねで始めた俳句だけを心の支えとして一は吟波の俳号で俳句の試作を始めた。
俳句との出逢いは1913(大正年)年頃、少年雑誌の中にあった巌谷小波の俳句のページに惹かれ、俳句を作るようになったという。はじめ『石楠(しゃくなげ)』主宰の臼田亞浪(先に挙げた「三囲稲荷社」の木歩句碑の書人)が選をする「やまと新聞」俳壇に投句し入選をつづけ、1914(大正3)年「ホトトギス」8月号の、投句資格が初めて句作する人に限られた「俳句の作りやう」欄に吟波の名で投句した、「朝顔や女俳人の垣穂より」の一句が「少年吟波」の名で初入選。原石鼎は忙しい中を再三指導に来てくれたが、芸術家的であり、放浪型の天才肌タイプの吟波にはなじめず、原石鼎から遠ざかり「ホトトギス」からも離れたという。
そして、翌・1915(大正4)年、彼は臼田亞浪に師事し、「石楠」に投句するようになった。臼田亞浪の真実を重んじる句風なり、生き方なりに共鳴するものがあったからだったという。
この年、姉の富子と久子、兄金太郎の三人が金を出し合い、本所仲之郷曳舟通り(※1のここ→曳舟川/古川の土手道また、※8参照)の棟割長屋を借りてくれた。
一は、母み禰、弟利助、妹のまき子、静子らと一緒に叔母の家からそこへ移った。長姉の富子はその頃、須崎の芸妓屋「新松葉」の主人白井浪吉の妾となって、高崎から向島へ戻ってきており、次姉の久子は北海道の昆布商人の妾となって小樽に移り住んでいた。まき子は印刷工場に通い、利助は玩具店で働きはじめた。母み禰と木歩はその玩具店から人形の屑削り(鋳型の泥人形のふちの屑を削り取る作業)の内職を回してもらった。だが、その仕事は不定期で収入が安定せず、少しでも日銭を稼ごうと駄菓子屋も始めた。開店の費用は、富子と久子が都合してくれたようだ。
そんな棟割長屋の駄菓子屋の入口に一が「小梅吟社」の看板を掲げたのは1916(大正5)年、20歳の時である。一と出会った友禅型紙彫りの奉公先を辞め広島に帰っていた土手米造が再び上京し、旧交をあたため、木歩の俳句の熱心な弟子となった。木歩は米造の俳号を「波王」と名付けた。かつての型紙職人の朋輩を誘って、ほかに近くの向島医院の代診の亀井一仏など数人の弟子ができ、「小梅吟社」に近所の若い職工などもやって来るようになった。
また木歩は、父や兄が遊び人であったおかげで藤八拳花札がめっぽう上手く、百人一首にも長じていたため、小梅吟社は俳句団体というより少年少女の倶楽部であり、若者らの明るい声に包まれる社交場ともなっていたという。
女流作家で俳人でもある吉屋信子は、1963(昭和38)年、生前の新井声風に会い話を聞き、著書「底の抜けた柄杓-憂愁の俳人たち-『墨堤に消ゆ』」の中で、木歩の若い宗匠ぶりを次のように書いているという。
「……その狭い長屋の六畳からはみ出るほど人が集まったとは、若くして吟波には人間の魅力があったと思える。不具にありがちな陰気な暗さやひがみはまったく彼にはなく、じつに明朗でかつもの柔らかに謙譲だった……」(※9参照)・・・と。

「今宵は向嶋の姉に招かれて泊りがてら遊びに行くのである。
おさえ切れぬ嬉しさにそゝられて、日毎見馴れている玻璃窓外の躑躅でさえ、此の記念すべき日の喜びを句に纒めよと暗示するかのように見える。
母は良さんを連れて来た、良さんと云うのは此の旅を果させて呉れる――私にとっては汽車汽船よりも大切な車夫である。
俥は曳き出された。足でつッぱることの出来ぬ身体は揺られるがまゝに動く。
私の俥は充分に外景を貪り得るように、能う(あとう=できる)だけの徐行を続けているのだが、矢張り車夫として洗練されている良さんの足は後へ後へと行人を置きざりにして行くのである。
やがて見覚えのある交番の前を過ぎた。道は既に紅燈紘歌の巷に近づいたのである。煙草屋の角や駄菓子屋の軒などに、江戸家とか松葉とか云うような粋な軒燈(けんとう)が点いている。それは煙草屋や、駄菓子屋の屋号ではなくて、それらの家々の路地奥にある待合や芸妓家の門標(もんぴょう。表札。門標に同じ)であることに気のついた頃はそうした軒燈を幾つとなく見て過ぎた。
旨そうな油の香を四辺に漂わしながらジウジウと音をさせている天ぷら屋の店頭に立っている半玉(はんぎょく)のすんなりした姿はこの上もなく明るいものに見られた。
この町のこうした情調(じょうちょう)に酔いつゝある間に俥は姉の家へ這入るべき路地口へついた。蝶のように袂をひらめかしながら飛んで来た小娘が「随分待ってたのよ」と云う、それは妹であった。
家に入ると、姉は私を待ちあぐんで、既に独酌の盃を重ねているのだった。私も早速盃を受けて何杯かを傾けた。
俳句などには何の理解も持たぬ姉ながら妹に命じて椽(縁。和風建築で,部屋の外側につけた板張りの細長い床の部分)の障子を開けさせたり、窓を開かせたりして私を喜ばしてくれるのは身にしみて嬉しかった。
三坪ほどしかない庭の僅か許りの立木ではあるが、昨年来た時の親しみを再び味わしてくれるのに充分である。昨日植木屋を入れて植えさせたと云う薪のような松が五六本隅の方に押し並んで居るのも何となく心を惹く。手水桶,(ちょうずおけ)を吊り下げてある軒端の八ツ手(ヤツデ)は去年来た時よりも伸び太って、そのつやつやしい葉表には美しい灯影が流れている。五勺ほどの酒でいゝ気持になった。

墓地越しに町の灯見ゆる遠蛙

行く春の蚊にほろ醉ひのさめにけり

こうした句作境涯に心ゆくばかり浸り得さしてくれた姉に感謝せざるを得ない。恰も如石が来たので妹などゝ椽先に語り合った。」

上掲は富田木歩が人力車で近くに住む姉の家を訪ねた際の記録を日記形式で纏めた随筆『小さな旅』(5月6日から5月8日3日間)の初日5月6日の部分を抜粋したものである。
初出は『俳句世界』1918(大正7)年6月号に掲載されたもの(※10青空文庫参照)である。
向島の木歩の家から姉富子の住む妾宅までは健常者であれば歩いてもさして時間がかからない距離なのだが、脚の不自由な木歩にとってはまさに「小さな旅」だったのだろう。
五月七日の記載のところに、「この家の裏に淡島寒月さんの居宅があって・・」とあるが、淡島寒月は、作家、画家、古物収集家で父親は画家の淡島椿岳。広範な知識を持った趣味人であり、日本文化の研究で、山東京伝を読んで井原西鶴のことを知り、幸田露伴尾崎紅葉など文壇に紹介したことが明治における西鶴再評価に繋がったという。大正のこのころ向島弘福禅寺に隣するところにあった梵雲庵で隠居生活をしていたようだ(※11参照)が、梵雲庵には3000あまりの玩具と江戸文化の貴重な資料があったという。
この随筆を書いた前年、一(木歩はこの頃吟波を名乗っている)20歳の時に棟割長屋の駄菓子屋の入口に「小梅吟社」の看板を掲げて本格的に俳句活動に入ったことは先に書いた。文中最後に出てくる如石とは、小梅吟社の人で、本名は武井宗次郎(職人)だそうだ(※6のやぶちゃん版新版富田木歩句集参照)。
また、その年の真夏の昼、波王は木歩の弟、聾唖者の利助を誘って隅田川に泳ぎにいったが、川の魔の淵といわれる隅田川小松島で遊泳中に溺死した。木歩の妹(三女)まき子は彼の恋人であったが、波王の変り果てた死体を見てまさに半狂乱になった。
その夏の末、末妹静子は長姉久子の養女として「新松葉」に行った。そして木歩の片恋の相手であった隣の縫箔屋(縫箔を業とする人。また,その店)の娘小鈴(小鈴は木歩がつけた愛称で、本名はすゞというらしい)もまた、「新松葉」に身を売って去った。そして、ついに妹まき子も姉たちと同じ道をたどり「新松葉」の半玉となっている。前年(大正6年)の秋は木歩にとって友は失せ、ひそかに片恋(片思い)の想いを寄せる小鈴も、妹二人も家から去っていき、ただ寂寥(せきりょう。心が満ち足りず、もの寂しいこと)の秋であった。さらに、弟の利助が波王溺死の後、風邪をこじらせ寝付き、玩具店も馘首(くび)になった。実は風邪ではなく結核だったらしく、喀血し熱に喘いだ。利助の病状は次第に悪化し、起き上がれることも出来なくなり、木歩は病人と起居を共にしながら必死に看病したが、1918(大正7)年2月、利助は18歳で亡くなくなった。

また、富田木歩を語る上で、見過ごすことのできないのが新井声風の存在である。声風は木歩と同い年の慶応義塾大学の学生で父は浅草で映画館を経営していた。声風は悲惨な境遇にありながら、清新な句を詠む『石楠』同門の吟波を評価し、大正6年の初夏、「小梅吟社」の吟波(一)を訪紋してきた。その後、何不自由なく育った声風と何もかも不自由な吟波、この二人は尊敬し合って俳句のよき仲間、生涯の親友となっていく。声風は頻繁に吟波の長屋にやって来た。その度に『ホトトギス』、『海紅(かいこう)」などの新刊の俳句雑誌や「中央公論」『新潮』 『新小説』『改造』などの総合雑誌も持って来て、吟波の読書用に呈したという。俳句だけでなくもっと広い知識も身につけさせようとの配慮だったようだ。
ある日、吟波は、そんな声風に「俳号を変えようかと思う」と相談を持ちかけたという。それは吟波と号する俳人がもう一人いたためだという。
河東碧梧桐系の『射手』に属する荒川吟波という俳人で、かなり名前が売れていた人であったらしい。声風は直ちに賛成しなかったが、彼の真意を解し賛成したという。
9月、声風は個人誌『茜』を3号(9月号)から同人誌とし、友人の木歩を同人に迎えた。この頃から彼は俳号を吟波から木歩にしたという。そして、1918(大正7)年、声風は『茜』1月号を「木歩句鈔」の特集号として出した。これは、臼田亞浪、黒田忠次郎、浅井意外(「ホトトギス」の村上鬼城の信奉者)、それに歌人の西村陽吉らに「境涯の詩人」と賞賛されたという。声風は『茜』2月号を休刊とし、3月号を「木歩句鈔」に対する評論特集を出した。若手評論家4人に執筆を依頼し、四人とも好意的な評を書いてくれた。なかでも歌人西村陽吉は『木歩句鈔雑感』と題し「俳壇における石川啄木」であり「生活派」の俳人と評したという。
先に挙げた随筆『小さな旅』はそんな状況下で書かれたものであり、この随筆文中には、以下の俳句も掲載されている。

鶉來鳴く障子のもとの目覚めかな
杉の芽に蝶つきかねてめぐりけり
新聞に鳥影さす庭若葉かな
汽車音の若葉に籠る夕べかな
躑躅植ゑて夜冷えする庭を忘れけり
川蘆の蕭々として暮れぬ蚊食鳥
蝙蝠の家脚くゞる蘆の風
蘆の中に犬鳴き入りぬ遠蛙
行く春や蘆間の水の油色
青蘆に家の灯もるゝ宵の程

障害、貧困、病苦といった不幸に見舞われながら俳句創作を続けていた木歩、そこに、身内の不幸も多く重なった時期であるが、ここには、姉を始め家族の好意に支えられ、ささやかな幸福の時間を味わった様子、喜びが綴られている。

しかし、1918(大正7)年3月には、半玉になっていた妹のまき子も肺結核に罹患して家に戻って来ていた。木歩がつきっきりで看病するも、まき子の病状は日を追うごとに悪化しこの随筆投句後の7月末には、まき子も逝ってしまっている(享年十18歳)。この結核に冒されて逝った四つ下の愛妹まき子の、病床看護の合間に書いた日記風随筆『おけら焚きつゝ』(大正7年7月『山鳩』に掲載)と、その大正7年7月28日の臨終に至るまでを綴った木歩の哀傷随筆『臨終まで』(大正7年10月『山鳩』に掲載)の二篇が以下参考※6:「やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇」で読める。そこにも書かれているように、まき子の臨終の床の――「母ちゃん――暑いよ」・・・という言葉・・それはこの5年後、関東大震災の猛火によって向島枕橋橋畔の堤上にあって猛火に呑まれていった木歩自身の胸に去来したに違いない。

ここ →富田木歩愛妹まき子哀傷小品二篇

随筆『小さな旅』投稿の1918(大正7)年の7月に、富山県の魚津で起こった米騒動は全国に拡がり、物価が一段と高じた。まき子を芸者に売って作ったた貴重な金も、物価高の前にたちまち底をつき、木歩と母のみ禰は食うにも事欠く有様になった。しかも、結核に感染した木歩は、12月ついに喀血を繰り返し病臥したが、俳友の亀井一仏が主治医となってくれた。
翌1919(大正8)年1月、重症を脱するが、今度は、母み禰が脳卒中で倒れた。幸い軽度ですんだが再発が懸念され、3月のはじめに木歩は、長姉富子が囲われている、向島須崎町弘福寺境内にある家に移った。妾宅で母と居候同様の保護を受けたという。なんとも屈辱的であったろう。
12月末、長姉の家が向島寺島町玉の井に転居。木歩と母も同行する。木歩は喀血後の予後がまだ充分には癒えていない体だったが、毛布にくるまれ馴染みの良さん(随筆『小さな旅』に出てくる車引の良さん=田中良助)の俥にのせられ引っ越した。
末妹静子は「新松葉」に住み込みとなり、玉の井には来なかった。当時、玉の井は田畑や牧場のある農村で、水道も電気もなく夜はランプを灯した。やがて、建築ブームが起こり私娼街が造成されていった。玉の井は、永井荷風の小説『ぼく東綺譚』、滝田ゆうの漫画『寺島町奇譚』の舞台として知られる。
玉の井の新居には二階があり、須崎の華やかさに浮つき(浮つくの連用形)かけた木歩は一人の殆どの時間を二階で過ごし、また元の俳句三昧の生活に戻れたといい、木歩の生涯の中でこの玉の井の頃が最も多作の時代で、連日句作に励んだようだ。
木歩の句を売り出してくれた親友の新井声風は高浜虚子などホトトギス系の俳人との付き合いが疎遠なため、『茜』の謹呈先にホトトギス系は少なく、それがため、木歩の名が全俳壇的に知られたというまでには至っていなかったが、声風の編んだ『木歩句集』が虚子門下の渡辺水巴主宰の『曲水』に1920(大正9)年7月から4回に亘って連載されたことにより、木歩の身辺は一気に慌ただしくなり、かつての『茜』の比ではなくなった。
木歩の元には各地の俳誌から次々と句や文章の依頼がきたが、木歩はすべて快く引きうけ、木歩の名前、人となりと作品は一気に俳壇に知られることとなった。
1921(大正10)年夏に木歩は貸本屋「平和堂」を開業し、客の来ない時には、本を読み俳句を作る生活をしていたようだ。
1922(大正11)年の春、声風が『石楠』主宰の臼田亞浪との確執から、『石楠』同人を脱退。その半年後に木歩も「石楠」を退会するが、木歩の発表先に不自由はなかったようだ。三河の浅井意外の『山鳩』に木歩の頁を常に用意してくれていた。長谷川春草の『俳諧雑誌』、村上鬼城門下の楠部南崖(楠部 大吉郎の父)の俳誌『初蝉』などもこぞって木歩の句や文章を掲載してくれた。
そのため、平和堂主人・富田木歩は、俳句は勿論のこと俳論も随筆も書ける新進の俳人として、その特異な境涯と共に、全国的に知られる俳人となっていたが、9月半ば、再発を懸念されていた、母み禰が脳溢血で倒れ逝った。そして、木歩も大量の喀血をした。喀血した木歩のもとに俳友で医師の一仏が来てくれたが、木歩の体調はなかなか回復しなかった。
声風は「木歩短冊慰安会」と銘打って短冊頒布会を行い、木歩の療養資金を集めた。その療養資金のおかげで暮近くには、木歩の体力はかなり回復し、平和堂の店番を一日坐っていられる程になった。
明けて1923(大正12)年、長姉富子の旦那白井が浅草公園脇の一等地の料亭を買い取り、富子に天麩羅屋を開かせ、玉の井の家は元の娼家仕様に戻し、売りに出したが、白井は木歩のためにも、須崎に一軒屋を借り、平和堂を続けられるように改築してくれた。その上、木歩の面倒を見るための小おんなまで雇ってくれた。須崎を選んだのは、末妹静子がそこの「新松葉」で半玉になっており、様子を見に顔を出せるからであったという。
木歩の一人生活を案じて、声風や俳友達が足繁く通って来、また、妹の静子やその朋輩たちも顔をみせ、「平和堂」はかつての「小梅吟社」のように若い仲間の集まる賑やかな場ともなった。
木歩のもとへ毎月送られて来る作品も多くなり、今は中断している『茜』を俳壇の新しい運動の拠点として、華々しく再出発させる日への期待が生き生きと燃えてくる毎日だった。
妹につづく母の死、自らの病苦、こういう中で、声風はじめ俳句の友人は木歩を慰めようと7月、一夜の舟遊びを仕立ててくれた。ここしばらく、小康状態の木歩にとって唯一の豪勢な経験だったが声風と木歩にとって、最も苛酷な運命の日が、二人の上に襲いかかってくることになる。
1923(大正12)年9月1日、午前11時58分、激しい大地震が関東地方一帯を襲った。声風や姉の富子が動けない木歩の身の上を案じて吾妻橋を渡り須崎町の木歩の家に行ったときには人影は無かった。
声風は引返して、再び土手の上を探し求めた。そして、人混みの桜の木の下にゴザを敷いて木歩がいた。妹の静子や「新松葉」の半玉など三人ほどが囲んでいたが、女手ばかりでどうする手立てもなかった。木歩の帯を解いて声風は木歩の体を自分の背中にくくりつけて貰ったが、人混みの中を一緒に逃げることは出来ない。ひとまず浅草公園の富子の小料理屋「花勝」を目標に逃げたが、火の手は方々に上がり、それに追われて右往左往する人々で、土手の上の混雑は物凄く、痩せているとはいえ、50キロを越える体重の木歩を背負っている声風が、やっとの思いで、大川に注ぐ源森川(別名北十間川)の川口近くまで来た時、枕橋はすでに燃え落ちていたという。
浅草への近道は断たれ、小梅町方向へ引き返そうとしたが行く手にはまた新たな火の手が上がり、川を除いて三方は全く火の海となって迫ってきた。川の淵に出るには鉄柵を越えなくてはならない。背負ったままでは越えられなかった。傍の人に頼んで木歩を降ろした。鉄柵を越えさせた木歩を、堤の芝の上に腰をおろさせて声風は屈みこんだ。
生きる道は泳ぐしかない。声風は自分一人でも泳ぎ切れるかどうか自信は無かった。まして、足の全然きかない木歩を連れてでは、半分も行かない内に、溺れてしまうだろう。
声風は「木歩君、許して下さい。もう此処まで来ては、どうにもなりません」と言い、木歩に手をさし伸べた。木歩は黙ったまま。声風の手を握り返したという。声風は大川に身を躍らせた。声風は奇跡的に助かったが、足の不自由な木歩は焼け死んでしまった。(花田春兆著「鬼気の人 俳人富田木歩の生涯」1975年10月、発行こずえ社。p.235-237。花田春兆については※12参照)。享年26才と言う、あまりにも若過ぎる死だった。
隅田川の亡骸は伝馬船に引き上げられて火葬された。生き残った木歩の兄や姉妹たちがその火葬の灰のひと握りを求めて、その十月に富田家父祖の菩提寺小松川最勝寺の墓に埋めたられた。戒名「震外木歩信士」。
声風は親友である木歩をあの地獄の墨堤に残さなければならなかった瞬間から、自分の詩魂は衰えたと言い、自分は句作をやめて、木歩の詩魂を生かし世に伝えるために、後半生を木歩の句集や文集の編集に費やした。
冒頭に挙げた三囲神社の「夢に見れば死もなつかしや冬木風」の句碑。「冬木風」はそのまま「ふゆきかぜ」と読むようだ。ここで懐かしがっているのは、だれの死なのだろう。木歩の周りには悲しい出来事が多すぎる。夢に出てきたのは妹か弟か、隅田川で水死した俳友のことだろうか。普通なら人の死は想像するだけでも胸が苦しくなってくるのだが・・。
「死もなつかしや」の表現をどう解釈するか難しいが、もっと素直に、たとえ夢のなかでのこととはいえ、亡くなった家族や親しい人と再会できて懐かしかった・・・と、まっすぐに受け止めればよいのかもしれない。大切な家族を次々に失った木歩は、亡き人々のことを、ふと夢に見ることがあったのだろう。念の強さが、見たい夢を引き寄せたのかも知れない。冬の木立を吹き抜けていく冷たい風の音を聞きながら、木歩は昨夜の夢を静かに反芻しているのかもしれない。
「人間五十年 化天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり」 
これは、幸若舞敦盛』の一節である。
織田信長は、好んでこの一節を歌いつつ、舞ったという。人間の一生は、夢か幻のように、アッという間に過ぎ去る、というのが共通の感傷のようだ。だからこそ、人は何に向かって生きるのか。人生の目的が最も重要になる.。
そう考えれば、人間の死も、人の一生という夢の中の一部のできごとなのだから。
生まれてすぐに歩行不能になった木歩。『不具と病気と貧困とが、彼の精神に、抵抗素を植えつけた。』(山本健吉『現代俳句』)とも言われるように、どんな過酷な運命を与えられたとしても、木歩は生きることを放棄しなかった。木歩の人生とは、ただひたすら運命を「受け容れる」人生だったのではないか。平明な言葉で、誰にでもわかる表現で、己の境涯を深々と見つめ、言葉に紡ぐ木歩。そのシンプルな言葉が、読む者の心を打つのだろう。この機会に、一度、木歩の句に触れでみられるのも良いだろう。参考※6:「やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇」などがお薦めである。

冒頭の画像:1918(大正7)年年7月、北海道の昆布商人で次姉久子の旦那の上野貢一郎が、眼病治療のため上京して淀橋柏木に仮寓しているのを、母み禰と共に訪ね一週間滞在した。その時、母と並んで写真を撮った。冒頭の画像がそれらしく、これが、この年の初め声風が俳句雑誌「山鳩」に連載していた、木歩の句風と人を紹介する文章「俳人木歩」の完結号に掲載するため初めて撮って以降、二度目の写真撮影だった。後年、声風編「定本富田木歩全集」の扉に紹介されているこの写真は、震災後、障害者で俳人である川戸飛鴻[5]より貸与されたのを複写したものであり、木歩の写真として世に流布されておるのは、これがその原版であるという(花田春兆著「鬼気の人 俳人富田木歩の生涯」1975年10月、発行こずえ社。『木歩七〇句』p.241)。

参考:
※1:「Google Earthで街並散歩(江戸編)」
http://yasuda.iobb.net/wp-googleearth_e/
※2:国立国会図書館・近代デジタルライブラリー『江戸名所図会』
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_05105/
※3:大江戸吟行記その28向島吟行①「三囲神社」|俳人二百面相
http://ameblo.jp/haikudaisuki/entry-10650516115.html
※4:すみだ区報2014年4月21日号 墨田区公式ウェブサイト
https://www.city.sumida.lg.jp/kuhou/backnum/140421/kuhou01.html
※5:第67話、和歌三神 - 落語の舞台を歩く
http://ginjo.fc2web.com/67wakasanjin/wakasanjin.htm
※6:やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇
http://homepage2.nifty.com/onibi/texthaiku.htm
※7:荒川の歴史 | 荒川上流河川事務所 | 国土交通省 関東地方整備局
http://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/arajo_index010.html
※8:曳舟川
http://www.geocities.jp/ktyyn37/hikihunegawa.htm
※9:富田木歩の生涯 - 障害保健福祉研究情報システム(DINF)
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n218/n218_07-01.html
※10:富田木歩 小さな旅 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000677/files/42298_23806.html
※11:「淡島寒月の庵号「梵雲庵」について」 - クラシマ日乗
http://blogs.yahoo.co.jp/kurashima20062000/37619737.html
※12:arsvi・com障害者(の運動)史のための資料・人「花田 春兆」
http://www.arsvi.com/w/hs04.htm
富田木歩を偲んで(1) - 齋藤百鬼の俳句閑日
http://blog.goo.ne.jp/kojirou0814/e/17cef3a57e27601238c6701d5604ae18
落語「船徳」の舞台を歩く
http://ginjo.fc2web.com/022funatoku/funatoku.htm
富田木歩 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E6%9C%A8%E6%AD%A9