今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

エッフェル塔の日

2006-03-31 | 記念日
今日(3月31日)は「エッフェル塔の日」
1889(明治22)年、3月31日エッフェル塔の落成式が行われた。パリのシャン・ド・マルスの広場に立つ鉄塔で、建設当時の高さは約312m(旗部を含む)で、世界で最も高い建造物であった。現在は放送用アンテナが設置されたため約324m。鋼製ではなく錬鉄製の塔である。
エッフェル塔は、フランス革命100周年を記念し、1889年パリで開催された万国博覧会の目玉として計画されたものである。手掛けたのは、フランス人の技術者、アレクサンドル・ギュスターヴ・エッフェル(Alexandre Gustave Eiffel, 1832年12月15日 - 1923年12月27日)である。通常、エッフェル塔を設計した人物として知られれているが、エッフェル塔の設計者はステファン・ソーヴェストル、および構造を担当した技師モーリス・ケクランであり、エッフェルはその建設を請け負ったエッフェル社の代表である。
エッフェルは23歳の時に鉄道関係の資材会社に就職した。彼は工場で鉄を学び、橋や駅の建設現場で構造や設計を会得して鉄の建造物のスペシャリストとなり、1866年には鉄道の資材会社から独立、パリ近郊のルヴァロア・ペレにおいてエッフェル社を創業していた。そして、彼はフランスのみならず世界を股にかけて鉄橋や橋を架け続けていたそうで、パリのデパートボン・マルシェ、シャルル・ガルニエとの共作であるニースの天文台、マンハッタンの巨大な自由の女神像の鉄骨の設計も手掛けている。
このエッフェル塔建設は、計画が公表されるや否や塔の鉄骨剥き出しのデザインが、パリの落ち着いた景観を阻害するとして激しい反対運動が起こった。1887年小説家モーパッサンをはじめ47人の芸術家や知識人が連名で、建設反対の陳述書をパリ市役所に提出したそうだ。
建設には万博に間に合わせるため2年2ヶ月という月日を要したというが、この巨大な建物の建設に要した月日が早かったのか遅かったのかは、専門家でないのでよくわからないが、それにしても、そのような反対運動にも関わらずエッフェル塔が無事に建設できた要因は何か?・・・以下参考の「コラム:エッフェル塔のデザインの合意形成」によると、そのような意見に対して、エッフェルは、景観という価値判断の困難な問題には触れず、その他の塔の効用を説き、エッフェル案が採用されたことにより建設が可能となったようである。そのことから塔の名前に彼の名が付いたのであろう。1889年3月31日、世界最大の鉄の塔はついに完成。エッフェル塔をシンボルにしたパリ万国博覧会は華々しく開催され、「エッフェル塔に登ろう」が人々の合言葉となり、前代未聞の人気に、批判や非難の声は消え失せ、会期中に200万人もの人々が押し寄せたという。
又、建設後、反対派の文学者モーパッサンはエッフェル塔1階のレストランによく通ったが、その理由として「ここがパリの中でいまいましいエッフェル塔を見なくてすむ唯一の場所だから」と言い、ここから、「エッフェル塔の嫌いなやつは、エッフェル塔に行け」ということわざも生まれたそうだ。
しかし、そのような景観論争がされていた時に、エッフェル塔の虜となっていた芸術家がいた。近代フランスの代表的な風景版画家アンリ・リヴィエールである。彼の作品に『エッフェル塔三十六景』がある。※参照パリの浮世絵 アンリ・リヴィエール
万国博覧会の第1回は,1851年にロンドンで開催され、第2回が1855年にパリで開催される。その後パリでの万博は,1889年までに、1867年,1878年,と2回行われている。日本が最初に参加したのは1867年のパリ万博である。このとき展示された日本の浮世絵は当時のヨーロッパの画家にショックを与え、やがて印象派やキュビズム(cubism。ピカソ・ブラックによってフランスに興った芸術運動)などの運動を誘発した。
浮世絵の大の愛好家だったリヴィエールはその作品に北斎の「富嶽三十六景」を暗示させることでエッフェル塔の芸術的重要性をとらえたといえる。
完成当時は賛否両論だったが、いまは、パリを代表するシンボルとなっているエッフェル塔は、世界遺産として、パリジャンのみならず人類の宝物として愛される施設となっている。しかし、その本来の価値が公式に認められたのは、実に建設から75年も経った1964年、フランス政府により歴史的記念建造物に指定されたときからではないだろうか。
キヤノン:クリエイティブパーク では素敵なエッフェル塔のペーパークラフトが作れますよ。他にも動物などお子様無期の素敵なペーパークラフトがダウンロードできるので、興味のある方はお子様と一緒に作ってみては・・・。
(画像はキヤノン:クリエイティブパーク のエッフェル塔のペーパークラフト)
参考:
エッフェル塔 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%83%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E5%A1%94
コラム:エッフェル塔のデザインの合意形成
http://sociosys.mri.co.jp/PCW/column/column4.html
ジャポニスム
http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/ykawa/2nen2001/groupeH_jp.htm
キヤノン:クリエイティブパーク 「ペーパークラフト」トップページ
http://cp.c-ij.com/japan/papercraft/


フランシーヌ・ルコントがパリで焼身自殺した日。反戦歌「フランシーヌの場合」が出来た。

2006-03-30 | 歴史
今日(3月30日)はフランシーヌ・ルコントがパリで焼身自殺した日。
1969(昭和44)年3月30日、日曜日の朝。パリの路上で30歳の女性が、シンナーを被って焼身自殺した。
AFP電として日本の新聞でも報道されたところによると、フランシーヌ・ルコントさんというこの女性はベトナム戦争、ナイジェリアに心をいため、自殺した時もビアフラの飢餓の切抜きを持っていたという。また、ウ・タント国連事務総長などに訴えの手紙も書いたこともあるといわれるが、家族の話では精神科にかかっていたこともあるという。(1969年3月31日付 朝日新聞夕刊)
1人の女性の焼身自殺で何が変わるわけでもない。家族の話のように、精神を病んでのことかもしれないが、いずれにしても、かなり思い詰めての行動であろう。
この事件に、心を動かされた日本人によって、一つのフォークソング(反戦歌)が作られた。いまいずみあきら作詞、郷伍郎作曲「フランシーヌの場合」である。
フランシーヌの場合は あまりにもおばかさん
フランシーヌの場合は あまりにもさびしい
三月三十日の日曜日
パリの朝に燃えた いのちひとつ
フランシーヌ
この歌は3ヵ月後の6月に発売された。新谷のり子さんのデビュー曲であるこの歌は80万枚を超える大ヒット作となった。以後、新谷のり子さんは反戦、反核、反差別をテーマにコンサートを続けておられるという。思えば、この曲が大ヒットした1969(昭和44)年は、学生運動がもっとも盛り上がったときであった。ベトナム戦争、沖縄闘争のうねりと共に時代の心を代表し、多くの人々の支持を得た。恐らく、今の50代以上の人には、忘れられない曲ではないだろうか。
1960年代は、後半、高度経済成長の裏で激化の一途をたどっていた学生による第二次反安保闘争。それと時を同じくして、全国の国公立・私立大学において授業料値上げ反対・学園民主化などを求め、各大学の全共闘や(新左翼)の学生が武力闘争を展開する学園紛争(学園闘争)が起こった。全共闘の学生達は大学当局との団体交渉(団交)で自分たちの主張を強硬に唱え、それが認められない場合大学構内バリケード封鎖という強硬手段に訴えた。そして、ついに、1969(昭和44)年1月、前年の東大医学部の無期限ストライキに端を発した、「東大・安田講堂事件」が起こった。全学共闘会議(全共闘)が占拠していた東京大学本郷キャンパスを警視庁が封鎖解除を行った事件である。18日早朝、守る学生は400人、攻める機動隊8500人。300台を超す放水車、投光車、防石車、そしてへりが投入される。東大・安田講堂の屋上からは何百本の火炎瓶が投げ落とされる。上空警視庁のヘリコプターからは、催涙弾、地上からも猛烈な放水とガス弾。空陸一体になっての攻撃が始まった。まるで戦争である。大学紛争のシンボル、東大・安田講堂をめぐる攻防戦は実に35時間。東大全共闘の最後の砦は落城した。逮捕者は、東大構内で633人、安田講堂で377人(東大生は20人)。(朝日クロニクル・週間20世紀より)。幸い、学生・機動隊とも負傷者は多かったが死者はなかった。この安田講堂(砦)の落城が、全共闘運動の分水嶺だった。この東大全共闘を支えたのは、団塊の世代であった。「出入り自由の柔軟な集合体」の全共闘は、セクト嫌いのノンポリをひきつける魅力があったが、この柔軟性が新左翼各派の付け入るところとなり、東大闘争を複雑にした。党派の思惑に振り回され、非妥協を競い合った挙句武装闘争というスタイルが前面に出てしまった。このあと、大学紛争は関西を中心に全国に飛び火する。その数はピーク時77校。だが、秋には、1校また、1校と正常化した。それは、安田講堂事件後、強行採決された大学臨時措置法が圧力となり、紛争が長引くことによる「閉校」を恐れる大学側が、積極的に機動隊を導入したからである。
安田講堂事件の終焉後、学生達の間ではシラケが進行していたが、一部のセクトは過激化、武装化への道を進み赤軍派など過激なグループが出てくる。そして、赤軍による「よど号」ハイジャック事件、連合赤軍によるリンチ事件、あさま山荘事件、へとつながっていくのである。
思えば、1969(昭和44)年のこの年は、経済が成長し、人々の生活と意識が大きな変化していた一方で、日本の政治・経済・社会はもちろん、水俣病に象徴される環境公害被害など、すべての面で大きな問題を抱えていて、その矛盾が噴出した年でもあった。この年を特徴づけるものは、何と言ってもデモと集会で、一番よく知られているのは、ベトナム反戦・反安保をかかげる集会やデモである。その先頭を走ったのは、青年労働者であり、学生だった。学生たちは街頭で政治的課題で行動しただけではなく、自分たちの問題である教育制度や中身の歪み、学歴中心社会の問題や旧態依然たる学問の現状に激しく厳しい批判を投げつけた。全国の大学や高校で学園紛争が生じた。その象徴的なものが、前年の日大紛争であり、この年の東大・安田講堂事件であった。この年、映画では、高倉健の任侠もの、藤純子のお竜さんが大流行。網走番外地の健さんも 緋牡丹のお竜さんも裏街道をゆくはぐれ者。はぐれものが受けた時代だった。安田講堂内の学生たちは、敗北を承知で機動隊と対決し、火炎びん、催涙ガス弾が飛び交うこととなった。当時の加藤一郎学長代行の最終提案は学生達の要求を大幅に取り入れたもので、受諾すれば一応の勝利になるものなのに、「東大紛砕」を叫ぶ学生達は恐怖と戦いながら安田砦にとどまった。そこには、玉砕の美意識見たいなものがあった。今の人の大勢や権力や高度成長や生き残り競争を支配する価値観からすればまことに、馬鹿な生き方に見えるだろう。しかし、任侠の封建的な世界と先鋭的な革命の理論をもつ若者の行動には、抑圧された者が止むに止まれず決起したときには、美しく負けようといった精神につながる面があっったように思われる。当時、東大全共闘を支えた、団塊の世代も同じ気持ちで、任侠ものの映画を観ていたのではないか。
今の時代は、これまでの価値観が崩壊し、すべてが行き詰まったあのころとよく似ているように思われる。いや、それ以上だろう。しかし、今の日本の若者からは、そのような社会に対して、何の反抗をする気概も見られないのが哀しい現実である。
以下の二木紘三のMIDI・歌声喫茶でフラシーヌの場合のMIDIが聞けます。
二木紘三のMIDI・歌声喫茶「フラシーヌの場合」
(画像はDENON(日本コロムビアCD、「フラシーヌの場合」新谷のり子)
参考:
東大安田講堂事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AE%89%E7%94%B0%E8%AC%9B%E5%A0%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6
東大闘争(安田講堂攻防戦)事件
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage141.htm
雑感・戦後日本の世相と流行歌(26)
http://www.asahi.co.jp/call/diary/yamaken/essay_26.html
70年安保闘争史略年表
http://www.asahi-net.or.jp/~GR4T-YHR/zennen.htm
PICK UP 新谷のり子
http://event.sbrain.co.jp/pickup/sintani_noriko.html


マリモの日

2006-03-29 | 記念日
今日(3月29日)は、「マリモの日」
1952(昭和27)年、北海道阿寒湖の「マリモ(毬藻)」が国の特別天然記念物に指定された。同時に、富山湾のホタルイカ群遊海面、鹿児島県出水市のナベヅル、高知のオナガドリ等も国の特別天然記念物に指定された。
天然記念物とは、動物、植物、地質・鉱物、天然保護区域などで、学術上価値の高いものとして国または地方自治体が指定したものをいい、天然記念物は、かつては1919年(大正8年)公布の「史蹟名勝天然記念物保存法」により指定されていた。後に文化財保護法(1950年)が制定されて、これを引き継いだ。単に「天然記念物」と言った場合、通常、国が指定する天然記念物を指し、文化財保護法に基づき、文部科学大臣が指定する。2005年2月1日現在、国の天然記念物は971件指定されているが、このうち特に重要なものとして特別に指定されたものを特別天然記念物といい、天然記念物中の75件が特別天然記念物に指定されている。
「マリモ」と同じ、植物では、天然記念物536件のうち、30件が特別天然記念物に指定されている。
マリモ(毬藻)は、球状の集合体を作ることで知られている淡水性の緑藻の一種で、特に阿寒湖に生息するマリモは、美しい球状体を作るため、その美しい姿や希少性から、国の特別天然記念物に指定されている。学名はAegagropila Linnaei。
「マリモ」は、球状体一つがマリモの一個体単位というわけではなく、この球状体を構成する細い繊維(糸状体と呼ぶ)がマリモの個体としての単位であり、よく目にする球状の「マリモ」はマリモの集合体と言った方が正しいそうだ。実際にマリモが生息している湖沼の多くでは、マリモは糸状体の形態で暮らし、球状の集合体を作らないので、阿寒湖のような 大型の美しい球状体を形づくるマリモは、世界でも類がないそうだ。日本では1897年に札幌農学校(現北海道大学)の川上瀧彌が阿寒湖の尻駒別湾で発見し、その形から「マリモ(毬藻)」という和名をつけた。普通のマリモそのものは、本州から北海道のいくつかの湖沼と北半球の北部に分布している。しかし、近年各地で生息数が減少しており、環境省発行のレッドデータブックで絶滅危惧I類に指定されている。
私は、数年前に北海道へ観光旅行に行き、阿寒湖にも立ち寄った。観光地などで「養殖マリモ」の名で販売されているものは、シラルトロ湖(釧路湿原内の中小湖沼にある)で採取した自然のマリモ糸状体を人工的に丸めただけのもので、実際には「養殖」し増やしたものではなく、このマリモの販売によりシラルトロ湖のマリモは絶滅の危機に瀕しているそうだが、・・・・それを販売するのはね~。阿寒湖近辺にはアイヌ民族が住んでいた。
観光旅行中に、バスガイドから阿寒湖の悲しい「マリモの伝説」も聞いた。酋長の娘セトナと下男アニベのかなわぬ恋。その2人の魂が美しいマリモになったといった内容だが・・・。 しかし、この伝説昔からのアイヌ民族のものではなく、大正時代に観光客に受けるようにつくられたものらしいが、この伝説によってマリモが有名になったとも言える。それでは、実際のアイヌ民族の伝説はどのようなものか?興味のある方は、以下参考「マリも・・・その愛」を見ると良い。
水面(みずも)をわたる 風さみし 阿寒の山の みずうみに
  浮かぶマリモよ 何思う マリモよマリモ 緑のマリモ
作詞:いわせひろし、作曲:八洲秀章の『毬藻(の歌』 。1953(昭和28)年、安藤まり子さんが歌った。
前年にコロムビアが行った全国歌謡コンクール、課題曲歌詞募集の入選作とのこと。阿寒湖に伝わる「マリモの伝説」の悲恋をテーマとした歌だそうである。旅行中観光バスのガイドに歌詞を書いたものを貰い、ガイドの指導で、何度も何度も練習した。ガイドも歌の上手な人で練習しているうちに大好きになって、家へ帰ってからも、ハーモニカで随分吹いたが、 本当にいい歌だよ。
以下の二木紘三「MIDI歌声喫茶」で聞けるので、是非聞いてみてください。きっと、大好きになるはず・・・。
二木紘三MIDI歌声喫茶『毬藻の歌』 
又、NTT Information LIVEdehaでは、ライブカメラによって、阿寒湖の「現在」の画像が見られるよ。毬藻の歌でも聴きながら観光気分に浸ってみては・・・。
参考:
マリモ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%A2
環境省 種の保存法の解説
http://www.env.go.jp/nature/yasei/hozonho/
生物多様性情報システム : レッドデータブック(環境省)
http://www.biodic.go.jp/rdb/rdb_f.html
マリも・・・その愛
http://marimo.xrea.jp/index.html
<まりもについて>
http://www.akankisen.com/marimo.html
つくば生物ジャーナル (マリモ)
http://www.biol.tsukuba.ac.jp/tjb/Vol3No2/TJB200402200000773.html
アイヌ伝説─ マリモ伝説について ─ 
http://www.kgef.ac.jp/ksjc/ronbun/880340y.htm
二木紘三MIDI歌声喫茶
http://www.duarbo.jp/songs.htm

京都裏千家「利休忌」

2006-03-28 | 人物
今日(3月28日)は京都裏千家「利休忌」
中世末期・安土桃山時代の茶人千利休(せんのりきゅう)の1591(天正19)年2月28日(旧暦)の忌日。何も削るものがないところまで無駄を省いて、緊張感を作り出すというわび茶(草庵の茶)の完成者として知られる。
千利休は1522(大永2)年堺で生まれる。本姓は田中、幼名は与四郎(與四郎)。のち、法名を宗易(そうえき)、抛筌斎(ほうせんさい).と号した。「抛筌斎」の「筌(魚を採る篭)を抛(なげう」)つということろから、魚屋の業を棄て茶湯者として立つという意があったのではとみる向きもある。
家伝では祖父が足利義政・義尚親子に仕えた同朋衆(どうぼうしゅう)の千阿弥で、義尚没後堺に閉居、その子与兵衛が千家を名乗り、今市町で商売をはじめたとするが、祖父の同朋衆説には疑問があるようだ。
はじめ東山流の書院茶をくむ北向道陳(きたむきどうちん)、ついで、武野招鴎(たけのじょうおう)に師事し抛筌斎宗易と名乗る。
上洛を機に信長は、今井宗久(いまい そうきゅう) ・津田宗及(つだそうぎゅう)とともに茶頭(さどう)となり、三宗匠と呼ばれた。千利休は、信長時代には特に目立った働きはない。
信長は茶会で2度まで茶頭を務めていた不住庵梅雪(京都の町人・茶人)ではなく、堺の3人を茶頭へ任用したが、これは、当時の堺の富裕町人・上層町衆間に広まっていた茶の湯の現状をふまえ、茶頭を通して、堺町人の掌握を企図してのもであったろう。
畿内を平定した信長は、「名物狩り」により名物茶器を集め、家臣が勝手に茶の湯をすることを禁じていたが、一方で、武功を立てたものに茶会を開く許可や茶器を与えることを恩賞とするようになる。そのため名器は、一国一城にも値するようになる。このような茶の湯を利用した信長の政治は、「御茶湯御政道」ともいわれているが、このようなことが、茶の湯をあおり、秀吉のような茶の湯に終身するものを生んでいった。しかし、茶の湯のもつ効用を最大限に活用したのは秀吉であった。
秀吉時代になって、にわかに独自性を発揮し、「招鴎の法度(はっと)」を破った(「山上宗二記」)、4畳半にかわる2畳、1畳半といった小間の茶室や「宗易型」と呼ばれた筒型の黒楽茶碗に、その美意識が認められる。茶の湯の非日常性・求道性を追及し、侘び茶を大成した。秀吉も彼を天下一の茶人と褒め称え、茶頭として三千石を与えている。そして、茶以外のことでも色々と自分の相談相手にした。
天正13年、秀吉が関白に任じられた記念に行われた禁中(小御所)茶会で利休は、自ら茶を点じて正親町天皇(おおぎまちてんのう)に献じた秀吉を、隣室に控えて後見している。
広く知られている利休の号も、このとき宮中で秀吉の後見を勤める関係から、とくに正親町天皇から勅賜(ちょくし)されたといわれている。しかし、この点については、疑問もあるが、以後この号を用いるようになる。ただ、大林宗套(だいりん そうとう)からあたえられた居士号ともいわれており、武野招鴎や津田宗及も大林から40代の終りに居士号(一閑・天信)を与えられており、利休も例外ではなかったろう。そして、招鴎らと同様、普段この号を用いることはなかった。それを、多分、秀吉の知恵で勅賜の形をとったものではないかと考えられている。
この頃の利休の権勢を示すものとして、天正14年10月薩摩島津に圧迫されていた豊後の大友宗麟が上京して秀吉に訴えた際、秀吉の弟である大和大納言羽柴秀長から「内々の儀は宗易、公儀の事は宰相(羽柴秀長)存じ候)」といわれて感激し、宗麟は国許への書状にそのことを記した上、さらに、「宗易ならでは関白様へ一言も申しあぐる人これなしと見及び申し候」と述べている(『大友家文書録』)。
ところが、突然天正19年2月13日、秀吉はいきなり利休に堺への退去を命じ、次いで26日には京都に呼び出して切腹を命じている。なぜ急にそのようなことになってしまったのか?以来、その理由についてはさまざまな 憶測がなされてきたが、そのことを考える前に、利休が秀吉の時代に何故大き存在になったかを考える必要がある。
個人的な力量はもとよりであるが、利休のとった政治的言動を、茶頭であることと切り離して考えることは出来ない。密室である茶室は、脱俗の空間であるがゆえに最も凝縮された政治的な場となり、そこでの茶事はそのまま高度な政治行為ともなりえた。その意味で茶の湯名人の利休は、秀吉の代弁者であり、時には秀吉自身であったかもしれない。茶の湯=茶室は、茶頭を媒介として政治秩序を生み出す最も有効な装置であった。そして、それは、そのまま、利休の悲劇を生む要因となったといえる。
利休の死は、相前後して、宗及・宗久らが没したことと相俟って、事実上、堺町衆茶頭の時代に終りを告げたといってよい。その後も、利休の子の道安や女婿の万代屋(もずや)宗安、宗久の子の宗燻(そうくん)らが仕えているが、第2世代としての存在感はうすい。
千家はその後、紫野・大徳寺にいた利休の孫千宗旦が還俗して家を再興し、その次男の宗守が武者小路千家、三男の宗左が表千家、四男の宗室が裏千家のそれぞれ祖となっている。
千家流茶道の開祖とされる千利休は天正19年旧暦2月28日(1591年4月21日)に秀吉の命により切腹したが、千家ではその1ヶ月後を命日としている。しかし、なぜか知らないが、その「1月後」の解釈が表千家と裏千家で異なるため、表千家では3月27日、裏千家では3月28日に利休忌を行い、追善の茶会を催している。
(画像はコレクションの映画チラシ「利休」1989年、松竹。勅使河原宏 監督作品。)
参考:
千利休 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%88%A9%E4%BC%91
茶の湯の歴史
http://www17.ocn.ne.jp/~verdure/rekisi/rekisi_6.html
茶道の歴史
http://office-yoshida.cool.ne.jp/juho/urasenke_history.html
利休 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD18123/index.html?flash=1
【わび】【さび】とはなにか?
http://plaza.rakuten.co.jp/alex99/diary/2004-11-20/

さくらの日

2006-03-27 | 記念日
今日(3月27日)は、「さくらの日」
日本さくらの会が1992(平成4)年に制定。
3×9(さくら)=27の語呂合せと、七十二侯のひとつ「桜始開」が重なる時期であることから。
日本の歴史や文化、風土と深くかかわってきた桜を通して、日本の自然や文化について関心を深める日。
桜とは、バラ科サクラ属落葉高木または、低木。一般にはサクラ亜属に属するもの(以下参考の「くらしの植物苑だより」参照)。
桜は日本を代表する花・国花であり、万葉の昔から人々に愛され、親しまれてきた。我が国の桜の中で最も代表的な種類は、ヤマザクラで、古くから詩や歌に詠まれてきた桜はこの種である。
日本さくらの会HPによると、サクラは主として北半球の温帯に広く分布しているが、美しい花の咲く種類はアジアに多く、しかも日本列島が中心で、多くの種類が集中しているそうだ。また、中国や朝鮮半島にもかなりの種類があり、日本と共通の種類もある。その他、中国の奥地やヒマラヤ地方などには、日本のものと種類は異なるが、ヒマラヤ桜のように美しい花の咲く種類が分布している。ヨ-ロッパには、日本の桜のように花の美しい種類はなく、サクランボ、いわゆるミザクラの類がある。北米大陸には、我が国にもあるウワミズザクラに近いような種類や、常緑の種類などはあるが、これらは、日本人の持っている桜の概念からかけ離れた種類ばかりだそうだ。
そのようなことから、日本では代表的な樹木の花である桜も、西洋では花よりも「さくらんぼ」のなる木としてのイメージの方が大きいようだ。
今では、日本人にとっては、「花見」と言えば、「桜の花見」であることがお互いの間で了解されるくらいである。和歌では龍田の紅葉に対して吉野の桜(山桜)といわれてきた。伝統的な美意識の代表であるが、こうした意識の定着するのは平安時代になってからである。花を見て楽しむことでは、奈良時代はむしろ梅の花の方が、賞翫の対象になっていた。それが、次第に、日本人の好みも梅から桜へと変化した。
西行法師(1118~1190)には、旅の歌が多いが、特に桜の花を愛でた歌は有名で、その多くは『山家集』に収められている。出家後、西行は吉野山の麓に庵を結んでいる。ここで、桜への思いを和歌に詠んでいる。
「花に染む心のいかで残りけん捨てはててきと思ふわが身に」(出家したばかりなのに、どうしてこんなにも桜の花に魅せられるのだろう)
「願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月の頃」
この歌は、西行の桜への熱い思いが凝縮された歌として有名である。そして、自らの願いの通り、桜の咲く春に大往生した。この西行のことは、私のブログ今日(2月15日)は、「西行忌」「円位忌」で書いたので、興味のある方見てください。
そして、われわれ日本人の「桜」の花にもつイメージは、華やかで、「ぱっと咲いてさっと散る」といったものであるが、武家の時代になるとその咲き方の潔さ(いさぎよさ)が、日本的な武士道の精神にも合うものとして好まれるようになった。国学者の本居宣長が「しきしまの大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」と詠んだのはその好例である。そして戦時中にはこの散る桜の観念が戦争の高揚にも使われることになった。そして、私のコレクションの酒器にある「兵隊盃」といわれるものにも、桜の花と「しきしまの・・山桜花」の歌を刻んだものが多く見られる。これらは、兵役を終了した時の満期記念や凱旋の記念品として作られ配られた。(画像参照)
日本人には、「花より団子」ともいわれるように、花の鑑賞そのものより、もっぱら花の下に寄り集ってご馳走を食べ、酒を飲むといった饗宴の方が好まれる。こうした花の賞で方は、日本人独特のもので、西洋の鑑賞的な花を見るということとはずいぶん異なっている。このことは、『伊勢物語』八二段は「交野の桜」として知られる段で、日本人の花見に対する考えをよく示している。「花を見る」ことを「花狩り」といい、「紅葉を見る」ことを「紅葉狩り」というのは、花や紅葉を眼でみるだけではなく、枝を折るという行動を通して自然との関わりをもとうとする行為だといえる。そして、桜は見るだけではなく、実際に枝を折って頭に挿したりした。つまり、能動的に折るという行為で、花と関係をもつことによって親しむという思想のようである。
日本には、中国など大陸からの渡来人によって、稲作文化が伝えられた。古来、日本人は、桜の開花時期によって、稲を植える時期を知り、桜の花の散り具合を見てその年の米の出来具合を占った。満開に咲いた桜を見て、神様に酒などの奉げ物をして豊作を祈った。いわば、桜は神様の宿る木として信じられていた。
私のブログ3月16日十六団子の日でも詳しく触れたが、それが、桜(サ=稲田の神霊。クラ=神の座)の名前の由来でもあるのだろ。サ(稲田の神霊)は、山の神であり、農民にとっては、田の神でもある。また、日本人の祖霊神でもあったのだ。だから、サクラは、「木花之佐久夜毘売(木花咲耶姫=このはなのさくやひめ)」が転訛したものと言う説もある。ここで、木の花はサクラを意味している。「この花(桜)のように美しい姫」といったところだろう。兎に角、農耕民族である日本人は、古来、桜は単に見て楽しむものではなかった。
前に述べた、「花を狩る」と言う行為は、木を折るという行為を伴い、現代人からすると木の枝を折るなんて自然破壊の悪いことに思われるが、東洋ではこうした他者と関わりをもつということで、そのものを賞翫するということが広く行われていたそうだ。このことについては、以下参考の「源氏物語に関するエッセイ・論文集」が色々考察しているが、つまり、そもそも、”農業とは木を倒し、土を掘り起こし、草木を刈るという反自然の環境破壊行為である。農民にとっては桜(自然)は、征服された犠牲者であり、それを「狩る」行為は、人間(支配者)の支配者たる地位を確認する行為とも考えられた。そして、「折」という漢字は屮(てつ)と斤(きん)に従い草木を断つ形と「説文」にある。また中国の神様に「大無齒シ折(大巫司誓)」という名の神様があるように、折は誓と同じ様にとられているそうだ。そして、この神に何事かを言う(ちかう)ことを意味する「誓」という漢字が「折」と「言」で構成されている。つまり、何か草花を折りながら神に祈ったといえるのだろう。中国では、何か誓う時の形式に草木を折るということが行なわれたのかもしれず、これは、「いけにえ」にも通じることなのかもしれない。だから、この折るという行為も神に捧げるということに通じるのかもしれない”・・・といっている。農民は、環境破壊行為をすることによって、生きてゆける。・・・そのような生きてゆくための行為への感謝の気持ちをこめて、始められたのが、花見の始まりだったのだろう。
それが、次第に、桜も儀礼的なものから見て楽しむものへと変化していった。
日常それほど花に興味のない人でも、桜の季節になると、どうも浮き浮きとしてしまう。農耕民族としての日本人のDNAには、サクラとは切っても切れない深い関係があるからだろう。
日本の春には、入学があり、進学があり、就職があり、退職もある。その人の人生の大きな節目に、春という季節がある。そして、その背景には桜の花が咲いているのである。
桜を通して、日本の自然や文化を思い起こす時、最近の、サクラの木の下での、焼肉にカラオケは、ちょっと、品がなさ過ぎる。同じ饗宴にしても、もう少し、エレガントにやってもらえないものだろうかね~。
(画像は、コレクションの盃より「兵隊盃」何れも桜の花を図案に「しきしまの大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」の歌が刻まれている。)
参考:
日本さくらの会
http://www.sakuranokai.or.jp/
マピオン > 春特集2005 > さくら名所100選&夜桜名所
http://www.mapion.co.jp/topics/sakura2005/100sen/index.html
さくら見頃情報
http://www.wni.co.jp/cww/docs/sakura.html
くらしの植物苑だより
http://www.rekihaku.ac.jp/kodomo/5/tayori30.html
第2講 花見と日本人(各論)
http://www.sonoda-u.ac.jp/private/k25022/setsu2.htm
源氏物語に関するエッセイ・論文集
http://www.iz2.or.jp/essay/9-3.htm
さくら雑学事典1・日本人と桜
http://homepage3.nifty.com/~tabi/c83/sakura1.htm