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今日のことあれこれと・・・

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昭和の三大喜劇人として知られた落語家、タレント・柳家金語楼

2009-10-22 | 人物
今日・10月22日は、エノケンロッパとともに昭和の三大喜劇人として知られた落語家、タレント・柳家金語楼(やなぎや きんごろう) の1972(昭和47)年の忌日。
戦前は落語家として活躍していたようだが、私などの年代では、戦後テレビ・映画でタレントとして活躍していたときのこと以外の落語家時代のことは余りよく知らない。私の蔵書・朝日クロニクル「週刊20世紀」に記載されていることなどによると、柳家金語楼(本名:山下敬太郎)は、(1901(明治34)年2月28日、東京・芝の生まれで、父親の稲太郎が2代目三遊亭金馬門下の金勝という落語家だったことから6歳の時に入門し、三遊亭金登喜(きんとき)の芸名で寄席の初高座(Yahoo!百科事典参照)に上り、子供なので落語はやらず、ごく短い小噺(短くおもしろい話。ちょっとした気の利いた話など)と踊り、お盆を回す曲芸などを見せ人気を博したという。ただ、この2代目三遊亭金馬の演芸団(三遊亭金馬一座)は落語家のみの一座というわけでなく、芸を売るというより見世物小屋としての色彩が強かったという。
1913(大正2)年に小金馬と改名し、その後、3代目柳家小さん門下に移って、1920(大正9)年6月真打昇進を機に柳家金三と改名。このころから自作の新作落語を演じるようになったようだ。翌1921(大正10)年、徴兵検査に合格して、朝鮮羅南73連隊に入隊(このことについて、Wikipediaでは、朝鮮龍山に駐屯の第20師団歩兵第72連隊に入隊とある)。入隊後まもなく紫斑病(以下参考の※:紫斑病参照)に侵され頭髪が抜け落ちた(Wikipedia)又、熱病に冒され投薬過多の副作用のため頭髪が抜け落ちた(朝日クロニクル「週刊0世紀」)とも言われているが、金語楼本人は後者だと考えていたようだ。いずれにしても後年、この禿げ上がった頭をトレードマークとするようになる。翌1921(大正10)年に軍縮に伴ない除隊すると、軍隊時代の体験をもとに「金語楼の兵隊」という新作落語を作って演じると大当たりして、 “兵隊落語”と言われ寄席での売り物になる。
1923(大正12)年、柳家三語楼の門下に移り、翌1924(大正13)年柳家金語楼を名乗るようになる。1925 (大正14)年東京放送局(日本放送協会:NHK)が開局し、ラジオ放送が開始されるとその翌・1925(大正14)年、落語「噺家の兵隊」をレコードに吹き込んだが、後になって軍隊の士気を損なうとして発売禁止になったという。(現在、当時の金語楼の兵隊ものSPレコードが古物市の相当出回っている由)
又、彼は有崎勉のペンネームで、「バスガール」「アドバルーン」「ラー、メン屋」などの新作落語を次々と発表するが、有崎勉のペンネームは、当時就職難のおりから「勤め先有り」を逆に読だものとか。
1929(昭和4)年度の朝日クロニクル「週刊20世紀」には、以下のような記事が載っていた。
“滅びゆく芸術といわれて、影が薄いのが高座芸術だが、落語界の新人「兵隊さん」の金語楼は頭を絞って大きな改革を試みている。その1つの高座の上がり下り楽屋でジャズを奏でて近代的な空気を出そうと考え、資材を投じてピアノ・バイオリン・シロホン(打楽器の一種)を買い入れ専門家を雇った。この落語ジャズの楽器には、太鼓・尺八・笛などまであり、コンダクターは金五郎自身。3月21日から上野鈴本亭で発表することになった。金語楼は、「兎に角、なんとかしなくちゃいけません。滅びゆく落語を滅ぼすまいとして、苦心した金語楼という落語家があった・・なんてことになりそうですな」とはなしている。(3月20日東京朝日新聞)・・・と。
1914(大正3)年に第一次世界大戦が勃発したが、日本は地理的条件にも恵まれ、ほとんど参戦することなく経済的には好況を迎えていたが、1923(大正12)年の関東大震災による帝都(東京)の壊滅も重なり、大正末期から昭和初期にかけては大戦後の反動的不況が深刻化していたので、落語家が高座に上って落語を語るだけで飯を食べてゆくのは大変なことだったことは推測できる。それだけに、できる限りの努力をしたのだろう。1928(昭和3)年 曾我廼家五九郎に勧められ、五九郎劇『二等兵』に出演したというが、これも落語だけでは食べて行けなかったからだろう。
金語楼は、落語をするのに、話芸だけではなく、今まで、禿頭を売り物にしていたが、それに加えて、顔面の筋肉を動かして面白い顔を見せる「顔芸」で観客を大いに喜ばせた。笑いがとれる表情を作るため毎日 鏡を覗き込み、鏡と向き合う時間は高座に出る時間より長かったという。
「一つひとりでハゲてくる、二つ不思議にハゲてくる、三つみるみるハゲてくる、四つ横からハゲてくる、五ついつでもハゲてくる、六つむこうからハゲてくる、七つ泣いてもハゲてくる、八つやっぱりハゲてくる、九つこんなにハゲてきて、十でとうとうハゲちゃびん。」
以下参考に記載の※:「私の作文集・田川二郎:八つやっぱりハゲてくる…」によると、この禿の数え歌は自らの出し物の始めに必ず披露した歌だそうである。薄い頭の彼が恨めしげに、あるいは悲しげに数え上げる禿げ歌は、視聴者の爆笑をかった。しかし、頭と顔だけで人を笑わすとの批判もあったが、寄席高座での噺(はなし)芸も高い域を行くもので、絶妙な間のはずしかたとしわがれ声に、思わず客は引き込まれたものであり、噺家としても超一流であったと評価されている。
1930(昭和5)年、6代目春風亭柳橋と日本芸術協会(現在の落語芸術協会)を設立、副会長に就任する。
大阪の吉本興業が大正 末期より、東京・横浜への進出を開始、東京吉本は伝統的演芸路線を取る大阪吉本と異なり、徹底したモダン・ハイカラ路線を打ち出していた。1933年(昭和8年)には、吉本の社内に映画部も設立し、1935(昭和10)年には、映画会社 東宝 の前身の一つである ピー・シー・エル映画製作所 (PCL)と、さらに翌年 東宝映画配給 と提携し映画製作を手がけ、吉本所属の喜劇人の映画が、続々と東宝から封切られることになったようだが、金語楼主演の「俺は水兵」(1935年、J.O、スタジオ、永富映次郎)なども作られており、この頃には、東京吉本の専属になっていたのだろう。このとき、主題歌としてうたった「金語楼の水兵」(海野啓一 詩・山野幸子 曲。コロムビア )レコードも売られたようであり、どんな歌か聞けたら聞いてみたいものだ。
1937(昭和 12)年日中戦争が開始すると次第に、演芸に対する当局の検閲が厳しくなる。1938昭和 13)年金語楼は、大阪の吉本興業に所属し、国策に協力することで、戦時下を乗り切ろうとした吉本と大阪朝日新聞主催が結成した「わらわし隊」という戦地慰問団に参加した。その後、吉本が制作したの「プロペラ親爺」(1939年東宝東京、監督:氷室徹平)のような国策に沿った喜劇映画にも出ていたが、吉本興業の専属になったこともあって1940(昭和15)年に金語楼劇団を結成。喜劇俳優に転向。当時、噺家などの遊芸人は,所轄の警察署や分署に鑑札を申請することになっており、それが、煩わしいからだろう、1942(昭和17)年には、警視庁に落語家の鑑札を返上し、噺家業を廃業している。
そして、戦後は舞台を離れ、コメディアンとして映画・テレビに進出。映画では貴重な脇役として活躍する一方、特にテレビでは、1953(昭和28)年、NHK開局と同時に始まった「ジェスチャー」、マンガをドラマ化した「おトラさん」など多数の番組に出演。初期テレビ界の寵児となったが、私が知っているのも、この戦後の映画やテレビからである。
NHKの「ジェスチャー」は、金語楼率いる白組(男性陣)と水の江滝子率いる紅組(女性陣)に分かれ、視聴者が応募した問題を解答者がジェスチャーのみで表し、それを時間内に当てていくクイズ形式のゲームで茶の間の大人気を博した。巧妙な司会を務めた小川宏アナウンサーも番組の顔であった。兎に角、金語楼の顔の表情の豊かさ、大きな体の動き、かれのオーバー気味の演技に抱腹絶倒させられたものだ。以下で、その1部演技が見られる。
YouTubeNHK ジェスチャー
http://www.youtube.com/watch?v=C4j2CA32t7w&hl=ja
この番組の放送開始から、年末の忘年会他宴会では、ジェスチャーゲームが大流行となった。
又、1956(昭和31)年 から始まったラジオ東京テレビ(現:TBS)の「おトラさん」は、勤続20年のベテラン女中おトラさんの大活躍をテンポのいい演出で見せてくれた。原作は西川辰美が1954(昭和29)年から1955(昭和30)年まで読売新聞で連載していた4コマ漫画を、金語楼が有崎勉のペンネームでドラマ化したもの。
おトラさんは、奥様の馬子が日野江家に嫁いだ時に一緒にやってきたお手伝い(女中)さんで、身体の弱かった奥様に代わって何もかも一人で切り回す日野江家の主のような存在。子どものトリ江やタツオは実の親のように慕い、御主人の牛三もおトラさんには頭があがらない。お豆やおヤエといった近所の女中仲間のリーダー格でもある。日常的な話題をコミカルに描いただけのものだが、明るい笑いが人気を呼んだ。一家の主牛三演じる有島一郎のとぼけた演技も見所だった。テレビと同じメンバーで同名で映画化(以下参考の※:柳家金語楼 - goo 映画参照)もされ、これも大ヒット。シリーズ化され東宝で6本作られた(冒頭の画像は映画『おトラさん』ポスター)。
女性にもて、複数の愛人との間に生まれた子供の数も多いそうだが、知られているところでは、作家・演出家の嫡男:山下武、その異母弟に、平尾昌晃ミッキー・カーチスと共に「ロカビリー三人男」と呼ばれ一世を風靡した山下敬二郎、その妹に女優・声優の有崎由見子がいる。
思い出せば、私が結婚をして、新婚旅行で、大阪伊丹空港から宮崎へ飛ぶとき、新婚さんだからと、一番最初に飛行機の乗せてくれたが、その後続いて、登場し、私の席の真後ろに座っていたのが、金語楼であり、相当年の離れた若い綺麗な女性と一緒だった。その相手が、だれか?女房といろいろ想像を逞しくし話したものだ。
発明マニアであり、たくさんのアイデア商品の特許を有していることでも知られていた。たとえば宴会の余興用の手拭で表にチョン髷の絵、裏には日本髪の絵が描いてあり、鉢巻にして交互に絞(し)めると男女二役が演じられる。喜劇人らしいユーモアたっぷりの作品が多かった。私も、若い頃、東京の会社に5年ほどいたことがある(昭和30年代末~昭和40年代初め)。当時出来てそう年数も経っていない東京タワーにあった、テレビ東京で やっていた『アイデア買います』 という番組の公開放送を見るために何度か行った事がある。素人発明家のアイデアを審査して、良いものがあれば、業者がそのアイデアを買うといった番組で、当時人気番組であった。その影響で、新宿にあった発明協会に入り、独身で間借りしていた時代なので、仕事が終わって家へ帰っても誰も居らずつまらないので、物好きな同僚と暇な時は喫茶店でつまらぬものをああだこうだと考えて、特許庁でアイデアのものがすでに届け済みでないかを調べ、発明協会で特許の申請書の書き方を指導してもらって、3つほど申請したことがある。いずれも発明や特許と言う大それたものではなく、金語楼と同じくつまらないものの実用新案であったが、その当時で、年30万件以上もの申請があると協会の人から聞いた記憶がある。又、その時、つまらぬものの実用新案提出者の代表として金語楼の話を聞いたのも今、思い出した。奇抜なことが好きで自分の顔を商標登録したりもしたようだ。
1968(昭和43)年には榎本健一(エノケン)の後を受け、喜劇人協会の会長を4年間務めたが、1972(昭和47)年春、会長を森繁久弥に譲り、その半年後の10月22日71歳で亡くなった。
ただひたすら人を笑わせることに命を賭けた爆笑王・金語楼の、1965(昭和40)年録画の NHKの歌と歌との間での寸劇「弁慶と牛若丸」をあの藤順子他懐かしい面々の若い姿とともに以下でも見られる。
PodTube弁慶と牛若丸
http://podtu.be/s/Results.aspx?v=lzOZrzog6NQ
又、冒頭画像右は、「初代 柳家金語楼 落語名演集(一) 」(Amazonで取扱)であるが、参考に記載の※Amazon、「初代 柳家金語楼 落語名演集(一) 」で、落語のさわりが試聴できるよ。
(画像は、向かって左:映画『おトラさん』(1957年、東宝配給)ポスター。右:初代 柳家金語楼 落語名演集(一) 。Amazonで取扱)
参考はブログの字数制限上別紙となっています。以下をクリックしてください。
クリック ⇒ 昭和の三大喜劇人として知られた落語家、タレント・柳家金語楼:参考

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金語楼 (iina)
2015-09-10 10:35:14
「ジェスチャーゲーム」といえば、柳家金語楼とターキーでしたから、とても懐かしく拝読しました。

師匠をいろいろと代えたのですね。

金語楼の落語を聴いてみたかったです・・・。

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