今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

ハロウィン

2005-10-31 | 記念日
今日(10月31日)は「ハロウィン」
キリスト教の聖人の祝日「万聖節(ばんせいせつ)」の前夜祭。
古代ヨーロッパの原住民ケルト族の収穫感謝祭がキリスト教に取り入れられ、現在のハロウィンになったとされている。ケルト族の1年の終わりは10月31日で、この夜は死者の霊が家族を訪ねたり、精霊や魔女が出てくると信じられていた。これらから身を守る為に仮面を被り、魔除けの焚火を焚いた。家族の墓地にお参りし、そこで蝋燭をつけるという地方もある。墓地全体が、大きなランタンのように明々と輝く。
これに因み、31日の夜、南瓜をくり貫いて作ったジャック・オー・ランタン(Jack-o-latern=お化けカボチャ)に蝋燭を立て、魔女やお化けに仮装した子供達が「Trick or Treat(お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ)」と唱えて近くの家を1軒ずつ訪ねる。家庭では、カボチャの菓子を作り、子供達はもらったお菓子を持ち寄り、ハロウィン・パーティーを開いたりする。
10月31日をハロウィン (Halloween) と言うのは、万聖節の旧称"All Hallows"のeve(前夜祭)であることから「Halloween」と呼ばれるようになったそうだ。
このハロウインのポイントはお化けの扮装と,あの妙に気味の悪いかぼちゃのランタン。
ジャック・オー・ランタンは、アイルランドの伝説で、ジャックという人が昔いたが、彼は人々に対して、とても意地悪だったので、天国に行くことがで来なくなり、それからずっと不気味なかぼちゃのお面をかぶって徘徊しなければならなくなった。そのお面をかたどったものなんだそうである。
ハロウインの衣装は、もともとハロウィンが、魔女・魔法使い・お化けなどコワいものに引っぱっていかれないように、自分がそれと同じ格好をしてしまうということから、仮装が始まったそうで、他には、黒猫・こうもり・かぼちゃ(ジャックランタン)などが定番だが、最近は、なんでもありだそうだ。このお祭りは子供にとっては非常に楽しいお祭りの日でもあるだろう。
日本でも最近、家庭を回ってお菓子をもらうことはしないようだが,家でパーティーを開いたりはしてるようだ。日本人は、何でも真似するんだね~。
ハロウインといえば、もう10数年前(1992(平成4)年)に、アメリカで起きた事件を思い出す。アメリカ・ルイジアナ州に留学中の日本人青年(服部剛丈当時16歳)が、ハロウインで仮装して一般民家を訪れたとき、「フリーズ」(立ち止まれ)という言葉がわからなかったため、不審者の侵入と勘違いした住民に銃で撃たれて死亡した事件だ。日本でも大きく報じられ、正当防衛の是非、銃保持の是非をめぐって日米間の国際問題にもなった。
この裁判で、銃を撃ったロドニー・ビアーズは、日本の傷害致死罪に当たる罪で起訴されたが、1993(平成5)年、刑事裁判では被告の正当防衛が認められ無罪となったが、その後の民事裁判では過失責任が認められ,65万3000ドルの支払い命令が確定した。アメリカでも、この惨劇をきっかけに、ある程度銃規制(ブレディー法案=銃の販売に関する規制)は進んだが、銃の所持が禁止されたわけではない。
1997(平成9)年、アメリカ在住の中国人女性監督クリスティン・チョイが、この事件を検証したドキュメンタリー映画「TheShotRoundTheWorrd(世界に轟いた銃声)」を製作、公開した。
クリスティン・チョイ監督はこの事件の背後に人種差別の匂いを感じたようだが、完成した映画ではその点は曖昧にされているようだ。
この事件の起きたアメリカ南部のルイジアナ州は、つい最近、超大型ハリケーン「カトリーナ」により、死者数千人と推測される悲惨な被害にあっていることは、ニュースでご存知と思う。
避難民の救出に当たって、政府は「初動対応の遅れには(アフリカ系米国人への)人種差別があった」との追及もされているようであるが、今回の惨事の根本には、人種差別の問題はどうか知らないが、貧富の問題だあったことは確かだろう。貧困者が多いことは犯罪の多いことにも繋がる。ニュースなどで報じていたが、被災地のあちこちで盗難などの被害が相次いでいるようだ。事実、今までの、ニューオーリンズ市の犯罪発生率は、犯罪の多かった時のニューヨーク並みだったという。
「ハロウインパーティー」に関する事件としては、その後も、2000(平成12)年10月28日に、ロサンゼルスのビバリーヒルズの豪邸で行われたハロウインの仮装パーティーで、アメリカ黒人俳優のアンソニー・リーが、警官に射殺されると言う事件が起こっている。豪邸付近の住民からパーティーの騒音の苦情を受けて見回りに来た警官を、本物の警官と思わずにおもちゃの短銃を向け、それを、見た警官が、本物と見間違え発砲したそうだ。
私も、仕事で、ロス周辺の地域を視察したが、あの広大な土地で、犯罪者を、完全に警察の力で、取り締まることは、不可能だろうと思われるので、アメリカ人が、自分の身を守るために銃を持ちたいと思う気持ちも理解できなくはない。
銃で撃たれて亡くなった服部剛丈君のお母さんは、ドキュメンタリー映画の中で「ピアーズも銃社会の犠牲者かもしれない」と言っているそうだが、銃を所持していないと、自分の身の安全を守れない国に住んでいる人って、本当に不幸だな~と思う。しかし、最近の日本も、改造銃などの銃による事件も増えてきており、又、警察の悪質事件の検挙率も低下してきているので、そのうち、アメリカのように、自分の身は、自分で守らなければならない時代が来るのかもしれないね~。
参考:
ハロウィン・ジャパン・インフォ
http://www.h-jp.info/#
日本人留学生射殺事件
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/nihonjin.htm
世界に轟いた銃声
http://www.eiga-kawaraban.com/00/00041001.html
またまた「ハロウィンの悲劇」/黒人俳優射殺事件にあの敏腕弁護士が登場!
http://www.cafeglobe.com/news/dailynews/dn20001113-03.html
カトリーナの大衝撃
http://www.jnews.jetro.go.jp/cgi-bin/newsb/wlnews.cgi?id=shiten&no=63
米ハリケーン被害 >ハリケーン支援「人種とは無関係」 米ライス長官が反論2005年09月05日10時31分
http://www.asahi.com/special/050831/TKY200509050090.html
< 米ハリケーン被害 >支援の遅れに怒り爆発 ニューオーリンズ2005年09月03日11時25分
http://www.asahi.com/special/050831/TKY200509030125.html

初恋の日

2005-10-30 | 記念日
今日は(10月30日)は「初恋の日」。
島崎藤村ゆかりの宿である長野県小諸市の中棚荘が制定。
1896(明治29)年、島崎藤村が『文学界』46号に『こひぐさ』の一編として初恋の詩を発表した。毎年、初恋をテーマとした「初恋はがき大賞」等のイベントを行っている。
記念日を作った中棚荘のHPを見ると、中棚荘は、文豪 島崎藤村 の名作「千曲川旅情の詩」の一節にある、"千曲川いざよう波の岸近き宿にのぼりて濁り酒濁れる飲みて…"の岸近き宿として詠われた100年余の歴史のある宿らしい。
記念日の「初恋の日」は、1999(平成11)年には日本記念日協会から、「日本記念日大賞」を受賞したそうで、毎年、全国一般から「初恋はがき」を懸賞募集する記念行事をしており、初恋をテーマにした絵手紙、俳句、短歌、川柳、エッセイなど何でも応募できるらしい。中棚荘入口にある丸ポストも、日本丸型ポスト協会から「初恋ポスト」として認定されているとか。一度、応募してみては・・・。後援スポンサーも多く、懸賞品の中には“初恋の味”として有名になった水玉模様の『カルピス』もあったそうだ。1919(大正8)年に誕生した『カルピス』は、3年後に“初恋の味”というキャッチフレーズとともに初めて新聞広告に登場し、瞬く間に全国に浸透していった。こんな記念日にはぴったりの景品だね~。
1896(明治29)年島崎藤村が『文学界』に発表した「初恋」というタイトルの詩。この詩を収めた処女詩集『若菜集』は翌明治30年8月に刊行されている。藤村の「初恋」は日本の近代詩を代表する傑作と言われており、多くの人が一度は、中学か高校生の頃に読んでいるのではないだろうか。
この『若菜集』に収められた「初恋」は、藤村の詩に、若松 甲が作曲し 、歌手・舟木一夫により歌われている同名の歌「初恋」があり、NHK紅白歌合戦(1969=昭和44年第20回)でも歌われていたよね。「初恋」は七五調のリズムで書かれていて日本人には馴染みやすい。
「初恋」の詩
まだあげ初めし 前髪の 林檎のもとに 見えしとき
前にさしたる 花櫛の 花ある君と 思いけり

やさしく白き 手をのべて 林檎をわれに あたへしは
薄紅の 秋の実に 人こひ初めし はじめなり

わがこころなき ためいきの その髪の毛に かゝるとき
たのしき恋の 盃を 君が情に 酌みしかな

〈4番は歌われていない〉
林檎畑の 樹の下に おのづからなる 細道は
誰がふみそめし かたみぞと 問いたまふこそ こひしけれ

この藤村の「初恋」の主人公は、1906(明治29)年、藤村が7年の歳月をかけて完成させた最初の長編小説「破戒」の主人公、生まれ素性を隠して生きてきた小学校教師瀬川丑松ではないかと推測されている。小説内で、「初恋」らしき場面が追憶として登場するが、林檎畠一つ隔てた隣家の幼馴染、お妻という女の子である。
藤村がキリスト教徒であることから、この詩の背後には旧約聖書のアダムとイヴの物語がある、という人達がいる。「まだあげ初めし・・・」というのだから、まだ初々しくあどけない少女なのであろう。当時の日本では、若い男女が恋に陥ることはまだタブー視されていた。そういう時代、恋は人目を忍ぶ、秘密めかした行為であった。、「やさしく白き手をのべて 林檎をわれにあたへ・・」るという行為。りんごは聖書の中でアダムとイブが神様との約束を破って食べてしまった「禁断の果実」でもあるところから、この初恋は「禁断の恋」と読むことが出来るという・・・。
初恋か・・・!私の場合は・・・・?。よく覚えている・・・初恋の相手は、小学校4年生の同級生だったから11歳か!。学芸会のとき「かえるになった王子様」を演じた。私がかえるになった王子様、その女の子はお姫様だった。実に綺麗だった。ただあこがれるだけで、学校も卒業し、いつしか忘れていたが、成人して、30歳代後半に偶然家の近くの駅で出会った。といっても、直接顔をあわせたわけではなく改札を通っているのを見かけただけである。がっかりした。顔の感じは変わっていなかったが、元々ぽっちゃりはしてたが、凄く立派な体型になっていた。出会わなければ良かった。2回目の初恋・・・?こんなのあるかどうかは知らないが、本当の意味での恋心を抱いたのは、高校生の時だった。しかし、・・・その子には、恋心を打ち明けることもなく、林檎はもらえないまま卒業、以来、会うことはなかった・・。(ーー;)。すぐにりんごをあげちゃう今の若い人からすると、 まどろっこしい ・・・と思うかもしれないが、昔は、「初恋」なんて、プラトニックなもので、それが普通だったんだよ・・・。
舟木一夫・初恋のMIDIを聞いてみたい方は、ここでどうぞ。
※カルピスの包装紙には黒人のキャラクターが、使用されていたが、平成元年より、黒人のキャラクターは、人種差別の問題があるということから、「黒人のマーク使用禁止」となり、長年愛されたカルピスのこのマークも同年より使用されなくなった。
(画像はコレクションの「カルピスの包装紙」)
参考:
中棚荘
http://www.komoro.co.jp/
青空文庫/作家別作品リスト:島崎 藤村
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person158.html

とらふぐの日

2005-10-29 | 記念日
今日10月29日は「とらふぐの日」
「と(10)らふ(2)ぐ(9)」の語呂合せ。他に同様の語呂合わせで「ふくの日=2月9日(下関ふく連盟が1981=昭和56年に制定。)」「ふぐの日=9月29日 」がある。
河豚(ふぐ)の古名はふくであり、ふぐの名の由来は遠く菅原公が九州に左遷された頃の古書にすでに「布久」と記されいるそうである。又、新井白石の「東雅」には、ふくとはその腹脹れることをいうと記されているそうで、その語源は怒ると腹がふくれることによるようだが、また一説ではふくは海底の砂を吹いて出てくるゴカイ類を食べる性質があるので「吹く」に由来するとも言われているという。そのふぐの種類は約70種類とも100種類とも言われているが、食用に出来るのはその内約1~2割とか。
明治時代、伊藤博文公が下関に来た時、しけの為魚が全然なかったが、「下関に来て魚がないとは・・・」と皮肉を言われた女将が、当時禁止とされていたふぐ料理を出したところ、これに勝る品なしと絶賛し、山口県の県令に命じ禁止令を解いたそうで、その時、禁止令が解かれたのは、山口県だけで、全国の地域で禁止令が解かれるようになったのは戦後のこと。その様なことから、ふぐは「山口県・下関」と言われるようになったそうである。今、下関はふぐの取り扱い量日本一を誇る集散地となり、ここから全国各地の市場に配送されている。
これらの多くの種類の中でも、最も高価で美味とされているふぐの王様が「トラフグ」である。外見的な特徴としては背面は青色みがかった黒色をしており、背面、腹面には小棘が密生している。胸ひれの後ろに大きい斑紋があり、体長は70センチ以上に達するものもある。この斑紋がトラを連想させるためトラフグの名がある。この「トラフグ」生息地としては北海道南部から中国沿岸まで広く分布しているが、瀬戸内海西部産のものが最も美味といわれており、豊後水道に臨む大分県で漁獲されたものが多く、下関へ出荷されているのだそうである。
大分県と言えば関で獲れる「関あじ、関さば」などが全国的に有名であるが、ふぐ通などには「大分のふぐ」が有名であり、通人の中には、東京などから大分まで食べに来る人もいると聞いている。私も仕事でよく九州へ行くようになるまでは知らなかったが、現役最後の5年ほどは、福岡に住み、大分へは毎月何度も行っていた。そして、大分へ行くと、シーズンには、大分在住の知人に安くてうまい店を案内してもらい、夜は、必ず、ふぐを食べに行っていた。
ふぐには、テトロドトキシンという毒があり、その為、免許を持ったプロのふぐ調理人しか調理することは許されず、ふぐの肝を食べさせることは、禁止されている。しかし、この肝が、大分では、食べれるのである。何故、大分だけが食べれるのかと言うと、食べさせることを禁止しているのは、「県条例」であって、全国で、大分県だけは、県条例で禁止されていないのである。大分の知人や店の人などに、何故禁止しないのかと聞くと今までかって、大分では、ふぐの肝を食べて死んだ人などいないと、絶対的な自信を持っているのである。現在は、ふぐの毒の所在も明らかになり、その除去法もわかっているので中毒の心配はなく、天然の美味を安心して食べられるのだそうだ。 私が知人に紹介してもらったふぐの専門店では、生の肝を葱・もみじおろしと一緒にポン酢の中にといて食べる。ふぐのヒレ酒にふぐの肝・・・酒好きには、たまらないね~。
関西人の私が、大阪で初めてふぐを食べたとき、ふぐのことを「てっぽう」というので、何故と理由を聞くと「当たると死ぬから」そんな名前がついたと言われ、どきどきしながら食べたことを思い出す。当時まだ、ふぐを怖がって食べない人も多かった。
「ふぐは食いたし命は惜しし」、「真に一死に値する」といわれるふぐの味。ふぐは冬の季語にもなっており、古くから多くの俳人がふぐに関する句を詠んでおり、江戸時代の俳人・松尾芭蕉も、
「ふぐ汁や鯛もあるのに無分別」
「あら何ともなやきのふは過ぎてふぐ汁」
の句を残しているなど、昔の人も、そのうまさに魅かれて、こわごわふぐを食べていたことが窺われる。
しかし、「武士は主君のために命を張るもの」と、無駄な死に方は、許されなかったため、ふぐ毒による中毒死を防ごうと「河豚食禁止令」が室町時代以降たびたび出されたが、豊臣秀吉も朝鮮出兵の際、下関に参集した兵が中毒死して困ったとか・・・。
以下参考の「我が国のフグ食の歴史」を見ると、1982(明治15年)「違警罪即決令」発布 、「河豚を食う者は拘留科料に処す」とフグ食禁止。それまでは、河豚食禁止令が出ていても内緒で食べていた人が多かったんだろうね~。その後、先に述べた、伊藤博文公の発言から、1888(明治21年) 山口県に限定 して、河豚食が解禁され、ふぐが、超高級料理化する。その後、1918(大正7)年、他県に先駆けて兵庫県が、その後、1941(昭和16)年に大阪府が河豚食を解禁し一般に食されるようになったそうだ。食い倒れの町大阪といわれるが、大阪よりもずっと前に、兵庫県が河豚食を解禁していたんだよね~。そりゃ~、伊藤博文公は兵庫県の初代知事だものね~。ただ、ふぐ通はその後、条例などによって、食べさせることを禁止された美味しい「肝」が本当は食べたいんだよね~。神戸の元町の小料理屋さんなどでは、内緒で、ふぐの肝を食べさせていたらしく、昭和40年代に、歌舞伎役者の坂東三津五郎氏が、ふぐの肝を食べて死んだことで、話題になったことがあったよね~。私なんか、勉強不足で、長い間、ふぐは、下関や九州が産地などと思い込んでいたのだが、私の地元、兵庫県、それも目と鼻の先の淡路島でも、極上のふぐが獲れることを知ったのはそう古いことではない。正に、灯台下暗しであった。さ~、これから寒くなった時がふぐのシーズンだぞ~。
(画像はふぐ料理・ふぐの肝)
参考:
ふぐ料理
http://hccweb1.bai.ne.jp/~hdb41101/million_fg01.html
我が国のフグ食の歴史。
http://www.jnit.co.jp/mame/mame/mame9.html
法益主体の危険引受け(2・完)/東雪見 (坂東三津五郎ふぐ中毒死事件)
http://law-web.cc.sophia.ac.jp/top/LawReview/contents/4703/4703higashi_main.htm

速記記念日

2005-10-28 | 記念日
今日(10月28日)は「速記記念日」
1882(明治15)年、10月28日、田鎖綱紀(たくさり こうき,1854-1938)が、東京・日本橋で初の速記講習会を開催した。1888(明治22)年に、講習会の7周年記念会を開いた時に,、この日を「速記記念日」として定めたものだそうだ。
速記法は、ヨーロッパでは歴史が古く、古代ギリシャでも使用され、議会や討論会・会議などの記録を取る手段として発達してきたが、日本での導入は田鎖式が最初といわれている。
速記法の検定は、速記記録したものを一定時間内に反訳するところまでの正確度を問うもので、速記の方式は何でも構わず、現在国内には80種類ほどの速記法があるそうだ。随分色々な速記法があるんだね~。
テレビなどで見られる、国会での討論などの速記は、衆議院と参議院に速記養成所があり、それぞれの養成所で訓練を受け合格した人たちが行っているため、衆議院と参議院では速記文字が違うのだそうだ。
それに、国会では、よくヤジを飛ばしている人が居るが、ヤジが元で審議が紛糾することもあることから、速記者は、発言者の発言のみでなく、ヤジや態度、様子なども同時に書き留めているんだとか。
私は、字を書くのが大の苦手であるのに、どうしても、仕事の関係で、会社のある会議の書記をやらされたことがある。話はあっちこっち脱線するし、質問に対する回答もしどろもどろで要領を得ないことを聞き取れないようなか細い声で話したりする。一応、テープレコーダーにも記録をしておいたが、よく聞き取れないところも多く、困った経験がある。幸い、もう一人の仲間が馴れた人だったので、この人の助けで何とかしたが・・・。だから、国会でのヤジや暴言の様子まで書き留めるのは、大変だろうなと感心する。最近は、録音の技術も進歩しているので、これらの録音テープが、相当役に立っているとは思うが・・・。
今日の速記のことで調べると、会議関係以外で、落語の速記録があるんだね~。1884(明治17)年の秋に、三遊亭円朝演述の『怪談牡丹燈籠』を、速記で記録して出版している。この速記「牡丹灯篭」が出版されて後、東京では、1889(明治22)年5月から「百花園」という落語速記を掲載した雑誌が出版され、好評を得たそうだ。同年9月、それに刺激をうけた大阪では「百千鳥」という講談、落語、小説を掲載した雑誌が出版されたという。最近のものでは「桂米朝上方落語選」(立風書房刊行)は、桂米朝の初めての速記集で、上方落語の速記集としては異例な売れ行きを記録した名著だそうだよ。
落語の好きな人には、以下参考のリンク集にある【世紀末亭】がお勧めだよ。膨大な量の上方落語メモ。きっと、お好みのものが見つかるのじゃ~ないかな・・・?。
(画像は市民寄席チラシ、桂米朝独演会)

参考:
日本の速記
(株)大和速記情報センターHP
http://www.yamatosokki.co.jp/break/history/chapter_01/index.html
落語に関する本
昭和以降の速記本、関係資料、正岡容著作輯、ビートたけし著作集、東西落語家系図等
http://www.cyborg.ne.jp/~akio01/rakugo/raindex.html
リンク集
【世紀末亭】上方落語メモ(膨大な量の落語速記。充実した内容。)上方落語の魅力をたっぷり味わえる。他、落語関係のリンク集です。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~hatten/link.htm

テディーベアーズ・デー

2005-10-27 | 記念日
今日(10月27日)は「テディーベアーズ・デー」。
テディベアの名前の由来となったアメリカ第26代大統領セオドア・ルーズベルトの誕生日。イギリスのテディベアコレクターの間で始められ、世界中で「心の支えを必要とする人たちにテディベアを贈る運動」が行われている。日本では日本テディベア協会が1997(平成9年)年から実施。
テディベアの”テディ”というのは、アメリカ第26代大統領セオドア・ルーズベルトの愛称からきている。1902(明治35)年の秋、ルーズベルト大統領は趣味である熊狩りに出掛け、瀕死の熊に出くわした。しかし、大統領は打ち殺すことを拒み、その熊を助けた。そのことが、美談としてクリフォードベリーマンの風刺画とともに、ワシントンポスト紙に掲載された。
このエピソードと挿絵はアメリカで予想外の人気を博し、ついに、クマにセオドア・ルーズベルトのニックネーム「テディ」をつけ、「テディ・ベア」として呼ばれるようになった。同じ頃、ドイツのシュタイフ社がライプチッヒで行われた博覧会に熊のぬいぐるみを出品した。それがアメリカのバイヤーの目にとまり、大量にアメリカに輸入され、この名前が広まった。その後、ルーズベルト大統領はこの「テディベア」を選挙キャンペーンマスコットにも採用。アメリカを中心に急激に「テディベア」という名前が定着していった。
アメリカ合衆国第26代大統領セオドア・ルーズベルト(在任1901~11909)は、1900年共和党から立って副大統領となり,翌年マッキンリー大統領が暗殺されたため史上最年少でアメリカ大統領に昇格,1904年再選された。日露戦争のときには日本とロシアの講和につとめた。1919(大正8)年に没(享年61歳)。
彼の名言に以下のようなものがある。
「あなたの今の状態で、できる限りで、できることをしなさい。」
「ある仕事ができるかと聞かれたら、”もちろんできます”と返事することだ。それから懸命にそのやり方を見つけよ」
「何事にも動じない決断力ほど、気概のある人間を作り出す要因はおそらくあるまい。」
などを、見ても、凄く、決断力、行動力のある人だってわかるよね。
世の中、成功するための条件として、もっとも大切なものは、「勇気」だとされている。その人が、どれだけの「決断力」と「行動力」をもって実行できるかは、つまるところ、その人に、どれだけの失敗を恐れずに実行するだけの「勇気」があるかどうかだろう。
(画像は佐世保ハウステンボス、テディベア展の時の店内の大きなテディーベア)
参考:
日本テディベア協会
http://www.jteddy.net/
テディベアミュージアムホームページ
http://www.teddynet.co.jp/
Hiro's Collection / アンティークベアや現行の限定品、アーティストベア等。骨董のコレクションも
http://www.hiro-collection.com/
世界の名言・癒しの言葉・ジョーク/セオドア・ルーズベルト
http://becom-net.com/wise/k-se.htm