今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

松尾芭蕉が「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句を詠んだ

2012-05-27 | 歴史
「閑(しずけさや)や岩にしみ入る蝉の声」
この句は、江戸時代前期の俳諧師松尾芭蕉が、1689(元禄2)年5月27日(新暦7月13日)に、山形市立石寺(山寺)(正式には宝珠山阿所川院立石寺)に参詣した際に詠んだもので、紀行文集『奥の細道』に収録中の最も優れた発句の一つとされている。
初案は、随伴した河合曾良が記した『随行日記』に記されている「山寺や石にしみつく蝉の聲」(『俳諧書留』曾良)であったらしく、後には「さびしさや岩にしみ込む蝉の聲」(『初蝉・泊船集』)となり、現在のかたちに納まったのはよほど後のことらしい(※1「芭蕉DB」の奥の細道立石寺参照)。
1925(大正15)年、山形県出身の歌人斎藤茂吉はこの句に出てくる蝉についてアブラゼミであると断定し、雑誌『改造』の4月号に書いた「童馬山房漫筆」に発表。これをきっかけに蝉の種類についての文学論争が起こった。
このアブラゼミと主張する茂吉に対し、東北帝国大学の教授で夏目漱石の門下だった小宮豊隆は「閑さ、岩にしみ入るという語はアブラゼミに合わないこと」、「元禄2年5月末は太陽暦に直すと7月上旬となり、アブラゼミはまだ鳴いていないこと」を理由に、この蝉はニイニイゼミであると主張し、大きく対立するなど、白熱した蝉論争が起こるが、その後茂吉は実地調査などの結果をもとに二人のあいだでは小宮が主張したニイニイゼミで決着したようだ(※2、※3参照)。
ただ、芭蕉と門人の河合曽良(そら)が、尾花沢から取って返して立石寺を訪れたのは、それまで滞在していた尾花沢の人々の勧めがあったためと芭蕉は記す。つまり、当初は立石寺を訪問する予定はなかったようである。
みちのくを旅するにあたって、曽良は松島をはじめとする東北地方の行脚予定コースの歌枕(古くから和歌に詠まれた名所旧跡)について、延喜式神名帳抄録(抄録=要約)および名勝備忘録を用意して旅に出た(※4:「曽良と歩く奥の細道展」河合曽良略年譜参照)と言うが、立石寺は歌枕ではなかったことから この「名勝備忘録」に立石寺についての記載がなく、立石寺訪問が予定外であったことを裏付けている。詩歌に無名であった立石寺が芭蕉のこの句によって、その後、霊場立石寺という「俳枕」(俳句に詠まれた名所・旧跡) として、詩歌の地誌の上に登録されていくことになった。
私も、東北旅行時に一度だけ立石寺を訪れたことがあるが、聳(そび)え立つ岩山に堂が点在する山寺の風景に、中国の山水画に描かれた深山幽谷を見た思いがして感動したものだった。(写真等※5参照。案内図にマウスポイント当てると画像が拡大する)。
芭蕉も尾花沢から立石寺へ訪れ、到着後、まだ陽が残っていたので、麓のに宿を借りておいて、山上の御堂に上ったという。
当然、百丈岩に聳え立つ慈覚大師のお堂(開山堂)や、その堂から上へ到る細い階段を登ったところにある、慈覚大師が五大明王を安置して、天下泰平を祈る道場として使用したという五大堂からのすばらしい光景を見て感動したことであろう。
ただ※3の中でも、芭蕉が立石寺を訪れた太陽暦の7月13日頃の山形に出現しうる可能性のあるセミの種類の中で、アブラゼミの出現は7月中旬~8月下旬頃であり、7月13日というと「アブラゼミは初鳴きがぎりぎりのところ」ともあり、芭蕉が訪れた時には、アブラゼミの数が多いか少ないかは別として、アブラゼミが鳴いていたかもしれない。そのことに関連して、※1:芭蕉DBでは、この句の論争でセミ以外の岩のことには触れられていないことや、このようなセミの種類や数論争で物議をかもすのも、この句の偉大さであり、言葉のプロとしての芭蕉の偉大さの故かもしれない。・・ことを指摘してしている。
芭蕉は山寺を訪れ、挨拶(俳諧でいう挨拶については、※6.※7参照)として、最初に詠んだのは「山寺や石にしみつく蝉の聲」であり、その後、推敲に推敲を重ねた末に「閑さや岩にしみ入る蝉の声」が奥の細道に掲載されるのだが、そこには、深い訳があるだろうが、そこらあたりの説明が詳しくは書かれていない。
そこで、ネット上で、この句をもっと詳しく解析しているものを探していると、以下参考に掲載の※8:古代文化研究所による「奥細道俳諧事調」が見つかった。一度、立石寺を訪れた者としては、その解説を読んでいて、さもあらん・・・とよく納得できたので、そのエキス的なところを以下へ抜き書きさせてもらおう。
芭蕉が吟じたのは、昼なお暗い仁王門や釈迦堂下のせみ塚あたりの景色である。そこには、立石寺の法宝である百丈岩が屹立(きりつ)している。だから、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」は、奥の院や開山堂や五大堂を見終わった帰りの吟であることが分かる。なぜなら、屹立する百丈岩の大岩の上に開山堂が鎮座坐(ちんざましま)することを、芭蕉は意識して句作しているからである(立石寺境内位置図は※5参照。)。
芭蕉が初案であれほどこだわった挨拶を捨てて、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と改変したのは、臨場感を捨てて、内実にこだわったからであろう。宝珠山阿所川院立石寺として、清和天皇の御代から、延々と続く法統(仏語。仏法の伝統。仏法の流派。法流)を尊重した結果に他ならない。「閑さや」の上五が表すのは、立石寺境内全体が醸し出す雰囲気である。ここに切れ字「や」があるのは、「閑さや」と、句頭に立石寺境内全体の雰囲気を述べたのを一端、言い切る必要性が存在したからである。念の為に言うと、立石寺境内全体の雰囲気と言うのは、見て感じ取るものである。芭蕉は、あくまで立石寺の見目を表現しているのであって、何も音がしないとか、閑静であることを強調しているわけではない。
立石寺境内は、何と落ち着いて、安定していることか。それもこれもすべて、開山以来、連綿と数百年も続く法灯が醸し出す雰囲気が「閑さや」であって、一朝一夕に出来上がるものではないことが言いたいのである。また、それは現在の立石寺境内から、決してうかがい知れるようなものではない。現在の立石寺は当時の立石寺の完全なミニチュア版でしかない。元禄時代、ここには壮大な寺院伽藍が存在していたし、膨大な数の僧侶が氾濫していた。ある意味、立石寺は当時、僧の町であり、殷賑(いんしん=にぎやかで、繁盛しているさま)を極めていた。その賑わいは、到底現在の立石寺には存在しないものである。それでいて、寺はしっとりと落ち着いている。現在の閑散とした立石寺からは、「閑さや」の風情は想像すら出来ないであろう。芭蕉はそれを 「閑さや」と詠んだのである。立石寺の殷賑ぶりが「閑さや」の表現となっている。・・・(中簡略)。この句での、眼目は「岩」そのものであって、「閑さや」や「蝉の声」ではないし、まして「しみ入る」などではない。
そして、多くの著作が「蝉の声」を殊更取り上げて説明・解説したりしているが、それは全くの勘違いに過ぎない。俳諧を知らない者の仕草である。俳諧で最も肝要なのは、季節ではないし、切れ字(「ぞ」「かな」「や」「けり」「ず」「ぬ」「らむ」など、Wikipedia の俳句区切れ参照)でもない。それは挨拶である。その挨拶を無視する限り、俳諧を味わうことは不可能である。芭蕉は、この「岩に」の表現で、立石寺に挨拶しているのである。」・・・・と手厳しい。
「閑さや岩にしみ入る蝉の声」は、極めて芭蕉の思想性が色濃く出ている作品となっており、この句については、王籍の詩、「入若耶渓(じゃくやけいにいる)」との関係がよく知られているという(王籍の詩の解析と芭蕉の句のことは、※9を読めばよく分かる)。兎に角、芭蕉の句は素直ではない。かなりひねったものが多い。芭蕉の「閑さや」の句について、古代文化研究所「奥細道俳諧事調」では非常に詳しく解説されているので、関心のある方は是非一読されると良い。
「俳句とは何か」という、本質的問いに対する答えは多数存在するようだが、その中で、俳句評論家の山本健吉はエッセイ「挨拶と滑稽」のなかで、俳句の本質として3ヶ条をあげており、それが「俳句は滑稽なり。俳句は挨拶なり。俳句は即興なり」である。ここで述べている「挨拶」は山本が言っているところの「挨拶」のことであろう(※6.※7参照)。
セミ(蝉)は、あの臭いカメムシ(亀虫)の仲間、つまり、カメムシ目(旧・半翅目)に分類される昆虫の総称であり、ヨコバイ亜目とも近縁で、樹木に止まってる姿をよく見ていると横に這っていることがある。蝉の卵は木の枯れ枝や、樹皮などに産み付けられ、産み付けられた卵はその年の秋、または年を越して翌年の初夏に孵化する。卵から孵(かえ)った幼虫は地上に降り、すぐに土の中へ潜って木の根にとりつき、数年間、針のような口を木の根に差し込んで樹液を吸いながら過ごした後、夏の夕方頃、地上に出て木に登り、羽化して成虫となる不完全変態をする虫である。山に近い我が家の小さな小さな裏庭でも時期になると、朝起きて庭に散水していると、こんなところにと思う小さな木に蝉の抜け殻や抜け出たばかりの成虫を見つけることが多くある。
日本の場合、気象庁の梅雨明けとともに始まる蝉時雨。
「時雨(しぐれ)」とは、「過ぐる」から派生した言葉で、初冬に降る雨。多くの蝉が一斉に鳴きたてる声を時雨の降る音に見立てた語として使われる。
成虫が出現するのは主に夏だが、ハルゼミのように春(4月ごろ)に出現するものなどもいる。温暖化が進んだ近年では、東京などの都市部や九州などでは、10月に入ってもわずかながらセミが鳴いていることも珍しくなくなった。
蝉時雨を演出してくれるのは、東日本ではアブラゼミ(油蝉)、西日本ではクマゼミ(熊蝉)が主役のようだ。
蝉時雨と聞くと、なんとなく来心地よい鳴き声のようにも聞こえるのだが、近年の猛暑続きの中では、クマゼミや夜のアブラゼミの鳴声は、やや不快音に思えたりもする。
関東以西の大都市などでは環境の変化やヒートアイランド現象等によりアブラゼミの生息数が減少しているという。一方、北陸地方など近年アブラゼミの勢力が著しく強くなっている地域もあるようだ。
ミンミンゼミは、アブラゼミやクマゼミと比べると暑さに弱いらしが、そういえば、猛暑の続く1~2年我が地元神戸では、山に近い我が家でも、ミンミンゼミの鳴声を聞かなくなったように思う。
蝉は、幼虫として地下生活する期間はまだ十分には解明されていないようだが、3~17年(アブラゼミは6年)に達し、短命どころか昆虫類でも上位に入る寿命の長さをもつともいわれているようだ。成虫になってからの期間は1~2週間ほどと言われていたが、これは成虫の飼育が困難ですぐ死んでしまうことからきた俗説らしく、野外では1か月ほどと言われているようだ。
日本では、種毎に独特の鳴き声を発し、地上に出ると短期間で死んでいくセミは、古来より感動と無常観を呼び起こさせ「もののあはれ」の代表だった。蝉の抜け殻を空蝉(うつせみ)と呼んで、現身(うつしみ)と連して考えたものである。
吉田兼好の随筆『徒然草』中でも有名な第7段“あだし野の露消ゆる時なく”では強烈に無常観を主張しており、以下のような形でセミが登場している。
「蜻蛉(とんぼ)は朝に生れて夕べには死ぬ(のに、人間は何時までも長生きしている)。また、夏のセミは秋を知らないほどに短命だ。
しみじみと一年を暮らせば、豊かな時間が過ぎていくのだ。逆に、命を惜しいと思って生きていると千年生きても短いと思うだろう。」・・・と(※10参照)。
また、芭蕉は奥の細道の旅から戻った翌年1690(元禄3)年、、4月~7月(陽暦の5月~9月)までの4か月を滋賀県大津市国分山の幻住庵に暮らし、その間の暮しぶりや人生観などを『幻住庵記としてまとめ翌年7月刊行の『猿蓑』に収めている』(※11:「私の芭蕉記」の”私の幻住庵”で、『幻住庵記』の全文が読める)。
この幻住庵に金沢の門人秋之坊(※1:「芭蕉DB」関係人名集参照)という僧が訪ねてきたときに、芭蕉が見せた句に以下の句がある。
「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」
前詞に「無常迅速」とあるとおりこの頃芭蕉は佛頂上人(※1:「芭蕉DB」関係人名集佛頂和尚参照)の影響か仏教へ傾斜していたという、(※1:「芭蕉DB」芭蕉句集参照)。
やがて死ぬのは、蝉なのか、芭蕉自身なのか、秋之坊なのか、おそらくそのいずれでもあるのだろう。生あるものは必ず死ぬ。この句は、まさに「閑けさや」の句以上に、命の儚さに対するこだわりが強烈ににじみ出ている。
目をつぶればすでに眼前のけしきは消え失せ、ただ蝉の声だけが聞こえてくる。今この時、この一瞬を鳴く蝉の生き方こそが、生を得たものの自然な生き方である。・・といった意味だろう。
佛頂上人は、芭蕉参禅の師らしい。前詞にある「無常迅速」とは、禅の言葉、『生死事大(しょうじじだい)無常迅速(むじょうじんそく)各宜醒覚(かくぎせいかく)慎勿放逸(しんもつほういつ)』からのもので、その意味は「生死は仏の一大事、時は無常に迅速に過ぎ去っていくから、各人はこのことに目覚めて、弁道精進(ひたすら仏道修行に励むこと、※12参照)につとめ、無為に過ごしてはいけない」。叩いて合図をするだけではなく、その音声で心をも目覚めさせようとの意味が込められているのだそうだ(※13:「長泉禅寺HP」の不立文字>生死事大 無常迅速を参照)。
従って、「この道や」の句の「この道」には、芭蕉が、尊敬して止まない芸道の先人たちが切り開いた道のことをも意味しており、そこに現在は誰もいないことを嘆きつつも、しかしいつかは時と所を越えて、必ず「この道」を辿る者が現れることを信じて、死んでいく己の生き様・・・といった芭蕉の奥深い思想が込められているようだ。芭蕉は、この句を詠んで一ヶ月後、51歳のけっして長くはない生涯を終えた。
蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立し、俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人に上り詰めた芭蕉の「辞世句」ともなった「この道」の句。立石寺で詠んだ「閑や」の句同様の推敲を重ねてこの秀作が出来るまでの解説を、以下参考の※14:「芭蕉の辞世句「この道」」で詳しく書かれている。
ところで、彫刻家である一方、『智恵子抄』などの作品で知られる詩人の高村光太郎は、好んで蝉を彫り、また詩作の中にも「蝉を彫る」がある(参考の※15に、セミの彫刻と”蝉を彫る”の詩あり)。
よほど蝉の造形に感心が高かったようで、「私はよく蝉の木彫をする。……」という書き出しで始まる随筆『蝉の美と造型』(※16の青空文庫参照)の中で、何故蝉を彫るのか、蝉の魅力について熱く語っている。
そこでは、蝉の線の魅力に言及し、更には蝉の表現方法を通して「真の美」のあり方まで述べられており、高村によると、あの蝉の薄い翅をそのまま薄く彫ってしまっては下品になる。薄い物を薄く彫るのは浅はかで、むしろ逆なくらいがよいという(セミの彫刻は、※15参照)。
そして、「埃及(エジプト)人が永生の象徴として好んで甲虫スカラベイ)のお守を彫ったように、古代ギリシャ人は美と幸福と平和の象徴として好んでセミの小彫刻を作って装身具などの装飾にした。声とその階調(かいちょう)の美とを賞したのだという。」・・・とも記されている。

上掲の画像は、王家の谷の壁画に描かれたスカラベ(Wikipediaより)
中国では地中から出てきて飛び立つセミは、生き返り(蘇生、そせい)、復活の象徴として、玉(翡翠参照)などをセミの姿に彫った装飾品が新石器時代から作られてきた。また、西周ごろには、地位の高い者が亡くなった際にこのような「玉蝉」を口に入れて埋葬し、復活を願う習慣が生まれたという。これは、古代エジプトのスカラベと同じようなものだったかもしれない。
そしてまた、光太郎は、「蝉時雨(せみしぐれ)というような言葉で表現されている林間のセミの競演の如きは夢のように美しい夏の贈物だと思う。セミを彫っているとそういう林間の緑したたる涼風が部屋に満ちて来るような気がする。」と言っている、※15の詩”蝉を彫る”には、セミへの洞察と想いが、彫刻を通して語られ、興味深いものがある。
蝉の鳴き声は、現在でも夏を連想させる効果音として映画やドラマなどで多用されるが、映画やドラマにもなった藤沢周平の『蝉しぐれ』にも、いくつか蝉の鳴く光景がでてくる。
 
上掲の画像は映画「蝉時雨」チラシ。マイコレクションチラシより)
藤沢周平(本名:小菅留治)は、山形県鶴岡市出身である。
小説は海坂藩を舞台に、政変に巻きこまれて父を失い、家禄を減らされた牧文四郎青年の過酷な境遇をひたむきに生きる姿が描かれている。作者創造による架空の藩海坂藩は、藤沢の出身地を治めた庄内藩とその城下町鶴岡がモチーフになっていると考えられている。
物語は、蛇に噛まれたおふくを救う「(かなわぬ)「恋のはじまり」で始まり、前半のクライマックスは、の政争に破れた父の斬首の場に少年がたった一人でおもむき、遺骸を引き取り、夏の城下を歯を食いしばって父をのせた荷車をひく。そこにかけよった少女おふくが涙を浮かべつつだまって荷車を押しはじめるシーン。 蝉しぐれの題名が、このシーンに見事に重なる。
最終章は、小説全体のタイトルと同じ「蝉しぐれ」で終わる。おふくと再会し、二人はお互いの人生を振り返り、共に生きる道はなかったのかと思いあうのだが、ままならぬのが人生。福と別れた文四郎に、黒松林の蝉しぐれが耳を聾(ろう)するばかりにふりそそぎ、福とともに過ごした幼少の頃の雑木林の風景が脳裏に浮かんでくる。ひと時、幻想の中で過ごした文四郎は、現実にたち戻るため、真夏の太陽が照らす野の中に馬腹を蹴って、熱い光の中に走り出ていくシーン。全編に静謐(せいひつ)さと夏の熱い空気が漂っている。
長編小説『蝉しぐれ』の初出は1986年(昭和61年)7月から1年間、山形新聞の夕刊連載であった。この時代は、都心の土地高騰が地方にまで広がり、日本中がバブル経済に狂乱していた時代であった。藤沢は自分自身の前半生の体験のつらさを込めて、誇りを失わずに逆境に耐える人間を描いているが、特に魅力的なのが、舞台となって出てくる架空の海坂藩であり、そこには、かって、存在した日本の原風景があった。戦後の社会からは消えていった日本人の心や暮らしのたたずまいが伝えわり、現代人の心にある懐かしさをかきたてた。経済優先の現代の世の中にあって、精神的に癒されるのが藤沢作品の特徴だろう。
最後になったが、『イソップ寓話集』の中でも、日本で特に有名な寓話「アリとキリギリス」は、元は「アリとセミ」だということは、よく知られているが、以下参考の※17:「インターネットで蝉を追う」では、“セミがどうしてキリギリスになったのか”・・・といったことなど詳しく書かれている。又、そこでは、怪談雪女」や「耳なし芳一」でなじみの深い明治の文豪・小泉八雲の随筆『蝉』の紹介もしている(特別付録 ラフカディオ・ハーン小泉八雲)『蝉』を参照)など、蝉のことは非常に詳しく書かれていてなかなか面白い。
このブログを見ている人は、何故、梅雨にも入らない早くから蝉のことを書いているのか。どうせ書くなら、7月の梅雨明け頃にでも書けば時節に合っていていいのに・・・・と、思うかも知れないが、日本の蝉とエジプトの蝉の違いや西洋人と日本人の蝉の鳴声の感じ方のちがいなど『蝉』も色々調べると奥の深いもの。
梅雨が明けると本格的にセミの季節がやってくるガ今年は梅雨入りが早いというから梅雨明けも早いのだろう(※18)。
今年の夏は、電力不足で暑い夏になり暑さをしのぐのが大変そうだ。その前に、蝉のこと色々と調べて、新しい知識を持った上でセミの声を聴くと、蝉時雨も、ただうるさいものとは感じず、心地よい音色として聴こえるかも知れない・・・などと思ってね。

(冒頭の画像はアブラゼミ。Wikipediaより)
参考:
※1:芭蕉DB
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/basho.htm
※2:閑さや岩にしみ入る蝉の声 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E3%81%95%E3%82%84%E5%B2%A9%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%BF%E5%85%A5%E3%82%8B%E8%9D%89%E3%81%AE%E5%A3%B0
※3:蝉(せみ) - 万葉の生きものたち
href=http://www.bioweather.net/column/ikimono/manyo/m0508_1.htm
※4:曽良と歩く奥の細道展(諏訪市博物館)
http://www.city.suwa.lg.jp/scm/dat/kikaku/data_files/html_dat/H11_sora/index.htm※5:山寺の由来[ 山寺観光協会]
http://www.yamaderakankou.com/origin/
※6:日本俳句研究会:俳句作り方>俳句は挨拶
http://www.jphaiku.jp/how/aisatu.html
※7:俳句用語
http://thatgirlnextdooruk.blogspot.jp/2012/05/blog-post_06.html
8:古代文化研究所-奥細道俳諧事調
href=http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/1131267.html
※9:季節のことば -音の句
http://blogs.yahoo.co.jp/bgydk072/archive/2011/10/1
※10:徒然草DB
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/tsuredure/turedure_index.htm
※11:私の芭蕉記
http://www.intweb.co.jp/miura.shtml
※12:長泉禅寺HP
http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/index.htm
※13:弁道話 - つらつら日暮らしWiki〈曹洞宗関連用語集〉
http://wiki.livedoor.jp/turatura/d/%CA%DB%C6%BB%CF%C3
※14:芭蕉の辞世句「この道」
http://www.st.rim.or.jp/~success/konomiti_ye.html
※15:東北文庫 高村光太郎 「詩集・造形詩編」
http://www.touhoku.com/00x-52tk-touhoku-zoukeisi.htm
※16:青空文庫:高村光太郎「蝉の美と造型」
http://www.aozora.gr.jp/cards/001168/files/46374_25629.html
※17:インターネットで蝉を追う
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/cicada/preface.html
※18:気象庁 | 平成24年の梅雨入りと梅雨明け(速報値)
http://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/baiu/sokuhou_baiu.html
生き物調査「セミの図鑑」
http://web2.kagakukan.sendai-c.ed.jp/ikimono/neo/zukan/semi/zukan_semi.html
プレスリリース / 環境省、平成20年10月16日「いきものみっけ」夏の実施結果について(速報)
http://www.env.go.jp/press/press.php?serial=10292
俳句の作り方 ~初心者入門と定型・切れ字・季語~
http://haiku-nyuumon.com/

金環食

2012-05-22 | ひとりごと

皆さん昨日の金環食どのように観察しましたか。
私は、観賞用の眼鏡がないので、テレビでしましした。
一番きれいに見えるという和歌山県串本町で徐々にリングが出来ていく様は本当に感動しました。
7時27分にピークを迎えた。
実物写真が、撮れなかったので、テレビの画像を撮って残しておくことにしました。
時間まで入っていて変化していくさまを記録するには都合がいいですからね(^0^)。
金環食が次に国内でみられるのは2030年の北海道、関西では京都や滋賀で1941年のことらしい。また、今回のような広い範囲でみられるのは300年後というから、もう、私などは見ることが出来ないだろうな。

オコパー・タコパーの日

2012-05-19 | 記念日
今日は余り肩の凝らない記念日を紹介をしておこう。
日本記念日協会に毎月第3土曜日の記念日として登録されているものに「オコパー・タコパーの日」がある。
「オコパー・タコパー」とは「お好み焼パーティ・たこ焼パーティ」のこと。お好み焼とたこ焼はみんなで調理を楽しめて食卓が盛り上がるだけでなく、食材費も安く出来る素晴らしい団らんメニューであるということから、お好み焼粉、たこ焼粉を製造販売する日清製粉グループ(※1)の日清フーズ株式会社が制定したもの。日付は家計に優しい料理なので給料日前となることの多い毎月の第3土曜日としたもの・・・ だそうである。
うどん(饂飩、温飩)やお好み焼などの「粉もん(コナモン=粉物)文化」が盛んな関西
合理的な精神をもつ関西人、特に大阪人や、我が地元神戸の中でも、特に長田地区の人達は、安くておいしい庶民的な食べ物にこだわりを持っている。
コナモンのお好み焼きやたこ焼き、「イカ焼き」などは、昼食におやつに、そして、気の合う仲間とちょっと一杯やりながら食べるものとして広く利用され、大人気であり、まさに、大阪や神戸のソウルフードの一つとも言える存在となっており、それは町のあちこちに目立つ看板の多さを見てもよくわかるだろう。
お好み焼きは、鉄板焼き料理のひとつで、水に溶いた小麦粉を生地として、野菜、肉、魚介類などを具材とし、鉄板の上で焼き上げ、調味料をつけて食するものである。
一昨年(2010年)のNHK朝の連続テレビ小説「てっぱん」では、広島県尾道で生まれた主人公の村上あかりが、ある日、祖母・初音が尾道を訪ねてきたことから、祖母の住む大阪にやってきて、色々有る中、育ての母から受け継いだ広島の味と初音から仕込まれた大阪の味を二枚看板に、お好み焼き屋「おのみっちゃん」を開業していた。
そこで焼かれていたのが、「関西風お好み焼き」と「広島風お好み焼き」であり、大阪を中心とする「関西風お好み焼き」の最もポピュラーな形としては、小麦粉の生地に刻んだキャベツや魚介類などの具材を混ぜ合わせて、鉄板上で焼く調理法である。一方の「広島風お好み焼き」の焼き方は、小麦粉の生地と具財を混ぜずに生地の上に刻んだキャべつや魚介類の具財を重ね焼きする。お好み焼きでは、この2種類の調理法が代表的であるが、その他の地域にも同じような料理は多数存在する。
お好み焼き類の起源は、安土桃山時代に茶の湯で有名な千利休が茶会の茶菓子として作らせていた「麩の焼き(フノヤキ)」だといわれている。麩焼きとも呼ぶ。
「麩の焼き」は、小麦粉を水で溶いて薄く焼き上げ、芥子(ケシ)の実などを入れ、山椒味噌や砂糖を塗った生地を巻物状に巻いて成形したもので、利休の茶会記『利休百会記』にもたびたび「フノヤキ」の名が見えるという。
どうもこの「フノヤキ」は今のクレープのようなものだったらしいが、その後、麩の焼きを起源としていろいろ変化して味噌の代わりに餡を巻いて作る名物「助惣焼(すけそうやき)」が生まれ、寛永年間(1624年~1645年)に、江戸麹町3丁目の橘屋で大木元佐治兵衛が売っていたという(※2参照)。
江戸時代の風俗・事物を説明した一種の類書(百科事典)である守貞謾稿では、「助惣焼」について「温飩粉(うどんこ)を薄くやきて餡を包み。麹町にて売る。今も存すれども廃れて買ふ人稀なり。」とある(※3:巻之十八参照)。
「温飩粉(うどんこ))とは、小麦を挽いて作られた粉「小麦粉」のことであり、昔からうどんの製造によく使われていたことから、「うどん粉」と呼ばれていた。関西などでは「メリケン粉」という呼び方がよく使われているが、これは国内で生産された小麦をうどん粉と呼ぶのに対して、外国産の機械製粉された白い小麦粉(「アメリカの粉」)という意味で使用されている(日本に輸入された頃 "American" が「メリケン」と聞こえたため)。
現在、小麦粉は含まれるタンパク質(主にグリアジングルテニン)の割合と形成されるグルテンの性質によって薄力粉、中力粉、強力粉の3つに分類されているが、その中の中間的な性質を持つ中力粉(タンパク質の割合が9%前後)がうどんによく使われるほか、お好み焼きや、たこ焼きなどにも用いられている。
なお、小麦粉のタンパク質分を除いた残渣(濾過したあとなどに残ったかす)を精製したものは浮き粉(うきこ)と呼び、澱粉だけで出来たちょうど片栗粉のようなものになる。明石焼き(正式には玉子焼き)や和菓子、香港の透明な皮の海老餃子などの原料として使われている。
小麦粉を練ったものを細長く切り、茹でて食べる料理であるうどんは、奈良時代に中国より伝わった小麦粉の餡入りの団子菓子「混飩( こんとん)」に起源を求める説(中国文学者青木正児説)があり、この団子菓子が後に温かい汁の中に入れて食べられるようになり、それを「温飩(おんとん→うどん)」と呼ぶようになったとされているが、最近は、中国から渡来した切り麦(今の冷や麦)が日本で独自に進化したものであるという新説(伝承料理研究家の奥村彪生説)も出ている(※4参照)。
いずれにしても、江戸時代、江戸市中において、すでにうどんは一般に普及していた。だが、特に江戸前期には、まだ江戸っ子の好きな麺類としてのそば(蕎麦切〔細長い麵状のそばのこと〕)は、一般には普及しておらず、 そばがきとして食べられていた。従って、江戸でも麺類としてはまだうどんに人気があったようである。江戸で、蕎麦切を食べるようになったのは、江戸中期以降のことのようである。
うどんを売る店でも蕎麦を売っていたし、そばを売る店でもうどんを売っていたが、うどん好きの関西のように主としてうどんを売る店では、うどん屋と称し、そば(蕎麦)好きの江戸など、蕎麦を主として売っていた店は蕎麦屋と称した。
以下参考の※5:「髭鬚髯散人之廬」では、 守貞謾稿巻之五(生業上)から「温飩 蕎麦屋」のこと・・・を解説しているが、その中にもそのことは書かれている(ここに出てくる「沽るは[売る]の意)。その中で守貞謾稿には、“うどんは、昔は「小麦粉を団子のごとくまろめ、中に餡をいれ煮たる物なり」→「形丸くして、ぐるぐる回りて端なき意」なので「混沌」と名付けて、其の後、さんずいが食扁に変わったという「珍説」も紹介されている。”としているが、守貞謾稿の記載から、江戸時代、すでに先に述べた青木正児説と同様の説があったことを示しているものと解釈するのだが、青木正児説以降に奥村彪生による新説が出たので、それが正しいとして、前説を「珍説」しているのだろう。
私には、どちらの説が正しいのか分からないが、守貞謾稿では、うどんを、昔は「小麦粉を団子のごとくまろめ、中に餡をいれ煮たる物なり」とし、又、「助惣焼」について「温飩粉(うどんこ)を薄くやきて餡を包み。」としているのを見ると、小麦粉を団子のごとくまろめ、中に餡をいれ煮ていたものを、江戸時代になって、小麦粉を薄く焼いて飴を包んだ菓子としたのだ・・・と、みるとそれはそれで面白い説と私は思っている。「麩の焼き」の麩の材料となる当時の小麦粉がどのようなものであったかは正確には分からないが、現在の「浮き粉」は、小麦粉の生地から麩(ふ)の原料としても使われるものであり、先にも書いたように明石焼きや和菓子の材料として使われているものだ。
ちょっと回り道をしたが、いずれにしても、一般的にはこの「助惣焼」が、今の「お好み焼」や「どら焼き」の由来の一つではないかとされている。
「どら焼き」は、助惣焼が銅鑼(どら)で焼かれたのでそう呼ぶようになったという。これら食べ物に共通 する主材料は、うどん粉(メリケン粉)である。
麩の焼き から 助惣焼へ、それが発展して、「もんじゃ焼き)」「どんどん焼き」が生まれた。
「もんじゃ焼き」のルーツは、明治時代の文字焼き。小麦粉を水で溶いたゆるめの生地を使って、駄菓子屋の店先の鉄板に文字を書き、子どもたちに文字を教えながら売った「文字焼き」がルーツだと言われている。
「どんどん焼き」は、もんじゃ焼きが、路上販売用に変化したもので、持ち帰り出来るように、水の配分を少なくして固めに焼き上げたもので、名称は、商品を売る屋台で「どんどん」と太鼓を鳴らしていたことから、あるいは、作るそばから「どんどん」売れたことから名付けられたとされるように、屋台の売り子が叩く太鼓の音よろしく全国に「どんどん」普及していったようだ。
それらが大阪にも伝わり、コンニャクや豆の具などを入れしょう油味で食べる「ベタ焼」「チョボ焼」が誕生し、それが各種鉄板料理へと派生していったとされている。
戦前までは、関西地方の「洋食焼き」(大阪)、や「一銭洋食」(京都)、「にくてん」(兵庫)などと呼ばれて、水で溶いた小麦粉を鉄板に円状に広げて刻みネギや天かすなどをのせて焼いた物に、ソースをかけた物が駄菓子屋や店舗の軒下などで売られていたが、子供のおやつのようなものであった。当時はソースさえかければなんでも洋食と見なされており、“安くて美味い”物に弱い関西人の間で人気の食べ物となった。かつて(1955年(昭和30年)前後まで)関西の下町では、町内に一軒位の割合でお好み焼き屋があり、庶民に親しまれる日常の食べ物であった。
そういえば、私の地元神戸地域では、お好み焼きと呼ばれる以前には、つまり、大正末期から昭和初期は、「にくてん」と呼ばれていて、長田区大正筋商店街付近には、にくてん専門店が軒を連ねる「にくてん街」と称するエリアがあった。水溶きの生地をおたまで、円く薄くひいて、ネギやキャベツ、すじ肉などをのせたあと、わずかに生地をかけて、ひっくり返す。ぺったんこの薄焼き。パリッとした生地の皮と野菜、すじ肉の甘味と旨味をすったトロトロの生地。にくてんの語源には「にく=スジ肉、てん=天カス」からなど諸説ある。牛スジ肉とコンニャクを甘辛く味付けして煮込んだものを長田区周辺では、「ぼっかけ」と称している。「「ぼっかけ」は汁のうどんにも入れて使われ、「ぼっかけうどん」と呼ばれている。美味しいので私も大好きだ。
少し話はそれるが、明治期の神戸は、兵庫港(かって大輪田泊や兵庫津と呼ばれた)、を中心とする「兵庫地区」と外国人居留地を中心とする「元町地区」が繁栄していた。
その中間を流れていて、東西を分断していた旧湊川(※7も参照)を付け替え、1905(明治38)年に長い埋立地が誕生した。それが現在の新開地本通り(商店街)である。
本通には、劇場や映画館などの娯楽施設が軒を連ね、当時は神戸市役所も隣地にあり、新聞社やデパートなどの業務集積エリアを抱え、花街・福原の賑わいともに、旧神戸文化の中心地であった。
1945(昭和20)年3月の神戸大空襲で新開地 とその周辺も焼け野原となった。戦後、新開地の東側一帯の焼け跡には米軍のウエスト・キャンプができ、その接収解除が遅れたことや、映画館・劇場などの娯楽施設が新興の三宮付近に多くできたこと、また、新開地周辺にあった神戸市役所や新聞社などが三宮へ移転した事などにより、繁華街の中心は次第に三宮方面に移っていき、今は昔日の面影が失われているが、かっては、「東の浅草、西の新開地」と言われる西日本を代表する繁華街として君臨していた。
又、現在のJR新長田駅の南口の駅前通りの西側に並行して伸びる商店街(新長田1番街商店街)を南に進み国道2号線を超えると大正筋商店街入口に達する(南北約300mほどの商店街)。大正筋商店街を南に抜けた地点より東方向に伸びる商店街が、歩道の幅が約六間あるという事から、古くより六間道商店街と言われていたところである。その間何本もの商店街があるが、この新湊川の西に広がる地域は、戦後、焼け残ったこともあり、昭和時代後半頃までは神戸では新開地の次に繁華街として栄えていたところであり、西新開地とも言われていたところである。私が子供の頃は、遊びに行くのは、新開地か、ここかであった。兎に角ここは庶民的な町なので食べ物も安く、楽しく遊べたところであった。
この地域は、阪神・淡路大震災とその時の大火により壊滅的な被害受けた後、再開発事業により、町の建物や商店街自体は綺麗に整備がされ、住民も増えては来たが、そもそも町自体の規模が余りにも大きすぎて、戦前戦後の賑わいを取り戻せるわけでもなくし資金面では困っている商店が多いのが実情のようだ(復興は外見だけ。私は神戸市の復興計画の誤りだと思っている)。
回り道をしたが、今でも、新長田駅周辺地域や高砂姫路などの地域で「にくてん」は売られているようだが、私も、長いこと食べていない。このブログを書きながら、やけに「にくてん」が懐かしく思い出される。
新長田周辺や神戸地域の「にくてん」は、すじこん(牛スジ肉と、こんにゃくを煮たもの)が入っているが、生地を引いて焼く薄焼きのお好み焼き自体を総称して言う時もある。
今のお好み焼のように、何でも彼でもメリケン粉の中へまぜこんで焼き上げるのではなく、皮のように薄く引いたメリケン粉に、牛挽肉(すじこんが美味しい)と刻み葱を入れ、ざっくりとまぜ合わせて焼いたものに、ソースをかけただけのシンプルな食べ物が懐かしい・・・・。
広島のお好み焼きも神戸と似たような焼き方で戦前からあったが、戦後、おなかのすいた子供たち用に、おいしくボリュームを出すために、中華そばやうどんを入れて重ね焼きする広島焼きが考え出され今では、全国的に普及し、親しまれる食べ物へ進化していった。
大阪、京都を中心とする関西では、「一銭洋食」「洋食焼」の名前で子どものおやつとして親しまれる一方、大人を相手に風流お好み焼の店が流行した。間仕切りのある空間に鉄板を置いて、自分たちで好きなように焼くゆえに、「お好み焼き」の名がついたといわれる。大阪ならではの混ぜ焼きスタイルの誕生である。
私が就職した昭和30年代の大阪で、店名は「きよ」・・・、古いことなのでうろ覚えだが、たしか漢字では「喜」と言う字がついていたので「喜代」だったと思う・・。大きなお好み焼き専門の店で会社仲間とよく食べに行ったが、よく流行っていて何時も満席だったのを思い出す。 焼く際、“生地は混ぜ過ぎない、厚みを残して生地を鉄板に流し、コテで押さえつけない」・・・など、大阪風のお好み焼きを美味しく焼くのは初めての人には難しいものだ。
関西のコナモンで、お好み焼きととも知られているのが、「たこ焼」。たこ焼きは、普通は、半球状の窪みのある鉄板に水またはだし汁で溶いた小麦粉を流し込み生地の中にタコを入れ球形に焼き上げ、完成したたこ焼きにはソースをかけ、鰹節、青海苔、生姜などを降りかけて食べるもので、特に、大阪が有名である。
そして、それと並ぶのが兵庫県・明石市の「玉子焼き」(通称:明石焼き)であるが、明石焼きは、先にも述べたように、材料に小麦粉ではなく浮粉と鶏卵などを使い、生地が非常にやわらかい点、具が基本的にタコのみである点、焼き上がったものを出汁に浸けて食べる点などが大きな特徴となっている。
一般的にたこ焼きは、大阪が発祥で、創始者は、西成区玉出に本店を置く会津屋の初代・遠藤留吉とされているそうだ(Wikipedia)。
1933年(昭和8年)、遠藤はラジオ焼きを改良し、従来のこんにゃくの代わりに醤油味の牛肉を入れて肉焼きとして販売。1935年(昭和10年)、タコと鶏卵を入れる明石焼に影響を受け、牛肉ではなくタコ・鶏卵を入れるようになり、たこ焼きと名付けたという。
ラジオ焼き(ラヂヲ焼き)は、昭和8年ごろ、ちょぼ焼きに関東煮の具材として用いられていたスジ肉を入れたことに始まり、当時まだ高価でハイカラの象徴だったラジオにあやかってラジオ焼きと呼ばれるようになった。後に明石焼きに影響を受けてたこを入れたものがたこ焼きに発展したものだという。
お好み焼き、たこ焼きの原型であるちょぼ焼きは、水で溶いたうどん粉を半円に窪んだ物が並んだ金板に流し、そこにこんにゃく、紅ショウガ、えんどう豆他に醤油をいれたりねぎや鰹節をまぶしたりしたものを、上下2段になった箱型のカンテキ(七輪)で焼いたもので、大正から昭和初期のおやつ的存在で、子供たちが集まっては各家庭でつくっていたそうだ。型のくぼんだ所だけではなく、一面(べた)にうどん粉をひいて作ったものをべた焼きという言い方もある。
ちょぼ(点)とは、「中国渡来の賭博(とばく)の樗蒲(ちょぼ)の采(さい)の目(サイコロの目)の打ち方に似ているところからきたとされる。しるしとして打つ点。ぽちなど。今でも「おちょぼ口」と言うなど「ちょぼ」は小さい意に使われる。
大阪のたこ焼きと明石の玉子焼きとは共にコナモノンであり、丸い型をに焼いたものであっても、その制法食べ方から、全く違った系統の食べ物と言っても良いだろう。
我が地元神戸には、「神戸たこ焼き」というものがある。隣町の明石焼きの影響を受けているのだろう、大阪風のたこ焼きにソースを塗って出汁につけて食べる。
神戸では長田区、兵庫区あたりでこの方法で提供している店があるようだが、正直、私は、このような食べ方がある事は知っているがそのような食べ方はしたことがない。神戸以外に、姫路市・加古川市・高砂市あたりにもあるようだ。
私は、たこ焼きも好きだが、基本的には昔から明石焼きが好きだった。昭和30年代初めのころたこ焼きの本場大阪で仕事をしているとき、明石焼きの店を捜したら梅田に一軒あるのを見つけたた。たしか「たこ八」といったと思うが、明石焼専門の店で、カウンターには5~6人しか座れない小さな店だったので、人気もあり、順番待ちが大変だった。私の家の近くには、美味しい明石焼きの店があるのでありがたい。
たこ焼きはつくってまで食べないが、お好み焼きは好きなので、家で、よく作って食べてるが、最近は歳のせいで、余り粉っぽいものやこってりとしたソース味のものは、胃が受け付けなくなってきた。そのため、家で作るときは、明石焼きのように、お好み焼き粉を卵と水で薄く溶いたものをホットプレートに、7~8㎝くらいの小判型に、ごく薄くひき、とんぺい焼き」とは違って薄切りの豚のバラ肉生地とを同寸くらいに切ったものを置き、自分で焼きながら食べている。具は肉以外入れない。焼きあがったものは普通のウスターソースを薄っすらと塗るだけ。具財は豚肉の他に、大好きな、牡蠣や帆立貝などを使用して作るが、これもそれぞれの具に合わせて薄く溶いた生地にそれらの具だけを乗せて焼き、これらは、ポン酢醤油で食べている。具とは別に、野菜炒めのようにニ、キャベツや玉葱、キノコ類を肉類を焼いているホットプレートの横の方で焼いている。一種の焼肉感覚だ。
このブログを書いていて、やたら、「にくてん」が食べたくなった。近くの市場の中のうどん屋さんで、おいいしい「筋コン」を売っているので、それを買ってきて筋コンいるのにくてんをつくってみよう。
もし、色んなお好み焼きやたこ焼きが食べたいなら、日清フーズの※8:「ようこそオコタコ島へ」アクセスすると色々なつくり方のものが紹介されているよ。

冒頭の画像は、お好み焼きと屋台で調理中のたこ焼き。Wikipediaより)
参考:
※1:日清HP
http://www.nisshin.com/
※2:麹町菓子舗「助惣」引札(貨幣博物館)
http://www.imes.boj.or.jp/cm/pdffiles/nishikie0305.pdf
※3:坪田敦緒:相撲評論家の頁>史料庫>記録・随筆・紀行>守貞謾稿
http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~tsubota/chrono/morisada.html
※4:うどんのルーツに新説-四国新聞社
http://www.shikoku-np.co.jp/feature/tuiseki/457/index.htm
※5:髭鬚髯散人之廬 守貞謾稿(近世風俗志)
http://rienmei.blog20.fc2.com/blog-category-6.html
※6:『お好み焼き』の仲間・関東編(財団法人製粉振興会)
http://www.seifun.or.jp/wadai/hukei/huukei-09_06.html
※7:兵庫県/湊川流路の変遷
http://web.pref.hyogo.jp/ko05/ko05_1_000000016.html
※8:ようこそオコタコ島へ(日清フーズ)
http://nisshin.okotako.jp/
中小企業庁:がんばる商店街77選:神戸市内11商店街等
http://www.chusho.meti.go.jp/shogyo/shogyo/shoutengai77sen/machidukuri/5kinki/3_kinki_11.html
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
新長田・六間道
http://tamagazou.machinami.net/shinnagata-rokkenmichi.htm
お好み焼き - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E5%A5%BD%E3%81%BF%E7%84%BC%E3%81%8D

テレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」などで知られる作曲家・三木たかしの忌日

2012-05-11 | 人物
今日5月11日は、「時の流れに身をまかせ」(テレサ・テン歌唱、作詞:荒木とよひさ)や「津軽海峡・冬景色」(石川さゆり歌唱。作詞:阿久悠)など多くの演歌・歌謡曲のヒットを生んだ作曲家・三木たかしの2009(平成21)年の忌日である(享年64歳)。
三木 たかし(本名:渡邊匡。わたなべ ただし)は、1945(昭和20)年1月12日東京都に生まれる。
歌手・女優の黛ジュン(本名:渡邊順子)は3歳下の実妹である。
三木 たかしのプロフィールについては、Wikipediaでも、貧困家庭に育ち、借金取りが訪れると妹と押入れに籠もり、紙で書いた鍵盤をひいて遊んでいたという。・・・とあるだけで、それ以上詳しいことは分からないが、彼が生まれた1945(昭和20)年は、第二次世界大大東亜戦争〔太平洋戦争〕)終結の年であり、国民の生活はどん底に落ち込んでいた。主要都市の多くでは、空襲による焼け野原が目立ちトタン屋根のバラックや防空壕を住まいとする家族が少なくなった。敗戦後の復員兵に仕事はなく、もっと悲惨なのが、外地で生活をしていた約300万人とも言われる引揚者たちであり、住む家も仕事も援護の手さえ差し伸べられることはなかった。
中でも、家だけでなく、親おもなくし浮浪児となったあわれな戦災孤児たちが溢れていた。こうした国内にあふれた人々が一番直面していた問題は食糧問題であった。
配給制度はあったものの、終戦の1ヵ月前に6大都府県の主食の配給は21勺(297グラム)と定められていたが、戦争が終わって食糧事情はより悪化し、米はほとんど配給されず、芋や豆粕、くず芋が配給品となった。このため米を要求するデモが各地で頻発していた。だが、いっこうに配給は増えず、国民は手元に残った晴れ着や衣類を農村への買い出しや闇市などに持ち込み食糧を調達しなければならず、全国で戦死者よりも多い餓死者が続出した。
今NHKの朝の連続テレビ小説「梅ちゃん先生」(※1)でもそんな戦後の時代を背景としているが、実際には、もっと悲惨な状況であった。公共放送NHKの番組の舞台であるから、あの程度に描かれているのであろう。
「梅ちゃん先生」の家庭など貧しいと言っても大学病院の医師の家庭であり、当時としては恵まれた環境にあるから、主役の梅ちゃんもあんなのんびり屋で居られたのだろう。恵まれない人があの時代にあんな性格では生きてゆけない。
三木たかしと黛ジュンの兄弟が、貧困家庭に育ったといっても、当時は殆どの家庭が貧乏であり、私の家も戦後の混乱した時代に父が商売で詐欺に合いそれまでとは一転して、借金取りに追い回され、生きるか死ぬかの辛い子供時代を経験してきた。
昔から、"若いときの苦労は買ってでもしろ!"言われるが、厭が上にも子供の頃から音楽好きだった2人の兄弟が支え合いながらそのような境遇をバネに努力をした結果、兄弟そろって芸能界で、兄は偉大な作詞家として妹も偉大な歌手・女優として成功を収めたのだろう。
三木 たかしは、中学校卒業後、1960年代半ばごろには歌手を志して作曲家船村徹に弟子入りするも、船村から「君は作曲家の方が向いている」と云われ、作曲家に転換。1967(昭和42)年、当時の売れっ子作詩家であったなかにし礼の推薦を受け、「恋はハートで」 (歌唱: 泉アキ/クラウン・レコード) で作曲家としてデビューした。
泉アキ/恋はハートで - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=gmRxu0OLD3M
しかし、この曲よりも前に彼が作曲した名曲がある。

今はなき昭和の歌謡界を代表する歌手・美空ひばり歌唱による「さくらの唄」がそれである。ひばりの歌としては余り広く知られていないかもしれないが、この曲は、三木たかしが10代のときに作った曲だそうで、後年になってこの曲に、なかにし礼が詞を書いて、三木たかしが歌ったレコードが1970(昭和45)年に発売されていたそうだ。三木たかし歌唱の「さくらの唄」は知らないが、ひばりの歌は聞いて知っている。
美空ひばり さくらの唄 三木たかし
http://v.youku.com/v_show/id_XMTI0MTM2MTgw.html
なんでも、この曲に魅了された作家で演出家の故久世光彦が、是非この曲をもう一度世に出したいという強い思いから、美空ひばりを訪ねてこの曲のテープを聴いてもらいひばりも感動しリリースしたと聞く。
そして1976(昭和51)年にTBSで放送されたテレビドラマ「さくらの唄」ののエンディング曲として挿入されもした。

何もかも僕はなくしたの
生きてることがつらくてならぬ
もしも僕が死んだら 友達に
ひきょうなやつとわらわれるだろう

なんとも絶望感に満ちた哀しい内容の歌だが、以下参考の※2:「美空ひばりの歌が流れていた頃」によると、歌謡界の女王といわれた美空ひばりの身辺に不幸が続き(Wikipedia-美空ひばりの兄弟とひばりのトラブル参照)、紅白への出場から除外された後の歌手としても辛いどん底の時期に、作詞をしたなかにし礼が当時、実の兄の多額の借金を背負わされて、なかにし自身も失意のドン底と絶望の中で遺書のつもりで書いものだったという。それを、ひばりが、自身の見に重ね淡々と語るように歌っているのだが、そもそも、なかにしは、三木たかしが中学時代に作曲したものに詞をつけたものであり、この曲自体が、既に、貧乏な生活の中で、絶望感に喘いでいた三木少年の心情が表現されていたものだったと言うべきではないだろうか・・・。
この歌は女性が歌うよりも苦労を重ねてきた作曲家の三木たかし本人が歌った方がぴったりなのだろう。本人が歌っていた時の歌が聴けないのが残念だ。
これではなくても、三木たかし本人が歌っている歌がないか検索していたら、テレサ・テンの曲を数多く手がけた彼は、1995(平成7)年5月8日に他界したテレサが眠る台湾を没後8年経った2003(平成15)年に訪れ、ゴールデンコンビ荒木とよひさ(作詞)と共につくり上げたテレサに捧げる最後歌(追憶歌)「聴かせて・・・」を、墓前でギターを弾きながら歌っているものがあった。以下は、恐らく、2003(平成15)年、テレサテンの生誕50年記念番組「風の伝説テレサ・テン(テレビ朝日系列)」で放送されていたときのものだろう。
聴かせて 歌:三木たかし(テレサ・テンに捧げた歌) - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ZEC0vQzgeZk
この歌は、今、鈴木幸治 (Kohji Suzuki) が歌っているがなかなかいい曲である。
『聴かせて・・・』 KIKASETE ・・ 幸治 (Kohji Suzuki) - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Z_zzB7yGtv4&feature=related
三木は泉アキの「恋はハートで」でデビュー後、1968(昭和43)年、実妹・黛ジュンに提供した「夕月」が66万枚を超えるセールスを記録し、黛自身の最大のヒット曲ともなった。以下で聞ける。
秋風のバラード(夕月) 黛ジュン - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=JZsWNqpJFO0
ポップス系の黛ジュンが初めて古風な雰囲気の曲を歌ったものだが、上掲の曲は、YouTubeへのアップロード者が書いているところによると、リサイタル用に作った曲で、この時はシングルカットは考えていなかったようで、大ヒットした夕月の原形となる曲だそうだ。それに、語りの部分で聞こえるギターは三木たかしによるものだという。以下の曲と聞き比べてみるのも面白い。
黛ジュン / 夕月 - デイリーモーション動画
http://www.dailymotion.com/video/x8hjm3_yyyy-yy_music
この黛の「夕月」の曲は、昨・2011(平成23)年10月に発売され話題となった由紀さおりピンク・マルティーニのコラボによるカバーアルバム「1969」の6曲目に収録されている。
1977(昭和52)年には、「ブーメランストリート」(作詞: 阿久悠、歌唱:西城秀樹)、思秋期 (作詞: 阿久悠、歌唱:岩崎宏美)や石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」 で日本レコード大賞中山晋平賞を受賞。一流作曲家としての地位を築いた。その後もテレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」他「つぐない 」(作詞: 荒木とよひさ) 「愛人」「別れの予感」(作詞: 荒木とよひさ) をはじめ、坂本冬美の「夜桜お七」 (作詞: 林あまり)、日本テレビ系アニメ「それいけ!アンパンマン」のオープニングテーマ曲「アンパンマンのマーチ」など、。明るく伸びやかなポップスから哀愁味のある演歌まで日本歌謡史を飾る多彩なヒット曲を送り出した。また、劇団四季宝塚歌劇団のオリジナルミュージカルの音楽なども数多く手掛けた。
2004(平成16)年からは日本作曲家協会理事長を務める。2005(平成17)年には、紫綬褒章を受章している。
2006(平成18)年に、咽頭(いんとう)がん手術を受け、声帯の一部を切除、その後声を失ってしまうが、その闘病生活の様子は、以下参考の※3:「闘病記:私の生きる道」に詳しく書かれている。
2009(平成21)年の1月13日には、「NHK歌謡コンサート」で、妹・黛ジュンと30年ぶりに兄妹出演を果たし、自身の作曲「さくらの花よ 泣きなさい」(作詞:荒木とよひさ)を黛が歌唱し、その後ろで三木がギター伴奏を披露したが、これが三木の生涯最後のテレビ出演となった。
黛ジュン/さくらの花よ 泣きなさい - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=-_m2HF9IXdQ
久々に聞く黛の歌だが、その歌にはYouTubeへのコメントにもあるように、苦難の人生をしっかりと生き抜いた者だけが感じさせてくれる深い感動がある。
それにしても、三木たかしが中学生の頃に最初に作った曲が「さくらの唄」であり、2009年、亡くなる前に30年ぶりの妹・黛との兄弟出演のコンサートで黛が歌い自分がギター演奏した曲が「さくらの花よ 泣きなさい」とは、彼の心象には「さくら」が深く関っているのだろう。
今朝のNHK「あさイチ」のゲストには、森山直太郎が出演していたが、20歳の頃まで、ちょっといい感じのサラリーマンを目指していた彼が、音楽に興味を持ち歌手を目指すようになり街角で歌を歌っているときに作った曲がデビュー曲の「さくら」だったと語っていた。彼は彼で、母親の森山良子とは異なった道を目指しながら結局、途中から歌手を目指すようになったには、それなりに孤独な人には話せない悩みがあったのだろう。番組では多くを語らなかったが、Wikipediaの「さくら」の曲の解説には、「ある時、友達が結婚する話をきいた時に、・・・・、自分も旅立つったときに、迷ったら戻ってくる原点がここにあるように思えて創った」と書いてあった。
古くから日本人に親しまれている「サクラ」は、人生の転機を彩る花にもなっている。

(冒頭の画像は2009年5月11日朝日新聞に掲載されていたものである)
参考:
※1:連続テレビ小説「梅ちゃん先生」
http://www9.nhk.or.jp/umechan/
※2:美空ひばりの歌が流れていた頃:さくらの唄
http://88123516.at.webry.info/200704/article_1.html
※3:闘病記:私の生きる道
http://www.gsic.jp/survivor/sv_01/34/index.html
さくらの花よ 泣きなさい 黛ジュン 歌詞情報 - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND67569/index.html
三木たかし - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E3%81%9F%E3%81%8B%E3%81%97

語彙の日(ごいの日)

2012-05-01 | 記念日
日本記念日協会に登録されている今日・5月1日の記念日に「語彙(ごい)の日」がある。
旺文社 生涯学習検定センターが、運営・実施している「実用日本語語彙力検定」を広くPRしようと2007(平成19)年に制定したもの。語彙力が低下していると言われる子どもたちに語彙力の大切さを認識してもらえる日になればという思いが込められているのだそうだ。日付は5と1で「語彙(ごい)」と読む語呂合わせから。

旺文社は、1931(昭和6)年に創業した教育専門の出版社である。
創業当時(欧文社)から、「受験旬報」(現在の螢雪時代)や、英語の問題集などの教育を主とした出版を行っている。1941(昭和16)年12月、日本が太平洋戦争(大東亜戦争)へ突入後の翌・1942(昭和17)年に、欧文社の「欧」の字が敵国につながるとして、社名を旺文社に変更した(同社HPの会社沿革参照)。
戦後日本の受験文化の成立に影響を与え、また、受験がひとつの産業になり得ることを証明した出版社でもある。
入試関連の雑誌や書籍の出版で有名だが、出版の他に生徒向けのテスト事業や各種資格検定事業も手がけている。
旺文社が始めて全国一斉に大学入試の模擬試験 日本語の語威力を総合的に判断する「実用日本語語彙力検定」、算数・数学の計算力の測定をする「計算力検定」、英語の基礎的単語知識を測定する「英単語検定」の三検定のひとつであり、生涯学習検定センターは、これらの検定試験実施を目的に1999(平成11)年に設立されたもので、2000(平成12)年7月から検定試験が実施されている(※1参照)。
教育政策に係わる調査研究を行うために文部科学省に置かれている国立教育政策研究所教育課程研究センター(※2)が、2002年3月発表の『「生きる力」を育てるための「読書教育推進プログラム」の開発研究』(※3)によると、“小・中・高校教師 256 人を対象に行った調査によれば、「国語学力は低下したか?」という質問に対し、63.5%が「低下していると思う」と答えており、また「どんな点で国語学力が低下したか?(複数回答)」という質問には、「語彙力」という答えが 63%でトップになっていた”という。
経済協力開発機構 (OECD) による国際的な生徒の学習到達度調査(PISA)というものが、2000(平成12)年に第1回調査を行ない、以後3年毎に調査され、第1回、2000年調査、第2回2003年調査、第3回2006年の調査結果については、国際報告書をもとに日本国内向けに翻訳した形で国立教育政策研究所が編纂したものが、(株)ぎょうせいから出版されているようだ。
調査は、毎回メインテーマが存在し、読解力、数学的知識、科学的知識の順番でメインテーマが移っていく。そのため、2000年は読解力、2003年は数学的リテラシー、2006年は科学的リテラシー、2009年は読解力をメインテーマとして扱っており、今年・2012(平成24)年は数学的リテラシーを扱う予定になっている。
結果の分析は、約1年をかけて行なわれているようなので、調査結果の発表は、翌年にされる。過去の調査の結果は、PISAにおける日本の成績 を参照されると良い。
概略を述べると、2000年調査では、数学(1位)と科学(2位)の両分野では、世界のトップレベルにあったが、読解力では、韓国(6位)にも遅れをとり8位であったが、2003年調査では、科学はフィンランドと並び1位であったものの、数学は6位、読解力は14位と落ち込み、2006年調査では、(数学10位、科学5位、読解力15位といずれの分野も更に落ち込んでしまった。
中でも、2003年調査の結果によるPISA ショックは大きく、1980年度以降行なわれていたゆとり教育による学力低下が教育問題として取り上げられるようになり、ゆとり教育から学力向上への政策転換の理由づけとなった。3分野の中でも特に低いのが読解力であった。
PISAの読解力とは、「自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する能力」である。この読解力の習熟度は、高い方から低い方へレベル5から1及びレベル1未満の6段階に分けられているが、2003年調査では、日本は読解力でレベル1あるいはレベル1未満の下位層の割合が増えていること、及びフィンランドや韓国と比べて下位層の割合が高いことが問題視されたようだ。
PISA型の「効果的に社会に参加するための」読解力を養うには、日本の国語教育に何が足りないのか?
結果的にPISA評価では、読んだり計算することはできるが、読解力や記述力、つまり、読み解いたことについて自分なりの意見を表現する能力に欠けるということであり、そこでクローズアップしてきたのが過去から盛んに言われできた活字離れ、つまり、”読書量の減少・“問題であり、そのことから読書、読育の必要性が説かれた。そのことから、政府も2001(平成13)年12月に「子どもの読書活動の推進に関する法律」を制定し読書を勧め読書環境の整備をうながす事となった(※4)。
そして、2002(平成14)年2月に、文部科学大臣から文化審議会に対し、「これからの時代に求められる国語力について」が諮問され、同分科会において審議を重ねた結果が、2004(平成16)年2月3日に発表されている(※5参考)。
そこには、
第1章「これからの時代に求められる国語力について」では、1)国語の果たす役割と国語の重要性、2)これからの時代に求められる国語力、 3)望ましい国語力の具体的な目安、
第Ⅱ章「これからの時代に求められる国語力を身に付けるための方策について」では、1)国語力を身に付けるための国語教育の在り方、2)国語力を身に付けるための読書活動の在り方・・など詳しく書かれている。
この第Ⅱ章 2)国語力を身に付けるための読書活動の在り方の中で、<情緒力・論理的思考力・語彙力の育成を>として、
“今の国際化社会の中では、論理的思考力(考える力)が重要であり、自分の考えや意見を論理的に述べて問題を解決していく力が求められる。しかし,論理的な思考を適切に展開していくときに、その基盤として大きくかかわるのは、その人の情緒力であると考えられる。したがって、論理的思考力を育成するだけでは十分でなく、情緒力の育成も同時に考えていくことが必要である。
これに加えて、漢字漢語を含め国語の語句・語彙力の育成が重要である。人間の思考は言葉を用いる以上、その人間の所有する語彙の範囲を超えられるものではない。情緒力と論理的思考力を根底で支えるのが語彙力である。“・・・と。そして、”語彙力の教育・指導は子供の時から大人になるまで、直線的に同じ調子で行ってもよいと考えられる。なお、「聞く力」についても、側頭葉が関係しているので、語彙力と同じように早い時期から育てていくことが可能である。“・・として、発達段階に応じた国語教育の具体的な展開が述べられ、最後に、「国語力を身に付けるための方策」を実効性のある形で進めていくためには、一方で、”国語の重要性を認識し、国語を大切にする意識を共有するための国民的な運動の展開や講演会等の啓発活動を同時に進めていくことが不可欠である。“こと、又、”現在取り組まれている事業の推進のほかに、国語力に資する啓発活動という意味で、いわゆる「マニュアル言葉」や「公共の場でのアナウンス」、また、外来語・外国語(いわゆる片仮名言葉)の問題を含めた「官公庁の各種文書の在り方」などに対して、適切な言葉遣いという観点から関係者の意識を高めること“なども挙げられており、同時に、”学校教育における「漢字学習の在り方」を検討するために“漢字能力の実態調査などを実施すること”・・としている。
このような教育界の時流に乗って、旺文社が、生涯学習検定センターを設立し、日本語語彙力の検定試験他を2000(平成12)年7月から実施してきたのだろう。
兎に角、そのような国語教育の成果によるものかどうかは知らないが、PISAの2009年調査の結果では、今まで下がり続けていた数学・化学・読解力3分野の総てが上昇に転じ、中でも統計的に有意な上昇がみられたのが読解力であり、これまで最も順位の高かった第1回2000年調査の水準(8位)まで大幅に回復している。しかし、今回の結果を受け、文部科学省では「学力は改善傾向にある」と分析している(※6参照)が、一方で、成績上位者と下位者の学力格差が広がっている問題が指摘されているようだ(PISA で教育の何が変わったか・・については、参考の※7を参照)。
詰め込み教育からゆとり教育へ、そのゆとり教育が間違っているといって、又教育方針が代るなど、教育方針の変更に振り回されている子供たちが大変気の毒だと思うのだが、総てがグローバル化した今の世の中では、学力までもが国際比較されているんだね~。
私のように子供の頃は勉強が大嫌いで、日がな一日屋外で遊んでばかりいたものは、今の世なら、落ちこぼれてどうなっていたか分からないな~。その点、戦争で何もかもなくし、食べるものも十分にとれない時代には育ったが、勉強などそっちのけでのびのびと生きてこられたことに今改めて感謝をしたい気持ちだ。 
このような話は、ここまでとして、本題の「語彙」の話に戻そう。
「語彙」の「」という漢字の字源(※8も参照)は、「」(彖(ぶた)の略体)+音符胃」(「胃」は丸くまとまったものの意)の会意形声文字であり、ハリネズミが身を丸めている形をあらわしているそうだ(同義字:)。ハリネズミの体には毛(ハリ)が密集して生えていることから、「彙」という漢字が転じて、集まり、類集したものの意に用いられ、「語彙」ということばは、単語の集まり。一言語の有する単語の総体、ある人の有する単語の総体、ある作品に用いられた単語の総体、ある領域で、またはある観点から類集された単語の総体。などを表している。これを体系的に記述研究する言語学の分野を語彙論という。いわゆる英語でいうところの「ボキャブラリー」(vocabulary)はその同義語と思ってよい。
そのようなことから、旺文社が設定した「語彙の日」と生涯学習検定センターが運営管理する「実用日本語 語彙力検定」をPRするためのイメージキャラクターには、はりねずみの 『ごいちゃん』 が使われているようだ(※9)。
ところで、語彙と言えば、4月28日(土)の朝日新聞夕刊に、「チャレンジ 語彙・読解力検定」として、以下の問題が掲載されていた。
【辞書語彙】( 主に「ベネッセ新修国語辞典」の一般的な語から出題)からの出題としてである。
問:語句「重心」の意味として最も適当なものを(1)~(5)のうちから選びなさい。
(1)30歳、(2)50歳、(3)70歳、(4)80歳、(5)90歳
皆さん分かりましたか?(4)(5)は分かっていても、(1)~(3)は、直ぐにピンと来なかった人も多かったのでは・・・。
答は(3)。(1)~(3)は「論語」の中でも、とりわけよく知られている言葉「天命を知る」の出てくる“為政第二”から出た言葉で、「重心」は、“70歳になると心のままに行動しても、道理にはずれなくなる”という意味。(1)は而立(じりつ)、(2)は致命(ちめい)。(4)(5)は漢字の分解からで昔から年齢の呼称として使われていたもの。(4)は「傘寿」(さんじゅ)、「傘」の略字(仐)が八十と分解できるため。(5)は卒寿(そつじゅ)、「卒」の略字(卆)が九十と分解できるため。年齢とその呼称はここを参照。論語の解説等は、参考の※10:論語に学ぶ会、また、※11:論語の世界を参照されるとよい。
私なども、手持ちの本を読み直したり、ネットを検索したりしながら自分自身がお勉強をしているつもりで今日の日の記念日や歴史、出来事などにかこつけてこんなブログを書いてはいるものの、正直、学生時代より、国語など一番の苦手であったから、今でも、漢字や、ことばの使い方には全く自信がない。だから、語彙 云々をどうのこうのと書く資格もないのだが、そういいながら、今日、“語彙“をテーマーに書く気になったのは、そんな私でも、「最近は、ずいぶんと変な言葉が多く使われるようになったな~」と感じているからである。
特に、新聞やテレビを通じて耳にする政治家や官僚の答弁など聴いていると、分からない言葉だらけだ。「語彙」とは、先にも書いたように、ある領域で使われている単語の総体ということなので、政治家や官僚は、我々とは違う独特の語彙を持っているということなのだろうか・・・。
例えば、「前向きに検討します」や「善処します」・・・。前者など意欲的に取り組んでくれるのかと勘違いするが、考えておきます程度で、殆ど、“やりません“と言っているようなものだし、後者は、何か問題が起こって反省しているのかと思いきや、言いたいのは、人のやったことだから自分には関係ありません・・・といっているだけのこと。
2009年(平成21年)衆院選での街頭演説では、当時野党であった民主党の幹事長代理をしていた野田 佳彦は、「マニフェスト(選挙公約)に書いてあることは命懸けで実行する。書いてないことはやらないんです。それがルールです」と力説していたが、政権与党となった民主党はドタバタ劇で2人の首相が相次いで辞めなければならない羽目になり、その後、何の実績もないのに、民主党代表選での、どじょう演説が受けて、民主党党首となり、とうとう内閣総理大臣(第95代)にもなってしまった。
そんな野田が首相となると急に「マニフェストではアップしないと」と言っていた消費増税に「不退転の決意」で臨むと言いだした。一体それはどんな決意なのか?
政治主導は口先だけで、実際には、官僚のシナリオ通りのことしか出来ない野田内閣が、党内事情や財務官僚のシナリオに従い、昨年の東日本大震災復興や欧州連合(EU)の金融不安を理由に、消費増税の前に多くのしなくてはならないことが山とあるのにそれはせず、又、国民の前に財政赤字削減への道筋を明らかにしないまま、財政赤字の日本が破綻寸前であるから仕方がないと、国民に思い込ませたうえで、やりたくないけどやらなくては仕方がないと居直っているようなものだ。日本の財政赤字と消費税増税問題については色々な論議があるので参考※12。※13、※14参照されるとよい。
「不退転」は辞書を引くと、「志をかたく保持して屈しないこと」(広辞苑)を言うのだが、仏教用語では、文字通り、「退転しないことで、仏道修行の過程で、すでに得た功徳を決して失うことがないこと、もはや後退することがないこと」をいう(※15参照)。
野田首相にとっては、仏教用語通り、「すでに得た功徳(地位)を決して失わない」・・・という決意なのであろう。
そのほかにも、政治家や官僚からよく聞く「可及的速やかに・・・」なども、言葉の意味とは裏腹に庶民にとっては「ゆっくりやる」といっているようなものだし、何か問題が起こると、「問題があったと認識しております」とか「遺憾の意を評します」といった難しくて意味のよく分からない言葉をよく使う。極めつけは、問題点を追求されると、必ずといって「記憶にございません」ととぼけて見せることであろう。自分になにか不利になることを隠す時にはこのような、曖昧な言葉は、政治家にとって、この上なく好都合なものなのだろう。
このような政治家や官僚の意味不明の言葉とともに、私たちの年代の者を困惑させているのが、若者言葉だろう。
「ウザい」「キモい・キショい」「ヤバい(危ない、という本来の意味からかけ離れた、スゴイ、格好いい、凄く面白いと言った意味にも使われている)」など他にも沢山あるが、「ちょー○○」といった言葉などまだ何となく意味が理解できるからいいようなものの、聞いても何のことか想像できないものが多くある。
日本は、古来より「物を数えるときの単位」(正確には「助数詞」)が非常に発達しており数多くある(※16参照)が、箪笥「棹(さお)」や刀「振り」の数え方などはともかくも、日常で頻繁に使う助数詞も曖昧になってきていたが、最近の若い子は何でも「こ(個)」で数えている。例えば「2歳年上」と言う場合でも「2個(こ)上」と言ったりするのを聞いていると、これも、ちょっと日本語の乱れも酷いな~と感じざるを得ない。
若者の言葉の乱は、現代に始まったことではなく、古くは清少納言の『枕草子』にも、
“難義の事をいひて、「その事させんとす」といはんといふを、と文字をうしなひて、唯「いはんずる」「里へ出でんずる」などいへば、やがていとわろし”・・・・と、当時の若者の言葉の乱れを嘆く記述がある(※17:原文『枕草子』全巻の第262段参照)。ここでは「と」文字抜きの言葉をいっているが、かって現代の若者達が使っていた「ら 抜き言葉」が言葉の乱れの代表のように言われていたが、今では、若者だけでなく普通に使われることも多くなっており、そういう私も、いつの間にか使っているのだから偉そうなことはいえない。
最近では、「れる、られる」の表現は「受身」や「尊敬」を表す場合にも用いられ、これらと区別するために、可能を表す「ら抜き言葉」が用いられるようになったともいわれている(※18:「言葉の散歩道」の日本語の文法:「ら抜き言葉」は、本当に「ら抜き言葉」なのか?参照)
言葉というものは時代とともに変化するものであることは理解しているが、人を不快にするような言葉や普通の人が聞いても意味が通じないような隠語スラング(slang)を仲間内など以外の一般的な社会人との会話で使うのあまり感心しない。それに、日本独特の文化は、最低限守ってもらいたいとは思う。
もう1つ気になるのが、カタカナ語や横文字(ローマ字)で書かれた外来語や外国語の氾濫だ。とりわけ目立つのが、テレビCMや映画の題名だ。それに、ちょっとインテリを自負している人達には、特にカタカナ語を多用する傾向がある。
それだけでなく、外国語や外来語が、公的な役割を担う官庁や白書広報紙、日々、生活と切り離せない新聞・雑誌・テレビなどでも数多く使われていることが指摘されている。
例えば、高齢者の介護や福祉に関する広報紙の記事は、お年寄りに配慮した分かりやすい表現を用いることが、本来より大切にされるべきだろう。又、幅の広い多くの層の人達を対象とする新聞や放送にしても、一般に馴染みの薄い専門用語を不用意に使わないようにするべきであろうが、実際には、読み手や聞き手への配慮をすることなく、書き手や放送する側の使いやすさを優先してはいないだろうか。
そのようなことから、国語審議会からは分かりにくい外来語を分かりやすくするための言葉遣いを工夫し、外来語の日本語への言い換えが提案されている。たとえば、「デイサービス」を「日帰り介護」というように。(※19又、※2の「外来語」言い換え提案参照)。
日本語は、古来の「和語」あるいは、「やまとことば」(主として、ひらがな)のほか、千数百年前に中国文明の影響の元に大きく変質して現在の漢字仮名混じり文という型を獲得して以来、さらに、近代以降には西洋語を中心とする外来語が増大してきた(「語種」参照)。
簡単に言えば、日本語は、やまと言葉や漢語、カタカナ語、それに、若者言葉などがごちゃ混ぜになった言葉であるが、以下参考の※20:「日本語講義ノート 『日本語史講義ノート』概要」によれば、このように、日本語で、多種多様な言葉が用いられるのは、日本語が言葉類型的に膠着語であるからだそうだ。
ウクライナ語は、屈折語で、語は、実質的な意味を示す語幹と文法関係を示す語尾とからなっている。中国語は、孤立語で、語順が重要な意味をもっている(我 愛 她 - 她 愛 我, Wo ai ta - Ta ai wo)。ところが、日本語は、実質的な意味を示す語、自立語と文法関係を示す語、付属語からなっている(品詞も参照)。
例えば、私は彼女を愛している -彼女は私をあいしている・・・のように。
そして、日本語では、付属語という名がついているが、日本語の主要な助詞である「テ、ニ、オ、ハ 」はやまとことばで、しかも、とても重要で、文の骨格をなしていて、それらのあいだに色んな言葉をはめ込むことができる。いわば鋳型(いがた)のような役割をはたしている。
この「テ、ニ、オ、ハ」のおかげで、4世紀に漢字が入ってきたときもそうであるが、欧米から「modern societyにおけるindividualのloveについてreasonable なdiscussionを….」といった語がはいってきたときも、アルファベットの語を近代社会、個人的恋愛、理性的、討論といった語におきかえて、それを テニオハの鋳型の中にはめこんでうまく処理してきたのだという。
結局、その利便性が、外国人には通用しない日本語英語を、知っている語彙を自由に綴り合わせて作ることになり、多くの若者言葉を生み出す要因にもなっているようだ。
語彙力は、ないよりもあった方がいい。つまり言葉は知っておいた方がいい。語彙力があれば、適切に表現できるし、微妙なニュアンスを大事にして言葉を使い分けたい。言葉の微妙な違いを楽しめるのも日本語の面白いところだ。
しかし、日本語の中に日本人自身がわからない単語が増えると、意思疎通もうまくゆかなくなるので困る。それに老齢化が進んでいる日本で、次々と新しいカタカナ語(外来語)が急増すると、新聞を読んでもテレビを見てもちんぷんかんぷんだと言うお年寄り達が増えてしまうっては困る。
また、今のデジタルな時代、なにか理屈ばかりが先行し情緒性が失われた気がする。
情緒性を養うには、読書が効果的だろう。それも、優しいほんわかとした物語を読めば、優しい気持ちになれる。逆に、争いごとや、暴力。殺人など殺伐とした悲壮感漂う本など読んでいるとそんな気持ちに自然となってくる(本だけでなくテレビや映画、テレビゲームなども同様だ)。出来るだけ、気持ちの和らぐ良い本を多く読むようにしたいものだね。

(冒頭の画像はナミハリネズミ。Wikipediaの画像に加工)
参考:
※1:5 月 1 日は『語彙 の日』(Adobe PDF)
http://www.obunsha.co.jp/old_release/files/document/070305.pdf#search='語彙の日'
※2:教育課程研究センター:国立教育政策研究所
http://www.nier.go.jp/04_kenkyu_annai/div08-katei.html
※3:国立教育政策研究所広報(Adobe PDF)
http://www.nier.go.jp/kankou_kouhou/135.pdf#search='『「生きる力」を育てるための「読書教育推進プログラム」の開発研究'
※4:子どもの読書活動推進ホームページ:文部科学省
http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/dokusyo/hourei/index.htm
※5:これからの時代に求められる国語力について. :文部科学省
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/bunka/toushin/04020301.htm
※6:国際学力調査:文部科学省
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/gakuryoku-chousa/sonota/07032813.htm
※7:PISA で教育の何が変わったか ~日本の場合~(Adobe PDF)
http://www.cret.or.jp/j/report/101210_Kayo_Matsushita_report.pdf#search='PISAショック'
※8:増殖漢字辞典【彙】
http://www.geocities.jp/growth_dic/honbun/zoukan-5743.html
※9:旺文社 「実用日本語 語彙力検定」 キャラクターはりねずみの 『ごいちゃん』 に決定
http://www.obunsha.co.jp/files/document/070911.pdf#search='ごいちゃん'
※10:論語に学ぶ会:論語全二十篇解説一覧
http://rongo.jp/kaisetsu/kaisetsu00.html
※11:論語の世界
http://www.asahi-net.or.jp/~pd9t-ktym/rongo.html
※12:財政破綻論の大ウソ-資産が借金を上回る日本政府のバランスシート、世界一の金あまり日本                            
 http://blogos.com/article/33410/
※13:池田信夫 blog : 財政赤字はフィクションか
http://www.nli-research.co.jp/report/econo_eye/2010/nn100517.html
※14:2015年に日本の財政破綻が発端となって、日本発の金融危機が起こるのか?
http://diamond.jp/articles/-/11324
※15:楽しい仏教用語
http://www.terakoya.com/yougo/b_yougo.html
※16:若者用語の小事典
http://www.tnk.gr.jp/young/word/
※17:原文『枕草子』全巻
http://www.geocities.jp/rikwhi/nyumon/az/makuranosousi_zen.html
※18:言葉の散歩道
http://www.geocities.co.jp/collegeLife-Labo/6084/kotoba.htm
※19:第1回 「外来語」言い換え提案 国立国語研究所「外来語」委員会
http://www.ninjal.ac.jp/gairaigo/Teian1/iikae_teian1.pdf#search='国語審議会 外来語'
※20:日本語講義ノート 『日本語史講義ノート』概要
http://www.eonet.ne.jp/~suemura/nihongo.html
コラム -日本語の乱れ-
http://sports.geocities.jp/keppa05/keppa/column/japanese.html
たつをの ChangeLog 「論理 vs 情緒」 - 藤原正彦講演会
http://chalow.net/2005-02-21-6.html
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
語彙 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%9E%E5%BD%99
オンライン日本語テスト
http://test.u-biq.org/japanese.html
中学国語:文法 -単語- 自立語と付属語 e点ネット塾 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=zCyvkKQqTOI