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記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

世界初のカラー映画(短編アニメ) 『花と木』が公開

2015-07-30 | 歴史

暑い中、訪問ありがとうございます。
1932年の今日・7月30日は、ウォルト・ディズニーの短編アニメーション花と木』が公開された日です。
『花と木』(原題:Flowers and Trees)は,ウォルト・ディズニー・プロダクション(現:ウォルト・ディズニー・カンパニー)製作によるアニメーション短編映画、シリー・シンフォニーシリーズ(※1:「ディズニー データベース」短編映画参照)の一作品で、1929年 8月22日公開の第1作『骸骨の踊り』( The Skeleton Dance)から数えて、29本目の作品である。また、本作品は、3色式テクニカラー(Technicolor)方式による世界初のカラー映画であり、第1回アカデミー短編アニメ賞(Academy Award for Animated Short Film)を受賞している。
アカデミー短編アニメ賞はアカデミー賞の部門の一つで、その年アメリカで上映されたもっとも優れた短編アニメーション映画に与えられるものであり、1932年の第5回アカデミー賞から始まリ、1931年から1932年の作品を対象として選ばれた。



森の中にボーイツリー とガールツリー の若い木のカップルがいた。年老いた嫌われ者の木は火を起こしてボーイツリーを焼こうとするが、・・・・(『花と木』)。
『骸骨の踊り』に始まったディズニーの”シリー・シンフォニーシリーズ”は、ミュージカルの取り込みを基本に、新しい脚本の方向性や製作技術など斬新的な試みが積極的に導入されていた。
1932年7月30日公開されたバート・ジレット監督の『花と木』は、当初はコストがかかりすぎるとの理由で、モノクロで製作されていたが、ディズニーがカラーアニメーションに踏み切れば世界のアニメーションが向上するという主張が通り、カラーとなったものだという。

世界最初の実写部分を含まない純粋な短編アニメーション映画は、フランスの風刺画家エミール・コールによる『ファンタスマゴリ(英語版)』(1908年、原題:Fantasmagorie)だそうである。

ファンタスマゴリー - YouTube

以後、数年間でアメリカおよび映画発明国フランスで線画アニメ映画の製作が盛んになった。そして、アメリカン・アニメーションの黄金時代は、1928年の音声付きカートゥーン(cartoon)映画の登場に始まり、劇場用短編アニメーションがテレビ用アニメーションに緩やかに敗退を始めた1960年代まで続いた。
1927年のトーキー導入は映画産業を震撼させ、アニメーション産業もまた2年後に同様の改革期を迎えた。
ミズーリ―州カンザスシティーで、アニメ制作会社(Laugh O'Gram Studio社)を設立し、漫画家からアニメーターとして活躍していたウォルト・ディズニーはアニメでは成功していたものの制作に没頭する余りに資金のやり繰りが乱雑になりスタジオを倒産させてしまった。
彼は、経営面のサポート役を立てる事の必要性を痛感し、倒産後の整理を終え再起を図って、1923年7月映画産業の本場ハリウッドへと移住した。ハリウッドでは兄のロイ・ディズニーと共に同年10月、カンザス時代に一本だけ制作した「アリスの不思議の国」シリーズの続編商品を販売する会社ディズニー・ブラザーズ・スタジオ(現・ウォルト・ディズニー・カンパニー)を設立し、少女子役の実写にアニメーションを織り交ぜた「アリスコメディ(Alice Comedy)シリーズ」(これらの物語はキャロルのアリスとはほとんど関係ない。不思議の国のアリスの映像作品参照。)で人気を博し、その後1927年に、興行師チャールズ・B・ミンツ(Charles・ B・ Mintz)の紹介でユニバーサル・ピクチャーズ(Universal Pictures)と繋がりを得たウォルトは自社キャラクター「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」を考案、うさぎのオズワルドを主人公にしたアニメをユニバーサル配給で制作し子供の間で大ヒットを飛ばし、一躍ディズニー社躍進の切掛けを作った。.

AC1 アリスコメディー Alice's Wonderland (1923) ディズニー - YouTube

.オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット 紹介映像 - YouTube

しかし,配給業者チャールズ・ミンツとユニバーサル・ピクチャーズの謀略(法外な配給手数料の要求)により、ディズニー社は配給元と自社キャラクター、そして若いころからの無二の親友アブ・アイワークス(Ub lwerks)を除く殆どのスタッフを失って倒産寸前に追い込まれたが、進取の精神に富んだ彼はアイワークス, 兄ロイ、妻(Lillian)らに支えられ、社運を賭けた博打に打って出て“ミッキー・マウスシリーズ”を誕生させた。
当シリーズの第3作(ミッキーマウスを登場させた短編映画シリーズとして最初に公開された作品)『蒸気船ウィリー』(原題:『Steamboat Willie』)は、音声と映像を完全に一致させた世界最初のアニメーション映画であり,1928年11月にニューヨークのコロニー・シアター(現:ブロードウェイ・シアター)で上演されたとき、このカートゥーン映画は記録的な売り上げを達成し、大衆を魅惑し、批評家と観客の絶賛を浴びた。
これらミッキーマウス・シリーズの初期作品において、秀逸な動きの描写はアイワークスが書き出す一方で、ウォルトは演出面で高い才能を発揮した。対照的にウォルトの演出とアイワークスの作画を失ったオズワルドは次第に人気を失い、1930年代には完全にミッキーに取って代わられる事になる。ミッキーはオズワルドを凌ぐ人気キャラクターとなり、世界的な知名度を得てディズニー社の再建に大きな力を発揮。彼の経歴の中で成し遂げた幾つもの偉業の口火を切ることにもなった。
1930年代前半を通して、アニメーション業界は、二つの派閥に分割されているように見えた。つまり、ウォルト・ディズニーと「それ以外」である。
ロサンゼルスの一零細スタジオで創造したミッキーマウスはその驚異的な人気により、アニメーションのスターというより、チャーリー・チャップリンと並ぶ世界で最も有名な銀幕のスター達の一人として迎え入れられるようになり、ディズニー作品に基づく関連商品は、多くの企業を世界大恐慌による財政的な窮地から救い出した。
また、当時、アメリカ経済が不況のどん底にあったため、優れた才能を持つアニメイターをスタジオに集めることができたディズニーは、この人気に乗じ、アニメーションに更なる改革を加えた。映画においてテクニカラー社の三色処理方式の開発でディズニーの果たした役割は大きい。
「像に色をつける」という試みはサイレント映画時代の初期から試みられており、当時は1コマ1コマ手作業で着色されていた。その後カラーフィルム自体はイギリスで開発されたキネマカラーに次ぐカラー映画彩色技術として、アメリカで1916年に2原色式テクニカラーが開発されるが、青や黄色が表現できないなど、色彩再現力が不完全であった。
その後改良も進み、二本のフォルム画像を新しいフィルムに転写する「ダイ・トランスファー方式」(染料転写方式)が採用されたことで上映技術も向上し多くの映画が制作されたが、1930年以降大恐慌の影響や、カラー作品が興業成績の向上につながらず、テクニカラー社は財政面で苦戦していた。
しかしフルカラー映画技術の開発も進み、テクニカラー社は三色法による技術を開発した。特別なカメラを使用し被写体をプリズムで分解し、赤青緑それぞれのフィルターを通した画像を三本のモノクロフィルムに別々に同時に記録し、その後「ダイ・トランスファー方式」で一本の映写用フィルムを作成すると言う方式(3原色式の改良版テクニカラー)であった。
この方式を使った総天然色で上映された最初のアニメーション作品が、1932年公開のディズニーの短編映画『花と木』(原題:Flowers and Trees)であった。
この映画で、第1回アカデミー短編アニメ賞を受賞したディズニーは、興行的成功を収め、その後、1935年まで三色式テクニカラーの独占使用契約をテクニカラー社と結んだため、その間他の映画スタジオは2原色テクニカラーか、あるいは、シネカラーなどの不完全なカラー・システムの使用を余儀なくされた。

ところで、第5回アカデミー賞における、第1回アカデミー短編アニメ賞には、1931年12月9日公開のデイヴィッド・ハンド)監督作品『ミッキーの子沢山』 (原題:Mickey's Orphans。※1参照)もノミネートされていた。
同作品の内容は、吹雪の晩。クリスマスを過ごすミッキーマウス、ミニーマウス、プルートの家にマントを身につけた謎の人物が訪れる。その人は玄関の呼び鈴を鳴らすと、バスケットを玄関に置き、一目散に逃げ出してしまう。 そのバスケットの中には子猫が入っていた。そして、その子猫が起こすてんやわんや・・・。といったもので、先にも書いた“ミッキーマウスの短編映画シリーズ『蒸気船ウィリー』から数えて36作目の作品である。

36 ミッキーの子沢山 Mickey's Orphans 19311209 - YouTube

この時、ディズニープロの2作品以外に、もう1作、第1回アカデミー短編アニメ賞にノミネートされていた作品がある。ワーナー・ブラザーズ・ピクチャーズで、レオン・シュレジンジャー・プロダクションズ(Leon Schlesinger Productions)により製作されたメリー・メロディーズ(Merrie Melodies) シリーズの『It's Got Me Again!』(1932年3月公開)、 監督はルドルフ・アイジングの白黒作品である。

It's Got Me Again! (1932) A Merrie Melodies Cartoon - YouTube

同作品の内容は、深夜、とある空き家にて、時計の鐘を合図にネズミたちが穴からぞろぞろ出てきて、歌え踊れやの大騒ぎを始める。そこへ凶悪な顔の猫が現れ、ネズミを食べようとするが、ネズミたちは団結して猫に立ち向かうというもの。ネズミの撃つ豆鉄砲を食らって猫が「It's Got Me Again」.(また俺かよ)というのがタイトル名となっている.。何か、この映画に登場する白黒のネズミたちは、ミッキーとよく似た感じだが・・・。
メリー・メロディーズ(Merrie Melodies)は、ワーナー・ブラザーズ・ピクチャーズが1931年 ~ 1969年 の間製作していたアニメーション作品である。同社には、主に1930年から1969年まで製作された「ルーニー・テューンズ」(英語:Looney Tunes)というアニメシリーズがあり、「メリー・メロディーズ」(Merrie Melodies)はその派生作品であるが、便宜上合わせてルーニー・テューンズと呼ばれる事が多いようだ。
バッグス・バニーダフィー・ダックトゥイーティーなど世界的に有名なキャラクターを多数有する本作は、1947年から1969年までの間、ディズニーなどのライバルを抜き、最も人気のあるアニメーション短編映画シリーズであったと言われている。
最も輝かしかった1940年代から1950年代の作品の中にはアカデミー短編アニメ賞の受賞(ここ参照)やアメリカ国立フィルム登録簿へ登録されたもの(『カモにされたカモ』[英題:『Duck Amuck 』1953公開。バッグス・バニーがカメオ出演)なども多数存在する。

1923年に設立されたワーナー・ブラザース・ピクチャーズは、1927年10月6日、『ジャズ・シンガー』(アラン・クロスランド監督)を公開している。この映画はヴァイタフォン方式を採用した世界初のトーキー映画と言われている。
なんでも、「You ain't heard nothin' yet! (「お楽しみはこれからだ!」 直訳では「君はまだ何も聴いてないんだぜ」)」というセリフが、映画史上初めてのセリフとして有名だそうである。映画全編を通してのトーキーではなく、部分的なトーキーだったが、驚異的な興行収入を記録し、トーキー時代の幕開きとなった映画で、第1回アカデミー賞で脚色賞部門でノミネートされている。
1928年、ワーナー・ブラザースは初の全編音声付きトーキー『Lights of New York』を製作し成功を収めた。これ以後、映画業界はトーキー製作になだれ込む事になる。

At Dawning (Lights of New York) - YouTube

さらに1929年6月13日にはテクニカラーの「On with the Show」(邦題:『エロ大行進曲』※2参照)を世に問うている。それまで二色式カラー映画や無声テクニカラー映画は発表されていたが、全編音声付・全編カラー映画はこれが最初だった。ただ、テクニカラーというが、まだ、2原色式テクニカラー時代のものだっただろう。
同年、同様のカラー映画『ブロードウェイの黄金時代(Gold Diggers of Broadway)』(※3参照)を製作しこの年一番の人気を博し、1939年まで各地の劇場で続映され続けるほどのヒットになった。
これ以後、ワーナーは1931年までの間に数多くのカラー映画を製作する。これらの映画はいずれもミュージカルであったが、1931年に各地の観客がミュージカル映画に飽きてしまい、ワーナーは多くのミュージカルの製作を中止し、すでに製作した映画をコメディとして宣伝するはめとなった。
観客はカラー映画をミュージカルと同一視してしまったため、ワーナーほか各社はカラー映画の製作を行わないようになった。しかし、ワーナーはテクニカラー社とあと2本カラー映画を製作する契約が残ってしまっていたため、ミステリー映画初のカラー作品『ドクターX(Doctor X)』(1932年)と『肉の蝋人形(Mystery of the Wax Museum)』(1933年)が製作されたという。

ワーナー・ブラザーズは自社音楽を促進するためのアニメーション短編映画に興味を持っていた。
ワーナーのアニメーション(カートゥーン)映画製作は1930年より、レオン・シュレジンガー(Leon Schlesinger。ワーナー兄弟とは遠縁の親戚だったらしい)所有の独立スタジオの下で開始された。
シュレジンガーのパシフィック・アート・アンド・タイトル社はワーナーの映画のタイトルやサイレント映画の字幕などを製作していたが、ヒュー・ハーマン(Hugh Harman)とルドルフ・アイジング(Rudolf Ising)というディズニー出身の有能なアニメーターを社外から招き、カートゥーン製作に乗り出した。そして、かれらによってルーニー・テューンズは製作される事となった。
ルドルフ・アイジングは、初期はヒュー・ハーマンとともにウォルト・ディズニーの元で『アリス・コメディーズ』や『オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット』の制作に参加し、ディズニーやアブ・アイワークスにミッキーマウス誕生のきっかけとなるネズミのスケッチを提供していたという(ミッキーマウスの映画としては最初に制作された作品、『プレーン・クレイジー』原題:Plane Crazy。邦題:『飛行機狂』の、作画を担当)。
そのようなこともあって、この頃の作品はディズニーの短編アニメーション映画の模倣にすぎなかったようだ。道理で、前にも紹介したワーナー・ブラザーズが1932年に公開した『It's Got Me Again!』のネズミがミッキーと似ているのも頷けるよ。
彼らはジャズを使って過激なギャグ(この後のヘイズ・コード適用後は不可能になった)を交え、ミッキーに良く似たキャラクター、黒人少年ボスコ(Bosko)を主役にした『Sinkin' in the Bathtub』(1930年)を皮切りにルーニー・テューンズは一躍ヒットシリーズとなり、より音楽を重視した派生作品『メリー・メロディーズ』なども製作されるようになった。

3 プレーンクレイジー Plane Crazy 19290317 19280515 - YouTube

LT001 Sinkin' In The Bathtub (May,1930)-YouTube

しかし、ワーナーと彼らの蜜月期間も長くは続かなかった。1933年にハーマンと、アイジングは作品の質を上げるためにより大きな設備を要求し、これが原因でシュレジンガーと衝突。おりしもMGMが二人にもっと有利な契約を持ちかけていた(※4の第8章参照)ようで、二人はボスコを引き連れて去っていったため、ワーナーはボスコなど過去の作品の権利も失う事となった。
スターを失ったルーニー・テューンズはその後、ジャック・キングやフリッツ・フリーレング(Friz Freleng)らにより新たなキャラクター白人少年バディ( Buddy (黒人のボスコの白人版に過ぎないもの)などを主役とした作品が製作されることになるが、どれも短命に終わった。
ボスコの権利を失って以降、スターの不在が続いたルーニー・テューンズだが、フリッツ・フレリングが監督したメリー・メロディーズ作品『楽しい母親参観』(1935年、原題:I Haven't Got a Hat)に吃音の豚ポーキー・ピッグが初登場し、『Gold Diggers of '49』(1936年)を経て、一躍ルーニー・テューンズの花形スターとなり、作品的にも、後にアメリカ国立フィルム登録簿に登録された、『Porky in Wackyland』(1938年公開 [後に『幻のドードーを探せ』(1949年、原題:Dough for the Do-Do)としてカラーリメイク化] ※5の2000年登録参照)などの傑作が生まれた。
しかし彼(これらキャラクター)の栄光も長くは続かなかった。新たなスターダフィー・ダックが登場した。『Porky's Duck Hunt』(1937年)にて初登場した彼は、今までにない狂ったキャラクターで観客を虜にした。以後、ポーキーが主役を張る事は少なくなったものの、ダフィーのパートナーとしてキャラクターを発展させていく事になる。

Beans the Cat Porky Pig - Gold Diggers of '49 -1935- Looney Tunes - Tex Avery

Porky in Wackyland X Dough for the DoDo-YouTube

1940年にはルーニー・テューンズの顔であるバッグス・バニーが『野生のバニー』(原題:A Wild Hare)にて初登場(これが、バッグス・バニーの第一作とされるが、原型となったキャラクターを含めると『Porky's Hare Hunt』(1938年)まで遡れる)し、レオン・シュレジンジャー・スタジオ制作のこの作品(監督 テックス・アヴェリー)が久しぶりにアカデミー短編アニメ賞にノミネーとされ、以後も記憶に残るルーニー・テューンズスターのデビューが続いた。
なお、この時同時にノミネートされたのはMGMの『上には上がある』(原題:Puss Gets the Boot)、つまりトムとジェリー第一作であり、オスカーを手にしたのは、同じくMGMの『あこがれの銀河』(原題:The Milky Way)、つまり、初めてディズニー以外の社がオスカーを受賞した。この年ディズニーは短編部門にノミネートされていない。但し『ピノキオ』で劇中歌『星に願いを』(原題: When You Wish Upon a Star)が歌曲賞を獲得している。
そして、1940年代には、ワーナーのアニメーション短編映画に初のアカデミー賞をもたらす事となるカナリアのトゥイーティーが登場した。ボブ・クランペット(Bob Clampett)による作品『A Tale of Two Kitties』(1942年)にて誕生したのだが、真価を発揮したのはフリッツ・フレリング(Friz Freleng)の『『ピーチク小鳥』(原題:Tweetie Pie。1947年)以降の事である。本作は同年のアカデミー・短編アニメ賞を受賞した他、以後定番となるシルベスター・キャットとの黄金タッグを確立した記念碑的作品となった。
この新キャラは基本的にMGMが作ったトムとジェリーのネコ対ネズミの繰り返しだが、素材の新鮮さとしては新しいシリーズに十分だった。トウィーティと猫のシルヴェスター(シルベスター・キャット)はハンナ&バーバラの二匹より豊かな性格を見せた。トウィーティは赤ちゃんカナリアで子供らしい外見と大きな青い瞳をしている。しかしその天使のような風貌の下にはずる賢く、しばしば残忍な性格を隠している。当然、幸運と巧みに呼び込んだ味方によって彼はシルヴェスターから自分の身を守る。シルヴェスターの方はといえば、彼は無垢な存在どころではなく、裏切り者で限りなく卑劣に振る舞う存在である。だが、運命は彼に冷たい。彼は弱者(に見える者)が有利になる判官びいきの犠牲になる。
以後トゥイーティーはフレリング専用のキャラクターとなった。

【旧吹替】ルーニー・テューンズ/楽しい母親参観 - HOC0

Porky in Wackyland X Dough for the DoDo-YouTube

Porky's Duck Hunt(1937年) - Video Dailymotion

バッグス・バニー 「野性のバニー」 (THE WILD HARE) - nicozon

A Tale of Two Kitties - YouTube

Tweetie Pie - 1947 - with original recreated tirles

この頃になるとチャック・ジョーンズも頭角を現す様になってくる。チャックの初期の作品は子鼠のスニッフルズ(Sniffles)など、ワーナーの作品にしては可愛く、毒の無いものが大半だったが、1940年代には笑いのセンスを徐々に洗練していき、1950年代には後年にも評価される作品を多数製作した。
特に有名なものとしては現在のダフィーのキャラクター性を決定づけた狩人3部作[『標的は誰だ』(1951年、原題:Rabbit Fire)、『ちゃっかりウサギ狩り』(1952年、原題:Rabbit Seasoning)、『何のシーズン?』(1953年、原題:Duck! Rabbit, Duck!)]やアカデミー賞を受賞したペペ・ル・ピュー(Pepe_Le_Pew_ )作品『For Scent-imental Reasons』(1949年)、アメリカ国立フィルム登録簿により永久保存が決まった『オペラ座の狩人』(1957年、原題:What's Opera, Doc?)や、先にも挙げた第四の壁を巧みに利用した『カモにされたカモ』(1952年、原題:Duck Amuck)他、一定のルールを作りカートゥーンの法則を突き詰めていったロード・ランナー&ワイリー・コヨーテの作品群(※6参照)などである。

バッグス・バニー&ダフィー・ダック/標的は誰だ ‐ ニコニコ動画:GINZA

バッグス・バニー「いたずらなうさぎ」.- nicozon

バッグス・バニー&ダフィー・ダック/『何のシーズン?』( Duck! Rabbit, Duck!)

For Scent-imental Reasons (Commentary by Michael Barrier)

24.For.Scent-imental.Reasons.1949.LATiNO

バッグス・バニー/『標的は誰だ』 - nicolife (落書き多いが)

バッグス・バニー/オペラ座の狩人-nicozon

Looney Tunes 1(ロードランナーvsワイリーコヨーテ - YouTube

1960年代に入るとスタッフの引退、死去などによって作品の質が徐々に低下していった。1963年にはアニメーションスタジオが閉鎖されたが、新スタジオDePatie-Freleng Enterprises(後にピンク・パンサーを製作。)への交代によりアニメーションの製作自体は続行された。この頃の作品の特徴としては、ワーナーロゴの変更。リミテッド・アニメーション化。新しいキャラクター「クールキャット」(Cool Cat)の登場。バッグス、トゥイーティーの欠如などがあげられる。オリジナルのアニメーション短編映画はメリー・メロディーズ作品『Injun Trouble』(1969年)にて製作が終了したが、その後ファミリー向け映画の同時上映作品として再開し、今日まで散発的に製作され続けている。

Injun Trouble (1969) - Video Dailymotion

今日は、世界初の3色式テクニカラー映画であるディズニーの短編アニメ『花と木』に絡めて、1940年代にはディズニーの短編アニメにとって代わる短編アニメを育て上げたワーナー・ブラザーズのレオン・シュレジンジャー・プロダクションズの“ルーニー・テューンズ”のスターたちのことを書いてみた。
難しいことを云うより、その作品を見て楽しんでもらった方が良いと思うのでネット上で見れるものをできるだけ多くリンクしておいた。
暑い夏、熱中症には気を付けて元気でお過ごしください。
私も、暑さで集中力もなくなっているので、明日から8月一杯は夏休みといたします。又,涼しくなったら、来てください。

◎冒頭に掲載の画像は、マイコレクション旧三菱銀行貯金箱より(Corection Room参照)。英語:「Wishing you healthy summer」は、日本語では「あなたのために健全な夏を祈る」となります。

参考:
※1: ディズニー データベース
http://www29.atwiki.jp/wrtb/
※2:エロ大行進 | Movie Walker
http://movie.walkerplus.com/mv1187/
※3:ブロードウェイ黄金時代 | Movie Walker
http://movie.walkerplus.com/mv7979/
※4::カートゥーン:アニメーション100年史
http://homepage1.nifty.com/gon2/cartoon/index.html#chap8
※5:アメリカ国立フィルム登録簿 2000年 - allcinema
http://www.allcinema.net/prog/awardmain.php?num_a=1313
※6:ルーニー・テューンズ・全キャラクター/ワーナー・ブラザース
https://warnerbros.co.jp/characters/looneytunes/character.html
WaltDisneyと大恐慌(Adobe PDF)
http://www.i-repository.net/contents/asia-u/0000000003434.pdf#search='%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%81%90%E6%85%8C+%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%8B%E3%83%BC%E4%BD%9C%E5%93%81'

カシスの日

2015-07-23 | 記念日
「念力のゆるめば死ぬる大暑かな」 (村上鬼城)
出典は、大正6年版鬼城句集(※1)より。  
句意は「言語道断の今年の暑さである。常人といえども、もし肝心の念力のゆるむ者がいたら、その者は直ちに病んで死んでしまうに創意ない。」(中村草田男)となるそうだ(.※2参照) 
「肝心」は最も大事なことで、「きもごころ」とも読み、兼好法師の『徒然草』八九段(※3)に「肝心(きもごころ)も失(う)せて、防がんとするに力もなく」と出てくるが、この「肝心も失せて」は「びっくり仰天して」と訳されている。暑さに耐える気力のないものなら死んでしまうほどのびっくり仰天するほどのむちゃくちゃ暑い夏の日であることが伝わってくる。
村上鬼城(本名:村上荘太郎)の句は、人生の悲惨事をなめつくして初めて得られるところに特徴があり、これを「境涯の句」と呼んで評価したのは、大須賀乙字という俳句評論家であり、『鬼城句集』の序文で、「明治大正の御代に出でて、能く芭蕉に追随し一茶よりも句品の優った作者がある。実にわが村上鬼城である」と述べている。実際、鬼城の俳句には人生について深く考えさせられる作品が多くある。参考※1で読めるので読まれるとよい。
夏の季語の「大暑(たいしょ)」。この文字、見ているだけで汗が噴出してきそうな名前であり、1年のうちで、最も暑い頃という意味があるのだが、実際の暑さのピークはもう少し後になる。
元来、太陰太陽暦の6月中 (6月後半) のことで,太陽の黄経(黄道座標における経度)が 120°に達した日 (太陽暦の7月 23日か 24日) に始り,立秋 (8月7日か8日) の前日までの約 15日間であるが,現行暦ではこの期間の第1日目をさす。
今年・2015年7月23日はまさにこの日に当たる。神戸など例年このころに梅雨も明け、暑さもいよいよこれからが本番・・・・となるのだが、今年は台風9・10・11号の影響で中旬から連日猛暑が続き、蝉もにぎやかに鳴いていた。そして、台風(11号)一過梅雨も明けた。今年もこれから蒸し暑さで悩まされることになりそうだが、またまた、台風12号接近中とかで連日雨が降り続いている。まるで梅雨のように・・・。可笑しな天候だ。
世間一般で言われる夏の『土用丑の日』も今年は、明日の24日と8月5日と2回ある。今まで夏バテ防止で食べていたウナギも、最近は高くなって、今までの様には食べれない。他の方法で夏バテ対策しなくてはしようがないな~。

ところで、日本記念日協会(※4)に登録されている今日・7月23日の記念日に「カシスの日」がった。
由緒を見ると、「人々の健康に寄与するカシスへの関心を高めてもらおうと、日本カシス協会(※5)が制定。大暑の頃に収穫される果実のカシスは、その成分であるカシスポリフェノールに末梢血流の改善作用がある。日付は大暑となることが多い7月23日に」…とあった。
カシス?・・・・。私は、よく知らない名前なので,女房殿に聞くと名前だけは知っているが、どんなものかはよく知らないというので、Wikipediaや日本カシス協会(※5)その他にアクセスして、調べてみた。
まず、カシスって何か?
「カシス」(Cassis)、はフランス語であり、日本では、クロスグリ(黒酸塊、別名:クロフサスグ学名 Ribes nigrum)と呼ばれているもののことでスグリ科フサスグリに属するするものであり、英語ではフサスグリ全般を「カラント(currant)」と呼ぶが、カシスは果実の色が濃い紫色でほとんど黒に見えることからブラックカラント (Blackcurrant)と呼ばれている(冒頭の画像がクロスグリ)。果実の色が赤色の系統をアカスグリ(赤すぐり、レッドカーラント)、白色の系統をシロスグリ(白すぐり)と呼ぶが、黒色のクロスグリ(カシス)とは別種だそうである。
カシスは古代からヨーロッパの山奥などに生育していたそうだが、食用に利用されたという古い記録はなく、カシスが食用できることを初めて紹介したのは、ルネッサンス時代の植物学者ガスパール・ポアンといわれているそうだ。さらに1712年にはフランスのバーイ・ド・モンタラン神父がカシスに関する本「'Les Proprietes Admirables du Cassis' (カシスの驚異)」を出版し、"カシスの絞り汁は万病に効く秘薬であり、若返り(不老不死)にも効果がある"と紹介しているという。
このような時期を経て少しずつカシスは一般的になり、18世紀半ば、フランス・ブルゴーニュ地方のワイン畑の一画などで、主に薬用として栽培されるようになり、フランスでは葉を乾燥させたものがリウマチによいとされ、今でも生薬を販売する店で売られているという。
カシスは、ヨーロッパやアジアが原産とされているが、現在カシスの世界最大の産地はポーランドで、毎年10万トンから14万5千トンの収穫高があり、これは世界全体の収穫高の約半分を占めるそうだ(Wikipedia)。また、日本国内では青森県が主な産地で、国産カシスの約90%、年間5.9トンのカシスが生産されているようだ。青森では「クロスグリ」ではなく「黒房スグリ」と呼ぶようだ。以下参照。
青森=りんごじゃない!?実はカシスの生産も盛んな青森県 | 青森でくらす
クロスグリの実はかすかな苦味をもち、ゼリー、ジャム、アイスクリーム、コーディアルリキュールなどに利用される。また、イギリス、ヨーロッパ、イギリス連邦諸国では、クロスグリの風味を加えたり、干した果実を加えたクッキーなどの菓子が多数存在するそうだが、青森では、「カシスのちらしずし」や「カシスジャムとリンゴの春巻きパイ」などといった、ちょっとおもしろいカシス料理もあるようだ。上掲のページで、レシピを動画で見られるので、興味のある人は覗かれるとよい。
青森市ではカシスの特産品化が進められており、カシス協会主催の「カシスサミット」なるものも開催されているようだ。カシス協会は、カシスの生産者、カシスの研究を進める研究者を中心に構成され、カシスを積極的に食すことによる眼病予防の啓発、また、カシスの香りや美しい色で生活を豊かに彩ることの提案で、健康とキレイの両方を手に入れられるように、カシス産業、カシス文化の確立を目指してるそうで、「カシスの日」を7月23日(大暑)として設けたのは、2006年2月14日に青森で開催された「第一回カシスサミット」だったようだ(※5の活動報告参照)。

カシスはビタミンC、ビタミンEだけでなく、マグネシウム、鉄分などのミネラル類も豊富に含んでおり(栄養成分の説明については※6参照)、 さらにカシスが注目されているのは、これらに加えて抗酸化成分として知られる「ポリフェノール」を多く含み、なかでも、ポリフェノールの1種である、「アントシアニン」の含有量が多いことだという。
「ポリフェノール」の中でも有色野菜や果物の赤紫色を構成する色素成分で、カシスに含まれるアントシアニンは、抗酸化に優れている4種類(※7のアントシアニンって?参照)を含み、特に「D3R」と「C3R」はカシス特有の成分で、ブルーベリービルベリーなどには含まれていないものだという。そのため、同業界では、「カシスアントシアニン」と呼んで区別しているようだ。
カシスには目の疾患をはじめに筋肉疲労や動脈硬化など多くの症状に効果が期待できるが、それらの効果の根本を成すのが次の4つの効能だそうだ。
1.活性酸素を除去する効能
2.末梢血管(毛細血管)の血流を改善する効能
3.毛様体筋を弛緩する効能
4.ロドプシンの再合成促進作用
カシスには上記の4つの効能を軸に、視力回復効果や目の疲れ(眼精疲労、※8参照)の緩和効果など他にも目に対する効果を中心に14の効果が期待できるという(※7のカシスが持つ18の効能と効果を参照)。
近年、パソコンやゲーム機、携帯電話やスマホなどの普及に伴い、視力の低下した小中学生が増加しているが、小中学生のような子供だけでなく、若者でも、携帯電話やスマホを片時も.手放せずに使用している者が多い。
あのような小さな画面を長時間、高頻度で「近くを見る作業」を続けていると眼軸長(下図参照)が延長し(眼球がラグビーボールのような形になる)、それが慢性化することで軸性近視(近視は焦点が網膜の手前にある状態.。※8参照)となるが、ヒヨコをモデルに用いた実験でカシスアントシアニンの近視化抑制効果があると発表されているようだ(※5のここ参照)。
カシスは世界中に広く分布しているが特にニュージーランド産のカシスが有名だそうだ。カシスは紫外線量に比例してアントシアニンが増えるので、日本の約7倍も紫外線量があるというニュージーランドはカシス栽培に非常に適した場所であり、アントシアニンをたっぷりと含んだ良質のカシスが育つのだそうだ(※9参照)。
歳ののせいもあるが、私もこのブログを書いたりするのに、結構長い時間パソコンの前にいることが多いせいで、ここのところものが少し見にくくなってきている。カシスには目に良いポリフェノール以外にもビタミンC他豊富な栄養素が多く含まれているようなので、適当なものが安く買えれば良いな~と思うのだが、参考※9の商品紹介のページなど見ていると、「本品は特定保健食品と異なり、消費者庁長官による個別審査を受けたものではありません。」…とあった。ここのところはちょっと気になるところだな~。

参考:
※1:近代デジタルライブラリー - 鬼城句集
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/905666
※2:村上鬼城の俳句 | 季語と俳句鑑賞ノート
http://anketopia.com/haiku_kigo/node/638
※3:徒然草(吉田兼好著・吾妻利秋訳)
http://www.tsurezuregusa.com/index.php?title=Category:%E5%BE%92%E7%84%B6%E8%8D%89
※4:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※5:日本カシス協会
http://j-cassis.jp/index.html
※6:栄養成分百科 |江崎グリコ
http://www.glico.co.jp/navi/dic/index.html
※7:カシスの効果・効能まとめ
http://cassis.wgjp.net/
※8:目と健康シリーズ-三和化学研究所
http://www.skk-health.net/
※9:カシスの秘密―明治
http://www.meiji.co.jp/health/cassis-i/secret/knowledge.html
クロスグリー.Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%82%B0%E3%83%AA

世界ありがとうの日

2015-07-15 | 記念日


日本記念日協会(※1)に登録されている今日・7月15 日の記念日に「世界ありがとうの日」があった。
制定したのは、Q&Aサイト「OKWave」をはじめとして、FAQソリューションや各種のQ&Aサービスで知られる株式会社オウケイウェイヴ(※2)。同社の企業理念である「世界中の人と人を信頼と満足でつないで、ありがとうを生み出していく」を実践し、世界中を感謝の気持ちでつないでいくのが目的・・・だとか。日付は同社の創業日である1999年(平成11年)7月15日からだそうだ。

「ありがとう」は、日本語で感謝を表す時に用いられる挨拶語である。
今時の日本の人は、素直に「ありがとう」という感謝の言葉を口に出して云えない人が多く、「ありがとう」のかわりに、「どうも」とか、「サンキュウ」「すみ(済み)ません」とか言ったりする人が多いように思う。
この「すみません」の「済む」は、仕事が済む、終了などとともに、「気持ちがおさまる」「気持ちがはれる」といった意味もあり、感謝の意を表すときにも使われる言葉だが、心からの感謝の気持ちは伝わってこない。
英語の「Thank you」 の「Thank」も「感謝する 」の意だが、「Thank you for that ball! =すいませーん!ボールを拾ってください」といった使い方がされるが同じ様な使い方だろう。同じ「感謝」を表す言葉でも、「サンキュウ」や「すみません」よりは、「ありがとう」の方が、感謝の気持ちがこもっている。照れがあるのかもしれないが、誰もが、素直に「ありがとう」という言葉を、日常の挨拶言葉として使えるようになれたら、本当によい人間関係が出来るだろうと思うのだが・・・。
偉そうなことを書いている私だって、あまり自信はないのだが、我が女房殿は、何かあると必ず「ありがとう」と言う。もう習慣的になっているが、そういわれて悪い気はしない。産めよ増やせよと云われていた戦前に、12人もの兄弟の末っ子として生まれ、一番上の姉とは20歳位い歳が違うと云い、甘やかされて育っているかと思うのだが、さすが明治人の子供、。こういった面のだけはきっちりとされている・・・といつも感心させられている。

日本記念日協会には、3月9日の記念日にNPO法人のHAPPY&THANKSが設けた「3.9デイ(ありがとうを届ける日)」 があったので、以前このブログで「ありがとう」について書いた(ここ参照)が、それ以前にも、同じ日に「ありがとうの日」のことを書いていた(ここ参照)。3度も同じことをテーマーに書くのをやめようかと思ったのだが、最近のように、都市部など特にそうなのだが、お隣さんの事情も知らないという状況が急速に増えていて、人間関係が冷め切っている。私の家の隣の娘なども朝、顔を合わせても軽く会釈をする程度で「お早う」の挨拶すらできない・・・。そういう若者が非常に多くなった。
そんな人と人の繋がりが薄いと言うより、無くなってしまったとも云える現代の日本。1995(平成7)年の阪神・淡路大震災以来、特に、2011(平成23)年3月11日の東日本大震災以来、人と人の「」が云われだし、2011年の世相を表す漢字(今年の漢字)にも選ばれたものだが、なにか「絆」「絆」と言っているのは、このような震災や、台風、洪水などの被害に直接遭遇した人達の「傷のなめ合い」や「合言葉」のようにさえ聞こえて仕方がない。
最近は、年老いた老人の一人暮らしも多くなり、そんな老人の孤独死や、認知症を患った老人たちの徘徊、核家族化の進行による老老介護問題などの増加も社会問題となっており、また、乳幼児など小さな子供への親の児童虐待、あるいは、小さな子供や女性の誘拐やストーカー被害などが起きる度に、地域社会のコミュニティーの重要性や、人と人の「絆」が云われているが、普段は「隣の人への関心」も薄く、「挨拶」ひとつ交わせない者が、どうして、友好的な地域のコミュニティーを築くことができるのだろうか・・。町内会にしろ会社にしろ、又、友達関係にしろ、お付き合いには、良いことばかりではなく、結構、煩わしいことも付きものだ。
良い関係だけを望んでも、その煩わしさには関わりたくない・・・。そんな身勝手な自我中心的な人間が戦後は非常に多くなっっている。
例えば、介護をしなければならない親(義理も含めて)がいる。又、手の焼ける小さな子供がいる。しかし、介護の必要な人の入れる老人ホームは足りないし、小さな子を預ってくれる保育園も足りない。
そういう要介護者や子供をもった女性は、戦前なら、好むと好まざるとにかかわらず家の嫁として、親や子供の面倒を見ていた(男は仕事、女は家庭の考えから。家制度の中で)。
今の時代、家制度は崩壊し、女性も男女同権のもと、男性同様社会へ進出するようになった。核家族化した中、子供や親の世話などしていると、自分のしたい仕事が出来ないから、介護を必要とする老人を見てくれる老人ホームや子供の面倒を見てくれる保育園などの施設がいると言う。しかし、そのような施設は足りない。もしハード面だけの施設を増やしても、そのような世話の焼ける仕事を喜んでしてくれる人はどれだけいるのだろうか。不足しているハード面の施設や仕事をしてくれる人に対する金銭や処遇面の改善をすれば解決する問題なのか・・・。難しい問題である。
正直言って、誰もが、「3K」(きつい、危険、きたない)職場を忌避するのは、貴族化・清潔化という消費文化と無関係ではないという。3K以外の、例えばウエートレス不足も、身体・人格による他者へのサービスが嫌われるから。他者のサービスはいくらでも受け入れるが、自分からのサービスはいやというのは貴族固有の発想であり、3Kはさらに「給料が安い、休暇が少ない、カッコ悪い」が加わって「6K」。がはびこっているのが今の世の中、ではないか・・・・。それで悩んでいる人が多いのではないか・・・。
誰でも自分のしたい仕事をしたい。出来れば、快適な環境で、綺麗な服を着て、人に気を使わず、楽して、報酬の期待できる仕事をしたい。誰もがそのような思い(自我・我欲=自己中心的な欲望)をもっていることだろう。しかし、世の中、誰もがそんな結構な仕事に就けているわけではない。そして、そのような職場ほど、どこも人手不足で困っているのである。債務不履行問題を起こしているギリシャの国の人などはそんな人達ばかりのようだ。

少し、余談になるが、現代の民主主義・民主制・民主政は、古代ギリシアにその起源を見ることができ、都市国家(ポリス)では民会による民主政が行われた。特にアテナイ直接民主制が確立したと言われている。
ただし、古代アテネ(Athēnai)などの民主政は、各ポリスに限定された「自由市民」にのみ参政権を認め、ポリスのため戦う従軍の義務と表裏一体のものであった。女性や奴隷は自由市民とは認められず、ギリシア人の男性でも他のポリスからの移住者やその子孫には市民権が与えられることはほとんど無かった。
後に扇動的な政治家の議論に大衆が流され、政治が混乱し、ギリシャの哲学者プラトンの師・ソクラテスが国家の名において処刑されてしまった。
それを契機としてプラトンは、師が説きつづけた正義の徳(『ヒッピアス (小)』参照)の実現には人間の魂の在り方だけではなく国家そのものを原理的に問わねばならぬと考えるに至った。そして、この課題の追求の末に提示されたのが、中期対話篇『国家、』である。
民主制を古代ギリシャでは「デモクラテイア(democracy)」と言う。デモス(demos=古代ギリシアのポリスを構成する組織・人民)がクラティア(kratia、権力・支配).を持つ体制=「民権」ないし「民衆支配」の体制を指すが、プラトンは対話篇『国家』の中で、民主制は自分勝手で個性のないバカな人間を生み出す「衆愚政治」だと批判している。衆愚政治は、有権者が各々の自我(エゴ)の中から生まれたエゴイズムを追求して意思決定する政治状況を指す。エゴイズムは自己の積極的利益の追及とは限らず、恐怖からの逃避、困難や不快さの回避や意図的な無視、他人まかせの機会主義、課題の先延ばしなどをも含む(※3.※4参照)。
「衆愚政治」は民主主義の最大の欠点を表しているといえるが、世界で最初に民主主義をなした国家ギリシャが皮肉にも衆愚政治に堕し、その後衰えてゆくのは如何にも皮肉であるが、今のギリシャ問題を見ていると、ギリシャ人にはいまだに古代ギリシャ時代の悪しき思想が抜け切れていないように思われる。しかし、今の日本も何か少しづつそのような状況に近づいているような気がしてならないのだが・・・。
世の中には、好むと好まざるにかかわらず、「6K」と云われる職場で一生懸命頑張っている人も大勢いるからこそ、この世の中なんとか回っている。恵まれぬ環境の中で努力している多くの人たちに、私たちは、どれほど感謝の気持ちを持っているのだろうか。せめて、誰にでも「ありがとう」と言う感謝の言葉を素直に口に出して云えるようになれば、少しは良い関係(絆)も出来てゆくのではないか。言葉ぐらいで・・と思う人がいるかもしれないが、以前このブログ、「ことばの日」(5月18日)でも書いたのだが、イスラム教の教の中に、以下のような言葉があると聞いている。

「自分が変れば 相手が変る。心が変れば 態度が変る。態度が変れば 行動が変る。 行動が変れば 習慣が変る。習慣が変れば 人格が変る。人格が変れば 運命が変る。運命が変れば 人生が変る。」

その根拠はよく判らないが、人生訓などとしても、よく語られるものであるが、そんなこと・・・と言われるかもしれないが、人間、常日頃から、「いい言葉」を聞き自らも使っていると、やがてその人の、行動や人格までも変化し、ひいては、家庭や、社会の安定にも通じるものと信じている。
アメリカの心理学者マズローの名言「自分自身に対する認識を変えれば、人間は変わる。」(自己実現理論)も、同様の考え方のものだろう。
言葉・・・されど言葉である。日ごろから「いい言葉」に接したいものである・・・・、そう思って、また同じテーマーで書いてしまった。

この日本語の「ありがとう」と言う言葉の語源は、形容詞「有り難い」の連用形「有り難く」のウ音便化し、感謝の気持ちを表す言葉「ありがとう」となったもの。
「有り難い」は、文字通り、「有る(ある)こと」が「難い(かたい)」つまり、「有ることがむつかしい」と云う意味で、ここから、本来は、ありそうにない。ほとんど例がない。めったにない。珍しい。・・・と言う意味を表していた。
清少納言の『枕草子』"ありがたきもの"の段には以下のように書かれている(現代語訳。原文、解説等は※5を参照。ただし、『枕草子』には、多くの異本があり、伝本によってかなり内容に違いがあるようで段数も異なる。※6又ここなど参照)。

(枕草子 「ありがたきもの」)
めったにないもの。舅にほめられる婿。また、姑に大切にされるお嫁さん。毛がよく抜ける銀の毛抜き。主人をけなさない従者。ほんの少しも癖のないこと。容姿、情、様子が秀でていて、世を渡る中で、ほんの少しの欠点もない人。
同じところに奉公して住んでいる人で、お互いに気がねして、少しのすきもなく、心遣いしていると思われる人が、最後まで欠点を見せないというのはめったにない。物語や歌集などを書き写すときに、(その物語や歌集)原本に墨をつけないこともめったにない。価値のある本(草子)などの場合は、非常に注意を払って書くが、必ず汚してしまうようだ。
男と女(の仲について)は言うまい、女どうしも、深い約束ごとがあって交際している人で、最後までずっと仲が良い人はめったにいない。
(男女についてはいうまでもなく将来まで仲が良いことは難しい)・・・・と。

「めったにないもの」・・・・、いつの時代になっても変わらないものだね~。その中にある、「毛抜き」は、当時の女性は眉を抜く習慣があったので、必需品で、抜いたあとは眉墨で描いた。今でも女性にとって、めったに手に入らない化粧品など女性にとっては”有難い”ものだろう。「めったにない」が現代語の「感謝をする」の意味で用いられるようになったのは、近世になってからの様だ。

「有難い」は、中世になり、仏の慈悲など“貴重で得難いものを自分は得ている”・・・と言うところから、宗教的な感謝の気持ちで云うようになり、近世以降、感謝の意味として一般にも広がったとも言われている。
「有難い」は仏教語で、『法句経』にある生命(生まれてから死ぬまでの時間=命)の驚きと感動を伝える言葉が、時代と共に感謝を表す言葉となったとも言われている。
この『法句経』は パーリ語の経典『ダンマパダ( Dhammapada)』:の漢訳で、原始仏典ブッダの仏教)の一つで、語義は「法(真理)についての句(言葉)」といった意味であり、原始仏典の中では最もポピュラーな経典の一つである。
スッタニパータ』と共に原始仏典の、最古層の部類とされるが、『スッタニパータ』はかなり高度な内容を含んでいるため、必ずしも一般向けではないが、『ダンマパダ』は、たくさんある経典の中でも、一番釈迦の説法の原形が残っているとも言われており、初学者が学ぶ入門用テキスト向きだと言われている。
内容は、仏教の立脚地より日常道徳の規準を教へたものであり、形式は、全部頌文(ジュモン)より成り、古代仏教の聖典たるの中に散在する金玉の名句(四百二十三の名句)からなる教訓句集のようなものである。
その中の第十四章 “佛陀の部”の、百八十二番の句に、いわゆる「ありがたい」に関することが四つ出てくる。
以下の文は、浄土宗の僧侶、仏教学者・サンスクリット学者でもある荻原雲来(明治2年~ 昭和12年)の訳註『法句經』(※5青空文庫)より引用したもの。

(佛陀の部、百八十二番の句) 
 
人身を得ること難し、
生れて壽あること難し、
妙法を聞くこと難し、
諸佛世に出ること難し。

ここでの「難し」は、当然「有り」「難し」のこと。「」とは、「寿命」(生命=命。生きていること)のこと、また、「妙法」とは、「正法」つまり、ブッダ(悟りを開いた釈迦)の説いた正しい法(教え)のことを言っているのだろう。3段目と4段目は入れ替えた方が分かりやすいだろうから入れ替えて、もう少し判り易くすれば以下のようになるのだろう。

人がこの世に人身を得る(生まれてくる)ことは難しい(「有り」「難い」ありがたい)ことで、
今こうしてこの世に生命(命=生きていること)のあることもありがたいことだ。
この世に諸々の仏が現れることはありがたいことであり、
その仏から正しい法(教え)を聞くことはなお、ありがいことだ。・・・といったことになるのではないか。

日本の諺には、「袖振り合うも多生の縁」がある。
見知らぬ人とたまたま道で袖をすり合わせるというのも、前世からの深い因縁によるものであるということ。人と人との関係は単なる偶然によって生ずるわけではないので、大切にしなくてはならないという仏教的な考え方からきている。「多生」は何度も生まれ変わる意味。
他生」と書く場合は、この世以外の意味で、「前世」と「来世」のこと。そのものの力ではなく、他の原因によってあるものを生じること。・・・を言う。
「多生の縁」を「他生の縁」とも書く(成語林=故事ことわざ慣用句の大辞典)ようで、こう書いても間違いではないようだ。
「多生」は現世の前に積み重ねた数多くの前世。その数多くの前世の因縁が積み重なった結果が現世で袖を振り合うという出会いになっている。さらに、そうした現世の因縁も来世の縁(縁起参照)に繋がってゆく・・・と考えられている。
このような輪廻転生の思想は、仏教(釈迦の仏教)以前からインドにおいて存在していた(★「輪廻転生」の考えは、ヒンドゥー教や仏教などインド哲学東洋思想において顕著だが、古代のエジプトやギリシャ[オルペウス教ピタゴラス教団プラトンイデア)]など世界の各地に見られるという。輪廻転生のところ参照)。

仏教の世界観は、人の一生はであり永遠に続く輪廻の中で終わりなく苦しむことになる。その苦しみから抜け出すことが解脱であり、修行により解脱を目指すことが初期仏教の目的であった。初期仏教は、釈迦入滅から約100年くらいまでの、部派に分裂する前の仏教をいう。
仏教においては、私たち人間を含めたすべての生きもの(衆生は迷いの世界から解脱しない限り、無限に存在する前世と、生前の業、および臨終の心の状態などによって次の転生先、(部派では「畜生餓鬼地獄」の五道、大乗仏教ではこれに修羅を加えた六道の転生)先に生まれ変わるとされている。
では六道のどの世界に生まれ変わるかは、何によってきまるのか?
仏教では、生前での生き方、為してきたことの結果によって生まれ変わる世界が決まると説いている。それは「自分の為したことが返る」というカルマ(karman.。業)の法則に基づいている。日本においては 「因縁因果」という言葉で知られている。
そして、六道を輪廻する衆生の中で、人間として生まれるのは誠に得難い(有難い)ことであると考えられている。
それが、先に挙げた『法句經』の「人身を得ること難し」である。しかも、人間が住む世界(人間界)は、四苦八苦に悩まされる苦しみの大きい世界である。だが、苦しみが続くばかりではなく楽しみもある。また、唯一自力で仏教に出会える世界であり、解脱しになりうるという救いもある世界でもある。
折角、そんな、有難い人間世界に生まれてきたのだから、それを有難いことと感謝をし、私たちは色々なことに惑わされずに、釈迦の説いた正しい教えを素直に聞き,善導を歩み功徳を重ねることが善き境遇(善趣)に生まれ変わり、逆に、悪業を積めば苦しい境遇(悪趣)に生まれ変わるということになるのだろう。
ところで、釈迦の仏教では輪廻において主体となるべき、永遠不変のは想定しておらず、無我を知ることが悟りの道に含まれるようだ(以下参考の※8参照)。この点で、輪廻における主体として、永遠不滅の我(アートマン)を想定する他のインドの宗教と異なっているようだ。
無我でなければそもそも輪廻転生は成り立たないというのが、仏教の立場であり、仏教における輪廻とは、「心がどのように機能するか」を説明する概念であり、単なる死後を説く教えの一つではない。しかし、後代になり大乗仏教が成立すると、輪廻思想はより一層発展し、自らの意のままにならない六道輪廻の衆生と違い、自らの意思で転生先を支配できる縁覚声聞菩薩如来としての境遇を想定し、六道と併せて十界を立てるようになった。

3段目、と4段目についてであるが、「諸佛世に出ること難し」の諸仏とは、釈迦を含む7人の仏(過去七仏)のことであり、仏教で釈迦以前に存在したとされる6人の仏と、釈迦を含む7人の仏が共通して説いた教えを一つにまとめたとされている偈「七仏通誡偈」が『発句教』182番に続く183番だという。
(『発句教』183番)

諸の惡を作さず、善を奉行し、自心を淨む、是れ諸佛の教なり。

判り易く書くと、「すべて悪しきことをなさず、善きことを行い、自己の心を浄めること、これが諸の仏の教えである。」となるのだろう。
これに似たが「感興のことば」第28章「悪」にある。
それは「みずから悪をなすならば、つねに自分が汚れる。みずから悪をなさないならば自分が浄まる。」という言葉である。
これを参考にすると七仏通誡偈の意味は「すべて悪いことをしてはいけない。諸の善いことを行うことによって自己の心を浄めなさい。」
これが諸の仏の教え( 正しい教え)である、ということになるのだろう。
この「感興のことば」とは、サンスクリット経典として継承されている『ウダーナヴァルガ』(Udānavarga)のことで、ブッダが感興をおぼえた時,ふと口にした言葉集の意味で、『法句経』(ダンマパダ)と『自説経』(Ud?na)を足したもの。日本では、中村元訳(『ブッダの真理のことば・感興のことば』)がある(「ブッダの真理のことばがダンマパダ。「感興のことば」がウダーナヴァルガの翻訳である)。
この「感興のことば」は以下で聞ける。以下で、第28章 悪を聞いてみてください。

ブッダの感興の言葉 – YouTube

この七仏通誡偈の精神は善いことを行うことは自己の心(自我)を浄めるためである。 自己心浄化に重点が置かれている。
ブッダの説く教えは単に苦しみの消滅だけではなく清らかさと聖なるものを追求していることが分かる。
これは八正(聖)道のめざすものである(※7の第十四章 “佛陀の部”の一九〇、一九一参照)。
七仏通誡偈の言っていることは実行は難しいかも知れないが単純で分かりやすい。
このような単純明解さがブッダの原始仏教の特徴と言える。
『発句教』(ダンマパダ)第十一章老耄(ろうもう=おいぼれること。また、その人。老い)の部の一五三、一五四(※7参照)は、釈迦が悟りブッダとなった時の歓喜(よろこび)の偈だと伝えられているものである。
そこでは、「私は、苦しみの基盤である家(自分の肉体)の作り手を探し求めて、幾度も。生死を繰り返す輪廻の中を得るものもないままさまよい続けた。 何度も何度も繰り返される生は苦しみである。
だが家(自分の肉体)の作り手よ、お前は見たのだ。 もう二度と家を作るな。桷(すみき。ここでは煩悩を言っているようだ)は折れ、棟梁(ここでは無明を言っているようだ)は毀れてしまった。心(ここでは人間が持つ根本的な欲望「渇愛」をいっているようだ)を形成するはたらきは心から離れ、渇愛を滅ぼし尽した(解釈等は、※9のダンマパダ153、154 「家」を作る大工さん|釈尊(後編)参照)
釈迦は輪廻転生が生きているときの行いによって決まるのであり、死後は何をしようがもはや手遅れと考えていたようだ。釈迦の考えた仏教はあくまでも生きている人間のためのものであり、今仏事で行われているような葬式や法事も釈迦の考えた仏教とは無関係なもので 後に考えられたものである。
仏教(特に原始仏典)の云っていることは全ての現象無常、変化性のものである(諸行無常)という客観的真理を述べているだけで悲哀などの感情的情緒的なものは入っていないようだ。
人は有難いこの世に生を得た。「二度とない人生」・・・だからこそ、「ブッダが究明・実践した清浄(自我のまじらぬこと、執着のないこと)の行を体現して生活する必要」があるのだろう。つまり、「有意義な人生」を送る必要がある、ことに気づく。これは現代の科学的真理と一致する不変の真理であると、云えるかもしれない。ブッダは、「死後の生」を全否定し、そこから、ギリシャの哲学者・ソクラテスの提起した『人間いかに生きるべきか?!』(※10、※11参照)の回答を導き出したともいえる。

何か私の説明ではわかりにくかったかもしれない。『法句経』については、以下参考に記載の※12:「こころの時代」の以下のページで分かりやすく解説しているのでそこを見られるとよい。

101 聖典を読む 法句経
『法句経』に学ぶ②生命あるはありがたし

「こころの時代」?・・、何か聞いたことのある名前だと思ったら、最後のところに、「これはNHK教育テレビの「こころの時代」で 放映されたものである」…とあった。
こころの時代」は、NHK教育テレビ、並びにラジオ第1放送FM放送で同時間に同一内容を放送するサイマル放送による放送番組である。
NHK教育テレビでは1982(昭和57)年4月11日より、NHKラジオ第1放送では1990(平成2)年4月28日未明よりそれぞれ放送開始されている。ほぼ毎日放送されるようになるとテレビ版の再放送だけでは間に合わず、ラジオ版も製作されるようになり、1993年から現在の番組名に改題したもの。
この番組の原点は、1962(昭和37)年から1982(昭和57)年にかけて放送された『宗教の時間』という教育テレビの番組で、宗教の話題を中心に、人生の苦境を克服した人物、あるいは人生経験や各種研究の第一人者に対し、番組ディレクターや番組アンカーのアナウンサーがインタビュアーとなり番組が進行する。現在は「こころの時代」と改題し、宗教にとどまらない内容で放送中の長寿番組である(※13参照)。
同局HPに「どうにもならない壁にぶつかったとき、絶望の淵に立たされたとき… どう生きる道を見いだすのか。先人たちの知恵や体験に、じっくりと耳を傾ける番組です。』・・・とあるように、さすがNHKならではの、なかなかいい番組である。
参考※12の 「こころの時代」は、そのNHKの「こころの時代」で 放映されたバックナンバー的なもののようだ。
このNHKの「こころの時代」の放映で、使われていたテーマー音楽がまた良い。我が神戸市出身のピアノ奏者、作曲家。ウォン・ウィンツァン(※14参照)作のテーマ曲だが、特に題名はなく、「こころの時代」テーマ曲とされているようだ。冒頭の動画で聞けるので聞いてみるとよい。

参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:OKWave HP
http://www.okwave.co.jp/
※3:プラトン『国家』岩波文庫(下巻):第七巻~第九巻[B.C.375?]
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Resume%20On%20Plato%20Politeia.htm
※4:民主主義国家の末路 | 実存の部屋
http://blog.philosophia-style.com/65284191.html
※5:楽古文:枕草子
http://www.raku-kobun.com/makuranosoushi.html
※6:原文『枕草子』全巻
http://www.geocities.jp/rikwhi/nyumon/az/makuranosousi_zen.html
※7:荻原雲來訳註 法句經 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/001529/files/45958_30545.html
※8:マニカナ・ホームページ:エッセー
http://homepage1.nifty.com/manikana/essay/essay.idx.html
※9:瞑想してみる:説法めも【目次】
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2014/11/09/200000
※10:ソクラテスの生涯 - ギリシア哲学への招待状
http://philos.fc2web.com/socrates/soccar.html
※11:人はいかに生きるべきか
http://t3ikio.exblog.jp/13530704
※12:こころの時代
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-mokuji.htm
※13:こころの時代~宗教・人生~/宗教の時間 - NHK
http://www4.nhk.or.jp/kokoro/
※14:ウォン ウィンツァン Wong Wing Tsan ブログ
http://www.satowa-music.com/
禅と悟り
http://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/index.html
語源由来辞典:ありがとう
http://gogen-allguide.com/a/arigatou.html

イラクのバスラで世界最高気温58.8℃が記録されたといわれていた日

2015-07-08 | 歴史
1921年の今日。7月8日は、イラクバスラで58.8℃が観測されたとされていた日である。
日本でも近年夏の猛暑日には30℃を超え, 40℃にもなる地域があるようだが日本でバスラのような気温になったら、もう「今日は暑いね」を通り越して死んじゃう人も多いだろうね~。しかし、もしこのまま地球温暖化が進んだら、日本でどれくらいの最高気温を示すところが出てくるのだろう・・。

バスラ(アル=バスラ、al-Baṣrah)は、サウジアラビアイランに続き、世界で3番目の原油産出量(=埋蔵国、2010年実績※1参照)であるイラク南東のシャットゥルアラブ川の右岸にある同国第2の都市で、イラク国内で唯一、海(ペルシャ湾)に面する県であるバスラ県の県都である。
東にイラン、南にクウェートと国境を接している。石油パイプラインの終点で、石油製品や、メソポタミア南部で生産された穀物やナツメヤシなどの輸出港(港湾都市)でもある。
 
上掲はバスラの「地図での位置」画像画像クリックでYahoo!検索画像ページへ。

古代には、人類最初の王権が成立した都市とされているエリドゥがあった。
バスラは、現在のイラク南部に、第2代正統カリフウマル1世(ウマル・イブン・アル=ハッターブ)が、638年に派遣したウトバ・イブン=ガズワーンによって、イスラム史上最初の軍営都市(ミスル)として建設された.もので、もともとの市街はシャトル・アラブ川から離れた場所にあり、現在ズバイルと呼ばれている町の位置であったようだ。
旧バスラは、当初はイラン(サーサーン朝領)征服・統治の拠点として活用され、まず政治都市として発展したが、運河と川を通じてペルシャ湾に接続され、ペルシャ岸最大の貿易港として、ムスリム商人のインド洋交易圏に進出する際の拠点の一つとして栄えた、また、肥沃なチグリスユーフラテス川下流域で生産された穀物の集積地として繁栄をきわめた.。
アッバース朝イスラム帝国という呼称は特にこの王朝を指すことが多いそうだ)時代には人口が30万人を超え、『千夜一夜物語』(アラビアンナイト)の「シンドバットの冒険」の舞台ともなり、ダウ船が行き来していたところである。
しかし、839年にイラク南部で興ったザンジュの乱モンゴル帝国チンギス・カン)の侵入による被害から衰え、13世紀にアッバース朝が滅亡した後16 世紀にはサファヴィー朝の領土となり、さらにオスマン帝国領となった。オスマン帝国の統治下にあった時は、この地域はバスラ州(Basra Vilayet)と呼ばれており現在のイラク南部とともにクウェートの一帯をも管轄していた(※1、※2参照)。
そして、第一次世界大戦(1914年~1918年)でイギリスに占領されて補給基地として整備され、原油積出港として栄えた。
イラク独立後は南部における最重要拠点となり、隣国イランとの国境をめぐってのイラン・イラク戦争(1980年9月~1988年8月)や湾岸戦争(1991年1月17日.。イラク・クウェート戦争とも呼ばれる))では爆撃を受けた。
イラン・イラク戦争は、国連安保理事会の決議を受け入れる形で停戦をしたが、この両国の石油輸出にとっての要所であるシャトル・アラブ川の使用権をめぐる対立から生じた紛争は、戦争以前にも長年の間、衝突の原因だった。
湾岸戦争は、先にも述べたイラク建国の歴史を口実に、1990年サッダーム・フセイン元大統領が、ブルガン油田ルマイラ油田を擁するクウェートを併合したが、翌1991年のアメリカを中心とした多国籍軍による空中戦及び地上戦によってなす術もなく敗北、クウェートを手放して停戦していた。
その後、2003年には、アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領の「イラク国内に大量破壊兵器が存在する」という発言がもとで、米国を中心とする有志連合によって、イラク武装解除問題の進展義務違反を理由とする『イラクの自由作戦』の名の下にイラク戦争が起こされた。このイラク攻撃にはフランス、ドイツ、ロシア、中国などが強硬に反対を表明する中、アメリカが強引にこれを主張して攻撃したものであるが結果的に大量破壊兵器は発見されなかった.。強引に攻撃しようとするアメリカ、反対していた国にもそれぞれの思惑がらみの戦争であったが、いずれにしても、フセイン政権との関係やイラクの石油利権に絡んでいるとする見方が多い。イラク戦争の経緯や結果はイラク戦争を参照)
戦後は2003年5月から米英の暫定占領当局(CPA)が統治し、同年7月イラク人によるイラク統治評議会が発足、翌2004年6月末イラクに主権が移譲された。治安は相変わらず悪く、当初多国籍軍や外国・国際機関などの民間人が人質やテロの標的となっていたが、治安維持の主体がイラク政府になるにつれて、スンニ派シーア派の対立が激化し、内戦を指摘する者もいる。
そして、2008年には、新政権下組織された新イラク軍とマフディー軍との間で戦闘が行われた。
これらの戦争で製油所やパイプラインなど、イラクの石油関連施設は、大変大きなダメージを受け、製油所だけでなく、輸出には欠かせない港湾設備も破壊された。シャット・アル・アラブ川やバスラの港には、今も湾岸戦争時代に沈められた船の残骸があり、航行の妨げになっているという。潜在的にはうなるほどのオイルダラーを手に入れられるはずのイラクは今、産油国としてのメリットを享受できないまま、経済的に瀕しているが、石油エネルギーをこの地域に依存している日本にとっては重要な地域でもある(※3参照)。
また、今、イラクはイスラム過激派組織イスラム国」にも脅かされているが、その「イスラム国生みの親は、前ブッシュ大統領ではないか・・」とアメリカで、共和党の大統領候補ジェブ・ブッシュ元フロリダ州知事と、兄でイラク戦争を主導したジョージ・W・ブッシュ前大統領が批判にさらされているようだ(※4参照)。

バスラはバグダードから545キロの位置にあり、都市内には、運河が整備されており、1970年代頃までは中東のベニスとも呼ばれていたようである。運河を取り入れた街並みは西洋と異なり、また東洋とも趣が異なる異国情緒溢れる港湾都市で、クェートやサウジなどの周辺国から観光客が沢山押し寄せてきたようである(※5参照)が、イランとの戦争や最近の湾岸戦争などの戦乱で街は荒廃し、イスラム国にも脅かされている状況下では、観光も難しいだろうね。
サッダーム・フセインはイラク戦争後米軍に逮捕され処刑されてしまった。何かと野蛮に見えたサダムだが、イラク戦争そして進行中の中東地域の混乱を見れば物事は単純じゃ~ない。あのような民族的、宗教的、歴史的にも複雑な地域て、ハネ上がり者もフセインのような独裁者の前ではネコのように大人しくしていたようで、何とか国も収まっていたようだが、今では、収支の付かない状況になっている。うまくゆかないものだ。

シャットゥルアラブ川に沿いに位置するイラク最大の都市バスラは砂漠気候だが海に近い分だけ冬季は内陸より降雨がある。通常でも6-8月は最高気温が38℃以上あるが、12-2月は21℃以下になるそうだ。降水量は5-10月がほぼゼロ、11-4月は月間30mm前後だそうである。以下で、平均気温と、現時点の10日間の天気予報が見られる。

Basraの気候

バスラの天気予報 - 世界各地の10日間の天気予報

気温とは気象を構成する要素の1つで、通常は地上の大気空気)の温度のことを指す。
気温は温度計により測定するが、構造や測定値の特性が異なるいくつかの種類の温度計が存在するため、測定値を利用する際に留意する必要がある。地上の気温の測定方法は世界気象機関(WMO)は、地上から1.25〜2.0mの高さの間を推奨しており、温度計を直接外気に当てないようにして測定することと定められている。なお日本では、気象庁(※6)が測定高さを1.5mと定めており、ふつう、上記の測定方法を満たすため、温度計や同じような測定環境が求められる湿度計は、ファン付きの通風筒や百葉箱に入れられるようだ。(気象庁『気象観測の手引き (PDF) 』平成10年(1998年)9月の版参照)。気温は日変化、年変化をし、その変化は日射量の変化と密接な関係にある(→気温の日較差、気温の年較差日射量)。

世界最高気温の記録は、NOAANASAなどの記録によれば「リビア/アジージーヤの58.0°C (1922年9月13日)」とされていたが、2012年にWMO(世界気象機関)はアジージーヤの記録が観測ミスによる誤りで、実際は「アメリカ合衆国・カリフォルニア州デスヴァレー(Death Valley)の56.7°C (1913年7月10日)」であったと発表されているそうだ。
一方、日本の気象庁の記録では長らく「イラク・バスラの58.8°C (1921年7月8日)」とされてきたようだが、この記録は、2013(平成25)年に気象庁気象研究所の藤部文昭が「イギリスの気象学会誌で1922年に報告された『セ氏(摂氏)53.8°C、カ氏(華氏)128.9°Fが1934年に日本で出版された『気象学』(改稿版)に誤記載され、その後広まった可能性が高いことが分かった。また、この最高気温を記録した日付も同学会誌のグラフでは7月15日と17日であった(8日は最低気温が最も高かった日)」とする調査結果を発表しているという(※7:「日本気象学会:機関誌「天気」記事年度別検索」の2013年N02「気温の世界最高記録とされる「バスラの58.8℃」について」参照)。
実際、欧米にはバスラの58.8℃ を世界記録として記載した文献は見当たらず、これを報じているのは日本の文献と日本の文献を基にしたと思われる中国や韓国のサイトくらいのものだった様である。そして、バスラの実際の観測値としては、Clemence (1922年) が1921年夏の中東の猛暑に関する報告の中で 7月にバスラで128.9°F (53.8℃ )が観測されたことを記述しているものが正しいようだが、当時バグダッドに住んでいたClemence (1922) は, その観測所の百葉箱が日干し煉瓦の屋根に置かれているのを見て、最高気温の観測値が真の外気温より高い可能性を指摘しており、バスラの128.9’F (53.8℃ ) という値にも、もしかすると同様の問題があるかも知れないという。このこととの関係は分からないが、近年の資料の中には上記の値より低い52.0℃ (2010年6 月) をバスラの(かつイラク全体の) 歴代最高記録としているものがある.・・・とも言っているのだが・・・。
それでは今わかっている範囲の世界最高気温がどうなっているのか・・・。上位5位までを見ると以下のようになっている。

1位 56.7℃:アメリカカリフォルニア州/デスバレー(Death Valley)。1913年7月10日観測。
気候・地勢:デスバレーは、カリフォルニア州中部、同州とネヴァダ州の境界に沿って伸びている.。モハーヴェ砂漠の北に位置する深く乾燥した盆地で、デスヴァレー国立公園の中核をなしている。

2位、55℃ :アフリカ・チュニジア共和国ケビリ(Kebili)。1931年7月7日観測。
気候・地勢:チュニジアの南西に位置し、アルジェリアと国境を接している。冬(夜は非常に寒い)と夏(高温)は暮らしにくい。この地域を訪れるのに適した時期は、春と秋の終わりごろ。ケビリ県は、シェリド湖(塩湖)として知られているチュニジアで一番大きな塩田の大部分を占めている。

3位、53,6C:中東・西アジアのクエート/スライビヤ(Sulaibiya)。2012年7月31日観測。
気候・地勢:スライビヤについてはよく判らないが、クエートは、北と西にイラク、南にサウジアラビア、東にペルシャ湾がある.。1961年にイギリス支配からの独立をし、現在世界第二位の油田であるブルガン油田は1946年より生産を開始しており、これ以降は石油産業が主要な産業となっている。

4位:53,4C:パキスタン南東部シンド州/ラルカナ( Larkana)。2010年5月26日観測。
気候・地勢:モンスーン地域であるが砂漠気候で雨量はごく少ない。冬は比較的温暖で夏は非常に暑い。東側にはタール砂漠があり、西側にはキルタル山脈があってバローチスターン高原に続く。その間のインダス川近くは平野になっている。南部にはインドのグジャラート州にまたがるカッチ湿地(カッチ大湿地およびカッチ小湿地)が広がる。

5位、52.0 °C:メキシコ ソノラ州 (Estado de Sonora)。1966年7月6日観測。
気候・地勢:メキシコ北西部に位置する州。東はチワワ州に接し、南はシナロア州、北西はバハ・カリフォルニア州,に接する。北はアメリカ合衆国のアリゾナ州に接し、西はカリフォルニア湾に面する。州の大半をソノラ砂漠が占める。5月が1年でもっとも乾燥する季節となり、真昼の気温は通常でも40℃に達するという。

さて、以上が世界最高温度上位5位までだが、もし、イラクのバスラの最高気温が58.8°Cでなくても、53.8℃いやそれより低い52.0℃(2010年6月観測)であったのなら、当然、この中に入ってるはずだが含まれていないのは、その観測方法やデーターそのものに疑問があるからなのだろう。
最高気温50,0C以上のところは、このほかに、アフリカ北西部アルジェリア(民主人民共和国)/タマンラセット県(Tamanrasset)で2002年7月12日に観測された50.6 °C、中東・西アジアカタール/ドーハ(Doha)の 2010年7月22日観察の50.4 °C、中国/アイディン湖(Ayding Lake)で2011年7月14日に観測された50.2 °C、南アフリカ共和国/東ケープ州(Eastern Cape)で1918年に観測された50.0 °が見られるが、40,0C以上は多くみられる(詳細は「:en:List of weather records」)を参照。

温暖化の影響で、近年、日本でも真夏日は40度に達するところも出て来ている。

気象庁の歴代全国ランキング(※6のここ参照)を見ると、日本の過去の最高気温の順位は以下のようになっている。

1位は、2013年8月12日に観測された高知県、江川崎 41.0°Cである。
高知県四万十市北部にある江川崎地域では、2013年8月10日、摂氏40.7°Cを記録、翌11日には40.4°C。更に12日には、日本最高記録である41.0°Cを記録し、13日にも40.0°Cを観測し、日本初の4日連続最高気温40°C以上を記録したという。その後も8月23日までの18日間、猛暑日が継続したそうだ。
2位は、2007年8月16日に観測された埼玉県 熊谷市 の40.9°C。
埼玉県北部の熊谷市は、夏場の高温・猛暑に関する多くの最高記録が観測されている。この日の記録は、同日14時20分に記録した岐阜県多治見市(3位)と並び、1933年7月25日に山形県山形市で観測された40.8°C(4位)を上回り、2013年8月12日高知県四万十市江川崎で41.0°Cが観測されるまで日本観測史上の最高気温となっていた。
2011年6月24日には、6月の最高気温39.8°Cを記録し、1991年6月に静岡市で観測された38.3℃を20年ぶりに更新。2000年9月2日には全国の9月最高気温では歴代最高である最高気温39.7°Cを観測している。他にも2010年に年間猛暑日日数が群馬県館林市(2007年8月15日には40.2°C、翌16日に40.3°Cを記録。この温度は上位10位である)と共に国内最多の41日で全国一位となった(2010年 猛暑日日数ランキング)。2012年にも群馬県館林市と同数の32日で全国一位を記録した(2012年 猛暑日日数ランキング)。
このように、熊谷が高温となるのは、海風に乗り北上してくる東京都心のヒートアイランド現象により暖められた熱風と、フェーン現象によって暖められた秩父山地からの熱風が、一般的に日中の最高気温となる午後2時過ぎに同市の上空付近で交差するためだと考えられており、「熱風の交差点」と呼ばれることもあるそうだ。
上位3位は、先にも挙げた、岐阜県多治見市の2007年8月16日観測の40.9°Cであるが、 盆地に位置するため、夏・冬で気温差が激しく、特に夏は最高気温の平年値が日本のアメダス観測地点の中で一番高いらしい。また、盆地の狭い範囲に住宅が密集していること、北からのフェーン現象による熱風、冷たい海風が入りにくいこと、緑地や水辺が少ないことという複合的な要因が交差して起こったものとの仮説(筑波大学計算科学研究センター講師である日下博幸の研究チーム)もある。但し、盆地であるため、熱帯夜となる日は少ないそうだ。
上位4位の1933年7月25日に40.8°Cを記録した山形市も盆地の中に位置するため、盆地特有の内陸型気候で寒暖の差が激しく、夏は暑く冬は寒い。夏は東北の中でも暑さが厳しく、35℃を超える猛暑日となることも珍しくないようだ。
上位5位は、2013年8月10日に記録した山梨県甲府市の40.7°Cである。やはり盆地の中に位置しており、夏季には日本有数の酷暑となり、たびたび猛暑日に見舞われる。
その他「観測史上の順位」表には、399°C以上が19か所観測されている。

上記山梨県の記載の中で、夏季には日本有数の「酷暑」となり、たびたび「猛暑日」に見舞われると書いた。酷暑=酷い暑さも、猛暑=猛烈な暑さも同じような意味ではあるが、気象庁の予報用語=解説用語には、「酷暑」はあるが、「猛暑」という表現はなく、「猛暑日」はあるが、「酷暑日」はない。しかし、これ以下、「酷暑」もあえて「猛暑」として書いている。
猛暑」(もうしょ)とは平常の気温と比べて著しく暑いときのことである。主に夏の天候について用いられる。世界気象機関が推奨する定義は「最高気温の平年値を、連続5日間以上、5℃以上上回ること」としているが、各国はそれぞれの気候傾向によって様々な定義で運用しており、日本国内においては2007年以降、1日の最高気温が35℃以上の日のことを「猛暑日」と言っている。
一般に夏季において背の高い(上空の高い所から地表まで鉛直に長い構造)の高気圧に覆われて全層に渡って風が弱く、周囲の比較的冷たい空気(寒気)や湿気の流入が弱く快晴状態の場合や、南(南半球の場合は北)から継続的に暖気(あたたかい空気)が入った時に起こりやすい。内陸の盆地や山間部では周囲の山岳により外部の大気との混合が妨げられ、熱い空気がその場にとどまりやすい(熱気湖)ことや、どの方向から風が吹いても、フェーン現象(風炎現象)が起こりやすいので、他の地域よりも暑くなりやすい。主な観測地点は山形県山形市、山梨県甲府市、京都市、大分県日田市などがある。
フェーン現象が発生すると、山脈の風下部では山から吹き降りてきた乾燥した高温の風によって盛夏でなくても猛暑となりやすい。主な観測地点は東日本や東北の日本海側、夏季の関東平野(特に北部)などがある。
一方、西日本には2000m以上の山が存在しない(西日本最高峰は愛媛県の石鎚山で1982m、中国地方では鳥取県の大山で1729m、九州本土では大分県の九重山中岳で1791m)のため、水分の放出が充分に行われず吹き下ろしの風に水分が含まれているので、気化熱が昇温を緩和するので、フェーン現象による気温の上昇は東日本ほど激しくないらしい。
又近年ラニーニャダイポールモード現象エルニーニョもどきが発生している夏は猛暑になりやすいといわれているが、夏の期間にこれらの現象が起こっていなかったにも拘らず猛暑になっている年もある。
1994 年~2013年の20年間のうち猛暑年は18年に達し(2003年と2009年を除く全ての年が当てはまる)、猛暑が恒常化している。これに関しては地球温暖化も影響していると考えられるが、それだけが全ての原因とは考えにくく、他にも猛暑になりやすい要因がいろいろと重なっているようだ。
今年の5月は、異常な暑さが続いたが気象庁の予報では、全国的には、ほぼ「平年並みの暑さ」だという。ただ、「集中豪雨による大災害が起こりやすい」という予想もされていたので、注意が必要だね。
最近中東ではイスラム過激派によるテロが相次いでいることから、世界一の最高気温を記録したと言われていたイラクのバスラに絡めて、イラクのことを少しダラダラ書きすぎて、肝心の猛暑については尻切れトンボになってしまった。申し訳ないm(_ _)m。

参考:
※1:バスラ - 世界史の窓
http://www.y-history.net/appendix/wh0501-025_0_1.html
※2:イスラーム帝国の成立
http://manapedia.jp/list?subject_subcategory_id=318
※3:石油産業 - 最大の産業「石油」ビジネスを復興する | 池上彰と歩く日本画できイラク復興」
http://special.nikkeibp.co.jp/as/iraq/vol3/
※4:ダーイシュ(イスラム国)の"生みの親"は、ブッシュ前大統領なのか?
http://www.huffingtonpost.jp/2015/05/21/jeb-bush-isis_n_7418502.html
※5:西方見聞録 6 バスラの街 ~ 建物と街並
http://www.pcfactor.org/travel_book_6_basrah_town3.html
※6:気象庁(国土交通省)
http://www.jma.go.jp/jma/index.html
※7:日本気象学会:機関誌「天気」記事年度別検索
http://www.metsoc.jp/tenki/index_tenki.php
世界一のところに住んでいる人たち
http://www.festivalgoma.com/
気温 -Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%97%E6%B8%A9
世界一の一覧とは - Weblio辞書
http://www.weblio.jp/content/%E4%B8%96%E7%95%8C%E4%B8%80%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7




国民安全の日

2015-07-01 | 行事
無病息災を祈る「夏越の祓」の翌日が7月1日。
日本の民間行事としての大祓の一つである。
もっとも、「夏越の祓」は夏越節供,水無月(みなづき)祓とも呼ばれ、旧暦6月晦日(みそか)をいい、この日は一年の前半の最後の日、一年の折り返しとなる日であり、「なごし」という言葉は神意を和らげる、「和す(なごす)」が由来だと考えられており、大晦日の「年越の祓」とともに新しい季節に入る物忌(ものいみ)の日とされていた。『拾遺和歌集』に「題しらず」「よみ人知らず」として、「水無月のなごしの祓する人はちとせの命のぶというふなり」という歌にも見える。
夏に挙行される意味として、衣服を毎日洗濯する習慣や自由に使える水が少なかった時代、半年に一度、雑菌の繁殖し易い夏を前に新しい物に替える事で、残りの半年を疫病を予防して健康に過ごすようにする意味があったのではと考えられている。またこの時期は多くの地域で梅雨の時期にあたり、祭礼が終わると梅雨明けから猛暑と旱(ひでり)を迎えることになるが、この過酷な時期を乗り越えるための戒めでもあった。
6月の晦日は、大阪市住吉大社の夏越祭(※1参照)が有名で、今は7月31日に行われている。「夏越の祓」のことは以前このブログでも書いたのでここを見てください。

前口上が長くなったが、旧暦ではなく新暦の7月1日は「国民安全の日」である。
産業災害(労働災害)、交通事故火災等に対する国民の安全意識の高揚等の国民運動展開のために、1960(昭和35)年5月の閣議で制定され、総理府(現在の内閣府)が実施している(※2参照)。実施日は毎年7月1日。これは産業災害防止対策審議会(1959年(昭和34年)設置 - 1967年(昭和42年)廃止)の答申が概ね毎年7月1日となる ことから設定された模様(※3参照)。
制定の趣旨は、国民の一人一人がその生活のあらゆる面において、施設や行動の安全について反省を加え、その安全確保に留意し、これを習慣化する気運を高め、産業災害、交通事故、火災等国民の日常生活の安全をおびやかす災害の発生の防止をはかるために創設されたものである。
内閣府では、産業安全、交通安全、火災予防、学校安全等の安全運動の総合的見地から一段と推進し、国民の安全に関する認識の向上と各種安全運動の連けいの強化をはかるものとして、次に掲げる事項を実施するものとしている。
1) 関係行政機関及び関係団体においては、相互に連絡協調し、職域、学校、家庭及び地域社会を中心に、その環境に即した安全思想の普及徹底に有効な広報活動を行うこと。
2) 安全思想の普及徹底、安全水準の向上に顕著な功績のあった個人又は団体を内閣総理大臣又は関係各大臣が表彰すること。
3) 国民のすべてが安全な生活環境の醸成のため、生活環境の自主的な安全点検その他「国民安全の日」にふさわしい活動をするよう勧奨すること。
なお、地方公共団体においても、「国民安全の日」の趣旨にかんがみて、適切な措置が行われるようその協力を求めるものとする。

さて創設など過去の歴史を探ってみよう。
日本が今日直面している産業安全問題は、18世紀半ばから19世紀にかけて英国で始まった産業革命によってもたらされた。
当時の産業活動に伴う危険に対峙したのは、綿紡績(綿糸紡績,綿紡ともいう)工場で機械を操作する女工や機械のエネルギー源である石炭・鉄鋼石を採掘する鉱山での坑夫たちであった。つまり、工場や鉱山などの産業革命を担う生産現場での危険源に直接係わった人々が災害の対象であり、今日でも続いている労働災害の皮切りとなったものである。その後、産業の拡大とともに大規模爆発災害や水質汚濁,大気汚染など、産業活動に付随する影響がたんに工場などの生産現場内に留まらず、工場外での住民や環境にも影響を及ぼすいわゆる「公害」が出現し、その対応に追われてきたところであるが、今日では、地球温暖化による地球規模での環境問題や各種の環境ホルモン(内分泌攪乱物質)による次々世代の生物への影響問題などが出現し、産業活動に伴う影響は空間的拡大と時間的深化をみせている。
我が国で本格的な産業革命(日本の産業革命)が導入されたのは、明治開国(明治2年=1869年)後に富国強兵殖産興業が国家政策として採用されて以降のことであるが、欧米に比べ100 年近く遅れて始まったこの日本の産業革命は、産業部門ごとの発展が不均等であり、部門の間のつながりも不十分であった。
農業部門では大規模農場へ発展するものがまったくなく、商品貨幣経済に巻き込まれて競争に敗れ土地を失った農民たちは、高い現物小作料を払って地主から土地を借り、小規模生産を続けた。小作農家の生活は苦しかったため、娘たちの多くは繊維工場へ出かけて安い賃金で働かなければならなかった。小作農からさらに転落した者は、近くの都市などで仕事にありつけない限り、炭鉱や金属鉱山へ流れ込んで地底での重労働に従事した。
産業革命が終了したころの資本主義的生産の状態は、繊維工業と鉱山業に500人以上の大規模作業場が数多くみられ、賃金労働者(職工・鉱夫)も両分野に集中していた(表1)。
日本産業革命を代表する繊維工業部門は綿糸紡績業であった。渋沢栄一らが設立した大阪紡績(後の東洋紡績の前身。現:東洋紡)が、最新式の輸入機械と安い輸入綿花(綿の種子についた実綿 [みわた],または,それから生産された繊維 [ リント])を使い、女工を昼夜二交替で働かせて高利益をあげたのに刺激されて、1880年代後半に大阪、東京、名古屋などの大都市商人が出資する大規模紡績が続々と設立された。
1897(明治30)年に国産の機械制綿糸の輸出量が輸入量を上回り、輸入インド綿糸を国内市場から駆逐しただけではなく、中国・朝鮮へと輸出され、1913(大正2)年には中国市場においてインド糸輸入量を超えるまでになる。しかし、昼夜二交替制労働は女工の体重を減少させ結核患者を多発させたため、1911(明治44)年制定の工場法(施行は、1916年)において、女工の夜業禁止が定められた(ただし同法施行から15年間の適用猶予付き)。
また、養蚕農家がつくったを原料として生糸()を製造する製糸業は、最大の輸出産業として多額の外貨を稼いだ。昨・2014(平成26)年世界遺産に登録された富岡製糸場のフランス式鉄製繰糸機(※4参照)などをモデルに軽便かつ安価な木製繰糸機がつくられ、1870年代後半から長野・山梨・岐阜などの農村にたくさんの器械製糸場が設立された。
製糸家は輸出港横浜の生糸売込問屋や地方銀行から借金して原料繭を仕入れ、出稼ぎ女工を長時間働かせて生糸を生産した。女工の賃金は、工場内の全女工の賃金総額を固定したまま彼女らの繰糸成績によって分配されるという等級賃金制であったため、女工は長時間にわたって緊張した仕事を続けねばならず、しかも能率上昇の成果は全体として製糸家のものとなったようだ。製糸業の中心地長野県諏訪では、製糸家が同盟して女工の登録制度をつくり工場間の移動を禁止したので、彼女らは厳しい労働条件を耐えなければならなかった。
一方鉱山業の石炭と銅は当時の重要な輸出品であった。1890年代から諸鉱山の主要坑道に巻揚機械が導入されたが、切羽(きりは)での採掘と主要坑道までの運搬は手労働であり、地底での労働はたいへん厳しかった。筑豊の炭鉱では夫婦が仕事の単位となり、夫が狭い切羽で掘り出した石炭を妻が竹籠に入れて炭車まで引きずってゆく姿がみられた(労働基準法 第64条の2の女子坑内労働禁止は1933年)ようだ。こうした危険な重労働に従事する労働者を集め、彼らの生活を会社にかわって管理したのが、納屋頭(なやがしら。納屋制度参照)とか飯場頭(はんばがしら。飯場制度参照)とよばれる人々である。金属鉱山では鉱毒水や亜硫酸ガス(二酸化硫黄)による鉱害がかならずといってよいほど発生し、周辺住民との間にトラブルを生んだ。
鉱夫の酷使に支えられ、周辺住民へ鉱害を及ぼしながら、鉱山経営は大きな利益をもたらしたため、三井三菱住友古河(ふるかわ)などの大財閥の最大の蓄積基盤となった。
このように、明治初期に産業の近代化を担った繊維産業や石炭・鉄鋼石などを採掘する鉱業は、やがて日清 (1904年=明治37年2月8日 - 1905年=明治38年9月5日)・日露戦争(1904年=明治37年2月8日 - 1905年=明治38年9月5日)を経て重工業化が進むが、急速な近代化の下で、産業安全運動が展開されるまでにはかなりの時間を要した。
細井和喜蔵著『女工哀史』(※5参照)は、当時の紡績工場で働く女性労働者の生活を克明に記録したルポルタージュであり、自身の機械工としての経験と、妻としをの紡績工場での労働経験をもとに書かれたものである。また、『虞美人草』についで夏目漱石が職業作家として書いた二作目の作品(長編小説)『坑夫』(※6:「青空文庫」参照)があるが、これは、ある日突然、漱石のもとにあらわれた一人の青年(工夫)の悲惨な経験を素材とした、やはりルポルタージュ的な作品である。当時の女工や工夫の過酷な労働環境を窺い知ることができる。

我が国で産業安全運動が導入されたのは,明治末に古河鉱業会社(現:古河機械金属)足尾鉱業所、通称足尾銅山(現:栃木県日光市)と呼ばれる事業所で展開された「安全専一」運動が始まりだそうである。
足尾銅山は、当時の明治政府の>富国強兵政策を背景に20世紀初頭には日本の銅産出量の40%ほどの生産を上げる大銅山に成長した。しかしこの鉱山開発と製錬事業の発展は、足尾山地の樹木が、坑木・燃料のために伐採され、掘り出した鉱石を製錬工場から排出される大気汚染による環境汚染を引き起こした。荒廃した山地を水源とする渡良瀬川は洪水を頻発し、製錬による廃棄物を流し、足尾山地を流れくだった流域の平地に流れ込み、水質・土壌汚染をもたらし、広範囲な環境汚染を引き起こした。いわゆる、足尾鉱毒事件である。田中正造による国会(帝国議会)での発言で大きな政治問題となったのはよく知られている。1890年代より鉱毒予防工事や渡良瀬川の改修工事は行われたものの、鉱害よりも銅の生産を優先し、技術的に未熟なこともあって、鉱毒被害は収まらなかった。

●上掲は1895年頃の足尾鉱山

そんな足尾鉱毒事件が問題になったころ、「安全専一」運動を導入するに当たって指導的な役割を果たしたのが、当時足尾銅山所長であった小田川全之(おだがわ・まさゆき。)であったという。
小田川は、1883(明治16)年工部大学校土木工学科(現東京大学工学部)を卒業後、群馬県,東京府の土木工事や民間鉄道工事等に従事したのち、1890(明治23)年に古河家に入っている。当時の古河家は後年古賀財閥を創設する古河市兵衛が、東京に古河本店を開設し、渋沢栄一らの資金援助で、足尾銅山を中心とする多くの鉱山経営に取り組んでいた。
小田川が古河家に入社した1890(明治23)年は、先に書いた栃木県の名主の家に生まれたという田中正造(当時栃木県会議長)が、第1回衆議院議員総選挙に栃木3区から出馬し、初当選した年であり、この年には栃木県の渡良瀬川で大洪水を起しし同家の主力鉱山である、足尾銅山から流れ出した鉱毒によって稲が立ち枯れる現象が流域各地で確認され騒ぎとなっていた年である。
そして、田中は、翌・1891(明治24)年には、鉱毒の害を視察し、第2回衆議院議会で鉱毒問題に関する質問を行っている。その後彼は、10年間、帝国議会に質問書を出し続けるが明治政府はこれを無視し続けた。
そのような中、古河家に入社した小田川は、足尾銅山での土木工事や鉱毒対策に取り組む。鉱毒対策では最新技術の導入を図るとともに,1897(明治30)年には農商務省から同銅山への第三回鉱毒予防工事命令に対して、180 日間の期限内に排水濾過池・沈殿池や採鉱堆積場の築造、煙突への脱硫(有害作用を持つ硫黄分を除去する)装置の設置等の難工事を成し遂げ、鉱毒の河川流入や拡散防止対策の中心的役割を担ったという。いわば、現在では常識的で、創業前には当然完備させている公害防止設備を足尾銅山では、小田川によって初めてなされたということである。
翌1898(明治31)年、その功績が認められ、銅鉱山の工作課長に就任。1903(明治36)年には古河本店理事に就任。
そして、翌1904(明治37)年には古河家3代目当主となる寅之助のアメリカ留学に随行し、1907(明治40) 年まで米国に滞在し、その間に、採鉱・精錬技術の調査を進め、これら最新技術とともに持ち帰ったのが当時米国で「Safety First」と呼ばれ広がりをみせていた安全の理念とその実践思想であった。
「Safety First」とは、米国最大の鉄鋼会社であったUS スティール社が1906(明治39)年にゲーリ工場を建設し操業を開始する際に「安全第一、品質第二、生産第三」をスローガンとして掲げ、工場設計,建設施工、設備搬入、レイアウト、据え付け・運転に至るまでの過程を安全第一主義の下に実施したところ、災害が激減するとともに生産効率も大幅に改善されたことが評判となり多方面に影響を与えた実践運動であった。
小田川は1911(明治44) 年に足尾銅山所長を兼務し、翌年から「Safety First」を「安全専一」と翻訳し、同文の琺瑯(ほうろう)製の標識を坑内作業所に掲げ、1913(大正2)年から同事業所所内報である『鑛夫之友』を刊行し,同誌に作業安全を喚起するための講話を掲載するとともに、1915(大正4) 年には安全心得読本を作成し作業員全員に持たせるなど、文字通り事業場での安全確保のための先駆的活動を展開したという。
ただ、「安全専一」活動は、鉱山の外部に普及したり、この運動に社会運動として取り組んだわけではなく、足尾銅山内に限定されたものであったが、”産業安全”という普遍的な価値を実現するための先駆けとなった運動ではあった。
足尾銅山は、日本の公害問題の原点と呼ばれ、産業近代化技術によってもたらされた負の遺産の象徴的な場所となっているが、同時に産業安全運動の出発点ともなった地でもあったようだ(※8参照)。

小田川によって掲げられた産業安全運動の灯火は大正時代に入り次の世代に引き継がれた。産業安全運動に関する次世代の代表格の一人が蒲生俊文(がもう・としぶみ。1883=明治16年生まれ)であった。
蒲生は、二高、東京帝国大学で学んだのち東京電気(現:東芝前身)の工場内に我が国で初めての事業所内安全委員会を組織し活動を展開するとともに「Safety First」を安全第一と訳し、広く同思想の啓蒙普及を図るために、逓信官僚の内田嘉吉らとともに「安全第一協会」を1917(大正6)年に設立(内田を会長、蒲生を理事として)。同協会の事業として、機関誌「安全第一」を通して広範な安全情報を提供するかたわら、2年後の1919(大正8)年には当時の、東京市で開催された安全週間の輪が年々広がり、1927(昭和2)年10月2日から一週間1道3府21県連合工場安全週間が開催されるようになった(※10参照)。
この連合安全週間は、この種の運動を広域的実施しようとする機運を盛り上げ11月には九州一円と山口県の連合安全デー、福島鉱山監督局管内での鉱山安全デー、12月には、海軍所属の全鉱山、専売局所属の全事業所での安全週間などが開催された。そして、翌年には、全国的に足並みを揃え実施されることになり。ここに、全国統一の「全国安全週間」が昭和3年10月2日~7日(昭和6年の第4回からは7月1日から7日)の間「一致協力して、けがや病気を追い拂ひませう」の標語(労働衛生を含めた運動であった様である)のもとに繰り広げられ、今日に至っているようだ。その際、産業安全のシンボルマーク・緑十字を定めるなど、産業安全運動を、足尾銅山の小田川のように、たんに事業所内での活動に留めず社会運動へと発展させた功績は大きい。


●上掲画像説明:1919(大正8)年、6月15日から1週間、東京市で初の「安全週間」が催され、運動本部や警視庁などが災害予防を呼びかけた。1928(昭和3)年からは、「全国安全週間」となり、全国的な活動になった。上段の写真は安全徽章の製作に追われる運動本部の夫人たち。下段は当時の安全週間のマーク。写真は雑誌『歴史写真』からのもの。画像は『朝日クロニクル週刊20世紀』1918-19年号23P掲載写真を借用した。

それまでの事業所における安全問題では、工場で災害が発生した場合など、被災者が一方的に解雇されたり、見舞金による示談で済まされたりするなど、事業所での安全責任は事業者と労働者との片務的な私的関係によって処理されていた。「安全第一協会」による活動の意義は、そのような状況下にあった安全責任の枠組みを、同協会の安全第一思想に基づく運動を通して、事業所での安全対策の必要性や災害補償制度の有用性を社会的に認知させることによって工場法により法制化された労働災害に対する予防措置や災害補償を、事業者責任(※9参照)として履行させることを促進したことにあるという。すなわち,生産活動に伴う安全の確保が国家・社会的管理の枠組みの下に取り組まれるための産業界の基盤整備を行った訳であるというのだが・・・。
又、東の足尾銅山の小田川全之、東京電気の蒲生俊文に対して、西で活躍したのが住友伸銅所(現:住友金属工業)の三村起一(1887=明治20年生まれ)である。一高,東京帝国大学で学んだのちに住友総本店に入社し,住友伸銅所にて安全運動を開始した。我が国での最初の労働立法である工場法が1916(大正5)年に施行された折から、工場内での安全活動を周囲の無理解と闘いながら率先垂範して展開していたという。1919(大正8)年には米国へ労務管理研修のために出かけ,帰国後は住友各社の重役を務めたのち、1941 (昭和16)年住友鉱業(現:住友金属鉱山)社長、同年住友本社理事を歴任し、戦後は経団連理事や産業災害防止対策審議会会長,さらに初代中央労働災害防止協会会長など枢要(物事の最も大切な所)なポストを務めたという。
三村と蒲生とが出会ったのは1917(大正6)年に三村が蒲生の工場を訪れたときだそうだが、その出会いは三村の一高以来の恩師新渡戸稲造の勧め、紹介によるものであったという。また小田川と蒲生との接触については,蒲生が「安全第一協会」を設立し安全第一運動を展開した折、小田川は同協会の賛助会員として参画するとともに、同協会設立総会での記念講演や機関誌へ投稿を行うなど、その活動に対して積極的な支援をしているという。
このように産業安全運動は、小田川や新渡戸らの明治期の近代化を担った世代と、蒲生や三村らの次の世代とが密接な関係を有しながら引き継がれていったようだ。
昭和に入り、1929(昭和4)年には工場法に基づく「工場危害予防及び衛生規則」(※11参照)が定められ,作業安全のための環境整備は進展するが、やがて戦時統制が強化される中で、産業安全運動も停滞を余儀なくされていった。そのような状況下にあった産業安全運動の中で忘れてはならない人物に。伊藤一郎(1888年=明治21年生まれ。※12の伊藤一郎先生のことl参照)がいると言う。
1911(明治44)年東京高等工業学校卒業後に同校助教授、東京工業大学講師を経て伊藤染工場の経営に参画し、1939(昭和14)年同工場を東洋紡績(現:東洋紡)に譲渡し、翌年その売却金50 万円を国に寄付し、「安全第一協会」を設立以来、多くの産業安全関係者の宿願であった産業安全研究所(※12)と産業安全参考館開設(1943=昭和18年。1954 =昭和29年には「産業安全博物館」と改称)の設立を願い出た人物だそうである(※12のここ参照)。

戦後、1947(昭和22)年に労働省(現:厚生労働省)が設立され、安全衛生行政が同省所管の下に執行されるとともに、労働基準法(昭和22年4月7日法律第49号)や労働者災害補償保険法(昭和22年4月7日法律第50号)、労働組合法(昭和24年6月1日法律第174号)などが成立し、労働条件を取り巻く環境と執行体制は大きく変わった。
そして戦後の復興を経て、1958(昭和33)年には、国としての「産業災害防止総合五カ年計画」が策定され。以降5年ごとに改訂され実施されている。また1972(昭和47) 年には労働安全衛生に関する基本法とも言うべき「労働安全衛生法」も成立している。この間産業安全運動もさまざまな変遷を経て、現在は中央労働災害防止協会、建設業労働災害防止協会(※13)を始め多くの団体・組織による活動に引き継がれている。尚、2013 (平成25)年4月から始まっている、第12次労働災害防止計画の計画本文、概要などは参考の※14を参照されるとよい。
これからの産業安全は、経済のグローバル化(グローバル資本主義)が進行する中で、世界的枠組みの下に展開することが求められている。
ILO(国際労働機関)は1999(平成11)年の 総会において21世紀のILOの目標として「すべての人へのディーセント・ワーク(働きがいのある人間らしい仕事)の実現」を掲げた。そして、2003(平成15)年から4月28日を労働安全衛生世界デーと定め、労働災害と職業病における予防の重要性に注意を喚起する日としている。しかし、今でもなお毎年世界全体で230万人を超える人々が業務上の災害や疾病によって命を落としているという(※17参照)。

以前このブログ「世界社会正義の日 」で、ILの批准条項中、日本の未批准条約が多くあること、そして、連合調べによる『ディーセント・ワークに関する調査』(※15:「人事ネットワーク/日本の人事部」のここ)など見ると、ディーセント・ワークの認知度も非常に低く、ILPの批准条項中、特に、労働時間関連(※16参照)が批准できていないことを書いたが、事業場での安全衛生確保のためには、先ず、適正な労働時間管理が出来ていないといけないはずだなのだが、今はどうなっているのだろうか・・・。

それはさておき、日本の安全運動に取り組んだ人物のうち、小田川の足尾銅山での安全運動は社内運動に留まり。社会運動へ発展するに至らなかった。それを、たんに事業所内での活動に留めず全国的な社会運動へと発展させ、これが三村などによって広がりを見せていったのであり、その意味、蒲生の功績は非常に大きいのだが、他の安全運動の先覚者などと比して、蒲生の生い立ちやどのような考えで安全運動をしたのかについてもう少し詳しく記録が残っていても良いと思うのだがあまり出てこないかった。・・・一体どうしてなのだろうか?
戦時下の最中におこなわれた安全運動であったせいだろうか。蒲生は、敗戦直後の公職追放対象者の一人にも数えられていたというからそのせいだろうか。いろいろ調べていたら、以下のページを見つけた。詳しく書くと長くなるので省略する。知りたい人は以下を参照されるとよい。

蒲生俊文の「神国」観と戦時下安全運動

どうも、上掲に書かれているところを読む限り、戦時下において、産業犠牲者の絶滅を期するこそ生産増強の第一に着手すべき課題であり、安全運動は国防の第一線である・・・といった「生産増強・安全報国」と言った思想のもとでなされていたもののようである。そうだとすれば、今となっても、日本ではILOの条項の批准条項がなかなか批准されない理由の一つには労働者の思惑とは違った意味での労働災害防止が考えられているからだろうか・・・などと勘繰りたくもなるのだが・・・。


(冒頭の画像は全国安全週間のシンボル(2014年)。
参考:
※1:住吉祭(夏祭り) | 住吉大社
http://www.sumiyoshitaisha.net/calender/natu.html
※2:国民安全の日について - 内閣府
http://www.cao.go.jp/others/soumu/kokuminanzen/kokuminanzen.html
※3:新産業災害防止5カ年計画について | 政治・法律・行政 | 国立国会図書館
https://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib01470.php
※4:製糸場支えた豊富な水 繰糸や動力源に利用 : 地域 : 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/local/gunma/feature/CO004089/20131107-OYT8T00122.html
※5:『女工哀史』 細井 和喜蔵 | 考えるための書評集
http://ueshin.blog60.fc2.com/blog-entry-880.html
※6:夏目漱石 坑夫 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/774_14943.html
※7:代戯館
http://daigikan.daa.jp/
※8:小田川全之、足尾鉱業所でわが国最初の産業安全運動 ... - 防災情報新聞
http://www.bosaijoho.jp/reading/years/item_6497.html
※9:事業者の責任と義務 of 労働安全衛生法のポイント
http://aneihou-point.com/pg87.html
※10:全国一斉に愈よ明日から工場安全週間に入る - 神戸大学 電子図書館システム
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10070028&TYPE=HTML_FILE&POS=1
※11:労働災害発生状況|厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/bunya/roudoukijun/anzeneisei11/rousai-hassei/
※12:独立行政法人 労働安全衛生総合研究所
http://www.jniosh.go.jp/
※13:建設業労働災害防止協会
http://www.kensaibou.or.jp/
※14:第12次労働災害防止計画について |厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/roudoukijun/anzen/anzeneisei21/index.html
※15:人事ネットワーク/「日本の人事部」
http://jinjibu.jp/
※16:なぜ日本政府はILO第1号条約(8時間労働制)を批准できないのか
http://www.jitan-after5.jp/essay/es020511.htm
:※17:2015年労働安全衛生世界デー - ILO
http://www.ilo.org/tokyo/events-and-meetings/WCMS_361936/lang--ja/index.htm
国民安全の日 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%AE%89%E5%85%A8%E3%81%AE%E6%97%A5