今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

最澄と空海が遣唐使として入唐

2015-03-28 | 歴史
奈良時代も終焉を迎えようとしていた延暦13年(794年)、都は奈良から京都(長岡京)へ移った。平安時代の始まりである。同時に仏教界にも新しい胎動が起る。
平安時代になって新しい仏教(平安仏教)のあり方を切り開いた人物として挙げられるのが、遷都10年後の、延暦23年3月28日(新暦804年5月11日)、桓武天皇の命を受けた遣唐大使藤原葛野麻呂の遣唐船に乗り、へ渡り、大陸の新知識を持ち帰った2人の僧最澄空海である。
最澄は、天台山へ赴き湛然の弟子の道邃等について天台教学を学び、さらにや、密教順暁から)をも相承し、翌・延暦24年(805年)5月、帰路の途中和田岬(神戸市)に上陸し、最初の密教教化霊場である能福護国密寺を開創している。翌・大同元年(806年)1月には、上表(君主に意見書を奉ること。)により日本に天台宗を開宗。
もう1人の、留学生(るがくしょう。留学期間20年の予定)空海は、大使の一行とともに長安に向かう。
しかし、空海の乗った第1船(最澄は第2船)は、途中で嵐にあい大きく航路を逸れて延暦23年(804年)8月10日、福州長渓県赤岸鎮(現在の福州市から北へ約250キロに位置する海岸)に漂着。海賊の嫌疑をかけられ、長安に入れたのは、12月23日のことだったという。
長安では、寄宿先の西明寺を訪れた後、空海が、まず最初に師事したのは、醴泉寺(れいせんじ).の印度僧般若三蔵(原名:プラジャニャー。般若は漢名。※4及び三蔵も参照)であった。ここでは、密教を学ぶために約43ヶ月近い時間を必須の梵語(サンスクリット)に磨きをかけたものと考えられている。空海はこの般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられている。
そして、5月になると空海は、密教の第七祖である青龍寺で、不空の弟子に当たる恵果を訪ね、以降約半年にわたって師事し、密教の奥旨(おうし。奥義)を受けると、大同元年(806年)10月、在唐2年余の短期で帰国し大宰府に滞在する。
空海は、10月22日付で朝廷に『請来目録』(唐から請来した典籍・物品の目録。※5参照))を提出。唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論[〘仏〙 仏の教えを記したと、経の注釈書である]等216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物等々膨大なものであったという。当然、この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられている。ただ、空海は、帰国後2年ほどは大宰府・観世音寺に止住している。これを、20年の留学を2年で切り上げた「闕期(けっき)の罪」による謹慎蟄居とする説もあるようだが、この年3月、桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位しているのをみると、実際は、桓武天皇の崩御にともなう京の政情不安や、先に帰国した最澄の動きを見極める。又、密教理論を整理し日本の風土に合ったものに再構築する作業などに時間を必要としたのではないかとする説もあるようだ。
最澄に期待をかけて派遣した桓武天皇だが、最澄の帰国後半年余りで亡くなったことから、天台を中心とした新しい仏教を日本に根付かせようとした最澄は、最も重要な保護者を失うこととなった。そのため、その後は、比叡山を天台宗の拠点にして延暦寺の充実に努めた。しかし、当時、国家の統制のもとで、僧の身分を認可する権限は朝廷と結びついた南都の寺院勢力が握っており、最澄が新しい仏教の権威を高めるための公的な僧としての身分を認可する施設としての戒壇を天台宗として新設することを望んでも、それは、仏教に対する政策の基本を揺るがすものであるため南都の大寺院の反対が激しく天台僧のたび重なる要求が認められたのは、最澄の没後のことであった。
桓武天皇の後、平安時代初頭の政治は不安定な状態が続いたが、治世が短期に終わった平城天皇の後を継いで即位した嵯峨天皇は、中国の文化に対する強い関心を抱き、唐風を重んじていたこともあり、空海は、儒学の修学から転じて仏教に入り多彩な知識を持っていたことから、密教ばかりでなく詩文や書などの面でも天皇に重んじられることとなる。
空海は、南都の仏教勢力とも協調的な立場をとり、東大寺に真言院(※6参照)を建てるなど大寺院に入り込む形で、密教を広めていった(薬子の変も参照)。空海は、はじめ和気氏の私寺であった高雄山寺(神護寺)を真言宗の拠点としたが、後、平安京羅城門の東に建てられた東寺(公称は「教王護国寺」)を委ねられ、ここを中心に、多彩な活動を繰り広げた。また、東大寺や大安寺の中心的立場に立ち、弘仁7年(816年)には、修禅(座禅観法を修めること。修禅定)の道場として高野山の下賜を請い同年、下賜する旨勅許を賜り、翌・弘仁8年(817年)、高野山の開創に着手。弘仁10年(819年)春には七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手した。弘仁14年(823年)正月には、東寺を賜り、真言密教の道場とした。
後に天台宗の密教を台密、対して東寺の密教を東密と呼ぶようになり、その後、真言密教の根本道場として栄えた。
空海は、承和2年(835年)2月30日に高野山・金剛峯寺定額寺となった直後の、3月15日、高野山奥の院で弟子達に遺告(原文※7 、現代語訳は※8 参照)を与えた上、3月21日に入定したが、都から遠いこの山は、当時、人々の往来も少なく、真言宗の中心として大きな力を持っていた京都の東寺の支配下に属していた。
ところが、平安時代の中期に入る頃から、空海の入定に対する信仰が広まり、弘法大師信仰が広く受け入れられるようになると、高野詣でが盛んになり、藤原道長頼通白川鳥羽後白河三上皇をはじめ参詣者が跡を絶たないありさまとなった。
高野山には荘園が寄贈され、山上の平地ばかりではなく、谷々に僧坊や草庵が建てられ、別所もつくられるようになった。とはいえ、比叡山に比すべくも無いが、高野山も複雑な組織を持つ大寺院に発展し、中世に入るとさらに、庶民の信仰を集め、高野聖が諸国を巡るようになった。

最澄は、近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に住む、後漢の考献帝の末裔(真偽は不明)である三津首 百枝(みつのおびともえ)の子として、生まれ、幼名を「広野(ひろの)」といった。生年に関しては天平神護2年(766年)とする説があるようだから、年代等は以降これを基準とする。
宝亀9年(778年)、少年広野は12才のとき近江の国分寺に入って仏教を学び始め。行表を師として出家した。宝亀11年(780年)、14歳のとき国分寺僧補欠として11月12日に得度し、名を最澄と改め、延暦2年(783年)、17歳のとき正式な僧侶の証明である度縁の交付を受ける。
延暦4年(785年)、19 才のとき南都に赴いて、東大寺戒壇院具足戒を受け国家公認の僧となった。ところが、間もない同年7月、最長は、飄然と故郷に帰り比叡山に登って、思索と山林修行の生活に入ってしまった。
そして、延暦7年(788年)、22歳の時、南都仏教に見切りをつけ山上の倒木を切って薬師如来を刻みそれを本尊とする草庵、一乗止観院(現在の総本堂・根本中堂)を創建してそれを比叡山寺と名付けた。
以後十数年にわたる修行が続き、延暦21年(802年)36歳の時、高雄山寺(神護寺)で開かれた法華経を解く講和(法華会)で自説を発表した最長は、桓武天皇に知られるところとなり、新進の学僧として認められ、その年に決まった遣唐使の一行の還学生(げんがくしょう、短期留学生)に選ばれ、入することになったのであった。

平安仏教の開幕に主役として登場したもう一方の空海は、一般的には、現・香川県である讃岐国多度郡弘田郷(現在の善通寺市弘田町)でこの土地の郡司である、父佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)の子として宝亀5年(774年)に生まれた。母は氏族である阿刀氏出身の阿刀大足の娘(阿古屋)。幼名は真魚(まお)とされている。
しかし、この時代は妻問婚の時代であり、幼年期は母の里で過ごしたものと思われ、生誕地を阿刀氏(阿刀宿禰)の本貫地(一所懸命の土地)、河内國渋川郡跡部郷(阿刀郷)とする説がある(※1、※2のもうひとつの空海伝 まえがき 参照)。
真言宗の伝承では空海の誕生日を6月15日とするが、これは中国密教の大成者である不空三蔵の入滅の日であり、空海が不空の生まれ変わりとする伝承によるもので、正確な誕生日は不明だそうである。
延暦7年(788年)平城京に上り、母型の叔父である中央佐伯氏の佐伯今毛人が建てた氏寺の佐伯院(※3のここ参照)に滞在。延暦8年(789年)、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の舅である阿刀大足について儒学を学ぶなど、真魚は佐伯一族の期待を一身に受け、非常に高い教育を受けていたようだ。
そして、延暦11年(792年)、18歳で、大学寮(正式には「平城京式部省大学寮」という)に進んで、律令国家のしくみや法令を学ぶべく、律令官人の学問の中心の科目明経道を修めた。ここでは、中国の律令周易』『尚書』『三礼』『毛詩』(詩経の異称)、『春秋左氏伝』『孝経』『論語』などの注釈をひたすら暗記し、抜群の記憶力をもつ真魚はこの程度の内容に飽き足らず、『文選』などの詩文にも手を出し、浄村浄豊(阿刀大足とともに伊予親王の侍講師)らから唐語(からことば)会話を学び、臨書(手本とそっくりに書くこと。書道)にも親しんだという。
大学寮は、律令制で式部省に属する官吏養成機関であり、国家の経営に役立つ優秀な官僚を育成するのが役割だった。真魚は、そんな大学で明経道科に席をおいていた。明経科は特に上級官吏の養成機関と言えるもので、入学を許可された学生はほとんどが五位以上の高級官吏か貴族の子弟であった。
真魚の父佐伯直田公は、讃岐国多度郡の郡司で、無冠ではあったものの、佐伯氏は豪族の大伴氏と同族関係とされている。また、伯父の阿刀大足が従五位下だったのと、伊予親王の侍講だったので、その口ききで大学にも入学できたようだ。
そんな、真魚が大学在学中に、一人の沙門に会って以来、突然、将来を約束された高級官僚への道を断ち、わずか1年で大学を去り、乞食同然の私度僧(律令制下、定められた官許を受けることなく出家した僧尼。得度参照)となって“山林出家”の道に飛び込んでゆくのである。
ここで気づくのは、平安仏教を切り開いた二人の主役最澄・空海がいずれも、奈良の都や大和の平地に甍(いらか)を競う大寺院の僧坊に籠らず、それまでに築き上げたすべてを、投げうって山林出家をしたことである。つまり、ドロップアウトしているのである。
最澄は僧侶になって間もなく、法華経などの研究に没頭し、比叡山にこもってしまったが、空海も大学を離れ、すべてを投げ打ってに籠り、仏教の厳しい修行に入っている。そしてその間の体験によって797年、24歳のとき,『聾瞽指帰(ろうこしいき)』(後に『三教指帰(さんごうしいき)』として書き改められている。※9のここ参照)を著し、入唐(にっとう)直前31歳の時に東大寺戒壇院で得度受戒し、最澄らと共に遣唐使に従って留学するのだが・・・・・(得度時期は数節あるようだがもっとも一般的な事例に従っている)。
最澄はこの時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていたが、入唐直前までまったく無名の一私度僧であった空海(真魚)が突然留学僧として浮上する過程は、資料(史料)も少なく、断片的で不明な点が多く、今日なお謎を残しているようだ。それにしても、空海(真魚)に絶大な期待をよせていた両親や一族の落胆はいかばかりであったろうか。
若い時代の空海を知る上で信頼できる資料(史料)としては、後日『聾瞽指帰』を書き改めたと考えられる『三教指帰』に頼らざるを得ないだろう。『三教指帰』の内容は序と上,中,下に分かれる。草稿本の『聾瞽指帰』とは序文と巻末の部分が違うようで、この部分は、表題を変更した際、改編・加筆したもののようで、或いは真実ではないところがあるかもしれない。
序文では自伝を述べ、出家を宣言する。ある修行僧より虚空蔵求聞持法求聞持法を教示され、 阿波の大滝嶽(現在の太竜寺山付近)や土佐の室戸岬吉野金峰山伊予石鎚山などで山林修行を重ねて効験を得たとある。

“蛭牙公子(しつがこうし)という芳醇な青年貴族がいた。遊び暮らしている公子の保護者の兎角公(とかくこう)は、公子の将来を案じて儒客の亀毛先生(きぼう)先生を招き、公子の教導を乞うた。亀毛先生の教えはまことにもっともで、公子は先生の教えに従おうとする。ところがたまたまその席にいた虚亡隠士(きょぼういんし)が、先生の教えに反駁(はんぱく。他人の主張や批判に対して論じ返すこと。反論)し、老荘の道こそ心理であると説いたので、同席の者は皆隠士をほめ讃えた。するとそこに仮名乞児(かめいこつじ)があらわれ、仏教が究極の教えであることを述べたので、人々はその教えに心服し、公子はその言葉を信じて仏道に入る。”

これが上,中,下に分かれる『三教指帰』の粗筋である。蛭の牙や兎の角はありえないものであるから、登場人物はすべて架空であることはすぐわかるが、儒教の立身出世の道を説く儒教学者亀毛先生は、空海の叔父阿刀大足をモデルとしているようだ。また、仮名乞児は空海の自画像と思われる。
当時仏教は、先進的な外来文化として受け入れられたから、僧はひたすら仏典の解読に務め、儀礼(礼に関する儒教の経書のひとつ)の修得に励むべきものと考えられていた。専門的に仏教を学ぶ僧にとって、仏教は疑う余地のないものであって、仏教を儒教・老荘思想(老荘思想が最上の物とするのは「」であるが、道教とした時期もあった。道教の概要のところを参照)などと比較し、その目的とする所がどのように違っているのかを考えることはまれであった。しかし、空海は、儒教・道教・仏教の三教を比較検討して、仏教の教えが最善であるとして、仏教を選び取った。
仏教が日本に伝えられて2世紀(仏教伝来は、日本書紀によると552年。元興寺縁起などでは538年。仏教公伝参照)が過ぎて、仏教とはなにか、僧は如何にあるべきかといった問題が、日本の僧として考えなければならない問題として浮かびあがってきたのである。
しかし、平安時代初期における空海、嵯峨天皇、橘逸勢のいわゆる三筆時代(平安時代の能書のうちで最もすぐれた3人)には、まだあげて漢詩文旺盛の中国崇拝が基本的精神であったから、自然に流出する日本的なものは別として、三蹟時代のような和やかな和様は発達しておらず、日本語はまだ十分に確立されていなかった。
当時、仮名はまだなく、経の読み方も漢音か呉音か定まっていなかったのだ。その中で、空海は、既に、唐語と梵語をマスターするとともに、大学で習った中国の経書類の『注』の多くを占めていた後漢の儒者・鄭玄訓詁学(解釈学)も同時に飲み込んでいた。つまり、漢籍の思想の内容を研究するだけではなく、暗記し大意をつかんでいた。空海はひとつの武器「言語の力」を持っていたのだ。
そのような彼の思索力や構想力、 いわば「考える知」「まとめる知」の成果が、この時期大きく成長していたからこそ、その知がいかんなく発揮され、四六駢儷体(駢文参照)が華麗に飛び交うレーゼドラマ『三教指帰』が出来上がったのだろう。徹底的にカリカチュアした登場人物をユーモラスに動かしながら、儒教・道教・仏教を比較し、仏教の優位性を浮かび上がらせている。文中には故事が数限りなく引用され、膨大な漢詩漢文と仏教経典の集積のもとに作品は成り立っている本書は、若い空海が戯曲のような構成で書いた思想批判の書であり、わが国漢文学史上の白眉(はくび)とされている(※10参照)。
そもそも空海が奈良に来て注目したのは華厳経(『大方広仏華厳経』)であったという。しかし当時の華厳経は、東大寺(総国分寺=全国に置かれた国分寺を総轄した 寺)の中心経典のようなものであったが、その教理をあきらかにできる学僧を欠いていた。
空海が華厳の教理にめざめるのは長安で般若三蔵らに出会えてからである。けれども空海は、早くから華厳の世界観には注目していたようで、この予測こそ鋭かった。
ほかにも空海が注目したものが雑密(ぞうみつ)で、のちに純密と区別して中国から流れこんできた雑多な初期密教経典のことをいう(密教参照)。そもそも東大寺の別当となった良弁(ろうべん)がこの雑密の修行者だった。空海はそのことを知って、華厳と密教はどこかでつながりがあるにちがいないと察知したにちがいない。
そこへ持ってきて、このころの日本の仏教は、奈良末期の混乱のなかでひたすら威信にすがったり、いたずらに快楽や安寧を求めるだけのものになっていて、とうてい「意識の高次化」などを構想するべきプログラムもなく、また、そのような修行を体験させる場もなくなっていた。
それに、政治の舞台も平城京から長岡京に移り、さらに山城(山背)の平安京に移転しようとしていた。そこへもってきて、あの大伴家持が失脚した。大伴氏は佐伯氏とともにコトダマ(言霊)一族につらなる名家で、互いにトモ氏・サヘキ氏とよびあう仲であった(※8のここ照)。
そのトモの首領の家持が左遷させられた。これはおちおちなどしていられない。
一方、大学では、明経科の学生に呉音を禁じて漢音だけを使うようにという強い指示が出た。言葉に敏感な空海には、これは何かの大きな変化の前触れに見えた。さらに青年たちが奈良を離れて山林に修行しているという動きが目立ってきた。、なかでも、最澄という青年僧が山城の鬼門にあたる比叡の山中に一乗止観院(延暦寺の古称)という庵を組んだことは無視できない。
この様なことを考えると、何も窮屈で貧弱な大学や宮都にとどまっている必要はない。若き空海が山林修行に賭けたのは、こうした旧仏教との決別の方法だったようだ。
空海はめぼしい情報を集め、大安寺戒明三論宗勤操を訪ねて、時代の変化や仏教の行方を組み立てる。けれど、そういうことをしても埒はあきそうもない・・・ということで、ついに空海はドロップアウトを決意し、大学を捨て、山林に飛びこむことにしたようだ。
そんな中、堕落した奈良の都から、京都に都を遷した桓武天皇も、新しい宗教とスターが必要だと考えていた。そこで、比叡山にいた最澄の噂を聞きつけるや、朝廷の重要な役職に任命し、天台宗を開く事を認めた。一度、ドロップアウトした最澄が、再び主流に戻ってきたのであった。
そして、それぞれ厳しい仏教修行を重ねた最澄と空海の二人が、やがて共通の思いを抱き、唐に行くことを決意した。
当時の唐は様々な文化の最先端であり、日本は遣唐使を通じて、新しい仏教を学んでいた。日本にいただけでは仏教を極めるのに限界を感じた最澄と空海。これまで接点のなかった二人が、奇しくも同じ遣唐使の一員として唐へ向かうことになった。延暦23年(804年)、最澄38歳、空海31歳の時である。
この頃、桓武天皇に認められていた最澄は、旅費もすべて無料、しかも通訳付きの特別待遇の還学生(げんがくしょう=1年ほどで日本へ帰ってくることが出来る学生)であったが、一方、まだ無名だった空海は、長期滞在が義務づけられたその他大勢の留学僧(20年間は「日本へ帰ってくることが出来ない学生」だった。そんな空海が、長期間の留学費用をどのように調達したのかは、今だに謎に包まれているという。
しかし、その空海は、2年あまりの期間で、当時最先端の「密教」を最高権威の僧侶より教授できたのは、先にも書いた彼のたぐいまれなる語学力によるところであった。そして、密教の教典や曼荼羅などのお宝を持って帰ってくるという驚異的な活躍を見せた。
一方の最澄は視察目的の短期留学僧であったため、当時主流だった天台宗の奥義をマスターしたものの、当時流行の密教に関しては、不完全なまま1年足らずで返ってきた。
二人が帰国後、最澄を信任していた桓武天皇が亡くなり、嵯峨天皇が即位すると、嵯峨天皇は、当時流行していた密教をマスターした空海に、仏教で国家を護る役目を任せることにした。その名を天下に広めた空海は、エリート最澄に、ついに並んだのである。
このようにして、新しい課題に正面から取り組んだのが最澄と空海であった。最澄は平安時代の日本に最も必要な仏教はいかなる仏教であり、僧は如何にあるべきかを考え、高い理想を追い続けた。また空海は、当時の日本にあった学問・思想の中で、仏教こそあらゆるものを包み込むことのできるものであると考え、その教えとして密教を宣揚(専用。広く世の中にはっきりと示すこと)した。
外来の思想・宗教である仏教は平安時代に入って、宗教としての性格を強め、世俗の世界に対して、高い権威を主張するようになった。そしてこの仏教はその拠点を都とその周辺にではなく山に築くようになった。
山は神祇信仰の神域であったから、山に入った修行者は土着の雑多な信仰と接し、それを組み込むことによって日本における仏教の位置を考えようとした。こうして仏教は日本化してゆくための模索が始まった。
最澄や空海が山中に築いた仏の世界は、それが多くの堂塔(寺院参照)を持つ寺院として出現した時、当初の願いや構想から外れた道を歩み始めた。
山中の寺院は複雑な組織に発展しその維持と管理を巡る争いは寺院の内部を世俗化させて行った。又、貴族が仏教と多面的なつながりを持つようになると、都の周辺には、貴族の私寺が次々に建てられ、日本化した仏教と結びついた貴族文化が生まれることになった。
さて、寺院が複雑な組織を持つようになると、僧の間でも階層の文化が始まり、さらに学統や法流などによってさまざまな流派ができて、勢力争いが日常化した。また、寺院の中には武装した集団も現れて、寺内の争いは、俗世間の権力争いと結びつき、大臣の動向は政治の帰趨に係るようになった。世俗的な争いに明け暮れる僧が増える一方、そうした寺院の外では修業に務め、人々を救うために活動する僧が多くなっていった。
山と寺と、そこで活動する僧を支えていたのは貴族社会であったが、貴族たちが仏教に求めたのは、先ず第一に、国家の安泰と五穀の豊穣であった。また、仏教の呪的な力に期待して、大寺院の僧に、反乱の鎮定や怨霊の調伏、祈雨や止雨の祈祷を求め、更に個人的な病気の平癒や安産などの祈りを求めた。
貴族社会の停滞が明らかになり、貴族たちの間に現世に対する不安が強くなると、それに応じて浄土への往生を説く僧があらわれた。
現世的なものの考え方をしていた貴族の間に、來性への関心が生まれ、自己の救いを願う貴族は、内省的な個人意識を持つようになった。
そして、貴族社会で内省的な思想を生み出す力となった仏教は、民間で活躍するさまざまな宗教者の教えを引き付けながら鎌倉時代に入って新しい思想・宗教を生み出すことになる。

参考:
※1:国立会図書館貴重書展:展示No.9 〔新請来経等目録〕
http://www.ndl.go.jp/exhibit/50/html/catalog/c009-001-l.html
※2:重要文化財|弘法大師二十五箇条遺告|奈良国立博物館
http://www.narahaku.go.jp/collection/d-1122-0-1.html
※3:弘法大師空海 25箇条 御遺告
http://www1.plala.or.jp/eiji/GOYHUKOKU.htm
※4:密教伝承
http://www.h5.dion.ne.jp/~kame33/kame8.htm
※5:【空海に迫る(上)】空海「畿内生誕説」の根拠
http://www.sankei.com/west/news/140426/wst1404260082-n1.html
※6:奈良の寺社: 東大寺・真言院
http://narajisya.blog.eonet.jp/mahoroba/2007/04/post-5876.html
※7 ;吉野へようこそ
http://www.yasaka.org/
※8 :エンサイクロペディア:空海
http://www.mikkyo21f.gr.jp/
※9:高野山と弘法大師空海上人、真言密教
http://www.1-em.net/sampo/kukai/index_index.htm
※10:松岡正剛の千夜千冊『三教指帰・性霊集』
http://1000ya.isis.ne.jp/0750.html

日本初の運動会が開催されたとされる日

2015-03-21 | 歴史
運動会は、学校や、会社(企業)また、地域団体(地域社会)などの構成員あるいは関係者が一定のプログラムに従って行う体育的な行事であり、「体育祭」などと称されることもある。
運動会の起源はヨーロッパにあるとされるが、欧米では体育及びスポーツの分化により、一方では特定種目の競技会やそれを複合させたスポーツ競技会、一方で子供による伝統的な遊戯まつりやピクニック会などへとつながって今日に至っている。
そのため、日本の運動会のように参加者が一定のプログラムについて順次全体としてまとまりながら競技・演技を行う形式の体育的行事は「近代日本独特の体育行事」とも言われているようだ(日本体育協会監修 『最新スポーツ大事典』 p.96 大修館書店 1987年)。
そういえば、今年(2015年)2月24日、NHK夜のワイドショー「ニュースウォッチ9」で、「世界へ輸出・日本の“UNDOKAI”」と題して、日本式の運動会を紹介するイベントがタイの学校で行われ、地元の子どもたちが日本ではおなじみの競技に初めて挑戦している様子を報じていた。その内容は、参考※1;「 NHKオンライン」の2015年2月24日(火)付「 世界へ輸出 日本の“UNDOKAI(運動会)”」(以下の動画)。また、その抜粋(参考※2)を参照れるとよい。

これは、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて、スポーツを通じた国際交流を進めようと、日本の政府やスポーツ関係団体が世界各地で始めたもので、今回の運動会を運営したのは、独立行政法人日本スポーツ振興センター( JSC。※3)から委託を受けたNPO法人である。
JSC は、2003(平成15)年、それまでの日本体育・学校健康センターの業務等を承継するかたちで設立された法人であり、設立の趣旨は国民の健康増進であり、業務は国立競技場の運営、スポーツ科学の調査研究、スポーツ振興くじ(toto)の実施などのスポーツ関連事業と、学校災害共済給付制度(※3の1ここ参照)の運営、学校における安全・健康保持の普及などの学校関連事業とに二分される。
同振興センターは文部科学省の外郭団体であり、役員には文部省(現文部科学省)、大蔵省(現財務省)といった中央省庁からの天下り官僚が就任している。そして、同センターには運営費交付金として毎年多額の補助金が交付されているが、Totoの計画・運営や新国立競技場建設問題など、その計画・運営・運用や、また、年に2回ある助成審査委員会の会議は全報道機関に公開されていたが、2007年4月5日の会議から運動記者クラブのみに限定されているなど、いろいろと批判されていることは多いようだ。
また、同振興センターから委託を受けたNPO法人というのは、 “企業や、学校関係の運動会・体育祭などの企画、運営から、会場の確保、設営、撤去、備品の貸出し、スタッフの派遣までを行っているという運動会屋(NPO法人ジャパンスポーツコミュニケーションズ。※:4)のこと。スポーツを盛んにするための一環かどうかは知らないが、このような事業までNPO法人が行っているのだね~。JSCには、スポーツ関連の企業や団体が多く関係しているから、このような運動会のイベント事業もいい商売になるようだ。もっとも、あくまで、非営利法人がやっていることなのだが・・・。
こんな運動会屋のやっていることがNHKの「ニュースウォッチ9」では、通常のニュースより優先し、トップニュースとして報道されていることに対しては、いろいろ話題が沸騰していたようだが、今回はそのようなことを問題として取り上げるのが趣旨ではないのでこのことはこれでおこう。

この「ニュースウォッチ9」の報道の中では、ナレーションで、
「空高く運動会の秋たけなわ、さわやかな大空に明るい歓声がこだまして。」
「日本の運動会は、必ずしも体力の優劣を競う場ではありません。」
「学校だけでなく、地域ぐるみで行われ、世代を超えた交流の場でもありました。」
・・とお父さんたちの参加している姿。そして、障害物競走の網くぐりや玉入れ綱引きの後、昭和30年代の女性のビール飲み競争や宝探しなどの映像が映し出される。
そして、「足の速い人が一番になるとは限らない。それが運動会です。」といって、日本の運動会と外国との違いを外国人にヒアリングしてまわる。
日本では幼稚園や学校の運動会から会社や町内会など、色々な団体で運動会が行われるが、その運動会の種目には、徒競走や、綱引き、網くぐりなどの障害物競走の他、騎馬戦や棒倒しなどとならんで、パン食い競走や玉入れ、、大玉ころがし、スプーン・レースやフォークダンスなどもある。会社の運動会となると、仮装行列がある場合もあるし、地域の運動会では、「ニュースウォッチ9」でも見られた女性のビール飲み競争や、宝探し迄ある。改めて考えてみると、日本で行われている運動会とは、じつに奇妙なイベントではある。
このような奇妙なスポーツ・イベントは、外国には存在しない、日本のオリジナルのものである。いったい誰が何のためにこのような運動会を考え出したのだろう?
定説によれば日本で最初に行われた運動会は1874(明治7)年3月21日、当時築地の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)の英語教師として教壇に立っていたイギリ ス人教師(フレデリック・ウィリアム・ストレンジといわれている)の申し出によ り、行われた「競闘遊戯会」であるとされている.(日本体育協会監修 『最新スポーツ大事典』 p.95)。
しかしながら、運 動会の起源ということでは、1868年8月15日(慶応4年6月27日)、横須賀製鉄所で開催したものが指摘されている。岸野雄三他編『近代体育スポーツ史年表』では、これを「日本最初の洋式運動会」としているそうだ(※5)。
以下横須賀市のHP「横須賀製鉄所(造船所)特集ページ」(※6:)には、「横須賀製鉄所」(後の横須賀海軍工廠)は、フランス人技師フランソワ・レオンス・ヴェルニーの指導により建設されものだが、1868 年、フランス人技師らと日本人の職工が親睦を図るために様々な競技をする運動会を行っていたようで、同造船所建設の土木事業に現場責任者の一人として従事していた堤磯右衛門が『懐中覚』という日記にその様子を書き記しているところによると、綱渡り、帆柱のぼり、さらに袋に両足を入れてピョンピョンと跳んで走る競技、そして相撲などの競技が行われていた。また、このなかで、「走馬競(そうばけい」という、馬を走らせながら、つるされた輪に木製のくぎを通すという、日本の流鏑馬(やぶさめ)に似た競技も行われていたそう.だ。後にこの「走馬競」は、2003年ヴェルニー公園で再現されているという(同HPにリンクの小冊子「ヴェルニーと横須賀」参照)。
そのことは兎も角として、定説で日本初と言われているところの築地の海軍兵学寮での「競闘遊戯会」ではどのような競技が行われていたのだろう。
競闘遊戯会は、1 873(明治6)年12月、海軍兵学寮のイギリス海軍顧問団の団長ダグラス中佐(Archibald Lucius Douglas)から海軍省に兵学寮の馬場の中央に芝生のクリケット場の設置申請が行われ、これが認められ完成したことを記念して行われたもので、その要請は、クリケットという遊戯が健康と養育の価値を有するものだとする認識に基づいている。
1874(明治7)年1月の海軍省宛文書にも兵学寮にはクリケットなどのスポーツに関して,次のような認識のあったことが見られる。
(1)「凡精神ヲ労スル者ヲ啻ニ束縛致シ候而己ニシテ之ヲ慰楽スルノ事無之候テハ必ズ欝閉(うっぺい)ノ害ヲ免レ不申或ハ竊(ひそ)カニ犯則不善ノ遊戯二溺ルル二至リ可申」と,一般に人間は精神を疲れさせるだけで慰楽することがなければ,気のふさがることは間違いなく,法律を犯したり、よくない遊びに溺れたりする。
(2)兵学寮生徒の最近の状態は不道徳に流れ,このまま放置すると恥ずかしい状態になるかも知れない,
(3)兵学寮の会議で論議したところ、精神を疲労させるだけで気晴らしとなる方法がないからだということになった。
(4)欧米各国の海軍学校では,玉突き,クリケット・ボール,ボーリング・アレーなどの遊戯道具を備えて疲れを慰める方法があるので,よくない考えを抱いたり,不道徳な状態に陥らず,学業はますます進歩し,身体はいよいよ強健になっている,
(5)この考えをダグラス顧問団長に相談したところ,彼もまた同じように考えていたが、費用がかかるので提言出来ないできたと言っている。
(6)遊び道具を備えて娯楽を与えることは至急採用すべき良い方法なので,先ずは玉突き道具2台を備えたい。・・・・,と理由を添えて設置の申請をした。2台で約3,000円かかるこの申請は,兵学寮の定額金から支払うこととして2月10日付で決裁が下った。
この申請の基礎には、人間にとって慰楽(慰みと楽しみ)は本来的に重要不可欠のものであり、とくに学業のような精神を疲れさせる生徒に遊戯(スポーツがその大きな部分を占めている)を行わせることは,健康を保持増進するとともに、道徳的な健全さを養うことに役立つものであるとする考えである。.こうした立場から近代スポーツ(スポーツの歴史参照)の導入の必要は,まさにダグラスらイギリス海軍顧問団の教師たちに共通した意識であったろうし、また日本側教官たちが論議の結果欧米の海軍学校の例に倣うことにしたのも、そうした思想を容認したからであったと考えられるようだ。
1874(明治7)年1月に入学した沢鑑之丞は「英教師達が来着してから,兵学寮に於ける生徒の教育方法は、専らイギリス式に則り,ドーグラス(ダグラス)の進言に基いて追々規則を改正致しまして… 先づイギリス教師が第一に着眼いたしましたのは,体育上の不充分なることが原因で生徒の身体が余り強健でないから順次之を矯正しようということでありました。… 現在実施している馬術,剣道の修業等何れも結構であるが、もっと慰安、娯楽的のもの、例えばビリヤード(玉突き)フットボール(蹴球)クリケット等が適当であると注意いたしました。兵学寮幹部に於ても大いに賛成の上,直ちにビリヤードニ台を用意致しまして,北寮食堂に据付け,生徒に練習させたのであります」と回顧している。・・という。
こうして,海軍将校の養成に対してイギリス人教師によるイギリス式教育の適用の一環として近代スポーツの導入が図られた。それは,慰楽を基本的な欲求と認める人間観に基づくものであったが、同時に兵学寮において早くも近代スポーツが、生徒の規律・訓練の方法として把握されていることにも注意しなければならない.ようだ(※5)。
そして、競闘遊戯会には、兵学寮から海軍省に対して,軍楽隊の派遣他、水路寮測量生徒・ブリンクリー(砲術。後の海兵士官学校)生徒、そして軍医寮生徒の参加も要請し、まさに「海軍諸学校生徒」が参加して行われた。.
その時の競技内容としては、1874(明治7)年3月8日、当時の海軍卿勝安房(勝 海舟)から太政大臣三条実美宛てに提出された「兵学寮生徒等競闘興行之儀御届」が提出されているが、この届け出には「健康」増進に役立つという点からだけ説かれ、以前にダグラスが主張したような「慰楽」の必要という観点がここでは抜け落ちている。・・・という。
それは兎も角、同届けに添付されていた和文と英文各一通のプログラム(共闘競技表)が残っており、本文書の含まれる「公文録」は、平成10年に、国の重要文化財に指定されているそうだ。同プログラムは以下参照。

この和文と英文のプログラムの番号には少々違いがあるが、和文プログラムは,第一場第一般から第九場第十八般まで競技種目を並べているが,各「般」の下に少し小さな活字で三,一,二,十三・・・と漢数字が並んでいる。これは、英文プログラムでの競技順序を示しているものであり、恐らくは,英文の案が先に出来,これを翻訳して和文プログラムを作るとき順序を変えたと考えられている。.主な変更は,徒競走を年少組から年長組へと順に並べたこと、観客(兵学寮関係者に限る)の飛び入りによる障害物競走を四番目と早くしたことである。
そして、競技種目名の翻訳において、 イギリス式の遊戯・スポーツが殆ど知られていなかった当時、英語の種目名を日本語に訳出するのには大変苦心したようで、沢は,これに関して「早速之(Athletic Sports-筆者)を実行せんと決定せられしも、是等遊戯は本邦に於ては未曾有の事柄なれば,海軍省の認可を得ざるべからず、依て其の訳名を要するにつき、時の英学教官錦織精之進、三輪光五郎(慶応義塾出身).服部章蔵の三氏,皇漢学教官松波直清、小林為文、山田養吉の三氏協議調査せられたるに… 競闘遊戯と訳名を決定せられ,各遊戯の名称に付ては直訳もおもしろからず、何とか優雅なるものとなすべしとて和漢両様の題目を撰ばれたり」と述べている・・・ことから、翻訳に際して英学教官の外,皇漢学教官も参加していたことが分かる。
この結果,和文プログラムで第一般 三「雀雛出巣」「すずめのすだち」のように和漢二つの名称があるのは国学・漢学の二学からつけられたからだと分かる.。また,和文のプログラムの下欄で競技法が解説されていても,理解しにくいものがあるが、英語名を見ると,それがいかなる競技であったかが判明する。.
第四般あけのからす「疾駆シ且ツ諸般ノ遊戯ヲ競闘・・」=13は、.障害物競走。第七般ふるだぬきのつぶてうち「毬ヲ投撃」=6は ,球投げ。第十一般かごのにげつる「其體ヲ毀ルコトナク・・急歩」=10は、.競歩。第十三般さぎのうをふみ「或ハ-脚ヲ塞シ或ハ大踏歩シ或ハ飛躍シ」=12は、.三段跳。第十五般うさぎのつきみ「躍ルコト三躍シテ以テ歩二代へ・・」=15は、 .立三段跳など。
上記の第七般Throwing the shotを『海軍兵学校沿革』に従って「球投げ」としているが、,これには疑問が残る。.和文の通りだとクリケットボール投げの可能性も考えられる・・という。
しかし、競技種目名はなかなか面白い和文表現だが、これだけでは、なかなか意味が分からないが、例えばプログラム  第一般 三「雀雛出巣」「すずめのすだち」の下段には、「十二歳以下ノ生徒ヲシテ百五十ヤードの距離ヲ疾駆セシム」と競技種目の説明があるので、これは、おおよそ、12歳以下の生徒の150ヤード走であることは理解できるだろう。
海軍学校『海軍兵学校沿革』第1巻大正8年にもとづく遊戯番付内容は、以下参考※7:「小学校の運動会に関する史的考察」にわかりやすく書かれているので、この方が種目の内容がわかりやすいので時間があれば目を通されるとよい。
1874(明治7)年3月8日勝安房(勝 海舟)から太政大臣三条実美に提出された「兵学寮生徒等競闘興行之儀御届」の届け内容では「健康」増進に役立つという点からだけが説かれており、以前にダグラスが主張したような「慰楽」の必要という観点が抜け落ちているようだが、プログラムの内容を見ると、一応「共闘」と「遊戯」を融合したイベントであったことはわかる。そして、この時の「競闘遊戯会」には、「景物表」が表示されており、競技により、商品が授与されていたようである。
この「競闘遊戯会」当初、3月11日に行われる予定であったが雨天のため16日へ順延する旨再届が出され許可されているが、定説では3月21日…となっているのが、よくわからない。どうしてだろう?よくわからないが、いずれにしても、実際には、この「競闘遊戯会」より、横須賀製鉄所で開催されたものの方が早いので、このことの詮索はやめよう。
いずれにしても、競闘遊戯会も横浜居留のイギリス人の初期の陸上競技会と同様に「共闘」と「遊戯」を融合した二重性の構造をもった競技として、近代陸上競技大会にもまた学校運動会にも分岐し,発達していく可能性を内包していたものであったとはいえる。この 「共闘遊戯」 を嚆矢と して, 類似の行事が各学校においても 次第に行われるよう になる。
例えば、 札幌農学校(現在の北海道大学の前身)は、アメリカより、外国人教師として来日したダビット・P・ペンハロー(David・Pearce・Penhallowの発案により1878(明治 11 ) 年に, 「遊戯会」 という行事を行っており, この 「遊戯会」 では, 石投げ, 玉投げ, 芋拾い競争, 幅跳び、 目隠し競争などが行われ, 数百人の見物人が集まったとされている(北海道大学、『北大百年史通説』 )。 その後, フレデリック・ウィリアム・ストレンジ(Frederick William Strange)の指導による、1882 (明治 15) 年の体操伝習所(東京府=現在の東京都千代田区に設立された体育教員・指導者の養成機関)による 「連合体操会」(※8参照)、そして、 翌1883(明治16)年には、神田一ツ橋.予備門校庭で開かれた予備門と東京大学三学部(法理文)合同の陸上競技会(後の東京大学運動会)の指導も行われた(ここ参照)。 なお,東京大学の陸上運動会では、 競争, 高飛び、 砲丸投げ、 棚飛び競争, 三脚競走、慰め競走(どのような競技かよくわからないが・・・)な どの種目が実施されたようだ。
このように明治7(1874 )年から10年代中ごろにかけて「運動会」の原型に当たる行事が行われるようになり、明治18年頃までは主として中等教育機関以上で運動会やそれに類する競技が行われていたようでそれには、体操伝習所が密接にかかわっていたようである。
今では、運動会では主力となっている小学校の運動会に目を向けると1884 (明治 17)
年には皆無であった小学校参加の運動会が, 1885(明治) 18年ごろからみられるようになり、 1886 (明治19)年には大幅に増加し、普及し始めたようである。
1885(明治18)年12月、内閣制度の創設と共に、伊藤内閣の初代文部大臣として森有礼が就任。国会の開設や憲法発布を間近かに控え、明治維新以来の政治変革が一段落を告げようとしている時、教育制度も一大改革が企てられ、新しい制度を完成させようとする段階にあった。
森有礼は、日本の発展・繁栄は、まず教育から築き上げなければならないとして、「諸学校を維持するもの畢竟国家の為なり」と述べている通り、彼の学校教育に関す方策はすべて国体主義の教育観によって貫かれていた。
そしてこれを実現するためには、1)文部省は簡単平易な教課書をつくり、人々の諷誦(ふうしょう)、又は講義に便ならしめる。2)陸軍省は体操練兵(【練兵】平時に、兵士に対して戦闘に必要な訓練をすること)の初歩を教える。3)これを戸長または毎所掌とし、区域内の人民を一月に一度或(あるい)は二度時間を限って学校に集め、聴講または運動に従事させるべきであるとしている。
森文相がこの軍隊式教育を師範学校において試みたことはよく知られている。このような軍隊式体育を実施しようとした精神は、次の「兵式体操に関する上奏文案」の中によく示されている。
「抑国家富強ハ忠君愛国ノ精神旺実スルヨリ来ル、故ニ文部ノ職ハ主トシテ此精神ヲ養成渙発スルノ責ニ当ラサルヘカラス、是ヲ以テ体育ノ切要ヲ認メ既ニ学科ニ加へサルナシト雖モ・・(中間略)・・以テ国家富強ノ長計ヲ固フセント欲セハ、第一中学校以上諸学校ノ教科時間ヲ割キ、乃チ休操ノ一科ハ文部ノ管理ヲ離レテ之ヲ陸軍省ノ施措ニ移シ、武官ヲ簡撰シ純然タル兵式体操ノ練習ヲ以テ之二任スルニ在リ、而シテ文部省ハ自ラ其事二染手スルコトナク単二陸軍ト妥議商籌スルニ止ムルトキハ、厳粛ナル規律ヲ励行シテ体育ノ発達ヲ致シ学生ヲシテ武毅順良ノ中二感化成長セシメ、以テ忠君愛国ノ精神ヲ涵養シ嘗艱忍難ノ気力ヲ換発セシメ、他日人ト成リ徴サレテ兵トナルニ於テハ其効果ノ著シキモノアラン」
森文相のこの考え方に基づき、師範学校の教育には全面的に軍隊式教育が取り入れられたが、また小学校、中学校にも「兵式体操」が採用されている。1886(明治19)年における諸学校令(「小学校令」「中学校令」など)が公布された。それによって我が国の全国の学校教育は厳格に統轄され、小・中学校等の制度の基礎も確立された(参考※9:「文部科学省HPの森文相と諸学校令の公布参照)。
学校行事のなかで、もっとも広く地域住民をまきこんで行われた小学校の運動会も、この翌・1887(明治20)年以降に各地で行われはじめた。初期の運動会は、「遠行運動」とも呼ばれ、分隊旗を立て二列に聯隊して、歩々足を整へて進み、目的地に向かい到着した場所で体操、 競争, 擬戦、,球なげなどさまざまな競技を行うものであった。当時は、このよ う な遠足と運動会の内容を併せ持った行事を運動会と称する場合も少なく なかったようである。学校儀式をとおして国家意識の形成をめざした森有礼は、身体活動を重視し、中学校・師範学校で兵式体操を推進したが、初期の運動会も軍隊の行軍や演習をモデルとして開始され、その娯楽性から小学校にも急速に広まり、多くの参観者を集めたようだ。当時の実施形態には 学校の単独開催や地域の各小学校の合同開催の他, 運動会の萌芽期にあっては、こう した小学校のみの合同という形態はそれほど多くなく、地域の県立学校と小学校が合同で実施したりするケースが多かったようである。

スポーツライター玉木正之氏の公式WEBサイト(※10)の、タマキの蔵出しコラム・音楽編日本人の遊び心には、以下のように書いてある。
森文部大臣は、横浜の外国人租界地で行われた陸上競技会を見物して体育教育に有効と判断し、全国の小中学校で運動会を催すよう訓令を発したのだった。
しかし、命令を出された方は、大いに困惑した。なにしろ教育制度が定まったばかりの時代だから、運動場なんていう施設はなかった。困った学校関係者は、いくつかの学校で話し合い、合同で神社や寺の境内を借りて運動会を開催することを考えた。ただし、場所を借りるためには、氏子や檀家という神社やお寺と関わりのある地域の人々の許可が必要になる。そのため、生徒がただ競走するだけでなく、氏子や檀家も一緒に参加してもらおうということで、彼らが参加できるような競技を考える必要が生じた。今でいうなら「住民参加」である。そして考え出されたのが、どんな人でも楽しめる娯楽性の高いパン食い競走や大玉転がし(中には、ブタ追い競走というのもあった)だった。
さらに、どうせ神社やお寺でイベントを行うなら、夏祭りや秋祭りも一緒にしてしまおう、ということになり、中央に櫓を組み、盆踊りや豊年満作踊りなども運動会でするようになった。これがフォークダンスのルーツである。つまり、運動会は、参加するすべての人々のためのお祭りだったのである。また、運動会の会場が家から離れている場合が多いということもあって、遠足という要素も混じった。そして、お弁当を作るという習慣ができたのである。
では、騎馬戦や棒倒しはどうして始まっただろうか?
それは、国会が無かった時代に国会を開くことや憲法を作ることを主張した政治運動=自由民権運動がルーツであった。当時は政府の力が強く、自由民権運動が激しく弾圧された時代で、政府に反対する自由民権の志士たちは、意見を堂々と言うことができず、街中で演説することもデモ行進をすることも集会を開くことも法律で禁止されていた。
そこで、自由民権運動の壮士たちは、自分たちの主張をどのようにして聞いてもらおうかと考え、運動会に目をつけた。「最近流行の運動会をするのなら、演説でもないし、デモでもないから弾圧されないだろう」と。そして、「壮士運動会」と称するイベントを開催し、そこで「政権争奪騎馬戦」「圧政棒倒し」「自由の旗奪い合い」といった競技を創り出した。騎馬戦は、だれが政治のリーダーになるかを競う姿をゲームにしたものであり、棒倒しは当時の政府を倒す意味をこめて棒を倒すものだった。つまり、すべては競技にまぎれて彼らの言い分を国民に聞いてもらうためのものだった。
さらに、その合間にデモを行い、「議会をつくれ」「政府反対」とか言いながら、民選議会(国会)の設立を訴えたり(民撰議院設立建白書参照)、薩長藩閥内閣の打倒を叫んだりした。そのデモンストレーションが、のちに仮装行列に変わったのである。
それら2種類の運動会が混ざり合い、現在の運動会に発展した。運動会は、日本人の豊かな遊び心が創りあげたものなのである。
ちなみに、「玉入れれ」はバスケットボールを、「障害物競走」はイギリス発祥の乗馬障害レースをアレンジしたものである。また、「綱引き」は、豊作や豊漁を祝うための地域行事が形を変えた種目だった。
それら二種類の運動会が混ざり合い、現在の運動会に発展したのだが、この運動会の歴史は、日本人の豊かな遊び心が創りあげたもの、といえるのである。」・・・と。
確かに日本の運動会は楽しい。しかし、私が中学校の時、中学校は有馬男爵邸跡地に建てられた木造校舎であったが自慢は校舎の周りの大庭園であった。庭園には小川が流れ四季の花々が咲き、春などは、桜の木のある小川の前で弁当を食べるのが本当に楽しかった。しかし、立派な庭園がある代わりに、運動場が狭すぎて、授業での体育ぐらいはできても運動会などできなくて、運動会は、市民球場を借り上げてしていたが、運動会の種目には一般でしているような楽しめる種目はなく、やり投げや円盤投げ、走り幅跳びといったまるで、国体か、オリンピックをしているようなスポーツ競技であった。当時、神戸の市立中学ではモデル校としていろいろ他校の先生たちがしょっちゅう参観に来ていた学校ではあるが、運動会が面白くなかったことだけはいまだによく覚えている。
この一般の楽しい運動会、企業でも、親睦を深めるために行っており、私が現役の若いころには、和気あいあいと楽しみ盛んであったが、年代を重ねて後半には、社員旅行と同様、に近ごろの若者には、「自分の時間を大切にしたい」と参加をしたがらないものが多くなり、自由参加の形にしていると、半数近くは不参加という感じであった。
先に述べた「ニュースウォッチ9」の報道の中では、ナレーションで
「日本の運動会は、必ずしも体力の優劣を競う場ではありません。」
「学校だけでなく、地域ぐるみで行われ、世代を超えた交流の場でもありました。」・・・と、過去形で話しているのが実にさみしい。阪神・淡路大震災や、東日本大震災、はたまた、幼児殺しの犯罪や、ストーカー事件などがあると、地域の絆が言われるが、基本的に、今の時代は自己中心主義が広まっており、人と人との接触を嫌っている。今の時代の犬や猫などの異常なほどのペットブームもそのようなところから生まれた孤独感から起こっているものだろう。
それとナレーションで「日本の運動会は、必ずしも体力の優劣を競う場ではありません。」・・と言っていることについては、小学校や、中学校・高等学校、および特別支援学校などの運動会は、学習指導要領における「特別活動」であるが、以下参考の※11:「「運動会」を通して育てる力 - 教育委員会」には、「学習指導要領では、運動会は、特別活動の学校行事「健康安全・体育的行事」に位置づけられています。その内容は「心身の健全な発達や健康の保持増進などについての関心を高め,安全な行動や規律ある集団行動の体得,運動に親しむ態度の育成,責任感や連帯感の涵養,体力の向上などに資するような活動を行うこと。」とあります。これをふまえて、「運動会」という行事を考えてみると、勝つために全力を尽くす。
全力でがんばる力、団結力・連帯感、体力の向上、フェアプレーの精神、勝敗への正しい態度等「集団で勝敗を競う体育的行事」であるのですから、ぜひ勝敗にこだわってほしいと思います。」・・・と書かれている。
2012年ロンドンオリンピックで、日本中が感動したのは、サッカーにしろ、バレーボールにしろ、勝利を目指してあきらめずに全力で戦う選手達の姿に対してである。勝負よりも参加することに意義があるという姿勢で選手がのぞんでいたらあれほどの感動は無いだろうと思う。運動会でも同様で、他色には絶対に勝つ、○組には絶対に負けない、という強い気持ちがあるからこそ、全力で走り、力を出し切ることができるし、運動会前の練習にも真剣に取り組むことができる。
フェアプレーの精神は大事だが、勝負をする以上勝つための努力をしない限り.成長はないだろう。その結果負けても、学ぶことは多いはずである。私もそう思うのだが・・・。

参考:
※1:NHKオンラインー.NW9-ニュースウオッチ9そのニュース、核心はどこだ。
http://www9.nhk.or.jp/nw9/
※2:世界へ輸出 日本の“UNDOKAI(運動会)” - NHK 特集まるごと
http://www9.nhk.or.jp/nw9/marugoto/2015/02/0224.html
※3:JAPAN SPORT COUNCIL 日本スポーツ振興センター
http://www.jpnsport.go.jp/
※4:運動会屋
http://www.udkya.com/
※5:海軍兵学寮の競闘遊戯会に関する一考察 - J-Stage(Adobe PDF)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kyoiku1932/63/2/63_2_129/_pdf
※6:横須賀製鉄所(造船所)特集ページ|横須賀市
https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0130/seitetsuzyo/main.html
※7:小学校の運動会に関する史的考察(Adobe PDF) - htmlで見る
https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/5902/1/KJ00004251338.pdf#search='%E9%81%8B%E5%8B%95%E4%BC%9A+%E8%B5%B7%E6%BA%90'
※8:体操伝習所 - 筑波大学附属図書館(Adobe PDF)
https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/shintai-to-yugi/catalog.pdf#search='%E7%AD%91%E6%B3%A2%E5%A4%A7%E5%AD%A6+++%E3%81%93%E3%81%93%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%80%81%E4%BD%93%E6%93%8D%E6%89%80%E3%81%AB%E6%9C%B1%E7%AD%86%E3%81%A7%E3%80%8C%E4%BC%9D%E7%BF%92%E3%80%8D%E3%81%AE%E4%BA%8C%E5%AD%97%E3%82%92%E6%9B%B8%E3%81%8D%E5%8A%A0%E3%81%88%E3%80%8C%E4%BD%93%E6%93%8D%E4%BC%9D%E7%BF%92%E6%89%80%E3%80%8D%E3%81%A8%E8%A8%82%E6%AD%A3%E3%81%97%E3%81%9F'
※9:文部科学省ホームページ
http://www.mext.go.jp/
※10:玉木正之公式WEBサイト
http://www.tamakimasayuki.com/index.htm
※11:「運動会」を通して育てる力 - 教育委員会(Adobe PDF)
http://www.sch.kawaguchi.saitama.jp/aokikita-e/tusinkoutyou/tusin14.pdf#search='%E5%AD%A6%E7%BF%92%E6%8C%87%E5%B0%8E%E8%A6%81%E9%A0%98++%E9%81%8B%E5%8B%95%E4%BC%9A'
運動会ー Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8B%E5%8B%95%E4%BC%9A

切腹最中の日

2015-03-14 | 記念日
日本記念日協会(※1 )の今日・3月14日の記念日に「切腹最中の日」があった。由緒を見ると以下の様に書いてあった。
浅野内匠頭吉良上野介への刃傷事件から切腹をさされ、のちの「忠臣蔵」へと繋がるのが元禄十四年三月十四日のこと。「忠臣蔵」にまつわる数々の事柄を多くの人に語り継いでいただこうと、自社商品に「切腹最中」(せっぷくもなか)を持つ東京新橋の和菓子店「新正堂」(※1)が制定。
「新正堂」は浅野内匠頭が切腹さされた東京新橋の田村右京太夫屋敷に在する大正元年創業の老舗和菓子店で「仮名手本忠臣蔵味こよみ」「景気上昇最中」などの人気商品がある。・・とあった。

最中とは(もち)から作った皮で(あん)を包んだ和菓子の一種。
餅(もち)はもち米(糯米)を蒸し、(うす)でついて、さまざまな形にした食品のことで、広義には、粳米(うるちまい.米飯用として使われる普通の米)以外の穀類で作る食品もいう。
このもち米(糯米)は、性をもつの品種であり、組成としてアミロースを全くあるいはほとんど含まない作物の種類を指すが、アミロースを含むものを(うるち)という。アミロ ースが多いと、ぱさぱさの米、少ないと粘りのある米、アミロースが無くなるともち米になるというわけ。ただし、近年では餅米と表記されていることもある。
餅は昔から日本人にとってお祝い事や特別の日に食べる「ハレ」(ハレとケ参照)の食べ物であった。
餅をハレの日に食べる習慣は古く水稲耕作による稲作技術が伝来したとされる弥生時代にまで遡(さかのぼ)るといわれている。
この時代に稲作信仰がはじまり、イネ(稲)には「稲霊(いなだま)」「穀霊(こくれい)」が宿り、人々の生命力を強める霊力があると信じられ、神聖な食べ物として崇められるようになる(田の神参照)。さらにお米の霊力は、それを搗(つ)いて固める餅や醸して造る酒にした場合、倍増すると考えられていた。
考古学的には、古墳時代後半(6世紀頃)の土器の状況から、この頃に蒸し器の製作が社会的に普及していたと判断され、日常的に蒸す調理による食品の種類が増し、米を蒸す事も多くなり、特に餅を作る事も多くなったと考えられている。
日本における餅に関する文献上の記述としては、奈良時代初期に編纂された『豊後国風土記』(8世紀前半)に次のような内容の話が語られている。
富者が余った米で餅を作り、その餅を弓矢の的として用いて、米を粗末に扱った。的として使われた餅は白鳥(白色の鳥全般の意)となり、飛んで行ってしまった。その後、富者の田畑は荒廃し、家は没落してしまったとされる。
この話は、白鳥信仰と稲作信仰が密接に繋がっていた事として語られ、古来から、日本では白鳥を穀物の精霊として見る信仰があった事を物語っている(小碓命[ヤマトタケルの幼名]の物語[近江・美濃を中心とする穀霊伝説]参照)。
餅には搗き餅(つきもち)と練り餅(ねりもち)という製法も材料も違う2種類の餅が存在する。 粒状の米を蒸して杵で搗いたものはつき餅(搗き餅)といい、穀物の粉に湯を加えて練り、蒸しあげたものは、練り餅(ねりもち)というが、日本では餅といえば通常つき餅をさす場合が多い。
餅が季節・行事ごとに供えられ食されるようになったのは、三種の神器の一つとされていた鏡(八咫鏡)に見立てて蒸した餅米を丸く成形した「鏡餅」を供える習慣を生み出した平安時代からの事である。
大鏡』(11世紀末成立)では、醍醐天皇(9世紀末から10世紀初め)の皇子が誕生してから50日目のお祝いとして、「五十日(いか)のお祝いの餅」を出された事が記述されている。この頃から餅は祭事・仏事の供え物として慶事に欠かせない食べ物となった。こうして、米などの稲系のもので作った餅が簡便で作りやすく加工しやすいことと相俟って、多様なつき餅の食文化を形成してきた(「主な餅の種類」など参照)。

さて、少し回り道したようだが、Wikipediaには、「最中」の原型は、もち米の粉に水を入れてこねたものを蒸し、薄く延ばして円形に切りそろえたものを焼き、仕上げに砂糖をかけた、干菓子(ひがし)であるといわれている・・・とある。
その名の由来は、平安中期の『 拾遺和歌集』(巻3・秋171)にある源順の以下の歌によると言われている。

「水のおもに照る月なみをかぞふれば今宵ぞ秋のも中なりける」

【通釈】水面に輝く月光の波――月次(つきなみ)をかぞえれば、今宵こそが仲秋の真ん中の夜であったよ。
【語釈】◇月なみ: 「波に映る月光」「月次(月の数。月齢)」の両義。◇秋のも中:八月十五日は陰暦では秋の真ん中にあたる。「も中」のモはマの母音交替形。
【補記】屏風絵に添えた歌。順集、初句は「池の面に」・・・・。以下参考の※4:「源順 千人万首」より。
中秋節の宮中で行われた月見の宴において、白くて丸い餅菓子が出されたのを見て、源順のこの歌を知っていた公家たちには、池に浮かぶ中秋の名月を思わせたので、丸い餅を” もなか(最中)の月”とも呼ぶようになったのがそのまま菓子の名前として定着したという。
「最中」の始まりは、風来山人他数多くの号を使い分けたことでも知られる平賀 源内が天竺浪人の名で著した『根南志具佐(根無草)』(前・後編4冊、※5参照)の《後編》(明和6年=1769年)には、“最中の月は竹村に仕出す”とあるように、江戸時代のことのようである。
江戸新吉原(吉原遊廓は、始めは日本橋近く[現在の日本橋人形町] にあり明暦の大火以降浅草寺裏の日本堤に移転、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ)の菓子屋竹村伊勢(竹村伊勢大掾)が、丸い形から十五夜の月になぞらえて「最中の月(もなかのつき)」という煎餅のようなものを作り、それが省略されて「最中」となった。これが「最中」の始まりと一般的には言われているのだが・・・。当初のものの実態は必ずしも明らかでなく,あんころ餅だとする説もあるようだ。

以下参考の※6「隆慶一郎わーるど」の浅草志を見ると、新吉原関連・その他の記述のところに当所名産として、
「巻煎餅 江戸町弐丁目万屋太郎兵衛初、今竹村伊勢製也 。最中の月 松屋忠次郎、甘露梅 松屋庄兵衛手製初 山口屋四郎・・」と、当地の名産がいろいろ書かれており、もう少し調べてみると、醉郷散人(沢田 東江か?)著『吉原大全』(明和5年=1768年)巻之四の “吉原年中行事”の中で、吉原名産について記載されているところに、以下のようにある。
「巻せんべいは、此里第一名高き名物なり。江戸丁二丁め角、万や太郎兵衛工夫しはじむ。今の竹村伊勢方なり。近此、最中の月といふ菓子をも製し出す」・・・と。(※7の [2]のコマ番号 10のところを参照)。
また、喜多川守貞著『近世風俗志』(嘉永6 年[1848/1/24-12/14])第二十編娼家下(※8:「国立国会図書館デジタルコレクション)」にも、吉原名物の七品に、「巻せんべい 中の丁 竹村伊勢」の名があり、「巻煎餅 巻きたる煎餅也 折詰にして進物に専用す」とある(※8のコマ番号394参照)。
これを読むと、「吉原名物」の「巻煎餅」と、「最中の月」は、いずれも「吉原名物」の七品に入ってはいるものの別物のようである。
「最中の月」の製造元は竹村伊勢ではなく、松屋忠次郎であるが、近頃は、最中の月といふ菓子をも製し出した・・というから、 「巻煎餅」だけでなく「最中の月」も元の製造元に何かの事情があり、その権利を竹村伊勢が買い取るか何かして、製造販売をするようになったのだろうか。
当時の長唄『俄 獅 子』(天保5年=1834年10月 4代目 杵屋六三郎作曲)には以下のような一説がある。

「 ヤア秋の最中の 月は竹村 更けて逢ふのが間夫の客 ヨイヨイ」

歌意は、間夫は、遊女の情夫であり、吉原名物「最中の月」のようななまん丸いお月さんがぽっかり浮かぶ秋の夜、間夫の客には夜更けにこっそり逢うものですよ・・といった意味か。



●上掲は長唄 俄獅子。時間があれば見てください。。

吉原には、旧暦8月に1か月間、芸者・幇間(ほうかん)が、仮装をして凝った踊りの新曲を見せた年中行事があり、それを吉原俄と呼んでいた。
この歌は、先に成立していた長唄『相生獅子』(※9のここ参照)の歌詞を元に、吉原の秋の行事であるの様子を盛り込んで、吉原の悲喜こもごもを描いた曲だそうで、この「俄獅子」が唄うのは、遊女と客の乱痴気騒ぎや痴話げんかに、夜更けの間夫との忍び会い。吉原の行事や名物だけでなく、男女の思惑が交錯する廓のさまを生々しいまでに活写している(歌詞※9参照)

吉原の菓子屋竹村は、文政11(1828)年の香蝶楼國貞の浮世絵『新吉原京町一丁目 角海老屋内鴨緑 かのも、このも』(伊勢屋三次郎板)にも見られる。その画像は「国立国会図書館デジタルコレクション - 浮世姿吉原大全」で見られる。以下参照。




上掲の画像は、文政11(1828)年秋の新しい遊女を売り出すイベント吉原細見(よしわらさいけん)上の筆頭の位置に鴨緑(あいなれ)が再び登場した。この時の鴨緑の新造出し(突出し)を宣伝するために制作されたものと推定されている。
図の背景に、吉原にあった菓子屋「竹村伊勢」の積物が描き込まれている。これは、贔屓が鴨緑の新造出しを祝って贈ったものである。
鴨緑の着物の、さらには、羽の禿針打ちの部分にも木瓜紋が認められる。日本の社会では、紋は個人や家を識別する記号として用いられてきたが、遊女の場合も同様であり、この紋は、この時、細見(さいけん)上の筆頭・角海老屋の遊女・鴨緑のロゴマークとして特別に与えられた紋の様である。この後ランクが落ちたときには、この紋は使用されていない。同じく國貞によって天保5(1834)年秋に描かれた『新吉原京町一丁目角海老屋内 愛染 ひよく れんり、常磐津 やよい はなの、鴨緑 かのも このも』(伊勢屋三次郎板)では、同年春まで筆頭の位置にあった鴨緑が退楼し、ここでは細見では二枚目になった別人の鴨緑の定紋が桐紋なっており、1位となった新しい愛染の襲名披露として描かれている、それは愛染の右下に描かれた竹村伊勢の積物が、そのことを示している。
竹村伊勢の積物には、竹村伊勢の名前と共に「丸に隅立四つ目」の紋(目結紋参照)が描かれている。
※7:国立国会図書館デジタル化資料「吉原大全」の[1]には、“お菓子所 武村 伊勢の積物がみられるが、これは饅頭を蒸す木箱の蒸籠を積んだ上に縮緬緞子などを積み上げているらしい。家に出入りする者に祝儀として振舞ったようだ。蒸籠の横にはどこか他のスポンサーの積物の酒桶のようなものが見える。ここでコマ番号 8~10参照)。

そういえば2010 (平成22)年4月、東京歌舞伎座改修のための取り壊し前の最後の公演は歌舞伎十八番『助六由縁(ゆかりの)江戸桜』が、締め括(くく)った。
歌舞伎宗家市川團十郎家のお家芸である『助六』は、江戸ッ子の代表のような美男子花川戸の助六と、意気地と張りを特徴とした吉原の遊女揚巻。悪所(あくしょ=江戸時代における遊楽街のことで、遊郭や歌舞伎小屋)を背景にして展開する大衆の祝祭劇であり、その舞台は、新吉原の妓楼の中でも最高級の大見世(最上級クラスの見世。※11参照)である。
『助六所縁江戸桜』の舞台は、新吉原の妓楼の中でも最高級の大見世、三浦屋をかたどっている。



●上掲は助六の舞台最初の部分であるが、まずは全部見なくても幕開きから少しだけ見てみてください。以下カッコ内役者の名前は、この時の助六出演者名を書いている。
幕が開けば吉原とりわけ、三浦屋入口の暖簾と、吉原に出入りしていた菓子屋の竹村伊勢の文字が目に入る。三浦屋は新吉原の京町一丁目に元禄期に実在していた。
舞台の両脇には「丸に隅立四つ目」の紋を描いた四角形と、『新吉原竹村伊勢』の文字とを交互に組み合わせたデザインの道具が飾られている
これは、竹村伊勢から贈られた蒸籠の積物を様式化して表現しているのだそうだ。積物の起こりは元禄期をそう遡らない時期だったそうだが沢山の積物は、富裕の象徴でもあり、広告として、現代でも大きな神社の祭りなどでは、酒樽などが積みあげられている。
今でいうコマーシャル(CM)の走りが「助六」で見られる。助六は吉原が舞台。劇中では芝居全体が吉原の宣伝をする。特に花川戸助六(十二代目團十郎)の恋人の揚巻(:坂東玉三郎)は、実在の妓楼「三浦屋」の花魁(おいらん)という設定で三浦屋にとってはこれ以上ないCMである。吉原の宣伝であることは、竹村と言う菓子屋の蒸篭を袖の張り物に描くことからも分かる。
揚巻が花道で酔いを醒ます「袖の香」(松屋と言う茶屋で売っていた薬)を飲み、髭(ひげ)の意休(市川左團次)の子分・くわんぺら門兵衛(片岡仁左衛門)の弟分・朝顔仙平(中村歌六)が名乗りのところでせんべい尽くしを述べて「竹村の堅巻煎餅が俺の親分」と言ってCM 宣伝する。他にも白酒売の新兵衛(尾上菊五郎)が売る「山川白酒」や 福山かつぎ寿吉(坂東三津五郎)の「福山のうどん」は、当時の実在の商品であった。
以下の助六2の場面10:00ぐらいのところで、中村歌六演ずる朝顔仙平が出場し、せんべい尽くしを述べる場面がある。ご覧あれ。この舞台とにかく出演者がすごい。今では懐かしい人となってしまった、十二代目團十郎や坂東三津五郎、それに、通人里暁 (りぎょう)を演じる十八代目中村勘三郎の滑稽な科白(せりふ)と股(また)くぐりが後半のところで見られるよ。時間があればぜひ1,2を通してご覧になるとよい。


「丸に隅立四つ目」の紋は武家の流れを引く者の紋のはずだが・・・、竹村伊勢とはどんな人物だったのだろう?吉原の遊女売り出しのスポンサーとなるくらいだから、ただの菓子屋ではなく相当の財力があったのだろう。
西村貘庵著『花街漫録』(2巻本。※12参照)には、「竹村菓子箱絵」として、「もなかの月」と「まきせんべい」の図が掲載されており、そこには、竹村伊勢源尹澄の名がみえる花街漫録 2巻本 [2] のコマ番号 18参照)。
崩し文字なのでよく読めないが、参考※13:「日本随筆大成 第一期「あ」-浮世絵文献資料館」によると、“吉原江戸町二丁目、菓子屋竹村伊勢大掾の菓子箱絵の解説文に「此うつし絵をみかし入の箱折などにはりつけもて印とはなしけり。こは狩野氏の画けるにて、ひとひらは英一蝶のものせる也」とあるそうだ。菓子箱絵を人気浮世絵師一蝶に書いてもらうのだから大したものだ。しかし、箱絵の解説文のところには、竹村伊勢大掾 万屋伊兵衛(先祖を竹村鷺庵 茶人○○云うとして何か書いているがそれ以下がよく読めない。
伊勢大掾の大掾とは、律令制が崩壊した中世以降,職人,芸能人などが受ける名誉号となり、近世では多様な職人や芸能人に宮中や宮家から与えられたそうだ。近世中期(江戸時代前期~中期か?)以降,ことに浄瑠璃太夫にかぎられ,大掾,掾,少掾の3階級に分けられ,掾号を受領することは,最高の名誉とされたそうだ。いずれにしても大掾号を手に入れているのだからもともと財力のある人だったのだろうが、不思議なことに、『江戸買物独案内』(3巻本。文政7年=1824年。※14)に菓子の有名どころが掲載されている(※14の[1]の202から~225まで参照)のだが、なぜか竹村伊勢大掾の名は見られないのはどうしてだろう?気になるがこの詮索はこれまでにしよう。

竹村伊勢の「最中の月」は、丸い煎餅のような干菓子で現在の餡入りものと異なったもの。当時、四角いものは珍しがられて「窓の月」と呼ばれていたそうだが、『江戸買物独案内』には、「南佐木町 大和屋近江掾 藤原森房と、築地小田原町二丁目 柏屋伊勢大掾が、「窓の月」取扱いを掲載している。
『江戸買物独案内』に「最中饅頭」の名前で掲載しているのは、日本橋に林屋善助と吉川福安の名があるがこれがどんなものかはしらないが、「最中の月」といわれるものはこの「最中饅頭」の方だったかもしれないな~。
江戸中期以降に2枚の煎餅に餡を挟むようになったという。その後も餡を挟む方法に改良が加えられ、明治期以降に金型技術の進歩し複雑な模様や形をした様々な現代のような最中の皮が完成。皮の部分は、元が菓子だったことから特別に「皮種」と称されている。この皮種で餡を挟んだ最中が、やがて全国的に広められていき、現在では各地で色々な種類の最中が銘菓として売り出されている。
それにしても、今日の記念日和菓子店「新正堂」の「切腹最中」。形は、はちまき姿で閉まるはずの皮は餡子を収めきれずに開いたまんま。冒頭の写真(画像は、「新正堂」HPより借用。見た目にはおいしそうだが、よくこのような名前の最中を販売しようと思ったものだ。販売前は、ずいぶんと議論を呼んだようだ。

切腹」は、自分の腹部を短刀で切り裂いて死ぬ自殺の一方法。主に武士などが行った日本独特の習俗(目的を果たせなかった場合などの)であった。自身や臣下の責任をとり、自身の身を以て集団及び家の存続を保とうとする行為。近世からは、自死のみならず処刑の方法としても採用された。腹切り(はらきり)・割腹(かっぷく)・屠腹(とふく)ともいう。
切腹は、日本独特のものと思われているが、中国やローマ時代にも、まれではあるが記録が残っている。 日本では事例が多く、長期にわたって行なわれ、法的に制度化された点に特色があるにすぎないという。
また、切腹は武士のみのものと思われがちだが、公卿にもいくつかの事例がある。中国では、南西部の各地で疑いをかけられた男女が切腹して真意を示そうとした。
これは、人の精神が内臓に宿っていると考えられたからで、 日本でも『腹を割って話し合う』とか、『腹黒いヤツ』などという表現があり、実際に身体の内部を相手に示して疑いを晴らそうとする方式が、本来東洋にあったのではないかという(『週刊朝日百科日本の歴史』、7-79「切腹」)。
切腹は外国でも日本の風習としてよく知られ、「hara-kiri」や「seppuku」として英米の辞書に載っている。小林正樹監督映画『切腹』もHarakiri(1962年)として海外で紹介された。
日本における切腹は、平安時代末期の武士である源為朝(1139年(保延5年) - 1170年(嘉応2年))が最初に行ったと言われている。また藤原保輔が988年(永延2年)に事件を起こして逮捕された時に自分の腹を切り裂き自殺をはかり翌日になって獄中で死亡したという記録が残っているが、彼の場合は切腹の趣旨である、己の責任を取る意図だったのかは明確ではない。
武士の名誉刑としての切腹の作法がほぼ完成するのは戦国末期で、後ろにばしたときに介錯人が立ち首を討つようになる。それは戦乱が続いた南北朝期には、切腹は敗者にとって最後の勇気と名誉を遺す手段となり、その結果として死そのものが目的となってきたからだ。
江戸時代の有職故実家の伊勢貞丈は切腹の作法に関して、切り口から臓腑のはみ出るのを最も忌むべき「無念腹」としているようだ。その理由は、主命によって名誉ある死を賜ったにもかかわらず、内臓が露出すると、本人の“潔白”の主張と受け取られ、逆に刑を申し渡した主人は誤っていたということになるからであった。
江戸も中期になると、切腹は名誉刑から実質的に斬罪(斬首刑のこと)に等しい型となる。つまり、罪人に刀を渡した時に最後の反抗を試みられては困るので、三方に短刀を載せておし頂かせ、手に取ろうと体を伸ばしたときに介錯人が首を切り落としたのである。赤穂四十六士の切腹も実態はこの形をとったようだ。どうしても自分で腹を切りたい場合には、介錯人に合図をするまで太刀を振り下ろさないよう求めたようである(『日本の歴史』7-79 P「切腹)。※16参照)。
浅野内匠頭長矩は勅使の接待役を命ぜられていた。浅野が吉良義央に切りつけたのは白書院に通ずる松之廊下と呼ばれる場所で、それは、勅使が到着する直前の元禄14年=1701年3月14日のことであった。浅野は「折柄と申し殿中を憚(はばか)らず。理不尽に切付候段、重々不届き至極」であるとして、即日切腹・改易の厳罰に処せられた。
それから,1年9ヶ月を経た翌年12月14日に、大石吉雄以下の浅野遺臣が本所のあった吉良邸に乱入し、吉良を殺害してその首を泉岳寺の浅野長矩の墓に捧げるという事件が起こった。赤穂浪士は義士であるから助命すべきという意見も強かったが、法を曲げることは天下に乱を引き起こす元になるという意見を綱吉は採用し、武士としての体面を重んじた上での切腹を命じたのであった。
「切腹最中の日」を設定した「新正堂」は、記念日設定の理由として以下のように言っている。
「殿中での刃傷とあればや無を得ぬお裁きとはいえ、ここで問題なのは、浅野内匠頭がいかに青年の激情家であったにしろ、多くの家臣、家族を抱える大名であったのだから、今少し慎重な調査がなされても良かったのではなかろうかということでした。喧嘩両成敗の原則をも踏みにじった、公平を欠く短絡的なお裁きが、後の義挙仇討ち「忠臣蔵」へと発展したことは否めません。当店は、切腹された田村右京太夫屋敷に存する和菓子店として、この「忠臣蔵」にまつわる数々の語り草が和菓子を通じて、皆様の口の端に上ればという思いを込めて、最中にたっぷりの餡を込めて切腹させてみました。「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」の辞世の句とともに、本品が話しの花をさかせるよすがともなればと心を込めておつくりしております。何卒、末永くご愛用の程伏してお願い申し上げます。」・・・と。
ここで言われているように、主君である浅野長矩だけが切腹となり、吉良義央に咎めがなかったのは「喧嘩両成敗」に反すると浅野家の家臣達が憤慨したと主張する説もあるが、幕府が喧嘩両成敗を殿中抜刀の被害者に適用した例はないそうだ。そもそも、松の廊下事件においては、浅野が背後から一方的に吉良に斬りつけ、吉良は気を失っているので「そもそも喧嘩として成立していない」「よって喧嘩両成敗は考慮できない」・・とも言われている。その他いろいろ言われているが、そもそも、『忠臣蔵』は仮名手本忠臣蔵の物語が史実として伝わったものであることを考慮して判断しなくてはいけないだろう。Wikipediaの元禄赤穂事件、また、それを要約したらしい※17:「忠臣蔵の謎と真実」など参照したうえでいろいろ考えて見るのも良いだろう。




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参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:新正堂HP
http://www.e-monaka.com/
※3:+月食と呼ばれる女性に優し古代米
http://www.maruza.net/SHOP/1123/list.html
※4:源順 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sitagou.html
※5:根南志具佐. [前],後編 / 天竺浪人 [著] ::古典籍総合データーベース:早稲田大学
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he13/he13_01731/index.html
※6::隆慶一郎わーるど
http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/index.html
※7:国立国会図書館デジタル化資料「吉原大全」醉郷散人著
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2554391?tocOpened=1
※8:国立国会図書館デジタルコレクション - 類聚近世風俗志 : 原名守貞漫
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899469
※9:TEAM TETUKURO NAGAUTA(長唄)
http://www.tetsukuro.net/nagauta.php
※10:おたくらしっく: 助六
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/cat23450715/index.html
※11:お江戸吉原ものしり帖 - 新潮社
http://www.shinchosha.co.jp/books/html/115332.html
※12:国立国会図書館デジタルコレクションー花街漫録 2巻本(以下で[2] コマ番号 18参照)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563735?tocOpened=1
※13:日本随筆大成 第一期「あ」-浮世絵文献資料館
http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/a7.html
※14:『江戸買物独案内』3巻本 画像データベース(早稲田大学)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko10/bunko10_06650/
※15:最中種(もなかの皮)の専門店 もなかや.com
http://monaka-ya.com/
※16:切腹の話
http://homepage1.nifty.com/SEISYO/sepuku.htm
※17:忠臣蔵の謎と真実
http://ashigarutai.com/rekishikan_cyushingura.html
「 竹村伊勢は、当たり前だけどお金持ちだったんだ。 」
http://ameblo.jp/tanekame/entry-10574059198.html







ウィンストン・チャーチルの有名な演説「鉄のカーテン」が行われた日

2015-03-06 | 歴史
1935年総選挙後、イギリスはこの時の議会構成(国民政府内閣=保守党と労働党・自由党の国民政府派による連立政権)のまま第二次世界大戦に突入。以来、イギリスでは選挙が行われていなかった。ノルウェー作戦の失敗の責任が当時の首相チェンバレンに向けられ辞任した後、その後任の首相に就任していたウィンストン・チャーチルは1944年10月にドイツとの戦争が終結次第、解散総選挙を行うと宣言していた。
翌1945年5月ドイツが降伏したことで労働党から解散総選挙すべきとの声が強まった。
チャーチルは日本の降伏までは挙国一致内閣を続けるべきであると主張したが、労働党はそれを拒否。保守党内でもチャーチルが英雄視されている今のうちに総選挙に打って出た方が保守党に有利とする意見が多かった。
そして、第二次世界大戦が終わった(欧州戦線における終戦1945年7月総選挙が行われたが、労働党に不本意な大敗を喫したためチャーチルの地位は戦勝に導いた栄光あるイギリス首相から野党党首へと転落した。
この選挙、慢性的な保守党の人気凋落が原因と考えられるが、労働党の大勝は小選挙区制度の賜物でもあり、得票数で見れば実は労働党は過半数も獲得していなかったようだ。下野したチャーチルはこの時、70歳になっていたが、引退する気はなく、引き続き保守党党首に留まった。
労働党は公約通り、イングランド銀行や重要産業の国有化を行い、また「ゆりかごから墓場まで」という福祉社会制度の充実を目指し、国民保険法や国家扶助法、福祉施設建設、累進課税強化など社会改良主義政策を推し進めていった。
これに対してチャーチルは「困窮を均等化し、欠乏を組織化するこの政策が長く続けば、ブリテンの島々は死せる石と化す」「労働党政権は第二次世界大戦にも匹敵するイギリスの災厄」「イギリスは社会主義の悪夢に取りつかれている」「社会主義は必ず経済破綻と全体主義をもたらす」と強く批判。
老いて反共闘争意欲がますます盛んとなったチャーチルは、1946年3月5日、アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンに招かれて訪米し、ミズーリ州フルトンのウェストミンスター大学で同月5日に講演を行った。
バルト海シュチェチンからアドリア海トリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。」・・・と。.この時「鉄のカーテン」という言葉を使ったことから「鉄のカーテン」演説と呼ばれている。
冒頭の画像は訪米中のチャーチル前イギリス首相が3月5日ミズーリ州フルトンのウエストミンスター大学で「鉄のカーテン」の演説をしているところ。その時の演説(動画)及び演説文(英文)は以下参考の※1を参照されるとよい。又、演説の骨子(和訳)などは参考※2 :「世界史の窓」のここを参照されるとよい。

第二次世界大戦中、米国・英国はソ連(ソ連邦)と、連合を組み(連合国)、欧州でドイツやイタリアの枢軸陣営(枢軸国)と戦った。
ドイツが占領していた広範な欧州地域は、西側を米軍が、東側をソ連軍が占領した。ソ連軍が占領した地域では、ソ連寄りの共産党政権が次々に樹立され、ソ連(ソ連邦)がこれら東ヨーロッパ諸国(東欧諸国)の共産主義政権を統制し、その結果、これらの国々は、ソ連の指導に従い西側の資本主義陣営(西側諸国)とは秘密主義・閉鎖的態度で交渉を絶ち、まるで鎖国のような状態になっていった。つまり、鉄製のカーテンだから覗いてもその向こうは見ることもできないという比喩である。
歴史のある、かつては自分たちの仲間だった中欧・東欧が鉄のカーテンの陰に隠れ、その向こうでどのようなひどいことが行われているかわからなくなったという嘆きであると同時に、そのようなソ連の動向に注意を喚起するように米国に呼びかけたものである。この後、ソ連(=共産圏)の排他的な姿勢を非難する言葉として多用されるようになり、又、冷たい戦争(東西冷戦)の幕開けを示唆する出来事として捉えられている。

戦後野党時代のチャーチルには、この「鉄のカーテン」演説と共に二大演説の一つとされている1946年9月19日スイスのチューリッヒ大学で行なった「欧州合衆国」演説と呼ばれているものがある。
チャーチルは、この演説で「われわれは、ある種のヨーロッパ合衆国(United States of Europe、USE)を樹立しなければならない」と訴えている(※3)。
ヨーロッパをアメリカ合衆国のように、一つの国民国家、一つの連邦国家にしようというシナリオは、過去にも色々と多くの人から提唱されていたことであったが、チャーチルのこの演説にはオーストリアのリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの協力があったという(※4)。
第二次世界大戦は、ヨーロッパに甚大な人的、経済的損失を残した。またホロコースト日本への原子爆弾投下などから、人びとは戦争、そして過激思想の恐怖を思い知らされた。このような恐怖、とくに戦争が世界に核兵器をもたらすようなことが2度とあってはならないと願っていた。しかしながら西ヨーロッパ諸国はイデオロギー的に相反する2つの超大国(米・ソ)が敵対するなかで列強としての地位を維持できなかった。
鉄のカーテンの向こうにはソビエトを中心とする巨大な社会主義陣営があり、大西洋の向こうには超大国に成長したアメリカが君臨している。ソ連の軍事的脅威やアメリカの経済力に対抗し、ヨーロッパに平和をもたらすには西ヨーロッパ諸国は統合し、一体化する必要がある・・・と考えていたのである。彼のヨーロッパ合衆国構想は反響を呼んだ。
スイスから帰国したチャーチルは 1946年末から自らの提案を実現するための組織作り活動を開始した。そして、1947年1月には欧州統合委員会を発足し、チャーチルが委員長に就任している。そして1949には「欧州評議会」が設立される。欧州評議会は、初めての汎ヨーロッパ機関ということになる。チャーチルは、「欧州合衆国」の演説で、自身はイギリスをヨーロッパ合衆国に含めていない考えを示していた(※3)ようだが、結局、イギリスは1973年に欧州連合(EU)に加盟し、欧州統合の流れの中に入っている。

「冷たい戦争Cold War(冷戦)」という語は、アメリカのジャーナリスト・政治評論家でもあるウォルター=リップマンが1947年に出版した著書の書名『冷戦―合衆国の外交政策研究』(The Cold War: A Study in U. S. Foreign Policy)に使用されたことから、その表現が世界的に広まった。
アメリカを盟主とする資本主義自由主義陣営と、ソビエト連邦を盟主とする共産主義・社会主義陣営との対立構造(「二つの世界」)は第二次大戦後の1945年から1989年までの44年間続き、米・ソが軍事力で直接戦う戦争は起こらなかったので、軍事力で直接戦う「熱い戦争(Hot War)」「熱戦」に対して、「冷たい戦争(Cold War)」「冷戦」と呼ばれたものである。
この米・ソ両陣営の対立は共にドイツ・日本の枢軸陣営(枢軸国)と戦っていた第二次大戦中に始まり、1945年のソ連のヤルタでの米・英・ソ首脳会談(ヤルタ会談)での米・ソの戦後世界のいわば分割協定(ヤルタ体制)から始まった。
ポーランド問題など大戦終結前から米・ソ両者の対立は抜き差しならぬものがあったが、戦後はヨーロッパでのドイツ問題ここも参照)と、アジアにおける朝鮮問題で深刻さの度合いを増していった(朝鮮半島は当面の間連合国の信託統治とすることとしていたが、米ソの対立が深刻になると、その代理戦争が朝鮮戦争となって勃発し、朝鮮半島は今に至るまで分断されている)。因みに、現在も続く日本の北方領土問題の端緒となったのもこの時のヤルタ秘密協定(極東密約、単にヤルタ協定とも)によっている。
本格的な東西冷戦は、ソ連・東欧圏の共産主義勢力がギリシア、トルコ方面に伸張することを恐れたアメリカのトルーマン大統領が、1947年3月12日、トルーマン=ドクトリンを発表(内容は、※2のここ参照)し、共産主義封じ込め政策(Containment)を採ったあたりから始まる。
アメリカは、第二次大戦中の陸軍参謀総長としてアメリカを勝利に導いたジョージ・マーシャルが、国務長官に就任した1947年の6月5日、ハーバード大学の卒業式で講演し、後に「マーシャルプラン(正式名称:欧州復興計画、European Recovery Program, ERP)」といわれるものによって、欧州の反共諸国に対する超巨額の軍事・経済的援助を行い、西洋諸国の囲い込みを始めた。
その受入をめぐり、ヨーロッパ諸国は対応が二分され、西側諸国は受け入れ、東欧諸国は拒否した。また、チェコスロヴァキアはいったん受入を表明したが、ソ連の圧力で撤回し、それをきっかけに共産党政権が成立した。
このような状況のままでは、欧州各国はアメリカかソ連に二分割されかねない。このような状況に危機感を持っていたのがイギリスやフランスなど西側の首脳である。彼らは"米・ソのどちらにも属さない第三陣営"としての欧州の生き残りをかけた外交活動を模索していた。この流れで進められたのが欧州統合構想である(欧州連合の歴史参照)。
アメリカのマーシャルプランを受け入れた西側16カ国は、1948年に、受入機関として欧州経済協力機構(OEEC)を組織した。
同機構はマーシャル・プランに連動する形でアメリカの要求による為替と貿易の自由化とヨーロッパ域内諸国間と欧米間の関税を引き下げることをその目的としている。現在の欧州統合に先立つ概念をもった機関である。
このOEECは、後(1961年)の経済協力開発機構(OECD)に発展する(※5)。この援助資金を得て、イギリス、フランス、西ドイツ、イタリアなどが大戦での経済基盤の破壊を克服して、復興を成し遂げることができた。
一方マーシャルプランの受入で動揺した東側諸国を引き締めるため、ソ連も1947年9月にはコミンフォルム(共産党情報局)が組織され、1949年にはコメコン(COMECON- Council for Mutual Economic Assistance の略.。経済相互援助会議の西側での通称)による各種の援助を始動、東ヨーロッパ諸国の囲い込みを始めた。こうして冷戦構造が本格化していった。

このマーシャルプランで提供された資金の多くは使途を指定され、生産に必要な機械類や生活に必要な農作物に限定されており、それらはアメリカ産のものを買うことになるので、結果として資金はアメリカに環流する仕組みになっていた。ヨーロッパ経済が復興しなければ、ヨーロッパ各国がドル(外貨)準備ができず、アメリカの輸出もできなくなることになる。ヨーロッパを復興させることはアメリカ経済にとっても不可欠だったのである(米ドルは第二次世界大戦後しばらくは主要通貨で唯一の金本位制を維持していた通貨であり、各国の通貨は米ドルとの固定レートにより間接的に金との兌換性を維持していた[ブレトン・ウッズ体制]。その当時に形成された米ドルを基軸通貨とする体制は、金本位制停止および変動相場制導入の後も継続されている。)。
戦後から1960年代までの時代を「パクス・アメリカーナ(アメリカの平和)」といい、アメリカは長らく資本主義世界の主導権を握っていた。

イギリスも19世紀半ばごろから20世紀初頭までは世界の覇権を握る国家(パクス・ブリタニカ)であった。しかし第二次大戦後は、充実した社会保障制度(所謂「大きな政府」)にあぐらをかき、国家レベルで堕落していき「英国病」と言われるほどの経済停滞を招いていた。そして1973年のオイルショックによる高インフレが追い打ちを掛け、経済成長率が低下、税収入が減少していき、財政赤字は増加.。1976年には、遂に財政破綻し、IMF(国際通貨基金)から融資を受ける羽目に陥った。。
この屈辱を経て、その後イギリス政治史上初の女性首相となったマーガレット・サッチャーは、「イギリス病」退治に取り組み、イギリス経済は活力を取り戻し、政治経済的威信を回復し、17世紀後半以降の歴代内閣で記録的な長期政権を築いた。「ゆりかごから墓場まで」の語に示された「大きな政府」による福祉国家を市場原理に基づく「小さな政府」に切り替える一連の政策は、「サッチャリズム」とよばれ、同時期の米国大統領ロナルド・レーガン政権によるレーガノミクスとともに新自由主義の代名詞となった。
彼女についた有名なあだ名「鉄の女」は、1975(昭和50)年2月の保守党党首選挙でエドワード・ヒースを破り党首に就任した。

上掲の画像は1975年2月11日の2度目の党首選で快勝し、夫のデニス、息子のマークとともに支援者の歓呼にこたえるサッチャー夫人。(「朝日クロニカル週刊20世紀』1975年号より)
党首に就任した同年、サッチャーは、イギリスを含む全35ヶ国で調印、採択されたヘルシンキ宣言(1975年7〜8月、フィンランドのヘルシンキにおいて開催された「全欧安全保障協力会議」で採択された最終の合意文書)を痛烈に批判した。ヘルシンキ宣言 とは、ヨーロッパの現状をそのまま固定しようというような内容で、ソ連主導の宣言 だったようだ。
これに対し、ソ連の赤軍機関紙『赤い星』が記事の中で、侮蔑的な意図をもってサッチャーを「鉄の女」と呼び、非難したものだった。しかし、党首選の翌日、『デーリー・エクスプレス』紙は「はっきり言えることは彼女が筋金入りの闘士だということだ」と褒めたという(『朝日クロニクル週刊20世紀』1975年号)。
チャーチルが「鉄のカーテンが存在する」という有名な演説をした。若い時これを聞いたというマーガレットはそれから30年「鉄の女」へと成長したのであった。




参考:
※1:チャーチルのミズーリ州フルトンのウエストミンスター大学での演説(動画)及び演説文(英文)
http://www.americanrhetoric.com/speeches/winstonchurchillsinewsofpeace.htm
※2:世界史の窓
http://www.y-history.net/index.html
※3:Winston Churchill, speech delivered at the University of Zurich, 19 September 1946 :欧州評議会
http://www.coe.int/t/dgal/dit/ilcd/Archives/selection/Churchill/ZurichSpeech_en.asp
※4:“Рихард Николас фон Куденхове-Калерги”. 汎ヨーロッパ連合 (PANEUROPA.ru).
http://www.paneuropa.ru/home.php?id=3&lang=
※5:欧州統合の歩み -金融用語辞典(金融大学)
http://www.findai.com/yogo001/0031y01.html
欧州統合運動とハーグ会議(469KB) - 東京経済大学(Adobe PDF)
http://www.tku.ac.jp/kiyou/contents/economics/262/262_kojima.pdf#search='1947%E5%B9%B4+%E6%AC%A7%E5%B7%9E%E7%B5%B1%E5%90%88%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A+%E7%99%BA%E8%B6%B3'
ヤルタ協定 - 国立国会図書館
http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j04.html
ヨーロッパの東西分断(鉄のカーテン、東西ドイツの成立など)
http://manapedia.jp/text/3577
池上彰の教養講座 .■「鉄のカーテン」が下ろされた
http://syukai.com/nikkei231.html
「チャーチルの欧州合衆国構想」(EJ第3310号)
http://electronic-journal.seesaa.net/article/272174239.html