今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

ガス記念日

2006-10-31 | 記念日
今日(10月31日)は、「ガス記念日」
日本ガス協会が1972(昭和47)年に制定。
1872(明治5)年9月29日(新暦10月31日)、横浜の馬車道でガス灯が点灯された。馬車道は、神奈川県横浜市中区にある地域名及び道路名である。馬車道という地名はない。2004(平成16)年、横浜高速鉄道みなとみらい線が開通し、当地域に馬車道駅が設置されている。
アメリカが江戸幕府に開国を要求し、日米通商修好条約が結ばれた。これによって貿易のため横浜港が開かれ、関内に外国人居留地が置かれた。その関内(かんない)地域と横浜港を結ぶ道路のうちの1つとしてこの道は開通した。外国人はこの道を馬車で往来していたが、当時の人々にその姿は非常に珍しく、「異人馬車」などと呼んでいたことから、この道は「馬車道」と呼ばれるようになったようだ。
横浜港に直結していた馬車道は、明治時代、日本の外国文化への玄関口であった。そのため横浜には「日本初」というものが多く見られるのだが、この馬車道には特に多く見られる。
ここを見られると良い↓
関内・馬車道・伊勢佐木町エリア  http://www.welcome.city.yokohama.jp/tourism/manabu/a_area/otona/a2.htmlその中の1つに日本初の事業としてのガス灯の点灯がある(1872年10月31日(旧暦 明治5年9月29日)) 。
1870(明治3)年、)、横浜の実業家、高島嘉右衛門(かえもん)が中区花咲町にガス会社「日本ガス社中」(後の東京ガス)を設立し、高島はフランス人技師アンリ・プレグランを招き、1872(明治5)年に、神奈川県庁付近と大江橋から、馬車道、本町通りまでのおよそ600メートルの街路に、ガス街灯十数基を点灯した。これが日本のガス事業のはじまりである。これを記念して、1986年(昭和61年)9月、馬車道商店街協同組合が中区住吉町4丁目に「日本で最初のガス灯」の碑を建て、1972年(昭和47年)には、日本ガス協会が、10月31日をガス記念の日としている。 また、1984年(昭和59年)には、東京ガス株式会社が横浜市中区花咲町3丁目に「日本ガス事業発祥の地」の碑を建てている。
これが、しばしば「日本初のガス灯」とされているようだが、鹿児島県鹿児島市の庭園・仙巌園には、1857(安政4)年に日本で初めてガスの炎を灯した石灯籠である「日本初のガス灯」がある(我が国初のガス灯(鹿児島県庁のサイト))。さらに、1871(明治4)年に大阪市の造幣局において機械の燃料として用いていたガスを流用する形で、工場内および近隣周辺でガス灯を点灯しており、これも日本で始めて街灯としてガス灯を設置した例とも言われている。(独立行政法人造幣局 - ガス灯について )その時使われたガス灯の器具は現在も残されている。なお現存する最古のガス灯は兵庫県神戸市にある。神戸市の相楽園内の旧ハッサム邸の前庭に建つ2本のガス灯は1874(明治7)年に神戸居留地に設置されていたものである。
相楽園~ 旧ハッサム住宅 ~|神戸市中央区ホームページ↓
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/83/base/mati/01-99/mati43.htm
現在日本の家庭・事業所は、水道・ガス・電気・電話という4つのネットワーク型インフラの上に成り立っている。この内、水道は各自治体の直営、電話は携帯を除き、NTTの事実上の独占、電気は旧日本電力が分割された9電力会社(+沖縄電力)で運営されているが、ガスについては、家庭によってLPガスや天然ガスなど多数の企業体によって様々に供給されている。基本的に、ガス会社はガス管で供給する形式の都市ガスとボンベで供給する形式のプロパンガスに分類される。この内都市ガスの場合は地域割されていて各地域では独占企業であるのに対して、プロパンガスの方はそのような規制によらず都市ガスの供給地域内外で激しい競争をしている。
昔(1980年代まで)は、石炭を原料にした石炭ガスが使われていたが、現在、都市ガスの原料は、中東などから輸入した液化天然ガス(LNG)に液化石油ガスを混合して熱量調整した「13A」(燃焼性等によるガスグループ区分)と呼ばれる規格が主であるという。又、天然ガスは、燃焼する際に発生する二酸化炭素の排出量が少ないのが特徴で、また、窒素酸化物の排出も少なく、硫黄酸化物は全く排出しないクリーンで環境にやさしいエネルギーだといわれている。家庭では、料理のためのガス器具としてだけではなく、暖房、給湯など幅広い用途に使われている。
わが国では、原料の長期的確保と石油代替エネルギーの促進を目的に、1969年にLNGの輸入を開始。天然ガスは世界各地に豊富に存在し、可採年数は60年以上と言われ、中東地域以外からも新しいガス田が次々に発見され、将来の埋蔵量は現在の3倍程度が予測されているそうだ。産出量は、ロシアが、ずば抜けて多く、日本も、国策として、米、インド、ロシアなどとの共同事業体による開発を進めてきていたが、日本の輸入調達に支障が出てきたといった報道があった。
中国などの急速な経済成長などもあり、世界的に将来のエネルギー不足が予測されているおりから、これからのエネルギー開発をしっかりとやっていってほしいものだ。
(画像は、ホームセンター前にテントを張って行われている大阪ガスのガス展会場)
社団法人日本ガス協会
http://www.gas.or.jp/default.html
馬車道 (横浜市) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E8%BB%8A%E9%81%93
東京消防庁<消防雑学事典>国会議事堂の火災原因をめぐり宣伝合戦
http://www.tfd.metro.tokyo.jp/libr/qa/qa_37.htm
ガス灯マップ
http://www4.famille.ne.jp/~tsuno-m/bashamichi/map/light-map.html
明治期の横浜を照らしたガス灯~横浜都市発展記念館
http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/news1.html
相楽園~ 旧ハッサム住宅 ~|神戸市中央区ホームページ
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/83/base/mati/01-99/mati43.htm
都市ガス - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E5%B8%82%E3%82%AC%E3%82%B9
都市ガス事業の現況
http://www.gas.or.jp/gasfacts_j/index.html
「サハリン2」 記事検索 - goo ニュース
http://news.goo.ne.jp/search/article/?MT=%A5%B5%A5%CF%A5%EA%A5%F3%A3%B2&IE=EUC-JP&OE=EUC-JP&day=30&ihost=www.asahi.com

ニュースパニックデー

2006-10-30 | 記念日
1938(昭和13)年の今日(10月30日)、アメリカ・CBCラジオで放送されたSFドラマ『火星人来襲』の中で、演出として「火星人が攻めてきた」という臨時ニュースを流した所、本物のニュースと勘違いされ、アメリカ中で120万人以上が大パニックになったといわれる。
このラジオドラマとして放送された『宇宙戦争』が全米で聴衆にパニックを引き起こした事件は、あまりにも反響が大きく、これがもとでフィクションを放送する場合に一定の規制をかける法律が制定されたほどだという。
そのラジオドラマは、アメリカのCBSネットワークにおけるマーキュリー劇場という番組で放送されたもので、宇宙人が地球(アメリカ)に攻めてきたという内容のものであるが、現場からの報告など、実際のニュース放送のような形で放送された為、多くの市民が現実に起きている出来事と勘違いし、パニック(Panic)を引き起こしたのである。
この作品をプロデュースしたのは、オーソン・ウェルズであった。オーソン・ウェルズは、H.G.ウェルズのSF小説『宇宙戦争(The War of the Worlds)」』※の翻案、『火星人襲来』を放送する際、演出上、舞台を現代アメリカに変え、ヒンデンブルグ号炎上の時を思い出させるような臨時ニュースで始め(全長245メートルの空飛ぶ豪華船の着陸中継をしていたラジオ局のアナウンサーが目の前で起きたあまりの惨事にただ絶句する様子が生々しい臨場感を持って伝えられたという)、以後もウェルズ演じる目撃者による回想を元にしたドキュメンタリー形式のドラマにするなど、前例のない構成や演出と迫真の演技で放送を行った。その結果、聴取者に本物のニュースと間違われパニックを引き起こしたのである。
しかし、ドキュメンタリー形式のドラマの演出に臨場感があったとはいえ、何故、ラジオ番組ぐらいで、これほどのパニックを引き起こしたのだろう?。
それにはドラマ演出のは他に、次のような要因があった。その1つに、この放送がされた当時の時代背景にある。放送がされた1938(昭和13)年当時の合衆国市民は、潜在的に戦争への不安、とりわけナチズム(1933年から1945年までドイツを支配した"国民社会主義ドイツ労働者党、ナチ党”のイデオロギー)の恐怖に怯えていた。また、大恐慌(1929年10月24日の「暗黒の木曜日(Black Thursday)」)の記憶がまだ新しい時であり、人々は飢餓の恐怖を現実的なものとして受け止めていた。そして、2つ目には、偶然性が重なったことである。CBSのマーキュリー劇場は聴取率が非常に低い不人気番組だった(『宇宙戦争』前週の聴取率は3.6%)が、当時アメリカ国民の3人に1人以上が聴取していた国民的人気を誇る裏番組に不人気歌手が登場し、多くの人が局を変えた瞬間、たまたま火星人によるニュージャージー州襲撃のくだりが放送されていた。その上、ワシントン州コンクリートでは偶然にも、停電が起きるというアクシデントがあったといい、このような時代背景や、偶然性が重なったことがパニックに拍車を掛けた原因でもあるといわれている。
パニックとは、突然起こる不安・恐怖(ストレス)による混乱。恐慌ともいい、社会学では、集団が非論理的な行動を取ることをパニック(集団ヒステリーとも)と呼ぶ。一般的に、パニックは閉鎖された危機的状況によって発生しやすいと思われているが、実際には完全に逃げ場が無い場合に於いては、然程(さほど)パニック状態に陥り難い事が知られているそうだ。その例としては、落下中の航空機内等であるが、過去の大規模な航空機事故発生時には、乗客は強いストレスに晒されながらも、一定の理性を保っていたと言う報告が成されている。パニックに陥り、搭乗口をこじ開けて機外に飛び出した人の事例は極めて少ないという。しかし、集団的なパニックが発生した場合、本来は危険度が低い現象にも関わらず、被害が拡大するケースが見られ、この宇宙戦争放送事件でも、ウェルズがドラマの中で再三に渡って、これはフィクションである旨のコメントを入れており、内容も「火星人襲来」という突飛なものであったにもかかわらず、パニックで異常行動をとるのは、やはり、人よりも早く助かりたいとの感覚がそうさせるのだろう。
しかし、ここで、一般の大衆は、テレビやラジオ・新聞などの報道を「信じられないほど信じてしまう」ことに留意すべきであろう。最近は、TVなどでも、健康ブームで、いろいろな番組で「○○が何々によい」などと、番組で紹介しているが、そうすると、そのことが噂になり、あっと言う間にスーパーの○○商品が売切れてしまう。前には、「赤ん坊を寝かすのにうつぶせに寝かすのが良い」などと、その通りにして、赤ちゃんが窒息死した事件もあった。本当にそれが良いか、確認する事もなく、皆が見たり、聞いたりした事へ我先に走り出すのである。
このようなことを書いていると、先ず、思い出すのが、今から33年前の1973(昭和48)年に起きたオイルショックによるトイレットペーパー騒動 がある。このことは、又、後日、書こうと思うので省略するが、この騒動も、この宇宙戦争の放送が全米で聴衆にパニックを引き起こした事件と本質的にはよく似ている。
1950年代から1960年代初頭のSF映画には『地球最後の日』のように大惨事を描くものが多かった。1970年の『大空港』の成功により、1970年代はパニック映画が流行した。
昨・2005年アメリカ映画で、SF映画『宇宙戦争』 (War of the worlds) が公開された。H・G・ウェルズによる同名の小説。「宇宙戦争 (The War of the Worlds)」を原作としたものであるが、この映画はH・G・ウェルズの小説だけではなく、1938年のラジオドラマや、1953年の映画「宇宙戦争」の要素を引用している。スティーヴン・スピルバーグ監督作品であり、 トム・クルーズは出演のほか製作にも参加している。 製作費は1億3200万ドル。6月29日に日米同時公開された。しかし、H・G・ウェルズの『宇宙戦争』が土台になっているとはいえあまりにも違うものであり、戦争の無惨さ、悲惨さは、よく出ていたようだが、スピルバーグ監督作品としては、あまり評判はよくなかったようだな~。
(画像は、コレクションの映画チラシ「宇宙戦争」。スティーヴン・スピルバーグ監督作品。 トム・クルーズは出演)
パニック-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF
飛行船の歴史■ヒンデンブルグ号炎上
http://www.benedict.co.jp/Smalltalk/talk-28.htm
世界恐慌 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%81%90%E6%85%8C
日本航空123便墜落事故 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%88%AA%E7%A9%BA123%E4%BE%BF%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85
第80回 トイレットペーパー騒動のころ
http://www2u.biglobe.ne.jp/~akiyama/no80.htm
噂 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%99%82
「対談 報道が創りだすモラルパニック「治安悪化」という神話」
http://www.shinpei.jp/writing/media12.html
映画「宇宙戦争」公式サイト。
http://www.uchu-sensou.jp/top.html
1938年 昭和13年の出来事
http://www.d3.dion.ne.jp/~t_uchita/koukoku/1938/h.g.welze/kaseijin01.html
直前『地震速報』で『パニック』本当?(東京新聞
http://www.tokyo-np.co.jp/00/kakushin/20060802/mng_____kakushin000.shtml




戦後初の宝くじが発売された日

2006-10-29 | 歴史
1945(昭和20)年 の今日(10月29日)、戦後初の宝くじ「政府第一回宝籤」が発売された。
宝くじとは、集団で金銭を出し、それをまとめ、経費、目的とする財源の費用を差し引いた総額を賞金として割り当てたのことである。
日本においては、古くは江戸時代などにおいて神社や寺の修復費用を集めるなどの目的で行われ、富籤(とみくじ)とも富突き、富興業などとも呼ばれていた。興業主が富札を売り出し、それと同数の木札を箱に入れ、所定の日に、箱の小穴から錐で突き刺して当り番号を決めた。江戸では、宝永のころから行われたが、盛んになったのは 享保の末ごろかららしい。文化文政期には谷中感応寺や湯島天神、目黒不動が江戸の三富として盛況をほこったという。関西では、「浪速 高津宮」(大阪市中央区高津1ー1ー29)が有名で、落語の[高津の富」、「祟徳院」、「高倉狐」の舞台となっている。しかし,日本の「富くじ」の起源は、約380年前の江戸時代初期。摂津箕面(大阪府)の瀧安寺で始まった、富会(とみえ)だというが、これは、当初、ただ、当せん者にお守りを授けるだけのものだったという、(後には、次第に金銭と結びつき「富くじ」として町に氾濫するようになったらしいが)。この瀧安寺のことは、前に書いたブログ、今日(9月2日)は「宝くじの日」でも簡単に触れたので、ここでは省略する。
この富くじも、天保13年(1842年)の「天保の改革」によって禁止され、明治になってからも、明治元年(1868年)の「太政官布告」によって、厳しく禁じられ、長い間、日本では「富くじ」は発売されていなかった。宝くじが、初めて、発売されたのは、1945(昭和20)年になってからである。
それは、第二次世界大戦中の1945(昭和20)年7月16日 、日本政府が軍事費の調達をはかるため、その名も勝利の祈りをこめて、「勝札」として発売したものがそれである。 しかし、この「勝札」は、抽せん前に敗戦となり、皮肉にも「負札」とよばれることになったという。このときの、「勝札」の裏面には「此ノ證票ノ發賣ニ依リ擧ゲタ收益ハ凡テ大東亞戰爭ノ戰費ニ充テラレマス」とあっったという。(以下参考の近代日本初の“宝くじ”を発掘!より)
この「勝札」、名称を「宝くじ」と変更して発売されたのが、1945(昭和20)年 の今日・10月29日のことであった。だから、これが、日本の「宝くじ元年」とされているようである。
このときの宝くじは、1枚10円で、1等は、賞金10万円 とカナキン(純綿キャラコ)2反。はずれくじ4枚で、たばこ10本がもらえたという。戦後の物資不足でインフレのさ中、金より物といった切実な世相を反映してのもの。副賞の賞品(タバコやカナキン)がもてはやされたという。兎に角、この時代の流行り言葉は以下のようなものであった。
「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」・・・8月15日昭和天皇の終戦の詔書。・・・兎に角、耐えて耐えて耐え抜く事が生きる道であった。
「銀めし」「銀シャリ」 ・・・混じり物のない白米の飯・・・おかずなどなくとも、ただ白い米を食べる事が夢のような事であった。
「竹の子生活」「タマネギ生活」 ・・・この当時は竹の子の皮をはぐように、衣類その他の所有品を売って生活費にあてる暮しをしていた。一皮むくごとに涙がでるというので「タマネギ生活」 とも言ったが、辛い生活だったのだよ。
「バラック」 ・・・家も焼かれ、焼け杭や古木材、焼けトタンで工夫した建物に住んでいた。
1946(昭和21)年には、法律が改正され、政府のほか都道府県でも宝くじを発売できることとなる(第1号「福井県復興宝籤」)。この年、宝くじ、三角くじ、スピードくじ、野球くじなどが大人気で、世をあげて雑くじ時代が到来し、その売上は10億円に達したという。そして、1947(唱和22)年には、東京都が第1回東京都復興宝籤を発売(3月10日)するほか、地方くじが続々登場。この年、12月1日勧業銀行が一等賞金100万円(10本)の宝くじを発行した(1枚50円)。超インフレで白米など2年間で25倍の値上がり。アッと驚く100万円くじの登場は、この年の10大ニュースにもとりあげられる。そして、1948(昭和23)年、現在の根拠法「当せん金附証票法」が制定。副賞の賞品に住宅一棟が登場する。 1951(昭和26)年対日平和条約調印、それを記念した9月、政府の講和記念宝くじ(50円30円20円3枚つづりシートくじ)が発売される。最高賞金額が、初めて400万円(1シート当たり)となり、大評判となる。この当時で、400万円と言うと家が一軒建つくらいの金額である。1954(昭和29)年、政府くじ廃止にともない「当せん金付証票法」が一部改正される。この年の最後の政府くじ1枚100円(1等当選金は初のズバリ400万円)が発売された。その後、時代とともに、当選額は多くなり、1968(昭和43)年 には、 一等の当選金が1000万円に達する。 1974(昭和49)年、史上初の前後賞付2000万円くじが発売される。1等は1000万円だが、連番で買って前後賞500万円当たれば、2000万円となり、大人気となる。1976(昭和51)年12月21日 には、年末のジャンボ宝くじ売り場に群衆が殺到し、福岡と松本で死者が出る騒動になる。 そのことを踏まえ翌1977(昭和52)年 には、ジャンボくじの官製往復はがきによる予約制が導入された。
1980(昭和55)年5月に発売のドリームジャンボ宝くじでは1枚300円、1等3,000万円となった。1985(昭和60)年5月に、宝くじの法律「当せん金付証票法」が改正され、宝くじの最高賞金額は「宝くじ1枚の価格の20万倍まで」となった。これにより、同年11月に発売の年末ジャンボ宝くじは、1枚300円で、1等5,000万円となった(1等・前後賞合わせて7,000万円)。このように当選額は、どんどんと、エスカレート。1996(平成8)年に宝くじ発売開始以来、初めてのズバリ1等賞金 1億円の宝くじが誕生。(阪神・淡路大震災復興協賛宝くじ1枚500円)。
そして、今年(2006=平成18)年の「年末ジャンボ宝くじ」(第513回全国自治宝くじ)は、11月24日より全国で一斉に発売される(1枚の価格は300円)が、その当選額は、1等・前後賞合わせて3億円!! (1等2億円、前後賞各5,000万円) となっている。しかも、1等2億円が74本、2等1億円が296本も当るという。又、この発売予定額だけで、2,220億円というのだから凄い・・・の一語だね~。 そして、昨(2005=平成17)年には、宝くじ年間販売額が4年連続して1兆円を突破し、1兆742億円となる(平成16年4月~17年3月)。というが、そんなお金、どこから出てくるんだろうね~。
宝くじは国民の射幸心(しゃこう-しん )を煽り(あおり)、努力もせずこのような大金を手に入れると人生をも狂わしかねないといわれながら、昭和20年7月には、浮動購買力を吸収して軍聖戦遂行のための軍事費の調達をはかるため発行され、戦後は一転して、戦災によって荒廃した地方自治体の復興資金調達をはかるため、各都道府県が独自で宝くじを発売できることとし、日本経済の救世主の役割をも担わされた宝くじ。販売総額のうち約40%が収益金として発売元の地方自治体へ販売実績に応じて納められ、公共事業などのために使用されている。(その他の内訳は「当せん金:45.8%」「売捌手数料・当せん金支払手数料:7.4%」「その他経費など:6.8%」となっているのだそうだ)。 お分かりのように、今年の年末のジャンボ宝くじを1枚300円で購入すれば、その中の300円×45.8%=約137円分が、当選した誰かの所にまとめて入るわけだ。
今の時代でも普通のサラリーマンなどにとっては、億単位のお金を手にすることは、夢の又夢の話であり、当てたい気持ちはよく分かる。しかし、購入額の50%以上が、自分達のところへは戻ってこないので、私のような現実的な夢のない人間には、どうしても買う気が起こらない。しかし、宝くじを買っている人達は、買っている金額の40%は地方自治体へ寄付をし、残り、14,2%は宝くじ販売等に携わっている人達を養うために払っているのだと思えば、たとえ、外れでも、嘆く事はないよね。先ず、夢を買って、夢に敗れても、誇りを持って生きれるよね。これから、堂々と、生きていってください・・・(^0^)。
しかし、この宝くじ、米国などには、430億円(3億6500万ドル)の大当たりがあるというから凄いね~。私など、日本の宝くじの3億円でも当たろうものなら、卒倒するだろうが、430億何度と言うともう、完全に,昇天してしまうよ・・・。いや、最も、買わないから当るわけないけどね・・。(^0^)
(画像は、富くじ。右画像日本銀行蔵。左下方は、春日神社の富くじ。第一勧業銀行蔵。週刊朝日百科・日本の歴史より)
参考:
宝くじ-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E3%81%8F%E3%81%98
在団法人日本宝くじ協会
http://www.takarakuji.nippon-net.ne.jp/index.html
宝くじあゆみ
http://www.takarakuji.nippon-net.ne.jp/ayumi.html
今日(9月2日)は「宝くじの日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/25e3b436dae77da639498506f04ac9a3
高津宮(高津神社)
http://www.kouzu.or.jp/map.html
【上方落語メモ第1集】その十一 「高 津 の 富」
http://homepage3.nifty.com/rakugo/kamigata/rakugo11.htm
史上最高額の米宝くじ当選者が名乗り出る
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1731343/detail
みずほ銀行・宝くじコーナー
http://www.takarakuji.mizuhobank.co.jp/
1945年[ザ・20世紀]
http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1945.html
REPORT No.6 [特集] 多様化するリスクマネジメント
http://www.mizuho-ir.co.jp/report/200307/itsolution.html


大阪・新世界の通天閣再建の日

2006-10-28 | 記念日
今日は、1956(昭和31) 年10月28日に戦中に火災で崩潰した大阪・新世界の通天閣が再建された日。また、それから、今年は、50周年目の日にあたる 。
通天閣(つうてんかく)は、大阪府大阪市浪速区の新世界界隈の中心部に建つ展望塔である。(所在地:大阪府大阪市浪速区恵美須東1-18-6)「通天閣」とは、「天に通じる高い建物」という意味で、命名したのは明治初期の儒学者、藤沢南岳である。(以下参考の森琴石「響泉堂」 関係人物紹介 師匠・先輩たち 参照)
”♪♪通天閣こうて 通天閣高い 高いは煙突…”
と、子どものしりとり歌にまで歌われた通天閣。 現在の通天閣は二代目であり、阪妻の映画「王将」にも出てくる通天閣は現在のものではないが、当時の通天閣は、大阪のシンボルでもあった。以下のHPでは、初代の通天閣とルナパークが見れて当時を偲べるよ。大阪といえばやっぱり通天閣 ↓
http://homepage1.nifty.com/masaaki/osaka/osaka1.htm
現在の二代目通天閣は、1956年(昭和31年)に完成し、今は、民間会社の通天閣観光株式会社が運営している。避雷針を含めた高さは103m(塔自体の高さは100m)。設計者は、ほぼ同時期にできた東京タワーなどを設計した内藤多仲である。完成翌年の1957年(昭和32年)から、塔の側面に総合電機企業の日立製作所が大きく広告を出している。この通天閣の事は、前に私のブログ、絵葉書のコレクション紹介時にも案内しているので、興味のある方はそちらでも見てください。以下です。↓
今日(7月3日)は、「通天閣の日」大阪名所絵葉書room2-27-3
通天閣の展望台からは大阪の街を一望できる。幸運の神様「ビリケン像」が鎮座していることでも有名だ。地下には「通天閣歌謡劇場」があるが、ここには、大阪の伝説的な棋士故阪田三吉にちなんでつくられた「通天閣囲碁将棋センター」が併設されていた。碁盤を合わせると150面あり、日本一大きい道場としてスタートした通天閣囲碁将棋センターも時代の波にのまれて2001(平成13)年 、坂田三吉の命日にあたる7月23 日 の「王将祭」を最後に25年の幕を閉じた。今は、松竹芸能が運営を行っている。「歌謡劇場」では、現在、演歌歌手の歌謡ショーが催されており、NHK朝の連続テレビ小説「ふたりっこ」のオーロラ輝子のモデル、通天閣の歌姫・叶麗子さんも月1回程度出演しているそうだ。(以下参考の[演歌の道]参照。)
夜になると、広告のネオンと共に、翌日の天気予報を4つの色の組み合わせで示すネオンサインが塔頂上に点灯する。私は、今日このブログを作るまで気がつかなかったのだが、このネオンサインの装置は大阪管区気象台と専用回線で接続されており、そこからの情報に基づいてが予報が表示される仕組みになっているそうだ。(通天閣オフィシャルサイトの天気予報サインを参照)1979年(昭和54年)に日立製作所により制作、設置されたものという。
この大阪のシンボル的存在の通天閣が開業50周年を迎えたのを機に、化粧直しが行われた。通天閣が再建された翌年の1957(昭和32)年からネオンを掲出している日立製作所がネオンを全面リニューアルし、新ネオンの点灯式が昨27日に行われた。約4カ月間かけて工事を進められ、費用は2億円程度かかったという。以下では、新旧通天閣が対比して見れますよ。
大阪紹介リニューアル通天閣↓
http://www1.linkclub.or.jp/~spanky/YH001/osaka/10tutenkaku2.html
東西南北4面の広告文字や、塔の縦横に走るネオンラインを一新し、通天閣の顔だった日立の赤いマークはなくなった。又、東面の大時計のデザインも円形から八角形なり、ネオンデザインはタワー全体がゴールドに光って見えるように一新。リニューアル後の通天閣はシルエットがこれまでよりも一段と幻想的に浮かび上がるようになった。六本木ヒルズ(東京・六本木)の照明デザイナーを務めた岩橋庸夫氏がデザインに当たったそうだ。近年、大阪には超高層ビルが多く出現し、また老朽化もあいまって目立たなくなりつつあった通天閣であるが、27日の点灯式でスイッチを入れた作家の藤本義一さんが「人の気持ちでつながっている人間味豊かな塔。この『閣』は大阪の『閣』でありつづるだろう」と祝っていたが、これからも大阪の象徴の一つとし光り輝き、大阪の観光コースの一つとして、頑張ってほしいものだ。
私も、若い頃、大阪の会社に勤めていた頃は、会社の飲兵衛仲間と通天閣のある新世界へはよく飲みにいったものだ。北や南とは、違った、庶民的な町は、安く遊べて、若い頃の私達飲兵衛にはあり難いところであったが、今は、どうなっているんだろう。もう、長いこと行っていないので、この機会に一度行って見たいな~。(画像は、通天閣ネオン点灯の広告。日立。10月27日朝日夕刊より)
参考:
通天閣(つうてんかく)オフィシャルサイト
http://www.tsutenkaku.co.jp/
通天閣 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E5%A4%A9%E9%96%A3
今日(7月3日)は、「通天閣の日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/af0d9305a3402faa7b104438cecb770a
大阪名所絵葉書room2-27-3
http://m-yousan.hp.infoseek.co.jp/room2-27-3.html
森琴石「響泉堂」 関係人物紹介 師匠・先輩たち 儒学
http://www.morikinseki.com/kankei/s_jugaku.htm
[演歌の道]
http://www.netwave.or.jp/~n-hirao/
棋界トピックス・通天閣の囲碁将棋センターが閉鎖
http://www.nikkei.co.jp/igo/topics/20011127g14br019_27.html
通天閣天気予報(ネオン)表示装置
http://www.cs26.scitec.kobe-u.ac.jp/~mmaeda/neon.html





読書の日

2006-10-27 | 記念日
今日(10月27日)は、「読書の日」
「読書週間」の1日目の日である。(読書週間 10月27日~11月9日)
現在の読書週間は1947(昭和22)年に読書週間実行委員会(現在の読書推進運動協議会(読進協))が始めた。
19248大正13)年に日本図書館協会が「図書週間」(11月17日~23日)を制定した。昭和8年には「図書館週間」と改称され、出版界では「図書祭」が開催されていた。しかし、戦争の影響で、1939(昭和14)年には一旦廃止されてしまった。
1945(昭和20)年の終戦直後、食べるのもやっとという日々にもかかわらず、日本の出版活動は活発に動き出した。一般の人々の読書欲も高く、その機運を感じとった出版社・図書館・取次・書店・報道・文化関連各団体約30が「新生日本を文化国家に」との合い言葉のもと、1947(昭和22)年に読書週間実行委員会を結成。11月17日から23日まで第1回の読書週間が行われた。当時の反響は大きく、「一週間では惜しい」ということで、2回目からは10月27日から11月9日まで文化の日をはさんだ2週間となり、現在に続いている。
1959(昭和34)年11月に、読書週間実行委員会の任務を引き継いで「読書推進運動協議会」が発足した。その後、1969(昭和44)年10月に社団法人に改組されている。(読書推進運動協議会HPより )
2006(平成18)年10月27日(金)~11月9日(木)の期間中「書店くじ」実施店で、書籍・雑誌500円を買い上げの人は「書店くじ」が貰えるらしい。枚数に限りがあるらしいが、どうせ本を買うなら、この機会に買いたいね~。
昨・2005(平成17)年10月27日から始まった「読書週間」を前に、読売新聞社が行った全国世論調査では、”国民の「本離れ」が定着化の傾向を示す一方で、読書で「満足」した人が9割に達し、人生観に影響を受けた人も6割を占めた。IT(情報技術)時代にあって、若者を中心にインターネットによる本の購入が増える傾向もみられ、価値観の多様化や環境の変化を受け、読書の世界もいろいろと変わりつつあるようだ。”・・・とのことである。ここ参照。
このデーターが示しているように、読書で「満足」している人が9割というが、「1か月間本を読まず」の男性は49%女性54%、平均52%であり、本を読んだと答えた半数以下の48%の人の9割が「満足」しているという事なんだよね。しかも、本を読んだといっても、パソコンなどのほか、実用的なものが殆どのようであり、純粋な文学などのものは、少ないのだろう。だから、最初から、自分の求めていた内容のものを買うから、満足度も高くなるんだろうね~。私など文学作品など、昔よく読んだが、それなりに気に入りそうなものを購入してもなかなか満足できないものも多くあった。兎に角、若者の「活字離れ」は相当深刻になっているようだ。最近は、テレビや、漫画など映像文化が発達しており、これはこれでよい事だが、活字を読むことからは離れているようだ。
私など、一番心配しているのは、先日もTVでやっていたが、日本人でありながら、日本語の分からない若者が増えてきていることだ。本当に「ここまで来たか!」と唖然とする状況だ。その要因に、携帯電話でのメールなども影響しているというが、短い文字数で要件を伝えるというのは悪い事ではないが、正確に伝えるのは、非常に難しい事である。よく言われるように、「俳句」などの、5・7・5のたった17文字で、相当深い意味のことを表現する技法は、幅広い奥の深い知識があった上に季語などの約束事を前提に表現できる事であり、又、内容を理解できるものである。つまらぬわけの分からぬ絵文字等を使って文章の表現をしていると、しまいに、アホばかりになってしまうのではないか。
最近は、音楽ブームで、若者が器用に作曲をしたり、作詞をしたりして、それを自分で歌ったりしている。しかし、ものすごい数の曲が作られているようであるが、昔のような名曲は少ない。日本語を知らない人間に日本の詩など作れるわけがなく、つまらない詩に適当な曲をつけて歌っても人に訴えるものなど出来る訳がないと私は思っている。
メールなどで使われている絵文字を見ても分かるように、戦後の日本人に一番欠けていることは、「ほどほど」と言うことがなくなった事である。要するに、何事もデジタル化し、「イエス」か「ノー」しかなくなっているのである。中庸というものがなくなった。昔、凄く人気のあった宮武外骨の『面白半分』と言う雑誌があった。
外骨は、ジャーナリスト、新聞史研究家、江戸明治期の世相風俗研究家であるが、外骨の出版した刊行物の中でももっとも有名な『滑稽新聞』は、1901(明治34)年に大阪で創刊された。時事批評だけでなく下世話な世相の話題まで扱い、現代の週刊誌に相当する内容であった。外骨の記事は巧みに仕込まれた毒とパロディー精神に富み、さらに挿絵も腕の良い職人の手になるもので、一般大衆に人気を博した。1908(明治41)年10月、売れ行きは好調だったが、173号を以て「自殺号」として廃刊。しかし翌月には『大阪滑稽新聞』を創刊して事実上の後継誌とした。
宮武外骨の”外骨”とは一見するとのようであるが、幼名の亀四郎の亀は"外骨内肉"の動物であることにちなみ、19歳の時に自ら正式に改名したもので戸籍上の本名であり、図書館の窓口などで「号ではなく本名をお願いします」などとたびたび言われるのが癪だと言って、「是本名也」と彫った印鑑を用いたというエピソードがあるという。又、”のちに〈がいこつ〉を〈とぼね〉と改めた。姓の“宮”と“武”がともに権力を示すとして嫌い、「我国には姓のない御方がある」ので、姓や氏は必要がないとして「廃姓広告」を出した。墳墓廃止を主張し、自分の死体を買い取る人を求めた。悪習慣に従う道徳家であるよりも、悪習慣に逆らう「不道徳家」であろうとした。”という。(以下参考のペンネーム図鑑より)兎に角、反骨と風刺諧謔に富む奇人として知られ、権力揶揄による入獄4回、罰金、発禁などの筆禍は29回に及ぶという。そんな外骨が1929(昭和4)年 創刊、(5号か6号で廃刊 )した”面白半分・真面目半分”のエッセイ集が『面白半分』である。内容は別として、外骨のこの『面白半分』のタイトルと、そのスタイルに学んだかたちで、1972(昭和47)年から1980(昭和55)年まで続刊された雑誌があった。1970年代を象徴するサブカルチャー・マガジン『面白半分』は佐藤 嘉尚が株式会社面白半分を設立、創刊したものであるが、吉行淳之介、野坂昭如、開高健、五木寛之、藤本義一、金子光晴、井上ひさし、遠藤周作、田辺聖子、筒井康隆、半村良、田村隆一が交代で編集長を務めていた。永井荷風作ではないかといわれる、『四畳半襖の下張り』を掲載して、裁判で闘ったことで知られた『面白半分』は、その後、外骨の『滑稽新聞』の「自殺号」を思わせる、「臨終号」というのを出して、1980(昭和55)年12月号をもって廃刊した。
この雑誌は名前の通り、”面白半分・真面目半分”を特徴としているが、廃刊された1980(昭和55)年も頃だったと思うが新聞の「天声人語」に、雑誌が廃刊となった理由に、言葉は違っているかもしれないが、”今や「面白半分」が理解されない時代に入った。・・といったような事が書かれていた。確かに、コメディーの舞台にしても、松竹新喜劇の寛美などの”笑いと涙”のお笑いから、吉本新喜劇の芸ではない、ただのギャグの連発だけの笑いのものに替わっていた。以降、どんどんと単純化してゆき、今や、お笑いも落ちるところまで落ちないと笑えない人達が多くなっている。同じ笑いにしても、文学上はいろいろな笑いがある。それを単に絵文字の(^0^)だけで、笑いを表現するようになると、もうお仕舞いである。こんなことをしていると、簡単に言えば、笑っていなければ、泣いているか、怒っているか、普通にしているかしかなくなるのである。外骨や、それ以降の『面白半分』の作家達の、一貫したメソッド(method)は、「諷刺」と「滑稽」にあったと思うが、今や、「非難・中傷」と「下種な笑い」しか見られない時代になっているといってよい。そのようなことが、今のようなすさんだ時代を作っている背景にある様な気がしてならない。昔の日本人の豊かな表現力が、例え角の立つ話であっても角の立たないようにし、やわらかく表現し”和をもっ尊し”といった世界をつくっていたように思うのだが・・・。活字を読まないことから言葉を忘れ、表現力が低下し、単純なデジタル思想の蔓延は、きっと、国を滅ぼす事にもつながってゆくのではないかと思われる。単に読書のことだよと侮ってはいけないのではないか。
(画像は2006「読書週間」ポスター。読書推進運動協議会 より借用)
参考:
読書推進運動協議会
http://www.dokusyo.or.jp/index.htm
読書週間 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AD%E6%9B%B8%E9%80%B1%E9%96%93
本屋さんへ行こう
http://www.shoten.co.jp/nisho/
読書週間 “本離れ”傾向変わらず…本社世論調査(2005年10月28日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20051028bk01.htm
宮武外骨 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%AD%A6%E5%A4%96%E9%AA%A8
宮武外骨解剖
http://www2s.biglobe.ne.jp/~dolly/
宮武外骨(みやたけがいこつ)
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/miyatakegaikotu.htm
宮武 外骨 と は
http://www.geocities.jp/shioji2002/gaikotu.htm
全国小売書店経営実態調査報告書(PDF)
http://www.shoten.co.jp/Nisho/information/bookstorereport.pdf
「世界 本の日 サン・ジョルディの日」にちなんで募集した第1回読書アンケートの結果
http://www.shoten.co.jp/Nisho/worldbookday/campaign/06anke/06anke.html
宮武外骨著・「面白半分」 書評
http://y-kyorochann.at.webry.info/200603/article_2.html
「面白半分」の作家たち―70年代元祖サブカル雑誌の日々 (集英社新書) 佐藤 嘉尚 (著)
http://www.book-navi.com/book/syoseki/omoshiro.html