今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

木歩忌

2015-09-01 | 人物
今日・9月1日は境涯の俳人と呼ばれた富田木歩(とみたもっぽ)の1923年の忌日である。
東京の下町、墨田区向島2丁目の、隅田川に沿った墨堤(ぼくてい)通り(墨田区吾妻橋から足立区千住桜木までの道路の呼び名)から少し入ったところに、三囲神社(三囲稲荷社。※1:「Google Earthで街並散歩(江戸編)」の江戸北東エリアの三囲神社も参照)がある。創建年は不詳であるがなかなか由緒ある神社で、三囲の名は社殿の下から掘り出された翁がまたがる白狐の神像から白狐が現れて、三遍回って姿を消したことに由来するとされる(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー『江戸名所図会』※2の7巻.-19の本文参照)。
新春行事の「隅田川七福神めぐり」(※1の江戸の巡礼の隅田川七福神)の神社のひとつにもなっている。この三囲神社(三囲社)のことは、以前このブログ「雨水」(うすい)で触れたが、元禄6年(1693年)、旱魃(かんばつ)の時、松尾芭蕉の一番弟子と言われる俳人宝井其角が偶然、当地に来て、地元の者の哀願によって、この神に雨乞いする者に代わって、

「遊(ゆ)ふた地(=夕立のこと)や田を見めくり(三囲)の神ならは」

と、一句を神前に奉ったところ、翌日、降雨を見たという。このことからこの神社の名は広まり、京都の豪商三井氏が江戸に進出すると、その守護神として崇め、三越の本支店に分霊を奉祀したという。

国立国会図書館・近代デジタルライブラリー『江戸名所図会』(※2)の19巻-4「三囲稲荷社拡大図」

そのせいか、同社境内には、其角の句碑をはじめ、著名俳人の句碑がたくさんあり、その中に、富田木歩の句碑もある。

「夢に見れば死もなつかしや冬木風 木歩」

同句碑は、全国の俳人有志が浄財を出して、木歩の慰霊の為に建てたもので、同句碑の書は臼田亞浪による。
句碑裏面には「大正拾参年九月一日震災の一周年に於て木歩富田一君慰霊乃為建之友人一同」と刻まれている(※3 参照)。
1989(平成元)年3月には、富田木歩終焉の地である枕橋(※1の江戸北東エリア・隅田川・向島の源森橋参照)近くには、以下の句碑が墨田区によっても建立されている。

「かけそくも咽喉(のど)鳴る妹よ鳳仙花 木歩」

肺を患い死期の迫った妹を歌ったものである。木歩はすぐ年下の妹を看病をするが、妹もまた兄思いであった。その妹は大正7年7月になくなている。
富田木歩は多くの俳人の中でも特異な俳人である。木歩は、1897(明治30)年4月14日、東京市本所区新小梅町(現在の東京都墨田区向島一丁目)、つまり、三囲神社のすぐ隣りに生まれた。木歩が生まれた明治30年頃は、まだ江戸時代のおもかげの残った下町であったという。
最初の俳号は吟波、後に木歩と号するようになる。誕生の翌年、高熱のため両足が麻痺し生涯歩行不能になった。加えて貧困のため、本人の強い希望にもかかわらず義務教育である小学校にも通えず、2人の姉・富子や久子に当時の「いろはがるた」や「軍人.めんこ」などを読んでもらって文字を覚え、それを頼りに、少年雑誌のルビ付きで難しい漢字をも会得したという。
俳号の木歩は、彼が歩きたい一心で自分で作った木の足に依る。
彼には4人の姉妹と兄、聾唖の弟がいたが、姉妹は貧困のゆえにことごとく遊郭に身を落とし、一人の妹と弟も結核で亡くなっているが、彼の最期も無惨なものだった。
木歩自身も、1918(大正7)年21歳のころから、喀血するようになり、病臥の身となった。歩行不能、肺結核、貧困、無学歴の四重苦に耐えて句作に励み、「大正俳壇の啄木」と言われ将来を嘱望されていたが、1923(大正12)年9月1日、関東大震災で焼死。26歳の短い生涯を終えた。

そもそも、富田家は旧家で代々、向島小梅村近辺の大百姓だったそうだ。向島には三業組合(三業とは 芸者置屋、料理屋、待合のことであり、三業組合の事務所として見番[検番]がある)が今でもあり、花街がある。また隅田川土手は隅田公園と言われ、江戸時代に8代将軍・徳川吉宗が桜を植えたのが始まりの桜の名所として有名。そして、同じく吉宗が大川端(現在の隅田川河畔)で催した、「川施餓鬼」(死者の霊を弔う法会=施餓鬼)に遡る隅田川の花火(ここ参照)は夏の風物詩であり、冬は雪見の名所でもあった(※4、※5参照)。
広義の向島、隅田川東岸には「牛島」「柳島」「寺島」などといった地が点在していた。対岸地域から見て、これらを「川向こうの島」という意味で単に「向島」と総称したとも言われている。「向島」の名前が正式な行政地名としてつかわれるようになったのは1891(明治24 )年に向島小梅町、向島須崎町、向島中ノ郷町、向島請地町、向島押上町などといった地名の誕生からのこと。墨田区が成立する前、1932(昭和7)年、向島区が成立した。
木歩の祖父は明治のはじめにそんな向島に初めて芸妓屋を開いて花街の基礎を作った人で、言問にあった「竹屋の渡し」も所有していたそうだ。
隅田川には江戸時代を通じて渡し(渡し船)は増え続け、最盛期の明治時代初頭には20以上の渡しの存在が確認できるという。
「竹家の渡し」はその一つで、「向島の渡し」とも称された。待乳山聖天(本龍院)のふもとにあったことから「待乳(まつち)の渡し」とも称される。「竹屋」の名は付近にあった茶屋の名に由来するという。現在の言問橋のやや上流にあり、山谷堀から 向島三囲神社)を結んでいた。
先にも書いた通り、付近は桜の名所であり、花見の時期にはたいへん賑わったという。竹屋の渡しは、文政年間(1818年 - 1830年)頃には運行されており、1933(昭和8)年の言問橋架橋前後に廃された。近くの台東区スポーツセンター広場に渡し跡の碑がある(※1のここ参照)。
しかし、木歩の祖父の七男丑之助、すなわち、木歩の父親は、万事派手で博打好きで、分けてもらった財産のあらかたを無駄に使い尽くし、おまけに1889(明治22)年の大火で屋号「富久」の本家も資産の大方が灰に帰すと、1897(明治30)年ごろには丑之助一家は、小梅町の一角に鰻屋「大和田」をやっと開いているだけの貧乏所帯だったという。
そんな、父丑之助、母み禰(みや)の次男として生まれた木歩の本名は、一(はじめ)と言った。一が生まれた時、既に長男の金太郎、2人の姉(長女富子と次女久子)がいた。
木歩が次男なのに一と名付けられたのは、母の実兄、野口紋造に子供がないことと、貧乏だったので、口減らしの為、生まれてすぐ、養子になる約束を取り交わしていたからだが、木歩は、1歳の時に高熱を出して両足が麻痺してしまったが、長じるに従がって、膝から下は萎びた細い脛がだらりとぶら下がっているだけで、両足がきかなく歩けなくなっったため、養子の約束は伯父の方から破約されてしまった。そして、三男利助、更に2人の妹、三女まき子、四女静子と兄弟は7人となり所帯はますます苦しくなった。その上、無情にも弟利助は聾唖者だった。そのため世間からは鰻屋は「殺生をして商いをする家だから、二人も不具者が出たのだ」と陰口されていたという。
後に“我ら兄弟の不具を鰻賣るたゝりと世の人の云ひければ”…と題して木歩は以下の句を詠んでいる。

鰻ともならである身や五月雨(さつきあめ)

ここで彼はいっそ鰻にでもなりたい、鰻にさえなれぬ、と諧謔(かいぎゃく)の背後に悲痛な哀感を滲ませて呟いている(※6:「やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇」のやぶちゃん版新版富田木歩句集参照)。

生まれながらにして不運な木歩。なんともやりきれなかったことだろう。
父丑之助の鰻かばやきの店は、もともとあまり繁昌しない小店であったが、その上に、1907(明治40)年全国的な大水害で、隅田川が決壊する大洪水があり、店は水没して、大きな被害を受けた。そのため、二人の姉富子と久子は店の再興資金のために上州高崎の遊郭へと売られて行き、足萎えの木歩にも玩具造りの内職をさせて、苦しい家計を助けさせるに至った。さらに、3年後の1910(明治43)年、一が13歳の8月にも、関東一円から宮城県下まで大洪水で、東京府内では隅田川ほとりの町が最も惨状だった(明治43年の水害については※7参照)という。富田家は、この大洪水によって大打撃を受け、いよいよ貧困に陥り、1912(大正元)年には、父親も不遇のうちに世を去ってしまった。
家業は兄が継いだが、一向に暮らしは立たず、小梅町の店をたたみ、母と弟妹を連れて本所仲之郷(詳しくは判らないが現在の住居表示で向島三丁目あたりか?)の小店に引越し、そこで再び鰻屋「大和田」の暖簾を掲げた。足萎えの一も口減らしのため翌年16才の時に、友禅型紙彫りの奉公に出された。しかし、奉公先では陰湿ないじめに会い、耐えられずその年の冬、家に戻る。半年の奉公だったが、そこで2つ年下の「兄弟子」土手米造と出会った。冷たい朋輩の中で、優しく親しんでくれた彼はのちに木歩の最初の句仲間となり、波王と号している。

友禅型彫りの仕事から戻った「大和田」に一の居場所はなかった。一が奉公に出ている半年の間に兄金太郎の嫁梅代は子を生み、「大和田」の店は兄夫婦中心の家になっていたからだ。不具者がいると店の客商売にも障りとなるのを知って、一と母、弟、妹らは裏の叔母、野口みよの小さな家に同居させて貰うことになった。叔母は鰌(どじょう)屋の板前の良人をもつ貧しい生活だったが、温かい善意の人で、その甥たちを迎え入れてくれたという。
大好きな少年雑誌を読むことと、そのころから見よう見まねで始めた俳句だけを心の支えとして一は吟波の俳号で俳句の試作を始めた。
俳句との出逢いは1913(大正年)年頃、少年雑誌の中にあった巌谷小波の俳句のページに惹かれ、俳句を作るようになったという。はじめ『石楠(しゃくなげ)』主宰の臼田亞浪(先に挙げた「三囲稲荷社」の木歩句碑の書人)が選をする「やまと新聞」俳壇に投句し入選をつづけ、1914(大正3)年「ホトトギス」8月号の、投句資格が初めて句作する人に限られた「俳句の作りやう」欄に吟波の名で投句した、「朝顔や女俳人の垣穂より」の一句が「少年吟波」の名で初入選。原石鼎は忙しい中を再三指導に来てくれたが、芸術家的であり、放浪型の天才肌タイプの吟波にはなじめず、原石鼎から遠ざかり「ホトトギス」からも離れたという。
そして、翌・1915(大正4)年、彼は臼田亞浪に師事し、「石楠」に投句するようになった。臼田亞浪の真実を重んじる句風なり、生き方なりに共鳴するものがあったからだったという。
この年、姉の富子と久子、兄金太郎の三人が金を出し合い、本所仲之郷曳舟通り(※1のここ→曳舟川/古川の土手道また、※8参照)の棟割長屋を借りてくれた。
一は、母み禰、弟利助、妹のまき子、静子らと一緒に叔母の家からそこへ移った。長姉の富子はその頃、須崎の芸妓屋「新松葉」の主人白井浪吉の妾となって、高崎から向島へ戻ってきており、次姉の久子は北海道の昆布商人の妾となって小樽に移り住んでいた。まき子は印刷工場に通い、利助は玩具店で働きはじめた。母み禰と木歩はその玩具店から人形の屑削り(鋳型の泥人形のふちの屑を削り取る作業)の内職を回してもらった。だが、その仕事は不定期で収入が安定せず、少しでも日銭を稼ごうと駄菓子屋も始めた。開店の費用は、富子と久子が都合してくれたようだ。
そんな棟割長屋の駄菓子屋の入口に一が「小梅吟社」の看板を掲げたのは1916(大正5)年、20歳の時である。一と出会った友禅型紙彫りの奉公先を辞め広島に帰っていた土手米造が再び上京し、旧交をあたため、木歩の俳句の熱心な弟子となった。木歩は米造の俳号を「波王」と名付けた。かつての型紙職人の朋輩を誘って、ほかに近くの向島医院の代診の亀井一仏など数人の弟子ができ、「小梅吟社」に近所の若い職工などもやって来るようになった。
また木歩は、父や兄が遊び人であったおかげで藤八拳花札がめっぽう上手く、百人一首にも長じていたため、小梅吟社は俳句団体というより少年少女の倶楽部であり、若者らの明るい声に包まれる社交場ともなっていたという。
女流作家で俳人でもある吉屋信子は、1963(昭和38)年、生前の新井声風に会い話を聞き、著書「底の抜けた柄杓-憂愁の俳人たち-『墨堤に消ゆ』」の中で、木歩の若い宗匠ぶりを次のように書いているという。
「……その狭い長屋の六畳からはみ出るほど人が集まったとは、若くして吟波には人間の魅力があったと思える。不具にありがちな陰気な暗さやひがみはまったく彼にはなく、じつに明朗でかつもの柔らかに謙譲だった……」(※9参照)・・・と。

「今宵は向嶋の姉に招かれて泊りがてら遊びに行くのである。
おさえ切れぬ嬉しさにそゝられて、日毎見馴れている玻璃窓外の躑躅でさえ、此の記念すべき日の喜びを句に纒めよと暗示するかのように見える。
母は良さんを連れて来た、良さんと云うのは此の旅を果させて呉れる――私にとっては汽車汽船よりも大切な車夫である。
俥は曳き出された。足でつッぱることの出来ぬ身体は揺られるがまゝに動く。
私の俥は充分に外景を貪り得るように、能う(あとう=できる)だけの徐行を続けているのだが、矢張り車夫として洗練されている良さんの足は後へ後へと行人を置きざりにして行くのである。
やがて見覚えのある交番の前を過ぎた。道は既に紅燈紘歌の巷に近づいたのである。煙草屋の角や駄菓子屋の軒などに、江戸家とか松葉とか云うような粋な軒燈(けんとう)が点いている。それは煙草屋や、駄菓子屋の屋号ではなくて、それらの家々の路地奥にある待合や芸妓家の門標(もんぴょう。表札。門標に同じ)であることに気のついた頃はそうした軒燈を幾つとなく見て過ぎた。
旨そうな油の香を四辺に漂わしながらジウジウと音をさせている天ぷら屋の店頭に立っている半玉(はんぎょく)のすんなりした姿はこの上もなく明るいものに見られた。
この町のこうした情調(じょうちょう)に酔いつゝある間に俥は姉の家へ這入るべき路地口へついた。蝶のように袂をひらめかしながら飛んで来た小娘が「随分待ってたのよ」と云う、それは妹であった。
家に入ると、姉は私を待ちあぐんで、既に独酌の盃を重ねているのだった。私も早速盃を受けて何杯かを傾けた。
俳句などには何の理解も持たぬ姉ながら妹に命じて椽(縁。和風建築で,部屋の外側につけた板張りの細長い床の部分)の障子を開けさせたり、窓を開かせたりして私を喜ばしてくれるのは身にしみて嬉しかった。
三坪ほどしかない庭の僅か許りの立木ではあるが、昨年来た時の親しみを再び味わしてくれるのに充分である。昨日植木屋を入れて植えさせたと云う薪のような松が五六本隅の方に押し並んで居るのも何となく心を惹く。手水桶,(ちょうずおけ)を吊り下げてある軒端の八ツ手(ヤツデ)は去年来た時よりも伸び太って、そのつやつやしい葉表には美しい灯影が流れている。五勺ほどの酒でいゝ気持になった。

墓地越しに町の灯見ゆる遠蛙

行く春の蚊にほろ醉ひのさめにけり

こうした句作境涯に心ゆくばかり浸り得さしてくれた姉に感謝せざるを得ない。恰も如石が来たので妹などゝ椽先に語り合った。」

上掲は富田木歩が人力車で近くに住む姉の家を訪ねた際の記録を日記形式で纏めた随筆『小さな旅』(5月6日から5月8日3日間)の初日5月6日の部分を抜粋したものである。
初出は『俳句世界』1918(大正7)年6月号に掲載されたもの(※10青空文庫参照)である。
向島の木歩の家から姉富子の住む妾宅までは健常者であれば歩いてもさして時間がかからない距離なのだが、脚の不自由な木歩にとってはまさに「小さな旅」だったのだろう。
五月七日の記載のところに、「この家の裏に淡島寒月さんの居宅があって・・」とあるが、淡島寒月は、作家、画家、古物収集家で父親は画家の淡島椿岳。広範な知識を持った趣味人であり、日本文化の研究で、山東京伝を読んで井原西鶴のことを知り、幸田露伴尾崎紅葉など文壇に紹介したことが明治における西鶴再評価に繋がったという。大正のこのころ向島弘福禅寺に隣するところにあった梵雲庵で隠居生活をしていたようだ(※11参照)が、梵雲庵には3000あまりの玩具と江戸文化の貴重な資料があったという。
この随筆を書いた前年、一(木歩はこの頃吟波を名乗っている)20歳の時に棟割長屋の駄菓子屋の入口に「小梅吟社」の看板を掲げて本格的に俳句活動に入ったことは先に書いた。文中最後に出てくる如石とは、小梅吟社の人で、本名は武井宗次郎(職人)だそうだ(※6のやぶちゃん版新版富田木歩句集参照)。
また、その年の真夏の昼、波王は木歩の弟、聾唖者の利助を誘って隅田川に泳ぎにいったが、川の魔の淵といわれる隅田川小松島で遊泳中に溺死した。木歩の妹(三女)まき子は彼の恋人であったが、波王の変り果てた死体を見てまさに半狂乱になった。
その夏の末、末妹静子は長姉久子の養女として「新松葉」に行った。そして木歩の片恋の相手であった隣の縫箔屋(縫箔を業とする人。また,その店)の娘小鈴(小鈴は木歩がつけた愛称で、本名はすゞというらしい)もまた、「新松葉」に身を売って去った。そして、ついに妹まき子も姉たちと同じ道をたどり「新松葉」の半玉となっている。前年(大正6年)の秋は木歩にとって友は失せ、ひそかに片恋(片思い)の想いを寄せる小鈴も、妹二人も家から去っていき、ただ寂寥(せきりょう。心が満ち足りず、もの寂しいこと)の秋であった。さらに、弟の利助が波王溺死の後、風邪をこじらせ寝付き、玩具店も馘首(くび)になった。実は風邪ではなく結核だったらしく、喀血し熱に喘いだ。利助の病状は次第に悪化し、起き上がれることも出来なくなり、木歩は病人と起居を共にしながら必死に看病したが、1918(大正7)年2月、利助は18歳で亡くなくなった。

また、富田木歩を語る上で、見過ごすことのできないのが新井声風の存在である。声風は木歩と同い年の慶応義塾大学の学生で父は浅草で映画館を経営していた。声風は悲惨な境遇にありながら、清新な句を詠む『石楠』同門の吟波を評価し、大正6年の初夏、「小梅吟社」の吟波(一)を訪紋してきた。その後、何不自由なく育った声風と何もかも不自由な吟波、この二人は尊敬し合って俳句のよき仲間、生涯の親友となっていく。声風は頻繁に吟波の長屋にやって来た。その度に『ホトトギス』、『海紅(かいこう)」などの新刊の俳句雑誌や「中央公論」『新潮』 『新小説』『改造』などの総合雑誌も持って来て、吟波の読書用に呈したという。俳句だけでなくもっと広い知識も身につけさせようとの配慮だったようだ。
ある日、吟波は、そんな声風に「俳号を変えようかと思う」と相談を持ちかけたという。それは吟波と号する俳人がもう一人いたためだという。
河東碧梧桐系の『射手』に属する荒川吟波という俳人で、かなり名前が売れていた人であったらしい。声風は直ちに賛成しなかったが、彼の真意を解し賛成したという。
9月、声風は個人誌『茜』を3号(9月号)から同人誌とし、友人の木歩を同人に迎えた。この頃から彼は俳号を吟波から木歩にしたという。そして、1918(大正7)年、声風は『茜』1月号を「木歩句鈔」の特集号として出した。これは、臼田亞浪、黒田忠次郎、浅井意外(「ホトトギス」の村上鬼城の信奉者)、それに歌人の西村陽吉らに「境涯の詩人」と賞賛されたという。声風は『茜』2月号を休刊とし、3月号を「木歩句鈔」に対する評論特集を出した。若手評論家4人に執筆を依頼し、四人とも好意的な評を書いてくれた。なかでも歌人西村陽吉は『木歩句鈔雑感』と題し「俳壇における石川啄木」であり「生活派」の俳人と評したという。
先に挙げた随筆『小さな旅』はそんな状況下で書かれたものであり、この随筆文中には、以下の俳句も掲載されている。

鶉來鳴く障子のもとの目覚めかな
杉の芽に蝶つきかねてめぐりけり
新聞に鳥影さす庭若葉かな
汽車音の若葉に籠る夕べかな
躑躅植ゑて夜冷えする庭を忘れけり
川蘆の蕭々として暮れぬ蚊食鳥
蝙蝠の家脚くゞる蘆の風
蘆の中に犬鳴き入りぬ遠蛙
行く春や蘆間の水の油色
青蘆に家の灯もるゝ宵の程

障害、貧困、病苦といった不幸に見舞われながら俳句創作を続けていた木歩、そこに、身内の不幸も多く重なった時期であるが、ここには、姉を始め家族の好意に支えられ、ささやかな幸福の時間を味わった様子、喜びが綴られている。

しかし、1918(大正7)年3月には、半玉になっていた妹のまき子も肺結核に罹患して家に戻って来ていた。木歩がつきっきりで看病するも、まき子の病状は日を追うごとに悪化しこの随筆投句後の7月末には、まき子も逝ってしまっている(享年十18歳)。この結核に冒されて逝った四つ下の愛妹まき子の、病床看護の合間に書いた日記風随筆『おけら焚きつゝ』(大正7年7月『山鳩』に掲載)と、その大正7年7月28日の臨終に至るまでを綴った木歩の哀傷随筆『臨終まで』(大正7年10月『山鳩』に掲載)の二篇が以下参考※6:「やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇」で読める。そこにも書かれているように、まき子の臨終の床の――「母ちゃん――暑いよ」・・・という言葉・・それはこの5年後、関東大震災の猛火によって向島枕橋橋畔の堤上にあって猛火に呑まれていった木歩自身の胸に去来したに違いない。

ここ →富田木歩愛妹まき子哀傷小品二篇

随筆『小さな旅』投稿の1918(大正7)年の7月に、富山県の魚津で起こった米騒動は全国に拡がり、物価が一段と高じた。まき子を芸者に売って作ったた貴重な金も、物価高の前にたちまち底をつき、木歩と母のみ禰は食うにも事欠く有様になった。しかも、結核に感染した木歩は、12月ついに喀血を繰り返し病臥したが、俳友の亀井一仏が主治医となってくれた。
翌1919(大正8)年1月、重症を脱するが、今度は、母み禰が脳卒中で倒れた。幸い軽度ですんだが再発が懸念され、3月のはじめに木歩は、長姉富子が囲われている、向島須崎町弘福寺境内にある家に移った。妾宅で母と居候同様の保護を受けたという。なんとも屈辱的であったろう。
12月末、長姉の家が向島寺島町玉の井に転居。木歩と母も同行する。木歩は喀血後の予後がまだ充分には癒えていない体だったが、毛布にくるまれ馴染みの良さん(随筆『小さな旅』に出てくる車引の良さん=田中良助)の俥にのせられ引っ越した。
末妹静子は「新松葉」に住み込みとなり、玉の井には来なかった。当時、玉の井は田畑や牧場のある農村で、水道も電気もなく夜はランプを灯した。やがて、建築ブームが起こり私娼街が造成されていった。玉の井は、永井荷風の小説『ぼく東綺譚』、滝田ゆうの漫画『寺島町奇譚』の舞台として知られる。
玉の井の新居には二階があり、須崎の華やかさに浮つき(浮つくの連用形)かけた木歩は一人の殆どの時間を二階で過ごし、また元の俳句三昧の生活に戻れたといい、木歩の生涯の中でこの玉の井の頃が最も多作の時代で、連日句作に励んだようだ。
木歩の句を売り出してくれた親友の新井声風は高浜虚子などホトトギス系の俳人との付き合いが疎遠なため、『茜』の謹呈先にホトトギス系は少なく、それがため、木歩の名が全俳壇的に知られたというまでには至っていなかったが、声風の編んだ『木歩句集』が虚子門下の渡辺水巴主宰の『曲水』に1920(大正9)年7月から4回に亘って連載されたことにより、木歩の身辺は一気に慌ただしくなり、かつての『茜』の比ではなくなった。
木歩の元には各地の俳誌から次々と句や文章の依頼がきたが、木歩はすべて快く引きうけ、木歩の名前、人となりと作品は一気に俳壇に知られることとなった。
1921(大正10)年夏に木歩は貸本屋「平和堂」を開業し、客の来ない時には、本を読み俳句を作る生活をしていたようだ。
1922(大正11)年の春、声風が『石楠』主宰の臼田亞浪との確執から、『石楠』同人を脱退。その半年後に木歩も「石楠」を退会するが、木歩の発表先に不自由はなかったようだ。三河の浅井意外の『山鳩』に木歩の頁を常に用意してくれていた。長谷川春草の『俳諧雑誌』、村上鬼城門下の楠部南崖(楠部 大吉郎の父)の俳誌『初蝉』などもこぞって木歩の句や文章を掲載してくれた。
そのため、平和堂主人・富田木歩は、俳句は勿論のこと俳論も随筆も書ける新進の俳人として、その特異な境涯と共に、全国的に知られる俳人となっていたが、9月半ば、再発を懸念されていた、母み禰が脳溢血で倒れ逝った。そして、木歩も大量の喀血をした。喀血した木歩のもとに俳友で医師の一仏が来てくれたが、木歩の体調はなかなか回復しなかった。
声風は「木歩短冊慰安会」と銘打って短冊頒布会を行い、木歩の療養資金を集めた。その療養資金のおかげで暮近くには、木歩の体力はかなり回復し、平和堂の店番を一日坐っていられる程になった。
明けて1923(大正12)年、長姉富子の旦那白井が浅草公園脇の一等地の料亭を買い取り、富子に天麩羅屋を開かせ、玉の井の家は元の娼家仕様に戻し、売りに出したが、白井は木歩のためにも、須崎に一軒屋を借り、平和堂を続けられるように改築してくれた。その上、木歩の面倒を見るための小おんなまで雇ってくれた。須崎を選んだのは、末妹静子がそこの「新松葉」で半玉になっており、様子を見に顔を出せるからであったという。
木歩の一人生活を案じて、声風や俳友達が足繁く通って来、また、妹の静子やその朋輩たちも顔をみせ、「平和堂」はかつての「小梅吟社」のように若い仲間の集まる賑やかな場ともなった。
木歩のもとへ毎月送られて来る作品も多くなり、今は中断している『茜』を俳壇の新しい運動の拠点として、華々しく再出発させる日への期待が生き生きと燃えてくる毎日だった。
妹につづく母の死、自らの病苦、こういう中で、声風はじめ俳句の友人は木歩を慰めようと7月、一夜の舟遊びを仕立ててくれた。ここしばらく、小康状態の木歩にとって唯一の豪勢な経験だったが声風と木歩にとって、最も苛酷な運命の日が、二人の上に襲いかかってくることになる。
1923(大正12)年9月1日、午前11時58分、激しい大地震が関東地方一帯を襲った。声風や姉の富子が動けない木歩の身の上を案じて吾妻橋を渡り須崎町の木歩の家に行ったときには人影は無かった。
声風は引返して、再び土手の上を探し求めた。そして、人混みの桜の木の下にゴザを敷いて木歩がいた。妹の静子や「新松葉」の半玉など三人ほどが囲んでいたが、女手ばかりでどうする手立てもなかった。木歩の帯を解いて声風は木歩の体を自分の背中にくくりつけて貰ったが、人混みの中を一緒に逃げることは出来ない。ひとまず浅草公園の富子の小料理屋「花勝」を目標に逃げたが、火の手は方々に上がり、それに追われて右往左往する人々で、土手の上の混雑は物凄く、痩せているとはいえ、50キロを越える体重の木歩を背負っている声風が、やっとの思いで、大川に注ぐ源森川(別名北十間川)の川口近くまで来た時、枕橋はすでに燃え落ちていたという。
浅草への近道は断たれ、小梅町方向へ引き返そうとしたが行く手にはまた新たな火の手が上がり、川を除いて三方は全く火の海となって迫ってきた。川の淵に出るには鉄柵を越えなくてはならない。背負ったままでは越えられなかった。傍の人に頼んで木歩を降ろした。鉄柵を越えさせた木歩を、堤の芝の上に腰をおろさせて声風は屈みこんだ。
生きる道は泳ぐしかない。声風は自分一人でも泳ぎ切れるかどうか自信は無かった。まして、足の全然きかない木歩を連れてでは、半分も行かない内に、溺れてしまうだろう。
声風は「木歩君、許して下さい。もう此処まで来ては、どうにもなりません」と言い、木歩に手をさし伸べた。木歩は黙ったまま。声風の手を握り返したという。声風は大川に身を躍らせた。声風は奇跡的に助かったが、足の不自由な木歩は焼け死んでしまった。(花田春兆著「鬼気の人 俳人富田木歩の生涯」1975年10月、発行こずえ社。p.235-237。花田春兆については※12参照)。享年26才と言う、あまりにも若過ぎる死だった。
隅田川の亡骸は伝馬船に引き上げられて火葬された。生き残った木歩の兄や姉妹たちがその火葬の灰のひと握りを求めて、その十月に富田家父祖の菩提寺小松川最勝寺の墓に埋めたられた。戒名「震外木歩信士」。
声風は親友である木歩をあの地獄の墨堤に残さなければならなかった瞬間から、自分の詩魂は衰えたと言い、自分は句作をやめて、木歩の詩魂を生かし世に伝えるために、後半生を木歩の句集や文集の編集に費やした。
冒頭に挙げた三囲神社の「夢に見れば死もなつかしや冬木風」の句碑。「冬木風」はそのまま「ふゆきかぜ」と読むようだ。ここで懐かしがっているのは、だれの死なのだろう。木歩の周りには悲しい出来事が多すぎる。夢に出てきたのは妹か弟か、隅田川で水死した俳友のことだろうか。普通なら人の死は想像するだけでも胸が苦しくなってくるのだが・・。
「死もなつかしや」の表現をどう解釈するか難しいが、もっと素直に、たとえ夢のなかでのこととはいえ、亡くなった家族や親しい人と再会できて懐かしかった・・・と、まっすぐに受け止めればよいのかもしれない。大切な家族を次々に失った木歩は、亡き人々のことを、ふと夢に見ることがあったのだろう。念の強さが、見たい夢を引き寄せたのかも知れない。冬の木立を吹き抜けていく冷たい風の音を聞きながら、木歩は昨夜の夢を静かに反芻しているのかもしれない。
「人間五十年 化天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり」 
これは、幸若舞敦盛』の一節である。
織田信長は、好んでこの一節を歌いつつ、舞ったという。人間の一生は、夢か幻のように、アッという間に過ぎ去る、というのが共通の感傷のようだ。だからこそ、人は何に向かって生きるのか。人生の目的が最も重要になる.。
そう考えれば、人間の死も、人の一生という夢の中の一部のできごとなのだから。
生まれてすぐに歩行不能になった木歩。『不具と病気と貧困とが、彼の精神に、抵抗素を植えつけた。』(山本健吉『現代俳句』)とも言われるように、どんな過酷な運命を与えられたとしても、木歩は生きることを放棄しなかった。木歩の人生とは、ただひたすら運命を「受け容れる」人生だったのではないか。平明な言葉で、誰にでもわかる表現で、己の境涯を深々と見つめ、言葉に紡ぐ木歩。そのシンプルな言葉が、読む者の心を打つのだろう。この機会に、一度、木歩の句に触れでみられるのも良いだろう。参考※6:「やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇」などがお薦めである。

冒頭の画像:1918(大正7)年年7月、北海道の昆布商人で次姉久子の旦那の上野貢一郎が、眼病治療のため上京して淀橋柏木に仮寓しているのを、母み禰と共に訪ね一週間滞在した。その時、母と並んで写真を撮った。冒頭の画像がそれらしく、これが、この年の初め声風が俳句雑誌「山鳩」に連載していた、木歩の句風と人を紹介する文章「俳人木歩」の完結号に掲載するため初めて撮って以降、二度目の写真撮影だった。後年、声風編「定本富田木歩全集」の扉に紹介されているこの写真は、震災後、障害者で俳人である川戸飛鴻[5]より貸与されたのを複写したものであり、木歩の写真として世に流布されておるのは、これがその原版であるという(花田春兆著「鬼気の人 俳人富田木歩の生涯」1975年10月、発行こずえ社。『木歩七〇句』p.241)。

参考:
※1:「Google Earthで街並散歩(江戸編)」
http://yasuda.iobb.net/wp-googleearth_e/
※2:国立国会図書館・近代デジタルライブラリー『江戸名所図会』
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_05105/
※3:大江戸吟行記その28向島吟行①「三囲神社」|俳人二百面相
http://ameblo.jp/haikudaisuki/entry-10650516115.html
※4:すみだ区報2014年4月21日号 墨田区公式ウェブサイト
https://www.city.sumida.lg.jp/kuhou/backnum/140421/kuhou01.html
※5:第67話、和歌三神 - 落語の舞台を歩く
http://ginjo.fc2web.com/67wakasanjin/wakasanjin.htm
※6:やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇
http://homepage2.nifty.com/onibi/texthaiku.htm
※7:荒川の歴史 | 荒川上流河川事務所 | 国土交通省 関東地方整備局
http://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/arajo_index010.html
※8:曳舟川
http://www.geocities.jp/ktyyn37/hikihunegawa.htm
※9:富田木歩の生涯 - 障害保健福祉研究情報システム(DINF)
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n218/n218_07-01.html
※10:富田木歩 小さな旅 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000677/files/42298_23806.html
※11:「淡島寒月の庵号「梵雲庵」について」 - クラシマ日乗
http://blogs.yahoo.co.jp/kurashima20062000/37619737.html
※12:arsvi・com障害者(の運動)史のための資料・人「花田 春兆」
http://www.arsvi.com/w/hs04.htm
富田木歩を偲んで(1) - 齋藤百鬼の俳句閑日
http://blog.goo.ne.jp/kojirou0814/e/17cef3a57e27601238c6701d5604ae18
落語「船徳」の舞台を歩く
http://ginjo.fc2web.com/022funatoku/funatoku.htm
富田木歩 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E6%9C%A8%E6%AD%A9


酒豆忌」「怪談映画の巨匠」中川信夫(映画監督)忌日

2015-06-17 | 人物
今日6月17日は、『東海道四谷怪談』(1959年公開新東宝映画)など「怪談映画の巨匠」として知られる映画監督中川信夫の1984(昭和59)年の忌日である享年79歳。
日本酒の肴にはもってこいの食材豆腐。豆腐を肴に日本酒を飲むことを終生愛したといわれる中川信夫監督の忌日は、そんな生前の好物に因んで「酒豆忌」と呼ばれている。監督が亡くなって後、関係者たちが監督を偲ぶ集いとして行ってきたものだが、1987(昭和62)年以降は忌名を「酒豆忌」として現在に至っている。

中川信夫は、1905(明治38)年4月18日、京都洛西'(京都市右京区)の嵯峨二尊院門前町に,父・中川竹次郎(嵐山の料理旅館「嵐峡館(※1参照)」のシン=板前の主任)と、母・ソノ(同旅館の仲居頭)の長男として生まれる(※2参照)。
4歳の頃、一家は大阪へ出て父親が考案した煮豆の店を開いていたようだが、1909(明治42)年キタの大火で店を消失し、翌年には神戸市兵庫区の荒田町に移って、煮豆屋を開く。1911(明治44)年6歳の時、新開地の横丁に店を移し、後に鰻屋にかえたのが大当たりし、翌年には福原遊郭に近い新開地の一角に料亭を出すまでになったという。信夫少年は1919(大正8)年私立育英商業学校(現育英高等学校)に入学し、1924(大正13)年卒業(19歳).。この間父は布引の滝へ移り、大料亭「巌水」を開いていたが、この年には、元町相生橋(日本最初の跨線橋。※4参照)畔の木造三階建の家を惜り「巌水鰻食堂」をはじめたという。我が地元神戸のことであった為、幼少時の中川信夫の父親のことを少し詳しく書いてしまったが悪しからず。

中川は、父に「映画監督になりたい」と言うと、「好きな道へ行け」と言われて、1925(大正14)年20歳の時、大阪の帝国キネマ小阪撮影所に入社したという。私のブログ「映画の日」でも書いたが、神戸は映画発祥の地なので影響を受けたかな・・・・。しかし、まずカメラ助手をし、現像の仕事をするが、2週間ぐらいでやめたらしい。
翌1926(大正15・昭和元)年21歳の時、父が、喘息発作に因る心臓麻痒で死去し、母に家業を手伝わされ、家業の手伝いをしながら、文学者になることを目指し、1928(昭和3)年23歳の時、同人誌『幻魚』に小説を執筆するが、文学者になるには大学を出ていなければ駄目だとその道をあきらめ、再度映画の道に進むことにしたという。
そして、キネマ旬報読者寄書欄の素人映画評論家を経て1929(昭和4)年24歳の時マキノ・プロダクションに入社し、助監督となる。この時代には山上伊太郎伊丹万作小津安二郎らに強い影響を受けたという。
1930(昭和5)年8月、世界大恐慌による不景気によりマキノ撮影所が給料遅配になり争議に突入すると、従業員(組合)側の記録係をつとめた。同年12月にマキノが製作を一時中断した後は無職で1年間過ごし、その時間をシナリオ執筆に費やした他、1931(昭和6)年には神戸の三宮神社裏の生田筋に喫茶店「カラス」を開業している。私は神戸っ子なので、当時の喫茶店「カラス」のマッチがあるのを見つけたよ(※5参照)。
1932(昭和7)年27歳の時、マキノ時代から親しかった稲葉蛟児監督(すでに市川右太衛門プロダクションで仕事をしていた)から誘いを受け市川右太衛門プロダクション、(奈良市の「あやめ池遊園地」内)へ助監督の身分で移籍し、1934(昭和9)年の時代劇弓矢八幡剣』(主演:田村邦男)で監督に昇進した。本作を製作した同プロダクション第二部は、市川右太衛門主演作以外の作品を製作する部門であり、この作品は昇進試験として監督したものであるが、社内的に好評をえて監督の道が開ける。
そして、本格的な監督デビュー作は翌・1935(昭和10)年の右太衛門主演による若き日の清水次郎長物語『東海の顔役』である。この作品はサイレント映画サウンド版で、その主題歌「旅笠遣中」(作詞:藤田まさと、作曲:大村能章、唄:東海林太郎)が大ヒットして股旅物の歌謡の先駆けとなる。股旅物特有のテンポの良い曲ですよ。以下で聞ける。

旅笠道中: 二木紘三のうた物語

しかし、中川はデビュー作は自作シナリオ『鉄の昼夜帯』(のちに『悪太郎獅子』に改題して実現)の映画化)を望んだが認められず、陣出達朗脚本による本作品のシナリオだった。あてがわれた陣出のシナリオが気に食わない中川は、親友でのちに映画評論家となる滝沢一を借家に招いて、2人でシナリオを改変したそうだ。
滝沢の回想によれば、中川はこの頃すでに伊丹万作の影響で「映画の出来栄えは、一にも二にもシナリオ(脚本)の段階で決まる」という信念を持っていたという。しかし、シナリオ段階でこの作品を構成段階からまったく作り変えようとしたが、若き日の次郎長の姿をスピード感あふれる演出で見せるように軌道修正するのがやっとだったと滝沢は回想しているという。
中川は後に脚本家・桂千穂を聞き手としたインタビューにおいて、本作品についての感想を聞かれて「それが僕は気に入らないんだな。僕の人生が裏街道へ行く初めだから」と答えているそうだ。滝沢は、この頃の不満が中川を酒びたりにしたと語ってもいるという。
東海の顔役は、本作品において市川の演技を抑制することに専念し、滝沢の回想によれば、それは見事に成功したという。
中川念願の『悪太郎獅子』は右太衛門主演で1936(昭和11年)1月に完成したが、ようやく実現した矢先、今度は右太プロが松竹に吸収合併されることになったために、中川は「意気消沈した作品である」と語っている。作品は同年2月7日、松竹キネマ配給により大阪劇場で公開されているが、同日右太プロは撮影所を閉鎖。右太プロのメンバーは、右太衛門をはじめとして多数の人材が松竹に移ったが、中川は解雇されたそうだ(『自分史 わが心の自叙伝』、p.23)。
中川はいったんマキノ正博が設立したマキノ・トーキーに移り(監督としては『槍持街道』を製作している。※6参照)、1938(昭和13)年33歳の時に東宝に移籍した。
時代劇やエノケン(榎本健一)主演作を主に監督(監督映画作品参照)したが、戦時期の映画製作本数の減少で、1941(昭和16)年に東宝を契約解除となる。


上掲は、中川信夫監督『エノケンの森の石松柳家金語楼とのかけあい場面が懐かしい。

同年松竹京都撮影所製作部長の渾大坊五郎に招かれて同撮影所に移籍するが、間もなく松竹京都撮影所は製作体制を縮小して松竹大船撮影所に合併されることとなる。生活のために助監督をする覚悟で上京して大船に赴くが、不調に終わり、松竹京都撮影所に籍を置いたまま、次の企画を待つている間に、太平洋戦争がはじまる。
翌1942(昭和17)年37歳の時、中国上海にあった国策映画会社中華電影に監督として採用され、日中戦争の記録映画『浙漢鉄道建設』を監督した。途中結婚のための帰国を挟んで2年間撮影が続けられるが、映画は完成することなく終戦を迎えて『浙漢鉄道建設』のフィルムは焼却されたという(浙贛線(せっかんせん)とは - コトバンク参照)。
1946年(昭和21年)、上海から帰国。同年、池田富保が設立した大同映画に入社するが、仕事はほとんどなく生活に困窮する。中川は戦後、映画界に復帰する前から、詩の同人誌に参加していた。1945(昭和20)年上海にいるとき、日本人向け新聞「大陸新報」(※7参照)に投稿した長篇詩「しらゆき」が特別賞を受賞している。
上海で終戦を迎えた中川は、1946 (昭和21) 年日本へ引揚げてきて、妹・千代の嫁ぎ先の小笠原家(兵庫県西宮市)に落着き、3カ月後には、隣の質屋の二階を借り、千代の夫が戻るまで一年問住んでいたそうだ。
そして、神港夕刊新聞社公募「新憲法公布記念文芸」の詩部門)で、「地ならし」(※2の中川信夫詩集・業 目次参照)が第一 席(知事賞)に入選(12月1日)。翌、1947(昭和22)年兵庫県が新憲法公布を記念して公募した「県民歌」に投稿し、佳作に入選して、2百円を貰っていたという(※2の中川信夫・人間として映画監督としての79年参照)。選ばれた歌詞は、有馬郡生瀬国民学校(現西宮市立生瀬小学校。明治6年創立)教員の故野口猛さんが作詞したものだそうだが、同じ兵庫県民の私もこんな兵庫県歌があるのは今まで知らなかった(兵庫県下のことは※8を参照)。
中川は同年、中華電影時代に親交を持った筈見恒夫と京都で偶然再会し、当時新東宝のプロデューサーだった筈見の勧めで新東宝に移籍して(一家で東京に上京)、1948(昭和2)年『馬車物語』(石坂洋次郎原作の文藝春秋所載『馬事物語』を館岡謙之助が脚色したものを中川が演出。※9参照)で映画監督に復帰した。
そして、翌1949(昭和24)年9月榎本健一 主演で『エノケンのとび助冒険旅行』を公開しているが、この作品は、冒頭に徳川夢声の、「怖くて、ためになって、面白いお話をしましょう」という意味の語りが入ったファンタジー映画であり、中川自身は後に子供向けの作品として製作したことを明かしている。また、冒頭で徳川夢声のナレーションは本作品が目指す物語の特徴を、コメディと泣ける話とホラーの混ざり合った冒険物語と語っており、主人公の旅の途中に現れる目が光るクモの精や美女に姿を変える人食い鬼、森に潜む数々の化け物などのホラー描写も数多く見受けられ、中川怪奇映画に焦点を絞った『地獄でヨーイ・ハイ! 中川信夫怪談・恐怖映画の業華』を編著した鈴木健介は、同書で本作品を中川怪奇映画8本の中の一つに加えているようだ(物語など詳しくは※10のここ参照)。
続いて同年12月公開の、『私刑』で時代劇の大物嵐寛寿郎と初めて仕事をしている。この映画は、戦前から終戦直後にかけての、一人のやくざの半生を描いたもので、『地獄』(1960年)までつづく、中川と嵐寛のコンビ第1作でもあるが、GHQによる俗に言われる「チャンバラ禁止令」(正式には、「十三カ条の映画製作禁止条項」。※11参照)の影響下で製作されたもので、本作品に出演した池部良のインタビュー本を著作した志村三代子と弓桁あやは、本作品の嵐演じるやくざを「『網走番外地』シリーズをはじめとして、晩年に多数出演したやくざ映画の原点」であると指摘しているそうだ。
また、1953(昭和28)年11月公開の『思春の泉』は、新東宝と俳優座の製作提携作品であり、当時、俳優座に所属していた宇津井健の映画デビュー作品でもあり、提携していた俳優座が、千田是也岸輝子など俳優座のメンバーも多く出演している。公開当時の朝日新聞夕刊(日時不詳)で高評価を受け、日本以外にソ連でも一般公開されるなど、中川が監督した文芸映画の中では評価が高い作品の一つである。気をよくしてか、続いて、翌年、題名を啄木の代表小説(※12:青空文庫)にとった石川啄木の映画化『若き日の啄木 雲は天才である』、石坂洋次郎の東北を舞台にした明るくユーモラスな青春ドラマの映画『石中先生行状記 青春無銭旅行』(※10のここ参照)などを公開している。
新東宝が大蔵貢のワンマン体制に移行した後も、中川は同社で大蔵プロデュースの作品を量産し、1957(昭和32)年の『怪談かさねが渕』以降は同社の夏興業の定番である怪談ものを一手に引き受けるようになった。中川も映画のプロとしていろいろと実験を試みたのだろう。
1961(昭和3)年に新東宝が倒産した後は、東映京都撮影所国際放映と専属契約した後、1966(昭和41)年にフリーとなる。東映東京撮影所製作の『妖艶毒婦伝 お勝兇状旅』(1969年10月公開)を最後に映画から離れ、テレビドラマの監督を経て1979(昭和54)年に第一線から離れる。

1973年(昭和48年)68歳の時、東京世田谷の借家から神奈川県大和市に家を建て、3月に移っているが、1977(昭和52)年から1982(昭和57)年まで神奈川県芸術祭演劇脚本コンクールに自作脚本6本を応募、いずれも入賞している。1982(昭和57)年、磯田事務所(東京都渋谷区元代々木町にあった映画制作会社))とATGの提携作品『怪異談 生きてゐる小平次』(原作は鈴木泉三郎の同名戯曲)で、13年ぶりに映画監督に復帰(製作は1981年)。1984年(昭和59年)にはイタリアのペサロ映画祭で代表作『東海道四谷怪談』(1959年公開)などが上映されることになり招待状を受け取るが、同年1月10日風邪から脊髄炎、更に3月には脳梗塞を発症し意識不明に陥ったため、映画祭への出席はかなわなかった。1984(昭和59)年6月17日、心不全のため死去。満79歳没。

怪談怪奇映画の巨匠といわれている中川信夫。しかし,、全作品中、怪談怪奇映画は『地獄』など8本程しかない。時代劇、喜劇、シリアスな社会劇、文芸作、恋愛物、歌謡ドラマなど仕事のジャンルの幅は広い。この中に、中川信夫が貫いたものがある。弱者の視点から、理不尽な者たちをうつ「心」である。
彼は、生活に困窮した若き日のことや、家族のこと、友のこと、人が生きることなどに思いを馳せた詩を書き綴り、1981(昭和56)年にそれらをまとめて『業』というタイトルをつけた詩集を出版した(※2のここ参照)。生前の中川と親しく接した脚本家の桂千穂は、欲望などおのれの””の深さから逃れ得ない人間の悲喜劇こそ、中川映画のテーマであると語り、「生活の辛酸を嘗めつくし人生修羅の深淵を見極めた末に、一種の諦めに到達した」とその姿勢を表現している。
中川は自作について「(他の監督が断る)変なもんはすぐ僕のところへ来る」(インタビュー『全自作を語る』p.207)作品をこなし続けた「裏街道人生」(『全作品を語る』、p.197)と表現しているようだが、新東宝時代にはカメラマンの西本正や美術監督の黒澤治安など優秀なスタッフの協力を得て、次々と実験的な演出に挑戦した。
「怪談映画の巨匠」と呼ばれるようになる彼が初めての怪談映画『怪談累が渕』を発表したのは、先にも書いたように1947(昭和22)年に新東宝へ移籍して10年目の1957年(昭和32年)52歳の時、新東宝の夏興業の定番である怪談ものを一手に引き受けるようになってからである。
『怪談累が渕』の原作は三遊亭圓朝の『真景累ヶ淵』で、川内康範の脚本は発端部の『宗悦殺し』から『豊志賀の死』までをまとめて一本の作品にしている。
冒頭をワンシーン・ワンカットで描いて観客を物語に引き込む手法、若杉嘉津子の顔の崩れた幽霊役、沼に沈んでいく死体と浮かび上がってくるその亡霊、邦楽を基調としながら時折ジャズの旋律をはさみこむ渡辺宙明の音楽、そして人間の“業”の深さが呼び寄せる亡霊と因果応報(因果応報についてはここ 参照)の悲劇など、後の中川信夫怪談映画と共通するテーマや手法がこの作品ではじめて描かれている。

上掲は、中川信夫監督『怪談かさねが渕 』のDVD。女優は豊志賀(お累)役の若杉嘉津子。

1958(昭和33)年には怪談物『亡霊怪猫屋敷』を発表した。橘外男の小説及びそれを原作とした、この作品も大蔵貢ワンマン体制のもとで、夏定番の怪談・怪奇映画興行の1本として製作されたものである。
化け猫”もののジャンルに属する作品だが、幽霊屋敷のアイディアも盛り込まれ、江戸時代の呪いが現代まで受け継がれるという現代篇と時代篇の2部作構成になっているのは原作同様であり、登場人物もほぼ共通である。
現代篇を白黒映画、時代篇をカラー映画と、物語に応じてフィルムが分けられたパートカラーの手法が使用されている。当時各社で画面の大型化(シネスコ)、カラー化がはじまっていた時に、シネスコであるが、パートカラーの手法を選択した理由について、晩年の中川信夫作品で助監督をつとめた鈴木健介は、「オールカラーが予算的に無理な時代(新東宝にとって)に許されたパートカラーの条件を逆手にとった、実験精神に富んだ中川流演出」と解説しているという(ストーリーは※10のここ参照)。


上掲は映画「亡霊怪猫屋敷 」予告編

同年公開の『憲兵と幽霊』(※10のここ参照)は、『憲兵とバラバラ死美人』(新東宝 1957年、並木鏡太郎監督。※13参照)のヒットを受けて同傾向の作品を作ってほしいと大蔵貢から依頼を受けた中川信夫が「売国奴と愛国者」というテーマを出して、石川義寛が脚本化した作品である。『憲兵とバラバラ死美人』同様、天知茂中山昭二が主演している。怪談の味つけをされた憲兵隊の内幕ものというキワモノながら、軍隊という強者とそれに翻弄される一兵士とその家族という弱者、そして軍隊やそれに支配されたマスコミの流す情報に翻弄されて弱者を苛める無責任な大衆という多様な視点から戦時中の世相を描いている。元々は硬派な軍事サスペンスであったが、大蔵が強引に怪談要素を盛り込ませたという。

1959(昭和34)年3月公開の『女吸血鬼』(おんなきゅうけつき)は、新東宝が企画委員会を設けて発表した怪奇映画第1弾だそうで、元々は「裸女吸血鬼」の題名で公開される予定だったという。映画のモチーフが実在の人物であるため、グロテスクな印象をなるべく避け、照明やメイク、美術等で怪しげな雰囲気づくりをした。舞台となった水晶の城塞は江戸川乱歩の『パノラマ島奇談』のイメージを参考にしたという。
本作は日本初の本格吸血鬼映画であり、迫力ある吸血鬼を演じた天知茂も日本で初めての吸血鬼俳優となる。しかし、一方でタイトルロールである女性の吸血鬼は登場せず、題名と内容が合致しない作品となっている。そして、公開当時、新東宝では以下のような「宣伝ポイント」が興行館に通達されたという。
「従来の怪奇映画には見られなかった新型式の異色怪奇映画である点、つまり躍進目覚ましい新東宝がこの種の映画として“邦画界最初の企画”による傑作であるという点を売っていただきます」・・・と。同映画の予告編と動画は以下で見られる。

 新東宝 映画「女吸血鬼」(1958) 動画 

1959年(昭和34年)7月54歳の時発表した『東海道四谷怪談』は、怪談映画の最高傑作として知られている。
四世鶴屋南北の原作21回目の映画化であり、新東宝としても毛利正樹監督『四谷怪談』(1956年)につづいて2度目の映画化となるが、本作は四谷怪談ものとしては初のカラー映画である。
大蔵の発案によりオープニングには歌舞伎の様式美を採り入れ、また監督の中川がこだわっていた「人間の業の深さ」をテーマとしており、関連作品のの中でも際立って評判が高い、「戸板返し」や、お岩が醜く腫れ上がった顔の髪を梳く場面、など、原作の見せ場も忠実に映像化された。中川信夫と彼にインタビューした桂千穂は、「戸板返し」について、本作がおそらく初の映像化であろうと語っているという。
また、キネマ旬報1974年10月下旬号に中川自らが寄稿した『怪奇映画問答』では、新東宝時代に製作した怪奇映画について「まァまァという出来だと思いましたら、フタを開けてみますと世評が割に良く、(中略)オーバーに申せば伝説的にまで持ち上げる人もあり、今日に至った」と、怪談映画の巨匠と持ち上げられることに戸惑いを覚えたと書いているそうであり、少なくともこのころには怪談映画の巨匠と言われるきっかけを作った作品と言えるだろう。



上掲は映画『東海道四谷怪談』(1959年)

そして、1960(昭和35)年7月には『地獄』を発表した。この作品は、日本古来の地獄絵や人間の罪の意識をリアルに描写した怪奇傑作。
定番となっていた怪談ものに「地獄の責め苦の映像化」を持ってきた作品で、企画や原案も中川信夫によるものである。
仏教の八大地獄の映像化がテーマとなっているが、ゲーテの『ファウスト』やダンテの『神曲』など、西洋思想における悪魔や地獄(ここ参照)のイメージも盛り込まれている。新東宝の看板俳優だった嵐寛寿郎が、閻魔大王役でカメオ出演(ゲスト出演して端役を演じること)している。
この映画は、前半で業が深い現世の人間ドラマ(現世の地獄)を描き、後半は、彼らが墜ちたあの世での地獄を、シュールな映像で表現している。娯楽映画というより、全体が「動く地獄絵図」になっているかのような、独特の美意識に貫かれた観念的な映像であるが、いかにも「大蔵的」、見世物小屋的エログロの世界は,馴染めるか否かによって、作品の評価も違ってくるだろう。



上掲は映画『地獄』(1960)特撮ダイジェスト版

本作が封切られた同年の12月に大蔵貢が新東宝社長を解任されたため、本作は結果的に中川が手掛けた最後の新東宝怪奇映画となり、同時に大蔵貢プロデュースによる中川作品の最後を飾るものともなった。
良し悪しはともかく、中川も映画のプロとして実験精神を失わず、作品に才能を傾けた結果が、これら新東宝倒産寸前の佳品誕生に繋がったのであろう。

1961(昭和36)年3月、中川は、前年(1960年)の『地獄』で描こうとしたテーマをより突きつめた『神曲』地獄篇のシナリオを書きながら、一方でそうした怪奇映画とは180度趣きの異なる『「粘土のお面」より かあちゃん』を監督している。白ら代表作の一つとするこの作品は、豊田正子の原作『粘土のお面』を、前年の12月に大蔵貢が新東宝社長を解任され、圧倒的な支配力を誇る大蔵のようなプロデューサーが不在の中で製作された作品であり、どん底の生活ながらも明るく生きぬく庶民の姿を描いたものであり、反面、大蔵カラーが薄められたことによって初期の新東宝映画を思わせる文芸映画の色彩が強くなっている。脚本を執筆した館岡謙之助は『思春の泉』(1953年)や『若き日の啄木 雲は天才である』(1954年)など主に中川の文芸作品を担当した脚本家であり、本作は『青ヶ島の子供たち 女教師の記録』(1955年)以来6年ぶりの中川作品への参加である。


上掲は映画は、中川信夫監督『粘土のお面」より・かあちゃん』.予告編

1961(昭和36)年東宝が倒産した後フリーになった中川は、1968(昭和43) 年、東映(東京撮影所)に招かれ、久々に劇映画『怪談蛇女』(1968年※10のここ参照))を監督している(翌年宮園純子主演『妖艶毒婦伝』シリーズの2作品『妖艶毒婦伝人斬りお勝』(1969年妖艶毒婦伝お勝兇状旅』(1969年※10のも監督している)。
また、中川信夫が77歳の喜寿を迎えた年である1982(昭和57)年9月公開の『怪異談 生きてゐる小平次』は、日本アート・シアター・ギルド(ATG)の「1千万円映画」の1本として製作されたもの。
原作は鈴木泉三郎の同名戯曲である。この原作は、幽霊役で名を馳せた役者が殺されて幽霊となる小幡小平次の怪談話をアレンジし、「殺したと思ったのに何度でも生きて舞い戻ってくる」というシュールな味わいを持っている。歌舞伎では今もたびたび公演される定番の芝居のひとつであり、第二次世界大戦後の1957(昭和32)年には、青柳信雄監督、二代目中村扇雀芥川比呂志八千草薫主演による『生きている小平次』がすでに東宝で映画化されており、本作は、2度目の映画化である。
二代目中村扇雀が演じていた小幡小平次(役者)役は、:藤間文彦藤間勘十郎夫妻の長男)が、太九郎(囃子方)役は、石橋正次が、おちか(太九郎の女房)役は宮下順子が演じている。
中川はこの作品を遺作として、2年後の1984(昭和59)年に死去した。
中川の監督した怪奇・怪談映画は新東宝時代の6作品と当作品で計7本しか見当たらないが・・・。本人が8本というのなら、鈴木健介が言っているように1949(昭和24)年9月公開の『エノケンのとび助冒険旅行』を加えるのか、また、東宝へ来る前の東宝時代の1956(昭和31)年公開の『吸血蛾』・・・かな?
『吸血蛾』は、横溝正史原作(小国英雄+西島大脚本)の金田一(耕助) ものの一つで、本作での金田一役は二枚目俳優池部良が演じており、コートや背広姿で、金田一というよりも、ハンフリー・ボガード演ずるハードボイルド探偵のようなイメージの主人公が狼男と対決するという、中川信夫監督のエログロ満載映画で、東宝というより、何だか新東宝みたいな雰囲気の映画だというから・・・(※10のここ参照)。当時の東宝らしく出演者は非常に多彩で、金田一耕助 役の池部良など下の方に列挙されている(Movie Walker 参照)。


上掲は、『吸血蛾』ポスター。
それとも、新東宝時代のヤコペッティ監督による1962年公開のイタリア映画『世界残酷物語』をヒントにした小森白、高橋典と共同監督したドキュメンタリー映画『日本残酷物語』(1963年公開)かな・・・。内容は日本の風俗、自然現象、社会問題、食生活、性風俗といった当時の日本の残酷世界を見せてくれるモンド映画らしい・・・が。
他にフリーになってからは、「怪談映画の巨匠」として名が売れていたからであろう、多くの怪談物を手掛けている。(テレビドラマ参照)。

酒豪として知られる中川の詩集『業』所載の詩『死酒(しにざけ)』には、以下のように記されている。

おれが
「死んだら
おれの 死顔(しにがお)の上に
一升の酒を
ぶっかけろ
けちけちせずに
一升ぶっかけろ
一級酒がいい
特級酒はいやだよ
二級酒もごめんだ

中川信夫生誕102(トーフ)記念番組(1905年生まれなので+102で2007年の番組)のドキュメンタリー『映画と酒と豆腐と ~中川信夫、監督として 人間として』(国際放映製作),では、この詩を「特級酒のような高級世界は窮屈だし、二級酒のような苦しい生活も実体験から拒否をした。ごく普通の世界で生きたいという願望」と解釈している。中川信夫の長男の中川信吉は毎年、正月か命日が近くなると父の墓参に訪れ、酒と豆腐ともうひとつの好物だったというアンパンを中川の墓前に供えることもあるという。また、この詩を読んだと思われる墓参者が、たびたび墓を訪れては、一級酒を供えたり墓石にかけたりしているという。

(冒頭の画像は、中川信夫監督映画、「東海道 四谷怪談」(1959年公開、新東宝映画、主演:天地茂)画像はWikipediaより。)



「酒豆忌」「怪談映画の巨匠」中川信夫(映画監督)忌日(参考)へ

「酒豆忌」。「怪談映画の巨匠」中川信夫(映画監督)忌日(参考)

2015-06-17 | 人物
「酒豆忌」。「怪談映画の巨匠」中川信夫(映画監督)忌日 本文へ戻る

参考:
※1:休業中の老舗旅館「嵐峡館」、星野リゾートが再生-12月開業へ(烏丸経済新聞)
http://karasuma.keizai.biz/headline/792/
※2:中川信夫公式ホームページ - NIPPONEIGA.COM
http://www.nipponeiga.com/nakagawa/
※3:しじみ川旧跡(大阪市北区)
http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage989.htm
※4:OLD PHOTOS of JAPAN: 相生橋からの眺め 1900年代の神戸
http://www.oldphotosjapan.com/ja/photos/507/aioibashi-jp
※5:三宮及び周辺の店の特集(第4回) - 神戸・兵庫の郷土史Web研究館
http://kdskenkyu.saloon.jp/ml27san.htm
※6:加賀見山 槍持街道 - Toy Film Project 玩具映画プロジェクト
http://toyfilm.jp/2009/09/post-69.html
※7:資料庫(新聞)-日本上海史料究会
http://shanghai-yanjiu1.sakura.ne.jp/mysite2/archives-newspaper.html
※8:神戸新聞NEXT|社会|布く新憲法 ゆくては明かるし…幻の兵庫県民歌
https://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201501/0007625977.shtml
※9:馬車物語とは - 映画情報 Weblio辞書
http://www.weblio.jp/content/%E9%A6%AC%E8%BB%8A%E7%89%A9%E8%AA%9E
※10:幻想館:映画評
http://www.ne.jp/asahi/gensou/kan/index.html
※11:「表現規制とのたたかい」について - 日本映画監督協会
http://www.dgj.or.jp/freedom_expression_g/index_4.html
※12:青空文庫-石川啄木 雲は天才である
http://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/4097_9491.html
※13:おねえちゃんは悪魔憑き
http://www5b.biglobe.ne.jp/madison/worst/occult/kenpei1.html
中川信夫 - 日本映画データベース
http://www.jmdb.ne.jp/person/p0272830.htm
資料室>MOVIE DATABASE>|東宝WEB SITE
http://toho.co.jp/library/system/
中川信夫 詩集『業(ごう)』 - 荻野洋一 映画等覚書ブログ
http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi/e/80cd4f1994762f225c22ea5b76aefa84
中川信夫- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E4%BF%A1%E5%A4%AB


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ファイティング原田が、プロボクシング世界バンタム級チャンピオンになった日

2015-05-18 | 人物
今まで格闘技の中でも特に荒々しく、男臭いプロレスやプロボクシングなどの世界は男性のファンで支えられていたものだったが、そんな荒々しい格闘技に女性ファンが急増していると聞く。それも若いファンが多いという。その詳しい理由を私は良く知らないが、恐らく、若くて鍛えられた肉体美を誇る、しかもイケメンがこれらの世界へも進出してきたからではないだろうか。
昔は男らしい男性を女性は好んだものだが、戦後の平和な時代が続くと、近年、女性は男臭い男性よりも優男を好む傾向があり、そのような影響もあってだろう、最近は、女性か男性かわからない中世的な男性が増えてきた。TVの世界はそんな男性であふれかえっている。
最近、錦織圭がTVCMに顔を出すようになったが、いまだに松岡修造などがにTVCMを独占しているのも、格好良く逞しく明るい男性スポーツ選手などがなかなか現れないからであろう。今の女性は、男性同様厳しい社会の中で自立しており、ストレスが溜まった時などには、鍛えられた逞しい、しかもイケメンが活躍する格闘技を見て、ストレスを発散させたいと思う女性が増えているのではないだろうか。ただの優男より、逞しい男性が持てるようになったとすれば、これからの男性像も少しづつ変化してゆくだろう。
終戦の私が子供の頃は、太平洋戦争に負け、男どもは自身喪失していた。戦後日本はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により武道の禁止指令により柔道も禁止されていたが、そんな中、1951(昭和26)年に相撲界から力道山がデビューした。これが、日本におけるプロレス元年とされている。
プロレス興行が根付いたのは力道山が1953(昭和28)年に日本プロレスを旗揚げしてからのことである。戦後間もない頃で多くの日本人が反米感情を募らせていた背景から、力道山が外国人レスラーを空手チョップで痛快になぎ倒す姿は街頭テレビを見る群集の心を大いに掴み、プロ野球、大相撲と並び国民的な人気を獲得したものだ。
日本の本格的ボクシングは1921(大正10)年、アメリカ帰りの渡辺勇次郎が東京下目黒にオープンした日本検討クラブに始まる。渡辺が栃木県で凱旋興行したとき、母校の真岡中学で発掘したのが堀口恒男。ラッシュ(rush=突進すること。猛然と攻撃すること)戦法(彼の場合「ピストン戦法」と呼ばれた)の“ピストン堀口”である。
中学卒業と共に日倶に入門。早大専門部に通う堀口が一躍脚光を浴びたのは1933(昭和8)年、前世界チャンピオンのエミール・ブラドネル(仏)と引き分けたときである。1930年代後半のボクシング界はこの堀口を軸に展開した。渡辺勇次郎の夢見た「世界選手権を日本人に」を実現したのは、戦後のヒーロー白井義男だった。
1952(昭和27)年5月19日、東京・後楽園球場特設リンクで、フィリピン系ハワイ人の世界フライ級王者ダド・マリノ(米国)に挑戦し、15回判定勝ちで、日本人初の世界タイトル保持者となった。渡辺のジム開設から31年後のことであった。
白井は、以後4度の防衛を果たしたが、敗戦に打ちひしがれた日本人にとって、白井の王者獲得とその後の防衛での活躍は"希望の光"となった。因みに、この5月19日は、2010(平成22)年に、日本プロボクシング協会によって「ボクシングの日」に指定されており、毎年この日には「ファン感謝イベント」が開催されているようだ。

上掲の画像は、5月19日後楽園特設リンクでエミール・ブラドネルと戦う白井。『アサヒクロニクルス 週刊20世紀』スポーツの100年より。
その白井のあとを追うように、1950年代後半ファイティング原田(本名は原田 政彦)、海老原博幸青木勝利の“軽量級三羽烏時代”が現れ、ボクシング黄金期を迎えることになる。特に、原田はフライ級に続いて“黄金のバンタム” エデル・ジョフレ(ブラジル)を破って世界王座の2階級制覇を成し遂げた。多くの専門誌が「歴代最も偉大な日本人ボクサー」として原田の名前を挙げている。日本のボクシング世界王者のことについては、Wikipedia のここ 又、その戦績などは※1:「ボクシングのページ」の日本のジム所属の歴代世界チャンピオンを参照されるとよい。
冒頭の画像は1955年5月18日、バンタム級の不敗の王者、エデル・ジョフレに挑戦し、ラッシュ戦法が効を奏し2対1で判定勝ちし、慣習にこたえている原田。『アサヒクロニクル週刊20世紀』1965年号より。

今日はこの原田の栄光の時代と試合のことについて触れてみたい。なお、このブログを書くに当たり、原田の経歴試合内容等については、Wikipediaだけでは詳細な記録が見られないので、以下参考の※2:「究極の格闘技ボクシングの歴史」のボクシング黄金時代最強のトリオや、※3:「キングオブスポーツ ボクシング」の名ボクサー名鑑よりファイティング原田を参考にさせてもらった。

白井のあと、彗星のごとく現れた原田は終戦の2年前、1943(昭和18)年4月5日、東京の世田谷に生まれた。植木職人であった父親が、中学2年の時、仕事中の怪我により働けなくなったため、彼は高校進学をあきらめ、当時、白井義男の活躍によりボクシング人気が高まっていたこともあり、友人に誘われ、近所にあった精米店で働きながら猛練習で知られる笹崎ボクシングホール(現:笹崎ボクシングジム。目黒区)に入門した。この笹崎ジムの初代会長笹崎僙(たけし)も、渡辺の門下生で、戦後に元同門のピストン堀口のライバルとして活躍した昭和初期における日本を代表するボクサーの一人であり、その鋭いストレートから「槍の笹崎」の異名で呼ばれた人物である。
笹崎ジムに通っていた原田は、初めてのスパーリングで激しい連打を披露し、笹崎会長を驚かせたという。原田が将来の名選手になることを確信した笹崎会長は、徹底的に原田少年を鍛え抜いた。
そして、1960(昭和35)年、わずか16歳10ヶ月で彼はデビュー戦にのぞみ、見事4ラウンドKO勝ちをおさめた。これを機に、彼は、3ヵ月後には精米店を辞め、ジムの合宿生となり、ボクシングに専念するようになった。
そして、同年秋、彼は東日本新人王戦(全日本新人王決定戦参照)に出場し順当に勝ち進み、準決勝で彼が対戦することになったのは、同じジムの親友でもあった斉藤清作であったが、斉藤は、「負傷」と言うことで出場を辞退している。実力的には五分五分であったといわれていただけに、ジムの会長が両者の接戦を予測し、共倒れを恐れ斉藤に辞退させたのだろうと推測されている。後に、「タコ八郎」の名で、コメディアンとして人気者になった斎藤とは、その後も長く交友が続き、死の直前にも電話を受けたといわれている。
決勝に進んだ原田は、やはりKOパンチャーとして売出し中で、後にフライ級世界チャンピオンにもなった海老原博幸に判定勝ちしている。この試合は6回戦とは思えない名勝負となり、序盤は原田がラッシュし、途中二度のダウンを奪って大きくリードするが、終盤には、海老原が後に“カミソリ・パンチ”と言われた左を再三ヒットして反撃、原田は何とか耐え抜き判定に持ち込み、ダウンポイントが利き、原田がこの試合をものにした(この後、海老原が試合中にダウンを喫することは、引退まで二度となかった。そして日本人相手に敗れることも)。この対戦は、後の世界王者同士の対決として、新人王戦史上に残る名勝負と言われている。
1962(昭和37)年5月3日、ノンタイトル10回戦に判定勝ち。デビュー以来25連勝を達成し、海老原、青木とともに次代のホープとして「フライ級三羽烏」と称されるようになった。しかし、成長盛りの年代でもあり、次第にフライ級での体重維持が困難になり、バンタム級への転向を考え始めていた彼は、同年6月同級へのテストマッチとして臨んだ世界バンタム級7位のエドモンド・エスパルサ(メキシコ)戦で10R(ラウンド)判定で敗れてしまい、バンタム級転向を発表できずにいた。
童顔の風貌とは裏腹に、原田のボクシングスタイルは力強い連打で打って打って打ちまくるラッシュ戦法であった。後に「狂った風車」とも呼ばれた激しいファイトスタイルも、このバンタム級へのテストマッチ戦では、パンチ力を生かすことができずに敗戦を喫し、たとえ、階級をあげてもパンチ力だけでは勝てないことを知った。そして、この戦いの後、まもなく、世界フライ級王者ポーン・キングピッチ(タイ)に挑戦が内定していたのは、同級1位の矢尾板貞雄であったが矢尾板が突然引退したため、同じ日本人のホープ原田に突然挑戦のチャンスが回ってくるという運の強さも持っていた。
世界タイトルマッチを目前にしての突然の引退であり、日本での試合はすでに準備されており、チャンピオンのポーン・キングピッチは急遽対戦相手に原田を指名したのだが、この時、原田はまだ世界ランキングにも登場していない無名の存在であったが、彼は海老原に次ぐ日本ランキングの2位のボクサーであった。順当なら対戦相手には海老原が選ばれるべきであったが、海老原の強さの方が海外には知られており、原田がバンタム級7位の相手に敗れていることも知られていたことから、海老原より原田の方がポーンにとってはやりやすかったのだろう。そのようなことから、原田の挑戦についてはいろいろ議論もあったたようだが、結局、ポーンが勝てば防衛にはならない、原田が勝てば王座獲得という変則的な条件で、1962(昭和37)年10月10日に無事に世界タイトルマッチにこぎつけた(ただ、挑戦時には原田に世界10位のランクがつき、正式な世界タイトルマッチとなるが、これは、タイトル戦への権威づけなのであろう)。
蔵前国技館で行われた試合は、原田が左ジャブとフットワークでポーンをコントロールし、11R、相手コーナーに追い詰め、80数発もの左右連打を浴びせポーンはコーナーロープに腰を落としてカウントアウトされKO負けとなった。勝って当たり前のチャンピオン、あきらかに油断があったのだろう。一方、駄目でもともとの原田はラッシュ戦法で一方的に攻めまくり、見事世界の頂点を極めたのである。白井義男に次いで2人目、10年ぶりの世界王者誕生にファンは大熱狂。無数の祝福の座布団が会場に舞ったのは当然だろう。10代での世界王者誕生に日本中も大いに湧いた。
しかし、華々しく奪った世界タイトルだったが、成長盛りの彼にとって普段の体重の維持はもう限界になっていた。3ヵ月後の1963(昭和38)年1月、敵地でのリターンマッチ戦では、元チャンピオンも今度は十分な準備をして待ち受けていた。しかも、敵地での対戦はKOしなければ勝てないことは十分にわかってはいても、原田の方は、減量のためだけの練習になっていた。結局、体調不良が響き微妙な判定負けでタイトルを失った。

この試合後、彼はフライ級からバンタム級に転じ、バンタム級へ転向後は連勝を続け、半年で世界ランクの4位となり、同級3位のジョー・メデル(メキシコ)と、1963(昭和38)年9月26日、世界タイトルへの挑戦権を賭けて対戦することとなった。メデルは、クロス・カウンターを得意とするアウトボクサーで、「ロープ際の魔術師」の異名を持つ強豪であった。
仕合では、5Rまでは、原田のラッシュが勝り一方的な展開であったが、6R、原田の単調な動きを見切ったメデルに、得意のカウンターをヒットされ3度のダウンの末にKO負けしてしまった。この敗戦により原田は、今までの戦法では通じないことを悟り、単調なラッシュ戦法にフェイントを加え、さらに体力アップによるラッシュ時間を増やすことを目指し猛練習。すぐに再起し、翌・1964(昭和39)年10月29日、”メガトン・パンチ”と称された強打を誇る東洋王者・青木勝利に新戦法で闘い、3RKO勝ちし、バンタム級世界王座への挑戦権を掴んだ。
当時の世界チャンピオン、エデル・ジョフレ(ブラジル)は「ガロ・デ・オーロ(黄金のバンタム)」の異名通り、世界王座を獲得した試合、8度の防衛戦にいずれもKO勝ちしていた。その中には、青木や、原田にKO勝ちしたジョー・メデルも含まれていた。強打者であり、パンチを的確にヒットさせ、ディフェンスも堅い実力王者だった。原田の猛練習は、取材していた新聞記者が、疲労で床にへたり込む程の激しさだったと言う。しかし、試合前の予想は、ジョフレの一方的有利、原田が何ラウンドまで持つか、という悲観的な見方がほとんどだった。

その試合は、奇(く)しくも、今から、ちょうど50年前の今日・1965(昭和40)年5月18日に名古屋・愛知県体育館で行われたのであった。この時、ジョフレは29歳、原田はまだ22歳であった。
試合開始のゴングを聞いた原田は、当初今までのボクシングスタイルを捨て、アウトボクシングに出た。かなりの大博打を打ったと言えるが、果たして原田はこの博打に勝った。原田のラッシュを予想した作戦を組み立てていたであろうジョフレに、明らかに戸惑いが見られ、その端正なボクシングに狂いが出始めたのである。そして、4R、ジョフレはリング中央で原田との打ち合いに応じたが、パンチにいつもの的確性がなく、原田のパンチが勝っていた。そして遂に、ジョフレ唯一の弱点である細いアゴを、原田の右アッパーが打ち抜いた。これでロープまで吹っ飛ばされたジョフレに、原田はラッシュを仕掛ける。だが、ジョフレもよく追撃打をブロックでしのぎ、次の5Rには、強烈な右をヒットし、原田はコーナーを間違えるほどのダメージを負った。だが、練習量豊富な原田は、次の回から立ち直り、終盤は一進一退の展開を迎える。そして遂に15Rの終了ゴングが鳴った。ボクシング史に残る死闘となったこの試合、どちらが勝ってもおかしくない内容だったが、手数で上回った原田が僅差で制した。勝敗の判定は、日本の高田(ジャッジ)が72-70で原田、アメリカのエドソン(ジャッジ)が72-71でジョフレ、そして、アメリカ人バーニー・ロス(レフェリー)が71-69で原田、2-1の判定勝ちで原田は世界王座奪取した。
レフェリーのロスは、現役時代、原田同様のラッシャーであり、それが原田に有利に作用したのでは、という噂もあったようだが、いずれにしても、原田のファイトが圧倒的不利の予想を覆し2階級制覇に成功したのであった。人格者でもあったジョフレは、。上述の通りクロス・ゲーム原田にタイトルを奪われた試合後には笑顔で原田を担ぎ上げていた。
そして、1965(昭和40)年11月30日、初防衛戦では、リヴァプール出身のアラン・ラドキン(イギリス)を15回判定で破り、翌・1966(昭和41)年5月31日、2度目の防衛戦では、前王者ジョフレを15回判定で下し防衛に成功。
1967(昭和42)年1月3日、3度目の防衛戦。では、かつてKO負けしたジョー・メデルとの再戦となる。この試合、前回メデルのカウンター攻撃に倒された原田は、足を使って、メデルのカウンターの射程圏外に出て、攻勢時には、身体を密着させてラッシュし、カウンターを封じた。原田の一方的なポイントリードで迎えた最終15回、メデルの左フックのカウンターが遂に命中し、一瞬ふらりとしたが、クリンチで何とか逃げ切り王座を防衛した。
同年7月4日、4度目の防衛戦。ベルナルド・カラバロ(コロンビア)を15回判定で下し王座防衛。4度の防衛を果たしたが、1968(昭和43)年2月27日、5度目の防衛戦で、当時19歳の無名挑戦者ライオネル・ローズ(オーストラリア)に15回判定負けしタイトルを失った。

この頃バンタム級でも原田の減量苦は限界を超し始めていたため、以降フェザー級に転向した。この当時、世界のボクシング界はボクシング団体がWBCWBAに分裂し始めていた。日本のボクシング団体であるJBCは、まだWBAの存在しか認めていなかったため、原田はWBA認定のフェザー級チャンピオンとなっていたラウル・ロハス(米)に挑戦することしかできなかったが、当時、日本ではほとんど無名の存在であった、西城正三が、たまたま武者修行先のアメリカで、ロハスとの練習試合を行いまさかの勝利を収めたことから、タイトル戦への挑戦機会を得て、またまたロハスに勝利してチャンピオンになっていた。
このまさかの日本人世界チャンピオンの誕生で、日本のボクシング界で初めての日本人対決の可能性が浮上してきたため、西城への挑戦準備が進む中、原田は同級の格下相手と調整試合を行ったが、調整の遅れもあり、原田もまさかの敗戦を喫してしまった。この敗戦により、彼は世界ランキングを落としてしまい、タイトルへの挑戦権を失うという大誤算となった。WBAでのタイトル挑戦が厳しくなったことから、彼はしかたなくWBCタイトルへの挑戦を目指した。相手は、オーストラリア人のジェームス・ファメションであった。

1969(昭和44)年7月28日、WBCフェザー級王座に敵地シドニーで挑戦。敵地での試合ということで原田はKOでの勝利を目指して、果敢に攻め、ファメションをKOギリギリまで追い込み3度ダウンを奪ったにもかかわらずレフェリーがダウンしたファメションを助け起こすという事件が起きる。そのうえ、内容的に原田が圧倒していたにも関わらず、15回判定負け。判定はチャンピオンの勝利となってしまった。この試合の判定は英国式ルールにより、判定がレフェリー一人にまかされていたことも問題なようで、露骨なホームタウンディシジョンでの防衛であることは明らかで、リングサイドで観戦していたライオネル・ローズもそれを認めており、当時の地元スポーツ新聞にはリング上で失神している王者の写真がデカデカと掲載されていたというから、いかに地元オーストラリアにとっても不名誉な勝利であったかが伺える。だが、結果として、地元判定に泣いた「幻の三階級制覇」となってしまった。
当然、ここまで問題が大きくなったことでWBCは再戦を要求。翌1970(昭和45)年1月6日、ファメションは王者の意地と誇りを賭けて今度は原田の地元東京・東京体育館にて再戦(日本で行われた初のWBC世界タイトルマッチ)を行ったが、原田はいい所が無いまま14RでKO負けしてしまった。もともと太りやすい体質の原田。無理な減量による10年間の戦いに肉体は思っている以上に衰えていたのかもしれない。この敗戦から3週間後の、同年1月27日、彼は引退を発表した。
原田の時代までは世界タイトル統括団体は世界ボクシング協会(WBA)たったひとつ。階級も8クラスしかなかった。つまり、世界王者はたった8人しかいなかった。しかし、現在はメジャーな統括団体が4つ、階級は17クラス、しかもスーパーだの暫定だの休養だのが乱発されている。今と違って原田が戦った1960年代当時、2階級制覇した、いや、ローズ戦の不当な試合結果がなければ三階級制覇もなっていた・・・というのは凄いことなのである。
ファイティング原田の名前が示すように原田は連打で打って打って打ちまくるラッシュ戦法を得意としていた。もともと太りやすい体質の原田が成長期に減量苦に耐え、そして類まれな闘志、根性から生みだしたものである。そのスタイルから努力、根性といった当時の日本人が好む匂いに溢れた選手だった。世界での評価も高く、米国にある世界ボクシング殿堂入りを果たした唯一の日本人ボクサーである。
そして、バンタム級歴代最強論争にも必ず登場する原田。1950年代後半から1960年代初めにかけて最強の名をほしいままにしたジョフレの戦績は78戦72勝(50KO)2敗4分・・と、たった2敗しかしていない。しかし、この2敗はいずれもがファイティング原田に喫したものである。すなわち‘「黄金のバンタム」を破った男はファイティング原田しかいないのである。
とにかく、彼のタイトルマッチは、高視聴率をマークする試合が多かったが、この1戦がやはり、ボクシング放送での1番の高視聴率となった歴史的な試合であった。以下は、ビデオリサーチによる、全局高世帯視聴率番組50(※4参照)の順位である。この視聴率を見れば、彼がどれくらい当時の人から愛されていたかがわかるだろう。
タイトル戦テレビ視聴率
第1 位第14回NHK紅白歌合戦 1963年12月31日(火)NHK総合 81.4 %。
第2 東京オリンピック大会(女子バレー・日本×ソ連 ほか) 1964年10月23日(金) NHK総合 66.8%
第3位 2002FIFAワールドカップHグループリーグ・日本×ロシア 2002年6月9日(日) フジテレビ 66.1%
第4位 プロレス(WWA 世界選手権・デストロイヤー×力道山) 1963年5月24日(金) 日本テレビ 64.0 %
上記に続いて、以下の通り、歴代視聴率ベスト10に2試合、30位までに6試合もランクされているのである。
第5位、世界バンタム級タイトルマッチ(ファイティング原田×エデル・ジョフレ) 1966年5月31日(火)フジテレビ 63.7%
第8位、世界バンタム級タイトルマッチ(ファイティング原田×アラン・ラドキン) 1965年11月30日(火) フジテレビ 60.4 %
第13位、世界バンタム級タイトルマッチ(ファイティング原田×ベルナルド・カラバロ) 1967年7月4日(火)フジテレビ 57.0 %
第22位 世界バンタム級タイトルマッチ(ファイティング原田×エデル・ジョフレ) 1965年5月18日(火) フジテレビ 54.9%
第23位 世界バンタム級タイトルマッチ(ファイティング原田×ジョー・メデル) 1967年1月3日(火)フジテレビ 53.9 %
第25位 世界バンタム級タイトルマッチ(ファイティング原田×ローズ) 1968年2月27日(火) フジテレビ 53.4%
この視聴率を見れば、彼がどれくらい当時の人から愛されていたかがわかるだろう。
「幻の三階級制覇」の後、ローズ戦再選に負け、引退後は、解説者として活躍する一方、トーアファイティングジム(現・ファイティング原田ボクシングジム)にて後進の指導にあたっていた。現在は、同ジム会長。2010年3月、第10代日本プロボクシング協会(JPBA)会長退任後、同顧問。プロボクシング・世界チャンピオン会最高顧問に就いている。

今日はそんな原田の懐かしい試合を思い起こしながら後のブログを閉めよう。とりあえず見つかったものだけをいかに添付しておく。





上掲はファイティング原田 VS ポーン・キング(1962年)勝利し世界フライ級王者となったた時のもの。



原田 VS ポーン・キングピッチ(1963年) 14・15ラウンド。微妙な判定負けでタイトルを失った時のもの。





上掲は1964年10月29日、原田とライバル青木との世界挑戦権を賭けた戦い。




上掲は1965年5月18日愛知県体育館でのバンタム級チャンピオンエデル・ジョフレとの試合で圧倒的不利の予想を覆し2階級制覇に成功した時のもの。

参考:
※1:ボクシングのページ
http://www.geocities.jp/takawo2222/box.html
※2:究極の格闘技ボクシングの歴史
http://zip2000.server-shared.com/onboxing.htm
※3:キングオブスポーツ ボクシング
http://hands-of-stone.seesaa.net/
ファイティング原田|スポーツの名言
http://meigenatsumemashita.web.fc2.com/sports/fighting-harada.html
※4:全局高世帯視聴率番組50 | ビデオリサーチ
http://www.videor.co.jp/data/ratedata/all50.htm
百田尚樹 『「黄金のバンタム」を破った男』 PHP文芸文庫 -
http://blog.livedoor.jp/hattoridou/archives/51901514.html
■日本人の平均身長・平均体重の推移(1950年~)
http://dearbooks.cafe.coocan.jp/rekishi05.html
ファイティング原田 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E5%8E%9F%E7%94%B0

葛飾北齋忌日

2015-04-18 | 人物

人魂(ひとだま)で  
 行く気散じや 
 夏野原    (葛飾北斎)

江戸時代後期の化政文化を代表する浮世絵師の一人葛飾 北斎(かつしか ほくさい)は、.嘉永2年4月18日(1849年5月10日)、江戸・浅草聖天町(町名は町内に待乳山聖天宮があるのにちなんで付けられた。※1の待乳山聖天宮・今戸橋を参照)にある遍照院(浅草寺の子院)境内の仮宅で没した。享年90歳。上掲は、北斎辞世の句である。(冒頭の画像は北斎の自画像、向かって右は、年代不明『週刊朝日百科日本の歴史』より借用、左は、天保13年(1842年)、82歳(数え年83歳)頃の自画像(一部)という。Wikipediaより)
北斎の代表作『富嶽三十六景』シリーズの初版は文政6年(1823年)に制作が始まり、天保2年(1831年)に西村永寿堂より出版されたが、相当人気があったとみえて当初計画になかった、裏富士十図10枚を追加して、合計46図が同4年(1833年)に完結している。『冨嶽三十六景』は江戸市中から見た富士を13図、江戸近郊から4図、上総(現在の千葉県南部)から2図、常州(茨城県)から1図、東海道筋から18図、そして甲州(山梨県)方面から7図、その他1図である。
『富嶽三十六景』の「神奈川沖浪裏」や、「凱風快晴」など、今も世界に知られる作品の数々の誕生と同時に、北斎は72歳にして、ついに誰もが認める浮世絵師の頂点へと登りつめたのであった。
『富嶽三十六景』シリーズ(46枚)は、以下の作品一覧以下でも見られるが、その下の東京国立博物館所蔵の物の方がきれいな詳細画で見られるので、1枚づつ干渉されるならお勧めである。

Wikipedia-『富嶽三十六景』シリーズ作品一覧』

東京国立博物館検索画面『富嶽三十六景』

数え年で90歳というと、当時としてはすごく長命であった。「気散じ(きさんじ)」とは心の憂さをまぎらわすこと、気晴らしのことであるから、これからの俺は「やることはやったので、ひと魂(ひとだま)」となって、ふうわりふうわりと夏の原を気ままに漂(ただよ)ってみることにするか・・・」。とでもいったところだろうか。

同時代、版画独特の美を発展させ、「並ぶ方なし」と言われた美人画の巨人、喜多川歌麿とともに活躍した葛飾北斎は、浮世絵師のなかで最も長い70年余の作画期中森羅万象の真を描くことに執念を燃やし、画風を次々と変転させながら3万点を超える作品を発表し、各分野に一流を樹立し、9世紀末、ヨーロッパにジャポニスム旋風を起こし、世界に衝撃を与えた。
北斎は、1999年の、米ライフ誌が選んだ「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に唯一選ばれた日本人であり、近年で最も注目を集めている浮世絵師である。
しかし、同時期に活躍していた歌麿は北斎より早く名を挙げていたが、北斎は歌麿に比べれば相当遅咲きの桜であったとはいえる。

北斎は、宝暦10年9月23日?(1760年10月31日?)、武蔵国葛飾郡本所割下水(現:東京都墨田区の一角。「北斎通り」参照)の川村家に生まれたが、家が貧しかったのか、幼くして,幕府の御用鏡磨師中島伊勢の養子となる。幼名は時太郎と言い、のち、鉄蔵(てつぞう)と称した。通称は中島八右衛門、晩年には三浦屋八右衛門と名乗っていたようである(※2 参照)。
その後、貸本屋の丁稚、木版彫刻師の従弟となって労苦を重ねたのち、役者絵の名手とうたわれた浮世絵師・勝川春章に入門したとされる。安永7年(1778年)から勝川派を出る。寛政6(1794)年ごろまでは春朗を名乗っていた。
この頃は、狩野派唐絵、西洋画などあらゆる画法を学び勝川春朗の名で絵師として名所絵(浮世絵風景画)や特に、お家芸である役者絵を多く手がけ、安永8年(1779年) 役者絵「瀬川菊之丞 正宗娘おれん」でデビューするまでの習作期で多種多様な画作をしている。

瀬川菊之丞:正宗娘おれん  ここ参照→ 東京国立博物館 - 北斎展

寛政6年(1794年) 勝川派を破門されているらしいが、理由は、最古参の兄弟子である勝川春好との不仲とも、春章に隠れて狩野融川に出入りし、狩野派の画法を学んだからともいわれるが、真相は不明だそうである。ただ融川以外にも、堤等琳 についたり、『芥子園画伝』などから中国絵画をも習得していたようである。
寛政7年(1795年) 「北斎宗理」(1795~1798年頃),の号を使用し始める。以後、北斎(1796~1814年頃),戴斗(1811~1820年),為一(1820~1834年頃),卍(1834~1849年頃)の主要な画号のほか,画狂人(1800~1808年頃)など生涯に30 余の号を頻繁に改号していたが、葛飾北斎の号は、文化2年(1805年)頃から使用しており、出生地が葛飾郡であったことから名乗ったといわれている。
北斎が「宗理」の号を使用し始めたころは、歌麿が既に美人画で人気を博していた時代であり、老中・松平定信は質素倹約を奨励し、華美なものを禁じ、寛政の改革(天明7年[1787年]~寛政5年[1793年])に着手していた。その改革の標的の一つとなったのが、歌麿だった。当時の幕府による禁令を見ると、歌麿が対象としか思えない触書が矢継ぎ早に出されていることがわかる(※3:「浮世絵文献資料館」の浮世絵に関する御触書参照)。
当時の歌麿は蔦屋重三郎の店から浮世絵を出版していた。蔦屋は遊郭・吉原の評判記『吉原細見』を売り出して人気を得た板元である。出版する絵本や浮世絵は、豪華な色使いや、刺激的な世相風刺が話題となり次々とベストセラーを送り出していた。店には、山東京伝らの人気作家や若い日の滝沢馬琴(曲亭 馬琴)などが出入りし、当時の江戸文化人サロンの中心となっていたが、松平定信にとっては、蔦屋サロンこそ統制の対象となるべき存在であった。
寛政2年(1790年)、幕府は「絵本絵草紙類までも風俗の為に相成らず、猥(みだ)らがましき事など勿論無用に候」との禁令(※3の浮世絵に関する御触書の十月〔『御触書天保集成』下810(触書番号6418)〕参照)を出し、歌麿の豪華絵本などが出版停止処分となった。翌寛政3年(1790年)には、山東京伝の洒落本が禁令に触れ、京伝は「手鎖50日の刑」に処せられ、蔦谷は身代半減の処罰を受けた。
こうしたことに反発し、絵を描き続けた歌麿は、この頃から『婦女人相十品』(その1枚・ポッピンを吹く女[ここ参照]など)、『婦人相学十躰』(その1枚・浮気之相[ここ参照]など)といった美人大首絵を描き始めた。そして、それまで以上に人気を博するようになる。そんな歌麿がこの世を去った(文化3年[1806年])頃、北斎はようやくチャンスを掴むことになる。
北斎は浮世絵以外にも、いわゆる挿絵画家としても活躍していた。黄表紙洒落本読本など数多くの戯作の挿絵を手がけたが、作者の提示した下絵の通りに絵を描かなかったためにしばしば作者と衝突を繰り返していたという。
「葛飾北斎」の号を用いるのは文化2年(1805年)の頃からであるが、数ある号の一つ「葛飾北斎」を名乗っていたのは当時の人気戯作者・曲亭馬琴とコンビを組んだほんの一時期で、その間に『新編水滸画伝』(※4参照)『椿説弓張月』(※4参照)などの作品を発表し、馬琴とともにその名を一躍不動のものとした(これら他の読み本も、以下参考の※4で見ることが出来る)。
北斎は、それまで読み物のおまけ程度の扱いでしかなかった挿絵の評価を格段に引き上げた人物とも言われているそうだ。なお、北斎は一時期、馬琴宅に居候(いそうろう)していたことがあるようだ。 これ挿絵により、その名を広く知らしめた北斎は文化11年(1814年)54歳の時 画号・「戴斗(たいと)」の号で、もう一つの代表作『北斎漫画』初版を発刊(注:文政2年[1819年]頃に門人が二代目戴斗を襲名している)。そして、文政3年(1820年)から 「為一(いいつ)」の号を用い、文政6年(1823年)には『富嶽三十六景』の初版の制作を始め、天保2年(1831年)に開版、同4年(1833年)に完結することになるのである。
北斎は、読本の挿絵の仕事がひと段落した1812(文化9)年、関西へ旅立った。その帰り、尾張(名古屋)の後援者で門人の牧墨僊宅に半年ほど逗留し、人物や風物その他300余りのスケッチを描いていた。この下絵を見た名古屋の版元永楽屋東四郎(永楽堂)がその、デッサンの確かさ、生き生きとした動き、見ていて飽きのこないユーモラスなタッチを気に入り、これなら売れると即断、『北斎漫画』と題して翌年出版にこぎつけたのであった。この初編が好評であったことから、『北斎漫画』は、翌文化12年(1815年)に二編、三編を、文政2年(1819年)までに九編、十編まで出し、天保5年(1834年)まで十二編、北斎の亡くなる年の嘉永2年(1849年)に十三編が刊行されるが、全編(十五編)が完結するのは北斎没後の明治11年(1878)のことである(『北斎漫画』は※4で見ることが出来る)。 


上掲の画像『北斎漫画』の「相馬公家」は貴族に対する風刺画である。『週刊朝日百科日本の歴史』より。
全十五編には、人物、風俗、動植物、妖怪変化まで約4000図が描かれている。北斎はこの絵のことを「気の向くままに漫然と描いた画」と言っているようであるが、北尾政美(鍬形斎の名で知られる)の『諸職画鏡』(しょしょくえかがみ。※5参照)や『略画式』(※5参照)から着想を得て書かれているようだ。


上記2つの相撲図を比べると、恵斎の方があっさりとした描き方をしているのに対して、北斎は手足や体の動きがリアルに生き生きと描かれている。

また、1804(文化元)年から1806(文化3)年にかけて、恵斎が松平定信から要請を受けて描いたという肉筆図巻3軸「近世職人尽絵詞」(※6参照)にも強烈な刺激を受け、「なにくそ」という北斎の反骨心が「北斎漫画」を誕生させたのである。
この鍬形斎(1764-1824)という人物は、今日ではややマイナーな存在であるが、江戸時代には俗に、「北斎嫌いの斎好き」という言葉ができるほど評価された絵師であったようだ。
作風は、狩野派以外にも大和絵琳派などといった伝統画法も広く習得し、前述通り軽妙で洒落の効いた略画風の漫画を多数描いたことでも知られ、『増補浮世絵類考』(※3:「浮世絵文献資料館」のここ参照))では、「政美は近世の上手なり。狩野派の筆意をも学びて一家をなす。又光琳芳中が筆意を慕い略画式の工夫行われし事世に知る所なり」と高く評しているという。
こうした政美の「略画式」や鳥瞰的な一覧図は、同時代の北斎に『北斎漫画』や『東海道名所一覧』( ここ参照)『木曽名所一覧』といった形で真似された政美はこれを苦々しく思ったらしく、「北斎はとかく人の真似をなす。何でも己が始めたることなし」と非難したという逸話が残っている(斎藤月岑武江年表』の「寛政年間の記事」)ようだ。

ま、そのような絵画への執念が、『冨嶽三十六景』シリーズをも生み出したと言えるだろう。北斎は、大好評であった『富嶽三十六景』に飽き足らず、「為一」、「画狂老人」などの号で天保5年(1834年)、3巻からなる絵本『富嶽百景』をも出版している。3巻からなる絵本で、初編天保5年(1834年)刊行、二編は天保6年(1835年)、三編は刊行年不明(かなり遅れたらしい)。75歳のときが初版(為一筆)。富士山を画題に102図を描いたスケッチ集であるが、当時の風物や人々の営みを巧みに交えたもの。
以下の画像は、北斎の『富嶽百景』の1つ「浅草鶏越の図」で、中央の球は天体運行を観測するための渾天儀。国立国会図書館蔵。浅草天文台週刊朝日百科日本の歴史47より。
幕府は宝暦暦が宝暦13年(1763年)9月の日食予報を見落としたため改暦の作業に着手し、明和2年、(1765年)牛込に新暦調御用所(※7参照)を置いた。この役所は恒常的に天体観測を行っていたらしく、木が茂って空が見えにくくなったとして天明2年(1782年)浅草に移転したそうだ。

富岳百景の画像は他にみあたらないが、どんなものが描かれていたか、以下富岳百景図録で想像してください。

富岳百景図録–葛飾 北斎 著 (単行本/芸艸堂[うんそうどう])

しかし、広く世に知られているのはこの作品よりもむしろ、尋常ならざる図画への意欲を著した以下の跋文(後書き)のようである。
「己 六才より物の形状を写の癖ありて 半百の此より数々画図を顕すといえども 七十年前画く所は実に取るに足るものなし七十三才にして稍(やや)禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり故に八十六才にしては益々進み 九十才にして猶(なお)其(その)奥意を極め 一百歳にして正に神妙ならんか 百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん願わくは長寿の君子 予言の妄ならざるを見たまふべし」
つまり、「私は6歳より物の形状を写し取る癖があり、50歳の頃から数々の図画を表した。とは言え、70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。(そのような私であるが、)73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。(そして、)100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。長寿の神には、このような私の言葉が世迷い言などではないことをご覧いただきたく願いたいものだ。」・・・と、100歳を超えてもなお絵師として、向上しようとする気概を語っている。
天保13年(1842年) 秋、83歳にして弟子の高井鴻山が住む信濃国高井郡小布施まで足を延ばし、亡くなる前年の嘉永元年(1848年)まで滞在。多くの作品を残している。当時の交通事情を考えると想像を絶する旅だった。
晩年期の天保5年(1834年)頃から肉筆画(肉筆浮世絵)を手がけるようになり、嘉永2年1月(嘉永二己酉年正月辰ノ日。1849年)、亡くなる3ヶ月ほど前に描かれた『富士越龍図』(絹本着色。落款:九十老人卍筆)が、北斎最晩年の作であり、これが絶筆、あるいはそれに極めて近いものと考えられている。幾何学的山容を見せる白い霊峰・富士の麓を巡り黒雲とともに昇天する龍に自らをなぞらえて、北斎は逝った。

北斎の代表作『富嶽三十六景』の「富嶽」とは富士山のことであり、各地から望む富士山の景観を描いているのである。江戸の人たちにとって富士山は常日頃仰ぎ見ることのできる山岳信仰のお山でもあった。
しかし、現代人と同じように素晴らしい景観の富士を見ることのできるところにいるからと言っても、当時は、各地に厳しい関所があり、人の移動は厳格に制限されていたし、道中の危険もあったので、一般に庶民の旅行は自由ではなかったが、公用・商用の旅、参詣湯治などの遊行、女性の場合には婚姻や奉公など様々な理由での旅はあったが、一般に庶民の旅行は自由ではなかった。
これらも含めて、庶民が自由に旅に出られるようになったのには、いくつかの理由がある。
先ずは江戸後期になって、江戸文化が花開き、娯楽が広がった。同時に街道が整備され,それに伴って、宿場も整い、旅の安全が確保されるようになった。
人々は通行手形を檀家である寺から発行してもらう事で、目的の場所に出掛けられ、特に信仰を目的にすれば、意外とどこにでも出かけられたが、あくまでも信仰だから、本音と建て前を区別しなければならない。遠くは四国の金毘羅権現や、伊勢参り。木曽の御嶽信仰。富士講等々。しかし、その目的地やそこにゆくまでの宿場には飯盛り女の居る宿も多く、当初から、参詣を理由とした観光や夜のお楽しみを目的とした旅も多かったようだ。
この頃に、有名な十辺舎一九が書いた弥次さん喜多さん旅物語『東海道中膝栗毛』は、名所・名物紹介に終始していた従来の紀行物と違い、旅先での失敗談や庶民の生活・文化を描き絶大な人気を博した。,又地図の代わりに観光名所の案内として、名所図会と云う画の案内書も売られる様になる。
そして、それまで、美人や役者を中心的な題材としていた浮世絵に、風景が主なジャンルとして本格的に加わってくるが、その立役者が、葛飾北斎と歌川広重である。
はじめに風景版画への扉を開いたのが、大ベテランの北斎で、富士を驚きの構図で、さまざまに描いた連作「冨嶽三十六景」が、当時の”お山信仰”“富士 山ブーム”、”旅行ブーム”と相まって空前の大ヒットし、それが元で広重 によって『東海道五十三次』が刊行された。
これは、天保3年(1832年)広重が東海道を初めて旅した後に作製したといわれている。北斎の『富嶽三十六景の』初版が西村永寿堂より出版された翌年のことである。広重は寛政9年(1797年)の生まれだから、『富嶽三十六景』初版が出たとき天保2年(1831年)は、まだ、34歳、『東海道五十三次』を出したときは35歳ということになる。
bw手ランと若い二人によって浮世絵における名所絵(風景画)が発達した。
二人はその後も、互いに意識しあい、新たな風景画シリーズの刊行、また、花鳥画のジャンルなどでも市場を競いあい、やがて北斎は版画の道を後進の広重に譲りつつも、肉筆画を中心に、亡くなる90歳まで現役を続行したのであった。そして、広重は、いっそう風景画の世界へと歩みをすすめ、ともに数多くの足跡をこの世に残してくれた。

以下目面しい画のみここにおいて置こう。


上掲の画像は、北斎の『江戸名所三十六景』本所の光景。東京国立博物館蔵。『週刊朝日百科日本の暦sぢ』24より。浮世絵師のとらえた近世の職人の働く姿はまことにダイナミックである。




上掲の画像は、「大小暦」 
現在私たちが使っているグレゴリウスでは、毎年、大の月と小の月の配列は変わらない、ところが、月の満ち欠けに基礎を置く太陰太陽暦では、毎年29日の小の月と30日の大の月の配列が異なり、更に閏月の挟み込まれることもあった。江戸時代の商慣習では掛け売りの清算は晦日となっていたから、庶民に月の大小を正確に知っておくことはとても大事なことだった。「大小暦」は、その年の大小の配列を工夫して1枚の刷り物に仕立てた略歴の一種で、貞享、元禄の頃から主に江戸を中心に流行した。機知にあふれ、多彩な摺り物の技法の盛り込まれた大小暦は現代のカレンダー文化の先駆けともいえる。
掲載の画像は、「謎解き」(寛政4年)。子の字を12並べ、文字の大小で、月の大小を示す。12字をどう読むか謎だったが、小野篁が「猫の子の子猫,ししの子の子獅子」と読み解いた伝えられるそうだ。勝川春朗(葛飾北斎)画。『週刊朝日百科日本の歴史』47より。

「余の美人画は、お栄に及ばざるなり お栄は巧妙に描きて、よく画法にかなえり」 (葛飾北斎)
(美人画にかけては応為には敵わない 応為は妙々と描き、よく画法に適っている) 
世界にその名が知れ渡っている伝説の浮世絵師である父の葛飾北斎にそう言わしめ、最も彼の才能と破天荒な性格を受け継いだと言われる北斎の三女お栄。彼女は画号を“葛飾応為(おうい)”とし 北斎の肉筆美人画の代作や春画の彩色を担当してきたという。 
世界に応為の作品は10点ほどしか現存していないそうだが その作品は、以下参考※8:「父北・斎の才能を受け継ぐ葛飾応為が描いた幻の作品「光の浮世絵」」で見ることができる。
また、葛飾北斎が描いた琉球(沖縄)の風景画が8点あるようだ。
しかし、北斎は実際に琉球を訪れた訳ではなく、1756年に来琉した冊封使・周煌が書いた琉球の見聞録『琉球国志略』に収録された絵図(「中山八景」)を元に描き、想像で着色したものだそうだ。これについては、以下参考の※9:「琉球八景(りゅうきゅうはっけい) - 沖縄事典 あじまぁ」で、絵お比較して展示しとぇいるので見てみるとよい。。

今日は、あえて、2013年(平成25年)6月22日に関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録された富士山との関連でブログを書いた。
葛飾北斎の画業は主要画号の使用時期を基準に6期に区分するのが一般的なようである。
第1期「春朗期-習作の時代」 20歳頃~/安永8年(1779)頃~
第2期「宗理期-宗理様式の展開」 36歳頃~/寛政6年(1794)頃~
第3期「葛飾北斎期-読本挿絵への傾注」 46歳頃~/文化2年(1805)頃~
第4期「戴斗期-多彩な絵手本の時代」 51歳頃~/文化7年(1810)頃~
第5期「為一期-錦絵の時代」 61歳頃~/文政3年(1820)頃~
第6期「画狂老人卍期-最晩年」 75歳頃~90歳/天保5年(1834)頃~嘉永2年(1849)
詳しくは以下参参考の※10:「北斎展 作品リスト - 東京国立博物館」を参照。
ここには、各期ごとに、作品の名称、 版型・寸法 、 所蔵者 等が詳しく書かれているので、詳しく知りたい人は、これを頼りに、調べられるとよいだろう。
また、北斎のもう一つの代表作『北斎漫画』については、参考※11:「視点・論点 「漫画誌から見た『北斎漫画』」 | 視点・論点 | NHK 解説委員室」で、詳しく論いられているので参考にされるとよいだろう。、


参考:
※1:錦絵で楽しむ江戸の名所
http://www.ndl.go.jp/landmarks/
※2:葛飾北斎直筆の肖像画見つかる
http://www.ic.daito.ac.jp/~hama/news/s980902.html
※3:浮世絵文献資料館
http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/index.html
※4:早稲田大学図書館:古典籍総合データベース:葛飾北斎
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%8A%8B%8F%FC%96k%8D%D6
※5:早稲田大学図書館:古典籍総合データベース:北尾政美
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%96%6b%94%f6+%90%ad%94%fc
※6:近世職人尽絵巻画像一覧 - 東京国立博物館
http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=other&colid=A83
※7:東京都新宿区の歴史 新暦調御用所跡(天文屋敷跡)
http://tokyoshinjuku.blog.shinobi.jp/%E8%A2%8B%E7%94%BA/%E6%96%B0%E6%9A%A6%E8%AA%BF%E5%BE%A1%E7%94%A8%E6%89%80%E8%B7%A1%EF%BC%88%E5%A4%A9%E6%96%87%E5%B1%8B%E6%95%B7%E8%B7%A1%EF%BC%89
※8:父北・斎の才能を受け継ぐ葛飾応為が描いた幻の作品「光の浮世絵」
http://ameblo.jp/igatakeru/entry-11774514955.html
※9:琉球八景(りゅうきゅうはっけい) - 沖縄事典 あじまぁ
http://100.ajima.jp/history/term-history/e279.html
※10:北斎展 作品リスト - 東京国立博物館
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=24
※11:視点・論点 「漫画誌から見た『北斎漫画』」 | 視点・論点 | NHK 解説委員室
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/197218.html
信州小布施 北斎館:サイトマップ
http://hokusai-kan.com/w/?page_id=1891
信州大学:付属図書館:近世日本山岳関係データーベース:
http://moaej.shinshu-u.ac.jp/?classification=%E7%B5%B5%E7%94%BB&paged=2
画狂老人卍的世界 INDEX
http://jam.velvet.jp/hokusai-0.html
「人物略画式」全頁画像(一覧)-福岡大学図書館
http://www.lib.fukuoka-u.ac.jp/e-library/tenji/wabi/wabi-html/ten/zen/jin/jin_itiran.html
国立国会図書館デジタルコレクション:江戸名所図会
http://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?featureCode=all&searchWord=%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%90%8D%E6%89%80%E5%9B%B3%E4%BC%9A&viewRestricted=0
国枝史郎 北斎と幽霊 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000255/files/43563_17048.html
カオスを描いた北斎の謎
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20070316/121233/
葛飾北斎 - GATAG|フリー絵画・版画素材集 - GATAG
http://free-artworks.gatag.net/tag/%E8%91%9B%E9%A3%BE%E5%8C%97%E6%96%8E
葛飾北斎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E9%A3%BE%E5%8C%97%E6%96%8E