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記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「金田一京助、(言語学者)」の忌日

2005-11-14 | 人物
1971年の今日(11月14日)は 「金田一京助、(言語学者)」の忌日。
金田一 京助(きんだいち きょうすけ)、1882年(明治15年)生まれ。岩手県盛岡市出身。アイヌ語研究で知られる言語学者。文学博士。
東京帝国大学時代,師の上田万年(かずとし)に影響を受け、アイヌ語に興味を持つ。後に、北海道に行き現地を調査,アイヌ民族に伝わる叙事詩ユーカラの存在に注目する。かれは、このアイヌ語と「ユーカラ」の研究を通じて日本語の成り立ちを探ろうとした。現地での言語採集などを通じてふれあったアイヌの人たちの交流と協力を続けながら、埋もれていたアイヌ叙事詩の存在を明らかにし、1931(昭和6)年1月に出版された『アイヌ叙事詩ユーカラの研究』によって、翌年5月に学士院恩賜賞が送られ、現在のアイヌ語研究の基礎を築いた。
戦後には国語審議会委員として現代かなづかい制定に貢献,1954(昭和29)年文化勲章(紫綬褒章)を受章。また多くの辞書や教科書の編・監修者としても知られている。盛岡中学時代には花明と号して短歌を詠み,与謝野鉄幹主催の『明星』の同人であり、歌人、石川啄木の盛岡中学時代の先輩で終生の親友でもあったという。 長男の金田一春彦、孫の金田一秀穂も言語学者。横溝正史の推理小説に登場する探偵、金田一耕助の名は金田一京助の名から工夫したものとか。
金田一のアイヌ語研究には、知里幸恵・真志保姉弟、金成マツをはじめとする、多くの現地人の協力者の理解があったという。
中世以降、日本人はアイヌを蝦夷、北海道を蝦夷地と称してきた。大和朝廷の「蝦夷征伐」など、古代からの歴史に登場する「蝦夷」をアイヌと捉える向きもあり、アイヌを東北地方以北の全土(飛躍した説では日本全土)に住んでいた原日本人の一つとする説もあった。
しかし、今では、彼らの祖先は日本人と同じように縄文人の一部を形成し、続縄文文化、擦文文化を経てアイヌ文化の形成に至ったことが明らかになっている。
古代東北史を巡っては、蝦夷(えみし)は日本民族かアイヌ民族かといった長い論争があった。
金田一京助は、近代言語学の方法で、主に北海道と東北北部(青森、岩手、秋田県)に残る地名から蝦夷アイヌ説を唱えた。この2地域には共通する地名が多く、「大きい川」を指すアイヌ語「ペッ」「ベッ」は、登別(のぼりべつ)(北海道)、仁別(にべつ)(秋田)、今別(いまべつ)(青森)など。「小さい川」を指す「ナイ」は、稚内(わっかない)(北海道)、米内(よない)(岩手)、玉内(たまない)(秋田)など。
彼は、又、マタギが使う山言葉にも着目した。マタギとは奥羽山脈一帯で狩猟をしてきた集団で、山に入った時は日常の言葉を使ってはならず、山で話すのは山言葉のみとされたそうだ。その山言葉で水をワッカ、心臓をサンベ、頭をハッケ、犬をセッタなどと言い、アイヌ語でも水はワッカ、心臓はシャンベ、頭はパケ、犬はセタとほぼ同じなのだそうだ。これも古代の東北人の言語がアイヌと共通していたことの名残だろうというのである。
これに対して蝦夷日本人説は、戦後になって有力になり、新しい考古学の成果を取り入れ、今やこちらが優勢だそうだ。北海道史は、出土する土器の形状から縄文、続縄文、擦文(さつもん)、アイヌ文化という変遷をたどってきたとされる。アイヌ文化が始まる時期については諸説あるが、早くとも12、13世紀ごろらしい。平泉の奥州藤原氏によって、東北全域が「日本」の支配下に入ったころである。
擦文土器の時代まで、東北北部では北海道南部と共通する土器が出土する。東北北部が「日本」の一部となり、彼らから切り離された北海道にアイヌ文化が生まれる以前、津軽海峡は、アイヌ民族の呼び方を借りれば「しょっぱい河」に過ぎなかった。その南と北には、おそらく同じ文化圏が存在していたのだろうというのである。
両説を踏まえて工藤雅樹・福島大教授の指摘は、「蝦夷もアイヌも、列島全体に広がっていた同じ縄文人の子孫だった」とまとめており(平凡社新書『蝦夷の古代史』)これが現在最も説得力があるそうだ。工藤教授は。蝦夷も、北海道の縄文人の子孫とともに、アイヌ民族の一員となる可能性があった。しかし実際の歴史はその道をたどらず、彼らは朝廷勢力などによって、最終段階で「日本民族」の一員に組み入れられたというのである。(以下参考のHP「毎日新聞社・謎解き日本史」などより。)
アイヌ文化成立について考古学や文献でその事情を完全に跡付けることはできない。しかし基本的には、北海道の前時代にあった擦文文化を継承しつつ、オホーツク文化と融合し、本州の文化を摂取して生まれたと考えてよいのだろう。その傍証として、擦文時代の前にあたる続縄文時代の土器の文様とアイヌの衣装に描かれる模様(アイヌ文様)との類似性、アイヌにとって重要な祭である「イヨマンテ(熊の霊送り)」と、オホーツク海南沿岸にあったオホーツク文化に「熊を特別視する世界観」があったという説(擦文文化にこのような文化はない)があげられているという。
イヨマンテ・・・・と言えば、何か思い出しませんか?
そう伊藤久男が朗々と歌い上げる勇壮な歌「イヨマンテの夜 」・・・ここでは、イヨマンテは熊祭と訳されていたが・・・。
伊藤久男が朗々と歌い上げる勇壮なこの歌は、メノコ(土地の美しい娘)と旅の若者のラブロマンスの唄のように思って聞いていたのだが、イヨマンテは熊を神の使いと信じるアイヌの人々にとって大事な、そして極めてつらい儀式だったんだよ。
イヨマンテ(熊の霊送り)とは、熊猟で成獣を仕留めた際に、残された仔熊を里へ連れ帰り、1~2年飼育した後、盛大な儀式を執り行って親元である神の国に「送る」儀式で、「送る」とは、実際には「殺す」という行為を伴い、それが残虐な行為に映るかもしれないが狩猟を主な生業の一つとしていたアイヌにとって熊は最も位の高い神の一つであり、熊の霊送り(イヨマンテ)は、アイヌ民族にとっては神との対話をする大切な儀式なのだそうである。
下のMIDIでは、作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而の名曲が聞けるよ。私も大好きな曲だった。歌詞も書いてあるので、歌ってみませんか?
MIDI熊祭(イヨマンテ)の夜
(画像は、金田一京助 の世界Ⅰ「ユーカラの人々」金田一京助 著。平凡社ライブラリー)
参考:
金田一京助 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E7%94%B0%E4%B8%80%E4%BA%AC%E5%8A%A9
アイヌ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C
擦文時代 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%93%A6%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3
アイヌ民族 アイヌみんぞく
http://www.tabiken.com/history/doc/A/A026L100.HTM
毎日新聞社・謎解き日本史
http://www.mainichi.co.jp/hanbai/nie/nazo_nihon11.html
国立民族学博物館|
http://www.minpaku.ac.jp/staff/ohtsuka/
(財)アイヌ文化振興・研究推進機構HP
http://www.frpac.or.jp/index.html
アイヌの人たちの文化や歴史について
http://www.dokyoi.pref.hokkaido.jp/hk-stkik/kodomo/ainu.html