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記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

豊田四郎 (映画監督『夫婦善哉』)の忌日

2005-11-13 | 人物
1977(昭和52)年の今日(11月13日 )は豊田四郎 (映画監督『夫婦善哉』)の忌日
豊田 四郎( とよた しろう) は1906(明治39)年1月3日京都府京都市室町に生まれる。幼時に肋骨カリエスを病み、成年までもたないだろうといわれるほど病弱だったそうだ。
1924(大正13)年に松竹蒲田撮影所に入り島津保次郎に師事。1929年監督に昇進、デビュー作は「彩られた唇」 であったが、興行的には不入りで、その後も不振は続き、助監督に降格されるなど苦汁をなめていたという。しかし、1936(昭和11)年東京発声映画製作所(東宝)に移籍。ここで翌1937(昭和12)年、石坂洋二郎の出世作、長編「若い人」を同名で映画化。市川春代を主演に、日本の国が軍国主義化し戦争に突入していく直前のこの時期に、エキセントリックな女学生を描いたこの映画は大ヒットした。以降、彼は文芸映画を多く監督するようになったが、中でも、その後、瀬戸内海ハンセン病院の女医の手紙を基にして製作された1940(昭和15)年の「小島の春」は最高傑作と言われている。彼は、1977(昭和52年)、俳優・北大路欣也の結婚披露宴で、祝辞を述べて着席したとたん、心臓発作で倒れ、礼服のまま急逝するという悲劇的な幕切れで生涯を終えた<71歳>。
今年2005(平成17)年はそんな、豊田四郎 生誕100周年に当たる。豊田四郎は「夫婦善哉」(1955年)や「台所太平記」(1963年)「恍惚の人」(1973年)などの名文学作品を見事に映画化し、女性を斬新に生き生きと描写している。生涯確固たる映画への夢と信念を貫き続け、太平洋戦争化でも決して国策映画は撮らなかったという。これほど、文学作品の映画化にこだわった人も少ないだろう。近頃日本では、軽い娯楽映画、刺激的アクション映画が主流となっており、それが為かヨン様などの韓国映画がブームを起こしている。それは、それらの映画には日本映画が失いかけている文学的な面があるからだろう。この機会に日本の文学映画を見直してはどうだろうか。
豊田 四郎のことは、これくらいにして、関西人の私には彼の代表作の中でも『夫婦善哉』が一番のお気に入りである。故織田作之助の小説を同名で映画化したものであるが、彼は、1913(大正2)年10月26日、大阪市南区生玉前町(現天王寺区)に生まれた人であり、大阪をこよなく愛し、道頓堀、法善寺、千日前など、みなみの盛り場を彷徨いながら、大阪の庶民生活を生き生きと描いた、関西を代表する純文学作家である。
『夫婦善哉』は、大阪の安化粧品問屋の息子で妻子もある柳吉という意志薄弱のぼんぼんと、曾根崎新地の元売れっ子芸者の蝶子という、しっかり者の流転の物語であり、女主人公蝶子のモデルは作之助の二番目の姉の千代であるといわれる。
『夫婦善哉』に出てくる主人公の柳吉はうまい物に掛けると眼がなくて、「うまいもん屋」へしばしば蝶子を連れて行った。彼に言わせると、北にはうまいもんを食わせる店がなく、うまいもんは何といっても南に限るそうで、それも一流の店は駄目、ほんまにうまいもん食いたかったら、「一ぺん俺の後へ随いて……」行くと、無論一流の店へははいらず、よくて高津の湯豆腐屋、下は夜店のドテ焼、粕饅頭から、戎橋筋そごう横「しる市」のどじょう汁と皮鯨汁、道頓堀相合橋東詰「出雲屋」のまむし、日本橋「たこ梅」のたこ、法善寺境内「正弁丹吾亭」の関東煮、千日前常盤座横「寿司捨」の鉄火巻と鯛の皮の酢味噌、その向い「だるまや」のかやく飯と粕じるなどで、何れも銭のかからぬいわば下手もの料理ばかりであった。
映画の中で柳吉と蝶子が、夫婦善哉のいわれを語るシーンがある。
古びた阿多福(おたふく)人形が据えられ、その前に「めおとぜんざい」と書いた赤い大提灯がぶら下っている。この店は、しみじみと夫婦で行く店らしかった。ぜんざいを註文すると、一人に二杯ずつ持って来た。
柳吉(森繁久弥)「こ、こ、ここの善哉はなんで、二、二、二杯ずつ持って来よるか知ってるか、知らんやろ。こら昔何とか太夫ちゅう浄瑠璃のお師匠はんがひらいた店でな、一杯山盛にするより、ちょっとずつ二杯にする方がぎょうさんはいってるように見えるやろ、そこをうまいこと考えよったのや」
蝶子(淡島千景 )「一人より女夫(めおと)のほうが良えいうことでっしゃろ」
放蕩で甲斐性のない柳吉が知ったかぶりで話し、喧嘩は絶えないが惚れた弱みで別れられないがしっかりものの蝶子がすぐさま切り返す。このときの蝶子はめっきり肥えていて、座蒲団が尻にかくれるくらいであった。これから先もずっと柳吉が蝶子の尻に敷かれて行くだろうことを暗示している。
映画の中で、柳吉は二十歳の蝶子のことを「おばはん」と呼ぶようになっていた。自分より十一歳も年下の二十歳の芸者を「おばはん」と呼んでいるのである。このセリフだけでも柳吉と蝶子の力関係がわかる。
雪の舞う法善寺横丁で、ぐうたらでボンボン育ちの男柳吉が、一回りも年下の元芸者蝶子に語りかけるラストシーンは「頼りにしてまっせ、おばはん…」・・・であった。
我が家の母ちゃん(家人)もしっかりものだ。最近は、頭が上がらない。現役を退いてからは、特に頭が上がらない。家にいても何もしないと怒られてばかり。「そんなこといわんと・・・今は、わて、あんたを頼りにしてんやで・・・・・・」・・・(^^;;。
夫婦善哉は、映画だけでなく、故藤山寛美や故ミヤコ蝶々など大阪の多くの舞台人に演じられた。又、以前にあった司会:ミヤコ蝶々・南都雄二による、朝日放送(ABCテレビ)制作TBS系列で放送された素人夫婦によるトーク番組・・・これも番組のタイトルは「夫婦善哉」だったよね。夫婦でワイワイ相手のことを言い合いながら送る人生・・・。人生を楽しむってこういうことなのかも知れないよ・・・。
(画像は、映画「夫婦善哉」DVD)
参考:
図書カード:夫婦善哉
http://www.aozora.gr.jp/cards/000040/card545.html
豊田四郎・讃
http://perso.wanadoo.fr/kinoken2/cineken2/cineken2_cont/coupsdecoeur/toyoda.html主人公が見た風景/南久宝寺卸連盟
http://qho.cc-net.or.jp/9803/syuzinkou.html
豊田四郎 (トヨダシロウ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/99389/