今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

ごめんねの日

2014-12-10 | 記念日
12月10日
日本記念日協会(※1)の今日・12月10日の記念日に「ごめんねの日」があった。由緒を見ると以下のように書いてあった。
外食産業の株式会社すかいらーくが、2009 (平成21)年12月10日に「すかいらーくガスト」の 新メニュー「ハミ出るビーフステーキ」を登場させたことから制定。お皿からハミ出してしまうほどのボリュ ームを「ハミ出してごめんね」と逆説的にアピールして、コミュニケーションをはかるのが目的。関連サイト の「謝り美人」などのプロモーションも人気。・・・・と。以下はガストのCM.。
ガスト ハミ出るビーフステーキセット - YouTube

「ガスト」とは、日本最大のファミリーレストランチェーンを展開しているすかいらーく(SKYLARK CO., LTD.)の洋食ファミリーレストラン主力ブランドである。
2014年(平成26)年11月30日現在、主力のガスト、1,352店(店舗数計2,593店に対する構成比52%超)、バーミヤン、342店、ジョナサン、300店他計2,593店、グループ店舗数では計2,970店を展開している。(※2の企業情報>ブランド一覧参照)。
すかいらーくは、前回の東京五輪が開催された2年前の1962(昭和37)年、横川竟(きわむ)ら横川4兄弟」が現西東京市のひばりが丘団地内に、食料品を取り扱ことぶきスーパー「ことぶき食品」を創業。しかし、当時の高度経済成長時に大駐車場を完備した大型店舗の巨大スーパーの進出が経営を直撃した。
経営規模の違い過ぎる価格競争が続く食品スーパー事業から他業態への転換を模索している中で、当時の経営コンサルタント渥美 俊一らが設立したチェーンストア研究団体「ペガサスクラブ」(※3参照)のアメリカ視察に参加。
アメリカでは既にモータリゼーションが進み、郊外型のレストランが繁盛している点に着目。日本でもマイカーブームが急速に進み始めているところに商機を見出し、マイカーで移動するファミリー客をターゲット(標的)としたレストランを考案し、1970(昭和45)年に、日本初の郊外型ファミリーレストラン「スカイラーク」1号店を出店。1974年11月、「(株)すかいらーく」に商号を変更した。
1980年代中頃、それまでのチェーンレストランには無かった斬新な和食メニュー「麦とろご飯膳」を発表。世の中のヘルシー嗜好等に即した「とろろ」を取り入れた為、ファミリー層を中心に売れ筋メニューとなり、以後、すかいらーくは、和食メニュー開発に積極的に取り組んでいた。
その後も時代のコンセプト(英::concept。概念)や消費者ニーズの多様化に応え、コーヒーショップ「ジョナサン」」(以後各ブランドについては※2のブランド一覧を参照)、中華料理「バーミヤン」、和食「藍屋」など新業態を開発し、レストラン業界のリーディングカンパニーとして成長。
1992(平成4)年に、東京都小平市に「ガスト」1号店を出店。1993(平成5)年には、すかいらーくグループは、外食産業のうち、テーブルサービスレストラン(テーブル・サービスを基本サービスとしているレストランの総称)として初の1000店舗出店を達成し、ファミレスのトップランナーとして日本の外食産業を牽引してきた。
元々「すかいらーく」と「ガスト」とは似たようなコンセプト(洋食)であった中で、1980年代後半のバブル崩壊後の低迷を打開すべく、実験店舗ブランド(当初は高級路線の実験店舗だった)だった「ガスト」を、低価格の新業態として開店した経緯がある。店名は、スペイン語・イタリア語で「味」を意味する” Gusto”(グスト)を英語読みしたものだそうである。
現在では当たり前のように採用されているが、ホールの呼び出しベル、セルフサービスのドリンクバーや作業開始、メニュー品目の絞り込みなどの工夫により、結果として、より少ない従業員での運営を可能にし、すかいらーくでかねてより懸案となっていた人件費率の高騰などを抑えた低価格を実現。
翌・1993(平成5)年には、当時高級志向であった「すかいらーく」の720店のうち420店舗を約1年でガストに転換。「おいしい料理を、ポピュラープライスで、自宅のダイニング感覚でお食事を」をコンセプトに、客単価を大幅に下げたために、1993年頃には業界で「ガスト化」「ガスト現象」などと呼ばれるブームを巻き起こした時期もあった。
そして、この1993(平成5)年には、すかいらーくグループは、外食産業のうち、テーブルサービスレストラン(テーブル・サービスを基本サービスとしているレストランの総称)として初の1000店舗出店を達成し、ファミレスのトップランナーとして日本の外食産業を牽引してきた。
しかしながら、このような接客サービスをしないセルフサービス方式が徒(あだ)となり、客席放置にもつながり、メニューも飽きられ、客層も悪化し、1994年頃には業績が落ち込んだ。
その後、「ロイヤルホスト」のロイヤルホールディングス、「デニーズ」のセブン&アイ・フードシステムズなどと同様に、「ガスト」などを展開するすかいらーくも、デフレ経済下の消費ニーズの変化を読み切れず、2000年代中盤以降、低価格のファストフードに顧客を奪われ、長期にわたり業績が低迷した。デフレの勝ち組がファストフードであり、負け組がファミレスであった。
そのため、2006(平成18)年には、野村ホールディングスの 完全子会社である投資ファンド・野村プリンシパル・ファイナンスと創業家である横川家を中心とした経営陣によるMBO(経営陣による自社買収)を実施し、株式を非公開化(上場廃止)して経営再建に取り組んだ。当時、日本最大級のMBOと話題になったものだ。
そして、翌・2007(平成19)年7月、野村プリンシパルと英大手投資ファンドCVCキャピタル・パートナーズが設立した投資事業会社SNCインベストメント(株)が、すかいらーくを吸収合併(※4参照)、新生すかいらーくが発足した。新生すかいらーくの会長兼社長には創業家の横川竟(きわむ)氏が就任した。
しかし、横川氏の再建計画は軌道に乗らず、創業家と筆頭株主である投資会社の対立が表面化し、その後、2008(平成20)年8月、社長交代(横川竟→谷真常)、追加増資、財務基盤を強化、そして、不採算店を閉鎖するなど、野村主導で経営再建に取り組み、、2009(平成21)年3月から、バーミヤンよりも客単価が100円ほど安くサラダなどの洋食なども扱う「チャイナCaféガスト」の展開を発表、一部のバーミヤン店舗を同年3月に転換し、10月には現存の「すかいらーく」をすべて「ガスト」へと転換したため、創業時からの主力であった「すかいらーく」店舗はすべて消滅した。
又、同年3月からは、ステーキ・ハンバーグの専門店「ステーキ ガスト」も展開しており、同年12月1日現在で計24店舗を展開していたという(2010.12.02付MSN産経ニュース)。
低価格をうりものにするレストラン「ガスト」から鉄板からはみ出るほど大きいステーキセット「ハミ出るビーフステーキセット」が12月10日から3カ月の期間限定で発売された。ステーキは従来サイズの約1・4倍の200グラムにサイズアップ。同セットはライス、サラダ、スープが付いたセットで、価格は1048円。単品価格は838円。「円高や仕入れ担当者が米国の食肉メーカーと直接交渉によりボリュームを上げながら、従来価格に据え置いた」という。
期間中、150万食以上販売を目標と発表していた。
すかいらーくが、日本記念日協会に12月10日を「ごめんねの日」として申請し、同協会から認定された上で、“ボリュームがありすぎて鉄板から肉がハミ出てしまうことに対するおわび”・・・にということ(逆説的アピール)で、10日からの発売になったものだという。
要するに、安い牛ステーキを販売するためのPR用の記念日である。最近は、日本記念日協会登録の記念日もこの手の広告用の記念日がほとんどで、同サイト自身が、もう、記念日登録の手数料を得るためを広告媒体用サイトになっているとも言えるだろう。
このPRも効いてか、大好評で予定販売量は、1カ月で売り切れたが、4月15日これを復活したという(※5、※6参照)。結構なことである。
・・・しかし、すかいらーくの経営は、うまくゆかず、結局、2011(平成23)年10月には、米国の投資ファンド「ベインキャピタル・パートナーズ」が買収を発表し、その後、同社の資本下で再建を進めてきた。
この時から不採算店の整理に取り組み、4500店あった国内店舗を3000店規模に縮小。売り上げは3割減ったが、リストラ効果で2006(平成18)年から2010(平成22)年まで5期続いた赤字経営から脱出。2011(平成23)年から2013(平成25)年まで3期連続の黒字に変身した。
昨・2013(平成25)年以降、アベノミクスにより、デフレから抜け出す気運が強まったことで外食業界の主役が交代し、ファストフード業界が勝ち組の座から滑り落ち、ファミレス業界が息を吹き返しつつあるが、そんな業界の復活を象徴するかのようにすかいらーくは、今年・2014(平成26)年10月9日、東京証券取引所第1部への上場を果たした(※7※8参照)。上場を廃止以来、8年ぶりの再上場である。
新しく株主になったベインは、今年3月には、米マクドナルドホールディングスで社長を務めた経験を持つラルフ・アルバレス(※9)を、すかいらーく取締役会長に送り込んだ。ベインから派遣されてきたコンサルタントとの協議で出た結論が、すかいらーくが創業以来とっていた出店して成長する政策ではなく、既存店の売上高を回復させて成長させるという方策だった。
新しい経営陣に外部の専門家をスカウトし、テーブルレストランの王道を守り、既存店の売上高を回復させるという、地に足のついたやり方をとったのだ。
世の中には再建屋と云う人がいる。経営のプロフェッショナルだ。
今日本はアベノミクスによりデフレから抜け出す気運は強まったとはいえ、まだ、脱出までには海も山もある。世界情勢も不安定であり、下手をすれば、元に戻り、財政赤字だけが増えている・・と言った結果になりかねない状況にある。
「マーケットが縮小する中で成長するためには、何をやらなければならないか」・・それを、きっちりと見極めてとった行動が,ベインから派遣されてきたプロフェッショナル軍団の政策だった。
「すかいらーく」の企業価値を向上させるためでもなく、単に再上場で巨額の利益を得るだけの不純な目的でTOBを仕掛けた野村ホールディングスなどは結局大損をしたようであるが、「すかいらーく」の上場を果たしたベインは、「後から出て来て、儲けさせて貰ってごめんね」・・とばかり、きっちり、大きな利益を得ることになるだろうね~(※10、※11参照)。
創業当初は、メニュー品目を絞り込んだ低価格路線だったが、現在は一部のメニューを残して品質のグレードを上げつつ軌道修正し、単調なメニュー構成から洋風・和風メニューのラインアップを拡充しているようだ。・・・。今、同社の主力ブランドとして全国で展開している「ガスト」。「おはしCafeガスト」「ステーキガスト」「Sガスト」などの別業態もある。・・・この話はこれで終わろう。

最後に、「ごめんねの日」の「ごめんね」について少し、書いておこう。
「ごめんねの日」では、お皿からハミ出してしまうほどのボリュ ームを「ハミ出してごめんね」・・・といった使い方で、本来お客様が喜ぶべき行為をしているのに、「ごめんね」という言葉で、逆説的に、その自慢したいことをアピールしている。
肉が大きくなったのなら、プレートへの盛り付け方をなど工夫すればよいのだが、それをわざとせず、これ見よがしにプレートからはみ出させて誇張する。よくあるPR方法であり、マクドナルドハンバーガーなどもわざと、具材をバンズ(丸パン)からはみ出させてお得感を強調している。
12月10日ガストの新メニュー宣伝のための「ごめんねの日」の記念日登録に合わせて、ネット上では、謝り美人を集めた動画を公開するサイト「謝り美人」も開設し、「友達のペットボトルを振ってごめんなさい」「高校の時の彼を、クリスマスイブに振っちゃってごめんなさい」・・・など。同社のステーキを前にフォークとナイフを手にした美女たちが、思い思いのごめんなさいコメントを発表していた(※12)。以下でその画像を見ることが出来る。

美女が謝りまくるサイト「謝り美人」オープン! :

この「ごめんね!」の様子など見ていると、どれをとっても、まじめに誤っているようには見えないが、可愛い女の子が首をちょっとかしげながら「ごめんね・・・」などと謝られたら男は、「あ、いいよ、いいよ」と、なんでも許しちゃうのだろうか・・・。一寸、男を馬鹿にしたような感じもするのだが・・・。
どうせ人に謝るなら、「ごめんなさい」とか「すみません」とか、まじめな態度で誤って欲しいどは思うのだが・・・。謝り方って結構難しいものなのかも知れない。
「ごめんね」は、謝罪の言葉として、女性などが使っているが、男性の場合などは単に、「ごめん」といった謝り方が多い。
この言葉「御免(ごめん)」は、もともと、許す意味の「」に尊敬の接頭語「御」がついた言葉で、鎌倉時代から見られるらしい。本来は、許す人を敬う言い方として用いられたが、室町前期には許しを求める言い方で相手の寛容を望んだり、自分の無礼を詫びる表現になっていったそうだ。挨拶で用いる「ごめんください」は許しを請う「御免させてください」の意味が挨拶として使われるようになったものだそうだ(※13参照)。

Wikipediaでは、「謝罪」とは、自らの非を認め、相手に許しを請う行為である。謝罪する側、される側共に個人単位、団体単位、国家単位など様々な規模があり、謝罪する理由は本心からのものと、戦略的なものに分けられる。一般的には頭を下げるなどをして謝罪の意思を表す。謝罪は謝罪をする人の社会における地位や影響力、性格、価値観、土地の風習、文化、国際的であるかどうかなどで、具体的な行為は種々さまざまである。・・・と書いてある。
この謝罪では、昨・2013(平成25)年に、阪急阪神ホテルズ他、各地の複数のホテルやレストランなどで提供していた料理のメニューに実際に用いていた食材と異なる食材を用いているように表示していたという食材偽装問題が発覚し、社長など企業の責任者が記者会見を行い、謝罪を行っていたのを思い出すが、その他の業界でも、不祥事が発覚するたびに、お偉い方々が横並びでいっせいに頭を下げている姿をいやというほどテレビの報道で見てきた。
あれなど、ほんの形式的なお詫びであって、誰一人として本当に申し訳ないとは思っていないのだろう。どちらかというと、内心は腹立たしく苦々しくさえ思っているかもしれない。しかし、とりあえずトップが率先して謝罪する姿勢を示さなければ世間が承知しない。いや、世間というよりマスコミがうるさい。だから、そつなく、謝罪をすることで一応の決着をつけ批判をかわす。そのため、何秒間かは深々と頭を下げてさえいれば、やがて嵐は頭の上を通り過ぎてゆくだろう。…そう思って形式的に謝罪しているだけのことなのだろう。Wikipediaにある「戦略的な謝罪」といったところだろうか・・・。
企業などによる不祥事の謝罪と違って、歴史問題における謝罪は主に国家が行った戦争や紛争、政策による被害者とされる側への謝罪である。
日本でも、第二次世界大戦等を通して諸外国に与えた損害について日本政府などが公式あるいは非公式に表明してきた戦争謝罪があるが、不祥事等と較べ謝罪の必要性や加害者、被害者の定義が曖昧である為、加害者とされる側が謝罪を示したとしても被害者とされる側からは「謝罪ではない」、「謝罪が十分ではない」と批判されることがある。逆に、加害者とされる側は謝罪すること自体を「弱腰、自虐的なこと」と批判することがあり、難しいものだ。

謝罪で世界的に有名なものに「カノッサの屈辱」がある。
教皇グレゴリウス7世聖職叙任権をめぐって破門された神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が、1077年1月、教皇滞在中のカノッサ城(イタリア北部)を訪れ、雪中を3日間城門前に立ち尽して悔悛(かいしゅん)を示し、破門を許された故事をいう。

上掲の画像は、「カノッサの屈辱」、 ハインリヒ4世(中央)、トスカーナ女伯マティルデ(右)、クリュニー修道院長(左)である。

この事件の背景には、ローマ時代の複雑なキリスト教の状況を理解する必要があるが、それは、私のブログ「1月25日はお詫びの日」の中で、「カノッサの屈辱」に触れて書いてあるのでそこを参照してください。
この事件後、正統な皇帝に復帰したハインリヒ4世は、謀反を起こした諸侯を処罰することが可能となった。(もともとそれが目的の政治的なアクションだったから当然だが)。困った教皇は再度ハインリヒの破門を試みたが、傍目にも不当な行動だったので今回は前のような効力は発揮するはずもなく、ハインリヒ4世は軍を率いてイタリア遠征を実施し、グレゴリウスを教皇の座から追い落とした。グレゴリウスは逃亡先の南伊のサレルノで失意のうちに没した。
この戦いにより、ハイリンヒは、「カノッサの屈辱 」を晴らすことに成功したのであるが、1105年、ハインリヒ5世となった息子の手によって彼自身も王位を追われ、さびしい最期をとげることになる。この叙任権闘争は、ドイツ南部のヴォルムスで叙任権は教皇にあることを定めた協約(ヴォルムス協約)が成立する1122年まで続いた。

「カノッサの屈辱」の故事は叙任権闘争、ローマ教皇対神聖ローマ皇帝の長期の抗争における一事件でしかないが、この後、ローマ教皇庁では皇帝ですら教皇に跪いたと教皇権の優位性の宣伝に使われたり、一方16世紀になると、ドイツのプロテスタントは反教皇の立場からこの事件を取り上げる。
又、19世紀には民族主義の高まりの中でビスマルクが、この事件をドイツの屈辱として取り上げるなど、政治的宣伝に利用されたが、ヨーロッパでは現在でも「カノッサの屈辱」は「強制されて屈服、謝罪すること」の慣用句として用いられているようだ。
どのような歴史的事件も、時代により、立場により、いろいろと都合の良いように解釈されるものだ。
最近は、ハインリヒ4世が破門を許され「カノッサの屈辱」を晴らすことに成功したところまでをとりあげて、人は時に、敗北を喫することや、屈辱的なことなど、不本意なことに遭遇しても、それに耐え、奮起し努力を続け、チャンスが来るのを待っていれば、必ず報われる。…そう言った教訓としてこの故事が使われることもあるようだ。
現実の世界では、なかなか、過ちを犯しても素直に「ごめんなさい」と謝れないことが多いものである。、そのために、日頃、家族間、友人間、また、会社などの中でも、尾を引いているわだかまりが解けないでいる人も多いだろう。
宗教などでは、罪の告白をし、悔い改めることを懺悔(ざんげ)という。
そんな大げさなことではないが、もし、今日の「ごめんねの日」を口実に、照れ隠ししながらでも「ごめんね」と謝り、わだかまりをスッキリさせることが出来れば、良いのですがね。

あ!それから、もう12月半ばにもなると、これからは、みなさんも、正月準備や、忘年会、クリスマス・・とお忙しいことでしょう。私も、これから何かと雑用も多くあるので、例年通り、休養もかねて、このブログ、今日から、1月中旬まではお休みしようと思っています。
今年は例年より、かなり寒さも厳しいようなので、風邪などひかないように注意して、忘年会、クリスマスを楽しみ、そして、良いお正月をお迎えしてください。
今年同様m来年もブログ再開後はよろしく訪問お願いします。<(_ _)>


参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:すかいらーくグループ -SKYLARK GROUP-
http://www.skylark.co.jp/
※3:ペガサスクラブとは・・・
http://www.daiya-grp.co.jp/recruit/education/pegasus_club/pegasus_club.html
※4:すかいらーく、野村グループのSNCインベストメントが筆頭株主に
http://www.nikkeibp.co.jp/news/biz06q3/508305/
※5:SOMETHING IN THE AIR
http://fanblogs.jp/something_in_the_air/archive/273/0
※6:1カ月で売り切れたガストの人気メニュー「ハミ出るビーフステーキ」が復活
http://news.mynavi.jp/news/2010/04/16/057/
※7:すかいらーく再上場 MBOの損得勘定 | 闇株新聞
http://yamikabu.blog136.fc2.com/blog-entry-1245.html
※8:すかいらーく再上場、“外圧”と外部人材が主導した、経営混乱から復活への舞台裏
http://biz-journal.jp/2014/09/post_5873.html
※9:すかいらーく/元マクドナルド社長のアルバレス氏が会長に就任 | 流通ニュース
http://ryutsuu.biz/strategy/e121315.html
※10:経営陣刷新でも前途多難?すかいらーく社長解任の真相 |ダイヤモンド・オンライン
http://diamond.jp/articles/-/1538
※11:すかいらーく再上場 / MBOの成功とは何をさすのか? | 田中博文
http://www.huffingtonpost.jp/hirofumi-tanaka/skylark_b_5746132.html
※12:美女たちが謝りまくるサイト『謝り美人』 まもなく閉鎖 | web R25
http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/jikenbo_detail/?id=20100119-00001112-r25
※13:御免(ごめん) - 語源由来辞典
http://gogen-allguide.com/ko/gomen.html
なぜ相次ぐ食品偽装? 背景に4つの理由 :日本経済新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1802Y_Y3A111C1000000/
日本マクドナルドが業績下方修正、今期は上場来初の営業赤字へ
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPKCN0HW0O920141007
すかいらーく - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%99%E3%81%8B%E3%81%84%E3%82%89%E3%83%BC%E3%81%8F

サントリー山崎蒸溜所にてウイスキーの蒸溜作業を開始

2014-12-02 | 歴史
今年・2014(平成26)年9月29日にスタートしたNHK朝の連続テレビ小説『マッサン』は、ビデオリサーチの調べでは初回視聴率は21,8%(※2)をとり、その後も連日20%台を確保し好スタートを切った。
『マッサン』は、ニッカウヰスキーの創業者であり、「日本のウイスキー(Japanese whisky)の父」 と呼ばれる竹鶴政孝とその誕生を支えた英国人の妻ジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)がモデルとなる“夫婦の奮闘記”である。
冒頭の画像は、結婚直後の竹鶴政孝・リタ夫妻(1920年頃)。
熱血漢で不器用で、どこか脇が甘い愛すべき日本男児、それがこのドラマのヒーロー・亀山政春(主演:玉山鉄二)ことマッサンであり、これがタイトルとなっているが、これは、リタが政孝のことを、”マッサン"と呼んでいた事にちなんでいる。
一連の連続テレビ小説における男性俳優が主演をつとめる作品としては、1995年度下期の『走らんか!』の三国一夫以来19年ぶりとなる。又、本作のヒロイン亀山エリー役には、朝ドラ史上初となる純外国人(アメリカ)の女優シャーロット・ケイト・フォックスがオーディションで選ばれたが、彼女の祖母は『マッサン』で演じる役柄と同じくスコットランド出身だそうである。
ドラマ『マッサン』第1週「鬼の目にも涙」(第1話)では、1971(昭和46)年北海道余市町のウィスキー蒸留所で開催された「スーパーエリー特別賞受賞祝賀式典」の会場にて、ウイスキー会社の創業者で社長の亀山政春は、壇上に飾られた自社製のウイスキー「スーパーエリー」と妻エリーの写真を眺め、彼女と過ごした日々を回想しているシーンから始まった。
回想シーンの後、ドラマは、スコッチウイスキーの製造を学ぶために本場スコットランドへ渡ったマッサンこと亀山政春が、2年の修業を終え、本場の技術と知識、そして、現地で出会い、結婚した妻のエリーを連れて、意気揚々と帰国するところから始まる。
しかし、広島の政春の実家では、外国人との結婚を母は猛反対するが、父は家業(酒造業)を継がせたい本心を抑え政春の進路を応援してくれる。
そして、第2週 10月6日からの第7話からは、サントリー創業者・鳥井信治郎も登場してきた。この後ドラマは、この二人の出会いが物語中盤を彩り、やがて舞台は大阪から北海道へと展開してゆく予定である。・・・が、あくまで、当ドラマは、実在の人物をモデルにはしているが、フィクションとして再構成した羽原大介のオリジナル作品であり、実在の竹鶴政孝のことをある程度調べてドラマを見ると面白さは増すだろう。                      
実在の人物竹鶴政孝(1894年6月20日 - 1979年8月29日)は、広島県、賀茂郡竹原町(現:竹原市。『安芸の小京都』 と呼ばれている。)の酒造業・竹鶴の本家で生まれた。
当時、広島の酒造業界では三浦仙三郎をリーダーに、抜群のブランドを誇った兵庫の灘酒に負けぬ酒を造ろうと、蔵元たちが酒づくりの改良に意欲的に取り組んでいたが、政孝の父・敬次郎もそのグループの主要メンバーだった。のちに三浦は麹をゆっくりと低温で発酵させる「吟醸づくり」の技術を確立し、酒には不向きとされていた広島の軟水から、灘酒に負けない高品質の酒をつくることに成功した。これが今日、灘・伏見と並び、日本の三大銘醸地と称されている広島(西条)の酒の始まりである。
1907(明治40)年、全国の酒を一堂に集め、その品質だけを純粋に競う「第1回清酒品評会」で優等1位、2位を広島酒が独占したのを始め1911(明治44)年に始まった全国新酒鑑評会など、鑑評会や品評会で広島酒が上位入賞したことで、全国銘柄になった。
敬次郎の酒づくりは厳しく、政孝も大きな影響を受け、厳しい信念を貫いた政孝の品質主義は、広島の環境と父を通じて育まれたようだ。2014年現在、政孝の生家(実家ではない。生まれた時、両親がちょうど本家に来ていた)の造り酒屋は「竹鶴酒造株式会社」という名称で今も続いており、NHK連続テレビ小説『マッサン』に登場する「亀山酒造」のロケ地となった(※1『マッサン』公式サイトのマッサン広島ロケリポート参照)。

上掲の画像は竹鶴酒造株式会社。
政孝は、大阪高等工業学校(後の旧制大阪工業大学、現在の大阪大学工学部)の醸造科にて学び同校の卒業を春に控えた1916(大正5)年3月、新しい酒である洋酒に興味をもっていた政孝は、卒業を待たずに就職したのが当時洋酒業界の雄であった大阪市の大阪の摂津酒造(摂津酒精醸造所、後に宝酒造と合併)であった。
19世紀にウイスキーがアメリカから伝わって以来、日本では欧米の模造品のウイスキーが作られていただけで純国産のウイスキーは作られていなかった。そこで摂津酒造は純国産のウイスキー造りを始めることを計画し、政孝は社長の阿部喜兵衛、常務の岩井喜一郎の命を受けて単身スコットランドに赴き、グラスゴー大学で有機化学と応用化学を学ぶ。
彼は現地で積極的にウイスキー蒸留場を見学し、頼み込んで実習を行わせてもらうこともあった。最終的に政孝はキャンベルタウンのヘーゼルバーン蒸留所で実習を行った(※※3:「NIKKA WHISKY」の竹鶴ノート | ニッカウヰスキー80周年参照).。
ウイスキー用の蒸留釜(ポットスチル)の内部構造を調べるため、専門の職人でさえ嫌がる釜の掃除を買って出たという逸話も残っているそうだ。政孝のこの現地修行が成功していなければ、現在の日本のウイスキーは実現していなかったともいわれている。
蒸留所での2年間の実習の中で、個性豊かなモルトにグレインウイスキーを混合して芳醇な味、香りに仕上げるブレンド技術を学んだ 政孝は、滞在中にジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)と親交を深めリタの家族が反対する中1920年1月8日結婚し、同年11月、リタを連れて日本に帰国。
結婚については実家の家族にも反対されるが、最終的にいったん政孝が分家するという形で一応の決着をみたようだ。結婚後、摂津酒造に程近い現在の住吉区帝塚山に新居を構えた。
帰郷後、政孝はウイスキー造りの研修結果を「実習報告」(竹鶴ノート)にまとめて岩井に提出し、摂津酒造はいよいよ純国産ウイスキーの製造を企画するも、不運にも第一次世界大戦後の戦後恐慌によって資金調達ができなかったため計画は頓挫した。
その後1922(大正11年)年政孝は摂津酒造を退社し、大阪の桃山中学(現:桃山学院高等学校)で教鞭を執り生徒に化学を教えていたという(※3の凛として、※4参照)。
1907(明治40)年に巧みな宣伝で「赤玉ポートワイン」(現在の赤玉スイートワイン)を発売し爆発的な人気を得てその土台を築いた大阪の洋酒製造販売業者壽(寿)屋(現在のサントリー)の創業者である鳥井信治郎は、その成功に満足せず、生涯の業績となるような新しい事業に着手した。その事業というのが日本人向けのウイスキーの製造であったが、日本ではまだアルコールに香料を加えたウイスキーの模造品しか作れなかったこの時代、鳥井も御多分に漏れず同じような模造ウイスキーである「ヘルメス・ウイスキー」や1920(大正9)年には,混成ウイスキーと炭酸を混ぜた発泡酒「ウイスタン」、今で言うハイボールを考え出し発売していたがうまくゆかず、本格的な国産ウイスキー生産の必要性を感じ、蒸留所を日本国内に設置することを計画していた。
そこで、スコットランドから技師を招聘しようと、三井物産のロンドン支店を通して現地のメーカー、大学に連絡を取ると、ウイスキーの製造技術を学んだ竹鶴政孝が帰国していたことを知る。
鳥井は、以前摂津酒造に模造ワイン製造を委託していたことがあり、政孝とも数度面会したことがあったことから、鳥井は政孝をスカウトすることにした。
1923(大正12)年、鳥井は日本でウイスキーを作れるのはお前しかいないと、10年契約、年俸4000円という破格の給料で政孝を迎え入れた。この年俸は、スコットランドから呼び寄せる技師に払うつもりだった額と同じと言われるが、大学卒の月給が40円から50円の時代、鳥居のウイスキーづくりにかける思いがどれだけ強かったかが理解できる。
尚余談だが、先に摂津酒造を退社した竹鶴は寿屋へ入る前に大阪の桃山中学で化学を教えていたと書いたが、ドラマ『マッサン』の第9週11月28日「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の放送では、妻のエリーが苦労して鴨居(鳥居)の下でウイスキーづくりに参加するよう再三にわたって作った面談の機会も鴨居の作ろうとするウイスキーが本物ではないとして頑なに拒み続けたものの、まともな仕事も見つからず、食べてゆけない時期、エリーの家庭教師をしていた先から紹介された桃山中学への就職をしようと思っていたところへ、鴨居の方から、4000円の金を持ってスカウトに来たことになっていた。
当ドラマの『マッサン』は放送開始以来、週間平均視聴率が20%を超えていたが、第8週「絵に描いた餅」(11月17日~22日放送)の週間平均視聴率が19,3%(関東地区、ビデオリサーチ調べから算出)とダウンし大きな話題になっていたようだ。視聴率ダウンの原因をめぐっては、ネットにはさまざまな声が飛び交っていたが、最も多数を占めていたのはストーリー展開が遅すぎるという意見で、主人公の政春がウイスキーを作るという本筋になかなか進まなくてもどかしく感じる…と言ったことの様である。・・ひょっとしたら、NHKもそんなネット上の話題を気にして、本筋への展開を早めたのかな・・・?
確かに、今までのところは、マッサンよりも外人妻を演じているヒロイン・亀山エリーの方が中心になっていたし、ドラマを見る限り、エリー無くしてマッサンのウイスキーづくりはなかっように思うものね~。それに、全く日本語を話せなかったと言われるエリー役のシャーロット・ケイト・フォックスの日本語での演技が素晴らしい。NHKの朝ドラの視聴者など男性より女性の方が圧倒的に多いと思うが、マッサンの出世物語よりは、それを大正時代に日本へきて内助の功で支える外国人妻のエリーの方がホームドラマ的で受けるように思われるのだが・・・。これからの展開はマッサンのウイスキーづくりを中心とする本筋のドラマに入るのだろう・・・。

製造工場はスコットランドに似た風土の北海道に作るべきだと考えていた政孝だが、鳥井は消費地から遠く輸送コストがかかることと、客に直接工場見学させたいという理由で難色を示したという。そこで、政孝は大阪近辺の約5箇所の候補地の中から、良質の水が使え、スコットランドの著名なウイスキーの産地ローゼス(Rothes)の風土に近く、霧が多いという条件から山崎(大阪府島本町山崎)を候補地に推しそれが受け入れられた。工場および製造設備は政孝が設計した。特にポットスチル(ウイスキー用蒸留釜)は同種のものを製造したことのある業者が国内になく、政孝は何度も製造業者を訪れて細かい指示を与えたという。
1923(大正12)年、京都郊外・山崎に、日本初のモルトウイスキー蒸溜所・山崎工場(現在の山崎蒸溜所)の建設に着手、翌1924(大正13)年11月11日200万円もの巨費を投じた山崎工場が竣工し、政孝はその初代工場長となり、12月より蒸留が開始され国産ウイスキー製造への第一歩をふみ出した。
ウィスキーは麦芽(モルト)や穀物を原料として、これを糖化発酵させたのち、蒸留し、さらに樽の中で熟成された酒をさし、ウイスキー製造の第一歩、麦芽(モルト)づくりから始まる(ここ参照)。
Wikipediaによれば、「竣工日は、麦芽(モルト)製造開始日の12月2日とされることもある」・・・ようなので、「今日のことあれこれと・・・」を主題に書いているこのブログでは便宜上この日に合わせて書いた次第。したがって、余りこの日付のことについてはこだわらないでください。

政孝はウイスキーの製造には、酒造りに勘のある者が欠かせないと考え、郷里・広島からから日本酒の杜氏十数人を集めて当たらせたという。
こうして、1929(昭和4)年国産初のウイスキー『サントリーウイスキー白札』(現在のサントリーホワイト)が発売された。このとき、初めて、「サントリー」の名称が使用された。これは当時発売していた赤玉ポートワインの「赤玉」を太陽に見立ててサン(英語のSUN)とし、これに鳥井の姓をつけて「SUN」+「鳥井」(とりい)=「サントリー」とした、ということになっているようだ。その後1963(昭和38)年のビール発売を機に、この「サントリー」を社名に採用し、現在に至っている。

上掲の画像は「サントリーウイスキー白札」のポスター。小さくて見にくいが、左下には「・・・彼地仕込みの出藍(しゅつらん)の技師が精魂傾けて造り上げ、空気清澄な酒蔵で、丸七年貯蔵した生一本!恐らく舶来の虚栄はやがてもう昔譚(むかしばなし)となるでせう!」と書かれている。『朝日クロニクル週刊20世紀』1937年号より。
しかし、壽屋の命運をかけた「白札」は市場では輸入ウイスキー(その多くはスコッチウイスキーであった)の味に慣れてしまっていた日本人からは「焦げ臭い」「煙くさい」など散々な批評を受け思うようには売れなかった。ウヰスキーは10年以上熟成させた原種と5年くらいの新しい原種をブレンドすると美味くなるが、まだ新しい原種しかなかったのである。工場の建設だけでも莫大な費用が掛かっている為、会社としては経営上、10年の熟成は待てなかったのであった。
山崎工場が竣工したのは1924年、発売が1929念だと5年しかないので。広告上手で知られる壽屋ではあるが、このポスターの「丸七年貯蔵した生一本」はインチキだよね~・・・。
また翌・1930(昭和5)年には廉価版ウイスキーとして、赤札(現在のサントリーレッド)を発売するが、これも売れ行きは芳しくなく、途中で販売中止を余儀なくされることになった。
この頃から鳥井と正孝のスタンス(物事に取り組む姿勢。心構え。態度。立場)の違いは明白になってきていたようだ。本格的ウイスキーの国産化という基本目標は共通していたものの、酒蔵の息子として産まれた職人肌の技術者で、本場流スコッチの再現に強くこだわる正孝の姿勢に、薬種問屋の丁稚上がりで広告戦略にも長けたビジネスマンの鳥井は、必ずしも全面的賛同はしていなかった。
実際のところ、鳥井は全く採算の取れないウイスキー事業を「身を削りつつ」維持し続けていた。当時の寿屋の主力商品「赤玉ポートワイン」での収益は、その多くがウイスキー事業での赤字で損なわれ、サイドビジネスとして実績を上げつつあった喫煙者向け歯磨き粉「スモカ歯磨」の製造権・商標を売却してしのいだほどであったという。この現実が正孝の理想論と合致しないのはやむを得ないことであったのかもしれない。
しかし幸か不幸か売れ残った原種が歳月と共に熟成し、立派な原酒となり、1937(昭和12)年、亀甲模様の瓶に黄色いラベルを添えた上級ウイスキー「サントリーウイスキー12年」(12年間熟成させたもの)として生まれ変わった。後に「角瓶」と呼ばれるウイスキーである。
政孝主導での草創期から長らく貯蔵・蓄積された原酒をブレンディングベースに、政孝の退社を経て、鳥居はウイスキー製造の方針を根本的に改め、それまでに鳥井が自身で得た経験、さらに長男・鳥井吉太郎の手によって企画され、ウイスキーとしての十分な品質を達成しながら、日本人にも受け入れやすい味とし、なおかつ、収益を上げられる商品として開発されてきたものであり評判は上々であった。、

上掲の画像は、サントリーウイスキー角瓶。『朝日クロニクル週刊20世紀』1937年号より。
これが失敗したら壽屋は倒産しかない、という危機的状況下であったが、おりしも日本が戦時体制に突入しつつある中、舶来産のウイスキーが輸入停止になったことなども幸いし、好調に売り上げを延ばしていった。売れ行き好調の波に乗り、翌1938(昭和13)年、寿屋は大阪梅田の地下街に直営の「サントリーバー」を開設した。
そして、太平洋戦争勃発前の1940(昭和15)年「サントリーウイスキーオールド」の製造を発表するが、戦時下でもあり奢侈品統制令が出されて日の目は見なかった。
間もなくして日本は第二次世界大戦へと突入してゆくが、その間鳥井は当時の日本海軍の取り計らいで手に入れた麦をもとに軍用ウイスキーを製造し続けることになる。やがて日本は敗戦したが、山崎蒸溜所は戦災に遭うこともなく、ウイスキーの生産を続けるに至った。
そして10年経った戦後復興の最中の1950(昭和25)年に、オールドは世に送り出された。その瓶の形状から、ダルマなどの愛称がつけられている。実に高価なウイスキーで庶民からは憧れの的であった。と同時に夜の歓楽街にあるバー・クラブ・スナックなどの店では、芳醇なモルトの味は高い人気を集め、高度経済成長期には、壽屋の売り上げの殆どをオールドで占めた時代もあるほどの売り上げを記録し、サントリーのウイスキーの代表的なブランドを決定づけた。年を負うごとにつれて、徐々にではあるものの、一般の間にも浸透しつつあったが、やはり高級ウイスキーであることには変わらず、人々から一種のステータス的な存在でもあった。

上掲の画像は「サントリーオールド」のポスター。1950年。パケージは版画家の宗像志功による。

一方、自分の理想とするウイスキーづくりを目指した政孝は、1934(昭和9)年3月1日、10年契約の切れるのを契機に退社し北海道余市町でのウイスキー工場(現在の余市蒸溜所)を造ることを決意する。湿地帯が続く余市川沿いには適度の湿度があり、ウイスキーの香りづけに欠かせないピート(Peat=泥炭)層もあった。スコットランドの風土に似た北海道こそ、ウイスキーの理想の地とみていたからだ。
ところで、政孝のサントリー退社の経緯であるが、1929 (昭和4 )年の『白札サントリー』が発売された年に、政孝は、鳥井より、横浜のビール工場工場長兼任を命じられているが、 これには、左遷されたとする話もある。(オリーヴ・チェックランド、1998『マッサンとリタ(和気洋子訳)。1938(昭和8)年、壽屋が、拡張工事にかかっている最中の横浜工場を大日本麦酒傘下の麦酒共同販売(大日本麦酒が日本麦酒鉱泉を合併し現麒麟麦酒と設立した会社)に売却し、政孝はショックを受けていたようである。
又、別の話としては、壽屋の上田武敏、佐藤喜吉らの新技術陣と相容れず、ブレンドについても鳥井と意見が合わず、横浜のビール工場へ送られた、そして、新技術陣、鳥井信治郎と意見が合わず、壽屋を退社することになった(杉森久英(1983)『美酒一代』新潮文庫)との意見もある(※8参照)・・・が、私も感じとしてはそれが真実ではないかという気はするのだが、ドラマ、小説その他、色々話があるようで、私も本当のことはあまりよく判らないまま書いている点、承知しておいてください。
北海道余市はリンゴの産地でもあった(余市は、日本で初めて民間の農家がリンゴの栽培に成功したところとされている)。
ウイスキーは製造開始から出荷までに数年かかるため出荷までは、当然ウイスキー製造による収益はない。そこで竹鶴は、事業開始当初は余市特産のリンゴを絞ってリンゴジュースを作り、その売却益でウイスキー製造を行う計画であった。そこで、資本を集め、7月に大日本果汁株式会社(現:ニッカウヰスキー)を設立し、代表取締役専務に就任した。
筆頭株主は加賀証券社長加賀正太郎。加賀の妻は1924年以来、政孝の妻のリタから英会話を学んでおり、政孝が事業を始めることを聞いた加賀が他の2人の出資者と共に政孝を支援することにしたという(※6:大場蘭園HPの「マッサンと加賀正太郎」'参照)。資本金はわずか10万円、山崎工場の20分の1だったそうだ。
この記述も政孝自身の自伝を元にしているが、Wikipediaによれば、出資者の記述はこれとはだいぶ異なり、竹政は余市で起業する際、壽屋と鳥井には大変に恩があるので、余市でウイスキー製造をする気はない、大日本果汁はその名の通り、リンゴジュースを製造販売する会社だと説明して出資を募ったという。創業後、莫大な返品と積み上がった在庫をどうするのかという話になったところで、ようやくそれらを使って蒸留酒を造る、そのついでに少量のウイスキーも仕込む、という話を持ち出して来たという。・・・と。
実際、大日本果汁は、創業後しばらくは酒造免許を取得していない・・・・。
大日本果汁は 1935(昭和10)年5月、日果林檎ジュース(アップルジュース)の出荷を開始。しかし政孝の品質へのこだわりはジュースにも及び、他社が6銭の果汁入り清涼飲料を作っていたのに対して30銭もする果汁100%ジュースしか販売しなかったため、あまり売れなかったという。混ぜ物をしていないため製品が濁ることがあり、誤解した消費者や小売店からの返品も相次いだようだ。
翌1936(昭和11)年に、ウイスキー・ブランデーの製造免許を受け、製造を開始。1938(昭和13)年「ニッカアップルワイン」を発売している。
そして、政孝が余市で製造した自社製ウイスキー第一号に社名の「日」「果」をとり「ニッカウヰスキー」と命名して発売したのは、壽屋(現サントリー)で、日本初の本格ウイスキー「サントリー白札」を世に送り出してから6年を経過した1940(昭和15)年のことである。

上掲の画像は「ニッカウヰスキー」のポスター。政孝のモットウだった「本格醸造品質第一」の文字が記されている。『朝日クロニクル週刊20世紀』1937年号より。

販売直後に、物価統制の時代に入り、大日本果汁は海軍監督工場となった。当時スコッチウイスキーの国内最大の消費者は帝国海軍であったが、イギリスからのウイスキー輸入が途絶えたため、日本国産ウイスキーへの需要が高まった。このときは将校への配給用の酒を製造するために優先的に原料の大麦が割り当てられたため、事業の継続が可能となった。1943(昭和18)年政孝は専務から社長に就任している。
しかし、終戦(1945年)と同時に状況は一変する。
正孝の自伝「ウイスキーと私」によると、当時ウヰスキーは配給制度で、配給価格は120円のものが闇で1500円もしていたが、会社が闇行為をするわけにもいかず本格ウヰスキーは作るだけで損をする状況になり、本物にこだわる政孝も技術者と経営者の葛藤に苦しむことになる。
1949(昭和24)年酒類は自由販売となるが、他社はアルコールに香りと色だけを付けた三級ウイスキーを大量に売り稼いでいた。当時三級ウイスキーの定義は「原酒が5%未満ゼロ%まで入っているもの」であった(※9:「ウイスキーの級別について」参照)。
品質にこだわり、イミテーションウイスキーはウイスキーではないと主張する政孝にとって、三級ウイスキーの製造は考えられなかったが、経営は苦しく、給料も遅配する状況下では、背に腹は代えられず三級ウイスキーを製造することになる。その製造担当には息子の威(たけし)が当たり、翌1950(昭和25)年「スペッシャルブレンドウイスキー」が販売された。500mlで350円。せめてもの抵抗で原酒は上限5%まで入れていた。
1952(昭和27)年、東京に本社を移し社名をニッカウヰスキーに変更。東京都港区麻布に東京工場を建設するなど徐々に事業を拡げてゆく。
1953(昭和28)年酒税法改正で、一級から三級が特級から二級に変わった。
1954 (昭和29)年大日本果汁の出資者加賀正太郎と柴川又三郎が発行株式の半数にあたる持ち株を朝日麦酒(アサヒビール)社長山本為三郎に売却。(今はアサヒビールが社名変更したアサヒグループホールディングスのグループ下にある)。
山本は営業強化の為に弥(彌)谷醇平(やたにじゅんぺい)という凄腕を送り込んだ。コロンビア大学で経営を学んだ弥谷は正孝に価格引き下げを進言。
壽屋の二級「トリスウイスキー」は640mlで340円。しかし、ニッカの二級を同価格にすると3割ほど原価割れしたが、弥谷は「売り上げが全国で87%伸びれば黒字に転じる」と主張したという。
そして、1956(昭和31)年新たに、二級の「丸びんウイスキー(通称丸びんニッキー)」(※10参照)を640ml340円で発表。初のテレビCMも放送した。
丁度、トリスバー、オーシャンバーなどが人気を呼び洋酒ブームが到来していた時であり、ニッカバーも追随。それに乗って「丸びんニッキー」は大ヒットとなる。
1961(昭和36)年1月、正孝の妻リタが亡くなる。その喪失感から正孝を救ったのもウイスキーであった。息子の威と貯蔵庫にこもり、ティスティング(tasting)を繰り返し翌1962(昭和37)年、新作「スーパーニッカ」を発表した。
720mlで3千円。当時大卒の初任給が約15,000円程度だったのでその5分の1という高級品であった。余市蒸留所で作った原種からえりすぐってブレンドした自信作だった。

上掲の画像は、「スーパーニッカ」である。
ところで、上掲の画像「スーパーニッカ」を見て、何か思い出しませんでしたか。
このブログ、冒頭で、NHKの朝ドラ『マッサン』第1週「鬼の目にも涙」(第1話)では、1971(昭和46)年北海道余市町のウィスキー蒸留所で開催された「スーパーエリー特別賞受賞祝賀式典」の会場にて、ウイスキー会社の創業者で社長の亀山政春は、壇上に飾られた自社製のウイスキー「スーパーエリー」と妻エリーの写真を眺め、彼女と過ごした日々を回想しているシーンから始まった。…と書いたが、このシーンで写っていたウイスキー「スーパーエリー」は、ボトルの形から見て、どう見ても「スーパーニッカ」ではないかと思う。ロケ地は、実在のニッカ余市蒸溜所なのだろう。
イングランドで知り合ったリタが「日本で本物のウイスキーをつくりたい」という正孝の夢に打たれて「私はあなたの夢を共に生き、お手伝いしたいのです」と、両親の反対を押し切ってまで結婚し、正孝について日本にまで来た。そして、数々の苦労をしながら良きパートナーとして正孝のウイスキーづくりを助けてきた。正孝にとってなくてはならならなかたリタ。発売の前年に亡くなった政孝の最愛の妻リタに対する鎮魂の意味も込めて作ったものであったと正孝の息子威はいう。
だからこそ、ドラマ『マッサン』の初回回想シーンで、「スーパーニッカ」と思われるものが使われたのだろう。
この翌年には二級の「ハイニッカ」を発売。
二級ウイスキーとして発売当時500円という低価格で発売され大人気になった商品である。当時の「ハイニッカ」は、二級ウイスキーであるが故、現在よりもスピリッツを多く含ませてウイスキー原酒の割合を少なくして販売していた。それでも酒税法の限度一杯までモルトを使用していた(ここ参照)。これに対して、この時期にはライバルとなっていたサントリーが対抗してかつての赤札(現在のサントリーレッド)を同価格帯で復活させて、応戦するという事態にもなった。
兎に角、「スーパーニッカ」「ハイニッカ」のどちらも評判がよく、「ニッカ」が全国ブランドへと本格的に成長していくことになった。

さて、「日本のウイスキー(Japanese whisky)」の父と云われる竹鶴政孝とその妻リタをモデルにしたNHK連続テレビ小説『マッサン』の高視聴率にも押されて売れ行きを伸ばしていた、サントリーやアサヒビール傘下のニッカウヰスキーは「ブームの再来」に期待を寄せている.。
国産ウイスキーが誕生して約90年。両社は国産ウイスキーの代表であり、いまやその味は本場スコットランドをはじめ、世界のウイスキー好きを唸らせているようだ。
今年・2014(平成26)年11月3日発売の英国の「ワールド・ウイスキー・バイブル2015(Whisky Bible)」が、日本のウイスキー「山崎シングルモルト・シェリーカスク2013(The Yamazaki Single Malt Sherry Cask 2013)」(サントリーー酒類)を、世界最高のウイスキーに選出したことが報じられた(※11参照)。日本のウイスキーが最優秀となったのは初めてのことである
サントリーによると、2014年1~10月期のウイスキーの売上高は、前年同期比5%増と、好調に推移しており、なかでも、「山崎」や「」「白州」といったプレミアムウイスキーの売上高は、2割強も伸びた。同社は2014年の「インターナショナル スピリッツ チャレンジ」でも、「響21年」や「山崎18年」「白州25年」「ジムビームシグニチャークラフト12年」(バーボン)などの18品が金賞を受賞しているという(※7のここ参照)。
一方、ニッカウヰスキーの親会社のアサヒビールも、「好機到来」を実感しており、2014年1~9月期の国産ウイスキーの売り上げは、前年同期に比べて9%増えた。又、朝ドラの「マッサン」の放映がはじまった9月単月だと22%増だったという。とりわけ「竹鶴」ブランドは1~9月期に42%増、9月単月では62%増と絶好調で、同社の柏工場(千葉県)は休日返上のフル稼働状態だという。
今年・2014(平成26)年は、ニッカウヰスキーにとって創業80周年、竹鶴政孝の生誕120周年の節目にあたるため、「年初から販売を強化してきた」というが、高視聴率を叩き出している朝ドラが「追い風」になっているようだ。
かつてのウイスキーブームは1983(昭和58)年のこと。サントリーではこの年、課税数量ベースで35万9000キロリットル(1箱8.4リットル換算で4273万箱)、ニッカウヰスキーでも5万8650キロリットル(698万箱)を売り上げていが,これをピークに、若者の酒離れや低アルコール志向を受け、ウイスキーの売り上げは下降線をたどり、2008年頃には、かつての5分の1の規模にまで縮小していたが、このころから、ちょっとした「ハイボール人気」で再び火がつき、それ以降右肩上がりに転じていた。
これには、かつては日本古来の焼酎を大衆酒と位置付けて低税率とする一方、ウイスキー、ブランデー等の洋酒は高級酒とされて高税率であったが、これについて洋酒生産国から非関税障壁であるとの批判を受けて2008(平成20)年に税率が改正され、ウイスキー、ブランデーも、焼酎やスピリッツ(蒸留酒)同様、アルコール度数37°以上の場合、等しい税額が賦課されるようになったことも影響しているのかもしれない。
兎に角、これを機会にと、2008頃から、ウイスキー業界1位のサントリーがウィスキーの増産に乗り出せば、2位のニッカは14年ぶりに「スーパーニッカ」をリニューアルし、ウイスキーの販売拡大に転じていた。そのような努力もあってのことだろうが、今、実に約30年ぶりの活況を呈しているようだ。
ニッカは朝ドラにタイミングを合わせるように、新ブランド「ザ・ニッカ」(ここ参照)を9月30日に発売し、モルトの香り豊かな「12年」(税別5000円)と濃厚さが特徴の「40年」(同50万円)を出し、基本的には国内に注力。「40年」は700本限定だそうである。
今では筆頭株主からニッカの全株式を取得して親会社となっているアサヒビール「の平野信一専務は「本物の高級ウイスキー。創業80周年の節目に総力を挙げる」と宣言している。
一方のサントリーは10月1日付でサントリーホールディングス社長にローソンの前会長・新浪剛史氏が就任して攻勢をかける。海外販路の拡大が狙いだが、国内向けにもウイスキー復調を引っ張っている「角ハイボール」のさらなるヒットに力を入れるという。
どちらも「国産ウイスキーの草分けはこっち」というプライドがかかっている。ドラマ『マッサン』が回を重ねていくに従って、両社のライバル心も熱くなることだろう。
しかし、ここ数年の若者を中心としたハイボールブームは、かっての酎ハイブームに似たようなものだが、これを引き起こしたのは、若者の低アルコール、炭酸嗜好によるものと思われるが、ハイボールはビールなどと比較すれば安いため、不況による節約志向と相まって売れていたこともある。
ハイボールで、低アルコールの軽いウィスキーの旨さを知った若者世代が、果たしてどれくらいシングルモルトなど「本物」のウイスキー市場に戻ってくるのかどうかは両社の努力次第だろう。
両社とも質を高めた自社の高級ウイスキーを、てこに、新たな顧客層としての若者や外国人観光客を取り込む考えのようだ。
アベノミクス効果?によるものかどうかは知らないが、円安株高での景況感から、外人観光客も増加しているし、ワインの売れ筋の価格帯が2000円台以上に上昇してきたとも聞いている。
中間層以上の円安メリットを享受している人達にとっては高級ウイスキーも良いだろうが、アベノミクスは所得格差も産み、中間層より下のものには、これからも手ごろなハイボールを愉しむしか仕方がない人も多いことだろう。
私は、ドラマ『マッサン』 の主人公のモデルとなったジャパニーズウイスキー生みの親と云われる竹鶴政孝よりも、その外国人妻である・リタの方に興味がある。以下のYouTubeでは、そんな二人のことがよく判る。全三話構成の 第二話であるが、アクセスすると、横のリンク蘭で第一話第三話も見れる。ちょっと、ニッカのCM臭いが・・・。
ウイスキー浪漫 竹鶴の夢 第二話【ニッカウヰスキー】―YouTube

サントリー山崎蒸溜所にてウイスキーの蒸溜作業を開始(参考)

サントリー山崎蒸溜所にてウイスキーの蒸溜作業を開始(参考)

2014-12-02 | 歴史
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参考:
※1:NHK連続テレビ小説「マッサン」 - NHKオンライン
http://www.nhk.or.jp/massan/
※2:NHK朝の連続テレビ小説 | ビデオリサーチ
http://www.videor.co.jp/data/ratedata/program/02asa.htm
※3:NIKKA WHISKY
http://www.nikka.com/
※4:桃山学院大学お知らせ・イベント
http://www.andrew.ac.jp/newstopics3/2014/hl026a0000000yzp.html
※5:視聴率下落の一因? マッサンに「早くウイスキー作って」の声-日刊ゲンダイ
http://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20141125/Gendai_29297.html
※6:大場蘭園ホ-ムペ-ジ
http://homepage2.nifty.com/BRB51716/
※7:サントリーウイスキー ウイスキー・オン・ザ・ウェブ サントリー
http://www.suntory.co.jp/whisky/index.html
※8:事実とテレビ小説の違い 実在した竹鶴政孝
http://chihojichi.web.fc2.com/Massan.html
※9:ウイスキーの級別について のんだくれ自警団日誌
http://nondakure-jikeidan.at.webry.info/200903/article_8.html
※10:ニッカウヰスキーデータベースwiki - 丸びんニッキー
http://www59.atwiki.jp/nikka/pages/85.html
※11:ウイスキーブーム到来!? 「山崎」が世界最高のウイスキーに選出Jcastニュース
http://www.j-cast.com/2014/11/09220010.html?p=all
時事ドットコム:【図解・経済産業】国内ウイスキー市場の推移(2014年9月)
http://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_eco_seizougyo20140929j-02-w340
サントリー、米ウイスキー大手ビーム社を買収…アベノミクスで大胆に
http://japanese.joins.com/article/631/180631.html
ウイスキーの世界市場規模、日本第2位 [ウイスキー&バー] All About
http://allabout.co.jp/gm/gc/405121/
スコッチから日本の味を造るジャパニーズ・ウイスキー⑴(Adobe PDF)
http://www.eiken.co.jp/modern_media/backnumber/pdf/MM200505-05.pdf#search='%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC'
2014~2015年は余市町に大注目! 地元でいま話題の「マッサン」とは?―北海道ファンマガジン
http://pucchi.net/hokkaido/funlog/201401yoichidrama.php
竹鶴政孝- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E9%B6%B4%E6%94%BF%E5%AD%9D

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