今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

宝塚歌劇団団員・天津乙女の忌日

2010-05-30 | 人物
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1980(昭和55)年の今日(5月30日)は、宝塚歌劇団団員天津乙女(あまつ おとめ)の1980(昭和55)年の忌日である。
天津乙女(あまつ おとめ)、本名:鳥居栄子は1905(明治38)年10月9日生まれ、東京・神田の生まれで、青山小学校卒。1918(大正7)年最初の東京都出身の劇団員(6期生)で、彼女は、宝塚歌劇団で最初の東京都出身の劇団員(生徒)で日本舞踊に優れた名手であったが、彼女の個人的な経歴などについてはよく知らない。
そのくせ、今日、天津乙女のことを書く気になったのは、今は、バラの季節でもあるが、そのバラの品種の1つに彼女の名前に因んでつけられた「天津乙女」がある。この花は“伊丹市でバラの苗木の生産販売を手掛ける「イタミ・ローズ・ガーデン」の寺西菊雄(ブリーダー=育種家)の手で誕生(1960年作出)し、今年でちょうど「50歳」を迎えることになった」との記事を新聞(朝日朝刊)で観たからだ。バラ「天津乙女」は、ハイブリッドティー(HT)系の黄色の花(以下参考の※1バラの図鑑参照)で、樹性も強く、上品な花色も手伝って、今なお国内外でファンの多い品種だそうで、寒さに強いことから、特に冷涼な欧州で広く愛育されているという。
Wikipediaによると、「イタミ・ローズ・ガーデン」は、”戦後まもなくリノリュームで財をなし東洋リノリューム(現在の東リ)の創業者、寺西福吉の子の致知が兵庫県伊丹市に「伊丹ばら園」を開園し、世界中からバラを蒐集し、苗木を増殖し販売した。その一方で新しい品種改良にも乗り出し、「天津乙女」を出し”・・・となっているが、作出者の名前は記入されていないが、寺西菊雄氏は寺西致知のご子息ということだろうか。同園は、“2000年に寺西致知死後、イタミ・ローズ・ガーデンに再編され、今に至る。“とあるが、ここでいう再編がどういった意味かはよく判らないが詮索はしないことにする。
イタミ・ローズ・ガーデンは、2004(平成16)年にも、元宝塚歌劇団月組男役トップスターで、現在は女優として活躍している大地 真央の芸能生活30周年を記念して、彼女の名を冠した品種「DAICH MAO」を発表したという。これは、彼女の実姉がイタミ・ローズ・ガーデンとゆかりがあったかららしいが、美しいバラの名前には、古今東西、昔から美しい女性の名前が沢山つけられており、バラにその名を冠せられた女優は、それだけ美しく人気も高いと言うことだろうから、女優にとっては名誉なことだろう。
余談だが、以下参考の※4:「ひょうごローズクラブ:関西のバラの歴史」を見ると、“日本で本格的なバラの園芸品種の栽培が始まったのは、明治6~7年ごろ、政府が作った開拓使が36品種の苗を米国から輸入したのが最初で、その苗を接ぎ木して民間に払い下げ、そこから一般に広まったようだが、日本の園芸が盛んな地域は、いずれも特産の鹿沼土や日向砂等の土壌があるところで、関西では、宝塚の山本の天神川砂(兵庫県宝塚市、伊丹市などを流れ武庫川に注ぐ河川の砂)があって、これがバラの接ぎ木に役立ち、宝塚は大きな生産地となり、明治25年ころにバラ園と牡丹園でバラの栽培がはじめられた“と言うから、宝塚とバラとの縁は深いのだね~。宝塚市山本の南の隣接地が伊丹市である。
バラ名前「天津乙女」は、宝塚歌劇の人気スターであった天津乙女の芸名にちなんだものであることは冒頭に書いたが、天津乙女の芸名そのものは、百人一首にも詠まれている僧正遍昭(そうじょうへんじょう)の詠んだ以下の歌からとられたもの。
「天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ」
平安時代前期の歌人で、六歌仙の1人である遍昭は、桓武天皇の子・大納言良岑朝臣安世の8男・良岑宗貞(よしみねのむねさだ)である。嘉祥3(849)年、寵遇を受けた仁明天皇の崩御により出家した。
「天つ風・・・」の歌の通釈は“天空を吹き渡る風よ、雲をたくさん吹き寄せて、天上の通り路を塞いでしまっておくれ。天女の美しい姿を、もうしばらく引き留めたい(舞姫たちが退出する道を閉ざしてしまってくれ。もう少しその姿を見ていたい)といったところらしい。
この歌の内容は、お坊さんの歌とは思えないが、それもそのはず、古今集(872)は作者名を「よしみねのむねさだ」としており、遍昭の出家前の在俗時代の作であり、宮中の五節舞の舞姫を見て詠んだ歌である(以下参考の※3「やまとうた」の遍昭(遍照)千人万首参照)。
タカラジェンヌたちの芸名は様々であるが、古い団員達の芸名には、万葉集の歌に因んでつけられたものが多い。
天津の先輩で、大阪(現池田市)出身、宝塚退団後映画俳優となった有馬 稲子(1916年入学、4期生)の芸名は、大弐三位の「有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする」から。大弐三位は『源氏物語』の作者と考えられている紫式部の娘・藤原賢子である。
歌の通釈は“有馬山、その麓に広がる猪名野の笹原――山から風が吹き下ろせば、そよがずにはいません。さあ、そのことですよ。音信があれば、心は靡(なび)くもの。あなたのことを忘れたりするものですか。」
後拾遺集(709)のこの歌の詞書には、”途絶えがちになった男が、「お気持ちが分からず不安で」などと(手紙で)言っていたので詠んだ歌”とある(以下参考の※3「やまとうた」の大弐三位 千人万首参照)
絶世の美女・有馬 稲子は、私も大ファンであった。そのような美しい彼女に心冷たくなっていた恋人が便りが途絶えると、「あなたの心が分からない」などと気をもんでいる万葉の時代の情景が目に見えてきそうだ。
因みに、有馬山は、摂津国の歌枕で、今の神戸市北区有馬町である。猪名の笹原、またの名を猪名野笹原。猪名野は今の伊丹市から尼崎市あたりの平野であり、「摂津名所圖會」に描かれている「猪名寺の図」にある猪名寺の廃寺跡が尼崎市猪名寺にある。飛鳥時代から室町時代にかけて存在した仏教寺院遺跡であり、1958(昭和33)年までの発掘調査の結果、東に金堂、西に五重塔、これらを回廊が囲む伽藍配置が法隆寺とほぼ同等の寺院であったという(猪名寺廃寺跡のことは、以下参考の※5:摂津猪名寺廃寺参照)。
又、天津の1期後輩で、東京都出身の、やはり宝塚退団後映画・舞台俳優で活躍の淡島 千鳥(1919年入学、7期生)の芸名は源兼昌の「淡路島かよふ 千鳥のなく声に いく夜ね覚めぬ須磨の関守」の歌に因んでいる。
源兼昌は、生まれた年もなくなった年もはっきりしないが、宇多源氏(近江源氏とも呼ばれる)。美濃守従四位下・源俊輔の子だそうだ。
歌の通釈は、“夜、須磨の関の近くに宿っていると、淡路島との海峡を通って来る千鳥の鳴く声に、目を醒まされる”
淡路(あはぢ)島は、大阪湾と播磨灘のあいだに横たわる島で、動詞「逢ふ」(逢はむ・逢はじ)を響かせる。須磨は神戸市須磨区の南、海に面したところ。古く畿内と西国を隔てる関があった。「金葉和歌集」巻四冬歌。関を詠んで旅情も釀すが、独り寝の辛さを詠んで恋の情趣も纏綿する。また源氏物語須磨の巻を意識した作であることが指摘されているという(以下参考の※3「やまとうた」の源兼昌 千人万首参照)。又、須磨と源氏物語については、以下参考の※6:須磨観光協会 - 源氏物語を参照。
淡路島と千鳥を組み合わせて和歌に詠むことはよくあるようだが、そういった例の最初の歌のようである。私は酒器を少々収集しているが、その中に地元神戸の須磨焼の盃があるが、その盃には、千鳥が描かれている。
これらの歌は、いずれも小倉百人一首にも選ばれている有名な歌ばかりであり、中でも有馬や須磨の出てくる歌は、私など神戸生まれの者にとっては、百人一首の中でも一番最初に覚えた歌である。このような少女歌劇と言われた宝塚歌劇団の女優の万葉の歌に因んでの芸名は、歌劇の新しさと古典との融合、可憐な少女と歌の雅やかさ・・・。これらが上手くマッチしており、独特の雰囲気をかもしだす。このほかにも多くの団員が百人一首にちなんだ芸名をつけているが、最近は芸名のつけかたもいろいろで、先に書いた元月組男役トップスターであった大地 真央(1973年入団、59期生)の芸名は、「大地を踏みしめまっすぐに進む」の意味からつけられたものと聞く。このように万葉の歌とは関係のないものが多くなっているが、長い歴史の中で、多くの人が入団していることから、後から劇団に入って芸名をつける方も、先輩達の芸名とあまり似すぎていないことを条件に名をつけるのはなかなか大変なことだろうが、時代と共に現代的な芸名にもなっており、凝った名前をつけようとするのか、最近はすぐにはどう読めばよいのか判らない芸名も増えているようだ。
最後になったが、ここで、宝塚と天津乙女のことをわかる範囲で簡単に書いておこう。
宝塚歌劇団の幕開け年は、1914(大正3)年のこと。その3年前に阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌の創始者小林一三によって設立された宝塚新温泉と呼ばれる遊園地への誘致企画として、少女のみの出演者による「宝塚唱歌隊」が組織され、同年12月に宝塚少女歌劇養成会に改称された。1914(大正3)年4月1日に初めて公演を行い、歌と踊りによる舞台を披露したのが始まりである(プールを改造した劇場で年4回)。その後、1918(大正7)年5月に、東京帝国劇場で初公演を行なっている。その翌・1919(大正8年)年に、少女歌劇養成会は解散し、新たに、予科1年・本科1年と研究科からなる学校組織である宝塚音楽歌劇学校生徒と卒業生による「宝塚少女歌劇団」が誕生した。
この年、箕面にあった箕面公会堂を移築した新歌劇場(通称公会堂劇場)が完成した。1921(大正10)年、公演の増加により花組月組に分割。翌年から年8回公演をするようになる。1924(大正13)年7月、3,000人を収容することのできる宝塚大劇場がオープンし、それに合わせて新たに雪組が誕生。各組が1ヶ月ごとに交代で12回の常時公演を行うという現行のスタイルが確立したのがこの時代であった。その後人気と共に組が増えるが、「宝塚少女歌劇団」が現在の「宝塚歌劇団」に改称したのは1940(昭和15)年10月のことである(詳しくは、以下参考の※7:宝塚歌劇団ホームページ参照)。
天津乙女が入団したのは、1918(大正7)年のこと。生年月日から逆算するとまだ、13歳と言うことになり、小学校卒業の年代だ。劇団がまだ「宝塚少女歌劇養成会」と呼ばれていた頃であり、この年5月、初めて東京公演が行なわれているが、この際に、東京で彼女と初瀬音羽子ら4名が採用された。そして、同年7月、宝塚少女歌劇第18回公演が行なわれた時、歌劇のほかに「管絃合奏」もあり、これに天津ら東京組が初舞台をふんでいる。当時は入団すぐに舞台に上がっていたようだ。そして、翌・1919(大正8)年1月の第20回公演では、早くも歌劇「鞍馬天狗」(小説鞍馬天狗参照)に初主演している(以下参考の※8参照)。なんでも小卒の少女に大卒者同等の給与を払う厚遇だったようだ(Wikipedia)。
1921(大正10)年に花組・月組に分割されるが、天津は、1928年~1933年の間、月組組長として、男役を務めていた。
日本舞踊に優れ、6代目尾上菊五郎に私淑し、6代目譲りの踊りは、女六代目の異名をもとった。死の前年まで舞台に立ち、その60余年の舞台生活を通じて、後輩の春日野八千代(神戸市出身。18期:1929年入学)とともに「宝塚の至宝」とまでいわれていた。彼女の数々の舞台の中でも.6代目譲りの「鏡獅子(かがみじし)」は、格調を崩すことなく洋楽で上演し、それまでの宝塚の日本物レベルをつき抜けたものと高く評価されている。1948(昭和28)年には、歌劇団理事に就任し、 紫綬褒章(1958年)、勲四等宝冠章(1976年)などを受章している。自伝に『清く正しく美しく』(1978)がある。「清く正しく美しく」は、宝塚歌劇に深い情熱をもち、生徒たちをこよなく愛した創業者小林一三の遺訓である。1980(昭和55)年の今日(5月30日)、在団のまま満74歳で没し、東京・谷中霊園に墓がある。
すみれの花咲く頃(天津乙女 門田芦子)
天津乙女と門田芦子の懐かしい歌「すみれの花咲く頃」,、今の女性は男のような低音であるがかっての女性は高音で歌っていた。
以下では、タカラヅカのタカラヅカ81年の歴代をしょってきた数多くの団員たちの姿が見れる。最初に、天津乙女の得意とした「鏡獅子」の踊りが出てくる。その他退団後、映画に舞台に活躍した多くの懐かしい舞台姿が見れる。私の大好きだった有馬稲子の写真も出てくるが、超綺麗ですよ。勿論天津乙女と共に「宝塚の至宝」とまでいわれていた若い頃の春日八千代の舞台姿も見れる。「タカラヅカ 夢と愛を求めて」は(1)~(7)まであるので、これを見れば、歴代のタカラジェンヌのことがわかるよ。貴重な画像だ。時間のある人は序でに見られるとよい。
タカラヅカ 夢と愛を求めて(4)
http://www.youtube.com/watch?v=34VZ0qwQENs

(画像は、「4つのファンタジア」(中央が天津乙女)※「4つのファンタジア」は、1955(昭和30)年第1回ハワイ公演 の演目でもあるが、この写真は、日本での上演の紋だそうだ。Wikipediaより)

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宝塚歌劇団団員・天津乙女の忌日:参考

2010-05-30 | 人物
参考:
※1:バラの図鑑(写真集)
http://rose.catfish.gozaru.jp/
※2:e-hon 本/バラ図鑑 決定版/寺西菊雄/〔ほか〕編
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refISBN=9784062110990
※3:やまとうた
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/index.html
※4:ひょうごローズクラブ:関西のバラの歴史
http://www.rosehyogo.jp/colum070602fujiokai.htm
※5:摂津猪名寺廃寺
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/hoso_inatera.htm
※6:須磨観光協会 - 源氏物語
http://www.suma-kankokyokai.gr.jp/modules/tinyd7/
※7:宝塚歌劇団ホームページ
http://kageki.hankyu.co.jp/
※8:杉浦のホームページ:宝塚歌劇歴史年表~目次
http://www.nurs.or.jp/~sug/takara/history/index.htm
Hearty Garden
http://www.geocities.jp/hearty_garden/
ひょうごローズクラブ:関西のバラの歴史
http://www.rosehyogo.jp/colum070602fujiokai.htm
天津乙女 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%B4%A5%E4%B9%99%E5%A5%B3
鏡獅子- Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%8F%A1%E7%8D%85%E5%AD%90/
鏡獅子 -
http://www.geocities.jp/torachannogorogoronikki/kanshouki1/443.html
asahi.com:天津乙女50歳 「茶や青を」新色に意欲-マイタウン兵庫
http://mytown.asahi.com/hyogo/news.php?k_id=29000001005210004
タカラヅカ 夢と愛を求めて(1)
>http://www.youtube.com/watch?v=FEHUD4WP-kc&feature=related
タカラヅカ 夢と愛を求めて(2)
http://www.youtube.com/watch?v=gGHtvrqGWKE&feature=related
タカラヅカ 夢と愛を求めて(3)
http://www.youtube.com/watch?v=iBK4ZS3YvaE&feature=related
タカラヅカ 夢と愛を求めて(4)
http://www.youtube.com/watch?v=34VZ0qwQENs
タカラヅカ 夢と愛を求めて(5)
http://www.youtube.com/watch?v=veAUMrbLifU&feature=related
タカラヅカ 夢と愛を求めて(6)
http://www.youtube.com/watch?v=u3QCegmCByg&feature=related
タカラヅカ 夢と愛を求めて(7)
http://www.youtube.com/watch?v=hSFuOK1t7OY&feature=related
宝塚歌劇 海外公演の歴史 - [宝塚ファン]All About
http://allabout.co.jp/entertainment/takarazukafan/closeup/CU20050725A/index2.htm

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広辞苑記念日

2010-05-25 | 記念日
今日(5月25日)の記念日に「広辞苑記念日 」がある。
『広辞苑』(こうじえん)とは、岩波書店が発行している中型の国語辞典である。
戦前から定評のあった『辞苑』を大幅に改訂した『広辞苑』(岩波書店)が発売されたのは、1955(昭和30)年5月25日のことであった。冒頭掲載の画像は、その時の朝日新聞の広告である(朝日クロニクル週間20世紀)。
新聞広告の内容を見てみよう。
編者は京都大学の言語学者・新村出(しんむら・いずる)博士。
広告文には「戦前に百貨的語彙の豊富と説明の明快ともって定評のあった『辞苑』の改訂増補に着手して以来十余年、その間史上未曾有の転変を経て、新しい時代の要求に応ずる新しい辞書の必要は切実となった。いまここに国語学的内容と百的事項とを一層整備し、旧『辞苑』の特色をいかしつつ、しかも全く面目を一新にして世に現れる『広辞苑』は正にこの切実な社会的要望にこたえんとするものである。現代に最も適応した生きた辞書こそ本書である」・・・とある。そして、最新の国語―百貨辞典 収載語彙(ごい)20万語。と大書してある。価格は、定価2000円がこの時は期間限定特価1800円となっている。
この当時、公務員の初任給8700円、喫茶店で飲むコーヒー1杯が50円であった。今の価格に換算すれすれば、4~5万円にはなるであろう高額な辞書が、大ベストセラーになったというのだから凄い。しかし、何故、このように分厚く、難解そうな辞書がベストセラーとなるほど売れたのであろうか?
唐突な話だが、年輩の人なら、日本人モデルの草分け的存在である8頭身美人の伊藤絹子を知っているだろう。
世界を代表するミス・コンテストの1つミス・ユニバースは、1952(昭和27)年にアメリカ合衆国カリフォルニア州ロングビーチで初めて行われたが、日本もこの第1回大会から、参加している。そして、翌・1953(昭和28)年第2回大会で、伊東絹子(写真の真ん中)が、日本人初となる入賞(第3位)を果たし、「8頭身美人」が当時の流行語にもなった。伊東は当時、1932(昭和7)年生まれというからこの時は20才と言うことだろう。彼女のこの時の体型は、身長164cm、体重52kg、スリーサイズは各86、58、97cmであったそうだ(Wikipedia)。彼女は、19歳の時からモデルをしていたようだが、今の時代のブランドのコレクションショーなどに出演するモデルなら、通常175cm以上の高身長で、8頭身どころか9頭身であり、体格の向上した現代の普通の日本人女性と比較しても決して優れているわけではないが、当時の20歳代の日本人女性の平均身長が153.9cm、平均体重が49.6kg、バストの平均が80.7cm位なので、伊東の体型は当時としてはかなりの長身で西洋人女性を彷彿させる抜群の体型であったといえるだろう。頭が身長の8分の1という均整の取れた体型の彼女は、それまでの小柄で胴長・短足、着物姿は美しくても洋服を着れば野暮ったい日本人のイメージを吹き飛ばした。「8頭身」と言う言葉は誰かはわからないがデザイナーあたりが使ったらしいが、伊藤はこの年「8頭身美人」として脚光を浴びた。
さっそく、1955(昭和30)年5月の今日発行された『広辞苑』(初版)には、今までの『辞苑』にはなかった「8頭身」の言葉が収録され、「身長が頭部の長さの8倍あること。女性のもっとも美しいスタイルとされる」と記載されている。
『広辞苑』は、昭和44年に第2版、昭和58年に第3版、平成3年に第4版、平成10年に第5版、平成20年に第6版が刊行され、この最新版である第6版では第5版収録の全23万項目を徹底的に再検討した上で、現代生活に必須の1万語を厳選して新収録し、総項目数は約24万語、(3074ページ)となっている。岩波書店の第6版『広辞苑』のPR文には、“21世紀の言語生活にいっそうかなった辞典にすべく、一般語については、新しい意味や用法の広がりを的確に捉えることに重点をおきました。百科項目については、現代の急速な社会の変動やさまざまな分野での研究の進展、科学技術の進歩に伴って生じた新しい動きを反映させています。」と書かれている(以下参考の※1参照)ように、初版での「8頭身」の収録は、初版当時から、その収録にその時代の語彙を反映していたことを示していた一つの例といえるだろう。
現在、中型国語辞典((10~20万語規模の辞典)としては三省堂の『大辞林』と並ぶ両雄である。最近では携帯機器に電子辞書の形で収録される事も多い。冒頭右の画像は、私が利用しているCASIOの電子辞書である。
この『広辞苑』の前身である『辞苑』は、1930(昭和5)年末、当時、東京で民俗学や考古学の専門書店兼学術出版社「岡書院」を経営していた岡茂雄が、岩波茂雄と逢って話していた時に出た、当時のような不況下では、辞書や教科書、そして講座などのシリーズが良いという話から、中・高生から家庭向き国語辞典刊行の企画を思いつき、旧知の間柄だった新村出に依頼したのが発端であったそうだ。しかし、新村は当初、そのような辞典を作ることに興味がなく断ったようだが、作るなら本格的な大辞典を作りたいという思いがあったらしい。岡の重ねての依頼に、「昔、高等師範で教え子であった溝江八男太が手伝ってくれるなら、やつてみてもよい」と渋々承諾したという。そして、その溝江の進言により、百科的内容の事典を目指す事となったようだ。書名は、岡が新村の考案した数案の中から決めたが、「辞苑」とは、東晋の葛洪の『字苑』に因んだものだという。しかし編集が進むに連れ、膨大なヴォリュームになることから、零細な岡書院の手に余ると判断した岡は、大手出版社へ引継ぎを打診。岩波には断られるも、岡の友人渋沢敬三を通して事情を知った博文館社長大橋新太郎よりの申し入れがあり、『辞苑』は博文館へ移譲されたようだ。『辞苑』移譲後も、編集助手の人事や編集業務上の庶務、博文館との交渉等の一切は岡が担当し、新村出を中心とする編集スタッフを補佐した。1935(昭和10)年に『辞苑』は完成。刊行されると同時に増刷という、好調な売れ行きを見せた。
しかし、収録した内容には不十分な部分もあり、すぐに岡より改訂版の話が持ち上がったようだが、『辞苑』編集時に版元(博文館)との間で行き違いがあった新村は改訂には難色を示していたようだが、再び岡と溝江に説得され、改訂に取り組むこととなった。改定作業半ばに外来語を考慮していない事に気付き、フランス文学者であり、新村の次男である新村猛を1940(昭和15)年より編集スタッフに加えるが、初めは外来語担当であった猛が、編者の息子であることに乗じて国語項目の書直しや百科項目の拡大を父より叱責を受けるほど行ったため、1941(昭和16)年に予定されていた改訂版刊行は頓挫し、改訂作業が遅れ、完成の目途が立たない内に、第二次世界大戦が勃発。空襲開始と共に編集部は場所を転々とし、最後は博文館社長邸の一室で猛と2名程の婦人スタッフで実務に当たっていたが編集作業は中断する。
戦後、疎開先から帰京した岡は新村家など数ヶ所に残しておいたために空襲の戦火から免れた『辞苑』改訂作業時の版下になる清刷り(校正刷り)を基に、博文館に『辞苑』改訂版刊行の意思を尋ねるが拒絶される。その旨は新村出には伝えられたが、その後、猛の交渉により、改訂版は、発行元を代え、岩波書店から刊行されることとなった。改訂作業は、猛を中心に編集スタッフを揃え取り組むが、そこには、予想外の難問がひかえていた。それは、戦後の日本の社会情勢が一変しており、使用される言葉そのものも大きく変化し、旧仮名遣いは新仮名遣いに改められ、多くの外来語が生活の中にも入り込んでいた。又、新語(以下参考の※5参照)も次々と誕生しており、それらの語も採り上げなければならなかった。結局、戦後10年を経過した1955(昭和30)年の今日・5月25日に『広辞苑』の書名で発行されたのだが、この発行に際して、博文館との軋轢(あつれき)を懸念した岡は、書名の『辞苑』の引継ぎに異を唱えたが、結局書名は『広辞苑』と決めらたようだが、その後岡の予想通り、“岩波書店と博文館の間で裁判沙汰が起こる事となった”・・・とWikipediaには、書かれている。その裁判沙汰がどんなものであったかのかは私は良く知らないし、検索をしてもどのような裁判があったのか、どのような結末になったのかは判らないままであった。
戦前から大手の出版社である岩波書店が『辞苑』の改訂版を刊行する以上は、当然、博文館から版権を譲り受けた上で刊行されているはずであり、『辞苑』と『広辞苑』では名前がよく似ていて商標上の問題があるのかは知らないが、もともと『辞苑』というものが、新村等によって編集され、その書名も新村出の考えたものから命名されたものであれば、その『辞苑』よりももっと広範囲な辞典として『広辞苑』として版権を譲り受けたところが発刊したからと言って、たいした問題ではないと思うのだが、博文館としては、自分のところが出していた『辞苑』の改訂版の発刊を断ったものを、他の発行元からよく似た名前で発行したものが大ベストセラーとなり、少々悔しくて、注文をつけたくなったのでないだろうかと想像しているのだが・・・。それとも、博文館から岩波書店への版権の移譲がスムーズに行なわれていなかったのだろうか?
ただ、このことと派別のようだが、以下参考に記載の※3:「ケペル先生のブログ: 岩波「広辞苑」と三省堂「広辞林」」によれば、“「広辞苑」は当初「新辞苑」という書名で出す予定だったが、直前に『広辞苑』という書名になり、三省堂『広辞林』(以下参考の※4参照)とあまりに似ているというので、三省堂が岩波書店を訴えた。しかし裁判所からは和解が勧告された。事実上、三省堂の敗北だった。”・・・とある。そして、“岩波書店の『広辞苑』の原型である『辞苑』(博文館)には、『広辞林』によく似た記述が多い。日本の国語辞典の原型は明治40年に刊行された『辞林』なのである。”・・と書かれている。
確かに、『広辞苑』の原型『辞苑』(昭和10年刊行)よりも、『広辞林』の原型である『辞林』の方がずっと古くから刊行されていたし、それ以前から、日本初の近代的国語辞典と言われる『言海』なども刊行されており、『辞苑』編集時に、それらも含め古くからあった辞書的なものも参考にしていないことはないだろうとは思うので、私のような素人には、似たような解説があってもよいのではないかと思うのだが・・。国語などもっとも苦手としている私など、『広辞苑』と、『広辞林』又、その他の辞典などと一つ一つ言葉を比較して解説にどのように違いがあるかなど、調べたこともないし、そんな難しいことはわからない。ただ、私が若い頃から、職場などでは『広辞苑』を常備していたので、私自身も、古くから『広辞苑』を愛用してきたが、今回、このブログを書くに当たって、いろいろネットを検索していると、専門家の間では『広辞苑』のことを余りよく言わない人も多いようで、『広辞苑の嘘』 (谷沢永一 渡部昇一 / 光文社)なんて本まで出ているらしい。しかし、私などのレベルの者が、普通に使うにはこれくらいの中型の国語辞書で十分間に合っている。
民俗学、国文学、国学の研究者である折口信夫の随筆に「辞書」についてかいているものがあり(以下参考の※6:青空文庫:作家別作品リスト:折口 信夫「辞書」参照)、その中で“われわれが知っているのは皆、漢字のものだが、ごくわずかに国語の辞書が古くからあって、なかなか手にはいらなかった。それで考えてみると、辞書は考えられないような目的をもっている。漢字の辞書は、書物を読むためのものというより、字の一個一個の日本的意義を知るもの、あるいは字の音を探るだけのもので、死んだ利用しかできなかった。本を読むためのものでなくて、あらゆる日本の事柄が出ていることが大事になる。中学生の辞書は、完全な目的を遂げているものではない。『辞林』『辞苑』は百科全書の小さいもので、ほんとうの意味での語彙ではない。啓蒙的な字引きにすぎない。けれども、常にわれわれの使う辞書といわれているもののなかにはいってくるものは、字引きと語彙だ。字引きのほうは栄えて、語彙は利用の範囲が少ない。むしろ利用せられているかいないかわからない。厳格にいうと、日本にはまだほんとうの語彙はない。完全に一冊もないといってもよいくらいである。”・・と書いている。
冒頭掲載の『広辞苑』初版の新聞広告には、「現代に最も適応した生きた辞書こそ本書である。最新の国語―百貨辞典 収載語彙20万語」と大書しているが、「語彙」とは何だろう?
「語彙」(ごい)の「彙」は非常に難しい字が使われているが、広辞苑で引くと、「彙」は、“たぐい。同類のもの。その集まり。それをあつめること。「彙報・語彙」”とある。この「彙」という字のもともとの意味は、「ハリネズミ」であったそうだ(以下参考の※7参照)。「ハリネズミ」の絵の出てくる江戸初期に編まれた、絵入り百科辞典『訓蒙図彙』(きんもうずい。以下参考の※8参照)は、日本には棲息しない動物も、可能な限り網羅されているようだが、「彙」は、「ハリネズミの背中に針が沢山集まっている様子」を指しているようである。
再度、広辞苑で、“「語彙」を引くと、(vocabulary)、一つの言語、あるいはその中の特定の範囲についての単語の総体、また、ある範囲の単語を集めて、一定の順序に並べた書物。“と記している。折口が『辞林』『辞苑』は百科全書の小さいもので、ほんとうの意味での語彙ではないというのは、後段の「ある範囲の単語を集めて、一定の順序に並べた書物」つまり、独立行政法人国立国語研究所 が刊行している『分類語彙表』(語を意味によって分類・整理したシソーラス【類義語集】)のようなものではないということではないか・・・などと解釈しているのだが・・。
2004年の『分類語彙表―増補改訂版―』 の収録総数は、101,070件という。だいたい普通の『岩波国語辞典』、それから『新明解国語辞典』など小型国語辞典と言われているもので、6万から7万ぐらい語彙が入っている。『広辞苑』は20 万、日本で最大の『日本国語大辞典』というのが、40万は入っていると言われているそうだが、特別な言語その他の専門家ではない我々が普通使う語彙は、小型の国語辞典レベルで、だいたい入っていると考えていいという。
普通の字引は、単語が並んでいて、その単語の形から意味を知るためのものだが、シソーラスというのは、逆に意味から形の方へいく、つまりこういうことを言いたいのに、どういう言葉があるのか、それを探すものであるが、説明すると長くなるので、そのシソーラスとはどんなものかについてはここを参照されるとよい。
「語彙」は、簡単に言えば、語の集まりであるが、日本語の語彙の数は、他国とくらべて非常に多いと言われているようだ。日本語は、例えば、美人でも、「8頭身美人」のほか、「色白美人」「見返り美人」「秋田美人」「八方美人」などというように、「美人」と言う言葉に他の言葉をつけて新しい言葉を作りやすいからだろう。そんな語彙の多さがが日本語の豊かな表現力をつくり上げているのだろうが、よく最近の日本人には、日本語の語彙力が不足しているなどと言われているのを耳にする。
以下参考の※9:国立国語研究所第19回「ことば」フォーラム“ことばを探す-語彙”の中でも、作家の神津カンナ(本名津十月。こうづかんな)さんも、「言葉に遊ぶ」と題して、話されている中で、世代による語彙の違いを挙げ、若年層の語彙が貧弱になっているのではないかということを指摘し”例えば、子供が親に「怒られる」「しかられる」という場面では、かつては,「お目玉を食らう」「雷を落とされる」「お小言(こごと)を食らう」「説教される」「諭される」など、状況に応じた使い分けがあり、その言葉を聞いただけで、どの程度のことでどのくらい怒られたのか、場面が想像できたが、若い世代は状況にかかわらず「怒られる」という一つの言葉だけで済ますようになって、もっと的確な言い方があるのにそれが使えなくなってきている”ことへの憂慮を示している。
そういえば、私なども、子供時代にはどれも使っていた言葉であるが、「お目玉を食らう」「雷を落とされる」「お小言を食らう」などといった言葉は、今では聞かなくなったね~。
私は、学生時代から国語は苦手であり、表現力も低く、このようなブログも、現役を退いた年寄りが、長い1日を退屈しないで過ごすために、人に読んでもらうと言うよりも、ボケ防止も兼ねて、興味を持ったことを、ただ勉強の積りでいろいろ調べたことを書いているだけであり、結構間違いなども多いのだろうと常々気にしながら書いている。
だから、こんな、語彙について、解説などするつもりはさらさらなく、ただ、もともと、余り、表現力など得意でない国語力が、年とともに、どんどん低下してきていることを反省しながら、書いているのだが、・・・もう、今からでは、国語の勉強も、ちょっとしんどいよな~。
1992年に『逆引き広辞苑』という辞典(見だし仮名の逆順読み配列の辞典)が出版された。私の持っている電子辞書の中にも入っているが、見出しを末尾から検索する。つまり、調べたい言葉の後ろの読みを入力するとその読みに関連するいろいろな言葉が出てくる。以下参考の※10:の逆引き広辞苑の使い方にもあるように、例えばあめと入力すると、「雨」の他「大雨」「小糠雨」「しのつく雨」などが登場、参照にしたがって「雨(さめ)」「時雨(しぐれ)」に飛べばそれぞれ「秋雨」「霧雨」「村雨」「樹雨」、「春時雨」「夕時雨」などが一覧でき、日本人の雨についての多彩な感性が一目瞭然・・・。慣れれば、結構いろいろなことに使えそうだ。
(画像左:1955年5月25日『広辞苑』初版新聞広告、右:CASIOの電子辞書)

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広辞苑記念日:参考

2010-05-25 | 記念日
参考:
※1:岩波書店
http://www.iwanami.co.jp/kojien/
※2:昭和毎日:伊東絹子さん、ミス・ユニバースで3位 - 毎日jp(毎日新聞)
http://showa.mainichi.jp/news/1953/07/post-4655.html
※3:ケペル先生のブログ: 岩波「広辞苑」と三省堂「広辞林」
http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_d3b7.html?no_prefetch=1
※4:三省堂-広辞林 第六版
http://www.sanseido-publ.co.jp/publ/dicts/kojirin.html
※5:流行語年表
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/ryuukougo.htm
※6:作家別作品リスト:折口 信夫
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person933.html
※7:ハリネズミ・針鼠・波利禰豆美
http://www.path.ne.jp/inukawa/hedgehog/info/%5B03%5D.html
※8:訓蒙図彙
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/kinmou/top.html
※9:国立国語研究所第19回「ことば」フォーラム“ことばを探す-語彙”(PDF)
http://www.kokken.go.jp/event/forum/19/kiroku_19.pdf#search='字引きと語彙'
※10:逆引き広辞苑
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0801160/top.html
Yahoo!百科事典-国語学
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E5%AD%A6/
日本語学会
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jpling/index.html
桃谷順天館:歴史絵巻 |
http://www.e-cosmetics.co.jp/his_02.html
広辞苑 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E8%BE%9E%E8%8B%91
倍空文庫:広辞苑前文方式演習
http://www.oct.zaq.ne.jp/dkcc/kotoba/escape.html
岩波書店 広辞苑 ニッポン・ロングセラー考 - COMZINE by nttコムウェア
http://www.nttcom.co.jp/comzine/no042/long_seller/index.html
厚生労働省健康局「国民栄養の現状(平成12年国民栄養調査結果)」
http://www.mhlw.go.jp/toukei/kouhyo/indexkk_14_7.html

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電気自動車の日 (Ⅰ)

2010-05-20 | 記念日
日本記念日協会には、今日・5月20日の記念日として「電気自動車の日」が登録されている。
記念日は「京都市に本社を置き、自動車・オートバイ用電池、電源システムなど、電気機器事業を世界規模で展開する株式会社 ジーエス・ユアサ コーポレーションが制定。1917(大正6)年に同社の創業者のひとりである島津源蔵氏がアメリカから輸入した電気自動車(EV=electric vehicle)「デトロイト号」を約90年ぶりに、復活させた2009(平成21)年のこの日を記念したもの。
ジーエス・ユアサ コーポレーション(英語名:GS Yuasa Corporation)は、旧日本電池と旧ユアサコーポレーションが2004(平成16)年に経営統合して誕生した純粋持株会社であり、自動車電池、産業用電池、電力貯蔵用電池、特殊電池、燃料電池などの電池や比較的大規模の電源装置を中心に開発・製造・販売をしている。自動車・二輪車用の鉛蓄電池で国内のシェアはトップ、世界でも第2位のシェアを占めているそうだ。
日本電池とユアサコーポレーションは、持株会社設立後も事業子会社としてしばらく存続していたが、2006(平成18)年1月1日、両社は「ジーエス・ユアサ インダストリー」となった。その翌年には他のグループ2社と合併し、「ジーエス・ユアサ パワーサプライ」となり、さらに、今年・2010(平成22)年4月の機構改革で、ジーエス・ユアサコーポレーションの管理部門の一部と研究開発事業を移管、グループ会社2社を吸収合併して、「株式会社 GSユアサ」と商号を変更した(以下参考の※1:GSYUASAホームページ参照)。
ちなみに「ジーエス(GS)」とは旧・日本電池のブランドであり、同社の創業者の1人である島津源蔵(日本電池初代社長)のイニシャルに由来する。島津源蔵は、島津製作所の二代目社長で、幼名は梅次郎。1894(明治27)年に初代・源蔵が急死したことにより、二代目・源蔵を襲名して事業を継承した。
二代目・島津源蔵は、日本の十大発明家の一人として1930年の宮中晩餐会に招待されているそうだ。GSYUASAのホームページをみると源蔵が日本で初めて鉛蓄電池を製造したのは1895(明治28)年のことで、これが後に改良され「GS蓄電池」(GSは島津源蔵の頭文字から)となった。
旧日本電池が設立されたのは、1917(大正6)年のことで、この年に電気自動車「デトロイト号」2台をアメリカから購入して、源蔵が自社製の鉛電池を積んで通勤や社用車として、日本電池の社長を退任する1946(昭和21)年まで約30年間愛用していたらしいが、その後、1981(昭和56年)年より同社京都本社ロビーに展示されていたという。
このところの第三次電気自動車ブームの到来を受けて、社内の「デトロイト号をもう一度走らせよう」との声から、2008(平成20)年夏に「デトロイト号復活プロジェクト」がスタートし、同年秋にはGSユアサによる三菱自動車工業(株)製新世代電気自動車「i MiEV」の実証実験がスタートしたこともあり、「新旧の電気自動車を一緒に走らせよう」というユニークな企画も提案されたようだ。
「デトロイト号」は、当時の走りや品格を損なうことなく再現させることを修復方針に掲げ、足回りの補強、鉛電池やモーターの新調、屋根の張り替えなどの作業がおこなわれ、運転可能な電気自動車として昨・2009(平成21)年に復活させたものだという。詳細は、同社HPのデトロイト号復活プロジェクのページを参照されると良い。そういえば、そんなニュースをテレビで見た記憶がある。
近年、地球温暖化など環境意識が高まるにつれて、電気自動車やハイブリッド車(HV=Hybrid Vehicle)などのエコカー(低公害車)に対する注目度が高まってきており、自動車メーカー各社もこの分野での車の開発を競っている。
ここ数年は「第三次電気自動車ブーム」と呼ばれているようだが、第三次電気自動車ブームと言う限りは、第一次、第二次電気自動車ブームがあった訳だ。今の時代、自動車と言えばガソリン車が当たり前となっているが、人類が最初に生み出した自動車は、1769年、フランスの軍事技術者、ニコラ=ジョゼフ・キュニョーによって発明された蒸気機関で動かせる蒸気自動車前輪駆動三輪自動車)であった。その後、1800年代に入ると蒸気機関の技術開発が急速に進み、蒸気自動車の実用化が進むが、自動車の歴史の初期には、この蒸気自動車とともに盛んに用いられていたのが、電気自動車であった。
イタリアのアレッサンドロ・ボルタが1799年、電池(ボルタ電池)を開発。1838年にスコットランドのロバート・アンダーソンがモーター(電動機)を製造し、1873年にイギリスでロバート・ダビットソンが鉄亜鉛電池(一次電池)を使用した電気自動車の実用化に成功した。
一方、1876年、ドイツのニコラウス・オットーがガソリンで動作する内燃機関ガソリンエンジン)をつくる(特許が下りるが後に無効とされた)。これを参考にゴットリープ・ダイムラーが改良し、1885年、二輪車に取り付けたガソリンエンジンの特許を取得している。同じ年に、ドイツのカール・ベンツもダイムラーとは別にエンジンを改良し、翌・1886年には、4サイクルのガソリンエンジンを搭載した三輪自動車の開発に成功し、翌年特許を取得。これが世界初のガソリン自動車の生産とされているが、自動車の生産にビジネスとして乗り出したわけではなかったようで、少数が製作・販売されたようだ。ビジネスとして、ダイムラーのエンジンを搭載した自動車を製作し、販売したのは、今も、その名をとどめているフランスのプジョー(1897年)が最初であったようだ(以下参考の※3、※4参照)。しかし、フランスには、本格的な自動車メーカーとしてドイツのダイムラーおよびベンツ(現・ダイムラー)にも先んじる世界最古の自動車メーカーであるパナールがあり、ここは、プジョーにも、初期のエンジン供給をも行っていた会社であり、1891年には、現代にまで通じる後輪駆動のフロントエンジン・リアドライブ方式(FR方式)を発明し、世界最初にガソリン自動車(ダイムラー・エンジンを搭載)に実用化していたという。しかし、このような初期の自動車は手作りであるため非常に高価なものであり、貴族や大金持ちだけが所有できるものであった。
販売された初の電気自動車は、最初のガソリンエンジン車(1891年)の5年前の英国で登場したが、1897年には、ニューヨークの市内を、電気自動車タクシーが走りまわっていたという(以下参考の※2の図表1参照)。電気自動車は、1899年に、ガソリン車よりも早く初めて100km/hを突破するなど有望視され、米国では、1900年から1908年の間に480社以上の会社が自動車に参入したといわれている。1900年時点で、米国での電気自動車台数は約4、000台、自動車生産で全体の約40%を電気自動車が占めていたというが、1912年頃に電気自動車の生産はピークを迎えた。第一次世界大戦が終わり1920年頃からは、電気自動車が衰退の一途をたどった。
電気自動車に変わって、ガソリン車が主流になったきっかけは、1908年に、アメリカのフォードが、フォード・T型を流れ作業方式によって低価格で製造することに成功したことによる。広大な国土を持つアメリカでは電気自動車の1回の充電による走行距離の短さがネックとなり、しかも、重い電池を数多く積むために室内空間が狭くなるなどの致命的な欠陥もあったことが、技術革新の進んだガソリン車に道をゆずることになったようだ。また、電気自動車と性能を競っていた蒸気自動車もアメリカで発展を遂げ、ボイラーの小型化にも成功し、外見・性能とも当時の内燃機関動力の自動車と遜色がなかったが、安全性や操作性などの面で超えられない技術上の壁があった。
1917(大正6)年に旧・日本電池が、日本で初めて、電気自動車を輸入したことは先にも書いたが、この時、京都電灯も3台を輸入していたようだ。この頃、日本でも電気事業の興隆により電気自動車が注目を集めていたが、時期的にまだ事業として電気自動車が売れる状態ではなく、アメリカでの電気自動車の生産が急激に萎んでしまったことから、日本では試作の段階で終わっていたようだ。
しかし、1930(昭和5)年になると日中戦争の拡大と共に、国内の石油需給の逼迫に悩まされた結果、自動車の代替燃料が求められ、国家を上げての電気自動車の研究も行われるようになり、商工省(現在の経済産業省の前身)の助成を受けて、中島製作所、日本電気自動車(たま電気自動車)などで電気自動車の製造販売が始まり、第二次世界大戦敗戦までの10 年間 (1935~1945年)で小形電気自動車の生産台数は約1500 台に達したという(以下参考の※5参照)。因みに、日本電気自動車は、石川島飛行機製作所を前身とし、戦後たま電気自動車と改称。後に富士精密工業→プリンス自動車工業→を経て日産自動車へ吸収されている。中島製作所のことは良くわからないが、恐らく、中島知久平の設立した中島飛行機のことではないか?と思っている。ここは戦後会社は解散するが、当時は飛行だけでなく自動車も作っていたようだ。
第二次世界大戦で敗戦国となった日本は、ガソリンが統制されて入手困難となっていたため、輸送手段はもっぱら薪や木炭を使う代燃車が主であったが、戦争で多くの住宅が焼失、工業の全面的な停止等によって電力は余っていたこともあって、人々の関心は電気自動車にも向けられ、戦前からの日本電気自動車や中島製作所等いくつかのメーカーが電気自動車を世に出していた(戦後初の本格的電気自動車製造に取り組んだたま電気自動車のことは以下参考の※7のここ、また、※8のここを参照。)。
1949(昭和24)年には、日本でも電気自動車の普及台数は3299台となり、普及率は自動車保有台数の3%に達していたようだが、ガソリン車の改良とガソリンスタンドの整備が充実したことから、電気自動車は衰退し街頭から、姿を消していった。昭和の始から戦後暫くのこの時期が日本の第一次電気自動車ブームの時代といえるだろう。

電気自動車の日 (Ⅱ)と参考のページへ続く